◎巌窟王(巖窟王)(上 006) アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香譯
巖窟王 : 五一 チブレン島
死人に代つて獄を出ると云ふ如き大膽な思案を友太郎に起させたのは、是れが法師の能く云ふた天意では有るまいか。或は法師の靈が此の思案を授けたのでは有るまいか。
山の樣な怒濤に揉まれながらも友太郎の心は、弛まずに神の助けを信じてゐる、我身を水底に沈まぬだけに支へてゐれば必ず何處かへ流れ着いて助かる事になるだらう、唯此の樣に思ふて風雨とも浪とも鬪つてゐた。
其の見込は間違はなかつた、彼の力が殆ど盡きて、最早如何とも仕難い頃、彼は但ある岩の上に打上げられた、此の岩が、即ち彼の目指してゐたチブレン島である。
身體の疲れは一方で無いけれど、氣が立つてゐるから中々挫けはせぬ、直に岩の高い所まで攀ぢ上り、暗の中に四方を眺めて方角を案ずるとブラニエルの燈臺の光りに依り茲がチブレン島だと分かる、目指す島へと着いたけれど、扨て此上は何しやう、四方の暗黒よりも、我身の上の寸前が猶更暗黒である。
雨は爾ほどでも無いけれど風と波とは益々激しい、殊に雷鳴さへも加はつた、兎に角夜の明ける迄と、岩の被さつて蔭と爲つてゐる樣な所を探し茲に身を潛めたが、間も無く海の面より、人の悲鳴する聲が聞える樣に感じた。
素より怒濤の間から餘くは聞き分られぬけれど、若しやと思つて再び岩の高い所へ上り、此方彼方と透かして見てゐる間に、パツと閃く電光が海の面を隈なく照した、此光りに分かつたのは茲より五六丁の沖合に一艘の漁船が波に捲かれて覆り、今や宛も二人三人の乘組員が海底へ攫へ込まれる所である、先に聞えた悲鳴の聲は此人々の叫びで有つたのだ。
船をさへ碎く程の浪だから其中へ落ちた人の助かると云ふ事は迚も出來ぬ、再び閃く電の光に見れば、海は唯だ山の樣な浪の重り合つて狂ふ許りで舟も無ければ人も無い、全く沈溺して了つたのである、殊に友太郎が此岩へ打上げられた時から見ると波の荒れ方が幾倍も強くなつてゐる、沈んだ人逹は最う此世の人では無いに違ひ無い。
舟に乘つてゐた人々は沈溺して、却て袋に入れて錘まで附けられて、爾して海底に沈められた人は助かる、實に不思議なものである、助かるのも人間の力では無く、死ぬるも人間の力で無い之が神技で無くて何であらうか。
再び岩の蔭に歸つて友太郎は神に謝した、爾して暫らく身を落ち着けてゐる間に、雨も風も次第に鎭まつて、夜も漸くに明け放れた。
天は昨夜の荒れに似ず青々と晴渡つてゐる、あれ丈の雲、あれ丈の風が僅數時間の中に何處へ收まつたゞらうかと怪しまれるけれど、友太郎に取つては却つて不安心である、日が出て後に若し泥阜の要塞から望遠鏡を以て此島を見れば此身の茲にゐる事まで分るに極つてゐる、何うか其樣な事の無い中に、通り合す舟でも有れば好い。
けれど浪だけは、昨夜の餘波で猶だ荒れてゐた、三たび岩の上へ登つて四方を見渡しても舟らしき物は見えぬ、如何とも仕方が無い、早や東の水平線が、日の出る樣に紅くなつた、最う泥阜の要塞で一切の役人が起きるのに間も有るまい、起きて若牢番が此身のゐた土牢へ朝飯を運んで行けば直ぐに此の身の逃げた事が分る、昨夜此の身が崖の上から落とされた時、途中、我知らず驚き叫んだから、牢番等は其聲を聞て怪しみ今朝は殊更早く法師の部屋から此身の室を見廻るかも知れぬ。
囚人の逃げた場合には、据附けの大砲を放つて塞の中總體へ警報を傳へると聞いてゐるが、今に其の警報が聞えはせぬか、今に幾艘の小舟が追人の乘せて此島へ漕寄せはせぬかと、樣々に氣遣ふ中彼方に見ゆつ馬耳塞の港口から一艘の帆船が出た、未だ波の荒いのに出て來る所を見れば、禁制品を取り扱ふ密輸入者の舟でも有らうか、何にしても有難い、何うか早く聲の屆く邊まで來て呉れゝばと、只管其の方を注意するに、幼い頃から水夫で育つた友太郎の目には直に分る、確にレグホーン港の方へ行く航路を取つてゐるらしい、爾すれば此島からは聲の屆かぬほど遠い所を通るのだ、何とか此舟を呼び寄せる工風は有るまいかと、空しく四邊を見廻したが是れも天の惠みだらうか此島の一方の水際に何だか赤い物が有る、是れを取つて目印に、高く差上げて打振ればと思ひ、直樣水際へ行きて拾ひ上ぐるに水夫の冠る帽子である、多分は昨夜沈沒した漁船の漕手が被つてゐたものであらう。
之れを取つて岩の上に立ち、船の成るたけ近附いた時、打振り、打振り、救を求むる合圖をすると船は漸くにして見認たらしい、針路を此方に振向けて、次第々々に近づいた、けれど浪は高し足場も惡し、船が直接に此島へ着く事の出來ぬのは分つてゐる。
間近くなつた頃を計り、友太郎は今拾つた赤い帽子を冠つたまゝ、其船の所まで泳いで行つた、高い浪を掻分けて進む手際が一廉の水夫とは分つてゐる、爾して船の傍まで行くと船の方から「剛い、剛い」と聲を掛けて勵まして呉れ、綱を投げて之れに縋らせ、苦も無く救ひ上げて呉れた。
船長らしき一人は、友太郎の姿を見て「ヤ何と云ふ水夫だ、髮ならば十年に手入れした事の無い樣に伸びて髯の長さが六寸も有るとは」友太郎は尤もらしく「昨夜の暴で、丁度此處へ沈んだ漁船の船手です、使ふて下されば充分役には立ちますから、レグホーンまで載せて下さい」船長「丁度水夫を雇ひたい所だから、腕次第では期限を定めて雇ふても好いが、何だか氣味の惡い容貌だなア、第一此の髮の毛は何うしたのだ」友太郎「是れは何です、アノ、少し心願が有つて頭へ櫛や剪刀を觸れぬ事にしてゐましたが、其れが漸く屆いたから最う何時でも刈込ます」云ふ折しも泥阜要塞の方に當り、大砲の音が聞こえた、見れば監獄の屋根の邊に白い煙が一團となつて立上つてゐる、確に友太郎の逃亡が分かつたのだ、船長は鋭い眼で友太郎をジツと視詰め「エゝ泥阜要塞で大切な囚人が逃げたと云ふ警報だぜ、彼所から逃げる奴は大抵海へ來るに極ツてゐるぜ」疑ふ語調である。
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