南総里見八犬伝(017)

南總里見八犬傳第二輯卷之三第十六回
東都 曲亭主人 編次
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「山院さんいんに宿しゆくして番作ばんさく手束たつかを疑うたがふ」「菴主蚊牛」「たつか」「大塚番作」

白刃はくじんの下もとに鸞鳳良緣らんほうりやうえんを結むすぶ
天女てんによの廟やしろに夫妻一子ふさいいつしを祈いのる

 卻說大塚番作かくておほつかばんさくは、淺痍あさでなれども一晝夜いちちうや、夥あまたの程みちを來にければ、疲勞つかれとともにその痍きず痛みて、通宵よもすがらいもねられず、枕まくらにかよふ松の聲、溪澗たにかはの音さわがしく、ぬるとはなしに目睡まどろみけん、紙門隔ふすまこしにうち譚かたらふ、聲するに驚覺おどろきさめ、枕を欹そばたてて熟聽つら〳〵きけば、老およつけたる男の聲也。「されば菴主あんしゆはかへりけん。渠何事かれなにことをいふにかあらん」、と耳を澄すまして聞く程に、忽地女子たちまちをなこの泣聲なきこゑして、「そは聞きゝわきなし、むじんなり。衆生濟度しゆぜうさいどは佛のをしえ、よしそれまでに及およばずとも、心を穢けがす破戒はかいの罪、法衣ころもに愧はぢず刃やいばもて、殺ころさんとは情なさけなし」、といふは正まさしく宿貸やどかして、吾われをとゞめし女子をなこなり。「原來菴主さてはあんしゆは破戒の惡僧あくそう、妍かはよき少女をとめを妻にして、彼奴かやつを餌ゑばに旅人りよじんをとゞめ、竊ひそかに殺して物をとる、山賊さんぞくに究きわまれり。たま〳〵君父くんふの怨うらみを復かへし、恥を雪きよめ、危難を脫のがれて、こゝまで來つるに阿容々々おめ〳〵と、われ山賊の手に死しなんや。先さきにすれば人を征せいす。こなたより擊うつて出いで、鏖みなころしにすべけれ」、と思ひ決さだめて些ちつとも騷さわがず、竊ひそかに起おきて帶引締ひきしめ、刀を腰に、かゝぐりかゝぐり、紙門ふすまのほとりへ潛しのびよりて、開闔たてつけの間準ひずみより、縡ことの容やうを闕窺かいまみるに、その年四十あまりの惡僧、手に一挺いつてうの菜刀なかたなをふり揚あげて、女子をなこに對むかひて威おどしつ賺すかしつ、いふこと定さだかに聞えね共、われを擊うたんず面魂つらたましひ、女子をなこはこれを禁とゞめあへず、髮かみふり紊みだしてよゝと泣なく。害心既に顯然げんぜんたる、爲體ていたらくに番作は、聊いさゝかも疑はず、紙門ふすまを丁ちやうと蹴けひらきて、庖湢くりやのかたへ跳出おどりいで、「山賊われを殺さん欤か。われまづ汝なんぢを殺すべし」、と罵のゝしりあへず飛とびかゝれば、惡僧大おはきにうち驚き、拿もつたる刃やいばを閃ひらめかして、斬きらんとする拳こぶしの下を、潛くゞり脫ぬけつゝ足を飛とばして、腰眼ゐのめのあたりを磤はたと蹴ける。蹴られて前へひよろ〳〵と、五六步いつあしむあし走り出いだして、やうやくに踏駐ふみとゞまり、ふりかへつて突つきかくるを、右へ流し、左へ、辷すべらし、數回あまたゝびかけ、惱なやまして、疲勞つかるゝ處をつけ入りて、竟つひに刃やいはをうち落せば、惡僧いよ〳〵こゝろ慌あはてて、迯にげんとすれば、番作は、莱刀なかたな手ばやくとり揚あげて、「賊僧天罰思ひしれ」、と罵のゝしる聲ともろ共ともに、あびせかけたる刃の電光いなつま、脊條せすぢをふかく劈つんざいたり。灸所きうしよの痛痍いたでに、霎時しばしも得堪えたへず、惡僧は「苦あつ」と叫びて、仆たふるゝ胸膈むなさき、とゞめの刀尖きつさき、刺さしつらぬきて引拔ひきぬく莱刀、血を揮ふりたらして、刃を拭ぬぐひ、𥉉あはて〚目+條〛惑まどひて迯にげも得ず、伏沈ふししづみたる女子をなこに對むかひて、眼まなこを瞪いからし聲をふり立たて、「汝なんぢは甲夜よひに飯いひを惠めぐみて、一碗いちわんの恩あるに似たり。又賊僧がかへり來て、われを殺さんとするを禁とゞめし、こは側隱そくいんの心なれども、この賊僧が妻となりて、是これまでいくその人を殺せし、是これも亦またしるべからず。されば脫のがれぬ天の誅せめ、速すみやかに首伏はくでうして、刃やいばを受うけよ。いかにぞや」、と問とはれて僅はつかに頭かうべを擧あげ、「その疑ひは情由わけしらぬ、おん身が心の惑まよひにこそ。わらはは固もとより然さるものならず」、といはせもあへず冷笑あざわらひ、「淺くも言ことを左右によせて、時を移して小賊等こぬすびとらが、かへるをまちて夫をとこのために、怨うらみを復かへさんと思ふ汝なんぢが胸中きやうちう、われかばかりの倆伎たくみに乘のらんや。吿つげずはこれもていはせん」、と打晃うちひらめかす菜刀なかたなの光と共に飛とび退しりぞき、「やよ俟まち給へ、いふことあり」、といへ共聽ゆるさぬ怒いかりの刀尖きつさき、何處いづこまでもと夤緣つけまはす、刃頭はさきに盾たてもなよ竹の、雪に折をれなん風情ふぜいにて、右手めてを伸のばし、左手ゆんでを衝つき、片膝立かたひざたてて身を反そらし、後うしろざまに迯遶にげめぐるを、番作はなほ逃のがさじ、と擊うてばひらき、拂へば沈み、立たゝんとすれば頂いだゞきの上に閃ひらめく氷の刃やいば、脫のがれかた手を懷ふところへ、さし入るゝ間ひまもなく、斬きら*んと進む目前まなさきへ、とり出いだす一通つきつけて、「これ見て疑ひ散はらし給へ。聞きゝわきなや」、と兩の手に、引延ひきのばしたる命毛いのちげの、筆ふでに示せしその身の素姓すせう、番作得とくと透すかし見て、思はず刃をとり直し、「こゝろ得かたき書狀しよでうの名印ないん。梵妻賊婦ぼんさいぞくふが艷書欤ゑんじよか、と思ふには似ず勇士の遺書かきおき。やうこそあらめ、その情由わけ語れ」、と身をひらかし、刃を席薦たゝみに突立つきたてて、膝折敷ひざをりしきて目守まもりてをり。

 當下女子そのときをなごは一通を、卷まきおさめつゝ目を拭ぬぐひ、「わが身似げなく道場の留守せし間からに今こ宵よひの厄難やくなん、搗かてて加くはえておん身がうへに、聞きゝとり給ふも無理ならず。今は匿つゝむによしなやな。抑そも〳〵わらはは御坂みさかの人民ぢうにん、井丹三直秀ゐのたんざふなほひでが女兒むすめにて、手束たつかと喚よばるゝものに侍はべり。父直秀は鐮倉殿かまくらどの(持氏もちうじをいふ)の、恩顧おんこの武士で侍はべりしかば、持氏朝臣もちうぢあそんのおん滅亡めつばう、兩公達りやうきんだちは結城ゆふきの城へ、盾籠たてこもらせ給ふよし、聞きくとそがまゝ御坂をうち起たち、手勢僅てせいはつかに十餘人、倶ぐして結城に馳はせ加くはゝり、合戰年を累かさぬるものから、孺君わかぎみ御武運ひらかせ給はず、いぬる月の十六日に、結城の城を陷おとされて、名ある人々もろ共に、父直秀も擊うたれ侍り。こはその今果いまはの遺書かきおきにて、落城のその旦あした、家の老僕おとなに資もたらして、御坂へ還かへし給ひにき。母は去年こぞよりそなたの天そらを、瞻仰ながめつくして物思ひ、果はては氣病きやみに病髐やみさらばひて、命危あやうきをりも折、無常むじやうの風の便たよりして、結城の沒落ぼつらく、父が最期さいご、しらせに來つる老僕おとなさへ、痛痍いたて負ひつゝ途みちの疲勞つかれに、亦活またいくべうもあらずとて、殉腹切おひはらきりて卽座そくざに落命らくめい。家に仕つかふる奴婢ぬひなンどは、緣坐えんざの咎とがをおそれけん、憑氣たのもしけなく早晚いつしかに、逐電ちくてんして一人ひとりも遺のこらず。何なにせんすべもわらはが身ひとつ、看病みとりかねつゝ親と子が、音ねにのみぞ鳴く磬蝉うつせみの秋をも俟またでよわりゆく、母は本月このつき十一日に、卒つひに縡絕こときれ侍りにき。葬ほうむりの事なども、はつかに親ちかき里人等さとびとらが、好意なさけによりてその曛昏ゆふくれに、この道場に送り侍り。きのふは父の初月忌しよぐわつきにて、けふなん母の初七日しよなのか也。心ばかりの布施齎ふせもたらして、きのふもけふも亡親なきおやの墓參りする每ごとに、菴主あんしゆは慇懃ねんごろに慰めて、しばしが程とて庵いほりの留守を、任用うちまかして出いでてゆきつる、これらの事は甲夜よひの間まに、既におん身に吿侍つげはベり。この道場を拈華ねんげといひ、菴主の法名はふめうは蚊牛ぶんぎうとやらん、彼此人をちこちひとの歸依僧きえそうにて、わが家いへも亦檀越まただんゑつなれば、聊いさゝか疑ふよしもなく、請こはるゝ隨まゝに推辭いなみかねて、菴いほりを守まもりて日をくらし、菴主が還かへりて後のちに稍やゝ、こゝろありての所爲わざとはしりつ。淺ましきかなこの法師、何いつの程にか懸想けさうして、わらはを一宿留ひとよさとゞめんために、詭欺たばかりて留守るすを誂あつらへ、小夜深さよふくる比ころかへり來て、わらはを捉とらへて艷語さゞめこと、法師には又あるまじき、婬たはけきかぎりに胸潰つぶれ、阻こばみてほとりへよせ著つけねば、果はては威をどしの菜刀なかたたを、うち閃ひらめかして挑いどむ程に、その聲さへに高うなりて、いざときおん身に疑うたがはれ、思ひかけなく殺され侍り。只是過世たゞこれすくせの業因歟ごういんか*。佛弟子ぶつでしとして婬いろを貪むさぼり、詭いつはりをもてわらはを留とゞめ、强しゐて姦おかさんとせし冥罰めうばつは、立地たちところにしてその身に及べり。いと悲しむべきことになん。さればおん身に宿やどせし事を、菴主あんしゆに吿つぐるに遑いとなくて、縡ことはやこゝに及およべるものを、渠かれいかにしてわらはが外ほかに、又人ありとしるよし侍らん。おん身みづから思惟おもひみて、その疑ひを散はらし給へ。さればわらはは結城ゆふきの殘黨ざんたう、他ひとの凋落おちめを自みの利にして、揇からめて都へ牽ひかんとならば、脫のがるゝに路みちは侍らじ。人を殺して物を略とる、賊婦梵妻ぞくふぼんさいなンどゝは、身に被きせらるゝ濡衣ぬれきぬなれば、許さでは死なじ。これのみならで、亡親なきおやの名を汚けがさじ、と思へばこそあれ惜をしからぬ、命を惜をしみ侍るかし」、といひかけて目を押拭おしぬぐふ、雄をゝ々しき少女をとめの物がたりに、番作思はず小膝こひざを拍うち、「原來さてはおん身は井丹三直秀ゐのたんざふなほひでぬしの息女そくぢよなりし欤か。今示されし一通に、直秀とは讀よみしかど、同名異人どうめいゐじんなきにあらねば、緣由ことのよしをしるまでは、といまだわが名を吿のらざりし。父は鐮倉譜第ふだいの近臣、大塚匠作三戍おほつかせうさくみつもりが子に、番作一戍かずもりとはわが事なり。兩公達りやうきんだちに傅かしつきて、籠城ろうぜうのはじめより、おん身が父とわが父と、共に後門からめてを固めしかば、他事たじなく相譚かたらひ候ひき。かくて落城の日に及びて、聊いさゝか思ふよしあれば、某それがしは父もろ共、虎口こゝうを逭のがれて兩公達のおん跟あとを幕ひ奉り、樽井たるゐまで參りしに、孺君其處わかぎみそこにて擊うたれ給ひ、父匠作も討死うちじにせり。某當坐それがしたうざに親の仇あた、牡蛎崎小二郞かきざきこじらうといふものを擊うちとめ、君父くんふの首級しるしを奪うばひとり、血戰して必死を脫まぬかれ、一晝夜にして二十餘里、既に迥はるかに來にければ、三頭みつのかうべを瘞うづめん、と思ふ折から當寺の墓所むしよ、こゝ究竟くつきやうと新葬あらほとけのほとりの壤つちを掘發ほりおこし、竊ひそかに其處そこへ埋果うづめはてて、さて宿りをば乞こひしなり。固もとより、われは落人おちうとにて、吹く風に尙すら心をおけば、嚮さきに法師が爲體ていたらく、そのいふよしをよくも得聞えきかず、われを害するもの也、と思ひにければ霎時しばしも擬議ぎゝせず、早りてこれを殺せし事、おのが麁忽そこつに似たれども、しらずしておん身を救ひ、はからずして惡僧を、誅ちうせしは是冥罰これめうばつならん。斯かういへば何なにとやらん、おん身に意こゝろあるが如く、いといひがたき筋ながら、籠城ろうぜうの日に直秀ぬし、わが父に約束して『孺君わかぎみ武運ひらかせ給ひて、東國無異ぶゐに屬しよくしなば、われに一個ひとりの女兒むすめあり、子息しそくの婦よめに進まゐらせん』、『それこそ公私の幸さいはひなれ。必かならずよ賜たまはらん』、と契ちぎりし親はもろともに、ほゐを得遂えとげず討死うちじにし、その子どもらはもろ共に、必死を脫のがれて名吿なのりあふ。つれなきものは命也。誠まことにしらぬことながら、もし悞あやまちておん身を害し、後のちにそれぞとしるならば、なき親達へ掌てを合あはし、何なにといひとくよしあらん。危あやうかりし」、と人のうへ、わがうへさへに說とき諦あかす、誠心辭まこゝろことばにあらはれたり。

 手束たつかはこれをつく〳〵と、聞きゝつゝ件くだんの一通を、再びさらりと推披おしひらき、「豫かねてその名は聞きゝながら、おもひがけなき番作さま、こゝにて名吿なのりあひし事、竭つきせぬ緣えにしに侍るかし。これ臠みそなはせわが父の、今果いまはに遺のこす鳥の跡、とゞめかねたるかへす書かき、おん身が事をいといたう、遺憾のこりをしとぞ聞え給ふ。かゝる契ちぎりのむなしからで、君と親との三みつの頭顱みぐしを、瘞うづめ給ひしその側かたへなる、新葬あらほとけはわらはが母の、墳塋おきつちにてぞ侍はべるなる。親と親とが許したる、妹伕いもせといはんもはづかしながら、けふよりして存亡いきしにを、おん身と共にせまほしき、外ほかに情願のぞみはなきぞとよ。能よきにはからせ給ひね」、といひあへず顏をうち掩おほへば、番作聞きゝて感嘆し、「はからずこゝに舅姑しうとしうとめ、塚を竝べて兩公達りやうきんたちの遺骨を守るのみならず、約束かたき妹いもと伕せに、環會めぐりあはせ給ひぬる、これ將はた親のなき魂たまの、儐みちびき給ふに疑ひなし。かゝればおん身を携たづさへて、深く浮世うきよを潛しのぶべし。然さりながら、おの〳〵親の喪にをれば、夫妻つまといはんも心にず。十三月の服果ぶくはてて、又更あらためて夫婦とならん」、といふに手束はうち點頭うなづき、「わらはも如右しかぞ思ひ侍る。おん身既に蚊牛法師ぶんぎうはうしを、殺し給へば人もぞしらん。後のちの殃危わざはひなからずやは。こゝを思へば御坂みさかなる、わが家いへにしも伴ひがたし。信濃しなのなる筑摩ちくまには、母がたの由緣ゆかりあり。特ことに亦彼處またかしこの溫泉いでゆは、刀瘡きりきずに效こうありとなん。むかし淨見原きよみはらの天皇すべらみこ、此湯このゆに行幸みゆきあらんとて、輕部朝臣足瀨等かるべのあそんあしぜらに、行宮かりみやを造らし給へば、今も御湯みゆとぞ唱となへ侍る。誘いざ給へもろ共に、筑摩の里へ」、と勸すゝむれば、番作これに隨ひて、天よあけぬ程に、といそがしつゝ、更に手束を伴ふて、拈華庵ねんげあんを走り出いで、ゆくこと僅はつかに五六町、遙はるかに後方あとべを見かへれば、道場のかたに火もえ出いでて、ゆく先さへにあかゝりけり。手束はこれを驚き見て、「あな鈍おぞましや、出いづるときに、心慌あはてて火を滅けさず。されば過失あやまちしてけり」、とうち呟つぶやくを、番作は、聞きゝあへずほゝ笑えみて、「手束さのみな驚き給ひそ。拈華奄ねんげあんは山院さんいんにて、浮世に遠き佳境かきやうなれども、亂みだれたる世は淸僧稀せいそうまれ也。彼蚊牛尙婬かのぶんぎうすらいろを貪むさぼり、漫そゞろに不良のこゝろを起おこせり。渠かれ死して後住ごぢうなくは、卒つひに山賊の寨すみかとならん、と思ひにければ出いづるとき、埋火うづみひを掻起かきおこし、障子簾せうじすだれをよせかけおきつ。こゝをもて彼庵室かのあんしつは、はや灰燼くわいじんとなりつる也。蚊牛寔まことにその罪あり。但渠たゞかれいまだ欲を得遂えとげず、はやくわが手に死せし事、憐あはれむにしもあらざれど、心に愉こゝろよしとせず。されば法師を火葬して、その恥をかくし得させしは、わが一片いつへんの老婆心ろうばしん。彼處かしこは君父くんふの墳塋おきつちあり、これを燒やくことよきにあらねど、賊の寨すみかとするに忍びず。これ已やむことを得ざればなり。われ倘後もしのちに大かたならぬ、志こゝろさしを得たらんには、彼處かしこに伽藍からんを建立こんりうすとも、いとなし難がたきことかは」、と諭さとせば手束たつかははじめて曉さとりて、且かつ感じ、且かつ嘆じ、件くだんの猛火めうくわを燭あかしにして、後あとに跟つき、又先に立たち、いよ〳〵塗みちをいそぎけり。

 話分兩齣ここにまた、武藏むさしなる、大塚おほつかの鄕さとに母もろ共、年來潛居としごろしのびゐたりける、大塚匠作おほつかせうさくが女兒龜篠むすめかめさゝは、前妻せんさいの子なりしかば、番作には異母はらかはりの姉にはあれど、心ざま、父にも弟おとにも似ざるものにて、親同胞おやはらからの籠城ろうぜうを、想像おもひやる氣色けしきもなく、況まいて繼母けいぼの千辛萬苦せんしんばんくを、露つゆばかりも念こゝろとせで、生なまこゝろつきし比ころより、結髮化粧かみあげけはひに、春の日を長しとせず、情郞おもふをとことしのびあふ日は、秋の夕ゆふべを短しとせる、嗚呼をこの婬婦たをやめなりといへども、生なさぬなかとて母親は、仂はしたなくこれを懲こらさず、傍かたはらいたく思ふのみ、いとゞ多病になりにけり。されば龜篠かめざゝは、同鄕おなじさとなる、彌々山蟇六やゝやまひきろくといふ破落戶いたつらものと、ふかく契りて、その情鰾膠ぜうにべもて接つぎたるごとく、皮なくは君とわれ、比目連理ひもくれんりに身をなして、霎時しばしもほとりを離れじ、と思ふ心は日にまして、存亡そんぼう不定ふじやうの父が籠城、母の劬勞くろうを幸さいはひにすなれど壻むこを招とるべき折にあらねば、とさまかうさま思ふ程に、結城ゆふきの城をおとされて、父匠作は美濃路みのぢなる、樽井たるゐにて討死うちしにし、弟おとゝ番作は往ゆく方へしれず、と今茲七月上浣ことしふつきはじめつかた、大塚に聞えしかば、さらぬだに思ひほそりて、病やむを常なる母親は、「こは什麼そもいかに」、と歎なげきかなしみ、その日よりして頭まくらあがらず、湯水ゆみづも咽喉のんどに下くだらねば、死をまつより外ほかにすべなし。龜篠は「わが手ひとつに、母の病著看いたつきみとりがたし。月來つきころより憑たのもしき、人と思へば此このせち也。蟇六どのを傭やとはん」とて、そがまゝ渠かれを引入れて、人目ばかりの湯液三味くすりざんまい、母のうへをば外よそにして、蟇六と共に食しよくし、共に寢いぬるを又あるまじき、樂たのしみとのみ思ひけり。さる程に母親は、その月の晦つごもりに、四十よそぢの月を見のこして、卒つひにはかなくなりしかど、烏からすの外ほかに泣なくものなく、何なにがし寺てらへ送られて、標しるしの石は苔蒸こけむせども、詣まうづるものは稀まれなりき。

 かくて龜篠かめざゝは、情願のぞみの如く、蟇六ひきろくと夫婦になりて、一兩年いちりやうねんを送る程に、嘉吉かきつ三年の比ころかとよ、前管領持氏朝臣さきのくわんれいもちうぢあそんの季すゑのおん子、永壽王ゑいじゆわうと申せしは、鐮倉滅亡のとき、乳母めのとに抱いだかれ、信濃しなのの山中に脫のがれ給へば、郡ぐんの安養寺あんようじの住僧ぢうそうは、乳母めのとが兄なるをもて、精悍かひ〳〵しくとりかくし、譜第ふだいの近臣、大井扶光おほゐすけみつと心を合あはして、年來としごろ養育し奉る、と鐮倉に風聞ふうぶんせしかば、管領憲忠のりたゞの老臣、長尾判官昌賢ながをのはんくわんまさかた、これを東國とうこくの諸將と相謀あひはかり、遂つひに鐮倉へ迎むかへとりて、八州はつしうの連帥れんすいと仰ぎ奉り、則元服すなはちげんふくさせまゐらせて、左兵衞督成氏さひやうゑのかみなりうぢとぞまうしける。されば結城ゆふきにて討死うちしにせし家臣の子孫を、召出めしいださせ給ふよし聞えしかば、又彼彌々山かのやゝやま蟇六は、「時を得たり」、と歡よろこびつゝ、俄頃にはかに大塚氏おほつかうぢを冒おかして、鐮倉へ參上し、美濃みのの樽井たるゐにて討死せし、おん兄春王せうとしゆんわう安王兩公達やすわうりやうぎんたちの傅かしつきたる、大塚匠作せうさくが女壻むこなるよしを訴へて、恩賞を乞こひしかば、昌賢やがて豐嶋としまなる、大塚へ人を遣つかはし、縡ことの虛實を糺明きうめいせしに、匠作が女兒むすめにそふ事、既に分明ふんめうなりといへ共、蟇六が人となり、武士になるべきものにあらねば、僅はつかに村長むらおさを命ぜられ、帶刀たいとうを許されて、八町四反ちやうしたんの莊園せうゑんを宛あて行おこなはれ彼地かのちの陣代ぢんだい大石兵衞尉おほいしひやうゑのぜうが下知げぢを承うけて、勤つとむべき旨むねを仰おふせらる。是これよりして暮六は、瓦廂かわらひさしに衡門かぶきもん、いかめしく造つくり建たてて、奴稗ぬひ七八人ン召使ひ、莊客們ひやくせうばらを譴債せめはたりて、おのが田へのみ水さへ引ひけば、その久後ゆくすゑはしらねども、豐ゆたけき人になりにけり。

 話分兩齣ここにまた、武藏むさしなる、大塚おほつかの鄕さとに母もろ共、年來潛居としごろしのびゐたりける、大塚匠作おほつかせうさくが女兒龜篠むすめかめさゝは、前妻せんさいの子なりしかば、番作には異母はらかはりの姉にはあれど、心ざま、父にも弟おとにも似ざるものにて、親同胞おやはらからの籠城ろうぜうを、想像おもひやる氣色けしきもなく、況まいて繼母けいぼの千辛萬苦せんしんばんくを、露つゆばかりも念こゝろとせで、生なまこゝろつきし比ころより、結髮化粧かみあげけはひに、春の日を長しとせず、情郞おもふをとことしのびあふ日は、秋の夕ゆふべを短しとせる、嗚呼をこの婬婦たをやめなりといへども、生なさぬなかとて母親は、仂はしたなくこれを懲こらさず、傍かたはらいたく思ふのみ、いとゞ多病になりにけり。されば龜篠かめざゝは、同鄕おなじさとなる、彌々山蟇六やゝやまひきろくといふ破落戶いたつらものと、ふかく契りて、その情鰾膠ぜうにべもて接つぎたるごとく、皮なくは君とわれ、比目連理ひもくれんりに身をなして、霎時しばしもほとりを離れじ、と思ふ心は日にまして、存亡そんぼう不定ふじやうの父が籠城、母の劬勞くろうを幸さいはひにすなれど壻むこを招とるべき折にあらねば、とさまかうさま思ふ程に、結城ゆふきの城をおとされて、父匠作は美濃路みのぢなる、樽井たるゐにて討死うちしにし、弟おとゝ番作は往ゆく方へしれず、と今茲七月上浣ことしふつきはじめつかた、大塚に聞えしかば、さらぬだに思ひほそりて、病やむを常なる母親は、「こは什麼そもいかに」、と歎なげきかなしみ、その日よりして頭まくらあがらず、湯水ゆみづも咽喉のんどに下くだらねば、死をまつより外ほかにすべなし。龜篠は「わが手ひとつに、母の病著看いたつきみとりがたし。月來つきころより憑たのもしき、人と思へば此このせち也。蟇六どのを傭やとはん」とて、そがまゝ渠かれを引入れて、人目ばかりの湯液三味くすりざんまい、母のうへをば外よそにして、蟇六と共に食しよくし、共に寢いぬるを又あるまじき、樂たのしみとのみ思ひけり。さる程に母親は、その月の晦つごもりに、四十よそぢの月を見のこして、卒つひにはかなくなりしかど、烏からすの外ほかに泣なくものなく、何なにがし寺てらへ送られて、標しるしの石は苔蒸こけむせども、詣まうづるものは稀まれなりき。

 不題大塚番作一戍さてもおほつかばんさくかずもりは、曩さきに手束たつかを伴ひて、信濃しなのの摩筑ちくまに赴おもむきつ、こゝにて湯治とうぢする程に、手足の痍きずは瘥いえたれども、膕こむらの筋や縮つまりけん、是これより行步ぎやうぶ自在ならず。よりてそが侭まゝ筑摩にとゞまり、一年ひとゝせあまり送る程に、父の喪は果はてながら、まだ武藏むさしなる母を得問えとはず。今茲ことしは杖つゑに携すがりても、大塚に赴おもむかん、と思ふに甲斐かひなくこの夏は、瘧疾わらはやみに犯されて、秋盡あきはつるまで頭まくらあがらず、憂苦ゆうくの中うちに年月としつきたちて、嘉吉も早はや三年にぞなりぬ。世間陜よのなかせまき身をかへり見ず、なほ大塚と吿のらんこと、その憚はゞかりなきにあらねば、筑摩に足を駐とゞめし日より、大塚の大だいの字に、一點を加くはえつゝ、犬塚番作いぬつかばんさくと名吿なのるものから、定めたる世の經營いとなみもあらず、手束は僅はつかに織績おりつむぐ、その麻衣あさきぬの麻絲より、細煙はそきけふりを立たてかねつ、かり染そめながら三年みとせの流浪るらうに、貯祿たくはへ既に竭果つきはてて、いかにせまし、と思ふ折、春王安王しゆんわうやすわうのおん弟永壽王おとゝえいじゆわう成氏朝臣なりうぢあそん、長尾昌賢ながをまさかたが計はからひにて、鐮倉の武將と仰あふがれ、戰死の家臣の子どもらが、彼此をちこちに潛居しのびをるを、召出めしいだし給ふとなん、筑摩の溫泉いでゆに湯治する、行客等たびゝとらが物かたりす。風聲ふうぶん大かたならざれば、番作夫婦はふかく歡よろこび、「今は何いづれの時をか俟またん。縱行步たとひぎやうぶは不自由なりとも、ともかくもして武藏むさしへ赴き、母と姉とに對面して、直たゞに鐮倉へ推參すいさんし、春王丸しゆんわうまるのおん像見かたみ、村雨むらさめのおん佩刀はかせを、成氏朝臣に獻たてまつりて、父匠作がうへはさら也、舅井直秀しうとゐのなほひでが忠死の趣おもむきを吿つげ奉りて、わが進退を君に任まかせん。然さは」とて夫婦遽いそがはしく、起行かしまたちの准備ようゐして、年來蔭としごろかげを蒙かふむりし、由緣ゆかりの里人等に別わかれを吿つげて、武藏の大塚にぞおもむきける。
 さはれ番作は、隻脚蹇かたしなへたり、杖つゑを力に道すがら、女房手束たつかに扶掖たすけひかれ、數町すてうにしてはや憩いこひ、三四里にして日をくらせば、思ひの外ほかに日數ひかず積りて、八月はつきに信濃しなのを出いでしかど、十月かんなつきのすゑに及およびて、やうやく舊里ふるきと近くなりつ。番作は今さらに、母のうへ心もとなく、鄕さとより些すこしこなたなる、白屋くさのやに立たちよりて、「大塚匠作てふ人の、妻と女兒むすめは恙つゝがなしや」、と外よそがましげに問とひしかば、亭主いへぬしとおぼしき翁おきな、稻扱いねこきながら夫婦を見かへり、「原來和達さてはわたちは彼方かのかたざまの、發迹なりいでつる事しらざるよ。母親は身まかりて、二年ふたとせあまり、三年みとせにもなるべし。そが著病いたつきを看みとりはせで、女めの子こが不孝淫奔ふこういたつらは、吿つぐるも傍痛かたはらいたかるべし。そが壻女むこ彌々山蟇六やゝやまひきろくは、爪彈つまはぢきせざるものなき、破落戶いたつらもので候ひしが、箇樣々々かやう〳〵の由緖ゆいしよをまうして、八町四反はつてうしたんの莊園せうゑんを給はり、刀をさへ許されて、村長むらおさをうけ給はり、今では大塚蟇六といふ也。その宅地やしきは竝桐なみきりのあなた、如此々々しか〳〵の處にこそ」、と叮嚀ねんころに誨をしえしかば、番作聞きゝあへずうち驚き、なほ姉龜篠かめざゝが爲體ていたらく、蟇六が人となりさへ、詳つばらかに問盡とひつくして、外面とのかたへ退しりぞき出いで、手束もろ共言葉はなくて、頻しきりに淚さしぐみけり。且しばらくして番作は、杖つゑをとゞめて、嘆息し、「身の病著いたつきとはいひながら、うたてや筑摩に年をかさねて、母の終焉しうゑんにあひ奉らず。加以これのみならず父が忠死を、暮六とやらに掠かすめられ、大塚の苗字めうじを穢けがさる。今このよしを訴うつたへんに、村雨むらさめの寶刀みたちわが手にあり、勝利疑ひなしといふとも、榮利ゑのりの爲に姉と爭ひ、骨肉牆こつにくかきを鬩せめぐが如きは、わがせざる所也。かゝれば此このおん佩刀はかせも、鐮倉殿に獻じがたし。わが姉は不孝の人也。壻蟇六むこひきろくは不義にして富とめり。憑氣たのもしげなき姉夫婦に、ものいふべうも思はぬかし。さはあらずや」、と呟つぶやけば、手束たつかは淚を拭ぬぐふのみ、そを理ことわりともいひかねつ、慰なぐさめかねつ、目をあはし、齊一嗟嘆ひとしくさたんしたりける。

 これによりて番作は、蟇六許がり赴かず、故老こらうの里人等さとびとらを音おとつれて、わがうへ妻のうへさへに、落おちもなく是これを吿つげ、志氣こゝろざしを說示ときしめして、親の墳墓ふんぼを護まもらん爲、この地に住ひせんといふ。里老さとのおとなは番作が、薄命はくめいをあはれみて、愉こゝろよくうけ引ひきつ、彼此人をちこちひとを召集合よびつどへて、件くだんの事をしらすれば、衆皆聞みな〳〵きゝて憤いきどほりに得堪えたへず、「わが村はむかしより、大塚氏おほつかうぢの采地れうぶんたり。一旦斷絕するといへども、本領安堵ほんれうあんどの今に至いたりて、實子じつしは日蔭ひかげの花と凋しぼみ、姉夫あねむことはいひながら、破落戶いたつらものの蟇六に、すべて橫領わうれうせられし事、これにましたる不幸やある。さりとても今さらに、爭あらそはんは、世話せわにいふ、證文あかしぶみの出後いでおくれにて、勞して功なき訟うつたへなるべし。弱きを扶たすけて、强きを折くぢくは、東人あつまうどの生平つねぞかし。憎しと思ふ蟇六が面つらあてに、番作ぬしをばともかくも、當村中たうむらちうが引承ひきうけて、養ふてまゐらせん。足は蹇なえても、手は折くぢけても、心やすく思ひ給へ」、と一人ひとりがいへば僉諾みなうべなひて、囂かしがましきまで憑たのもしく、立地たちところに衆議一決しゆぎいつけつして、番作夫婦を款待もてなしけり。

 かくて件くだんの里人等さとひとらは、番作が爲に、その居宅すみかを卜さだむるに、蟇六が宅地やしきの前面むかひに、ふるくもあらぬ空房あきやあり。「これ究竟くつけう」と購求あがなひもとめて、番作夫婦を彼處かしこへ移し、又錢ぜにを出いだし集あつめて、些ちとの田園たはたを購求め、これを番作田ばんさくたと唱となへつゝ、夫婦が衣食の料れうにせり。是これその舊主きうしゆの恩を思ひ、番作が薄命はくめいを、相憐あひあはれむのみにあらず、憎しと思ふ蟇六夫婦に、物を思はせんとての所行わざなるべし。剛毅木訥こうきぼくとつは仁じんにちかしといひけん、聖語せいごもこれらがうへに稱かなへり。かゝりしかば番作は、里人等が好意なさけにて、富むにはあらねど、貧まづしきに苦くるしまず、苗字めうじは姉あね夫むこに奪うばばれたるに、今更大塚に復かヘさんも無益むやくなりとて、なほ犬塚いぬつかと唱となへつゝ、里の總角等あげまきらに、手蹟しゆせきの師範しはんして、親たるものゝ恩に報ひ、手束は里の女めの子等こらに、絮わたを延つみ、衣きぬを縫ふ事わざを敎えて、親たるものゝ恩に報ひしかば、里人等は歡よろこびて、野菜の初穗はつほ、何なにくれとなく、物を贈るも多かりけり。(時に嘉吉三年なり。去年安房あはにて伏姬ふせひめ生れ、今茲ことしは義成誕生せり。事は肇集第八回に見えたり)

 さる程に蟇六龜篠ひきろくかめさゝは、死せりと思ひし番作が、癈人かたはにはなりたれども、妻さへに將て還かへり來きつ、里人等に尊信せられて、わが家いへの向斜むかひなゝめに、卜居やうつりせし爲體ていたらく、見もし聞きゝもする每ごとに、妬ねたき事限りなし。「けふはわが方かたへや來つる。翌あすは人していはする欤か」、とやすき心もせざりしに、百步ほの間あはひに住居すまゐしながら、渠かれ一トたびも姉を訪とはず。今はとて腹にすえかね、有一日あるひ龜篠は、蟇六と商量だんかふし、人をもて、番作にいはするやう、「わらは女のかひなき身にて、母を看みとりて怠おこたらず。親の遺言默止ゆいげんもだしかたくて、蟇六どのを招き入れ、絕たえたる家を興おこせし事、人のしる所なり。しかるに和殿わとのは阿容々々おめ〳〵と、戰場せんじやうを逃のがれ去さり、鼬いたちの如く走り隱れて、母の今果いまはにあふよしもなく、命助たすかりたるを幸さいはひに、世間廣くなるまゝに、婦女子をうなこを携來たづさへきて、里人等を詐欺たぶらかし、既にその蔭かげを蒙かうむりて恥とせず、間近まちかき住居すまゐをこれ見よかしに、一トたびもわらはを訪はず、他人を親したしみ、骨肉こつにくを遠とほざけて、無禮なめなるはいかにぞや。われはともあれわが良人つまは、大塚の家督にして、既に一鄕いちごうの長をさたり。よしや人ならぬ心を挾さしはさみ、胡越こゑつの思ひをなすとても、國に貴賤きせんの差別あり、人に長少ちやうせうの禮讓あり。もしこれをしも知らずといはゞ、わが村に措おきかたし。他鄕たけうへ立去たちさり給へ」とぞいはせける。番作聞きゝて冷笑あざわらひ、「某寔それがしまことに不肖ふせうなれども、父とゝもに籠城ろうぜうして、主君の爲に命を惜をしまず、戰場にて死しなざりしは、君父くんふの先途せんとを見ん爲なりき。さればこそ樽井たるゐにて、父の仇あたを擊うちとめて、君父の首級しるしを隱しまゐらせ、はからずも親の結びし、女房手束にようぼうたつかに名吿なのりあふて、筑摩ちくまの御湯みゆに手痍てきずを保養し、僅はつかに平愈へいゆしたれども、行步ぎやうぶ不自由にして、長途ちやうどに得堪えたへず。去歲こぞは又長病ちやうびやうに、一年ひとゝせを化あだに過すぐしつ。今茲ことし再びおもひ起して、杖つゑに携すがり、妻に扶たすけられ、稍やゝ來て聞けば母の終焉しうゑん、わが姉の不孝淫奔いたつら、人のよくしるところ也。姉夫何等あねむこなにらの功ありて、重職ちゃうしよくをうけ給はり、大祿たいろくを賜りけん、是これわがしらざる所也。某それがし父の遺命いめいによりて、春王君しゆんわうきみのおん佩刀はかせ、村雨むらさめの一腰ひとこしを、領あづかり奉りてこゝにあり。然さりともこれを鐮倉殿に獻たてまつらず、聊いさゝか爭ふ心なきは、わが姉夫婦の幸ひならずや。番作寔まことに不肖なれ共、不孝の姉を見るに忍びず、不義の姉夫あねむこには諛へつらひがたし。かくても當所を追おはんとならば、是非の及およばざる所なり。鐮倉へ訴うつたへ奉りて、公裁こうさいに任まかすべし」とぞ答こたへける。その人立たちかへりて、云云しか〳〵と吿つげしかば、龜篠かめさゝはさらにもいはず、蟇六ひきろくは直ひたと呆あきれて、無念腸はらわたを絞しぼれども、「毛を吹ふき、疵きずを求もとめんか」、とやうやくに思ひかへして、このゝちは音もせず。番作は杖つゑに携すがりて、母の墓參はかまゐりする折に、求もとめずして蟇六と、面おもてを對あはすることはあれども、ものいふ事はなかり

 かくて又十年とゝせあまりの春秋はるあきを歷へて、享德きやうとく三年十二月、鐮倉には成氏朝臣なりうぢあそん、亡父ぼうふの怨敵おんてきなればとて、管領憲忠くわんれいのりたゞを、忻たばかりよせて誅ちうせらる。是これより東國再び亂れて、次つぐの年康正こうせい元年(義實籠城よしさねろうぜう、安西景連あんさいかげつら、滅亡の年なり)には、成氏の軍いくさ敗れて、憲忠の弟房顯おとゝふさあき、その臣長尾昌賢等ながをまさかたらが爲に、鐮倉を追落おひおとされ、下總許我しもふさこがの城に籠こもりて、合戰亦複數年かつせんまたまたすねんに及べり。此このころ大塚番作おほつかばんさくは、つく〳〵と思ふやう、「今戰國の習ひとて、臣たるもの、その君を征せいし、冠履所くわんりところを異ことにせる、世のたゞすまひを見るにつけても、わが薄命はくめいは歎なげくに足らず。只後たゞのちなきを不孝とすなるに、女房手束にようばうたつかを娶めとりてより、十四五年が間あはひには、男兒をのこゞ三人みたりまで產うませたれども、襁褓むつきの中うちになくなりて、一人ひとりとして生育おひたつものなし。われと手束たつかは同庚おなじとしにて、渠かれはや三十みそぢの齡よはひに過すぎたり。又子を見ん事難かたかるべし。これのみ遺憾のこりをし」といふ、喞かごとがましき夫の述懷じゆつくわい、手束もおなじうらみには、姥捨山おばすてやまに見る月ならで、とにかく慰めかねたるが、忽地たちまちに思ふやう、「瀧たきの川かはなる辨才天ベんざいてんは、此このわたりなる古廟こびやうにて、靈驗れいげんありと人はいふなる。祈らば應報おうほうなからずやは」、と思へばやがて夫をつとに吿つげて、次つぐの日より朝とく起おきて、件くだんの廟やしろに日參につさんし、一子いつしを祈りて他念なし。今茲長祿ことしちやうろく元年の秋よりはじめて、(伏姬八房ふせひめやつふさに伴れて、富山とやまのおくへ入りし年也)三年みとせが間あはひ、一チ日も懈おこたらず。

「庚申塚こうしんつかに手束たつか神女しんによに謁(ゑつ)す」「たつか」

 時に長祿三年、(伏姬自殺の翌年なり)九月廿日あまりの事なるに、手束は時をとりあやまちて、明殘あけのこる月影を、東しらみにけりと思ひて、遽いそがはしく宿所を出いでて、瀧の川なる岩屋殿いはやどのに參詣し、既に下向げこうに赴おもむけども、その夜よはいまだ明あけざりけり。「鈍おぞましや」、とひとりごちて、稻葉いなばの露を掻拂かきはらひつゝ、立たちかへる田の畔くろに、脊せは黑く、腹は白き狗いぬの子が、棄すてられたりとおぼしくて、人まち㒵がほに尾を掉ふりて、手束が裙すそにまつはりつ、追おひかへせば又慕ひ來て、離はなるべうもあらざれば、もてあましつゝ立駐たちとゞまり、「かくまで人を慕ふものを、いかなる人が棄すてたりけん。見ればこは牡狗をいぬなり。狗いぬは夥あまたの子を產うむものにて、その子はかならず育そだつもの也。よりて赤子あかこの枕邊まくらべに、狗張子いぬはりこを置おくぞかし。神に步あゆみを運ぶまで、一子を祈る心もて、いかでかこれを拾ひらはざらん。將てかへらん」、とひとりごちて、抱いだきとらんとする折から、南のかたに靉靆あいたいと、紫の雲たな引ひきて、地を去ること遠からず。と見れば嬋娟せんけんたる一個ひとりの山媛やまひめ、楚その宋玉さうぎよくが夢に見まみえし、神女しんぢよの俤おもかげをとゞめ、魏ぎの曹植そうちが筆ふでを託せし、洛神らくじんの顏かほばせをうつして、黑白斑毛こくびやくまだらの老犬おほいぬに尻しりうち掛かけ、左手ゆんでに數顆あまたの珠たまを拿もちて、右手めてに手束たつかを招きつゝ、辭ことばはなくて一ッの珠を、投與なげあたへ給ふになん、手束は今この奇特きどくを見て、おそる〳〵ついゐたるが、遽いそがはしく手をさし伸のべて、件くだんの珠を受うけんとせしに、珠は手股たなまたを漏もりて、輾々ころころと、雛狗こいぬのほとりに落おちしかば、其首そこか彼首かしこかと索たづねても、索たづねても又あることなし。「あな訝いぶかし」、とばかりに、そなたの天そらをうち仰あふげば、靈雲忽地迹れいうんたちまちあとなくなりて、神女しんによも共に見え給はず。こは平事たゞことにあらずと思へば、ふたゝび雛狗こいぬを抱いだきあげて、いそしく宿所に還かへりつゝ、件くだんの縡ことの趣おもむきを、夫番作につげていふやう、「拜おがまれ給ふ神女しんによの姿は、山姬やまひめといふものめきて、辨才天べんざいてんに似給はず。そが授け給ふなる、珠たまは子胤こたねでありけんものを、取失とりうしなひ侍りしかば、願望ねぎことかなはぬ祥さがにやあらん。こゝろに懸かゝり侍はべるかし」、といへば番作沈吟うちあんじ、「いな〳〵それにはよるべからず。件くだんの神女しんによは黑白斑毛こくびやくまだらの老犬おほいぬに乘給ふにあらずや。わが氏うぢは大塚おほつかなれども、犬塚いぬつかと更あらためき。又わが名は一戍かずもり也。一戍の戍もりの字は、則支干すなはちひよみの戌いぬなれば、名詮自性めうせんじせういと憑たのもし。加旃しかのみならずおん身さへ、今求もとめずして雛狗こいぬを獲えたり。念願成就の祥さがなるべし。その狗いぬをな走らし給ひそ。畜育かひたて給へ」、と諭さとされて、手束は「有理げにも」と思ひかへすに、憑たのもしき事いふべうもあらず。現げに番作が判はんぜしごとく、手束はいく程もなく身おもくなりて、寬正くわんせう元年秋七月ふつき、戊戌つちのえいぬの日に及びて、いと平たひらかに男兒をのこゝを產うみけり。この兒ちごは是これ名にしおふ、八犬士の一人ひとりにして、犬塚信乃いぬつかしのと呼よばれしは是なり。信乃が事はつばらかに、なほ後々のちのちの卷に解とかなん。

右犬塚信乃いぬづかしのが列傳は、父祖のうへを詳つばらにして、その他の事を省略す。是これより下すゑ、七しち士の傳に至いたつては、家譜を省略して、只たゞその人のうへを詳つばらにするものあり。文を綴つゞり義を演のぶる、用心一いつにあらず。看官みるひとよろしく察すべし。

里見八犬傳第二輯卷之三終

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第十六回)

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