日本人と漢詩(065)

◎空海(弘法大師)
空海 後夜聞佛法僧鳥
閑林獨坐草堂曉
三寶之聲聞一鳥
一鳥有聲人有心
聲心雲水倶了了

読み下し文、語釈は上記リンクを参照のこと。空海の漢詩では有名な作品らしいが、どうも取ってつけたような味わいで、正直なところ詩趣は薄い。それより、
靑陽一照御苑中 青陽一たび照らす御苑の中
梅蕊先衆發春風 梅蕊《ばいずい》衆に先んじて春風に発《ひら》く
春風一起馨香遠 春風一たび起こりて馨香《けいこう》遠《あまね》し
華萼相暉照天宮 華萼《かがく》相暉《あいかがや》きて天宮を照らす

春の太陽が御苑のなかを御苑の中をひとたび照らせば
梅のつぼみも何よりも先に春風とともに花ひらく
春風がひとたび吹けば
花の香りは遠くへとどき
花も萼《がく》も輝き合って、天宮を照らす

字の繰り返しが鼻に突き、詩の背景も「貴人」の感覚の域をでないが、まだ「宗教臭」は薄く、自然な感じがする。

空海は、今の世にも生き仏となり、高野山では三度の飯を給仕しているらしい。そこでの掛け声は…
ーなにか、くうかい?
ー今日は、スパゲッティでカルボナーラが食べたいなあ!
と空海は言ったか言わなかったとか。(お後がよろしいようで!)
【参考】
阿部龍樹「空海の詩」

写真は、高野山壇上伽藍。(Wikipedia より 663highland – 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8349450による)

日本人と漢詩(064)

◎蠣崎波響

蠣崎波響(1764~1826)は、蝦夷地・松前藩第12代藩主松前資廣《すけひろ》の五男、家老職のとき、松前藩転封の憂き目に会い、蝦夷地への復帰に努力した。独特のアイヌ画など絵画にも堪能し、またその頃の詩人などとも広く交友があった。(Wikipedia) 彼の漢詩より、歳暮から正月にかけての詩を数首。画像は「梅花十詠」の表紙。並大抵の労苦ではなかったはずだが、淡々とわが生を振り返る佳詩である。

戊寅歳暮 七絶
書帙堆中心事虚 書帙(しょちつ)うずたかきうち 心事 むなし
官忙老却逐居諸 官忙 老却して 居諸を逐う
今年亦是已経過 今年もまたこれ已に経過す
五十何能読五車 五十にして 何ぞよく五車を読まん

うずたかく積んだ書物のなかで心中はむなしく感じる
公務多忙でめっきり老いてしまいいたづらに月日をおいかけるだけ
今年もまたすでに過ぎてしまった
五十歳にしてどうして五台の車に積んだような書物が読むことができようか

注:戊寅 文政元年(1818年)波響55才 居諸 詩経に「日居月諸」(日よ月よ)とある

歳晩即時 七律

三百六旬如奔輪 三百六旬 奔輪の如く
閑中忙裏忽移巡 閑中忙裏 忽ちまち移り巡る
光陰難逐磨針業 光陰 逐いがたし 磨針の業
活計何愁鋤鏟貧 活計 何ぞ愁えん 鋤鏟の貧
泉脈未通前筧凍 泉脈は未だ通ぜず 前筧(ぜんけん) 凍れるに
梅唇先放半枝春 梅唇は先に放して 半枝の春
不知得得老期近 得々たる老期の近きを知らず
歳歳待花与鳥均 歳々 花を待つこと鳥と均(ひと)し

一年三百六十日は回る車輪のようで
暇でも忙しくてもあっという間に経ってしまう
あくせくとした日常の身を削るような用向きに時の流れが容赦なく過ぎてゆくが
鋤と鍬の農耕生活なら貧乏でも構わない
水の流れはまだ通じておらず庭先のかけいも凍ったままだが
梅の花がまず咲いて枝の半分だけが春になった
悠々自適の老後の生活が近いともしらず
年ごとに鳥と一緒になって花を待っている身である

除夜 二首
其一 五絶
歳酒迎賓酌 歳酒 賓を迎えて酌み
塵忙忘酔中 塵忙 酔中に忘る
五更春信動 五更 春信 動き
門外柳枝風 門外に 柳枝の風

年忘れの酒を来客と酌み交わすと
日頃の忙しいのも酔って忘れる
明け方には春の便りが届いたよう
門の外には柳の枝に吹く風の音

其二 七絶
椒酒避寒垂暁天 椒酒(しゅくしゅ) 寒を避けて 暁天になんなんとす
梅風馥郁遶窓前 梅風 馥郁(ふくいく)として 窓前をめぐる
残燈不滅猶明影 残燈はきえず 猶お明影あり
明影堂中遇一年 明影の堂中 一年にあう

寒さよけにお屠蘇を飲んで明け方になってきた
梅の香の風はふくいくとして 窓の前をめぐっている
昨年の残りの灯火は消えずになお明るく影を照らす
その光と影の部屋で新しい年に出会った

【参考】
・中村真一郎「蠣崎波響の生涯」
・高木 重俊「蛎崎波響漢詩全釈―梅痩柳眠村舎遺稿」

日本人と漢詩(063)

◎西村真琴、豊中市と魯迅
魯迅のこの詩への題記に
「西村博士、上海戦後に喪家の鳩を得、持ち帰りて之を養う。初めは亦相安んずるも、終に化し去る。塔を建てて以て蔵《おさ》め、且つ題詠を徴《もと》む。率《にわか》に一律を成し、聊《いささ》か遐情《かじょう》(はるかな心)に答うと爾《しか》云《い》う。一九三三年六月二十一日、魯迅」とある。
題三義塔  三義塔に題す
奔霆飛熛殲人子
敗井頽垣剩餓鳩
偶値大心離火宅
終遺高塔念瀛洲
精禽夢覺仍啣石
闘士誠堅共抗流
度盡劫波兄弟在
相逢一笑泯恩仇
読み下し文は、写真右参照のこと
西村真琴は、戦後すぐに豊中市会議員(議長)を勤めた。その後公民館館長を歴任、戦時中は、上海事変のさなか、中国滞在中に、傷ついた鳩を日本に持ち帰ったが、1933年3月、その鳩は死に、豊中市穂積の自宅に埋葬、三義塔と名付け、題詠を依頼し、魯迅が詠んだ七律。
奔霆《ほんてい》は飛行機の爆撃、飛熛《ひひょう》は砲弾が飛び交う様、敗井・頽垣《はいせい・たいえん》くずれ落ちた家の垣。大心は大悲の心、火宅は燃え盛る家で、高塔とともに仏教用語。大心は大悲心、火宅は日に包まれた家。瀛洲は日本の「美称」。
(以下略)
現在ある豊中市の碑には、こうした悲惨さについては触れられていない。以下のブログにあるように、歴史を捨象したところに、「日中友好」など生まれようがないと思うのは私だけだろうか?
ブログ「Arisanのノートー大事なことが抜けている」

ちなみに、西村真琴氏(Wikipedia)は、水戸黄門役で名を馳せた俳優・西村晃氏の父君。

日本軍の飛行機の爆弾や銃火が中國人民を殺傷し井戸や垣をやぶり崩して町を荒廃させ、一羽の餓えた鳩をのこした。
たまたまその鳩が西村真琴博士の大慈悲心にあって火に包まれた家を離れたがとうとう死んで三義塚をのこし日本を(一つの気高い心の故に)記念している。
死んだ鳩は眠りから覚めて、かの古伝説に言う精衛の如く、日中間をへだてる東海を小石をくわえて埋めんとし、私と貴方(日中両国人民)は誠心かたく時流に抗して闘う。
今は日中両国のへだたりははるかに遠いが長い年月を苦難して渡り尽くせば、日中両國の大衆はもとより兄弟である。その時逢ってニッコリすれば深いうらみも滅び去るだろう。

一九三三、六、二十一魯迅

 

日本人と漢詩(062)

◎清岡卓行と李賀、岳飛

 先日、Facebook で紹介した清岡卓行に「李杜の国」という小説がある。タイトルの如く、李白や杜甫などの詩を引いて、日本の詩人団体の中国旅行記の体裁であるが、別の筋立てとして、主人公の評論家と女流詩人との恋愛の始まりから、一旦終焉になり、また復活の経緯がある。もっとも、後者は当方も経験外であるので、感想はひとまず置いておこう。李杜の詩の他に、紹介されるのは、白居易、など。李賀の詩も、冒頭のとても印象的であり、どこか中原中也あたりを彷彿させる二句「長安に男児有り、二十 心已でに朽ちたり」が載っている。その詩、あまり、全編を掲載しているサイトが少ないので、アップしておく。

 贈陳商       陳商に贈る  李賀
長安有男児   長安に男児《だんじ》有り
二十心已朽   二十《にじゅう》 心已《す》でに朽ちたり
楞伽推案前   楞伽《りょうが》 案前《あんぜん》に推《うずたか》く
楚辞繋肘後   楚辞《そじ》 肘後《ちゅうご》に繋かく
人生有窮拙   人生《じんせい》 窮拙《きゅうせつ》有り
日暮聊飲酒   日暮《にちぼ》 聊《いささ》か酒を飲む
祗今道已塞   祗《ただ》今 道 已に塞《ふさが》り
何必須白首   何ぞ必ずしも白首《はくしゅ》を須《ま》たん
淒淒陳述聖   淒淒《せいせい》たり 陳述聖《ちんじゅつせい》
披褐鉏爼豆   褐《かつ》を披《き》て 爼豆《そとう》に鉏《そ》す
学為堯舜文   堯舜《ぎょうしゅん》の文を為《つ》くることを学び
時人責垂偶   時人《じじん》 垂偶《すいぐう》を責《せ》む
柴門車轍凍   柴門《さいもん》 車轍《しゃてつ》凍《こお》り
日下楡影痩   日《ひ》下りて 楡影《ゆえい》痩せたり
黄昏訪我来   黄昏《こうこん》 我を訪《と》い来たる
苦節青陽皺   苦節《くせつ》 青陽《せいよう》に皺《しわ》む
太華五千仭   太華《たいか》 五千仭《ごせんじん》
劈地抽森秀   地を劈《つんざ》いて森秀《しんしゅう》を抽《ぬき》んず
旁苦無寸尋   旁《かたわら》に寸尋《すんじん》無きを苦しむ
一上戛牛斗   一《ひとた》び上れば牛斗《ぎゅうと》に戛《かつ》たり
公卿縦不憐   公卿《こうけい》 縦《たと》え憐《あわれ》まずとも
寧能鎖吾口   寧《なん》ぞ能《よ》く吾《わ》が口を鎖《とざさ》んや
李生師太華   李生《りせい》は太華《たいか》を師しとし
大坐看白昼   大坐《たいざ》して白昼《はくちゅう》を看《み》る
逢霜作樸樕   霜に逢えば 樸樕《ぼくそく》を作り
得気為春柳   気を得ては 春の柳と為《な》る
礼節乃相去   礼節《れいせつ》 乃《すなわ》ち相去り
顦顇如芻狗   顦顇《しょうすい》 芻狗《すうく》の如し
風雪直斎壇   風雪《ふうせつ》 斎壇《さいだん》に直《ちょく》し
墨組貫銅綬   墨組《ぼくそ》 銅綬《どうじゅ》を貫《つらぬ》く
臣妾気態間   臣妾《しんしょう》 気態《きたい》の間《かん》
唯欲承箕帚   唯《た》だ箕帚《きそう》を承《う》けんと欲す
天眼何時開   天眼《てんがん》 何の時にか開く
古剣庸一吼   古剣《こけん》 庸《も》って一吼《いっこうせん》

語釈、訳文などは、 http://itaka84.upper.jp/bookn/kansi/1104i.html を参照のこと。

 同じく清岡卓行の「詩礼伝家」の由来となったのは、額にあるような、南宋の武人・岳飛の「文章報國 詩禮傳家」という言葉である。(左の図)。「李杜の国」の中でも、簡単な紹介がある。岳飛の詞と詩を二つほど載せておく。
 右の図は、亡母が中国旅行の土産に買ってきた、岳飛書のレプリカ。母の仏間に今も掲げている。「我に河山を還せ」とは、失われた宋の領土への尽きせぬ思いだったんだろう。

岳飛の詞「滿江紅」http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p8yuefei.htm

詩「池州翠微亭  池州の翠微亭 」 https://taweb.aichi-u.ac.jp/toyohiro/yue%20fei%20chizhoucuiweiting.html

 

日本人と漢詩(060)

◎石川啄木、簡野道明と白居易(白楽天)
 白楽天は言っている。
「世に謂うところの『文士は数奇なること多く、詩人は尤も命薄し』とは斯こにおいて見わる。」まるで、啄木を指すような言葉である。その啄木に、明治41年9月26日の日記で次のような一節がある。
「白楽天詩集をよむ。白氏は蓋《けだ》し外邦の文丈にして最も早く且《か》つ深く邦人に親炙《しんしゃ》したるの人。長恨歌、琵琶行、を初め、意に会するものを抜いて私帖に写す。詩風の雄高李杜《りと》に及ばざる遠しと雖《いえ》ども、亦《また》才人なるかな。」
 少し、評価は低いが、多面的な白居易の詩に触れ合う機会には恵まれなかったゆえであろう。そんな「閑適」の詩、老境を詠ったちょっと身につまされるメランコリックとも言える一首を、簡野道明講述の「和漢名詩類選評釋」から、白文、読み下し文、訓詁、評釈の全文。
春晚詠懷贈皇甫朗之 春晩《しゆんばん》懐《くわい》を詠《えい》じて皇甫朗之《くわほらうし》に贈《おく》る
艷陽時節又蹉跎 艶陽《えんやう》の時節《じせつ》又《また》蹉跎《さた》たり
遲暮光陰復若何 遅暮《ちぼ》の光陰《くわういん》復《また》若何《いかん》
一歲平分春日少 一歳《さい》平分《へいぶん》すれば春日《しゆんじつ》少《すくな》く
百年通計老時多 百年《ねん》通計《つうけい》すれば老時《らうじ》多《おほ》し
多中更被愁牽引 多中《たちゆう》更《さら》に愁《うれひ》に牽引《けんいん》せられ
少處兼遭病折磨 少処《しょうしよ》兼《かね》て病《やまひ》に折磨《せつま》せらる
頼有銷憂治悶藥 頼《さいはひ》に憂《うれひ》を銷《け》し悶《もん》を治《ぢ》するの薬《くすり》あり
君家濃酎我狂歌 君《きみ》が家《いへ》の濃酎《のうちう》我《わ》が狂歌《きやうか》
訓詁
艷陽時節:百花爛漫たるうるはしき盛りの春
蹉跎:つまづく(失足)貌 時を失ふにいふ
遅暮:晩年、老年の意
平分:平均に分つ
遭:「ラル」と訓む、被なり
折磨:損する
濃酎:濃くしてうまき酒
評釋
平聲歌韻、彌生の春も思ふにまかせず、空しく過ぎ去り、己も老境になりては如何ともし難し、一年の中を分くれば春の樂しき日は最も少く、百年の生涯を通算すれば、老を歎ずる時、多きなり、其の多き中 にて更に種種の愁に牽きまつわれ、少なき春の日をば、病の爲めに減損せらる、只幸に憂悶を銷し治むる藥ありて、聊か心を慰むべきものあり、それは他にあらず、君の家の美酒と、我が歌ふ詩との二つなりと、詩酒を友として興を遣らんとの意を敍せり。
「一歲平分春日少 百年通計老時多」は、実感するところである。
図は、「長恨歌」挿絵( http://chugokugo-script.net/kanshi/chougonka.html )豊満な美人の楊貴妃とは、違ったプロポーションのところが面白い。

日本人と漢詩(061)

◎一海知義と河上肇、姚合
 2012年9月28日付けの赤旗文化欄、一海知義先生の漢詩閑談(写真)は、以前の河上肇からの連想で「貧乏神」物語。学生時代の初舞台が「貧乏神」(作者失念!)という芝居の「馬鹿殿様」役だった。貧乏神は、実は庶民の味方で、「水呑み百姓」に「殿様」に反抗をしかける、その殿様の「馬鹿さ加減」をたたいたところで現実は何も変わらない、といったテーマと筋だったと思うが、現代でも示唆的である。ともあれ、紹介の漢詩からもあるように、貧乏神というと、どこか、憎んでも憎みきれないユーモアがあるようだ。

 

日本人と漢詩(018)

◎木村蒹葭堂と葛子琴
贈世粛木詞伯 葛子琴 五言排律
酤酒市中隠 酒を酤《う》る 市中の隠《いん》
傳芳天下聞 芳《ほまれ》を伝へて 天下に聞《きこ》ゆ
泰平須賣剣 泰平《たいへい》 須《すべから》く剣を売るべく
志氣欲凌雲 志気《しき》 雲を凌《そそ》がんと欲す
名豈楊生達 名は豈《あ》に 楊生《ようせい》の達《すす》むるならんや
財非卓氏分 財は卓氏の分《わ》くるに非《あら》ず
世粉稱病客 世粉《せふん》 病客《びょうきゃく》と称《しょう》し
家事託文君 家事《かじ》 文君《ぶんくん》に託《たく》す
四壁自圖画 四壁《しへき》 自《おのづ》から図画《とが》
五車富典墳 五車《ごしゃ》 典墳《てんふん》に富《と》む
染毫銕橋柱 毫《ふで》を染《そ》む 銕橋《いきょう》の柱
滌器白州濆 器《うつわ》を滌《あら》ふ 白州の濆《ほとり》
堂掲蒹葭字 堂に掲《かか》ぐ 蒹葭《けんか》の字《じ》
侶追鷗鷺群 侶《とも》は追《お》ふ 鷗鷺《おうろ》の群《むれ》
洞庭春不盡 洞庭《どうてい》 春は盡《つ》きず
數使我曹醺 数《しばしば》 我が曹《そう》をして醺《よわ》しめたり
江戸時代18世紀後半、蒹葭堂をして、サロンたらしめたのは、三つの条件があったと思う。一つには、主人の収集を価値とする生い立ち、二つには、大坂商人の「エートス」ともいうべきまめな性格で、毎日の来訪者を丹念に書き留めており、現在は、その「蒹葭堂日記」として残っている。日記を調べると、堂を訪れた文人は、広く日本全国に及んでいると言う。三つ目は、実際、蒹葭堂を会場にして、詩の集いなどのミーティングが、毎月定例化されたことだ。その詩会は、当初蒹葭堂が会場になったが、毎月、お店が会場になるというのも商売に差支えもあったのだろう、やがてその場所を移し、明和二年(1765)、「混沌詩社」の結成へと発展していった。その中での中心メンバーが、作者の葛子琴(Wikipedia)である。
葛子琴は、元文4年(1739年)生まれとあるから、木村蒹葭堂より、三つ年少だが、ほぼ同時代に生を受けたとみて良い。大坂玉江橋北詰に屋敷があった生粋の浪速人、しかも代々医を家業としていた(同業者!)。このことは、大坂生まれの漢詩人というのは、寡聞にして他にいないので、そのたぐいまれな詩才は、もっと知られてもよいと思う。45年という比較的短い生涯であったが、詩会を通じての知り合いだったが晩年は、蒹葭堂に出入りしたと「日記」にはあるという。詩は、その蒹葭堂讃である。詩の背景として、前漢の時代、その文名をはせた司馬相如(Wikipedia http://is.gd/IjZ7Io)に蒹葭堂を模している。司馬相如は、不遇の時代、酒屋を営んで、糊口をしのいでいた。しかも、駆け落ち同然で結ばれた卓文君という妻が、なかなかのやり手で、司馬相如が漢の武帝に見出されるまでは、内助の功を発揮した。司馬相如は若い頃は剣の達人だったというエピソードは、木村蒹葭堂の祖先が、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛というから、それに重ねあわせたのかもしれない。しかし、「ボロは着てても心は錦」、志気の極めて軒高なことを司馬相如に例える。次は、蒹葭堂のユニークなところ、楊生のような推薦者がいたわけではなく、細君の実家からの援助があったわけでもない。ただ、元来「蒲柳の質」で、家事は妻(と妾―江戸時代は、妻妾同居が当たり前だったんだろう)に任していた。その結果、汗牛充棟、三典五墳の一大コレクションが出来上がった。銕橋(くろがねばし)は、今はもう埋め立てられてしまった、堀江川にかかる橋、蒹葭堂のあった北堀江と南堀江の境だろう。6月始めに、この近くにある保育所健診に行くので、このあたりの地理的関係を確かめておこう。(後注:http://www.yuki-room.com/horie.html によると北堀江と南堀江の境の道路から一つ南の筋にかかっていたらしい。)清人から送られた蒹葭堂の書斎に掲げられた扁額に触れ、その縁語で、堂に集う文人たちを鷗鷺に例え、そこにいると名勝地洞庭湖にも比すべき別天地、その春の情は尽きることなく、美酒に酔う心持ちであると述べ、讃詩の結びとしている。
*参考文献:水田紀久「水の中央にあり―木村蒹葭堂研究」(岩波書店)
写真は、明治末年に発刊された「漢籍国字解全書」詩疏図解・淵景山述(安永年間の人とあるので、ほぼわが主人と同時代である。)で、「蒹葭」の図が載っている。こんな本で四書五経を学んだという意味でスキャンした。

日本人と漢詩(002)

◎森鷗外(続き)
當年(とうねん)の向背(こうはい) 群臣を駭(おどろ)かし
末路(まつろ)の凄愴(せいそう) 鬼神を泣かしむ
功業 千秋 且(しばら)く問ふを休(や)めよ
多情 偏(ひと)へに是(こ)れ 詩を愛するの人なればなり
          路易(ルートヴィヒ)二世
前回の詩に続いての詠唱。同じく、ルートビッヒ2世を扱ったものだが、より王に肩入れしたものになっている。起句は、在位当時の「国際」情勢を反映。1866年の普墺戦争(http://is.gd/9WADHU)では、最初、バイエルンは、オーストリア側についたが、ルートビッヒルートビッヒは、途中から、プロシアに味方する。このことで家臣と重大な対立があったことを指す。老獪ビスマルクにあっては、「詩を愛する人」で芸術家肌だったルートビッヒなどは「赤子の手をひねる」よりも御しやすい相手だったんだろう。
前回、触れたヴィスコンティの映画は、世紀末的、耽美的なタッチだと記憶しているが、映画に出てくる、これまたルートビッヒが愛好ンしたワーグナーの音楽が私には生理的にあわないらしく、途中で筋も分からなくなってしまった。
それはともかく、鷗外には、ルートビッヒの侍医で一緒に溺死したフォン・グッデンを讃える詩や後期の漢詩も捨てがたいものがあるが、機会があればと云うことに…
写真は、シュタルンベルク湖のパノラマ、wikimedia(http://is.gd/CJalJI) にあったので拝借。FBでは、大きいサイズはアップロードできず、はっきりしないが、水面の向こうにアルプスが見える。
【参考】鴎外歴史文学集〈第12巻〉漢詩(上) (ISBN:978-4000923323)より

日本人と漢詩(001)

◎森鷗外

望断(ぼうだん)す 鵠山(こくさん)城外の雲
詞人 何事ぞ 涙 紛粉(ふんぷん)たるは
艙窓(さうさう) 多少の綺羅(きら)の客(かく)
憶(おも)はず 波間(はかん)に故君を葬るを
別に精通しているわけではありませんが、あちこちの所蔵本から、漢詩(日本人が作った漢詩に限定しようと思いましたが、どうやら広く本場のそれにも触れそうなので「の」→「と」しました)を抜書きしてゆきます。語釈や訳文は苦手なので、気が向いたら付けることにします。基本的には、読み下し文だけです。できれば、江戸時代を中心としたいのですが、あちこちの時代に彷徨するかもしれません。早速、「脱線」ですが、同業(文学者という意味ではありません 笑)の大先輩に敬意を表して、森鷗外から…
彼の漢詩は漱石のそれに比して「評価」されていません。漢詩に込めた内容など漱石のほうがずっと上でしょう。しかし、なかなか捨てがたいものもあります。彼のドイツ留学時代(1884〜1888)に詠んだ一連の詩群などそうです。ここは、その留学中に衝撃を受け、後に「うたかたの記」(http://www.aozora.jp/misc/cards/000129/card694.html)のバックグラウンドになった、バイエルン王ルートビッヒ2世(http://is.gd/iU4xoW ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルートビッヒ/神々の黄昏」でも有名ですね)の溺死したシュタルンベルク湖に、事件の数ヶ月後に船を泛べた時の詩。
湖の名、Starnberg は、ムクドリ(鵠)の山という意。着飾った船の乗客と、ついこのあいだの国王の死との対比の中で詞人・鷗外は感じることがあったのでしょう。写真は Wikipedia から(シュタルンベルク湖のルートヴィヒ2世に因む十字架)
【参考】鴎外歴史文学集〈第12巻〉漢詩(上) (ISBN:978-4000923323)より