読書ざんまいよせい(051)

◎柳広司「太平洋食堂」

 まだ、運転免許を保持していた頃、和歌山県の新宮市まで、大阪から車で、出かけた事があった。太平洋を、車窓右手にして、長い旅路をひたすらはしりつづけた。
 新宮では、古代から中世、江戸時代にかけて行われた「補陀落渡海」に使った舟などを見学した。「補陀落信仰」は、僧侶が、このような小舟で、浄土をめざし、わずかな食糧で熊野灘に乗り出し、そのほとんどがそのまま帰らぬ身になったことを言う。
 その他、中国は秦の時代、始皇帝が不老不死の薬を所望し、日本に遣わせたとさせる、徐福伝説が残っている地である。詩人の佐藤春夫作詞の新宮市歌のなかにも「徐福もこゝに来たりとか」とある。
 新宮は、目前の太平洋と切っても切れない関係にある。さらに言えば、この伝承や史実のように、この地の人々の心情の根底には、海を隔てた、異国への思い入れも深いようだ。
 明治後期、この新宮で、医業を営んだのが、大石誠之助(1867~1911)である。彼は。アメリカ各地、インド、シンガポールなど海外留学をへて、新宮に「ドクトル大石」医院を開業した。ドクトルは「毒取る」とあだ名され、「貧しい人からはお金を取らない。そのぶん、金持ちから多めにとる。」との診療スタイルで多くの患者さんから、たよりにされたようだ。また、「太平洋食堂」となづけた、現在いうところのデイケアでは、子どもたちをはじめ、多くの住民に食事を提供したそうだ。現在。わたしたちが取り組んでいる、「無料低額診療」や「子ども食堂」の、偉大な先駆けである。
「医者をやっとったら、貧しい者、虐げられている者、 苦しんでいる者がおるのがいやでも目に入ってくる。それがアカンことやと思いながら、その現実から目を背け、手をこまねいて生きていけるもんやろか?」というのが、後記の本の解説にはある。
 与謝野鉄幹ら「明星派」の歌人とも交流し、やがて、幸徳秋水らの社会主義者と面識を深めてゆく。その結果、「大逆事件」という、山県有朋をはじめとする、時の為政者による、卑劣な一大フレームアップ(謀略)で、刑場の露と消えた。
「みなの頭の上に、よく晴れた秋空がひろがっている。川が流れ、海へと流れ込む。そこはもう、太平洋だ。」(柳広司「太平洋食堂」より)
 
 格差のない社会を目指したが、残念なことに、一旦、途絶えたようにも見える大石誠之助の願いを、新たな形で受け継いでゆきたいものである。また、もう一度、機会があれば、太平洋(パシフィック・オーシャン=平和な大海)を眺めたいとしきりに願う今日このごろである。
参考】柳広司「太平洋食堂」(小学館文庫)

中井正一「土曜日」巻頭言(16)

◎我々の市民権の根底には明るいものがある 昭和十二年一月二十日

 時代によって、道徳がかわる、――その一ばん、よくわかる例と言えぱ、われわれ日本人には、何んと言っても、仇討だろう。
 講談や芝居や浪花節は、その八分通りは仇討をほめちぎることに力こぶを入れている。それは、まったく旧幕時代の道徳の考え方が、それに映っているのだ。旧幕時代でも、よく治まった時世には、人をあやめる物騒なことは、御法度だったが、それでも、世間の感情は、仇討の味方だった。仇討をしなければならない境遇に生れていながら、それの出来ない人間なんて、屑でしかなかった。
 けれども、明治以後は、復讐の行為は、はっきり人のいやしめる犯罪になった。仇討のためだと言っても、血なまぐさいことは、人が眉をひそめるようになった。
 復讐にあたるだけのことは、国家の法律が、制度として、われわれには直接は見えなくても、或るところまでやりとげて呉れる。われわれの道徳は、それに信頼して、物騒なこと、險わしげなこととは、全く縁を切って、平和に暮して行くことにあるようになった。
 けれども、これはただ仇討だけの道徳的見方が変ったのではない。
 赤穂四十七士が艱難辛苦の結果、見事に主君の仇を討ったという、その辛苦の仕方などにも、例えば大石内藏之助が祇園で、放蕩無頼の限をつくし、我身を持ちくずし、貞淑な妻に対しては、肚で泣きながら、だけれど、芝居で見ているのがいやになるような、ひどい仕打をするというようなことも、今では、もっと別の考え方がなければなるまい。
「大事の前の小事」「目的は手段を神聖にする」といったようなたて前で、子供をすり替えたり、信書の盗読みをしたり、他人の話を立聞きしたり、間諜のために娘の操を売らせたり、そういうことを別だん気にかけない道徳も変ったし、変りつつある。
 数年前赤色ギャング事件というのがあった。又先日、選挙の軍資金を手に入れるために、細君を女郎に売った無産党の区会議員があったが、浪花節、講談もどきの、旧幕時代の道徳の名残が、こんな連中にもまつわりついているのだ。
 それに達する手段も、平和で、分りよくて、誰れでもが、是認し、参加することが出来て、はじめて目的も立派だと言える。われわれは明治以来、安心して、正しい目的を、正しい手段で実現出来る世の中に住みはじめているのではないだろうか。びくびくしたり、きょろきよろしたりするとすれば、する方が悪いのではなかろうか。
 政治や外交などについては、議会や新関の上で、はっきりと、飽くまでも、議論をたたかわして行ってもらいたい。

[編者注]中央公論社・久野収編・中井正一「美と集団の論理」では、美術出版社・中井正一全集第四巻所収の『土曜日』巻頭言より多くを収録する。前者での久野の言によれば、「中井正一が前もって毎号の巻頭言を別紙にうつさせておき、それが遺稿の中に発見されたからである。」とあるが、馬場俊明氏は「中井正一伝説」によれば、共同発行者であった能勢克男の執筆だと推定している。この文章は、やや中井正一の文調と異なる気がしないではないが、当方には、いずれとも決めがたいので、前者を底本として掲載しておく。

南総里見八犬伝(005)

南総里見八犬伝巻之二第四回

東都 曲亭主人 編次

——————————————————

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ

(例)小湊《こみなと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号

(例)又|浦嶋《うらしま》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〓:UNICODE 表にない漢字、[]内に漢字の部分を示したところもあり

——————————————————-

小湊《こみなと》に義實義《よしさねぎ》を聚《あつ》む
笆內《かきのうち》に孝吉讐《たかよしあた》を逐《お》ふ

 卻說義實主從《かくてよしさねしゆうじゆう》は、此《こゝ》の池、彼川《かしこのかは》と、淵《ふち》をたづね、瀨《せ》に立《たち》て、途《みち》より途《みち》に日を消《くら》せば、白濱《しらはま》の旅宿《りよしゆく》へかへらず、ゆき/\て長狹郡《ながさのこふり》、自箸河《しらはしかは》に涉獵《あさる》ほどに、はや三日にぞなりにける。日數《ひかず》もけふを限りと思へば、こゝろ頻《しきり》に焦燥《いらだつ》のみ、獲《えもの》は殊《こと》にありながら、小鯽《こふな》に等しき鯉《こひ》だにも、鈎《はり》にかゝるは絕《たえ》てなし。千劒振神《ちはやふるかみ》の代《よ》に、|彥火々出見尊《ひこほほでみのみこと》こそ、失《うせ》にし鈎《はり》を索《もとめ》つゝ、海龍宮《わたつみ》に遊び給ひけれ。又|浦嶋《うらしま》の子は堅魚釣《かつをつ》り、鯛釣《たひつり》かねて七日まで、家にも來《こ》ずてあさりけん、例《ためし》に今も引く絲の、紊《みだ》れ苦しき主從は、思はずも面《おもて》をあはして、齊一嗟嘆《ひとしくさたん》したりけり。

 浩處《かゝるところ》に河下《かはしも》より、聲《こゑ》高やかに唄《うた》ひつゝこなたを望《さし》て來るものあり。主從これを見かへれば、最蓬《いときたな》げなる乞兒《かたゐ》也。什麼《そも》いかなる打扮《いでたち》ぞ。ふり亂《みだ》したる髮《かみ》は、春の末黑《すぐろ》の芒《すゝき》の如く、掻垂《かきたれ》たる裳《ものすそ》は、秋の浦による海松《みる》に似たり。手ともいはず、顏ともいはず、あやしき瘡《かさ》のいできたる、人の皮膚《はだヘ》はなきものをや。熟《じゆく》せる茘枝《れいし》、裂《さけ》たる柘榴《ざくろ》、巨《ふり》たる蟇《ひき》の脊《そびら》といふとも、かくまではあらじかし。さても命は惜《をし》きものかな。世に疎《うとま》れ、人に嫌《きらは》れても、得死《えしな》ざりける。うち見ても|忌々《いま》しきに、渠《かれ》は何《なに》とも思はざるにや、底斜《そこなゝめ》なる面桶《めんつう》をうち鳴らし、訛《だみ》たる聲して唄《うた》ふを聞けば、
  〽里見えて、/\、白帆《しらほ》走らせ風もよし。安房《あは》の水門《みなと》による舩《ふね》は、浪《なみ》に碎《くだ》けず、
   潮《しほ》にも朽《くち》ず、人もこそ引け、われもひかなん。
くり返《かへ》しつゝ來る程に、やがて河邊《かはべ》に立《たち》とゞまり、|彼人々《かのひとひと》の釣するを、つく/\とうち見てをり。流るゝ膿血《うなぢ》の臭《くさ》ければ、主從《しゆうじゆう》は鼻を掩《おほ》ふて、「とく逝《いね》かし」、とおもふものから、乞兒《かたゐ》は立《たつ》こと久《ひさしう》して、近くよりつゝひとり/\に、笠《かさ》の內をさし覗《のぞ》き、「あな刀袮《との》ばらの釣《つり》ざまこそこゝろ得ね。或《あるひ》は鯽《ふな》、或《あるひ》は蝦《えび》、鈎《はり》を呑《のむ》をば皆|捨《すて》て、何《なに》をか獲《え》まく思ひ給ふ」、としば/\問《とは》れて氏元は、已《やむ》ことを得ず頭《かうべ》を回《めぐら》し、「否《いな》わが欲《ほり》するものは鯉《こひ》也。他魚《あだしうを》は好《このま》しからず。無益《むやく》の殺生《せつせう》せじと思へば、一ッもとゞめず放せし」、といふを乞兒《かたゐ》は聞《きゝ》あへず、腹を抱《かゝえ》てうち笑ひ、「こゝにて鯉を求《もとめ》給ふは、佐渡《さど》にして狐《きつね》を訊《たづね》、伊豆大嶋《いづのおほしま》に馬を問《とふ》より、なほ勞して功なき所爲《わざ》也。いまだ聞召《きこしめさ》れずや。安房一國《あはいつこく》には鯉を生《せう》ぜず、又|甲斐《かひ》にも鯉なしとぞ。是《これ》その風土《ふうど》によるもの欤《か》。又一說に、一國十郡《いつこくじうぐん》ならざれば、彼魚《かのうを》はなきもの也。波巨《はきよ》の冠《くわん》たるものなればといへり。そのなき物を求め給ふは、實に無益《むやく》の殺生ならん」、とあざみ傲《ほこ》りつ、掌《て》を拍《うち》て、又|呵々《かやかや》とうち笑へば、義實おぼえず竿《さを》を捨《すて》、「現巨魚《げにこぎよ》は地中《ちゝう》に生《せう》せず、大鵬《たいぼう》は燕雀《えんじゃく》の林に遊ばず。われいかなれば世を狹《せば》み、天高けれども跼《せくゞま》り、地は厚《あつ》けれども蹐《ぬきあし》して、安房一郡の主《ぬし》にすら容《い》られず。然《さ》るを喩《たとへ》を龍《たつ》に取り、今《いま》又鯉に久後《ゆくすゑ》を、思ひよせしは愚癡《ぐち》なりき。元來《もとより》鯉はこの地方《ところ》に、なしとしりつゝ釣《つり》せよ、といひつる人の心の底は、濁江《にごりえ》ながら影見えて、ふかき伎倆《たくみ》と今ぞしる。もしこの乞兒《かたゐ》に逢《あは》ざりせば、彼毒計《かのどくけい》にあてられなん。危《あやう》かりし」、と今更に、只管驚嘆《ひたすらきやうたん》し給へば、乞兒《かたゐ》はこれを慰《なぐさめ》て、「さのみ悔《くや》しく思ひ給ふな。陸奧《みちのく》にも鯉はなし。彼處《かしこ》は五十四|郡《ぐん》なり。しかれば鯉の生《せう》すると、生《せう》せざるとはその國郡《くにこふり》の、大小によるものかは。かゝれば一國《いつこく》十|郡《ぐん》に充《みた》ざれば、鯉なしといふものは、牽强附會《けんけうふくわい》の臆說《おくせつ》ならずや。十室《とかど》の邑《むら》にも忠信《ちうしん》あり。譬《たとへ》ば里見の御曹司《おんぞうし》、上毛《かみつけ》に人となりて、一个國《いつかこく》を知るによしなく、この處に漂泊《ひやうはく》して、膝《ひざ》を容《い》るゝの室《いへ》なき如し」、といふに主從《しゆうしゆう》目を注《くは》して、乞兒《かたゐ》の顏をうち熟視《まも》る。そが中に義實は、うち聞每《きくごと》に嘆息《たんそく》し、「人は形貌《かたち》によらぬものかな。汝《なんぢ》が辨論乞兒《べんろんかたゐ》に似ず。楚《そ》の狂接輿《きやうせつよ》の類《たぐひ》なる欤《か》、又|彼光明皇后《かのくわうめうくわうぐう》に、垢《あか》を掻《かゝ》せし權者《ごんじや》の類《たぐひ》欤《か》。固《もと》より吾《われ》をしるもの欤《か》。その名を聞《きか》まほしけれ」、と訝《いぶか》り給へば、莞然《につこ》と咲《えみ》、「こゝは人の往還繁《ゆきゝしげ》かり。誘《いぎ》給へ」とて先に立《たて》ば、主從はなほ訝《いぶかり》ながら、遽《いそがは》しく竿《さを》をおさめて、後《あと》に跟《つき》つゝゆく程に、小松原《こまつはら》の鄕《さと》近き、山蔭《やまかげ》に誘引《いざなひ》て、おのが脊《そびら》にうち被《き》たる、菰《こも》を脫《ぬぎ》て塵《ちり》うち拂ひ、樹下《このもと》にうち布《し》きて、義實を居《すえ》まゐらすれば、氏元と貞行は、夏草を折敷《をりしき》て、主《しゆう》の左右についゐたり。

 當下乞兒《そのときかたゐ》は逡巡《あとしさり》して、恭《うやうや》しく額《ぬか》を著《つき》、「いまだ見參《げんざん》に入《い》れるものに候はねば、不審《いぶかし》と思召《おぼしめし》けん。これは神餘長狹介光弘《じんよながさのすけみつひろ》が家隸《いへのこ》に、金碗八郞孝吉《かなまりはちらうたかよし》と呼《よば》れしものゝ、なれる果《はて》にて候かし。金碗は神餘の一族、|歷々《れきれき》たる武士なれ共、庶子《しよし》たるをもって家臣となりぬ。しかれども老臣の第一席に候ひしが、某《それがし》はやく父母《ふぼ》を喪《うしな》ひ、年なほ廿《はたち》に充《みた》ざれば、その職《しよく》に堪《たへ》ずとて、このときに微祿《びろく》せられて、僅《はつか》に近習《きんじゆ》に使《つかは》れたり。かくて主君の行狀《ぎやうでう》よからず、色を好み、酒に荒《すさ》み、側室玉梓《そばめたまづさ》に惑溺《わくでき》して、後堂《こうだう》の內を出《いで》ず、佞人定包《ねいじんさだかね》を重用《ちやうよう》して、賞罰《せうばつ》を任《まか》せしかば、これより家則《かそく》いたく紊《みだ》れて、神は怒り、人はうらめり。その危《あやう》きこと鷄卵《とりのこ》を、累《かさね》たるに異《こと》ならねども、老黨《ろうだう》は祿《ろく》の爲に、その非をしりつゝこれを諫《いさめ》ず、民はおそれて訴へず。君はみづから法を犯《おか》して、これを曉《さと》るによしなければ、某頻《それがししきり》に面《おもて》を犯《おか》して、爭ひ諫《いさむ》れどもそのかひなし。比干《ひかん》が肝《きも》を刀尖《きつさき》に串《つらぬ》き、伍子胥《ごししよ》が眼《まなこ》を東門《とうもん》に掛《かく》るまで、しばしば諫《いさ》めて用ひられずは、死《しな》ばや、と思ひ候ひしが、つく/\と思ひかへせば、臣として君《きみ》の非をいふ、その罪も又|輕《かろ》からず。大厦《たいか》の覆《くつがへら》んとするときに、一《いち》木《ぼく》いかでかこれを拄《さゝえ》ん。身|退《しりぞ》くより外《ほか》なし、と既に深念《しあん》を決《さだめ》しかば、那古七郞《なこのしちらう》、天津《あまつの》兵內《ひやうない》といふ、兩個《ふたり》の同僚《どうやく》にのみ、志《こゝろざし》を吿《つげ》しらせ、妻子《やから》なき身の心やすさは、夜《よ》に紛《まぎ》れて逐電《ちくでん》し、上總《かづさ》へ赴《おもむ》き、下總《しもふさ》へうち越《こえ》、上野下野《かみつけしもつけ》いへばさら也、陸奧《みちのく》の盡處《はて》までも、旅より旅に日を彌《わた》る、便著《たつき》には做得《ならひえ》たる、劍術拳法《けんじゆつやわら》の師範《しはん》と呼《よば》れて、是首《ここ》に半年《はんねん》、彼首《かしこ》に一季《いつき》、またぬ月日もたつとしなれば、はや五年《いつとせ》を經《ふ》るまゝに、故主《こしゆう》の安否《あんひ》心もとなく、今茲竊《ことしひそか》に上總《かつさ》まで、還《かへ》りしことは奈麻餘美《なまよみ》の、甲斐《かひ》こそなけれ主家《しゆうか》の滅亡《めつぼう》。皆|定包《さだかね》が逆意《ぎやくゐ》に起りて、杣木朴平無垢三等《そまきのぼくへいむくざうら》が、獵箭《さつや》に命を隕《おと》し給ふ、と聞《きゝ》つるときは腸斷離《はらわたちぎ》れ、骨も碎《くだく》る心持《こゝち》せり。件《くだん》の朴平無垢三は、父がときより生育《おひたゝ》せ、年來《としごろ》使ひし私卒《わかだう》なりき。彼等もをさ/\わが家《いへ》の、劒法《けんじゆつ》を傳受《でんじゆ》しつ、侠氣《をとこぎ》なるものなれば、農家の子には生れても、畊耘《たがやしくさき》る事を好まず、いつ/\までもと思ひけん、某《それがし》に棄《すて》られて、又|土民《どみん》にはなりたれども、苛法《からきはつと》の苦しさに、主《しゆう》の仇《あた》、身の讐《あた》なる、定包を射て殺さん、と思ふ矢坪《やつぼ》をはかられて、うたてき所行《わざ》をしてけり、と推量《おしはか》れば猶怨《なほうらみ》ても、怨倦《うらみあか》ぬは彼逆賊《かのぎやくぞく》。狙擊《ねらひうた》んと思へども、面《おもて》は豫《かね》て見しられたり、近づくべうもあらざれば、晉《しん》の豫讓《よじやう》に做《なら》ひつゝ、身に漆《うるし》して姿を窶《やつ》し、日每《ひごと》に瀧田を俳徊《はいくわい》して、閒《ま》なく時なく窺《うかゞ》へ共、露《つゆ》ばかりも便りを得ず、怪しむ人のなきにあらねば、且《しばら》く彼處《かしこ》を遠離《とほざか》りて、この處へ來る程に、よに隱れなき巷《ちまた》の風聞《ふうぶん》、里見冠者義實《さとみのくわんじやよしさね》ぬし、結城《ゆふき》の屯《たむろ》を脫《のが》れ來て、麻呂安西《まろあんさい》をたのみ給へど、彼《かの》人々は能《のう》を忌《い》み、才《さえ》を媢《ねた》みてこれを用ひず、剩言《あまつさへこと》を設《まうけ》て、殺さんと計《はか》れるよし、不思議に耳に入るといへ共、君に吿《つげ》なん因《よすが》はあらず。一トたび御名《みな》を聞《きゝ》しより、只嬰兒《たゞみどりこ》が垂乳母《たらちめ》を、慕《した》ふ心持《こゝち》はするものから、そは何處《いづこ》にとうちつけに、人に問《とふ》べきことならねば、胸のみ苦し。しかはあれど、いかでめぐりもあはんとて、彼此《をちこち》となく呻吟《さまよひ》つゝ、けふはこゝにとしら箸《はし》の、河邊《かはべ》に來《く》れば釣する刀祢《との》ばら、他鄕《たけう》の人とおぼしきに、人表骨相平人《にんひやうこつがらたゞひと》ならず。親しく見えても禮儀《れいぎ》に稱《かな》ふ、その爲體《ていたらく》は主從《しゆうしゆう》也。これぞ正《まさ》しく彼君《かのきみ》ならん、と推量《おしはか》れども白地《いさゝめ》に、いひよるよしも渚漕《なぎさこ》ぐ、蜑《あま》が舟歌《ふなうた》に擬《なぞら》へて、事情《ことのこゝろ》を述《のべ》たりし。何《なに》とか聞《きか》せ給ひけん。里見えて/\とは、里見の君を得て歡《よろこ》ぶ、民の心を表《ひやう》したり。白帆《しらほ》走らせ風もよしとは、白帆《しらほ》は源家《げんけ》の旗《はた》をいふ。こゝに義兵《ぎへい》を揚《あげ》給はゞ、威風《いふう》に靡《なびか》ぬ民草《たみくさ》なし、といへるこゝろを隱したり。安房の水門《みなと》へよる舩《ふね》は、浪《なみ》に碎けず、潮《しほ》にも朽《くち》ず、人もこそひけ、われもひくとは、荀子《しゆんじ》に所云《いはゆる》君は舩《ふね》也。君|今漂泊《いまひやうはく》し給ひて、麻呂安西|等《ら》に忌嫌《いみきらは》れ、難義《なんぎ》におよび給へども、國人《くにうと》なべて贔屓《ひき》たてまつれば、竟《つひ》におん身に恙《つゝが》なく、瀧田《たきた》、館山《たてやま》、平館《ひらたて》なる、剛敵《ごうてき》を、うち平《たひら》げ給はん、と祝《しゆく》してかくは諷《うたへ》る也。今|義《ぎ》に仗《より》て籏《はた》を揚《あげ》、猛《にはか》に瀧田へ推寄《おしよ》せて、定包《さだかね》が罪をかぞへ、短兵急《たんへいきう》に攻《せめ》給はゞ、一擧《いつきよ》して城を落《おと》さん。彼賊既《かのぞくすで》に誅伏《ちうふく》して、平郡長狹《へぐりながさ》を取《とり》給はゞ、麻呂安西等は討《うた》ずも倒《たふ》れん。先《さき》にするときは人を制し、|後《おく》るゝときは征《せい》せらる。とく/\思ひたち給へ。彼城《かのしろ》は|如此々々《しかしか》也、|箇樣々々《かやうかやう》」、と地理|要害《えうがい》を、手にとるごとく述《のべ》しかば、氏元も貞行も、よに憑《たのも》しき心持《こゝち》して、頻《しきり》に耳を側《そばだ》てたり。

 かゝりけれども義實は、その議に從ふ氣色《けしき》なく、「いはるゝ所われには過《すぎ》たり。謀《はかりごと》よしといふとも、寡《くわ》をもて衆《しゆう》に敵しがたし。況《いはんや》われは浮浪人《ふらうにん》なり。何を因《よすが》に躬方《みかた》を集《あつめ》ん。今|只《たゞ》主從三四|人《ン》、瀧田の城を改《せめ》んとせば、蟷蜋《いぼじりむし》が斧《たつき》を楊《あげ》て、車《くるま》にむかふに異ならず。及《および》がたし」、と辭《いろひ》給へば、金碗《かなまり》八郞|小膝《こひざ》をすゝめ、「いふがひなく見え給ふものかな。大約二郡《おほよそにぐん》の民百姓《たみひやくせう》、彼逆賊《かのぎやくぞく》に虐《しへた》げられ、怨骨髓《うらみこつずい》に徹《とほ》るといへども、權《けん》に壓《おさ》れ、威《ゐ》におそれて、且《しばら》く渠《かれ》に從ふのみ。人として義によること、草木《くさき》の日影《ひかげ》に向ふがごとし。君今こゝに孤獨《こどく》を辭《ぢ》せず、神餘《じんよ》が爲に逆を討《うち》、民の土炭《とたん》を救《すくは》んとて、一トたび籏《はた》を揚《あげ》給はゞ、蟻《あり》の蜜《あまき》に聚《つど》ふが如く、響《ひゞき》の物に應するごとく、皆|歡《よろこん》で走集《はせあつま》り、仁義《じんぎ》の軍《いくさ》に命を擲《なげうち》、生《いき》ながら定包が宍《しゝむら》を啖《くらは》ん、と願《ねがは》ざるもの候はんや。孝吉物《たかよしもの》の數《かず》ならねども、計略《はかりこと》をめぐらして、衆人《もろひと》を集合《つどへ》んこと、掌《たなそこ》をかへすより易《やす》かり。計略《はかりこと》は|箇樣々々《かやうかやう》」、と閒《ま》ちかく寄《より》て密語《さゝやけ》ば、義實は「有理《げにも》」と應《いらへ》て、はつかに點頭《うなつき》給ふにぞ、側《かたへ》に聞《きけ》る氏元等は、「奇なり。奇なり」、と感嘆《たんせう》して、又さらに孝吉を、とさまかうさまうち熟視《まも》り、「惜《をしい》かな金碗どの、忠義《ちうぎ》の爲とはいひながら、皮膚《はだへ》は瘡《かさ》に包《つゝま》れて、つや/\人の面影《おもかげ》なし。さでは躬方《みかた》を集《あつむ》るに、しる人ありとも、名吿《なの》るとも、それとは思ひかけざるべし。もしその瘡《かさ》の頓《とみ》に愈《いゆ》る、良藥《りやうやく》なくは不便《ふべん》の事也。藥劑《くすり》もがな」、と慰《なぐさむ》れば、孝吉|聞《きゝ》て袖《そで》を掻揚《かきあげ》、「故主《こしゆう》の爲には身もをしからず。遂《つひ》に廢人《かたは》となりぬとも、彼逆賊《かのぎやくぞく》を滅《ほろぼ》さば、望《のぞみ》は既に足《たり》なんものを。わが爲による軍兵《ぐんひやう》ならねば、面影《おもかげ》は變《かは》るとも、露ばかりも妨《さまたげ》なし。必懸念《かならずけねん》し給ふな」、といひつゝ腕《かひな》をかき附《なづ》れば、義實|且《しばら》く沈吟《うちあん》じ、「志はさもありなん。さりとて愈《いゆ》る瘡《かさ》ならば、愈《いや》すにますことあるべからず。漆《うるし》は蟹《かに》を忌《いむ》もの也。されば漆を掻《か》く家にて、もし蟹《かに》を烹《に》ることあれば、漆ながれてよらずとなん。よりて思ふに、今その瘡《かさ》は、漆の毒に觸《ふれ》たるのみ、內より發《いで》きしものならぬに、蟹《かに》をもてその毒を解《とか》ば、立地《たちどころ》に愈《いえ》もやせん。用ひて見よ」、と宣《のたま》へば、孝吉その智に感佩《かんはい》して、遂《つひ》に又|是《これ》を推辭《いなま》ず。「この浦曲《うらわ》には蟹《かに》多かり。いかで試《こゝろ》み候はん」、とことうけまうす折《をり》もよし、蜑《あま》の子どもが頭《かうべ》のうへに、魚藍《ふご》を載《のせ》つゝ來にければ、貞行氏元|遽《いそがは》しく、「こや/\」と呼《よび》とゞめ、「何《なに》ぞ」と問《とへ》ば蟹《かに》也けり。「あな愛《めで》たし」、と笑《えみ》ながら、遣《のこ》りなく買《かひ》とるに、その數《かず》三十あまりあり。義實はこれを見て、「箇樣《かやう》にせよ」、と敎《をしえ》給へば、孝吉はこゝろ得果《えはて》て、その半《なかば》は生《いき》ながら、甲《こう》を碎きて全身《みうち》にぬりつ。そが閒《ひま》に貞行|等《ら》は、腰なる燧《ひうち》をうち鳴らし、松の枯枝《かれえ》を折燒《をりたき》て、殘れる蟹《かに》を炙《あぶ》りつゝ、甲を放《はなち》、足を去《さり》て、孝吉に與《あたふ》るを、ひとつも殘さず腹《ふく》せしかば、さしも今まで臭《くさ》かりし、膿血《うなぢ》は乾《かは》き、瘡痂《かさふた》は、只掻《たゞか》く隨《まゝ》に脫落《こぼれおち》て、大かたならず愈《いえ》にけり。現揭焉《げにいちじるき》藥の效驗《こうげん》、神佛孤忠《しんぶつこちう》を憐《あはれみ》て、かゝる奇特《きどく》を示すに似たり。「奇《き》也/\」、と氏元は、貞行もろ共|縱《たて》に見つ、橫にながめて嘆賞《たんせう》し、「あれ見給へ」、と指《ゆびさ》せば、孝吉は馬蹄迹《うまざくり》の、溜水《たまりみづ》を鏡《かゞみ》にして、わが面影《おもかげ》をつく/\と、見つゝ感淚《かんるい》を禁《とゞめ》あへず、「皮膚《はだへ》はつゞける處もなく、掻亂《かきみだ》せし瘡《かさ》は、今|立地《たちところ》に愈《いえ》たる事、文武《ぶんぶ》の道に長《たけ》給ふ、良將《りやうせう》の賜《たまもの》なり。名醫《めいゐ》は國を醫《ゐ》するとかや。某《それがし》が身ひとつは、屑《ものゝかず》にも候はず。亂れし國をうち治《おさ》め、民の苦艱《かんく》を救ひ給はゞ、眞《まこと》にこよなき仁術《じんじゆつ》ならん。此《この》ところは麻呂安西が、采地《れうぶん》に候はねば、よしや限れる日を過《すぐ》す共、彼等もせんすべなからん歟《か》。さりとて猶豫《ゆうよ》すべきにあらず。嚮《さき》に密語《さゝやき》まうせしごとく、はやく彼處《かしこ》へ赴《おもむ》き給へ」、と叮嚀《ねんころ》に勸《すゝ》めつゝ、蓬《おどろ》の髮を掻《かき》あげて、髻短《もとゞりみじか》に引結ぶ、腰には繩《なは》の帶《おび》ながら、隱してもてる匕首《あひくち》を、さして往方《ゆくへ》は小湊《こみなと》の、浦曲《うらわ》迥《はるか》に誘引《いざなひ》ぬ。

 さる程に、金碗八郞孝吉《かなまりはちらうたかよし》は、里見主從に鄕導《みちしるベ》して、小湊《こみなと》へ赴《おもむ》けば、夏の日ながらはや暮《くれ》て、廿日《はつか》あまりの月はまだ、待《まつ》としなれば出《いで》やらず、只誕生寺《たゞたんぜうじ》の鐘《かね》の聲、僂《かゞなふ》れば亥《ゐ》の時なり。さてもこの小湊なる、高光山《こうくわうさん》誕生寺は、敢川村《あへかはむら》のうちにあり。日蓮上人出生《にちれんせうにんしゆつせう》の地なるをもて、日家上人開基《につかせうにんかいき》して、一宇《いちう》の精舍《せうしや》を建立《こんりう》し、誕生寺と名《なづ》けたり。かくてぞ良賎渴仰《りやうせんがつこう》し、僉《みな》この檀那《だんな》となりしかば、法門長久《はうもんとこしなへ》に繁昌《はんぜう》す。俗《よ》にいふ上總《かつさ》の七里法華《しちりほつけ》、安房七浦《あはなゝうら》の經宗《きゃうしう》とて、大かた題目宗《だいもくしう》なれども、就中長狹郡《なかについてながさのこふり》は、祖師《そし》誕生の地なればにや、筍且《かりそめ》にも他宗《たしう》をまじへず、偏固《へんこ》の信者多かりける。

 されば金碗孝吉は、豫《かね》て計《はか》りしことなれば、且里人等《まづさとひとら》を衆《つどへ》んとて、誕生寺のほとりなる、竹叢《たかむら》に火を放《かけ》たり。させる燃草《もえくさ》ならねども、野干玉《ぬばたま》のくらき夜《よ》なれば、火氣忽地《くわきたちまち》に天《そら》に衝《のぼり》て、梢《こすゑ》の宿鳥立騷《ねとりたちさわ》ぎ、法師ばらは撞木《しゆもく》を早めて、鐘を撞《つく》ことしきりなり。かゝりし程に彼此《をちこち》なる、里人等は驚き覺《さめ》て、門《かど》の戶推開瞻仰《とおしあけあふぎみ》て、「すはわが寺に事こそあれ。起《おき》よ、出《いで》よ、と罵《のゝし》りつゝ、里人は棒《ぼう》を引提《ひきさげ》、莊客《ひやくせう》は農具を携《たづさへ》、漁夫舟人《れうしふなおさ》、祢子《ねこ》も釋氏《しやくし》も、おの/\先を爭ふて、|喘々《あへぎあへぎ》走り來つ、と見れば寺は恙《つゝが》なく、其處《そこ》を去ること兩三《りやうさん》町、人もかよはぬ竹薮《たかやぶ》のみ、果敢《はか》なくも燒《やけ》たるなり。夜《よ》は靜《しづか》にして風吹かず、里|遠《とほう》して小舍《こいへ》もなければ、人|僉《みな》走り聚《つどひ》し比《ころ》、火は大かたに鎭《しづま》りて、鐘も音せずなりしかば、衆人《もろひと》更《さら》に呆《あき》れ惑《まど》ひて、鉢卷《はちまき》にせし手拭《てのごひ》を、解《とき》つゝ汗《あせ》をとるもあり、「これはいかなる白徒《しれもの》か、うたてき所行《わざ》をしたるぞや。野火《のび》のすさりてうつりし歟《か》。斯《かう》とはしらず可惜宵《あたらよ》を、人も我《われ》も起《おこ》されて、迩《ちか》きは十町、遐《とほき》は三四|里《り》、飛ぶがごとくに走り來て、減《へら》せしうへに立腹《たつばら》の、やるかたなきをいかにせん」、「さりとてさせる事なきは、歡《よろこ》ぶべき筋《すぢ》ならずや」、といはれて咄《どっ》と笑ふもあり、しうねく罵《のゝし》るものも皆、集合《つどひ》し優《まゝ》に憩《いこ》ひてをり。

 當下《そのとき》金碗孝吉は、燒殘《やけのこ》りたる薮蔭《やぶかげ》より、咳《しはぶ》きしつゝ立出《たちいづ》れば、衆皆齊一《みなみなひとしく》これを見て、「人か、鬼か」、とばかりに、且《かつ》驚き且《かつ》呆れて、「あれよ/\」、といふ程に、孝吉は手を抗《あげ》て、「衆人《もろひと》あやしむことなかれ。われは甲夜《よひ》より此《この》ところに、伱達《なんたち》をまつもの也」、と喩《さと》せば更にと見かう見て、「原來正《さてはまさ》なき所行《わざ》をして、俺們《われわれ》を迷《まよは》せし、白物《しれもの》は彼奴《かやつ》也。打《うて》よ。括《くゝ》れよ」、と鬩《ひしめ》くを、騷がず軈《やが》て進み寄《より》、「緣由《ことのよし》を吿《つげ》ざれば、しか思はるべきことながら、故《ゆゑ》なくこゝに火を揚《あげ》て、汝達《なんたち》を集合《つどへ》んや。名吿《なのり》をせん」、と推鎭《おししづ》め、「その國亂れて忠臣《ちうしん》あらはれ、その家|艱《なや》みて孝子出づ。志《こゝろざ》すことあればこそ、かくは浮世《うきよ》に隱笠《かくれがさ》、みのざま窶《やつ》れ果《はて》たれば、それとは思ひかけぬなるべし。われは舊《もと》の國主《こくしゆ》に任《つかへ》し、金碗《かなまり》八郞孝吉なり。曩《さき》には君を諫《いさめ》かねて、心ならずも身退《しりぞ》き、旅宿《たびね》に年を經たれども、舊恩《きうおん》いかでか忘《わす》るべき。逆臣|定包《さだかね》を擊《うた》ん爲、潛《しの》びて故鄕《こけう》に立《たち》かへり、名を變《かえ》、姿を窶《やつ》しつゝ、をさ/\隙《ひま》を〓[穴/鬼]《ねらへ》ども、人|衆《おほ》ければ天に捷《かつ》、讐《あた》は三里の城に居《ゐ》て、萬人《まんにん》の從類《じゆうるい》あり。豫讓《よじやう》が劒《つるぎ》を橋下《きやうか》に磨《とぎ》、又あるときは忠光《たゞみつ》が、眼《まなこ》を魚鱗《ぎよりん》に覆《おほへ》どもかひなし。さりとて平館《ひらたて》、|々山《たてやま》なる、麻呂安西は心|蓬《きたな》く、逆に與《くみ》して恥《はぢ》とせず。古主《こしゆう》に舊交《きうこう》ありといふとも、これらに機密《きみつ》を吿《つげ》がたし。形《あぢき》なき世を憤《いきどほ》り、墓《はか》なきこの身を恨《うらむ》るのみ。愸《なまじい》に現身《うつせみ》の、息《いき》の內こそ術《すべ》なけれ、死しての後《のち》に灵《れう》になりて、遂《つひ》に怨《うらみ》を復《かへ》さんには、〓[月+度]《はら》を切らん、と思ふ折、里見冠者義實《さとみのくわんしやよしさね》ぬし、結城《ゆふき》の寄手《よせて》を殺脫《きりぬけ》て、白濱《しらはま》に漂泊《ひやうはく》し、安西等を賴み給ふに、彼等は忌《いみ》てしばしも留《とゞ》めず、|箇樣々々《かやうかやう》に言《こと》を設《まうけ》て、殺さんとせしかども、縡《こと》いまだその期《ご》に至らず。われはからずも白箸《しらはし》の、河畔《かはべ》に行《ゆき》あひ奉り、忽卒《あからさま》に物いひかけて、竊《ひそか》に試み奉るに、彼君《かのきみ》年なほわかしといへども、言語應對仁《げんぎよおうたいじん》あり義《ぎ》あり、實に文武の良將也。大約結城《おほよそゆふき》に籠《こも》りし武士、或《あるひ》は擊《うた》れ生拘《いけど》られ、恙《つゝが》なきは稀《まれ》なるに、主從《しゆうしゆう》不思議に虎口《こゝう》を脫《のが》れて、こゝに漂泊し給ふこと、わが身ひとつの幸《さち》ならず、彼《かの》逆賊定包に、年來《としごろ》いたく虐《しへたげ》られ、しのび/\にうち欺《なげ》く、伱達《なんたち》が福《さいはひ》ならずや。はやく彼君《かのきみ》に從ひまゐらせ、定包を滅《ほろぼ》さずは、是則賊民《これすなはちぞくみん》也。一國なべて餘殃《よわう》を受《うけ》ん。國の爲に逆を討《うち》、義に仗《よ》るものは良民《りやうみん》也。ながく土炭《とたん》を脫《まぬか》れて、子孫|必餘慶《かならずよけい》を受《うけ》ん。今このことを吿《つげ》んとするに、言《こと》は必洩易《かならずもれやす》し。ひとり/\にいふよしなければ、已《やむ》ことを得ず火を揚《あげ》て、この篁《たかむら》へ集會《つどへ》たり。こは苟且《かりそめ》のことならず」、と叮嚀《ねんごろ》に說示《ときしめ》せば、僉歡《みなよろこび》てもろ手を拍《うち》、「こよなく窶《やつ》れ給ひしかば、面影を認《みし》れるものも、金碗どのとは思ひかけず、よしなきことをいひつるかな。不禮はゆるさせ給へかし。素《もと》より智もなく才《さえ》もなく、蟲に等《ひとし》き俺們《われわれ》なれども、誰《たれ》か國主《こくしゆ》の舊恩を忘るべき。誰《たれ》か定包《さだかね》をうらめしく思はざらん。憎しと思へどちから及ばず、勢ひ當《あたり》がたければ、月日《つきひ》はこゝを照《てら》さずや、とうち欺《なげ》きて候ひし。しかるに里見の君の事、誰《たれ》とはなしに風聲《ふうぶん》す。素姓《すせう》を問《とへ》ば源家《げんけ》の嫡流《ちやくりう》、世に又|罕《まれ》なる良將也、と聞《きゝ》つる日より慕《したは》しく、おの/\足を翹《つまたて》て、渴望《かつぼう》せざるものもなし。夏の日よりも苛酷《いらひど》き、ゑせ大領《たいれう》に病《やみ》萎《しぼ》む、民草《たみくさ》を憐《あはれみ》て、こゝに軍《いくさ》を起し給はゞ、誠《まこと》に國の大幸《たいこう》なり。孰《たれ》か命を惜《をし》むべき。冀《こひねがはく》は金碗どの、これらのよしを申給へ」、と辭《ことば》ひとしく應《いらへ》しかば、孝吉|後《あとべ》方を見かへりて、「其處《そこ》にて聞《きか》せ給ひけん。はや縡成《ことなり》て候」、と呼內《おとなひ》まうせば義實は、氏元貞行を將《い》て薮蔭《やぶかげ》より、|徐々《しづしづ》と進み出《いで》て、衆人《もろひと》にうち對《むか》ひ、「われこそ里見義實なれ。亂《みだれ》たる世は殊更《ことさら》に、弓箭《ゆみや》とる身のならひとて、修羅鬪場《しゆらとうぢやう》に奔走《ほんさう》し、矢傷《ししやう》の鳥となるものから、惡木《あくぼく》の蔭《かげ》には憩《いこ》はず。さりとて民《たみ》の父母《ふぼ》たるべき、その德|絕《たえ》てなしといへども、人|倘《もし》われを捨《すて》じとならば、われ亦《また》その議によらざらんや。譬《たとへ》ば千里《せんり》の駿馬《ときうま》も、その足なければ走りがたく、萬里《ばんり》に羽《は》を振《のす》、大鵬《たいぼう》も、翼《つばさ》なければ飛《とぶ》ことかなはず。われは孤獨の落武者《おちむしや》なれ共、今|衆人《もろひと》の佐《たすけ》を得たり。遂《つひ》になすことなからずやは。さはれ瀧田は剛敵《ごうてき》なり。馬|物具《ものゝぐ》整《とゝの》はず、兵粮《ひやうらう》の貯《たくはへ》なくは、|佻々《かろかろ》しく進みかたし。こはいかにして可《か》ならん」、と問《とは》れて衆皆面《みなみなおもて》をあはし、「現《げに》しかなり」、とばかりに、霎時回答《しばしいらへ》はせざりけり。

 そが中《なか》に、村長《むらおさ》とおぼしくて、老《おい》たるもの兩三人、班《むれ》をはなれてすゝみ出《いで》、「寔《まこと》に御諚《ごぢゃう》で候へば、聊愚按《いさゝかぐあん》を申スなり。凡長狹《およそながさ》一郡は、定包が股肱《こゝう》の老黨《ろうたう》、萎毛酷六《しへたげこくろく》があづかりにて、東條《とうでふ》に在城《ざいせう》せり。こゝを去ること遠からず。且縡《まづこと》の手あはせに、酷六を擊《うち》給はゞ、物具兵粮《ものゝぐひやうらう》いへばさら也、一郡|忽地《たちまち》おん手に入りなん。かくて瀧田を攻《せめ》給はゞ、進退《しんたい》自由に候はずや」、と言委細《ことつばらか》に吿《つげ》まうせば、義實|感嘆《かんたん》大かたならず、頻《しき》りに左右を見かへりて、「おの/\あれを聞《きゝ》たる歟《か》。野夫《やぶ》にも功者《こうのもの》ありとは、この叟等《おきなら》をいふべきなり。奇《き》を出《いだ》し、敵をはかるは、神速《すみやか》なるにますものなし。今宵直《こよひすぐ》さま推懸《おしかけ》て、彼處《かしこ》に備《そなへ》なきを擊《うた》ん。|箇樣々々《かやうかやう》にせよかし」、と謀《はかりこと》を示《しめし》給へば、孝吉等はこゝろを得て、氏元貞行もろ共に、聚合《つどひ》し村民《たみ》を數《かぞふ》れば、一百五十餘人《いつひやくごじうよにん》あり。迺《すなはち》これを三隊《みて》にわけて、謀《はかりこと》を傳《つたふ》れば、僉歡《みなよろこび》て令《げぢ》を承《うけ》、手に物なきは篁《たかむら》なる、巨竹《おほたけ》を伐《きり》とりて、竹槍《たけやり》として挾《わきはさ》む。その一隊《ひとて》は四十餘人、堀內貞行これを將《い》て、假に金碗孝吉《かなまりたかよし》を縛《いましめ》つゝ、先陣に進《すゝみ》けり。これ則《すなはち》義實の、計略《はかりこと》によればなり。後陣《ごぢん》は則《すなはち》五十人、杉倉氏元|大將《たいせう》たり。中軍《ちうぐん》は六十人、義實みづから將《せう》として、二隊《ふたて》は閒徑《こみち》より遶《めぐ》り出《いで》、城の正門《おほて》のほとりにて、一隊《ひとて》にならん、といそがしたり。

 さる程に、東條には、定包《さだかね》が目代《もくだい》なる、萎毛酷六郞元賴《しへたげこくろくらうもとより》、「小湊《こみなと》の火を鎭《しづ》めよ」とて、甲夜《よひ》には夥兵《くみこ》を出《いだ》せしが、火ははや減《きえ》つ、里遠き、野火《のび》なるよしを傳聞《つたへきゝ》て、夥兵《くみこ》は途《みち》よりかへりつゝ、再寐《またね》の夢を結ぶ程に、曉《あけ》がたちかくなりにけり。浩處《かゝるところ》に人夥《ひとあまた》、正門《おほて》の城戶《きど》を敲《たゝ》くにぞ、門卒《かどもるつわもの》は駭《おどろか》されて、「誰《たそ》」と問《とへ》ば、小湊なる、敢川《あへかは》の村長等《むらおさら》が、盜賊《ぬすびと》を捕へしとて、牽立《ひきたて》て來つる也。緣故《ことのもと》を尋《たづぬ》れば、「さン候|甲夜《よひ》の閒《ま》に、誕生寺《たんぜうじ》の竹薮《たかやぶ》なる、野火《のび》を滅《けさ》んとする程に、癖者《くせもの》を捕《とらへ》たり。力量早技面魂《りきりやうはやわざつらたましひ》、凡庸《よのつね》のものにあらず。軈《やが》て出處《しゆつしよ》を責問《せめとへ》ば、只罵《たゞのゝしり》て實《じつ》を得吐《えはか》ず。しる人ありてまうすやう、渠《かれ》は舊《もと》の國主《こくしゆ》に仕《つかへ》し、金碗八郞孝吉といふものなり。古主《こしゆう》の讐《あた》を復《かへ》さんとて、姿を窶《やつ》し、名を變《かえ》て、月ごろ瀧田を徘徊《はいくわい》せし、縡分明《ことふんみやう》に顯《あらは》れたり。こは輕《かろ》からざる罪人《つみひと》なるに、もし過失《あやまち》して走《はしら》せなば、後難遁《こうなんのが》るべうもあらず。よりて曉《あく》るをまたずして、大勢《たいぜい》して將《い》て參りぬ。これらのよしを申シ給へ」、と聲高やかに訴《うったへ》けり。そのとき門卒《かどもるつわもの》は、窓|推開《おしひら》き、つら/\見て、「よくこそしたれ。霎時等《しばしまて》、まうして入れん」、と應《いらへ》あへず、戶を引立《ひきたて》て走り去《さり》、此彼《これかれ》にや吿《つげ》たりけん、且《しばらく》して|瓦落々々《ぐわらぐわら》と、閂《くわんぬき》の音|戞《がら》めかして、角門《くゞりもん》を推《おし》ひらき、「皆とく入れ」、と呼入《よびい》るれば、縛《いましめ》られたる態《ふり》をして、先に進みし孝吉は、索《なは》をはらりと揮解《ふりほど》き、左方《ゆんで》に立《たつ》たる兵士《つわもの》が、刀の鞆《つか》に手を掛《かけ》て、引拔奪《ひきぬきうばふ》て磤《はた》と砍《き》る、刃《やいば》の光もろ共に、頭《かうべ》は飛《とん》で地に落《おち》たり。思ひかけなき事なれば、「こは狼藉《らうぜき》や」、とばかりに、慌忙《あはてふため》く兵士《つわもの》を追立《おつたて》進む貞行は、孝吉等に力を勠《あは》して、薙倒《なぎたふ》し、砍拂《きりはら》ひ、無人鄕《ひとなきさと》に入《い》るごとく、はや二《に》の城戶《きど》へ攻《せめ》つけたり。そが閒《ま》に莊客們《ひやくせうばら》は、大門《だいもん》を推《おし》ひらき、鬨《とき》を咄《どつ》と揚《あげ》しかば、氏元と一隊《ひとて》になりて、溝端《ほりばた》ちかく寄《よせ》たりける、義實これを聞《きゝ》あへず、「時分《じぶん》は今ぞ、圖《づ》をぬかすな。すゝめ進め」、と令《げぢ》し給へば、衆人何《もろひとなに》かは勇《いさま》ざらん。軈《やが》て合《あは》する鬨《とき》の聲、勢潮《いきほひうしほ》の涌《わく》ごとく、驀地《まつしくら》に走入《はせい》りて、一二の城戶《きど》をうち破り、「狗黨《くたう》の萎毛《しへたげ》、とく出《いで》よ。里見冠者《さとみのくわんしや》義實ぬし、この地に歷遊《れきゆう》し給ひしを、衆人推《もろひとおし》て主君と仰《あふ》ぎぬ。されば逆賊|定包《さだかね》をうち滅《ほろぼ》し、國の汚穢《けがれ》を掃《はらひ》給ふ、仁義の軍《いくさ》に誰《たれ》か敵せん。そのゆくところ、過《よぎ》るところ、老弱簟食壷醤《ろうにやくたんしこせう》して、これを迎奉《むかへたてまつ》り、只今|縡《こと》の手あはせに、まづこの城を獻《たてまつ》りぬ。先非《せんひ》を悔《くや》しく思はんものは、降參《こうさん》して頸《くび》を續《つ》げ。惑《まど》ひをとらば玉石《ぎよくせき》と、もろ共に碎けなん。出《いで》よ/\」、と喚《よび》かけて、縱橫無㝵《じゆうわうむげ》に捲立《まくりたつ》れば、城兵《ぜうひやう》ます/\辟易《へきゑき》して、防ぎ戰《たゝかは》んとするものなく、冑《かぶと》を脫弓箭《ぬぎゆみや》を棄《すて》、僉《みな》拜伏して命を乞《こひ》ぬ。

 かくて里見義實は、刃《やいば》に衅[「釁」の意]《ちぬら》ずして、東條の城を乘取《のつと》り、賊將萎毛酷六《ぞくせうしへたけこくろく》を索《たづね》給ふに、「渠《かれ》ははや落亡《おちうせ》て、その往方《ゆくへ》をしらず」といふ。義實|聞《きゝ》て眉根《まゆね》をよせ、「彼《かの》もの漸愧後悔《ざんぎこうくわい》し、志《こゝろざし》を改《あらため》て、けふよりわれに從はゞ、われ舊惡《きうあく》を咎《とがめ》んや。然《さ》るを無明《むめう》の醉醒《えひさめ》ず、いちはやく逃亡《にげう》せし事、固《もと》より惜《をしむ》に足らねども、直《たゞ》に瀧田へ遁《にげ》かへりて、定包に吿《つげ》んには、安西麻呂等に諜《てう》じ合せて、時日《じじつ》を移さず推《おし》よせ來つべし。われ今|新《あらた》に城を獲《え》て、二三百の士卒あれ共、半《なかば》は降參しつるものなり。主客《しゆかく》の勢《いきほひ》甲乙あり。謀合期《はかりことがつこ》せずして、三方《さんほう》に敵を受《うけ》なば、何をもてこれに當らん。誠《まこと》に諱《ゆ》々《ゆ》しき大事《だいじ》にあらずや。酷六既に走るとも、いまだ遠くはゆくべからず。氏元貞行|二隊《にて》にわかれて、疾追留《とくおひとめ》よ」、と令《げぢ》し給へば、「うけ給はりぬ」、と應《いらへ》あへず、はやうち出《いで》んとする折から、金碗八郞孝吉は、何處《いづこ》へか走去《はせさり》けん、軍兵《ぐんひやう》十|人《ン》あまりを將《い》て、忽然《こつぜん》とかへり來つ、大將義實にまうすやう、「けふの働き彼此《かれこれ》と、優劣《まさりおとり》は候はねど、某《それがし》はこの城の案內をよくしりぬ。されば衆軍《しゆぐん》に先たちて、三の城戶《きど》をうち毀《こぼち》、賊將萎毛酷六を、生拘《いけとら》んとてあさりにけれど、絕《たえ》てその所在《ありか》をしらず。顧《おもふ》に城の西北《いぬゐ》には、一條《ひとすぢ》の活路《ぬけみち》あり、前面《むかひ》は檜山《ひのきやま》にして、右のかたは樹立《こだち》ふかく、左は崖高《きりぎしたかう》して、下は千尋《ちひろ》の谷川也。城中一《ぜうちういち》の要害《えうがい》にて、人にしらさぬ祕所《ひしよ》なれば、笆《かき》の內《うち》と名づけたり。彼奴《かやつ》はこゝより遁《にげ》つらん、と推量《おしはか》りて候へば、こゝろ利《きゝ》たる軍兵《ぐんひやう》を駈催《かりもよほ》し、岨《そは》を傳ひ、蔓《かつら》にとり著《つき》、捷徑《ちかみち》よりうち出《いで》て、前面《むかひ》を佶《きつ》と見わたせば、女房《にようばう》子どもを箯《はんだ》に乘《のし》たる、主從《しゆうしゆう》すべて八九人、東南《たつみ》を投《さし》て走るものあり。熟視《つくつくみ》れば酷六なり。這奴《しやつ》もはじめは神餘《じんよ》の老黨《ろうだう》、われには遙立《はるかたち》まさりて、主君《しゆくん》のおぼえ大かたならず、その祿をもて身を肥《こや》し、眷屬妻孥《うからやから》を養ひながら、忠義の爲には得死《えしな》ずして、逆賊に媚諛《こびへつら》ひ、東條に在城して、飽《あく》まで民を虐《しへたげ》たる、天罰|竟《つひ》に逭《まぬか》れず、落城のけふに及びて、迯《にぐ》るとも脫《にが》さんや。『金碗八郞こゝにあり、かへせ戾せ』、と呼《よび》かけて、透閒《すきま》もなく追蒐《おつかく》れば、轎夫《かごかき》どもはこれに脅《おびえ》て、走跌《はしりつまつ》き轉輾《ふしまろび》、箯《はんだ》を撲地《はた》とうち墮《おと》せば、女房子どもは『吐嗟《あなや》』と叫びて、千尋《ちひろ》の谷へ滾落《まろびおち》、株《くひぜ》に打《うた》れ、石に碎かれ、骨も遺《のこさ》ず死《しん》でけり。萎毛は眼前《まのあたり》、妻子《やから》の橫死《わうし》を救ふにすべなく、鉾杖衝《ほこつゑつき》て岸邊に立在《たゞずみ》、こなたを佶《きつ》と見かへりて、脫《のが》れがたくやおもひけん、主從七|人《ン》魚鱗《ぎよりん》に備《そなへ》て、追來《おひく》る我《われ》をまつ程に、躬方《みかた》は鶴翼《くわくよく》に連《つらなつ》て、鷙鳥《しちやう》の燕雀《ことり》を擊《うつ》ごとく、旋風《つむぢ》の沙石《いさご》を卷《まく》ごとく、吐《どつ》と㗲《おめい》て突崩《つきくづ》す。地方《ところ》は名に負ふ節處《せつしよ》也。天《よ》は明《あけ》ながら雲ふかき、岨山蔭《そはやまかげ》の樹下闇《こしたやみ》、進むも退《のく》も一騎打《いつきうち》、互《たがひ》に識《しつ》たるどちなれば、鎧《よろひ》の抽を潛脫《くゞりぬけ》て、先を爭ふ躬方《みかた》の英氣《ゑいき》に、遁足憑《にげあしつき》たる雜兵等《ざふひやうら》は、霎時拄《しばしさゝえ》て散散《ちりちり》に、走るを追蒐追詰《おつかけおひつめ》て、殘りなく生拘《いけど》りつ、竟《つひ》に賊將|萎毛《しへたげ》を、擊《うち》とりて候」、と辭《ことば》せわしく演說《ゑんぜつ》して、件《くだん》の俘《いけどり》を引居《ひきすえ》させ、酷六が頸《くび》もろ共に、實檢《じつけん》に入れしかば、義實思はず嘆息し、「夫兵《それへい》は凶器《けうき》なり。德|衰《おとろへ》て、武を講《こう》し、澤《たく》足らざれば、威《ゐ》をもて制す。こは已《やむ》ことを得ざるのみ。城を攻《せめ》、地を爭ふも、民を救《すくは》ん爲なれば、われ樂《たのし》みて人を殺さず。さは定包《さだかね》に從ふもの、みな惡人にはあるべからず。或《ある》は一旦の害をおそれ、或《ある》は時と勢《いきほひ》に、志《こゝろざし》を移すもの、十にして八九なるべし。この故《ゆゑ》に非を悔《くひ》て、躬方《みかた》にまゐるものとしいへば、やがて命を助《たすく》るのみかは、用《もちひ》ざることなきものを、什麼《そも》いかなれば萎毛が、從卒《じゆうそつ》は生抅《いけど》られ、彼身《かのみ》は卻頭《かへつてかうべ》を喪《うしな》ひ、剩《あまつさへ》妻と子は、石堰水《いはせくみづ》ともろ共に、皮肉《ひにく》碎けて死《しに》たりけん。こは時と勢《いきほひ》に、志を移されて、逆に從ふのみならず、必《かならず》天の赦《ゆるさ》ざる、兇惡《けうあく》のものなるべし。よしや惡には從ふとも、みづから惡をなすべからず。努愼《ゆめつゝし》め」、と說諭《ときさと》し、金碗が牽《ひき》もて來《きた》せし、俘《いけとり》を釋放《ときゆる》させ、「凡新《およそあらた》にまゐれるものは、軍功《ぐんこう》の多少《たせう》によりて、後日《ごにち》に恩賞《おんせう》あるべし」、と正首《まめやか》に仰《おふせ》しかば、僉感淚《みなかんるい》を禁《とゞめ》あへず、「とても捨《すつ》ベき命なりせば、はじめよりこの君に從《したがは》ざることよ」とて、漸愧後悔《ざんぎこうくわい》今更に、身の置《おく》ところをしらざりける。

 かくて又義實は、孝吉等に宣《のたま》ふやう、「酷六《こくろく》瀧田へ逃《にげ》かへらば、定包《さだかね》火急《くわきう》によせ來つべし、と思へば心安からざりしに、孝吉がけふの働き、わが胸中《きやうちう》をしるに似たり。城兵《ぜうひやう》散落《さんらく》せずといふとも、翌《あす》よりして三日が程には、必彼此《かならずをちこち》へ聞えなん。しからば麻呂と安西は、冐《そねみ》て定包を佐《たすく》るなるべし。先にすれば人を制し、後《おく》るゝときは制《せいせ》らる。この曛昏《ゆふぐれ》にうち發《たち》て、通宵《よすがら》走りて平郡《へぐり》に入《い》らば、敵の膽《きも》を冷《ひや》さん歟《か》。初度《しよど》の合戰|躬方《みかた》に利あらば、麻呂安西等は聞怕《きゝをぢ》して、絕《たえ》て頭《かうべ》を出《いだ》すべからず。そはとまれかくもあれ、まづ勸賞《けんせう》を沙汰《さた》せん」とて、金碗八郞孝吉《かなまりはちろうたかよし》を、第一番と定《さだめ》させ、莊園夥賜《しようゑんあまたたび》けれども、「故《もと》より思ふよしあり」とて、固辭《かたくいろ》ひてこれを受《うけ》ず。第二番には小湊《こみなと》にて、「東條《とうでふ》を取給へ」、と申シすゝめし叟《おきな》ども、三|人《ン》を召出《めしいだ》して、その名を問《とは》せ給ひしかば、「三平四治郞仁摠《さんへいしじらうにさう》」と答ふ。義實|聞《きゝ》きてうち微笑《ほゝえみ》、「こはいと愛《めで》たき名也かし。三平《さんへい》とは、山下、麻呂、安西の三雄《さんゆう》を平《たいらく》る、前象《もとつさが》といふべき歟《か》。四治《しじ》は四郡《しぐん》を治《おさめ》ん祥《さが》也。二總《にさう》は則上總下總《すなはちかづさしもふさ》、後《のち》かならずわが掌《て》に入《い》らん歟《か》。かゝればその名をひとつに合《あは》して、おの/\三四《さんし》十二|个村《かむら》に、今又|二增倍《にさうばい》すれば、三十六|所《しよ》の長《おさ》たるべし」とて、御敎書《みぎやうしよ》を賜《たび》にければ、皆|萬歲《ばんせい》と唱《となへ》つゝ、歡《よろこび》いさみて退出《まかで》けり。第三番は氏元貞行、この餘|泛々《はんはん》の輩《ともがら》は、錄するに遑《いとま》あらず。或《あるひ》は秩祿《ちつろく》を宛行《あておこなは》れ、或《あるひ》は牽出物《ひきでもの》を賜《たまは》れば、おの/\齊一拜舞《ひとしくはいぶ》しつ、「賞重《せうおもう》して、罰輕《ばつかろ》し。死せるものも更に生《いく》。活《いけ》る物は榮《さかえ》たり。江《え》に還《かへ》る車轍《わだち》の魚《うを》、雪の中なる常盤木《ときはき》。君が齡《よはひ》はさゞれ石の、巖《いはほ》となるまで竭《つき》せじな」、と今樣《いまやう》を合奏《うたひつれ》て、壽《ことぶ》き興《けう》じ奉りぬ。

 さる程に義實は、法度《はつと》を寬《ゆるう》して、民を安撫《なで》、軍令を正《たゞしう》して、士卒を勵《はげま》し給ひしかば、招かざれどもまゐるもの、數《す》百|人《ン》に及びけり。これらは過半《くわはん》とゞめ置《おき》て、杉倉氏元《すぎくらうぢもと》とゝもに城を守らせ、僅《はつか》に二百餘騎を將《い》て、孝吉を先陣《せんぢん》とし、貞行を後陣《ごぢん》として、平郡《へぐり》へ進發《しんぱつ》し給へば、氏元はこれを諫《いさめ》て、「斯《かく》ては無下《むげ》におん勢寡《せいすくな》し。この城にこそ二三百の士卒あらば足《たり》なん」、と頻《しきり》に密語《さゝやき》申せしかば、義實|頭《かうべ》をうち掉《ふり》て、「否この城はわが巢也。もしこゝを破られなば、何處《いづこ》へか還《かへ》るべき。合戰は必《かならず》しも、勢《せい》の多少によるにもあらず。我《われ》に利あらば二百騎が、千騎二千騎にもなりぬべし。わがうへには懸念《けねん》せで、汝《なんぢ》はよく城を守れ。なほいふべき事こそあれ。麻呂安西等には和睦《わぼく》せよ。必《かならず》これと爭ふべからず。瀧田の敵兵よせ來《きた》らば、力を竭《つく》して防ぎ戰へ。かならず出《いで》て追ふべからず。これ安全の良策《りやうさく》也。|努々懈《ゆめゆめおこた》るべからず」、と叮嚀《ねんごろ》に說諭《ときさと》し、さて先陣《せんぢん》をいそがして、軈《やが》て出陣し給ひけり。

 果《はた》せるかな里見の一軍、その夜《よ》、前原浦《まへはらうら》と濱荻《はまおぎ》なる、堺橋《さかひばし》を渡す折《をり》、義實の德を慕ひ、風《ふう》を望《のそみ》て歸降《きごう》する、野武士鄕士《のぶしごうさむらひ》なンど、百騎二百騎うちつれ立《たち》て、こゝにて追著《おひつき》奉り、軍勢千騎になりしかば、|後々《のちのち》までもこの橋を、千騎橋《せんきはし》と唱《となへ》たり。加旃《しかのみならず》この處《ところ》は、むかし源賴朝卿《みなもとのよりともけう》、當國《たうこく》へ推渡《おしわた》り、上總《かづさ》へ赴き給ふとき、この川のほとりにて、後陣《ごぢん》を待《また》せ給ひしとて、待崎《まつさき》と字《あざな》せる、側《かたへ》に白旗《しらはた》の神祠《やしろ》あり。義實|則《すなはち》馬より下《を》りて、征箭《そや》二條《ふたすぢ》を奉納《ほうなう》し、且《しばら》く祈念し給へば、眞夜中なるに白鳩二隻《しらはとには》、社頭の松の梢《こすゑ》より、はた/\と軒翥《はたゝき》して、平郡《へぐり》のかたへ飛去《とびさり》ぬ。これを見る諸軍兵《しよぐんびやう》、「合戰勝利|疑《うたがひ》なし」とて、勇《いさま》ざるものなかりけり。

南総里見八犬伝巻之二終

——————————————————

入力:松本修治
校正:松本修治 2005年3月25日、2005年6月7日
編者修正:2025年3月31日

——————————————————

読書ざんまいよせい(050)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(04)

     第四章 社會主義の主張

〇現時の生產交換の方法、卽ち所謂資本家制度は今や其進化發育の極點に達せり。夫れ勢ひ極まれぱ變ず、花瓣は一日散亂せざることを得ず、卵殻は一日破壊せざることを得ず、唯だ散亂す、故に新果あり、唯だ破壊す、故に雛兒あり。社會產業の組織豈に獨り此理法を免るるを得んや。
〇而して之が進化の理法を說明し、共必然の歸趣を指示して、以て人類社會の向上を促す者、實に我科學的社會主義の主張ならずんばあらず。然らば則ち社會主義は吾人に向って、果して何の新果と雛兒を將ち來さんとする乎。何の新時代を指示して、以て私有資本の舊組織に代へんとする乎。
〇敎授イリーは社會主義の主張を剖拆して、四個の耍件《エレメント》を包有すと為す、言頗る當を得たり。所謂四個の要件《エレメント》とは何ぞや。
〇其一は、物質的生産機關、卽ち土地資本の公有是れ也。
〇方今社會百害の源が、實に社會的生產機關を揚げて個人の所有と為せるに在るは、前章旣に之を言へり。夫れ唯だ個人の所有に委す、是故に之が所有者は徒手遊食して以て社會生產の大部を掠奪し、多數人類は爲めに益々匱乏《きばふ》堕落に至れる者、實に吾人の永く忍ぶ能はざる所也。而して之が救治や、決して區々小策の能する所に非ずして必ずや根底の矛盾を排除して、以て產業組織全體の調和を得せしめざる可らず、生產機關の公有豈に已むを得んや。
〇夫れ土地や、人類未だ生ぜざるの時よりして之れ有り、獨り地主の製作する所に非ざる也。資本や、社會協同の勞働の結果也、獨り資本家の生產する所に非ざる也、其の在るや唯だ社會人類全體の爲めに在り、個人若くば少數の階級の爲めに存するに非ざる也。故に地主資本家獨り之を專有するの權元より有るの理なしと雖も、 而も之を使用して、社會其惠に浴するの間は猶ほ恕す可し。若し夫れ彼等が一に之を以て社會全體の富財を掠奪し、其幸福を犧牲とし、其進步向上を沮礙《そがい》するの具に供するに及びては、社會が直ちに之を彼等の手より掠奪して、マルクスの所謂『是等掠奪者より掠奪す』るの至當なるは、言を俟たざる所也。
〇故に近世社會主義は、社會人民全體をして、土地資本を公有せしむるを主張す、社會人民全體をして之より生ずる利益に與からしむるを主張す、而して更に從來經濟的意義に於ける地代及び利息の廢滅を主張す。
〇之れを以て甚だ奇異の感を為すこと勿れ、見よ現時に於ても諸種の事業の旣に公共の所有たる者勘しとせざるに非ずや。郵便電信は、米國を除くの外は、文明諸國皆な國有たり、鐵道も亦|日耳曼《ゼルマン》、墺地利《オーストリー》、丁抹《デンマルク》の諸國之を國有と爲し、森林、鑛山、耕地の一部、煙草、酒精の販資の事業等、國有と為す者多きに非ずや。但だ今の所謂國有なる者や、往々にして中央政府の所有を意味して、未だ完全なる社會的公有の域に達する能はざる者ありと雖も、而も個人若くば少败階級の私利の壟斷《ろうだん》を脫せるに至っては卽ち一なるに非ずや。
〇然り社會主義の主張や、決して中央集權を希ふ者に非ず、其機關と事業との性質如何に從って、或は一國の有と爲す可く、或は郡縣町村の有と爲す可し。現時の公有產業にして、水道、電燈、瓦斯、街鐵等が都市の所有に屬せるが如き、卽ち是れ也。耍は個人の手より移して、一般公共の利益に供するに在り。
〇現時の經濟學者は皆な日ふ、彼の初めより獨占的性質を帶ぶるの事業は、之を國有若くぱ市有と爲すべし、然らざる者は卽ち個人の競爭に委して以て其進步を圖るに如かずと。然れども產業
制度の進步は、從來獨占的性質を帶びざる各種の事業をして、亦盡く獨占の事業と化せるに非ずや。彼の米國に見よ、製鐵も獨占となれるに非ずや、石油も獨占となれるに非ずや、石炭も紡績も、皆大會社、大ツラストの獨占として、他の競爭を許さゞるに至れるに非ずや。個人競爭の極は卽ち資本の集中合同也、炎本の集中合同の極は卽ち各種の事業をして、盡く獨占の事業たらしめずんば已まず。經濟的自由競爭より生ずる進步は過去の夢也、今や間題は、此等獨占の事業をして依然小數階級に私せしむべきか、將た社會公共の所有に移して其統一を期すべきか、二者其一を擇ぶに在り。是れ社會進歩の大勢にして必然の結果ならずんばあらず。而して社會主義の第一義は唯だ之を是れ指示せんと欲するのみ。
〇要件《エレメント》の第二は、生產の公共的經營《コンモンマネーヂメント》是れ也。
〇生產機關たる土地資本、旣に社會の公有に歸すと雖も、其事業の經营に至りては適ほ個人の手中に在る者多し、例せば鐵道の如き、街鐵の如き、社會之を公有して而して其經营は卽ち私設の會社に托し、酒精の如き、鹽の如き、煙草の如き、政府專占の事業となれる者にして其生產若くば交換の一部は、依然個人の事業として存し、或は公有の耕地にして、私人に委して耕耘《かううん》せしむる等の類是れ也。而して是等私人若くば私設會社の經營の目的や、常に彼等自身が市場の利益を趁《お》ふに在り、彼等の利益一たび休せん乎、其產業は卽ち廢棄せらる、是れ資本家制度の下に在て免る可らざるの狀態也。故に眞に社會の產業をして個人の利益の爲めにせずして、社會全體の消費に供し、市場の交換の爲めにせずして、社會全體の需用を滿足せしめんと欲せば、其經營や、決して私人の手に委す可らずして、必ずや公共の管理に待たざる可らず。社會は卽ち獨り生產機關を公有するに止まらずして、公選せる代表者をして之を經營せしめざる可らず、而して是等の經營や、必ず社會全體に對して其責に任ぜしめざる可らず。
〇或は曰はん、事業の經營や、唯私有として始めて能く其効果を揚ぐることを得んのみ、旣に自家の私有に非ずとせば、誰か其職に忠なる者あらんやと。然れども見よ、今の三井家の主人は其事業の經營に於て、果して幾何の勤勞に服せる乎、岩崎氏の主人は其事業の管理に於て、果して幾何の技倆を現ぜる乎。生產機關の膨大し、事業の發達し、生產の增加すること高度なるに及んでや、其運用は到底個人の抜量の能く堪ふる所に非ずして、遂に多數協同の手腕を要するに至るべし、況んや凡庸遊惰の資本家をや。現時諸種の大規模の產業に於て、其實際の經營管理は一として其所有者たる資本家に依て成さるゝ者なくして、却て所有者たらざる社員若くば雇人の技能に依て、能く共効果を奏しつ、あるに非ずや。社會主義は、卽ち是等世製の所有者に代ふるに、社會公選の代表者を以てし、放逸の資本家に代ふるに、責任あるの公使を以てし、私人の使役せる雇人若くば社員に代ふるに、公共の任命せる職員を以てせんと欲するのみ、而して其產業の進步は獨り所有者の利益たる者に非ずして、社會全體皆直ちに共惠に浴するを得べしとせば、予は未だ各人が今日に比して其職に忠ならざる所以を發見することを得ざる也。
〇社會が如此にして一切の生產機關を公有し、一切の産業を管理するに至らば,社會人民全體は卽ち其株主にして亦實に其勞働者也。社會は其適する所の職業を彼等に與へ、彼等は其勞働を以て社會に奉ず。而して其生産や旣に市場交換の爲めに在らずして、社會全體の消費に在り、生産益々多くして、社會の需要は益せらるゝを得、又物價の低落を憂へざる也、又生産の過多を憂へざる也、而して勞働者の失業の問題亦全く解決せらるゝを得ん也。若し眞に生產の消費に過ぐるあらん乎、唯だ勞働時間の短縮にして足れり、豈に又一人の其所を得ざる有らんや。
〇否な啻に失業の人なきのみならず、一面に於ては、萬人皆勞働に服せざる可らざることを意味す。公共的生産の下に在ては、利息なく地代なし、徒手逸居して以て他の勞働の結果を掠奪するの手段なければ也。フイフテ曰へる有り、『勞働せざる者は、卽ち衣食の權利なし』と。是れ眞理也、正義也、社會主義は眞理正義の實現せられんことを要求す。
〇要件《エレメント》の第三は、社會的收入の分配是れ也。
〇公共的生產の收入や、必ず社會公共の領有に歸すべくして、個人の擅まに占斷するを許さゞるは論なし、而して社會の公選せる代表者若くぱ職員は、先づ其の收入の一部を以て、生產機關の保持、擴張、改良及び備荒の資に充つるの外、他は總て社會全體に分配して其消費に供すべし。而して此等分配や之を生產する者特り之に與かるのみならず、老幼其他勞働の能力無き者と雖も、固より之を要求するの權利有る可し。何となれば其富や旣に社會の領有たり、其人や實に社會を組織する所の一員たれば也。此點に於て社會主義の主張は完全なる相互保險也、社會主義制度の下に在ては、吾人萬人は其生れてより死に至るまで、獨り疾病、災禍、老亠我に對するのみならず、敎育、娛樂其他一切の需用を滿足すべき保險を有する也。但だ勞働の能力あって而も其義務に服するを嫌ふが如きは嚴に制裁を加ふべきのみ、否な社會の組織改善し生活の苦痛減少するに從つて、是等不德の徒亦自ら其迹を絕つに至るべきは、予の信じて疑はざる所也。
〇於是て吾人は重大なる問題に逢着す。何ぞや、日く、其分配の公正《ヂヤスチス》てふこと是れ也。然り公正の分配、是れ實に社會主義の唱道せらるる所以の最大の動機也、社會主義要件中の要件也、產業組織が進化發達する所以の主要の目的也。然らば卽ち如何の方法標準が果して共公正を得べしとする乎。
〇分配の標準に關して、社會主義者の企圖古今一ならずと雖も、凡そ四種に別つ可し。一は其分配する所の物件、最と質と兩つながら必ず均一ならんことを要する者、バボーフ此說を持せり。次は技能成績の短長に比例して、報酬に等差あらしめんとする者、サン・シモンの主張せし所也。次は唯だ各人の必要に準じて給與する者、ルヰ・ブラン之を以て理想と爲せり。而して近時の社會主義者中、各人の分配額は其質に於てせずして其價格に於て平等ならしめんと唱道する者多し。
〇夫れ各個の人、心身兩ながら皆な異ならざるはあらず、從って生活の必要を異にし嗜好を異にす、强て其平等ならんことを求むるは、却って公正を缺くの甚しき者、分配の量と質との均一なる可らざるや論なし。
〇技能の長短に應じて貫に等差ある、稍や公正に近きに似たり。而も如此くなれば勞働の能力なき者は卽ち饌ゑざる可らず、是れ豈に社會的道德の本旨ならんや。且つや技能の長短は必しも消費の多少に伴はず、例せば甲の成績は能く乙に二倍すと雖も、而も甲の食餌の暈は必しも乙に二倍せざるに非ずや。啻に是のみならず、社會主義制度の下に在てや、其生産は多く社會的生產也、協同的生產也、甚だ個人特種の技能に待つある者に非ず。而して偶ま個人特種の技能に待つ有るも、是等技能や、亦實に社會全體の感化、敎育、薰陶、啓發の賜に非ざるはなし。旣に社會に負ふ所多き者、亦多く力を社會の爲めに効すは當然の責務のみ、何ぞ特に物質財富の多きを貪る可きの理あらんや。
〇社會の生產分配の目的が、眞に社會萬民生活の需用を滿足せしめ、其進歩を促すに在りとせば、吾人は卽ち其必要に應じて分配するを以て、最終の理想と爲さゞる可らず。爰に一個の家庭ありとせよ、而して父母たる者若し其子女を遇するに、此子は才能あり、美衣美食を與ふ可し、彼子ほ庸劣なり、悪衣惡食にして可なりといふ者あらば、吾人の良心は果して之に忍ぶ可き乎。夫れ一家の兒女、長幼强弱皆な各々異りと雖も、而も其衣食分配の標準が、決して技能成績の如何にあらずして、必ず其必要に應ずべきは、人問道德の命ずる所にあらずや。社會主義の主張は、社會を以て一大家庭と爲すに在らざる可らず、社會は其父母たらざる可らず、各人は皆な同胞たらざる可らず。而して父母の其兒女に向って分配する所、先づ其尤も急なる者、例せば食餌、衣服、住居及び敎育の資より始めて、漸次に其急ならざる者に及ぶ。其量と質とは固より大に異なるなきを得ずと雖も、而も各々十分に其生を遂ぐる所以に至りては、卽ちーなるに非ずや。
〇若し夫れ分配の價格を平等するの說や、自ら必要に應ずるの分配と其結果を同じくす可し。何となれば、此分配や決して物品の同一を意味する者に非ざるが故に、各人共價格の範圍に於て、自由に自家の必要と嗜好を整せしむるの物件を求め得可ければ也。但だ其價格の制定極めて困難なりと為すのみ。
〇耍件《エレメント》の第四は、社會の收入の大半を以て個人の私有に歸すること是れ也。
〇世人多くは日く、財産の私有は、個人の自由を保持し智徳を向上するが爲に極めて必要の事と為す、而も社會主義は之を禁絕せんとするに非ずやと。財產私有の必要なるは洵に然り、然れども社會主義が之を禁絕せんとすといふに至りては誣妄《ぶぼう》の甚しき也。否な乏を禁絶するは却っつて現時の產業組織に非ずや。見よ、今の產業組織の下に在ては、社會の財爲は常に一部の地主資本家の手に集中し、社會全體をして決して其自由を保持し智德を向上するに延るべき財沛の所右を許さヾるに至れるに非ずや。而して彼等多數は漸次に無一物となり、其日暮しとなり、所謂『賃銀奴隸』の境涯に堕落しつゝあるに非ずや。
〇社會主義の制度は卽ち之に反す。社會的歲入の大半を以て各人に分配して以て之を私有せしむ。故に公共生産の發達し社會的收入の增加するに從って、個人の私有亦益々富厚にして、各其所好に從って消費し若くば貯蓄するを得、又其匱乏《きばふ》の爲めに他人に依頼することを要せず、他人の爲めに制せらるゝの憂ひなし。如此にして社會主義は實に財涯私有の制を擴張して、以て薦人の自由を保障し、其向上を促進せんことを欲する也。
〇但だ知らざる可らず、社會主義は私有の財產を堆加すと雖も、 此財產や實に各人の消費に充つるの財産にして、決して土地資本、卽ち生產機關を意味する者に非ざることを。生產の機關が必ず公有たるべくして、其生產の結果が必ずーたび社會の收入たるべきは、固より前に言へるが如し。
〇論者又日く、夫れ私有の財產富厚なるに至れば、節儉なる者は之を貯蓄し、資本本として使用する者あるに至らん、果して如此なれば直ちに瓷本家の階級を生じて,貧富の懸隔する舊の如くならんと。然れども產業の方法起模益々尨大なるに從って、唯だ共同的經營に待つ可くして、決して個人の支持に堪へざるに至るべきは、現時の狀勢旣に之を證せり。若し然らざるも、一切の生產機關旣に公有となり、重要の産業が絶て社會公共の手に管理さるゝの時に於ては、一個人は又其私有の財產を資本として投ずるの機會有ること無けん。假に些細の私業を企圖して、之に放資する者有りとするも、曷《いづくん》ぞぜ能く社會公共の大產業と兢爭兩立することを得んや。眞に是れ鐵牛角上の蚊のみ、以て全體の組織を損傷するに足らざる也。
〇更に知らざる可らず、吾人は社會的收入の『大半』を私有すべしと云ふ、其全部と云ふ者に非ざることを。社會生產の目的や、一に吾人需用の滿足に在りと雖も、而も吾人需用の滿足は、必しも之を私有することを要せざる者多し。現時に在ても、學校、公園、道路、音樂會、圖書館、博物館の如き、共有の財產として、各人の必要と曙好を滿足せしめんが為に、自由に之を使用することを許せり。將來經濟組織益々統一し、社會的道德益々發達することを得ば、社會的收入を公共的に使用し、以て公共の利益、進步、快樂を圖るの風亦愈々盛んなる可きが故に、諸種の收入財産の共有として存ずる者、今日に比して更に著大の增加を見ん也。
〇イリーの所謂社會主義の四個の要件は上の如し。予は之に依て略ぼ其主張の在る所を窺ふを得たるを信ず。然り社會主義は實に此等要件の實現を以て、社會產業の歷史的進化に於ける必然の歸趣と為す者也。
〇故にミルは定義して日く、『社會主義の特質とする所は、生産の機關と方法を以て社會人員全體の共有と為すに在り。從って其生産物の分配も、亦公共の事業として、其社會の規定する所に準じて行はれざる可らず』と。
〇カーカツプは『エンサイクロペヂヤ・ブリタニカ』に記して日く、『現時私人の資本家が賃銀勞働者を役して經營せる所の工業は、將來に於ては聨合《アソシエート》若くば共同《コオペレート》の事業として、卽ち萬人共有の生産機關に依て行はれざる可らず。社會主義に於ける骨髓《ずゐ》のプリンシブルとして承認さる可きは、其理論に見るも其歷史に徵するも一に是に外ならず』と。
〇マルクスの女婿にして佛國マルクス派の首領たるパウル・ラフワルギユは日く、『社會主義は如何なる改良家《レフオーマー》の企畫《システム》にもあらず。唯だ現在の組織が旣に重大なる經濟的進化の運に迫れることを信じ、而して此進化の結果や、卽ち資本私有の制は變じて勞働者團體の共同的所有之に代るべきことを信ずる人々の敎義《ドクトライン》也。故に社會主義の特質は、其歴史的發見の點に在り』と。
〇エンゲルは更に日く『社會が生產機關を掌握するや、商品の生產は卽ち迹を絕つ可し、而して生産者は又生產物の爲めに制御せらるゝことなけん、社會的生產の無政府は一掃して、之に代る者は卽ち規律統一ある組織ならん、個人的生存爭鬪は消滅せん。如此にして人は初めて禽獸の域を脫して、眞個に其人たる所以の意義を全くすることを得可し』と。
〇然り、果して如此くならば、資本家は卽ち癈滅せらる可し、勞働者は賃銀の桎梏《しつこく》を脫す可し、各人は社會の爲めに應分の勞働を供給して、社會は各人の爲めに必要の衣食を生産す。分配あつて商業なし、統計あって投機なし、協同あって爭闘《さうげい》なし、豈に又生產過多あらんや、豈に又恐慌の襲來あらんや。人は決して富の爲めに支配せらるゝことなくして、能く富を支配することを得可き也。於是て現時產業組織の矛盾より生ずる百害は爲めに掃淸せられて、能く自然の調和を全くすることを得べき也。
   杖底唯雲。囊中唯月。不勞關市之譏。
   石笥藏書。池塘洗墨。豈供山澤之稅。

[編者注]典拠は、「酔古堂剣掃」巻八より。「酔古堂剣掃」は、Wikipedia によると。「明朝末の陸紹珩(字は湘客)が古今の名言嘉句を抜粋し、収録編纂した編著(アンソロジー)である。」本国で廃れたが、本邦では、幕末から大正にかけて、版本がある程度に普及した。秋水は「社会主義神髄」執筆時に傍らに置いていたのだろうか?意味は。「杖の先にあるのは雲だけで、かばんの中には月の光ばかり。市場や関所では、余分な税金がかかることもない。石の書庫に書物を蔵し、池のほとりで筆や硯の墨を洗う。これも、Tax Free であるのは、ありがたい。」
写真は、「高知新聞」1931年5月頃の連載記事「幸徳秋水 大逆事件の同志 岡林寅松と語る」の第2回記事から。上山慧「神戸平民俱楽部と大逆事件」(風詠社)から

中井正一「土曜日」巻頭言(15)

◎誤りをふみしめて『土曜日』は一年を歩んできた ー九三七年七月五日

 七月は再び来た。
 多くの幸いではない条件の下に、独立と自由を確保しながら、『土曜日』が生き残れるか否か、これを、私たちはこの現実に問いただしたかった。
 そして『土曜日』は、一年をここに歩みきたったのである。鉄路の上に咲ぐ花は、千均のカを必要としたのではない。日々の絶間なき必要を守ったのである。われわれの生きて此処に今いることをしっかり手離さないこと、その批判を放棄しないことにおいて、はじめて、すべての灰色の路線を花をもって埋めることができるのである、と一年前に私たちはいった。
 そうして、花は今、鉄路の盛り土の上に咲いたのである。
 この現実を前にして、過去を顧るとき、それが決して容易な道でなかったことを知るのである。それを常に破滅の前に置くほどの、激しい批判の火花を貫き、多くの誤りを越えて、辿りきたのを知るのである。
 真実は誤りの中にのみ輝き出ずるもので、頭の中に夢のごとく描かるるものでないことを、この一年が私たちに明瞭に示した。
 否定を媒介として、その過程において自分みずからを対象とすること、それがあるべき最後の真実であることを学んだ。
 真実のほか、つくものがないこと、そのことが率直にわかること、それがほんとうの安心である。
 それは草がもっている安心である。
 それは木の葉がもっている安心である。
 私たちの社会は、今一葉の木の葉の辿る秩序よりも恥しい。自分たちの弱さも、また、そうだ。
 木の葉のすなおさほど強くない。
 真実へのすなおな張りなくして、この木の葉にまともに人々は面しうるか。
 この新聞はこれを読むすべての人々が書く新聞である。すべての読者は直ちに執筆者となって、この新聞に参加した人たちである。この新聞が三銭であることにかかずらうことなく、自分たちが売り物でも買物でもないことを示した人たちである。私達の一年の歩みは、鉄路の盛り土にも咲く花のすなおさとそのもつ厳しい強さを、お互いの批判の涯に、やっととらえた自然な喜びを示すものである。
 私たちはこの喜びを包みかくすすべはないのである。

読書ざんまいよせい(049)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(03)

     第三章  產業制度の進化

〇近世社會主義の祖師カルル・マルクスは、吾人の爲めに能く人類社會の組織せらる、所以の眞相を道破せり。日く『有史以來何の時、何の處とを問はずして、一切社會の組織せらるゝ所以の者は、必ずや經濟的生産及び交換の方法、之が根底たらざるは無し。而して共時代《エポツク》の政治的及び靈能的《インテレクチユアル》歷史の如きは、唯だ此根底の上に建てる者にして、亦實に此根底よりして始めて解釋することを得べき也』と。
〇然り、人の生れて地に落つ、先づ食はざるを得ず、衣《き》ざるを得ず、雨露風雪を防がざるを得ず。夫の美術や、宗敎や、學術や、唯此最初の耍求の滿足せらるゝ有りて、而して後ち始めて發展することを得べきのみ、故に其人民がーたび生產交換の方法を異にするに至るや、共社會の組織、歷史の發展、亦從って其狀態を異にせざるを得ず。
〇見よ、太初の人類たる、縱鼻横目、吾人の人類たるに於て、果して幾何の差異ありしとするぞ。而も彼等の血族相集り部落相結びて、共產の社會を成すや、其衣食や唯其社會全带の爲めに生産し、社會全體の需用に充つるのみ。又個人あるを知らざりし也、階級あるを知らざりし也、況んや地主なるものをや、賓本家なるものをや。レウイス・モルガンは算して日く、人類社會有って以來、殆ど十萬年、而して其九萬五千年は實に共產制度の時代なりきと。吾人人類は娥に此九萬五千年間地球上に點々散布せる血族的部落的の小共產制度の時代に於て更に蠢爾《しゆんじ》たる野獸の域を脫却し、弓矢を製し、舟楫《しうしふ》を製し、牧畜を解し、股業を習ふの進化變遷を經ることを得たりしなりき。
〇夫れ文明の進步は、石の地上に落るが如し、落る益々低くして、速度益々加はる。古代人口の漸く增殖し、團聚漸く繁榮し、衣食の需用亦漸く多大に、交換の方法從って複雜なるに從って、是等共產の制度は亦漸く傾覆の運に向へり。而して彼等が其曾て生擒し屠殺せる敵人を宥して、之を生產的に使役するや、卽ち奴隸の一階級を生じて、更に人類社會の歴史に於て、全く一大段落を劃し來れる也。
〇嗚呼奴隸の制度、今や吾人の口にするだも愧づる所なりと雖も、而も當時に在てや、 特《ひと》り全社會產業の基礎たるのみならず、彼の埃及、アツシリアの智識や、希臘の藝術や、 維馬の法理や、其千載の歷史を照耀するを得たる者、實に是等愛々たる億萬奴隸が林漓《りんり》の膏血《かうけつ》なりしと知らずや。然り常時の文明を致せる者は、是等產業の制なりき。而して當時の文明を覆へせるも、亦實に是等產業の制なりき。花を催すの雨は是れ花を散ずるの雨たらざるを得ぎりき。
〇見よ、是等奴隸の膏血と其天然の富源も、亦一日涸渴に至らざることを得ず。而して縦馬末年の莫大なる淫逸驕奢の資、遂に之に依て辨ずるに足らざるに及んで、四方の攻伐は次げり、領土の擴張は次げり、貢租の誅求は次げり、而して外正に叛くの時は、內旣に潰ゆるの日なりしに非ずや。
〇於是乎羅馬に通ずるの大道は、荆棘《けいきよく》の叢となれり、天下|瓜分《くわぶん》して產業全く萎靡す。次で起る者は卽ち農奴《サーフ》の耕織ならざるを得ざりき、之を保護する者は卽ち封建の制度ならさるを得ざりき。然れども代謝は少時も休せず。経濟的生活の遷移すること一日なれば、社會の組織亦進化する一日ならざるを得ず。而して自由農工は生ず、城市の繁榮は次ぐ、農奴《サーフ》の解決は來る、交通の發達し、市場の擴大し、殖產の增加する、愈々急速を加ふ。而して地方的封建の藩籬は、遂に國民的及び世界的貿易カ大潮流を抗制するに堪へずして、自ら七花入裂し去れる也。
〇故にフリードリヒ・エンゲルも亦日く『一切社會的變化、政治的革命を以て、其究竟の原因が、人間の頭脳に出ると為すこと勿れ、一定不變の正義眞理の講究に出ると為すこと勿れ、夫れ唯だ生產交換の方法の變化如何と見よ。然り之を哲學に求むる勿れ、唯だ各時代の經濟に見よ、若し夫れ現在の社會組織が非理たり、不正たり、昨日の正義が今日の非理となり、去年の正義が今年の罪惡となれるを見ぱ、卽ち其生產交換の方法漸く喑遷默移し去って、當初に適應せる社會粗織が旣に其用に堪へざるに至れんこと知らん也』と。
〇然り世界の歷史は產業方法の歷史のみ、社會の進化と革命は一に產業方法の變易のみ。誰か道ふ、今の產業制度は常住也と、誰か道ふ、今の地主資本家は永劫也と。
〇然らば則ち現時社會の產業方法、マルクス以來所謂資本家制度として知られたる特種の產業方法は、果して何の處より來リ、 何の處に去らんとする乎。
〇蓋し中世紀に在てや、今の所謂資本家なく、今の所謂大地主なし。而して其社會を支持する所以の産業は、常に一般勞働者の手に在りき。地方に在ては卽ち自由民若くば農奴《サーフ》の耕作なりき。城市に在ては卽ち獨立工人の手工なりき。而して彼等が勞働の機關たる土地や、農具や、仕事場や、器具や、皆な各個人單価の使用に適する者なりしが故に、彼等は各個に之を所用して、自由に各自の生產を為したりき。
〇而して此等散漫にして小規模なる產業機關を集中し、擴大して、以て現代產業の有力なる槓杆と變ずるは、是れ產業歷史に於ける自然の大潮流なりき、所謂商工資本家の天職なりき。彼れ夫れ米國の發見や、喜望峰の廻航や、東印度の貿易や、支那の市場や、世運の進步は、產業の方法
を鞭撻して、 地方的より國民的に、 国民的より世界的に促進せずんば止まざりし也。而して第十五世紀以來如何に是等の產業方法が、慚次に諸種の歷史的段階を通過して、以て所謂『近世工業』に達するに至れるかは、マルクスが其大著『資本』に細說せし所也。
〇然れども一般の生產機關が猶ほ個人的方法の域中に彷徨して、未だ多數勞働者の協力を要すべき社會的方法を採用すること能はざるの間は、彼等資本家が直ちに是等生產機關を變じて、以て偉大なる產業的勢力を顯現するは到底不可能の事なりき。而も時節は到來せり、 蒸氣器械のーたび發明せらるゝや、歷史は急轉直下の勢を以て、其『產業的革命』を成功せり。
〇絲車は卽ち紡績器械となれり、手織機は織物器械となれり、個人の仕事場は數百人乃至數千人を包容するの工場とたり、個人的勞働は變じて社會的勞働となり、個人的生産物は變じて社會的生産物となる。見よ昔は個人各自に能く之を生產せる者、今やー綫の絲、一尺の布と雖も、總て是れ多數の勞働者が協力の結果に非ざるは無く、又一人の『是れ予の作る所、予一個の生產物也』と一言ひ得る莫し。
〇但だ吾人は知らざる可らず、產業的革命の功果や、彼が如く其れ顯著なりしと雖も、而も其初めに當つてや、彼等商工資本家は必しも其革命たる所以を承認する者に非ざりき。彼等の之を利導し助成する、單に其商品の增加發達を希ふに過ぎざりき、其商品の増加發達の爲めに、資本の集中、生產機關の膨大を希ふに過ぎざりき。唯だ此目的を達するに急なる、卽ち個人的生產打壞の事に任じ、更に個人的生産を保護する所以の封建制度顛覆の事に任じて、不知不識の間に其歷史的使命を了せるのみ。
〇夫れ唯だ生產の增加を希ふのみ、之が交換の如何を問はざる也、夫れ唯だ資本の輩を希ふのみ、之が領有の如何を問はざる也。是を以て其生産は卽ち協同的となれるも、其交換は依然として個人的なるを免れざりき、製造工場の組織は旣に新天地を現ぜるも、其領有は繪ほ舊世界の樣式を脫する能はざりき。於是乎矛盾は生ぜざることを得ず。
〇生產の酒ほ個人的なるの時に於ては、共生產物の所有に關する問題は、決して起來すること無りき。各個の生產や、皆な自家の技倆を以てせり、自家の原料を以てせり、自家の器具を以てせり、而して彼れ及び彼の家族の勞働を以てせり。而して生產する所の結果が何人に质す可き乎、言を俟たずして明かなるに非ずや。
〇故に昔時生產機關を所有する者は、皆な其生產物を領有せり、而して是れ實に彼等自身が勞働の結果なるが爲めなりき。而して今の生產機關所有者も、亦其生産物を領有す。然れども見よ、其生産物や決して彼耆身の勞働の結果に非ずして、實に他人の生産する所に非ずや。然り今の勞働や協同的也、今の生産や社會的也、又一個の是れ予の生產物也と言ひ得るなし。而も是等の生產や、其生産者に依て社會的に共有せらるゝこと無くして、舊に依て唯だ個人の爲めに領有せらる、唯だ所謂地主資本家てふ個人の爲めに領有せらる。是れ豈に一大矛盾に非ずや。
〇然り大矛盾也。而して予は信ず、現時社會の一切の害惡は實に這個の矛盾に胚胎し來れることを。
〇其第一は卽ち階級の爭鬪也。『近世工業』の二たび隆興するや、瞬息の間世間萬邦を席捲して、到る處個人的小產業の壓倒し去らるゝ者、 紛々落葉の如くなりしは、 元より怪しむに足らず。而して從來個人的生產者や、全く其利を失はざる可らず、其業を失はざる可らず。彼等は卽ち其個人的小器械を棄てて、社會的生產に從はんが爲めに、大工場に向って趨らざる可らず、然れども其生產物や卽ち資本家てふ個人の領有に歸せるが故に、彼等の得る所は、僅に一日の生命を支ふるの賃銀のみ。加ふるに封建の制破壊せられて土地の兼併盛んなるに至るや、地方小農競うて都會に出で、賃銀に衣食せんことを求むるは、是れ自然の勢にして、而して工業の發達熾んなる丈け、夫れ丈け自由獨立の勞働者は慚く迹を絕ちて、所謂賃銀勞働者なる者、日に多きを致せり。於是乎社會は、一面に於て生產機關を専有して、盡く其生產を領有するの資本家てふ一階級を生ずると同時に、他面に於て、彼の勞働力の外何物をも有することなき勞働者の一階級を生じて、兩者の間判然鴻溝《こうこう》を劃するに至る。社會的生産と資本家的領有との間に生ぜる一大矛盾は、如此にして先づ共一端を、地主資本家と賃銀勞働者との衝突に現ぜる也。
〇啻に之のみに非ざる也、個人的領有の結果は卽ち所謂自由競爭ならざるを得ず、自由競爭の結果は、卽ち經濟界の無政府《アナーキー》ならざるを得ず。昔時個人的生産の時に於てや、其生產は主として自家の消費に供し、餘あれば則ち地方の小市場に輸するのみ。故に其商品の需用の豫知す可らずして、一般競爭の法則に支配せらるる、固より之れ無きに非ずと雖も、而も其範囲極めて狹隘にして、未だ其太甚なるに至らざりき。今や然らず、其作る所は決して生産者彼等自身の消費に充るが爲めに非らずして、盡く是れ個人の商品として交換の利を競ふに在り。夫れ唯だ個人の競爭に一任す、生產カの增加し發達し、市場の擴大するに從って、競爭益々激烈に、世界の經濟社會は全く無政府の狀態に陷り、優勝劣敗、弱肉强食、具さに其慘を極めり。如此にして社會的生產と資本家的領有の間に生ぜる一大矛盾は、更に組織的なる工場生產と無政府なる一般市場との衝突となって顯現せる者に非ずや。
〇然り矛盾の極は衝突也、衝突の極は卽ち破裂に非ずや。今の責本家的產業の方法や、其根源に於て旣に一大矛盾を以て其運行を始めたり、而して矛盾の發展する所、一は卽ち階級の衝突となり、他は卽ち市場の衝突となる。而して是等兩個の方面に於ける衝突や、互に巴字の如く相|趁《お》ひ、旋風の如く相追ふの間、其勢力漸次に激烈を致して、遂に現時の產業制度全體の大衝突大破裂に至らずんぱ已まざらんとするを見る也。何を以てか之を言ふ。
〇經濟的自由競爭及び階級戰爭の久しきに彌るや、其結果は必ず多數劣敗者の其產を失ふ也、賃銀勞働者の增加也、資本集中の强大也、生產器械の改良を加ふる也。彼の器械の改良が年々勞働の需用を省減して已まざると同時に、勞働の供給が日々共增加を來すや、卽ち多數勞働者の過剰は生ぜざることを得ず。エンゲルの所謂『工業的豫備兵《インダストリアル・レザーヴ・アーミ―》』なる者是れ也。
〇工業的豫備兵の現出や、近世工業の下に在て極めて哀しむべきの特徴なりとす。彼等は經濟市場の好況なるの時に於ては、辛うじて其職に就くを得ると雖も、ー朝貿易の萎靡するに遇へば、數萬乃至十數萬の多數勞働者は、恰も塵芥を捨るが如く、工場外に放擲せられて、道途に凍餒《とうだい》せざるを得ず、是れ實に現時歐米諸國の常態也。而して我國の如き共慘狀未だ如此きに至らずと云ふと雖も、而も社會の經濟が資本家的自由競爭に一任する以上は、到底兔る可らざるの趨勢にして、餘す所は唯だ時日の問題のみ。
〇而して多數勞働者彼等自身の競爭は之に伴ふて激す。次で一般賃銀低落の勢ひは成る。一般賃銀の低落は、卽ち勞働者をして其生命を支へんが爲めに、長時間過度の勞働に從はざるを得ざらしむ、而して資本家の掠奪は實に此際に於て逞しくせらる。
〇マルクスは蓋し謂らく、『交換は決して價格を生ずる者に非ず、價格は決して市場に於て創造せらるゝ者に非ず。而も資本家が其の資本を運轉するの間に於て、自ら其額を增加することを得るは何ぞや。他なし、彼等は實に價格を創造し得る所の臍く可き力を有する商品を購買するを得れば也。此の商品とは何ぞや、人間の勞働力是れ也。夫れ此力の所有者は共生活の必要の爲めに、之を低廉に資却せざることを得ず、而して此の力が一日に創贱するの價格や、必ず共所有者がー日の生活を支持するの費用として受くる貨銀の價格よりも、遙に多し。例せば一日六|志《シリング》の富を創造し得るの勞働力は、一日三志を以て購買せらる。其差額を名けて剩餘價格《サープラス・ヴアリユー》と云ふ。彼等資本家が共資本を增加することを得るは、唯だ此剩餘價格を勞働者より掠奪して、其手中に椎紡するが爲めのみ』と。
〇然り『剩餘價格』の掠奪は、査本を地加せしめて已まず、資本の增加は更に器械の改良を促して已まず、改良の器械は、再び轉じて剰餘價格掠奪の武器となる。而して轉々するの間に於て、社會の生產カは層々膨脹して底止する所を知らず。而も內國市場の膏血は旣に彼等資本家の絞取し盡す所となって、社會多數の購買カは到底之に應ずるに足らず。於是乎彼等資本家は百方生産力疏通の途を求むるや急也、日く、新市場を拓開せよ、日く、領土を擴張せよ、外國の貨物を掃蕩せよ、大帝國を建設せよと。然れども世界の市場も亦限りなきことを得ず、現時生產的洪水が無限の氾濫は、 竟に壅蔽《ようへい》し得る所に非ざるの勢を示せリ。
〇而して來る者は卽ち資本の過多也、資本家は之を投ずるの事業なきに苦しむ、生產の過多也、商品は之を輸するの市場なきに苦しむ、勞働供給の過多也、工業的豫備兵は之を雇使するの工場なきに苦しむ。今の文明諸國、荀くも近世工業を採用するの地、皆な此ヂレンマに陷り、若くば陷りつゝあらざる者なきに非ずや。於是乎『生產過多』の叫聲は到處に反響す。
〇思へ資本家は銳意して、資本の集中、生產の増加を努めたり、而して今や彼等は却って生産の過多なるに苦しむ。器械の改艮は人力の需用を省減せしめたり、而も多數の勞働者は却って衣食の匱乏に苦しめり。社會多數の人類は、多額の衣服を作れるが爲めに、却て赤裸々ならざるを得ず。是れ何等の奇現象ぞや。現時產業制度の矛盾衝突は、於是て更に大踏潤步し來れる者に非ずや。
〇嗚呼『生產過多』の叫聲、是れ實に破裂の將に至らんとするを粋むるの信號に非ずや。果然破裂は其端を恐慌の紐出に發せり。
〇恐慌の禍も亦慘なる哉、貿易は篓糜を極むる也、物價は俄然として暴落する也、貨物は停滞して動かざる也、信用は全く地を掃ふ也、工場は頻々として閉鎖せらるゝ也、多數の商工の破產は破産に次ぎ、多數勞働者の失業は失業に次ぎ、穀肉庫中に充ちて、而して餓孚《がふ》却って途に横ふ。如此き者數旬、數月、 甚しきは瘡痍數年に彌って癒えざるに至る、フーリエーの所謂『充溢の危機』なる者卽ち是れ也。而して此等恐慌や、其起るや決して偶然に非ず、 其去るや亦偶然に非ず。彼ー千八百二十五年の大恐慌以來、殆ど每十年、期を定めて以て共禍を被らざるなき見ば、如何に現時經濟組織の根底が、深く馴致する所ありしかを知るに足らん。
〇而して恐慌の至る每に、少數なる大資本家の能く此危機に堪ふるを得る者、常に多數の小資本家の破產零落に乘じて、併呑の慾を逞しくするは、自然の勢ひ也。加ふるに大資本家彼等自身も亦相互の競爭の危險と、恐慌の襲來を憂慮して措かざるの極、漸次に領有交換に於ける個人的方法の範圍を讓步して、社會的方法を採用し、以て矛盾衝突を緩和せんと試みたりき。株式會社の組織は之が爲めなりき、同業者大同盟《コンピネーシオン》の起るは之が爲めなりき。而して是等手段も亦彼等の運命を永くするに足らざるを見るや、彼等は卽ち現時のツラストなる牙城を築きて、以て最後の惡戰を開始せり。如此にして自由競爭の根底に立てるの資本家制度は、其進化發達の極、却って自ら自由競爭を一掃し去りて、世界各國の產業は殆どツラストの獨占統一に歸せずんば已まざらんとす。
〇然れどもツラストが猶ほ資本家階級の爲めに領有せらるゝの間は、現時の矛盾衝突をして、決して最後の解決を得せしめざるのみならず、却って一段を激進せしむるの具たらずんばあらず。何となれば今や彼等の事業は、唯だ生產の額を制限するに在れば也。價格を騰昂せしむるに在れば也、而して其獨占の暴威を利して、法外の剰條價格を掠奪するに在れば也、社會全體の窮困|匱乏《きぼう》を増大するに在れば也。於是乎社會人類の多數は唯だツラストを所有する少數階級の爲めに、其貪慾の犧牲に供せらるゝに至れり。資本家對勞働者の階級戰爭は、其進化發達の極、遂に變じてツラスト對社會全體の衝突となり了れる也。
〇而して社會全體は何時迄か這個《しゃこ》の狀態に堪ふるを得る乎、何時迄か資本家てふ階級の存在を是認せんとする乎。彼の宠大なるツラストは、獨り無責任なる不規律なる個人的資本家の手に支配されざる可らざる乎、社會は之を公有して統一あり組織あり調和あり責任あるの產業と為すことを得可らざる乎。從來唯だ資本の集中と生產の増加とを以て天職使命となせるの資本家てふ一階級は、此に至つて旣に其天職使命を了せるに非ずや、共存在の理由を失へるに非ずや。今や彼等は單に財富分配の妨礙物として存するのみに非ずや、獨り勞働者のみならず、實に社會全體と生產機關との間に於ける障壁として存するのみに非ずや。
〇然り今や工場に於ける協同的、社會的生建組織の發達は遂に一般社會の無政府的自由競爭と兩立せざるの點に迄達せる也、小數資本家階級の存在を歸可せざるの點に迄達せる也、換言すれば矛盾衝突は其極度に達せる也。一面に於ては資本家的個人領有の制度が、最早是等の生產カを支配するの能力なきを示すと同時に、他面に於て是等生產力夫れ自身も亦其無限膨大の力の威壓を以て、現時制度の矛盾を排除し盡さんとせる也、私有資本の域を逸脫し去らんとせる也、其社會的性質を實際に承認されんことを要求命令しつ、ある也、是れ豈に一大轉變の運に向へる者に非ずや、一大破裂の時に濒せる者に非ずや。是れ實に世界產業歷史の進化發逹する所以の大勢にして、資本家階級億萬の黄金も又之を如何ともする莫き也。
〇新時代は於是て來る。
    聖賢不白之衷。托之日月。
    天地不平之氣。托之風宙。
[編者注]典拠は、「小窗幽記」からか?「賢者たちが示さなかった心は、太陽と月に託された。 不正から生じる天地の怒りは、風と雷に表現されている。」(Deepl からの訳文)

槙村浩「日本詩歌史」(001)

目次・日本詩歌史―――
詩を通じて見たる日本史の概略
詩における唯物弁証法的ヒューマニズム理論に関する覚え書


第一章 序論――――7

 芸術の起源と童心―――原始共産制時代における詩の任務―――古事記か?万葉集か?……唯物弁証法か?社会主義アリズムか?

第二章 日本原始共産制時代の詩歌――――13

 詩学方法論の一例と日本語の特殊性―――本来平和的な共産詩人の進歩的戦争に対する反省と苦悶―――盛期第一期、狩猟的農業時代。女性による白鳥の歌の第一曲―――盛期第二期、牧畜的農業時代。移民戦争の英雄酋長による白鳥の歌の第二曲―――盛期第三期、社会主義的農業時代。原始的女性織工による白鳥の歌の第三曲―――原始共産制没落の諸表象

第三章―日本貴族制時代の一、半族奴制期の詩歌――――27

 日本国家の✕力による結成―――共同財産の没収過程と大悪天皇の詩―――平民の乞食過程と飛鳥時代の詩―――平民の貴族過程と飛鳥時代の詩―――芸術における価値分裂の経過

第四章 日本貴族制時代の二、族奴制期の詩歌――――――41

 奴隸生産における「アテナイ」型と「奈良」型の異同―――華麗短命な日本型族奴制の頂点を準備するものとして大化の回顧―――日本社会史家の混乱に対しての忠告文化を直接に剖け!…―――群小貴族詩人の一群、人暦、赤人、旅人、憶良、家持―――書紀と万葉の反戦人民詩人たち―――奈良と平民芸術の没落

第五章 日本貴族制時代の三、半農奴制期の詩歌―――――58

 平安の史的特徴。詩歌に表われた重圏的一神論と相即相入の集約的土地所有制―――弘法、祝詞、古今集、百人一首―――詩学方法論の一例としての転形期の没落の恋愛

第六章 日本王制時代のー、古典封建制的農奴制期の詩歌―――68

 古典封建制前期の特徴―――坊主天皇をめぐる「もの、あわれ」詩人たち―――封建的実践理性の詩人興教―――封建的純粋理性の詩人親鸞―――農奴的収取の「物自体」をめぐる自力他力の論争―――好色一代女としての女王を描いた長篇叙事詩「平家」―――古典封建制後期の特徴

第七章 日本王制時代の二、商業封建制的農奴制期の詩歌――――81

 商業封建制の特徴―――—商業封建主義の展望図としての誹諧と浄瑠璃と短歌復興調―――芭蕉の脱皮過程、新訳「春の日」「猿蓑」「炭俵」、芭蕉最后の到達点として寄生的リアリズム―――近松の人形哲学―――商業封建主義日本君主はいかにして古典封建主義中国え侵略せんとしたか、その陰影的仮象の弁証法的表現としての国性爺三部曲―――上層奴隸のギルド的自殺と、「馬子」及び「飛脚」の光の哲学―――近松における男色と女色、僧院的農奴制から遊廓的農奴制え、「万年草」と「七墓廻」―――姉弟女娼男娼篇、苟合の完成としての心中種々相最后の閨房に用意されたルーデサック―――川柳、社会の芸術的縮図としてなぜ男色的宮廷が遊廓の短詩によって描写されねばならなかったか―――主従・夫婦-親子の封建的三次元階段の解消過程―――アルカーブとしての高利貸的古典的整正さを特徴とする蕪村派―――一茶。離散した自由農民の雀の歌、封建小作争議調停裁判|日本封建制崩壊過程の史的批判、アジア的生産えの逆襲の必然性の素描―――外国帝国主義の奴僕としての志士、牢獄遊泳の末死刑となった犬の歌―――列侯会議的明治維新の主張者としての初期ブルジョワ自由主義者の詩―――明治の少年王一派は人民一揆と共に芸術をまで圧殺した上からの社会変革を敢てした…

第八章 日本帝制時代のー、資本主義者の詩歌―――――128

 日本資本主義発達過程の展望、早期金融資本の制約による駆足的帝国主義の理論―――利権の自由主義的投資の牢獄資本的保護主義えの委任、被告「革命詩人」透谷と判事「憲法詩人」緑雨―――悲歌「親は他国に、子は島原に」——子規宣言「天皇是なれば軍部非なり、軍部是なれば天皇非なり」―――帝国主義戦争の讃歌、詩人晩翠、日本ブルジョアジーの万里の長城―――資本循環の等差的凹壁における口マンチシズム―――その発生、「民法」法典詩人藤村と最良の農村ブルジョア詩人夜雨―――その解消、工業資本集中の進軍歌を奏でた人々―――世界的旧人民主義詩人石川啄木―――ハイネと啄木のローレライ的放浪―――ー九〇五年の戦争と暴動に対する啄木―――大逆事件に対する彼の逃避と逡巡、そして最后に決然たる✕✕銃殺連帯宣言―――沈滞的象徴派と白秋一派―――大戦、ロシア革命、世界革命の猛然たる開始―――にせもの「民衆詩人」と、ブルジョア詩人の良き分子の低迷―――ブルジョア詩全体をあげてのカフェえの転落

第九章 日本帝制時代の二、人民と共産主義者の詩歌――――188

 数行的走り書―――中野重治、森山啓、上野壮夫、伊藤信吉、工屋戦二の五人民詩人えの戯詩

第十章 結語―――197

 労働の集団的把握と芸術の体現者としての人類の起源―――人民文化としてのリアリズムとロマンチシズムのかつて存在せず、また真実な意味で存在せぬであろうことの歴史的証明―――奴隸所有制と奴隸所有者国家形成の芸術に及ぼした影響の世界的展望のスケッチ―――日本詩歌史の概略的回顧——世界に誇る日本の原始共産人民の詩とそのプロレタリア人民詩、コミュニスト詩人金龍済―――詩における主観的弁証法と客観的弁証法のヒューマ二ズム的一致―――人民詩人当面の任務―――日本人民革命の展望―――「詩は✕のものである!」——再びマルクスの投じた爆弾・芸術云術の童心的起源に関する二重性の復帰的発展と補足的解決

中井正一「土曜日」巻頭言(14)

◎人間は人間を馬鹿にしてはならない  一九三七年四月五日

 人間はよく自分にいいきかせておいても、つい着物がぞんざいだとか、住居が粗末だとか、軽蔑の心持ちを抱いたりするものである。その段はかぎりないもので、自分よりちよっと粗末でも、その心持ちを抱くし、自分が粗末だと、何となく卑下したり、逆に反抗的な気持ちになったりするものである。
 相当な教養をもった人でも、この心持ちは拭いきれない名残りを心の底に引いているものである。ある場合は、似而非教養の場合は、そればかりに終始することすらある。知識も学問もさらに趣味すら、その場合は、人絹かどうかを試すような、ミテクレになってしまうものである。その場合は教養自体が犬競争の犬のように、ただ他を抜こう抜こうと汗みずくになって、やりきれないシノギをけずることになるのである。
 人間が完全であることは、本来の目的を離れてしまったこんなヒステリー性から脱がれて、自由な野の菫のように生まな人間の香りと健康を自ら親しく味わうことであるはずである。
 かかる、嫉妬に似たアセリ気味な競争から、自分を自由にすること、この自由の闘いは、目にすぐ見える闘いではないが、人々が人々の魂の深部で、決して目を覆うてはならない決定的な闘争である。
 闘いそのものをも、見せるための闘い、ミテクレの闘いと転化する誘惑は充分に自分自身もっているのである。その波瀾葛藤を截断して、まっしぐらに、人間そのものに、顔を洗って、対いあうことは、ちよつとやソットの闘いではない。今にも放しそうになる權を、なおも一本一本引いて後、やっとめぐりあえるものである。
 かかる深部の闘いに遠く、また近く、つながりをもつ魂の蹈きの石が、この日常の着物や住居や食物の見得坊の中にもひそんでいるのである。今それらのものはお金で買われているかぎり、お金の多寡が決定するかのようである。そして威張ったり、テラッたり、ヒガンだりしているのである。
 この威張りや、テライやヒガミがあるかぎり、人間が人間自身を馬鹿にしているのである。現実のあらゆる矛盾は、おおらかな、爽かな、人間の誇りを、人間が今新しく建設すべき、たわめられたるバネであり、撥条である。矛盾の批判を手放さないこと、心の隅から隅まで、ミテクレに行すぎる誘惑の批判をゆるめないこと、人間が人間を侮辱の中にまかせないこと。このことが、すぐれたる人々こそ今一等大切である。

槙村浩「日本詩歌史」(002)


第一章 序論

    芸術の起源と童心――原始共産制時代における詩の任務――古事記か?万葉集か?……唯物弁証法か?社会主義リアリズムか?
 芸術の起源と童心との関係について、われ/\は今まで書かれたもののうちで最も美くしいものゝ一つを、老マルクスの遺稿の中に持っている。
 「人は再び小供になることは出来ない。もしなったら馬鹿になるだろう。だが、小供の純朴さは彼を喜ばせないだろうか? 彼は再びより高き段階において、その純真さを再生産するために、努力してはならないだろうか?小供のような性質の人には、いかなる年令期においても、小供の心の特質が、その純真さをもって蘇えるものではなかろうか? 人類が最も美しく展びたその社会的幼年期は再び復帰せざるーの階段として、なぜ永久の魅力を与えないだろうか? しつけの悪い小供もあれば、早熟な小供もある。古代民族の多くは、かかる範疇に属していた。正常なる小供はギリシャ人であった。彼等の芸術がわれ/\に対して魅力を有するとゆう事実は、それがその上に生長せる社会階段の未発展なことゝ矛盾するものではない。魅力はむしろその結果である。そしてそれはむしろ、芸術がそのもとに成立し、しかもそのもとにのみ成立するをえたところの、未熟なる社会的条件が、決して復帰しえないとゆう事実と、不可分的に結合しているのである。」(河上肇、宮川実両氏共訳「経済学批判序章」の最后の節)
 こんな小供がある!――彼は人類が最も美くしく展びたその社会的幼年期を、素朴な原始共産主義的な生活の中で生きぬいていた。それは生活そのものが美くしい詩だった。われくは昨日までその断片を、インデアンやアイヌの中にもっていた。今日でもパプアや興安嶺の山奥には、こうした世界が埋もれている。だがわれ/\の祖先は、二千年の昔、それをもっとひろ/”\とこの日本列島の上に持っていたのだ。彼等は財産を共同にし、全体の会議で何事も決定した。結婚と狩猟と戦争と農耕と遊戯と響宴と、すべての場合に彼等は種族と氏族の共同感情を、高い芸術にまで灼きつくすことを忘れなかった。会合で、詩人は伝統的な或は即興的な詩を歌い上げた。詩は例外なく音楽を伴っていたし、全員が彼について歌い出すと、詩は舞踏に変化した。いろんな部門の芸術家たちが、絵や彫刻をほどこした楽器や仮面を携えて躍りはじめた。男と女は、別々でなく、個人的でなく、一人の例外もなく全体が任意にえらび合った組み合せで、愉快な種族の宴舞え加わった。彼等の芸術的指導者は、また必ず政治的指導者の属員だった。詩人の技術者は、普通なくてわならぬ者として酋長のひとりに選ばれたし、また酋長のすべては、全体が詩人である種族を統率して行く上において、概して愉快なすぐれた歌い手だった。
 木や石で築き、草や土でふいた小屋、或は円天井の美しい建築の下の野つ原が、彼等の会場だつた。一方には鋤と弓矢、一方には弓矢と剣が、彼等の芸術的な集会場と各人のまわりに設備されていた。それは彼等の詩と生産と舞踏との共通な道具でもあった。
 彼等は穀物や、果物や、鳥獣の肉や乳でこさえた、この上もない愉快なコクテールで、おたがいの心と胃袋の底までをひたし合った。それは苦悩を忘れるための虐げられた人々のアヘンでもなく、カフェ・マルキシストが、やらぬ仕事の口実に乾杯する酒杯でもなかった。この飲料を酒となづけるのは、彼等の詩に純粋芸術のヴェールをきせて眺め、或は野蛮なぼろっきれとして捨て去ると同様、実に「集団の頭脳と心臓と生殖器とを一貫してつらぬく消化器」に対する無理解な誣告だったのだ。
 だが、われくは正しく「ギリシャの芸術」を想像しうるか? もしこの言葉が直ちに、ミロンやフィヂアスの黄金像をきみらに聯想さすならば、きみらは日本原始共産主義芸術の言葉によって、直ちに無器用な図体の大きい奈良の大仏を聯想しないことをふしぎと思うがいゝ。あの神聖な禿鷹のように荘麗で 奈良の大仏から油をひっこぬいて四角四面に整然と突つ立てたようなパルテノンが、市民貴族の宝冠と奴隸市場と共に存在した頃は、滅亡後の破片の上に公平を幻想した仮装的共産主義は、その未来の逆説的表象としての、社会大衆主義者お好みのブルジョア・デモクラシーの、逆さにうつった影と一しよに、これっぱかしも残っていなかったのだ。優秀な文化と政治の建設者たる作者は美くしかったへラスに俄然最后のとどめを刺した「文字化されたホーマー」の出現する以前のギリシャ原始共産制時代の誠実な南欧の種族社会にこそ、あんなにも健全に歴史の頂点コースを進んだ、成長する小供の純真な思い出を托したのだ。とげられぬブルジョア民主主義的理想に知らず知らずにかこまれている人々は、原文の社会的意義を必ずや読み代えるだろう。だが、われ/\をして仔細に点検せしめよ。いやしくも奴隸に対する暴虐と、彼等を支持する神聖貴族の芸術のーかけをさえ、わが老マルクスが愛した証拠を、これっぱしでも見つけることは出来ないのだ。
 それと同じことが、日本にも確実に言われる。もし人が老マルクスと共に万葉集を愛するならば、彼は何故奴隸貴族と奴隸宗教の所産を愛するかを明らかにし、その理由を白状せねばならぬ。解放の戦士の中にこうした人があるのはおかしい! われ/\はしみ/”\と、彼等が貴族的な感情の故に革命を愛し、彼等のパルテノンと万葉集的情緒にふれぬ限りにおいて、戦線から転向しないのではないかを疑わざるをえない。
 もし詩が万葉集から出発するならば、その起源は、こうした孤高な遊蕩児の感情であり、相互強姦のきものを個人的強姦にきせようとする恋愛の感情である。それは根本的には、性の姦淫の形をかった身分の姦淫である。奴隸宮廷は、「花をかざして今日もつどえる」ひまたっぷりの大宮人を選者として、「宮木ひく泉の口に立つ柚の憩う間もなき*」ご奴隸の憂愁の上に、この詩集を編みあげた。ダーウィンが詩をもたぬ禽獣の大きい自然と種の中に没入した愛欲の起源について世界歴史上の現実のあらゆる遺跡と、現実のあらゆる証拠とが、個人的な恋愛よりも共通な社会的感情から、詩と芸術とそしてあらゆる文化とが生れてきたのを立証していることを、われ/\が自分自身に確証せねばならぬ時期に遭遇せねばならぬとは、何と情けないことだろう! ロビンソンの島にしろ、パスカルの鳥にしろ、神と同様恋愛からは決して詩は生まれなかった。
*万葉集」巻11二六四五「宮材引く泉の柚に立つ民の息ふ時無く恋ひわたるかも」槇村は柚と民を入れまちがえた。
 「古事記か?万葉集か?」これは「シェクスピアか? シルレルか?」よりもっと日本社会=芸術史的に興味ある問題を提起する。
 何よりも万葉集以前にれっきとした詩が存在し、それがみじんも奴隸と暴政の記録と憑據《ヒョウキョ》のー片もない時期に、美くしい小供の文化の花を咲かせたことを、両者をはっきり差別された懸隔のあるものとして、がんこな俗物どもになっとくさせることは、何と骨の折れることだろう。――こんなことは判りきったことだ!  ー九三二年の恐慌以来四五年間の、労働者農民の生活状態のはげしい悪化が、多くの人々に次第に、正しい詩の任務をはっきりさせると共に、正しい詩の起源をはっきり胃の腑と一しょに頭にたたきこませたことは、事実なのだ。そのためにどんなに多くの真率な前衛と、無名の詩人とが身をもって道びらきしたことだろう!だが、問題は決して楽観的ではない。なぜプロレタリア詩をひつくるめて現代の全体の詩は、われ/\に低調と不快と憂鬱と退却の感じを与えるだろうか。それは質的よりむしろ量的に、生活の単語を拾い上げた。われ/\の生活と戦線の悪化に対して、治維法にへしまげられた、事実上の半無抵抗主義の蔭に詩を置くならば小説以上に詩の立遅れは克服しがたいものとなるであろう。単に量的に生活の単語を拾い上げることで一時をごまかすことを特徴とする受け身の社会主義的リアリズムに、美くしい真理の仮面をきせ、唯物弁証法と或は異った或は同じものとして、実際上茫漠たるあいまいさの中に置き、敗北と屈従を合理化しようとする試みの前に、これらの似而非な誤謬的理論が常によってもって伝説的な出所とするサヴェート芸術理論の歪曲された楣を残して置くこと、そして彼等をして日本を横行するに委さして置くことは、十分に検討されずして葬り去られんとする唯物弁証法の正統を血のにじみ出る実践をもって、生活とのすきまなき合一さとの上に、築き、かつ戦いとったわれ/\✕✕芸術家の恥辱ではないか。「受動的な社会主義的リアリズムか?能動的な唯物弁証法か?」本稿の末尾においてもっと説明されるはずのこのスローガンは、まづ日本詩歌史の初頭において、「万葉集か?古事記か?」のスローガンを正しく理解することを、その一つの歴史的典據となしうるだろう。

中井正一「土曜日」巻頭言(13)

◎手を挙げよう、どんな小さな手でもいい  ー九三七年三月二十日


 ものごとは、理屈通りにはゆかぬという人々がいる。
 しかし、ものごとのほうが、これ見よがしに一歩もゆるがせにせずに、正しくその法則を護り、寸厘も、間違わない。
 人間が間違った意見をもっていれば、その間違っていることを現象の上に示してくれる。理屈通りにゆかぬのでなくて、ものごとの正しさに理屈が副っていなかったのである。
 ギリシャ以来、人々がものを考えはじめたのは、この自然の中に、美しい秩序が厳然とあることへ の驚きから出発したのである。
 美しい秩序が水の中にも、石の中にも、星の中にもあること、また人間の体の中にも、その系図の中にも、また人との関係の中にもあることを発見したとき、人間はただの石や水とは、異なったところのものになった。その秩序の中にいて、その秩序を保持する責任をもつ、この宇宙の唯一つの存在となったのである。
 この広漠たる宇宙の中で、人間はそのみずからの秩序を守る責任をもつ唯一つの存在である。
 新たな秩序を生み出すことすらできる自由をもつ唯一つの存在である。
 しかし、この自由は、秩序を自分で打ち砕く自由をも許しているのである。この自由のゆえに人間は、その機構を人間が見守らないと、自分で自分の秩序を投げすてる危険をも許すのである。
 今、人間は、その危険の前に立っている。
 人々は、自分がその危険を感じていながら、その理由がわからないことがある。それを、拒否すべきことを知りながら、否定の理由がハッキリわからないことがある。拒否すべき現実がハッキリしながら、否定すべき理論がハッキリしないことがある。それは、否定のない拒否である。それは往々にして、いらいらした、断乎として、といったようなやりきれない心持ち、いわば、信念となってくる。
 この信念の中には、過去に一度理由をもったが、今は他のものとなった宗教的な、または封建的な、商業的な、産業的ないろいろの残滓物がゴッチャになって、チラチラとフラッシュのように陰顕する不安定なものとなる。
 このイライラしさが暴力に手を貸すとき、人類の秩序は一瞬において破滅に面するのである。
 どんな小さな手でもいい。
 その軌道が危険であることを知らすためにさし挙げられなければならない。