南総里見八犬伝(004)

南総里見八犬伝巻之二第三回

東都 曲亭主人編次
——————————————————

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)義実《よしさね》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)信時|聞《きゝ》あへず

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」


——————————————————-
景連信時暗《かげつらのぶときあん》に義實《よしさね》を阻《こば》む
氏元貞行厄《うぢもとさだゆきやく》に館山《たてやま》に從《したが》ふ

 卻說《かくて》安西三郞大夫景連《かくてあんざいざぶらうたいふかげつら》は、近習《きんじゆ》のものゝ吿《つぐ》るを聞《きゝ》て、結城《ゆふき》の落人里見義實《おちうどさとみよしさね》、主從三人《しゆうじゆうみたり》水行《ふなぢ》より、こゝに來《きた》れる縡《こと》の趣《おもむき》、大《おほ》かたは猜《すい》しながら、後難《こうなん》はかりかたければ、速《すみやか》には回答《いらへ》せず、麻呂信時《まろのりぷとき》を見かへりて、「|如此々々《しかしか》の事《こと》になん。何《なに》かと思ひ給ふやらん」、と問《とふ》を信時|聞《きゝ》あへず、「里見は名ある源氏《げんじ》なれども、こゝには緣《えん》も好《よしみ》もなし。無二《むに》の持氏《もちうぢ》がたなれば、結城氏朝《ゆふきのうぢとも》に荷擔《かたらは》れ、籠城三年《ろうぜうみとせ》に及ぶものから、京鐮倉《きやうかまくら》を敵《てき》に受《うけ》ては、命《いのち》を豫《かね》てなきものと、思ふべき事なるに、落城《らくぜう》の日に及《およぴ》て、親の擊《うた》るゝをも見かへらず、|阿容々々《おめおめ》と迯《にげ》かくれ、こゝらわたりへ流浪《さそらひ》たる、とるよしもなき白徒《しれもの》に、なでふ對面《たいめん》し給ふべき。とく追退《おひしりぞ》け給ひね」、と爪彈《つまはじき》をして說諭《ときさと》せば、景連|且《しばら》く頭《かうべ》を傾《かたむ》け、「某《それがし》もさは思へども、用《もち》ふべきよしなきにあらず。彼等《かれら》は三年《みとせ》籠城して、戰《たゝかひ》には熟《なれ》たるもの也。義實|年《とし》なほわかしといふとも、數萬《すまん》の敵軍《てきぐん》を殺脫《きりぬけ》ずは、いかにしてこゝまで來《く》べき。召入《よぴい》れて對面し、その剛臆《ごうおく》を試みて、使ふべきものならば、定包《さだかね》を討一方《うついつほう》の、大將《たいせう》を得たりとせん欤《か》。又《また》使ふべきものならずは、追退《おひしりぞく》るまでもなし。立地《たちところ》に刺殺《さしころ》して、後《のち》の禍《わざはひ》を禳《はら》ひなん。この議《ぎ》はいかに」、と密語《さゝやけ》ば、信時しば/\うち點頭《うなつき》、「微妙《いみじく》はかり給ひにけり。某《それがし》も對面すべきに、准備《ようゐ》し給へ」、といそがせば、景連|猛《にはか》に老黨《ろうどう》を召《よぴ》よして、|箇樣々々《かやうかやう》と說示《ときしめ》し、武藝力量兼備《ぶげいりきりやうかねそなはつ》たる、壯士等《ますらをら》に謀《はかりこと》を傳《つたへ》させ、只管《ひたすら》にいそがし立《たつ》れば、信時も又、倶《ぐ》したる、家臣等《かしんら》を召《よび》のぼして、その縡《こと》のこゝろを得させ、あるじ景連もろ共《とも》に、客房《きやくのま》にぞ出《いで》たりける。その縡《こと》の爲體《ていたらく》、をさ/\武《ぶ》を張《は》り、威《ゐ》をかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者《ともひと》十餘人、僉《みな》いかめしき打扮《いでたち》して、二帶《ふたかは》に居《ゐ》ながれつゝ、飾立《かざりたて》たる數張《すちやう》の弓弦《ゆつる》は、壁《かべ》に畫《ゑがけ》る瀑布《たき》の如《ごと》く、掛《かけ》わたしたる鎗薙刀《やりなぎなた》は、春の外山《とやま》の霞《かすみ》に似たり。廊《ほそどの》には幕《まく》を垂《たれ》て、身甲《はらまき》したる力士《りきし》、十人あまり、「すは」といはゞ走り出《いで》、かの主從《しゆうしゆう》を生拘《いけとら》んとて、おの/\手獵索《てぐす》を引《ひき》てをり。

 さる程《ほど》に、里見冠者義實《さとみのくわんしやよしさね》は、外面《とのかた》に立在《たゝずむ》こと、既《すで》に半晌《はんとき》餘《あま》りにして、「こなたへ」、と召入《よびい》られ、ゆくこといまだ一室《ひとま》に過《すぎ》ず、衝立《ついたて》の紙盾《ふすま》の蔭《かげ》より、縹綞《はなだ》の麻《あさ》の上下《かみしも》したる、壯士《ますらを》四人|立見《たちあらは》れ、「誘《いざ》給へ、俺們案內《われわれしるべ》つかまつらん』、といひあへず、前後《あとさき》に立《たち》ながら、半弓《はんきう》に箭《や》を㓨《つがひ》て、きり/\と彎《ひき》しぼれば、些後《すこしくおく》れて從ふたる、杉倉堀內これを見て、「吐嗟《あなや》」、とばかりもろ共に、走りすゝまんとする程に、又おなじほとりより、皂小袖《くろきこそで》に玉襷掛《たまたすきかけ》て、袴《はかま》の股丈《もゝたち》高く取《とり》たる、夥兵《くみこ》六|人《ン》走出《はしりいで》て、 短鎗《てやり》の尖頭突揃《ほさきつきそろ》へ、先なるは皆背《みなあと》ざまに、あるきながらぞ送り去《ゆく》。しかれども義實は、騷《さわ》ぎたる氣色《けしき》なく、「こはもの/\しき款待《もてなし》かな。三年以來《みとせこのかた》結城《ゆふき》にて、敵の矢面《やおもて》に立《たち》し日もあり。鎗下《やりした》を潛脫《くゞりぬけ》しは、いく遍《たび》といふことをしらねど、海より外《ほか》に物もなき、こゝには卻波風騷《かへつてなみかぜさわが》ず、良賎無異《りやうせんぶゐ》を樂《たのし》む、と聞《きゝ》しには似ぬものかな」、とひとりごつ主《しゆう》の後方《あとべ》なる、老黨《ろうだう》も立《たち》とゞまり、「治《おさま》るときにも亂《らん》を忘れず、小敵《せうてき》と見て侮《あなど》らずと、兵書《ひやうしよ》に本文《ほんもん》ありといふとも、三人《みたり》に過《すぎ》ぎる主從《しゆうじゆう》へ、鏃《やじり》のかぶらの羹《あつもの》に、弓弦《ゆつる》の索麪《むぎなは》、異《こと》なる饗應《きやうわう》、あるじの刀袮《との》の手料理《てれうり》を、亦復賞味《またまたせうみ》つかまつらん。誘案內《いざしるべ》を」、といそがして、送られてゆく主從は、はやその席に臨《のぞみ》しかば、壯士等《ますらをら》は弓を伏《ふせ》、鎗《やり》を引提《ひさげ》て東西《とうさい》なる、帷幕《いばく》の內に入りにけり。

 當下《そのとき》里見義實は、景連信時を遙《はるか》に見て、些《すこし》も媚《こぶ》る氣色《けしき》なく、賓座《まろうどのざ》に着《つき》て、腰なる扇《あふぎ》を右手《めて》に置《おき》、「結城《ゆうき》の敗將《はいせう》、里見又太郞義實、亡父《ぼうふ》治部少輔季基《ぢぶのせうゆうすゑもと》が遺言《ゆひげん》によって、辛《から》く敵軍の圍みを脫《まぬか》れ、漂泊《ひやうはく》してこゝに來《きた》れり。かゝれば蜑《あま》が笘[苫の誤記か?]屋《とまや》にも、はかなき今の身を寓《よせ》て、華洛《みやこ》はさら也、鐮倉なる、管領《くわんれい》にも從《したがは》ざる、この安國《やすくに》の民としならば、こよなき幸《さいはひ》なるべし、と思ひし事はきのふにて、聞くに異《こと》なる巷談街說《こうだんがいせつ》、義に仗《よつ》て一臂《いつひ》のちからを、竭《つく》す事もあらんかとて、思はずも虎威《こゐ》を犯《おか》して、見參《げんざん》を乞《こひ》候ひしに、敗軍《はいぐん》の將《せう》也とて嫌《きらは》れず、對面を許し給へば、胸中《きゃうちう》を盡すに足れり。供したるは亡父《ぼうふ》が愛臣《あいしん》、杉倉木曾介氏元人《すぎくらきそのすけうぢもと》、堀內藏人貞行《ほりうちくらんどさだゆき》になん。おんめを給はり候へ」、と慇懃《いんぎん》に名吿《なのり》つゝ、徐《しづ》やかに見かへり給へば、氏元貞行もろ共に、軈《やが》て頭《かうベ》を低《さげ》たりける。しかれども景連は、思ひしよりなほ義實の、年のわかきに侮《あなど》りて、うち見たるのみ禮《れい》を返《かへ》さず。信時はあるじをまたで、眼《まなこ》を睜《みは》り、聲をふり立《たて》、「われは麻呂小五郞《まろのこごらう》なり。聊御別議《いさゝかべつぎ》あるをもて、けふ平館《ひらだて》より來たりしかひに、この席上《せきせう》に連《つらな》るのみ。さて口さかしき小冠者《こくわしや》かな。わが安房《あは》は小國《せうこく》なれども、東南の盡處《はて》にして、三面すべて海なれば、室町殿《むろまちどの》の武命《ぶめい》を受《うけ》ず、兩管領《りやうくわんれい》にも從《したがは》ねど、鄰國《りんこく》の强敵《ごうてき》も、敢境《あへてさかひ》を犯《おか》すことなし。さればとて、われはさら也|安西《あんさい》ぬしに、絕《たえ》て由緣《ゆかり》もなき和郞《わろ》が、京鐮倉を敵に受《うけ》て、身のおくところなきまゝに、乳臭《ちのか》も失《うせ》ぬ觜《はし》を鳴らして、利害《りがい》を說《とか》んと思ふは嗚呼《をこ》也。人の落魄《おちめ》を憐《あはれ》むこと、慈眼視衆生佛《ぢげんじしゆぜうほとけ》のごとく、草芥《あくたもくた》を容《い》るゝこと、無量福壽海《むりやうふくじゆかい》に似たり共、誰《たれ》か罪人《つみひと》をこゝに留《とゞ》めて、その崇《たゝり》を招くべき。寔《まこと》に無益《むやく》の對面ならん」、とあざみ詈《のゝし》る頤《おとがひ》を、かき拊《なで》つゝうち笑へば、義實|莞然《につこ》とうち咲《えみ》て、「しか宣《のたま》ふはその名聞えし、麻呂ぬしに候|欤《か》。麻呂安西|東條《とうでふ》は、當國《たうこく》の舊家《きうか》たり。勇悍武略《ゆうかんぶりやく》さもこそ、と思ふは似ぬものかな。可惜《あたら》しきことながら、親にて候|季基《すゑもと》は、生涯只《せうがいたゞ》義の一字を守りて、ながくはたもち難《かた》かるべしと、思ふ結城《ゆふき》へ盾籠《たてこも》り、京鐮倉の大軍を、三年《みとせ》が閒《あはひ》防ぎとゞめて、死に臨《のぞめ》ども悔《くや》しとせざりき。某《それがし》親には及《およば》ねども、敵をおそれて迯《にげ》もせず、命を惜《をしみ》て走りもせず。亡父《ぼうふ》の遺言已《ゆいげんやむ》ことを得ず、只命運《たゞめいうん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふのみ。鐮倉の持氏卿《もちうぢけう》、初《はじめ》世さかりなりし時、安房上總《あはかつさ》いへばさら也、八州《はつしう》の武士|一人《ひとり》として、心を傾《かたむ》け、腰を折《かゞめ》、出仕《しゆつし》せざるもなかりしに、持氏|滅亡《めつぼう》し給ひては、幼君《ようくん》のおん爲《ため》に、家を忘れ身を捨《すて》て、氏朝《うぢとも》にちからを勠《あは》し、結城に籠城《ろうぜう》したるは稀《まれ》也。勢利《いきほひ》に屬人心《つくひとこゝろ》、憑《たのも》しげなきものなれば、こゝにも麻呂ぬし、安西ぬし、持氏卿の恩義《おんぎ》を思はで、兩管領の崇《たゝり》をおそれ、某《それがし》を容《いれ》じとならば、袖《そで》を拂ふて退《まか》りなん。現《げに》管領は威權《いきほひ》高し。|國々《くにくに》の武士|隨從《つきしたが》ひぬ。おそれ給ふはさることなれども、などて主從三人《しゆうしゆうみたり》に過《すぎ》ざる、義實をいたくおそれて、器械拿《うちものもつ》たる壯士等《ますらをら》に誘引《いざなは》せ、當處《たうしよ》は安泰無異《あんたいぶゐ》也、と口にはいへど用心嚴しく、席上《せきせう》に弓箭《ゆみや》を掛《かけ》、劍戟《けんげき》の鞘《さや》を外《はづ》し、剩帷幕《あまつさへいばく》の內《うち》に、夥《あまた》の力士《りきし》をかくし給ふは、いかにぞや」、と詰《なじ》られて、信時|忽地《たちまち》顏うち赧《あか》め、安西に目を注《くは》すれば、景連思はず大息《おほいき》つき、「いはるゝ所|至極《しごく》せり。弓箭《ゆみや》は武士の翼《つばさ》なり、劍戟《けんげき》は爪牙《ぞうげ》に等しく、身を護《まも》るをもて坐臥《ざくわ》にも放さず。和殿《わどの》を威《おど》す爲ならんや。但《たゞ》し案內《しるべ》せしものどもに、器械《うちもの》を拿《もた》せし事、力士をかくし置《おく》ことは、景連|露《つゆ》ばかりもこれをしらず。什麼汝等《そもなんぢら》は何《なに》の爲に、正《まさ》なき事をしたるぞや。とく罷出《まかで》よ」、と追退《おひしりぞ》け、飾立《かざりたて》たる鎗長刀《やりなぎなた》は、屏風《ぴやうぶ》をもつてかくさせけり。すべての准備齟齬《ようゐくひちがひ》て、興《けう》の醒《さむ》るのみなれば、安西麻呂が家臣等は、遠侍《とほさむらひ》へ出《いづ》るもあり、屏風の背《うしろ》に退《しりぞ》きて、汗《あせ》を拭《ぬぐ》ふも多かりける。

 かゝりけれども信時は、こりずまに膝《ひざ》をすゝめて、義實にうち對《むか》ひ、「今|示《しめ》さるゝ縡《こと》の趣《おもむき》、その據《よりどころ》あるに似たれど、敵をおそれず、命を惜《をしま》ず、後運《こううん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふぞならば、坂東《ばんどう》には源氏《げんじ》多かり、なほ身のよるべあるべきに、一國の主《ぬし》にもあらず、好《よしみ》は元來絕《もとよりたえ》てなき、安西|氏《うぢ》を憑《たのま》んとて、舩《ふね》をよせしはこゝろ得《え》がたし。餓《うへ》たるものは食《しよく》を擇《えら》まず、迫《おは》るゝものは路《みち》を擇《えら》まず。敵をおそれ、命《いのち》を惜《をし》みて、迯迷《にげまよは》ずは、いかにして、恥《はぢ》かゞやかしてこゝまで來《く》べき。かひなき身の非を飾らずに、しかならば如此《しか》なりと、|明々地《あからさま》に吿《つげ》てこそ、憐愍《あはれみ》も一卜しほならめ。この席上《せきせう》に連《つらな》るかひに、とり持《もち》してまゐらせん。|明々地《あからさま》に吿《つげ》給へ。|明々地《あからさま》にはいはれずや」、と再三《ふたゝびみ》たびくり返すを、聞《きく》に得堪《えたへ》ず貞行は、氏元が袂《たもと》を引《ひき》て、もろ共に進み出《いで》、「心を師として人をはかれば、打《うつ》槌《つち》もあたらぬ事あり。いと憚《はゞかり》あることながら、麻呂|大人《うし》の椎量《すいりやう》は、雜兵仂武者《ざふひやうはむしや》のうへにこそ。源氏にはさる大將なし。抑《そもそも》義實命を惜《をし》み、敵に迫《おは》れて途《ど》を失《うしな》ひ、思はず當國に來つるにあらず。偏《ひとへ》に先蹤《せんせう》を追へば也。昔|源賴朝卿《みなもとのよりともけう》、石橋山《いしばしやま》の軍《いくさ》敗れて、安房《あは》へ赴《おもむ》き給ひしとき、和君《わぎみ》の先祖信俊《せんぞのぶとし》ぬし、安西の先祖|景盛《かげもり》ぬし、東條《とうでふ》ぬしもろ共に、第一番に隨從《つきしたが》ひ、無二の志《こゝろざし》をあらはせしかば、賴朝これに先を追《おは》して、上總《かつさ》へうち越《こえ》給ふ程に、廣常常胤來迎《ひろつねつねたねきたりむかへ》て、忽地《たちまち》大軍になりにければ、更に鐮倉に基《もとゐ》を占《しめ》て、遂《つひ》に平家《へいけ》を滅《ほろぼ》し給ひき。里見もおなじ源氏嫡流《げんじのちゃくりう》、八幡殿《はちまんどの》の御末《みすゑ》なり。かゝる吉例《きちれい》あるものを、あまりに無下《むげ》におとしめ給ふが、傍《かたはら》いたく候へば、しれたることをまうすのみ。過言《くわごん》はゆるし給ひね」、と返《かへ》す辭《ことは》も智も勇も、一對一致《いつゝいいつち》の兩老黨《りやうろうどう》に、說伏《ときふせ》られて信時は、怒りに逼《せま》りて、ものも得《え》いはず。義實は氣色《けしき》を見て、忽地《たちまち》に聲を激《はげま》し、「貞行氏元|不禮《ぶれい》なせそ。われいかばかりの德ありて、賴朝に比《たぐへ》んや。そは漫《そゞろ》也、嗚呼《をこ》也」、と叱《しか》り懲《こ》らして追退《おひしりぞ》け、勸解《わび》ず寬《なだむ》る客ぶりに、信時は眼《まなこ》を瞪《いか》らし、手を叉《こまぬ》きて物いはず。景連は肩|搖《ゆるが》して、堪《たへ》ぬがごとく冷笑《あざわら》ひ、「あなわが佛尊《ほとけたふと》しとて、いへば亦《また》いはるゝものかな。里見の從者《ともぴと》よく聞《きけ》かし。賴朝の父|義朝《よしとも》は、十五|个國《かこく》の節度使《せつどし》たり。もし朝敵《ちやうてき》とならざりせば、淸盛《きよもり》もすべなからん欤《か》。かゝれば彼卿《かのけう》、流人《るにん》たれ共、一トたび義兵を起すに及びて、舊恩《きうおん》を思ふ坂東武士《ばんどうぶし》、招《まねか》ざれども屬從《つきしたが》ひぬ。里見|氏《うぢ》はこれと異《こと》也、そのはじめ太郞義成《たらうよししげ》、賴朝|卿《けう》に仕《つかへ》しより、釆地一鄕《れうぶんひとさと》の外《ほか》に過《すぎ》ず、手勢僅《てせいはつか》に百騎に足らず。中葉《なかころ》は宮方《みやかた》にて、彼此《をちこち》に世をしのびあへず、鐮倉へ降參《こうさん》して、本領安堵《ほんれうあんど》したれども、それ將《はた》しばしが閒《あはひ》にて、今見る所は落人《おちうど》也。主《しゆう》すら口を鉗《つぐめ》るに、汝等何《なんぢらなに》の議論《ぎろん》あらん。志《こゝろざし》を改めて、景連に仕へなば、さばかりの事あるべきに、身のほど/\をしらずや」、と飽《あく》まであざみ誇《ほこ》れども、氏元も貞行も、主《しゆう》のこゝろを汲《くみ》かねて、再びこれと爭はず。

 義實はうち微笑《ほゝえみ》、「安西ぬし寔《まこと》にしか也。しかれども、人の口には戶も立《たて》られず。某《それがし》この地に來て聞くに、何處《いつこ》もおなじ巷《ちまた》の風聲《ふうぶん》、民の誹謗《そしり》は止《やむ》ときなけれど、家臣は主君の耳を塞《ふさ》ぎて、吿《つげ》もせず諫《いさめ》も得《え》せぬは、甚《はなはだ》しき不忠《ふちう》ならずや。氏元貞行|思《おも》ひかけなく、夥《あまた》の祿《ろく》を賜《たま》ふとも、不忠の人と肩を比《ならべ》、耳の聾《しい》たる主君には、仕ふることを願はじ」、といはれて景連|氣色《けしき》を變《かえ》、「そは何事《なにこと》をか譏《そし》りたる。巷《ちまた》の風聞《ふうぷん》いかにぞや」、と問《とへ》ば扇《あふぎ》を膝《ひざ》に突立《つきたて》、「いまだ曉《さとり》給はずや。これは主人のうへのみならず、麻呂ぬしも又しかなり。神餘《じんよ》、安西《あんさい》、麻呂《まろ》の三家《さんか》は、舊交尤淺《きうこうもつとも》からず、手足《しゆそく》のごとく相佐《あいたす》けて、當國《たうこく》久しく無異《ぶゐ》なりしに、神餘が嬖臣《へいしん》山下|定包《さだかね》、奸計《かんけい》をもて主《しゆう》を戕《そこな》ひ、忽地二郡《たちまちにぐん》を橫領《わうれう》し、推《おし》て國主《こくしゆ》と稱すれども、神餘が爲にこれを討《うた》ず、阿容々々《おめおめ》と下風《かふう》に立《たち》て、共に濁《にごり》を受《うけ》給へば、民の誹謗《そしり》も宜《むべ》ならずや。某《それがし》この事を申シ入れて、用《もちひ》らるゝこともあらば、犬馬《けんば》の勞を竭《つくさ》ん、と思ひしはそらだのめにて、出陣《しゆつぢん》の准備《ようゐ》も見えず、絕《たえ》てその議に及《およば》れねば、寸志《すんし》を演《のぶ》るよしもなし。わが主從《しゆうじゆう》の剛臆《ごうおく》のみ、只管批評《ひたすらひゝやう》せらるれ共、神餘が爲に定包を、討《うた》ざるは勇もなく、義もなき武士は憑《たのも》しからず。今はしも是《これ》まで也。罷出《まかりいで》ん」、といひあへず、席を去《たゝ》んとし給へば、景連急《かげつらきう》に呼《よぴ》とゞめ、「方寸《ほうすん》を吿《つげ》ざれば、さおもはるゝも理《ことわ》り也。今霎時坐《いましばしざ》し給へ」、ととゞむる右手《めて》へ立遶《たちめぐ》る、信時は些《ちつと》も擬議《ぎき》せず、「しらずや義實、けふわがこゝに來たりしは、をさ/\軍議《ぐんぎ》の爲なれど、謀《はかりこと》は密なるをよしとす。はじめて面《おもて》を見る和主《わぬし》に、かろ/\しく何をか吿《つげ》ん。俺們《われわれ》が勇ありや、なしやをみづからしらんとならば、まづこの刃《やいは》に問《とへ》かし」、と敦圉《いきまき》ながら反《そり》うちかへす、刀の鞆《つか》に手を掛《かく》れば、さらでも由斷《ゆだん》せざりける、氏元も貞行も、主《しゆう》のほとりに衝《つ》と寄《より》て八方《はつほう》へ眼《まなこ》を配《くば》れば、麻呂が從者《ともびと》これを見て、握《にぎ》る拳《こぶし》を捺《さすり》あへず、頻《しき》りに膝《ひざ》を進めたり。そのときあるじ景連は、慌忙《あはてふため》き橫ざまに、信時を抱《いだ》き禁《とゞ》め、耳に口をさし著《つけ》て、何事《なにごと》やらん說諭《ときさと》し、軈《やが》て左右を見かへりて、頤《おとがひ》をもてしらすれば、安西が近臣|等《ら》、麻呂が從者《ともひと》もろ共に、遽《いそがは》しく立《たち》かゝりて、次の房《ま》へ伴《ともな》ひぬ。かゝりけれども義實は、扇《あふぎ》の鹿目《かなめ》走らしながら、うち見たるのみ爭《あらそは》ず、席上《せきせう》ます/\失興《しらけ》にけり。

 當下《そのとき》安西景連は、舊《もと》の處にかへりをり、「義實|何《なに》とか思ひ給ふ。一言《いちごん》の下《もと》に死を爭ふは、武士《ものゝふ》の風俗《ならひ》なれども、麻呂|氏《うぢ》は戲《たはふ》れ也。こゝろになかけられそ。しかれども、時と勢《いきほひ》をしるものは、堪忍《たへしの》ぶをもて危《あやう》からず。かくはしば/\試みたるに、和殿《わとの》は寔《まこと》にその人なるべし。よしや結城《ゆうき》の守將《しゆせう》なりとも、今この浦に流浪《さそら》ひて、わが一陣《いちゞん》に走加《はせくはゝ》り、彼《かの》定包を討《うた》んとならば、わが軍令《ぐんれい》に背《そむ》きかたけん。士卒《しそつ》と共に忠《ちう》を抽《ぬきんで》、戰場《せんぢやう》に大功あらば、恩賞《おんせう》の沙汰《さた》なからんや。素性《すぜう》に誇り、才《さえ》を憑《たの》み、わが手に屬《つく》を愧《はづ》るとならば、これ軍令に背くもの也。さでは決して用ひがたし。和殿一己《わどのいつこ》のちからをもて、彼賊《かのぞく》をうち滅《ほろぼ》し、瀧田《たきた》の城を取りねかし。二郡のぬしにならるゝとも、露《つゆ》ばかりも憾《うらみ》なし。かゝればゆくも留《とゞま》るも、只《たゞ》この一議にあらんのみ。心を定めて回答《いらへ》をせよ」、と辭《ことば》もこゝに更《あらたま》る、難義《なんぎ》としれど些《すこし》もいなまず、「繋《つなが》ぬ舟《ふね》となりしより、よるべの岸こそ身のぬしなれ。こゝに庇覆《みかげ》を蒙《かうむ》りて、用《もちひ》らるゝことあらば、何事《なにこと》を嫌《きら》ふべき。うらなく仰《あふせ》候へ」、といはれて景連うち點頭《うなつき》、「しからば事のはじめ也。|努々違背《ゆめゆめいはい》あるべからず。わが家《いへ》の嘉例《かれい》として、出陣《しゆつぢん》の首途《かどいで》に、軍神《いくさがみ》を祭ることあり。その胙《ひもろぎ》には大きなる、鯉魚《こひ》を備《そなふ》ることになん。わが爲に鈎《はり》をおろして、この鯉《こひ》を釣《つり》もてかへらば、よき敵と組擊《くみうち》して、頸《くび》を得たるに同《おなじ》かるべし。こゝろ得たりや」、と說示《ときしめ》せば、義實|固辭《いなむ》けしきなく、「承《うけたまは》り候ひぬ」、と應《いらへ》てやがて立《たゝ》んとせし、主《しゆう》の後方《あとべ》に侍《はペ》りたる、氏元貞行は左右より、その袂《たもと》を引《ひき》とゞめて、兩人|齊一《ひとしく》進み出《いで》、「安西公《あんさいこう》へ申ス也。嘉例とは宣《のたま》へども、竿《さを》を斜《なゝめ》にして舟に睡《ねふ》り、鈎《はり》を下《おろ》して魚《うを》を捕《と》る、その智は漁夫《ぎよふ》にますものなし。これらは武士のせざる所、義實には似げなき技《わざ》也。君《きみ》はづかしめらるゝときは、臣《しん》死すとこそ古人《こじん》もいへ。只僕等《たゞやつがれら》が首《かうべ》をもて、胙《ひもろぎ》となし給えかし、といはせも果《はて》ず景連は、氏元等を佶《きつ》と嫉視《にらまへ》、「彼奴甚無禮《かやつはなはだぶれい》也。義實は法度《はつと》をおそれて、既《すで》に承諾《せうだく》せし事を、化耳拔《あだみゝぬか》して何《なに》とか聞《きゝ》たる。その家僕《かぼく》として憚《はゞかり》なく、わが軍令《ぐんれい》を犯したる、罪|尤輕《もつともかろ》からず。彼牽出《あれひきいだ》して斬《きつ》て棄《すて》よ」、と烈《はげ》しき怒りを物ともせず、氏元貞行ます/\進みて、說果《ときはた》さんとしたりしかば、義實これをいたく叱《しか》りて、閒遙《あはひはるか》に退《しりぞか》せ、彼等が爲に賠語《わび》給へば、景連やうやく氣色《けしき》をおさめ、「しからば鯉《こひ》を見るまでは、彼奴等《かやつら》を和殿《わどの》にあづけん。和殿|手親釣《てつからつり》もて來《こ》よ。それも三日に限るべし。等閑《なほさり》にして日を過《すく》さば、白物等《しれものら》がうへのみならず。こゝろ得てよ」、と他事《たじ》もなく、いはるゝ每《ごと》に義實は、恭《うやうや》しく領諾《れうだく》し、「しからば旅宿《りよしゆく》へまからん」とて、うらみ㒵《がほ》なる老黨《ろうだう》を、いそがし立《たて》て出《いで》給へば、次の房《ま》に竊聞《たちぎゝ》たる、麻呂小五郞信時は、綟子障子《もじせうじ》を聞《ひら》かして、冷笑《あざわら》ひつゝ且《しばら》く目送《みおく》り、あるじのほとりへ立寄《たちより》て、「安西ぬしいと手ぬるし。などて里見が從者等《ともびとら》を、助けてかへし給ひたる。われは只管《ひたすら》義實を、擊果《うちはた》さんとしつれども、和殿が盾《たて》となり給へば、綱裏《もうり》の魚《うを》を走らしたり」、と喞《かごと》がましく呟《つぷや》けば、景連|聞《きゝ》てうちほゝ笑《え》み、「われも又はじめより、用意《こゝろがまへ》はしたれども、義實は名家《めいか》の子なり、小冠者《こくわじや》なれども思慮才學《しりよさいかく》、凡庸《よのつね》のものにあらず。又|從者等《ともびとら》が面魂《つらたましひ》、一人當千《いちにんたうせん》といふべき欤《か》。さるを漫《そゞろ》に手を下《くだ》さば、こゝにも夥《あまた》人を殺さん。獸窮《けものきう》すれば必囓《かならずかみ》、鳥窮《とりきう》すれば必啄《かならずつゝ》く。況勇將猛卒《いはんやゆうせうもうそつ》なり。徒《たゞ》手を束《つかね》て刃《やいば》を受《うけ》んや。窮鳥懷《きうちやうふところ》に入《い》るときは、獵師《れうし》も捕らずといふなるに、今|定包《さだかね》を討《うた》ずして、怨《うらみ》なき人を殺さば、民の誹謗《そしり》は日にまして、遂《つひ》に大事《だいじ》を成《なし》がたかるべし。さればとて義實を、この處へ留《とゞ》めては、猛獸《たけきけもの》を養ふごとく、早晚寤寐《いつしかねさめ》安からず。こゝをもて、首鼠《しゆそ》兩端《りやうたん》に言《こと》をよせて、彼《かの》主從が雅慢《がまん》を壓《おさえ》、祭祀《まつり》の贄《にゑ》を求めしは、陷阱《おとしあな》を造るもの也。安房一國には鯉《こひ》を生《せう》せず。是《これ》その風土《ふうど》によるもの欤《か》。彼奴等《かやつら》これをしらずして、淵《ふち》に立《たち》、瀨《せ》に涉獵《あさり》、いたづらに日を過《すぐ》し、手を空《むなしう》してかへり來《こ》ば、軍法《ぐんほう》をもてこれを斬《きら》ん。かくては殺すもその罪《つみ》あり。わが私《わたくし》といふべからず。われ豈《あに》彼を助《たすけ》んや」、と誇㒵《ほこりが》に說示《ときしめ》せば、信時は笑坪《えつぼ》に入《いつ》て、掌《たなそこ》を丁《ちやう》と鼓《うち》、「謀得《はかりえ》て極《きはめ》て妙《めう》也。現愸《げになまじい》に擊走《うちはし》らし、義實|瀧田《たきた》に赴《おもむ》きて、定包に從はゞ、虎《とら》に翼《つばさ》を添《そふ》る也。さりとてこなたに用ひなば、庇《ひさし》を貸《かし》て母家《おもや》を損《そこな》ふ、悔《くひ》なしとはいひがたし。留《とゞめ》て後《のち》にこれを殺す、謀《はかりこと》にますものなし。吁《あゝ》奇なるかな、妙《めう》なり」、と只管賞嘆《ひたすらせうたん》したりける。

 かゝりし程に義實は、白濱《しらはま》なる旅宿《りよしゆく》へとて、步《あし》の運《はこぴ》をいそがし給へど、途《みち》いと遙《はるか》なりければ、かへりも著《つ》かで日は暮《くれ》たり。抑《そもそも》安房の白濱《しらはま》は、朝夷郡《あさひなこふり》の內にして、和名鈔《わめうせう》にその名見えて、いとも舊《ふり》たる鄕《さと》になん。瀧口村《たきくちむら》に接《つゞく》といふ。今は七浦《なゝうら》と唱《となふ》るのみ、この濱邊の摠名《さうめう》なり。里見|氏《うぢ》の舊趾《ふるきあと》、その寺などもこゝにあり。所謂《いはゆる》安房の七浦は、川下《かはしも》、岩目《いはめ》、小戶《をと》、鹽浦《しほうら》、原《はら》、乙濱《おとのはま》、白閒津是《しらまつこれ》也。

 閒話《むだはなし》はさておきつ。義實は、その曉《あけ》かたに、白濱へかへりつゝ、目睡《まどろみ》もせで漁獵《すなどり》の、用意《こゝろかまへ》をし給へば、氏元貞行|歡《よろこ》ばず、「君なほ曉《さと》り給はずや。信時は匹夫《ひつふ》の勇者、景連は能《のう》を忌《い》み、才《さえ》を媢《そねみ》て甚僻《はなはだひがめ》り。我《われ》を見ること仇《あた》のごとく、憑《たのも》しげなき人の爲に、鯉《こひ》をあさりて何《なに》にかはせん。はやく上總《かつさ》へ赴《おもむ》きて、その毒惡《どくあく》を避《さけ》給へ」、ともろ共に諫《いさめ》しかば、義實|頭《かうべ》をうち掉《ふり》て、「否《いな》、伱達《なんたち》が異見《いけん》はたがへり。麻呂安西《まろあんさい》が人となり、利には親《したし》く、義に疎《うと》かり。口と行《おこなひ》はうらうへにて、定包をおそるゝのみ、瀧田を討《うつ》のこゝろなし、としらざるにあらねども、こゝを避《さけ》て上總《かづさ》へ赴き、彼處《かしこ》も又|如此《しか》ならば、下總《しもふさ》は敵地《てきち》也。そのとき何處《いつこ》へ赴くべき。君子は時を得て樂《たのし》み、時を失ふても亦樂《またたのし》む。呂尙《りよせう》は世にいふ太公望是《たいこうばうこれ》なり。齡七十《よはひなゝそぢ》に傾《かたふ》くまで、よに人のしるものなし。渭濱《いひん》に釣《つり》して文王《ぶんわう》に値偶《ちぐ》し、紂王《ちうわう》を討滅《うちほろぼ》して大功あり。齊國《せいのくに》に封《ほうぜ》られて、子孫|數十世《すじつせ》に傳へたり。太公望すらかくのごとし。われは時《とき》と勢《いきほひ》と、兩《ふたつ》ながら失ふもの也。釣《つり》する事を嫌《きらは》んや。且鯉《かつこひ》はめでたき魚《うほ》也。傳聞《つたへきく》、安南龍門《あんなんりうもん》の鯉、瀑布《たき》に泝《さかのぼ》るときは、化して龍《たつ》になるといへり。われ三浦《みうら》にて龍尾《りうぴ》を見たり。今|白濱《しらはま》へ來るに及びて、人《ひと》又|鯉《こひ》を釣《つれ》といふ。前象後兆憑《ぜんせうこうちやうたのも》しからずや。獲《えもの》あらば齎《もたら》して、景連がせんやうを、姑《しばら》く見んと思ふかし。曉《あけ》なば出《いで》ん」、といそがし給へば、氏元も貞行も、その高論《こうろん》に感服《かんふく》して、釣《はり》を求め、竿《さを》をとゝのへ、割籠《わりご》を腰に括《くゝり》著《つけ》て、主從|三人《みたり》、名もしらぬ、淵《ふち》をたづねてゆく程に、森の烏《からす》も梢《こずゑ》をはなれて、天《よ》はほの/″\と明《あけ》にけり。

——————————————————

入力:松本修治

校正:松本修治 2005年3月25日、2005年6月10日
編者修正:2025年3月31日

——————————————————

読書ざんまいよせい(047)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(01)
3月から、「大逆事件」について、学び始めました。それに関連して、神戸での事件関係者に関する講座にも通っています。幸徳秋水の主要著作も、現代語訳もむくめて電子化されたテキストも多々ありますが、案外、フリーテキストされていない作品も目に付きます。そのなかから、「社会主義神髄」をテキスト化してみました。また、章の最後に、漢詩ないし漢文の引用での締めくくりがあるので、できるだけその典拠も書いてみたいと思っています。

“Let the ruling classes trem-
ble at a Communistic revolu-
tion. The proletarians have
nothing to lose but their chains.
They have a world to win.
Working men of all countries
unite !”
【編者注】「支配階級をして共産主義革命の前に戰慄せしめよ。プロレタリヤは、自分の鎖よりほかに失ふべき何ものももたない。そして彼らは、獲得すべき全世界をもつてゐる。
 萬國のプロレタリヤ團結せよ!」
(幸徳秋水・堺利彦訳「共産党宣言」末尾より・青空文庫

自 序

『社會主義とは何ぞ』是れ我が國人の競ふて知らんと欲する所なるに似たり、而して又實に知らざる可らざる所に屬す。予は我國に於ける社會主義者の一人として、之れを知らしむるの責任あるを感ずるが故に、此の書を作れり。
近時社會主義に關する著譯の公行する者、大抵非社會主我者の手に成り往々獨斷に流れ正鵠を失す、其然らざるも或は僅に其一部を論じ、或は單に一方面を描くに過ぎず。而して浩瀚の者は却つて煩冗《はんじやう》に過ぎ、短簡なる者、 亦要領を得難きの憾み有り。是を以て予は本書に於て、勉めて枝葉を去り、細節に拘せず、一見明白に其大綱を了會し耍義に誘徹せしめんことを期せり。世間未だ社會主義の何たろを知らざるの士之に依て、所謂『烏眼觀《バーヅアイ・ヴユー》』を做すことを得ぱ、幸ひ甚し。蓋し著述の推きは徒に紙吸を多からしむるに在らずして、冥に次序の體を得せしむるに在り、材料を豐にするに在らずして繁簡の中を得せしむるに在り。本書固より闘々の小册なりと雖も、而も稿を代ふること十數囘、時を費す半年の久しきに及びて遂に意に滿つる能はず、慚悦何ぞ堪へん。但だ予の不才之な奈何ともするなくして、而して江湖の社會主義を知らんとする者、益々急なるを見て、忍んで剞劂《きけつ》に付するを爲せり。故に本書說く所に關し、反對の意見若くば疑間を以て質さるゝの人あらば、予は喜んで更に之が答辯說明の責に任ずべし。
本書執筆の際、參照に資せしは、
  MARX, K & ENGELS, F. Manifesto of the Communist Party.
  MARX, K, Capital: A Critical Analysis of Capitalist Production.
  ENGELS, F. Socialism, Utopian and Scientific.
  KIRKUP, T. An Inquiry into Socialism.
  ELY, R. Socialism and Social Reform.
  BLISS, W. A Handbook of Socialism.
  MORRIS, W. & BAX, E. B. Socialism : its Growth and Outcome.
  BLISS, W. The Encyclopedia of Social Reforms.
等の數種也。初學少年の爲めに特に之を言ふ。
    明治三十六年六月
                著 者

      第一章 緖  論

〇クロムウエルと言ふこと勿れ、ワシントンと言ふこと勿れ、ロベスピエールと言ふこと勿かれ、若し予に質すに古今最大の革命家を以てする者あらば、予は實にゼームス・ワット其人を推さずんばあらず。彼れ夫れーたび其精緻の頭腦を鼓して、造化の祕機を捉來し、之を人間の眼前に展開するや、世界萬邦物質的生活の狀態は、俄然として爲めに一變を致せるに非ずや。嗚呼彼所謂殖產的革命の功果や眞に偉なる哉。
〇蓋し今の紡績や、織布や、鑄鐵や、印刷や、共他百般工技の器、鐵道や、汽船や、 其他白般交通の具、之を望めば恰も魅應の如く、之に就けぱ恰も山撤の如く然り。而して此等の機器の常に自在に胴使せられ、無礙に運轉せらるるもの、唯だ慧々然たる蒸氣ー吹の力に由れることを思ふ、其術何ぞ爾く巧にして其能何ぞ爾く大なるや。若し十八世紀中葉の人類を地下に起して以て今日を觀せしめば、應に呀然として駭絕驚倒すべきや必せり。況んや之に次ぐに定氣發明の奇と其應用の妙、刻々に新なるを以てするに至って、人智の窮極する所、眞に測る可らざる者有り、予は萬物の靈長の語、於是て始めて驗有るを覺ふ。
〇然れども此等機器の發明及び共改善に由て打成せる、所綱殖焼的革命の貴尙すべき所以の功果は、獨り英技の巧且つ妙なるに在らずして、實に共殖產の饒多に、其交換の利便なるに在らざる可かず。
〇蓋し近時生產カ發達の程度及比率は、其產業の種類の異なるに從って差あるが故に詳密精確の統計を得難しと雖も、而も機械が人力に代れるが爲めに、槪して著大の增加を來せるや論なし。敎授イリーは日く、或種の產業は爲めに十倍せり、或種の產業は爲めに二十倍せり、更紗の生産の如きは、優に百倍し、書籍版行の如きは優に千倍せりと。ロバート・オーエンは早く前世紀の初に於て公言して日く、五十年前六十萬人の勞働を要せるの財富は、今や僅に二千五百人の力を以て生產し得べしと。而して爾後今日に至る迄百年間、更に幾層の進步ありしや、疑ふ可らず。某學士は亦日く、近時の器械は一家五口の戶々に供するに、各々昔時六十人の奴隸の生產せしと同額の資財を以てするを得べしと。由处觀之《これによつてこれをみるに》、最近百餘年間に於て、世界の生産力が少くも平均十數倍の增加を為せるは、何人も之を斷言するに躊躇せじ。
〇而して是等僥多の財富が、世界各地に運輸され交換さるゝや、亦其自在と敏活とを極む。蜘網の如き鐵道航路は、以て坤輿《こんよ》を縮小すること幾千里、神經系統の如き電線は、以て萬邦を束ねてー體と為す。濠洲に屠れる羊肉は直に英人の食膳に上る可く、米國にて作れる棉花は遍く亜細亜人の體軀を纏ふ。緩急の相依り、有無の相通ずる、有史以來實に今日より盛なるは莫し。
〇嗚呼是れ實に所謂近世文明の特質也、美華也、光蟬也。吾人生れて這個《しゃこ》文明の民たるを得て、是等空前の偉觀壯觀を仰ぐ者、竊かに自ら慶し、且つ誇るに足る有るに似たり。
〇然れども、吾人は近世文明の民たるに於て、眞に自ら慶す可き乎、眞に自ら誇る可き乎。否、是れ疑問也、然り大疑問也。
〇試みに一考せよ、近時機器の助けあるが爲めに、吾人生産の力が十借、百倍、時としては千借せることは、卽ち之れ有り。然らぱ則ち世界多數の勞働者は、殖産的革命の以前に比して、大に其勞働の時と量とを減じ得可きの理也。而も事實は之に反す、彼等は依然として永く十二一時間乃至十四五時間苛酷の勞働に服せざる可らざるは何ぞや。奇なる哉。
〇又一考せよ、近時千百借せる饒多の財富は、運輸交通の機關の助けあるが爲めに、世界の一隅より一隅に至る迄、自在敏活に分配貿易せらるゝことは、亦眞に之れ有り。然らば則ち世界多數の人類は、衣食大に餘り有りて、洋々太平を謳歌し得可きの理也。而も事實は之に反す、彼のロ糟糠だにも飽かずして、父母は飢凍し、兄弟妻子離散する者、日に益々多きを加ふるは何ぞや、奇なる哉。
〇人力の必要は省減せり、而も勞働の必要は減少せざる也。財富の生産は堪加せり、而も人類の衣食は増加せざる也。旣に勞働の苛酷に堪へず、更に衣食の匱乏に苦しむ。故を以て學校の設くる多くして、人は敎育を受くるの自由を有せざる也、交通の機關便にして、人は旅行の自由を有せざる也、醫治の術進步して、人は療養の自由を有せざる也、多數政治の制ありて、人は参政の自由を有せざる也、文藝美術發達して人は娛樂の自由を有せざる也。而して所謂近世文明の特質や、美華や、光輝や、如此にして多數人類の幸福、平和、進步に於て、果して幾何の價値有りとする乎。
〇言ふこと勿れ人は麵麴のみにして生きずと。衣食なくして何の自由あることを得る耶、何の進步あることを得る耶、何の道德あることを得る耶、何の學藝あることを得る叫。晋敬仲云へる有リ、倉廩實而知禮節《さうりんみちてしかしてれいせつをしる》と、所詮人生の第一義は卽ち衣食問題也。而も近世文明の民たる多數人類は、實に衣食の匱泛の爲めに遑々たるに非ずや。
〇言ふこと勿れ、勞働は衣食を生ずと。見よ彼の勞働せる人の子を、彼や生れて八九歲の幼時より共老衰病死に至る迄、營々として牛馬の如く驅られ、兀々《ごつ/\》として蟻蜂の如く勞す、節儉にして勤勉なる、凡そ彼等に過ぐるは莫し。而して租稅滯納の爲めに公賣の處分に遭ふ者、年々數萬を以て算せらるゝ也。而して彼の衣食常に餘りある者は、常に勞働するの人に非ずして、却て徒手逸樂遊悟の人に非ずや。
〇然れども其勞働の痛苦や、猶ほ可也、若し夫れ勞働す可き地位職業すら之を求めて寛に得ること能はざるに至ては、人生の慘事實に之より甚しきは莫し。彼や壯健の體軀を有す、彼や明敏の頭腦を有す、彼や有爲の技能を有す、而して其カ能く衣食の生產に任じて餘り有る者にして、唯だ其職業を得ざるが爲めに、終生窮途に泣き溝壑《こうがく》に滾轉《こんてん》する者、 世間果して幾萬人ぞ。
〇好し高利に衣食せよ、株券に衣食せよ、地代に衣笈せよ、租稅に衣食せよ、今の所謂文明社會に處して然る能はざる者は、則ち長時間の勞働也、苦痛也、窮乏也、無職業也、俄死也。觥死に甘んぜずんば、則ち男子は强窃盜たり、女子は醜業婦たらんのみ、墮落あるのみ、罪悪あるのみ。
〇然り今の文明や、一面に於て燦爛たる美華と光輝とを發すると同時に、一面に於て暗黑なる窮乏と罪惡とを有す。燦爛の天に〓[皇+羽]翔《こうしゅう》する者は千萬人中僅に一人のみ、暗黒の域に滾轉する者は世界人類の大多數也。是れ豈に吾人人類の自ら誇るに足る者ならん哉。
〇烏呼世界人類の苦痛や飢凍や、日は一日より急に、月は一月より激也、人類の多數は唯だ其生活の自由と衣食の平等とを求むるが爲めに、一切の平和、幸福、進步を犧牲に供せずんば已まざらんとす。人生なる者は竟に如此き者耶、 如此くならざる可らざる耶、 耶蘇の所謂祖先の罪耶、浮屠《ふと》の所謂娑婆の常耶。咄々豈に是れ眞理《トルース》ならんや、正義《ヂヤスチース》ならんや、人道《匕ユーマニチー》ならんや。
〇嗚呼彼の偉大なる殖產的革命の功果は、竟に人道、正義、眞理に合す可らざる乎。所謂近世文明の世界は、遂に人道、正義、眞理を現す可らざる乎。是れ個の問題や二十世紀の陌頭《はくとう》に立てるスヒンクスの謎語也。之を解決する者は生きん、否らずんば死せん、世界人類の運命は懸けて此一謎語に在り。
〇誰か能く之を解決する者ぞ、宗敎乎、否、敎育乎、否、法律乎、重備乎、否、否、否。
〇夫れ宗敎や以て未來の樂園を想像せしむ、未だ吾人の爲めに現在の苦痛を除き去らざる也。敎育や以て多大の智識を與ふ、未だ吾人の爲めに一日の衣食を産出せざる也。法律や能く人を責罰す、人を樂ましむるの具に非ざる也。応備や能く人を屠殺す、人を活かしむるの器に非ざる也。嗚呼、噫、誰か能く之を解決する者ぞ。
以貨財害子孫。不必操戈入室。
以學術殺後世。有如按劎伏兵。
【編者注】漢文の典拠不明、「貨財を以って子孫を害す。必らずしも戈を操り室に入る要なし。學術を以って後世を殺す、剣を按ずるの伏兵あるがごとし。」と読み下しできるだろう。『金銭の力で孫子まで害をすのに、部屋に入る必要はない、弁論で後世まで抹殺するのは剣をもった伏兵がいるようだ。』くらいの意味だろう。ご教示を待つ。)

読書ざんまいよせい(046)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」


       第三章 オデツサ・私の家庭と學校

 一ハ八八年になって、私の生活に大事件が起り始めた。私は勉强するために、オデツサへ送られたのである。この事件は、かう云ふ風にして起つたのだ。母の甥であるモイセイ・フィリッポヴヰッチ・シュベンツェルと云ふ二十八歲許りの男が、ひと夏を私達の村で過したことがあった。彼は一寸した政治上の罪科のために、高等學校を卒業してゐながら、大學に這入ることを禁せられてゐる、立派な知識人であつた。彼はいさゝか新聞記者的であり、いさゝか政治家的であった。彼は肺結核を征服するために、この田舍へやつて來たのであった。モー二ヤ――彼はさう呼ばれた――はその才能と、立派な品性の故をもつて、彼の母親や澤山の姉妹達の誇りであつたのだ。私達の家庭も、彼に對するこの尊敬を承嗣いだ。凡べての人々が彼の到着を豫想して喜んだ。私もひそかにこの感情の一郡を分擔した。モーニヤが食堂に這入って來た時、私は『育兒室』—I小さな隅つこの室――と呼ばれた室の入口まで來てゐて、それから前へ進んで行くだけの元氣がなかつた。と云ふのは、私の靴に大きな口を開けた穴が二つもあつたからだ。これは決して貧乏のためではなかった――當時私達の家庭は旣に工面がよかった――が、田舍者の無頓着と、過重の勞働と、私達の家庭の生活標準の低いことに原因したのである。
『ヤア、坊や、おいでよ。』とモイセイ・フイリポヴヰツチが云った。
『いらっしやい。』と少年は答へたが、居る場所からは動かなかつた。彼等はお客さんに、何故私が動かないかを、意地惡さうに笑ひながら說明した。彼はいそ/\と、閾の向ふ側から私を抱上げて、心
からの抱擁をしてくれて、私の困惑を救つてくれた。
 晩餐會ではモーニヤが注目の焦點であった。母は腕に縒をかけた料理で彼をもてなし、喰べ物が美味かつたかどうか、そして彼のその中で好きな料理は何んであつたかを訊ねた。夜になって、獸群が小舍の中へ追込まれた後、モー二ヤが私に云った。『こっちへお出で、新しい牛乳を飮まうぢやないか、コップを二つ三つ持ってお出で……だが坊や、コツプを持つ時には、外側から持つもので、指を中へ入れて持つものぢやないんだよ。』
 私はモー二ヤから私の知らなかった色ななことを學んだ。例へばコッブの持ち方だとか、洗ひ方、或言葉の發音の仕方、それから、牛から取りたての牛乳が何故蓄へるのに好いか等を。彼は所有地を散步し、書きものをし、九柱戲《ニネピン》をして遊び、私が大學|豫科《ヂムナジウム》の一年に這入る準備のために、私に數學とロシア語の文法を敎へた。彼は私を狂喜せしめると同時に、不安にした。彼の中に生活に於ける非常に嚴正なる訓練の要素――都市文明の要素を感得された。
 モー二ヤは彼の田舍の親近者達に優しかった。彼は冗談口をきゝ、時には柔かいテナーで低く唄つでゐた。時によると彼は何んだか陰爵らしく見えた。そして食事のテーブルに着いても、默然と坐つて、瞑想に耽ってゐた。彼はよく心配さうな目付きになって、何にか心配なことでもあるのではないかと訊ねられた。彼の答は簡單で廻避的であつた。たゞ私達の村に於ける彼の滯在が、終りに近づいたゞけのことである。だから、私は彼の陰欝な時の原因を漠然と推測し初めた。モー二ヤは村の野蠻な狀態か、それとも何んかの不正のために、惱亂されたのであった。それは彼の伯父や伯母が特に頑固な主人であったからではなかつた。――それは如何なる事情の下に於ても云ひ得ないことである。勞働者や農民に關する一般的關係の性質は、決して他の所有地より劣惡ではなかつた。と云って、非常に良くもなかつたが――そしてこれは、それが壓制的であることを意味してゐた。或時牧場人夫が馬を餘り遲くまで放つて置きすぎたと云ふので、監督が彼を長い笞で打った時、モー二ヤは眞蒼になって舌打ちをしながら『何んて恥知らずだ。』と云つた。だから私もそれが恥知らずなことだと考へた。私は同じやうに感じたとしても、彼がさう云つた表現をしなければ、さうと知らなかったのだ――私は自分の思ひ通りに物事を考へる傾向をもつてゐたのだ。然るに如何なる出來事に於ても、彼は私にそのやうな考へ方をするやうに敎へ込んだ。そしてこれ許りは、一生の間、感謝の意をこめて十分私の中に滲込んでゐる。

中井正一「土曜日」巻頭言(12)

◎野にすみれが自由に咲くときである      ー九三七年三月五日

 一日一日、野も山も、草も本も、その装おいを変えている。
 何人がこれを止めうるか。止めえようもない静かなカが、物の秩序の中にみずからを押し進めている。
 星の移りに驚きの眼を睜り、四季の変りに怖れを抱いた原始人の畏敬は、物の秩序の動かすベ からざる厳しさに端的に向かった心持ちである。
 人間は、生きるという大きな不思議を、この物の秩序の中に読み取ろうとしたのである。物の秩序の上に、生きる秩序を築こうとしたのである。自分の秩序を、あるいは謬り、その謬りをはずみとして、新しい真実の中に、みずからを押しあげ、試み、切り展いてゆく新たな行動としての秩序を創造しているのである。一本の堇が星よりも強いのは、それが野に生えてくる秩序をみずからで創っているからである。
 それが生きていることの誇りであり、尊厳である。
 しかし、人間は今、人間の秩序を放棄している。
 弾丸の弾道の秩序の精密な研究は、人間の智力の究めたところである。しかし、その弾丸の落ちてゆく目的地は、砕け去る相手は、人間と、人間が永く築いた、人間の秩序である。すべての秩序が何物かの奴隸となっている。花に対して、星に対して、弾道の秩序に対してさえも、恥しいのは人間である。
 ロマン・ローランは、ー九一四年、十二月四日、フランスに書き送った。「私はもはやフランスの知識階級を誇りとしない。思想界の指導者たちがいたるところで衆愚に降伏していったあの信ずべからざるほどの弱さは、彼らが背骨を有しないものであることを十分に証明した。……」
 そして、彼らを弱くする、魂に抱く、イドラを粉砕するものは誰か?
 ローランは答える「野に生ゆる自由の菫」であると。
 日本に生くる幾人の人が、今、この春の光の中に生まれ出ずる自由な菫に、恥じずにいられるだろうか。

南総里見八犬伝(003)

南総里見八犬伝巻一第二回

東都 曲亭主人 編次

——————————————————
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一箭《いつせん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)土地|拡漠《ひろく》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〓:UNICODE 表にない漢字、[]内に漢字の部分を示したところもあり

——————————————————-

一箭《いつせん》を飛《とば》して侠者白馬《けうしやはくば》を悞《あやまつ》
兩郡《りやうぐん》を奪《うば》ふて賊臣朱門《ぞくしんしゆもん》に倚《よる》

 安房《あは》は原《もと》、總國《ふさのくに》の南邊《みなみのはて》なり。上代《あがれるよ》には上下《かみしも》の分別《わいだめ》なし。後《のち》にわかちて、上總下總《かつさしもふき》と名《なつ》けらる。土地|擴漠《ひろく》して桑《くは》多し。蠶飼《こかひ》に便《たより》あるをもて、總《ふさ》を貢《みつぎ》としたりしかば、その國をも總《ふさ》といひけり。かくて總《ふさ》の南邊《みなみのはて》に、居民鮮《をるたみすくな》かりしかば、南海道阿波國《なんかいどうあはのくは》なる、民をこゝへ遷《うつ》し給ひて、やがて安房《あば》とぞ呼《よば》せ給ひぬ。日本書紀景行紀《やまとふみけいこうき》に、所云淡《いはゆるあは》の水門《みなと》は是《これ》也。

 安房は僅《はつか》に四郡《しぐん》にして、平郡《へくり》といひ、長狹《ながさ》といひ、安房《あは》といひ、朝夷《あさひな》といふ。むかし仁安治承《にんあんぢせう》の閒《あはひ》、平家世《へいけよ》ざかりなりし比《ころ》より、こゝに三人《みたり》の武士ありけり。東鑑《あづまかヾみ》にその名見えたる、御厨《みくりや》の麻呂五郞信俊《まろごらうのぶとし》、安西三郞景盛《あんさいさぶらうかげもり》、東條七郞秋則《とうでふしちらうあきのり》これなり。治承《ぢせう》三年秋|八月《はつき》、源賴朝卿《みなもとのよりともけう》石橋山《いしはしやま》の軍敗《いくさやぶ》れて、安房へ赴《おもむ》き給ひしとき、件《くだん》の武士|等《ら》、第一番に隨《つき》從《したが》ひて、安西三郞景盛は、鄕導《みちしるペ》をつかまつり、麻呂信俊《まろののぶとし》、東條秋則等は、碗飯《わうばん》を獻《たてまつ》りて、無二《むに》の志《こゝろざし》をあらはせしかば、源氏|一統《いつとう》の後《のち》、彼《かの》人々は、安房四郡《あはしぐん》をわかち給はりて、子孫|十餘世相續《しうよせさうぞく》し、世は北條《ほふでふ》にうつり代《かは》り、又|足利家《あしかゞけ》の時までも、その本領《ほんれくう》を失はず。景盛が十二|世《せ》の孫《まご》、安西三郞大夫景連《あんさいさふらうたいふかげつら》は、安房郡館山《あはのこふりだてやま》の城にあり。信俊が後裔《しそん》たる、麻呂小五郞兵衞信時《まろのこゞらうびゃうゑのぶとき》は、朝夷郡平館《あさひなのこふりひらだて》の城にあり。又|長狹郡《ながさのこふり》、東條が氏族《うから》たる、神餘長狹介光弘《じんよながさのすけみつひろ》は、秋則が後《のち》として、平郡《へぐり》の瀧田《たきた》に在城《ざいぜう》せり。いづれも舊家《きうか》といひながら、神餘は東條が所領《しよれう》を合《あは》して、安房|半國《はんこく》の主《ぬし》なれば、長狹平郡の兩郡《ふたこふり》を管領《くわんれう》して、家臣|從類少《じゆうるいすくな》からず、人馬物具《にんばものゝぐ》いへばさら也、物《こと》ひとつとして不足なければ、安西麻呂を下風《かふう》に立《たゝ》して、推《おし》て國主《こくしゆ》と稱《せう》したり。

 かゝりし程に光弘は、こゝろ驕《おご》りて色を好み、酒に耽《ふけ》りて飽《あく》ことなく、側室媵妾《そばめおんなめ》多かる中《なか》に、玉梓《たまつさ》といふ淫婦《たをやめ》を寵愛《ちやうあい》して、內外《ないぐわい》の賞罰《せうばつ》さへ、渠《かれ》に問《とふ》て沙汰《さた》せしかば、玉梓に賄賂《まいなふ》ものは、罪あるも賞せられ、玉梓に媚《こび》ざれば、功あるも用《もちひ》られず。是《これ》より家則《かそく》いたく亂れて、良臣《りやうしん》は退《しりぞ》き去《さ》り、佞人《ねいじん》は時を得たり。そが中《なか》に、山下柵左衞門定包《やましたさくさゑもんさだかね》といふものありけり。是《これ》が父は靑濱《あをはま》なる、草料場《まぐさくら》の預《あづかり》にて、碌々《ろくろく》として身まかりしが、定包は人となり、相貌《かほかたち》さへ親に肖《に》ず、面色《いろ》白《しろく》して眉秀《まゆひいで》、鼻卬《はなたかく》して唇朱《くちびるあか》く、言語柔和《げんぎよにうわ》の聞《きこ》えありとて、光弘これを召出《めしいだ》して、近習《きんじゆ》にぞしたりける。現女謁內奏《げにによゑつないそう》は、佞人《ねいじん》の資《たすけ》也。册左衡門定包は、陽《うへ》に行狀《ぎやうでふ》を愼《つゝしみ》て、陰《した》に奸智《かんち》を逞《たくましう》し、榮利《ゑのり》を謀《はか》る癖者《くせもの》なれば、初《はじめ》より玉梓に、佞媚《こびへつらは》ずといふことなく、渠《かれ》が好む物としいへば、價《あたひ》を厭《いとは》ず贈る程に、漸々《しだいしだい》に出頭《しゆつとう》して、口才《こうさい》主君を歡《よろこば》せ、酒醼《しゆえん》を催《もよほ》し、淫樂《いんらく》を勸《すゝ》め、剩《あまつさへ》玉梓と密通《みつゝう》して、尾陋《びろう》の擧動《ふるまひ》多かりけれども、光弘は露ばかりもこれを曉《さと》らず、いく程もなく定包を、老臣の上《かみ》にをらせ、藩屏《かちう》の賞罰|大小《だいせう》となく、皆|任用《うちまかせ》たりければ、その權《けん》山下|一人《ひとり》に歸《き》して、主君はあるもなきが如し。かくて志氣《こゝろざし》あるものは、主《しゆう》を諫《いさめ》かねて身退《しりぞ》き、又|勢利《いきほひ》に憑《つく》ものは、をさ/\媚《こび》て定包が、尾髯《をひげ》の塵《ちり》をとりしかば、黨《たう》を樹《たて》て、譏《そしり》を禦《ふせ》ぎ、利害《りがい》を說《とき》て、舊法《きうほう》を更《あらた》め、稅斂《みつぎ》を重《おもく》し、課役《くわやく》を累《かさね》て、民の冤《うらみ》を見かへらず。現《げに》この山下定包は、神餘が家の祿山《ろくさん》なるかな。そが出仕《しゆつし》する每《ごと》に、白馬《しろきうま》に騎《のり》しかば、目を側《そはだて》て是を見るもの、|密々《しのびしのび》に白妙《しろたへ》の、人啖馬《ひとくひうま》と渾名負《あだなおは》して、たま/\途《みち》にあふときは、避《さけ》かくるゝも多かりけり。

 不題《こゝにまた》、瀧田《たきた》の近村《きんそん》、蒼海巷《あをみこ》といふ處《ところ》に、杣木朴平《そまきのぼくへい》と喚《よば》るゝ、莊客《ひやくせう》ありけり。戰國《せんこく》の沿俗《ならひ》とて、擊劍拳法《けんいじゆつやわら》いへばさらなり、膂力剛《ちからつよ》く、こゝろ悍《たけ》く、難《なん》に臨《のぞみ》て死をだもおそれず、伉侠《をとこ》を立《たつ》るものなりければ、神餘《じんよ》の家則《かそく》いたく亂れて、民のわづらひ大《おほ》かたならず、縡《こと》みな山下柵左衞門《やましたさくさゑもん》が所行《わざ》なるを見て竟《つひ》に得堪《えたへ》ず、われに些《すこし》も劣らざる、洲崎《すさき》の無垢三《むくざう》といふ、友だちを、潛《しのび》やかに招きよせ、「和主《わぬし》は何《なに》と思ふらん。白妙《しろたへ》の人啖馬《ひとくひうま》は、權を恣《ほしいまゝ》にして民を虐《しへたげ》、田園《でんはた》に禍《わざはひ》すること、蝗《うんか》のむしより酷《はなはだ》しく、罪なき人を屠《ほふ》ること、疫鬼《えやみのかみ》に異《こと》ならず。這奴《しやつ》なほかくてあらんには、我《われ》も人も何をもて、こゝに妻子《やから》を養ふべき。苛法《からきはつと》に隨ふも、みな是《これ》命を惜《をしめ》ばなり。斯年々《かうとしとし》に毟《むしり》とられて、餓《うへ》も凍《こゞえ》もしたらんには、法も崇《たゝり》もおそるゝ事かは。所詮《しよせん》二人《ふたり》が身を棄《すて》て、人啖馬《ひとくひうま》を擊殺《うちころ》し、夥《あまた》の人の苦を拔《ぬか》ば、いと愉《こゝろよ》き事ならずや」、と譚《かたらは》れて無垢三は、一議《いちぎ》に及ばずうち點頭《うなつき》、「あな勇《いさま》しくもいはれたり。われも又この事を、思はざるにあらねども、這奴《しやつ》は威勢國主《いきはひこくしゆ》にまして、出《いづ》るときも入るときも、數《す》十人の從者《ともびと》あり。もしかろ/\しく手を下《くだ》さば、毛を吹庇《ふききず》を求《もとめ》やせん。笑《えみ》の中《うち》に刃《やいば》を隱《かく》す、人の心の憑《たのも》しからねば、けふまでは默止《もだし》たり。しかるに和主《わぬし》ゆくりなく、心中《しんちう》の機密《きみつ》を吿《つげ》て、われと志《こゝろざし》をおなじうす。夥《あまた》の翼《たすけ》を獲《え》たるに勝れり。さればとて、卒餘《あからさま》に縡《こと》をはからば、化《あだ》に命を失《うしなは》れん。もしくは這奴《しやつ》が遊山《ゆさん》の折、從者《ともひと》も衆《おは》からぬ、微行《しのびあるき》の日を俟《また》ば、ほゐを遂《とげ》ずといふことあらじ、と思ふはいかに」、と密語《さゝやけ》ば、朴平|斜《なのめ》ならず歡《よろこ》びて、「しからばとせよ」、「斯《かう》せん」とて、迭《かたみ》に耳をとりかはし、密談《みつだん》數度《すど》に及びけり。

 現楊震《げにようしん》が四知《しち》の誡《いまし》め、壁《かべ》にも耳のある世なれば、はやくもこの事をしれるもの、柵左衞門《さくさゑもん》にぞ報知《つげ》たりける。定包《さだかね》はこの訴《うつたへ》に、騷《さわ》ぎたる氣色《けしき》もなく、俄頃《にはか》に夥兵《くみこ》を召聚《よびつど》へて、彼《かの》朴平無垢三|等《ら》を、搦捕《からめとら》せんとしたれども、忽地《たちまち》思ひつくことありて、別《べち》に謀《はかりこと》を獲《え》たりしかば、件《くだん》の事ははじめより、そらしらぬおもゝちして、只從者《たゞともひと》の數を倍《ま》し、晨《つと》に出《いで》ず夜行《よあるき》せず、をさ/\仇《あた》を禦《ふせ》ぐ程に、主《しゆう》の長狹介《ながさのすけ》光弘は、長夜《ちやうや》の淫樂《いんらく》に、その身を忘れて、日々月々《ひゞつきづき》に病《やまひ》を生じ、美酒珍饍《びしゆちんぜん》も甘《あま》からず、鄭聲艷曲《ていせいえんきよく》も樂《たのし》からねば、不死《ふし》の藥を蓬莱《ほうらい》に求め、不老の術を方士《はうし》に問《とひ》けん、秦皇漢武《しんくわうかんぶ》の物思ひに異ならず、玉梓《たまつさ》が膝《ひぎ》を枕《まくら》にして、帳中《とばりのうち》を出《いで》ざれば、「折こそよけれ」、と定包は、有一日《あるひ》主君にまうすやう、「時はや夏の初《はじめ》にて、野山の新樹《わかば》もいと愛《めでた》く、落羽畷《をちばなはて》の野雝《きゞす》、靑麥村《あをむぎむら》の雲雀《ひばり》、處得《ところえ》がほに集《すだく》なる。閑居《たれこめ》てのみ座《をはしま》さば、病《やまひ》をまさせ給ひなん。狗《いぬ》を走らせ、鷹《たか》を放《はなつ》も、養生《ようぜう》のひとつにこそ。某《それがし》おん倶仕《ともつかまつ》らん。おもひ立《たゝ》せ給はずや」、とそゝのかす傍《かたへ》より、玉梓これを興《けう》じつゝ、もろ共に勸《すゝめ》しかば、光弘やをら身を起し、「われとにかくに懶《ものくさ》くて、久しく城外《ぜうぐわい》へ出《いで》ざりき。今|伱達《なんたち》が諫言《かんげん》は、口|苦《にが》からぬ良藥《りやうやく》とおぼゆれば、翌《あす》は早旦《つとめ》て狩倉《かりくら》すべきに、まづこの旨《むね》を令《ふれ》しらして、准備《ようゐ》させよ」、と仰《おふす》れば、定包扇《さだかねあふざ》を笏《しやく》にとり、「御託《ごぢやう》では候へども、近年《きんねん》公務いと繁《しげ》くて、民《たみ》その課役《くわやく》に勞《つか》れたり。加旃畑《しかのみならずはた》を打《うち》、種《たね》おろしする比《ころ》なれば、潛《しの》びて出《いで》させ給へかし。某《それがし》おん供つかまつれば、よろしく討《はから》ひ候ひなん。土民等《どみんら》畊作《こうさく》に煩《わづら》ひなく、程經《ほどへ》てこれをしるならば、誰《たれ》か仁君《じんくん》といはざるべき。これも亦《また》民を使ふ、一術《いちじゆつ》に候はずや」、と言葉|巧《たくみ》にまうすにぞ、光弘感嘆|大《おほ》かたならず、「いはるゝ所道理に稱《かな》へり。寔《まこと》に家の老《おい》たるものは、誰《たれ》もかくこそあるべけれ。さらばこの議に任《まか》せん」とて、列卒《せこ》從者《ともびと》の數を省《はぶ》きて、那古七郞《なこのしちらう》、天津兵內《あまつのひやうない》なンどいふ、近習《きんじゆ》八九|人《ン》のみに、從行《ともだて》の准備《ようゐ》させ、詰旦《あけのあさ》光弘は、葦毛《あしけ》の馬にうち騎《のり》て、狗《いぬ》を牽《ひか》し、鷹《たか》を駕《すえ》させ、潛《しのび》やかにぞ出《いで》たりける。

 卻說《かくて》山下柵左衞門《やましたさくさゑもん》定包は、豫《かね》て謀《はか》りし事なれば、前日《さきのひ》城より退《まか》るとやがて、落羽靑麥《をちはあをむぎ》の村長等《むらおさら》を、猛《にはか》に召《よび》よせ、「われ邂逅《たまさか》に休暇《いとま》を得たれば、翌《あす》は|如此々々《しかじか》の處《ところ》に出《いで》て、放鷹《ほうよう》せんと思ふ也。僉《みな》この旨《むね》をこゝろ得よ」、といと嚴《おごそか》にいはせにければ、村長等は走りかへりで莊客們《ひやくしやうばら》を驅催《かりもよほ》し、途《みち》の掃除《そうぢ》に箒目《はゝきめ》のゆきとゞくまで罵騷《のゝしりさわ》げば、杣木朴平無垢三《そまきのぼくへいむくざう》等《ら》は、漸《やうやく》こゝに便宜《びんぎ》を得て、「翌《あす》は必本意《かならずほゐ》を遂《とぐ》べき時|來《きた》れり」、と竊《ひそか》に歡《よろこ》び、兩人《りやうにん》列卒《せこ》に打紛《いでたち》つゝ、弓箭手挾《ゆみやたばさみ》走り出《いで》、その夜丑三《ようしみつ》の比及《ころほひ》より、落羽畷《おちばなはて》の東北《うしとら》なる、夏草ふかき岡に躱《かく》れて、古《ふり》たる松を盾《たて》にとり、「定包遲し」、と俟《まち》てをり。

 短夜《みじかよ》なれば墓《はか》なくて、鷄鳴曉《けいめいあかつき》を吿《つぐ》る比《ころ》、長狹介光弘《ながさのすけみつひろ》は、鹿皮《しかのかわ》の行縢《むかばき》に、綾藺《あやい》笠《かさ》ふかくして、列卒《せこ》をば馬の前《さき》に立《たゝ》せ、那古天津の近臣等、八九|人《ン》を左右にして、瀧田の城を出《いで》しかば、山下柵左衞門定包は、豫《かね》て非常に備《そなへ》んとて、夥兵私卒許多將《くみこわかたうあまたい》て、彼白馬《かのしろうま》にうち騎《のり》つゝ、些後《すこしおく》れてうたせたり。固《もと》より謀《はか》ることなれば、馬奴等《うまかひら》さへ荷擔《かたらは》れて、朝立《あさたち》の秣《かひくさ》に、毒を加《くはえ》て餌《かふ》たりけん、光弘の乘れる馬、ゆくこと十|町《ちやう》あまりにして、暴《にはか》に病《やみ》て拍《うて》ども進まず、前足|折《をつ》て撲地《はた》と臥《ふ》せば、ぬしも俯《うつぶし》に輾《まろ》びかゝるを、那古七郞、天津兵內、慌忙《あはてふため》き扶起《たすけおこ》して、「おん騎替《のりかえ》をとく牽《ひけ》」、と聲《こゑ》高やかに喚立《よびたつ》れば、從者更《ともびとさら》に劇惑《あはてまどひ》て、後《ご》陣《ぢん》へ|如此々々《しかしか》と吿《つげ》しかば、柵左衞門|定包《さだかね》は、鞭《むち》を揚《あげ》て走らし來つ、馬より閃《ひら》りとをりたちて、光弘にまうすやう、「潛《しの》びて獵《かり》に出《いで》させ給へば、それまでは准備《ようゐ》せざりし。騎替《のりかえ》を待《まち》給はゞ、徒《いたづら》に時や移らん。某《それがし》が馬こゝに在《あ》り。年來《としごろ》日ごろ畜狎《かひなら》せしに、鞍味《くらあぢ》もいと愛《めで》たし。乘《のら》せ給へ」、とそがまゝに、轡《くつわつら》を牽《ひき》よすれば、光弘|忽地氣色《たちまちけしき》なほりて、立《たて》させたる床几《せうぎ》をはなち、「然《さ》らばその意に任《まか》せんず。汝《なんぢ》はこゝに休《やすら》ひて、豫が騎替《のりかえ》に乘《のり》て來《こ》よ。ものども急げ」、といひあへず、鞍《くら》に手を掛跨《かけの》る馬の、尾筒《をつゝ》も戰《そよ》ぐ旦開《あさびらき》、風見《かざみ》が原《はら》の卯花《うのはな》も、東も白くなる隨《まゝ》に、樹立隙《こたちひま》なき病葉《わくらは》の、落羽畷《おちはなはて》に近つきぬ。

 この日の倶《とも》にたちたりし、那古天津《なこあまつ》の兩臣《りやうしん》のみ、山下が蔭《かげ》を仰《あほ》がず、主《しゆう》に仕《つかへ》て大《おほ》かたならぬ、誠心《まごゝろ》あるものなれば、このとき思ふよしやありけん、先に立《たち》たる列卒《せこ》に誨《をしえ》て、「靑麥村のかたへ」とて、猛《にはか》に途《みち》をかえんとすれば、光弘これを訝《いぶか》りて、「汝等《なんぢら》は何處《いづこ》へ行《や》るぞ。けふの狩場《かりば》は落羽《おちば》が岡《おか》也。この比《ごろ》はいぎたなくて、寐惚《ねぼれ》たる歟《か》」、と敦圉《いきまけ》ば、七郞兵內《しちらうひやうない》左右より、密《しのび》やかにまうすやう、「君は曉《さと》らせ給はずや。乘馬《じやうめ》の暴《にはか》に斃《たふ》れたる、吉祥《よきさが》也とは覺《おぼえ》ぬに、落羽《おちば》に落馬《らくば》の音訓《よみこゑ》かよへば、名詮自性甚忌《めうせんじせうはなはだいまは》し。加以《これのみならず》、室町殿《むろまちどの》の武威撓《ぶゐたゆみ》て、兵亂休《ひやうらんやむ》ときなきものから、安房《あは》は東南の盡處《はて》なれば、幸《さいはひ》にして無事《ぶじ》なれども、國に野心のものなしとは、必《かならず》しもいひがたし。然《さ》るを潛《しの》びて出《いで》させ給ふ、是《これ》すらいとも危《あやう》きに、忌諱《きき》をも避《さけ》ず、不祥《ふせう》にも憚《はゞかり》給はず、遠き慮《おもんはかり》ましまさずは、近き憂《うれひ》をいかにせん。猛《にはか》に途《みち》をかえんとせしは、この故《ゆゑ》に候」、と兩人|齊一諫《ひとしくいさむ》れば、光弘|聞《きゝ》て冷笑《あざわら》ひ、「女《めゝ》々しき事をいふものかな。活《いけ》る物は必《かならず》死す。斃《たふれ》し馬に何かあらん。されば又、けふの狩場《かりば》を、落馬《らくば》と喚《よ》ばゝ諱《いむ》よしあらめ、落羽《おちば》は落《おつ》る鳥なれば、獲《えもの》多かる祥《さが》ならずや。彼方《かなた》へ行《や》れ」、と鐙《あぶみ》を鳴らし、馬の足掻《あがき》を早むれば、那古天津|等《ら》はせんすべも、なつ草|繁《しげ》き畷道《なはてみち》、初《はじめ》のごとく先《さき》を追《おは》して、落葉畷の邊《ほとり》なる、落葉が岡に來にければ、宵よりこゝに躱《かく》れたる、杣木朴平《そまきのぼくへい》、洲崎無垢三《すさきのむくざう》、木立《こたち》の隙《ひま》より佶《きつ》と見て、「白馬《しろきうま》に騎《のり》たるは、紛《まが》ふべうもあらざりける、山下柵左衞門定包也。さは」とて伏《ふせ》たる弓に箭㓨《やつがひ》て、きり/\と彎絞《ひきしぼ》り、矢比《やごろ》近くなる隨《まゝ》に、一二を定めて〓[弓+票]《ひやう》と發《はな》せば、〓[穴/鬼]違《ねらひたが》はず一の矢に、光弘は胸を射られて、叫《さけ》びもあへず仰《のけ》さまに、馬より摚《だう》と落《おち》しかば、「これは」、と駭《おどろ》く天津兵內、二の矢に吭《のんど》をぐさと射られて、おなじまくらに仆《たふ》れけり。「すは癖者《くせもの》よ」、といふ程に、從者等《ずさら》は劇騷《あはてさわ》ぐのみ、敵の多少を測《はかり》かねて、擊《うち》とらんともせざりしかば、那古《なこの》七郞眼《まなこ》を瞪《いか》らし、「いふがひなき人々かな。今|眼前《まのあたり》に主《しゆう》を擊《うた》して、何か躊躇《たゆたふ》ことあらん。よしや木立《こだち》は深くとも、數町《すちやう》に足らぬこの岡の、樹《き》を伐《きり》草を芟竭《かりつく》しても、搜出《さがしいだ》さで已《やむ》べき欤《か》」、と罵《のゝしり》あへず刀を拔《ぬき》て、主《しゆう》に離れし馬の障泥《あふり》を、切《きり》ときて盾《たて》としつ、引被《ひきかつ》ぎて走登《はせのぽ》れば、衆皆《みなみな》これに激《はげま》され、讐《あた》を定《さだ》かに認めねども、「われ擊《うち》とらん」と進みけり。朴平無垢三これを見て、近づけてはかなはじとて、樹立《こだち》の蔭《かげ》より顯《あらは》れ出《いで》、さん/\に射たりしかば、先に進みし列卒《せこ》十餘人、瞬閒《またゝくひま》に射殺《いころ》さる。しかれども彼兩人《かのりやうにん》は、矢種《やたね》もこゝに竭《つき》しかば、弓を戞哩《からり》と投棄《なげすて》て、 大刀眞額《たちまつかふ》に拔翳《ぬきかざ》し、岌《かさ》に懸《かゝつ》て砍立《きりたつ》れば、この勢ひに辟易《へきゑき》して、奴隸《しもべ》は大かた迯失《にげうせ》たり。殘るは近臣七八人、力を勠《あは》して戰へども、不知案內《ふちあんない》の山阪《やまさか》なり、株《くひぜ》に跌《つまつ》き、藤蔓《ふぢかつら》に、足をとられて、輾轉《ふしまろび》、或《あるひ》は擊《うた》れ、或《あるひ》は又、痍《て》を負《おは》ざるはなかりけり。

 そが中《なか》に、那古七郞は、且《しばら》く賊《ぞく》を疲勞《つから》して、坦地《ひらち》へ誑引出《おびきいだ》さんとて、且《かつ》戰ひ、且《かつ》走れば、無垢三は先に進み、朴平は後《あと》に續《つゞき》て、脫《のが》さじ、と追蒐來《おつかけき》つ、思はず坂を下《くだ》りしかば、七郞|佶《きっ》と見かへりて、忽地磤《たちまちはた》と打掛《うちかく》る、礫《つぶて》に無垢三|額《ひたゐ》を傷《やぶ》られ、目眩《めくるめ》きてや倰搖《よろめく》ところを、那古は雌手《めて》より走《はせ》よせて、無垢三が腢《かたさき》より、乳《ち》の上かけて丁《ちやう》と砍《き》る。斬《き》られて仆《たふ》るゝ背《そびら》の上に、のぼしかゝつて頸掻落《くびかきおと》し、立《たち》あがらんとする程に、朴平は血刀引提《ちかたなひさげ》て、飛鳥《ひちやう》の如く走り來つ、七郞が右の肘《かひな》を、ばらりずんと斬落《きりおと》し、怯《ひる》む處を突倒《ところつきたふ》して、再三《ふたゝびみ》たび刺《さ》す刃《やいば》に、流れ下垂《したゝ》る血を畷《すふ》て、しばし咽喉《のんど》を潤《うるほ》す折《をり》、前面《むかひ》の樹蔭《こかげ》に弦音《つるおと》して、誰《たれ》とはしらず發矢《はなつや》に、朴平は股《もゝ》を射さして、倒れんとして、膝《ひざ》を突留《つきとめ》、矢柄《やがら》を 爴《つかん》で拔捐《ぬきすつ》れば、耳を貫く鬨《とき》の聲、谺《こだま》に咄《どつ》と響《ひゞか》して、捕手《とりて》の兵數《つはものす》十人《じうにん》、はや|犇々《ひしひし》と取卷《とりまい》たり。

 當下《そのとぎ》山下柵左衞門は、箭《や》を負《おひ》、弓を挾《わきはさ》みて、岡の檜《ひのき》に馬を馳《はせ》よせ、「國の爲には數代《すだい》の主《しゆう》、民の爲には父母《ふぼ》なる殿を、戕《そこな》ひ奉りし逆賊等《ぎやくぞくら》、山下定包を認《みし》らずや。目今一箭《たゞいまひとや》に射て殺さんは、鑯《くろかね》の鎚《つち》をもて、鷄卵《かひこ》を碎くより易《やす》けれども、灸所《きうしよ》を除《よけ》しは生《いき》ながら、挧《からめ》捕《とら》せんと思へばなり。彼縛《あれいまし》めよ」、と令《げち》すれば、威風《いふう》に靡《なび》く夥兵《くみこ》の大勢《たいせい》、手捕《てとり》にせんと鬩《ひしめい》たり。朴平は「定包《さだかね》」と、名吿《なの》るを聞《きゝ》て仰天《げうてん》し、「原來《さては》わが箭《や》に射て落《おと》せしは、人啖馬《ひとくひうま》にあらざりけり。謀《はか》りしことは飛鳥《とぶとり》の、鶍《いすか》の觜《はし》と齟齬《くひちがひ》て、國主《こくしゆ》を害し奉れば、反逆《はんぎやく》の罪|脫《のが》るゝ途《みち》なし。怨《うらみ》は積《つも》る山下定包、擇擊《えらみうち》にすべけれ」とて、甲高《こたかき》ところに引退《ひきしりぞ》き、草に伏《ふし》、木を潛《くゞ》り、是首《ここ》に顯《あらは》れ、彼首《かしこ》に隱れて、且《しぱら》く防ぎ戰ふものから、矢傷《やきず》に進退はじめに似ず、砄《き》れども衝《つけ》ども大勢《たいせい》也。捕手《とりて》はます/\累《かさな》りて、とかくすれども定包に人近づくことを得ざりしかば、是《これ》まで也とや思ひけん、腹を切らんとする處を、先に進みし兩三人、左右より組留《くみとめ》て、やうやく索《なは》をかけしかば、定包は時を移さず、更に夥兵《くみこ》を部《てわけ》して、癖者《くせもの》の支黨《どうるい》を、隈《くま》なく撈索《さぐりもとめ》にけれど、故《もと》より件《くだん》の二人《ふたり》が外《ほか》に、隱《かく》れ潛《しのぺ》るものなかりけり。

 浩處《かゝるところ》に城中《ぜうちう》より、老黨若黨數《ろうだうわかたうす》十人、轎子《のりもの》を扛《かゝ》しつゝ、主《しゆう》の迎《むかひ》にまゐりしかば、定包|緣由《ことのよし》を吿《つげ》て、まづ光弘の亡骸《なきから》を、轎子《のりもの》へ掻入《かきいれ》させ、高手肱手《たかてこて》を綁《いましめ》たる、朴平を牽立《ひきたて》させ、無垢三が首級《しゆきう》をもたし、主《しゆう》の死骸《しがい》の後《しり》に跟《つき》て、瀧田の城にかへりしかば、衆皆呆果《みなみなあきれはて》たるのみ、家《いへ》の老《おい》なンどいふものすら、只《たゞ》定包が權威《げんゐ》におそれて、絕《たえ》て一句も渠《かれ》を詰《なじ》らず、當座《たうざ》に賊《ぞく》を搦《からめ》しことのみ、只管《ひたすら》稱贊したりしかば、是《これ》よりして定包は、ます/\傲慢《おごりたかぶ》りて、諸司《しよし》ともいはず、近習《きんじゆ》ともいはず、奴僕《ぬぼく》のごとく召使《めしつか》ひ、次《つぐ》の日光弘の棺《ひつぎ》を出《いだ》して、香華院《かふげいん》へ送る程に、罪人杣木朴平《つみんどそまきのぼくへい》は、手痍《てきず》だに堪《たへ》がたきに、閒《ま》なく笞《しもと》に打責《うちせめ》られて、その日|獄屋《ひとや》に死《しに》にければ、定包|令《げぢ》して首《かうべ》を刎《はね》させ、無垢三が首級《しゆきう》もろとも、靑竹《あをたけ》の串《くし》にさゝして、楝《あふち》の梢《こすゑ》に梟《かけ》たりき。加以《これのみならず》、日來己《ひごろおのれ》を譏《そし》るものをば、皆朴平が支黨《どうるい》也とて、一人《ひとり》も洩《もら》さず搦捕《からめと》り、このときに殺してけり。さても朴平無垢三は、海岸《かいがん》の民なれども、武藝《ぶげい》力量人に雋《すぐ》れ、神餘《じんよ》が家臣|等《ら》も要《えう》せざる、賊臣《ぞくしん》定包を擊《うた》んとせし、志《こゝろざし》は剛《ごう》なれども、彼が梟雄《けうゆう》の智に勝《かつ》ことかなはず、不覺《そゞろ》に仇《あた》の惡《あく》を佐《たす》けて、夥《あまた》の人を連累《まぎぞひ》せり。無慙《むざん》といふも疎《おろか》なるべし。

 卻說山下定包《かくてやましたさだかね》は、縡《こと》十二分《じうにぶん》に謀得《はかりえ》たれば、有一日《あるひ》老臣近臣等を、城中《ぜうちう》へ召聚《よびつどふ》るに、僉《みな》遣《のこ》りなく參りにけり。その縡《こと》の爲體《ていたらく》、定包は長袴《ながはかま》に、烏帽子《えぼうし》の掛緖長《かけをながく》して、大刀《たち》を跨《よこたへ》つゝ上座《かみくら》に推處《おしなほ》り、又|禮服《れいふく》の下に身甲《はらまき》したる、力士《りぎし》十二人を傑立《すぐりたて》て、おのが左右に侍《はぺ》らせ、さて衆人《もろひと》に對《むかひ》ていふやう、「先君不慮《せんくんふりよ》に世を去《さり》給ひて、おん子《こ》ひとりも在《ましま》さず。鄰郡他家《りんぐんたけ》より擇《えらみ》とりて、世子《よつぎ》を立《たて》んと思へども、館山《たてやま》の安西氏《あんさいうぢ》、又|平館《ひらたて》なる麻呂氏《まろうぢ》も、女子《によし》のみにして男子《なんし》なし。こはいかにしてよからん」、と問《とひ》つゝ席を見わたしたる、面《おもて》を向上《みあぐ》るものもなく、僉《みな》もろともにまうすやう、「山下|大人《うし》は德高く、先君に功あること、鐮倉の執權《しつけん》たりし、北條氏《ほうでふうぢ》にも倍《まし》給へり。なき世子《よつぎ》を求《もとめ》んより、みづから兩郡《ふたこふり》を知召《しろしめさ》れよ。わが君と仰ぎ奉り、忠勤《ちうきん》を勵《はげま》んに、なでふことの候べき」、と飽《あく》まで媚《こび》て回答《いらへ》しかば、定包|莞尒《につこ》とうち笑《え》みて、「われにその德なけれども、今もし衆議《しゆぎ》に從はずは、人の望《のぞみ》を失ひて、この城ながく保ちがたけん。われ且攝《まづかり》に二郡《にぐん》を領《れう》して、德ある人に讓るべし。野心を存ずることなけれ」とて、誓書《ちかひぶみ》に血を沃《そヽ》がせ、更に酒宴《しゆえん》を催《もよほ》して、祿《かつけもの》をとらせしかば、みな萬歲《ばんぜい》と祝《しゆく》しけり。

 かゝりし後《のち》、定包《さだかね》は、瀧田《たきた》の城を更《あらた》めて、玉下《たました》とこれを名《なつ》け、玉梓《たまづさ》をおのが嫡妻《ほんさい》にして、後堂《こうだう》に册《かしづか》せ、その餘《よ》、光弘の嬖妾《おんなめ》にかはる/\枕席《しんせき》をすゝめさせ、富貴歡樂《ふうきくわんらく》を極《きわ》めしかば、威《ゐ》を鄰郡《りんぐん》に示《しめさ》んとて、館山平館《たてやまひらたで》へ使者を遺《つかは》し、「定包|不肖《ふせう》にして、思ひかけなく、衆人《もろびと》に推尊《おしたつとま》れて、長狹平郡《ながさへくり》の主《めし》となりぬ。かゝれば更に兩君《りやうくん》に、好《よしみ》を結《むすば》んと思ふのみ。此方《こなた》よりや推參《すいさん》すべき。其方《そなた》よりや來臨《らいりん》し給ふ。左右《とかく》は賢慮《け人りよ》によるべし」、といと無禮《なめげ》にいはせしかば、麻呂安西は呆果《あきれはて》て、 媢《ねたし》と思へど一朝《いつちやう》の議にあらず、「是《これ》より返答すべけれ」とて、その使者をかへしてけり。

 さればこの館山の城主《ぜうしゆ》たる、安西三郞太夫景連《あんさいさぶらうたいふかげつら》は、力|剛《つよ》く心|悍《たけ》くて、しかも謀《はかりごと》を好めども機に臨《のぞみ》て決斷なし。又平館の城主たる、麻呂小五郞信時《まろのこゞらうのぶとき》は、利に進み人を侮《あなど》る、貪婪匹夫《どんらんひつふ》の勇將《ゆうせう》なれば、安西に諜《てふ》じ合《あは》して、定包を討《うた》んとて、有一日《あるひ》近臣のみを將て、潛《ひそか》に館山の城に赴き、景連に對面して、定包が縡《こと》の趣《おもむき》、思ふよしさへ密談し、「和殿某《わどのそれがし》力を勠《あは》して、安房朝夷《あはあさひな》の軍兵《ぐんびやう》を引率《いんそつ》し、瀧田の城を改《せめ》んには、勝利疑ひなきもの也。定包|脆《もろ》く首《かうべ》を授《さづけ》て、彼兩郡《かのふたこふり》をわかちとらば、愉《こゝろよ》き事ならずや」、と忽卒《あからさま》に勸說《そゝのか》せば、景連|頭《かうべ》を左右にうち掉《ふり》、「畿內坂東大《きないばんどうおほ》かたならず、兵亂《ひやうらん》に苦《くるし》めども、安房は年來無事《としころぶじ》にして、士卒軍馬《しそつぐんば》のうへに熟《な》れず。彼《かの》山下は大身《たいしん》なり。主《しゆう》の所領《しよれう》を手も濡《ぬら》さで、わが物にしたるを思へば、その才《さえ》その智測《ちはかり》がたし。衆人《もろびと》彼を椎尊《おしたつと》み、主《しゆう》とし仕《つかへ》て貳《ふたこゝろ》なきは、その德その義|推《おし》て知るべし。天の時《とき》は地の理にしかず、地の理は人の和《くわ》にしかず。定包|既《すで》に時を得て、地を得て、人の和《くわ》を得たり。自他《じた》の分限《ぶんげん》を量《はか》らずして、牛角《ごかく》の合戰《かつせん》心もとなし。且《しばら》く渠《かれ》に歸降《きごう》して、當郡《たうぐん》へ誑引《おびき》よせ、伏兵《ふせゞい》をもて急《きう》に擊《うた》ば、擒《とりこ》にすることもあらん欤《か》。しかれども、漢楚《かんそ》鴻門《こうもん》の一會《いつくわい》に、彼范增《かのはんぞう》が策成《はかりことな》らずは、勞して功なきのみならで、草を打《うつ》て蛇《へび》に驚《おどろ》く、後悔《こうくわい》其處《そこ》に立《たち》がたし。且《しはら》く時を俟《まち》給へ。一トたび瀧田に變を生《せう》じて、衆人《もろひと》離れ負《そむ》くに至らば、攻《せめ》ずとも必潰《かならずついえ》ん。はやることかは」、と禁《とゞむ》れば、信時|迂遠《まはりとほし》として、|議論區々《ぎろんまちまち》なる折《をり》から、安西が近臣|遽《いそがは》しく、廊《ほそどの》より遶《めぐ》り來《き》て、やをら障子《せうじ》を推開《おしひら》き、且《しばら》く氣色《けしき》を窺《うかゞ》ふ程に、主《しゆう》の景連、佶《きつ》と見て、「何《なに》ぞ」と問《とへ》ば、小膝《こひざ》をすゝめ、「里見《さとみ》又太郞義實《またたらうよしさね》と名吿《なの》れる武士、年《とし》十八九とおぼしきが、從者僅《ともびとはつか》に二人《ふたり》を將《い》て、推參《すいさん》して候かし。よりてその、來由《らいゆ》を尋《たづね》候へば、下總結城《しもふさゆふき》の落人《おちうど》也。父|季基《すゑもと》は討死《うちしに》し、その身は杉倉堀內《すぎくらほりうち》といふ、兩個《ふたり》の老黨《ろうだう》とゝもに、相模路《さがみぢ》へ沒落《もつらく》し、三浦《みうら》より渡海《とかい》して、當國白濱《たうこくしらはま》へ來着《らいぢやく》せり。この餘の趣意《しゆゐ》は人傳《ひとつて》に、申入《まうしい》るべきことにあらず、只見參《たゞげんさん》こそ願《ねがは》しけれ、と他事《たじ》もなくまうすなる。いかゞつかまつるべうもや」、と辭《ことば》せわしく吿《つげ》しかば、景連|頓《とみ》に回答《いらへ》かねて、「そはこゝろ得ず」、とばかりに、頭《かうべ》を傾《かたむ》け、眉《まゆ》を顰《ひそ》め、沈吟《うちあん》じてぞゐたりける。

南総里見八犬伝巻之一終

底本:ちえまの館(現在はアクセスできない)
初校正:2005年3月25日
今回の校正:2025年3月19日

南総里見八犬伝(002)

 今回から、今を去る20年前に、「ちまえの館」さんが、アップされたものを、基本的に底本とし、コードを UNICODE に変換、できるだけ、漢字を表現できるようにし、漢字を旧字体に統一しました。UNICODE 表になく、どうしても字形が見つからない場合は、「〓」で表示しています。あらためて「ちまえの館」さんのご尽力に敬意を表します。

南總里見八犬傳卷之一第一回

東都;曲亭主人;編次

——————————————————

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ

(例》季基《すゑもと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号

(例)持氏|父子《ふし》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〓:UNICODE 表にない漢字、[]内に漢字の部分を示したところもあり

——————————————————-

季基《すゑもと》訓《をしえ》を遺《のこ》して節《せつ》に死《し》す
白龍《はくりう》雲《くも》を挾《さしばさ》みて南《みなみ》に歸《おもむ》く

 京都《きやうと》の將軍《せうぐん》、鐮倉《かまくら》の副將《ふくせう》、武威《ぶゐ》衰《おとろ》へて偏執《へんしう》し、世は戰國《せんこく》となりし比《ころ》、難《なん》を東海《とうかい》の濱《ほとり》に避《さけ》て、土地《とち》を闢《ひら》き、基業《もとゐ》を興《おこ》し、子孫十世《しそんじゅっせ》に及ぶまで、房總《あわかづさ》の國主《こくしゆ》たる、里見治部《さとみぢぶの》大夫《たいふ》義實朝臣《よしざねあそん》の、事蹟《じせき》をつら/\考《かんがふ》るに、淸和《せいわ》の皇別《みすゑ》、源氏《げんじ》の嫡流《ちやくりう》、鎭守府《ちんじゆふ》將軍《せうぐん》八幡太郞《はちまんたろう》、義家朝臣《よしいへあそん》、十一世《じういつせ》、|里見《さとみ》治部《ぢぶの》少輔《せういう》源季基《みなもとのすゑもと》ぬしの嫡男《ちやくなん》也。時に鐮倉の持氏卿《もちうぢけう》、自立《じりう》の志頻《こゝろざししきり》にして、執權憲實《しつけんのりさね》の諫《いさめ》を用ひず、忽地《たちまち》嫡庶《ちやくしよ》の義《ぎ》をわすれて、室町將軍《むろまちせうぐん》義敎公《よしのりこう》と、確執《くわくしつ》に及びしかば、京軍《きやうぐん》猛《にはか》によせ來《きた》りて、憲實に力を勠《あは》し、且《かつ》戰ひ且進《かつすゝん》で、持氏|父子《ふし》を、鐮倉なる、報國寺《ほうこくじ》に押籠《おしこめ》つゝ、詰腹《つめはら》を切《きら》せけり。是《これ》はこれ、後花園天皇《ごはなぞのてんわう》の永享《ゑいきやう》十一年、二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男|義成《よしなり》は、父とゝもに自害《じがい》して、屍《かばね》を鐮倉に留《とゞ》むといへども、二男《じなん》春王《はるわう》、三男《さんなん》安王《やすわう》とまうせし公達《きんだち》は、辛《から》く敵軍の圍《かこみ》を脫《のが》れて、下總《しもふさ》へ落《おち》給ふを、結城氏朝迎《ゆふきのうぢともむかへ》とりて、主君《しゆくん》と仰《あほ》ぎ奉《たてまつ》り、京都の武命《ぶめい》に從はず、管領《くわんれい》(淸方持朝《きよかたもちとも》)の大軍《たいぐん》をも屑《ものゝかす》とせず。されば義に仗《よつ》て死をだも辭《ぢ》せざる、里見季基《さとみすゑもと》を首《はじめ》として、凡《およそ》持氏|恩顧《おんこ》の武士《ぶし》、招《まねか》ざれどもはせ集《あつま》りて、結城《ゆふき》の城《しろ》を守りしかば、大軍に圍《かこま》れながら、一トたびも不覺《ふかく》を取らず、永享十一年の春の比《ころ》より、嘉吉元年《かきつぐわんねん》の四月まで、籠城三年《ろうぜうみとせ》に及ぶものから、外《ほか》に援《たすけ》の兵《つわもの》なければ、糧《かて》も矢種《やだね》も竭果《つきはて》つ、「今ははや脫《のが》るゝ途《みち》なし。只《たゞ》もろともに死ねや」とて、結城の一族《いちぞく》、里見の主《しゆう》從《じゆう》、城戶推《きどおし》ひらきて血戰《けつせん》し、込入《こみい》る敵をうち靡《なび》けて、衆皆《みなみな》討死《うちしに》する程《ほど》に、その城|竟《つひ》に陷《おちい》りて、兩公達《ふたりのきんだち》は生拘《いけど》られ、美濃《みの》の垂井《たるゐ》にて害《がい》せらる。俗《よ》にいふ結城合戰《ゆふきかつせん》とはこれ也。

 かゝりし程に、季基《すゑもと》の嫡男《ちやくなん》、里見治部大夫義實《さとみぢぶのたいふよしさね》ぬし、このときは又太郞《またたらう》御曹司《おんぞうし》と呼《よば》れつゝ、年なほ廿《はたち》に滿《みた》ざれ共、武勇智略《ぶゆうちりやく》は父祖《ふそ》にもまして、その才文道《さえふみのみち》にも長《たけ》たり。三年《みとせ》以來《このかた》父と共に、籠城《ろうぜう》の艱苦《かんく》を厭《いと》はず、この日も諸軍《しよぐん》に先《さき》たちて、敵十四五|騎斬《ききつ》て落《おと》し、なほよき敵と引組《ひきくん》で、討死《うちしに》せんとて進みしを、父の季基|遙《はるか》に見て、遽《いそがは》しく呼びとゞめ、「やをれ義實、勇士《ゆうし》は元《かうベ》を喪《うしな》ふことを忘れず。けふを限りと思ふこと、理《ことわ》りあるに似たれども、父子《ふし》もろ共《とも》に討死《うちしに》せば、先祖《せんそ》へ不孝これに過《すぎ》ず。京鐮倉を敵とし受《うけ》て、貳《ふた》ごゝろを存《ぞん》ずることなく、勢竭《いきほひつ》き、力窮《ちからきわま》り、落城《らくぜう》のけふに至りて、父は節義《せつぎ》の爲《ため》に死し、子は又《また》親の爲に脫《のが》れて、一命《いちめい》をたもつとも、何《なに》かは羞《はづ》る事《こと》あらん。速《すみやか》に殺脫《きりぬけ》て、時節《じせつ》を俟《まち》て家《いへ》を興《おこ》せ。とく/\落《おち》よ」、といそがせば、義實は聞《きゝ》あへず、鞍坪《くらつぼ》に頭《かうべ》を低《さげ》、「うけ給はり候ひぬ。しかはあれど、親の必死を外《よそ》に見て、|阿容々々《おめ/\》と脫《のが》るゝことは、三才の小兒《せうに》も要《えう》せじ。況弓箭《いはんやゆみや》の家に生れて、某《それがし》こゝに十九|歲《さい》、文武《ぶんぶ》の道にわけ入りて、順逆邪正《じゆんぎやくじやせう》、古人《こじん》の得失《とくしつ》、大槪《おほかた》はこれをしれり。只冥土黃泉《ただめいどくわうせん》のおん供《とも》とこそ思ひ奉れ。死《しす》べき處《ところ》に得死《えしな》ずして、笑ひを招《まね》き、名を汚《けが》し、先祖《せんそ》を辱《はづか》しめ奉らんことは、願《ねがは》しからず候」、と答《こたふ》る辭勇《ことばいさま》しき、㒵《かほ》つく/\とうちまもる、父は頻《しきり》に嘆息《たんそく》し、「義實|微妙《いみじく》申たり。さりながら、圓頂黑衣《ゑんちやうこくえ》に容《さま》を更《かえ》、出家沙門《しゆつけしやもん》になれといはゞ、親の敎《をしえ》に悖《もと》りもせめ、時節を俟《まち》て家を興《おこ》せ、といふを推辭《いなむ》は不孝也。しらずや足利持氏《あしかゞもちうぢ》ぬしは、譜代相傳《ふだいさうでん》の主君にあらず。抑《そもそも》わが祖は一族たる、新田義貞朝臣《につたよしさだあそん》に從ひて、元弘建武《げんこうけんむ》に戰功《せんこう》あり。しかりしより新田の餘類《よるい》、南朝《なんちやう》の忠臣《ちうしん》たれども、明德《めいとく》三年の冬のはじめに、南帝入洛《なんていじゆらく》まし/\て、憑《たの》む樹下《このもと》雨|漏《も》りしより、こゝろならずも鐮倉なる、足利家の招きに隨《したが》ひ給ひし、亡父《ぼうふ》は(里見|大炊介元義《おおゐのすけもとよし》)滿兼主《みつかねぬし》(持氏の父)に出仕《しゆつし》し、われは持氏ぬしにつかへて、今|幼若《ようくん》の爲に死す。志《こゝろざし》は致《いた》したり。これらの理義《りぎ》を辨《わきま》へずは、只《たゞ》死するをのみ武士といはんや。學問《がくもん》も又そのかひなし。かくまでいふを用ひずは、親とな思ひそ、子にあらず」、と辭《ことば》せわしく敦圉《いきまき》給へば、義實|道理《どおり》に責《せめ》られて、思はす馬の鬣《たてかみ》へ、落《おと》す淚《なみだ》は道芝《みちしば》に、結ぶがごとき本《もと》の露《つゆ》、末《すゑ》の雫《しづく》と親と子が、後《おく》れ先《さき》たつ生死《いきしに》の、海よりあらき鯨波《とき》の聲、こなたへ進む敵軍を、季基《すゑもと》佶《きつ》と見かヘりて、「時移りてはかなはじ」、と思ふことさへ豫《かね》てより、こゝろ得《え》させし譜代《ふだい》の老黨《ろうだう》、杉倉木曾介氏元《すぎくらきそのすけうぢもと》、堀內藏人貞行等《ほりうちくらんどさだゆきら》に、注目《めくはせ》をしてければ、兩人齊一《りやうにんひとしく》身を起し、「俺們《われわれ》おん供つかまつらん誘《いざ》給へ」、といひあへず、木曾介は義實《よしさね》の馬の轡《くつわづら》を牽《ひき》めぐらし、藏人はその馬の、尻《しり》を拍《うつ》て逐走《おひはし》らせ、西を投《さし》てぞ落てゆく。むかし彼《かの》楠公《くすのき》が、櫻井《さくらゐ》の驛《うまやぢ》より、その子|正行《まさつら》を返したる、こゝろはおなじ忠魂《ちうこん》義膽《ぎたん》、斯《かう》ありけんと想像《おもひや》り、殘《のこ》り留《とゞま》る兵士等《つわものら》は、愀然《しうぜん》として列居《なみゐ》たり

 季基は落《おち》てゆく、わが子を霎時目送《しばしみおく》りつ、「今はしも心やすし。さらば最期《さいご》をいそがん」とて、鑣《たづな》かい繰《く》り、馬騎《うまのり》かへして、十|騎《き》に足らぬ殘兵《ざんへい》を、鶴翼《くわくよく》に備《そなへ》つゝ、群《むらが》り來《き》つる大軍へ、會釋《ゑしやく》もなく突《つい》て入《い》る。勇將《ゆうせう》の下《しも》に弱卒《じやくそつ》なければ、主《しゆう》も家隸《けらい》も二|騎《き》三騎、敵を擊《うた》ざるものはなく、願ふ所は義實を、後《うしろ》やすく落《おと》さん、と思ふ外《ほか》又|他事《たじ》なければ、目にあまる大軍を、一足《ひとあし》も進《すゝま》せず、躬方《みかた》の死骸《しがい》を踏踰《ふみこえ》て、引組《ひきくん》では刺《さし》ちがへ、おなじ枕《まくら》に臥《ふす》ほどに、大將《たいせう》季基はいふもさらなり、八騎の從卒一人《じゆうそつひとり》も殘らず、僉亂軍《みならんぐん》の中《うち》に擊《うた》れて、鮮血《ちしほ》は野逕《やけい》の草葉《くさば》を染《そめ》、躯《むくろ》は彼此《をちこち》に算《さん》を紊《みだ》して、馬蹄《ばでい》の塵《ちり》に埋《うづむ》といへども、その名は朽《くち》ず、華洛《みやこ》まで、立《たち》のぼりたる丈夫《ますらを》の、最《いと》もはげしき最期《さいご》也。

 さる程に、里見冠者義實《さとみのくわんじやよしさね》は、杉倉堀內に導《みちびか》れて、十|町《ちやう》あまり落延《おちのぴ》つ、「さるにても嚴君《ちゝきみ》は、いかになり果《はて》給ひけん。おぼつかなし」、といくそたび、馬の足掻《あがき》を駐《とゞ》めつゝ、見かへる方《かた》は鬨《とき》の聲、矢叫《やさけぴ》の音囂《こゑかしま》しく、はや落城《らくぜう》とおぼしくて、猛火《みやうくわ》の光|天《てん》を焦《こが》せば、「吐嗟《あなや》」とばかり叫《さけ》びあへず、そがまゝ靮《たづな》ひきしぼりて、騎《のり》かへさんとしたりしかば、兩個《ふたり》の老黨《ろうだう》左右より、轡《くつわ》に携《すがり》て動《うごか》せず、「こは物體《もったい》なし。今更《いまさら》に、ものにや狂ひ給ふらん。大殿《おほとの》の敎訓を、何《なに》とか聞召《きこしめし》たるぞ。今|落《おと》さるゝ城に還《かへり》て、可惜《あたら》おん身を喪《うしなひ》給はゞ、古歌《こか》にも詠《よめ》る夏蟲《なつむし》の、火むしよりなほ果敢《はか》なき所爲《わざ》なり。夫大信《それたいしん》は信ならず、大孝《たいこう》は孝なき如《ごと》し、と古人《こじん》の金言《きんげん》日來《ひごろ》より、口順《くちすさみ》給ふには似げなし。凡《およそ》貴《たか》きも賤《いやし》きも、忠孝《ちうこう》の道は一條《ひとすぢ》なるに、迷ひ給ふはいかにぞや。こなたへ來ませ」、と牽駒《ひくこま》の、こゝろも狂ふ孝《こう》子《し》の哀傷《あいしやう》、頻《しき》りに焦燥《いらだつ》聲もはげしく、「放《はな》せ貞行、禁《とむ》るな氏元。伱達《なんたち》が諫言《かんげん》は、親の御《み》こゝろなるべけれど、今これをしも忍《しの》びなば、われ人の子といはれんや。放せ/\」、と鞭《むち》を揚《あげ》て、打《うて》どあふれど玉匣《たまくしげ》、ふたり等《ひと》しき忠臣《ちうしん》の、拳《こぶし》は金石《きんせき》、些《ちつと》も緩《ゆる》めず、鞭《うた》るゝ隨《まゝ》に牽《ひい》てゆく、馬壇《うまで》、鞍懸《くらかけ》、柳坂《やなぎさか》、けふりは後《あと》に遠離《とほざか》る、火退林《ひのきばやし》のほとりにて、勝誇《かちほこつ》たる鐮倉|勢《ぜい》、二十騎あまり追蒐來《おつかけき》つ、「遖武者態《あつはれむしやぶり》、逸足《にげあし》はやし。緋威《ひおどし》の鎧《よろひ》着て、五枚冑《ごまいかぶと》の鍬形《くわがた》の、閒《あはひ》に輝《かゞや》く白銀《しろかね》もて、中黑《なかぐろ》の紋挫《もんうつ》たるを、大將《たいせう》と見るは僻目欤《ひがめか》。蓬《きたな》し返せ」、と呼《よぴ》かけたり。義實は些《ちつと》も擬議《ぎき》せず、「あながまや雜兵《ざふひやう》ばら。敵をおそれて走るにあらねば、返すに難《かた》きことあらんや」とて、馬をきりゝと立《たて》なほし、大刀《たち》拔翳《ぬきかざし》て進み給ふ。大將を擊《うた》せじとて、杉倉堀內|推竝《おしならん》で、敵《かたき》の矢面《やおもて》に立塞《たちふさが》り、鎗《やり》を捻《ひねつ》て突崩《つきくづ》す。義實は亦老黨《またろうたう》を、擊《うた》せじとて馬を馳《はせ》よせ、前後《ぜんご》を爭ふ主從《しゆうじゆう》三騎、大勢《たいせい》の眞中《まんなか》へ、十文字《じうもんじ》に蒐通《かけとほつ》て、軈《やが》て巴字《はのじ》にとつて返し、鶴翼《くわくよく》に連《つらなつ》て、更に魚鱗《ぎよりん》にうち遶《めぐ》り、西に當り、東に靡《なび》け、北を擊《うつ》ては、南に走《はしら》せ、馬の足を立《たて》させず。三略《さんりやく》の傳《でん》、八陣《はちゞん》の法《はう》、共に知《しつ》たる道なれば、目今《たゞいま》前にあるかとすれば、忽然《こつぜん》として後《しりへ》にあり、奮擊突戰《ふんげきとつせん》祕術《ひじゆつ》を竭《つく》す、千變萬化《せんぺんばんくわ》の大刀風《たちかぜ》に、さしもの大勢亂騷《たいせいみだれさわ》ぎて、むら/\はつと引退《ひきしりぞ》く。敵|退《しりぞ》けば杉倉|等《ら》は、主《しゆう》を諫《いさめ》て徐々《しづしづ》と、落《おつ》るを更《さら》に跟《つけ》て來る、端武者《はむしや》は遠箭《とほや》に射《い》て落《おと》し、追ひつかへしつ林原《しもとはら》、三里《さんり》が程を送られて、終《つひ》には落《おつ》る夕日の迹《あと》に、十六日の月|圓《まどか》なり。

 こゝより追來《おひく》る敵なければ、主從《しゆうじゆう》不思議《ふしぎ》に虎口《こゝう》を脫《のが》れて、その夜《よ》は白屋《くさのや》に宿《やど》りを投《もと》め、旦立《あさだち》の置土產《おきみやげ》に、馬物具《うまものゝぐ》をあるじにとらせて、姿を窶《やつ》し、笠《かさ》をふかくし、東西《とうさい》すべて敵地なれども、聊志《いさゝかこゝろざ》すかたなきにあらねば、相摸路《さがみぢ》へ走りつゝ、第三日《だいみつか》にして三浦《みうら》なる、矢取《やとり》の入江に着《つき》給ふ。固《もと》より裹《つゝ》む糧《かて》もなく、盤纏乏《ろようとも》しき落人《おちうど》と、なりも果《はて》たる主從は、いといたう餓疲《うへつか》れて、松が根に尻をかけ、遙《はるか》に後《おく》れし堀內藏人貞行《ほりうちくらんどさだゆき》を俟着《まちつげ》て、安房《あは》の州《くに》へ渡さんとて、轍《わだち》の鮒《ふな》の息吻《いきつき》あへず、見わたす方《かた》は目も迥《はる》に、入江に續く靑海原《あをうなはら》、波しづかにして白鴎《はくおう》眠《ねふ》る、比《ころ》は卯月《うづき》の夏霞《なつがすみ》、挽遺《ひきのこ》したる鋸山《のこぎりやま》、彼《あれ》かとばかり指《ゆぴさ》せば、こゝにも鑿《のみ》もて穿《うがち》なし、刀《かたな》して削《けづ》るがごとき、靑壁峙《せいへきそはたち》て見るめ危《あやう》き、長汀曲浦《ちやうていきよくほ》の旅の路《みち》、心を碎《くだ》くならひなるに、雨を含《ふくめ》る漁村《ぎよそん》の柳《やなぎ》、夕《ゆふベ》を送る遠寺《ゑんじ》の鐘《かね》、いとゞ哀《あは》れを催《もよは》すものから、かくてあるべき身にしあらねば、頻《しきり》に津《わたり》をいそげども、舩一艘《ふねいつそう》もなかりけり。

 當下《そのとき》杉倉木曾介氏元《すぎくらきそのすけうぢもと》は、苫屋《とまや》の門《かど》に乾魚《ひを》とり納《い》るゝ、白水郞《あ ま》が子どもをさし招き、「喃髫髦等《なううなゐら》にもの問《とは》ん。前面《むかひ》へわたす舟はなきや。熟《なれ》ぬ浦曲《うらわ》に流浪《さそら》ひて、いとゞしく餓《うへ》たるに、われはともあれこの君へ、物あらば進《まゐ》らしね」、と他事《たじ》なくいへば、そが中に、年十四五なる惡太郞《あくたらう》、赤熊《しやぐま》に似たる額髮《ひたゐがみ》、潮風《しほかぜ》に吹黑《ふきくろま》れし、顏に垂《た》るゝを掻《かき》も揚《あげ》ず、揉《ねぢ》斷《き》るごとき靑涕《あをはな》を、啜《すヽ》り籠《こめ》つゝすゝみ出《いで》、「癡《しれ》たることをいふ人かな。打《うち》つゞく合戰《かつせん》に、舩《ふね》は過半借《おほかたかり》とられて、漁獵《すなどる》だにも物足らぬに、誰《たれ》かは前面《むかひ》へ人をわたさん。されば又この浦に、汲《く》む鹽《しほ》よりもからき世は、わが腹《はら》ひとつ肥《こや》しかぬるに、馴《なれ》もえしらぬ人の飢《うへ》を、救《すく》ふべき糧《かて》はなし。堪《たへ》がたきまで脾撓《ひだゆ》くは、これを食《くら》へ」、とあざみ誇《ほこつ》て、塊《つちくれ》を掻取《かいとり》つゝ、投《なげ》かけんとする程に、氏元はやく身をひらけば、塊《つちくれ》は衝《つ》と飛越《とぴこえ》て、松が根に尻をかけたる、義實《よしざね》の胸前《むなさき》へ、閃《ひらめ》き來《く》れば自若《じじやく》として、左のかたへ身を反《そ》らし、右手《めて》にぞこれを受《うけ》給ふ。現憎《げににく》むべき爲體《ていたらく》に、氏元は霎時《しばし》も得堪《えたへ》ず、眼《まなこ》を睜《みは》り、聲をふり立《たて》、「こは嗚乎《をこ》なる癖者《くせもの》かな。旅なればこそ汝等《なんぢら》に、一碗《いちわん》の飯《いひ》を乞《こひ》もすれ、糧《かて》なくはなしといふとも、辭《ことば》に物は沒《いる》まじきに、無禮《なめげ》なる所行《わざ》も限りあり。いでその頤斬砍《おとがいきりさき》て、思ひしらせん」、と敦圉《いきまき》つゝ、刀の鞆《つか》に手を掛《かけ》て、走り擊《うた》んとしたりしかば、義實急に召禁《よぴとゞ》め、「木曾介|大人氣《おとなげ》なし。麒驥《きき》も老《おい》ては駑馬《どば》に劣《おと》り、鸞鳳《らんほう》も窮《きう》すれば、蟻蜋《ぎらう》の爲に苦《くるし》めらる。昨《きのふ》はきのふ、今《けふ》はけふ、よるべなき身を忘れし欤《か》。彼等《かれら》は敵手《あいて》に足らぬもの也。つら/\ものを案《あん》するに、土《つち》はこれ國の基《もと》也。われ今|安房《あは》へ渡るに及びて、天その國を給ふの兆《きざし》欤《か》。彼を無禮《なめげ》也と見るときは、憎むに堪《たへ》たり。これを吉祥《よきさが》とするときは、歡《よろこ》ぶべき事ならずや。晉《しん》の文公《ぶんこう》が五鹿《ごろく》(曹國《そうのくに》の地名也)の故事《ふること》、よく今日《こんにち》のことに似たり。賀《が》すべし/\、とみづから祝《しゆく》して、塊《つちくれ》を三度戴《みたぴいたゞ》き、そがまゝ懷《ふところ》へ挾《おさめ》給へば、氏元もやゝ曉《さとり》て、刀の鞆《つか》に掛《かけ》し手と、共に怒りを解《とき》おさめ、そのゆくすゑは憑《たのも》しき、主君を壽《ことぷ》き奉れば、白水郞《あ ま》が子どもは掌《て》を拍《うち》て、いよ/\あざみ笑ひけり。

 時に磯山《いそやま》、雲|叢立《むらだち》て、海面俄頃《うみつらにはか》に晦《くろみ》わたり、磁石《ぢしやく》に塵《ちり》の吸《すは》るゝごとく、潮水頻《うしほしき》りに逆《さか》上《のぼ》り、風|颯《さと》おとす程こそあれ、雨は彼鞆岡《かのともおか》の篠《しの》より繁《しげ》く降《ふり》そゝぎ、電光《いなひかり》まなくして、雷《かみ》さへおどろ/\しく、落《おち》かゝるべく鳴撲《なりはため》けば、侲僮《わらはべ》どもは劇騷《あわてさわ》ぎて、苫屋々々《とまやとまや》に走入《はしりい》り、裡《うち》より鎖《とざ》して、敲《たゝ》けども開《あ》けず。かくてぞ義實主從は、笠《かさ》やどりせんよしのなければ、入江の松の下蔭《したかげ》に、笠《かさ》を翳《かざ》して立《たち》給ふ。

 さる程に、風雨ます/\烈《はげし》くて、或《あるひ》は晦《くら》く、或《あるひ》は明《あか》く、よせては碎《くだ》け、碎けては、立《たち》かへる浪《なみ》を包《つゝみ》て、廻翔《まひさが》る雲の中《うち》に、物こそあれ、と見る目〓[眷+見]《まばゆ》く、忽然《こつぜん》として白龍《はくりう》顯《あらは》れ、光を放ち、波をまき立《たて》、南を投《さし》てぞ飛去《とびさり》ける。且《しばらく》して、雨|霽《はれ》、雲おさまり、日は沒《いり》ながら影はなほ、海に殘りて波をいろとり、梢《こずゑ》を傳《つた》ふ松の雫《しづく》、吹拂《ふきはら》ふ風に散る玉は、沙石《いさご》の中《うち》に輾沒《まろぴい》る。山は遠《とほう》して、翠《みどり》ふかく、巖《いはほ》は靑《あをう》して、いまだ乾《かは》かず。瞻望《ながめ》に倦《あか》ぬ絕景佳境《ぜつけいかきやう》も、身の憂《うき》ときはこゝろ止《とま》らず。氏元は義實の、衣《きぬ》の濕吹氣《しぶき》を拂ひなどして、後《おく》れたる貞行を、今か/\と俟《まつ》程に、義實|海面《うみつら》を指《ゆぴさ》して、「向《さき》に雨いと烈しくて、立騷《たちさわ》ぎたる浪の閒《あはひ》に、叢雲頻《むらくもしき》りに廻翔《まひさが》り、彼岩《あのいは》のほとりより、白龍《はくりう》の升《のぼ》りしを、木曾介は見ざりし歟《か》」、と問《とは》れて直《ひた》と足を跪《つまだて》、「龍《たつ》とは認め候はねど、あやしき物の股《もゝ》かとおぼしく、輝《てり》かゞやくこと鱗《うろこ》のごときを、僅《はつか》に見て候」、といへば義實《よしざね》うち點頭《うなづき》、「さればこそその事なれ。われはその尾と足のみ見たり。全身を見ざりしこと、憾《うら》むべく惜《をしむ》べし。夫龍《それたつ》は神物《かみつもの》也。變化固《へんくわもと》より彊《きわまり》なし。古人《いにしへのひと》いへることあり。龍《たつ》は立夏《りつか》の節《せつ》を俟《まち》て、分界《ぷんかい》して雨を行《やる》。これを名《なづ》けて分龍《ぶんりう》といふ。今は則《すなはち》その時也。夫龍《それたつ》の灵《れい》たるや、|昭々《せうせう》として迩《ちか》く顯《あらは》れ、|隱々《いんいん》として深く潛《ひそ》む。龍《たつ》は誠《まこと》に鱗蟲《うろくず》の長《おさ》也。かゝる故《ゆゑ》に、周公易《しうこうゑき》を繋《つな》ぐとき、龍《たつ》を聖人《せいじん》に比《たくらべ》たり。しかりといへども、龍《たつ》は欲《よく》あり、聖人の無欲《むよく》に及《しか》ず。こゝをもて、人|或《あるひ》はこれを豢《かひ》、或《あるひ》は御《のり》、あるひは屠《ほふ》る。今はその術|傳《つたふ》るものなし。又|佛說《ぷつせつ》に龍王經《りうわうきやう》あり。大凡《おほよそ》雨を祷《いの》るもの、必《かならず》まづこれを誦《よむ》。又|法華經《ほけきやう》の提婆品《だいばぼん》に、八歲《はつさい》の龍女《りうによ》、成佛《ぜうぶつ》の說あり。善巧《ぜんこう》方便《ほうぺん》也といふとも、祷《いのり》て驗《しるし》を得《う》るものあり。この故《ゆゑ》に、龍《たつ》を名つけて雨工《うこう》といふ。亦《また》これを雨師《うし》といふ。その形狀《かたち》を辨《べん》するときは、角《つの》は鹿《しか》に似て、〓[豆+天]《かうべ》は駝《うま》に似たり。眼《まなこ》は鬼に似て、項《うなぢ》は蛇《へみ》に似たり。腹《はら》は蜃《みづち》に似て、鱗《うろこ》は魚《うを》に似たり。その爪《つめ》は鷹《たか》の似《ごと》く、掌《たなそこ》は虎《とら》の似《ごと》く、その耳は牛に似たり。これを三停九似《さんちやうきうじ》といふ。又その含珠《たま》は頷《ほう》にあり。司聽《きく》ときは角《つの》を以《もつて》す。喉《のんど》の下《した》、長徑尺《わたりいつしやく》、こゝを逆鱗《げきりん》と名づけたり。物あつてこれに中《あた》れば、怒《いか》らずといふことなし。故《ゆゑ》に天子《てんし》の怒《いか》り給ふを、逆鱗とまうす也。雄龍《をたつ》の鳴《なく》ときは、上に風ふき、雌龍《めたつ》の鳴《なく》ときは下に風ふく。その聲|竹筒《ふえ》を吹《ふく》ごとく、その吟《ぎん》ずるとき、金鉢《こがねのはち》を戞《する》が如し。彼《かれ》は敢衆行《あへてつれたちゆ》かず、又|群處《むらがりをる》ことなし。合《がつ》するときは體《たい》をなし、散《さん》するときは章《せう》をなす。雲氣《うんき》に乘《じやう》じ、陰陽《いんよう》に養《やしなは》れ、或《ある》は明《あきらか》に、或《ある》は幽《かすか》なり。大《おほき》なるときは宇宙《うちう》に徜徉《せうよう》し、小《ちひさ》なるときは、拳石《けんせき》の中《うち》にも隱《かく》る。春分《しゆんぷん》には天に登り、秋分《しうぷん》には淵《ふち》に入《い》り、夏を迎《むかふ》れば、雲を凌《しのぎ》て鱗《うろこ》を奮《ふる》ふ。これその時を樂《たのしむ》也。冬としなれば泥《どろ》に淪《しづ》み、潛《ひそまり》蟠《わだかまつ》て、敢《あへて》出《いで》ず。これその害を避《さく》る也。龍《たつ》は尤《すぐれて》種類多し。飛龍《ひりやう》あり、應龍《おうりう》あり、蛟龍《こうりう》あり、先龍《せんりう》あり、黃龍《くわうりやう》あり、靑龍《せいりやう》あり、赤龍《しやくりう》あり、白龍あり、元龍《げんりやう》あり、黑龍《こくりやう》あり。白龍《はくりう》物を吐《はく》ときは、地に入《いり》て金《こかね》となり、紫龍《しりう》涎《よだれ》を垂《た》るゝときは、その色|透《とほり》て玉の如し。紫稍花《しせうくわ》は龍《たつ》の精《せい》也。蠻貊鬻《ばんはくひさい》で藥《くすり》に入《いる》る。鱗《うろこ》あるは蛟龍《みづち》なり。翼《つばさ》あるは應龍《おうりやう》也。角《つの》あるを〓[草冠+黽]龍《きんりう》といひ、又|叫龍《きうりやう》ともこれをいふ。角《つの》なきを〓[不明]龍《たりやう》といひ、又これを璃龍《りりやう》といふ。又|蒼龍《さうりう》は七宿《しちしゆく》也。班龍《はんりう》は九色《くしき》なり。目百里《めにひやくり》の外《ほか》を見る、これを名《なづ》けて驪龍《りりやう》といひ、優樂自在《ゆうらくじざい》なるものを、福龍《ふくりやう》と名《なつ》けたり。自在《じざい》を得ざるは薄福龍《はくふくりやう》、害をなすはこれ惡龍《あくりやう》、人を殺すは毒龍《どくりやう》也。又|苦《くるしみ》て雨を行《やる》、是則垂龍《これすなはちすいりう》也。又|病龍《やむたつ》のふらせし雨は、その水|必《かならず》腥《なまぐさ》し。いまだ、升《せう》天《てん》せざるもの、易《ゑき》に所謂蟠龍《いはゆるはんりう》也。蜂龍は長四丈《たけよぢやう》、その色|靑黑《あをくくろう》して、赤帶《あかきよこすぢ》錦文《にしきのあや》の如し。火龍《くわりやう》は高《たかさ》七|尺《しやく》あり。その色は眞紅《しんく》にして、火焔炬《くわえんたきひ》を衆《あつむ》る如し。又|癡龍《ちりやう》あり。懶龍《だりやう》あり。龍《たつ》の性《さが》は淫《いん》にして、交《まじはら》ざる所なし。牛と交《まじは》れは、麒麟《きりん》を生み、豕《ゐのこ》に合へば象《ざう》を生み、馬と交《まじは》れば龍馬《りうめ》を生む。又九ツの子を生む說あり。第一子《だいゝちのこ》を蒲牢《ほろう》といふ。鳴《なく》ことを好むもの也。鐘《かね》の龍頭《りうづ》はこれを象《かたと》る。第二子《だいにのこ》を囚牛《しうぎう》といふ。音《なりもの》を好むもの也。琴鼓《ことつゞみ》の飾《かざり》にこれを付《つく》。第三子《だいさんのこ》を蚩物《せんぶつ》といふ。呑《のむ》ことを好むもの也。盃盞飮器《はいさんいんき》に、これを畫《ゑが》く。第四子《だいしのこ》を嘲風《ちやうふう》といふ。險《けはしき》を好むもの也。堂塔樓閣《だうだふろうかく》の瓦《かはら》、これを象《かたと》る。第五子《だいごのこ》を匝批《こうせい》といふ。殺《ころす》ことを好むもの也。大刀《たち》の飾《かざり》にこれを付《つく》。第六子《だいろくのこ》を屭屍《ふき》といふ。こは文《ふみ》を好むとなん。いにしへの龍篆《りうてん》、印材《いんざい》の杻《つまみ》、文章星《ぶんせうせい》の下に畫《ゑが》く、飛龍《ひりやう》の如き、みな是《これ》也。第七子《だいしちのこ》を狴犴《ひかん》といふ。訟《うつたへ》を好むもの也。第八子《だいはちのこ》を竣猊《しゆんげい》といふ。竣猊《しゆんげい》は乃獅子《すなはちしし》也。坐《ざ》することを好むものとぞ。倚子曲彔《いすきよくろく》に象《かたど》ることあり。第九子《だいくのこ》を霸下《はか》といふ。重《おもき》を負《おふ》を好《このむ》もの也。鼎《かなへ》の足、火爐《ひはち》の下《あし》、凡《およそ》物の枕とするもの、鬼面《きめん》のごときは則《すなはち》これなり。これらの外《ほか》に又《また》子あり。憲章《けんせう》は囚《とらはれ》を好み、饕餮《とうてつ》は水を好み、蟋蝪《しつとう》は腥《なまくさき》を好み、蠻蟾《ばんせん》は風雨《ふうう》を好み、螭虎《りこ》は文釆《あやのいろとり》を好み、金猊《きんげい》は烟《けふり》を好み、椒圖《しゆくと》は口を閉《とづ》るを好み、虭蛥《とうせつ》は險《けはしき》に立《たつ》を好み、鰲魚《ごうぎよ》は火を好み、金吾《きんぎよ》は睡《ねふら》ざるものとぞ。皆《みな》これ龍《たつ》の種類《しゆるい》なり。大《おほい》なるかな龍《たつ》の德《とく》。易《ゑき》にとつては乾《けんの》道《みち》也。物にとっては神聖《ひじり》なり。その種類の多《おほ》きこと、人に上智《せうち》と下愚《かぐ》とあり、天子匹夫《てんしひつふ》の如くなる欤《か》。龍《たつ》は威德《いとく》をもて、百獸《もゝのけもの》を伏《ふく》するもの也。天子も亦《また》威德をもて、百宦《ひやくはん》を率《ひきゐ》給ふ。故《ゆゑ》に天子に袞龍《こんりやう》の御衣《ぎよゐ》あり。天子のおん顏《かほ》を、龍顏《りうがん》と稱《たゝへ》、又おん形體《かたち》を龍體《りうたい》と唱《となへ》、怒《いか》らせ給ふを逆鱗《げきりん》といふ。みな是龍《これたつ》に象《かたと》る也。その德|枚擧《かぞへあぐ》べからず。今や白龍《はくりう》南に去《さる》。白きは源氏《げんじ》の服色《ふくしよく》也。南は則《すなはち》房總《あはかづさ》々々は皇國《みくに》の盡處《はて》也。われその尾《を》を見て頭《かうべ》を見ず。僅《はつか》に彼地《かのち》を領《れう》せんのみ。汝《なんぢ》は龍《たつ》の股《もゝ》を見たり。是《これ》わが股肱《こゝう》の臣たるべし。さは思はずや」、と正首《まめゃか》に、和漢《わかん》の書《しよ》を引《ひき》、古實《こじつ》を述《のべ》、わがゆくすゑの事さへに、思量《おもひはか》りし俊才叡智《しゆんさいえいち》に、氏元ふかく感佩《かんはい》し、「武辯《ぶべん》の家に生れても、匹夫《ひつふ》の勇《ゆう》に誇るは多く、兵書兵法《ひやうしよひやうほう》に通《つう》ずるすら、今の時には稀《まれ》なるに、なほうらわかきおん年にて、人も見ぬ書をいつのまに、讀《よみ》つくし給ひけん。さもなくておのづから、物に博《ひろ》くは天の作《なせ》る、君は寔《まこと》に良將《りやうせう》なり。今こそまうせ結城《ゆふき》にて、得死《えしな》ざりける氏元が、はじめの憾《うらみ》とうらうへなる、命めでたくけふにあふ、歡《よろこ》びこれにますものなし。斯《かう》ゆくすゑの憑《たのも》しきに、日は暮果《くれはて》て候とも、要《えう》なき入江に明《あか》さんや。安房《あは》へおん供つかまつらん。と思へども舩《ふね》はなし。天《そら》は晴《はれ》ても甲夜闇《よひやみ》に、月|待《まち》わぶる途《みち》の便《ぴん》なさ、こゝろ頻《しき》りに焦燥《いらたつ》のみ。せんすべなきは水行《ふなぢ》也。とは思はでや、後《おく》れたる、堀內貞行が今までも、まゐらざること甚不審《はなはたいぶかし》。富貴《ふうき》には他人も合《つど》ひ、まづしき時は妻子《やから》も離《はな》る。人の誠《まこと》に經《つね》なければ、渠《かれ》はや途《みち》より迯《にげ》たりけんおぼつかなく候」、といひつゝ眉根《まゆね》うちよすれば、義實《よしさね》莞尒《につこ》とうち笑《え》みて、「さな疑ひそ木曾介。老黨若黨《ろうだうわかたう》多かる中にて、彼《かれ》と汝《なんぢ》は人なみならぬ、志《こゝろざし》あればこそ、家尊大人擇《かぞのうしえらま》せ給ひて、吾儕《わなみ》に屬《つけ》させ給ふならずや。われも亦《また》貞行が人となりはよく知りつ。難に臨《のぞみ》て主《しゆう》を棄《すて》、迯《にげ》かくるゝものにあらず。今|霎時《しばし》こゝにて俟《また》ん。月も出《いづ》べき比《ころ》なるに」、と物に障《さわ》らぬ言《こと》の葉も、心の底もいと廣き、海より出《いづ》る十八日の、月おもしろき浦波《うらなみ》や、金《こかね》を集め玉《たま》を敷《しく》、龍宮城《たつのみやこ》もかくやらんとて、主從《しゆうじゆう》額《ひたゐ》に手を翳《かざ》し、思はずも木蔭《こかげ》をはなれて、波打際《なみうちきわ》へ寄《より》給ふ。

 浩處《かゝるところ》に快舩一艘《はやふねいつそう》、水崎《みさき》のかたより漕出《こぎいで》たり。「こなたへもや」、と見る程に、はやきこと矢の如く、閒《あはひ》ちかくなるまゝに、舩《ふね》の中《うち》より聲たかく、〽《いおりてん》契《ちぎり》あれば、卯《う》の葉|葺《ふき》ける、濱屋《はまや》にも、龍《たつ》の宮媛《みやひめ》、かよひてしかな、と口實《くちすさ》む一首の古歌《こか》(仲正家集《なかまさかしゆう》)を、水主《かこ》は何《なに》とも聞《きゝ》しらでや、そがまゝに漕着《こぎつけ》しかば、件《くだん》の人は纜《ともつな》を、砂《いさこ》の中《うち》へ投《なけ》かけて、その身も閃《ひら》りと登《のほ》り立《たつ》を、と見れば堀內貞行《ほりうちさだゆき》。「こは/\いかに」、とこなたの主從、縡問㒵《こととひがほ》に先に立《たち》て、舊《もと》の樹下《このもと》に坐《ざ》を占《しむ》れば、貞行は松の下葉《したは》を、掻《かき》よせて小膝《こひざ》を著《つき》、「向《さき》に相模路《さがみぢ》へ入《い》りしより、渡海不便《とかいふぺん》に候よしを、仄《ほのか》に聞《きゝ》て候へば、捷徑《ちかみち》より先へ走《はしり》て、是首《ここ》彼首《かしこ》なる苫屋《とまや》にて、津《わたり》を求《もとむ》れども舩《ふね》を出《いだ》さず。ゆき/\て水崎《みさき》に赴《おもむ》き、漁舟《すなとりふね》を借得《かりえ》たれども、餓《うへ》させ給ふ事もやとて、飯《いひ》を炊《かしか》せ候|程《ほど》に、雷雨《らいう》烈しくなりしかば、思はず彼處《かしこ》に日を消《くら》し、かくの如く遲參《ちさん》せり。はじめよりこれらのよしを、申上候はねば、いぶかしくおぼし召《めし》けん」、といふを義實|聞《きゝ》あへず、「さればこそいはざる事|歟《か》。われはさらなり木曾介も、こゝらに舩《ふね》のありなしは、一切《つやつや》思ひかけざりき。もし藏人《くらんど》なかりせば、今宵《こよひ》いかでか安房《あは》へわたさん。寔《まこと》にこよなき才學《さいかく》なれ」、と只管嘆賞《ひたすらたんせう》し給へば、氏元は額《ひたゐ》を拊《なで》、「人の才《さえ》の長き短き、かくまで差別《けぢめ》あるもの歟《か》。やよ藏人ぬし、かゝる時には疑念《ぎねん》も發《おこ》りぬ。おのが心の淺瀨《あさせ》にまよへば、深き思慮ある和殿《わどの》を狹《さみ》して、今までわろくいひつる也」、と咲《えみ》つゝ吿《つぐ》れば、貞行は、腹を抱《かゝへ》てうち笑ふ。現二鞘《げにふたさや》の隔《へだて》なき、兵士《つわもの》の交《まじはり》は、かくこそあれ、と義實も、共に笑坪《えつぼ》に入《いり》給ふ。かくて又義實は、藏人貞行にうち對《むか》ひ、「われは前面《むかひ》へ渡りかねて、こゝに汝《なんぢ》を待《まつ》ほどに、塊《つちくれ》の賜《たまもの》あり。又|白龍《はくりう》の祥瑞《せうずい》あり。これらは舩《ふね》にて譚《かたらは》ん」、と宣《のたま》ふ聲を聞《きゝ》とりてや、水主《かこ》は手を抗《あげ》、さし招き、「月もよし、風もよし。とく/\舩《ふね》に乘給へ」、と促《うなが》す隨《まゝ》に主從|三人《みたり》、乘れば搖揚《ゆらめ》く棚《たな》なし小舟《をふね》、水主《かこ》は纜《ともづな》手繰《たぐり》よせて、取《とり》なほす棹《さを》のうたかたの、安房を望《さし》てぞ漕去《こぎさり》ぬ。

底本:ちえまの館(現在はアクセスできない)
初校正:2005年3月25日
今回の校正:2025年3月18日

南総里見八犬伝(001)

 しばらく更新が滞っていたが、テキスト中心の記事ゆえ、著作権の切れた著作のアップをボツボツ再開…

 南総里見八犬伝のテキストとして、「ふみくら」氏のサイトがある。残念ながら、第30回までであり、HTML 版はコードが、Shift-JIS である。そこで、「序文」類を、UNICODE に変換し、掲載する。

注】UNICODE に変換できない漢字は、「〓」で示し、[]内に、漢字を分解した。ルビなどは、青空文庫形式に準じた。


『南總里見八犬傳』第一回より「序文」など

【外題】
里見八犬傳 肇輯 巻一

【見返】
曲亭主人藁本\南總里見八犬士傳\柳川重信像\山青堂

【序】書き下し
八犬士傳序[噪野風秋]
初め里見氏の安房に興るや、徳誼以て衆を率ゐ、英略以て堅を摧く。二總を平呑して、之れを十世に傳へ、八州を威服して、良めて百將の冠たり。是の時に當て、勇臣八人有り。各犬を以て姓と爲す。因て之を八犬士と稱す。其れ賢虞舜の八元に如ずと雖ども、忠魂義膽、宜しく楠家の八臣と年を同して談ずべきなり。惜い哉筆に載する者當時に希し。唯だ坊間の軍記及び槇氏が『字考』、僅かに其姓名を識るに足る。今に至て其の顛末を見る由し無し。予嘗て之を憾む。敢て残珪を攻めんと欲す。是より常に舊記を畋獵して已まず。然ども猶考据有ること無し。一日低迷して寝を思ふ。〓[黒+犬+目]聴の際だ、客南總より來る有り。語次八犬士の事實に及ぶ。其の説軍記傳所の者と同からず。之を敲けば則ち曰く、「曾て里老の口碑に出たり。敢て請ふ主人之を識せ」予が曰「諾、吾れ將に異聞を廣ん」と。客喜て而して退く。予之を柴門の下りに送る。臥狗有り。門傍に在り。予忙として其の尾を踏めば、苦聲倏ち足下に發る。愕然として覺め來れば、則ち南柯の一夢なり。頭を回して四下を覽れば。茅茨客無く。柴門に狗吠無し。言《コヽニ》熟/\客談を思へば、夢寐と雖ども捨つべからず。且に之を録せんとす。既にして忘失半ばに過ぐ。之を何奈すること莫し。竊かに唐山の故事を取りて。撮合して以て之を綴る。源禮部が龍を辨ずるが如きは。王丹麓が『龍經』に根つく。靈鴿書を瀧城に傳るが如きは。張九齢の飛奴に擬す。伏姫八房に嫁するが如きは。高辛氏其の女を以て槃瓠に妻すに傚へり。其の他毛擧に遑あらず。數月にして五巻を草す。僅に其の濫觴を述て。未だ八士の列傳を創せず。然と雖ども書肆豪奪して諸を梨棗に登す。刻成て又其の書名を乞ふ。予漫然として敢て辭せず。即ち『八犬士傳』を以て之に命す。
文化十一年甲戌秋九月十九日。筆を著作堂下の紫鴛池に洗ぐ。
   簑笠陳人觧撰
  [曲亭馬琴著作堂之印][乾坤一草亭]

【序】原文
八犬士傳序[噪野風秋]
初里見氏之興於安房也。徳誼以率衆。英略以摧堅。平呑二總。傳之于十世。威服八州。良爲百將冠。當是時。有勇臣八人。各以犬爲姓。因稱之八犬士。雖其賢不如虞舜八元。忠魂義膽。宜與楠家八臣同年談也。惜哉載筆者希於當時。唯坊間軍記及槇氏字考。僅足識其姓名。至今無由見其顛末。予嘗憾之。敢欲攻残珪。自是常畋猟舊記不已。然猶無有考据。一日低迷思寝。〓[黒+犬+目]聴之際。有客自南總來。語次及八犬士事實。其説與軍記所傳者不同。敲之則曰。曽出于里老口碑。敢請主人識之。予曰諾。吾將廣異聞。客喜而退。予送之于柴門下。有臥狗。在門傍。予忙乎踏其尾。苦聲倏發于足下。愕然覺來。則南柯一夢也。回頭覽四下。茅茨無客。柴門無狗吠。言熟々思客談。雖夢寐不可捨。且録之。既而忘失過半。莫奈之何。竊取唐山故事。撮合以綴之。如源禮部辨龍。根于王丹麓龍経。如霊鴿傳書於瀧城。擬張九齢飛奴。如伏姫嫁八房。倣高辛氏以其女妻槃瓠。其他不遑毛擧。數月而草五巻。僅述其濫觴。未創八士列傳。雖然書肆豪奪登諸梨棗。刻成又乞其書名。予漫然不敢辞。即以八犬士傳命之。
文化十一年甲戌秋九月十九日。洗筆於著作堂下紫鴛池。
   簑笠陳人觧撰
  [曲亭馬琴著作堂之印][乾坤一草亭]

【再識】
世《よ》にいふ里見《さとみ》の八犬士《はつけんし》は、犬山《いぬやま》道節《どうせつ》〔乳名《をさなゝ》道松《みちまつ》〕、犬塚《いぬつか》信乃《しなの》〔乳名《をさなゝ》志之《しの》〕、犬坂《いぬさか》上毛《かふつけ》〔乳名《をさなゝ》毛野《けの》〕、犬飼《いぬかひ》見八《けんはち》〔乳名《をさなゝ》玄吉《げんきち》〕、犬川《いぬかは》荘佐《せうすけ》 、犬江《いぬえ》親兵衞《しんべゑ》〔乳名《をさなゝ》真平《しんへい》〕、犬村《いぬむら》大角《たいかく》〔乳名《をさなゝ》角太郎《かくたらう》〕、犬田《いぬた》〓吾《ぶんご》〔乳名《をさなゝ》小文吾《こぶんご》〕、則《すなはち》是《これ》なり。その名《な》軍記《ぐんき》に粗《ほゞ》見えて、本貫《ほんくわん》終始《じうし》を審《つばら》にせず。いと惜《をし》むべき事ならずや。よりて唐山《もろこし》高辛氏《こうしんし》の皇女《くわうによ》、槃瓠《はんこ》〔犬《いぬ》の名《な》也〕に嫁《か》したる故事《こじ》に做《なら》ふて、個《この》小説《せうせつ》を作設《つくりまうけ》、因《いん》を推《おし》、果《くわ》を説《とき》て、婦幼《ふよう》のねふりを覺《さま》すものなり。
肇輯《ぢやうしゆう》五巻《ごくわん》は、里見《さとみ》氏《うぢ》の、安房《あは》に起《おこ》れるよしを演《のぶ》。亦《また》是《これ》唐山《もろこし》演義《ゑんぎ》の書《しよ》、その趣《おもむき》に擬《ぎ》したれば、軍記《ぐんき》と大同《だいどう》小異《せうゐ》あり。且《かつ》狂言《きやうげん》綺語《きぎよ》をもてし、或《あるひ》は俗語《ぞくご》俚諺《りげん》をまじへ、いと嗚呼《をか》しげに綴《つゞ》れるは、固《もと》より翫物《もてあそびもの》なれば也。
この書《しよ》第八回《だいはつくわい》、堀内《ほりうち》蔵人《くらんと》貞行《さだゆき》が、犬懸《いぬかけ》の里《さと》に雛狗《こいぬ》を獲《え》たる條《くだり》より、第十回《だいしうくわい》、義実《よしさね》の息女《そくぢよ》伏姫《ふせひめ》が、冨山《とやま》の奥《おく》に入《い》る條《くだり》まで、これ全傳《ぜんでん》の發端《ほつたん》也。しかれども首尾《しゆび》具足《ぐそく》して、全體《ぜんたい》を闕《かく》ことなし。二輯《にしゆう》三輯《さんしゆう》に及《および》ては、八人《ン》おの/\列傳《れつでん》あり。來《こ》ん春《はる》毎《ごと》に嗣出《つぎいだ》して、全本《ぜんほん》となさんこと、両《りやう》三年《さんねん》の程《ほど》になん。
   簑笠陳人再識

【目録】
有像《ゑいり》南總《なんさう》里見《さとみ》八犬傳《はつけんでん》肇輯《ぢやうしゆう》總《さう》目録《もくろく》
  第一回《だいいつくわい》
季基《すゑもと》訓《をしえ》を遺《のこ》して節《せつ》に死《し》す 白龍《はくりう》雲《くも》を挾《さしはさ》んで南《みなみ》に歸《おもむ》く
  第二回
一箭《いつせん》を飛《とば》して侠者《けうしや》白馬《はくば》を誤《あやま》つ 兩郡《りやうぐん》を奪《うば》ふて賊臣《ぞくしん》朱門《しゆもん》に倚《よ》る
  第三回
景連《かげつら》信時《のぶとき》暗《ひそか》に義實《よしさね》を阻《こば》む 氏元《うぢもと》貞行《さだゆき》厄《やく》に舘山《たてやま》に從《したが》ふ
  第四回
小港《こみなと》に義實《よしさね》義《ぎ》を集《あつ》む 笆《かき》の内《うち》に孝吉《たかよし》讐《あた》を逐《お》ふ
  第五回
良將《りやうせう》策《はかりこと》を退《しりぞ》けて衆兵《しゆへい》仁《じん》を知《し》る 靈鴿《いへはと》書《しよ》を傳《つた》へて逆賊《ぎやくぞく》頭《かうべ》を贈《おく》る
  第六《だいろく》回《くわい》
倉廩《さうりん》を開《ひら》いて義實《よしさね》二郡《にぐん》を賑《にぎは》す 君命《くんめい》を奉《うけ給は》りて孝吉《たかよし》三賊《さんぞく》を誅《ちう》す
  第七回
景連《かげつら》奸計《かんけい》信時《のぶとき》を賣《う》る  孝吉《たかよし》節義《せつぎ》義実《よしさね》に辭《ぢ》す
  第八回
行者《ぎやうじや》の石窟《いはむろ》に翁《おきな》伏姫《ふせひめ》を相《さう》す  瀧田《たきた》の近邨《きんそん》に狸《たぬき》雛狗《いぬのこ》を養《やしな》ふ
  第九回
盟誓《ちかひ》を破《やぶ》つて景連《かげつら》兩城《りやうぜう》を圍《かこ》む  戲言《けげん》を信《しん》じて八房《やつふさ》首級《しゆきう》を獻《たてまつ》る
  第十回
禁《きん》を犯《おか》して孝徳《たかのり》一《いつ》婦人《ふじん》を喪《うしな》ふ  腹《はら》を裂《さ》きて伏姫《ふせひめ》八犬子《はつけんし》を走《はし》らす
 肇輯《ぢやうしゆう》題目《だいもく》通計《つうけい》一《いち》十《しう》回《くわい》完《まつたし》

【口絵】
浪中龍門に上り去ことを得て 歎ぜず江河歳月の深を

 里見《さとみ》治部《ぢぶの》大輔《たゆう》義實《よしさね》

碓子尓《からうすに》舂忍光八《つきおしてるや》
難波江乃《なにはえの》始垂母辛之《はたれもからし》河尓加久尓世波《かにかくによは》 著作堂

 金碗《かなまり》八郎《はちらう》孝吉《たかよし》

周公恐懼す流言の日
王莽謙恭す士に下る時
若し當年にして身便ち死せ使めば
今に至りて真偽誰知ること有らん
白居易讀史の詩

 山下《やました》柵《さく》左衞門尉《さゑもんのぜう》定包《さだかね》
 神餘《じんよ》長挾《ながさの》介《すけ》光弘《みつひろ》が嬖妾《おんなめ》玉梓《たまつさ》

何事をおもひけりともしられしな えみのうちにもかたなやはなき 衣笠内府

 安西《あんさい》三郎《さふらう》太夫《たいふ》景連《かけつら》
 麻呂《まろの》小五郎《こごらう》信時《のぶとき》
 堀内《ほりうち》藏人《くらんと》貞行《さたゆき》
 朴平《ぼくへい》
 無垢三《むくざう》
 杉倉《すきくら》木曽介《きそのすけ》氏元《うぢもと》

深宮に飽食の獰を恣にし
毯に臥し氈に眠て慣れて驚かず
却て簾を捲く人に放出されて
宜男花下新晴に吠ゆ
元貢性之詩

 伏姫《ふせひめ》
 里見《さとみ》義實《よしさね》の愛犬《あいけん》八房《やつふさ》

正夢《まさゆめ》と置行《おきゆく》鹿《しか》や照射山《ともしやま》 東岡舎羅文

 金碗《かなまり》大輔《だいすけ》孝徳《たかのり》

「八犬子《はつけんし》髫歳白《あげまきのとき》地蔵《かくれあそび》之《の》圖《ず》」

平居恃むこと勿れ汝か青年なるを
此青年に趁て好く勉めよや旃
あげまきはあとだにたゆる庭もせに おのれ結べとしげる夏草 定家卿和歌

 犬山道松 犬飼玄吉 犬川荘助 犬田小文吾 犬坂毛野《けの》 犬村角太郎 犬江真平 犬塚信乃《しの》
 ヽ大《ちゆだい》和尚《おせう》

【広告】
曲亭家方賣剤畧目[乾坤一草亭]
○巻端半頁の餘帋あるをもて営生要緊の旨を録して恭しく四方の君子に告奉ること左の如し
家傳神女湯 一包百銅  こはこの作者が家傳の良方婦人諸病の神薬にしてわきて産前産後ちのみちに即功あり。
さるにより相傳五世に及て家に難産《なんざん》夭折《わかしに》の婦人あることなし。用ひやうはつばらにつゝみ紙にしるしつ。ちかき比はいよゝます/\その功《こう》抜群《ばつくん》自餘《じよ》の賣剤《ばいざい》にまされるよしにて求め給ふ君子少《すくな》からず。いと歡《よろこば》しきことになん。
つぎ虫の妙薬 一包六十四銅 半包三十二銅  婦人毎月つきやくになり給ふときつぎむしにいためらるゝに用ひて甚妙也。又産後におり物くだりかぬるによし。すべて月やく不順に功あり。
精製竒應丸 大包〔二百粒余入〕代弐朱 中包〔三十六りう入〕代一匁五分 小包〔十一粒入〕代五分 〔但五分より下小うり不仕候〕
世にきおふ丸夛しといへども製方等閑《なほさり》にしてやくしゆに極品をえらまざれは竒應丸の名ありといふともきおふ丸の功のうなし。こゝに製するところ薬種のあたひをいとはず分量《ぶんりやう》すべて法にしたがひ製法尤つゝしめり。是をよのつねの竒應丸にくらぶれはその功百倍《ばい》万倍也。
諸病針灸ほどこし療治 毎月七日 廾七日
是まで廾三日なりしを廾七日とす。朝四ッときより。所望の人々は入來せよ。いさゝかも謝物はうけ不申。こは孩児が宿願によりその師小坂先生出席点誌す。
右製藥弘所並に施療 江戸元飯田町中坂下南側四方みそ店向 瀧澤氏精製 [曲亭]
取次所 △大坂心齋橋筋唐物町南へ入 書林河内屋太介 △江戸芝神明前 書肆いつみや市兵衞
 ○招牌及報条能書必乾坤一草亭の印記あり此印なきは偽剤に係る

中井正一「土曜日」巻頭言(11)

◎正月の気分は遠い追憶に似ている  一九三七年一月五日

 一九三七年が全世界に一様に来ることは何でもないようだが、人間全体に一様の親しい感じがするものである。「元旦や昨日の鬼が礼に来る」といったように、年のはじめは対立感情がフトなくなる日である。
 一体お祭りとか騒動は人を結びつけるものである。東京震災のとき『ロンドン・タイムズ』は、「かかる災害にあって、人間は文明のヴェールがいかに薄いかを知る。日本は今やS・O・Sをかかげるべきである。全世界は直ちにこれを救いにいかねばならない」と書いた。米国からは食糧や毛布や靴や義援金を積んで軍艦が全速力をもってやってきた。
 そこには何の私心もありえようがないほどの咄嗟のことであった。これがあたりまえの人の心であり、これでさえあれば何の悲しみも怖れも、この三七年度にはないわけである。
 文明のヴェールはいつでも人間にとって薄いのだし、全世界の人間は、ただでさえ、そう楽に生きてはいないのである。東京震災のあの瞬間に全世界にあたえたショックのような気持ちが永くつづいてくれさえしたら、わが世は永遠の正月気分なのである。課長も社員も、やあおめでとうといったような正月気分でいられたらどんなにいいかと思わぬ人はあるまい。
 しかし、救いにきたその軍艦が東京震災くらいいつでも再現できることを、気づきはじめると、わが世の春も酔もさめる感じがする。
 文化というとむつかしいようだが、この正月気分のように、人間が瞬間ホッと本然の自分にたち帰った気持ちと行動を、いろいろ分析し守り育てることなのである。
 その本然の姿とは、それに帰ろう、それに帰ろうとしている人間の失った故郷である。歴史の幾千年もの過去は、その本然の姿の中に生きていたのに、いろいろの機構が、人間をそこから引き離し、追い出し、追放したのである。
 これに反して、人間ができたとか、しっかりしてきたということ、この素直な心を曲げて歪められた世界観で塗り固め、一つの疎外された世界観でガッチリ凝り固まる。そのことは口にはいわないが、実に淋しい影を人間に与えた。
 正月とかお祭りとか騒動、または物想うとき憩うとき、この凝り固まった殻を破って、それを溢れて、遠い遠い想い出と懐郷の気分が、平和と自由と協力の懐しさが込みあげてくるのである。抑えた真実がその姿を包みきれないのである。
 今年も、週末の何れの日をも、この真実を解放する憩いと想いとしようでないか。

編者注】図は、「土曜日」1937年1月号表紙

中井正一「土曜日」巻頭言(10)

◎真理は見ることよりも、支えることを求めている 一九三六年十二月五日

 ある人たちはあるいは世の中はもっと悪くなるかもしれないという。そのいろいろの理由をあげ、その必然を説いてくれる。
 そして若い人たちが無邪気に真理とし、欠乏を欠乏として主張するとき、そんなことは今の時勢では通らないし、無駄な努力だという。
 そして、いつかよい日が向こうから歩いてくるかのようにわずかな行動をも止め、また他の行動を批判し嘲笑する。
 世の中がもっと悪くなることを知っていることが、あたかも歴史の全部の知識であるかのごとく、弁証法の全部であるかのごとくである。果たしてそうであろうか。
 地図に描いた線のように、図式的に一つの点から他の点に歴史がその道を辿るものだろうか。辿るといって横から見ていていいはずのものだろうか。
 そうではない。
 一つの動きから他の動きに移るわずかな移動の、その動きのモトはなんであるか。それをもう一度考えなおさなければならない。
 生活の真実が、あらゆる無理な暴力に抵抗する。その抵抗の真実が、歴史のあらゆる動きのモトではないのか。
 世の中が悪くなれば、その無理な暴力にさらに抵抗する自然な力が、歴史そのものを動かしているのであって、善くするも、悪くするも、日常の小さな人々の正しさを支える主張の上にかかっているのである。
 人々の小さな欠乏が、その欠乏を自覚して正しくその主張を高めることによって、歴史と生活が、その方向を正しく変えてくるのである。
 真理は平常の小さな事の中にかくれているのであって、大げさなポーズや、知ったかぶりな図式の中にあるわけではない。
 どんな大きな声で演説してみても、旗と行列を何年繰り返してみても、何の英雄も一番簡単な肉の値段を一銭でも下げることはでぎなかったではないか。否、数字はその反対を黙って物語っている。
 真理と勝利は常に日常の生活の味方である。自分たちの小さな生活の周囲の、どんな小さな正しい批判も、どんなささやかなる行動も、それは歴史を一端より一端に移動せしめる巨大なる動きのモトとなりうるのである。
 歴史は横から見られるよりも、その中に入つて、それを支えることを求めている。男も女も諸君の一つ一つの小さな手が、手近な生活の批判と行動を手離さないことを、真理は今や切に求めている。

中井正一「土曜日」巻頭言(09)

◎秩序が万人のものとなる闘いそれが人間である ー九三六年十一月二十日

 ある哲学者は、自分の存在を、自分で否定できること、例えば自殺することができること、これが人間が存在それみずからよりも優れた自由をもっている証拠だという。
 それが、石やら、星やら、動物よりも、人間がすぐれている証拠だといおうとする。
 そのことはとんでもない間違いである。
 自分が自分で死ぬことは、人間の闘いとったみずからの秩序に、暴力を奮って、それを破壊して土とか、水とかの秩序に還すことである。
 それは決して、人間の誇りではない。
 人間の誇りは、死を賭して、破滅をも賭して、人間の秩序が万人のものとなる創造への厳かな闘いを挑むことの中にあるのである。ダダ的な単なる破滅への戯れ、似而非抑的な無への落着、「地の涯」的な虚無への感激、フランコ的な存在そのものへの火遊び、ただそれだけでは秩序へのいたずらなる暴力である。
 しかし、また行動のないただ秩序の認識、図式的な歴史の推移の見透しと見極めだけでは、それがいかに賢明であっても、それがいかに的確であっても、ただそれだけでは秩序のいたすらなる無力である。
 秩序の正しい認識の下に、しかも欠乏に差し出す嬰児の学のような、直截な無邪気をもって、命を賭けた秩序が万人のものとなる創造への闘い、この闘いの中に、一個の人問の意味のすべてが含まれているのである。
 新たなヒューマニズムは、命をかけていることの感じの中に在るのでもなく、また単なる合理の誇りでもない。
 合理が万人のものとなることに向かって、自由に向かって、存在そのものをかけている關い、この存在みずからの賭けられた存在、命をかけた命、この中にヒューマニズムの意味があるのである。
 しかもこの合理に向かって存在をかける闘いは、幾万年の人間の闘いの勝利を教えてくれた方法である。
 合理が万人のものとなることが、弓矢と武器を獲ることよりも、もっと近道であり、困雄でもある、最も急を要する大切なことであることを知らせてくれたのも、この闘いの幾万年の教訓である。
 私たちは週末の一日をこの幾十万年の人間の誇りを顧ることに皆そうではないか。