◎噫無情(002)
ヸクトル、ユーゴー 著
黒岩涙香 譯
噫無情 : 十一 甚いなア、甚いなア
何だッて戎、瓦戎は、子供の落した銀貨を足の下へ敷たゞらう、餘り愚な仕草では無いか
彌里耳僧正が何と云ッた、魂を入替て、善人に成るのだよと、血の埀る樣な言葉で教へたでは無いか、戎の耳には其言葉が猶だ響て居る、彼れの心には僧正の限り無き慈悲の心が充ち滿ちて居る筈である、其れだのに、早や此樣な罪を犯すとは何う云ふ譯だ
多分は彼れ、正氣では無いのだらう、心が狂て居るのだらう、彼れ十九年の間、獄に居て、唯だ世の中の憎いことを許り心に刻み、復讐しやう、復讐しやう、とのみ思ひ詰めて出て來たのだから、心が狂て居る際でも知らず〳〵に此樣な事をするのだ、子供は忽ち立留ッて、銀貨を踏で居る戎の足を見、次に戎の顏を見上げた、顏は極めて恐しい、けれど子供は恐ろしとも思はぬ、唯だ戯れと思たのだらう、思案もせずに戎に近き『伯父さん其樣な事を仕ては可ないよ』戎は無言だ、子供『其足を擧げてお呉れ、ヨウ伯父さん』戎は光る眼で、子供の顏を見た、見た樣の凄さには子供も初て恐れを催ほしたらしい、殆ど泣出す樣な聲で『大事な銀貨だからよう』
戎は動きもせぬ、子供『では足を擧て斯して取るよ』と云つゝ子供は俯向いて戎の足に兩手を掛けた、無理も無い、全く大事の銀貨だらう、子供としては一身代奪はれる樣な者である、戎の足は少しも動かぬ、子供は力盡きて今度は戎の胸を推し『ヨウ伯父さん、還してお呉れ、銀貨を無くしては大變だから、ヨウ、ヨウ』と搖ッた、戎は澁る樣な聲を出し『銀貨など知る者か』と叱つた、子供『だつて此足に踏で居るじや無いか、お呉れと云ふのに』戎は怒りを示して立上つた、けれど踏だ足は動かさぬ、子供は劍幕に恐れて一足 退いた、其の眼には最う涙が浮んで居る『甚いなア、甚いなア、子供の錢なんかを盗んで』と泣き聲で恨んだ、之を平氣で聞く戎は全く鬼である、彼れは平氣で聞くのみで無い、大喝して『夏蠅い奴だ』と再び叱つた、子供は泣て『金を返せ、金を返せ』戎は出拔に杖を取り『是れだぞ』と振かざした、全く叩き殺す勢ひである、直に子供は、泣ながら一散に逃げた
けれど暫く行て逃兼ねたと見え、良久しく其泣聲が、淋しい原に、蟲の音の樣に聞えて居た
戎は立た儘である、銀貨を踏だ儘である幾時か其の儘で、恐い顏して徒だ空中を睨んで居た、何時まで彼れは此儘で居るのだらう、自分で自分の立て居る事を知て居るのか知らん、其中に日は全く沈んで了ッた、戎は身に受ける夜露の寒さにゾッと身震したが、是れが彼れの身に氣附藥の樣に利た、熱を持て居る彼れの腦は冷めた、彼れは『オヤ』と云て四邊を見廻した
頓て立去らうとする如く、彼れは背後に在た袋を取ッて背負ひ直したが、此時チラリと彼れの目に見えたは砂の中に光る銀貨である、彼れは怪む樣に俯向て之を取上げたが、取上ると共に、電光の如く彼れの腦髄に光が射した、彼れは何も彼も思ひだした、今の子供の泣聲さへ猶だ耳に響て居る、エヽ、何だとて我が身は子供の銀貨を盗んだのだらう、僧正の清い姿も眼に浮だ、唯だ一時にして生涯の悔恨に身を責らるゝは斯樣な時である、彼れは直ちに、暗い大地の上に身を投た、地を掻むしッて悔んだ、けれど悔しんでは居られぬ、直に立上ッた『子供よう、子供よう』と叫んだ、延上ッて四邊を見廻した、子供は居ぬ、最う去てから時が立ッた
彼れは子供の去た方へ走ッた、半丁も走ッたけれど姿が無い、又聲を立てゝ呼だ、呼では走り、走ッては呼び、廣い野原を、月の出るまで走り廻ッた、月に透すと何だか彼方に人影がある、直に其傍へ行て見ると、旅の法師であらう、瘠馬に乘て兀々と夜路をして來るのだ『法師さんお願ひです』と戎は馬の前に首を垂れ『若し貴方の通た道で、十一二の一人の子供は居ませんでしたか』法師『愚僧は誰にも逢ひません』戎は銀貨を差出して『何うか之を貧民にお施し成さッて下さい』受取るのが法師の役である、怪みながら受取ッた、戎『若しや何處かで子供の泣聲を聞ませんでしたか』法師『聞きません』戎は又『何うか貧民に、之を』とて今度は銀貨二個を出して渡し『アヽ、私しは盗賊です、盗賊です、何うか警察へ連て行て、懲役に遣て下さい、此世には居られぬ惡人です』法師は驚いて瘠馬の腹を蹠[誤:蹴]て之も逃げた
如何とも仕方が無い、再び戎は聲を立て子供を呼びつゝ、何所までとも走ッたが、遂に路の三方に岐れて居る所へ來た、何方を見ても村らしい者は無い、彼れは大地に摚と座して、膓の底から深い涙が迫ぐり上げた『エヽ己は、エヽ己は』と聲を放ッて泣き、頽折れて鰭伏した、彼れが泣くのは廿年來絶えて無い事だらう、涙が彼れの痺れた腦髄を解きほごせば好い
何時間泣いたか知らぬが、全く存分に泣た、之れが彼れの魂の入れ替る時で有らう、幼い頃から彼れの心は、善心を捻伏て其上へ自分で惡の壁を塗り、世間が憎い人が憎いと、曲た心ばかり練固めた、無理に頑冥にしたのだから、最う善と云ふ心は芽を吹く力も無い樣に枯れて了ッたのが、其の所へ彌里耳僧正の靈精が差込だ、彼れの心は昨夜から革命の樣に揉めて居た、今が革命軍の最も盛に揉み立てる時なんだらう、彼れにして若し少しでも物事を比て見る丈の力が有れば、僧正の心と自分の心とを比べても見るだらう、自分が自分の目へ全く人鬼の樣にも見えるだらう、彼れは天國の光に照して自分の惡相を、愛想の盡きる程に見入た
竟に彼れは何うしたゞらう、其れは誰も知らぬ、此夜の夜半を過ぎ、世間の寢鎭つた三時頃にダインの町を通ッた郵便の飛脚が有る、其者が丁度彼の彌里耳僧正の前を通過した時に、其戸口に一人の男が地に伏して合掌し、神にでも祈る樣な身振で一心に家の中を拜んで居た
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此男が戎、瓦戎である事は、云ふ迄も無い、彼れが再び話の表に現はれる時に何の樣に成て居るだらう、抑も又 何所へ現れて出るたらう[誤:だらう]
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