テキストの快楽(006)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(04)


 身を切るやうな寒い風が吹き出した。たうとう雨になって 、それが夜晝ぶつ通しに降りつづく。イルトィシ河までもう十八露里の所で、例の自前馭者から私を引繼いだフョードル・ハーヴロヴィチといふ百姓が、 これより先へは行けないと言ひ出した。豪雨のためイルトィシ河畔の牧地が、すっかり水浸しなのだといふ。昨日プストィンスコ工村からやって來たクジマも危く馬を溺れさせるところだった、待たなきゃならねえ。
 「何時まで待つのかね」と私が訊く。
 「そいつあ分らねえ。神樣にでも尋ねなされ。」
 百姓小屋へはいる。座敷には赤い上シャッを着た老人が坐ってゐて、苦しげに息をついては咳をする。ドーフル氏散をやると大分鎭まった。しかし彼は藥を信用しない。樂になったのは「辛抱してじっとしてゐた」お蔭だといふ。
 坐り込んで考へる。今夜はここに泊ったものかしら。だがこの老人は夜通し咳をするだらうし、恐らく南京蟲もゐるだらう。それに明日になったら、益ゝ水嵩が增さぬものでもあるまい。いやこれは、いっそ出發した方が利口だ。
 「やっぱり出掛けるとしよう、フヨードル・パーヴロヴィチ」と私は亭主に言ふ、「とても待つちやゐられないからな。」
 「そりゃ旦那の宣しいやうに」と彼は大人しく應じる、「水ん中で泊ることにならにゃいいが。」
 で、出發する。雨はただの降りやうではない。所謂土砂降りである。私の乘つてゐる旅行馬車には屋根がない。はじめの八露里ほどは泥濘の道を、それでもだくを踏ませて行つた。
 「こりやまあ、えらい天氣だ」と、フョードル・ハーヴロヴィチが言ふ、「本當をいふと長いこと河へは行って見ねえで、水出もどんなだか知らずにゐましただ。そこへもって來てクジマの奴が、ひどく威すもんで。いや何とか行き通せねえでもなささうだ。」
 だがそのとき、 一面の大きな湖が眼の前にひろがる。それは水につかつた牧地だ。風がその上をさまよひ嘆き、 大きなうねりを立てる。そこここに小島や、 まだ水に浸らぬ地面の帶が頭を出してゐる。道の方角は橋や沼地に渡した粗朶道でわづかに知られるが、それも皆ふやけて脹れ返り大抵は元の場所からずれてゐる。湖の遙か彼方には、 褐色の見るからに暗澹たるイルトィシの岸が連なり、 そのうへに灰色の雨雲が重く垂れてゐる。岸のところどころに斑ら雪が白い。
 湖にさしかかる。大して深くはなく、車輪も水に浸ること凡そ六寸に過ぎない。橋さへなかったら割合に樂に行けたかと思はれる。橋の手前では必らず馬車を降りて、 泥濘か水の中に立たされる。橋を渡るには、先づその上に打上げられてゐる板や木片を集めて、浮き上った端の下にはなければならぬ。馬は一匹づつ離して渡らせる。フョードル、ハーヴロヴィチが馬をはづす役で、 はづした馬をしっかり抑へてゐるのが私の役目である。冷たい泥だらけの手綱を握ってゐると、强情な馬が後戻りをしたがる。着物は風に剥がれさうだし、雨は痛いほどに顏を打つ。仕方がない、引返すか。――だがフョードル・パーヴロヴィチは默って何も言はない。私の方から言ひ出すのを待ってゐるらしい。私も默ってゐる。
 强襲で第一の術を陷れる それから第二の橋、第三の橋と。……ある所では泥濘に足をとられてすんでのことで轉ぶところだった。またある場所では馬が强情を張って動かなくなり、頭上を舞ふ野鴨や剛がそれを見て笑った。フョードル・ハーヴヴィチの顔附や、その悠々として迫らぬ動作や、また落着き拂った沈默振りから推すと、こんな目に逢ふのは初めてではないらしい。それどころかもっと酷い目に逢ふのも珍しいことではないらしく、出口のない泥濘や水浸しの道や冷たい雨などは、夙の昔に平氣になってゐると見える。彼の生活も並大抵ではないのだ。
 やっと小島に辿りつく。そこに屋根無しの小屋がある。びしょ濡れの糞の傍を、びしょ濡れの馬が二匹步いてゐる。フョードル・パーヴ口ヴィチの呼聲に應じて、小屋の中から鬚もぢやの百姓が手に枯枝を持って現はれ、道案內に立って吳れる。この男が枯枝で深い場所や地面を測りながら、默って先に立って行くあとから、私達もついて行く。彼が私達を導くのは、細長い地面の帶の上である。つまり、所謂「山背」づたひに行くのである。この山背を行きなされ。それが盡きたら左に折れそれから右に折れると、別の山背に出ます。これはずっと渡船場まで續いてゐますぢや、と言ふ。
 あたりにタ闇が迫って來る。野鴨も鷗も居なくなつた。鬚もぢやの百姓も、私達に道を敎へて置いて、 もうとうに歸ってしまった。第一の山背が尽き、また水の中に揉まれなから左に折れ、それから右に折れる。するとなるほど第二の山背に出る。これは河の岸まで續いてゐる。
 イルトィシは大きな河だ。もしエルマク*が氾濫のときこの河を渡ったのだったら、鏈帷子くさりかたびらは着てゐないでも溺れ死んだに違ひない。對岸は高い斷崖をなして、まるで不毛である。その向ふに谷が見える。フョードル・パーヴロヴィチの話では、私の目的地であるブストィンノエ村*に出る道は、この谷聞に泻って山を越えるのだといふ。こちらの岸はなだらかな斜面で、水面を拔くこと二尺あまりに過ぎない。やはり秃山で、風爾に曝されたその姿は見るからにせり辷りさうだ。濁った波のうねりが白い齒を剝き出して、さも憎らしげに捧を打つては直ぐ後へ退く。その有様は、打見たところ蟾蜍ひきがへるか大罪人の怨靈ぐらゐしか住むとも思はれぬこの醜いつるつるの岸に觸るのも汚らはしいといつた風である。イルトィシの河音はざわめくのではない。また吼えるのでもない。その底に沈んだ棺桶を、片端から叩いて行くやうな音を立てる。咒はれた印象だ。
 渡守の小屋へ乘りつける。小屋から出て來た一人が言ふ。――この荒れ模様ぢやとても渡れませんや。まあ明日の朝まで待ちなされ。
 で.そこに泊ることになる。夜通し私は聞く――船頭たちや馭者の鼾を、 窓をうつ雨の音を、風の唸りを、それから怒ったイルトィシが、 棺桶を叩いてゐる音を。……翌る朝早く岸に出る。雨は相變らず降ってゐるが、風は稍ゝ收まった。けれど渡船ではとても渡れない。少さな舟で渡ることになる。
 ここの渡船の仕事は、自作農の組合の手で營んでゐる。從って船頭の中には一人の流刑囚もなく、皆この土地の人間である。親切な善良な人間ばかりだつた。向ふ岸に渡って、馬の待ってゐる道へ出ようとつるつる辷る丘を攀ぢ登って一行く私の後から、彼等は口々に道中の無事と、健康と、それから成功とを祈って哭れた。……が、イルトィシは怒ってゐる。……

[注]
*エルマク ドン・コサックの首長。十六世紀後半寡兵を以てウラルを越えシベリヤに侵入して、イルトィシ河までの範圖を確立した。
*ストィンノエ村 「不毛の村」の義。

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