日本人と漢詩(106)

◎江馬細香と大西巨人

 日本の戦後、しばらくしての文学は、ロシア革命後のアバンギャルドを始めとして、様々な潮流があり、今日《こんにち》から見ても、興味深い。その「戦後」が落ち着いた頃「新日本文学」系の潮流の集大成というべき作品の一つが「神聖喜劇」なのではないか?
 旧軍隊の中にあって、作戦要務令などを「逆手」にとって「抵抗」を試みる一兵卒の話で、小気味良いものさえ感じる。それは、なによりも、一旦、文章化されると、それは「固定」され、それなりの首尾一貫性を持つ。こうした、規則、法律、憲法に至るまで「文に成る」。その「論理」を無視して、無謀な戦役を続けたのが、「日本帝国陸海軍」であったと言えるだろう。
 田能村竹田はじめとする多くの漢詩を引いているように、「漢文」という表現法は、性格上、この小説に似合っていると言わなければなるまい。ここでは、小説に載った江馬細香の七絶から…
別後贈人
ー點愁燈夢屢驚
耳邊所觸總關情
尋常蕉雨曾聞慣
不似今宵滴滴聲
〔 別後、人贈ル
一点ノ愁燈、夢|屢《シバラク》驚ク、
耳辺《ジヘン》触ルル所八総《スベ》テ情二関《カカワ》ル
尋常ノ蕉雨《セウウ》ハ曾《カツ》テ聞キ慣レシモ
今宵|滴滴《テキテキ》ノ声ニハ似ズ〕
語釈】関情:心をかき乱す 蕉雨:芭蕉に注ぐ雨
 頼山陽の評に「鉄石心腸(堅固な心の細香)もまた時に此等の詩を作る、寧《いづくんぞ》本事《ほんじ》(詩情に託した隠された事情)有らんや」
訳文】眠れぬ夜の耳元に聞こえてくるのは悩ましいものばかり、芭蕉に降る雨の音は今宵ばかりは心に滲みる

次韻平戸藩鏑軒先生見寄作
ー誤無家奉舅姑
徒耽文墨混江湖
却慚千里來章上
見儀文場女丈夫

平戸藩鏑軒先生 寄せらる作に次韻す
〔ー《ヒト》タビ誤ツテ家二舅姑《オウト》ヲ奉ゼズ徒《イタズラ》二文墨《ブンボク》二耽《フケ》ツテ江湖二混《マジ》ル却《カヘ》ツテ慚《ハ》ヅ千里来章ノ上見ルナラク文場ノ女丈夫ナリト〕

 ここでは、長い引用になるが、大西巨人の「解説」に頼る。
『江馬細香にたいする私の持続的・中心的関心は、とても実に次ぎのごとき細香晚年(嘉永五年〔ー八五二年〕)作七絶一首の存在(そのことに関する私の言わば「独断的」解釈)に由来していた。』

『一首の意は、さしずめ「私は、若い日、結婚のことで、かりそめの失敗をして、とうとう未婚のまま、むなしく詩文書画の道に熱中して俗世を渡ってきたが、今日、遠方より到来せる詩篇の中『(細香は実に)文壇の女丈夫(である。)」などということが(褒詞として)書かれているのを見ると、いっそほんとに恥ずかしい。」というような物であろう。
 ただし、あるいは「江湖二混ル」は、私の理解とは逆に、「隠遁」ないし「隠棲」を意味するのかもしれぬけれども、それがそうであっても、私の論旨は、別に痛痒を感ぜない。)』

『先の細香晚年(六十六歳)作七絶〔『次韻、平戸藩鎧軒先生ノ寄セラレシ作二』〕における「千里来章」は、この肥前平戸在住葉山佐内が遥かに美濃大垣在住江馬細香に寄せた詩篇を指示し、肝心の詩句は、「淋漓タル逸墨、詩画ヲ饒ニス/知ル是レ文場ノ女丈夫ナルヲ」である。
 後藤松陰(篠崎小竹女婿・頼山陽門人)撰の「墓誌銘」が『湘夢遺稿』巻末に収録せられていて、そこに「女史、人卜為リ篤実温雅二シテ卓識アリ、父-一事ヘテ孝、拋有リテ常セズ、筆硯自ラ娯ム。而シテ又、慨然トシテ憂国ノ気アリ、衆眉ノ丈夫ヲシテ慵衝有ラシ厶。」の文言が見られる。細香を論致せる『女詩人』において、徳富蘇峰は、如上「墓誌銘」中の「慨然トシテ憂国ノ気アリ、衆眉ノ丈夫ヲシテ愧色有ラシム。」という語句ならびに小原鉄心〔大垣藩家老〕の「喜ンデ古今ヲ談ジ、言、国家興廃ノ事二及ブヤ、涙ヲ揮ツテ之ヲ論ズ。」という言辞〔『湘夢遺稿』の「序」〕を引きつつ、それらによって細香晩節の「一斑を察す可し」、と書いた。また『湘夢遺稿』は、前掲次韻七絶の頭註として、頼三樹三郎の「真情真詩。女史ヲ知ラザル者ハ、或八尋常ノ風流女子卜以サン。過謙ノ語ナリ。」という評語を載せた。それにしても、「文場ノ女丈夫」という讃辞は、やはり主として細香の文芸的才能および業績にかかわっていたはずである。
 一般に人(識者)は、「ータビ誤ツテ家二舅姑ヲ奉ゼズ」の起句から、ただちに前述「墓誌銘」が言う「故有リテ笄セズ。」の事実に思い及ぶにちがいなく、したがってまたただちに細香二十代における頼山陽との縁談上蹉跌に思い至るにちがいない。そうすることに現実的根拠が大いにあるであろうことを、私は、一面において肯定する。しかも他面において、私(の独断的解釈)は、「ータビ誤ツテ家二舅姑ヲ奉ゼズ/徒一一文墨二耽ツテ江湖二混ル」の起承から、おのずとトオマス・マン作『トニオ・クレーゲル』におけるたとえばリザヴェタ・イワノヴナの’Sie sind ein Bürger auf Irrwegen,Tonio Kröger,—-ein verirrter Bürger’〔「あなたは、邪道におちいれる市民なのよ、トニオ・クレーゲル、——迷える市民なのよ。」〕という言葉を思い起こし、ひいてまたおのずと明石海人の諸制作におけるたとえば「病む歌のいくつはありとも世の常の父親にこそ終るべかりしか」という一首を思い合わせる。』

 まるで、森鴎外の史伝小説を継承し、それに+α したような書きぶりであることにも興味深い。

「神聖喜劇」というタイトルは、成文法の「頂点」と言うべき旧憲法第三条にあるような、「日本においては悲劇は喜劇である」という、愚の骨頂というべきか、為政者に都合のよい「フィクション」に基づいたものに思えてならない。

参考文献】
・大西巨人「神聖喜劇」第三巻(光文社文庫)
・江馬細香「湘夢遺稿」上(汲古書院)

日本人と漢詩(105)

◎井波律子と廖雲錦

 今日は、亡母の命日、久しぶりに休みをとって簡単な墓参を済ませた。一年にも満たないターミナルの時は、息子としてとうてい「孝行を尽くした」とは言えないのだが、それでも、それなりに「喪失感」がしばらくは続いた。

 対象が実母ではないが、「姑《しうとめ》を哭《こく》す」詩。

禁寒惜暧十餘春 寒《かん》を禁じ暖《だん》を借しむこと 十余春
往事回頭倍愴神 往事《おうじ》 回頭《かいとう》すれば 倍《ます》ます 神《こころ》を愴《いた》ましむ
幾度登樓親視膳 幾度《いくたび》楼《ろう》に登り 親しく膳を視《み》ん
揭開幃幕已無人 幃幕《いばく》を掲《かか》げ開くも 已《すで》に人《ひと》無し

 作者は、廖雲錦《りょううんきん》、清代中期の詩人袁枚《えんばい》門下の数多くいた女性詩人、生没年は不詳とある。当方も、井波律子さんの著作で初めて詩人の名を知った。

 訳は、井波さんのをまるごと引用

「寒くないよう暧かくすることにつとめて、十余年。昔をふりかえると、ますます心が痛む。何度、二階に上がり、この手でお給仕したことだろうか。垂れ幕を持ち上げ開いてみても、もうお姿はない」

 あの期間は、わが連れ合いは、姑のケアを実に良くしてくれた。今でも感謝に絶えない。また、井波さんは、実母を見送った時に引き寄せ文章を綴っているが、喪失感の表現として、肉親が亡くなるとは、まさに「幃幕を掲げ開くも已に人無し」と実感できる。

参考】井波律子「新版 一陽来復―中国古典に四季を味わう」岩波現代文庫(図はそのカバー表紙

日本人と漢詩(104)

◎成島柳北と大沼沈山(付 崔敏童)

 ともに、以前紹介した詩人。日本史のなかでは、歴史の流れの断絶は、明治維新と太平洋戦争前後の二回が大きく目立つが、その「明治維新」を境目に、おのおの違ったスタンスではあるが、「二世」の生涯を送ったという点では共通しているが、そのスタンスには大きな違いがある。「二世」の代表としては、福沢諭吉が挙げられようが、彼の後半生のアジア諸国蔑視には、日本国内の反封建制への痛切な批判を帳消しにして余りあるものがあり、とうてい「二世」を生ききったとは自慢できない。また、成島柳北もせいぜい1.5世を生きた程度で、潜在的には持っていたとも思われるが、明治の世に対する内在的な論評は多くはない。せいぜい、明治24年まで生きた大沼枕山の新東京を詩ったのに、後ろ向きであるが、それでも核心をついた文明批評が見られる。

 まず、柳北の詩から

戊辰五月所得雜詩 戊辰《つちのえたつ》五月、得《う》る所の雑詩
如今何處說功名 如今《じょこん》 何処《いずこ》にか 功名《こうめい》を説《と》かん
天地若眠人若酲 天地 眠れるが若《ごと》く 人 酲《よえ》るが若し
綠酒紅裙花月雪 緑酒 紅裙《こうくん》 花月雪《かげつせつ》
風流幸未負先生 風流 幸《さいわ》いに未《いま》だ先生に負《そむ》かず
【簡単な語釈と訳】
戊辰:まさに戊辰戦争の年、明治元年五月 如今以下:いま時どこで功績や名誉を説くことができようか 緑酒:高価な酒 紅裙:きれいどころ 花月雪:韻の関係で、白居易「殷協律に寄せる」「雪月花の時、最も君を懐《おも》う」から 先生:自分自身を指す

 戊辰戦争のカオスのさなか、彼の軸足は、「柳橋新誌」などを著した幕臣時代、それも遊興の時にあったようだ。明治に入っては、在野のジャーナリストを目指したが、志は中途のままで、世を去った。

 つぎに、大沼沈山

新歲雜題 新歳雑題《しんさいざつだい》(四首のうち一首)
仕到大夫賢所願 仕えて大夫に到るは賢の願う所
守愚飜擬碩人寬 愚を守って翻《かえ》って擬《なぞら》う 碩人《せきじん》の寛なるに
今朝五十知天命 今朝《こんちょう》 五十 天命を知る
福在淸閒不在官 福は清閒《せいかん》に在《あ》って 官に在らず

【簡単な語釈と訳】
慶応三(ー八六七)年正月の作。前掲の柳北の詩より一年前だが、政権交代期の緊迫した状況は、ほぼ同様である。碩人:大徳ある人、詩経・衛風から 五十:論語「五十にして天命を知る 清閒:職務を離れて暇であること

第二首に「十千 酒を沽《こ》うて 貧を辞することなかれ」(貧乏だからといって、美酒を買うのをためらってはいけない)は、次の「唐詩選」の詩を踏まえる・

宴城東荘(崔敏童)
一年始めて有り 一年の春
百歳曽て無し 百歳の人
能く花前に向かって 幾回か酔う
十千 酒を沽うて 貧を辞する莫れ

 この詩は、今年の年賀状に引用した。

 沈山の明治になってからの詩。

東京詞 東京詞(うち二首)

天子遷都布寵華 天子 都を遷《うつ》して 寵華《ちょうか》を布《し》く
東京児女美如花 東京《とうけい》の児女 美なること花の如し
須知鴨水輸鷗渡 須《すべか》ベからく知るべし 鴨水《おうすい》の鷗渡《おうと》に輸《しゅ》するを
多少簪紳不顧家 多少の簪紳《ろうしん》 家を顧《かえ》りみず

【簡単な語釈と訳】寵華:恩寵をいうが、高官が花街出入り自由という皮肉が込められている 美なること花の如し:美女を言う常套句、李白「越中覧古」「宮女《きゅうじょ》花のごとく春殿に満つ」 鴨水:京都の鴨川 鷗渡:隅田川、「伊勢物語」に縁る 簪紳:身分の高い人、新政府の高官たちが花街に出入り自由になって家庭をかえりみない


双馬駕車載鉅公 双馬《そうば》 車に駕《つ》け 鉅公《きょこう》を載《の》す
大都片刻往来通 大都 片刻《へんこく》にして往来通ず
無由潘岳望塵拝 由《よし》無し 潘岳《はんがく》 塵《ちり》を望んで拝《はい》するに
星電突過一瞬中 星電《せいでん》突過《とっか》す ー瞬の中《うち》

【簡単な語釈と訳】双馬駕車:江戸時代、日本には「馬車」なる乗り物はなかった 鉅公:高位の人 潘岳:中国・晋の人、眉目秀麗で才知あったが、人格はもう一つで、地位高き人には、車の塵が見えなくなるまで拝んでいたという。星電突過一瞬中:でも相手は電光石火のように一瞬にして通り過ぎるのみ

 沈山は「守旧派」ながら、明治の現実には皮肉ぽい目を向けている。その気質は、親戚筋にあたる永井荷風へと受け継がれているのだろう。

【参考】
江戸詩人選集第十巻「成島柳北 大沼沈山」(岩波書店)

日本人と漢詩(103)

◎河上肇と陸游と一海知義

先日、劇団きづがわの「貧乏物語(井上ひさし作)」を観てきた。戦争中に、彼なりに「非転向」を貫いた、マルクス主義経済学者・河上肇が獄中にあり、その留守家庭を守る五人の女性たちの「対話劇」である。

獄中などで、河上肇が傾倒した陸游の詩に

文能換骨余無法 文能《よ》く骨を換《か》う 余《ほか》に法なし
学但窮源自不疑 学んで但《た》だ源を窮《きわ》め 自《みずか》ら疑わざるなり
歯豁頭童方悟此 歯はぬけ頭《かみ》うすくして 方《はじ》めて此を悟る
乃翁見事可憐遅 乃翁《われ》の事を見ること 遅きを憐れむべし

また、河上肇の「注釈」として、

「骨とは、…基本的な人格である。文は学問…どういう法か…徹底的に…窮めつくして、もはや他人が何と云おうと、どんな目に逢おうと、絶対に揺ぐことのない確信を得ること、…放翁はこう云う、…私の年来の主張と符合する…」

「すべての学者は文学士なり。大いなる学理は詩の如し」
と書く。彼の志が、周囲の人々にどう浸透したのか、河上肇の妻・ひで役を演じた、和田さん等の熱演でよく伝わった。しかし、より多く観客と共感する点では、もう一工夫も二工夫も必要ではなかろうか。上演会場の制約もあってのことだが、舞台全体もあまりにも「リアリズム」すぎて、装置の書割など、もう少し現代にシフトするつもりで、もっとデフォルメでもよかったのでは、と思う。衣装も「和服」主体ではなく、普通の洋装で、河上肇の肖像も、照明的な効果で、劇の進行に合わせて、だんだんシルエット的に大ききなるとか?また、「引用」される芝居が、ゴーリキーの「どん底」(決して古臭くなったわけではないが)ではなく、唐十郎の「腰巻お仙」とまではいかないが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」あたりでもいいのでは?そのほうがより「異化効果」があるかもしれない、いっそのこと、井上ひさしの戯曲の枠組みが、初めから決まっているなら、もう少し「崩して」もいいのではないか?彼の劇も、時代に合わせて書きあらためる時期になったのか、とふとそんな気もした。

河上肇の出獄後の詩から

天猶活此翁
昭和十三年十月二十日、第五十九回の誕辰を迎へて、五年前の今月今日を想ふ。この日、余初めて小菅刑務所に収容さる。当時雨降りて風強く、薄き囚衣を纏ひし余は、寒さに震えながら、手錠をかけ護送車に載りて、小菅に近き荒川を渡りたり。当時の光景今なほ忘れ難し。乃ち一詩を賦して友人堀江君に贈る。詩中奇書といふは、エドガー・スノウの支那に関する新著のことなり。今日もまた当年の如く雨ふれども、さして寒からず。朝、草花を買ひ来りて書斎におく。夕、家人余がために赤飯をたいてくれる
秋風就縛度荒川  秋風縛に就いて荒川を度りしは、
寒雨蕭々五載前  寒雨蕭々たりし五載の前なり。
如今把得奇書坐  如今奇書を把り得て坐せば、
盡日魂飛萬里天  尽日魂は飛ぶ万里の天。

青空文庫・河上肇「閉戸閑詠」

改めての注釈になるが、奇書とは、エドガー・スノウの「中国の赤い星」を指す。「奇書」の表現は、「三国志」「水滸伝」などの四大奇書の類ではなく、彼独特の韜晦だと、一海知義さんは言う。ちなみに河上肇は、アグネス・スメドレー「中国は抵抗する」にも涙したそうである。

もう一つ、一海知義「読書人漫語」の背表紙に、「渡頭」という陸游の自筆詩が載っていたので紹介。

蒼檜丹楓古渡頭  蒼き檜 丹(あか)き楓 古き渡頭(わたしば)
小橋橫處系孤舟 小橋 横たわる処に孤舟を繋ぐ
范寬只恐今猶在 范寛 只だ恐る 今猶お在りて
寫出山陰一片秋 山陰一片の秋を写し出だせりと

昔の絵に、陸游の詩が溶け込む、または、詩の背景に、昔の絵が浮かび出るような印象の、今の季節にふさわしい詩である。語釈などは略、Youtubeに、
「渡頭」陸游自書詩を読む という、書と詩の丁寧な解説があるので、参考のこち

参考】
一海知義「読書人漫語」(新評論)

日本人と漢詩(102)

◎小田実と沆姜(강항 カン・ハン)

小田実の「民岩太閤記」は、なかなかに読み応えのある小説である。本邦作家の「文禄・慶長の朝鮮侵略戦争」は、数多あるかもしれないが、そのほとんどが武将クラスの活動をあつかったそれで、この小説のように日本の一庶民をヒーローやヒロインを描いた小説はすくないのではないか?ただ、難点と言えば、小説が書かれた20世紀には「カシラが평양に住むクニ」には多少とも憧憬の念はあったかもしれないが、今世紀に至っては彼の体制はすっかり変わってしまったので、挿入された時事問題の「論評」の部分は今では鼻に衝く感もないではない。
有馬温泉在の百姓の兄と妹、トン坊とミン坊、ひょんなことから、「文禄・慶長の役」に駆り出され、半島に渡海、様々な日本人、明国人、高麗人と付き合いながら、数奇な運命をたどる。小説半ばより、二人の目指す志は微妙に食い違いはじめ、地理的にも離れ離れになってしまう。兄のトン坊は、「天下人」になる野心が抑えきれず、片やミン坊は、現地の人たちへの共感を育んでゆく。そして、そして、その結末は、すこしもの悲しい締めになっている。
結局、ミン坊の夢見た理想は何だったのか?彼女により添えなかったトン坊の嘆きの果てにあったのは何だったのか?そんな二人の思いの一環を、小説では、沆姜の漢詩で表現している。

滄海茫茫月欲沈 滄海は茫茫《ぼうぼう》として 月沈《しず》まんと欲す
淚和涼露濕羅衿 涙は涼露に和して 羅衿《らきん》を湿《うるお》す
盈盈一水相思恨 盈盈《えいえい》たる一水 相思の恨《うら》み
牛女應知此夜心 牛女 まさに知るべし 此の夜の心を

小説の中の訳文
滄海《そうかい》は茫として果てしなき月は沈まんとし
涙は冷露とともにうすぎぬの衿を濡らし
いたずらにひろがる海にあい思うの恨み
わぎもこよまさに知るべしこの夜のわが心を

沆姜は、慶長の役の際、藤堂高虎の軍に捕らえられ、捕囚として日本に連れて来られ、三年間にわたり日本で抑留された。(Wikipedia より)捕らえされた時、娘と息子の二人を失ったと言う。さぞかし、トン坊やミン坊と思いを一つにしたことだろう。そして、今になってなお続く侵略的ジェノサイドに対して、いかなる感慨を持ったことだろう。

沆姜の詩をもう二首、小説と彼の著書「看羊録」から。

半世經營土一杯 半世の経営 土一杯《いちぼう》
十層金殿謾崔嵬 十層の金殿 謾《いたずら》に崔嵬《さいき》たり
彈丸亦落他人手 弾丸も亦《また》他人の手に落つ
何事靑丘捲土來 何事ぞ 青丘に捲土《けんど》して来つるとは

そんなどえらい人がやったどえらいことも、ただの土くれ一杯にすぎず
死んだところに金殿玉楼をたてたところで、ただたかだかとむなしくそびえるだけ。
小さな弾丸のごときちっぽけな土地も他人の手に移る。
このていたらくで、何んでまた、青い丘のわが高麗の地に来るか。

「十層」は、小説では「十眉」となっているが、東洋文庫版により訂正。

萬臆千愁若蜜房 万臆の千愁 蜜房の若《ごと》く
年纔三十鬢如霜 年纔《わず》か三十にして 鬢は霜の如《ごと》し
豈縁鶏肋消魂骨 豈《あ》に鶏肋に縁《よ》りて 魂骨を消さんや
端龍眼阻爲渺茫 端《もっぱ》ら竜眼に阻《はばま》れて渺茫たり
平日讀書名義重 平日に読書するも名義重く
後來観史是非長 後来史を観るも是非長し
浮生不是遼東鶴 浮生は遼東の鶴を是《ぜ》とせず
等死須看海上羊 等死須《すべから》く海上の羊を看るべし
[訳文および注釈]
胸に蟠(わだかま)るばかりのこの愁いは、蜂の巣の蜜のように溢れ出て
年は三十でもう白髪まじり
どうして、鳥の肋骨のようなつまらないような、魂の骨を忽(ゆるが)せにすることができようか?
天子さまの眼でなかなか見通しもきかない
書を読むのも名分と正義を思うとほとほとつらく
将来の歴史に、事の是非の論議も長く続くだろう
はかない人生は遼東の鶴の故事(千年の時間を経て、丁令威という仙人が鶴に乗って空に登り、若者が矢をいかけたのを見て世を嘆いたとある)をよしとはしないだろう
死に値する我が身ながら、蘇武の故事(漢の時代、匈奴に捉えられていた蘇武は、十九年間砂漠で羊を飼らされていたが、敵に屈服しなかった)に見習って、この海の向こうで、羊を飼ってゆこう。

付け加えると、「看羊録」は、前述。「民岩」とは「民岩之可畏如此矣(民岩の畏《おそ》るべきは此のごとしや、元々「書経」の「用顧畏于民碞」からの用例)、結局、秀吉は「民岩」に敗れ去り、沆姜は、虜囚が解けて朝鮮へ帰国後は、二度と仕官の道は選ばなかったという。

その頃、本邦では、「関ヶ原」直前、遠く異国フランスでは、アンリ四世が、「三人のアンリ」の戦いを制して即位し、宗教的寛容を一応認めた、ナントの勅令発布の時期に当たる。どうする家康!どうするアンリ四世!

右図は、文禄の役『釜山鎮殉節図』(Wikipedia より)、左図は、「看羊録」東洋文庫表紙。

参考】
桂島宣弘「姜沆と藤原惺窩――十七世紀の日韓相互認識」
・沆姜「看羊録」(平凡社・東洋文庫)

日本人と漢詩(101)

◎高橋和巳と王士禛と鄭成功

雨森芳洲(1668~1755)が活躍した、17~18世紀の少し前は、東アジア、大きくは世界史的に見て、激動の時代だった。本邦では、戦国時代の乱世、中国では明王朝の衰微と清王朝の勃興、その迫間に位置するのが、我らが王士禛(1634~1711)である。その意味では、彼は「亡国の詩人」だが、これまでのこうした形容を負う幾多の詩人とは少々趣きが違うような気がする。一つには、明王朝滅亡時、彼は未だ十年の齡いしか重ねていたかったこと、もう一つは、幸いなことに、勃興した清王朝は、異民族とは言え、前王朝の到達点の大半を、無傷のまま、手に入ったことだ。世界史的に言えば、欧州を含め、十五世紀から十六世紀の「激変、戦乱」の時代から、比較的安定した統治機構が各国とも確立し、ほぼ現在に至るまでの「国家」のプロトタイプが出来上がってきたことにも関係している。
とまれ、
「価値ある人間のいとなみの総てがそうであるように、詩の美もまた、この世のなにびともまぬがれぬ様様な束縛や制限のうちにあって、しかし怠らず日日に精進する誠実な魂によってのみ築かれる。」
中国詩人選集第二集「王士禛」の解説は、高橋和巳らしい文で始まる。王士禛がデビューしたのは、今の季節にふさわしく「秋柳」四首。
そのうち、第一首(Wikipedia より)
秋來何處最銷魂 秋来 何れの処にか最も銷魂なる 秋になって最も人の哀愁をそそる柳はどこかといえば、
殘照西風白下門 残照 西風 白下の門 むろんそれは夕映えのなか秋風をうける白下の門だろう。
他日差池春燕影 他日 差池たり 春燕の影 先だっては飛び交うツバメが柳の糸に影を落としていたのに、
祇今憔悴晩煙痕 祇今 憔悴す 晩煙の痕 今では柳の糸も枯れ果てて夕もやがたなびくばかり。
愁生陌上黄驄曲 愁生ず 陌上 黄驄の曲 路傍に死んだ愛馬を悲しむ「黄驄の曲」を聴けば哀愁はかきたてられ、
夢遠江南烏夜村 夢は遠し 江南 烏夜の村 江南の村で夜中にカラスが鳴いたというのも今や遠い昔の夢である。
莫聽臨風三弄笛 聴く莫かれ 風に臨む三弄の笛 風に対して三度も吹き鳴らしたという笛の音など聴くものではない、
玉關哀怨總難論 玉関の哀怨 総て論じ難し ましてや柳のない玉門関で奏でる「折楊柳」の曲に至っては。

「楊柳」という古来からの題材に、さり気なく、春(はる)秋(あき)の対比を背景として、亡国の哀惜を一旦昇華させて詠った佳詩である。世にはやるのも頷ける。これぞ、まさしく歴史の「春秋」を表現(あらわ)した「神韻」の七律である。

頻歳 頻歳《ひんさい》
頻歳孫恩亂 頻歳《ひんさい》 孫恩の乱
帆檣壓海頭 帆檣《はんしょう》 海頭を圧す
傳烽連戍塁 伝烽《でんぽう》 戍塁《じゅるい》に連なり
野哭聚沙洲 野哭《やこく》 沙洲《さしゅう》に聚《あつま》る
司馬能靑野 司馬《しば》 能《よ》く青野《せいや》し
天呉漸隠流 天呉《てんご》 漸《ようや》く隠流《おんりゅう》す
江淮非異土 江淮《こうわい》 異土に非《あら》ず
飄泊汝何憂 飄泊《ひょうはく》し 汝《なんじ》何を憂《うれ》う

そこで、
[逐一の語釈は、略、大阪弁で意訳を試みた]

ちかごろはブッソウでんな、昔のソンはんのしでかしたどえらいことのまねしはって
うみべのすぐねきまで、白帆がたってまんがな。
けむりも兵隊はんのいやはるとこまで届いて
ソーレンもせんで、死んでいかはる人もいやはるし、
御国の大将はんは、はたけででけたもんを焼いたはるという噂や。
川の神さんもそれで、きーおさまって、流れものたりのたりやがな。
ここら辺の地面は、遠いかみよの昔から、わてらのもんだっせ。
鄭はん、あんたに土地を分けたげるという話や、ここら辺でてー打ったらええんとちがいまっか。
あんさんが亡くなったあと、リーペン(日本)という国のターポー(大坂)というとこで、ジョールリちゅう京劇にもにてはる人形つかはる芝居でえらいあんさんの評判でっせ。「トラは皮を残し、人は名を残す」というやおまへんか?それで満足できはらしまへんか?リーペンレン(日本人)のあんさんのおかんも、メードで、めえーに涙流してよろこんだはるで。
という意味がどうかは、保証の限りではない。また世界各地での昨今の緊迫した状況を直接には反映したものではない、と断っておく。

参考】
・高橋和巳 中国詩人選集第二集「王士禛」 岩波書店
・橋本循 漢詩大系23 「王漁洋」 集英社

日本人と漢詩(100)

◎雨森芳洲

江戸幕府が確立した後、秀吉の朝鮮侵略で途絶えていた、(李氏)朝鮮との外交関係が復活する。復活後に、日朝関係を真に友好的なものに確立したのが、雨森芳洲(1668-1755)である。芳洲は、現在の滋賀県伊香郡高月町(今は長浜市に編入)出身、戦国時代、浅井氏の輩下で、主君を滅ぼした、秀吉をとことん嫌っていた。父の代になり、医業を生業にするようになり、父を嗣ぎ、当初は医学(その頃は東洋医学)を学んだが、師から「医者というものは、数多くの失敗を重ねて(もっと率直に言えば、患者を死なせて)大成するものだ」と言われ、以後、儒学者としての道を歩んだという。このあたり、彼の人格形成を考えるうえで興味深い。儒者としては、木下順庵年門下に入り、同門の先輩に新井白石(1657-1725)がいる。また、荻生徂徠(1666‐1728)と同時代人である。
江戸時代前期の日本は、それまでの「無視ないし敵対関係」にあった、中国や朝鮮の近隣国との関わりが大きくなったことである。「鎖国」状態から想像される以上に思いの外、幕府は善隣外交に力を入れていたようだ。朝鮮との関わりでは対馬藩が大きな位置を占め、その要職に登り詰めた、雨森芳洲は、多くの江戸期文人とは違った立ち位置だったのだろう。特に白石とは、木門一家の逸材の二人であったが、生来の気質やその学習環境の違いは大きかったようだ。白石は、我も相当以上で、朝鮮通信使との交渉でも、江戸幕府一辺倒であったが、芳洲は、もうすこし広い視点、東アジア全体を見渡す視点をいくばくなりともは持っていたようだ。それが、中国語やハングルをも習熟した所以であろう。通信使の朱子学に忠実な「事大主義」(朝鮮側にしたら、秀吉の朝鮮侵略の甚大な被害も昨日のことではなかろう。)にも柔軟に対応できたことに繋がる。そんな芳洲が白石の出世を聞き、読んだ詩。(以後、読み下し文は略、簡単な訳文を附ける。)1710年、芳洲42歳、白石53歳の時の作。

寄贈新井勘解由在西京
星軺聞説駐京陽 星のように輝くあなたは京都にあり
彩節錦袍跨驌驦 美しい服で駿馬に騎り
古寺花深登白閣 花深い古寺で閣に登り
綺筳酒緑倚黃堂 酒宴を立派な部屋で開き
跡尋禹穴詩篇富 禹穴(中国の伝説の禹帝の住んだという洞穴、杜甫「送孔巢父謝病歸遊江東兼呈李白」(Web 漢文大系が典拠だろう。)を訪ね詩をたくさん書いて
栄擬畿門姓字香 名を全国にとどろかせている
慾識邊城客思多 私は辺境の地で憂いばかりで
黒貂半敞鬂爲霜 黒貂の服もなかばやぶれ、白髪模様。

白石の身と比べて心労多忙な日々を、ともすれば嘆かざるをえなかった芳洲は、その後、数回の朝鮮通信使との接待という大役を果たした後は、54歳の時、ようやく「隠居」の身となる。享保の通信使(1719年)の一員、申維翰(신유한)は、別れに臨んで、

今夕有情來送我 今夜、心づくしに見送ってくれるあなたに
此生無計更逢君 この世ではもう二度と会えますまい

と詠み、芳洲は涙したとある。

その後も対馬藩の醜悪な内情や対外交渉にも関与せざるをえなかったようが、最晩年には畿内に帰ること能わず、88歳の長寿で終焉の地となった対馬で次のような詩を書き残した。

曲崎峯月
木落楓衰海面寛 木の葉が落ち、楓も散り、海原が広く感じる
素娥粧出暮雲端 月の女神は化粧して雲の端っこにたたずむ
清輝含露桂花冷 清い光は露を含んで桂の花を照らし
送與詩人褰箔看 詩人と一緒にすだれをかかげて見やっている

何か典拠の詩があるようだが、未検。教えを乞う。今までの儒学(朱子学)を吹っ切ったような艶やかで、しかもどこか清冽な作である。

芳洲の外交戦略の要諦「欺かず争わず」とする「誠信」の精神は、長年の試行錯誤を重ね努力を経て作られたものである。
「朝鮮人のみだりに言葉にあらはし申さず候は、前後をふまへたる知慮の深さにて。おろかなるとは申されまじく候。」
「とにかく義理を正し申さず押付け置き候て相済み候と存じ候は、後来の害を招き申すべき事に候。」

少なくとも言えることは、同時代の白石の「偏見」とは自由な立場であるが、現在を含めて、半島外交が芳洲の理想とほど遠いことは、あまりにも明らかであろう。ともあれ、遅きに失したが、当方は、芳洲の顰みにならって、ハングルの学習を再開しよう。

参考】
・上垣外憲一「雨森芳洲」(中公新書)
・田井友季子「対馬物語」(光言社)

日本人と漢詩(099)

◎菅原道真

以前も一度だけ菅原道真(845-903)を取り上げたが、本邦屈指の漢詩人、道真公の話題はこれにとどまらない。ここでは、初期の漢詩を中心に…まずは、詩人道真の11歳時のデビュー作。師の島田忠臣が感心したと云う。

月夜見梅花 月夜に梅の花を見る
月耀如晴雪 月の耀《かがや》くは晴れたる雪の如し (げつようせいせつのごとく)
梅花似照星 梅花は照れる星に似たり (ばいかしょうせいににたり)
可憐金鏡轉 憐れぶべし 金鏡の転《かいろ》きて (あわれむべしきんきょうてんじて)
庭上玉房馨 庭上に玉房の香れるを (ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)

語釈、訳文は、古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)を参考ののこと。

この頃から、道真は天性の詩情が備わっていたようだ。作曲家モーツァルトのほうがもっと早熟だが、どこかモーツァルトを彷彿させるものがある。

もう一首、恋する年齢に達して、その思慕の情を表現したもの、白文は省略する。

翫梅華 梅華を翫す
梅樹 花開きて 白き繒《かとり》を剪《き》る 純白の薄絹のごとき 咲き満ちる梅の花よ
春情 勾引されて 相仍《あいよ》ること得たり 春情に導かれて 私はあなたに寄ろうとする
狂風第一《ていいち》 吹きて狼藉ならませば すると 狂った春風がいきなり吹いてきて 見る間に花を散らす
叱々忩々《そうそう》 意《こころ》 勝《た》へざらまし ああ それをただ見ているだけの耐えがたさよ

下記参考図書によると、恋心の対象は、藤原基経の妹にして先代文徳天皇の女御であった明子であったという。

大岡信や加藤周一などは、菅原道真を、文学的対象や視野を格段に拡げたと評価する一方、その後はこうした文学的継承がなされなかったとも言うが、そうした詩が書かれるのは、詩人がもう少し成熟したのちである。。

写真は、北野天満宮境内での、どこか道真公の幼き日の面影のある稚児像と梅の花(Wikipedia)

参考】 ・高瀬千図 道真(上)花の時 NHK出版

日本人と漢詩(098)

◎中江兆民と真山民


兆民の「一年有半」は、彼が余命を知りながら、時の政治家の人物評や、大阪に療養の居を構えてから、通った人形浄瑠璃や浪花節のことなど、なかなかに話題が多岐にわたり、面白い著書である。

「越路音声の美、曲調の巧、真に匹儔《ひっちゅう》なし。けだし津太夫、呂太夫は、玉造の男形と相ひ待ち、越路太夫は紋十郎の女形と相ひ待ちて、倶にその妙を極むるを得、皆逸品なり。」

その著の紹介が恩田 雅和氏による「繁昌亭」支配人による連載として、大阪保険医協会のHP にある。

ところで「一年有半」の中では、彼が親しんだ漢詩にも触れた箇所がある。若い頃から、時折漢詩に親しんだ兆民は、杜甫、李白、高青邱をはじめ、宋末の遺民とされる真山民の詩の一部を引く。彼のバックグラウンドもなかなか奥深いものがあろう。ここではやや季節をことにするが、その全句を紹介する。

山間秋夜     真山民
夜色秋光共一闌 夜色秋光 共に一闌
飽収風露入脾肝 飽くまで風露を収めて 脾肝に入る
虚檐立盡梧桐影 虚檐立ち尽くす 梧桐の影
絡緯数聲山月寒 絡緯数声 山月寒し

語釈は関西吟詩文化協会HP参照のこと。ここでは、この詩の詩吟も紹介されている。

なかなか詩吟も力演だが、どうも重過ぎるきらいもないではない。本来の詩のピンイン読みが、さすが本場の雰囲気が出ていて、より効果的のような気がする。中国発の、漢詩原文読みのサイトがあるようなので触れておきたい。

新春 真山民

餘凍雪纔乾 余凍《よとう》 雪《ゆき》纔《わず》かに乾《かわ》き
初晴日驟暄 初晴《しょせい》 日《ひ》驟《にわ》かに暄《あたた》かなり
人心新歳月 人心《じんしん》 新歳月《しんさいげつ》
春意舊乾坤 春意《しゅんい》 旧乾坤《きゅうけんこん》
煙碧柳回色 煙《けむり》は碧《みどり》にして 柳《やなぎ》色《いろ》を回《かえ》し
燒靑草返魂 焼《やけあと》は青《あお》くして 草《くさ》魂《たましい》を返《かえ》す
東風厚薄無 東風《とうふう》 厚薄《こうはく》無《な》く
隨例到衡門 例《れい》に随《したが》いて 衡門《こうもん》に到《いた》る

語釈などは、M&Cメディア・アンド・コミュニケーションを参照のこと。

参考】
中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)

日本人と漢詩(097)

◎大塩平八郎

元号というのは、時の為政者の思惑や、民の願望とは齟齬し、皮肉な結果をもたらすものだ。昭和が決して平和が明らかではなかっとのと同じように、天保というのも、天はおろか、地も凶作にあえぎ、民も困窮に苦しむなど、保つどころか、多事多難な時代であった。ある意味、日本の歴史の転換点とも言えるだろう、
以前、Facebookに以下のように、投稿した。

西区靭本町にある大塩平八郎終焉の地のプレート(左画像)。大塩平八郎(Wikipedia)は、1837年(天保八年)、相次ぐ大飢饉で、大商人などが暴利を貪り、民衆が塗炭の苦しみを味わう中で、門人たちと決起します。しかし、事破れて、靭にある商家に匿われ、追手が迫る中で、自決したと伝えられています。実際には、その商家は、この天理教の建物の後ろ側、道路ひとつ挟んだ北側にあったようです。
「言貌の文(げんぼうのあや・言葉や表情をうわべだけ飾りたてること)のみならば、則ち君子は親しみ信ぜず。しかして情(じょう)と誠(まこと)とあれば、則ち言貌の文なしといえども、必ず之を親しみ信ずるなり。いわんやその言貌に見(あら)はるるをや。(情と誠が言葉や表情に加わっているいるならベストである。)」(大塩平八郎「洗心洞箚記」)
現代においてはもちろん、その「武装蜂起」の手段は議論のあるところですが、彼の言葉は、誰かさんに聞かせたいものです。(ま、聞く耳を持たないでしょうね。)
以上は、ともかくとして、(大阪きづがわ医療福祉生協の)定款地域の西区には、こうした史跡碑が20数カ所あります。大正、港、西成区の数カ所より随分多いですね。歴史的に、大坂の中心だった事がよく分かります。

ところで、大塩が公務で箕面の滝を訪れた時のこんな詩がある。

箕山の楓を尋ぬるに人の其の一枝を誤るあり。山僧集まりて之を拘へ面縛す、予其の無知なるものの妄作して此に陥るを憫み、且つ僧の為す所の慈ならざるを悪む。故に僧に告げて以て其の囚を釈さしめ、戯れに絶句を賦して其の僧に贈る

律厳法具梵王宮
赤子猶懲縲絏中
楓葉容看不容損
明朝定捕五更風

(寺のおきては厳しく、きまりもいろいろあるのだろう)
(かよわい民すら罰せられ、縄にかけられるとは)
(紅葉を見るのは良いが、折ってはならぬというのなら)
(私は明日、夜明けに吹く風を捕まえなければなるまいな)

※梵王宮=仏寺。縲絏(るいせつ)=罪人として捕らわれること。五更=寅の刻、午前三時から五時頃。
私はこの詩に、市井の人に注ぐ大塩の暖かな視線、怒った時は、硬い魚の骨も噛み砕くほどだった世評とは異なる寛容さを感じるのだが、如何だろうか。
参照→大塩平八郎雑感(PDF)

日本共産党の元参議院議員・三谷秀治はその小説「大塩平八郎」で、交友のあった頼山陽に贈った詩を引く。(白文は略)
春暁城中、春睡《しゅんすい》衆《おお》く
檐《のき》を繞《めぐ》る燕雀《えんじゃく》、声虚《むな》しく囀《さえず》る
高楼に上りて、巨鐘を撞《つ》くに非ざれば
桑楡《そうゆ》日暮れて猶《なお》昏夢《こんむ》ならん

訳文)春のあかつき、大坂のえせ儒者たちは眠りまどろみ、軒端を飛びかう小人どものさえずりは空しいばかり、今高い楼に昇り警鐘をつかねば、日が暮れてもなお目覚めることはないだろう。

果たして、彼の反乱・決起は「高楼に上りて、巨鐘を撞」いたのだろうか?私たちが考えなければならない課題でもあろう。

参考】
三谷秀治「大塩平八郎」新日本出版社 1993年