◎蒼ざめたる馬(004)
ロープシン作、青野季吉訳
三月二十八日。
知事は確かに彼の生命に對する企てを知つた。昨夜彼は、突然ボドゴルノエへ出立した。私達はそこへ尾けて行つた。ヴアニャ、フエドル、ハインリヒは異つた場所で見張りをした。 私は町を彷徨つた。それが私の定められた役目だつた。
私達はいま彼のこを十分知つてゐる。失敗する筈はない。すぐ日を決めてよい。ヴァニャが第一に……
三月二十九日。
アンドレエ・ペトログツチはこゝに居る。彼は、中央委員會の一員で、諸鑛山での長い年月の勞働と西比利へ追放されたことを誇としてゐて、古い革命家の生活をしてゐるのである。 憂鬱な眼と失つた灰色の髪を持つてゐる。
我々は一緒に料理屋へ登った。
「ねえ。ヂヨーヂ君。」彼は惶てたやうな様子で始めた。「少時《しばらく》仕事を延ばそうと云ふ話しが出てるゐるんだがね。君はどう思ふかね?」
「給仕!」と私は呼び立てた。「蓄音器で『コルネヴイコの鐘』をやれ。」
「君は他事《よそ》々々しくしてゐるが」と彼は言った。「非常に重大な事だよ。我々の現在の策略と下院の仕事とどうして調和し得るか?我々は確實な周到な立場を保たなけりやならない。一方かまたは他方なんだ。立憲主義に適合して下院に這入つて行くか、若くは、明らさまに反對して、そして……それから勿論……ね、どう思ふね?」
「どう思ふつて!どうも思はないさ。」
「然し、よく心を定めて呉れ給へ。事情は君を―‐君達の團隊をだよ--除外するかも知れないから。」
「何?」 私は寧ろ鋭く訊ねた。
「除外すると云ふのは適當な言葉ぢやない、然し--ね、どう云つたらよいか?… 勿論我々は分つてゐる……ねぇヂヨーヂ君、我々は了解してる……それが我々の仲間をどんなに失望させるか知つてゐる。我々は高い価値をおいてる……そして、要するに未だ何事も定つてはないんだ」
彼の類は檸檬《レモン》のやうに黄く、眼の周りに皺があつた。彼は、場末の惨めな下宿に住んで、酒精ランプで湧かした茶を啜って、一冬《ひとふゆ》薄い外套を着て、企らんだり議論したりして時を費してるたに違ひない。彼は『仕事をしてゐた』のであつた。
「アンドレエ・ペトロヴッチ」と私は彼に言った。「決心なんぞは打捨つて置き給へ。君の勝手にしていゝ譯だ。君達がどんな決定をしやうと、やはり僕達は仕事を続けるばかりさ。」
「本統にそうか?君は中央委員の決定に歸しないのか?」
「然し、ジョーヂ君。」
「それが僕の最後の言葉だ。アンドレエ・ペトロヴツチ。」
「それならどうする?」彼は私をせがんだ。
「うむ。」
「仕事をどうする?」私は言ひ返した。
彼は溜息をして、私に手を差した。
「君の今言ったことを僕は彼等に云ひはしない。」と彼は言った。「どうにか甘く行って欲しいものだ。君は僕を怒ってやしないだらうね?」
「さよなら、ヂヨーヂ。」
「さまなら、アンドレエ・ペトロヴツチ。」
空は寒さの近い兆に星で一杯であつた。狭い荒れた通りは不思議な光景を呈してゐた。 アンドレエ・ペトロヴツチは汽車に間に合ふのに急がなければならなかった。可哀そうなお爺さん、可哀そうな父《とつ》ちゃん坊つちやん!······それでもまあ彼等のは天國だ。
三月三十日
私はまたエレーナの家の近くをぶらつき始めた。それは巨大な、灰色な、重々しい建物だ。 地主は商人のキユボロソフだ。エレーナはそんな立派な家にどうして住んでることが出来るんだらう。
霜の中に立つて、閉ちた扉の前を何度も行つたり來たりして、起つて来そうもないことを待つ てゐるのは、馬鹿々々しいと云ふことを私は知つてゐる。ひょつとして彼女に遭ったとしても、 それがどうなることか?何にもならないのだ。
私は昨日大通りでエレーナの夫に會つた。最初私が遠くから彼を見た。その時彼は寫真を見るのに或店の窓際に立ち止つたのであつた。彼は私の方へ背中を向けてゐた。私は這いて、彼の傍に止った。彼は背の高い、細々して、頭髪の見事な、二十五位の男で、士官だ。
彼は見返つてすぐ私が分つた。私は彼の眼の中に悪意と嫉妬とを認めた。彼が私の眼に何を認めたかは知らない。
私は彼に嫉妬もしてゐなければ、彼を嫌つてもゐない。然し彼は私の邪魔になつてゐる。そこに物或物が在る。 彼を眺めたときに私には次の言葉が思ひ浮んだ。
今日は雪がして小川は傾斜地を走つてゐる。水が日光にキラ/\輝いてゐる。 雪が溶け 田舎の空氣には春の匂ひ、興奮させるやうな森の濕りがある。夜はまだ霜が下るけれど、 日盛りには地面は滑らかになつて屋根からは滴りが落ち始める。
この前の春を私は南方で過した。夜は參宿《オリオン》の輝きがあるばかりでのやうに闇であつた。 朝、私は海へ出る道でよく砂利濱を歩いた。 ひーず《傍点》は森の中で蕾がふくらみ、白百合もやはりそうだ。私は懸崖に登った。焼くやうな陽光は私の頭上にあり、遙か下方に海の透き通るやうな靑さを見ることが出來た。 蜥蜴は石の上を匍ひ、蚊は空中に羽を鳴らしてゐた。 私は熱い石の上に軀を伸して波の音に入ることが好きだった。時が過ぎて、物は忽ち私の眼から消えて仕舞ふ――海も、森も、春の花も。全宇宙が生命の無限の歓びに滿ちた巨大な一軆となつた・・・・・・そして 今は?
私の友達のベルデユームの士官が、コンゴーで服務した闇の生活を私に語った。そこには
彼が唯一人で、五十人の黒人兵士を率いてゐた。彼の哨兵線は大きな川の岸に在つた。太陽は少 しもほどよい濕さを送らず、發黄病の不斷の危険のある所であつた。對岸には彼等の王と法律と 有つてゐる黑奴の獨立部落があつた。晝は夜に続き、再び晝が来た。朝も、晝も、晩も、彼は 砂の岸のある同じ濁つた川、靑く光つた同じ爬蟲類、分らない言葉をかつてゐる同じ黒人を見る のであった。折々暇つぶしに彼は銃を取つて茂つた葉の中にある毛の頭を打った。
彼の兵士が岸の黒奴を一人捕虜にすると、それを一定の場所において、暇つぶしに射撃の標的にした。逆《ぎやく》にまた、彼の方の一人が對岸で捕へられると、手足を切取られて、川の中に立たせられ、頭だけ出して一晩中そうしておかれた。翌日には彼の首は切られた。
白人が黑人と異いがあるかどうか私は疑ふ。異ひは何であるか?選擇がなされなければなら ない。「汝殺す可からず」か――この場合、我々の凡ては、黑人があると同じに、人殺しだ。また は「眼には眼、齒には齒」か――この場合には、辯解する必要はない。私の望みはそうだ。 そして 私は私の好きなことを實行する。申譯や、他人の意見を非常に氣にする中には、臆病の要素が含 まれてみないか?何故人は、人殺しと呼ばれることを怖れ、英雄と呼ばれることを欲するか?要するに、他人の言ふことに向つて、私は何を氣にするか?
ラスコルニコフは婆さんを殺して、婆さんの血で彼自身が息を止められた。ヴアニアは殺す爲 めに出てゐる。彼は幸福を感ずるであらう。 彼はそうであらうか、私は疑ふ!愛の爲めにそれをするのだと、彼は言ふ。しかし愛は存在するか?キリストは實際三日目に死から甦つたか?······ それはみんな言葉に過ぎないのだ・・・・・・。否《いな》。」
お前の襦袢の虱《しらみ》が、
「お前は蚤《のみ》だ」とお前を嘲ったら
引きづり出して殺して仕舞へ。
著者・訳者とも著作権は消失している
図は、ザヴィンコフ「テロリスト群像」(上)岩波現代文庫 表紙