南総里見八犬伝(017)

南總里見八犬傳第二輯卷之三第十六回
東都 曲亭主人 編次
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山院さんいん宿しゆくして番作ばんさく手束たつかうたがふ」「菴主蚊牛」「たつか」「大塚番作」

白刃はくじんもと鸞鳳良緣らんほうりやうえんむす
天女てんによやしろ夫妻一子ふさいいつしいの

 卻說大塚番作かくておほつかばんさくは、淺痍あさでなれども一晝夜いちちうやあまたみちを來にければ、疲勞つかれとともにそのきず痛みて、通宵よもすがらいもねられず、まくらにかよふ松の聲、溪澗たにかはの音さわがしく、ぬるとはなしに目睡まどろみけん、紙門隔ふすまこしにうちかたらふ、聲するに驚覺おどろきさめ、枕をそばたて熟聽つら〳〵きけば、およつけたる男の聲也。「されば菴主あんしゆはかへりけん。渠何事かれなにことをいふにかあらん」、と耳をすまして聞く程に、忽地女子たちまちをなこ泣聲なきこゑして、「そはきゝわきなし、むじんなり。衆生濟度しゆぜうさいどは佛のをしえ、よしそれまでにおよばずとも、心をけが破戒はかいの罪、法ころもはぢやいばもて、ころさんとはなさけなし」、といふはまさしく宿貸やどかして、われをとゞめし女をなこなり。「原來菴主さてはあんしゆは破戒の惡僧あくそうかはよ少女をとめを妻にして、彼奴かやつゑば旅人りよじんをとゞめ、ひそかに殺して物をとる、山賊さんぞくきわまれり。たま〳〵君父くんふうらみかへし、恥をきよめ、危難をのがれて、こゝまで來つるに阿容々々おめ〳〵と、われ山賊の手にしなんや。さきにすれば人をせいす。こなたよりうついでみなころしにすべけれ」、と思ひさだめてちつとさわがず、ひそかおきて帶引締ひきしめ、刀を腰に、かゝぐりかゝぐり、紙門ふすまのほとりへしのびよりて、開闔たてつけ間準ひずみより、ことやう闕窺かいまみるに、その年四十あまりの惡僧、手に一挺いつてう菜刀なかたなをふりあげて、女子をなこむかひておどしつすかしつ、いふことさだかに聞えね共、われをうたんず面魂つらたましひ女子をなこはこれをとゞめあへず、かみふりみだしてよゝとなく。害心既に顯然げんぜんたる、爲體ていたらくに番作は、いさゝかも疑はず、紙門ふすまちやうひらきて、庖湢くりやのかたへ跳出おどりいで、「山賊われを殺さん。われまづなんぢを殺すべし」、とのゝしりあへずとびかゝれば、惡僧おはきにうち驚き、もつたるやいばひらめかして、きらんとするこぶしの下を、くゞぬけつゝ足をとばして、腰眼ゐのめのあたりをはたる。蹴られて前へひよろ〳〵と、五六步いつあしむあし走りいだして、やうやくに踏駐ふみとゞまり、ふりかへつてつきかくるを、右へ流し、左へ、すべらし、數回あまたゝびかけ、なやまして、疲勞つかるゝ處をつけ入りて、つひやいはをうち落せば、惡僧いよ〳〵こゝろあはてて、にげんとすれば、番作は、莱刀なかたな手ばやくとりあげて、「賊僧天罰思ひしれ」、とのゝしる聲ともろともに、あびせかけたる刃の電光いなつま脊條せすぢをふかくつんざいたり。灸所きうしよ痛痍いたでに、霎時しばし得堪えたへず、惡僧は「あつ」と叫びて、たふるゝ胸膈むなさき、とゞめの刀尖きつさきさしつらぬきて引拔ひきぬく莱刀、血をふりたらして、刃をぬぐひ、𥉉惑あはてまどひにげも得ず、伏沈ふししづみたる女子をなこむかひて、まなこいからし聲をふりたて、「なんぢ甲夜よひいひめぐみて、一碗いちわんの恩あるに似たり。又賊僧がかへり來て、われを殺さんとするをとゞめし、こは側隱そくいんの心なれども、この賊僧が妻となりて、これまでいくその人を殺せし、これまたしるべからず。さればのがれぬ天のせめすみやか首伏はくでうして、やいばうけよ。いかにぞや」、ととはれてはつかかうべあげ、「その疑ひは情由わけしらぬ、おん身が心のまよひにこそ。わらははもとよりるものならず」、といはせもあへず冷笑あざわらひ、「淺くもことを左右によせて、時を移して小賊等こぬすびとらが、かへるをまちてをとこのために、うらみかへさんと思ふなんぢ胸中きやうちう、われかばかりの倆伎たくみのらんや。つげずはこれもていはせん」、と打晃うちひらめか菜刀なかたなの光と共にとび退しりぞき、「やよまち給へ、いふことあり」、といへ共ゆるさいかり刀尖きつさき何處いづこまでもと夤緣つけまはす、刃頭はさきたてもなよ竹の、雪にをれなん風情ふぜいにて、右手めてのばし、左手ゆんでつき片膝立かたひざたてて身をらし、うしろざまに迯遶にげめぐるを、番作はなほのがさじ、とうてばひらき、拂へば沈み、たゝんとすればいだゞきの上にひらめく氷のやいばのがれかた手をふところへ、さし入るゝひまもなく、きら*んと進む目前まなさきへ、とりいだす一通つきつけて、「これ見て疑ひはらし給へ。きゝわきなや」、と兩の手に、引延ひきのばしたる命毛いのちげの、ふでに示せしその身の素姓すせう、番作とくすかし見て、思はず刃をとり直し、「こゝろ得かたき書狀しよでう名印ないん梵妻賊婦ぼんさいぞくふ艷書欤ゑんじよか、と思ふには似ず勇士の遺書かきおき。やうこそあらめ、その情由わけ語れ」、と身をひらかし、刃を席薦たゝみ突立つきたてて、膝折敷ひざをりしき目守まもりてをり。

 當下女子そのときをなごは一通を、まきおさめつゝ目をぬぐひ、「わが身似げなく道場の留守せしからよひ厄難やくなんかてくはえておん身がうへに、きゝとり給ふも無理ならず。今はつゝむによしなやな。そも〳〵わらはは御坂みさか人民ぢうにん井丹三直秀ゐのたんざふなほひで女兒むすめにて、手束たつかよばるゝものにはべり。父直秀は鐮倉殿かまくらどの持氏もちうじをいふ)の、恩顧おんこの武士ではべりしかば、持氏朝臣もちうぢあそんのおん滅亡めつばう兩公達りやうきんだち結城ゆふきの城へ、盾籠たてこもらせ給ふよし、きくとそがまゝ御坂をうちたち手勢僅てせいはつかに十餘人、して結城にはせくはゝり、合戰年をかさぬるものから、孺君わかぎみ御武運ひらかせ給はず、いぬる月の十六日に、結城の城をおとされて、名ある人々もろ共に、父直秀もうたれ侍り。こはその今果いまは遺書かきおきにて、落城のそのあした、家の老僕おとなもたらして、御坂へかへし給ひにき。母は去年こぞよりそなたのそらを、瞻仰ながめつくして物思ひ、はて氣病きやみ病髐やみさらばひて、命あやうきをりも折、無常むじやうの風の便たよりして、結城の沒落ぼつらく、父が最期さいご、しらせに來つる老おとなさへ、痛痍いたて負ひつゝみち疲勞つかれに、亦活またいくべうもあらずとて、殉腹切おひはらきり卽座そくざ落命らくめい。家につかふ奴婢ぬひどは、緣坐えんざとがをおそれけん、憑氣たのもしけなく早晚いつしかに、逐電ちくてんして一人ひとりのこらず。なにせんすべもわらはが身ひとつ、看病みとりかねつゝ親と子が、にのみぞ鳴く磬蝉うつせみの秋をもまたでよわりゆく、母は本月このつき十一日に、つひ縡絕こときれ侍りにき。ほうむりの事なども、はつかにちか里人等さとびとらが、好意なさけによりてその曛昏ゆふくれに、この道場に送り侍り。きのふは父の初月忌しよぐわつきにて、けふなん母の初七日しよなのか也。心ばかりの布施齎ふせもたらして、きのふもけふも亡親なきおやの墓參りするごとに、菴主あんしゆ慇懃ねんごろに慰めて、しばしが程とていほりの留守を、任用うちまかしていでてゆきつる、これらの事は甲夜よひに、既におん身に吿侍つげはベり。この道場を拈華ねんげといひ、菴主の法名はふめう蚊牛ぶんぎうとやらん、彼此人をちこちひと歸依僧きえそうにて、わがいへ亦檀越まただんゑつなれば、いさゝか疑ふよしもなく、こはるゝまゝ推辭いなみかねて、いほりまもりて日をくらし、菴主がかへりのちやゝ、こゝろありての所爲わざとはしりつ。淺ましきかなこの法師、いつの程にか懸想けさうして、わらはを一宿ひとよさとゞめんために、詭欺たばかり留守るすあつらへ、小夜深さよふくころかへり來て、わらはをとらへて艷語さゞめこと、法師には又あるまじき、たはけきかぎりに胸つぶれ、こばみてほとりへよせつけねば、はてをどしの菜なかたたを、うちひらめかしていどむ程に、その聲さへに高うなりて、いざときおん身にうたがはれ、思ひかけなく殺され侍り。只是過たゞこれすくせの業因ごういんか*。佛弟ぶつでしとしていろむさぼり、いつはりをもてわらはをとゞめ、しゐおかさんとせし冥罰めうばつは、立地たちところにしてその身に及べり。いと悲しむべきことになん。さればおん身に宿やどせし事を、菴主あんしゆつぐるにいとなくて、ことはやこゝにおよべるものを、かれいかにしてわらはがほかに、又人ありとしるよし侍らん。おん身みづから思惟おもひみて、その疑ひをはらし給へ。さればわらはは結城ゆふき殘黨ざんたうひと凋落おちめの利にして、からめて都へひかんとならば、のがるゝにみちは侍らじ。人を殺して物をる、賊婦梵妻ぞくふぼんさいなンどゝは、身にせらるゝ濡衣ぬれきぬなれば、許さでは死なじ。これのみならで、亡親なきおやの名をけがさじ、と思へばこそあれをしからぬ、命ををしみ侍るかし」、といひかけて目を押拭おしぬぐふ、をゝ々しき少女をとめの物がたりに、番作思はず小膝こひざうち、「原來さてはおん身は井丹三直秀ゐのたんざふなほひでぬしの息女そくぢよなりし。今示されし一通に、直秀とはよみしかど、同名異人どうめいゐじんなきにあらねば、緣由ことのよしをしるまでは、といまだわが名をのらざりし。父は鐮倉譜第ふだいの近臣、大塚匠作三戍おほつかせうさくみつもりが子に、番作一戍かずもりとはわが事なり。兩公達りやうきんだちかしつきて、籠城ろうぜうのはじめより、おん身が父とわが父と、共に後門からめてを固めしかば、他事たじなく相譚かたらひ候ひき。かくて落城の日に及びて、いさゝか思ふよしあれば、それがしは父もろ共、虎口こゝうのがれて兩公達のおんあとを幕ひ奉り、樽井たるゐまで參りしに、孺君其處わかぎみそこにてうたれ給ひ、父匠作も討死うちじにせり。某當坐それがしたうざに親のあた牡蛎崎小二郞かきざきこじらうといふものをうちとめ、君父くんふ首級しるしうばひとり、血戰して必死をまぬかれ、一晝夜にして二十餘里、既にはるかに來にければ、三頭みつのかうべうづめん、と思ふ折から當寺の墓所むしよ、こゝ究竟くつきやう新葬あらほとけのほとりのつち掘發ほりおこし、ひそか其處そこへ埋うづめはてて、さて宿りをばこひしなり。もとより、われは落人おちうとにて、吹く風にすら心をおけば、さきに法師が爲體ていたらく、そのいふよしをよくも得聞えきかず、われを害するもの也、と思ひにければ霎時しばし擬議ぎゝせず、早りてこれを殺せし事、おのが麁忽そこつに似たれども、しらずしておん身を救ひ、はからずして惡僧を、ちうせしは是冥罰これめうばつならん。かういへばなにとやらん、おん身にこゝろあるが如く、いといひがたき筋ながら、籠城ろうぜうの日に直秀ぬし、わが父に約束して『孺君わかぎみ武運ひらかせ給ひて、東國無ぶゐしよくしなば、われに一ひとり女兒むすめあり、子息しそくよめまゐらせん』、『それこそ公私のさいはひなれ。かならずたまはらん』、とちぎりし親はもろともに、ほゐを得遂えとげ討死うちじにし、その子どもらはもろ共に、必死をのがれて名吿なのりあふ。つれなきものは命也。まことにしらぬことながら、もしあやまちておん身を害し、のちにそれぞとしるならば、なき親達へあはし、なにといひとくよしあらん。あやうかりし」、と人のうへ、わがうへさへにときあかす、誠心辭まこゝろことばにあらはれたり。

 手束たつかはこれをつく〳〵と、きゝつゝくだんの一通を、再びさらりと推おしひらき、「かねてその名はきゝながら、おもひがけなき番作さま、こゝにて名なのりあひし事、つきせぬえにしに侍るかし。これみそなはせわが父の、今いまはのこす鳥の跡、とゞめかねたるかへすかき、おん身が事をいといたう、遺憾のこりをしとぞ聞え給ふ。かゝるちぎりのむなしからで、君と親とのみつ頭顱みぐしを、うづめ給ひしそのかたへなる、新葬あらほとけはわらはが母の、墳塋おきつちにてぞはべるなる。親と親とが許したる、妹伕いもせといはんもはづかしながら、けふよりして存亡いきしにを、おん身と共にせまほしき、ほか情願のぞみはなきぞとよ。よきにはからせ給ひね」、といひあへず顏をうちおほへば、番作きゝて感嘆し、「はからずこゝに舅姑しうとしうとめ、塚を竝べて兩公達りやうきんたちの遺骨を守るのみならず、約束かたきいもに、環會めぐりあはせ給ひぬる、これはた親のなきたまの、みちびき給ふに疑ひなし。かゝればおん身をたづさへて、深く浮世うきよしのぶべし。さりながら、おの〳〵親の喪にをれば、夫妻つまといはんも心にず。十三月の服果ぶくはてて、又あらためて夫婦とならん」、といふに手束はうち點うなづき、「わらはも如右しかぞ思ひ侍る。おん身既に蚊牛法師ぶんぎうはうしを、殺し給へば人もぞしらん。のち殃危わざはひなからずやは。こゝを思へば御坂みさかなる、わがいへにしも伴ひがたし。信濃しなのなる筑摩ちくまには、母がたの由緣ゆかりあり。こと亦彼處またかしこ溫泉いでゆは、刀瘡きりきずこうありとなん。むかし淨見原きよみはら天皇すべらみこ此湯このゆ行幸みゆきあらんとて、輕部朝臣足瀨等かるべのあそんあしぜらに、行宮かりみやを造らし給へば、今も御湯みゆとぞとなへ侍る。いざ給へもろ共に、筑摩の里へ」、とすゝむれば、番作これに隨ひて、あけぬ程に、といそがしつゝ、更に手束を伴ふて、拈華庵ねんげあんを走りいで、ゆくことはつかに五六町、はるか後方あとべを見かへれば、道場のかたに火もえいでて、ゆく先さへにあかゝりけり。手束はこれを驚き見て、「あなおぞましや、いづるときに、心あはてて火をさず。されば過失あやまちしてけり」、とうちつぶやくを、番作は、きゝあへずほゝみて、「手束さのみな驚き給ひそ。拈華奄ねんげあん山院さんいんにて、浮世に遠き佳境かきやうなれども、みだれたる世は淸僧稀せいそうまれ也。彼蚊牛尙婬かのぶんぎうすらいろむさぼり、そゞろに不良のこゝろをおこせり。かれ死して後住ごぢうなくは、つひに山賊のすみかとならん、と思ひにければいづるとき、埋火うづみひ掻起かきおこし、障子簾せうじすだれをよせかけおきつ。こゝをもて彼庵室かのあんしつは、はや灰燼くわいじんとなりつる也。蚊牛まことにその罪あり。但渠たゞかれいまだ欲を得遂えとげず、はやくわが手に死せし事、あはれむにしもあらざれど、心にこゝろよしとせず。されば法師を火葬して、その恥をかくし得させしは、わが一片いつへん老婆心ろうばしん彼處かしこは君くんふ墳塋おきつちあり、これをやくことよきにあらねど、賊のすみかとするに忍びず。これやむことを得ざればなり。われ倘後もしのちに大かたならぬ、こゝろさしを得たらんには、彼處かしこ伽藍からん建立こんりうすとも、いとなしがたきことかは」、とさとせば手たつかははじめてさとりて、かつ感じ、かつ嘆じ、くだんの猛めうくわあかしにして、あとき、又先にたち、いよ〳〵みちをいそぎけり。

 話分兩齣ここにまた武藏むさしなる、大塚おほつかさとに母もろ共、年來潛居としごろしのびゐたりける、大塚匠作おほつかせうさく女兒龜篠むすめかめさゝは、前妻せんさいの子なりしかば、番作には異母はらかはりの姉にはあれど、心ざま、父にもおとにも似ざるものにて、親同胞おやはらから籠城ろうぜうを、想像おもひや氣色けしきもなく、まい繼母けいぼ千辛萬苦せんしんばんくを、つゆばかりもこゝろとせで、なまこゝろつきしころより、結髮化粧かみあげけはひに、春の日を長しとせず、情郞おもふをとことしのびあふ日は、秋のゆふべを短しとせる、嗚呼をこ婬婦たをやめなりといへども、なさぬなかとて母親は、はしたなくこれをこらさず、かたはらいたく思ふのみ、いとゞ多病になりにけり。されば龜篠かめざゝは、同鄕おなじさとなる、彌々山蟇六やゝやまひきろくといふ破落戶いたつらものと、ふかく契りて、その情鰾膠ぜうにべもてつぎたるごとく、皮なくは君とわれ、比目連理ひもくれんりに身をなして、霎時しばしもほとりを離れじ、と思ふ心は日にまして、存亡そんぼう不定ふじやうの父が籠城、母の劬勞くろうさいはひにすなれどむこるべき折にあらねば、とさまかうさま思ふ程に、結城ゆふきの城をおとされて、父匠作は美濃路みのぢなる、樽井たるゐにて討死うちしにし、おとゝ番作はゆくしれず、と今茲七月上浣ことしふつきはじめつかた、大塚に聞えしかば、さらぬだに思ひほそりて、やむを常なる母親は、「こは什麼そもいかに」、となげきかなしみ、その日よりしてまくらあがらず、湯水ゆみづ咽喉のんどくだらねば、死をまつよりほかにすべなし。龜篠は「わが手ひとつに、母の病著看いたつきみとりがたし。月來つきころよりたのもしき、人と思へばこのせち也。蟇六どのをやとはん」とて、そがまゝかれを引入れて、人目ばかりの湯液三味くすりざんまい、母のうへをばよそにして、蟇六と共にしよくし、共にいぬるを又あるまじき、たのしみとのみ思ひけり。さる程に母親は、その月のつごもりに、四十よそぢの月を見のこして、つひにはかなくなりしかど、からすほかなくものなく、なにがしてらへ送られて、しるしの石は苔蒸こけむせども、まうづるものはまれなりき。

 かくて龜篠かめざゝは、情願のぞみの如く、蟇六ひきろくと夫婦になりて、一兩年いちりやうねんを送る程に、嘉吉かきつ三年のころかとよ、前管領持氏朝臣さきのくわんれいもちうぢあそんすゑのおん子、永壽王ゑいじゆわうと申せしは、鐮倉滅亡のとき、乳母めのといだかれ、信濃しなのの山中にのがれ給へば、ぐん安養寺あんようじ住僧ぢうそうは、乳母めのとが兄なるをもて、精悍かひ〳〵しくとりかくし、譜第ふだいの近臣、大井扶光おほゐすけみつと心をあはして、年來としごろ養育し奉る、と鐮倉に風聞ふうぶんせしかば、管領憲忠のりたゞの老臣、長尾判官昌賢ながをのはんくわんまさかた、これを東國とうこくの諸將と相謀あひはかり、つひに鐮倉へむかへとりて、八州はつしう連帥れんすいと仰ぎ奉り、則元服すなはちげんふくさせまゐらせて、左兵衞督成氏さひやうゑのかみなりうぢとぞまうしける。されば結城ゆふきにて討死うちしにせし家臣の子孫を、召出めしいださせ給ふよし聞えしかば、又彼彌々山かのやゝやま蟇六は、「時を得たり」、とよろこびつゝ、俄頃にはか大塚氏おほつかうぢおかして、鐮倉へ參上し、美濃みの樽井たるゐにて討死せし、おん兄春王せうとしゆんわう安王兩公達やすわうりやうぎんたちかしつきたる、大塚匠作せうさく女壻むこなるよしを訴へて、恩賞をこひしかば、昌賢やがて豐嶋としまなる、大塚へ人をつかはし、ことの虛實を糺明きうめいせしに、匠作が女兒むすめにそふ事、既に分明ふんめうなりといへ共、蟇六が人となり、武士になるべきものにあらねば、はつか村長むらおさを命ぜられ、帶刀たいとうを許されて、八町四反ちやうしたん莊園せうゑんあておこなは彼地かのち陣代ぢんだい大石兵衞尉おほいしひやうゑのぜうが下げぢうけて、つとむべきむねおふせらる。これよりして暮六は、瓦廂かわらひさし衡門かぶきもん、いかめしくつくたてて、奴稗ぬひ七八人召使ひ、莊客們ひやくせうばら譴債せめはたりて、おのが田へのみ水さへひけば、その久後ゆくすゑはしらねども、ゆたけき人になりにけり。

 話分兩齣ここにまた武藏むさしなる、大塚おほつかさとに母もろ共、年來潛居としごろしのびゐたりける、大塚匠作おほつかせうさく女兒龜篠むすめかめさゝは、前妻せんさいの子なりしかば、番作には異母はらかはりの姉にはあれど、心ざま、父にもおとにも似ざるものにて、親同胞おやはらから籠城ろうぜうを、想像おもひや氣色けしきもなく、まい繼母けいぼ千辛萬苦せんしんばんくを、つゆばかりもこゝろとせで、なまこゝろつきしころより、結髮化粧かみあげけはひに、春の日を長しとせず、情郞おもふをとことしのびあふ日は、秋のゆふべを短しとせる、嗚呼をこ婬婦たをやめなりといへども、なさぬなかとて母親は、はしたなくこれをこらさず、かたはらいたく思ふのみ、いとゞ多病になりにけり。されば龜篠かめざゝは、同鄕おなじさとなる、彌々山蟇六やゝやまひきろくといふ破落戶いたつらものと、ふかく契りて、その情鰾膠ぜうにべもてつぎたるごとく、皮なくは君とわれ、比目連理ひもくれんりに身をなして、霎時しばしもほとりを離れじ、と思ふ心は日にまして、存亡そんぼう不定ふじやうの父が籠城、母の劬勞くろうさいはひにすなれどむこるべき折にあらねば、とさまかうさま思ふ程に、結城ゆふきの城をおとされて、父匠作は美濃路みのぢなる、樽井たるゐにて討死うちしにし、おとゝ番作はゆくしれず、と今茲七月上浣ことしふつきはじめつかた、大塚に聞えしかば、さらぬだに思ひほそりて、やむを常なる母親は、「こは什麼そもいかに」、となげきかなしみ、その日よりしてまくらあがらず、湯水ゆみづ咽喉のんどくだらねば、死をまつよりほかにすべなし。龜篠は「わが手ひとつに、母の病著看いたつきみとりがたし。月來つきころよりたのもしき、人と思へばこのせち也。蟇六どのをやとはん」とて、そがまゝかれを引入れて、人目ばかりの湯液三味くすりざんまい、母のうへをばよそにして、蟇六と共にしよくし、共にいぬるを又あるまじき、たのしみとのみ思ひけり。さる程に母親は、その月のつごもりに、四十よそぢの月を見のこして、つひにはかなくなりしかど、からすほかなくものなく、なにがしてらへ送られて、しるしの石は苔蒸こけむせども、まうづるものはまれなりき。

 不題大塚番作一戍さてもおほつかばんさくかずもりは、さき手束たつかを伴ひて、信濃しなの摩筑ちくまおもむきつ、こゝにて湯治とうぢする程に、手足のきずいえたれども、こむらの筋やつまりけん、これより行步ぎやうぶ自在ならず。よりてそがまゝ筑摩にとゞまり、一ひとゝせあまり送る程に、父の喪ははてながら、まだ武藏むさしなる母を得問えとはず。今茲ことしつゑすがりても、大塚におもむかん、と思ふに甲斐かひなくこの夏は、瘧疾わらはやみに犯されて、秋盡あきはつるまでまくらあがらず、憂苦ゆうくうち年月としつきたちて、嘉吉もはや三年にぞなりぬ。世間陜よのなかせまき身をかへり見ず、なほ大塚とらんこと、そのはゞかりなきにあらねば、筑摩に足をとゞめし日より、大塚のだいの字に、一點をくはえつゝ、犬塚番作いぬつかばんさく名吿なのるものから、定めたる世の經營いとなみもあらず、手束ははつか織績おりつむぐ、その麻衣あさきぬの麻絲より、細煙はそきけふりたてかねつ、かりそめながら三年みとせ流浪るらうに、貯祿たくはへ既に竭果つきはてて、いかにせまし、と思ふ折、春王安王しゆんわうやすわうのおん弟永壽王おとゝえいじゆわう成氏朝臣なりうぢあそん長尾昌賢ながをまさかたはからひにて、鐮倉の武將とあふがれ、戰死の家臣の子どもらが、彼此をちこち潛居しのびをるを、召出めしいだし給ふとなん、筑摩の溫泉いでゆに湯治する、行客等たびゝとらが物かたりす。風聲ふうぶん大かたならざれば、番作夫婦はふかくよろこび、「今はいづれの時をかまたん。縱行步たとひぎやうぶは不自由なりとも、ともかくもして武藏むさしへ赴き、母と姉とに對面して、たゞに鐮倉へ推參すいさんし、春王丸しゆんわうまるのおん像見かたみ村雨むらさめのおん佩刀はかせを、成氏朝臣にたてまつりて、父匠作がうへはさら也、舅井直秀しうとゐのなほひでが忠死のおもむきつげ奉りて、わが進退を君にまかせん。は」とて夫婦いそがはしく、起行かしまたち准備ようゐして、年來蔭としごろかげかふむりし、由緣ゆかりの里人等にわかれつげて、武藏の大塚にぞおもむきける。
 さはれ番作は、隻脚蹇かたしなへたり、つゑを力に道すがら、女房手束たつか扶掖たすけひかれ、數町すてうにしてはやいこひ、三四里にして日をくらせば、思ひのほか日數ひかず積りて、八月はつき信濃しなのいでしかど、十月かんなつきのすゑにおよびて、やうやく舊里ふるきと近くなりつ。番作は今さらに、母のうへ心もとなく、さとよりすこしこなたなる、白屋くさのやたちよりて、「大塚匠作てふ人の、妻と女兒むすめつゝがなしや」、とよそがましげにとひしかば、亭主いへぬしとおぼしきおきな稻扱いねこきながら夫婦を見かへり、「原來和達さてはわたち彼方かのかたざまの、發迹なりいでつる事しらざるよ。母親は身まかりて、二年ふたとせあまり、三年みとせにもなるべし。そが著病いたつきとりはせで、不孝淫奔ふこういたつらは、つぐるも傍痛かたはらいたかるべし。そが壻女むこ彌々山蟇六やゝやまひきろくは、爪彈つまはぢきせざるものなき、破落戶いたつらもので候ひしが、箇樣々々かやう〳〵由緖ゆいしよをまうして、八町四反はつてうしたん莊園せうゑんを給はり、刀をさへ許されて、村長むらおさをうけ給はり、今では大塚蟇六といふ也。その宅地やしき竝桐なみきりのあなた、如此々々しか〳〵の處にこそ」、と叮ねんころをしえしかば、番作きゝあへずうち驚き、なほ姉龜篠かめざゝ爲體ていたらく、蟇六が人となりさへ、つばらか問盡とひつくして、外面とのかた退しりぞいで、手束もろ共言葉はなくて、しきりに淚さしぐみけり。しばらくして番作は、つゑをとゞめて、嘆息し、「身の病著いたつきとはいひながら、うたてや筑摩に年をかさねて、母の終焉しうゑんにあひ奉らず。加以これのみならず父が忠死を、暮六とやらにかすめられ、大塚の苗字めうじけがさる。今このよしをうつたへんに、村雨むらさめ寶刀みたちわが手にあり、勝利疑ひなしといふとも、榮利ゑのりの爲に姉と爭ひ、骨肉牆こつにくかきせめぐが如きは、わがせざる所也。かゝればこのおん佩刀はかせも、鐮倉殿に獻じがたし。わが姉は不孝の人也。壻蟇六むこひきろくは不義にしてとめり。憑氣たのもしげなき姉夫婦に、ものいふべうも思はぬかし。さはあらずや」、とつぶやけば、手束たつかは淚をぬぐふのみ、そをことわりともいひかねつ、なぐさめかねつ、目をあはし、齊一嗟嘆ひとしくさたんしたりける。

 これによりて番作は、蟇六がり赴かず、故老こらう里人等さとびとらおとつれて、わがうへ妻のうへさへに、おちもなくこれつげ志氣こゝろざし說示ときしめして、親の墳墓ふんぼまもらん爲、この地に住ひせんといふ。里老さとのおとなは番作が、薄命はくめいをあはれみて、こゝろよくうけひきつ、彼此人をちこちひと召集合よびつどへて、くだんの事をしらすれば、衆皆聞みな〳〵きゝいきどほり得堪えたへず、「わが村はむかしより、大塚氏おほつかうぢ采地れうぶんたり。一旦斷絕するといへども、本領安堵ほんれうあんどの今にいたりて、實子じつし日蔭ひかげの花としぼみ、姉夫あねむことはいひながら、破落戶いたつらものの蟇六に、すべて橫領わうれうせられし事、これにましたる不幸やある。さりとても今さらに、あらそはんは、世話せわにいふ、證文あかしぶみの出いでおくれにて、勞して功なきうつたへなるべし。弱きをたすけて、强きをくぢくは、東人あつまうど生平つねぞかし。憎しと思ふ蟇六がつらあてに、番作ぬしをばともかくも、當村中たうむらちう引承ひきうけて、養ふてまゐらせん。足はなえても、手はくぢけても、心やすく思ひ給へ」、と一人ひとりがいへば僉諾みなうべなひて、かしがましきまでたのもしく、立地たちところ衆議一決しゆぎいつけつして、番作夫婦を款待もてなしけり。

 かくてくだん里人等さとひとらは、番作が爲に、その居宅すみかさだむるに、蟇六が宅地やしき前面むかひに、ふるくもあらぬ空房あきやあり。「これ究竟くつけう」と購求あがなひもとめて、番作夫婦を彼處かしこへ移し、又ぜにいだあつめて、ちと田園たはたを購求め、これを番作田ばんさくたとなへつゝ、夫婦が衣食のれうにせり。これその舊主きうしゆの恩を思ひ、番作が薄命はくめいを、相憐あひあはれむのみにあらず、憎しと思ふ蟇六夫婦に、物を思はせんとての所行わざなるべし。剛毅木訥こうきぼくとつじんにちかしといひけん、聖語せいごもこれらがうへにかなへり。かゝりしかば番作は、里人等が好意なさけにて、富むにはあらねど、まづしきにくるしまず、苗字めうじあねむこうばばれたるに、今更大塚にかヘさんも無益むやくなりとて、なほ犬塚いぬつかとなへつゝ、里の總角等あげまきらに、手蹟しゆせき師範しはんして、親たるものゝ恩に報ひ、手束は里の子等こらに、わたつみきぬを縫ふわざを敎えて、親たるものゝ恩に報ひしかば、里人等はよろこびて、野菜の初はつほなにくれとなく、物を贈るも多かりけり。(時に嘉吉三年なり。去年安房あはにて伏姬ふせひめ生れ、今茲ことしは義成誕生せり。事は肇集第八回に見えたり)

 さる程に蟇六龜篠ひきろくかめさゝは、死せりと思ひし番作が、癈人かたはにはなりたれども、妻さへに將てかへつ、里人等に尊信せられて、わがいへ向斜むかひなゝめに、卜居やうつりせし爲體ていたらく、見もしきゝもするごとに、ねたき事限りなし。「けふはわがかたへや來つる。あすは人していはする」、とやすき心もせざりしに、百あはひ住居すまゐしながら、かれ一トたびも姉をはず。今はとて腹にすえかね、有一日あるひ龜篠は、蟇六と商量だんかふし、人をもて、番作にいはするやう、「わらは女のかひなき身にて、母をとりておこたらず。親の遺言默止ゆいげんもだしかたくて、蟇六どのを招き入れ、たえたる家をおこせし事、人のしる所なり。しかるに和殿わとの阿容々々おめ〳〵と、戰場せんじやうのがさりいたちの如く走り隱れて、母の今果いまはにあふよしもなく、命たすかりたるをさいはひに、世間廣くなるまゝに、婦女子をうなこ携來たづさへきて、里人等を詐欺たぶらかし、既にそのかげかうむりて恥とせず、間近まちか住居すまゐをこれ見よかしに、一トたびもわらはを訪はず、他人をしたしみ、骨肉こつにくとほざけて、無禮なめなるはいかにぞや。われはともあれわが良人つまは、大塚の家督にして、既に一鄕いちごうをさたり。よしや人ならぬ心をさしはさみ、胡越こゑつの思ひをなすとても、國に貴賤きせんの差別あり、人に長少ちやうせうの禮讓あり。もしこれをしも知らずといはゞ、わが村におきかたし。他鄕たけう立去たちさり給へ」とぞいはせける。番作きゝ冷笑あざわらひ、「某寔それがしまこと不肖ふせうなれども、父とゝもに籠城ろうぜうして、主君の爲に命ををしまず、戰場にてしなざりしは、君父くんふ先途せんとを見ん爲なりき。さればこそ樽井たるゐにて、父のあたうちとめて、君父の首級しるしを隱しまゐらせ、はからずも親の結びし、女房手束にようぼうたつか名吿なのりあふて、筑摩ちくま御湯みゆ手痍てきずを保養し、はつか平愈へいゆしたれども、行步ぎやうぶ不自由にして、長途ちやうど得堪えたへず。去歲こぞは又長病ちやうびやうに、一年ひとゝせあだすぐしつ。今茲ことし再びおもひ起して、つゑすがり、妻にたすけられ、やゝ來て聞けば母の終焉しうゑん、わが姉の不孝淫奔いたつら、人のよくしるところ也。姉夫何等あねむこなにらの功ありて、重職ちゃうしよくをうけ給はり、大祿たいろくを賜りけん、これわがしらざる所也。それがし父の遺命いめいによりて、春王君しゆんわうきみのおん佩刀はかせ村雨むらさめ一腰ひとこしを、あづかり奉りてこゝにあり。さりともこれを鐮倉殿にたてまつらず、いさゝか爭ふ心なきは、わが姉夫婦の幸ひならずや。番作まことに不肖なれ共、不孝の姉を見るに忍びず、不義の姉夫あねむこにはへつらひがたし。かくても當所をおはんとならば、是非のおよばざる所なり。鐮倉へうつたへ奉りて、公裁こうさいまかすべし」とぞこたへける。その人たちかへりて、云云しか〳〵つげしかば、龜篠かめさゝはさらにもいはず、蟇六ひきろくひたあきれて、無念はらわたしぼれども、「毛をふききずもとめんか」、とやうやくに思ひかへして、このゝちは音もせず。番作はつゑすがりて、母の墓參はかまゐりする折に、もとめずして蟇六と、おもてあはすることはあれども、ものいふ事はなかり

 かくて又十年とゝせあまりの春秋はるあきて、享德きやうとく三年十二月、鐮倉には成氏朝臣なりうぢあそん亡父ぼうふ怨敵おんてきなればとて、管領憲忠くわんれいのりたゞを、たばかりよせてちうせらる。これより東國再び亂れて、つぐの年康正こうせい元年(義實籠城よしさねろうぜう安西景連あんさいかげつら、滅亡の年なり)には、成氏のいくさ敗れて、憲忠の弟房顯おとゝふさあき、その臣長尾昌賢等ながをまさかたらが爲に、鐮倉を追落おひおとされ、下總許我しもふさこがの城にこもりて、合戰亦複數年かつせんまたまたすねんに及べり。このころ大塚番作おほつかばんさくは、つく〳〵と思ふやう、「今戰國の習ひとて、臣たるもの、その君をせいし、冠履所くわんりところことにせる、世のたゞすまひを見るにつけても、わが薄命はくめいなげくに足らず。只後たゞのちなきを不孝とすなるに、女房手束にようばうたつかめとりてより、十四五年があはひには、男兒をのこゞ三人みたりまでうませたれども、襁褓むつきうちになくなりて、一人ひとりとして生育おひたつものなし。われと手束たつか同庚おなじとしにて、かれはや三十みそぢよはひすぎたり。又子を見ん事かたかるべし。これのみ遺憾のこりをし」といふ、かごとがましき夫の述懷じゆつくわい、手束もおなじうらみには、姥捨山おばすてやまに見る月ならで、とにかく慰めかねたるが、忽地たちまちに思ふやう、「たきかはなる辨才天ベんざいてんは、このわたりなる古廟こびやうにて、靈驗れいげんありと人はいふなる。祈らば應報おうほうなからずやは」、と思へばやがてをつとつげて、つぐの日より朝とくおきて、くだんやしろ日參につさんし、一子いつしを祈りて他念なし。今茲長祿ことしちやうろく元年の秋よりはじめて、(伏姬八房ふせひめやつふさに伴れて、富山とやまのおくへ入りし年也)三年みとせあはひ、一日もおこたらず。

庚申塚こうしんつか手束たつか神女しんによに謁(ゑつ)す」「たつか」

 時に長祿三年、(伏姬自殺の翌年なり)九月廿日あまりの事なるに、手束は時をとりあやまちて、明殘あけのこる月影を、東しらみにけりと思ひて、いそがはしく宿所をいでて、瀧の川なる岩屋殿いはやどのに參詣し、既に下向げこうおもむけども、そのはいまだあけざりけり。「おぞましや」、とひとりごちて、稻葉いなばの露を掻拂かきはらひつゝ、たちかへる田のくろに、は黑く、腹は白きいぬの子が、すてられたりとおぼしくて、人まちがほに尾をふりて、手束がすそにまつはりつ、おひかへせば又慕ひ來て、はなるべうもあらざれば、もてあましつゝ立駐たちとゞまり、「かくまで人を慕ふものを、いかなる人がすてたりけん。見ればこは牡狗をいぬなり。いぬあまたの子をうむものにて、その子はかならずそだつもの也。よりて赤子あかこ枕邊まくらべに、狗張子いぬはりこおくぞかし。神にあゆみを運ぶまで、一子を祈る心もて、いかでかこれをひらはざらん。將てかへらん」、とひとりごちて、いだきとらんとする折から、南のかたに靉靆あいたいと、紫の雲たなひきて、地を去ること遠からず。と見れば嬋娟せんけんたる一個ひとり山媛やまひめ宋玉さうぎよくが夢にまみえし、神女しんぢよおもかげをとゞめ、曹植そうちふでを託せし、洛神らくじんかほばせをうつして、黑白斑毛こくびやくまだら老犬おほいぬしりうちかけ左手ゆんで數顆あまたたまもちて、右手めて手束たつかを招きつゝ、ことばはなくて一ッの珠を、投與なげあたへ給ふになん、手束は今この奇特きどくを見て、おそる〳〵ついゐたるが、いそがはしく手をさしのべて、くだんの珠をうけんとせしに、珠は手股たなまたもりて、輾々ころころと、雛狗こいぬのほとりにおちしかば、其首そこ彼首かしこかとたづねても、たづねても又あることなし。「あないぶかし」、とばかりに、そなたのそらをうちあふげば、靈雲忽地迹れいうんたちまちあとなくなりて、神女しんによも共に見え給はず。こは平事たゞことにあらずと思へば、ふたゝび雛狗こいぬいだきあげて、いそしく宿所にかへりつゝ、くだんことおもむきを、夫番作につげていふやう、「おがまれ給ふ神女しんによの姿は、山姬やまひめといふものめきて、辨才天べんざいてんに似給はず。そが授け給ふなる、たま子胤こたねでありけんものを、取失とりうしなひ侍りしかば、願望ねぎことかなはぬさがにやあらん。こゝろにかゝはべるかし」、といへば番作沈吟うちあんじ、「いな〳〵それにはよるべからず。くだん神女しんによ黑白斑毛こくびやくまだら老犬おほいぬに乘給ふにあらずや。わがうぢ大塚おほつかなれども、犬塚いぬつかあらためき。又わが名は一戍かずもり也。一戍のもりの字は、則支干すなはちひよみいぬなれば、名詮自性めうせんじせういとたのもし。加旃しかのみならずおん身さへ、今もとめずして雛狗こいぬたり。念願成就のさがなるべし。そのいぬをな走らし給ひそ。畜育かひたて給へ」、とさとされて、手束は「有理げにも」と思ひかへすに、たのもしき事いふべうもあらず。げに番作がはんぜしごとく、手束はいく程もなく身おもくなりて、寬正くわんせう元年秋七月ふつき、戊つちのえいぬの日に及びて、いとたひらかに男兒をのこゝうみけり。このちごこれ名にしおふ、八犬士の一人ひとりにして、犬塚信乃いぬつかしのよばれしは是なり。信乃が事はつばらかに、なほ後々のちのちの卷にとかなん。

犬塚信乃いぬづかしのが列傳は、父祖のうへをつばらにして、その他の事を省略す。これよりすゑしち士の傳にいたつては、家譜を省略して、たゞその人のうへをつばらにするものあり。文をつゞり義をのぶる、用心いつにあらず。看官みるひとよろしく察すべし。

里見八犬傳第二輯卷之三終

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第十六回)

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