南総里見八犬伝(018)

南總里見八犬傳第二輯卷之四第十七回
東都 曲亭主人 編次
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「思ひくまの人はなか〳〵なきものをあはれに犬のぬしをしりぬる」「犬塚しの」「龜笹」「はま路」

妬忌ときを逞たくましうして蟇六螟蛉ひきろくひとのこをやしなふ
孝心こうしんを固かたうして信乃曝布しのたきに禊はらひす

 卻說犬塚番作かくていぬつかばんさくは、年來としごろの志願稍遂やゝとげて、男子既をのこゞすでに出生しゆつせうし、母も子もいとすくよかに、產室撤うぶやおさむるころにぞなりぬ。「さて兒ちごの名を何なにとか呼よばん」、と女房手束にようばうたつかに譚かたらへば、手束は且しばらく沈吟うちあんじ、「よに子育こそだてのなきものは、男兒をのこゞなれば女めの子ことし、女めの子には男名をとこなつけて、やしなひ育たつれば恙つゝがなしとて、如此しかする人も稀まれには侍はべり。我夫婦わがふうふに幸さちなくて、男兒三人擧をのこゞみたりまうけしかど、みな殤子みづこにてなくなりたるに、この度たびも又男兒をのこゞなれば、一トしほ心よはくなりて、想像おもひやりのみせられはべり。この子が十五にならん比ころまで、女子をなごにして孚はぐゝまば、恙つゝがあらじと思ひ侍り。その心して名なつけ給へ」、といへば番作うちほゝ笑えみ、「死生命めいあり、名の咎とがならんや。齋ものいみ多き俗よの僻事ひがこと、いと信うけがたき筋なれども、おん身が心やりにもならば、俗よに從ふもわろきにあらず。古語に長きをしのといふ。和名妙わめうせうに長竿ちやうかんを、しのめと訓よませし、則是すなはちこれなり。今も穗の長き芒すゝきを、しのすゝきといふぞかし。繁しげきすゝきとするは非ならん。わが子の命長かれ、と祝ことほぎのこゝろもて、その名を信乃しのと喚よぶべき欤か。昔われ美濃路みのぢにて、不思議におん身と名吿なのりあひ、信濃路しなのぢにして夫婦となりぬ。しのとしなのとその聲近し。越鳥ゑつちやうは南枝なんしに巢すくひ、胡馬こばは北風ほくふうに嘶いばふといへり。孰たれかその原はじめを忘れん。わが子もし發迹なりいでて、受領じゆれふする事さへあらば、信濃の守護しゆごにもなれかし、と亦祝またことほぎのこゝろに稱かなへり。この名は甚麼いかに」、と實まめたちて、問とへば手束たつかは聞きゝあへず、「そはいとめでたき名にはべり。富人とむひとは五十日百日いかもゝか、と產室うぶややしなひの賀よろこびに、酒さけもり遊ぶ日も多かり。せめてこの子が名ひらきに、竈かまどの神に神酒獻みきたてまつり、手習子てらこと綿わたの弟子をしえこに、もの食くはせ給はずや」、といふに番作うち點頭うなづき、「われもかくこそ思ふなれ。とく〳〵」といそがせば、手束は鄰ちかき媼等うばらを傭やとひて、赤小豆飯あづきいひに芝雜魚しばざこの羹しるよ膾なますといそがしく、目つらを掴つかみ料理して、里の總角等あげまきらを召聚會よびつどへ、盛もりならべたる飯さへに、あからかしはの二荒膳にくわうぜん、箸はしとりあぐる髻鬟等うなゐらが、顏は隱るゝ親碗おやわんに、子の久後ゆくすゑを壽ことぶきの饗應もてなしにみな嗛あきたりて、膝ひざにこぼれし粒飯つぶいひを、拾ひらひもあへず、身を起し、歡よろこびを述のべて還かへるもあり、人より先に草屨わらくつを、穿はかん穿はかせじ、と囂かしましく、𥉉あはて〚目+條〛てかへるも多かりけり。

 是これより手束は信乃が衣裳いせうを、女服をんなきぬにせざるもなく、三四才みつよつの比ころに及びて、髫髮いたゞきかみおくほどにもなれば櫛插くしさゝせ、掻頭かんさしさゝせて、「信乃よ〳〵」、と喚よびしかば、しらざるものはこの兒ちごを、女の子こならんと思ひけり。されば蟇六龜篠ひきろくかめさゝは、この爲體ていたらくを見聞く每ごとに、掌拍ななそこうちて冷笑あざわらひ、「凡およそ人の親たるもの、男兒をのこゞを擧まうくるを、面目めんぼくとせざるはなし。尒しかるに武士の浪人らうにんが、女めの子を願ふはいかにぞや。結城合戰ゆふきかつせんに逃後にげおくれ、脊疵受せきずうけしにいたく懲こりて、軍いくさといふもの夢にも見せじ、と思ふてかくまで戲氣たはけを盡つくす欤か。思ひしにます白徒しれもの也」、と賢さかしらだちて譏そしれども、合鎚囃あひつちはやすものはなく、郤なか〳〵に里人等さとひとらは、信乃を愛して物をとらせ、迭代かたみかはりに抱いだきとりて、その母の手を助けしかば、蟇六ひきろく夫婦はいとゞしく、妬ねたきこと限かぎりなし。又羨うらやましく思へども、淫婦いんふに石女うまずめ多しといふ、鄙語ことわざに得漏えもれずして、龜篠かめさゝ四十にあまるまで、子どもひとりもなかりしかば、夫婦頻しきりに商量だんかふして、只管ひたすら養女を索もとむるに、そが媒妁なかだちするものありて、「煉馬ねりまの家臣(武藏の煉馬氏うじは豐嶋としま左衞門が一族たり。煉馬ねりまの平左衝門といひしは是これ也)某甲なにがしといふものの女兒むすめ、今茲ことし僅はつかに二才ふたつになるあり。こはその親の忌いむとかいふ、四十二の二ツ子こなれば、生涯不通の約束にて、永樂錢ゑいらくせん七貫文くわんもんを齎もたらし、家系宜すぢめよろしきかたもあらば、養女に遺つかはすべしといへり。件くだんの女めの子こは生れ得て、目鼻だち愛らしく、痘瘡もがさもこの春の比ころ、いとかろやかにしはてにければ、寔まことに疵きずなき玉になん。とばかりならで去歲こぞの春、正月むつきのはじめに生れしかば、年つよとかいふ二才兒ふたつこ也。かゝれば乳母めのとなしといふとも、孚はぐゝみかたきことはあらじ。養ひ給へ」、と勸すゝむれば、蟇六龜篠は笑片向えみかたまけて、共に小膝こひざの進むを覺おぼえず、聞果きゝはてて目を注みあはし、「蜑あまが鹽燒しほやくからき世に、子の齎もたらしとて永樂錢、七貫文は些少すけなきにあらず。目今和殿たゞいまわどのがもの語かたり、譌いつはりなきものならば、素もとより望む所なり。とくこしらへて見給へ」、と夫婦齊一應ひとしくいらへしかば、件くだんの男はこゝろ得果えはてて、遽いそがはしく出いでてゆきつ。

 かくて五六日を經る程に、その縡竟ことつひに整とゝのひしかば、媒妁なかだちの男して、その子の親と蟇六と、證文あかしふみをとりかはし、彼かの七貫文もろ共に、女めの子こを大塚へ贈りにければ、龜篠やがて抱いだきとりて、まづその顏をうち視熟ながめ、又指およびより蹠あとうらまで、泣なくをも管かまはず引伸ひきのばし、うちかへしつゝとくと見て、辴然かや〳〵とうち笑ひ、「三十二相揃そろひしとは、何處いづこをさしていふにやしらねど、寔まことにこの子は掘出物ほりだしものなり。これ見給へ」、とさしよすれば、蟇六いよ〳〵憑たのもしくて、「よき子ぞ、泣勿なくな。物とらせん」、と袂たもとへ右手めてをさし入れて、とり出いだす果子くわしの花もみぢ、實みならぬ親としらぬ子も、有繋さすが口には孝行にて、朝四暮三ちやうしぼさんの猿鑣さるくつわ、銜かけたるごとく泣なき止やみけり。現頑げにかたくななるものは、その偏執へんしうの心もて、わが物とだに名をつくれば、傍かたはらいたく愛に溺おぼれて、他ひとの嘲そしりをしるよしなきに、況まして蟇六龜篠は、妬ねたしと思ふ番作夫婦が、鼻はなをひしがんとのみ思ひしかば、件くだんの養女を濱路はまぢと名つけて、分ぶんに過すぎたる綺羅きらを飾らせ、是處ここの遊山ゆさん、彼處かしこの物詣ものまうでとて、下女げぢよに抱いだかせ、小厮こものに先を追おはせつゝ、四十老女おんなの龜篠かめさゝさへ、鐮倉樣かまくらやうの衣きぬを襲かさねて、月の中うちにはいく遍たびとなく、出いであるきに日を費ついやし、錢ぜにを費ついやして、嘲あざけりを思はず。加以それのみならでわが女兒むすめの、髮置紐解かみおきひもときとかいふ年には、身丈たけ十倍の美服を被きせて、健すこやかなるをとこの肩にのぼし、城堭うぢかみ詣まうでを假托かこつけに、彼此人をちこちひとに弄賣みせひらかすに、よに阿諛へつらひの言葉巧たくみに、渠かれを譽ほむるものあれば、家裹いへつとの飴あめ、惜氣をしけもなく、みなその人に饋おくりしかば、寔まことに甘き親といふめり。かくて濱路が生育隨おひたつまゝに、やゝ東西をしる比ころより、絲竹いとたけの技わざに師を擇えらみて、朝あしたより夕ゆふべまで、うち囃はやし、舞躍まひおどらして、絕たえて四鄰しりんを憚はゞからず、よろづ化あだに養ひたつるに、生得うまれえたる容止かほばせの、人なみなみに立たちまされば、鳶とびの子に鷹たかありとて、女兒むすめを譽ほむる陰言かげことを、聞く二親ふたおやはほゝ笑えみて、われを嘲あざけるよしを曉さとらず、「位高く、富とみさかえて、世に威德いきほひある壻むこならで、えこそは招とらじ」、と誇りけり。
 案下某生再說それはさておき、犬塚番作が一子いつし信乃は、はや九才こゝのつになりしかば、骨逞ほねたくましく膂力ちからあり。現尋常げによのつねなる人の子が、年十一二になるものより、身の丈一岌たけひとかさ高かるに、なほ女服被をんなきぬきせられて、雀小弓すゞめこゆみに紙鳶いかのぼり、印地打竹馬いんぢうちたけうまなンど、よろづの遊びもあら〳〵しきまで、おのづから武藝ぶげいを好めば、番作ます〳〵鍾愛せうあいして、朝あしたには、里の總角あげまきとゝもに、手習てならひさせ、夕ゆふべには儒書じゆしよ軍記の句讀くとうを授さづけ、又あるときは試みに、劒術拳法けんじゆつやわらを敎をしゆるに、素もとより好む道なれば、その技わざの進む事、親尙すらしばしば舌したを掉ふるひて、すゑたのもしく思ひけり。

 父はかくても母手束たつかは、わが子のいとも怜悧さかしきに、おのづからなる孝心の、擧動たちふるまひに顯あらはれて、親さへ人の稱譽ほむるまでに、文ふみの道、武の藝たしなみ、年には倍ませてその器きに稱かなへば、もし短命にあらずや、と彼かれを思ひ此これを思ふに、とにかく心安からねば、夫をつとを諫いさめ、子を禁とゞめ、「習ひ學ぶはわろきにあらねど、縡こと大かたにせよ」といふ。さはれ信乃が心ざま、よの童子どうしとはうらうへにて、母の目影めかげを匿しのびても、竹刀ちくたうを手にとらざる日もなく、馬にさへ騎のりならはん、と思ふ心のつきたれども、田舍ゐなかは小荷駄こにだのみにして、借馬しやくばなどいふものはあらず。尒しかるに信乃が生うまるゝ比ころ、母親手束が瀧たきの川かはなる、岩屋詣いはやまうでのかへるさに、將いて來つる狗いぬの子は、信乃とゝもに大きくなりて、今茲ことしは既に十才なり。この狗いめ、脊そびらは墨すみより黑く、腹と四足しそくは雪より白くて、馬に所云驓いはゆるよつしろなれば、その名をやがて四白よしろとも、又與四よし郞らうとも喚よぶ程に、年來としごろ信乃によく狎なれて、打掛うちたゝかれても怒いかることなく、手に屬つきその意に隨ふにぞ、信乃は件くだんの與四郞に、索靮なはたづなをかけてうち乘れば、狗いぬは主しゆうのこゝろを得て、足掻あがきを早めて幾返いくかへりかす。誰敎たれをしえねどもその騎座のりくら、靮たづなさばきの御法ぎよほうに稱かなふを、見るもの思はず立たゝ在ずみて、技わざと姿の似げなきに、腹をかゝえて笑ふもあり、又この童子が爲體ていたらく、平人たゞものにはあらじとて、賞嘆するも多かりけり。現玉人げにぎよくじんにあらざれば、碔夫ぶふと眞玉まだまとをしることなし。信乃が女めの子この打扮いでたちにて、武勇たけくいさめる技わざのみすなれば、里の總角等あげまきらは指ゆびさし哢あざみて、「陰嚢ふぐりなし」とぞ囃はやしたる。かくても信乃は物とも思はず、「彼奴等かやつらは土民の子なり。遊あそび敵かたきになるものならぬに、論は無益むやく」、とわれから辟さけて、一トたびも爭はず。しかはあれども「わが身ひとり、よのわらべらとは異ことにして、女めの子こめきたる衣きめをのみ、被きせらるゝはいかにぞや」、とよに訝いぶかしく思ふものから、事に紛まぎれて親には問はず、襁褓むつきのうちより肌膚はだにつけ、被馴きなれし女服をんなきぬなれば、愧はづる氣色けしきはなかりけり。

 さる程に、今茲ことし秋のころよりして、手束たつかは心地例こゝちつねならず、病やまひの床とこに臥ふししより、鍼灸藥餌しんきうやくじの驗しるしなく、冬のはじめに至いたりては、日に〳〵よわるばかりなれば、番作ばんさくはいとゞしく、眉まゆうちひらくよしもなく、夜よとて安くは目睡まどろまず。信乃は又あさな〳〵醫師許往還くすしがりゆきゝしつ、湯液くすりをすゝめ、腰を捺さすり、四表八表よもやまの物かたりして、母の徒然つれ〴〵を慰なぐさむるに、思はず淚目に盈みちて、やるかたなきを見る母は、胸ふたがりて泣㒵なきかほを、隱すよしなく鳩尾みづおちを、拊なでて痞つかえに紛まぎらかす。親子迭かたみに思ふ事、いはねどしるき孝行慈愛、こゝろぞ想像おもひやられたる。

 かくてその詰旦あけのあさ、信乃は葉劑くすりとりにとて、いそしく出いでてゆきし後のち、番作は妻の枕方まくらべにて、小鍋こなべに粥かゆの鹽加減して、半なかば開きし扇あふぎの風に、火を起させて居たりしかば、手束ははつかに頭まくらを擡もたげ、「常にはあらぬわが良人つまの、火打水汲ひたきみづくみしどけなく、竈働かまどはたらきし給ふこと、心苦しき限りに侍り。加之十しかのみならずとをにも足らぬ、信乃が頃日大人このごろおとなしく、親につかへて夜よの目あはせず、かくまでに憑たのもしき、良人つまとわが子の介抱かいほうを、受うけても卒つひにゆく道の、別わかれと思ひ侍はべるかし。抑そも〳〵わらはが此度こだみの病著いたつき、ゆゑありぬべきことになん。素もとより信乃は祈子まうしこにて、云云しか〳〵の奇瑞きずいあり。かくて擧まうけしひとり子なれども、年に倍ませたる智は長たけて、親はづかしきものに侍れは、殤子みづこでなくせし兄等に懲こりて、もし短命にあらずやと思ひしはきのふけふならず。彼が定業脫じやうごうのがれかたくて、生育おひたゝぬものならば、母が命を換かえさせ給へ、と瀧たきの川かはなる岩屋殿いはやとの、神に佛に年來としころよこり、願望竟ねぎことつひに空むなしからで、信乃は襁褓むつきの中うちよりして、蚘氣むしけもあらず風ひかず、輕かろき疱瘡もがさの神送り、侲子わらべの疫やくを病果しはてても、男兒をのこゞには怪我ありといふ、七才なゝつの巓踰とほげこえさせて、今茲ことしわらはが身まからば、わが子の久後ゆくすゑ念願成就、かはる命は惜からで、悲しきは只死別たゞしにわかれ。ひとりは缺かくる垂乳女たらちめの、母はなくとも爹々てゝごだに、よにましまさば光もて、何なに暗からず生育おひたちなん。久ひさしくもをらぬ娑婆しやばと思へば、可惜財あたらたからを費ついやして、湯藥くすりたベんは無益むやくに侍り。うち捨すてておき給ひね」、といひあへず淚さしくみて、呼吸細いきのをほそる覺期かくごの言ことの葉は、脆もろきは袖そでの露霜つゆしもに、よわり果はてたる秋の蝶てふ、片羽捥かたはもがるゝ思ひなる、番作しば〳〵嘆息し、「異ことなることを聞くものかな。わが子の命にかはらんとて、かはらるゝものならば、世に子を喪うしなふ親はあらじ。さる惑まよひより病やみもすれ。よしなく物を思はんより、藥を服のみ、粥かゆをも畷すゝりて、氣長けながく保養し給へ」、と理ことわり盡して諭さとしけり。

 冬の日なれば短くて、はや巳みのころになりしかど、生平つねにもあらで信乃はかへらず。「渠路草かれみちくさを食くふものにあらず。いかにしつらん」、と子を思ふ親の心はおちつかず、番作は外面とのかたへ、出いでて見んとて障子せうじを開けば、思ひがけなく緣頬えんかはに、藥劑くすりのかよひ筥はこはあり。「こは訝いぶかし」と紐ひもときて、蓋ふたかいとれば藥劑くすりもあり。さもこそ」、と片頬かたほに笑えみつゝ、件くだんの筥はこを携たづさへて、遽いそがはしく裡面うちに入いり、「手束たつかよ、藥劑くすりは彼處かしこにあり。何いつの程にか信乃は還かへりて、氣鬱きうつを散はらしに出いでにけん。寔まことに童わらべこゝろぞかし。おん身が病著いたつきの初はじめより、おのが事には苟かりそめにも、外とに立たつこともなかりしに、いかばかりおもしろき、もの見かけて欤か還かへりたる、よしをも吿つげず又出いでたり」、といふに手束は稍やゝおちゐて、「たま〳〵の事なるに、必かならずな叱しかり給ひそ。還かへるに程ははべらじ」、といひつゝもその顏見ねば、片心かたこゝろにぞかゝりける。

 かくてはや、未ひつじのあゆみ過すぎにけん、晷斜ひかげなゝめになるころまで、俟まてども〳〵信乃は還らず。「よしや遊あそびに惚ほれたりとも、餓うへなば興きやうも竭つ<べきに、物をも食くはで何處いづこにをる。こゝろ得かたき事也」、と父尙すらいへば母はなほ、重き頭まくらをいく遍たびか、擧あげて瞻望ながむる外面とのかたに、板金剛いたこんごうの音すれは、それかとそ思ふ、誑だまされて、浪速なにはの浦に刈かるといふ、人のあしさへ恨うらみけり。妻つまが喞かこてば番作も、立たつて見居ゐて見、まち不樂わびて、思はずも嘆息し、「わが足、舊むかしのごとくならば、只一走たゞひとはしりに走廻はしりめぐりて、かならず索たづねて將いて還かへらんに、日景ひかげ短き小六月ころくぐわち、夕陽ゆふひを瞻みつゝ杖つゑに携すがりて、何地いづちまでゆかるべき。然さりとて暮くれなばいよ〳〵便びんなし。菅菰すがもまでも」、と一刀ひとこしを、插さして竹杖たけつゑ、衝つきこゝろみ、はや外面とのかたに出いでんとす。

 浩處かゝるところに、番作が背門せどの前面むかひなる莊客ひやくせうに、糠助ぬかすけと喚よばるゝもの、右手めてに一條ひとすぢの釣竿つりさをと、一箇ひとつの魚籠びくを携たづさへて、左手ゆんでに信乃を扶掖たすけひき、遽いそがはしく詣來まうきつゝ、今外面とのかたへ出いでんとする、番作と面おもてをあはして、呵々かや〳〵とうち笑ひ、「犬塚氏欤いぬつかうぢか、其處そこにゐませり。秋の稼かせぎもしはてたる、骨休めにとわれとわが、一チ日の暇いとまを給はり、けふは未明まだきにうかれ出いでで、神谷川かにはがはに雜魚ざこ釣暮つりくらし、瀧たきの川かはをかへり來れば、こゝなる息子むすこが不動ふどうの瀧に、水垢離執みづこりとりて、身は冷徹ひえとほり、息も絕たゆべき形勢ありさまを、見つけし時は膽潰きもつぶれて、周章あはてふためき引出ひきいだし、そがまゝ坊ばうへ將いてゆきつ、藁火わらびに煖あたゝめ、藥を服のませ、法師們共侶はふしばらもろともに、勦いたはること半晌許はんときばかり、はじめてわれに復かへりしかば、湯飯䝼ゆつけもらふて肚はら〚月+度〛を肥こやさせ、緣故ことのもとを尋たづぬれば、母の大病平愈へいゆの祈祷きとうに、水垢離みづこりをとりしといふ。十とをにも足らぬ童わらべには、儔稀たぐひまれなる大孝行だいこうこう、法師們はふしばらも感心せられて、求もとめざれども當病平愈たうびやうへいゆの、神符洗米ごふうせんまいを給はりぬ。件くだんの瀧は寺へ遠くて、わが外ほかに人しらざりき。寔まことに危あやうき事なりし。かくまで賢さかしき子也、親なり、佛神ぶつしん見はなち給はんや。母御はゝごは本復はんぶく疑ひなし。いざ子たからを受うけとり給へ。暮くれかゝればはや退まかる也。人やむひとによくこゝろ得てよ。要えうあらば脊病門口せどくちから、竹螺鳴たけほらならして呼よび給へ。和子わこよ、翌あすはあそびに來こよ。この魚炙うをあぶりて食はませんに」、とおのがいふ幸いひ誇ほこり、人の挨拶聞果あいさつきゝはてず、裡面うちにも入らでかへりけり。「さては」、とばかり番作は、わが子の肩を杖つゑに換かえ、陟框あがりかまちを足引あしひきの山道踰やまぢこえたるこゝちして、そがまゝ奧へしらすれば、手束たつかも縡ことの趣おもむきを、洩聞もれきくからに病苦を忘れて、わが子をほとり近く侍はべらし、「信乃よくものをこゝろ得よ。孝行つくすも程あるもの也。身を阽あやぶめて怪我けがあらば、親の歎なげきはいかなるべき。かくては孝が不孝ぞかし。親いとをしと思ふ子の爲には、祈らでも神は守り給はん。危あやうき所行わざをし給ふな」、と諭さとせば信乃は酸鼻なみだぐみ、「宣のたまふ所こゝろ得侍えはべり。今朝醫師許けさくすしがり赴きて、藥劑くすり給はりて還かへりし折をり、家尊かぞに家母いろはの物かたり、信乃が命の長かれ、と勿體もつたいなくもわが母は、命を贄にゑに神明かみ〳〵へ、祈らせ給ひし驗しるしにや、長き病著いたつきに臥ふし給ふ、と宣のたまはせしを竊聞たちきゝて、哀かなしきこと限り侍らず。淚に濡るゝ片袖かたそでを、泣聲なきこゑたてじと噬締かみしめて、緣頬えんがはについゐたりしが、親の願望驗ねぎごとしるしあらば、わがねぎごとも驗しるしありなん。いかでこの身を贄にゑにして、母の命にかはらんと、思ひ決さだめつ、もてかへりし、藥劑くすりを其處そこに密そと措おきて、年來母御としごろはゝごの信じ給ふ、瀧の川に走りゆき、岩屋いはやの神に思ふ事、くり返したる瀧の絲、心强くも身を撲うたし、一トたびは死侍しにはベりけん、そのゝちの事しらず侍り。さてあるべきにゆくりなく、糠助男ぬかすけをとこに妨さまたげせられて、活いきて還かへるは願望ねぎごとを、神は受うけさせ給はぬにや。いと朽くちをしく、かなしく侍り」、といひかけて目をおし拭ぬぐへば、手束たつかはよゝと泣沈なきしづみ、「よに子をもたぬ親はなけれど、けふ死するともわが身ばかり、幸さちあるものはなきぞとよ。八九才やつこゝのつの稚をさなこゝろに、賢さかしや親にかはらん、と祈る誠まことを神明かみ〳〵の、受給へばこそ瀧壷たきつぼの、水屑みくずとならで還かへりけめ。かくまでに命運つよき、わが子のうへを見るからに、久後ゆくすゑさへに憑たのもしく、歡よろこばしさに淚のみ、はふれおちて禁とゞめがたし。母がおん身にかはらんとて、祈りしは惑まよひなり。驗しるしあるべき事ならぬに、かへす〳〵もよしもなき、願ぐわんたてなし給ひそ」、と淚の隙ひまに諭さとしけり。

 番作は何なにともいはず、つく〴〵と聞きゝて、形を改め、「信乃よ、あはれわが子なり。その至孝しいこうにあらざりせば、慈母の惑まよひを解とくよしあらんや。周公金縢しうこうきんとうの書しよの如きは、神に祝いはふて成王せいわうの病やまひにかはらん、と願ねがひ給へり。儻もしくは當時の寓言欤ぐうげんか。亦是至誠至感またこれしせいしかんの德のみ。さはれ物の命數めいすうは、人のよくする所にあらず。もし果はたしてこれをよくせば、忠臣孝子がかはらずして、孰たれか君父くんふを病床に喪うしなふべき。さはれそのかはらん、と願ふものは、誠まことの至れる所なり。遂つひに感應かんおふありといふとも、命數めいすうは增ましかたからん。汝なんぢ幼弱にしてその才智、大たい人じんにますことあり。既に道理をしるべきもの歟か*。言ことよく小耳こみゝにとゞめよ」、と說示ときしめす語ことの次ついでに、祖父匠作おほぢせうさくが忠死の形勢ありさま、結城落城ゆふきらくぜうの後のち、春王安王兩公達しゆんわうやすわうりやうきんだちの、最期さいごの爲體ていたらくを物ものかたり、又母手束たつかが一子いつしを祈いのりて、瀧の川の廟やしろよりかへるさに、神女しんによを面まのあたりに拜み奉り、授け給ふ玉たまをえとらで、與四郞よしろう(狗いぬの名也)を將いて還かへりしより、いく程もなく有身みこもりて、信乃が生れしことさへに、その夜よとゝもに說明ときあけす、言葉に注ちゆうをくだしていふやう、「吉事きちじには禎祥よきさがあり、凶事けうじには妖孽あやしみあり。必かならず手束が孕はらむべき、時至りしかば奇特きどくを見たり。さはれ神女は辨才天欤べんざいてんか、又山媛やまひめなどいふものか、或あるは狐狢きつねうじなの所爲欤わざか。そのよしをしらずして、汝なんぢを神の授け給ふ、と我われも思ひ、人にも吿つげなば、愚人ぐにんの夢物語に似て、世の胡慮ものわらひにならんのみ。只たゞ智あり勇ある子を、孕はらむべき祥さが也けり、とこゝろに祕して母さへに、口を禁とゞめてけふまでは、さてぞ汝に吿つげざりし。これらも理義をわきまへよ」、と叮嚀ねんころに敎諭をしえさとせば、信乃は小耳こみゝを側立そばだてて、聞きくこと每ごとに感激し、手束も霎時しばし病苦を忘れて、興あることに思ひけり。

 當下そのとき信乃は思ふやう、「わが母神女しんによの授け給ふ、玉をえとらで、狗いぬをのみ、携たづさへて還かへり給ひし故欤ゆゑか、吾儕わなみに恙つゝがなけれども、母御はゝごは生平つねに持病多くて、竟つひに危窮きゝうに及び給へり。しからんには彼玉かのたまを、再びこゝに索獲たづねえば、本復ほんふくし給ふこともありなん。ともかくもしてその玉を、得まほし」とのみ思ひしかば、更に佛神ぶつじんに祈請きせうして、望のぞみをこゝにかくれども、見し事もなき玉の再び出いづべきよしもなく、母の病やまひは日にまして、十日あまりを經る程に、けふを限りと思ひけん、手束は細こまやかに遺言いげんしつ、應仁おふにん二年十月下旬、享年きやうねんこゝに四十三才、その朝霜あさしもと共侶もろともに、睡ねふるが如く生氣絕いきたえけり。番作が歎なげきはさら也、信乃は地に伏ふし、天にあくがれ、紅淚袖こうるいそでに溢はふれつゝ、哽咽むせかヘり轉輾ふしまろび、聲をえたゝず泣なきしかば、鄰ちかき黨集ともがらあつまりて、或あるは信乃を諫いさめ激はげまし、或あるは番作に力を勠あはして、後のちの事を相謀あひはかり、次つぐの日の黃昏たそがれに、卒つひに棺ひつぎを擡出もたげいだして、番作が母の墓つかの側かたへにぞ葬はうむりける。

 この日も信乃は衣裳いせうを更かえず、綿わたをもて面頬おもてを包み、すべて女めの子この打扮いでたちして、母の棺ひつぎを送りしかば、見るもの笑ひを忍びあへず、ゆきしより還かへるまで、指ゆびさし密語さゝやかざるものなし。信乃はこの好景ありさまに、「日來ひころはとまれかくもあれ、人の愁うれひをたのしげに、われを嘲あざける白徒しれものかな」、と思へども色にも出いださず、母の中陰果ちういんはてて後のち、はじめて父に云云しか〳〵と、送葬そうそうの日の事を吿つげ、「抑吾儕そもそもわなみは男子をのこなるに、などて女めの子にせらるゝやらん。吾儕わなみがうへは厭いとふに足らず。親さへに譏そしらるゝは、朽くちをしき事に侍り。その故ゆゑあらばしらまほし。しらせ給へ」、と生平つねにはあらで、怒氣どきを含ふくみて問とひしかば、番作はうち笑ひ、「そを憤いきどほる事やはある。さらば先まづそのよしをしらせん。汝なんぢには兄三人みたりあり。襁褓むつきの中うちにみな死しゝたり。かくて汝を擧まうけしかば、母は『この子も育たずに、喪うせもやすべき、心もとなし。俗よの慣ならはし〚此/十〛にしたがひて、女の子こにして孚はぐゝまば、恙つゝがあらじ』、と婦人の愚癡も、惑まとひを釋とくべき證迹あかしを獲えざれば、われもその意に任まかしつゝ、則すなはち信乃と名つけしは、如此々々しか〳〵の義を取れり。かくは婦人の忌諱ききを信うけたる、僻事ひがことに似たれども、心なくて許さんや。むかしも今も男兒をのこゞは、十五歲まで女めの子こに比たぐへて、額髮ひたひかみを剃落そりおとさず、袂たもと長き衣きぬを被きて、紅裏こううらさへに許されしは、女めの子こに比たぐへし證据あかし也。又櫛笄くしかんさしは婦女ふぢよのみならで、或あるは冠かんむりを串とむるため、或あるは鳥え帽子ぼうしの尻しりを昂たかくせん爲、むかしは男子をのこも插さしたる也。尒しかるをいと醜みにくしとて、これを笑ふはしらずして、𢖛しゆくと忽こつとが揮沌氏こんとんしを、敗そこなひたる惑まどひにおなじ。人いつまでか幼稚をさなかるべき。汝もその年二八に至らば、當まさに一個いつこの男子なんしなるべし。是これを笑ふは知らざるなり。彼かれを怒いかるはその智足らず。うち捨すてておきね」といふ、只一言たゞひとことに諭さとされて、信乃は忽地たちまち疑ひ解とけ、これに就彼つきかれにつけて、なき母親の慈いつくしみ、かくまでにありける欤か、と思へば哀かなしく慕したはしく、泣顏なきがほ掞かくして退しりぞきぬ。

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第十七回)

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