◎人間は人間を馬鹿にしてはならない 一九三七年四月五日
人間はよく自分にいいきかせておいても、つい着物がぞんざいだとか、住居が粗末だとか、軽蔑の心持ちを抱いたりするものである。その段はかぎりないもので、自分よりちよっと粗末でも、その心持ちを抱くし、自分が粗末だと、何となく卑下したり、逆に反抗的な気持ちになったりするものである。
相当な教養をもった人でも、この心持ちは拭いきれない名残りを心の底に引いているものである。ある場合は、似而非教養の場合は、そればかりに終始することすらある。知識も学問もさらに趣味すら、その場合は、人絹かどうかを試すような、ミテクレになってしまうものである。その場合は教養自体が犬競争の犬のように、ただ他を抜こう抜こうと汗みずくになって、やりきれないシノギをけずることになるのである。
人間が完全であることは、本来の目的を離れてしまったこんなヒステリー性から脱がれて、自由な野の菫のように生まな人間の香りと健康を自ら親しく味わうことであるはずである。
かかる、嫉妬に似たアセリ気味な競争から、自分を自由にすること、この自由の闘いは、目にすぐ見える闘いではないが、人々が人々の魂の深部で、決して目を覆うてはならない決定的な闘争である。
闘いそのものをも、見せるための闘い、ミテクレの闘いと転化する誘惑は充分に自分自身もっているのである。その波瀾葛藤を截断して、まっしぐらに、人間そのものに、顔を洗って、対いあうことは、ちよつとやソットの闘いではない。今にも放しそうになる權を、なおも一本一本引いて後、やっとめぐりあえるものである。
かかる深部の闘いに遠く、また近く、つながりをもつ魂の蹈きの石が、この日常の着物や住居や食物の見得坊の中にもひそんでいるのである。今それらのものはお金で買われているかぎり、お金の多寡が決定するかのようである。そして威張ったり、テラッたり、ヒガンだりしているのである。
この威張りや、テライやヒガミがあるかぎり、人間が人間自身を馬鹿にしているのである。現実のあらゆる矛盾は、おおらかな、爽かな、人間の誇りを、人間が今新しく建設すべき、たわめられたるバネであり、撥条である。矛盾の批判を手放さないこと、心の隅から隅まで、ミテクレに行すぎる誘惑の批判をゆるめないこと、人間が人間を侮辱の中にまかせないこと。このことが、すぐれたる人々こそ今一等大切である。