読書ざんまいよせい(074)

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(06) 第四幕


リヤ王:第四幕 第一場
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第四幕

第一場 荒野ヒース

やはりベドラムの狂人乞食に假裝したまゝでエドガーが出る。

エドガ
 斯うして、輕蔑さげすまれてるのを知ってゐるのはまだましだ、 始終口先きで欺されて、さげすまれてゐるよりは。運命に見棄てられて、一等惡い、沈みき切った境遇にゐるてィのは、 早晩浮き上る望みこそあれ、なンにも恐ろしいことはない。およそ情けないのは、 此上もない善い境遇からの變轉だ。悲哀かなしみ極ればよろこび來る。 して見りゃァ、此そっけない、空な風めも、今の我が身にゃ良い友逹だ。おのしに吹き飛されて、 こんな最惡の境遇に墮ちたものゝ、何一つおのしの世話にならんのだから、氣樂だ。……や、だれか來た!

グロースターが、一老人に手を引かれて、出る。

お父さんぢゃないか、見すぼらしい姿で、手を引かれて?……おゝ、人生よ、人生よ、人生よ! 思ひがけない轉變に遭ふて世を厭ふ心を起せばこそだが、でなきゃ、誰れも甘んじちゃァ老衰すまいわい。
老人
 おゝ、お殿さま、手前は御先代さま以來このかた、八年間、御配下に住んでをりましたのです。
グロー
 ってくれ、あッちへってくれ、どうか歸ってくれ。助けてくれても、 わしの爲にはなンにもならん。そちの難儀になるわ。
老人
 でも、お行手がお分りになりますまい。
グロー
 行手とてもない。それゆゑ目は要らん。目の見えた時分には折々蹉躓けつまづいた。 生中なまなか有れば油斷の種ぢゃ、無いはうが得ぢゃ。……おゝ、憫然ふびんなエドガー、 欺かれた父が怒りの餌食となったエドガーよ、息のうちにもう一度そなたの身に觸れることが出來たなら、 亡うしたまなこを取戻したともいはうに!
老人
 (エドガーに)おい~!だれぢゃ、そこにゐるのは?
エドガ
 (傍白)おゝ、神よ!「今が一等惡い境遇だ」なんぞとは容易に言へるもんぢゃァない。 前よりも境遇が惡くなった。
老人
 ありゃ狂人乞食のトムめぢゃ。
エドガ
 (傍白)もっと惡い目に遭ふかも知れない。「こりゃ一等惡い境遇だ」と口で言ひ得る間は、 まだ~一等わるいのぢゃァない。
老人
 (エドガーに)やい、おのしは何處へ往く?
グロー
 乞食か?
老人
 乞食で狂人なのでござります。
グロー
 幾らか正氣でなうては乞食は出來ん筈ぢゃ。此間の暴風雨あらしの晩に、ちょうどそんな奴に逢ふた。 それを見てわしは、人間をば蟲螻むしけらぢゃと思ふた。其時倅せがれの事が念頭に浮んだ。 なれども、其折には、心がまだけてをらなんだれど、其後そののちいろ~と聞き及んだ。 あゝ、あのあぶ蜻蛉とんぼ惡戲少年いたづらこぞうが扱ふやうに、吾々人間をば神さまが扱はっしゃる。 神はお慰み半分に人間をお殺しなさる。
エドガ
 (傍白)如何どうして如是こんな事になったのだらう?あゝ、辛や~、悲しい最中に阿呆の眞似をせねばならんとは! 自分にも氣の毒、他人にも氣の毒だ。……旦那さん、ごきげんよう!
グロー
 裸體すはだかの奴か?
老人
 さやうでござります。。
グロー
 なりゃ、おのしはもう歸ってくれ。若し尚ほわしの爲に一里か二里ドーワ゛ー街道を後追ふて來てくれる深切があるなら、 其裸蟲はだかむしに、何か著る物をば持って來て遣ってくれ、わしは此奴を手引に頼まうと思ふから。
老人
 あゝ、貴下あなたさま、此奴は狂人でござります。
グロー
 それが惡世の然らしむる所ぢゃ、狂人が盲者の手を引く。吩咐いひつけた通りにせい。 それがいやならば勝手にするがよい。とにかく、歸ってくれ。
老人
 手元にござりまするいツち良い著る物を持って來てやりませう。 手前の身は如何どうなりませうとかまひませぬ。

老人入る。

グロー
 やい、裸體はだかの男。
エドガ
 トムは寒うござります。……(傍白)もう假裝ごまかし切れなくなった。
グロー
 これ、こゝへ來い。
エドガ
 (傍白)でも假裝ごまかさんければならん。……(グロースターに)貴下あんたのお目から、あゝ、血が出ます。
グロー
 おのしはドーワ゛ーへ往くみちを知ってをるか?
エドガ
 階段も、大木戸も、馬道めだうも、人道も、みんな知っとります。 惡魔がおどかしゃァがったんで、トムの智慧は悉皆みんななくなッちまった。 用心さっしゃい、お歴々の息子さん、惡魔にとッつかれんやうに! あはれなトムには、惡魔が五頭ひきまで一しょに取ッ附きをりました。 淫亂はオービヂカット、その次ぎは唖の魔王ホッビヂダンス、盜賊どろぼう根性はマフー、 人殺しはモードー、變妙來な面附つらつきをする癖はフリッバーヂビット。 其奴そいつ其後そののち腰元衆や女中衆に取ッ附きました。 だから、旦那、御用心なさいまし!
グロー
 こりゃ此財布を取れ、天の處罰を受けた爲に、あらゆる他の苦痛を怨む心もなうなった奴。 俺の不幸がおのしの幸福になるわい。あゝ、神々よ、常に斯樣かやうにお扱ひ下されい! 世の富有ゆたかな、暖衣飽食の徒輩ともがら……天の定法を侮り、 其身に感ぜぬゆゑに貧困の困苦を見ようともせざる徒輩ともがらをして、 すみやかに天の力を感ぜしめたまへ。さすれば、分配によって過剩おほすぎるのを滅して、 各人こと~゛く物足ることにならう。……(エドガーに)ドーワ゛ーを存じてをるか?
エドガ
 知っとります。
グロー
 彼處あそこ絶壁きりぎしがある、 岩で取限とりしきられた海の中央まんなかへ高く聳え覗き込むやうになってゐる絶壁きりぎしがある。 つい、あの縁際ふちぎはまで案内してくれ、 すれば、予の身邊みのまはりにある有價かねめの物をおのしにとらして、 今の不幸ふしあはせを救ふて遣る。あそこから先きは、案内は要らん。
エドガ
 手を借さっしゃい。トムが案内するから。

二人とも入る。
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読書ざんまいよせい(073)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(013)

〚編者注 以下の底本は、科学の古典文献の電子図書館「科学図書館」の古典文献の電子図書館「科学図書館」から〛

付録・唯物論史

    まえがき

 唯物論はひとつの世界観であるが、この世界観はつねに敵をもっていた思想であった。このことをまず知っておくことが必要である。どんな世界観思想だってもちろん反対論をともなわないものはない。その思想がはっきりしていればいるだけ、反対論がともなうのは当然のことである。しかし、単なる反対者でなくて必ず敵をもつということは、唯物論思想の特質であり、この思想の運命である。
 唯物論史は周知のように古代ギリシアのレウキポスやデモクリトスからはじめられるが、すでにこれらの思想家たちからが、敵としてはとりあつかわれなかったにしろ、プラトンやアリストテレスからよく言われず、少くとも世界観のうえで味方とは考えられていなかったことは、アリストテレスの書いているものからしても、明らかである。ヨーロッパでは唯物論の思想を人々のうちに滲透させた人としてルクレティウスはすぐれた思想家であるが、ほぼ二〇〇〇年もの長いあいだ彼の著述(『ものの本性について』)が避けられていたようであるのも、じつは宗教の信仰にたよる人々や眼に見えぬイデーのみ貴ぼうとした観念論者たちのなかに、黙っている小さな無数の敵がいたのだとおもう。近世になると唯物論の敵の例は多い。敵が多いだけでなく、判然と必ず敵を呼び出す思想として、唯物論は出てきているのである。
 誰もコペルニクスやガリレオを唯物論者だとレッテルを貼りはしないが、しかし何としても聖書のなかの造物者としての神を否定してしまった点では、これらの自然科学者たちは近世の唯物論的世界観への道をひらいた第一人者だといわねばならない。コペルニクスやガリレオが不倶戴天の敵を宗教裁判所を代表とする信仰者たちのなかに呼びおこしたのは、じつに近世の自然科学的世界観のなかにある無神論的唯物論だったのでなくてはならない。一八世紀のフランスの唯物論者たち、ラマルク、エルヴェシウス、ジャン・メリエなどとなると、生涯敵をもちつづけたのであった。一九世紀から二〇世紀のマルクス、エンゲルス、レーニンとつぎつぎあげてくれば、もう唯物論はつねに敵があることによってひとつの体系ある思想組織となった世界観であったことがあきらかである。さて私たちは今やそのような唯物論的世界観の支持者を「近代日本をつくった人々」のなかに置いて考察しようとしているのである。
 「近代日本」とはいったい何だろう。それはいうまでもなく、近代的性格をそなえるようになった時代の日本のことでなくてはならない。近代的性格とは、人間が自分自身を見出し(ルネサンス)、神を否定し(一八世紀)、産業の仕方を機械化し(一九世紀)、世界観を自然科学的思想のうえに築いてしまった時代(二〇世紀)がもっている性格のことでなくてはならない。してみると、近代日本とは、かつて「神国」と呼ばれ通してきた日本が右のような近代化を実現するに至った日本のことだということになる。日本は近代化という至難のことをとにかく一世紀たらずの間になしとげたのである。日本がかように近代化されてしまったことが、日本人の生活を幸福にしたと無条件にいえるかどうか、それについてはいろいろな意見があることでもあろう。しかし上述の意見で日本が近代化していることは、どうしようもない事実である。
 民族国家の近代化の困難は、日本だけではない。ソヴィエトも中国もそれぞれこの困難を背負った。そしてその困難さにはそれぞれ特徴があった。日本の場合、そのむつかしさの特徴はどういう点にあったのであろうか。
 いずれは近代化とは生活の合理化ということで言いかえられるものである。合理化において日本人はどういう特質を示したか。日本人は生活の合理化を個々の人間のうちの知恵において処理したが、その知識の客観的な組織(科学および科学的技術)において処理しなかった。このことへの着眼は日本文化を理解するにとって大切な鍵であると私はおもう。もし、日本人が前者をすら欠いでいたら、今日日本は世界の最劣等の民族国家であったろう。
 生活の合理化が正規にすすんだ例は西欧の諸国であるが、そこでは組織だった産業が先頭に、技術と科学がこれにつき、純粋な科学がこれにともない、哲学はこれらの全線に併行した。これをぜんたい的にいうと、客観的組織化が特徴だった。日本に欠けていたものはこれだった。
 つまり、サイエンスとテクノロジーとが欠けていたことである。学問と実践の両方において組織性がなかったこの国において、もっとも困難なるものは以上いったような意味での組織的な客観的な世界観の欠如である。
 日本の唯吻論はこうした世界観の弱さのなかに形成されねばならぬものだった。荒野の地に花が咲こうとしたが、この花はつねに摘みとられようとされた花だったわけだ。私たちは福沢諭吉のような近代的思想家によってこの荒れた土地がややいっぱん的に耕地化されていったことはみとめるが、唯物論の播種とまではいかなかった。むしろ日本人の生活の合理化をもっとも具体的に尖鋭に押しすすめようとした森有礼のような思想家によって、唯物論はようやく根を下しはじめたといいたい。あとでのべるように、森には合理化を鮮明に強力に押し出した啓蒙家の面があったから。
 日本の近代化をそれぞれの文化部門でひきうけた思想家実践家たちのなかで、唯物論者たちはどういう課題をどういうように解いていったか。この問題に若干の考察を加えることが、この論文の狙いである。さて、そうしたとき唯物論者とはどの範囲までの合理的な近代的思想家を指すのであるか。このことをヨーロッパにおいてその実例のもっとも判然とみられるような型に分けて考えることをしないで、日本の近代化の実情についてその型をいちおうさだめて、叙述してみたいとおもう。
 生活の合理化へと日本人の思想を導いた人々を唯物論への道を準備した人たちとして、これを啓蒙家または哲学思想家のなかから見出すことがまず最初に試みられる。これらの人々は当然明治の初期または中期に属する。第二に、合理化の思想をとくに具体的に鮮明に押しすすめた人々を唯物論への道を拓いた人たちとして、政治家または専門の学者のなかから見出すことがなされる。この型の人々も、どちらかというと明治時代に属する。第三は、唯物論という世界観をとくに意識しこれを志向した思想家ではないという点では、第一第二と共通する。しかし、第三では、唯物論思想をすでに意識していて、これと併行して別箇の世界観をもってとおした人々について考察する。第四では、唯物論という世界観を日本人の間に実現させようと努力した人々を、考察する。第五には更に、唯物論の一九世紀後半、二〇世紀の前半における発展の実情からみて、歴史的唯物論という新観念のもとで新しい世界観を樹立しようとした人々を評論してみることである私は右のように五つの型をつくってみて、これでこの人物評論を主とする近代日本の唯物論小史をまとめてみたいとおもう。その五つはA・B・C・D・Eに分けることにしたい。なお読者が私の『日本の唯物論者』を参照されることを望みたい。
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読書ざんまいよせい(072)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(012)
む す び


 以上、二篇、五章、十六節にわたって、唯物論思想の線につながる人たちの評伝を試みたのであるが、さいごにぜひ述べておきたいことは、それらの人たちの学問的な且つ思想的なつながりである。「補」のところで論評した人たちは別であるが、その他の思想家たちは或るひとつの共通の線において、とにかくむすびつくのである。どのひとりとして、啓蒙の第一線に立っていない人はない。ややもすれば隠されがちな人間存在の本質からの欲求を、社会に向って呈露させようとしなかった人はいないのである。さて、そうではあるが、学問的思想のうえでのそれらの人たちのつながりがのこらず確認できるとは決していえないのである。
 ヨーロッパだったら、デモクリトスやエピクロスの思想とつながりのない唯物論者はまず稀だし、ベーコンやホッブスに何かのかたちでつながらないということはなかったし、一八世紀いごだったら、フランスの唯物論者たちの考え方をふりかえってみない唯物論者はまずないといっていいし、また一九世紀の後半いごだったら、マルクス、エンゲルスが、ひき合いに出される場合がほとんどである。かようにして、学問的思想のうえでれん関のないということは考えられない。
 この書は日本唯物論史ではなく、個々の唯物論者を評伝することを意図しているのだから、思想の歴史的な結びつきを明瞭に書き表わすことに努力したわけではないが、その結びつきを探すことが終始私にとっては問題であった。戸坂潤は、河上肇と教養や学問で結ばれる点があるが、兆民や秋水とは或る隔りをもっている。兆民は仏教や老荘から彼の唯物論思想を成長させるものを汲みとったが、秋水においては同じことは求められない。諭吉の啓蒙思想には江戸時代の思想家からくる影響はあったろうが、彼が蟠桃の無神論や昌益のラディカルな反観念論思想に触れたとは(少なくとも今の私には)思えない。
 しかし、それならすべで無連絡かといえば、そうではなくて、梅園は益軒の影響を深くうけていると察せられるし、春臺や仲基などは、また淇園すらもが、徂徠の先行なくしてはおそらく考えられないであろうし、その他こうしたつながりならば指摘されるものがいくつかあるであろう。いっぱんに、人物と人物との思想体系と思想体系との歴史的つながりについては、実証的な研究をまたないでは、つながりが「無い」という断定は、ほとんどぜったいにといっていいほどに、さしひかえねばならぬのだから、私たちの場合でも、個々の唯物論者の相互の学問的・思想的つながりについては、否定的な断定は遠慮しなくてはならない。これからいごの研究において、日本の唯物論思想家相互の関係が明らかにされる労作が必ずや公けにされるであろう。孤独の反逆者だと私たちが考えている昌益でも、必ずしもそうでなかったことが或いは明瞭になる日があるかも知れない。
 日本の唯物論思想家たちの思想的つながりについての私の見解は以上のごとくであるが、それにしても、ヨーロッパの場合と比べてみるとき、どの思想家も(ことに江戸時代においては)まえに先行者がなく、後にすぐつづく後進者がなく、一様にむすびつくべき唯物論思想の太い主脈の線がなかったことが、強く感じられるのである。
 ここで、つぎのことを述べておきたい。明治以後においては、もっと多くの唯物論者をとりあげて評伝すべきであることを痛感したのであるが(たとえば、野呂栄太郎や三木清、唯物論研究会に属していた永田広志、鳥井博郎、伊藤至郎その他のひとびと)、紙数のうえでその余裕がなかった。
 なお、明治・大正時代における自然科学者で、生活の仕方が合理主義的で唯物論的であった人たち(たとえば狩野亨吉博士のような人物)についても、のべておきたかったが、これらは他日機会を得たとき試みたいと思うのである。 

追 記

 この書の成立について、英宝社の佐々木峻君の二ヵ年にわたる私に対する激れいと、池城安昌君の校正、年表・索引その他の協力とに対して、厚くお礼を述べておきたい。(一九五六年六月記

〚編者注 年表・索引のテキストは省略する。〛

読書ざんまいよせい(071)

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(05) 第三幕


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リヤ王:第三幕 第一場
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第三幕

第一場 荒野ヒース

雷電、風雨。闇夜。ケントと一紳士とが左右より出る。

ケント
 誰れだ、此ひどいあらしに?
紳士
 此天氣同樣、心が亂脈になってゐる者です。
ケント
 あんたですか?王はどこにおいでゝです?
紳士
 荒れ狂ふ雨や風と鬪っておいでゝす。風に對って、地球を海ン中へ吹き込んでしまへだの、 でなきゃ、天地を一變させるか、滅亡させるために、卷き返る海を大陸まで吹き上げッちまへだのとおっしゃって、 あの白い頭髮かみのけをば掻き毟ったり何かなさると、怒りたける烈風が暗雲やみくものそれを攫って、 玩弄おもちやにします。つまり、王は人體の小天地で、 激しく相鬪ってゐる大天地の雨風をばないがしろにしようとしていらせられるのです。 乳の盡きた熊さへも潛み、獅子やかつゑた狼さへも出歩き得ない如是こんな晩に、帽子もめさんで、 走りまはって、まるで棄鉢になっておいでなさるのです。
ケント
 だれかお傍にゐますか?
紳士
 阿呆がゐるばかりです。やつは例の通り洒落のめして、それで以て斷腸のお苦しみを打消さうとつとめてゐます。
ケント
 てまへ貴下あんたを善く知ってをますから、見込んで、一大事を御委託申したい。 上手に隱してゐなさるから、表面うはべにはまだ見えないが、 オルバニーどのとコーンヲールどのとはおツそろしく仲がわるい。又、二人とも、 其忠義めかす家臣のうちにゃァ、内々フランス王の間者となって、 見たことや聞いたことを細大となく彼方あちらへ通信してゐる者があります、…… 運星のお庇で高い位に在る人たちにゃァ、兎角えてさういふ臣下が附いて廻るものです。…… そこで、兩公爵の口論の事から、陰謀の事から、老王に對する虐待乃至それらの根本と見做すべきあらゆる祕密までが、 とうに通信されてゐるさうです。いや、とにかく、フランス王が此内訌に乘じて攻め寄せるといふことは、事實です。 吾々の油斷を機として、既に主立った港々に上陸し、今にも軍旗を飜さうとしてゐるのです。 そこで、あんたへのお頼みはです。もしてまへを信じて、急いでドーヴァーまで行って、 王が何樣どんな不倫な取扱ひにお逢ひなされ、お氣が狂ふほどのお悲しみといふことを正しく報道して下されたなら、 必ず厚く其勞力ほねをりを感謝されるお人にお逢ひなさるでありませう。てまへうぢも育ちも紳士です、 傳聞うけたまはり及んだことがあって、あんたに此役目をお頼みします。
紳士
 尚ほ篤とうけたまはりました上で。
ケント
 いや、それは無用です。自分は表面うはべに見えるよりも以上の者だといふ證據に、此財布を、 これをひらいて、中の金子きんすをお使ひなさい。 もしコーディーリャさまにお逢ひなされたら……必ずお逢ひなさるでせうから……此指輪を御覽に入れて下さい、 すれば、てまへが何者かといふことは其際そのをり、お話なさるでありませう。……

あらし烈しくなる。

えィ、此あらしは!王をお搜し申して來よう。
紳士
 お手を。(手を振合ふ)何か外に申し殘されたい事は?
ケント
 ほんの一言、しかし今まで申したよりも大切な事。といふのは、王をお見附け申したなら…… あんたは其方そツちへ、わたしは此方こツちへ往かう……眞先に見附けた者が大きな聲で呼ぶことにしませう。

二人とも入る。
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読書ざんまいよせい(070)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(011)

第二節 とさか・じゅん(戸坂潤)

一 空間論からの出発

 戸坂潤の青年時代の魂をとらえた学問は空間論である。哲学の諸問題のなかでも、とくに空間論を明らかにすることに力をそそいだのであった。空間論を哲学の問題としてうけとること、これに対照されるものは時間論である。さて、ここでまず素朴な質問をだしてみよう。それは案外に事態の本質をついている問いだとおもうからである。空間論と時間論、そのどちらが一般に唯物論の立場に関係が多いか?
 この質朴な問いには簡単にいっぺんに答えられる。それはもちろん空間論であると答えることである。哲学史は唯物論の祖だといって、いつでも古代ギリシアのレウキボスとデモクリトスをあげるのであるが、これらの自然哲学者ののこした断片のうちには時間の論は見あたらない。そのつきにひいでた唯物論者として私たちはローマの詩人ルクレティウスをあげたいが、彼の『物の本性について』という詩の形でかかれている千何百行のなかにも時間論の思索を汲み出すことはむつかしい、ほとんどできない。同じことは十九世紀のフランスの唯物論者たちについてもいえる。といって、時間論が人間のする思索の対象として価値が少ないのではない。もしも楽しく悠々と思索で暮らせるのだったら、時間は人に限りなく問題を提供することだろう。しかし、人間にとっては運命的にまでさいごまで空間論はまといつく。空間論的に人間が規定されている人間存在の根本事実は、どうしようもない。時間は人に空間論的にしか考えさせない。空間論が明らかにされないでは時間論の成立は考えられない。空間論は科学の哲学の一般的基礎だといってよい。
 日本で、はじめて空間論の研究をめざしたのは戸坂潤である。彼は彼の『空間論』という論文註(1)のなかで、こういっている。

「空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇や、キネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴くこの、 世界―――実在界―――それらは悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が凡ゆる理論または科学の問題として取り上げられるということは、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である」

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南総里見八犬伝(009)

南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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真野まの松原まつはら訥平とつへい大輔だいすけふ」「金まり大すけ」「かぶ戸とつ平」

行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな

 金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれん息女そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實仄ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ尋常よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。
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読書ざんまいよせい(069)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)

第二編 明治以後

第四章 マルクス主義の唯物論者

第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)

一 河上の思想遍歴

1

 河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
 河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょうのもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもととなったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつしただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
 河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
 私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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南総里見八犬伝(009)

南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな


金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれんが息そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ、尋よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。
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読書ざんまいよせい(068)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(009)

 岩波文庫「南総里見八犬伝」(一)に高田衛氏の「『八犬伝』を読むために」という解説文がある。今更、勧善懲悪づくし、しかもやたらに長い「八犬伝」でもあるまいにと思ったが、読んでみると、意外と筋立てや表現が「論理的」で面白くも感じた。そこで、どこまでできるかはおぼつかないが、テキストのアップに取り組んでいる。まだ、冒頭部分だけなので、いつになったら完成するのやら…
 評判の悪い「勧善懲悪」でいうと「馬琴は、勧善懲悪を唱導した。しかしその悪とは、体制の悪であった。したがってその善とは、体制そのものをゆさぶる行為でさえあった」(松田修氏)の指摘は、しばし至言であり、秋水にも通じるだろう。
 ここでは、高田衛氏から冒頭部分を長く引用し、幸徳秋水の想いに馳せるうえでの一助としたい。

 先頃、幸徳秋水の獄中書簡を読んでいたら、こんな個所に目がとまった。

△六ヶ月目で此頃ー二回刺身を食た。秋刀魚を食っては季節だなと思び、新鮭や数の子を食てはモウ出たナと感じる。此夏以来鮎も食た。松茸も食た。野菜は胡瓜、東蒲塞、茄子の時代から此頃の離大根まで、果物も林檎、梨子、栗、柿、蜜柑と、新しい物が這入る毎に娑婆の節物の移り行くことを想ひやる。小供の時に読だ伏姫の山ごもりに花紅葉(ママ)村里の四季を想ふ美しい文があったが、吾等には每日の差入弁当が唯一の暦だ。
   (明治四十三年十二月六日付、師岡千代子宛)

 おそらく質素であったに違いない差入弁当の、そのおかずにさえ、くっきりと浮び上ってくる四季の姿がこの手紙にみられる。この豊饒な季節感は、もう私たちの日常からは永遠に失われてしまったことを、しみじみと感ぜずにはいられなかったのだが、その間に何気なく、『八犬伝』の一節「伏姫山ごもり」の文章の想い出が挿入されていたことが、とりわけ印象的であった。
 時代からいっても漢詩の嗜みのある点からみても、幸徳秋水のような人が『八犬伝』を碗んでいたことに別に不思議はない。ただ、秋水のような革命家の心にさえ、ひときわ豊かな季節感の感受があり、それとまったく矛盾のないかたちで、『ハ犬伝」の一節が甦えってくることの、いわぱ「自然さ」に思いをはせないではいられなかったのである。
 秋水が回想した「伏姫の山ごもり」の「村里の四季を想ふ美しい文」というのは、次のような文章であった。
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南総里見八犬伝(012)

南總里見八犬傳第二輯卷之一第十一回・序など
東都 曲亭主人 編次
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【外題】
里見八犬傳 第二輯 巻一
【見返】
文化丁丑孟春刊行
曲亭馬琴著 柳川重信畫
有圖八犬傳第弐輯
山青堂藏刻

【序】書き下し

八犬士傳第二輯自序[玄同]

稗官新奇之談。嘗作者ノ胸臆ニ含畜ス。初種々ノ因果ヲ攷索シテ。一モ獲ルコト無スハ。則茫乎トシテ心之適スル所ヲ知ラズ。譬ハ扁舟ヲ泛テ以蒼海ヲ濟ル如シ。既ニシテ意ヲ得ルトキ。則栩々然トシテ獨自ラ樂ム。人之未視ザル所ヲ見。人之未知ラザル所ヲ識ル。而シテ治亂得失。敢載セザルコト莫ク。世態情致。敢冩サザルコト莫シ。排纂稍久シテ。卒ニ册ヲ成ス。猶彼ノ舶人。漂泊數千里。一海嶋ニ至テ。不死之人ニ邂逅シ。仙ヲ學ヒ貨ヲ得テ。歸リ來テ之ヲ人間ニ告ルカゴトキ也。然トモ乗槎桃源ノ故事ノ如キ。衆人之ヲ信セズ。當時以浪説ト為。唯好事ノ者之ヲ喜フ。敢其虚實ヲ問ハズ。傳テ數百年ニ迨スハ。則文人詩客之ヲ風詠ス。後人亦復吟哦シテ而シテ疑ズ。嗚乎書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信與不信ト之有リ。國史ノ筆ヲ絶シ自リ。小説野乗出ツ。啻五車而己ナラズ。屋下ニ屋ヲ加フ。今ニ當テ最モ盛也ト爲。而シテ其言詼諧。甘キコト飴蜜ノ如シ。是ヲ以讀者終日ニシテ而足ラズ。燭ヲ秉テ猶飽コト無シ。然トモ於其好ム者ニ益アルコト幾ント稀ナリ矣。又夫ノ煙草能人ヲ醉シムレトモ。竟ニ飲食藥餌ニ充ルコト無キ者與以異ナルコト無シ也。嗚呼書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信ト不信與之有リ。信言美ナラズ。以後學ヲ警ム可シ。美言信ナラズ。以婦幼ヲ娯シム可シ。儻シ正史ニ由テ以稗史ヲ評スレハ。乃圓器方底而己。俗子ト雖固ニ其合難ヲ知ル。苟モ史與合ザル者。誰カ能ク之ヲ信セン。既ニ已ニ信セズ。猶且之ヲ讀ム。好ト雖亦何ソ咎ン。予カ毎歳著ス所ノ小説。皆此意ヲ以ス。頃コロ八犬士傳嗣次ス。刻成ルニ及テ。書賈復タ序辭ヲ於其編ニ乞フ。因テ此事ヲ述テ以責ヲ塞クト云フ。

文化十三年丙子仲秋閏月望。毫ヲ於著作堂ノ南牕木樨花蔭

簑笠陳人觧識

[震坎解][乾坤一草亭]

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