読書ざんまいよせい(014)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」


トロツキーの「田園交響曲」はまだまだ続く
第一章 ヤノウカ(続き)

 私達は大佐が建てた小さな土の家に住んでゐた。藁葺きの屋根は軒の下に無數の雀の巢の張り場所となつてゐた。外側の壁は、蛇の孵化所である深いひヾで疵痕だらけになつてゐた。時としてこの蛇は毒蛇と間違へられて、ひゞの中へサモワルの熱湯を流し込まれることがあつたが、何んの役にも立たなかつた。天井は、大雨の時には雨漏りがした、殊に廣間では、水を受けるために壺や盥が汚い床の上に置かれた。部屋は狭く、窓は薄暗かつた。二つの寢室と、子供部屋の床は粘土で出來てゐて、蚤がうよ/\してゐた。食堂は、每週一回づゝ黄色い砂で磨き上げる木の床を誇つてゐた。嚴かにも接待室と命名せられた座敷の床は、僅かに八步位の長さでしかなかつたが、それでもペンキが塗つてあつた。大佐未亡人はこの部屋に滯在してゐた。
 家の周りには黄色いアカシアや赤や白のバラ、それから夏埸には蔓葡萄が成長してゐた。庭には何等の垣もしなてかつた。父が建てた瓦屋根の大きな土造の家には、鍛冶場、料理部屋、召使部屋などがあつた。その次には『小さな』木造の納屋があり、その向ふには『大きな』納屋が建つてゐた。その向ふに、も一つ『新しい』納屋が建てられた。皆んな盧で葺いてあつた。これらの納屋は石で持上けられてゐたので、その下を流れる水で穀物が黴るやうなことはなかつた。暑い時や寒い時には、犬や、豚や、鶏がこの納屋の中に避難してゐた。そこでは牝鷄が卵を生むに恰好の場所を發見した。私はそれが欲しさによく石の間に這込んで卵を取つたものだ。この隙間は大人が這込むには餘り小さすぎたのだ。每年『大ぎな』納屋の屋根には、鶴が巢を造つてゐた。この鶴は、蛇や蛙を喰べたらしくその赤い嘴を高く空中に上げてゐることがよくあつた。ーーそれは恐しい光景だ!鶴の體は、嘴のところから下に向つてのたうつて行つた、そしてそれは恰も蛇が内側から鶴を喰つてゐるやうに見えた。
 この納屋は、新鮮な嗅ひのする小麥、荒い刺のある大麥、滑つこくて殆ど液體のやうな亞麻仁、冬葡萄の靑綠色の房、それから輕くて細かい燕麥などを納めた貯藏室に分かれてゐた。子供達が隱れん坊をして遊んだ頃には、時に特別のお客さんが來た時などは、この納屋の中に隠れることを許されたものだ。私は仕切りの一つを這渡つて、一つ〇貯藏都屋に這入り、小麥の山を迅登つて、他の側へ沿り落ちたものだ。私の腕は肘まで、私の脚は膝まで滑り落ちた小麥の束で埋められ、あちこち引き裂かれたシャツや靴には麥粒がいつぱいになつた。納屋の戶は閉められて、體裁のために誰かヾ外から南京錠を、ゲームの規定に從つて、閉めないで引つかけて置くのであつた。私は殺物の中に埋つて埃を吸ひながら凉しい納屋の中に横り、Y ちやんとか、J ちやんとか、S ちやんとか、或ひは妹のリザとかその他の人が、他の者を見つけても私を見つけず、庭の中をあちこち走つてゐるのを聞きながら冬小麥の中に溺れてゐたものだつた。
 厩、牛小舍、豚小舍、それから鷄小舍などは皆、私達の住居の反對側の方に建つてゐた。これらは凡て、泥と藁と木の枝とで出來てゐて、粘土をもつてどうにかくつゝけ合せてあつた。高い|はねつるベ<傍点>が、中天高くこの家から百ヤード位も伸上つてゐたので、泥と肥料と藁で作り直さなければならなかつた。この井戶の向ふには、この農家の菜園に水を注ぐ池が横つてゐる。春の洪水は、每年堰を持つて行つた。池の上の小山の上には水車小屋が立つてゐた。ーーこの木造小舍は十馬力の蒸氣エンヂンと二個の臼石とを持つてゐた。母は、私の幼年時代の最初の幾年かの間、彼女の勞働時間の大部分をこゝで過したのである。この製粉所は私達の所有地のため許りでなく、同じく近所全體のためにも動いてゐたのである。百姓達は十哩乃至十五哩四方から彼等の穀物をもつて來て、製粉のためにその十分の一を拂つて行つた。暑い時や打穀間際には、製粉所は晝夜兼行で動いた、そして私が讀み書きを覺えてからは、私が百姓達の穀物を計り、製粉の値段を計算することになつてゐた。收穫が終ると製粉所は閉塞され、動力は打穀のために持ち出された。その後新しい石と瓦で造つた建物の中に、据ゑつけの動力が備へられた。私達の古い土造の家も、ブリキの屋根を非いた大きな練瓦造りに換へられた。然しかうしたことのあつたのは、私がもう十六歲にもなつてからのことである。前年の夏休みの間,私は新しい家のために窓と窓との距離を計算したり、扉の大きさを計つたりしたが、結局說計を完成することは出來なかつた。私がその次に田舍を訪れた時、私は石の土底の築かれてゐるのを見た。私はその家には住なかつた。その家は今日ソヴイエツトの學校に使はれてゐる。
 百姓達は、彼の穀物が挽上るまでに、製粉所で往々二三週間も待たされることがあつた。近くに住んでゐる連中は、袋を順番に列べておいて家へ歸つて行つた。遠くから來た者は、自分の馬車の中で寢起きし、雨の降る時には製粉所の中で寢た。この百姓の中の一人が、一度馬勒を失くしたことがあつた。誰かゞ或馬の側を一人の子供がうろ/\してゐるのを見た。百姓達はその子供の親爺の所へ押寄せて行つて、藁の下を檢べた。ところがそこに馬勒があつたのだ!陰氣な髭を伸した百姓の、その少年の父は、この罪を被せられた小さな惡人、不埒な惡漢は、その馬勒を自分でも知らないで取つたのであつて、彼がそれを隱くしてやらうとしたのであつたことを神に誓つて、東に向つて十字を切つた。然し誰もこの父親を信じた者はなかつた。そこでその百姓は彼の息子を捕へて、その盜まれた馬勒で打ち始めた。私はこの光景を大人達の背後から眺めてゐた。その少年は悲鳴を舉げて、二度と再びやらないからと誓つた。百姓達はその少年の悲嗚には何等の關心を持たないで、陰氣くさゝうに覗き込んでゐた。彼等は煙草を吸ひながら、親爺は尤もらしく體裁だけに息子を打つてゐるが、彼自身が鞭打たるべきなのだと、髭だらけの顏,でぶす/\云つてゐた。
 納屋や家畜小舍の向ふ側には、數百フイートの、二個のべらぼうに長い小舍が伸てゐた。一つは蘆で出來てをり、他は藁で出來てゐて、切妻屋根の形をした壁なしで、直接土地に横つてゐた。新鮮な穀物はこの小舍の中に積上げられ、雨降りや、風のある日は、人々はこの中で唐箕と篩とをもつて働いた。この小舍の向ふには脫穀場があつた。谷を渡ると搾乳場があつて、その壁は全部乾いた肥料で出來てゐた。
 私の幼年時代の生活の凡ては、大佐の土造の家と、そこの食堂にあつた古い安樂椅子とに結びつけられる。この安樂椅子はアメリカ杉に見えるやうに被せ木がしてあつて、私はお茶の時にも、晝食にも、夕食にもその上に坐つた。こゝで私は妹と人形をもてあそび、また後には讀書をしてゐた。覆ひはふた處裂けてゐた。小さな穴はイ.ワン・ワシリエヴヰツチの坐つた椅子に近い部分にあり、大きな方は父の次の私の坐つた處にあつた。『この安樂椅子も新しいカバーが欲しいな』といつもイ・ワン・ワシリエヴヰツチが云つてゐた。
『ずつと以前にさうしなきあならなかつたのさ。』と母はよく答へたものだ。『私達はツアーが殺された年からカバーをかけ換へないのだよ。』
 すると父は自分でそれを辯明したものだ。『然しお前たちは、或人がそのいまわしい町に着くと、彼は彼方此方と奔走する辻馬車は高い、そこで彼は最初から終りまで、どうかして早く農場へ取つて返さうかと考へてばかりゐる、そして彼が何にを買ひに來たのかすつかり忘れてしまふ。と云ふ話を知つてるだらう。』
 一本の粗木の、ペンキも塗つてない垂木《たるき》が、食堂の低い天井を走つてゐた、そしてこの上に凡ゆる品物が自分のゐどころを發見してゐた。卽ち猫が這入らないための設備の板金、釘、絲、書物、紙で栓をしたインク壺、古い錆びたペンのくつゝいたペン。ヤノウカには一本の餘計な.ペンもなかつたのだ。こゝでは、私が古い繪入り雜誌『野原』を見て馬を書くために、私は食事用のナイフを使つて自分で木切れでもつてペンを造つたことがあつた。煙突の出てゐた天井の下に、猫が住んでゐた。煙突が餘り暑くなつて來ると、その猫は自分の子供達を口に啣へて、勇敢に飛下りた。背の高いお客はテーブルから立上る時には、彼の頭を垂木で打つたものだ。それだものだから、私達は天井を指差しながら『頭に氣をつけなさい』と云ふ習慣をもつてゐた。
 客間の中で最も驚くべき品物は、尠くとも部屋の四分のーを占領してゐる古いスピネツト(ピアノの前身)であつた。私はそれが來た時のことを覺えてゐる。凡そ十五哩許り離れたところに住んでゐた、或破產した地主の細君が、町へ移つて彼女の家具を賣拂つたことがあつた。私達は彼女からソフアーと、三個の曲木《まげき》細工の椅子と、何年間も納屋の中に納つてあつた、破れた、絃のついてゐる、古い潰れさうなスピネツトとを買つたのである。父はその品物に十六ルウブルを支拂ひ、それを馬車に積んでヤノウカへ運んで來た。それを鍛冶場で檢査した時に、中から二匹の死んだ二十日鼠が出て來た。鍛冶場は冬の幾週間かの間、スピネツトで占領せられてゐた。イヴン・ワシリエヴヰツチはそれを掃除し、膠でくつ付け、磨いて新しい絃を見つけて’その中へ入れて調子を合せた。鍵盤はみんな改へられ、かくてスピネツトの聲が客間に響くに至つたのである。それは弱々しい音ではあつたが、我慢のならないものだつた。イヴン・ワシリエヴヰツチは彼の魔法のやうな指を、彼の手風琴の階調からスピネツトの鍵盤に移して、カマリンスカヤとかポルカとか、『我が愛するオーガスチン』などを演奏した。私の長姉も音樂の稽古を始めた。私の長兄はエリザヴェートグラードで數ケ月ヴアイオリンの稽古をしてゐたので、時々下手な彈奏をやつてゐた。そして最後には、私も兄のヴアイオリンの音譜を見て、一本の指でやつてゐた。私は音樂を聞く耳がなかつたので、私の音樂に對する愛はつひに生長されずに終つてしまつた。
 春になると庭は泥の海に變つた。イヴン・ワシリエヴヰツチは、木靴と云ふよりは、むしろ木製の半長靴を自分で造つた、そして私は彼が譜段の背丈《せたけ》よりー呎方高くなつて步くのを、嬉しがつて眺めてゐた、時には年寄りの馬具師が出て來ることもあつた。誰も彼の名は知らなかつたやうた。彼は八十を越した老人で、ニコラスー世の軍隊に二十五年間勤めてゐたのである。白い髭と髮とをもち大きな廣い肩を見せて、彼は彼の巡歷工場が備へつけてある納屋を橫切つてのろ/\と步きなながら、やつとのことで彼の重い足を動かした。『私の足は段々弱くなる』と彼は十年前から繰返してゐた。反對に革の臭ひのする彼の手は、釘拔きよりも强かつた。彼の爪はスピネツトの象牙の鍵盤に似てゐて、その先はとても銳かつた。
『モスコウが見せて欲しいかね?』とこの馬具師が訊ねた。勿論見たい! するとその老人は彼の拇指を私の耳の下へ當てゝ持上げた。彼の恐るべき爪が、私の身體へ喰込んで、私は痛められ傷けられた。私は、自分の足を蹴つて降りようとした。『モスコウが見たくなけりや、そんなにしなくもいゝだ。』痛められた癖に私は逃げはしなかつた。老人は納屋の梯子を登りながら、『よおオ!』と云つた。『この屋根部屋の中に何にがあるかを見てゐな。』私はトリックがあるかも知れないと思つて這入つて行くことを踌躇した。それは次の結果になつた、一等年少の粉屋のコンスタンチンと料理人のケテイとが屋根部屋にゐるのだ。兩人とも美しくて、陽氣で働き手である。『何時お前とケテイとは結婚しょうと云ふのだい』と主婦が訊ねると『どうしてヾございます、私達は御覽の通り大變うまく行つてをりますのでございます。結婚するとなると十ルウブルもかゝります、でございますからむしろ私はケテイに靴を一足買つてやりますよ』とコンスタンチンが答へたのである。
 草土帶の暑い、きびしい夏が終つて、刈入れと收梗の骨の折れるクライマツクスが過去ると、一年間の苦役を始末する早秋が來る。今度は脫穀機が全速力で震動する。活動の中心は、家から四分のー里もある小舍の向ふの脫穀場へ移された。埃の雲が脫殼場の上をいつぱいにしてゐる。脫毅機の音は泣き聲を立てた。眼鏡をかけた粉屋のフィリップがその側に立つてゐる。彼の黑い髭は灰色の埃で蔽はれてゐる。人々は小麥束を馬車から運んで來る。彼は運んで來る人々には見向きもしないで、それを受取り、束を解き、別々に振離して脫穀機の中へ投込む。一抱え每に脫穀機は骨を啣へた犬のやうに唸り立てる。藁を選分ける機械は、麥藁が進んで行くにつれて、それを選出しては吐き出す。籾殼は橫側のパイプから吐出され、齒止めの上の藁の積重なりの所まで運ばれて行き、私は機械の木製の臺尻の上に立つて、手綱でそれを押へてゐる。『落ちないやうに要心してゐろよ』と父が怒鳴る。それでも私は十遍もひつくり返つた。私は或時は藁の中へ落ち、また或時は粗殼の中へ落込む。灰色の埃の雲は脫穀場を厚く蔽ひ、エンヂンは呻き、殼は人々のシヤツや、鼻の中に這入つて嚏をさせる。『お、いフイリツプ、早すぎるぞ。』脫穀機が餘り兇暴に唸り出すと、父は向ふの方から注意する。きは齒止めを揚げる。とそれは私の手から滑り出して、その全部の重さが私の指の上に落ちかゝる。その痛さと來たら、頭がくら/\する程の烈しさであつた。私は、泣顏を人々に見られないやうに横側から滑り降りて、家へ駈けて歸つた。母は私の手に冷い水をかけて、私の指を繃帶するが、然し痛さは止まない。そして傷は濃んで數日の間私を苦しめる。
 今度は小麥の袋が納屋や小舍にいつぱいになつて、庭の中に防水布で蔽うて高く積上げられる。時時は主人自ら篩の側に立つて、籾殻を吹飛すためには、どうして箍を廻すか,どうしたら一度力强く押すと、出來上つた穀粒が一粒も殘さすに、堆植の中へ落るかを、人々にやつて見せる。風除けのある小舍や納屋の中では、簸別機と風劉丹離機とが動いてゐる。そこでは穀粒が仕上げられて、市場へ出す準備がせられるのである。
 さてその次には商人がお錢の袋と、奇麗に塗つた箱入れの秤とをもつてやつて來る。彼等は我粒を檢査し、値を立てゝ手付け金を父に押しつける。私達は彼等をいと丁寧に待遇して、お茶や菓子を振舞ふ。然し私達は彼等に穀物を賣りはしないのだ。彼等は雜魚に過ぎないのだ。主人はかうした商賣の道には長けてゐる。彼は自分の仲賀商人をニコラエフに持つてゐるのだ。『まあ暫くこのまゝにして置きませう、穀物は飯を喰はせろとは云ひませんからね。』と彼が云ふ。
 一週間も經つとニコラエフから手紙か,時によつては電報が來て、ーフードにつき五コペツク以上も値を揚げて來る。『そこで吾々は千ルウブル儲けたと云ふものだ。』と主人が云ふ。『これは何處の䉤からでも出來るんぢやないんだ。』然し時にはあべこべの事が起る。時として値が落ちるのである。世界市場の目に見えない力がヤノウカにさへ響くのである。すると父はニコラエフから歸つて憂鬱さうに『どうも今年はーー何んと云つたけーーアルゼンチンから小麥を積出し過ぎたらしい。』と云ふのだ。

日本人と漢詩(108)

◎加藤周一と吉田松陰


 久しぶりに、加藤周一の吉田松陰を扱った小冊子を手にしてみたが、いささかの違和感を感じた。思いの外、松陰に肩入れしているからだ。特に、彼の抱いていた政策が極めて現実的であったことを評価するのは、興味のあるところだ。ただ、加藤周一が語らぬところだが、「松下村塾」を通じて「弟子」たちに伝えていったことが、その後の日本の行く末を決定したことも間違いないが、果たしてそれが良かったのだろうか?
 そこで、少し、加藤周一の「日本文学史序説」も、松蔭の漢詩に触れた部分を繙いてみた。

松陰の詩は、その大部分を、『松陰詩稿』に収める(『全集』、岩波書店、ー九三九の第七巻)。そこには頻に「墨土火船」とか「四夷」とか「国恥」とかいう語がみえ、また頻に「忠義」とか「勤王」とか「報国」とかいう憂国の語があらわれる。身辺雑事の観察はなく、四季の吟詠もなく、恋の歌もない。措辞の洗練も、詩的「イメージ」の独創もなくて、彼の詩はほとんど日記のように、機会に応じてその政治的理想を述べる。彼が詩人であったのは、そういう詩を書いたからではなく、その生涯の思想と行動とが一種の詩に他ならなかったからである。

狂愚誠可(㆑)愛
才良誠可(㆑)虞《おそる》
狂常鋭(二)進取(一)
愚常疎《うとし》(二)避趨(一)
才多(二)機変士(一)
良多(二)郷原徒(一)
流俗多(二)顛倒(一)
目(レ)人古今殊《ことなり》
オ良非(二)才良(一)
狂愚豈狂愚
(「狂愚、『松陰詩稿』)
(書き下し文)
狂愚誠に愛すべし 才良誠に虞るべし
狂は常に進取に鋭く 愚は常に避趨に疎し
才は機変の士多く 良は郷原の徒多し
流俗顚倒多く 人を目すること古今殊なり
才良も才良に非ず 狂愚豈に狂愚ならんや

 引き続き、加藤の詩の「解説」は長い引用になるが…

「進取に鋭く」は、『論語』、子路篇、第二ー章の「狂者進取」に拠る。「郷原の徒」は、同じく、陽貨篇、第二ニ章の「郷原徳之賊也」を踏まえて、 いわゆる「八方美人」である。「機変の士」すなわち機会主義者(または現実追随主義者)に対し、また「八方美人」に対して、あくまで前進し、困難を避けない「狂愚」を、彼は愛するといったのである。そういう心情は、力関係の冷静な判断や費用と効果の計算や戦略的な妥協というもの、つまり政治的な思考と、背馳するにちがいない。彼には詩人の気質があって、政治家の天性がなかった。しかるに時代は、詩人を政治的状況のなかにまきこんだのである。吉田松陰という現象は、まさに詩人の政治化であった。そのことから現実主義に媒介されない政治的理想主義が生じる。現に彼の理想主義から影響を受けた青年は多く、非現実的な行動計画に賛成した同志は少なかった。かくして孤立は強まらざるをえず、獄中に孤立した松陰の行動計画の撰択の範囲は、いよいよ狭くなるはずであった。それでも積極的に動こうとすれば(「進取」)、もはや「テロリズム」以外に手段がなくなるだろう。妥協のない理想主義から孤立へ、孤立から手段の過激化へ、したがってより以上の孤立へ!という悲劇的な道は、ついに効果の点で絶望的な行動に終らざるをえない。その最後の行動は、もはや政治的な面においてではなく、詩的な、あるいは精神的な面においてのみ、象徴的な意味をもち得る。それが藩主の待ち伏せ計画、いわゆる「要駕策」であった。「要駕策」が失敗し、捕えられた門人に送つた彼の書簡には、「天下一人の吾れを信ずるものなきも、吾れに於ては毫も心を動かすに足るものなし」という(「和作に与ふ」、『己未文稿』、ー八五九)。詩人はどれほど政治家しても、詩人に還るのである。

 加藤特有の「論旨」の建て方には感服する面もあるが、後の世代にも引き継がれ、日本の行く末を危うくした松蔭の「ニヒリズム」が果たして詩人の「資質」なのだろうか?ここは、高杉晋作の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸に現れるやや退嬰的な雰囲気のほうが、「詩情」に富む気がしてならない。(高杉晋作については、日本人と漢詩(030)でも触れた。)

参考】
・加藤周一「吉田松陰と現代」(かもがわブックレット)
・加藤周一「「日本文学史序説・下」(ちくま学芸文庫)

読書ざんまいよせい(013)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(003)

 ある四等官が美しい景色を眺めて曰く、「何たる絶妙な自然の排泄作用*じゃ!」
*「営み」というつもりで生半可な術語を使った。

 老犬の手記から。――「人間は料理女《コック》さんの棄てる雑水や骨を食べない。馬鹿な奴!」

 彼の持っているものといったら、天にも地にも学生生活の思い出しかなかった。

フランスの諺。―― Laid comme nu chenille.毛虫の如く醜し。(大罪業の如く悪し。)
*原文にunとある。

 男が独身を守ったり女が老嬢で通したりするのは、互いに相手に何の興味も起させないからだ。肉体的な興味をすら。

 大きくなった子供達が食卓で宗教論をやって、断食とか坊主とか云ったものをこき下ろす。年寄りの母親は、初めのうちかんかんになって怒る。そのうちに慣れたと見えて、ただにやにや笑っている。やがての果てには、なるほどお前達のいう通りだ、私もお前達のお宗旨になりますよと、だしぬけにそう言い出す。子供達は気持がわるくなった。この婆さんこの先なにをやり出すことやら、子供達には見当がつかなかった。

 国民的科学というものはない。九九の表に国民的も何もないように、国民的なものは既に科学ではない。

 脚の短い猟犬が街を歩いて、自分の足の曲がっているのを羞かしく思った。

 男と女のちがい。――女は年をとるにつれて、ますます女の仕事に身を入れる。男は年をとるにつれて、ますます女の仕事から遠ざかる。

 折悪しくもち上ったこの思いがけない恋愛沙汰は、次のような場合にそっくりだ。――子供達をどこか散歩に連れて行く。散歩はなかなか愉快で賑やかだ。そのとき突然、一人の児が油絵具を食べちまった。

 ある登場人物が人の顔さえ見れば言う、――「そりゃああなた、蛔虫《むし》ですよ。」そして自分の娘に蛔虫の療治をする。娘は黄色くなった。

 無能ななまくら学者が二十四年間も勤続して、結局なんの貢献もせず、御自分同様に見識の狭い無能な学者を何十人と世に送り出しただけだった。彼は毎夜ひそかに製本をする。これが彼の真の天職なのだ。この道にかけては名人で、深いよろこびを感じている。彼のところに、学問好きの製本屋が出入りしている。これは毎夜こっそりと学問をする。

 コーカサス公が白い長衣を着用して、無蓋の文芸欄《フーイトン》*に乗って行かれた。
*馬車(フェーイトン)との発音の類似から来た間違い。

 ひょっとしたらこの宇宙は、何かの怪物の歯の中*にあるのかも知れぬ。
*歯の間に(銜えられての意)の言い違いだ。

 ――右へ寄らんか*、この黄眼玉**め!
*ロシヤは右側通行が慣わしである。
**冬期ペテルブルグに出稼ぎした百姓馭者の蔑称。

 ――食《あが》りたいのですか?
 ――いや、その反対です*。
*これでは「吐きたい」という意味になってしまう。

 腕が短かくて頸の長い懐妊の奥さん、カンガルーそっくり。

 人を尊敬するのは何という楽しいことでしょう。私は本を見ても、作者がどんな恋をしたか、カルタが好きだったかどうか、などということは一切気になりません。私はただ彼の嘆称すべき仕事を見るだけです。

 恋をするなら必ず純潔な相手を選べというのは、つまりエゴイズムです。自分にはありもしないものを女性に求めるなんて、それは愛じゃなくて崇拝です。人間は自分と同等の者を愛すべきですからね。

 いわゆる子供のような純な生活の悦びとは、動物的な悦びに他ならず。  私は子供の泣声は我慢がならない性分です。しかし自分の子の泣くのは聞えませんよ。

 中学生が或る奥さんに、レストランで昼飯を御馳走する。懐中には一円二十銭。勘定は四円三十銭。金がないので彼は泣き出した。亭主は耳朶をつまんで引張った。奥さんと話していたのはエチオピヤの話だった。

 打ち見たところ、キャベツを添えた腸詰のほかは一切お嫌いらしい男。

 事業の大小は懸ってその目的にあり。目的の大なる事業を大事業という。

 ネフスキイ通り*を馬車で行くとき、左のかた乾草広場を眺めたまえ。煤煙色の雲、団々たる赤紫色の落陽。ダンテの地獄だ!
*ペテルブルグの中央にある広小路の名。

読書ざんまいよせい(012)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)

手帖より
一八九二 年―― 一九〇四年

 人類は歴史というものを、戦闘の系列《つらなり》と考えて来た。なぜなら今までは、闘争が人生の主眼だと心得ていたのだから。

 ソロモンが智慧を希ったのは、とんでもない過失だった。
注】以下4字下げ
*チェーホフの遺稿の中にソロモンの独白を自筆で浄写したものが残っていた。
―― ソロモン(一人)ああ、人の世の生《せ》は何と暗いことだ。子供心に怖ろしかった闇夜の暗さも、今の一寸先も見えぬ生き様ほどに、俺の心を怯え上らせたことはなかった。神よ、御身が父ダビデに授けられた能といえば、ただ言葉を音に結び合わせ、絃に合わせて御身を讃め歌い、甘い涙を流し、人々の眼にも涙を誘い、そして美に微笑みかけることでしかなかったのに、この私にはそのうえに、何故この喘ぎ悩む魂や、眠りもやらぬ飢えた思念を授けられたのだ。塵から生れ出た虫けらのように闇のなかに身を遊、 絶望と恐怖とにがくがくと総身を顫わせながら、有りとある物象に解きがたい秘密を見、また聞く。
この朝が来たのは何の意《こころ》か? 寺院《みてら》の陰から太陽が昇って、棕櫚の樹を金色に染めたのは何の意《こころ》か? 女の美しさは何のためにある? あの鳥はどこへ急ぐのだ? 所詮はあの鳥も雛鳥も、また急いでゆく目当ての場所も、この俺と同じに塵ひじと化するものなら、 ああして翔ることに何の意味がある? ああ、いっそ生れない方がましだった。それとも、眼も思念《おもい》も授かっておらぬ石にでもなった方がましだった。夜が来るまでに身体《からだ》をへとへとに疲れさせて置こうと思って、 昨日はひねもす平《ひら》人足のように、寺院に大理石を運搬して見た。それが今こうして夜になったのに、やっぱり俺は眠れない。もう一ぺん行って寝て見よう。フォルゼスが言うには、駆けて行く羊の群を心に描いて、いつまでもそれを思い続けていれば、やがて意識朦朧となって寝入れるとのことだ。それをやって見るとしよう。……(退場)

 世間普通の偽善者は鴿《はと》を気どるが、政界や文学界の偽善者は鷲を気どる。しかし、彼等の鷲のような威容に面喰うには及ばない。彼等は鷲ではなく、たかだか鼠か犬に過ぎない。

 われわれよりも愚昧で汚穢なもの、それが民衆である。行政上では納税階級と特権階級の二つに分けている。しかしどんな分け方も当らない。何故ならわれわれは 悉く民衆であり、われわれの為す最も善いことは、即ち民衆の仕事だからだ。

 モナコ公がルーレツトを持っている以上、ましてや徒刑囚はカルタぐらい弄んだっていい筈である。

 イヴァン*は恋愛哲学を並べることはできたが、恋愛はできなかった。
*チェーホフの弟。

アリョーシヤ お母さん、僕は病気のお蔭で頭が鈍っちまって、今じゃまるで子供の頃みたいなんです。神様に祈ったり、泣いたり、喜んだり……。

 なぜハムレットは死後に見る夢のことを苦に病んだりしたのだろう。この世に生きていたって、もっと怖ろしい夢がやって来るのに。
 フェルトの長靴じゃいけませんわ。
 なる程これじゃ見っともないな。縁を縫わせなくちゃいけないね。

 父親は病気になったので、シベリヤへ行かせて貰えない。
 お父さん、あなたはちっとも御病気じゃないのね。だってほら、ちゃんとフロックを召して、長靴を穿いて……。
 わたしはシベリヤへ行きたいんだよ。釣竿を持って、エニセイかオビ河の岸辺に腰をおろす。渡舟には懲役さんや移住民が乗っている。……此処のものは何を見ても虫酸が走るよ。窓のそとのあの紫丁香花、砂の敷いてある小道……。

 寝室。月の光が窓から射し入って、肌着の小さなボタンまでも見える。

 善人は犬の前でも恥かしさを感じることがある。

画像は、Wikipedia より。
本文、訳文の著作権は消失している。

読書ざんまいよせい(011)

◎バルザック「人間喜劇」カタログとゴリオ爺さん(001)

 書店に立ち寄り、偶然手にしたのが、バルザック「『人間喜劇』総序・他」(岩波文庫)、「総序」も興味深いが、カタログ(1845年)を見ているだけで、十分「人間喜劇」に浸っている気がした。カタログに挙げられている130編余の小説のうち、有名所をほんの数編しかかじっただけだが、例えば、山の写真を見て、日本百名山を踏破したような気分である。もっとも百名山の登頂は半分を少し達成したが、まずは、一生のうちに「人間喜劇」のたとえ半分も読むことはないだろう。とりあえず、文庫の「付録」にあった「カタログ」の一部から抜粋。(余力があれば全カタログを紹介する。

第I部風俗研究 ÉTUDES DE MŒURS
[l] 私生活情景 Scénes de la vie priveé
(1『子どもたち Les Enfants』)
(2『女子寄宿学校 Un Pensionnat de demoiselles』)
(3『寄宿学校内 Intérieur de collége』)
4『毬打つ猫の店 La Maison du chat-qui-pelote
5『ソーの舞踏会 La Bal de Sceaux
6『二人の若妻の手記 Méoires de deux jeunes mariées
7『財布 La Bourse
8『モデスト・ミニョン Modeste MignonJ
9『人生の門出 Un début dans la vie
10『アルベール・サヴァリュス Albert Savarus
11『ラ・ヴァンデッタ La Vendetta
12『二重家庭 Une double familleJ』
13『家庭の平和 La Paixdu ménage
14『マダム・フィルミアニ Madame Firmiani
15『女性研究 Étude de femme
16『偽りの愛人 La Fausse MaîtresseJ
17『イヴの娘 Une fille d’Éve
18『シャベール大佐 Le Colonel Chabert
19『ことづて Le Message
20『ざくろ屋敷 La Grenadière
21『捨てられた女 La Femme abandonnéeJ』
22『オノリーヌ Honorine
23『ベアトリクス Béatrix ou les Amours forcées
24『ゴプセック Gobseck
25『三十女 La Femme de trente ans
26『ペール・ゴリオ Le Pére Goriot(ゴリオ爺さん)
27『ピエール・グラスー Pierre Grassou』→パリ生活情景
28『無神論者のミサ La Messe de l’athée
29『禁治産 L’Interdiction
30『夫婦財産契約 Le Contrat de mariage
(31『婿と姑 Gendres et belles-mères』)
32『続女性研究 Autre étude de femme

 数少ない読了小説で、一番印象深かったのは、26『ペール・ゴリオ』(ふつう、『ゴリオ爺さん』という名で親しまれている。その頃、シェイクスピアの「リア王」を読み、芝居も覧たので、思いの外、プロットが似ていることが、興味のそそるところだったのかもしれない。
 当方が、実際のカルチエ・ラタンの現場に佇んでいた経験をもった、だいぶ以前のことである。
 続くかどうかは、自信はないが、その冒頭部分、(角川文庫昭和26年11月26日版小西茂也訳で、作者はもちろん、訳者の著作権も消失している。青空文庫にもないはずである。)図は、岩波文庫表紙と角川文庫版「ゴリオ爺さん」挿絵
— ここから「ゴリオ爺さん」
    偉大にして令名赫赫たる
     ジョセフロウ・サン・ディレール*へ
     その著作と天才を讃美するしるしとして
          ド・バルザック
*注)ジョセフロウ・サン・ディレール(1772-1844)動物學者。變態說論者。キュヴイエ・ガルなどと共にバルザックに大きな影響を與えた。

 本文は、新字新かなづかい(創元社版)、ただし挿絵などは旧かな版からも転載した。

第一章 下宿屋
第二章 二つの訪問
第三章 社交界への登場
第四章 不死身
第五章 二人の娘
第六章 爺さんの死

登場人物

ゴリオ爺さん
 かつて製麺業者として成功し、莫大な財産をきずいた商人。だが、愛妻を亡くしてからは、嫁いだ二人の娘の言うがままになって、ヴォケール夫人の下宿屋でひっそり暮らす。

アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人
 ゴリオ爺さんの上の娘。「サラブレッド」とあだ名される。父親から金をひきだすのがうまく、それがまた妹との喧嘩をひきおこす。

デルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人
 銀行家に嫁いだゴリオ爺さんの下の娘。名門に嫁いだ姉にたいする嫉妬にさいなまれている。ラスティニャックを夢中にさせ、親しくなる。

ウージェーヌ・ド・ラスティニャック
 野望を胸にパリに出てきた二十二歳の青年。勉学に励んで学位をとる道と、社交界に進出して地位を手に入れるという、二股をかけた生活を送ろうとする。

ヴォーケル夫人
 下宿屋の女主人。世間の苦労をなめつくしたやり手のおかみ。

ヴォートラン
 得体の知れない四十がらみの大男。ラスティニャックの野心を見ぬき、金銭の援助を申しでる。

ボーセアン子爵夫人
 パリ社交界の女王の一人。ラスティニャックの遠縁で、彼の上流社会進出に力をかす。恋の手練手管をラスティニャックに教えながら、いっぽうでは社交生活に虚しさを感じている。シルヴィ 下宿屋の太っちょの料理女。

ヴィクトリーヌ・タイユフェル
 百万長者の父親に認知してもらえず、死んだ母の遠縁にあたるクーチュール夫人と下宿屋にひっそりと暮らす娘。

ビアンション
 ラスティニャックの友人の医学生。

ダジュダ・パント侯爵
 ポルトガルの富裕な貴族。ボーセアン子爵夫人の愛人。

下宿屋

 ヴォーケル夫人は旧姓コンフランという年配のおかみさんで、もう四十年来パリで下宿屋を開いていた。カルチエ・ラタンとフォーブール・サン・マルソーの間にある、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りでのヴォーケル館といえば、すこしは人にも知られ、下宿人に老若男女を迎え入れていたが、相当に信用があるその下宿館の風儀を、ついぞ云々《うんぬん》せられたこともなかった。もっともここ三十年、若い連中をお客にしたことは一度もなかったし、家からの仕送りがよっぽど乏しければ別だが、若い身空でいて腰が落ち着けるような下宿屋でもまたなかった。
 けれどこのドラマの始まった当時の一八一九年には、一人の貧しい娘がそこに下宿人になっていた。ドラマなる言葉は最近のロマンチック文学で、ふんだんに濫用されて歪められた結果、すっかり信用を堕《おと》してしまっているが、ここではぜひともその語を用いておく必要がある。なにもそれは言葉の本来の意味からいって、この物語がドラマチックだからというのではない。一巻のこの物語が果てるや、パリの城壁の内と外で、おそらく若干の涙が流されるであろうからである。だがこの物語は、パリ以外のところでも、十分に解ってもらえるだろうか? そうした疑問も一応はもっともだ。観察だくさんで、しかも地方色に溢れた本情景の特異性といったものは、モンマルトルの岡とモンルージュの高台にはさまれ、いまにも崩れ落ちそうな壁土とどぶ泥の溝川とで、名を売ったこの谷底のなかでもなければ、その真味を知るわけにはゆかぬからである。

日本人と漢詩(107)

◎一海知義と魯迅
Facebook から
いつも、丁寧にスクラップをアップしていただいているYさんのウォールになかったので…
いつか、魯迅の漢詩も紐解いてみたいと思っています。
赤旗文化欄 2012年6月15日付より

読書ざんまいよせい(010)

◎蒼ざめたる馬(004)
ロープシン作、青野季吉訳

 三月二十八日。

 知事は確かに彼の生命に對する企てを知つた。昨夜彼は、突然ボドゴルノエへ出立した。私達はそこへ尾けて行つた。ヴアニャ、フエドル、ハインリヒは異つた場所で見張りをした。 私は町を彷徨つた。それが私の定められた役目だつた。
 私達はいま彼のこを十分知つてゐる。失敗する筈はない。すぐ日を決めてよい。ヴァニャが第一に……

 三月二十九日。

 アンドレエ・ペトログツチはこゝに居る。彼は、中央委員會の一員で、諸鑛山での長い年月の勞働と西比利へ追放されたことを誇としてゐて、古い革命家の生活をしてゐるのである。 憂鬱な眼と失つた灰色の髪を持つてゐる。
 我々は一緒に料理屋へ登った。
「ねえ。ヂヨーヂ君。」彼は惶てたやうな様子で始めた。「少時《しばらく》仕事を延ばそうと云ふ話しが出てるゐるんだがね。君はどう思ふかね?」
「給仕!」と私は呼び立てた。「蓄音器で『コルネヴイコの鐘』をやれ。」
「君は他事《よそ》々々しくしてゐるが」と彼は言った。「非常に重大な事だよ。我々の現在の策略と下院の仕事とどうして調和し得るか?我々は確實な周到な立場を保たなけりやならない。一方かまたは他方なんだ。立憲主義に適合して下院に這入つて行くか、若くは、明らさまに反對して、そして……それから勿論……ね、どう思ふね?」
「どう思ふつて!どうも思はないさ。」
「然し、よく心を定めて呉れ給へ。事情は君を―‐君達の團隊をだよ--除外するかも知れないから。」
「何?」 私は寧ろ鋭く訊ねた。
「除外すると云ふのは適當な言葉ぢやない、然し--ね、どう云つたらよいか?… 勿論我々は分つてゐる……ねぇヂヨーヂ君、我々は了解してる……それが我々の仲間をどんなに失望させるか知つてゐる。我々は高い価値をおいてる……そして、要するに未だ何事も定つてはないんだ」
 彼の類は檸檬《レモン》のやうに黄く、眼の周りに皺があつた。彼は、場末の惨めな下宿に住んで、酒精ランプで湧かした茶を啜って、一冬《ひとふゆ》薄い外套を着て、企らんだり議論したりして時を費してるたに違ひない。彼は『仕事をしてゐた』のであつた。
「アンドレエ・ペトロヴッチ」と私は彼に言った。「決心なんぞは打捨つて置き給へ。君の勝手にしていゝ譯だ。君達がどんな決定をしやうと、やはり僕達は仕事を続けるばかりさ。」
「本統にそうか?君は中央委員の決定に歸しないのか?」
「然し、ジョーヂ君。」
「それが僕の最後の言葉だ。アンドレエ・ペトロヴツチ。」
「それならどうする?」彼は私をせがんだ。
「うむ。」
「仕事をどうする?」私は言ひ返した。
 彼は溜息をして、私に手を差した。
「君の今言ったことを僕は彼等に云ひはしない。」と彼は言った。「どうにか甘く行って欲しいものだ。君は僕を怒ってやしないだらうね?」
「さよなら、ヂヨーヂ。」
「さまなら、アンドレエ・ペトロヴツチ。」
 空は寒さの近い兆に星で一杯であつた。狭い荒れた通りは不思議な光景を呈してゐた。 アンドレエ・ペトロヴツチは汽車に間に合ふのに急がなければならなかった。可哀そうなお爺さん、可哀そうな父《とつ》ちゃん坊つちやん!······それでもまあ彼等のは天國だ。

三月三十日

 私はまたエレーナの家の近くをぶらつき始めた。それは巨大な、灰色な、重々しい建物だ。 地主は商人のキユボロソフだ。エレーナはそんな立派な家にどうして住んでることが出来るんだらう。
 霜の中に立つて、閉ちた扉の前を何度も行つたり來たりして、起つて来そうもないことを待つ てゐるのは、馬鹿々々しいと云ふことを私は知つてゐる。ひょつとして彼女に遭ったとしても、 それがどうなることか?何にもならないのだ。
 私は昨日大通りでエレーナの夫に會つた。最初私が遠くから彼を見た。その時彼は寫真を見るのに或店の窓際に立ち止つたのであつた。彼は私の方へ背中を向けてゐた。私は這いて、彼の傍に止った。彼は背の高い、細々して、頭髪の見事な、二十五位の男で、士官だ。
 彼は見返つてすぐ私が分つた。私は彼の眼の中に悪意と嫉妬とを認めた。彼が私の眼に何を認めたかは知らない。
 私は彼に嫉妬もしてゐなければ、彼を嫌つてもゐない。然し彼は私の邪魔になつてゐる。そこに物或物が在る。 彼を眺めたときに私には次の言葉が思ひ浮んだ。
 今日は雪がして小川は傾斜地を走つてゐる。水が日光にキラ/\輝いてゐる。 雪が溶け 田舎の空氣には春の匂ひ、興奮させるやうな森の濕りがある。夜はまだ霜が下るけれど、 日盛りには地面は滑らかになつて屋根からは滴りが落ち始める。
 この前の春を私は南方で過した。夜は參宿《オリオン》の輝きがあるばかりでのやうに闇であつた。 朝、私は海へ出る道でよく砂利濱を歩いた。 ひーず《傍点》は森の中で蕾がふくらみ、白百合もやはりそうだ。私は懸崖に登った。焼くやうな陽光は私の頭上にあり、遙か下方に海の透き通るやうな靑さを見ることが出來た。 蜥蜴は石の上を匍ひ、蚊は空中に羽を鳴らしてゐた。 私は熱い石の上に軀を伸して波の音に入ることが好きだった。時が過ぎて、物は忽ち私の眼から消えて仕舞ふ――海も、森も、春の花も。全宇宙が生命の無限の歓びに滿ちた巨大な一軆となつた・・・・・・そして 今は?
 私の友達のベルデユームの士官が、コンゴーで服務した闇の生活を私に語った。そこには
彼が唯一人で、五十人の黒人兵士を率いてゐた。彼の哨兵線は大きな川の岸に在つた。太陽は少 しもほどよい濕さを送らず、發黄病の不斷の危険のある所であつた。對岸には彼等の王と法律と 有つてゐる黑奴の獨立部落があつた。晝は夜に続き、再び晝が来た。朝も、晝も、晩も、彼は 砂の岸のある同じ濁つた川、靑く光つた同じ爬蟲類、分らない言葉をかつてゐる同じ黒人を見る のであった。折々暇つぶしに彼は銃を取つて茂つた葉の中にある毛の頭を打った。
 彼の兵士が岸の黒奴を一人捕虜にすると、それを一定の場所において、暇つぶしに射撃の標的にした。逆《ぎやく》にまた、彼の方の一人が對岸で捕へられると、手足を切取られて、川の中に立たせられ、頭だけ出して一晩中そうしておかれた。翌日には彼の首は切られた。
 白人が黑人と異いがあるかどうか私は疑ふ。異ひは何であるか?選擇がなされなければなら ない。「汝殺す可からず」か――この場合、我々の凡ては、黑人があると同じに、人殺しだ。また は「眼には眼、齒には齒」か――この場合には、辯解する必要はない。私の望みはそうだ。 そして 私は私の好きなことを實行する。申譯や、他人の意見を非常に氣にする中には、臆病の要素が含 まれてみないか?何故人は、人殺しと呼ばれることを怖れ、英雄と呼ばれることを欲するか?要するに、他人の言ふことに向つて、私は何を氣にするか?
 ラスコルニコフは婆さんを殺して、婆さんの血で彼自身が息を止められた。ヴアニアは殺す爲 めに出てゐる。彼は幸福を感ずるであらう。 彼はそうであらうか、私は疑ふ!愛の爲めにそれをするのだと、彼は言ふ。しかし愛は存在するか?キリストは實際三日目に死から甦つたか?······ それはみんな言葉に過ぎないのだ・・・・・・。否《いな》。」
  お前の襦袢の虱《しらみ》が、
 「お前は蚤《のみ》だ」とお前を嘲ったら
 引きづり出して殺して仕舞へ。

著者・訳者とも著作権は消失している
図は、ザヴィンコフ「テロリスト群像」(上)岩波現代文庫 表紙

本職こぼれはなし(013)

 久しぶりに、9月に行われる、ある研究集会に、1週続けて2回、演題をエントリーすることにした。以下抄録である。
演題名:病児保育における溶連菌感染症トリアージについて
【目的】
 A群溶血性連鎖状球菌感染症(以下溶連菌感染症と略す)は、小児期において、迅速な診断と適切な抗生物質治療を要する、Common Disease の一つである。今回私たちは、運営する病児保育の入室時にあたり、溶連菌検査(2023年8月からは、保険収載を期にPCR法を採用)でのトリアージを行っているので、その結果を報告する。
【対象と方法】
 2024年1月から、2024年6月まで、病児保育入室時及び在室時に行った溶連菌PCR陽性児13例の年齢、症状、治療、その後の経過につき分析した。使用機器は、アボット社ID NOW™ ストレップ A2を使用した。治療は原則として10日間のアモキシリン(AMPC)投与とその後、PCR陰性を確認してから、投与を中止した。病児保育利用は、解熱後2日間とした。
【結果】
 年齢は、1~3才児 6例、4~9才児 7例であった。症状は、ほぼ全例に37.5度以上の発熱はある他、特有の発疹 5例、いちご舌 2例を呈した。家族内感染は、3例、再発例は1例認めた。RS感染症との合併が 1例にあった。
症例1) 4才男児。溶連菌感染症の治療後は、頻回の病児保育利用はなくなった。
症例2) 5才女児、今回の対象児ではないが、品胎児で出生の、第三子。兄、姉ともに溶連菌感染。患児は、その後、急性糸球体腎炎にて入院加療となった。
【考察】
・適切な抗生物質治療にあたり、スティック法による溶連菌迅速検査も含めたこうしたトリアージは有用である。
・合併症としての糸球体腎炎は、依然としてリスクがあり、充分留意しなければならない。