南總里見八犬傳第二輯卷之三第十六回
東都 曲亭主人 編次
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「山院に宿して番作手束を疑ふ」「菴主蚊牛」「たつか」「大塚番作」
白刃の下に鸞鳳良緣を結ぶ
天女の廟に夫妻一子を祈る
卻說大塚番作は、淺痍なれども一晝夜、夥の程を來にければ、疲勞とともにその痍痛みて、通宵いもねられず、枕にかよふ松の聲、溪澗の音さわがしく、ぬるとはなしに目睡けん、紙門隔にうち譚ふ、聲するに驚覺、枕を欹て熟聽ば、老つけたる男の聲也。「されば菴主はかへりけん。渠何事をいふにかあらん」、と耳を澄して聞く程に、忽地女子の泣聲して、「そは聞わきなし、むじんなり。衆生濟度は佛のをしえ、よしそれまでに及ずとも、心を穢す破戒の罪、法衣に愧ず刃もて、殺んとは情なし」、といふは正しく宿貸て、吾をとゞめし女子なり。「原來菴主は破戒の惡僧、妍き少女を妻にして、彼奴を餌に旅人をとゞめ、竊に殺して物をとる、山賊に究れり。たま〳〵君父の怨を復し、恥を雪め、危難を脫れて、こゝまで來つるに阿容々々と、われ山賊の手に死んや。先にすれば人を征す。こなたより擊て出、鏖しにすべけれ」、と思ひ決めて些も騷がず、竊に起て帶引締、刀を腰に、かゝぐりかゝぐり、紙門のほとりへ潛びよりて、開闔の間準より、縡の容を闕窺るに、その年四十あまりの惡僧、手に一挺の菜刀をふり揚て、女子に對ひて威しつ賺しつ、いふこと定かに聞えね共、われを擊んず面魂、女子はこれを禁あへず、髮ふり紊してよゝと泣。害心既に顯然たる、爲體に番作は、聊も疑はず、紙門を丁と蹴ひらきて、庖湢のかたへ跳出、「山賊われを殺さん欤。われまづ汝を殺すべし」、と罵あへず飛かゝれば、惡僧大きにうち驚き、拿たる刃を閃して、斬んとする拳の下を、潛り脫つゝ足を飛して、腰眼のあたりを磤と蹴る。蹴られて前へひよろ〳〵と、五六步走り出して、やうやくに踏駐り、ふりかへつて突かくるを、右へ流し、左へ、辷らし、數回かけ、惱して、疲勞るゝ處をつけ入りて、竟に刃をうち落せば、惡僧いよ〳〵こゝろ慌て、迯んとすれば、番作は、莱刀手ばやくとり揚て、「賊僧天罰思ひしれ」、と罵る聲ともろ共に、あびせかけたる刃の電光、脊條をふかく劈たり。灸所の痛痍に、霎時も得堪ず、惡僧は「苦」と叫びて、仆るゝ胸膈、とゞめの刀尖、刺つらぬきて引拔莱刀、血を揮たらして、刃を拭ひ、𥉉惑て迯も得ず、伏沈みたる女子に對ひて、眼を瞪らし聲をふり立、「汝は甲夜に飯を惠て、一碗の恩あるに似たり。又賊僧がかへり來て、われを殺さんとするを禁めし、こは側隱の心なれども、この賊僧が妻となりて、是までいくその人を殺せし、是も亦しるべからず。されば脫れぬ天の誅、速に首伏して、刃を受よ。いかにぞや」、と問れて僅に頭を擧、「その疑ひは情由しらぬ、おん身が心の惑ひにこそ。わらはは固より然るものならず」、といはせもあへず冷笑ひ、「淺くも言を左右によせて、時を移して小賊等が、かへるをまちて夫のために、怨を復んと思ふ汝が胸中、われかばかりの倆伎に乘んや。吿ずはこれもていはせん」、と打晃す菜刀の光と共に飛退き、「やよ俟給へ、いふことあり」、といへ共聽ぬ怒の刀尖、何處までもと夤緣す、刃頭に盾もなよ竹の、雪に折なん風情にて、右手を伸し、左手を衝、片膝立て身を反らし、後ざまに迯遶るを、番作はなほ逃さじ、と擊ばひらき、拂へば沈み、立んとすれば頂の上に閃く氷の刃、脫れかた手を懷へ、さし入るゝ間もなく、斬んと進む目前へ、とり出す一通つきつけて、「これ見て疑ひ散し給へ。聞わきなや」、と兩の手に、引延したる命毛の、筆に示せしその身の素姓、番作得と透し見て、思はず刃をとり直し、「こゝろ得かたき書狀の名印。梵妻賊婦が艷書欤、と思ふには似ず勇士の遺書。やうこそあらめ、その情由語れ」、と身をひらかし、刃を席薦に突立て、膝折敷て目守てをり。
當下女子は一通を、卷おさめつゝ目を拭ひ、「わが身似げなく道場の留守せし間に今宵の厄難、搗て加ておん身がうへに、聞とり給ふも無理ならず。今は匿むによしなやな。抑わらはは御坂の人民、井丹三直秀が女兒にて、手束と喚るゝものに侍り。父直秀は鐮倉殿(持氏をいふ)の、恩顧の武士で侍りしかば、持氏朝臣のおん滅亡、兩公達は結城の城へ、盾籠らせ給ふよし、聞とそがまゝ御坂をうち起、手勢僅に十餘人、倶して結城に馳加り、合戰年を累るものから、孺君御武運ひらかせ給はず、いぬる月の十六日に、結城の城を陷されて、名ある人々もろ共に、父直秀も擊れ侍り。こはその今果の遺書にて、落城のその旦、家の老僕に資して、御坂へ還し給ひにき。母は去年よりそなたの天を、瞻仰つくして物思ひ、果は氣病に病髐ひて、命危きをりも折、無常の風の便して、結城の沒落、父が最期、しらせに來つる老僕さへ、痛痍負ひつゝ途の疲勞に、亦活べうもあらずとて、殉腹切て卽座に落命。家に仕る奴婢なンどは、緣坐の咎をおそれけん、憑氣なく早晚に、逐電して一人も遺らず。何せんすべもわらはが身ひとつ、看病かねつゝ親と子が、音にのみぞ鳴く磬蝉の秋をも俟でよわりゆく、母は本月十一日に、卒に縡絕侍りにき。葬の事なども、はつかに親き里人等が、好意によりてその曛昏に、この道場に送り侍り。きのふは父の初月忌にて、けふなん母の初七日也。心ばかりの布施齎して、きのふもけふも亡親の墓參りする每に、菴主は慇懃に慰めて、しばしが程とて庵の留守を、任用して出てゆきつる、これらの事は甲夜の間に、既におん身に吿侍り。この道場を拈華といひ、菴主の法名は蚊牛とやらん、彼此人の歸依僧にて、わが家も亦檀越なれば、聊疑ふよしもなく、請るゝ隨に推辭かねて、菴を守て日をくらし、菴主が還て後に稍、こゝろありての所爲とはしりつ。淺ましきかなこの法師、何の程にか懸想して、わらはを一宿留んために、詭欺て留守を誂へ、小夜深る比かへり來て、わらはを捉へて艷語、法師には又あるまじき、婬けきかぎりに胸潰れ、阻みてほとりへよせ著ねば、果は威の菜刀を、うち閃して挑む程に、その聲さへに高うなりて、いざときおん身に疑れ、思ひかけなく殺され侍り。只是過世の業因歟。佛弟子として婬を貪り、詭をもてわらはを留め、强て姦さんとせし冥罰は、立地にしてその身に及べり。いと悲しむべきことになん。さればおん身に宿せし事を、菴主に吿るに遑なくて、縡はやこゝに及るものを、渠いかにしてわらはが外に、又人ありとしるよし侍らん。おん身みづから思惟て、その疑ひを散し給へ。さればわらはは結城の殘黨、他の凋落を自の利にして、揇て都へ牽んとならば、脫るゝに路は侍らじ。人を殺して物を略る、賊婦梵妻なンどゝは、身に被せらるゝ濡衣なれば、許さでは死なじ。これのみならで、亡親の名を汚さじ、と思へばこそあれ惜からぬ、命を惜み侍るかし」、といひかけて目を押拭ふ、雄々しき少女の物がたりに、番作思はず小膝を拍、「原來おん身は井丹三直秀ぬしの息女なりし欤。今示されし一通に、直秀とは讀しかど、同名異人なきにあらねば、緣由をしるまでは、といまだわが名を吿ざりし。父は鐮倉譜第の近臣、大塚匠作三戍が子に、番作一戍とはわが事なり。兩公達に傅きて、籠城のはじめより、おん身が父とわが父と、共に後門を固めしかば、他事なく相譚候ひき。かくて落城の日に及びて、聊思ふよしあれば、某は父もろ共、虎口を逭れて兩公達のおん跟を幕ひ奉り、樽井まで參りしに、孺君其處にて擊れ給ひ、父匠作も討死せり。某當坐に親の仇、牡蛎崎小二郞といふものを擊とめ、君父の首級を奪ひとり、血戰して必死を脫れ、一晝夜にして二十餘里、既に迥に來にければ、三頭を瘞ん、と思ふ折から當寺の墓所、こゝ究竟と新葬のほとりの壤を掘發し、竊に其處へ埋果て、さて宿りをば乞しなり。固より、われは落人にて、吹く風に尙心をおけば、嚮に法師が爲體、そのいふよしをよくも得聞ず、われを害するもの也、と思ひにければ霎時も擬議せず、早りてこれを殺せし事、おのが麁忽に似たれども、しらずしておん身を救ひ、はからずして惡僧を、誅せしは是冥罰ならん。斯いへば何とやらん、おん身に意あるが如く、いといひがたき筋ながら、籠城の日に直秀ぬし、わが父に約束して『孺君武運ひらかせ給ひて、東國無異に屬しなば、われに一個の女兒あり、子息の婦に進せん』、『それこそ公私の幸なれ。必よ賜らん』、と契りし親はもろともに、ほゐを得遂ず討死し、その子どもらはもろ共に、必死を脫れて名吿あふ。つれなきものは命也。誠にしらぬことながら、もし悞ておん身を害し、後にそれぞとしるならば、なき親達へ掌を合し、何といひとくよしあらん。危かりし」、と人のうへ、わがうへさへに說諦す、誠心辭にあらはれたり。
手束はこれをつく〳〵と、聞つゝ件の一通を、再びさらりと推披き、「豫てその名は聞ながら、おもひがけなき番作さま、こゝにて名吿あひし事、竭せぬ緣しに侍るかし。これ臠せわが父の、今果に遺す鳥の跡、とゞめかねたるかへす書、おん身が事をいといたう、遺憾とぞ聞え給ふ。かゝる契のむなしからで、君と親との三の頭顱を、瘞給ひしその側なる、新葬はわらはが母の、墳塋にてぞ侍るなる。親と親とが許したる、妹伕といはんもはづかしながら、けふよりして存亡を、おん身と共にせまほしき、外に情願はなきぞとよ。能にはからせ給ひね」、といひあへず顏をうち掩へば、番作聞て感嘆し、「はからずこゝに舅姑、塚を竝べて兩公達の遺骨を守るのみならず、約束かたき妹と伕に、環會せ給ひぬる、これ將親のなき魂の、儐き給ふに疑ひなし。かゝればおん身を携て、深く浮世を潛ぶべし。然ながら、おの〳〵親の喪にをれば、夫妻といはんも心にず。十三月の服果て、又更めて夫婦とならん」、といふに手束はうち點頭、「わらはも如右ぞ思ひ侍る。おん身既に蚊牛法師を、殺し給へば人もぞしらん。後の殃危なからずやは。こゝを思へば御坂なる、わが家にしも伴ひがたし。信濃なる筑摩には、母がたの由緣あり。特に亦彼處の溫泉は、刀瘡に效ありとなん。むかし淨見原の天皇、此湯に行幸あらんとて、輕部朝臣足瀨等に、行宮を造らし給へば、今も御湯とぞ唱へ侍る。誘給へもろ共に、筑摩の里へ」、と勸れば、番作これに隨ひて、天あけぬ程に、といそがしつゝ、更に手束を伴ふて、拈華庵を走り出、ゆくこと僅に五六町、遙に後方を見かへれば、道場のかたに火もえ出て、ゆく先さへにあかゝりけり。手束はこれを驚き見て、「あな鈍ましや、出るときに、心慌て火を滅さず。されば過失してけり」、とうち呟くを、番作は、聞あへずほゝ笑みて、「手束さのみな驚き給ひそ。拈華奄は山院にて、浮世に遠き佳境なれども、亂たる世は淸僧稀也。彼蚊牛尙婬を貪り、漫に不良のこゝろを起せり。渠死して後住なくは、卒に山賊の寨とならん、と思ひにければ出るとき、埋火を掻起し、障子簾をよせかけおきつ。こゝをもて彼庵室は、はや灰燼となりつる也。蚊牛寔にその罪あり。但渠いまだ欲を得遂ず、はやくわが手に死せし事、憐むにしもあらざれど、心に愉しとせず。されば法師を火葬して、その恥をかくし得させしは、わが一片の老婆心。彼處は君父の墳塋あり、これを燒ことよきにあらねど、賊の寨とするに忍びず。これ已ことを得ざればなり。われ倘後に大かたならぬ、志を得たらんには、彼處に伽藍を建立すとも、いとなし難きことかは」、と諭せば手束ははじめて曉りて、且感じ、且嘆じ、件の猛火を燭にして、後に跟き、又先に立、いよ〳〵塗をいそぎけり。
話分兩齣、武藏なる、大塚の鄕に母もろ共、年來潛居たりける、大塚匠作が女兒龜篠は、前妻の子なりしかば、番作には異母の姉にはあれど、心ざま、父にも弟にも似ざるものにて、親同胞の籠城を、想像る氣色もなく、況て繼母の千辛萬苦を、露ばかりも念とせで、生こゝろつきし比より、結髮化粧に、春の日を長しとせず、情郞としのびあふ日は、秋の夕を短しとせる、嗚呼の婬婦なりといへども、生ぬなかとて母親は、仂なくこれを懲さず、傍いたく思ふのみ、いとゞ多病になりにけり。されば龜篠は、同鄕なる、彌々山蟇六といふ破落戶と、ふかく契りて、その情鰾膠もて接たるごとく、皮なくは君とわれ、比目連理に身をなして、霎時もほとりを離れじ、と思ふ心は日にまして、存亡不定の父が籠城、母の劬勞を幸にすなれど壻を招るべき折にあらねば、とさまかうさま思ふ程に、結城の城をおとされて、父匠作は美濃路なる、樽井にて討死し、弟番作は往方しれず、と今茲七月上浣、大塚に聞えしかば、さらぬだに思ひほそりて、病を常なる母親は、「こは什麼いかに」、と歎きかなしみ、その日よりして頭あがらず、湯水も咽喉に下らねば、死をまつより外にすべなし。龜篠は「わが手ひとつに、母の病著看とりがたし。月來より憑しき、人と思へば此せち也。蟇六どのを傭ん」とて、そがまゝ渠を引入れて、人目ばかりの湯液三味、母のうへをば外にして、蟇六と共に食し、共に寢るを又あるまじき、樂とのみ思ひけり。さる程に母親は、その月の晦に、四十の月を見のこして、卒にはかなくなりしかど、烏の外に泣ものなく、何がし寺へ送られて、標の石は苔蒸せども、詣るものは稀なりき。
かくて龜篠は、情願の如く、蟇六と夫婦になりて、一兩年を送る程に、嘉吉三年の比かとよ、前管領持氏朝臣の季のおん子、永壽王と申せしは、鐮倉滅亡のとき、乳母に抱れ、信濃の山中に脫れ給へば、郡の安養寺の住僧は、乳母が兄なるをもて、精悍しくとりかくし、譜第の近臣、大井扶光と心を合して、年來養育し奉る、と鐮倉に風聞せしかば、管領憲忠の老臣、長尾判官昌賢、これを東國の諸將と相謀り、遂に鐮倉へ迎とりて、八州の連帥と仰ぎ奉り、則元服させまゐらせて、左兵衞督成氏とぞまうしける。されば結城にて討死せし家臣の子孫を、召出させ給ふよし聞えしかば、又彼彌々山蟇六は、「時を得たり」、と歡びつゝ、俄頃に大塚氏を冒して、鐮倉へ參上し、美濃の樽井にて討死せし、おん兄春王安王兩公達の傅たる、大塚匠作が女壻なるよしを訴へて、恩賞を乞しかば、昌賢やがて豐嶋なる、大塚へ人を遣し、縡の虛實を糺明せしに、匠作が女兒にそふ事、既に分明なりといへ共、蟇六が人となり、武士になるべきものにあらねば、僅に村長を命ぜられ、帶刀を許されて、八町四反の莊園を宛行れ彼地の陣代大石兵衞尉が下知を承て、勤むべき旨を仰らる。是よりして暮六は、瓦廂に衡門、いかめしく造り建て、奴稗七八人ン召使ひ、莊客們を譴債りて、おのが田へのみ水さへ引ば、その久後はしらねども、豐けき人になりにけり。
話分兩齣、武藏なる、大塚の鄕に母もろ共、年來潛居たりける、大塚匠作が女兒龜篠は、前妻の子なりしかば、番作には異母の姉にはあれど、心ざま、父にも弟にも似ざるものにて、親同胞の籠城を、想像る氣色もなく、況て繼母の千辛萬苦を、露ばかりも念とせで、生こゝろつきし比より、結髮化粧に、春の日を長しとせず、情郞としのびあふ日は、秋の夕を短しとせる、嗚呼の婬婦なりといへども、生ぬなかとて母親は、仂なくこれを懲さず、傍いたく思ふのみ、いとゞ多病になりにけり。されば龜篠は、同鄕なる、彌々山蟇六といふ破落戶と、ふかく契りて、その情鰾膠もて接たるごとく、皮なくは君とわれ、比目連理に身をなして、霎時もほとりを離れじ、と思ふ心は日にまして、存亡不定の父が籠城、母の劬勞を幸にすなれど壻を招るべき折にあらねば、とさまかうさま思ふ程に、結城の城をおとされて、父匠作は美濃路なる、樽井にて討死し、弟番作は往方しれず、と今茲七月上浣、大塚に聞えしかば、さらぬだに思ひほそりて、病を常なる母親は、「こは什麼いかに」、と歎きかなしみ、その日よりして頭あがらず、湯水も咽喉に下らねば、死をまつより外にすべなし。龜篠は「わが手ひとつに、母の病著看とりがたし。月來より憑しき、人と思へば此せち也。蟇六どのを傭ん」とて、そがまゝ渠を引入れて、人目ばかりの湯液三味、母のうへをば外にして、蟇六と共に食し、共に寢るを又あるまじき、樂とのみ思ひけり。さる程に母親は、その月の晦に、四十の月を見のこして、卒にはかなくなりしかど、烏の外に泣ものなく、何がし寺へ送られて、標の石は苔蒸せども、詣るものは稀なりき。
不題大塚番作一戍は、曩に手束を伴ひて、信濃の摩筑に赴きつ、こゝにて湯治する程に、手足の痍は瘥たれども、膕の筋や縮りけん、是より行步自在ならず。よりてそが侭筑摩にとゞまり、一年あまり送る程に、父の喪は果ながら、まだ武藏なる母を得問ず。今茲は杖に携ても、大塚に赴ん、と思ふに甲斐なくこの夏は、瘧疾に犯されて、秋盡るまで頭あがらず、憂苦の中に年月たちて、嘉吉も早三年にぞなりぬ。世間陜き身をかへり見ず、なほ大塚と吿らんこと、その憚なきにあらねば、筑摩に足を駐し日より、大塚の大の字に、一點を加つゝ、犬塚番作と名吿るものから、定めたる世の經營もあらず、手束は僅に織績ぐ、その麻衣の麻絲より、細煙を立かねつ、かり染ながら三年の流浪に、貯祿既に竭果て、いかにせまし、と思ふ折、春王安王のおん弟永壽王成氏朝臣、長尾昌賢が計ひにて、鐮倉の武將と仰れ、戰死の家臣の子どもらが、彼此に潛居るを、召出し給ふとなん、筑摩の溫泉に湯治する、行客等が物かたりす。風聲大かたならざれば、番作夫婦はふかく歡び、「今は何の時をか俟ん。縱行步は不自由なりとも、ともかくもして武藏へ赴き、母と姉とに對面して、直に鐮倉へ推參し、春王丸のおん像見、村雨のおん佩刀を、成氏朝臣に獻りて、父匠作がうへはさら也、舅井直秀が忠死の趣を吿奉りて、わが進退を君に任せん。然は」とて夫婦遽しく、起行の准備して、年來蔭を蒙りし、由緣の里人等に別を吿て、武藏の大塚にぞおもむきける。
さはれ番作は、隻脚蹇たり、杖を力に道すがら、女房手束に扶掖れ、數町にしてはや憩ひ、三四里にして日をくらせば、思ひの外に日數積りて、八月に信濃を出しかど、十月のすゑに及て、やうやく舊里近くなりつ。番作は今さらに、母のうへ心もとなく、鄕より些しこなたなる、白屋に立よりて、「大塚匠作てふ人の、妻と女兒は恙なしや」、と外がましげに問しかば、亭主とおぼしき翁、稻扱ながら夫婦を見かへり、「原來和達は彼方ざまの、發迹つる事しらざるよ。母親は身まかりて、二年あまり、三年にもなるべし。そが著病を看とりはせで、女の子が不孝淫奔は、吿るも傍痛かるべし。そが壻女彌々山蟇六は、爪彈せざるものなき、破落戶で候ひしが、箇樣々々の由緖をまうして、八町四反の莊園を給はり、刀をさへ許されて、村長をうけ給はり、今では大塚蟇六といふ也。その宅地は竝桐のあなた、如此々々の處にこそ」、と叮嚀に誨しかば、番作聞あへずうち驚き、なほ姉龜篠が爲體、蟇六が人となりさへ、詳に問盡して、外面へ退き出、手束もろ共言葉はなくて、頻に淚さしぐみけり。且して番作は、杖をとゞめて、嘆息し、「身の病著とはいひながら、うたてや筑摩に年をかさねて、母の終焉にあひ奉らず。加以父が忠死を、暮六とやらに掠られ、大塚の苗字を穢さる。今このよしを訴んに、村雨の寶刀わが手にあり、勝利疑ひなしといふとも、榮利の爲に姉と爭ひ、骨肉牆を鬩ぐが如きは、わがせざる所也。かゝれば此おん佩刀も、鐮倉殿に獻じがたし。わが姉は不孝の人也。壻蟇六は不義にして富り。憑氣なき姉夫婦に、ものいふべうも思はぬかし。さはあらずや」、と呟けば、手束は淚を拭ふのみ、そを理りともいひかねつ、慰かねつ、目をあはし、齊一嗟嘆したりける。
これによりて番作は、蟇六許赴かず、故老の里人等を音つれて、わがうへ妻のうへさへに、落もなく是を吿、志氣を說示して、親の墳墓を護ん爲、この地に住ひせんといふ。里老は番作が、薄命をあはれみて、愉くうけ引つ、彼此人を召集合て、件の事をしらすれば、衆皆聞て憤に得堪ず、「わが村はむかしより、大塚氏の采地たり。一旦斷絕するといへども、本領安堵の今に至て、實子は日蔭の花と凋み、姉夫とはいひながら、破落戶の蟇六に、すべて橫領せられし事、これにましたる不幸やある。さりとても今さらに、爭んは、世話にいふ、證文の出後れにて、勞して功なき訟なるべし。弱きを扶けて、强きを折くは、東人の生平ぞかし。憎しと思ふ蟇六が面あてに、番作ぬしをばともかくも、當村中が引承て、養ふてまゐらせん。足は蹇ても、手は折けても、心やすく思ひ給へ」、と一人がいへば僉諾ひて、囂しきまで憑しく、立地に衆議一決して、番作夫婦を款待けり。
かくて件の里人等は、番作が爲に、その居宅を卜るに、蟇六が宅地の前面に、ふるくもあらぬ空房あり。「これ究竟」と購求て、番作夫婦を彼處へ移し、又錢を出し集めて、些の田園を購求め、これを番作田と唱つゝ、夫婦が衣食の料にせり。是その舊主の恩を思ひ、番作が薄命を、相憐むのみにあらず、憎しと思ふ蟇六夫婦に、物を思はせんとての所行なるべし。剛毅木訥は仁にちかしといひけん、聖語もこれらがうへに稱へり。かゝりしかば番作は、里人等が好意にて、富むにはあらねど、貧きに苦まず、苗字は姉夫に奪れたるに、今更大塚に復んも無益なりとて、なほ犬塚と唱つゝ、里の總角等に、手蹟の師範して、親たるものゝ恩に報ひ、手束は里の女の子等に、絮を延、衣を縫ふ事を敎えて、親たるものゝ恩に報ひしかば、里人等は歡びて、野菜の初穗、何くれとなく、物を贈るも多かりけり。(時に嘉吉三年なり。去年安房にて伏姬生れ、今茲は義成誕生せり。事は肇集第八回に見えたり)
さる程に蟇六龜篠は、死せりと思ひし番作が、癈人にはなりたれども、妻さへに將て還り來つ、里人等に尊信せられて、わが家の向斜に、卜居せし爲體、見もし聞もする每に、妬き事限りなし。「けふはわが方へや來つる。翌は人していはする欤」、とやすき心もせざりしに、百步の間に住居しながら、渠一トたびも姉を訪はず。今はとて腹にすえかね、有一日龜篠は、蟇六と商量し、人をもて、番作にいはするやう、「わらは女のかひなき身にて、母を看とりて怠らず。親の遺言默止かたくて、蟇六どのを招き入れ、絕たる家を興せし事、人のしる所なり。しかるに和殿は阿容々々と、戰場を逃れ去、鼬の如く走り隱れて、母の今果にあふよしもなく、命助りたるを幸に、世間廣くなるまゝに、婦女子を携來て、里人等を詐欺かし、既にその蔭を蒙りて恥とせず、間近き住居をこれ見よかしに、一トたびもわらはを訪はず、他人を親み、骨肉を遠けて、無禮なるはいかにぞや。われはともあれわが良人は、大塚の家督にして、既に一鄕の長たり。よしや人ならぬ心を挾み、胡越の思ひをなすとても、國に貴賤の差別あり、人に長少の禮讓あり。もしこれをしも知らずといはゞ、わが村に措かたし。他鄕へ立去給へ」とぞいはせける。番作聞て冷笑ひ、「某寔に不肖なれども、父とゝもに籠城して、主君の爲に命を惜まず、戰場にて死ざりしは、君父の先途を見ん爲なりき。さればこそ樽井にて、父の仇を擊とめて、君父の首級を隱しまゐらせ、はからずも親の結びし、女房手束に名吿あふて、筑摩の御湯に手痍を保養し、僅に平愈したれども、行步不自由にして、長途に得堪ず。去歲は又長病に、一年を化に過しつ。今茲再びおもひ起して、杖に携り、妻に扶られ、稍來て聞けば母の終焉、わが姉の不孝淫奔、人のよくしるところ也。姉夫何等の功ありて、重職をうけ給はり、大祿を賜りけん、是わがしらざる所也。某父の遺命によりて、春王君のおん佩刀、村雨の一腰を、領り奉りてこゝにあり。然ともこれを鐮倉殿に獻らず、聊爭ふ心なきは、わが姉夫婦の幸ひならずや。番作寔に不肖なれ共、不孝の姉を見るに忍びず、不義の姉夫には諛ひがたし。かくても當所を追んとならば、是非の及ざる所なり。鐮倉へ訴奉りて、公裁に任べし」とぞ答ける。その人立かへりて、云云と吿しかば、龜篠はさらにもいはず、蟇六は直と呆れて、無念腸を絞れども、「毛を吹、疵を求んか」、とやうやくに思ひかへして、このゝちは音もせず。番作は杖に携て、母の墓參する折に、求ずして蟇六と、面を對することはあれども、ものいふ事はなかり
かくて又十年あまりの春秋を歷て、享德三年十二月、鐮倉には成氏朝臣、亡父の怨敵なればとて、管領憲忠を、忻よせて誅せらる。是より東國再び亂れて、次の年康正元年(義實籠城、安西景連、滅亡の年なり)には、成氏の軍敗れて、憲忠の弟房顯、その臣長尾昌賢等が爲に、鐮倉を追落され、下總許我の城に籠りて、合戰亦複數年に及べり。此ころ大塚番作は、つく〳〵と思ふやう、「今戰國の習ひとて、臣たるもの、その君を征し、冠履所を異にせる、世のたゞすまひを見るにつけても、わが薄命は歎くに足らず。只後なきを不孝とすなるに、女房手束を娶てより、十四五年が間には、男兒三人まで產せたれども、襁褓の中になくなりて、一人として生育ものなし。われと手束は同庚にて、渠はや三十の齡に過たり。又子を見ん事難かるべし。これのみ遺憾」といふ、喞がましき夫の述懷、手束もおなじうらみには、姥捨山に見る月ならで、とにかく慰めかねたるが、忽地に思ふやう、「瀧の川なる辨才天は、此わたりなる古廟にて、靈驗ありと人はいふなる。祈らば應報なからずやは」、と思へばやがて夫に吿て、次の日より朝とく起て、件の廟に日參し、一子を祈りて他念なし。今茲長祿元年の秋よりはじめて、(伏姬八房に伴れて、富山のおくへ入りし年也)三年が間、一チ日も懈らず。
「庚申塚に手束神女に謁(ゑつ)す」「たつか」
時に長祿三年、(伏姬自殺の翌年なり)九月廿日あまりの事なるに、手束は時をとりあやまちて、明殘る月影を、東しらみにけりと思ひて、遽しく宿所を出て、瀧の川なる岩屋殿に參詣し、既に下向に赴けども、その夜はいまだ明ざりけり。「鈍ましや」、とひとりごちて、稻葉の露を掻拂ひつゝ、立かへる田の畔に、脊は黑く、腹は白き狗の子が、棄られたりとおぼしくて、人まち㒵に尾を掉て、手束が裙にまつはりつ、追かへせば又慕ひ來て、離るべうもあらざれば、もてあましつゝ立駐り、「かくまで人を慕ふものを、いかなる人が棄たりけん。見ればこは牡狗なり。狗は夥の子を產ものにて、その子はかならず育もの也。よりて赤子の枕邊に、狗張子を置ぞかし。神に步を運ぶまで、一子を祈る心もて、いかでかこれを拾はざらん。將てかへらん」、とひとりごちて、抱きとらんとする折から、南のかたに靉靆と、紫の雲たな引て、地を去ること遠からず。と見れば嬋娟たる一個の山媛、楚の宋玉が夢に見えし、神女の俤をとゞめ、魏の曹植が筆を託せし、洛神の顏をうつして、黑白斑毛の老犬に尻うち掛、左手に數顆の珠を拿て、右手に手束を招きつゝ、辭はなくて一ッの珠を、投與給ふになん、手束は今この奇特を見て、おそる〳〵ついゐたるが、遽しく手をさし伸て、件の珠を受んとせしに、珠は手股を漏て、輾々と、雛狗のほとりに落しかば、其首か彼首かと索ても、索ても又あることなし。「あな訝し」、とばかりに、そなたの天をうち仰げば、靈雲忽地迹なくなりて、神女も共に見え給はず。こは平事にあらずと思へば、ふたゝび雛狗を抱きあげて、いそしく宿所に還りつゝ、件の縡の趣を、夫番作につげていふやう、「拜れ給ふ神女の姿は、山姬といふものめきて、辨才天に似給はず。そが授け給ふなる、珠は子胤でありけんものを、取失ひ侍りしかば、願望かなはぬ祥にやあらん。こゝろに懸り侍るかし」、といへば番作沈吟じ、「いな〳〵それにはよるべからず。件の神女は黑白斑毛の老犬に乘給ふにあらずや。わが氏は大塚なれども、犬塚と更めき。又わが名は一戍也。一戍の戍の字は、則支干の戌なれば、名詮自性いと憑し。加旃おん身さへ、今求ずして雛狗を獲たり。念願成就の祥なるべし。その狗をな走らし給ひそ。畜育給へ」、と諭されて、手束は「有理」と思ひかへすに、憑しき事いふべうもあらず。現番作が判ぜしごとく、手束はいく程もなく身おもくなりて、寬正元年秋七月、戊戌の日に及びて、いと平かに男兒を產けり。この兒は是名にしおふ、八犬士の一人にして、犬塚信乃と呼れしは是なり。信乃が事はつばらかに、なほ後々の卷に解なん。
右犬塚信乃が列傳は、父祖のうへを詳にして、その他の事を省略す。是より下、七士の傳に至ては、家譜を省略して、只その人のうへを詳にするものあり。文を綴り義を演る、用心一にあらず。看官よろしく察すべし。
里見八犬傳第二輯卷之三終


