読書ざんまいよせい(070)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(011)

第二節 とさか・じゅん(戸坂潤)

一 空間論からの出発

 戸坂潤の青年時代の魂をとらえた学問は空間論である。哲学の諸問題のなかでも、とくに空間論を明らかにすることに力をそそいだのであった。空間論を哲学の問題としてうけとること、これに対照されるものは時間論である。さて、ここでまず素朴な質問をだしてみよう。それは案外に事態の本質をついている問い﹅﹅だとおもうからである。空間論と時間論、そのどちらが一般に唯物論の立場に関係が多いか?
 この質朴な問いには簡単にいっぺんに答えられる。それはもちろん空間論であると答えることである。哲学史は唯物論の祖だといって、いつでも古代ギリシアのレウキボスとデモクリトスをあげるのであるが、これらの自然哲学者ののこした断片のうちには時間の論は見あたらない。そのつきにひいでた唯物論者として私たちはローマの詩人ルクレティウスをあげたいが、彼の『物の本性について』という詩の形でかかれている千何百行のなかにも時間論の思索を汲み出すことはむつかしい、ほとんどできない。同じことは十九世紀のフランスの唯物論者たちについてもいえる。といって、時間論が人間のする思索の対象として価値が少ないのではない。もしも楽しく悠々と思索で暮らせるのだったら、時間は人に限りなく問題を提供することだろう。しかし、人間にとっては運命的にまでさいご﹅﹅﹅まで空間論はまといつく。空間論的に人間が規定されている人間存在の根本事実は、どうしようもない。時間は人に空間論的にしか考えさせない。空間論が明らかにされないでは時間論の成立は考えられない。空間論は科学の哲学の一般的基礎だといってよい。
 日本で、はじめて空間論の研究をめざしたのは戸坂潤である。彼は彼の『空間論』という論文註(1)のなかで、こういっている。

「空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇や、キネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴くこの、 世界―――実在界―――それらは悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が凡ゆる理論または科学の問題として取り上げられるということは、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である」

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南総里見八犬伝(009)

0南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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真野まの松原まつはら訥平とつへい大輔だいすけふ」「金まり大すけ」「かぶ戸とつ平」

行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな

 金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれん息女そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實仄ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ尋常よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。
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読書ざんまいよせい(069)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)

第二編 明治以後

第四章 マルクス主義の唯物論者

第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)

一 河上の思想遍歴

1

 河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
 河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょう﹅﹅﹅﹅﹅のもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもと﹅﹅となったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした﹅﹅﹅﹅﹅﹅経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつ﹅﹅しただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
 河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
 私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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南総里見八犬伝(008)

南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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一子いつしのこして孝吉たかよし大義たいぎす」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」

景連奸計信時かげつらかんけいのぶとき
孝吉節義義實たかよしせつぎよしさね

 杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとが使者、蜑崎十郞輝武あまさきじうらうてるたけ東條とうでふよりはせ參りて、麻呂信時まろののぶとき首級しゆきうまゐらせたりければ、義實よしさね大床子おほせうじのほとりにいでて、くだんの使者をちかくめさせ、合戰かつせん爲體ていたらくを、みづからとはせ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏ひやうろうともしくまします事、氏元かねてこゝろにかゝれば、百姓們ひやくせうばら催促さいそくして、運送うんそうせばやと思ふ程に、安西景連あんさいかげつら、麻呂信時、はや定包さだかねにかたらはれて、海陸かいりくの通路をふさぎ、小荷駄を取らん、とわれをまつこと難義なんぎに及びしかば、氏元ます〳〵憂悶うれひもだへて、いたづらに日をすぐしたり。しかるに景連、一夕竊あるよひそかに、家隸某甲いへのこなにがしをもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊ぎやくぞく也。よしや蘇秦張儀そしんちゃうぎをもて、百遍千遍相譚もゝたびちたびかたらふとも、承引うけひくべうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、かれが爲にみちふたぎ、良將勇士をくるしめしは、われながら淺猿あさまし、と後悔臍こうくわいほぞかむものから、信時只管ひたすらやじりとぎて、とけども思ひかへさねば、これ亦靴またくつへだてて、かゆきくにことならず。つら〳〵事のぜうはかるに、信時は匹夫ひつふの勇士、利の爲に義を忘れて、むさぼれどもあくことなし。景連舊好きうこうを思ふゆゑに、一旦いつたん合體するといへども、もしあやまちあらためずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮しよせん合體のおもひをひるがへし、まづ信時を擊果うちはたして、兵粮ひやうろう運送の路を開き、里見殿さとみとのに力をあはして、賊首ぞくしゆ定包を討滅うちほろぼし、大義をのべんと思ふのみ。さきにはたま〳〵來臨らいりんせられし、里見ぬしをえうとゞめず、あるじぶり禮儀いやなかりしは、かの信時がこばめるゆゑなり。願ふは和殿わどの、城をいでて、短兵急たんへいきうせめかゝれ。信時は野猪武者ゐのしゝむしや也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣ごぢんより、さしはさみてこれをうたば、信時を手取てとりにせん事、たなそこを返すごとけん。狐疑こぎして大事だいじあやまち給ふな。をさ〳〵回いらへまつ』といへり。しかれども氏元は、敵のはかりことにもや、と思ひしかば、佻々かろかろしく從はず、使者の往返度わうへんたびかさなりて、いつはりならず聞えにければ、さは信時をうたんとて、安西にてふじ合せ、ふりふらずみ五月雨さみだれの、黑白あやめもわかぬ暗夜くらきよに、二百餘騎を引いんぞつし、ばいふくみ、くつわつぐめ、麻呂信時がたむろせる、濱荻はまをぎさく前後ぜんごより、犇々ひしひしおしよせて、ときどつとつくりかけ無二無三むにむざんついる。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷あはてさわぎて、つなげる馬にむちあてつるなき弓にをとりそえ紊立みだれたつたるくせなれば、只活路たゞにげみちもとむるのみ、防戰ふせぎたゝかはんとするものなし。そのとき信時聲をはげまし、『たのもしげなきものどもかな。敵はまさしく小勢こぜい也。推包おしつゝんうちとらずや。おとされて前原まへはらなる、安西にわらはれな。うてよ進め』、とはげしくげぢして、眞先まつさきに馬乘出のりいだし、やりりう〳〵とうちふりて、逼入こみい寄手よせて突倒つきたふす。その勢ひはまさこれむらがひつじうちる、猛虎まうこるゝにことならず。士卒はこれにはげまされ、將後陣はたごぢんなる安西が、援來たすけきなんと思ひけん、にげんとしたるきびすめぐらし、唬叫わめきさけびて戰へば、こゝろならずも躬方みかた先鋒せんぢん面外とのかたおひかへされ、みちのぬかりに足もたゝず、すべつまつひきかねたり。當下そのとき杉倉氏元は、まなこいからし、聲をふりたて、『一旦破りし一二のさくを、おひかへさるゝことやはある。名ををしみ、はぢをしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採さいはいとつて腰にさしあぶみを鳴らし、馬を進めて、烏夜やみきらめ長刀なぎなたを、水車みづくるまの如く揮廻ふりまはして、信時にうつかゝれば、かゞりの火ひかりきつと見て、『は氏元。よき敵也。其處そこ退のきそ』、と呼びかけて、やりひねつはたつけば、發石はつしうけてはねかへし、ひけばつけり、すゝめば開き、一上一下いちじやういちげと手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方みかたも敵も遊兵ゆうへいなく、相助あいたすくるにいとまなければ、氏元と信時は、人をまじへず戰ふ程に、信時焦燥いらつつきいだす、やり尖頭ほさきを氏元は、左手ゆんでちやう拂除はらひのけ、おつとおめいて、向上みあぐる所を、長刀なぎなた拿延とりのべて、內兜うちかぶと突入つきいれて、むかふざまに衝落つきおとせば、さしもの信時灸所きうしよ痛手いたでに、得堪えたヘやりを手にもちながら、馬よりだう滾落まろびおつる、音に臣等わくらは見かへりて、とぶがごとくにはせよせて、その頸取くびとつて候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうちきゝて、「氏元がその夜の軍功、賞するにたへたれども、計略足はかりことたらざりけり。景連にはか心裏反うらかへりて、信時をうたする事、そのゆゑなくはあるべからず。夫兩雄それりゃうゆう竝立ならびたゝず。信時景連相與あひともに、われをうつともとみかたずは、必變かならずへんを生ずべし。るを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時をうちとりしは、躬方みかたの爲に利はなくて、景連が爲になりなん。かの安西はなにとかしつる」、ととはせ給へば蜑崎あまさき十郞、「さ候景連は、そのさり躬方みかたために、征箭一條そやひとすぢ射出いいださず、いつの程にか前原まへはらなる、さく退しりぞきて候」、とこたへまうせば、義實は、あふぎをもつてひぎうち、「しかれば既に景連が、奸計かんけいあらはれたり。わが瀧田をせめしとき、勝敗測はかりかたしといへども、定包さだかね天神地祇あまつかみくにつかみ憎にくませ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全しじうまつたからじとは、景連は思ひけん。定包つひ滅亡めつぼうし、義實その地をたもつに及びて、信時は安西がたすけになるべきものならず。只大たゞおほばやりに勇めるのみ、ともに無むぼういくさをせば、もろまけなんことをおそれて、うへには義實と合體して、氏元に信時をうたせ、景連はその虛にじやうじて、平館ひらたて攻落せめおとし、朝夷郡あさひなこふりあはれうして、牛角ごがくの勢ひを張らんとす。うちあふぎはづるゝとも、わが推量はたがはじ」、とその脾肝はいかんすくごとく、いと精細つばらかのたまふ折、氏元が再度の注進ちうしん某乙なにがしをとこはせ參りつ、「信時既にうたれしかば、殘兵頻ざんへいしきりみださわぎて、にぐるをひた追捨おひすてて、氏元は軍兵ぐんびやうを、まとめてやがて東條へ、歸陣して候ひしに、あにおもはんや景連は、はや前原まへはら退しりぞきて、平館ひらたての城を乘取のつとり、麻呂まろ采地朝夷れうぶんあさひな一郡、みなおのが物とせり。狗骨いぬほねをりて、たかとらせし、氏元は勞して功なし。おんせいをさしむけ給はゞ、先せんぢんうけたまはりて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城ねしろほふりて、このいきどはりはらすべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗かなまりも堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智そうさつゑいち感伏かんふくし、「はやく景連をうち給へ」、と頻りにすゝめ奉れば、義實かうべをうちふりて、「いな安西はうつべからず。われ定包さだかねほろぼせしは、ひとり榮利ゑのりを思ふにあらず、民の塗炭とたんすくはん爲也。さは衆人もろひとのちからによりて、長狹平郡ながさへぐりぬしとなる、こよなきおのさいはひならずや。景連梟雄けうゆうたりといふ共、定包がたぐひにあらず。その底意そこゐはとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時をうつに及びて、かれいちはやく平館なる、城をぬきしをねたしとて、いくさを起し、地を爭ひ、蠻觸ばんしよくさかひに迷ひて、人を殺し民をそこなふ、そはわがせざる所也。景連奸計おこなはれて、平館を取るといへども、なほあきたらで攻來せめくるならば、一時いちじ雌雄しゆうを決すべし。さもなくはさかひまもりて、こゝより手出しすべからず。みなこのむねをこゝろ得よ」、と叮嚀ねんころさとし給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩きんじゆのともがら、蜑崎等もろ共に、感佩かんはいせざるものもなく、「いにしへの聖賢せいけんも、このうへややはある」、と只顧稱贊ひたすらせうさんしたりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、かれほめかれさとして、安西をうつことをとゞめ、「人の物を取らんとて、わが手許たなもとを忘るゝな。鄙語ことわざにいふ、あくことしらぬ、たかつめさくるかし。籠城ろうぜうほか他事あだしこと、あるべからず」、といましめて、蜑崎十郞等をかへし給ひつ。
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