日本人と漢詩(117)

◎堀辰雄と杜甫(02)

 以前、ブログと Facebook に、「堀辰雄と杜甫」との連載を幾編か掲載していましたが、データの不調のため閲覧できなくなっっています。気を取り直して、「日本人と漢詩」の続きとして、底本を「木耳社・堀辰雄 杜甫詩ノオト」の最初から投稿してゆきます。掲載するのは、主に堀辰雄が杜甫の詩を訳した部分からで、補足として、底本の編者・内山知也氏の解説の最低限の抜粋((1)など連番号の部分)とネットにある、杜甫の詩の、白文と読み下し文です。
 一編だけ、「日本人と漢詩(49)」に「秋興(その五)」「秋興(その六)」があります。

野 老(1)
わが草堂の籬の前には
浣花谿(2)の流れが迂折してゐる
その流れの儘に
柴門が歪んだ形をしてゐる
漁人が
向側の浪の靜かなところで
網を垂れて角を捕へてゐる
估客の船(3)が夕日を浴ぴながら溯って来るのが(4)見える
よくまあ長い路を經て
こんな風景の險しいところ(5)まで來たものだ
向うの琴臺(6)の方を眺めると
一片の雲がなんとなくそのあたりに立ちも去らずにゐる
丁度自分が此處に住んでゐるのも
あんな雲みたいなものだ……(7)


(1) 上元元年(760)秋の作
(2) 太平寰宇記に「浣花谿は成都の西郭の外に在り、一 名百花潭。」
(3) 商人の船。広徳二年(七盗)作の「絶句四首」に「兩箇黄鵰鳴翠柳、一行
白雑上靑天。窗含西嶺千秋雪、門泊東吳萬里船。」
(4) 「が」を逸する
(5) 「劍閣」は、長安から蜀に入る道中に当る四川省剣閣県北方の大剣山・小剣山の険峻を指す。けわしい剣閣山に遮られた、都を離れたこの地に流れて来たのが悲しい、の意となろう。
(6) 漢の詩人司馬相如と卓文君の旧蹟で、浣花渓の北にある。寰宇記に「相如の宅は州の西四里に在り」とあり、蜀記には「相如の宅は市橋の西に在り。即ち文君爐に当り、器を滌ひし処」とあり、益都書旧伝には「宅は少城中に在り。窄橋の下に百余歩あるは是なり。又琴台の在るあり」とあり、成都記には「浣花渓の海安寺の南に在り。今は金花市となる。城内はその旧にあらず。元魏、蜀を伐つや、営をここに下す。掘塹して大甕二十余口を得たり。けだし琴を響かせしゆえんなり」とある。
(7) 尾聯の二句は訳されていない。

 原詩白文と読み下し文は、漢詩と中国文化 から…

野老籬邊江岸回  野老の籬邊江岸回り
柴門不正逐江開  柴門正しからず江を逐って開く
漁人網集澄潭下  漁人の網は集る澄潭の下
賈客船隨返照來  賈客の船は返照に隨って來る
長路關心悲劍閣  長路關心劍閣を悲しむ
片雲何意傍琴台  片雲何の意ありてか琴台に傍ふ
王師未報收東郡  王師未だ報ぜず東郡を收むると
城闕秋生畫角哀  城闕秋生じて畫角哀し

日本人と漢詩(116)

◎中井履軒と上田秋成、木村蒹葭堂

 中井履軒は、「懐徳堂」第四代学主・中井竹山の弟。上田秋成ともども、木村蒹葭堂と交流があった。秋成は、名うての悪口家で、竹山、履軒、ひいては、懐徳堂をことに、こき下ろしている。でも、「鶉図画賛」で漢詩と短歌のコラボをしているところを見ると、芸術上、学問上は、二人は共鳴するところがあったのだろう。

履軒幽人題「隱居放言」

悲哉秋一幅 悲しきかな秋一幅、
若聞薄暮聲 薄暮の声の聞くがごとし。
誰其鶉居者 誰か其れ鶉居する者、
獨知鶉之情 独り鶉の情を知らんや

「もの悲しいなあ、秋にふさわしい一幅の画を見ると、薄暮に鶉の鳴く声が聞こえるようだ。どうして鶉居(不常住)するものだけが、鶉の情を知っているだろうか、いや誰でもこの画を見ればその気持ちがわかるだろう」

 一方秋成の歌は、「むすぷよりあれのみまさるくさの庵をうづらのとことなしやはてなむ(ここにすみかとして構えて以来、荒れ放題のこの草の庵を、最後には鶉の住みかとしてしまうだろうか)

図は、左から「鶉図」画賛、上田秋成・自画自賛像、上田秋成和歌を副えた蒹葭堂画。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)
・大阪大学「懐徳堂って知ってはる」展覧会パンフ

日本人と漢詩(115)

◎中井竹山、履軒と木村蒹葭堂

 先日、大阪大学石橋キャンパスに、「懐徳堂開基300年展」を観てきた。興味深い点も多かったが、中でも、常設展示室における、中井履軒の人体解剖図であった。どことなく図式的な感じはするが「解体新書(ターヘル・アナトミア)」の一年前の図であるという。
 中井履軒は、懐徳堂第四代学主・中井竹山の弟。竹山、履軒は、実学的傾向を持っていたらしく、このあたり、大坂文化が、武家主導から町人が担い手になってゆく時代のエートスを体現した人物と言えよう。その後、懐徳堂は、異色の町人思想家、富永仲基や山片蟠桃らを輩出することになるが、それは別の話題である。
 竹山は、もちろん、木村蒹葭堂と交流があったが、なかなか面倒見のある人物であった。そのころ、まだ、貧学生であった頼山陽の父・頼春水の婚礼の仲人を勤めたらしい。その時の詩と推測される華燭引」三首。

そのー、
戶外初更迓綵輿 戸外ノ初更、綵輿ヲ迓《厶カ》へ
靑衣左右笑相扶 青衣左右、笑ツテ相ヒ扶《タス》ク。
雲屛暗處人如蟻 雲屛暗キ処、人、蟻ノ如ク、
細語新孃認得無 細語ノ新嬢、認メ得ルヤ無キヤ

中村真一郎の語釈「青衣は婢女、雲屛は雲を描いた屛風。花嫁は恥かしがって、薄暗い明りの下で、小声で囁いているので、居るのかいないのか判らない。」

その二、
絮帽深深掩玉顏 絮帽深々、玉顔ヲ掩《オホ》ヒ、
素裝宛似雪梅姿 素装、宛モ似ル、雪梅ノ姿。
蕭郞登席對無語 蕭郎、席二登リテ、対《ムカ》ヒテ語ナク、
侍女高擎仙島盤 侍女、高ク擎《カカ》グ、仙島盤

中村真一郎の語釈「花嫁は角隠しを深々とかぶって顔がほとんど見えないし、武骨な花婿も照れて、席に坐ったままひと言も口をきかない。そうして三三九度の盃がはじまる。」

その三、
畫燭雲屛夜未央 画燭、雲屛、夜イマダ央《ナカ》パナラズ、
再兒瞪坐引新嬢 侍児瞻坐シテ新嬢ヲ引ク。
傳酒翩翩雙峽蝶 酒ヲ伝フ、翩翩タル双峽蝶、
對越默默兩鴛鴛 筵二対シテ黙々タリ、両鴛焉

中村真一郎の語釈「披露宴の席上で花嫁花婿は黙って、周囲の花やいだ空気のなかに坐っている。貧しいながらも、大坂の街の結婚の宴の賑わいである。その中で恐らく見合いで一緒になったろう新婚の若い男女は、ただ黙然と夢見心地。」

 この、花も恥らう花嫁が、のちに、その息子を溺愛し、ノイローゼにさせてしまう、頼梅颸に変貌するとは、この時の、中井竹山は知るよしもないだろう。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)
・大阪大学「懐徳堂って知ってはる」展覧会パンフ

日本人と漢詩(114)

◎木村蒹葭堂、伊藤若冲と売茶翁

 今回は、中村真一郎の本の頁数を少し飛ばして…
 京都の福田美術館が、伊藤若冲の画を海外から買い戻したと、2024年11月10日号の、赤旗日曜版に記事があった。2025年1月まで展示しているとのことなので、機会があれば観に行きたいものだ。
 蒹葭堂(1736‐1802)と若冲(1716~1800)は、ほぼ同時代なので、交流があったように思うが、蒹葭堂の交遊録には、若冲の名前は出てこない。間接的には、若冲が師と仰いだ、売茶翁(高遊外)や、同輩・僧大典などは、蒹葭堂開館当時に知っていたので、彼らを通じて若冲の評判は聞いていたかもしれない。このうち大典は、前回紹介した宇野明霞に儒学を学んだとある。
 売茶翁は、肥前(佐賀県)の人。各地で、禅僧として修行するも、「釈氏の世に処《お》る、命の正邪は心也。迹には非ざる也。(人の評価は、ただ行跡にとどまることなく、内なる命が大事である)」として、茶を売ることで飢えをしのぐようになった。それも、「茶銭は黄金百|鎰《いつ》一鎰は二十両ーより半文銭まではくれ次第、ただのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」と貼紙がしてあったという。表裏千家の茶道とは違った、洒脱というか、自由なお茶の楽しみ方を目指したようだ。お茶の後は、若干の歌舞音曲と楽しい談笑が待っている、江戸時代中期、生産力もあがり、人々の需要層も量的に、質的にも高まってきたようだ。
 若冲と売茶翁との交流は、NHKの2021年正月TVドラマ「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり Wikipedia」 にあったとおりである。
 その売茶翁の詩から
錢筒二題ス
隨處開茶店 ー鍾是ー錢 随処二茶店ヲ開ク、ー鍾《シヨウ》(一杯の意)、コレー銭。
生涯唯箇裏 飢飽任天然 生涯タダコノ裏《ウチ》、飢飽天然二任《マカ》ス

煎茶日々起松風 醒覺人間仙路通 煎茶日々、松風ヲ起ス。醒覚ス、人間《ジンカン》仙路通ズルヿ《コト》ヲ。
要識盧仝眞妙旨 傾愛先入箇錢筒 盧仝《ロドウ》(中唐の詩人。隠棲して仕官しなかった)真妙ノ旨ヲ識ラント要セバ、囊ヲ傾ケテ先ヅ箇《コ》ノ銭筒二入レヨ。

参考】
中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)

日本人と漢詩(113)

◎木村蒹葭堂と宇野明霞


 前回までの「脱線」を修正し、「木村蒹葭堂のサロン」に沿って、取り上げられた漢詩人を紹介してゆく。木村蒹葭堂を取り巻く人達は、その豊富さを誇る。重複しているのを厭わずに言うと、第一に、小説、漢詩、俳句、絵画などを得意とした、文人のグループ。第二に、その周辺にいた、コレクター、第三に、懐徳堂をはじめとする儒学者、さらには、第四に、名前も知られない市井の人々。また、師弟関係の「系統樹」をたどると、その頃の日本、部分的には、世界と繋がっていたと言えるのではまいか。
 まず、蒹葭堂と直接の師弟関係はないが、漢詩人の結社「混沌詩社」の指導者、片山北海の師匠筋にあたる、主には儒学者たる宇野明霞から。
 中村真一郎は、「明霞は詩才に乏しい」と断言するが、それでも数首、彼の詩を引く。このあたり、中村の守備範囲の広さがうかがえる。比較的佳作とする詩から、三首ほど。

咏秋海棠
海棠秋睡熟 含露倚籬根
曉風吹不覺 初日滿前園
(海棠、秋、睡り熟シ、露ヲ含ミテ、籬根二倚《ヨ》ル。暁風吹キテ覚エズ、初日、前園二満ツ)
「朝起きてみると、前庭のシュウカイドウのピンクの花が、朝日に照らされて咲いている。」のような意味か?

偶作
靜窓驚遠梦 忽爾還千里
也知客夜中 幾處鄕心起
(静窓、遠夢二驚キ、忽爾トシテ千里還ル。マタ知ル、客夜ノウチ、幾処、郷心起ルヲ)
「これなどは、天才的とは言えないが、小さな成功を見せていて、好意が持てる。」と中村は書く。

謝ー壑禪師見贈庭花
竹院春深少往還 庭花折贈市塵間
數枝紅白看無厭 也得浮生幾日閑
(竹院、春深ク、往還少ク、庭花、折り贈ラル、市塵ノ間。数枝ノ紅白、看ルニ厭フナク、マタ得ル、浮生、幾日ノ閑)

必ずしも、順風満帆でなかった、己の人生もようやく落ち着いたところに落ち着いたという感慨であろうか?

図は、宇野明霞の七絶の筆跡、繊細なタッチで、どこか物悲しく感じる。

日本人と漢詩(112)

◎三上於菟吉とチェーホフと李群玉

 またもや、脱線!三上於菟吉は、「雪之丞変化」が代表作の大正から昭和にかけての大衆小説作家。彼に、こんな「チェーホフ論」があったのは、意外である。その中で、一首、晩唐・李群玉の詩を引く。

水蝶嚴峰倶不知 水蝶《すいちょう》 厳峰《げんぽう》 倶《とも》に知らず
露紅凝艷散千枝 露紅《ろこう》 艶《つや》を凝《こら》し 千枝《せんし》に散ず
山深春晚無人賞 山深く春晩《しゅんばん》人 賞《め》ずるなし
卽是杜鵑催落時 即ち是れ 杜鵑《とけん》催落《さいらく》の時

 水面をとぶ蝶々と険しい山は互いに気づいていない。露のような赤い花は艶っぽく美しく、千の枝に散りばめられている。山奥の春の美しさを理解する者は誰もいない。ホトトギスでさえ、それを終わらせるよう促しさえずっている。

くらいの意味か?起句の、「水蝶嚴峰倶不知」が、なんとも言えずよい。

 比較的マイナーな詩人を引用するところから、三上於菟吉は結構な素養があったのだろう。険しい山を平原の向こうに見える丘陵に変え、鳥の種類を違ったものにするという条件つきで、チェーホフの小説に出てきそうなシチュエーションではある。
 「小論」全体も、チェーホフの深読みになっており、昨今の評論家を抜きん出てなかなか秀逸である。たとえば、当方の好きな小説「いいなずけ」を論じて、

彼女の智慧を啓くものが首都の大学に、彼女を待つことを囁やく。生活の暁に立つて未知に戦のくナーヂヤは、智慧にあこがれて、病青年の啓示のままに許婚者を捨てて――一切の田舎町の平和と愛を、古いしつとりとした邸宅や、教会堂や、祖母や、母親をも捨てて大都会の渦の中へ飛び込むために家出をする。やがて病める者は死に、彼女の智慧は大学でも、さう急には啓いてくれないのがわかる。けれどもチエホフは、それを青年やうら若い処女の軽はずみとして責めはしない。チエホフは彼女の未来を見捨てない。これが若し他の作家でもあれば、青春者の「都会病」や「智識熱」の方を責めて、彼等に捨て去られるために荒廃する田舎町や、田舎人の生活を歎くだらう。さうした感傷性に堕ちないところにチエホフの面目がある。

が一例だろう。

 ライセンス的には、フリーなので、その全文を掲げる。

三上於菟吉・チエホフ小論

自叙伝――気禀の高かさ――アンドレーフとの比較――ゾラのナチユラリズム挽歌――真人――ビヨルネや及びドストエフスキーの憎悪心――チエホフの強さ――彼のニイチエ観――未来への信仰――トルストイの堂々ぶりと彼――インテリゲンチヤの克服――智慧――憎みは愛に死は生に――真理への先導――基督者チエホフ――チエホフの世界征服

 私の手許にあるチヤツトオ・ウインダス版「チエホフ書簡集」は千八百九拾余通といふ豊富な量をおさめてゐる露西亜原本から、百六十余通を摘訳したものに過ぎないが、しかし英訳者コンスタンズ・ガーネツトの巧妙な按排は分量の貧しさを優に補つて、チエホフ研究者のために少なからぬ便宜を与へてゐる。その書簡編の二九五頁、チホノフ氏に寄せた一節にかうある。
 ――僕はタガンログに一八六〇年に生れた。一八七九乍タガンログ高等学校を卒へ、一八八四年モスクワ大学医科を得業した。プウシユキン賞を受けたのは一八八八年だつた。一八九〇年に樺太へ旅行した。往きはシベリヤ通過、帰りは海路。一八九一年ヨーロツパ巡歴を試みて素ばらしい葡萄酒を飲み蠣を食つた。一八九二年にはV・A・チホノフの名付日の集りで鯨飲した。(これはこの書簡がチホノフ家の集りのすぐあとで、チホノフその人に宛てたものなので、チエホフ一流の気軽なユーモアを弄したのだ)――物を書きはじめたのは一八七九年、作品の集は「いろいろな話」「暮明の中に」「物語集」「気六かしき人々」それから長篇「決闘」だ。僕は又穏当なやり口でではあるが戯曲方面へも罪を作つた。独逸語には随分以前翻訳されたけれども、西欧には幾分除外例もある。チエツクやセルビアも亦僕を閑却せなんだ。フランスも無頓着ではない。恋の不可思議さをば十三歳で会得した。学校でも、医者どもの中でも、文学者の中でもみんなと親密につき合つた。僕は独身ものだ。(まだ此の時は有名なクニツペル夫人と結婚してはゐなかつた。――於菟吉)僕は恩給がほしい。僕は医業に自ら当つた。夏分にはときどき死体解剖もしたが此の二三年はしない。文学者ではトルストイ、医者ではザハアリンが好きだ。だが、みんなノンセンスだ。君のいいやうに書いて置いてくれ給へ。抒情詩的に事実を捏ち上げない限りは。――

 一八九二年二月廿二日モスクワで書かれたこの書簡の一節は、何といふ明るさと、正直さで彼自身の過去を語つてゐることだらう。この明るさと正直さとこそは、チエホフの最大特徴で、そして同時に彼を他の多くの文学者から隔絶させ、何の見せかけや、気取りや、声高くひびくひろめ屋の喇叭をも用ひずに、しかも小さいぺン先から流れた文字で、世界億兆に彼の魂を伝へた原動力だ。世にいくばくの良いもの、すぐれたもの、すばらしいものがあらうとも、最も良い、最もすぐれた、最もすばらしいものは「純」だ。みがきのかゝつた「素直さ」だ。智慧のプリズムを通した温い「明るさ」だ。これを同時代の作家アンドレーフ氏に比較して見給へ。同じ短かい自伝を書くにしても、アンドレーフはいつもの業々しい気取方や、見せかけや、ひろめ屋の喇叭を忘れはせぬ。(十数年前早稲田文学に昇曙夢氏が訳された「露西亜文学者自伝」を思ひ出されたし)こんな傾向の作家が常用する――大作家すらも折々慣用する思念、表現両方面のコケ嚇的手段は、なる程一時公衆を驚倒させ、魅惑させるに充分だ。彼等をして静かで、素直で、愛しはするが媚びはせぬ作家を忘れさせるに充分だ。けれども公衆が酣酔と、眩惑とから恢復した時、それは二日酔の青年が、ゆふべの悪酒の盃を思ひ出した刹那に感じるやうないまはしい後味を覚えさせるに過ぎぬ――此の場合もしいつまでも悪い陶酔が忘れられずに、もつともつと囚はれたがり、溺れたがつてゐるものがあるとすれば、それは救はれないヂレツタンチズムに堕した、憐れむべく古めかしい世紀末児の亜流に過ぎないと言はれても仕方がない、だが、正しい鑑賞力の持主たちや、芸術品から生活の尽きざる源を汲むことをよろこぶ人たちは、たとひ一度は腐つた美や、怪奇な幻影に惑はされたとしてもすぐに自分に帰つて、自分が真に求めてゐるものは、鬼面し、粉飾した作品からは到底与へられないことに気がつき、純粋で気高い――しかし、温かく素直な魂から生れたほんものの芸術を探さうとする。同時に芸術といふものが、傾向や趣味に生命点をおかず、永遠な人間性の発露に於いて「不朽」を主張する理由があるのを理解する。そしてかくの如き人々が、つまり人間らしい心で、不朽な芸術品を絶えず求める人達が、ごく手近なところにアントン・P・チエホフを持つことのいかに幸福であることよ!
 事実われわれの知る限りに於いて、チエホフ程はつきりした目で、人生を直観し得た人間は見当らぬ。されど彼自身「自分は製作に当つて殆んど無意識に筆を進めるが」しかし「文学は能ふだけ実在そのまゝに描く術である。何よりも肝心なのは絶対の真実と正直とだ」と公言して、此手段によつてのみ隠された「真珠」を此の世界に掘り出して見せることが出来ると語つてゐる。この言葉は時代はづれのナチユラリストの慣用句に似てゐると思ふものもあるかも知れない。だが、ナチユラリズムは、チエホフ以前にすでにあのゾラにさへ――ルゴン・マツカールの大作家にさへ見捨られてゐた。一八八八年彼は宣言した――「疑ひなく新らしい哲学が新らしい文学を生むのだ。ナチユラリズムはもう古い月界に居を占めた」そして三四年して、「未来は……諸理論から脱却してもつと打ち解けて人生を受け容れることを承認する者、又は者達に属するであらう。私はより広い、より複雑な描写を、人道へのより大きな門戸を信じるものである――そして私に仮すに時を持つてすれば、私自身がそれをする。彼等が叙するところを私がしてのけて見せる」と付け足した。この言葉の中には豪雄無双ないつものゾラがのぞいてゐて私達を微笑せしめるが、兎に角ゾラをしてさへもう前期のものだと叫ばせたナチユラリズムは、チエホフの胸からは過ぎ去つてゐた。チエホフこそは「諸理論から脱却してもつと打ち解けて人生を受け容れた」人間だつた。そして、そのやうに自由に、しかし正しく人生を受け容れることの可能力を持つた人間が此の世界に幾人あり得たか? 此の複雑な人生の、神を信ずる者を、不信者を、耶蘇を、悪魔を、醜くき実在を、華大なる夢想を、恋を、貪欲を「都の生活を、百姓の一生を――さうしたすべての現象を真正面から直視して、何物にも捉へられずにその現象全体を認識し、しかも弱々しい悲哀にも、荒々しい憤怒にも我々を忘れずに、新らしい生の信仰――より誠実で、より自由で、あらゆる点でより精神的な世界の到来に対する信仰を抱きつづける可能力を持つ魂がさうザラにあるものではない。この魂を抱き得る人間こそ自由主義者《リベラリズム》と呼ばれる事をすら厭ふほんものの人間――古来の宗教家や、神学者が夢想したやうな「神の創り給うた」人と呼ばれるに値する第一級の人物だ。玲瓏として曇りのない、そして絶えず一脈の温味を湛へてゐる胸は、人生の欺きや、偽りと憎みとを静かに乗り超えて、憤るべきもの憎むべきものの依つて生ずる人間生活の汚濁を、彼はみづからの手で澄まさせてやり拭ひ取つてやらうとする――チエホフの「真珠を掘り出す」といふ言葉には、此の意味が含まれてゐはすまいか? この博くやさしい気持こそ、チエホフをして徐々としかも確実に――この英吉利人の言ひふるした言葉を私はあまり好まぬ。随分プホザイクで金儲専門の商業に似てゐるが――文学世界を征服させつつある魅力の源泉だ。一切の荒々しさや、悪どさや、猛々しさは畢竟するにその持主の叡智の不足か、もしくは気禀の狭浅を示してゐる。私は折々憤怒し易く、憎悪し易い性質の天才をも尊敬する。たとへばゲーテを一生憎み通した同じフランクフオルト生れのビヨルネの「巴里からの書簡」またはその中で、ツルゲーネフを小酷くやつつけてあるドストエフスキーの「悪霊」をも、どうして重んぜずにゐられるだらう。だが、怒りに燃えた場合のビヨルネや、猜疑に昂奮した場合のドストエフスキーは、われわれを――小さく、貧しく、恒に此の人生に面していぢけてゐるわれわれを抱いてもくれず、富ましてもくれず、また希望に充たさせてもくれない。寧ろ偉大な人格の憤怒の姿は、却つてわわわれをいぢけさせ、貧しくさせ、せせこましい排他的気分にさへ誘つてしまふことがある。私はドストエフスキーを、偉いなる人間であるとは信じてゐるが、しかもその作品が全部人間の未来に約束されてゐると感じることが出来ないのを悲しむ。それに引かへて、チエホフの全製作は、十が十まで、五が五まで、それがいかに小さい分量のものでも、五枚しかないものでも、測るべからざる人間の深さと、美しさとを、われわれに暗示せぬものはない。ある人達はチエホフの静かさを弱さと誤解し、量の少なさを質の貧しさと誤認し、正確な、たぐひない美しさを、デコデコでないから、悪どくないからの故を以つて無魅惑なりとしてゐる。禍ひなる哉! 強い弱いで言へば彼なぞこそ無比の強人である。無比の強人であればこそ、彼はひとりであることすら歎きもせず、怖れもしなかつた。彼は次兄ニコラーイ――絵描きになりつつあつたニコラーイに若き時語つてゐる。「あなたは始終公衆が自分を理解しないと言つて私に訴へる。ゲーテやニユートンは訴へなかつたではないか。キリストだけは訴へたが、しかし自分を理解しないからと言つてではなく、信条を理解しないのを歎いたのだ。公衆はあなたを十分理解しますよ。もしあなたが、あなた自身を理解しないのなら、それは彼等のあやまりではない」この毅然としてしかも物静かな覚悟は、寧ろ東洋的なものを含んでゐる。私はよく曠野に旅して、雑木の中に朗らかな花を見せた花木を眺めると晩唐李群玉の詩を思ひ出す――それは、水蝶厳峰倶不知、露紅凝艶散千枝、山深春晩無人賞、即是杜鵑催落時といふのであつたが、この詩から東洋風高人の姿を充分に彷彿させることが出来、此の種の心意気を真人の至極境として尊敬するのである。さればこそ、チエホフは一切の強調された主張に対しては静かに微笑した。「私は汽車や汽船の中で、ニイチエのやうな哲学者と出逢ひ、そして一夜を語り明かしたいものだと思ふ。だが、あの人の哲学は永持ちのしないものらしいです。あれは納得の行くものといふより、華やかな見ものだ」といふ意味の言葉を、アヴイロフ夫人に対して語つてゐる。チエホフの穏かな唇は決して嘲笑は浮べない――しかし、やさしく微笑む。恐らく彼が若し昂奮した天才と――ニイチエに限らず――出逢つたなら、とつくりと相手の熱烈な言葉に耳を傾けたあとで、「お疲れにならぬやうに――その立派なお考へが御自分の胸の劫火の火炉の中で、おのづと焼け亡びてしまはないやうに――」と心の中に無限のいたはしみを以つて撫でさすつたであらう! そして天才ならぬ凡人の労役と、生苦とに悩やむものに対しては――「ああ、さぞ辛いでせうね、人生は苦しいものです――だが、私達の此の苦しみ、それは決して無効なものではない。私達が汗水を流して植えた一本の木は――椎木の林はあの禿山を豊かに飾るでせう」とやはり無限のいたはしみを以つて慰さめ励ましたであらう! この慰さめや励ましは、出鱈目の世辞ではない――成程チエホフの人生観は、悲しむべく苦しむべき此の現実世界に生きた彼である故に、いたずらに明るいものではなかつた。多くの批評家が言ふやうに、憂鬱暗憺たる一面を持つてゐた。しかし絶望の深淵に自らを陥れて、浮む瀬もない暗黒にのみ生きるには彼の智恵はあまりに澄み切つてゐた――チエホフをかなり早く日本に紹介した、前田晁氏も引用してゐるが、彼は晩年ヤルタで、クープリンに逢つた時、「此処は以前石と薊とで蔽はれた荒地であつたのですが、僕が来てから開墾して、こんな美しくしました。もう二三百年も経ちましたら、世界中がみんな花の咲き乱れた花ぞのになりませう」と語つたといふ、前田氏は、これは字義通りに取るべきではなく、絶望的な人生に対する一種のアイロニイであると言つてゐるが、私はさうとは考へぬ。その期間が二百年であるか二千年であるかは知らぬ――しかし、早晩人間生活が改善せらるべきものであり、自分達の労苦はその未来に対する捨石であるといふ観念は、新芸術の天才達の胸の祭壇を照らす光明であらねばならなかつた。――チエホフは決して絶望の極、血を吐いて死んだ人間ではない。彼は日本では多少ナチユラリストに謬まられてゐる形である。日本ナチユラリストは、殊更人生は暗黒であるといふ例証を芸術に求めて、絶望に昂奮してみたいといふロマンチシズムに囚はれてゐた――で、チエホフも一種の絶望家の如く謬り伝へられた場合もある。これ等の謬見は機会ある毎に打破されねばならぬ。人類の歴史を通じて偉いなる、又は正しき、または良き気禀を抱いた人物は、たとひ自殺者、もしくは不慮の死を遂げたものと雖も、人類の未来に絶望はしなかつた。それは狂熱した信仰家でなくとも、ソクラテスのやうな不幸な被殺者にしろ、牢番のすゝめた毒盃を微笑を以つて傾けた刹那、彼自身――即ち人類の勝利を未来に於いて信じたればこそ、安んじて死を迎へたのであらう。肉は死ぬ――だが魂は死なぬ。これは単なる迷信、または「言葉」ではない。それは精神に於いて人は人へと生き、自分は永久に延長されるからだ。ここに個人が一般人類の福祉に寄与せんとする意志の根がある。ツルゲーネフは「ルウヂン」の中にルウヂンに対して「真理」とは何だ! つまらん妄想だ。口惜しいと思ふなら出して見て貰ひたい――と放言する偏熱狂的《モノマニヤツク》な実際主義者を描いてゐるが、たとへばへーゲリズムなどが流行した後では、こんな人間の存在も多少は諷刺的意義を有するであらう。しかし、人間の精神は近代に於いてもやはりかうした暴言を許さない。神聖性は完全に偶像からは奪ひ去られたけれども、神聖なるものは新しい力で、われわれの内奥に目ざめて来た。この信念を抱き得ずして何が文学であらう! 否、生活であらう! 若しチエホフがトルストイのやうな気禀の人物であつたら、人類の未来への希望と信念とを「叔父ワーニヤ」の中で村医者の口から語らせたりなぞはせずに、堂々たる論文または宣言にして全世界に頒布したであらう。けれども彼は、彼の純朴性からあらゆる誇大な、強迫的なものを嫌つた。彼はトルストイの小説をば好いたが、堂々好みに対しては少なからずおぞ毛を振つてゐた。彼は書いてゐる――「トルストイは人間から不朽性を拒非した。だが神よ! その中にパーソナルなものがどれ程あつたか! をととひ私は彼の「死後」を読んだ。だがそれは、私が軽蔑する「ある知事の妻の手紙」よりももつと馬鹿げた、もつと咽喉の窒るやうなものだつた。世界偉人の哲学なるものに、悪魔よ取憑け! 大聖者たちはみんな将軍のやうに専制的で、将軍のやうに粗野で、無智だ。それといふのも罰を受けないといふ特権があるからだ。ヂオゲネスは民衆の顔へ唾を吐きかけた。それに対して後腹が病めぬといふことを知つてゐればこそだ。トルストイが医者達を悪者同然に誹謗して、大問題に対する無智を表白したのも、ヂオゲネス同様禁錮もされねば新聞で叩かれる憂ひもないのを知りぬいてゐるせいだ……」チエホフは「無智」なもの――従つて「粗野」であるもの専制的であるものをば、トルストイの衷に見出してさへ、眉をひそめないではゐられなかつた。チエホフはたゞ「絶対の真実」と正直さとで、彼の見た人生の現実の姿を描き――現実に潜められた「真珠」を掘り出して見せようとした。人間の痴かしさを叱りつけずに、その痴かしさを民衆ともども自分も乗り超さうと努めた。ツルゲーネフは露西亜インテリゲンチヤの典型を描いては見せたが、その病所が、いかにすれば救はれるかを訓へはしなかつたやうに見える――自分も彼等と共に苦しんでその病所を乗り越へやうとまではしなかつたやうに見える。しかしチエホフはそれをした。彼はたとへば「わが妻」の中で饑饉に悩む百姓達の救済に焦心しながら、しかもインテリゲンチヤの特徴に縛られて、徒らにその救済の方法や、結果の善悪について思ひ煩らつて実行に移ることの出来ない学者を主人公にしてゐるが、主人公にはあまりに無考へに見える美しく若き妻のナターリヤは、衷心良人の不実行で、不尊にのみ溺れてゐる性癖に愛憎をつかして、独逸種の医者リベルを相談相手に、どしどし実際的救済に突進するのである。そしてたうとう妻の人間らしい熱情が、良人を打負かすまでの夫婦の苦悶を物凄いまでに正確な筆致で彫み上げてゐる此の一篇は、人間を去勢し、無力にする智識はほんたうの智慧ではなく、ほんたうの智慧は各個の人間そのもののうちに隠れてゐること――その智慧をめいめい素朴に生かし抜くことに依つて幸福が恵まれ得るであらうことを語るのである。この智慧がひらめき輝く時、憎みは赦しとかはり、死は生と変容する。よく世の中で、誰れそれは「愛の詩人」だとか、「愛の使徒」だとか言ふが、それはいかなる恋愛詩人、もしくは狂熱宗教家《フアナティツク》よりも、本質的にチエホフに当てはまる言葉だ。で、有名な長篇代表作「決闘」の主要人物科学者コオレンは、うぢ虫のやうに憎んだラエフスキーをたうとういたはる――憎悪のあまり決闘までした弱小な軽蔑すべき生ものにも、人間らしい力が潜んでゐることを発見して、ピストルを曽つて握つた手で握手をする。チエホフが作中人物の中に、人間の進歩と進歩ヘの不断の努力を見出す時、その筆に何とも言はれない歓喜の力が宿る。現世の穢れと擾れとに精神的に死滅しつつあつた人物が、ある機縁と冒険とから「人間」に復活する時――その死中に活を求め得た作中人物、たとへばラエフスキーのやうな男と一緒に、作者自身もホーツと深い吐息をする。そして作中人物と一緒にかう呟やく――「それはボートを後へ押し戻す……ボートは二歩進んで一歩戻る。しかし船頭は頑固だ。どんな高波にも怖れない。ボートはだんだん進んでゆく。もうボートは見えなくなつた。が、半時間の後には船頭は明らかに、汽船の灯を見るだらう。一時間の後には船の梯を上るだらう。人生でもその通りだ……真理の探求に当つて人間は二歩進めば一歩後戻りをする。だが真理への渇望と頑固な意志とは、一歩一歩前進させるのだ。誰が知らう。恐らく彼等は最後には真の真理に到達するのだ。」それ故チエホフの愛する若く美しい男女たちは、不起の病に悩んでゐても、なほ且つ曙の光を讃め、折々すべての旧習の平和を捨てて、ただひとり新生活へと突進する、「許婚」のアレキサンドル・チモフエイツチは、肺病みの美術書生で、明日をも知れない病弱の身を、静かで単調な田舎に棲む大叔母の家に養ひに行くのであるが、その大叔母の孫娘に当るナーヂヤといふ娘の、今にも同じ町の青年と結婚せんばかりになつてゐる「許婚処女」の感じ易い耳に、彼女の智慧を啓くものが首都の大学に、彼女を待つことを囁やく。生活の暁に立つて未知に戦のくナーヂヤは、智慧にあこがれて、病青年の啓示のままに許婚者を捨てて――一切の田舎町の平和と愛を、古いしつとりとした邸宅や、教会堂や、祖母や、母親をも捨てて大都会の渦の中へ飛び込むために家出をする。やがて病める者は死に、彼女の智慧は大学でも、さう急には啓いてくれないのがわかる。けれどもチエホフは、それを青年やうら若い処女の軽はずみとして責めはしない。チエホフは彼女の未来を見捨てない。これが若し他の作家でもあれば、青春者の「都会病」や「智識熱」の方を責めて、彼等に捨て去られるために荒廃する田舎町や、田舎人の生活を歎くだらう。さうした感傷性に堕ちないところにチエホフの面目がある。彼は、長篇「匿名話」の中では頗る貴族的教養を有する若い大家の、偽の愛を信じて、良人を捨てて愛人の懐ろに投じたヂナイダのために、熱烈な真理と真実とを愛する一青年と共に、大官の「恋の欺満」をあばき、甘たるく豊かな、しかし偽りに充ちた恋の巣を捨てて、遠い旅に上らせてしまふ。旅に上つて彼女は死ぬ――しかしチエホフも、作中の青年も彼女の死を寧ろ、偽りの甘楽の長命よりも優ると信じてゐるのである。そして最も見逃せないのは「許婚」の病画学生も「匿名話」の青年も、ともに女主人公達に恋してゐるわけではないことだ。彼等は、彼女等のために恋をささやかずに、真理をささやく。彼等は彼女等に「恋」の情熱の代りに「真理」の情熱を注ぎ込んでやる。新生活へ突き遣る――チエホフは真の愛はむしろ、残酷に真理を知らしめてやることだと考へてゐるやうに見える。此処に、人としてのチエホフの底の知れない勇気が蔵されてゐる。そして、われわれがいつも彼の作品から、未来への希望と生活の鼓舞とを頒けて貰ひ、人生への愛を深かめさせて貰へる原因も亦、同時に此処に存してをらねばならぬ。私は敢へて言ふ――私はチエホフの衷にクリスチヤニテイの真の閃光を見る――人間の歎きを頒けることを知つて、しかも死をも怖れなかつた最高の慈悲者、最高の真理者の新らしい変容を見る。耶蘇も若々しい哲学者達に依つては、ガラリヤの柔順すぎ、弱すぎる牧者――羊しか飼へない牧者として嘲られた。チエホフも早急な批評家に依つては、彼の静かさと微笑と歎息とのために、その真面目をあやまり解かされるかも知れない。だが彼等の衷なる力は遂にすべてに克つ、チエホフの神の如き芸術は、遂に世界を征服しつくすであらう!
 この小感想の筆者は更らに、数十種の主要作について、個々の評論を試みたかつた。だが、今はこの漠とした覚え書だけに止めて置く。そのうちに早稲田文学社の好意は、より綿密な記述の自由を、筆者のために与へてくれるであらう。

 チエホフ小論 三上於菟吉著「早稲田文学」(大正13年3月号)を底本として電子書籍化。漢字は通用字体に改めた。書肆風々齋
Wikipedia 三上於菟吉
青空文庫 三上於菟吉

日本人と漢詩(111)

◎一休禅師と祇園南海(補足)と野口武彦

 最近、野口武彦が亡くなったのを知ったので、彼を偲んで、少し寄り道をして、手持ちの著作から二つ。

ー休禅師・『美人陰有水仙花香』ー『狂雲集』

楚台応望更応攀 楚台は応《まさ》に望むべく更に攀づべし
半夜玉床愁夢間 半夜玉床愁夢の間
花綻一茎梅樹下 花は綻ぶー茎梅樹の下
凌波仙子遶腰間 凌波《りょうは》の仙子腰間を遶《めぐ》る

 野口氏曰く「花は花でもこれは(言葉がわかる)解語の花」、ま、ここまで「花」の範囲を拡げるか?という感もなきにもあらずだが、「凌波仙子」というのは、北宋黄庭堅の漢詩に典拠をもつ水仙の異名。でもこれ以上の語釈は、無粋、野暮と取られそうなのので、略しておく。

 前回、祇園南海の漢詩は、も一つ評判芳しくなかったようなので(笑)もう、一首追加。

 野口武彦曰く「『雨暗渡頭』と題する七絶の佳什をあげて祇園南海の論を終えることにしよう。」

煙湖草岸雨如塵 煙湖草岸雨塵ノ如シ
野渡舟間隣自親 野渡舟間鵰自ラ親シム
一箇短節蓑笠客 一箇ノ短節蓑笠ノ客
恐是錦囊尋詩人 恐ラクハ是レ錦囊詩ヲ尋ヌルノ人

 こちらもひとつだけ語釈。結句「恐是錦囊尋詩人」は、唐・李賀の故事による。才あふれる李賀は湧き出る詩想を、なぐり書きし、腰にぶら下げる袋に投げ込んだという。画の人物を李賀に擬え、客観的に鑑賞している自分。画はおそらく現実のそれではないだろう。そのことで、詩才をたのんだ己の若き日に思いを馳せ、この詩で内面化した自己を表現するのだろうか?

図は、野口武彦「花の詩学」表題と一休禅師(Wikipedia から)

参考】
・野口武彦「花の詩学」「江戸文学の詩と真実」

日本人と漢詩(110)

◎祇園南海と木村蒹葭堂と中村真一郎(補足)

 しばらくは、中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」に載る漢詩を、書籍の最初から順を追って紹介したい。まずは、木村蒹葭堂の本格的なオープンであるが、前回紹介分のの祇園南海の補足から。
 木村蒹葭堂の絵の師匠、池大雅は、一度だけ祇園南海に面会したことがある。その一度の邂逅で、真髄を伝授されたという。池大雅は木村蒹葭堂の絵の師匠。文化史的につながっていると中村真一郎はいう。図は、池大雅と祇園南海の画から。
 祇園南海は、漢詩作での名をあげたと、江村北海「日本詩史」で評価されるが、若い頃は、その才を托んで、周囲の反発をかったようだ。「放蕩無頼」の罪状で、一度は流謫の身となったが、将軍吉宗の斡旋もあり、その後、紀州藩の儒官の身分を得る。その間も、彼は、外面《そとずら》と隔絶した、内面性を持っていた、と野口武彦氏は指摘する。最晩年の73才の時の、彼の詩。

『己巳歳初作』(寛延二年、一七四九)
我素人間無用客 我素卜人間《じんかん》無用ノ客
設令有用亦何益 タトヒ用有ルモ亦タ何ノ益アラン
惟應嬾眠冤復眠 惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ
撃攘起息亦役役 撃攘 起息 亦タ役々

&emsp:結句は、直訳すれば「地面をを踏み硬めて息をハーハーさせるなど日常生活動作をもっぱらにする」くらいの意味か?

 当方、この詩作の年齢以上になり「惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ」は当っているにしても、こんな心境に達しているかどうか、疑問であるし、あるし、別途の問題ではある。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」
・野口武彦「江戸文学の詩と真実」

日本人と漢詩(109)

◎中江藤樹と熊沢蕃山と生写朝顔話

 先日、文楽鑑賞、題目は「生写朝顔話《しょううつしあさがおばなし》」。これが、「意外」なほど、面白かった。1840年、天保年間の作とあるので、浄瑠璃台本の「大作主義的な最盛期を過ぎ、複雑な「因果応報」の筋書きに観客も飽きがきたのか、比較的単純なプロットである。一言で言えば、相思相愛の恋人どうしの偶然がなせる「すれ違い」の連続、後の世の、「不如帰」や「君の名は」に受け継がれると複数の識者は言っている。台本の元になったのは、中国・明末、清初の小説から題材を取った、馬田柳浪「朝顔日記」、明治の文人、広津柳浪の祖父、「松川事件」で論陣をはった、広津和郎の曽祖父にあたるとある。
 戦国大名、大内氏に仮託して話は進む。宇治に来ていた二枚目のやさ男、宮城阿曽次郎が認《したた》めた、和歌「諸人の往き交ふ橋の通ひ路は肌涼しき風や吹くらん」の短冊が、風のいたずらか、川遊びの船に流れ着く。そこにいたのは、ヒロイン深雪。それが、二人の出会いと別れの始まりだった。以下、筋は略するとして、お家騒動はからみ、駒沢次郎左衛門と名を変えたヒーローを亡き者にせんとする陰謀で、痺れ薬を飲まそうとするが、間一髪笑い薬に置き換えられ、盛った本人が笑いの止まらぬようになるシーンなど、実際の舞台では太夫の大熱演であった。
 宮城阿曽次郎のモデルになったのは、儒学者熊沢蕃山、彼は岡山藩に使えたとある。文楽では、大内家のお家騒動で、主君に「諫言」をしたと脚本にあるので、なにか、岡山藩での史実があったかもしれない。蕃山は「陽明学派」であり、より「実践」的なのかな?ただし、文楽では、阿曽次郎は影がきわめて薄く作っている。なんといっても、深雪の「くどき」を含む人物描写がメインだからであろう。
 蕃山の師が、「近江聖人」と称される中江藤樹。その藤樹が蕃山が備前岡山藩に二度目に赴任する時の五言律詩。

送熊沢子還備前(熊沢子の備前に還るを送る)
舊年無幾日    旧年 幾日も無し
何意上旗亭    何ぞ意わん旗亭《きてい》に上らんとは
送汝雲霄器    汝が雲霄《うんしょう》の器を送りて
嗟吾犬馬齡    吾が犬馬の齡を嗟《なげ》く
梅花鬢邊白    梅花 鬢辺《びんへん》に白く
楊柳眼中靑    楊柳《ようりゅう》 眼中に青し
惆悵滄江上    惆悵《ちょうしょう》す 滄江《そうこう》の上
西風敎客醒    西風 客をして醒《さ》めしむ

簡単な語意】月日の立つのは早く、別宴で料亭に飲もうとは…君の才能と年を重ねた私私の髪の白さと、君への期待に満ちた柳の青さ、川の辺の西風は、醉いが醒めるほど冷たいと、前途有望たる弟子への餞《はなむけ》と老境にさしかかったわが身の対比を語る。

参考】髭鬚髯散人之廬

日本人と漢詩(108)

◎加藤周一と吉田松陰


 久しぶりに、加藤周一の吉田松陰を扱った小冊子を手にしてみたが、いささかの違和感を感じた。思いの外、松陰に肩入れしているからだ。特に、彼の抱いていた政策が極めて現実的であったことを評価するのは、興味のあるところだ。ただ、加藤周一が語らぬところだが、「松下村塾」を通じて「弟子」たちに伝えていったことが、その後の日本の行く末を決定したことも間違いないが、果たしてそれが良かったのだろうか?
 そこで、少し、加藤周一の「日本文学史序説」も、松蔭の漢詩に触れた部分を繙いてみた。

松陰の詩は、その大部分を、『松陰詩稿』に収める(『全集』、岩波書店、ー九三九の第七巻)。そこには頻に「墨土火船」とか「四夷」とか「国恥」とかいう語がみえ、また頻に「忠義」とか「勤王」とか「報国」とかいう憂国の語があらわれる。身辺雑事の観察はなく、四季の吟詠もなく、恋の歌もない。措辞の洗練も、詩的「イメージ」の独創もなくて、彼の詩はほとんど日記のように、機会に応じてその政治的理想を述べる。彼が詩人であったのは、そういう詩を書いたからではなく、その生涯の思想と行動とが一種の詩に他ならなかったからである。

狂愚誠可(㆑)愛
才良誠可(㆑)虞《おそる》
狂常鋭(二)進取(一)
愚常疎《うとし》(二)避趨(一)
才多(二)機変士(一)
良多(二)郷原徒(一)
流俗多(二)顛倒(一)
目(レ)人古今殊《ことなり》
オ良非(二)才良(一)
狂愚豈狂愚
(「狂愚、『松陰詩稿』)
(書き下し文)
狂愚誠に愛すべし 才良誠に虞るべし
狂は常に進取に鋭く 愚は常に避趨に疎し
才は機変の士多く 良は郷原の徒多し
流俗顚倒多く 人を目すること古今殊なり
才良も才良に非ず 狂愚豈に狂愚ならんや

 引き続き、加藤の詩の「解説」は長い引用になるが…

「進取に鋭く」は、『論語』、子路篇、第二ー章の「狂者進取」に拠る。「郷原の徒」は、同じく、陽貨篇、第二ニ章の「郷原徳之賊也」を踏まえて、 いわゆる「八方美人」である。「機変の士」すなわち機会主義者(または現実追随主義者)に対し、また「八方美人」に対して、あくまで前進し、困難を避けない「狂愚」を、彼は愛するといったのである。そういう心情は、力関係の冷静な判断や費用と効果の計算や戦略的な妥協というもの、つまり政治的な思考と、背馳するにちがいない。彼には詩人の気質があって、政治家の天性がなかった。しかるに時代は、詩人を政治的状況のなかにまきこんだのである。吉田松陰という現象は、まさに詩人の政治化であった。そのことから現実主義に媒介されない政治的理想主義が生じる。現に彼の理想主義から影響を受けた青年は多く、非現実的な行動計画に賛成した同志は少なかった。かくして孤立は強まらざるをえず、獄中に孤立した松陰の行動計画の撰択の範囲は、いよいよ狭くなるはずであった。それでも積極的に動こうとすれば(「進取」)、もはや「テロリズム」以外に手段がなくなるだろう。妥協のない理想主義から孤立へ、孤立から手段の過激化へ、したがってより以上の孤立へ!という悲劇的な道は、ついに効果の点で絶望的な行動に終らざるをえない。その最後の行動は、もはや政治的な面においてではなく、詩的な、あるいは精神的な面においてのみ、象徴的な意味をもち得る。それが藩主の待ち伏せ計画、いわゆる「要駕策」であった。「要駕策」が失敗し、捕えられた門人に送つた彼の書簡には、「天下一人の吾れを信ずるものなきも、吾れに於ては毫も心を動かすに足るものなし」という(「和作に与ふ」、『己未文稿』、ー八五九)。詩人はどれほど政治家しても、詩人に還るのである。

 加藤特有の「論旨」の建て方には感服する面もあるが、後の世代にも引き継がれ、日本の行く末を危うくした松蔭の「ニヒリズム」が果たして詩人の「資質」なのだろうか?ここは、高杉晋作の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸に現れるやや退嬰的な雰囲気のほうが、「詩情」に富む気がしてならない。(高杉晋作については、日本人と漢詩(030)でも触れた。)

参考】
・加藤周一「吉田松陰と現代」(かもがわブックレット)
・加藤周一「「日本文学史序説・下」(ちくま学芸文庫)