テキストの快楽(007)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(002)

     ー 私たちの国には唯物論者がいたか

 日本には唯物論者がいたかどうか? いったい、日本には唯物論という思想の休系があったのかどうか? まずこの問いにこたえることから、この本をかきはじめたいと思う。
 ずばり言ってしまうなら、私たちの国には唯物論者はいなかった、日本には唯物論の体系といっていいような思想の体系はなかった、そう言えるのである。
 さて、このようにいってしまうと、ここに誰にとってもいろいろの疑間がむらがりおこるだろう。それらの疑問のうちでは、おそらくつぎの疑問がまず投げ出されることだろうし私たちの国には唯物論君はひとりもいなかったかと。ひとびとはさらにこうきくであろう。明治時代に中江兆民や幸徳秋水がいたではないか、大正・昭和の時代に河上肇や野呂栄太郎のような人がいたではないか。さらに、戸坂潤や永田広志のような人がいたではないか。人はきっとそうきくことであろう。そう、これらのひとびとは唯物論者と呼ばれているのである。そういえば江戸時代だっていないことはない。あんなに封建思想が強固で、ものを自巾に考えるすきさえもなかった時代に、かまだ・りゅうおう(鎌田柳泓)のような人がいて、人間が<考える 傍点>ことは頭の中にある一種変った肉のしわざだというところまで主張したこともあるのだから、唯物論者はいなかったといってしまうと、とうぜん疑問がおこってくることだろう。だが、それにしても、私たちの国には唯物論者はいなかったという、さきの私の断定を私は改めないほうがよいと思う。もちろん、右にあげたようなひとびとをとらえて観念論者である(もっとも柳泓はここでしばらくあずかっておくけれども)とは、誰だって言いはしないし、私もそう考える何らの理由も持たない。それなら、右のひとびとは唯物論者であるか?問題はここからである。
 ことに明治・大正・昭和の時代のなかからあげられた右のひとびとが、唯物論者であると呼ばれるのは、社会主義者であったがために唯物論者だとせられがちなのであり、共産主義者であったがためにそうされていることが多いのである。必ずしもそこにまちがいがあるわけではない。しかし、社会主義者であること、共産主義者であることが、唯物論者たることをきめるたったひとつの基準なのではない。私たちはこのことを考えておきたい。ロシアには、十九世紀の施半にすでに社会主義者がいくらも出ていたが、その人たちがことごとく唯物論者であったのではなかった。フランスには十八世紀に、すでに幾人かの、はっきりした唯物論者かいたが、その人たちは社会主ス者であったから唯物論者であったのではない。今日でも、ことごとく現実に共産主義者であるとみずから考えている人が、あらゆる意味において唯物論者であると決定することはできない。
 唯物論には、それが唯物論であることの思想的な、世界観的な、いわば確乎たる特質があるのでなくてはならない。唯物論者はそうした世界観のシステムにつながっているのである。あたかも、<めんめん 傍点>とつらなる電送の太い線に結びついている碍子《がいし》のように、その電線に結びついている限りにおいて、個々の碍子は電流を確実につたえるものの一つなのである。今日でも、個々の唯物論者は、或る政治的組織に入ったから、そのとき唯物論者になったのではなくて、その政治的組織のなかにある世界観的な唯物論の太い線に結びついたから、「唯物論者」なのである。
 ヨーロッパでは、この線は小さいながら、古代ギリシアからはじまって、ぜんじ大きくなり、近代にいたっているのである。マルクス、エンゲルスは、この太い線をイデオロギーの歴史の発度のなかから見出した人たちなのである。マルクス、エンゲルスによってはじめてこの世界観の太い線が張られたのではなくて、これらのひとびとは、この線の現実的意味をはじめてみつけだし、これを深化し、強化したのである。
 この思想的な世界観的な線が、私たちの国にあったか、それともなかったか。もしあったとするならば、どういうあり方であったか、これが私たちの問題である。
 それは日本本にはなかったといいきれる。いや、日本のみでなく、もっとくわしくいうと、老荘的な、仏教的な、儒教的な思想、ことに仏教的な思想から深い影響をうけとっている東洋のすべての諸民族のなかには、あの太い世界観の線は通っていなかったのであるということができる。じつにこの意味において、私は私たちの国には唯物論はなかったというのであり、唯物論者はいなかったと主張するのである。唯物論者のあるなしについて、きびしくいえば、いちおう以上のようにいうことができる。
 もちろん今日となればちがうだろう。唯物論という思想システムの線は、ヨー ロッパの近代世界観が日本へ移植されるとともに、ことに政治的イデオロギーの移入とともに、近代日本に移されている。それがゆえにこそ、中江兆民や幸徳秋水が、とにかくに唯物論者であるといわれ、河上肇や野呂栄太郎が、戸坂潤や永田広志が弁証法的な唯物論者であったということができるのである。私たちにとって問題なのは、これらの人たちが、あの唯物論という世界観の太い線が全くなかった国のなかに住み、そうした国の言語をもちい、そうした国の庶民の生活の仕方にならい、この国の習俗のなかにひたり、その思想(河上ならば河上、戸坂ならば戸坂の思想)の他人への影響力を狭い範囲の或る日本人の間にのみもっていたことなのである。
 こうしたことが、考慮されないままで、すべて社会主義、マルクス主義に属していれば、なべてみな雎物論者であると言ってしまうことは、論を正しくすすめることにはならない。右にあげた中江兆民以下のひとびとが、その中でしばられて活動したあの社会的な諸条件のうちでも、その人の思想の他のひとびとへの影響力がいつまでも一定範囲にとどまりがちであったことは、唯物論者の<存在 傍点>にとって、重大な問題であると思うのである。私がかくいうのは、さきにあげた人々を唯物論者と呼びがたいとか、ほんとうの唯物論者と呼びたくないとか、そうしたことを言わんとしているためではないのである。むしろその反対なのである。これらの人たちは、唯物論の伝統の少しもなかったこの国において、多くの唯物論反対者にとりまかれて、いやそれどころか、じつに、ことごとくが観念論的な習俗のなかにあって、新しい世界観をかちとったことが、かえって、私たちにとつて切実に思われるのである。
 それにしても、はじめから、日本には唯物論があった、わが国には唯物論者がいたと、.女易にきめて、私たちの問題(日本における唯物論のあり方という問題)を、おしすすめることはできないのである。だから私は、はっきりと、私たちの国には過去において唯物論の思想体系はなかった、したがって唯物論者はいなかった、すくなくとも、いることが困難であったと、まず提言したいのである。

テキストの快楽(006)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(04)


 身を切るやうな寒い風が吹き出した。たうとう雨になって 、それが夜晝ぶつ通しに降りつづく。イルトィシ河までもう十八露里の所で、例の自前馭者から私を引繼いだフョードル・ハーヴロヴィチといふ百姓が、 これより先へは行けないと言ひ出した。豪雨のためイルトィシ河畔の牧地が、すっかり水浸しなのだといふ。昨日プストィンスコ工村からやって來たクジマも危く馬を溺れさせるところだった、待たなきゃならねえ。
 「何時まで待つのかね」と私が訊く。
 「そいつあ分らねえ。神樣にでも尋ねなされ。」
 百姓小屋へはいる。座敷には赤い上シャッを着た老人が坐ってゐて、苦しげに息をついては咳をする。ドーフル氏散をやると大分鎭まった。しかし彼は藥を信用しない。樂になったのは「辛抱してじっとしてゐた」お蔭だといふ。
 坐り込んで考へる。今夜はここに泊ったものかしら。だがこの老人は夜通し咳をするだらうし、恐らく南京蟲もゐるだらう。それに明日になったら、益ゝ水嵩が增さぬものでもあるまい。いやこれは、いっそ出發した方が利口だ。
 「やっぱり出掛けるとしよう,フヨードル・パーヴロヴィチ」と私は亭主に言ふ、「とても待つちやゐられないからな。」
 「そりゃ旦那の宣しいやうに」と彼は大人しく應じる、「水ん中で泊ることにならにゃいいが。」
 で、出發する。雨はただの降りやうではない。所謂土砂降りである。私の乘つてゐる旅行馬車には屋根がない。はじめの八露里ほどは泥濘の道を、それでも跑《だく》を踏ませて行つた。
 「こりやまあ、えらい天氣だ」と、フョードル・ハーヴロヴィチが言ふ、「本當をいふと長いこと河へは行って見ねえで、水出もどんなだか知らずにゐましただ。そこへもって來てクジマの奴が、ひどく威すもんで。いや何とか行き通せねえでもなささうだ。」
 だがそのとき、 一面の大きな湖が眼の前にひろがる。それは水に浸《つか》った牧地だ。風がその上をさまよひ嘆き、 大きな<うねり 傍点>を立てる。そこここに小島や、 まだ水に浸らぬ地面の帶が頭を出してゐる。道の方角は橋や沼地に渡した粗朶道でわづかに知られるが、それも皆ふやけて脹れ返り大抵は元の場所からずれてゐる。湖の遙か彼方には、 褐色の見るからに暗澹たるイルトィシの岸が連なり、 そのうへに灰色の雨雲が重く垂れてゐる。岸のところどころに斑ら雪が白い。
 湖にさしかかる。大して深くはなく、車輪も水に浸ること凡そ六寸に過ぎない。橋さへなかったら割合に樂に行けたかと思はれる。橋の手前では必らず馬車を降りて、 泥濘か水の中に立たされる。橋を渡るには、先づその上に打上げられてゐる板や木片を集めて、浮き上った端の下に支《か》はなければならぬ。馬は一匹づつ離して渡らせる。フョードル、ハーヴロヴィチが馬をはづす役で、 はづした馬をしっかり抑へてゐるのが私の役目である。冷たい泥だらけの手綱を握ってゐると、强情な馬が後戻りをしたがる。着物は風に剥がれさうだし、雨は痛いほどに顏を打つ。仕方がない、引返すか。――だがフョードル・パーヴロヴィチは默って何も言はない。私の方から言ひ出すのを待ってゐるらしい。私も默ってゐる。
 强襲で第一の術を陷れる それから第二の橋、第三の橋と。……ある所では泥濘に足をとられてすんでのことで轉ぶところだった。またある場所では馬が强情を張って動かなくなり、頭上を舞ふ野鴨や剛がそれを見て笑った。フョードル・ハーヴヴィチの顔附や、その悠々として迫らぬ動作や、また落着き拂った沈默振りから推すと、こんな目に逢ふのは初めてではないらしい。それどころかもっと酷い目に逢ふのも珍しいことではないらしく、出口のない泥濘や水浸しの道や冷たい雨などは、夙の昔に平氣になってゐると見える。彼の生活も並大抵ではないのだ。
 やっと小島に辿りつく。そこに屋根無しの小屋がある。びしょ濡れの糞の傍を、びしょ濡れの馬が二匹步いてゐる。フョードル・パーヴ口ヴィチの呼聲に應じて、小屋の中から鬚もぢやの百姓が手に枯枝を持って現はれ、道案內に立って吳れる。この男が枯枝で深い場所や地面を測りながら、默って先に立って行くあとから、私達もついて行く。彼が私達を導くのは、細長い地面の帶の上である。つまり、所謂「山背」づたひに行くのである。この山背を行きなされ。それが盡きたら左に折れそれから右に折れると、別の山背に出ます。これはずっと渡船場まで續いてゐますぢや、と言ふ。
 あたりにタ闇が迫って來る。野鴨も鷗も居なくなつた。鬚もぢやの百姓も、私達に道を敎へて置いて、 もうとうに歸ってしまった。第一の山背が尽き、また水の中に揉まれなから左に折れ、それから右に折れる。するとなるほど第二の山背に出る。これは河の岸まで續いてゐる。
 イルトィシは大きな河だ。もしエルマク*が氾濫のときこの河を渡ったのだったら、鏈帷子《くさりかたびら》技着てゐないでも溺れ死んだに違ひない。對岸は高い斷崖をなして、まるで不毛である。その向ふに谷が見える。フョードル・パーヴロヴィチの話では、私の目的地であるブストィンノエ村*に出る道は、この谷聞に泻って山を越えるのだといふ。こちらの岸はなだらかな斜面で、水面を拔くこと二尺あまりに過ぎない。やはり秃山で、風爾に曝されたその姿は見るからにせり辷りさうだ。濁った波のうねりが白い齒を剝き出して、さも憎らしげに捧を打つては直ぐ後へ退《ひ》く。その有様は、打見たところ蟾蜍《ひきがへる》か大罪人の怨靈ぐらゐしか住むとも思はれぬこの醜いつるつるの岸に觸るのも汚らはしいといつた風である。イルトィシの河音はざわめくのではない。また吼えるのでもない。その底に沈んだ棺桶を、片端から叩いて行くやうな音を立てる。咒はれた印象だ。
 渡守の小屋へ乘りつける。小屋から出て來た一人が言ふ。――この荒れ模様ぢやとても渡れませんや。まあ明日の朝まで待ちなされ。
 で.そこに泊ることになる。夜通し私は聞く――船頭たちや馭者の鼾を、 窓をうつ雨の音を、風の唸りを、それから怒ったイルトィシが、 棺桶を叩いてゐる音を。……翌る朝早く岸に出る。雨は相變らず降ってゐるが、風は稍ゝ收まった。けれど渡船ではとても渡れない。少さな舟で渡ることになる。
 ここの渡船の仕事は、自作農の組合の手で營んでゐる。從って船頭の中には一人の流刑囚もなく、皆この土地の人間である。親切な善良な人間ばかりだつた。向ふ岸に渡って、馬の待ってゐる道へ出ようとつるつる辷る丘を攀ぢ登って一行く私の後から、彼等は口々に道中の無事と、健康と、それから成功とを祈って哭れた。……が、イルトィシは怒ってゐる。……

[注]
*エルマク ドン・コサックの首長。十六世紀後半寡兵を以てウラルを越えシベリヤに侵入して、イルトィシ河までの範圖を確立した。
*ストィンノエ村 「不毛の村」の義。

テキストの快楽(006)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(001)

     ま え が き

 日本人は、外国人から唯物主義だといわれたり、理想《アイディア》というものがわからない国民だと批評されたりした。その一例をいえば、チェンバレンやデニングなどであるが、日本人の性質のうちにはそう批評される点のあることは否定できない。さて、そうでありながら他方において、日本には唯物論の哲学といわれるほどのものはないといわれている。こうなってくると、まことに割りの合わない話である。
 ほんとうのところ、日本人は唯物論という思想はもたなかったのか。そういう思想組織がもてるようには、日本の思想丈化の成り立ちができていなかったのか。それとも、別の在り方をして、唯物論思想をもっていたのか。もしもっていたのなら、その思想はどういう形応でできていたのか。こうした問題はこれまで少しも明らかにされなかった。
 さて、それが明らかにされるには、何が唯物論かという問いが改めて投げ出されねばならないであろう。なぜなら、日本に唯物論があったにしても、ヨーロッパにおける在り方とはちがっているにちがいないから。いずれにしても、唯物論の概念が明瞭でなくては、問題は前へすすまない。
 いったい、マテリアリズムとは何をさすのであるか。
 心かそれとも物か、意識かそれとも物質か、こうした問いを押しつめていったら、マテリアリズムは、はっきりとわかるのであろうか。いよいよのところは精神しかないのだという見解、いや、けっきよくは物質しかないのだという見解、この二つが、昔と変らないまま、今日る繰りかえされている。
 私の考えでは、二つの見解のうちの前者は、頭のなかで<考え 傍点>をととのえ、紙のうえに文章をかき、人にものを教えることだけを仕事にしている人たちの場合において、真理とおもえるのであり、後者は、物を作ること、生産にいそしむことをしている人たち、および、それらの人たちの生活に共感できる人たちにとって、真理であり得る。私にはそのように思われる。
 してみると、双方の主張者のこうした論議だけでは、観念論が真理なのか唯物論が真理なのか、きまらない。唯物論と観念論の是非は、あのような、ただひとつのディメンションではきまらないのではあるまいか。物質の概念の究明のほとんどなかった過去の日本人の場合では、ことにそうなのではあるまいか。
 しかし、唯物論といわれる世界観が、どういうひとびとによって支持されているかがわかれば、そこから逆に、何が唯物論かが、かえって明らかになるのではあるまいか。
 観念論とは、その社会が泥沼のようであろうと風波さえたたねばよいと現状を甘受し、享有している人たちの世界観であるのではなかろうか。唯物論とは、それとは逆で、現状に決定的に疯議し、人間生活の在り方を、ほんらいのものにかえそうとする人たちの世界観ではあるまいか。
 <おまえ 傍点>は神の子であると教えようとする人がいると、いや<私たち 傍点>は神の子ではないと言い張る。< おまえ 傍点>の存在は本質的には精神だと宣言しようとする人がいると、いや私たちの存在の本質は物質の運動であると言い張る。こういったように、人間存在の本質から出てくる抵抗、ことにその社会的な本質からくる抵抗、それの思想的表現、これがじつに唯物論であるのではあるまいか。
 私は、はじめから、このような唯物論の概念をたずさえて、日本人の生活の歴史のなかに入っていったのではなくて、世界観や学問観において傑出した過去の人物を評伝するうちに、以上のべたようなマテリアリズムに対する理解を、い っそう深くしたのである。
 私は、その理解をさらにととのえ、それを公けにするために、日本の唯物論者の現われかたを、つぎのような仕方に分けて、論評してみたのである。すなわち、「唯物論への道を準備した人々」、「唯物論に近づいた人々」、「ふたたびそれへの準備をはじめた人々」、「新しい時代(明治・大正・昭和)の唯物論者」の四つである。日本の思想文化史のように、<ひだ 傍点>や<しわ 傍点>が多く、明暗の度の細かい思想の歴史のなかに、個々の唯物論者を見出すには、断定のゆきすぎをひかえることが大切なので、その点を考えて、試みた叙述方法なのである。
 この「まえがき」で言っていないこと、それはほかでもなく、個々の唯物論者たちの相互の歴史的つながりのことであるが、それを「むすび」のところで述べておいたから、それをも、さきに併せて読んでもらうことがのぞましい。
    ー九五六年六月下旬
           三 枝 博 音

参考】
Wikipedia 三枝博音
 三枝博音は、戦前、「唯物論研究会」に属し、様々な労作を執筆した。戦後も、そのスタンスは変わらなったが、「政治的党派」に与することなく、微妙な「距離感」を保っていたようだ。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)