読書ざんまいよせい(048)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(02)

     第二章 貧困の原由

〇醫藥を投ずる者は、先づ其病源如何と診するを要す。借問す方今生產の資財乏しきに非ず、 市場の貨物斟きに非らずして、而も吾人人類の多數は、何が爲めに爾く衣食の匱乏《きぼう》を感ずる乎。
〇他なし之が分配の公を失せるが爲めのみ。其世界に普遍せられずして、一部に堆積せらるゝが爲めのみ、其萬人に均分せられずして、少數階級に壟斷《ろうだん》さるゝが爲めのみ。
〇英米兩國の若き、共產業の進步と隆昌とは、古來類例なき所にして、世界萬邦の俱に感嘆垂涎《かんたんすいぜん》する所也、而も彼等が富の分配の情狀に至っては、却て酸鼻を値する者あり。
〇トーマス・シアマンほ算して日く、米國の富の七割は、實に其人口の一分四厘の少敷の占有する所たり、而して他の一割二分の富は、僅に九分二厘の人口の爲めに占有せられ、殘餘の人口卽ちハ割九分四厘の多數生民は、僅に一割八分の富を保つに過ぎずと。博士スバ—ルが英國の富の分配を算するに日く、英人二百萬の多數は僅に八億の財產を有するに過ぎざるに、一面に於て十二萬五千人の少數は、却て七十九億の巨額を占有す、且つ總人口の四分の三以上は全く無資產也と。而して基等兩國の窮民公費の救助を仰ぐ者、.實に數百萬人の多きに及べり。
〇是れ豈に驚く可きの偏重に非ずや、然れども唯に英米のみならんや、獨逸も然り、佛図も然り、伊國も然り、澳國も然り、彼等各々其大小高低の度と率とを異にすと雖も、而も現時の財富のー部に集中するは、世界萬邦俱に其趨勢を同じくせる所也。而して我日本に於ても亦然らざることを得ず。
〇我國に於てや、凡そ何等の物と事とを問はずして、未だ精確の統計の信據す可きなきは遺憾の至也。然れども近時我國財富の分配が益々一部に偏重し、貧富益々懸隔するは爭ふ可らざるの事實也。見よ、土地は益々兼併せらるゝに非ずや、資本は益々合同せらるゝに非ずや。彼の資本、資本を吸ひ、息錢、息錢を生むや、國家人民全體の資產の額は甚だ培加を見ざるに拘らず、大資本家、大地主なる少數階級の資產は日に其膨脹を致すこと、恰も雪塊の一廻轉する每に、自ら其の面積を增大し來るに似たらずや。
〇試みに思へ、若し近世物質的文明が、其精緻の器、巧妙の術に依り、年々產出する所の巨額の財富をして、多數人民公平に分配して、以て日用の消費に供するを得たりとせよ、何ぞ衣食の匱乏を嘆ずる今日の如きを耍せんや、而も分配の公を失する如此《かくのごと》く甚しく、其一部に堆積し、少數階級に壟斷せらるゝ、如此く甚し。怪しむ無き也、世界の多數が常に飢凍の域に滾轉することや。
〇於是乎《ここにおいてか》、別に一問は提起せられざるを得ず、何ぞや。
〇蓋し社會の財富や、決して天より降下するに非ず、地より噴出するに非ず、一粒の米、一片の金と雖も總て是れ人間勞働の結果に非ざるは無し。夫れ唯だ勞働の結果也、其結果や當然勞働者卽ち之が産出者の所有に歸す可きの理に非ずや。而も多數の勞働者よ、何故に汝は汝の產出せる財富を自由に所有し、若くば消費すること能はざる乎。古詩に日く『滿身綺羅者《みきらにみつるもの》、是匪養蠶人《これやうさんのひとにあらず》』と、 何故に養蠶の人は却て綺羅を纏ふこと能はざる乎。[編者注:北宋・張兪の詩「蚕婦」の後半、訳は「体いっぱいに高価な絹織物の衣装をつけている者は、養蚕の仕事に従事する人たちではなかったからです。」、元の五言絶句の原文および読み下し文は、昨日入城市  昨日 城の市に入り 帰来涙満巾  帰り来たれば 涙 巾に満つ 遍身羅綺者  遍身 羅綺の者 不是養蚕人  是れ養蚕の人ならず]
〇他なし、彼等は一切の生產機關を有せざれば也。換言すれば卽ち資本を有せざれば也、土地を有せざれば也。資本なき者は勞働すること能はざる也、土地なき者は勞働すること能はざる也。勞働せざれば卽ち餓死せざる可らず。彼等は其餓死を免るゝに急なる丈《だ》け、夫れ丈け、生產機關を求むるに急ならざるを得ず。其生產機關を求むるに急なる丈け、夫れ丈け一切の利益幸福を擧げて之が犧牲に供せざることを得ず。而して彼等は實に資本所有者、土地所有者の足下に拜跪して、資本と土地との使用の許可を乞はざる可からず。而して此使用の許可を得るの報酬として、其生產の大部を資本家、地主の倉庫に献納せざるを得ず。而して彼等が終歲、若くば生涯、營々たる勞役の功果は、憐れむ可し、唯だ其不幸なる生命を支ふるに過ぎざるのみ。然り現時の小農及び小作人は實に如此き狀態に在り、現時の職工は實に如此きの狀態に在り、 土地と資本とを有するなくして、賃銀に衣食し、給料に衣食する者、皆な實に如此きの狀態に在り。
〇試みに思へ、若し世界の土地と資本とをして、多數人類が自由に其生產の用に供するを得たりとせよ。彼等が多額の金利を徴せられ、法外の地料を掠められ、若くば低廉の賃銀を以て雇役さる、の要なくして、其勞働の結果たる簣は直ちに彼等の所有として、自由に消費することを得たりとせよ。分配公を失して、貧富の懸隔する、何ぞ今日の如く甚しきに至らんや。而も彼等は唯だ勞働の力を有するのみ。土地と資本との兩者に至っては、全く少數階級の專有に歸して、其生產の大部を納むるに非ざるよりは、決して使用するを許されざる也。怪しむなき也、世界の多數が常に飢凍の域に滾轉することや。
〇於是乎、更に一問は提起せられざるを得ず、何ぞや。
〇夫れ土地や資本や、一切の生產機關は、人類全體を生活せしむる所以の要件也、之を壟斷し占有するは、卽ち人類全體の生活をが左右し、死命を制する所以也、彼地主資本家なる者果して何の德あり、何の權利あり、何の必要あって、之を壟断し、專有し、增大して、以て多數人類の平和と進步と幸福とを蹂躙するや。
〇他なし、僥倖のみ、猾智のみ、貪慾のみ。彼等地主資本家や、時に或は勞働に從ひ生產を扶くるなきに非ざる可し、勤勉なることなきに非ざる可し、節儉なることなきに非ざる可し。然れども彼等が勤勉なる努働者、節儉なる生產者としての所得や知るべきのみ。而して彼等が地主資本家として擁する所の財富や、決して勤勉と節約とに依て律可き所の者に非ざる也。彼等の或者は卽ち父祖の譲與也、或者は卽ち投機の勝利也。或者は卽ち利息の堆積也。然り今の富厚を重ぬる者、三者必ず其一に居らざるはなし。而して其富變じて資本となり、株券を買ひ、土地を併すや、彼等は一擧手一投足の勞なくして、飽暖《はうだん》[編者注:暖衣飽食の略、典拠は、「孟子」と「荀子」]逸楽以て多數人類勞働の結果を掠奪す。而して其掠奪せる富は、更に轉じて資本となり、再び多額の富を掠奪するの武器となる。如此にして轉々窮る所を知らずして、而して少數者の富益々富を加へ、多數者の貧益々貧に陷るに至れる也。故にプルードンは叫んで日く、『財產は强奪の果也、資本家は盜賊也』と。然り道義的眼光より之を見る、彼等は實に自ら其盜賊たるを知らずして盜賊たる也。又何の德あり、何の權利あり、何の必要あと、 何故に養獄の人は却て綺羅を纏ふこと能はざる乎。
〇他なし、彼等は一切の生產機關を有せざれば也。換言すれば卽ち資本を有せざれば也、土地を有せざれば也。資本なき者は勞働すること能はざる也、土地なき者は勞働すること能はざる也。勞働せざれば卽ち觥死せざる可らず。彼等は其餓死を免るゝに急なる丈《だ》け、夫れ丈け、生產機關を求むるに急ならざるを得ず。其生產機關を求むるに急なる丈け、夫れ丈けー切の利益幸福を擧げて之が犧牲に供せざることを得ず。而して彼等は實に資本所有者、土地所有者の足下に拜跪して、資本と土地との使用の許可を乞はざる可からず。而して此使用の許可を得るの報酬として、其生產の大部を資本家、地主の倉庫に袱納せざるを得ず。而して彼等が終歲、若くば生涯、營々たる勞役の功果は、憐れむ可し、唯だ其不幸なる生命を支ふるに過ぎざるのみ。然り現時の小農及び小作人は實に如此き狀態に在り、現時の職工は實に如此きの狀態に在り、 土地と資本とを有するなくして、賃銀に衣食し、給料に衣食する者、皆な實に如此きの狀態に在り。
〇試みに思へ、若し世界の土地と資本とをして、多數人類が自由に其生產の用に供するを得たりとせよ。彼等が多額の金利を徴せられ、法外の地料を掠められ、若くば低廉の賃銀を以て雇役さるゝの要なくして、其勞働の結果たる簣は直ちに彼等の所有として、自由に消費することを得たりとせよ。分配公を失して、貧富の懸隔する、何ぞ今日の如く甚しきに至らんや。而も彼等は唯だ勞働の力を有するのみ。土地と資本との兩者に至っては、全く少數階級の專有に歸して、其生產の大部を納むるに非ざるよりは、決して使用するを許されざる也。怪しむなき也、世界の多數が常に伽凍の域に滾轉することや。
〇於是乎、更に一間は養せられざるを得ず、何ぞや。
〇夫れ土地や資本や、一切の生產機關は、人類全體を生活せしむる所以の要件也、之を壟斷し占有するは、卽ち人類全體の生活を左右し、死命を制する所以也、彼地主資本家なる者果して何の德あり、何の權利あり、何の必要あって、之を壟斷し、專有し、增大して、以て多數人類の平和と進步と幸福とを蹂蹂躙するや。
〇他なし、僥倖のみ、猾智のみ、貪慾のみ。彼等地主資本家や、時に或は勞働に從ひ生產を扶くるなきに非ざる可し、勤勉なることなきに非ざる可し、節儉なることなきに非ざる可し。然れども彼等が勤勉なる努働者、節儉なる生產者としての所得や知るべきのみ。而して彼等が地主資本家として擁する所の財富や、決して勤勉と節約とに依て得可き所の者に非ざる也。彼等の或者は卽ち父祖の譲與也、或者は卽ち投機の勝利也。或者は卽ち利息の堆積也。然り今の富厚を重ぬる者、三者必ず其一に居らざるはなし。而して其富變じて資本となり、株券を買ひ、土地を併すや、彼等は一擧手一投足の勞なくして、飽暖《はうだん》[編者注:暖衣飽食の略、典拠は「孟子」滕文公上]逸樂以て多數人類勞働の結果を掠奪す。而して其掠奪せる富は、更に轉じて資本となり、再び多額の富を掠奪するの武器となる。如此にして轉々窮る所を知らずして、而して少數者の富益々富を加へ、多數者の貧益々貧に陷るに至れる也。故にプルードンは叫んで日く、『財產は强奪の果也、資本家は盜賊也』と。然り道義的眼光より之を見る、彼等は實に自ら其盜賊たるを知らずして盜賊たる也。又何の德あり、何の權利あり、何の必要ある者ならんや。而も吾人は是等道義的盜賊を放養して、以て其專恣掠奪に任せるに非ずや。怪しむなき也。多數人類が常に飢凍の域に滾轉せることや。
〇於是乎吾人は現時社會の病源に於て、略ぼ知る所あるを信ず。何ぞや、日く、多數人類の飢凍は、富の分配の不公に在り、富の分配の不公は、生産物をして生産者の手に歸せしめざるに在り、生産物をして生産者の手に歸せしめざるは、地主資本家なる少數階級の掠奪する所となれば也、地主資本家の掠奪する所となるは、土地や資本や一切生產機關をして初めより地主資本家の手中に占有せしむれば也。
〇果して然らば之が治療の術亦實に知るに難からざる也。予は卽ち斷言せんとす、今の社會間題解決の方法は、唯だー切の生產機關を、地主資本家の手より奪ふて、之を社會人民の公有に移す有るのみと。
〇然り、『一切の生產機關を地主資本家の手より奪ふて、之を社食人民の公有となす』者、換言すれば、地主資本家なる徒手游食の階級を廢滅するは、是れ實に『近世社會主義』一名『科學的社會主義』の骨髄とする所に非ずや。
〇於是乎世間社會主義を熟知せざるの士、啞然失笑して日はんとす、何等の囈語《げいご》ぞ、何等の妄想ぞ、思へ社會の生產は一に地主資本家の左右する所に非ずや、其分配は一に地主資本家の指揮する所に非ずや、農工商經濟は總て彼等に依て維持せられ、多數人類は總て彼等の手に養はる。曷《いづく》んぞ能く之を廢滅することを得んや、假に之を能くせしむるも、若し彼等.微《な》りせば社會は暗黑ならんのみ。而も漫《みだり》に之が廢滅を言ふ、社會主義なるもの、抑も何等の妄想囈語ぞやと。
〇嗚呼囈語乎妄想乎、社會は永劫に地主資本家の存在を是認す可き乎、是認せざる可らざる乎。吾人は此等の言を爲すの人に向って、先づ人類社會の組織し進化する所以に就て、一番の討査を請はざる可らず。
爭之難平也。天折地絶。亦無自屈之期。
報之不已也。鬼哭神愁。奚有相安之日。
[編者注]典拠は『小窓幽記』(明末・文学者陳継儒)「争いの決着は難しい。 空は割れ、地は裂け。 自虐している暇はない。まだ報告は終わらない。 鬼霊は泣き、神々は悲しんで安穏な日々は来ない。」くらいの意味か?ご教示を待つ。

日本人と漢詩(117)

◎堀辰雄と杜甫(02)

 以前、ブログと Facebook に、「堀辰雄と杜甫」との連載を幾編か掲載していましたが、データの不調のため閲覧できなくなっっています。気を取り直して、「日本人と漢詩」の続きとして、底本を「木耳社・堀辰雄 杜甫詩ノオト」の最初から投稿してゆきます。掲載するのは、主に堀辰雄が杜甫の詩を訳した部分からで、補足として、底本の編者・内山知也氏の解説の最低限の抜粋((1)など連番号の部分)とネットにある、杜甫の詩の、白文と読み下し文です。
 一編だけ、「日本人と漢詩(49)」に「秋興(その五)」「秋興(その六)」があります。

野 老(1)
わが草堂の籬の前には
浣花谿(2)の流れが迂折してゐる
その流れの儘に
柴門が歪んだ形をしてゐる
漁人が
向側の浪の靜かなところで
網を垂れて角を捕へてゐる
估客の船(3)が夕日を浴ぴながら溯って来るのが(4)見える
よくまあ長い路を經て
こんな風景の險しいところ(5)まで來たものだ
向うの琴臺(6)の方を眺めると
一片の雲がなんとなくそのあたりに立ちも去らずにゐる
丁度自分が此處に住んでゐるのも
あんな雲みたいなものだ……(7)


(1) 上元元年(760)秋の作
(2) 太平寰宇記に「浣花谿は成都の西郭の外に在り、一 名百花潭。」
(3) 商人の船。広徳二年(七盗)作の「絶句四首」に「兩箇黄鵰鳴翠柳、一行
白雑上靑天。窗含西嶺千秋雪、門泊東吳萬里船。」
(4) 「が」を逸する
(5) 「劍閣」は、長安から蜀に入る道中に当る四川省剣閣県北方の大剣山・小剣山の険峻を指す。けわしい剣閣山に遮られた、都を離れたこの地に流れて来たのが悲しい、の意となろう。
(6) 漢の詩人司馬相如と卓文君の旧蹟で、浣花渓の北にある。寰宇記に「相如の宅は州の西四里に在り」とあり、蜀記には「相如の宅は市橋の西に在り。即ち文君爐に当り、器を滌ひし処」とあり、益都書旧伝には「宅は少城中に在り。窄橋の下に百余歩あるは是なり。又琴台の在るあり」とあり、成都記には「浣花渓の海安寺の南に在り。今は金花市となる。城内はその旧にあらず。元魏、蜀を伐つや、営をここに下す。掘塹して大甕二十余口を得たり。けだし琴を響かせしゆえんなり」とある。
(7) 尾聯の二句は訳されていない。

 原詩白文と読み下し文は、漢詩と中国文化 から…

野老籬邊江岸回  野老の籬邊江岸回り
柴門不正逐江開  柴門正しからず江を逐って開く
漁人網集澄潭下  漁人の網は集る澄潭の下
賈客船隨返照來  賈客の船は返照に隨って來る
長路關心悲劍閣  長路關心劍閣を悲しむ
片雲何意傍琴台  片雲何の意ありてか琴台に傍ふ
王師未報收東郡  王師未だ報ぜず東郡を收むると
城闕秋生畫角哀  城闕秋生じて畫角哀し

南総里見八犬伝(004)

南総里見八犬伝巻之二第三回

東都 曲亭主人編次
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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)義実《よしさね》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)信時|聞《きゝ》あへず

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」


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景連信時暗《かげつらのぶときあん》に義實《よしさね》を阻《こば》む
氏元貞行厄《うぢもとさだゆきやく》に館山《たてやま》に從《したが》ふ

 卻說《かくて》安西三郞大夫景連《かくてあんざいざぶらうたいふかげつら》は、近習《きんじゆ》のものゝ吿《つぐ》るを聞《きゝ》て、結城《ゆふき》の落人里見義實《おちうどさとみよしさね》、主從三人《しゆうじゆうみたり》水行《ふなぢ》より、こゝに來《きた》れる縡《こと》の趣《おもむき》、大《おほ》かたは猜《すい》しながら、後難《こうなん》はかりかたければ、速《すみやか》には回答《いらへ》せず、麻呂信時《まろのりぷとき》を見かへりて、「|如此々々《しかしか》の事《こと》になん。何《なに》かと思ひ給ふやらん」、と問《とふ》を信時|聞《きゝ》あへず、「里見は名ある源氏《げんじ》なれども、こゝには緣《えん》も好《よしみ》もなし。無二《むに》の持氏《もちうぢ》がたなれば、結城氏朝《ゆふきのうぢとも》に荷擔《かたらは》れ、籠城三年《ろうぜうみとせ》に及ぶものから、京鐮倉《きやうかまくら》を敵《てき》に受《うけ》ては、命《いのち》を豫《かね》てなきものと、思ふべき事なるに、落城《らくぜう》の日に及《およぴ》て、親の擊《うた》るゝをも見かへらず、|阿容々々《おめおめ》と迯《にげ》かくれ、こゝらわたりへ流浪《さそらひ》たる、とるよしもなき白徒《しれもの》に、なでふ對面《たいめん》し給ふべき。とく追退《おひしりぞ》け給ひね」、と爪彈《つまはじき》をして說諭《ときさと》せば、景連|且《しばら》く頭《かうべ》を傾《かたむ》け、「某《それがし》もさは思へども、用《もち》ふべきよしなきにあらず。彼等《かれら》は三年《みとせ》籠城して、戰《たゝかひ》には熟《なれ》たるもの也。義實|年《とし》なほわかしといふとも、數萬《すまん》の敵軍《てきぐん》を殺脫《きりぬけ》ずは、いかにしてこゝまで來《く》べき。召入《よぴい》れて對面し、その剛臆《ごうおく》を試みて、使ふべきものならば、定包《さだかね》を討一方《うついつほう》の、大將《たいせう》を得たりとせん欤《か》。又《また》使ふべきものならずは、追退《おひしりぞく》るまでもなし。立地《たちところ》に刺殺《さしころ》して、後《のち》の禍《わざはひ》を禳《はら》ひなん。この議《ぎ》はいかに」、と密語《さゝやけ》ば、信時しば/\うち點頭《うなつき》、「微妙《いみじく》はかり給ひにけり。某《それがし》も對面すべきに、准備《ようゐ》し給へ」、といそがせば、景連|猛《にはか》に老黨《ろうどう》を召《よぴ》よして、|箇樣々々《かやうかやう》と說示《ときしめ》し、武藝力量兼備《ぶげいりきりやうかねそなはつ》たる、壯士等《ますらをら》に謀《はかりこと》を傳《つたへ》させ、只管《ひたすら》にいそがし立《たつ》れば、信時も又、倶《ぐ》したる、家臣等《かしんら》を召《よび》のぼして、その縡《こと》のこゝろを得させ、あるじ景連もろ共《とも》に、客房《きやくのま》にぞ出《いで》たりける。その縡《こと》の爲體《ていたらく》、をさ/\武《ぶ》を張《は》り、威《ゐ》をかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者《ともひと》十餘人、僉《みな》いかめしき打扮《いでたち》して、二帶《ふたかは》に居《ゐ》ながれつゝ、飾立《かざりたて》たる數張《すちやう》の弓弦《ゆつる》は、壁《かべ》に畫《ゑがけ》る瀑布《たき》の如《ごと》く、掛《かけ》わたしたる鎗薙刀《やりなぎなた》は、春の外山《とやま》の霞《かすみ》に似たり。廊《ほそどの》には幕《まく》を垂《たれ》て、身甲《はらまき》したる力士《りきし》、十人あまり、「すは」といはゞ走り出《いで》、かの主從《しゆうしゆう》を生拘《いけとら》んとて、おの/\手獵索《てぐす》を引《ひき》てをり。

 さる程《ほど》に、里見冠者義實《さとみのくわんしやよしさね》は、外面《とのかた》に立在《たゝずむ》こと、既《すで》に半晌《はんとき》餘《あま》りにして、「こなたへ」、と召入《よびい》られ、ゆくこといまだ一室《ひとま》に過《すぎ》ず、衝立《ついたて》の紙盾《ふすま》の蔭《かげ》より、縹綞《はなだ》の麻《あさ》の上下《かみしも》したる、壯士《ますらを》四人|立見《たちあらは》れ、「誘《いざ》給へ、俺們案內《われわれしるべ》つかまつらん』、といひあへず、前後《あとさき》に立《たち》ながら、半弓《はんきう》に箭《や》を㓨《つがひ》て、きり/\と彎《ひき》しぼれば、些後《すこしくおく》れて從ふたる、杉倉堀內これを見て、「吐嗟《あなや》」、とばかりもろ共に、走りすゝまんとする程に、又おなじほとりより、皂小袖《くろきこそで》に玉襷掛《たまたすきかけ》て、袴《はかま》の股丈《もゝたち》高く取《とり》たる、夥兵《くみこ》六|人《ン》走出《はしりいで》て、 短鎗《てやり》の尖頭突揃《ほさきつきそろ》へ、先なるは皆背《みなあと》ざまに、あるきながらぞ送り去《ゆく》。しかれども義實は、騷《さわ》ぎたる氣色《けしき》なく、「こはもの/\しき款待《もてなし》かな。三年以來《みとせこのかた》結城《ゆふき》にて、敵の矢面《やおもて》に立《たち》し日もあり。鎗下《やりした》を潛脫《くゞりぬけ》しは、いく遍《たび》といふことをしらねど、海より外《ほか》に物もなき、こゝには卻波風騷《かへつてなみかぜさわが》ず、良賎無異《りやうせんぶゐ》を樂《たのし》む、と聞《きゝ》しには似ぬものかな」、とひとりごつ主《しゆう》の後方《あとべ》なる、老黨《ろうだう》も立《たち》とゞまり、「治《おさま》るときにも亂《らん》を忘れず、小敵《せうてき》と見て侮《あなど》らずと、兵書《ひやうしよ》に本文《ほんもん》ありといふとも、三人《みたり》に過《すぎ》ぎる主從《しゆうじゆう》へ、鏃《やじり》のかぶらの羹《あつもの》に、弓弦《ゆつる》の索麪《むぎなは》、異《こと》なる饗應《きやうわう》、あるじの刀袮《との》の手料理《てれうり》を、亦復賞味《またまたせうみ》つかまつらん。誘案內《いざしるべ》を」、といそがして、送られてゆく主從は、はやその席に臨《のぞみ》しかば、壯士等《ますらをら》は弓を伏《ふせ》、鎗《やり》を引提《ひさげ》て東西《とうさい》なる、帷幕《いばく》の內に入りにけり。

 當下《そのとき》里見義實は、景連信時を遙《はるか》に見て、些《すこし》も媚《こぶ》る氣色《けしき》なく、賓座《まろうどのざ》に着《つき》て、腰なる扇《あふぎ》を右手《めて》に置《おき》、「結城《ゆうき》の敗將《はいせう》、里見又太郞義實、亡父《ぼうふ》治部少輔季基《ぢぶのせうゆうすゑもと》が遺言《ゆひげん》によって、辛《から》く敵軍の圍みを脫《まぬか》れ、漂泊《ひやうはく》してこゝに來《きた》れり。かゝれば蜑《あま》が笘[苫の誤記か?]屋《とまや》にも、はかなき今の身を寓《よせ》て、華洛《みやこ》はさら也、鐮倉なる、管領《くわんれい》にも從《したがは》ざる、この安國《やすくに》の民としならば、こよなき幸《さいはひ》なるべし、と思ひし事はきのふにて、聞くに異《こと》なる巷談街說《こうだんがいせつ》、義に仗《よつ》て一臂《いつひ》のちからを、竭《つく》す事もあらんかとて、思はずも虎威《こゐ》を犯《おか》して、見參《げんざん》を乞《こひ》候ひしに、敗軍《はいぐん》の將《せう》也とて嫌《きらは》れず、對面を許し給へば、胸中《きゃうちう》を盡すに足れり。供したるは亡父《ぼうふ》が愛臣《あいしん》、杉倉木曾介氏元人《すぎくらきそのすけうぢもと》、堀內藏人貞行《ほりうちくらんどさだゆき》になん。おんめを給はり候へ」、と慇懃《いんぎん》に名吿《なのり》つゝ、徐《しづ》やかに見かへり給へば、氏元貞行もろ共に、軈《やが》て頭《かうベ》を低《さげ》たりける。しかれども景連は、思ひしよりなほ義實の、年のわかきに侮《あなど》りて、うち見たるのみ禮《れい》を返《かへ》さず。信時はあるじをまたで、眼《まなこ》を睜《みは》り、聲をふり立《たて》、「われは麻呂小五郞《まろのこごらう》なり。聊御別議《いさゝかべつぎ》あるをもて、けふ平館《ひらだて》より來たりしかひに、この席上《せきせう》に連《つらな》るのみ。さて口さかしき小冠者《こくわしや》かな。わが安房《あは》は小國《せうこく》なれども、東南の盡處《はて》にして、三面すべて海なれば、室町殿《むろまちどの》の武命《ぶめい》を受《うけ》ず、兩管領《りやうくわんれい》にも從《したがは》ねど、鄰國《りんこく》の强敵《ごうてき》も、敢境《あへてさかひ》を犯《おか》すことなし。さればとて、われはさら也|安西《あんさい》ぬしに、絕《たえ》て由緣《ゆかり》もなき和郞《わろ》が、京鐮倉を敵に受《うけ》て、身のおくところなきまゝに、乳臭《ちのか》も失《うせ》ぬ觜《はし》を鳴らして、利害《りがい》を說《とか》んと思ふは嗚呼《をこ》也。人の落魄《おちめ》を憐《あはれ》むこと、慈眼視衆生佛《ぢげんじしゆぜうほとけ》のごとく、草芥《あくたもくた》を容《い》るゝこと、無量福壽海《むりやうふくじゆかい》に似たり共、誰《たれ》か罪人《つみひと》をこゝに留《とゞ》めて、その崇《たゝり》を招くべき。寔《まこと》に無益《むやく》の對面ならん」、とあざみ詈《のゝし》る頤《おとがひ》を、かき拊《なで》つゝうち笑へば、義實|莞然《につこ》とうち咲《えみ》て、「しか宣《のたま》ふはその名聞えし、麻呂ぬしに候|欤《か》。麻呂安西|東條《とうでふ》は、當國《たうこく》の舊家《きうか》たり。勇悍武略《ゆうかんぶりやく》さもこそ、と思ふは似ぬものかな。可惜《あたら》しきことながら、親にて候|季基《すゑもと》は、生涯只《せうがいたゞ》義の一字を守りて、ながくはたもち難《かた》かるべしと、思ふ結城《ゆふき》へ盾籠《たてこも》り、京鐮倉の大軍を、三年《みとせ》が閒《あはひ》防ぎとゞめて、死に臨《のぞめ》ども悔《くや》しとせざりき。某《それがし》親には及《およば》ねども、敵をおそれて迯《にげ》もせず、命を惜《をしみ》て走りもせず。亡父《ぼうふ》の遺言已《ゆいげんやむ》ことを得ず、只命運《たゞめいうん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふのみ。鐮倉の持氏卿《もちうぢけう》、初《はじめ》世さかりなりし時、安房上總《あはかつさ》いへばさら也、八州《はつしう》の武士|一人《ひとり》として、心を傾《かたむ》け、腰を折《かゞめ》、出仕《しゆつし》せざるもなかりしに、持氏|滅亡《めつぼう》し給ひては、幼君《ようくん》のおん爲《ため》に、家を忘れ身を捨《すて》て、氏朝《うぢとも》にちからを勠《あは》し、結城に籠城《ろうぜう》したるは稀《まれ》也。勢利《いきほひ》に屬人心《つくひとこゝろ》、憑《たのも》しげなきものなれば、こゝにも麻呂ぬし、安西ぬし、持氏卿の恩義《おんぎ》を思はで、兩管領の崇《たゝり》をおそれ、某《それがし》を容《いれ》じとならば、袖《そで》を拂ふて退《まか》りなん。現《げに》管領は威權《いきほひ》高し。|國々《くにくに》の武士|隨從《つきしたが》ひぬ。おそれ給ふはさることなれども、などて主從三人《しゆうしゆうみたり》に過《すぎ》ざる、義實をいたくおそれて、器械拿《うちものもつ》たる壯士等《ますらをら》に誘引《いざなは》せ、當處《たうしよ》は安泰無異《あんたいぶゐ》也、と口にはいへど用心嚴しく、席上《せきせう》に弓箭《ゆみや》を掛《かけ》、劍戟《けんげき》の鞘《さや》を外《はづ》し、剩帷幕《あまつさへいばく》の內《うち》に、夥《あまた》の力士《りきし》をかくし給ふは、いかにぞや」、と詰《なじ》られて、信時|忽地《たちまち》顏うち赧《あか》め、安西に目を注《くは》すれば、景連思はず大息《おほいき》つき、「いはるゝ所|至極《しごく》せり。弓箭《ゆみや》は武士の翼《つばさ》なり、劍戟《けんげき》は爪牙《ぞうげ》に等しく、身を護《まも》るをもて坐臥《ざくわ》にも放さず。和殿《わどの》を威《おど》す爲ならんや。但《たゞ》し案內《しるべ》せしものどもに、器械《うちもの》を拿《もた》せし事、力士をかくし置《おく》ことは、景連|露《つゆ》ばかりもこれをしらず。什麼汝等《そもなんぢら》は何《なに》の爲に、正《まさ》なき事をしたるぞや。とく罷出《まかで》よ」、と追退《おひしりぞ》け、飾立《かざりたて》たる鎗長刀《やりなぎなた》は、屏風《ぴやうぶ》をもつてかくさせけり。すべての准備齟齬《ようゐくひちがひ》て、興《けう》の醒《さむ》るのみなれば、安西麻呂が家臣等は、遠侍《とほさむらひ》へ出《いづ》るもあり、屏風の背《うしろ》に退《しりぞ》きて、汗《あせ》を拭《ぬぐ》ふも多かりける。

 かゝりけれども信時は、こりずまに膝《ひざ》をすゝめて、義實にうち對《むか》ひ、「今|示《しめ》さるゝ縡《こと》の趣《おもむき》、その據《よりどころ》あるに似たれど、敵をおそれず、命を惜《をしま》ず、後運《こううん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふぞならば、坂東《ばんどう》には源氏《げんじ》多かり、なほ身のよるべあるべきに、一國の主《ぬし》にもあらず、好《よしみ》は元來絕《もとよりたえ》てなき、安西|氏《うぢ》を憑《たのま》んとて、舩《ふね》をよせしはこゝろ得《え》がたし。餓《うへ》たるものは食《しよく》を擇《えら》まず、迫《おは》るゝものは路《みち》を擇《えら》まず。敵をおそれ、命《いのち》を惜《をし》みて、迯迷《にげまよは》ずは、いかにして、恥《はぢ》かゞやかしてこゝまで來《く》べき。かひなき身の非を飾らずに、しかならば如此《しか》なりと、|明々地《あからさま》に吿《つげ》てこそ、憐愍《あはれみ》も一卜しほならめ。この席上《せきせう》に連《つらな》るかひに、とり持《もち》してまゐらせん。|明々地《あからさま》に吿《つげ》給へ。|明々地《あからさま》にはいはれずや」、と再三《ふたゝびみ》たびくり返すを、聞《きく》に得堪《えたへ》ず貞行は、氏元が袂《たもと》を引《ひき》て、もろ共に進み出《いで》、「心を師として人をはかれば、打《うつ》槌《つち》もあたらぬ事あり。いと憚《はゞかり》あることながら、麻呂|大人《うし》の椎量《すいりやう》は、雜兵仂武者《ざふひやうはむしや》のうへにこそ。源氏にはさる大將なし。抑《そもそも》義實命を惜《をし》み、敵に迫《おは》れて途《ど》を失《うしな》ひ、思はず當國に來つるにあらず。偏《ひとへ》に先蹤《せんせう》を追へば也。昔|源賴朝卿《みなもとのよりともけう》、石橋山《いしばしやま》の軍《いくさ》敗れて、安房《あは》へ赴《おもむ》き給ひしとき、和君《わぎみ》の先祖信俊《せんぞのぶとし》ぬし、安西の先祖|景盛《かげもり》ぬし、東條《とうでふ》ぬしもろ共に、第一番に隨從《つきしたが》ひ、無二の志《こゝろざし》をあらはせしかば、賴朝これに先を追《おは》して、上總《かつさ》へうち越《こえ》給ふ程に、廣常常胤來迎《ひろつねつねたねきたりむかへ》て、忽地《たちまち》大軍になりにければ、更に鐮倉に基《もとゐ》を占《しめ》て、遂《つひ》に平家《へいけ》を滅《ほろぼ》し給ひき。里見もおなじ源氏嫡流《げんじのちゃくりう》、八幡殿《はちまんどの》の御末《みすゑ》なり。かゝる吉例《きちれい》あるものを、あまりに無下《むげ》におとしめ給ふが、傍《かたはら》いたく候へば、しれたることをまうすのみ。過言《くわごん》はゆるし給ひね」、と返《かへ》す辭《ことは》も智も勇も、一對一致《いつゝいいつち》の兩老黨《りやうろうどう》に、說伏《ときふせ》られて信時は、怒りに逼《せま》りて、ものも得《え》いはず。義實は氣色《けしき》を見て、忽地《たちまち》に聲を激《はげま》し、「貞行氏元|不禮《ぶれい》なせそ。われいかばかりの德ありて、賴朝に比《たぐへ》んや。そは漫《そゞろ》也、嗚呼《をこ》也」、と叱《しか》り懲《こ》らして追退《おひしりぞ》け、勸解《わび》ず寬《なだむ》る客ぶりに、信時は眼《まなこ》を瞪《いか》らし、手を叉《こまぬ》きて物いはず。景連は肩|搖《ゆるが》して、堪《たへ》ぬがごとく冷笑《あざわら》ひ、「あなわが佛尊《ほとけたふと》しとて、いへば亦《また》いはるゝものかな。里見の從者《ともぴと》よく聞《きけ》かし。賴朝の父|義朝《よしとも》は、十五|个國《かこく》の節度使《せつどし》たり。もし朝敵《ちやうてき》とならざりせば、淸盛《きよもり》もすべなからん欤《か》。かゝれば彼卿《かのけう》、流人《るにん》たれ共、一トたび義兵を起すに及びて、舊恩《きうおん》を思ふ坂東武士《ばんどうぶし》、招《まねか》ざれども屬從《つきしたが》ひぬ。里見|氏《うぢ》はこれと異《こと》也、そのはじめ太郞義成《たらうよししげ》、賴朝|卿《けう》に仕《つかへ》しより、釆地一鄕《れうぶんひとさと》の外《ほか》に過《すぎ》ず、手勢僅《てせいはつか》に百騎に足らず。中葉《なかころ》は宮方《みやかた》にて、彼此《をちこち》に世をしのびあへず、鐮倉へ降參《こうさん》して、本領安堵《ほんれうあんど》したれども、それ將《はた》しばしが閒《あはひ》にて、今見る所は落人《おちうど》也。主《しゆう》すら口を鉗《つぐめ》るに、汝等何《なんぢらなに》の議論《ぎろん》あらん。志《こゝろざし》を改めて、景連に仕へなば、さばかりの事あるべきに、身のほど/\をしらずや」、と飽《あく》まであざみ誇《ほこ》れども、氏元も貞行も、主《しゆう》のこゝろを汲《くみ》かねて、再びこれと爭はず。

 義實はうち微笑《ほゝえみ》、「安西ぬし寔《まこと》にしか也。しかれども、人の口には戶も立《たて》られず。某《それがし》この地に來て聞くに、何處《いつこ》もおなじ巷《ちまた》の風聲《ふうぶん》、民の誹謗《そしり》は止《やむ》ときなけれど、家臣は主君の耳を塞《ふさ》ぎて、吿《つげ》もせず諫《いさめ》も得《え》せぬは、甚《はなはだ》しき不忠《ふちう》ならずや。氏元貞行|思《おも》ひかけなく、夥《あまた》の祿《ろく》を賜《たま》ふとも、不忠の人と肩を比《ならべ》、耳の聾《しい》たる主君には、仕ふることを願はじ」、といはれて景連|氣色《けしき》を變《かえ》、「そは何事《なにこと》をか譏《そし》りたる。巷《ちまた》の風聞《ふうぷん》いかにぞや」、と問《とへ》ば扇《あふぎ》を膝《ひざ》に突立《つきたて》、「いまだ曉《さとり》給はずや。これは主人のうへのみならず、麻呂ぬしも又しかなり。神餘《じんよ》、安西《あんさい》、麻呂《まろ》の三家《さんか》は、舊交尤淺《きうこうもつとも》からず、手足《しゆそく》のごとく相佐《あいたす》けて、當國《たうこく》久しく無異《ぶゐ》なりしに、神餘が嬖臣《へいしん》山下|定包《さだかね》、奸計《かんけい》をもて主《しゆう》を戕《そこな》ひ、忽地二郡《たちまちにぐん》を橫領《わうれう》し、推《おし》て國主《こくしゆ》と稱すれども、神餘が爲にこれを討《うた》ず、阿容々々《おめおめ》と下風《かふう》に立《たち》て、共に濁《にごり》を受《うけ》給へば、民の誹謗《そしり》も宜《むべ》ならずや。某《それがし》この事を申シ入れて、用《もちひ》らるゝこともあらば、犬馬《けんば》の勞を竭《つくさ》ん、と思ひしはそらだのめにて、出陣《しゆつぢん》の准備《ようゐ》も見えず、絕《たえ》てその議に及《およば》れねば、寸志《すんし》を演《のぶ》るよしもなし。わが主從《しゆうじゆう》の剛臆《ごうおく》のみ、只管批評《ひたすらひゝやう》せらるれ共、神餘が爲に定包を、討《うた》ざるは勇もなく、義もなき武士は憑《たのも》しからず。今はしも是《これ》まで也。罷出《まかりいで》ん」、といひあへず、席を去《たゝ》んとし給へば、景連急《かげつらきう》に呼《よぴ》とゞめ、「方寸《ほうすん》を吿《つげ》ざれば、さおもはるゝも理《ことわ》り也。今霎時坐《いましばしざ》し給へ」、ととゞむる右手《めて》へ立遶《たちめぐ》る、信時は些《ちつと》も擬議《ぎき》せず、「しらずや義實、けふわがこゝに來たりしは、をさ/\軍議《ぐんぎ》の爲なれど、謀《はかりこと》は密なるをよしとす。はじめて面《おもて》を見る和主《わぬし》に、かろ/\しく何をか吿《つげ》ん。俺們《われわれ》が勇ありや、なしやをみづからしらんとならば、まづこの刃《やいは》に問《とへ》かし」、と敦圉《いきまき》ながら反《そり》うちかへす、刀の鞆《つか》に手を掛《かく》れば、さらでも由斷《ゆだん》せざりける、氏元も貞行も、主《しゆう》のほとりに衝《つ》と寄《より》て八方《はつほう》へ眼《まなこ》を配《くば》れば、麻呂が從者《ともびと》これを見て、握《にぎ》る拳《こぶし》を捺《さすり》あへず、頻《しき》りに膝《ひざ》を進めたり。そのときあるじ景連は、慌忙《あはてふため》き橫ざまに、信時を抱《いだ》き禁《とゞ》め、耳に口をさし著《つけ》て、何事《なにごと》やらん說諭《ときさと》し、軈《やが》て左右を見かへりて、頤《おとがひ》をもてしらすれば、安西が近臣|等《ら》、麻呂が從者《ともひと》もろ共に、遽《いそがは》しく立《たち》かゝりて、次の房《ま》へ伴《ともな》ひぬ。かゝりけれども義實は、扇《あふぎ》の鹿目《かなめ》走らしながら、うち見たるのみ爭《あらそは》ず、席上《せきせう》ます/\失興《しらけ》にけり。

 當下《そのとき》安西景連は、舊《もと》の處にかへりをり、「義實|何《なに》とか思ひ給ふ。一言《いちごん》の下《もと》に死を爭ふは、武士《ものゝふ》の風俗《ならひ》なれども、麻呂|氏《うぢ》は戲《たはふ》れ也。こゝろになかけられそ。しかれども、時と勢《いきほひ》をしるものは、堪忍《たへしの》ぶをもて危《あやう》からず。かくはしば/\試みたるに、和殿《わとの》は寔《まこと》にその人なるべし。よしや結城《ゆうき》の守將《しゆせう》なりとも、今この浦に流浪《さそら》ひて、わが一陣《いちゞん》に走加《はせくはゝ》り、彼《かの》定包を討《うた》んとならば、わが軍令《ぐんれい》に背《そむ》きかたけん。士卒《しそつ》と共に忠《ちう》を抽《ぬきんで》、戰場《せんぢやう》に大功あらば、恩賞《おんせう》の沙汰《さた》なからんや。素性《すぜう》に誇り、才《さえ》を憑《たの》み、わが手に屬《つく》を愧《はづ》るとならば、これ軍令に背くもの也。さでは決して用ひがたし。和殿一己《わどのいつこ》のちからをもて、彼賊《かのぞく》をうち滅《ほろぼ》し、瀧田《たきた》の城を取りねかし。二郡のぬしにならるゝとも、露《つゆ》ばかりも憾《うらみ》なし。かゝればゆくも留《とゞま》るも、只《たゞ》この一議にあらんのみ。心を定めて回答《いらへ》をせよ」、と辭《ことば》もこゝに更《あらたま》る、難義《なんぎ》としれど些《すこし》もいなまず、「繋《つなが》ぬ舟《ふね》となりしより、よるべの岸こそ身のぬしなれ。こゝに庇覆《みかげ》を蒙《かうむ》りて、用《もちひ》らるゝことあらば、何事《なにこと》を嫌《きら》ふべき。うらなく仰《あふせ》候へ」、といはれて景連うち點頭《うなつき》、「しからば事のはじめ也。|努々違背《ゆめゆめいはい》あるべからず。わが家《いへ》の嘉例《かれい》として、出陣《しゆつぢん》の首途《かどいで》に、軍神《いくさがみ》を祭ることあり。その胙《ひもろぎ》には大きなる、鯉魚《こひ》を備《そなふ》ることになん。わが爲に鈎《はり》をおろして、この鯉《こひ》を釣《つり》もてかへらば、よき敵と組擊《くみうち》して、頸《くび》を得たるに同《おなじ》かるべし。こゝろ得たりや」、と說示《ときしめ》せば、義實|固辭《いなむ》けしきなく、「承《うけたまは》り候ひぬ」、と應《いらへ》てやがて立《たゝ》んとせし、主《しゆう》の後方《あとべ》に侍《はペ》りたる、氏元貞行は左右より、その袂《たもと》を引《ひき》とゞめて、兩人|齊一《ひとしく》進み出《いで》、「安西公《あんさいこう》へ申ス也。嘉例とは宣《のたま》へども、竿《さを》を斜《なゝめ》にして舟に睡《ねふ》り、鈎《はり》を下《おろ》して魚《うを》を捕《と》る、その智は漁夫《ぎよふ》にますものなし。これらは武士のせざる所、義實には似げなき技《わざ》也。君《きみ》はづかしめらるゝときは、臣《しん》死すとこそ古人《こじん》もいへ。只僕等《たゞやつがれら》が首《かうべ》をもて、胙《ひもろぎ》となし給えかし、といはせも果《はて》ず景連は、氏元等を佶《きつ》と嫉視《にらまへ》、「彼奴甚無禮《かやつはなはだぶれい》也。義實は法度《はつと》をおそれて、既《すで》に承諾《せうだく》せし事を、化耳拔《あだみゝぬか》して何《なに》とか聞《きゝ》たる。その家僕《かぼく》として憚《はゞかり》なく、わが軍令《ぐんれい》を犯したる、罪|尤輕《もつともかろ》からず。彼牽出《あれひきいだ》して斬《きつ》て棄《すて》よ」、と烈《はげ》しき怒りを物ともせず、氏元貞行ます/\進みて、說果《ときはた》さんとしたりしかば、義實これをいたく叱《しか》りて、閒遙《あはひはるか》に退《しりぞか》せ、彼等が爲に賠語《わび》給へば、景連やうやく氣色《けしき》をおさめ、「しからば鯉《こひ》を見るまでは、彼奴等《かやつら》を和殿《わどの》にあづけん。和殿|手親釣《てつからつり》もて來《こ》よ。それも三日に限るべし。等閑《なほさり》にして日を過《すく》さば、白物等《しれものら》がうへのみならず。こゝろ得てよ」、と他事《たじ》もなく、いはるゝ每《ごと》に義實は、恭《うやうや》しく領諾《れうだく》し、「しからば旅宿《りよしゆく》へまからん」とて、うらみ㒵《がほ》なる老黨《ろうだう》を、いそがし立《たて》て出《いで》給へば、次の房《ま》に竊聞《たちぎゝ》たる、麻呂小五郞信時は、綟子障子《もじせうじ》を聞《ひら》かして、冷笑《あざわら》ひつゝ且《しばら》く目送《みおく》り、あるじのほとりへ立寄《たちより》て、「安西ぬしいと手ぬるし。などて里見が從者等《ともびとら》を、助けてかへし給ひたる。われは只管《ひたすら》義實を、擊果《うちはた》さんとしつれども、和殿が盾《たて》となり給へば、綱裏《もうり》の魚《うを》を走らしたり」、と喞《かごと》がましく呟《つぷや》けば、景連|聞《きゝ》てうちほゝ笑《え》み、「われも又はじめより、用意《こゝろがまへ》はしたれども、義實は名家《めいか》の子なり、小冠者《こくわじや》なれども思慮才學《しりよさいかく》、凡庸《よのつね》のものにあらず。又|從者等《ともびとら》が面魂《つらたましひ》、一人當千《いちにんたうせん》といふべき欤《か》。さるを漫《そゞろ》に手を下《くだ》さば、こゝにも夥《あまた》人を殺さん。獸窮《けものきう》すれば必囓《かならずかみ》、鳥窮《とりきう》すれば必啄《かならずつゝ》く。況勇將猛卒《いはんやゆうせうもうそつ》なり。徒《たゞ》手を束《つかね》て刃《やいば》を受《うけ》んや。窮鳥懷《きうちやうふところ》に入《い》るときは、獵師《れうし》も捕らずといふなるに、今|定包《さだかね》を討《うた》ずして、怨《うらみ》なき人を殺さば、民の誹謗《そしり》は日にまして、遂《つひ》に大事《だいじ》を成《なし》がたかるべし。さればとて義實を、この處へ留《とゞ》めては、猛獸《たけきけもの》を養ふごとく、早晚寤寐《いつしかねさめ》安からず。こゝをもて、首鼠《しゆそ》兩端《りやうたん》に言《こと》をよせて、彼《かの》主從が雅慢《がまん》を壓《おさえ》、祭祀《まつり》の贄《にゑ》を求めしは、陷阱《おとしあな》を造るもの也。安房一國には鯉《こひ》を生《せう》せず。是《これ》その風土《ふうど》によるもの欤《か》。彼奴等《かやつら》これをしらずして、淵《ふち》に立《たち》、瀨《せ》に涉獵《あさり》、いたづらに日を過《すぐ》し、手を空《むなしう》してかへり來《こ》ば、軍法《ぐんほう》をもてこれを斬《きら》ん。かくては殺すもその罪《つみ》あり。わが私《わたくし》といふべからず。われ豈《あに》彼を助《たすけ》んや」、と誇㒵《ほこりが》に說示《ときしめ》せば、信時は笑坪《えつぼ》に入《いつ》て、掌《たなそこ》を丁《ちやう》と鼓《うち》、「謀得《はかりえ》て極《きはめ》て妙《めう》也。現愸《げになまじい》に擊走《うちはし》らし、義實|瀧田《たきた》に赴《おもむ》きて、定包に從はゞ、虎《とら》に翼《つばさ》を添《そふ》る也。さりとてこなたに用ひなば、庇《ひさし》を貸《かし》て母家《おもや》を損《そこな》ふ、悔《くひ》なしとはいひがたし。留《とゞめ》て後《のち》にこれを殺す、謀《はかりこと》にますものなし。吁《あゝ》奇なるかな、妙《めう》なり」、と只管賞嘆《ひたすらせうたん》したりける。

 かゝりし程に義實は、白濱《しらはま》なる旅宿《りよしゆく》へとて、步《あし》の運《はこぴ》をいそがし給へど、途《みち》いと遙《はるか》なりければ、かへりも著《つ》かで日は暮《くれ》たり。抑《そもそも》安房の白濱《しらはま》は、朝夷郡《あさひなこふり》の內にして、和名鈔《わめうせう》にその名見えて、いとも舊《ふり》たる鄕《さと》になん。瀧口村《たきくちむら》に接《つゞく》といふ。今は七浦《なゝうら》と唱《となふ》るのみ、この濱邊の摠名《さうめう》なり。里見|氏《うぢ》の舊趾《ふるきあと》、その寺などもこゝにあり。所謂《いはゆる》安房の七浦は、川下《かはしも》、岩目《いはめ》、小戶《をと》、鹽浦《しほうら》、原《はら》、乙濱《おとのはま》、白閒津是《しらまつこれ》也。

 閒話《むだはなし》はさておきつ。義實は、その曉《あけ》かたに、白濱へかへりつゝ、目睡《まどろみ》もせで漁獵《すなどり》の、用意《こゝろかまへ》をし給へば、氏元貞行|歡《よろこ》ばず、「君なほ曉《さと》り給はずや。信時は匹夫《ひつふ》の勇者、景連は能《のう》を忌《い》み、才《さえ》を媢《そねみ》て甚僻《はなはだひがめ》り。我《われ》を見ること仇《あた》のごとく、憑《たのも》しげなき人の爲に、鯉《こひ》をあさりて何《なに》にかはせん。はやく上總《かつさ》へ赴《おもむ》きて、その毒惡《どくあく》を避《さけ》給へ」、ともろ共に諫《いさめ》しかば、義實|頭《かうべ》をうち掉《ふり》て、「否《いな》、伱達《なんたち》が異見《いけん》はたがへり。麻呂安西《まろあんさい》が人となり、利には親《したし》く、義に疎《うと》かり。口と行《おこなひ》はうらうへにて、定包をおそるゝのみ、瀧田を討《うつ》のこゝろなし、としらざるにあらねども、こゝを避《さけ》て上總《かづさ》へ赴き、彼處《かしこ》も又|如此《しか》ならば、下總《しもふさ》は敵地《てきち》也。そのとき何處《いつこ》へ赴くべき。君子は時を得て樂《たのし》み、時を失ふても亦樂《またたのし》む。呂尙《りよせう》は世にいふ太公望是《たいこうばうこれ》なり。齡七十《よはひなゝそぢ》に傾《かたふ》くまで、よに人のしるものなし。渭濱《いひん》に釣《つり》して文王《ぶんわう》に値偶《ちぐ》し、紂王《ちうわう》を討滅《うちほろぼ》して大功あり。齊國《せいのくに》に封《ほうぜ》られて、子孫|數十世《すじつせ》に傳へたり。太公望すらかくのごとし。われは時《とき》と勢《いきほひ》と、兩《ふたつ》ながら失ふもの也。釣《つり》する事を嫌《きらは》んや。且鯉《かつこひ》はめでたき魚《うほ》也。傳聞《つたへきく》、安南龍門《あんなんりうもん》の鯉、瀑布《たき》に泝《さかのぼ》るときは、化して龍《たつ》になるといへり。われ三浦《みうら》にて龍尾《りうぴ》を見たり。今|白濱《しらはま》へ來るに及びて、人《ひと》又|鯉《こひ》を釣《つれ》といふ。前象後兆憑《ぜんせうこうちやうたのも》しからずや。獲《えもの》あらば齎《もたら》して、景連がせんやうを、姑《しばら》く見んと思ふかし。曉《あけ》なば出《いで》ん」、といそがし給へば、氏元も貞行も、その高論《こうろん》に感服《かんふく》して、釣《はり》を求め、竿《さを》をとゝのへ、割籠《わりご》を腰に括《くゝり》著《つけ》て、主從|三人《みたり》、名もしらぬ、淵《ふち》をたづねてゆく程に、森の烏《からす》も梢《こずゑ》をはなれて、天《よ》はほの/″\と明《あけ》にけり。

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入力:松本修治

校正:松本修治 2005年3月25日、2005年6月10日
編者修正:2025年3月31日

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