◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)
第二編 明治以後
第四章 マルクス主義の唯物論者
第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)
一 河上の思想遍歴
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河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょうのもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもととなったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつしただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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明治三十八年は当時の日本人のいわゆる「征露」の戦争が終結した年であるが、この年は幸徳秋水のなかに思想的転換の機会をつくり、今また河上をして伊藤證信の無我苑に入らせた年である。戦争は、済んでもなお人の内生活に変調をおこさしめるものとみえる。無我愛への転入については、彼は『自叙伝』のなかでかなり詳細に記している。
さて、私たちはここで河上自身が後に、すなわち『自叙伝』のなかで、彼の思想遍歴をかえりみ、そして彼自身の本質をすら語っているのを聞くことにしよう。彼はこう記している。
苟くも自分の眼前に真理だとして現はれ来ったものは、それが如何やうのものであらうとも更に躊躇することなく、いつでも直ちに之を受け入れ、そして既に之を受け入れた以上、飽くまで之に喰ひ下がり、合点のゆくまで次から次へと掘り下げながら、依然としてそれが真理であると思はれてゐる限りにおいては、敢て身命を顧慮せず、毀誉褒貶を無視し、出来得るかぎり謙虚な心をもつて、無条件的に且つ絶対的に徹底的に、どこまでもただ一図に服従してゆき、遂には、最初はとても夢想だもしなかったやうな、危険な、無謀な、或ひは不得手な境地に身を進めなければならなくなつても、逃避もせず、無上命令に応召する気持で、いのちがけの飛躍をなすことを敢て辞しないが、しかし、かうした心持で夢中になつて進んでゆくうちに、最初真理であると思つて取組んだ相手がさうでなかったことを見極めるに至るや、その瞬間、一切の行掛りに拘泥することなく、断乎として直ちに之を振り棄てる。これが私の人格の本質である。
こうし〚て 1字追加〛河上の述懐は、伊藤の無我愛主義に入ってゆき、また出ていったことの追憶につけて、述べられているのである。河上が伊藤に結ばれはじめたのは、一九〇五年十二月一日に彼が伊藤に手紙をおくったときからである。十二月四日には彼は伊藤を無我苑に訪ねている。同月八日再び伊藤を訪ねている。伊藤の無我愛の確信はつぎのようなものだった。「宇宙の本性は無我の愛である。宇宙を組織してゐる一切の個体は、その本性において無我愛の活動である。すなはち一個体が自己の運命を全く他の愛に任せ、而も同時に全力を献げて他を愛する、これが無我愛の活動である」。こういう伊藤の無我愛主義のぜんたいが河上を魅了したのではなかった。はじめは河上は気づかなかったが、じつは右の無我愛精神のうちの、ほんのいっかしょ「全力を献げて他を愛する」ということだけが、河上のたましいをつかんだのである。伊藤はもと真宗の僧侶であったので、(河上もいっているように)、親鸞の教えに通ずるものだった。もとより親鸞とはひどくかけはなれている。それにしても、とにかく、河上は「真宗の教理なるものを覗いて見たこともない」のであって、親鸞にせよ伊藤個人の信仰にせよ、そうした宗教的なものは河上のうちに少しもいきづいていなかったと考えられる。家の宗旨からいえば、河上は日運宗ならば「覗いて見た」ことはあったかも知れない。のみならず、それならば「経世家風」なゆきかたにつながりがないとはいえない。いずれにしても、河上自身の思想生活には既成の宗教信仰的なものはなかったと見られる。したがって、伊藤の無我苑にひきつけられたのは、宗旨信仰のためではない。けれどもしかし、河上が無我愛に傾倒したその真摯なひたむきな態度は宗教的であったといえなくはない。彼の第二回目の無我苑訪問の日およびその翌日の九日、この前後の彼の内面生活は、彼をして「伝道事業に献身しようと思ひ定め」させたほどのものだった。事実、「爾今寝ねず休まずして働かんものと決意した」のである。そのときの心もちを彼はこう言い表わしている。「私は初めて小我の根を絶ち、廓然として大道に徹見することができたのだ。関門は開けた、もはや鍵は要らない」と。
ここで見のがしてならないことは、伊藤の確信のとおりを河上がうけついで、右のように廓然として徹見することがあったのではないことである。河上にいかにしても承服できなかったのは、伊藤の無我愛のいわば東洋的な、野放図なインド的冥想の「空」に通ずる責任なしの無我を押しつけられることであった。伊藤の無我説では、「強姦でも強盗でも、その他人間一切の行動は、一として無我愛の活動でないものはない」(『自叙伝』)のである。それでは河上にとって共感できるものではなかった。河上は決心して伊藤の無我愛から離れたのである。けれども、伊藤の無我愛のなかにあった「絶体的非利己主義」と他人のために「休まずして働こう」という河上の献身的な方向とは強固な確信となっていた。だからこそ、彼において「関門は開けた」のだった。
では、河上は伊藤の無我愛の信者であったのか、と誰でもききたいであろう。じつに信者だったのである。彼はこう告白している。
「私は絶大の尊信を以て伊藤氏に近づいた……その絶大な尊信は私のこころを極めて柔軟のものたらしめ、その結果、次ぎ次ぎに伊藤氏の説を受け入れることにより、遂に自分の考へてゐたバイブル流の無我愛に代置するに、伊藤氏の無我愛を以てし、かくて暫くの間、私は完全に同氏の信者たるに至った。」
河上は、暫くのあいだ完全に伊藤の信者だったのである。読者は私が前に引用した「これが私の人格の本質である」という結びになっている河上の述懐の文をもういちど想いおこしてもらいたい。私たちは河上が完全に信者であったのはいつからいつまでと暦の日にあててもよかろう。じつに一九〇五年の十二月四日から同じ月の八日までではあるまいか。地球回転のうえからみる日数ではまことに少い。しかし、河上の内的思想生活のうえからいうと、はかられない長さであったと、おもわれる。キルケゴールは、アブラハムが子のイサクをつれて三日半日の旅(それは神のまえにわが子をいけにえにささげる旅だった。)に出たことの宗教的体験について彼らしい文章をのこしている。三日半日は何千年の長さにも価すると、キルケゴールはいっている註(5)。私は河上の信者生活を読者に想ってもらうつもりでいっているのではなくて、彼が思想遍歴について述べている真理追求の、「飽くまで之に喰ひ下がり、合点のゆくまで掘り下げる」あの態度を想いおこしてもらいたいためである。河上にとっては時間や日の長さが問題ではなく、思想体験の深さが肝心なのだったとおもわれる。というより、河上という人はそういう人だったといったほうがよいであろう。
以上の意味において、河上には宗教的なところがあったということにできよう。このときの彼の体験の深かったことは、河上のつぎの告白が感銘深く私たちにつげている。それは彼の死の三年前のものであって、無我ということとマルクス主義の真理とをひとつに結びつけて、語っているのである。「今年六十五、人生を終らんとするに臨み、絶体的無我といふ一つの宗教的真理と、マルクス主義といふ一つの科学的真理とは、私の心の中に牢乎として抜くべからざるものとして弁証法的統一を形成しつつ、我をして無上の安心に住して瞑目するを得せしむる我が一生の所得であったと、私は確信して動かない」
しかし、それにしても河上は、けっきよく伊藤の無我愛の精神からきれいに脱却した。のみならず、「無我愛」の弊害を明言し公言した。彼は弊害の理由を三つあげている。
第一、無我愛宗は、人を善に導かないで、悪に誘う。
第二、たんに道徳的努力だけでなく一切人類の努力を無視する。
第三、かくて社会の進歩発展を無視する弊害を免れない。
河上の無我愛への傾倒のなかにすでに転換が、つまりひとつの遍歴のひと曲りがあったとせねばならない。しかし、大きい転換は、経済学という、やがて彼が日本の現実を分析する基礎となった学問へと移っていったことである。河上の生涯の行程を記すということになれば、この節で叙述すべき事件註(6)がないのではないが、河上の後年の唯物論的世界観がそこを道場として成長した彼の個人雑誌『社会問題研究』における活動を、つぎにとりあげたいとおもう。
3
河上は彼の『社会問題研究』のことを創刊号で「余の著書であり、雑誌である、否な……一種の小冊子である」といっているが、それは一九一九年(大正八年)一月にはじめられて百冊以上つづいている(私の所蔵のものでみても昭和五年二月で第百冊となっている。)第百冊の終りに、この『研究』のことを河上は「著者が今日まで歩んで来た思想上の道筋を示す」ものだといっているが、まさにその通りである。そこには『マルクス社会主義の理論的体系』の「緒言」が載っているが、それはマルクス経済学の研究のほんの手はじめにおける彼の考えの発表である。マルクスの社会主義を「科学的社会主義」と呼ぶのは当っていない、むしろマルクスの学問は「社会主義の経済学」と呼ぶのがよい、というほどの解釈が示されているくらいである。こうした出発からはじまって彼の「思想上の道筋」はぜんじ伸びてゆき、その間に「読めば読むほど底知れぬ」と彼がいった『資本論』の把握へと近づき、とうとう第百冊の頃では、すでに大学から退き、大山郁夫の新労農党から立候補するところまで、彼の社会主義思想は発展していたのである。第百冊では、「労働者農民」に向って「本誌が有益なる伴侶」となるであろうことを、宜言しているのである。彼が「私の思想および行動の変化は、かなり正確に『社会問題研究』に現われている」といったのは彼の歴史的事実の告白である。
さて、私は『社会問題研究』が彼によって企てられたことの理由を、もういちど確かめておく必要がある。何のための『研究』であったのだろう。日本の国民(その大多数は工場労働者と農民であるが)の生活の貧窮、これへの強い関心が河上のなかで生きつづけていたのだった。「今日の社会は貧乏といふ大病に冒されて居る所の、痩せ衰へたる病人の如きものである。……現に斯かる大病に罹って居る以上、兎も角其病気を治すことを第一の急務とせねばならぬ」。河上はこういって、つぎにどうすればよいかを示そうとしている。「此の病気は如何にして之を根本的に治療することを得るか。『社会問題研究』は即ち此の問題の解決に就て、余が若干の読者と継続して共同的思索に耽けらんが為め、新たに起せし所の思想的機関である」(傍点は、三枝のつけたもの)
彼の『貧乏物語』(一九一七年)は多くの読者をもったことは周知のとおりである。河上の思想の道筋を縦に貫ぬいているものは、たとえ途中無我愛への没頭はあったとしても(それすらも彼は無我でひとのために働くことを強調したのだった)、つねに「経世」ということであり、社会の人間をどうするかということであったことは、以上の叙述で明らかである。河上が伊藤の宗教的信仰に共感したときですら、それはたんなる宗教的共感では決してなかったことを、(2)のところで、私たちは、あらかじめ注意したのだった。
河上は『研究』の第一冊で「思索の必要」を説いている。この題の論文には「吾々は物を考へなければならぬ」という傍題すらついている。前にふれたように「共同的思索に耽ける」べきだということすら彼はいっている。これは注意すべきことではなかろうか。それは哲学をすすめたのではなかった。社会問題をみんなで思索しようということであった。この問題を考えない、そしてこの問題を解決し得ない国民は「滅亡する国民であらう」と、彼は確信したのである。だから、彼はこの『研究』の線に沿って成長していった。『社会問題研究』は彼のいったように、事実、日本の労働者農民たちとの「共同の思索」の機関になっていった。ほんとうにそうなってきたのは、第九十冊(一九二九年)の頃からだったろう。さてしかし、この後において、河上はもう一度大きな立場の転換を体験せねばならなかった。それは大山郁夫の新労農党に加わり、党活動までもしたのであるが、やがて翻然、大山と袂別したことである。それは言いかえるならこうである。当時河上はマルクス主義の研究とそれに応ずる実践とのなかにあった。しかし、日本のマルクス主義運動の現実註(7)の逼迫は、もはや書斎にとどまれず、街頭に出て労働者の運動と行動を共にせねばならぬところにまできていた。河上は思索したあげく、しかも反対論に抗しながら、新しくできた大山郁夫中心の労農党でも「しばし我慢すべき」ものとして、それに身を投じたのである。このとき河上の内的体験は彼の社会運動の経歴のなかで、もっとも心魂を悩ましたものであったろう。『自叙伝』は多くの頁をさいてその経緯を語っている。大山と手を握って文書活動もし遊説もした。しかし、労農党幹部の思想と行動とは、長いマルクス主義研究の結実のうえに立っている河上からいって、暫時「我慢すべき」ものですらないことが、河上の認識となってきた。その途中で彼は「困った船に乗つて来た」と思うようになり、それでもねばり強く禍いを善に転化させようとすら努力したが、彼のことばを用いれば、ついに「痺れをきらして」しまった。十月十一日(一九三〇年)の大山との最後の同席の席上で、「糞土の牆は杇るべからず註(7)」と言いすてて、労農党の人たちとまったく袂別した。
この後、河上は一時書斎の人になったが、「約一年位しかつづかず」一九三二年(昭和七年)の五月には家を出てしまった。いわゆる地下運動に入ったのである。これから彼にとってさらに苦難の日がつづいたことはいうまでもない。後でまた触れたいが、河上はつぎのようなうたをのこしている。
旅ごろも払ひもあへぬ身を起しまた新たなる旅に出で立つ (大正十二年)
さらにまた、
辿りつきふりかへりみれば山川を越えては越えて来つるものかな
といううたものこしている。彼が自分の思想的成長をふりかえってみたあとがありありと示されている。世界観においてだけでなくて、学問の世界でもそうだった。彼は「迷いぬいた」といえる。「科学の世界においても、私は迷ふ時には徹底的に迷ひ抜いた。譬へて言へば、道が左右に岐れてゐる場合は、右の方が確からしく思へば、先づ右の道に進んでみる。そして一旦その道へ足を踏み入れたなら、途中どんな噂を聞かうが、どんな故障にぶつからうが、私は私流に、いくら時間が掛っても可いから、歩一歩踏み締めながら、わきめ傍目をしないで其の道を先きへ進んでゆく。さうしてゐるうちに、これは到底渡れる見込のないといふ絶壁にぶつかったら、その時初めて、断乎としてその道を見棄てた」
私たちはここに河上の性格をみることができるが、私たちの問題―――彼のうちに唯物論思想はどのようにして結実したかという問題―――は、河上の以上のようなきびしい試練を知っておかないでは、解けないのではないか、ということが切実に考えられる。
註(1)「萩の松蔭神社は、山口から手頃の遠足距離にあった。私は何回かそこへ出掛け、松蔭先生の筆蹟の石刷を何枚も買つて来て、それをデカデカと寄宿の勉強室の四壁に貼りつけてゐた。私は少からざる感化を松蔭先生から得た。東京に遊学するやうになってからも、先生の祭日には何回か世田ヶ谷の神社に詣でた」
(2) 『自叙伝』一の四九―五〇頁参照。
(3) 『自叙伝』の五に収録。
(4) 『河上肇』奈良本辰也編『日本の思想家』三五九頁。
(5) 『キルケゴール全集』(独逸語訳)第一巻所収の„Furcht und Zittern“ 。
(6) 明治四十年『日本経済新誌』を創刊したこと、京大講師、やがて助教授に就任したこと、ヨーロッパに留学したこと、帰朝して教授となったこと、『貧乏物語』を公刊したこと、経済学講義にはまだ「マルクス経済学の影響は絶対になかった」ことなど。
(7) いわゆる三・一五、四・一六の徹底的検挙のため、日本のマルクス主義のプロレタリア解放運動の現実的力が弱まったことが、まずあげられねばならない。
(8) 『論語』のことば。
二 唯物史観の把握
河上肇の唯物論思想は、どういう角度からみてゆくべきであろうか。
彼はかつて一度も、唯物論だけをとり出してこれを研究の対象としたことはなかったと考えられる。彼は哲学的関心のうえから唯物論にのぞんだのでないことはもちろん、中江兆民のように自分の世界観をそこに求めざるを得ぬために唯物論に向ってすすんだのでもなかった。唯物論とは人間が人間の本質から何ものかに対して強く抵抗するその思想的表現である、と私はおもうのであるが、河上の場合は兆民のそれとちがって、抵抗の対象はきわめて判然と現実的につかめていた。したがって河上の場合では、唯物論は哲学の問題として彼に対して擡頭してきたのではなかった。その点むしろ兆民よりも秋水のほうが河上に近かったといえよう。私は山片幡桃の無神論が何への抵抗として生れたのであるかまだ十分にはつかんでいないが、河上の唯物論思想はむしろ「橋下に雨宿りし、此彼の裏屋庇の下に借屋してゐる人たち」のいる不自然な世の中を憤って「自然真営道」の思想をうちたて、徹底した無神論(その限りでの唯物論思想)を明らかにした安藤昌益に近いというべきではなかろうか。
さて、河上はいつ頃から唯物論の立場にたつようになったのであるか。彼はこういうことを言っている。「二十台の若い頃、極端な唯心主義者として其の文筆活動を始めた私が、五十過ぎてからやつと徹底的な唯物論者となり得るまで、実に一生涯をかけて漸く完成しえた私の思想的転回の跡……」。五十過ぎてからやっと、とあるが、それは一九二四年(大正十三年)の頃をさすのである。その頃は彼の思想的発展のとくべつな一段階であった。とにかく彼は、徹底的な唯物論者となったことをここにいっているのである。大正十三年の一段階のことは、『自叙伝』のなかにいくたびか出てくる註(1)。彼が「新たなる旅の門出」と呼ぶ年は大正十三年である。その頃のことをまたつぎのようにも追憶している。「私がやっとマルクス主義の哲学的基礎を理解しえて、唯心論から出発した私が完全に唯物論に辿り着いた頃は、恰も私の大学に於ける経済原論の講義が徹頭徹尾『資本論』の解説そのものになり了り、ブルジョア経済学から出発した私が完全にマルクス主義経済学に転化し了へた時である。」以上のように彼は唯物論の立場になりきった頃を明示しているのである。唯物論へと近づきはじめたのは、一でみてきたように、マルクス主義経済学へ入った頃でなくてはならぬ。なぜなら、彼が経済学へ入ったのは彼の経世家的こころざしからであるし、マルクス主義経済学へ入ったのは、彼こころざしをいっそう深化し、現実化したからである。そして、彼の唯物論への関心はこの線をはなれては意義をなさなかったからである。
そこで、彼が「完全に唯物論に辿り着いた」のは、彼のほんらいの志向の現実化の重要な現われであって、それからはなれた人生観的要求からでなかったことは、唯物論思想獲得のための試練の過程が明瞭に物語っている。河上は大正十二年に『資本主義経済学の史的発展』という労作を発表した。これに対してひとつの批判論文があらわれた。櫛田民蔵の『社会主義は闇に面するか光に面するか』という長論文である。河上はこれについては後に「確かに急所を突かれてゐる」といったくらいで、これが動機となって「是が非でもマルクス主義の真髄を把握してやらう」と決意した。この決意は彼にとってマルクス主義の真の理解に到達するに至った「基本の動力」であった。真理を求めることにおいて謙虚で執心強かった河上は、そのころ櫛田におくった手紙のなかで「奮発して、カラをフミ破りたいと思つて居ります」と書いたそうである。いま私は櫛田の批判や河上の応答やの文献をそろえて、問題を審かにすることができないが、河上の唯物論把握にとっての大きな試練であったろう。「新なる旅に立つ」意気はなおつづいた。ここにもう一つ、それはすでに大正十三年をすぎて十四年のことであるが、河上はここでまた彼に対する批判、というより一つの非難に接した。それは福本和夫が公けにした「河上肇を論難する一文」というのであった。なおこの他にも河上論難の文を福本はかいた。福本に対しては河上は承服できぬものを多くもったらしい。福本にこたえた河上の反対論文のなかの要点とおもわれるものはこうである。福本の論文はやや唯物論思想の中の哲学的論議にかなり深く入ってふれていたらしい註(2)。福本は彼の『社会の構成並びに変革の過程』のなかで認識の主体と客体の統一について論じた。河上はその論の内容に鋭く反対し攻撃した。唯物論においては主体と客体との対立の問題はもっとも重要なものの一つである。それを福本はこの主体・客体の統一のことを無産者階級につけて論じたのだった。「無産階級は、認識の主体たると同時に客体たり得べく、また、たらずにはゐられない。かの観念的弁証法論者ヘーゲルによつて企てられたる主客統一(思考と存在、理論と実行との統一)の試みは、この階級の出現によつて、始めて完成せられ実現せられ得ることとなつてきた。」これに対する河上の主張は「無産階級」の出現というまことに現実的な最重大な問題をとりあつかう場合、どうして主客統一といったような問題がもち出されなくてはならぬか、もとより、唯物弁証法にとって主体・客体の対立と統一の問題は大切だが、それならばそれで無産階級の解放運動の主要理論につけて、そこから離れないで対立と統一の弁証法論理がくりひろげられるべきだ。河上は福本の論議の抽象性を突いたのである。「主体と客体との統一といふことが、禅の公案の如くまた謎の如く打ち出される」ことを否定し、批判したのであった。河上も指摘したことがあるが、当時はまだ日本のマルクス主義の唯物論思想の理解の水準が低かったから、抽象的理論の論議のみが多かったでもあろう。しかし、河上は福本の功罪はもちろん十分認めていたことはたしかである。それにしても、河上は福本の理論の立場は唯物論でないことを強く指摘したことになっている。福本は、無産階級はそれ自身を認識すれば、それは同時に全社会の客観的認識になり得る、だから、無産階級は認識の主体なると同時に客体たり得る、主・客の統一はへーゲルでは実現できないが、無産階級はそれをなしとげうる、これがじつに社会の構成が、ならびに変革の過程が、唯物弁証法的に考察されるようになった根拠であると論をたてる、しかし、それでは唯物論ぬきだ、唯物論とは精神に対して自然(物質)を本源的なものとみるものである、福本の理論のどこにもこうした唯物論は見出されない、福本の説は唯物論をまったく欠いている。以上が河上の論旨である。
河上が大正十三年よりいぜん、大正九年の頃に「精神」と「肉体」という唯物論(いかなる唯物論ににおいてにせよ)にとって、もっとも重要な問題を思索したことを、私はここにはさんでおきたいと思う。それは、グンテルの著作註(3)にもとづくものだが、河上が『因果律と精神生活註(4)』(傍題「唯物史観に関する一考察」)として公けにしたものである。これは河上が精神と肉体の関けいについて十分思索する機会をもったであろう労作の一つである。唯物論にとって、自然法則のもとに置かれ得る因果律と、必ずしもそのもとに置かれない人間の精神生活とは、どういう関係にあるであろうか。グンテル註(3)を読みつつ、訳しつつ、そして公けにして読者を啓蒙しつつ、河上が自然のなかの因果律と人間のなかの精神生活の関けいを思索したものだとうけとって、それをつぎに記してみる。
普通の考えでは肉体の属性と精神的属性とは、天と地とのように区別される。史的唯物論はこのような形而上学的な区別をやらない。これまでの唯心論的哲学では人間の生活の過程のなかで精神的方面ばかりを説明している。これに反し独断論的唯物論納得のいかないものを感ずる』(エンゲルス)のである。マルクスはそうしたとき人間の労働に眼をつけて、こう考えた。『人間は自然界の材料に対し彼自身がひとつの自然力として』すなわちその労働において『働きかける』ものだ。これはとりもなおさず人間が『自然力をば彼自身の生活に役立つ形において占領し活用するために』やっている『人間と自然との間における一つの過程』である。だから、『人間が彼と自然との同化をば、人間自身の行動によって媒介し・規定し・制約しているところのひとつの過程』である。だから少しも機械的ではないのである。テレオロギー目的観は躊躇なく認められている。マルクスによると、テレオロギーと因果律との連絡は、形而上学的唯物論のようにまったく機械的なものと見ることは一切ないのである。だからこそマルクスが『人間は境遇および教育の産物であり、したがって異った人間は異った境遇および教育の産物であるとする唯物観は、境遇がまた人間によって変化されるものであり、かつ教育者自身が教育されなければならぬということを忘れている』といったことに深い意義があるのである。」私たちはわかりやすくするために例をとろう。ここにこま独楽が廻っている、摩擦と空気の抵抗でその力がなくなるまでは廻りつづける。しかし、むちひも鞭紐か何かで同じ方向をつづけるように新たな刺戟を加えると、すると運動の力は増し、運動の種類は複雑になり、独楽の運動は前の運動と後の刺戟との複産物になるだろう。機械の世界でもこれだけのことはまちがいなく行われている。私たちはこんどは別の例をひとつ考えよう。ここに雑草を食物とする群の四足獣がいて、谷間にやってきたとしよう。そこは四方が塞がっていて、出口を見出すことは容易でないが、幸いなことに中央は凹地になっていて、そこには彼の食物が十分にはえていた。ところが或る日、洪水がおこってその凹地を石や礫でうめてしまった。動物たちは食物を失った。もちろん、飢えが彼らを食物を求めるように動かした。ある動物は険しい崖へのぼりかけて落ちて、またあるものは飢えと疲労のために死んだ。しかし、多くのものは岩の間にのこっている草を丹念にさがし、噛みとって生きていた。ところが、特別に力があって強いものらは、食物を求めてこの谷間のどこからか出ようとしはじめた。彼らはとうとう谷間からの出口をみつけた。そして谷間でよりも、もっといい牧草地をそこでみつけた。彼らは喜ばしそうだった。食物のあった場所が洪水のため荒れたというのは、外界におこった機械的動因のためである。それは飢餓の原因だった。しかし、飢餓そのものが食物をもたらすことにはならない。飢餓という事件は食物を求めようとする欲求を起させた(欲求といわず傾向といってもよい―三枝)。そのためまた彼らの手足をうごかせた。そうすると、因果の連鎖は動物の頭脳のうちに這入り込むのであって、因果の連鎖は動物の外のところで止まっているはずのものではない。考慮するとか意欲するとかは、そうした連鎖の関節としてあらわれるのでなくてはならない。私たちはこのところに、二様の刺戟と変化とを認めねばならぬ。洪水が食物をなくし、動物に飢えを感じさせ、新たな食物を求めさせるに至ったところをみると、その最後の動因は機械的なものである。しかし、動物たちがいぜんよりも急はんを攀じ上ることが巧みになったことは、最初の動因の方向のうちに含まれてはいない。また食物を求めようとする意識的な意図の必然の結果でもない。それにもかかわらず、彼らが攀じ上るのに巧みになったことや、彼らの感覚や方向づけやが鋭くなっていったことは、彼らが新しい食料のあるところへ向ってじっさいに求めて進んだそうしたことをすることを積みかさねたその結果より外の何ものでもない。こうなれば、私たちはつぎのような認識に到達するほかはない。即ち、彼らがじっさいにした行動から、因果論的には必然的な、しかも目的論的には意図のうちにはない副産物的な結果(teleologisch unabsichitigte Nebenwirkungen)が生じるということ。史的唯物論の唯物論はこうしたものではなかろうか。
河上がグンテルにもとづいて「唯物史観に関する一考察」をかいたその内容を、私たちは以上のようによんでみることができる註(6)。
ルードヴィヒ・ノワレは、彼の著作『道具と人類の発展史に対するその意義』のなかで、人間の意志や知性の生じてくる過程を、人間の道具使用という行動に着目して、詳細に叙述した註(7)。私は唯物史観の唯物論の理解のためには、グンテルやノワレのように、私たちの知性と意志が、神授でないこと、機械的動きといってもよいような動物的行動のなかに優に(科学的に)ひき出せるものであることを、認識すべきではなかろうか。それはさて措いて、河上が大正十三年いぜんに早く、このような唯物論にとって必要な素地的認識の獲得に努力していたことを、私たちは注意したいとおもう。
さてしかし、唯物史観の研究およびその把握にとっては、ここに大切な問題があることが、見落されない。それは前に少しばかり触れたのではあるが、哲学的唯物論をどのように評価するかという問題である。このことを河上はすでに大正八年にとりあげているのである。それは『断片註(8)』と題する論文においてである。この論文は当時の評論家中沢臨川がある程度の哲学的唯物論でもってマルクスの唯物史観を否定しようとしたことを機会として、河上のかいたものである。河上はそのまえ堺利彦の訳したゴルテルの『唯物史観解説』(この書は公刊まもなく発売禁止となった)のなかのつぎの文章に注目した。「エンゲルスとマルクスが建設した唯物史観の外に、哲学的唯物論というものがある。この唯物論は唯物史観の様に、精神がいかにして社会状態により、生産方法により、機械により、労働によって、一定の軌道をとって進むに至るかという問題を論ずるのでなく、肉体と精神、物質と心霊、神と世界等の事を論ずるのである。」もうすでに早くから、哲学の研究の必要を念頭にもっていた河上が、この問題を見すごすはずはない。『断片』のなかのそれに関する彼の叙述は長くはないが、貴重な問いを投げ出している。すなわち河上のように、裸かにされた唯物論の研究にうきみをやつすことを肯んじない人だったら、当然に疑問になるもので、哲学的な(そしてそれが、すぐれていればなおのこと)唯物論の研究をどういうように評価すべきかという問いなのである。つぎに河上のその問いの要点をあげてみよう。
「マルクス自身は、歴史の観察に於て唯物論を採りしと同時に、哲学上に於ても一個の唯物論者であつた。―――それは偶然にとも言へようし、或は又、哲学上の唯物論者なりし故に、歴史上の唯物論に想ひ到つたとも言へよう。其点に就ては、私は今、之を詮議する能力を有たぬ。―――而して今日に於ても、唯物史観を採るものは、動もすれば哲学的唯物論を奉ずる傾向がある。」
河上はこのように重要な問いを提出しておいて、これに対して全幅の答えにはなっていないが、とにかく彼が「ひそかに信ずる」ところをひれきしている。
「ゴルテル自身も、唯物史観と哲学的唯物論との間には『大いなる差異』があり、『社会主義の理を研究し或は学習せんとする者は、必ず明瞭に此の区別を知らねばならぬ』と言つて居る位である。而して吾々は此二者を混同せざることに依つて唯物史観に対する世人の毛嫌の大半は自ら之を消滅せしめ得る、と私は竊に信じて居る。」
河上はこれでもって一応の解決をつけているのである。しかし、彼の問いのうちにもう一つ大切な問題がのこっている。「今之を詮議する能力を有たぬ」といっていることである。マルクスは二十歳あまりで『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の違い』という論文をかいている。彼は若いとき河上のいわゆる哲学的唯物論の研究に没頭すらしたのである。マルクスのこの論文は学位論文だったのである。マルクスはたしかに「哲学上においても一個の唯物論者」であった。マルクスのみでなく、当時のへーゲル左派に属する人たちで後に哲学から脱し、現実の問題を論議し、社会運動のなかに入った人たちも、哲学的唯物論のなかにいた人は珍しくない。それどころか、へーゲルからフォイエルバッハ、マルクスに至るころでは、ハイネの言い方ではないが、ドイツという国は哲学でいっぱいだったのである。それはドイツ国民に禍いをもたらした点もあるが、ドイツ国民のなかから、人類が産業革命いごに当面せねばならぬ重大な問題を解くいくたのすぐれた理論・実践家を生み出したのでもある。マルクスが哲学上の唯物論者であったことは、たしかにあれほどの史的唯物論の業績をつくりあげるにどんなにか役立ったことであろう。
要点は、マルクスが哲学にわく溺せず、唯物論を人間社会のうちにたずねたこと、もっとはっきりいえば、唯物論をプロレタリア解放の歴史的必然性のなかにつかんだことである。河上は「詮議する能力を有たぬ」といいつつ、じつは、正しい解答をも提出していたのではなかったろうか。
もういちど強調してよいのは、河上の唯物論思想は、独立に抽象的に研究されてできたのではなくて、彼のマルクス主義の為の戦いの実践のなかで成長したことである。その点で、彼の『社会問題研究』(第七十六冊)に出ている「和辻哲郎氏の寄書ならびにこれに対する私の所感」と「社会的意識形態と俗流経済学の本質とにつき三枝博音氏に答ふ」(第八十九冊)とは、ここにその実例としてあげられよう。前者は当時京都大学教授だった和辻が公表した『学生検挙事件所感』なる文のなかに、「社会主義者のうちにはロシアの暴動学の本を読んで東京で暴動を起す場合の戦略を研究してゐるものがある」ということが述べられていたことに発端があった。ロシアの「暴動学」がレーニンおよびその他のマルクス主義者たちの唯物史観の学問をさすのであれば―――それしかないであろうが―――河上が黙視するはずはなかった。河上は『研究』の第七十五冊で『学生検挙事件について(和辻哲郎氏に寄す)』をかいた。前記の論文は、これに答えた和辻の寄書に対する反駁である。和辻は、唯物弁証法の基本問題に触れ、物質とイデー(Idee)との関けいをとりあげている。やや純然たる哲学論になっているので、河上はこれに対するかぎりでは十分に答えているとはいえない。つぎに、後者すなわち三枝に答えた論文であるが、三枝はマルクス主義の諸論文にあらわれる「形態」なる概念の重要さに注目し、いわゆる唯物史観の公式のなかに出てくる「意識諸形態」に関する河上の理解の「不足」及びその他の諸問題について河上に質疑した。問題設定がやや細かであった。河上の右の「答ふ」という論文が『研究』にのったのは、昭和四年のはじめであるが、労農党の結成、河上のこれへの参加という時期であり、雑誌『研究』はその形体が「変革」されんとしていたときであった。同冊のなかには『嵐の中に立ちて』という短い論文がのっているくらいである。私(三枝)の質疑論文は河上にとっては厄介なものだろう。それでも河上は二四頁にわたって答えた。このとき私は唯物史観の解釈上大切なものについての認識を少しでもすすめ得たと確信した。以上のことは、すでに昭和四年である。河上はさきに一で述べたごとく、「嵐の中」をすすんでいた。三年後には「正式に」日本共産党に入党したのであった。
註(1) 『自叙伝』一の一三一・一五四、一五九、一六八、一九〇頁その他。
(2) 『福本和夫氏の「唯物弁証法」―――唯物論を欠ける「唯物弁証法」―――』、『唯物史観と経済理論との混同―――その著しき例としての福本和夫氏』、以上『社会問題研究』第八十、八十一冊参照。
(3) Gunter ; Die Materialistische Geschicitsauffassung und der praktische Idealismus, (Die Neue Zeit,1898, XVII)
(4) 『社会問題研究』第十五冊。
(5) グンテルは「社会主義者中の哲学者として敵からも味方からも認められている人」だというブータンの評を、河上ははしがきにかいている。
(6) 『社会問題研究』第十五冊一九―二五頁参照。
(7) 三枝博音訳『道具と人類の発展』(岩波文庫)参照。
(8)『社会問題研究』第八冊
三 河上の人生観
河上の後半生の活動は、マルクス主義の唯物論のうえにたってできたものであることは、(二)でもってほぼみてきた通りである。さてしかし、(一)および(二)で見てきた限りの河上では、まだ河上のぜんたいということにならない。もちろん私は(一)と(二)のところで、唯物論者へと成長していった彼を描いているうちに、マルクス主義唯物論を機械的にうけとっている人だったらやや異様に感ずるかも知れぬようなある要素が彼のなかにあるのを、のぞいてみたのではあった。しかし、晩年の河上の生活を、彼の晩年の著書と自叙伝によって観察してみると、もう一度あらためて彼の世界観もしくは人生観をたしかめてみなくてはならなくなるのである。私はこの(三)の見出しを「河上の人生観」としたが、「世界観」とするよりも、このほうがふさわしいということを、それは読者にきっとわかってもらえるのではないかと考えるのである。
河上が大正と昭和において、つねに時代の先頭を歩んだということは、何ぴとも否定しないであろう。勇敢に前方をすすんだ彼を自分の先行者としてその姿をみつめていた人は少なくなかった。そうした人たちのうちには、かなり的確に河上像をつかんでいた人が何人もいたろう。そのなかのある人は、その河上像を文にして公けにした。その人の名は赤城和彦といった。彼自身のいうところによると、彼は、「〔河上〕博士の青年時代から入獄までのあらゆる著述を古本屋から漁り出してひと通り通読し、断簡零墨といへども見つけて読んだ。」私は彼の書いた河上像のほんの一部をつぎにあげてみたいとおもう。
「博士が筆にしたものは、その信念を真正直に表現したものであり、全人格的に虚偽を書いてゐないと云ふことを、痛感してゐるのである。……従つて上述の如き博士の日本主義、国家主義、愛国主義と、その経世家的風格と実践的態度とは、決して付焼刃的なものでなく、博士の骨髄にまで滲透せるものであり、それが科学的教養と時代の推移によつて異れる表現を採つて現はれたと言つてよいのではあるまいか。」
このような河上観がほんとうに的を射ているかどうか、それをすぐ判定するのは早い。ところで河上は晩年になってであるが、この河上観を心から認めている、とおもえる。河上は赤城評について、こう述べている。
「『どこかしら国家主義的な香気が感ぜられ、同時に経世家らしい、実践家らしい風格が偲ばれる註』ことを以て、私の『胸の真底に浸み込んでゐる特質』と看倣されてゐる点は、実際よく見て貰ってゐると思つて、当人の私が竊に感謝するところである。私は殆どその一生を書斎裡で暮したといふ点では、洵に書斎人であるに相違ないのだが、しかし、その本質は飽くまで街頭人であり、実践家であり、従つて書斎裡における学問も終始実践的な性質を失はなかったものと信じてゐる。」
河上は赤城の批評を感謝して認めているが、ほんとうにあの評のことばをぜんぷく的に承認しているのかどうか、私には多少疑問がないではない。それにしても、ここにひとつの河上像はとにかくできているのである。こうしてみると、私たちには兆民と秋水の人物像とかなりにまで相交錯してくる河上像が浮かんでくるのである。
やや仔細にみると、兆民および秋水の人物像と相通じてくるのは、文学的生活がこの人たちの内生活のなかに案外に深いことであって、兆民および秋水の人物像から河上がはなれていることのひとつは、河上が(ある意味で)やや宗教的であることである。
河上には、兆民や秋水におけるような禅リテラチュアからくるものはほとんどないかにとれる。仏教からくる彼のなかの宗教的なものは、あるとしても、つぎの彼のことばにみえている程度ではあるまいか。
「京都帝国大学に在職して盛んにマルクス主義を宣伝してゐた最中でも、疲れて来ると私は時折この黒谷の本堂に来て、暫く黙坐してゐたものだ。……殆ど人の出入のない広い堂内に、年中木魚の音のみが鳴り響いてゐる静かさは、今も以前と変りはない。古代印度人の冥想から生れた思惟の産物が、支那の燦然たる文化を透過して、我国に伝はって来たといふ、二千年に近い悠遠な歴史が醸し出す、幽邃極まりなき斯かる特殊の雰囲気は、仏教の伽藍をほかにしては、到底味ふことの出来ぬものであるが、考へて見ると、かうした微妙の味を覚えたのは、遠く私の幼年時代にさかのぼる。」
仏教からくるものは気分的なものであったとしておこう。しかし晩年彼の内生活の中にあったものは、そのようなものではない。それは『獄中贅語』に出ているのであるが、彼は宗教的真理なるものについて語っている。もちろん彼はそれを科学的真理と混同しはしない。科学的真理は意識の外にあるものの知識であるのに対し、宗教的真理は「意識そのものに関する知識」、「意識の自己意識」であるというように考えている。河上はそこでは「生命の根元を自愛する」というように言い表わしている。そうした宗教的真理を「悟る」ことは、「人生の真意義を悟る」ことにほかならぬ、というように彼は思索している。こうした面の河上については、前掲の『河上肇』の筆者は、「それはおそらく『老齢』と獄中生活という環境のもとで明確な形をとって表われたものであろう」といっているが、そう見ることが当っていよう。このような彼の思索と体験は、兆民および秋水のなかに(ややこれに近いものがないとは断言できないが)、私たちが追っかけて思ってみることはできない。もちろん、いま私がここでとりあげている問題は、これまでのどの国の唯物論者たちにおいても重要な体験として出てきているものであって(たとえばフランス一八世紀のディドロのごときもっともいい実例である)、わずかな紙数でもって取り扱えないことはいうまでもない。けれども、河上が「意識の自己意識」について語ったような、いわば宗教的な思索と、彼の唯物論の体験と思索とを、自分で対決させ、ぎりぎりのところで彼の人生観を思想的に表白しておいてくれたら、と残念におもわれる。もっともしかし、河上は自分の体験上のことを比較的くわしく記述しておいてくれた人でもあるのだが。昭和十二年の六月十五日に、彼は「出獄の手記」なる一連のことばを公けにしたことがある。それはつきの文章である。
「私は今回の出獄を機会に、これでマルクス学者としての私の生涯を閉ぢる。この一文は即ちその挽歌であり墓碑銘である。
私はこれまで一個の学究として、三十年攻学の結果やうやくにしてかち得た自分の学問的信念に殉ぜんがため、分不相応な事業に向つて聊か努力を続けて来た。しかし微力の私は、暮年すでに迫れる今日、もはやこれ以上荊棘を歩むに耐へ得ない。私はもうこれで一学究としての義務を終へたものと諦め、今後はすつかり隠居してしまって、極く少数の旧友や近親と往来しながら、刑余老残のこの痩躯をただ自然の衰へに任す外なからうと思ふ。すでに闘争場裡を退去した一個の老廃兵たる今の私は、ただどうかして人類の進歩の邪魔にならぬやう、社会のどこかの片隅で、極く静かに呼吸をしてゐたいと希ふばかりである」
さて、マルクス学者としての生涯を閉じたからといって、彼が唯物論者であることがなくなったわけではあるまい。マルクス主義の実践家としての活動はこれでしまいというくらいの意味であろう。河上が、どういう唯物論者であるかを見ようとする私たちは、むしろこれ以後をも考慮に入れていなくてはならない。「老残のこの痩躯をただ自然の衰へに任かす外なからう」といい、またそれにつづく文章をよんでいると、私たちはそこにマテリアリスト河上を感じることができる。
そこで、私たちは彼の「挽歌」をきいたあとの河上の文学生活を問題にし、そこに私たちはマテリアリスト河上を見たいと思うのであるが、その企てはここでは余裕がなくて、とうてい実現できない。今はただその片鱗にふれるだけにして、くわしいことは別の機会にゆずりたい。
河上は、戦争のなかば、昭和十八年の十一月の中旬のころに、陸放翁の詩のかなりながい評釈をかきおえた。いうまでもなく陸放翁(陸游)は中国の南宋の詩人だが、河上は放翁についていくつかの鑑賞や評論をかいた。十一月中旬にかきおえたというのは、『六十歳前後(六十四歳より七十歳に達するまで)の放翁』という一八〇枚もある原稿のことである。ここに放翁の年齢があがっているが、それがちょうど河上の当時の年齢にあたるのである。右の原稿のなかで、河上は放翁のなかに自分を見出しているといえるであろう。河上は、この詩人の『劔門道中微雨に遇ふ』という題の詩によせて、感懐の限りなきものを表白している。その詩は「衣上の征塵酒痕に離る、遠遊処として魂を消さざるは無し。此の身合に是れ詩人なるべきや未や、細雨驢に騎りて劔門に入る」というのであるが、河上は放翁の詩情を汲んでつきのようにかいている。
「恐らく彼〔放翁〕の傑作の一つだらうが、ここで彼が『此の身まさ合に是れ詩人なるべきやいな未や』との疑問の言葉を発してゐるについては、人によつてそれぞれの解釈があるやうである。私の蔵本には、旧蔵者が、『的是大詩人、故作疑問、何之等風格』と書き入れてゐるが、こんな見方をするのはどうであらうか。私の味ふところでは、細雨の中を驢に騎つて、かねてからあこがれてゐた、かの有名な劔門に通りかかつて来ると、余りにも詩情滾々として湧いて已まざるものあるがため、自分は果して特別の詩人なのであらうか、かくまで尽きざる感興を誰もがここまで来て感じたものであらうか、その疑ひを発したので、一句の中に、当時作者の詩的昂奮が最高調に達したことが看取され、その感激は波を打つて脈動してをり、その音が耳に感じられるのである」
「自分は果して特別の詩人なのであらうか」はまた河上自身に向っていわれる問いであることもちろんだが、それを河上一個のこととしないで、ひろく唯物論者の自問自答へとうつしてみて考えてよかろう。人間としての唯物論者が自分に向って《自分だけがとくべつに詩人であるわけではあるまい。人間はみなそういうものではあるまいか?》ときいてみる問いだとして、私たちは理解してみることができるであろう。そこで、ふたたび河上一個にもどっていうなら、河上は戦場にも出た放翁のように自分も実践のなかで戦ってきたが、私のなかにもこのような文学生活があってもあたりまえであり、どうしようもない人生のなかでの私の感動なのだ、といっているのであるとしてよかろう。そこで私は、この河上評伝のさいごに、あの兆民や秋水の(生涯の終りに近づけば近づくほど濃かったとおもえる)内生活としての彼らの文学生活を想いおこすのである。明治の偏狭な日本主義者たち、国家主義者たち、常識いっぺんの人たちが、「牛飲馬食」の徒、「守銭奴」だと罵ったその当の唯物論者たちが、かえって内生活の深さとそれの正直真実な表現とを体験していたことを、私たちは想ってみたい。
註 この『 』内のことばは赤城の文章のどこかにあったのであるか、それとも要旨をつまんで河上がいったのか、私は『自叙伝』によって引いているので、はっきりわからない。

