人生は台詞、全てこの世は舞台(006)

◎ ハロルド・ピンター「温室」(喜志哲雄訳)


 戦後すぐには、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を嚆矢として、「不条理演劇」が流行った。今から考えると、その定義は、そんなに簡単ではない。私見だが、主に三つの方向に分化していったように思われる。一つは、本家ベケットのように、自己の「不条理性」を表したもの、二つは、イオネスコに代表される、この世界そのものが「不条理」だと強調するもの、三つ目は、ともに「不条理」な自己と世界の関わりをひっくるめて描くものと仮に分類しておく。そして、最後のものは、その傾向として、「政治」的になりやすい。ハロルド・ピンターの初期作品であるが、「温室」もその一つで、後に彼はそのテーマを深化させてゆく。
 収容と病院を兼ねた施設と言えば、全体主義的な抑圧体制の格好の舞台である。どこか、チェーホフの「六号室」を彷彿させる雰囲気である。それどころか「温室」(The Hothouse)というタイトルは、反語的に響き、かえって不気味に聞こえる。また、(もと)トップの主人公の姓が「ルート」が、 Root(根)なら、余計に状況的である。

   

しかし、私は時々思うんだ、もっとてきぱき改革をやってもよかったんじやないかと。ものごとってのは変るもんだ、つまるところ。変るに決ってるってこと、変ればそれでいいというんじやないが、変るに決ってるんだ。

   短い間。

それにしても、時々思うんだ、もう少し改革をやっててもよかったんじやないかーー時間があったら。何でもかでも変えるとか根本的に変えるとかというんじゃない。それは必要ない。しかし、たとえばこの番号制だ。連中を名前で呼んだ方がずっと簡単じやないか。そうすれば、混乱が生じることもない。つまるところ、連中は犯罪者ではない。ただ助けを必要とする人間であるというだけだ、そこで私達はその助けを、ああしてみたりこうしてみたり、精一杯智恵を働かせて、精一杯頭を使って、何とか与えようとする、連中が信頼の念を恢復するように、そう、自己に対する信頼の念、他者に対する信頼の念、それから……世間に対する信頼の念を。いいかね。つまるところ、連中は一人残らず本省のお墨つきを貰ってやって来たんだ。どこにでもいる馬の……その……:ああ……骨じゃない。

   彼は言葉を切って考えこむ。

時々思うんだ、連中は面白くないんじゃないかな……少しばかり……年中、番号で呼ばれるのは。ここへ来て二、三年たっと、忘れてしまうやつも出て来る人じやないか、父親がつけてくれた名前を。それとも、母親か。

   

この施設の目的の一つは、一人残らず連中に自信をつけさせるところにある、そう、その自信がつけば、いつの日か、「私の名はガビンズ」と、たとえばそう言えるようになるわけだ。簡単には行かない、簡単には行かないよ、それは、しかし、いつもいつも五二四四号と呼ばれてたんじや、一層むずかしくなる、そうだろう?私たちは連中の名前を忘れ、連中は自分たちの名前を忘れる。時々思うんだがね、これが正しいやり方なんだろうか。(彼は机に向って坐る)

 ト書きに(間)と間を指定するのも、実に効果的に思える。
 こうした心底を持ち、意図的にか、偶然にか、トップを任されたルートは、収容者の謎の死や女性をめぐる妊娠事件や、自らの女性への思いなど、様々な「事件」に直面し、最後は、収容者もろとも「粛清」される。その最後のメリークリスマスの「温和」な所内放送は、なぜか空虚に、またアイロニカルな響きを感じるのは、私だけだろうか?

人生は台詞、全てこの世は舞台(005)

◎ イプセン 原千代海訳「ヘッダ・ガーブレル」

 劇作家だった宮本研氏(1926-1988)は、概ね次のようなことを言っている。
「芝居の幕は、いわば舞台装置(主に室内)の「第四の幕」である。特にイプセン以降の近代リアリズム演劇において成立した。いわば、「のぞき見」できる芸術である、そこには、おのずから前提ができあがる。観客は、のぞき見していることがばれないように、客席を暗くして、俳優ものぞき見られないが如く、独白など観客との接点を断つ。こうした約束事が近代劇にはあるのだ。」
 この芝居も、定石とおりに、書き割り内部の長い描写から始まる。
 ヒロインのヘッダ・ガーブレルは、一言で言えば、実に嫌な女性である。ヘッダとその夫と、その学問上および大学の地位を巡ってのライバル、かってはヘッダとまんざらでもなかった男性の三人を巡って劇は展開してゆく。ライバルが泥酔のあげく、夫を凌ぐほどの著書の原稿を紛失してしまう。その原稿を手に入れたヘッダは、ライバルの想い人への嫉妬からか、暖炉で原稿を償却してしまう。失意のあまり、ライバルは自殺してしまうが、使った拳銃は、ヘッダの所有物だった。それを知悉する判事は、ヘッダに脅迫まがいに言い寄ってゆく。万事休すのヘッダが取った行動は?
 先に「嫌な女性」と記したが、尊敬する父親も含めて、夫、そのライバル、判事など、世間の男性の俗物性の「生贄」とされたのだろう。
 チェーホフの「かもめ」のテーマとも重なるような気がふとした。
 セリフの引用は、第三幕の最後、ヘッダが、原稿を焼くシーン。

ヘッダ  あっ、ちょっと、形見の品を持っていっていただかなくちゃ!

ヘッダは書き物机へ行き、引き出しを開けて,ビストルのケ—スを取り出す。それから、このうちの一丁を手に、レェ—ヴボルクのほうへ戻ってくる。

レェ—ヴボルク  (ヘッダを見て)それは!そいつを持っていけ、っていうんですか?
ヘッダ  (ゆっくりうなずいて)覚えていらっしゃるでしょう? 一度はあなたを狙ったことがあるのよ。
レェ—ヴボルク あのとき、いっそ、やってくれたらよかったんだ。
ヘッダ  はい !今度は、自分て使うのね。
レェーヴボルク (胸のポケットにビストルを突っ込み)ありがとう!
ヘッダ 立派によ、エイレルト・レェ—ヴ・ボルク! 約束してちょうだい!
レェーヴボルク じゃ、さようなら、ヘッダ・ガ—ブレル。

工イレルト、ホールのドアから去る。
ヘッダはし,はらくの間、ドアのところで耳をすます。それから、書き物机のほうへ行き、原稿の包みを取り出す。包みの中をちょっとのぞき、はみ出している紙片を二、三引き出して、それに見入る。それから、包みを全部かかえ、ストーブのそばの肱掛け椅子に行き、腰をおろす。しばらくして、スト—ブのロを開け、包みを開く。

ヘッダ (一折りの原稿を火に投げ込み、自分に言い聞かせるように、ささやく)さあ、あんたの子供を焼いてやる、テア!あんたの縮れっ毛も一緒にね!(さらに二、三帖の原稿を投げ込み)あんたの子供で、エイレルトの子供をね。(残りを投げ込み)焼いてやる、――焼いてやる、あんたの子供を。

人生は台詞、全てこの世は舞台(004)

◎モリエール・辰野隆訳「孤客(ミザントロープ)」

 モリエールの「笑い」は一筋縄ではいかない。ことに、後年の作品ではそうだ。「ミザントロープ(人間嫌い)」の青年アルセストが、やや世間ずれした女性セリメエヌに恋してしまう。それも、数ある恋敵と競ってである。こんな人物設定で、劇は進行する。
 辰野隆は、それなりの理由があったのだろう、タイトルを「孤客」としたが、一般的な名称「人間ぎらい」のほうが、しっくり来るのも否めない。ただし辰野隆訳文は、名訳と思われる。Amazon の、Kindle 本にいくつかあるうち、セリフを大阪弁にモディファイしたものがあったが、どうも中途半端だったので、前半のセリフは、「大阪弁変換」の助けも借りながら、辰野隆訳を変えてみた。後半は、辰野隆訳の部分引用である。

アルセスト:いいや、隅から隅までや。ワイはあらゆる人間を憎むんや。ある者は不善にして有害せやさかい憎んだる。ある者は不善の徒にえゝ顔しくさって、いやしくも君子たる者が彼らに対して抱かねばならぬ強い憎悪を持たへんから憎むねん。現にワイのお白州の相手やけど、はっきりしとるあの悪党に対する世間の度すぎた弱腰は、なんぼのものじゃい。なんぼ猫を被っても、彼奴はしたたかやし、そんげなことはわかりきってま。どこへ行かはっても、彼奴のこんじょは知れ渡っとるで。あの眼つきや猫撫で声は素人はんしかききめがないんや。いてもうたろかなと思うがな、あの下司下郎がどんなきたない手使こうて世間にのさばり出しよったか、そいでもってブイブイいわすはぶりはそこらじゅうで怒らしやがって、徳の持ったはる君子はんを辱しめとるかは世間はんが承知や。あっちいってもこっちいってもや、悪口言うても、誰一人かて、あいつの悪徳をえろう褒めはるもんはおまへんで!。そやけど、ぺてん師と呼ぼうが、ばけもんと呼ぼうが、恥知らずの悪もんと呼ぼうが、誰も彼も賛成で、異議を唱える者もありゃしまへんで。それにもかかわらずや、あいつのやることはじぇんぶ、どないなときでも歓迎されて、世間の奴らは彼奴に手をさしのべたり、ええ顔を観せたりして、彼奴はいたるところで人に取り入っとるんや。ほんで、どんな官位でもあいつと競争したら無二の君子さえしてやられるわ。いまいましいがな!悪徳に対してこれほど世間がわるう言えへんのに、ワイはごっつう傷つけられたか知れへんで。ちょいちょいワイはむらむらとなって、そやからどっかえろう離れた沙漠の中にでも逃げたろ、そいで持って人間交際を断ち切ろうと思うねん。

アルセスト:
 ところがねえ!そんなことができるでしょうか? この愛情を制えきれるものだろうか? いかに憎もうとあせっても、この心が即座に言うことをきくでしょうか?
 (エリアントとフィラントに)意気地のない恋愛というものはごらんのとおりです。あなた方二人には僕の弱味はお目にかけたが、正直なところ、まだまだこれどころではないのです。この弱味がどん底までゆくのをお目にかけるでしょうし、我々を賢人呼ばわりするのがそもそも誤りで、誰の心のうちにも常にいくぶんかの人間がいるということも、お目にかけるでしょう。
 (セリメエヌに)実は、僕は貴女のよこしまの行ないを忘れたいと思う。心の中では、その悪事のいろいろな現われ方を釈明して、時代の弱点にんだ若気の過ちという名目でそれを庇うことにしましょう。その代りに、あらゆる人間を捨てる僕の企図くわだてに賛成して頂いて、僕が暮したいと思う沙漠の中に、時を移さず、一緒に行く決心をして下さい。それでこそ、僅かに罪の手紙があらゆる人に犯したところをうぐない得るし、君子が眉をひそめるような噂が立った後でも、なお貴女を愛し得ると思うのです。

 さて、二人の恋の結末は、いかがなものになろうか?通常の喜劇ならハッピーエンドで終わるのが常識だが…
 ジャン・ジャック・ルソーに「演劇について――ダランベールへの手紙――」という論説がある。この中で、「人間ぎらい」について、まとまった批評があるが、次々回にでも紹介したい。

人生は台詞、全てこの世は舞台(001)

◎ テネシー・ウィリアムズ「欲望という名の電車」

 入院中には、もっぱら FM 放送のドラマを、退屈まぎれに聴いていた。音声のみのインプットも、想像力を掻き立てられそれなりに楽しいものである。その中で、ある劇団の売れない役者が、「欲望という名の電車」(A Streetcar Named Desire)のセリフを朗読する一場面があった。「欲望…」は、昔読み、エリア・カザン監督、マーロン・ブランド出演の映画も観たことを思い出した。退院後、早速、再読したが、なかなかの芝居である。

「欲望という名の電車」は、アメリカ合衆国の劇作家テネシー・ウィリアムズによる英語の戯曲です。この作品は、アメリカ南部の没落した名家の娘ブランチ・デュボアの精神的な破滅を描いています。」

AI による回答)

 ブランチとスタンリーの葛藤は、下降と上昇する二つの「階級」のそれ、チェーホフ「桜の園」のラネ―スカや夫人とロパーヒンを彷彿させる。しかも、両作者とも、前者に自己を重ね「惜別」のシンパシーを抱いている共通点もある。
 このシリーズでは、取り上げた芝居での印象的なセリフを書き出すことにしよう。

ブランチ

 私、強い女にはなれなかったの、ひとり立ちできるような女には。強い人間になれないとき――弱い人間は強い人間の好意にすがって生きていかなければならないのよ、ステラ。そのためには人の心を誘うなにかが必要になる――弱い蝶々のように、あの羽のようなやさしい色あいと輝きを身につけ――ちよつとした――一時的な魔法を使わなければならなくなる、それもただ――一夜の雨露をしのぐために!だからなのよ、私が近ごろ——–あんまりほめられるような生きかたをしてなかったというのは。私は庇護を求めて駆けずりまわったわ、雨もりのする屋根から屋根へ――だって嵐だったんだもの——ひどい嵐、そして私はそのまっただなかにいただれ一人見てくれようともしないわ——男たちは——私たちの存在を認めてさえくれないわ、私たちに下心を抱いてなければ。そして、だれかに存在を認めてもらわなければならないわ、だれかの庇護を得ようとすれば。だから弱い人間はどうしても――ほのかな輝きをもたなければならないの――裸電球にかぶせる――色提灯のようなでも私、こわい――とってもこわいの、いま。いったいいつまで、それでうまくやつていけるかと思うと。やさしいだけではだめ。やさしい上に、 魅力がなければ。それなのに私は――私はもう色あせていくばかり!

  すでに日は落ちて夕闇が迫っている。

小田島雄志訳・第一幕第五場

 項目タイトルは、All the world’s a stage.(Shakespear “As You Like It”)から。画像は、映画「欲望という名の電車」から。