巖窟王(下 その8)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 87「決闘」
巖窟王 : 二二〇 死の前夜・一
巖窟島伯爵ほどの大決心を以て大計畫を運んで來た人が、其計畫が最早九分九厘まで漕附けた今と爲つて、自分の命を捨ると云ふ心に成れる者だらうか、けれど伯爵は命を捨てねば成らぬ破滅に立至ツたのだ。
實に伯爵の煩悶は見るも憐れである、暗い靜かな書齋の中に、獨り地團駄踏む如くに悶いて居る、幾等悶いても外に道は無い、決鬪の相手野西武之助の命を許すには自分が空砲を放つて武之助に殺される一方である、我が命を武之助に代へねば成らぬ、嗚呼彼が如き、爲す事も無き一少年の命が、天地の大任務を負ふと信ずる我が一命に代へられやうか、否、否、否、と云つた所で代る外は無い、彼に殺される外は無い[、]是れが確に自分の此口で露子夫人に約束した言葉の意味である。
頓て伯爵は、深い〳〵絶望の爲に悶く力も無くなツた、室の一方に在る長椅子へ尻餠を搗く樣に身を凭らせた、爾して空しく溜息を吐いた、斯うなると又も樣々の感慨が胸に集まるのみである、今が今まで此身に天の祐けと神の許しとが籠つてゐて、何の樣な難い事も總て我が意の如く成る者と信じ實際人間業とは思はれぬほどの大業を遂げて來たのに、今と爲つて天意神心は何故に此身を見捨て、斯くも詰らぬ故障に躓かせるのだらう、天の祐、神の許しと此身の信じたのが間違ひだらうか、矢張り此世は神も無く慈悲も無い罪惡 跋扈の世界だらうか、若し其れならば誰が此身を泥阜の土牢から出る事の出來る樣に仕向けて呉れたのだらう、何が爲に此身をモンテ、クリストの島に着かせ、限り無い寶の持主とは仕たのだらう、天の意を行ふ爲で無くば此寶は何の爲に將た何の道に使ふ可き者だらう、イヤイヤ、天の意は明かである、確に此身へ天の裁判が托されたのだ、人間の惡を懲して善を勸めよと命ぜられたのだ、けれど此身の其神意天命を遂げ果せる丈けの力無く詰らぬ愛の爲め情の爲めに心を動かし、踏む可き道を自分から踏損じた爲めに、神は罰として此身から其祐助を取上げて、今茲に、此身を死るより外は無い此破滅に立到らせたのだ、斯う思へば最早仕方が無い、唯此天罰に服し、天助神祐を空しくした此 活地の無い一命を天に返す一方である、其れにしても唯だ悔しいのは、何故此身の心の底に情と云ふ樣な弱い心が潛んで居たのだらう、何故に昔の愛にイヤ愛では無い、愛は既に忘れたのである、忘れたかれど昔愛した女の情願の爲にツイ動かされる樣な情無い弱味が有つたのだらう、其れを知らずに、此身此心をば、全く天に代るに耐へる迄に練固め鍛へ果せた者と信じて居たのが此身の愚鈍しさであツた。
其れから其れと憾みは盡きぬ、其うちに又もフト思ひ出したのは、露子夫人が餘り易々と此身の言葉を承け引いた容子の怪しさである、此身が死ぬると云ふが否や夫人は直に打喜び、殆ど其れなら死ねと云はん許りの景状で立去つたのだ、幾等母の情で我子の助けられるのが嬉しいとて、人が其爲に死ぬると云ふのを、好い事の樣に思ひ、何の辛さも感ぜずに人を我子の身代りに立たされる者だらうか、お露と云ふた其昔は決して其樣な、邪慳な卑怯な魂性では無かツた、確に人間の中の神であるかと思はれるほど慈悲深い所に有る心根であツた、如何に其後、人の妻と爲り人の母と爲り、心も持方が違ツたにしても、此身を自分の子の代りに死なせるのを當然の事の樣に思ふとは餘りである、餘りな事で事實とは思はれぬ、勿論人の爲に身を犧牲にすると云ふは善事には違ひ無いが善事でも度を過ぎれば罪惡と爲る事が有る、此身が是だけの大計畫を抱へて居ながら、其れを捨て人の身代りに立つとは、却て罪惡と云ふ者では無からうか、其罪惡を此身に強ふる露子夫人のする事は更に重い罪惡では無からうか、豈もや夫人が罪惡を知つて喜ぶ筈も無からうにと、全く見込みの無い爲にまで見込を附けて、何か我爲に都合の能き道理は出て來ぬかと求むるは、死ぬる人の未練と云ふ者で、何事をも辨へた伯爵の如きすらも猶ほ免れぬ所と見える、未練、今と爲つて幾等繰返したとて何の甲斐が有らう、けれど此未練は又一つの考へを搜し出した、アヽ分ツた、露子夫人は決鬪の間際に成り、此身と武之助の間に割つて入り、其身が雙方の彈丸を受けて死ぬるか、爾無くば決鬪を止めて了ふ積りで有らう、爾だ其れに違ひ無いと、思ひ初めると同時に、伯爵の心には微に一道の希望が浮き出る樣に思はれたが、又忽ち消えて了ツた、エヽ、其樣な事をせられては、此身の折角の決心が宛で狂言じみて了ふ、可けぬ、可けぬ、巖窟島伯爵とも云はれる者が、相手の母の止めぬ來るを見込んで決鬪に負る約束をしたと有つては、物笑ひの種と云ふ者、此身は辛い思ひで身を犧牲にする考へを定めたのに、其れが却て物笑ひとは自分の名に泥を塗るのだ、其れよりは、爾うだ、若しも其樣な事が有れば其場で手早く自殺するが好い、自殺して切ては名前だけでも汚れぬ樣にせねば成らぬ。
漸く茲に思ひは極ツた、其れにしては其次第と其決心の能く分る樣に我が遺言へ特別に書入れて置かねば成らぬ。死んだ後で人が見れば、成るほど斯うも辛い決心をしたのかと、縱しや感心はして呉れぬ迄も我を物笑ひの種とはせぬだらうと、獨り呟いて身を起し、机に向つて紙筆を取上げたが此時又も室の外で、女の絹摺の音かと思はれる微な物音が有ツた、けれど早や二時を過て人の入り來る筈は無い、伯爵は少しも物音に氣が附かなかつた。
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