◎木村蒹葭堂と葛子琴
贈世粛木詞伯 葛子琴 五言排律
酤酒市中隠 酒を酤《う》る 市中の隠《いん》
傳芳天下聞 芳《ほまれ》を伝へて 天下に聞《きこ》ゆ
泰平須賣剣 泰平《たいへい》 須《すべから》く剣を売るべく
志氣欲凌雲 志気《しき》 雲を凌《そそ》がんと欲す
名豈楊生達 名は豈《あ》に 楊生《ようせい》の達《すす》むるならんや
財非卓氏分 財は卓氏の分《わ》くるに非《あら》ず
世粉稱病客 世粉《せふん》 病客《びょうきゃく》と称《しょう》し
家事託文君 家事《かじ》 文君《ぶんくん》に託《たく》す
四壁自圖画 四壁《しへき》 自《おのづ》から図画《とが》
五車富典墳 五車《ごしゃ》 典墳《てんふん》に富《と》む
染毫銕橋柱 毫《ふで》を染《そ》む 銕橋《いきょう》の柱
滌器白州濆 器《うつわ》を滌《あら》ふ 白州の濆《ほとり》
堂掲蒹葭字 堂に掲《かか》ぐ 蒹葭《けんか》の字《じ》
侶追鷗鷺群 侶《とも》は追《お》ふ 鷗鷺《おうろ》の群《むれ》
洞庭春不盡 洞庭《どうてい》 春は盡《つ》きず
數使我曹醺 数《しばしば》 我が曹《そう》をして醺《よわ》しめたり
江戸時代18世紀後半、蒹葭堂をして、サロンたらしめたのは、三つの条件があったと思う。一つには、主人の収集を価値とする生い立ち、二つには、大坂商人の「エートス」ともいうべきまめな性格で、毎日の来訪者を丹念に書き留めており、現在は、その「蒹葭堂日記」として残っている。日記を調べると、堂を訪れた文人は、広く日本全国に及んでいると言う。三つ目は、実際、蒹葭堂を会場にして、詩の集いなどのミーティングが、毎月定例化されたことだ。その詩会は、当初蒹葭堂が会場になったが、毎月、お店が会場になるというのも商売に差支えもあったのだろう、やがてその場所を移し、明和二年(1765)、「混沌詩社」の結成へと発展していった。その中での中心メンバーが、作者の葛子琴(Wikipedia)である。
葛子琴は、元文4年(1739年)生まれとあるから、木村蒹葭堂より、三つ年少だが、ほぼ同時代に生を受けたとみて良い。大坂玉江橋北詰に屋敷があった生粋の浪速人、しかも代々医を家業としていた(同業者!)。このことは、大坂生まれの漢詩人というのは、寡聞にして他にいないので、そのたぐいまれな詩才は、もっと知られてもよいと思う。45年という比較的短い生涯であったが、詩会を通じての知り合いだったが晩年は、蒹葭堂に出入りしたと「日記」にはあるという。詩は、その蒹葭堂讃である。詩の背景として、前漢の時代、その文名をはせた司馬相如(Wikipedia http://is.gd/IjZ7Io)に蒹葭堂を模している。司馬相如は、不遇の時代、酒屋を営んで、糊口をしのいでいた。しかも、駆け落ち同然で結ばれた卓文君という妻が、なかなかのやり手で、司馬相如が漢の武帝に見出されるまでは、内助の功を発揮した。司馬相如は若い頃は剣の達人だったというエピソードは、木村蒹葭堂の祖先が、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛というから、それに重ねあわせたのかもしれない。しかし、「ボロは着てても心は錦」、志気の極めて軒高なことを司馬相如に例える。次は、蒹葭堂のユニークなところ、楊生のような推薦者がいたわけではなく、細君の実家からの援助があったわけでもない。ただ、元来「蒲柳の質」で、家事は妻(と妾―江戸時代は、妻妾同居が当たり前だったんだろう)に任していた。その結果、汗牛充棟、三典五墳の一大コレクションが出来上がった。銕橋(くろがねばし)は、今はもう埋め立てられてしまった、堀江川にかかる橋、蒹葭堂のあった北堀江と南堀江の境だろう。6月始めに、この近くにある保育所健診に行くので、このあたりの地理的関係を確かめておこう。(後注:http://www.yuki-room.com/horie.html によると北堀江と南堀江の境の道路から一つ南の筋にかかっていたらしい。)清人から送られた蒹葭堂の書斎に掲げられた扁額に触れ、その縁語で、堂に集う文人たちを鷗鷺に例え、そこにいると名勝地洞庭湖にも比すべき別天地、その春の情は尽きることなく、美酒に酔う心持ちであると述べ、讃詩の結びとしている。
*参考文献:水田紀久「水の中央にあり―木村蒹葭堂研究」(岩波書店)
写真は、明治末年に発刊された「漢籍国字解全書」詩疏図解・淵景山述(安永年間の人とあるので、ほぼわが主人と同時代である。)で、「蒹葭」の図が載っている。こんな本で四書五経を学んだという意味でスキャンした。
日本人と漢詩(017)
◎木村蒹葭堂、テレサ・テンと詩経
蒹葭《けんか》篇 詩経国風 秦風
兼葭蒼蒼 兼葭蒼蒼たり
白露為霜 白露霜と為る
所謂伊人 所謂伊《こ》の人
在水一方 水の一方に在り
溯洄從之 溯洄して之に從はんとすれば
道阻且長 道阻にして且つ長し
溯游從之 溯游して之に從はんとすれば
宛在水中央 宛として水の中央に在り
兼葭萋萋 兼葭萋萋たり
白露未晞 白露未だ晞《かは》かず
所謂伊人 所謂伊の人
在水之湄 水の湄《きし》に在り
溯洄從之 溯洄して之に從はんとすれば
道阻且躋 道阻にして且つ躋《のぼ》る
溯游從之 溯游して之に從はんとすれば
宛在水中心 宛として水の中心に在り
兼葭采采 兼葭采采たり
白露未已 白露未だ已まず
所謂伊人 所謂伊の人
在水之畔 水の畔に在り
溯洄從之 溯洄して之に從はんとすれば
道阻且右 道阻にして且つ右す
溯游從之 溯游して之に從はんとすれば
宛在水中沚 宛として水の中沚に在り
まず、この詩の現代中国語バージョン、鄧麗君 (テレサ・テン)「 在水一方」。こちらは、もう立派な艶歌である。Youtubeでは→https://youtu.be/xrI__4dqYhI
語釈 兼葭:植物、ヨシやアシ 蒼蒼:あおあお 白露為霜:旧暦9月頃の気候 伊人:「愛しい人」だろう 溯洄:さかのぼる 溯游:流れに沿って下る 宛在水中央:手が届きそうで届かない
語釈の続きと訳文は、愛の物語―詩経の新解釈を参照。
再び、木村蒹葭堂の話題へ戻る。河上肇については、機会があればということで…今回は、蒹葭堂の由来となった詩から。ある時、庭の井戸より芦の根が出てきたのを喜び、「蒹葭(アシとヨシ)堂」と名付けたとあるが、その大坂の地らしいエピソードで思い浮かべた詩経の一編にちなんだ要素のほうが強いのではないか。詩経(Wikipedia http://is.gd/4465RJ)は、中国最古の詩集、紀元前6世紀頃、孔子が編纂したと言われている。国風は、そのうち、各地の民謡、秦風とあるから、今の陜西地方で唄われた歌。従来、詩経は、道徳的、政治的解釈が主流だったが、朱子に至って「近代的」解釈がされるようになり、男女間の愛情を扱った詩もあると主張した。その朱子ですら、この詩はよく分からないといっているそうだが、会うことがままならぬ恋人の事を歌ったものとするのが、自然であろう。
日本人と漢詩(016)
◎河上肇と王維
輞川《もうせん》に歸りての作 王維
谷口 疎鐘《そしょう》動き
漁樵《ぎょしょう》 稍《ようや》く稀《まれ》ならんと欲す
悠然《ゆうぜん》たり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
菱《ひし》の實は弱くして定《さだま》り難く
楊花《ようか》は輕くして飛び易やすし
東皐《とうこう》 春草の色
惆悵《ちゅうちょう》して柴扉《さいひ》を掩《おお》う
もう、一回か二回、河上肇の話題にお付き合いください。2007年7月1日の旧文を若干改変しました。
彼は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六 、その七 )を書いたことは、一海先生もあちこちで書かれています。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に
「最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。 」
とあります。
王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。
「寒食汜上の作」
落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人
「積雨輞川荘の作」
漠獏《ばくばく》たる水田 白鷺《はくろ》飛《と》び
陰陰《いんいん》たる夏木 黄鸝《こうり》囀《さえ》ずる
「終南の別業」
行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る
後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、自作の漢詩の対句へのインスピレーションが湧き、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、心地良い夢をみたことでしょう。
・参考 「王維詩集」(岩波文庫)
画像は、王維画(とされる)「輞川圖」(視覚素養学習網より)
日本人と漢詩(015)
◎一海知義と河上肇
辛未春日偶成 閉戸閑人
対鏡似田夫 鏡に対すれば田夫に似たり
形容枯槁眼眵昏 形容枯槁《ここう》 眼は眵昏《しこん》
眉宇纔存積憤痕 眉宇《びう》 纔《わず》かに存す 積憤《せきふん》の痕《あと》
心如老馬雖知路 心は老馬の如く 路を知ると雖《いえど》も
身似病蛙不耐奔 身は病蛙《びょうあ》に似て 奔《はし》るに耐《た》えず
今回は、木村蒹葭堂の話題から離れる。というのは、18日付の赤旗文化欄に経済学者・河上肇の紹介記事が、一海知義氏の執筆で掲載(漢詩閑談その2)されていたからだ。いつも、赤旗記事を丁寧にスキャンしておられるFB友のYさんの投稿にも見当たらないので、当方で用意した。
明治以来の日本の漢詩では、夏目漱石と河上肇が双璧だと思う。その内容の深みが他を圧倒するからだ。また、記事にあるように、「詩は志を云う」点では、河上肇をおいて他にないのではではないか。
一海知義氏は、河上肇も傾倒した中国・宋の詩人・陸游の詩を、一首づつ解説している「一海知義の漢詩道場」(岩波書店刊)のコラム欄で、河上肇の詩を、「揮毫」した色紙(河上肇のデリケートな内面が現れているような筆跡である。)とともに紹介し、漢詩を読む際の幾つかのハードルについて書いておられる。そのうちの一つが字句の意味である。上に挙げた漢詩について言えば、「形容」は姿かたち。枯槁は、枯れしなびる。眵昏は、目やにがたまってよく見えぬ。眉宇は眉と眉の間。後半二句は、別のハードル、中国古典からの「典故」が待ち構える。老馬は道を知っているがゆえに遭難した旅人を救うことができるという「韓非子」からの「引用」があると一海氏は説く。もっとも、肝心なのはこの詩の時代背景である。赤旗記事にあるように、河上肇が漢詩作法を覚えたのは、獄中の独学とある。しかし実際にはその詩作が多くなるのは、1937年(昭和12年)に出獄の後のこと。辛未春日偶成は、辛未とは、1941年(昭和16年)の作。出獄後、特高警察の監視のもと(監視下に漢詩を作るというのは、下手なダジャレだが…いずれにしても、特高も言葉の意味は理解の範囲外だったのだろう。)ひっそりと暮らしていた河上肇にとっても、否が応にでも、戦争の足音は聞こえてくる。たとえ、故事来歴を知らなくても、「積憤」という漢語に彼の込めた思いは深く、悲しい。
日本人と漢詩(014)
◎木村蒹葭堂と祗園南海
白屋靑燈獨夜情 白屋青燈、独夜の情
樽中有酒誰共傾 樽中、酒あり、誰と共にか傾けん
寒花十月無人見 寒花十月、人を見るなく
黃葉滿山聽鹿行 黄葉満山、鹿の行くを聴くのみ
「私たちの主人公、小字《おさなな》木村太吉郎が生まれたのは、元文元年(1736)、11月28日、大坂北堀江瓶橋北詰の酒造屋の一室であった。」とするのは、先日の投稿した史跡になるのだろうか?
中村真一郎氏は、その伝を執筆動機からはじめて、主人公の出生に及んでゆく。そこで、わが蒹葭堂が、少年時代から勤しんだ書画などの勉学から説く。大阪市の記念碑には、絵とともに漢詩の師匠筋にあたるのが、片山北海、柳沢淇園などの名を挙げる。更に中村氏は、淇園の先輩であり、同じ流派であった祗園南海らの詩や絵の中国直輸入ぶりに、逆に純粋なインターナショナルな精神を感じるという。
祗園南海(Wikipedia)は、わが蒹葭堂と15年くらい生涯が重なる詩人、文人。なかなか起伏に富む生涯であったようだ。中村氏が引用する詩は、その謫居中の詩。ひとり住むあばら屋に花は咲けども酒の相手もいない、紅葉の山に鹿の鳴く声のみがうつろに響く、とする七言絶句は、単に「唐詩選」からの模倣ではなく、ずいぶん率直な詩だと感じる。
「…十八世紀大坂の一少年太吉郎の胸を騒がせたのも(世界主義という)同じ衝動であり、やがてこの衝動は『蒹葭堂』という国際博物館の実現にまで、その夢が膨らんで行くことになる。
…
それは日本にとっては、十六世紀後半の切支丹伝来時の、短い国際化に次ぐ本格的な、世界に向っての窓の開かれた、又、世界の水平線上に日本の影の現れはじめた時代なのである。
…
そうした世界的雰囲気のなかで、ブルジョアジーの支配する都市、大坂の一隅に、世界を視野においた博物学のディレッタントが成長して行くのである。」(同)
これからも、「春風が(ガラス越しにも)伝わ」(芥川龍之介)ってくるようなわがディレッタントに則しながら、また時には離れ、時空も超えて、ゆっくり、ゆったりと書き綴ってゆくとする。
なお、大阪市の記念碑がある所は、正確には蒹葭堂跡ではないらしい。その石碑より100mほど西に入った所が、生家のようである。(Google map )
【参考】中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社)