中井正一「土曜日」巻頭言(15)

◎誤りをふみしめて『土曜日』は一年を歩んできた ー九三七年七月五日

 七月は再び来た。
 多くの幸いではない条件の下に、独立と自由を確保しながら、『土曜日』が生き残れるか否か、これを、私たちはこの現実に問いただしたかった。
 そして『土曜日』は、一年をここに歩みきたったのである。鉄路の上に咲ぐ花は、千均のカを必要としたのではない。日々の絶間なき必要を守ったのである。われわれの生きて此処に今いることをしっかり手離さないこと、その批判を放棄しないことにおいて、はじめて、すべての灰色の路線を花をもって埋めることができるのである、と一年前に私たちはいった。
 そうして、花は今、鉄路の盛り土の上に咲いたのである。
 この現実を前にして、過去を顧るとき、それが決して容易な道でなかったことを知るのである。それを常に破滅の前に置くほどの、激しい批判の火花を貫き、多くの誤りを越えて、辿りきたのを知るのである。
 真実は誤りの中にのみ輝き出ずるもので、頭の中に夢のごとく描かるるものでないことを、この一年が私たちに明瞭に示した。
 否定を媒介として、その過程において自分みずからを対象とすること、それがあるべき最後の真実であることを学んだ。
 真実のほか、つくものがないこと、そのことが率直にわかること、それがほんとうの安心である。
 それは草がもっている安心である。
 それは木の葉がもっている安心である。
 私たちの社会は、今一葉の木の葉の辿る秩序よりも恥しい。自分たちの弱さも、また、そうだ。
 木の葉のすなおさほど強くない。
 真実へのすなおな張りなくして、この木の葉にまともに人々は面しうるか。
 この新聞はこれを読むすべての人々が書く新聞である。すべての読者は直ちに執筆者となって、この新聞に参加した人たちである。この新聞が三銭であることにかかずらうことなく、自分たちが売り物でも買物でもないことを示した人たちである。私達の一年の歩みは、鉄路の盛り土にも咲く花のすなおさとそのもつ厳しい強さを、お互いの批判の涯に、やっととらえた自然な喜びを示すものである。
 私たちはこの喜びを包みかくすすべはないのである。

読書ざんまいよせい(049)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(03)

     第三章  產業制度の進化

〇近世社會主義の祖師カルル・マルクスは、吾人の爲めに能く人類社會の組織せらる、所以の眞相を道破せり。日く『有史以來何の時、何の處とを問はずして、一切社會の組織せらるゝ所以の者は、必ずや經濟的生産及び交換の方法、之が根底たらざるは無し。而して共時代《エポツク》の政治的及び靈能的《インテレクチユアル》歷史の如きは、唯だ此根底の上に建てる者にして、亦實に此根底よりして始めて解釋することを得べき也』と。
〇然り、人の生れて地に落つ、先づ食はざるを得ず、衣《き》ざるを得ず、雨露風雪を防がざるを得ず。夫の美術や、宗敎や、學術や、唯此最初の耍求の滿足せらるゝ有りて、而して後ち始めて發展することを得べきのみ、故に其人民がーたび生產交換の方法を異にするに至るや、共社會の組織、歷史の發展、亦從って其狀態を異にせざるを得ず。
〇見よ、太初の人類たる、縱鼻横目、吾人の人類たるに於て、果して幾何の差異ありしとするぞ。而も彼等の血族相集り部落相結びて、共產の社會を成すや、其衣食や唯其社會全带の爲めに生産し、社會全體の需用に充つるのみ。又個人あるを知らざりし也、階級あるを知らざりし也、況んや地主なるものをや、賓本家なるものをや。レウイス・モルガンは算して日く、人類社會有って以來、殆ど十萬年、而して其九萬五千年は實に共產制度の時代なりきと。吾人人類は娥に此九萬五千年間地球上に點々散布せる血族的部落的の小共產制度の時代に於て更に蠢爾《しゆんじ》たる野獸の域を脫却し、弓矢を製し、舟楫《しうしふ》を製し、牧畜を解し、股業を習ふの進化變遷を經ることを得たりしなりき。
〇夫れ文明の進步は、石の地上に落るが如し、落る益々低くして、速度益々加はる。古代人口の漸く增殖し、團聚漸く繁榮し、衣食の需用亦漸く多大に、交換の方法從って複雜なるに從って、是等共產の制度は亦漸く傾覆の運に向へり。而して彼等が其曾て生擒し屠殺せる敵人を宥して、之を生產的に使役するや、卽ち奴隸の一階級を生じて、更に人類社會の歴史に於て、全く一大段落を劃し來れる也。
〇嗚呼奴隸の制度、今や吾人の口にするだも愧づる所なりと雖も、而も當時に在てや、 特《ひと》り全社會產業の基礎たるのみならず、彼の埃及、アツシリアの智識や、希臘の藝術や、 維馬の法理や、其千載の歷史を照耀するを得たる者、實に是等愛々たる億萬奴隸が林漓《りんり》の膏血《かうけつ》なりしと知らずや。然り常時の文明を致せる者は、是等產業の制なりき。而して當時の文明を覆へせるも、亦實に是等產業の制なりき。花を催すの雨は是れ花を散ずるの雨たらざるを得ぎりき。
〇見よ、是等奴隸の膏血と其天然の富源も、亦一日涸渴に至らざることを得ず。而して縦馬末年の莫大なる淫逸驕奢の資、遂に之に依て辨ずるに足らざるに及んで、四方の攻伐は次げり、領土の擴張は次げり、貢租の誅求は次げり、而して外正に叛くの時は、內旣に潰ゆるの日なりしに非ずや。
〇於是乎羅馬に通ずるの大道は、荆棘《けいきよく》の叢となれり、天下|瓜分《くわぶん》して產業全く萎靡す。次で起る者は卽ち農奴《サーフ》の耕織ならざるを得ざりき、之を保護する者は卽ち封建の制度ならさるを得ざりき。然れども代謝は少時も休せず。経濟的生活の遷移すること一日なれば、社會の組織亦進化する一日ならざるを得ず。而して自由農工は生ず、城市の繁榮は次ぐ、農奴《サーフ》の解決は來る、交通の發達し、市場の擴大し、殖產の增加する、愈々急速を加ふ。而して地方的封建の藩籬は、遂に國民的及び世界的貿易カ大潮流を抗制するに堪へずして、自ら七花入裂し去れる也。
〇故にフリードリヒ・エンゲルも亦日く『一切社會的變化、政治的革命を以て、其究竟の原因が、人間の頭脳に出ると為すこと勿れ、一定不變の正義眞理の講究に出ると為すこと勿れ、夫れ唯だ生產交換の方法の變化如何と見よ。然り之を哲學に求むる勿れ、唯だ各時代の經濟に見よ、若し夫れ現在の社會組織が非理たり、不正たり、昨日の正義が今日の非理となり、去年の正義が今年の罪惡となれるを見ぱ、卽ち其生產交換の方法漸く喑遷默移し去って、當初に適應せる社會粗織が旣に其用に堪へざるに至れんこと知らん也』と。
〇然り世界の歷史は產業方法の歷史のみ、社會の進化と革命は一に產業方法の變易のみ。誰か道ふ、今の產業制度は常住也と、誰か道ふ、今の地主資本家は永劫也と。
〇然らば則ち現時社會の產業方法、マルクス以來所謂資本家制度として知られたる特種の產業方法は、果して何の處より來リ、 何の處に去らんとする乎。
〇蓋し中世紀に在てや、今の所謂資本家なく、今の所謂大地主なし。而して其社會を支持する所以の産業は、常に一般勞働者の手に在りき。地方に在ては卽ち自由民若くば農奴《サーフ》の耕作なりき。城市に在ては卽ち獨立工人の手工なりき。而して彼等が勞働の機關たる土地や、農具や、仕事場や、器具や、皆な各個人單価の使用に適する者なりしが故に、彼等は各個に之を所用して、自由に各自の生產を為したりき。
〇而して此等散漫にして小規模なる產業機關を集中し、擴大して、以て現代產業の有力なる槓杆と變ずるは、是れ產業歷史に於ける自然の大潮流なりき、所謂商工資本家の天職なりき。彼れ夫れ米國の發見や、喜望峰の廻航や、東印度の貿易や、支那の市場や、世運の進步は、產業の方法
を鞭撻して、 地方的より國民的に、 国民的より世界的に促進せずんば止まざりし也。而して第十五世紀以來如何に是等の產業方法が、慚次に諸種の歷史的段階を通過して、以て所謂『近世工業』に達するに至れるかは、マルクスが其大著『資本』に細說せし所也。
〇然れども一般の生產機關が猶ほ個人的方法の域中に彷徨して、未だ多數勞働者の協力を要すべき社會的方法を採用すること能はざるの間は、彼等資本家が直ちに是等生產機關を變じて、以て偉大なる產業的勢力を顯現するは到底不可能の事なりき。而も時節は到來せり、 蒸氣器械のーたび發明せらるゝや、歷史は急轉直下の勢を以て、其『產業的革命』を成功せり。
〇絲車は卽ち紡績器械となれり、手織機は織物器械となれり、個人の仕事場は數百人乃至數千人を包容するの工場とたり、個人的勞働は變じて社會的勞働となり、個人的生産物は變じて社會的生産物となる。見よ昔は個人各自に能く之を生產せる者、今やー綫の絲、一尺の布と雖も、總て是れ多數の勞働者が協力の結果に非ざるは無く、又一人の『是れ予の作る所、予一個の生產物也』と一言ひ得る莫し。
〇但だ吾人は知らざる可らず、產業的革命の功果や、彼が如く其れ顯著なりしと雖も、而も其初めに當つてや、彼等商工資本家は必しも其革命たる所以を承認する者に非ざりき。彼等の之を利導し助成する、單に其商品の增加發達を希ふに過ぎざりき、其商品の増加發達の爲めに、資本の集中、生產機關の膨大を希ふに過ぎざりき。唯だ此目的を達するに急なる、卽ち個人的生產打壞の事に任じ、更に個人的生産を保護する所以の封建制度顛覆の事に任じて、不知不識の間に其歷史的使命を了せるのみ。
〇夫れ唯だ生產の增加を希ふのみ、之が交換の如何を問はざる也、夫れ唯だ資本の輩を希ふのみ、之が領有の如何を問はざる也。是を以て其生産は卽ち協同的となれるも、其交換は依然として個人的なるを免れざりき、製造工場の組織は旣に新天地を現ぜるも、其領有は繪ほ舊世界の樣式を脫する能はざりき。於是乎矛盾は生ぜざることを得ず。
〇生產の酒ほ個人的なるの時に於ては、共生產物の所有に關する問題は、決して起來すること無りき。各個の生產や、皆な自家の技倆を以てせり、自家の原料を以てせり、自家の器具を以てせり、而して彼れ及び彼の家族の勞働を以てせり。而して生產する所の結果が何人に质す可き乎、言を俟たずして明かなるに非ずや。
〇故に昔時生產機關を所有する者は、皆な其生產物を領有せり、而して是れ實に彼等自身が勞働の結果なるが爲めなりき。而して今の生產機關所有者も、亦其生産物を領有す。然れども見よ、其生産物や決して彼耆身の勞働の結果に非ずして、實に他人の生産する所に非ずや。然り今の勞働や協同的也、今の生産や社會的也、又一個の是れ予の生產物也と言ひ得るなし。而も是等の生產や、其生産者に依て社會的に共有せらるゝこと無くして、舊に依て唯だ個人の爲めに領有せらる、唯だ所謂地主資本家てふ個人の爲めに領有せらる。是れ豈に一大矛盾に非ずや。
〇然り大矛盾也。而して予は信ず、現時社會の一切の害惡は實に這個の矛盾に胚胎し來れることを。
〇其第一は卽ち階級の爭鬪也。『近世工業』の二たび隆興するや、瞬息の間世間萬邦を席捲して、到る處個人的小產業の壓倒し去らるゝ者、 紛々落葉の如くなりしは、 元より怪しむに足らず。而して從來個人的生產者や、全く其利を失はざる可らず、其業を失はざる可らず。彼等は卽ち其個人的小器械を棄てて、社會的生產に從はんが爲めに、大工場に向って趨らざる可らず、然れども其生產物や卽ち資本家てふ個人の領有に歸せるが故に、彼等の得る所は、僅に一日の生命を支ふるの賃銀のみ。加ふるに封建の制破壊せられて土地の兼併盛んなるに至るや、地方小農競うて都會に出で、賃銀に衣食せんことを求むるは、是れ自然の勢にして、而して工業の發達熾んなる丈け、夫れ丈け自由獨立の勞働者は慚く迹を絕ちて、所謂賃銀勞働者なる者、日に多きを致せり。於是乎社會は、一面に於て生產機關を専有して、盡く其生產を領有するの資本家てふ一階級を生ずると同時に、他面に於て、彼の勞働力の外何物をも有することなき勞働者の一階級を生じて、兩者の間判然鴻溝《こうこう》を劃するに至る。社會的生産と資本家的領有との間に生ぜる一大矛盾は、如此にして先づ共一端を、地主資本家と賃銀勞働者との衝突に現ぜる也。
〇啻に之のみに非ざる也、個人的領有の結果は卽ち所謂自由競爭ならざるを得ず、自由競爭の結果は、卽ち經濟界の無政府《アナーキー》ならざるを得ず。昔時個人的生産の時に於てや、其生產は主として自家の消費に供し、餘あれば則ち地方の小市場に輸するのみ。故に其商品の需用の豫知す可らずして、一般競爭の法則に支配せらるる、固より之れ無きに非ずと雖も、而も其範囲極めて狹隘にして、未だ其太甚なるに至らざりき。今や然らず、其作る所は決して生産者彼等自身の消費に充るが爲めに非らずして、盡く是れ個人の商品として交換の利を競ふに在り。夫れ唯だ個人の競爭に一任す、生產カの增加し發達し、市場の擴大するに從って、競爭益々激烈に、世界の經濟社會は全く無政府の狀態に陷り、優勝劣敗、弱肉强食、具さに其慘を極めり。如此にして社會的生產と資本家的領有の間に生ぜる一大矛盾は、更に組織的なる工場生產と無政府なる一般市場との衝突となって顯現せる者に非ずや。
〇然り矛盾の極は衝突也、衝突の極は卽ち破裂に非ずや。今の責本家的產業の方法や、其根源に於て旣に一大矛盾を以て其運行を始めたり、而して矛盾の發展する所、一は卽ち階級の衝突となり、他は卽ち市場の衝突となる。而して是等兩個の方面に於ける衝突や、互に巴字の如く相|趁《お》ひ、旋風の如く相追ふの間、其勢力漸次に激烈を致して、遂に現時の產業制度全體の大衝突大破裂に至らずんぱ已まざらんとするを見る也。何を以てか之を言ふ。
〇經濟的自由競爭及び階級戰爭の久しきに彌るや、其結果は必ず多數劣敗者の其產を失ふ也、賃銀勞働者の增加也、資本集中の强大也、生產器械の改良を加ふる也。彼の器械の改良が年々勞働の需用を省減して已まざると同時に、勞働の供給が日々共增加を來すや、卽ち多數勞働者の過剰は生ぜざることを得ず。エンゲルの所謂『工業的豫備兵《インダストリアル・レザーヴ・アーミ―》』なる者是れ也。
〇工業的豫備兵の現出や、近世工業の下に在て極めて哀しむべきの特徴なりとす。彼等は經濟市場の好況なるの時に於ては、辛うじて其職に就くを得ると雖も、ー朝貿易の萎靡するに遇へば、數萬乃至十數萬の多數勞働者は、恰も塵芥を捨るが如く、工場外に放擲せられて、道途に凍餒《とうだい》せざるを得ず、是れ實に現時歐米諸國の常態也。而して我國の如き共慘狀未だ如此きに至らずと云ふと雖も、而も社會の經濟が資本家的自由競爭に一任する以上は、到底兔る可らざるの趨勢にして、餘す所は唯だ時日の問題のみ。
〇而して多數勞働者彼等自身の競爭は之に伴ふて激す。次で一般賃銀低落の勢ひは成る。一般賃銀の低落は、卽ち勞働者をして其生命を支へんが爲めに、長時間過度の勞働に從はざるを得ざらしむ、而して資本家の掠奪は實に此際に於て逞しくせらる。
〇マルクスは蓋し謂らく、『交換は決して價格を生ずる者に非ず、價格は決して市場に於て創造せらるゝ者に非ず。而も資本家が其の資本を運轉するの間に於て、自ら其額を增加することを得るは何ぞや。他なし、彼等は實に價格を創造し得る所の臍く可き力を有する商品を購買するを得れば也。此の商品とは何ぞや、人間の勞働力是れ也。夫れ此力の所有者は共生活の必要の爲めに、之を低廉に資却せざることを得ず、而して此の力が一日に創贱するの價格や、必ず共所有者がー日の生活を支持するの費用として受くる貨銀の價格よりも、遙に多し。例せば一日六|志《シリング》の富を創造し得るの勞働力は、一日三志を以て購買せらる。其差額を名けて剩餘價格《サープラス・ヴアリユー》と云ふ。彼等資本家が共資本を增加することを得るは、唯だ此剩餘價格を勞働者より掠奪して、其手中に椎紡するが爲めのみ』と。
〇然り『剩餘價格』の掠奪は、査本を地加せしめて已まず、資本の增加は更に器械の改良を促して已まず、改良の器械は、再び轉じて剰餘價格掠奪の武器となる。而して轉々するの間に於て、社會の生產カは層々膨脹して底止する所を知らず。而も內國市場の膏血は旣に彼等資本家の絞取し盡す所となって、社會多數の購買カは到底之に應ずるに足らず。於是乎彼等資本家は百方生産力疏通の途を求むるや急也、日く、新市場を拓開せよ、日く、領土を擴張せよ、外國の貨物を掃蕩せよ、大帝國を建設せよと。然れども世界の市場も亦限りなきことを得ず、現時生產的洪水が無限の氾濫は、 竟に壅蔽《ようへい》し得る所に非ざるの勢を示せリ。
〇而して來る者は卽ち資本の過多也、資本家は之を投ずるの事業なきに苦しむ、生產の過多也、商品は之を輸するの市場なきに苦しむ、勞働供給の過多也、工業的豫備兵は之を雇使するの工場なきに苦しむ。今の文明諸國、荀くも近世工業を採用するの地、皆な此ヂレンマに陷り、若くば陷りつゝあらざる者なきに非ずや。於是乎『生產過多』の叫聲は到處に反響す。
〇思へ資本家は銳意して、資本の集中、生產の増加を努めたり、而して今や彼等は却って生産の過多なるに苦しむ。器械の改艮は人力の需用を省減せしめたり、而も多數の勞働者は却って衣食の匱乏に苦しめり。社會多數の人類は、多額の衣服を作れるが爲めに、却て赤裸々ならざるを得ず。是れ何等の奇現象ぞや。現時產業制度の矛盾衝突は、於是て更に大踏潤步し來れる者に非ずや。
〇嗚呼『生產過多』の叫聲、是れ實に破裂の將に至らんとするを粋むるの信號に非ずや。果然破裂は其端を恐慌の紐出に發せり。
〇恐慌の禍も亦慘なる哉、貿易は篓糜を極むる也、物價は俄然として暴落する也、貨物は停滞して動かざる也、信用は全く地を掃ふ也、工場は頻々として閉鎖せらるゝ也、多數の商工の破產は破産に次ぎ、多數勞働者の失業は失業に次ぎ、穀肉庫中に充ちて、而して餓孚《がふ》却って途に横ふ。如此き者數旬、數月、 甚しきは瘡痍數年に彌って癒えざるに至る、フーリエーの所謂『充溢の危機』なる者卽ち是れ也。而して此等恐慌や、其起るや決して偶然に非ず、 其去るや亦偶然に非ず。彼ー千八百二十五年の大恐慌以來、殆ど每十年、期を定めて以て共禍を被らざるなき見ば、如何に現時經濟組織の根底が、深く馴致する所ありしかを知るに足らん。
〇而して恐慌の至る每に、少數なる大資本家の能く此危機に堪ふるを得る者、常に多數の小資本家の破產零落に乘じて、併呑の慾を逞しくするは、自然の勢ひ也。加ふるに大資本家彼等自身も亦相互の競爭の危險と、恐慌の襲來を憂慮して措かざるの極、漸次に領有交換に於ける個人的方法の範圍を讓步して、社會的方法を採用し、以て矛盾衝突を緩和せんと試みたりき。株式會社の組織は之が爲めなりき、同業者大同盟《コンピネーシオン》の起るは之が爲めなりき。而して是等手段も亦彼等の運命を永くするに足らざるを見るや、彼等は卽ち現時のツラストなる牙城を築きて、以て最後の惡戰を開始せり。如此にして自由競爭の根底に立てるの資本家制度は、其進化發達の極、却って自ら自由競爭を一掃し去りて、世界各國の產業は殆どツラストの獨占統一に歸せずんば已まざらんとす。
〇然れどもツラストが猶ほ資本家階級の爲めに領有せらるゝの間は、現時の矛盾衝突をして、決して最後の解決を得せしめざるのみならず、却って一段を激進せしむるの具たらずんばあらず。何となれば今や彼等の事業は、唯だ生產の額を制限するに在れば也。價格を騰昂せしむるに在れば也、而して其獨占の暴威を利して、法外の剰條價格を掠奪するに在れば也、社會全體の窮困|匱乏《きぼう》を増大するに在れば也。於是乎社會人類の多數は唯だツラストを所有する少數階級の爲めに、其貪慾の犧牲に供せらるゝに至れり。資本家對勞働者の階級戰爭は、其進化發達の極、遂に變じてツラスト對社會全體の衝突となり了れる也。
〇而して社會全體は何時迄か這個《しゃこ》の狀態に堪ふるを得る乎、何時迄か資本家てふ階級の存在を是認せんとする乎。彼の宠大なるツラストは、獨り無責任なる不規律なる個人的資本家の手に支配されざる可らざる乎、社會は之を公有して統一あり組織あり調和あり責任あるの產業と為すことを得可らざる乎。從來唯だ資本の集中と生產の増加とを以て天職使命となせるの資本家てふ一階級は、此に至つて旣に其天職使命を了せるに非ずや、共存在の理由を失へるに非ずや。今や彼等は單に財富分配の妨礙物として存するのみに非ずや、獨り勞働者のみならず、實に社會全體と生產機關との間に於ける障壁として存するのみに非ずや。
〇然り今や工場に於ける協同的、社會的生建組織の發達は遂に一般社會の無政府的自由競爭と兩立せざるの點に迄達せる也、小數資本家階級の存在を歸可せざるの點に迄達せる也、換言すれば矛盾衝突は其極度に達せる也。一面に於ては資本家的個人領有の制度が、最早是等の生產カを支配するの能力なきを示すと同時に、他面に於て是等生產力夫れ自身も亦其無限膨大の力の威壓を以て、現時制度の矛盾を排除し盡さんとせる也、私有資本の域を逸脫し去らんとせる也、其社會的性質を實際に承認されんことを要求命令しつ、ある也、是れ豈に一大轉變の運に向へる者に非ずや、一大破裂の時に濒せる者に非ずや。是れ實に世界產業歷史の進化發逹する所以の大勢にして、資本家階級億萬の黄金も又之を如何ともする莫き也。
〇新時代は於是て來る。
    聖賢不白之衷。托之日月。
    天地不平之氣。托之風宙。
[編者注]典拠は、「小窗幽記」からか?「賢者たちが示さなかった心は、太陽と月に託された。 不正から生じる天地の怒りは、風と雷に表現されている。」(Deepl からの訳文)

槙村浩「日本詩歌史」(001)

目次・日本詩歌史―――
詩を通じて見たる日本史の概略
詩における唯物弁証法的ヒューマニズム理論に関する覚え書


第一章 序論――――7

 芸術の起源と童心―――原始共産制時代における詩の任務―――古事記か?万葉集か?……唯物弁証法か?社会主義アリズムか?

第二章 日本原始共産制時代の詩歌――――13

 詩学方法論の一例と日本語の特殊性―――本来平和的な共産詩人の進歩的戦争に対する反省と苦悶―――盛期第一期、狩猟的農業時代。女性による白鳥の歌の第一曲―――盛期第二期、牧畜的農業時代。移民戦争の英雄酋長による白鳥の歌の第二曲―――盛期第三期、社会主義的農業時代。原始的女性織工による白鳥の歌の第三曲―――原始共産制没落の諸表象

第三章―日本貴族制時代の一、半族奴制期の詩歌――――27

 日本国家の✕力による結成―――共同財産の没収過程と大悪天皇の詩―――平民の乞食過程と飛鳥時代の詩―――平民の貴族過程と飛鳥時代の詩―――芸術における価値分裂の経過

第四章 日本貴族制時代の二、族奴制期の詩歌――――――41

 奴隸生産における「アテナイ」型と「奈良」型の異同―――華麗短命な日本型族奴制の頂点を準備するものとして大化の回顧―――日本社会史家の混乱に対しての忠告文化を直接に剖け!…―――群小貴族詩人の一群、人暦、赤人、旅人、憶良、家持―――書紀と万葉の反戦人民詩人たち―――奈良と平民芸術の没落

第五章 日本貴族制時代の三、半農奴制期の詩歌―――――58

 平安の史的特徴。詩歌に表われた重圏的一神論と相即相入の集約的土地所有制―――弘法、祝詞、古今集、百人一首―――詩学方法論の一例としての転形期の没落の恋愛

第六章 日本王制時代のー、古典封建制的農奴制期の詩歌―――68

 古典封建制前期の特徴―――坊主天皇をめぐる「もの、あわれ」詩人たち―――封建的実践理性の詩人興教―――封建的純粋理性の詩人親鸞―――農奴的収取の「物自体」をめぐる自力他力の論争―――好色一代女としての女王を描いた長篇叙事詩「平家」―――古典封建制後期の特徴

第七章 日本王制時代の二、商業封建制的農奴制期の詩歌――――81

 商業封建制の特徴―――—商業封建主義の展望図としての誹諧と浄瑠璃と短歌復興調―――芭蕉の脱皮過程、新訳「春の日」「猿蓑」「炭俵」、芭蕉最后の到達点として寄生的リアリズム―――近松の人形哲学―――商業封建主義日本君主はいかにして古典封建主義中国え侵略せんとしたか、その陰影的仮象の弁証法的表現としての国性爺三部曲―――上層奴隸のギルド的自殺と、「馬子」及び「飛脚」の光の哲学―――近松における男色と女色、僧院的農奴制から遊廓的農奴制え、「万年草」と「七墓廻」―――姉弟女娼男娼篇、苟合の完成としての心中種々相最后の閨房に用意されたルーデサック―――川柳、社会の芸術的縮図としてなぜ男色的宮廷が遊廓の短詩によって描写されねばならなかったか―――主従・夫婦-親子の封建的三次元階段の解消過程―――アルカーブとしての高利貸的古典的整正さを特徴とする蕪村派―――一茶。離散した自由農民の雀の歌、封建小作争議調停裁判|日本封建制崩壊過程の史的批判、アジア的生産えの逆襲の必然性の素描―――外国帝国主義の奴僕としての志士、牢獄遊泳の末死刑となった犬の歌―――列侯会議的明治維新の主張者としての初期ブルジョワ自由主義者の詩―――明治の少年王一派は人民一揆と共に芸術をまで圧殺した上からの社会変革を敢てした…

第八章 日本帝制時代のー、資本主義者の詩歌―――――128

 日本資本主義発達過程の展望、早期金融資本の制約による駆足的帝国主義の理論―――利権の自由主義的投資の牢獄資本的保護主義えの委任、被告「革命詩人」透谷と判事「憲法詩人」緑雨―――悲歌「親は他国に、子は島原に」——子規宣言「天皇是なれば軍部非なり、軍部是なれば天皇非なり」―――帝国主義戦争の讃歌、詩人晩翠、日本ブルジョアジーの万里の長城―――資本循環の等差的凹壁における口マンチシズム―――その発生、「民法」法典詩人藤村と最良の農村ブルジョア詩人夜雨―――その解消、工業資本集中の進軍歌を奏でた人々―――世界的旧人民主義詩人石川啄木―――ハイネと啄木のローレライ的放浪―――ー九〇五年の戦争と暴動に対する啄木―――大逆事件に対する彼の逃避と逡巡、そして最后に決然たる✕✕銃殺連帯宣言―――沈滞的象徴派と白秋一派―――大戦、ロシア革命、世界革命の猛然たる開始―――にせもの「民衆詩人」と、ブルジョア詩人の良き分子の低迷―――ブルジョア詩全体をあげてのカフェえの転落

第九章 日本帝制時代の二、人民と共産主義者の詩歌――――188

 数行的走り書―――中野重治、森山啓、上野壮夫、伊藤信吉、工屋戦二の五人民詩人えの戯詩

第十章 結語―――197

 労働の集団的把握と芸術の体現者としての人類の起源―――人民文化としてのリアリズムとロマンチシズムのかつて存在せず、また真実な意味で存在せぬであろうことの歴史的証明―――奴隸所有制と奴隸所有者国家形成の芸術に及ぼした影響の世界的展望のスケッチ―――日本詩歌史の概略的回顧——世界に誇る日本の原始共産人民の詩とそのプロレタリア人民詩、コミュニスト詩人金龍済―――詩における主観的弁証法と客観的弁証法のヒューマ二ズム的一致―――人民詩人当面の任務―――日本人民革命の展望―――「詩は✕のものである!」——再びマルクスの投じた爆弾・芸術云術の童心的起源に関する二重性の復帰的発展と補足的解決

中井正一「土曜日」巻頭言(14)

◎人間は人間を馬鹿にしてはならない  一九三七年四月五日

 人間はよく自分にいいきかせておいても、つい着物がぞんざいだとか、住居が粗末だとか、軽蔑の心持ちを抱いたりするものである。その段はかぎりないもので、自分よりちよっと粗末でも、その心持ちを抱くし、自分が粗末だと、何となく卑下したり、逆に反抗的な気持ちになったりするものである。
 相当な教養をもった人でも、この心持ちは拭いきれない名残りを心の底に引いているものである。ある場合は、似而非教養の場合は、そればかりに終始することすらある。知識も学問もさらに趣味すら、その場合は、人絹かどうかを試すような、ミテクレになってしまうものである。その場合は教養自体が犬競争の犬のように、ただ他を抜こう抜こうと汗みずくになって、やりきれないシノギをけずることになるのである。
 人間が完全であることは、本来の目的を離れてしまったこんなヒステリー性から脱がれて、自由な野の菫のように生まな人間の香りと健康を自ら親しく味わうことであるはずである。
 かかる、嫉妬に似たアセリ気味な競争から、自分を自由にすること、この自由の闘いは、目にすぐ見える闘いではないが、人々が人々の魂の深部で、決して目を覆うてはならない決定的な闘争である。
 闘いそのものをも、見せるための闘い、ミテクレの闘いと転化する誘惑は充分に自分自身もっているのである。その波瀾葛藤を截断して、まっしぐらに、人間そのものに、顔を洗って、対いあうことは、ちよつとやソットの闘いではない。今にも放しそうになる權を、なおも一本一本引いて後、やっとめぐりあえるものである。
 かかる深部の闘いに遠く、また近く、つながりをもつ魂の蹈きの石が、この日常の着物や住居や食物の見得坊の中にもひそんでいるのである。今それらのものはお金で買われているかぎり、お金の多寡が決定するかのようである。そして威張ったり、テラッたり、ヒガンだりしているのである。
 この威張りや、テライやヒガミがあるかぎり、人間が人間自身を馬鹿にしているのである。現実のあらゆる矛盾は、おおらかな、爽かな、人間の誇りを、人間が今新しく建設すべき、たわめられたるバネであり、撥条である。矛盾の批判を手放さないこと、心の隅から隅まで、ミテクレに行すぎる誘惑の批判をゆるめないこと、人間が人間を侮辱の中にまかせないこと。このことが、すぐれたる人々こそ今一等大切である。

槙村浩「日本詩歌史」(002)


第一章 序論

    芸術の起源と童心――原始共産制時代における詩の任務――古事記か?万葉集か?……唯物弁証法か?社会主義リアリズムか?
 芸術の起源と童心との関係について、われ/\は今まで書かれたもののうちで最も美くしいものゝ一つを、老マルクスの遺稿の中に持っている。
 「人は再び小供になることは出来ない。もしなったら馬鹿になるだろう。だが、小供の純朴さは彼を喜ばせないだろうか? 彼は再びより高き段階において、その純真さを再生産するために、努力してはならないだろうか?小供のような性質の人には、いかなる年令期においても、小供の心の特質が、その純真さをもって蘇えるものではなかろうか? 人類が最も美しく展びたその社会的幼年期は再び復帰せざるーの階段として、なぜ永久の魅力を与えないだろうか? しつけの悪い小供もあれば、早熟な小供もある。古代民族の多くは、かかる範疇に属していた。正常なる小供はギリシャ人であった。彼等の芸術がわれ/\に対して魅力を有するとゆう事実は、それがその上に生長せる社会階段の未発展なことゝ矛盾するものではない。魅力はむしろその結果である。そしてそれはむしろ、芸術がそのもとに成立し、しかもそのもとにのみ成立するをえたところの、未熟なる社会的条件が、決して復帰しえないとゆう事実と、不可分的に結合しているのである。」(河上肇、宮川実両氏共訳「経済学批判序章」の最后の節)
 こんな小供がある!――彼は人類が最も美くしく展びたその社会的幼年期を、素朴な原始共産主義的な生活の中で生きぬいていた。それは生活そのものが美くしい詩だった。われくは昨日までその断片を、インデアンやアイヌの中にもっていた。今日でもパプアや興安嶺の山奥には、こうした世界が埋もれている。だがわれ/\の祖先は、二千年の昔、それをもっとひろ/”\とこの日本列島の上に持っていたのだ。彼等は財産を共同にし、全体の会議で何事も決定した。結婚と狩猟と戦争と農耕と遊戯と響宴と、すべての場合に彼等は種族と氏族の共同感情を、高い芸術にまで灼きつくすことを忘れなかった。会合で、詩人は伝統的な或は即興的な詩を歌い上げた。詩は例外なく音楽を伴っていたし、全員が彼について歌い出すと、詩は舞踏に変化した。いろんな部門の芸術家たちが、絵や彫刻をほどこした楽器や仮面を携えて躍りはじめた。男と女は、別々でなく、個人的でなく、一人の例外もなく全体が任意にえらび合った組み合せで、愉快な種族の宴舞え加わった。彼等の芸術的指導者は、また必ず政治的指導者の属員だった。詩人の技術者は、普通なくてわならぬ者として酋長のひとりに選ばれたし、また酋長のすべては、全体が詩人である種族を統率して行く上において、概して愉快なすぐれた歌い手だった。
 木や石で築き、草や土でふいた小屋、或は円天井の美しい建築の下の野つ原が、彼等の会場だつた。一方には鋤と弓矢、一方には弓矢と剣が、彼等の芸術的な集会場と各人のまわりに設備されていた。それは彼等の詩と生産と舞踏との共通な道具でもあった。
 彼等は穀物や、果物や、鳥獣の肉や乳でこさえた、この上もない愉快なコクテールで、おたがいの心と胃袋の底までをひたし合った。それは苦悩を忘れるための虐げられた人々のアヘンでもなく、カフェ・マルキシストが、やらぬ仕事の口実に乾杯する酒杯でもなかった。この飲料を酒となづけるのは、彼等の詩に純粋芸術のヴェールをきせて眺め、或は野蛮なぼろっきれとして捨て去ると同様、実に「集団の頭脳と心臓と生殖器とを一貫してつらぬく消化器」に対する無理解な誣告だったのだ。
 だが、われくは正しく「ギリシャの芸術」を想像しうるか? もしこの言葉が直ちに、ミロンやフィヂアスの黄金像をきみらに聯想さすならば、きみらは日本原始共産主義芸術の言葉によって、直ちに無器用な図体の大きい奈良の大仏を聯想しないことをふしぎと思うがいゝ。あの神聖な禿鷹のように荘麗で 奈良の大仏から油をひっこぬいて四角四面に整然と突つ立てたようなパルテノンが、市民貴族の宝冠と奴隸市場と共に存在した頃は、滅亡後の破片の上に公平を幻想した仮装的共産主義は、その未来の逆説的表象としての、社会大衆主義者お好みのブルジョア・デモクラシーの、逆さにうつった影と一しよに、これっぱかしも残っていなかったのだ。優秀な文化と政治の建設者たる作者は美くしかったへラスに俄然最后のとどめを刺した「文字化されたホーマー」の出現する以前のギリシャ原始共産制時代の誠実な南欧の種族社会にこそ、あんなにも健全に歴史の頂点コースを進んだ、成長する小供の純真な思い出を托したのだ。とげられぬブルジョア民主主義的理想に知らず知らずにかこまれている人々は、原文の社会的意義を必ずや読み代えるだろう。だが、われ/\をして仔細に点検せしめよ。いやしくも奴隸に対する暴虐と、彼等を支持する神聖貴族の芸術のーかけをさえ、わが老マルクスが愛した証拠を、これっぱしでも見つけることは出来ないのだ。
 それと同じことが、日本にも確実に言われる。もし人が老マルクスと共に万葉集を愛するならば、彼は何故奴隸貴族と奴隸宗教の所産を愛するかを明らかにし、その理由を白状せねばならぬ。解放の戦士の中にこうした人があるのはおかしい! われ/\はしみ/”\と、彼等が貴族的な感情の故に革命を愛し、彼等のパルテノンと万葉集的情緒にふれぬ限りにおいて、戦線から転向しないのではないかを疑わざるをえない。
 もし詩が万葉集から出発するならば、その起源は、こうした孤高な遊蕩児の感情であり、相互強姦のきものを個人的強姦にきせようとする恋愛の感情である。それは根本的には、性の姦淫の形をかった身分の姦淫である。奴隸宮廷は、「花をかざして今日もつどえる」ひまたっぷりの大宮人を選者として、「宮木ひく泉の口に立つ柚の憩う間もなき*」ご奴隸の憂愁の上に、この詩集を編みあげた。ダーウィンが詩をもたぬ禽獣の大きい自然と種の中に没入した愛欲の起源について世界歴史上の現実のあらゆる遺跡と、現実のあらゆる証拠とが、個人的な恋愛よりも共通な社会的感情から、詩と芸術とそしてあらゆる文化とが生れてきたのを立証していることを、われ/\が自分自身に確証せねばならぬ時期に遭遇せねばならぬとは、何と情けないことだろう! ロビンソンの島にしろ、パスカルの鳥にしろ、神と同様恋愛からは決して詩は生まれなかった。
*万葉集」巻11二六四五「宮材引く泉の柚に立つ民の息ふ時無く恋ひわたるかも」槇村は柚と民を入れまちがえた。
 「古事記か?万葉集か?」これは「シェクスピアか? シルレルか?」よりもっと日本社会=芸術史的に興味ある問題を提起する。
 何よりも万葉集以前にれっきとした詩が存在し、それがみじんも奴隸と暴政の記録と憑據《ヒョウキョ》のー片もない時期に、美くしい小供の文化の花を咲かせたことを、両者をはっきり差別された懸隔のあるものとして、がんこな俗物どもになっとくさせることは、何と骨の折れることだろう。――こんなことは判りきったことだ!  ー九三二年の恐慌以来四五年間の、労働者農民の生活状態のはげしい悪化が、多くの人々に次第に、正しい詩の任務をはっきりさせると共に、正しい詩の起源をはっきり胃の腑と一しょに頭にたたきこませたことは、事実なのだ。そのためにどんなに多くの真率な前衛と、無名の詩人とが身をもって道びらきしたことだろう!だが、問題は決して楽観的ではない。なぜプロレタリア詩をひつくるめて現代の全体の詩は、われ/\に低調と不快と憂鬱と退却の感じを与えるだろうか。それは質的よりむしろ量的に、生活の単語を拾い上げた。われ/\の生活と戦線の悪化に対して、治維法にへしまげられた、事実上の半無抵抗主義の蔭に詩を置くならば小説以上に詩の立遅れは克服しがたいものとなるであろう。単に量的に生活の単語を拾い上げることで一時をごまかすことを特徴とする受け身の社会主義的リアリズムに、美くしい真理の仮面をきせ、唯物弁証法と或は異った或は同じものとして、実際上茫漠たるあいまいさの中に置き、敗北と屈従を合理化しようとする試みの前に、これらの似而非な誤謬的理論が常によってもって伝説的な出所とするサヴェート芸術理論の歪曲された楣を残して置くこと、そして彼等をして日本を横行するに委さして置くことは、十分に検討されずして葬り去られんとする唯物弁証法の正統を血のにじみ出る実践をもって、生活とのすきまなき合一さとの上に、築き、かつ戦いとったわれ/\✕✕芸術家の恥辱ではないか。「受動的な社会主義的リアリズムか?能動的な唯物弁証法か?」本稿の末尾においてもっと説明されるはずのこのスローガンは、まづ日本詩歌史の初頭において、「万葉集か?古事記か?」のスローガンを正しく理解することを、その一つの歴史的典據となしうるだろう。

中井正一「土曜日」巻頭言(13)

◎手を挙げよう、どんな小さな手でもいい  ー九三七年三月二十日


 ものごとは、理屈通りにはゆかぬという人々がいる。
 しかし、ものごとのほうが、これ見よがしに一歩もゆるがせにせずに、正しくその法則を護り、寸厘も、間違わない。
 人間が間違った意見をもっていれば、その間違っていることを現象の上に示してくれる。理屈通りにゆかぬのでなくて、ものごとの正しさに理屈が副っていなかったのである。
 ギリシャ以来、人々がものを考えはじめたのは、この自然の中に、美しい秩序が厳然とあることへ の驚きから出発したのである。
 美しい秩序が水の中にも、石の中にも、星の中にもあること、また人間の体の中にも、その系図の中にも、また人との関係の中にもあることを発見したとき、人間はただの石や水とは、異なったところのものになった。その秩序の中にいて、その秩序を保持する責任をもつ、この宇宙の唯一つの存在となったのである。
 この広漠たる宇宙の中で、人間はそのみずからの秩序を守る責任をもつ唯一つの存在である。
 新たな秩序を生み出すことすらできる自由をもつ唯一つの存在である。
 しかし、この自由は、秩序を自分で打ち砕く自由をも許しているのである。この自由のゆえに人間は、その機構を人間が見守らないと、自分で自分の秩序を投げすてる危険をも許すのである。
 今、人間は、その危険の前に立っている。
 人々は、自分がその危険を感じていながら、その理由がわからないことがある。それを、拒否すべきことを知りながら、否定の理由がハッキリわからないことがある。拒否すべき現実がハッキリしながら、否定すべき理論がハッキリしないことがある。それは、否定のない拒否である。それは往々にして、いらいらした、断乎として、といったようなやりきれない心持ち、いわば、信念となってくる。
 この信念の中には、過去に一度理由をもったが、今は他のものとなった宗教的な、または封建的な、商業的な、産業的ないろいろの残滓物がゴッチャになって、チラチラとフラッシュのように陰顕する不安定なものとなる。
 このイライラしさが暴力に手を貸すとき、人類の秩序は一瞬において破滅に面するのである。
 どんな小さな手でもいい。
 その軌道が危険であることを知らすためにさし挙げられなければならない。

読書ざんまいよせい(048)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(02)

     第二章 貧困の原由

〇醫藥を投ずる者は、先づ其病源如何と診するを要す。借問す方今生產の資財乏しきに非ず、 市場の貨物斟きに非らずして、而も吾人人類の多數は、何が爲めに爾く衣食の匱乏《きぼう》を感ずる乎。
〇他なし之が分配の公を失せるが爲めのみ。其世界に普遍せられずして、一部に堆積せらるゝが爲めのみ、其萬人に均分せられずして、少數階級に壟斷《ろうだん》さるゝが爲めのみ。
〇英米兩國の若き、共產業の進步と隆昌とは、古來類例なき所にして、世界萬邦の俱に感嘆垂涎《かんたんすいぜん》する所也、而も彼等が富の分配の情狀に至っては、却て酸鼻を値する者あり。
〇トーマス・シアマンほ算して日く、米國の富の七割は、實に其人口の一分四厘の少敷の占有する所たり、而して他の一割二分の富は、僅に九分二厘の人口の爲めに占有せられ、殘餘の人口卽ちハ割九分四厘の多數生民は、僅に一割八分の富を保つに過ぎずと。博士スバ—ルが英國の富の分配を算するに日く、英人二百萬の多數は僅に八億の財產を有するに過ぎざるに、一面に於て十二萬五千人の少數は、却て七十九億の巨額を占有す、且つ總人口の四分の三以上は全く無資產也と。而して基等兩國の窮民公費の救助を仰ぐ者、.實に數百萬人の多きに及べり。
〇是れ豈に驚く可きの偏重に非ずや、然れども唯に英米のみならんや、獨逸も然り、佛図も然り、伊國も然り、澳國も然り、彼等各々其大小高低の度と率とを異にすと雖も、而も現時の財富のー部に集中するは、世界萬邦俱に其趨勢を同じくせる所也。而して我日本に於ても亦然らざることを得ず。
〇我國に於てや、凡そ何等の物と事とを問はずして、未だ精確の統計の信據す可きなきは遺憾の至也。然れども近時我國財富の分配が益々一部に偏重し、貧富益々懸隔するは爭ふ可らざるの事實也。見よ、土地は益々兼併せらるゝに非ずや、資本は益々合同せらるゝに非ずや。彼の資本、資本を吸ひ、息錢、息錢を生むや、國家人民全體の資產の額は甚だ培加を見ざるに拘らず、大資本家、大地主なる少數階級の資產は日に其膨脹を致すこと、恰も雪塊の一廻轉する每に、自ら其の面積を增大し來るに似たらずや。
〇試みに思へ、若し近世物質的文明が、其精緻の器、巧妙の術に依り、年々產出する所の巨額の財富をして、多數人民公平に分配して、以て日用の消費に供するを得たりとせよ、何ぞ衣食の匱乏を嘆ずる今日の如きを耍せんや、而も分配の公を失する如此《かくのごと》く甚しく、其一部に堆積し、少數階級に壟斷せらるゝ、如此く甚し。怪しむ無き也、世界の多數が常に飢凍の域に滾轉することや。
〇於是乎《ここにおいてか》、別に一問は提起せられざるを得ず、何ぞや。
〇蓋し社會の財富や、決して天より降下するに非ず、地より噴出するに非ず、一粒の米、一片の金と雖も總て是れ人間勞働の結果に非ざるは無し。夫れ唯だ勞働の結果也、其結果や當然勞働者卽ち之が産出者の所有に歸す可きの理に非ずや。而も多數の勞働者よ、何故に汝は汝の產出せる財富を自由に所有し、若くば消費すること能はざる乎。古詩に日く『滿身綺羅者《みきらにみつるもの》、是匪養蠶人《これやうさんのひとにあらず》』と、 何故に養蠶の人は却て綺羅を纏ふこと能はざる乎。[編者注:北宋・張兪の詩「蚕婦」の後半、訳は「体いっぱいに高価な絹織物の衣装をつけている者は、養蚕の仕事に従事する人たちではなかったからです。」、元の五言絶句の原文および読み下し文は、昨日入城市  昨日 城の市に入り 帰来涙満巾  帰り来たれば 涙 巾に満つ 遍身羅綺者  遍身 羅綺の者 不是養蚕人  是れ養蚕の人ならず]
〇他なし、彼等は一切の生產機關を有せざれば也。換言すれば卽ち資本を有せざれば也、土地を有せざれば也。資本なき者は勞働すること能はざる也、土地なき者は勞働すること能はざる也。勞働せざれば卽ち餓死せざる可らず。彼等は其餓死を免るゝに急なる丈《だ》け、夫れ丈け、生產機關を求むるに急ならざるを得ず。其生產機關を求むるに急なる丈け、夫れ丈け一切の利益幸福を擧げて之が犧牲に供せざることを得ず。而して彼等は實に資本所有者、土地所有者の足下に拜跪して、資本と土地との使用の許可を乞はざる可からず。而して此使用の許可を得るの報酬として、其生產の大部を資本家、地主の倉庫に献納せざるを得ず。而して彼等が終歲、若くば生涯、營々たる勞役の功果は、憐れむ可し、唯だ其不幸なる生命を支ふるに過ぎざるのみ。然り現時の小農及び小作人は實に如此き狀態に在り、現時の職工は實に如此きの狀態に在り、 土地と資本とを有するなくして、賃銀に衣食し、給料に衣食する者、皆な實に如此きの狀態に在り。
〇試みに思へ、若し世界の土地と資本とをして、多數人類が自由に其生產の用に供するを得たりとせよ。彼等が多額の金利を徴せられ、法外の地料を掠められ、若くば低廉の賃銀を以て雇役さる、の要なくして、其勞働の結果たる簣は直ちに彼等の所有として、自由に消費することを得たりとせよ。分配公を失して、貧富の懸隔する、何ぞ今日の如く甚しきに至らんや。而も彼等は唯だ勞働の力を有するのみ。土地と資本との兩者に至っては、全く少數階級の專有に歸して、其生產の大部を納むるに非ざるよりは、決して使用するを許されざる也。怪しむなき也、世界の多數が常に飢凍の域に滾轉することや。
〇於是乎、更に一問は提起せられざるを得ず、何ぞや。
〇夫れ土地や資本や、一切の生產機關は、人類全體を生活せしむる所以の要件也、之を壟斷し占有するは、卽ち人類全體の生活をが左右し、死命を制する所以也、彼地主資本家なる者果して何の德あり、何の權利あり、何の必要あって、之を壟断し、專有し、增大して、以て多數人類の平和と進步と幸福とを蹂躙するや。
〇他なし、僥倖のみ、猾智のみ、貪慾のみ。彼等地主資本家や、時に或は勞働に從ひ生產を扶くるなきに非ざる可し、勤勉なることなきに非ざる可し、節儉なることなきに非ざる可し。然れども彼等が勤勉なる努働者、節儉なる生產者としての所得や知るべきのみ。而して彼等が地主資本家として擁する所の財富や、決して勤勉と節約とに依て律可き所の者に非ざる也。彼等の或者は卽ち父祖の譲與也、或者は卽ち投機の勝利也。或者は卽ち利息の堆積也。然り今の富厚を重ぬる者、三者必ず其一に居らざるはなし。而して其富變じて資本となり、株券を買ひ、土地を併すや、彼等は一擧手一投足の勞なくして、飽暖《はうだん》[編者注:暖衣飽食の略、典拠は、「孟子」と「荀子」]逸楽以て多數人類勞働の結果を掠奪す。而して其掠奪せる富は、更に轉じて資本となり、再び多額の富を掠奪するの武器となる。如此にして轉々窮る所を知らずして、而して少數者の富益々富を加へ、多數者の貧益々貧に陷るに至れる也。故にプルードンは叫んで日く、『財產は强奪の果也、資本家は盜賊也』と。然り道義的眼光より之を見る、彼等は實に自ら其盜賊たるを知らずして盜賊たる也。又何の德あり、何の權利あり、何の必要あと、 何故に養獄の人は却て綺羅を纏ふこと能はざる乎。
〇他なし、彼等は一切の生產機關を有せざれば也。換言すれば卽ち資本を有せざれば也、土地を有せざれば也。資本なき者は勞働すること能はざる也、土地なき者は勞働すること能はざる也。勞働せざれば卽ち觥死せざる可らず。彼等は其餓死を免るゝに急なる丈《だ》け、夫れ丈け、生產機關を求むるに急ならざるを得ず。其生產機關を求むるに急なる丈け、夫れ丈けー切の利益幸福を擧げて之が犧牲に供せざることを得ず。而して彼等は實に資本所有者、土地所有者の足下に拜跪して、資本と土地との使用の許可を乞はざる可からず。而して此使用の許可を得るの報酬として、其生產の大部を資本家、地主の倉庫に袱納せざるを得ず。而して彼等が終歲、若くば生涯、營々たる勞役の功果は、憐れむ可し、唯だ其不幸なる生命を支ふるに過ぎざるのみ。然り現時の小農及び小作人は實に如此き狀態に在り、現時の職工は實に如此きの狀態に在り、 土地と資本とを有するなくして、賃銀に衣食し、給料に衣食する者、皆な實に如此きの狀態に在り。
〇試みに思へ、若し世界の土地と資本とをして、多數人類が自由に其生產の用に供するを得たりとせよ。彼等が多額の金利を徴せられ、法外の地料を掠められ、若くば低廉の賃銀を以て雇役さるゝの要なくして、其勞働の結果たる簣は直ちに彼等の所有として、自由に消費することを得たりとせよ。分配公を失して、貧富の懸隔する、何ぞ今日の如く甚しきに至らんや。而も彼等は唯だ勞働の力を有するのみ。土地と資本との兩者に至っては、全く少數階級の專有に歸して、其生產の大部を納むるに非ざるよりは、決して使用するを許されざる也。怪しむなき也、世界の多數が常に伽凍の域に滾轉することや。
〇於是乎、更に一間は養せられざるを得ず、何ぞや。
〇夫れ土地や資本や、一切の生產機關は、人類全體を生活せしむる所以の要件也、之を壟斷し占有するは、卽ち人類全體の生活を左右し、死命を制する所以也、彼地主資本家なる者果して何の德あり、何の權利あり、何の必要あって、之を壟斷し、專有し、增大して、以て多數人類の平和と進步と幸福とを蹂蹂躙するや。
〇他なし、僥倖のみ、猾智のみ、貪慾のみ。彼等地主資本家や、時に或は勞働に從ひ生產を扶くるなきに非ざる可し、勤勉なることなきに非ざる可し、節儉なることなきに非ざる可し。然れども彼等が勤勉なる努働者、節儉なる生產者としての所得や知るべきのみ。而して彼等が地主資本家として擁する所の財富や、決して勤勉と節約とに依て得可き所の者に非ざる也。彼等の或者は卽ち父祖の譲與也、或者は卽ち投機の勝利也。或者は卽ち利息の堆積也。然り今の富厚を重ぬる者、三者必ず其一に居らざるはなし。而して其富變じて資本となり、株券を買ひ、土地を併すや、彼等は一擧手一投足の勞なくして、飽暖《はうだん》[編者注:暖衣飽食の略、典拠は「孟子」滕文公上]逸樂以て多數人類勞働の結果を掠奪す。而して其掠奪せる富は、更に轉じて資本となり、再び多額の富を掠奪するの武器となる。如此にして轉々窮る所を知らずして、而して少數者の富益々富を加へ、多數者の貧益々貧に陷るに至れる也。故にプルードンは叫んで日く、『財產は强奪の果也、資本家は盜賊也』と。然り道義的眼光より之を見る、彼等は實に自ら其盜賊たるを知らずして盜賊たる也。又何の德あり、何の權利あり、何の必要ある者ならんや。而も吾人は是等道義的盜賊を放養して、以て其專恣掠奪に任せるに非ずや。怪しむなき也。多數人類が常に飢凍の域に滾轉せることや。
〇於是乎吾人は現時社會の病源に於て、略ぼ知る所あるを信ず。何ぞや、日く、多數人類の飢凍は、富の分配の不公に在り、富の分配の不公は、生産物をして生産者の手に歸せしめざるに在り、生産物をして生産者の手に歸せしめざるは、地主資本家なる少數階級の掠奪する所となれば也、地主資本家の掠奪する所となるは、土地や資本や一切生產機關をして初めより地主資本家の手中に占有せしむれば也。
〇果して然らば之が治療の術亦實に知るに難からざる也。予は卽ち斷言せんとす、今の社會間題解決の方法は、唯だー切の生產機關を、地主資本家の手より奪ふて、之を社會人民の公有に移す有るのみと。
〇然り、『一切の生產機關を地主資本家の手より奪ふて、之を社食人民の公有となす』者、換言すれば、地主資本家なる徒手游食の階級を廢滅するは、是れ實に『近世社會主義』一名『科學的社會主義』の骨髄とする所に非ずや。
〇於是乎世間社會主義を熟知せざるの士、啞然失笑して日はんとす、何等の囈語《げいご》ぞ、何等の妄想ぞ、思へ社會の生產は一に地主資本家の左右する所に非ずや、其分配は一に地主資本家の指揮する所に非ずや、農工商經濟は總て彼等に依て維持せられ、多數人類は總て彼等の手に養はる。曷《いづく》んぞ能く之を廢滅することを得んや、假に之を能くせしむるも、若し彼等.微《な》りせば社會は暗黑ならんのみ。而も漫《みだり》に之が廢滅を言ふ、社會主義なるもの、抑も何等の妄想囈語ぞやと。
〇嗚呼囈語乎妄想乎、社會は永劫に地主資本家の存在を是認す可き乎、是認せざる可らざる乎。吾人は此等の言を爲すの人に向って、先づ人類社會の組織し進化する所以に就て、一番の討査を請はざる可らず。
爭之難平也。天折地絶。亦無自屈之期。
報之不已也。鬼哭神愁。奚有相安之日。
[編者注]典拠は『小窓幽記』(明末・文学者陳継儒)「争いの決着は難しい。 空は割れ、地は裂け。 自虐している暇はない。まだ報告は終わらない。 鬼霊は泣き、神々は悲しんで安穏な日々は来ない。」くらいの意味か?飛鳥井雅道氏は、「幸徳秋水」(中公新書)の中で、ロジア・ナロードニキの著書の秋水訳書の題名に「神愁鬼哭」とあるのは、宮崎夢柳の「虚無党実伝記・鬼啾啾《きしゅうしゅう》」からのイメージと書くが、それは違うだろう。以上の案件のご教示を待つ。

日本人と漢詩(117)

◎堀辰雄と杜甫(02)

 以前、ブログと Facebook に、「堀辰雄と杜甫」との連載を幾編か掲載していましたが、データの不調のため閲覧できなくなっっています。気を取り直して、「日本人と漢詩」の続きとして、底本を「木耳社・堀辰雄 杜甫詩ノオト」の最初から投稿してゆきます。掲載するのは、主に堀辰雄が杜甫の詩を訳した部分からで、補足として、底本の編者・内山知也氏の解説の最低限の抜粋((1)など連番号の部分)とネットにある、杜甫の詩の、白文と読み下し文です。
 一編だけ、「日本人と漢詩(49)」に「秋興(その五)」「秋興(その六)」があります。

野 老(1)
わが草堂の籬の前には
浣花谿(2)の流れが迂折してゐる
その流れの儘に
柴門が歪んだ形をしてゐる
漁人が
向側の浪の靜かなところで
網を垂れて角を捕へてゐる
估客の船(3)が夕日を浴ぴながら溯って来るのが(4)見える
よくまあ長い路を經て
こんな風景の險しいところ(5)まで來たものだ
向うの琴臺(6)の方を眺めると
一片の雲がなんとなくそのあたりに立ちも去らずにゐる
丁度自分が此處に住んでゐるのも
あんな雲みたいなものだ……(7)


(1) 上元元年(760)秋の作
(2) 太平寰宇記に「浣花谿は成都の西郭の外に在り、一 名百花潭。」
(3) 商人の船。広徳二年(七盗)作の「絶句四首」に「兩箇黄鵰鳴翠柳、一行
白雑上靑天。窗含西嶺千秋雪、門泊東吳萬里船。」
(4) 「が」を逸する
(5) 「劍閣」は、長安から蜀に入る道中に当る四川省剣閣県北方の大剣山・小剣山の険峻を指す。けわしい剣閣山に遮られた、都を離れたこの地に流れて来たのが悲しい、の意となろう。
(6) 漢の詩人司馬相如と卓文君の旧蹟で、浣花渓の北にある。寰宇記に「相如の宅は州の西四里に在り」とあり、蜀記には「相如の宅は市橋の西に在り。即ち文君爐に当り、器を滌ひし処」とあり、益都書旧伝には「宅は少城中に在り。窄橋の下に百余歩あるは是なり。又琴台の在るあり」とあり、成都記には「浣花渓の海安寺の南に在り。今は金花市となる。城内はその旧にあらず。元魏、蜀を伐つや、営をここに下す。掘塹して大甕二十余口を得たり。けだし琴を響かせしゆえんなり」とある。
(7) 尾聯の二句は訳されていない。

 原詩白文と読み下し文は、漢詩と中国文化 から…

野老籬邊江岸回  野老の籬邊江岸回り
柴門不正逐江開  柴門正しからず江を逐って開く
漁人網集澄潭下  漁人の網は集る澄潭の下
賈客船隨返照來  賈客の船は返照に隨って來る
長路關心悲劍閣  長路關心劍閣を悲しむ
片雲何意傍琴台  片雲何の意ありてか琴台に傍ふ
王師未報收東郡  王師未だ報ぜず東郡を收むると
城闕秋生畫角哀  城闕秋生じて畫角哀し

南総里見八犬伝(004)

南総里見八犬伝巻之二第三回

東都 曲亭主人編次
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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)義実《よしさね》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)信時|聞《きゝ》あへず

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」


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景連信時暗《かげつらのぶときあん》に義實《よしさね》を阻《こば》む
氏元貞行厄《うぢもとさだゆきやく》に館山《たてやま》に從《したが》ふ

 卻說《かくて》安西三郞大夫景連《かくてあんざいざぶらうたいふかげつら》は、近習《きんじゆ》のものゝ吿《つぐ》るを聞《きゝ》て、結城《ゆふき》の落人里見義實《おちうどさとみよしさね》、主從三人《しゆうじゆうみたり》水行《ふなぢ》より、こゝに來《きた》れる縡《こと》の趣《おもむき》、大《おほ》かたは猜《すい》しながら、後難《こうなん》はかりかたければ、速《すみやか》には回答《いらへ》せず、麻呂信時《まろのりぷとき》を見かへりて、「|如此々々《しかしか》の事《こと》になん。何《なに》かと思ひ給ふやらん」、と問《とふ》を信時|聞《きゝ》あへず、「里見は名ある源氏《げんじ》なれども、こゝには緣《えん》も好《よしみ》もなし。無二《むに》の持氏《もちうぢ》がたなれば、結城氏朝《ゆふきのうぢとも》に荷擔《かたらは》れ、籠城三年《ろうぜうみとせ》に及ぶものから、京鐮倉《きやうかまくら》を敵《てき》に受《うけ》ては、命《いのち》を豫《かね》てなきものと、思ふべき事なるに、落城《らくぜう》の日に及《およぴ》て、親の擊《うた》るゝをも見かへらず、|阿容々々《おめおめ》と迯《にげ》かくれ、こゝらわたりへ流浪《さそらひ》たる、とるよしもなき白徒《しれもの》に、なでふ對面《たいめん》し給ふべき。とく追退《おひしりぞ》け給ひね」、と爪彈《つまはじき》をして說諭《ときさと》せば、景連|且《しばら》く頭《かうべ》を傾《かたむ》け、「某《それがし》もさは思へども、用《もち》ふべきよしなきにあらず。彼等《かれら》は三年《みとせ》籠城して、戰《たゝかひ》には熟《なれ》たるもの也。義實|年《とし》なほわかしといふとも、數萬《すまん》の敵軍《てきぐん》を殺脫《きりぬけ》ずは、いかにしてこゝまで來《く》べき。召入《よぴい》れて對面し、その剛臆《ごうおく》を試みて、使ふべきものならば、定包《さだかね》を討一方《うついつほう》の、大將《たいせう》を得たりとせん欤《か》。又《また》使ふべきものならずは、追退《おひしりぞく》るまでもなし。立地《たちところ》に刺殺《さしころ》して、後《のち》の禍《わざはひ》を禳《はら》ひなん。この議《ぎ》はいかに」、と密語《さゝやけ》ば、信時しば/\うち點頭《うなつき》、「微妙《いみじく》はかり給ひにけり。某《それがし》も對面すべきに、准備《ようゐ》し給へ」、といそがせば、景連|猛《にはか》に老黨《ろうどう》を召《よぴ》よして、|箇樣々々《かやうかやう》と說示《ときしめ》し、武藝力量兼備《ぶげいりきりやうかねそなはつ》たる、壯士等《ますらをら》に謀《はかりこと》を傳《つたへ》させ、只管《ひたすら》にいそがし立《たつ》れば、信時も又、倶《ぐ》したる、家臣等《かしんら》を召《よび》のぼして、その縡《こと》のこゝろを得させ、あるじ景連もろ共《とも》に、客房《きやくのま》にぞ出《いで》たりける。その縡《こと》の爲體《ていたらく》、をさ/\武《ぶ》を張《は》り、威《ゐ》をかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者《ともひと》十餘人、僉《みな》いかめしき打扮《いでたち》して、二帶《ふたかは》に居《ゐ》ながれつゝ、飾立《かざりたて》たる數張《すちやう》の弓弦《ゆつる》は、壁《かべ》に畫《ゑがけ》る瀑布《たき》の如《ごと》く、掛《かけ》わたしたる鎗薙刀《やりなぎなた》は、春の外山《とやま》の霞《かすみ》に似たり。廊《ほそどの》には幕《まく》を垂《たれ》て、身甲《はらまき》したる力士《りきし》、十人あまり、「すは」といはゞ走り出《いで》、かの主從《しゆうしゆう》を生拘《いけとら》んとて、おの/\手獵索《てぐす》を引《ひき》てをり。

 さる程《ほど》に、里見冠者義實《さとみのくわんしやよしさね》は、外面《とのかた》に立在《たゝずむ》こと、既《すで》に半晌《はんとき》餘《あま》りにして、「こなたへ」、と召入《よびい》られ、ゆくこといまだ一室《ひとま》に過《すぎ》ず、衝立《ついたて》の紙盾《ふすま》の蔭《かげ》より、縹綞《はなだ》の麻《あさ》の上下《かみしも》したる、壯士《ますらを》四人|立見《たちあらは》れ、「誘《いざ》給へ、俺們案內《われわれしるべ》つかまつらん』、といひあへず、前後《あとさき》に立《たち》ながら、半弓《はんきう》に箭《や》を㓨《つがひ》て、きり/\と彎《ひき》しぼれば、些後《すこしくおく》れて從ふたる、杉倉堀內これを見て、「吐嗟《あなや》」、とばかりもろ共に、走りすゝまんとする程に、又おなじほとりより、皂小袖《くろきこそで》に玉襷掛《たまたすきかけ》て、袴《はかま》の股丈《もゝたち》高く取《とり》たる、夥兵《くみこ》六|人《ン》走出《はしりいで》て、 短鎗《てやり》の尖頭突揃《ほさきつきそろ》へ、先なるは皆背《みなあと》ざまに、あるきながらぞ送り去《ゆく》。しかれども義實は、騷《さわ》ぎたる氣色《けしき》なく、「こはもの/\しき款待《もてなし》かな。三年以來《みとせこのかた》結城《ゆふき》にて、敵の矢面《やおもて》に立《たち》し日もあり。鎗下《やりした》を潛脫《くゞりぬけ》しは、いく遍《たび》といふことをしらねど、海より外《ほか》に物もなき、こゝには卻波風騷《かへつてなみかぜさわが》ず、良賎無異《りやうせんぶゐ》を樂《たのし》む、と聞《きゝ》しには似ぬものかな」、とひとりごつ主《しゆう》の後方《あとべ》なる、老黨《ろうだう》も立《たち》とゞまり、「治《おさま》るときにも亂《らん》を忘れず、小敵《せうてき》と見て侮《あなど》らずと、兵書《ひやうしよ》に本文《ほんもん》ありといふとも、三人《みたり》に過《すぎ》ぎる主從《しゆうじゆう》へ、鏃《やじり》のかぶらの羹《あつもの》に、弓弦《ゆつる》の索麪《むぎなは》、異《こと》なる饗應《きやうわう》、あるじの刀袮《との》の手料理《てれうり》を、亦復賞味《またまたせうみ》つかまつらん。誘案內《いざしるべ》を」、といそがして、送られてゆく主從は、はやその席に臨《のぞみ》しかば、壯士等《ますらをら》は弓を伏《ふせ》、鎗《やり》を引提《ひさげ》て東西《とうさい》なる、帷幕《いばく》の內に入りにけり。

 當下《そのとき》里見義實は、景連信時を遙《はるか》に見て、些《すこし》も媚《こぶ》る氣色《けしき》なく、賓座《まろうどのざ》に着《つき》て、腰なる扇《あふぎ》を右手《めて》に置《おき》、「結城《ゆうき》の敗將《はいせう》、里見又太郞義實、亡父《ぼうふ》治部少輔季基《ぢぶのせうゆうすゑもと》が遺言《ゆひげん》によって、辛《から》く敵軍の圍みを脫《まぬか》れ、漂泊《ひやうはく》してこゝに來《きた》れり。かゝれば蜑《あま》が笘[苫の誤記か?]屋《とまや》にも、はかなき今の身を寓《よせ》て、華洛《みやこ》はさら也、鐮倉なる、管領《くわんれい》にも從《したがは》ざる、この安國《やすくに》の民としならば、こよなき幸《さいはひ》なるべし、と思ひし事はきのふにて、聞くに異《こと》なる巷談街說《こうだんがいせつ》、義に仗《よつ》て一臂《いつひ》のちからを、竭《つく》す事もあらんかとて、思はずも虎威《こゐ》を犯《おか》して、見參《げんざん》を乞《こひ》候ひしに、敗軍《はいぐん》の將《せう》也とて嫌《きらは》れず、對面を許し給へば、胸中《きゃうちう》を盡すに足れり。供したるは亡父《ぼうふ》が愛臣《あいしん》、杉倉木曾介氏元人《すぎくらきそのすけうぢもと》、堀內藏人貞行《ほりうちくらんどさだゆき》になん。おんめを給はり候へ」、と慇懃《いんぎん》に名吿《なのり》つゝ、徐《しづ》やかに見かへり給へば、氏元貞行もろ共に、軈《やが》て頭《かうベ》を低《さげ》たりける。しかれども景連は、思ひしよりなほ義實の、年のわかきに侮《あなど》りて、うち見たるのみ禮《れい》を返《かへ》さず。信時はあるじをまたで、眼《まなこ》を睜《みは》り、聲をふり立《たて》、「われは麻呂小五郞《まろのこごらう》なり。聊御別議《いさゝかべつぎ》あるをもて、けふ平館《ひらだて》より來たりしかひに、この席上《せきせう》に連《つらな》るのみ。さて口さかしき小冠者《こくわしや》かな。わが安房《あは》は小國《せうこく》なれども、東南の盡處《はて》にして、三面すべて海なれば、室町殿《むろまちどの》の武命《ぶめい》を受《うけ》ず、兩管領《りやうくわんれい》にも從《したがは》ねど、鄰國《りんこく》の强敵《ごうてき》も、敢境《あへてさかひ》を犯《おか》すことなし。さればとて、われはさら也|安西《あんさい》ぬしに、絕《たえ》て由緣《ゆかり》もなき和郞《わろ》が、京鐮倉を敵に受《うけ》て、身のおくところなきまゝに、乳臭《ちのか》も失《うせ》ぬ觜《はし》を鳴らして、利害《りがい》を說《とか》んと思ふは嗚呼《をこ》也。人の落魄《おちめ》を憐《あはれ》むこと、慈眼視衆生佛《ぢげんじしゆぜうほとけ》のごとく、草芥《あくたもくた》を容《い》るゝこと、無量福壽海《むりやうふくじゆかい》に似たり共、誰《たれ》か罪人《つみひと》をこゝに留《とゞ》めて、その崇《たゝり》を招くべき。寔《まこと》に無益《むやく》の對面ならん」、とあざみ詈《のゝし》る頤《おとがひ》を、かき拊《なで》つゝうち笑へば、義實|莞然《につこ》とうち咲《えみ》て、「しか宣《のたま》ふはその名聞えし、麻呂ぬしに候|欤《か》。麻呂安西|東條《とうでふ》は、當國《たうこく》の舊家《きうか》たり。勇悍武略《ゆうかんぶりやく》さもこそ、と思ふは似ぬものかな。可惜《あたら》しきことながら、親にて候|季基《すゑもと》は、生涯只《せうがいたゞ》義の一字を守りて、ながくはたもち難《かた》かるべしと、思ふ結城《ゆふき》へ盾籠《たてこも》り、京鐮倉の大軍を、三年《みとせ》が閒《あはひ》防ぎとゞめて、死に臨《のぞめ》ども悔《くや》しとせざりき。某《それがし》親には及《およば》ねども、敵をおそれて迯《にげ》もせず、命を惜《をしみ》て走りもせず。亡父《ぼうふ》の遺言已《ゆいげんやむ》ことを得ず、只命運《たゞめいうん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふのみ。鐮倉の持氏卿《もちうぢけう》、初《はじめ》世さかりなりし時、安房上總《あはかつさ》いへばさら也、八州《はつしう》の武士|一人《ひとり》として、心を傾《かたむ》け、腰を折《かゞめ》、出仕《しゆつし》せざるもなかりしに、持氏|滅亡《めつぼう》し給ひては、幼君《ようくん》のおん爲《ため》に、家を忘れ身を捨《すて》て、氏朝《うぢとも》にちからを勠《あは》し、結城に籠城《ろうぜう》したるは稀《まれ》也。勢利《いきほひ》に屬人心《つくひとこゝろ》、憑《たのも》しげなきものなれば、こゝにも麻呂ぬし、安西ぬし、持氏卿の恩義《おんぎ》を思はで、兩管領の崇《たゝり》をおそれ、某《それがし》を容《いれ》じとならば、袖《そで》を拂ふて退《まか》りなん。現《げに》管領は威權《いきほひ》高し。|國々《くにくに》の武士|隨從《つきしたが》ひぬ。おそれ給ふはさることなれども、などて主從三人《しゆうしゆうみたり》に過《すぎ》ざる、義實をいたくおそれて、器械拿《うちものもつ》たる壯士等《ますらをら》に誘引《いざなは》せ、當處《たうしよ》は安泰無異《あんたいぶゐ》也、と口にはいへど用心嚴しく、席上《せきせう》に弓箭《ゆみや》を掛《かけ》、劍戟《けんげき》の鞘《さや》を外《はづ》し、剩帷幕《あまつさへいばく》の內《うち》に、夥《あまた》の力士《りきし》をかくし給ふは、いかにぞや」、と詰《なじ》られて、信時|忽地《たちまち》顏うち赧《あか》め、安西に目を注《くは》すれば、景連思はず大息《おほいき》つき、「いはるゝ所|至極《しごく》せり。弓箭《ゆみや》は武士の翼《つばさ》なり、劍戟《けんげき》は爪牙《ぞうげ》に等しく、身を護《まも》るをもて坐臥《ざくわ》にも放さず。和殿《わどの》を威《おど》す爲ならんや。但《たゞ》し案內《しるべ》せしものどもに、器械《うちもの》を拿《もた》せし事、力士をかくし置《おく》ことは、景連|露《つゆ》ばかりもこれをしらず。什麼汝等《そもなんぢら》は何《なに》の爲に、正《まさ》なき事をしたるぞや。とく罷出《まかで》よ」、と追退《おひしりぞ》け、飾立《かざりたて》たる鎗長刀《やりなぎなた》は、屏風《ぴやうぶ》をもつてかくさせけり。すべての准備齟齬《ようゐくひちがひ》て、興《けう》の醒《さむ》るのみなれば、安西麻呂が家臣等は、遠侍《とほさむらひ》へ出《いづ》るもあり、屏風の背《うしろ》に退《しりぞ》きて、汗《あせ》を拭《ぬぐ》ふも多かりける。

 かゝりけれども信時は、こりずまに膝《ひざ》をすゝめて、義實にうち對《むか》ひ、「今|示《しめ》さるゝ縡《こと》の趣《おもむき》、その據《よりどころ》あるに似たれど、敵をおそれず、命を惜《をしま》ず、後運《こううん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふぞならば、坂東《ばんどう》には源氏《げんじ》多かり、なほ身のよるべあるべきに、一國の主《ぬし》にもあらず、好《よしみ》は元來絕《もとよりたえ》てなき、安西|氏《うぢ》を憑《たのま》んとて、舩《ふね》をよせしはこゝろ得《え》がたし。餓《うへ》たるものは食《しよく》を擇《えら》まず、迫《おは》るゝものは路《みち》を擇《えら》まず。敵をおそれ、命《いのち》を惜《をし》みて、迯迷《にげまよは》ずは、いかにして、恥《はぢ》かゞやかしてこゝまで來《く》べき。かひなき身の非を飾らずに、しかならば如此《しか》なりと、|明々地《あからさま》に吿《つげ》てこそ、憐愍《あはれみ》も一卜しほならめ。この席上《せきせう》に連《つらな》るかひに、とり持《もち》してまゐらせん。|明々地《あからさま》に吿《つげ》給へ。|明々地《あからさま》にはいはれずや」、と再三《ふたゝびみ》たびくり返すを、聞《きく》に得堪《えたへ》ず貞行は、氏元が袂《たもと》を引《ひき》て、もろ共に進み出《いで》、「心を師として人をはかれば、打《うつ》槌《つち》もあたらぬ事あり。いと憚《はゞかり》あることながら、麻呂|大人《うし》の椎量《すいりやう》は、雜兵仂武者《ざふひやうはむしや》のうへにこそ。源氏にはさる大將なし。抑《そもそも》義實命を惜《をし》み、敵に迫《おは》れて途《ど》を失《うしな》ひ、思はず當國に來つるにあらず。偏《ひとへ》に先蹤《せんせう》を追へば也。昔|源賴朝卿《みなもとのよりともけう》、石橋山《いしばしやま》の軍《いくさ》敗れて、安房《あは》へ赴《おもむ》き給ひしとき、和君《わぎみ》の先祖信俊《せんぞのぶとし》ぬし、安西の先祖|景盛《かげもり》ぬし、東條《とうでふ》ぬしもろ共に、第一番に隨從《つきしたが》ひ、無二の志《こゝろざし》をあらはせしかば、賴朝これに先を追《おは》して、上總《かつさ》へうち越《こえ》給ふ程に、廣常常胤來迎《ひろつねつねたねきたりむかへ》て、忽地《たちまち》大軍になりにければ、更に鐮倉に基《もとゐ》を占《しめ》て、遂《つひ》に平家《へいけ》を滅《ほろぼ》し給ひき。里見もおなじ源氏嫡流《げんじのちゃくりう》、八幡殿《はちまんどの》の御末《みすゑ》なり。かゝる吉例《きちれい》あるものを、あまりに無下《むげ》におとしめ給ふが、傍《かたはら》いたく候へば、しれたることをまうすのみ。過言《くわごん》はゆるし給ひね」、と返《かへ》す辭《ことは》も智も勇も、一對一致《いつゝいいつち》の兩老黨《りやうろうどう》に、說伏《ときふせ》られて信時は、怒りに逼《せま》りて、ものも得《え》いはず。義實は氣色《けしき》を見て、忽地《たちまち》に聲を激《はげま》し、「貞行氏元|不禮《ぶれい》なせそ。われいかばかりの德ありて、賴朝に比《たぐへ》んや。そは漫《そゞろ》也、嗚呼《をこ》也」、と叱《しか》り懲《こ》らして追退《おひしりぞ》け、勸解《わび》ず寬《なだむ》る客ぶりに、信時は眼《まなこ》を瞪《いか》らし、手を叉《こまぬ》きて物いはず。景連は肩|搖《ゆるが》して、堪《たへ》ぬがごとく冷笑《あざわら》ひ、「あなわが佛尊《ほとけたふと》しとて、いへば亦《また》いはるゝものかな。里見の從者《ともぴと》よく聞《きけ》かし。賴朝の父|義朝《よしとも》は、十五|个國《かこく》の節度使《せつどし》たり。もし朝敵《ちやうてき》とならざりせば、淸盛《きよもり》もすべなからん欤《か》。かゝれば彼卿《かのけう》、流人《るにん》たれ共、一トたび義兵を起すに及びて、舊恩《きうおん》を思ふ坂東武士《ばんどうぶし》、招《まねか》ざれども屬從《つきしたが》ひぬ。里見|氏《うぢ》はこれと異《こと》也、そのはじめ太郞義成《たらうよししげ》、賴朝|卿《けう》に仕《つかへ》しより、釆地一鄕《れうぶんひとさと》の外《ほか》に過《すぎ》ず、手勢僅《てせいはつか》に百騎に足らず。中葉《なかころ》は宮方《みやかた》にて、彼此《をちこち》に世をしのびあへず、鐮倉へ降參《こうさん》して、本領安堵《ほんれうあんど》したれども、それ將《はた》しばしが閒《あはひ》にて、今見る所は落人《おちうど》也。主《しゆう》すら口を鉗《つぐめ》るに、汝等何《なんぢらなに》の議論《ぎろん》あらん。志《こゝろざし》を改めて、景連に仕へなば、さばかりの事あるべきに、身のほど/\をしらずや」、と飽《あく》まであざみ誇《ほこ》れども、氏元も貞行も、主《しゆう》のこゝろを汲《くみ》かねて、再びこれと爭はず。

 義實はうち微笑《ほゝえみ》、「安西ぬし寔《まこと》にしか也。しかれども、人の口には戶も立《たて》られず。某《それがし》この地に來て聞くに、何處《いつこ》もおなじ巷《ちまた》の風聲《ふうぶん》、民の誹謗《そしり》は止《やむ》ときなけれど、家臣は主君の耳を塞《ふさ》ぎて、吿《つげ》もせず諫《いさめ》も得《え》せぬは、甚《はなはだ》しき不忠《ふちう》ならずや。氏元貞行|思《おも》ひかけなく、夥《あまた》の祿《ろく》を賜《たま》ふとも、不忠の人と肩を比《ならべ》、耳の聾《しい》たる主君には、仕ふることを願はじ」、といはれて景連|氣色《けしき》を變《かえ》、「そは何事《なにこと》をか譏《そし》りたる。巷《ちまた》の風聞《ふうぷん》いかにぞや」、と問《とへ》ば扇《あふぎ》を膝《ひざ》に突立《つきたて》、「いまだ曉《さとり》給はずや。これは主人のうへのみならず、麻呂ぬしも又しかなり。神餘《じんよ》、安西《あんさい》、麻呂《まろ》の三家《さんか》は、舊交尤淺《きうこうもつとも》からず、手足《しゆそく》のごとく相佐《あいたす》けて、當國《たうこく》久しく無異《ぶゐ》なりしに、神餘が嬖臣《へいしん》山下|定包《さだかね》、奸計《かんけい》をもて主《しゆう》を戕《そこな》ひ、忽地二郡《たちまちにぐん》を橫領《わうれう》し、推《おし》て國主《こくしゆ》と稱すれども、神餘が爲にこれを討《うた》ず、阿容々々《おめおめ》と下風《かふう》に立《たち》て、共に濁《にごり》を受《うけ》給へば、民の誹謗《そしり》も宜《むべ》ならずや。某《それがし》この事を申シ入れて、用《もちひ》らるゝこともあらば、犬馬《けんば》の勞を竭《つくさ》ん、と思ひしはそらだのめにて、出陣《しゆつぢん》の准備《ようゐ》も見えず、絕《たえ》てその議に及《およば》れねば、寸志《すんし》を演《のぶ》るよしもなし。わが主從《しゆうじゆう》の剛臆《ごうおく》のみ、只管批評《ひたすらひゝやう》せらるれ共、神餘が爲に定包を、討《うた》ざるは勇もなく、義もなき武士は憑《たのも》しからず。今はしも是《これ》まで也。罷出《まかりいで》ん」、といひあへず、席を去《たゝ》んとし給へば、景連急《かげつらきう》に呼《よぴ》とゞめ、「方寸《ほうすん》を吿《つげ》ざれば、さおもはるゝも理《ことわ》り也。今霎時坐《いましばしざ》し給へ」、ととゞむる右手《めて》へ立遶《たちめぐ》る、信時は些《ちつと》も擬議《ぎき》せず、「しらずや義實、けふわがこゝに來たりしは、をさ/\軍議《ぐんぎ》の爲なれど、謀《はかりこと》は密なるをよしとす。はじめて面《おもて》を見る和主《わぬし》に、かろ/\しく何をか吿《つげ》ん。俺們《われわれ》が勇ありや、なしやをみづからしらんとならば、まづこの刃《やいは》に問《とへ》かし」、と敦圉《いきまき》ながら反《そり》うちかへす、刀の鞆《つか》に手を掛《かく》れば、さらでも由斷《ゆだん》せざりける、氏元も貞行も、主《しゆう》のほとりに衝《つ》と寄《より》て八方《はつほう》へ眼《まなこ》を配《くば》れば、麻呂が從者《ともびと》これを見て、握《にぎ》る拳《こぶし》を捺《さすり》あへず、頻《しき》りに膝《ひざ》を進めたり。そのときあるじ景連は、慌忙《あはてふため》き橫ざまに、信時を抱《いだ》き禁《とゞ》め、耳に口をさし著《つけ》て、何事《なにごと》やらん說諭《ときさと》し、軈《やが》て左右を見かへりて、頤《おとがひ》をもてしらすれば、安西が近臣|等《ら》、麻呂が從者《ともひと》もろ共に、遽《いそがは》しく立《たち》かゝりて、次の房《ま》へ伴《ともな》ひぬ。かゝりけれども義實は、扇《あふぎ》の鹿目《かなめ》走らしながら、うち見たるのみ爭《あらそは》ず、席上《せきせう》ます/\失興《しらけ》にけり。

 當下《そのとき》安西景連は、舊《もと》の處にかへりをり、「義實|何《なに》とか思ひ給ふ。一言《いちごん》の下《もと》に死を爭ふは、武士《ものゝふ》の風俗《ならひ》なれども、麻呂|氏《うぢ》は戲《たはふ》れ也。こゝろになかけられそ。しかれども、時と勢《いきほひ》をしるものは、堪忍《たへしの》ぶをもて危《あやう》からず。かくはしば/\試みたるに、和殿《わとの》は寔《まこと》にその人なるべし。よしや結城《ゆうき》の守將《しゆせう》なりとも、今この浦に流浪《さそら》ひて、わが一陣《いちゞん》に走加《はせくはゝ》り、彼《かの》定包を討《うた》んとならば、わが軍令《ぐんれい》に背《そむ》きかたけん。士卒《しそつ》と共に忠《ちう》を抽《ぬきんで》、戰場《せんぢやう》に大功あらば、恩賞《おんせう》の沙汰《さた》なからんや。素性《すぜう》に誇り、才《さえ》を憑《たの》み、わが手に屬《つく》を愧《はづ》るとならば、これ軍令に背くもの也。さでは決して用ひがたし。和殿一己《わどのいつこ》のちからをもて、彼賊《かのぞく》をうち滅《ほろぼ》し、瀧田《たきた》の城を取りねかし。二郡のぬしにならるゝとも、露《つゆ》ばかりも憾《うらみ》なし。かゝればゆくも留《とゞま》るも、只《たゞ》この一議にあらんのみ。心を定めて回答《いらへ》をせよ」、と辭《ことば》もこゝに更《あらたま》る、難義《なんぎ》としれど些《すこし》もいなまず、「繋《つなが》ぬ舟《ふね》となりしより、よるべの岸こそ身のぬしなれ。こゝに庇覆《みかげ》を蒙《かうむ》りて、用《もちひ》らるゝことあらば、何事《なにこと》を嫌《きら》ふべき。うらなく仰《あふせ》候へ」、といはれて景連うち點頭《うなつき》、「しからば事のはじめ也。|努々違背《ゆめゆめいはい》あるべからず。わが家《いへ》の嘉例《かれい》として、出陣《しゆつぢん》の首途《かどいで》に、軍神《いくさがみ》を祭ることあり。その胙《ひもろぎ》には大きなる、鯉魚《こひ》を備《そなふ》ることになん。わが爲に鈎《はり》をおろして、この鯉《こひ》を釣《つり》もてかへらば、よき敵と組擊《くみうち》して、頸《くび》を得たるに同《おなじ》かるべし。こゝろ得たりや」、と說示《ときしめ》せば、義實|固辭《いなむ》けしきなく、「承《うけたまは》り候ひぬ」、と應《いらへ》てやがて立《たゝ》んとせし、主《しゆう》の後方《あとべ》に侍《はペ》りたる、氏元貞行は左右より、その袂《たもと》を引《ひき》とゞめて、兩人|齊一《ひとしく》進み出《いで》、「安西公《あんさいこう》へ申ス也。嘉例とは宣《のたま》へども、竿《さを》を斜《なゝめ》にして舟に睡《ねふ》り、鈎《はり》を下《おろ》して魚《うを》を捕《と》る、その智は漁夫《ぎよふ》にますものなし。これらは武士のせざる所、義實には似げなき技《わざ》也。君《きみ》はづかしめらるゝときは、臣《しん》死すとこそ古人《こじん》もいへ。只僕等《たゞやつがれら》が首《かうべ》をもて、胙《ひもろぎ》となし給えかし、といはせも果《はて》ず景連は、氏元等を佶《きつ》と嫉視《にらまへ》、「彼奴甚無禮《かやつはなはだぶれい》也。義實は法度《はつと》をおそれて、既《すで》に承諾《せうだく》せし事を、化耳拔《あだみゝぬか》して何《なに》とか聞《きゝ》たる。その家僕《かぼく》として憚《はゞかり》なく、わが軍令《ぐんれい》を犯したる、罪|尤輕《もつともかろ》からず。彼牽出《あれひきいだ》して斬《きつ》て棄《すて》よ」、と烈《はげ》しき怒りを物ともせず、氏元貞行ます/\進みて、說果《ときはた》さんとしたりしかば、義實これをいたく叱《しか》りて、閒遙《あはひはるか》に退《しりぞか》せ、彼等が爲に賠語《わび》給へば、景連やうやく氣色《けしき》をおさめ、「しからば鯉《こひ》を見るまでは、彼奴等《かやつら》を和殿《わどの》にあづけん。和殿|手親釣《てつからつり》もて來《こ》よ。それも三日に限るべし。等閑《なほさり》にして日を過《すく》さば、白物等《しれものら》がうへのみならず。こゝろ得てよ」、と他事《たじ》もなく、いはるゝ每《ごと》に義實は、恭《うやうや》しく領諾《れうだく》し、「しからば旅宿《りよしゆく》へまからん」とて、うらみ㒵《がほ》なる老黨《ろうだう》を、いそがし立《たて》て出《いで》給へば、次の房《ま》に竊聞《たちぎゝ》たる、麻呂小五郞信時は、綟子障子《もじせうじ》を聞《ひら》かして、冷笑《あざわら》ひつゝ且《しばら》く目送《みおく》り、あるじのほとりへ立寄《たちより》て、「安西ぬしいと手ぬるし。などて里見が從者等《ともびとら》を、助けてかへし給ひたる。われは只管《ひたすら》義實を、擊果《うちはた》さんとしつれども、和殿が盾《たて》となり給へば、綱裏《もうり》の魚《うを》を走らしたり」、と喞《かごと》がましく呟《つぷや》けば、景連|聞《きゝ》てうちほゝ笑《え》み、「われも又はじめより、用意《こゝろがまへ》はしたれども、義實は名家《めいか》の子なり、小冠者《こくわじや》なれども思慮才學《しりよさいかく》、凡庸《よのつね》のものにあらず。又|從者等《ともびとら》が面魂《つらたましひ》、一人當千《いちにんたうせん》といふべき欤《か》。さるを漫《そゞろ》に手を下《くだ》さば、こゝにも夥《あまた》人を殺さん。獸窮《けものきう》すれば必囓《かならずかみ》、鳥窮《とりきう》すれば必啄《かならずつゝ》く。況勇將猛卒《いはんやゆうせうもうそつ》なり。徒《たゞ》手を束《つかね》て刃《やいば》を受《うけ》んや。窮鳥懷《きうちやうふところ》に入《い》るときは、獵師《れうし》も捕らずといふなるに、今|定包《さだかね》を討《うた》ずして、怨《うらみ》なき人を殺さば、民の誹謗《そしり》は日にまして、遂《つひ》に大事《だいじ》を成《なし》がたかるべし。さればとて義實を、この處へ留《とゞ》めては、猛獸《たけきけもの》を養ふごとく、早晚寤寐《いつしかねさめ》安からず。こゝをもて、首鼠《しゆそ》兩端《りやうたん》に言《こと》をよせて、彼《かの》主從が雅慢《がまん》を壓《おさえ》、祭祀《まつり》の贄《にゑ》を求めしは、陷阱《おとしあな》を造るもの也。安房一國には鯉《こひ》を生《せう》せず。是《これ》その風土《ふうど》によるもの欤《か》。彼奴等《かやつら》これをしらずして、淵《ふち》に立《たち》、瀨《せ》に涉獵《あさり》、いたづらに日を過《すぐ》し、手を空《むなしう》してかへり來《こ》ば、軍法《ぐんほう》をもてこれを斬《きら》ん。かくては殺すもその罪《つみ》あり。わが私《わたくし》といふべからず。われ豈《あに》彼を助《たすけ》んや」、と誇㒵《ほこりが》に說示《ときしめ》せば、信時は笑坪《えつぼ》に入《いつ》て、掌《たなそこ》を丁《ちやう》と鼓《うち》、「謀得《はかりえ》て極《きはめ》て妙《めう》也。現愸《げになまじい》に擊走《うちはし》らし、義實|瀧田《たきた》に赴《おもむ》きて、定包に從はゞ、虎《とら》に翼《つばさ》を添《そふ》る也。さりとてこなたに用ひなば、庇《ひさし》を貸《かし》て母家《おもや》を損《そこな》ふ、悔《くひ》なしとはいひがたし。留《とゞめ》て後《のち》にこれを殺す、謀《はかりこと》にますものなし。吁《あゝ》奇なるかな、妙《めう》なり」、と只管賞嘆《ひたすらせうたん》したりける。

 かゝりし程に義實は、白濱《しらはま》なる旅宿《りよしゆく》へとて、步《あし》の運《はこぴ》をいそがし給へど、途《みち》いと遙《はるか》なりければ、かへりも著《つ》かで日は暮《くれ》たり。抑《そもそも》安房の白濱《しらはま》は、朝夷郡《あさひなこふり》の內にして、和名鈔《わめうせう》にその名見えて、いとも舊《ふり》たる鄕《さと》になん。瀧口村《たきくちむら》に接《つゞく》といふ。今は七浦《なゝうら》と唱《となふ》るのみ、この濱邊の摠名《さうめう》なり。里見|氏《うぢ》の舊趾《ふるきあと》、その寺などもこゝにあり。所謂《いはゆる》安房の七浦は、川下《かはしも》、岩目《いはめ》、小戶《をと》、鹽浦《しほうら》、原《はら》、乙濱《おとのはま》、白閒津是《しらまつこれ》也。

 閒話《むだはなし》はさておきつ。義實は、その曉《あけ》かたに、白濱へかへりつゝ、目睡《まどろみ》もせで漁獵《すなどり》の、用意《こゝろかまへ》をし給へば、氏元貞行|歡《よろこ》ばず、「君なほ曉《さと》り給はずや。信時は匹夫《ひつふ》の勇者、景連は能《のう》を忌《い》み、才《さえ》を媢《そねみ》て甚僻《はなはだひがめ》り。我《われ》を見ること仇《あた》のごとく、憑《たのも》しげなき人の爲に、鯉《こひ》をあさりて何《なに》にかはせん。はやく上總《かつさ》へ赴《おもむ》きて、その毒惡《どくあく》を避《さけ》給へ」、ともろ共に諫《いさめ》しかば、義實|頭《かうべ》をうち掉《ふり》て、「否《いな》、伱達《なんたち》が異見《いけん》はたがへり。麻呂安西《まろあんさい》が人となり、利には親《したし》く、義に疎《うと》かり。口と行《おこなひ》はうらうへにて、定包をおそるゝのみ、瀧田を討《うつ》のこゝろなし、としらざるにあらねども、こゝを避《さけ》て上總《かづさ》へ赴き、彼處《かしこ》も又|如此《しか》ならば、下總《しもふさ》は敵地《てきち》也。そのとき何處《いつこ》へ赴くべき。君子は時を得て樂《たのし》み、時を失ふても亦樂《またたのし》む。呂尙《りよせう》は世にいふ太公望是《たいこうばうこれ》なり。齡七十《よはひなゝそぢ》に傾《かたふ》くまで、よに人のしるものなし。渭濱《いひん》に釣《つり》して文王《ぶんわう》に値偶《ちぐ》し、紂王《ちうわう》を討滅《うちほろぼ》して大功あり。齊國《せいのくに》に封《ほうぜ》られて、子孫|數十世《すじつせ》に傳へたり。太公望すらかくのごとし。われは時《とき》と勢《いきほひ》と、兩《ふたつ》ながら失ふもの也。釣《つり》する事を嫌《きらは》んや。且鯉《かつこひ》はめでたき魚《うほ》也。傳聞《つたへきく》、安南龍門《あんなんりうもん》の鯉、瀑布《たき》に泝《さかのぼ》るときは、化して龍《たつ》になるといへり。われ三浦《みうら》にて龍尾《りうぴ》を見たり。今|白濱《しらはま》へ來るに及びて、人《ひと》又|鯉《こひ》を釣《つれ》といふ。前象後兆憑《ぜんせうこうちやうたのも》しからずや。獲《えもの》あらば齎《もたら》して、景連がせんやうを、姑《しばら》く見んと思ふかし。曉《あけ》なば出《いで》ん」、といそがし給へば、氏元も貞行も、その高論《こうろん》に感服《かんふく》して、釣《はり》を求め、竿《さを》をとゝのへ、割籠《わりご》を腰に括《くゝり》著《つけ》て、主從|三人《みたり》、名もしらぬ、淵《ふち》をたづねてゆく程に、森の烏《からす》も梢《こずゑ》をはなれて、天《よ》はほの/″\と明《あけ》にけり。

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入力:松本修治

校正:松本修治 2005年3月25日、2005年6月10日
編者修正:2025年3月31日

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読書ざんまいよせい(047)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(01)
3月から、「大逆事件」について、学び始めました。それに関連して、神戸での事件関係者に関する講座にも通っています。幸徳秋水の主要著作も、現代語訳もむくめて電子化されたテキストも多々ありますが、案外、フリーテキストされていない作品も目に付きます。そのなかから、「社会主義神髄」をテキスト化してみました。また、章の最後に、漢詩ないし漢文の引用での締めくくりがあるので、できるだけその典拠も書いてみたいと思っています。

“Let the ruling classes trem-
ble at a Communistic revolu-
tion. The proletarians have
nothing to lose but their chains.
They have a world to win.
Working men of all countries
unite !”
【編者注】「支配階級をして共産主義革命の前に戰慄せしめよ。プロレタリヤは、自分の鎖よりほかに失ふべき何ものももたない。そして彼らは、獲得すべき全世界をもつてゐる。
 萬國のプロレタリヤ團結せよ!」
(幸徳秋水・堺利彦訳「共産党宣言」末尾より・青空文庫

自 序

『社會主義とは何ぞ』是れ我が國人の競ふて知らんと欲する所なるに似たり、而して又實に知らざる可らざる所に屬す。予は我國に於ける社會主義者の一人として、之れを知らしむるの責任あるを感ずるが故に、此の書を作れり。
近時社會主義に關する著譯の公行する者、大抵非社會主我者の手に成り往々獨斷に流れ正鵠を失す、其然らざるも或は僅に其一部を論じ、或は單に一方面を描くに過ぎず。而して浩瀚の者は却つて煩冗《はんじやう》に過ぎ、短簡なる者、 亦要領を得難きの憾み有り。是を以て予は本書に於て、勉めて枝葉を去り、細節に拘せず、一見明白に其大綱を了會し耍義に誘徹せしめんことを期せり。世間未だ社會主義の何たろを知らざるの士之に依て、所謂『烏眼觀《バーヅアイ・ヴユー》』を做すことを得ぱ、幸ひ甚し。蓋し著述の推きは徒に紙吸を多からしむるに在らずして、冥に次序の體を得せしむるに在り、材料を豐にするに在らずして繁簡の中を得せしむるに在り。本書固より闘々の小册なりと雖も、而も稿を代ふること十數囘、時を費す半年の久しきに及びて遂に意に滿つる能はず、慚悦何ぞ堪へん。但だ予の不才之な奈何ともするなくして、而して江湖の社會主義を知らんとする者、益々急なるを見て、忍んで剞劂《きけつ》に付するを爲せり。故に本書說く所に關し、反對の意見若くば疑間を以て質さるゝの人あらば、予は喜んで更に之が答辯說明の責に任ずべし。
本書執筆の際、參照に資せしは、
  MARX, K & ENGELS, F. Manifesto of the Communist Party.
  MARX, K, Capital: A Critical Analysis of Capitalist Production.
  ENGELS, F. Socialism, Utopian and Scientific.
  KIRKUP, T. An Inquiry into Socialism.
  ELY, R. Socialism and Social Reform.
  BLISS, W. A Handbook of Socialism.
  MORRIS, W. & BAX, E. B. Socialism : its Growth and Outcome.
  BLISS, W. The Encyclopedia of Social Reforms.
等の數種也。初學少年の爲めに特に之を言ふ。
    明治三十六年六月
                著 者

      第一章 緖  論

〇クロムウエルと言ふこと勿れ、ワシントンと言ふこと勿れ、ロベスピエールと言ふこと勿かれ、若し予に質すに古今最大の革命家を以てする者あらば、予は實にゼームス・ワット其人を推さずんばあらず。彼れ夫れーたび其精緻の頭腦を鼓して、造化の祕機を捉來し、之を人間の眼前に展開するや、世界萬邦物質的生活の狀態は、俄然として爲めに一變を致せるに非ずや。嗚呼彼所謂殖產的革命の功果や眞に偉なる哉。
〇蓋し今の紡績や、織布や、鑄鐵や、印刷や、共他百般工技の器、鐵道や、汽船や、 其他白般交通の具、之を望めば恰も魅應の如く、之に就けぱ恰も山撤の如く然り。而して此等の機器の常に自在に胴使せられ、無礙に運轉せらるるもの、唯だ慧々然たる蒸氣ー吹の力に由れることを思ふ、其術何ぞ爾く巧にして其能何ぞ爾く大なるや。若し十八世紀中葉の人類を地下に起して以て今日を觀せしめば、應に呀然として駭絕驚倒すべきや必せり。況んや之に次ぐに定氣發明の奇と其應用の妙、刻々に新なるを以てするに至って、人智の窮極する所、眞に測る可らざる者有り、予は萬物の靈長の語、於是て始めて驗有るを覺ふ。
〇然れども此等機器の發明及び共改善に由て打成せる、所綱殖焼的革命の貴尙すべき所以の功果は、獨り英技の巧且つ妙なるに在らずして、實に共殖產の饒多に、其交換の利便なるに在らざる可かず。
〇蓋し近時生產カ發達の程度及比率は、其產業の種類の異なるに從って差あるが故に詳密精確の統計を得難しと雖も、而も機械が人力に代れるが爲めに、槪して著大の增加を來せるや論なし。敎授イリーは日く、或種の產業は爲めに十倍せり、或種の產業は爲めに二十倍せり、更紗の生産の如きは、優に百倍し、書籍版行の如きは優に千倍せりと。ロバート・オーエンは早く前世紀の初に於て公言して日く、五十年前六十萬人の勞働を要せるの財富は、今や僅に二千五百人の力を以て生產し得べしと。而して爾後今日に至る迄百年間、更に幾層の進步ありしや、疑ふ可らず。某學士は亦日く、近時の器械は一家五口の戶々に供するに、各々昔時六十人の奴隸の生產せしと同額の資財を以てするを得べしと。由处觀之《これによつてこれをみるに》、最近百餘年間に於て、世界の生産力が少くも平均十數倍の增加を為せるは、何人も之を斷言するに躊躇せじ。
〇而して是等僥多の財富が、世界各地に運輸され交換さるゝや、亦其自在と敏活とを極む。蜘網の如き鐵道航路は、以て坤輿《こんよ》を縮小すること幾千里、神經系統の如き電線は、以て萬邦を束ねてー體と為す。濠洲に屠れる羊肉は直に英人の食膳に上る可く、米國にて作れる棉花は遍く亜細亜人の體軀を纏ふ。緩急の相依り、有無の相通ずる、有史以來實に今日より盛なるは莫し。
〇嗚呼是れ實に所謂近世文明の特質也、美華也、光蟬也。吾人生れて這個《しゃこ》文明の民たるを得て、是等空前の偉觀壯觀を仰ぐ者、竊かに自ら慶し、且つ誇るに足る有るに似たり。
〇然れども、吾人は近世文明の民たるに於て、眞に自ら慶す可き乎、眞に自ら誇る可き乎。否、是れ疑問也、然り大疑問也。
〇試みに一考せよ、近時機器の助けあるが爲めに、吾人生産の力が十借、百倍、時としては千借せることは、卽ち之れ有り。然らぱ則ち世界多數の勞働者は、殖産的革命の以前に比して、大に其勞働の時と量とを減じ得可きの理也。而も事實は之に反す、彼等は依然として永く十二一時間乃至十四五時間苛酷の勞働に服せざる可らざるは何ぞや。奇なる哉。
〇又一考せよ、近時千百借せる饒多の財富は、運輸交通の機關の助けあるが爲めに、世界の一隅より一隅に至る迄、自在敏活に分配貿易せらるゝことは、亦眞に之れ有り。然らば則ち世界多數の人類は、衣食大に餘り有りて、洋々太平を謳歌し得可きの理也。而も事實は之に反す、彼のロ糟糠だにも飽かずして、父母は飢凍し、兄弟妻子離散する者、日に益々多きを加ふるは何ぞや、奇なる哉。
〇人力の必要は省減せり、而も勞働の必要は減少せざる也。財富の生産は堪加せり、而も人類の衣食は増加せざる也。旣に勞働の苛酷に堪へず、更に衣食の匱乏に苦しむ。故を以て學校の設くる多くして、人は敎育を受くるの自由を有せざる也、交通の機關便にして、人は旅行の自由を有せざる也、醫治の術進步して、人は療養の自由を有せざる也、多數政治の制ありて、人は参政の自由を有せざる也、文藝美術發達して人は娛樂の自由を有せざる也。而して所謂近世文明の特質や、美華や、光輝や、如此にして多數人類の幸福、平和、進步に於て、果して幾何の價値有りとする乎。
〇言ふこと勿れ人は麵麴のみにして生きずと。衣食なくして何の自由あることを得る耶、何の進步あることを得る耶、何の道德あることを得る耶、何の學藝あることを得る叫。晋敬仲云へる有リ、倉廩實而知禮節《さうりんみちてしかしてれいせつをしる》と、所詮人生の第一義は卽ち衣食問題也。而も近世文明の民たる多數人類は、實に衣食の匱泛の爲めに遑々たるに非ずや。
〇言ふこと勿れ、勞働は衣食を生ずと。見よ彼の勞働せる人の子を、彼や生れて八九歲の幼時より共老衰病死に至る迄、營々として牛馬の如く驅られ、兀々《ごつ/\》として蟻蜂の如く勞す、節儉にして勤勉なる、凡そ彼等に過ぐるは莫し。而して租稅滯納の爲めに公賣の處分に遭ふ者、年々數萬を以て算せらるゝ也。而して彼の衣食常に餘りある者は、常に勞働するの人に非ずして、却て徒手逸樂遊悟の人に非ずや。
〇然れども其勞働の痛苦や、猶ほ可也、若し夫れ勞働す可き地位職業すら之を求めて寛に得ること能はざるに至ては、人生の慘事實に之より甚しきは莫し。彼や壯健の體軀を有す、彼や明敏の頭腦を有す、彼や有爲の技能を有す、而して其カ能く衣食の生產に任じて餘り有る者にして、唯だ其職業を得ざるが爲めに、終生窮途に泣き溝壑《こうがく》に滾轉《こんてん》する者、 世間果して幾萬人ぞ。
〇好し高利に衣食せよ、株券に衣食せよ、地代に衣笈せよ、租稅に衣食せよ、今の所謂文明社會に處して然る能はざる者は、則ち長時間の勞働也、苦痛也、窮乏也、無職業也、俄死也。觥死に甘んぜずんば、則ち男子は强窃盜たり、女子は醜業婦たらんのみ、墮落あるのみ、罪悪あるのみ。
〇然り今の文明や、一面に於て燦爛たる美華と光輝とを發すると同時に、一面に於て暗黑なる窮乏と罪惡とを有す。燦爛の天に〓[皇+羽]翔《こうしゅう》する者は千萬人中僅に一人のみ、暗黒の域に滾轉する者は世界人類の大多數也。是れ豈に吾人人類の自ら誇るに足る者ならん哉。
〇烏呼世界人類の苦痛や飢凍や、日は一日より急に、月は一月より激也、人類の多數は唯だ其生活の自由と衣食の平等とを求むるが爲めに、一切の平和、幸福、進步を犧牲に供せずんば已まざらんとす。人生なる者は竟に如此き者耶、 如此くならざる可らざる耶、 耶蘇の所謂祖先の罪耶、浮屠《ふと》の所謂娑婆の常耶。咄々豈に是れ眞理《トルース》ならんや、正義《ヂヤスチース》ならんや、人道《匕ユーマニチー》ならんや。
〇嗚呼彼の偉大なる殖產的革命の功果は、竟に人道、正義、眞理に合す可らざる乎。所謂近世文明の世界は、遂に人道、正義、眞理を現す可らざる乎。是れ個の問題や二十世紀の陌頭《はくとう》に立てるスヒンクスの謎語也。之を解決する者は生きん、否らずんば死せん、世界人類の運命は懸けて此一謎語に在り。
〇誰か能く之を解決する者ぞ、宗敎乎、否、敎育乎、否、法律乎、重備乎、否、否、否。
〇夫れ宗敎や以て未來の樂園を想像せしむ、未だ吾人の爲めに現在の苦痛を除き去らざる也。敎育や以て多大の智識を與ふ、未だ吾人の爲めに一日の衣食を産出せざる也。法律や能く人を責罰す、人を樂ましむるの具に非ざる也。応備や能く人を屠殺す、人を活かしむるの器に非ざる也。嗚呼、噫、誰か能く之を解決する者ぞ。
以貨財害子孫。不必操戈入室。
以學術殺後世。有如按劎伏兵。
【編者注】漢文の典拠不明、「貨財を以って子孫を害す。必らずしも戈を操り室に入る要なし。學術を以って後世を殺す、剣を按ずるの伏兵あるがごとし。」と読み下しできるだろう。『金銭の力で孫子まで害をすのに、部屋に入る必要はない、弁論で後世まで抹殺するのは剣をもった伏兵がいるようだ。』くらいの意味だろう。ご教示を待つ。)