日本人と漢詩(125)

◎ 私と杜甫


 五言律詩をいくつか習った。漢詩の最高の完成形は、七言律詩と思っていたが、五言律詩もピンインで詠むとなかなか異趣もあり、奥が深い。句切れが二言/三言となり、リズムも独特のものになる。五言は、マーチのリズムで二拍子、七言は、ワルツのリズムで三拍子に例えられようか。この律詩、後半の頸聯、尾聯あたりで、心情を簡にして潔ぎよく、ビシッと決め文句を持ってくるのは、杜甫ならではの力量だろう。

Lǚ yè shū huái   Táng   Dù fǔ
旅 夜 書 懐   唐 ・ 杜 甫
Xì cǎo wēi fēng àn
細 草 微 風 岸
Wēi qiáng dú yè zhōu
危 艢 獨 夜 舟
Xīng chuí píng yě kuò
星 垂 平 野 闊
Yuè yǒng dà jiāng liú
月 湧 大 江 流
Míng qǐ wén zhāng zhù
名 豈 文 章 著
Guān yīng lǎo bìng xiū
官 應 老 病 休
Piāo piāo hé suǒ sì
飄 飄 何 所 似
Tiān dì yī shā ōu
天 地 一 沙 鴎

 決め文句は「天地一沙鷗」!、その前の「飄飄」とうまく呼応していると思われる。

 訓読と語釈は、n+te 厂碧山を参照のこと。

Dēng yuè yáng lóu   Táng   Dù fǔ
登 嶽 陽 樓   唐 ・ 杜 甫
Xī wén dòng tíng shuǐ
昔 聞 洞 庭 水
Jīn shàng yuè yáng lóu
今 上 嶽 陽 樓
Wú chǔ dōng nán chè
吳 楚 東 南 坼
Qián kūn rì yè fú
乾 坤 日 夜 浮
Qīn péng wú yī zì
親 朋 無 一 字
Lǎo bìng yǒu gū zhōu
老 病 有 孤 舟
Róng mǎ guān shān běi
戎 馬 關 山 北
Píng xuān tì sì liú
憑 軒 涕 泗 流

 決め文句は、杜甫の正直な、そしてやるせない懐いとしての「老病有孤舟」、ピンインではその寂しさが余計に伝わってくる。

 訓読と語釈は、漢詩の部屋を参照のこと。

日本人と漢詩(124)

◎ 私と孟浩然

Chūn xiǎo   Táng   Mèng hào rán
春 曉   唐 ・ 孟 浩 然
Chūn mián bù jué xiǎo
春 眠 不 覺 曉
Chù chù wén tí niǎo
處 處 聞 啼 鳥
Yè lái fēng yǔ shēng
夜 來 風 雨 聲
Huā luò zhī duō shào
花 落 知 多 少

 訓読分と語釈は、Wikipedia 参照のこと。

Guò gù rén zhuāng   Táng   Mèng hào rán
過 故 人 莊   唐 ・ 孟 浩 然
Gù rén jù jī shǔ
故 人 具 鶏 黍
Yāo wǒ zhì tián jiā
邀 我 至 田 家
Lǜ shù cūn biān hé
緑 樹 村 邊 合
Qīng shān guō wài xié
青 山 郭 外 斜
Kāi xuān miàn cháng/chǎng pǔ
開 軒 面 場 圃
Bǎ jiǔ huà sāng má
把 酒 話 桑 麻
Dāi/dài dào chóng/zhòng yáng rì
待 到 重 陽 日
Huán lái jiù jú huā
還 来 就 菊 花

 訓読文と語釈は、泉聲悠韻を参照のこと。

 孟浩然は、第一首の「春眠暁を覚えず…」の名句で知られるが、一般的には、俗世間から離れた境地を持ち味とするとされる。しかし、科挙の試験に何回か落ちた彼の思いはそれだけでないように思う。第二首目は、陶淵明に詩情は借りているが、それを超えて、なにかやるせなさも感じる。「隠棲」でホッとした気持ちと、二重化し詩人の心持ちにはあったようだ。詩友・王維も、それぞれの持ち味、経歴は違うが、十分それを承知の上での交流だったのだろう。

Liú bié wáng shì yù wéi Táng   Mèng hào rán
留 別 王 侍 御 維  唐・孟 浩 然
Jì jì jìng hé dài  
寂 寂 竟 何 待
Zhāo zhāo kōng zì guī  
朝 朝 空 自 歸
Yù xún fāng cǎo qù
欲 尋 芳 草 去
xī yú gù rén wéi
惜 與 故 人 違
Dāng lù shuí xiāng jiǎ
當 路 誰 相 假
zhī yīn shì suǒ xī
知 音 世 所 稀
Zhī yīng shǒu suǒ mò
祗 應 守 索 寞
Huán yǎn gù yuán fēi
還 掩 故 園 扉

 訓読文と語釈は、詩詞世界を参照のこと。

日本人と漢詩(123)

◎ 私と李賀


 典型的な漢詩をひとまず置いて、不定句のある、詞餘でピンイン読みをご教示いただいた。

Sū xiǎo xiǎo mù Táng Lǐ hè
蘇 小 小 墓 唐 ・ 李 賀
Yōu lán lòu  Rú tí yǎn
幽 蘭 露    如 啼 眼
Wú wù jié tóng xīn
無 物 結 同 心
Yān huā bù kān jiǎn
煙 花 不 堪 剪
Cǎo rú yīn  Sōng rú gài
草 如 茵   松 如 蓋
Fēng wéi chóng  Shuǐ wéi pèi
風 爲 裳    水 爲 珮
Yóu bì chē  Xī xiāng dài
油 壁 車   夕 相 待
Lěng cuì zhú  Láo guāng cǎi
冷 翠 燭   勞 光 彩
Xī líng xià  Fēng chuī yǔ
西 陵 下   風 吹 雨
 読み下しと訳文は、Wikipedia 参照のこと。
 以前杜甫の詩を、クラシックの交響曲、杜牧は、協奏曲、李商隠は、ジャズのブルースに例えたが、李賀の詞をピンインで発音すると、古い物悲しいシャンソンのようである。

 もう一つ、定型詩で五言律詩

Qī xī Táng Lǐ hè
七 夕   唐 ・ 李 賀
Bié pǔ jīn zhāo àn
別 浦 今 朝 暗
Luó wéi wǔ yè chóu
羅 帷 午 夜 愁
Què cí chuān xiòn yuè
鵲 辭 穿 線 月
Yíng(Huā) rù pù yī lóu
螢(または花) 入 曝 衣 樓
Tiān shàng fēn jīn jìng
天 上 分 金 鏡
Rén jiàn wàng yù gōu
人 間 望 玉 鉤
Qián táng sū xiǎo xiǎo
錢 塘 蘇 小 小
Gèng zhí yī nián qiū
更 値 一 年 秋

 読み下しと語釈、訳文は、「しお風ブログ「湘南❤風と星物語」in二宮」を参照のこと。
 前詞でもそうだが、この詩でも、蘇小小は過去のフィクション上の人物ではなく、現世で愛し合った恋人と二重写しになって、詩詞が成立しているように思う。

日本人と漢詩(122)

◎ 私と蘇軾

 親戚の結婚式の場で、蘇軾の詩を引いて、スピーチをしたことがあった。式での厚化粧もよいが、普段の生活での何気ない身繕いもそれに変わらぬ趣きがあるといった趣旨だった。その時は、ピンインでの読みはできなかったのが、残念であったが…

Yǐn hú shàng chū qíng hòu yǔ   Sòng   Sū shì
飲 湖 上 初 晴 後 雨   宋 ・ 蘇 軾
Shuǐ guāng liàn yàn qíng fāng hǎo
水 光 瀲 灔 晴 方 好
Shān sè kōng méng yǔ yì qí
山 色 空 濛 雨 亦 奇
Yù bǎ xī hú bǐ xī zǐ
欲 把 西 湖 比 西 子
Dàn zhuāng nóng mò zǒng xiāng yí
淡 粧 濃 抹 總 相 宜

 訓読、訳文などは、詩詞世界を参照のこと。Youtube では、本場中国人の朗読がある。

 ここでは、この七言絶句を例に「漢詩作詩法」のいくつかの規則について説明する。
 まずは、声調について。唐の時代と現在のピンインとでは、時を経るにしたがい、変化してきた。古くは、「平声」「上声」「去声」「入声」とあり、漢和辞典などでは、漢字に四角の枠があり、四辺の一部が強調されている図が掲載されている。その位置によって、上記の四声が区別される。歴史的な変遷として、だいたいは、現在の四声に対応はしてきたが、かなりの変化もあるので、現代のピンインでは、「平仄にあてはまらい」ことも多々あるが、蘇軾の詩では、ほぼ 100% 踏襲されている。(それでも、中国語は、言葉の変化では、他の言語に比べて、思いの外「保守的な」言語である。)「平声」は「平音」、あとの三つは「仄音」と言い、漢詩では、二つを組み合わせて、リズムを作る。蘇軾の詩では、

上平去去平平上
平入平平上入平
入上平平上平上
上平平入上平平

 という並びになる。この近体詩での第二文字目が、平声なので「平起式」という。「平起式」の場合、
◉○◉●●○◎
◉●◉○◉●◎
◉●◉○○●●
◉○◉●●○◎
 ○は、平音、●は仄音、◉は、平仄どちらの字でも可、◎は韻を踏む字。

 一方、「仄起式」では、
◉●◉○◉●◎
◉○◉●●○◎
◉○◉●◉○●
◉●◉○◉●◎
 となる。(記号は同様)
 全ては述べないが、伝統的な規範として、「二四不同」(二字目と四字目の声調を変える)「二六対(二字目と六字目の声調は同一)」などがあり、これが漢詩を作るうえでの「パズル遊び」に似ていなくもないところである。将来的には、AI で漢詩が作れるかな(笑)
 ところが、蘇軾の詩には、大きな例外が一つある。平起式の第三句では、下三字が、「平仄仄 ○●●」であらねがならないが、「仄平仄 ●○●」と「二六対」の約束事が守られないことがしばしばあるが、許容範囲であるらしい。

 ピンインの朗読を西湖の光景と西施の艶姿を思い浮かべながらお聞き願えれば幸いである。

日本人と漢詩(121)

◎ 私と許六、張継

 李杜は別にして、漢詩と言えば真っ先に挙げられるのがこの詩である。日本人に愛好されたようで、よく、お寺や古い家の客間に掲げられている。江戸時代の俳人、森川許六が、「和訓三体詩」という俳文的な訳文の中で記しているので、同時に挙げておく。

Fēng qiáo yè bó   Táng   Zhāng jì
楓 橋 夜 泊   唐 ・ 張 継
Yuè luò wū tí shuāng mǎn tiān
月 落 烏 啼 霜 滿 天
 講習の中では、まさに月が沈んでゆくので、落(luò)は、4声が似つかわしいとのこと、なるほど。
Jiāng fēng yú huǒ duì chóu mián
江 楓 漁 火 對 愁 眠
Gū sū chéng wài hán shān sì
姑 蘇 城 外 寒 山 寺
Yè bàn zhōng shēng dào kè chuán
夜 半 鐘 聲 到 客 船

 読み下し文と訳文は、Wikipedia 参照のこと。

トモの夜泊のカヂ枕、ムロのうき寝の波の床、汐馴衣シオナレコロモひと夜妻、かさねて寝んと漕よせて、上りくたりの舟懸、近付ぶりにかいま見の、ソラ約束に待ワビる、門のじゃらつき、階子ハシコトゝロき、胸つぶるゝ折からに、田舎渡りのわけ知らず、まかれて人にモラハるゝ、只獨寝の床寒く月落かゝる淡路嶋、イク田の森の村烏、秌の霜夜の明けかねて、海士のあさり火行違ひ、寝覚の多葉粉くゆらせて、すこし晴行うき眠り、松の嵐の一の谷、須广寺につく鐘の声、波の枕に伝ひ来て、舟ハ湊を押出しける。

 いささか、というよりかなり「和臭」ぽいところが面白い。原詩には、色事はないとは思うが、ひょっとすると、結句の「客船(kè chuán)」は女性同伴なのかもしれない。

日本人と漢詩(120)

◎ 私と杜牧、李商隠

Zèng bié qí èr   Táng Dù mù
贈別 其二 唐・杜牧
Duō qíng què sì zǒng wú qíng
多 情 卻 似 總 無 情
Wéi jué zūn qián xiào bú chéng
唯 覺 罇 前 笑 不 成
Là zhú yǒu xīn huán xī biè
蠟 燭 有 心 還 惜 別
Tì rén chuí lèi dào tiān míng
替 人 垂 淚 到 天 明

 訓読、現代語訳などは、中国語スクリプト を参照のこと

Yè yǔ jì běi   Táng   Lǐ shāng yǐn
夜 雨 寄 北   唐 ・ 李 商 隠
Jūn wèn guī qī wèi yǒu qī
君 問 歸 期 未 有 期
Bā shān yè yǔ zhǎng qiū chí
巴 山 夜 雨 漲 秋 池
Hé dāng gòng jiǎn xī chuāng zhú
何 當 共 剪 西 窗 燭
Què huà bā shān yè yǔ shí
却 話 巴 山 夜 雨 時

 訓読、現代語訳などは、千秋詩話 23を参照のこと

 ピンインによる漢詩学習も、少し佳境に入ってきた。今回は、杜牧と李商隠を習った。比べてみると、二人は、ともに中唐~晩唐風だが、表現のニュアンスは随分違うように思われる。音楽に例えると、杜牧は、クラシックのコンチェルト調、李商隠は、ジャズのブルース調というのはどうであろう。ちなみに、前回習った、杜甫の「登高」は、シンフォニーに例えられようか?
 いずれにしても、これからは毎日、句毎に暗唱できるくらいになりたいものだ。

日本人と漢詩(119)

◎ 私と杜甫


 十年くらい前になるだろうか、中国・四川省(sì chuān shěng)の成都(chéng dōu)にある、杜甫草堂(dù fǔ cǎo táng)を訪れたことがある。その頃は、興味はあったが、本格的に拼音(ピンイン pīn yīn)までのめり込むとは思わなかったので、やや駆け足で広い庭園を見ただけであり、今ではすこし後悔している。
今日は、杜甫の有名どころの七言律詩「登高」を講義の一コマでご教示していただいた。律詩一首で精一杯というところだ。

dēng gāo   dù fǔ
登 高   杜 甫

fēng jí tiān gāo yuán xiào āi
風 急 天 高 猿 嘯 哀
zhǔ qìng shā bái niǎo fēi huí
渚 淸 沙 白 鳥 飛 廻
wú biān luò mù xiāo xiāo xià
無 邊 落 木 蕭 蕭 下
bú jìn cháng jiāng gǔn gǔn lái
不 盡 長 江 滾 滾 來
[xiāo xiāo xià、gǔn gǔn lái とはなんと美しい対句としての響きだろう。あとの、第3声が2つ連続するときは、はじめの3声は、2声になると習ったが、以下の Youtube では、3声の連続として聞こえるがどうなんだろう]
wàn lǐ bēi qiū cháng zuò kè
萬 里 悲 秋 常 作 客
bǎi nián duō bìng dú dēng tái
百 年 多 病 獨 登 臺
jiān nán kǔ hèn fán shuāng bìn
艱 難 苦 恨 繁 霜 鬢
liáo dǎo xīn tíng zhuó jiǔ bēi
潦 倒 新 停 濁 酒 杯

・読み下し文と語釈、訳文は、マナペディアなどを参照。
・ピンイン読みは、Youtubeなど参照。
写真は、杜甫草堂の入口(Wikipedia)から

日本人と漢詩(118)

◎ 私と杜牧

 一念発起し、某語学学校で、漢詩のピンインを習い始めた。ピンインの抑揚の仕方はもちろんのこと、発音の際の、口の形とそれを次の漢字につなげ形など実に丁寧にご教示いただいた。選んだ杜牧の詩は、いささや「軟派」調で、中国では、小学生の教材としては不適当とされているそうだ。

遣懷 おもいる qiǎn huái 杜牧  dù mù

落魄江湖載酒行 江湖に落魄らいはくし酒をせて行く luò pò jiāng hú zài jiǔ xíng
楚腰懺細掌中輕 楚腰は繊細にして掌中しょうちゅうに軽し chǔ yāo chàn xì zhǎng zhōng qīng
十年一覺揚州夢 十年ひとたびむ揚州の夢 shí nián yī jué yáng zhōu mèng
贏得靑樓薄倖名 あまし得たり青楼 薄倖はっこうの名 yíng dé qīng lóu bó xìng míng

 講師の出身地の上海では、漢詩のピンイン発音の CD や書籍が、300円くらいで売っているとのこと。日本でのアマゾンなどでの販売は、あまりなく、あっても、数千円もする。機会があれば、上海の観光に出かけたい気持ちである。

日本人と漢詩(117)

◎堀辰雄と杜甫(02)

 以前、ブログと Facebook に、「堀辰雄と杜甫」との連載を幾編か掲載していましたが、データの不調のため閲覧できなくなっっています。気を取り直して、「日本人と漢詩」の続きとして、底本を「木耳社・堀辰雄 杜甫詩ノオト」の最初から投稿してゆきます。掲載するのは、主に堀辰雄が杜甫の詩を訳した部分からで、補足として、底本の編者・内山知也氏の解説の最低限の抜粋((1)など連番号の部分)とネットにある、杜甫の詩の、白文と読み下し文です。
 一編だけ、「日本人と漢詩(49)」に「秋興(その五)」「秋興(その六)」があります。

野 老(1)
わが草堂の籬の前には
浣花谿(2)の流れが迂折してゐる
その流れの儘に
柴門が歪んだ形をしてゐる
漁人が
向側の浪の靜かなところで
網を垂れて角を捕へてゐる
估客の船(3)が夕日を浴ぴながら溯って来るのが(4)見える
よくまあ長い路を經て
こんな風景の險しいところ(5)まで來たものだ
向うの琴臺(6)の方を眺めると
一片の雲がなんとなくそのあたりに立ちも去らずにゐる
丁度自分が此處に住んでゐるのも
あんな雲みたいなものだ……(7)


(1) 上元元年(760)秋の作
(2) 太平寰宇記に「浣花谿は成都の西郭の外に在り、一 名百花潭。」
(3) 商人の船。広徳二年(七盗)作の「絶句四首」に「兩箇黄鵰鳴翠柳、一行
白雑上靑天。窗含西嶺千秋雪、門泊東吳萬里船。」
(4) 「が」を逸する
(5) 「劍閣」は、長安から蜀に入る道中に当る四川省剣閣県北方の大剣山・小剣山の険峻を指す。けわしい剣閣山に遮られた、都を離れたこの地に流れて来たのが悲しい、の意となろう。
(6) 漢の詩人司馬相如と卓文君の旧蹟で、浣花渓の北にある。寰宇記に「相如の宅は州の西四里に在り」とあり、蜀記には「相如の宅は市橋の西に在り。即ち文君爐に当り、器を滌ひし処」とあり、益都書旧伝には「宅は少城中に在り。窄橋の下に百余歩あるは是なり。又琴台の在るあり」とあり、成都記には「浣花渓の海安寺の南に在り。今は金花市となる。城内はその旧にあらず。元魏、蜀を伐つや、営をここに下す。掘塹して大甕二十余口を得たり。けだし琴を響かせしゆえんなり」とある。
(7) 尾聯の二句は訳されていない。

 原詩白文と読み下し文は、漢詩と中国文化 から…

野老籬邊江岸回  野老の籬邊江岸回り
柴門不正逐江開  柴門正しからず江を逐って開く
漁人網集澄潭下  漁人の網は集る澄潭の下
賈客船隨返照來  賈客の船は返照に隨って來る
長路關心悲劍閣  長路關心劍閣を悲しむ
片雲何意傍琴台  片雲何の意ありてか琴台に傍ふ
王師未報收東郡  王師未だ報ぜず東郡を收むると
城闕秋生畫角哀  城闕秋生じて畫角哀し

日本人と漢詩(116)

◎中井履軒と上田秋成、木村蒹葭堂

 中井履軒は、「懐徳堂」第四代学主・中井竹山の弟。上田秋成ともども、木村蒹葭堂と交流があった。秋成は、名うての悪口家で、竹山、履軒、ひいては、懐徳堂をことに、こき下ろしている。でも、「鶉図画賛」で漢詩と短歌のコラボをしているところを見ると、芸術上、学問上は、二人は共鳴するところがあったのだろう。

履軒幽人題「隱居放言」

悲哉秋一幅 悲しきかな秋一幅、
若聞薄暮聲 薄暮の声の聞くがごとし。
誰其鶉居者 誰か其れ鶉居する者、
獨知鶉之情 独り鶉の情を知らんや

「もの悲しいなあ、秋にふさわしい一幅の画を見ると、薄暮に鶉の鳴く声が聞こえるようだ。どうして鶉居(不常住)するものだけが、鶉の情を知っているだろうか、いや誰でもこの画を見ればその気持ちがわかるだろう」

 一方秋成の歌は、「むすぷよりあれのみまさるくさの庵をうづらのとことなしやはてなむ(ここにすみかとして構えて以来、荒れ放題のこの草の庵を、最後には鶉の住みかとしてしまうだろうか)

図は、左から「鶉図」画賛、上田秋成・自画自賛像、上田秋成和歌を副えた蒹葭堂画。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)
・大阪大学「懐徳堂って知ってはる」展覧会パンフ