読書ざんまいよせい(076)

◎巌窟王(巖窟王)(上 002)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一一 宛名は誰れ

呼出された友太郎の入つて來る迄に、蛭峰檢事補は自分の事を考へた、イヤ考へるともなく自分の身の上が胸に浮んだ。

尤も胸に浮ばずには居られぬ際である、米良田めらだ家といふ樣な勢力ある貴族の婿になれば追々出世の道も開けるに極つて居る、其れに妻たるべき姫君禮子は顏も心も美しい上に六萬圓の婚資を持つて居る、六萬圓といへば檢事補の月給の幾十年分にも當るだらう。

此樣なことまで急がしく腹の中で計算するは嬉しさの滿々て居る爲である、婚資の外に、禮子の父が死ねば、其財産が廿萬圓、之も禮子の物になる、母が死んでも凡そ其れに近い財産が矢張り禮子に轉がり込む、禮子の物は我物である、唯一つ氣に掛るのは自分の父の野々内が今以て革命家か謀反人かの樣に世間から疑はれて、其れがやゝもすれば自分の出世の邪魔になる一事である、此の一事を除けば自分の前途は晴々と晴れて居る。

此樣な考へが未だ充分には了らぬ所へ友太郎が這入つて來た、蛭峰はあわてゝ自分の顏から嬉しさの色を取退け、職務相當の眞面目な面持を現はした。

友太郎を連れて來た捕吏の長は先づ蛭峰の傍に來て小聲で以て捕縛の次第を報告し、さうして蛭峰から、其掛引の宜しきを得た事を賞讚せられて立去つた、後には蛭峰と團友太郎と唯二人の差向ひである。

蛭峰は先づ友太郎の顏を見るに全くの美少年で、少年の正直と、少年の熱心とがおもてに現はれて居る、仲々恐ろしい國事犯とは思はれぬ、其れに先刻禮子から云はれた優しい慈悲深い言葉も耳の底にだ殘つて居るから、此人の今までに殆ど例のないほど柔和な聲を出して「貴方が團友太郎ですか」

友「ハイ」蛭「年は」友「十九歳」蛭「何の樣な所から拘引されました」友太郎はいさゝか力を込めて「オヽ私は、婚禮の席から拘引せられたのです、三年まへから許婚に成つて居る女と、今日 愈々いよ〳〵婚禮することになり、式場へ臨む前に、知人しりびとを饗應して居ますと其席へ捕吏が踏込んで參りました」何と自分の境遇に能く似た事ではあると蛭峰は又 いさゝか同情を深くした。

同情は好いけれど只此同情が何時まで續くかゞ疑問である、蛭「其れから、サアもつと言葉を續けなさい」友「此外に何も續けていふ事がありません、お聞下されば何事でも」尤も千萬な答へではあるが、何の意見も何の罪もないのに捕へられたのだから言立てることは一つもないのだ。蛭「貴方は横領者に使はれた事はありますか」

横領者とは拿翁なぽれおんの事である、王の位を横領したと云ふ所で王權黨は皆斯ういふのだ、友太郎が若し拿翁なぽれおん黨の者なら此言葉に幾分不快を感ずる所だけれど、彼れは何とも感ぜぬ「ハイ水兵になる願書を出したことはあります」蛭「貴方の政治上の意見は」友太郎は呆れた顏で「何で私に政治上の意見などがありませう、年が若くて未だ政治のことなど少しも分りません」蛭「政治上でなくとも、平生何か意見を持つて居ませう」友太郎は少し考へ「ハイ、父を大切に思ひます、雇主森江氏を敬ひます、さうそて許婚のお露を可愛いと思ひます、是れが若し意見ならば、平生の意見は唯だ是丈これだけです」

殆ど婀娜あどけない程の返事である、蛭峰は益々感心して決して此男は罪人で無いと思ひ、此樣なのは放免する方が却つて上長に贊成せられて自然自分の出世の端にもなり禮子にも喜ばれると思つた、おほやけには長官のお襃めを得、わたしには美人に嬉しい顏をされるは決して蛭峰の喜ばぬ所ではない、蛭「貴方は誰かに怨まれてゞも居るのですか」友「少しも怨まれる心當りは有りません」蛭「しか廿歳はたち未滿で船長にも成るといふのは異數の出世ですから、怨まぬ迄も羨む人はあるに違ひない、常に能く其邊氣を注けて居ねば何の樣な害に逢ふかも知れません」

尋問ではない寧ろ相談が忠告の樣である。

友「ハイ氣を注けましても、別に私を怨む人は決してないと思ひます」蛭峰は全く友太郎の清淨な事を信じた。「フム、貴方は全く正直な少年らしい、私も極寛大に、常の規則からは外れますけれど、ソレ是れを見せて上げます、此手紙を誰が書いたか心當りはありませんか」斯う云つて差出したのは彼の段倉が左の手でしたゝめた例の密告状である、友太郎は受取つて讀んだけれど、勿論わざと筆蹟を變へて書いて有るのだから心當りのある筈がない、友「誰が書いたか少しも分りません」蛭「しかし此手紙に書いてある事柄は事實ですか」友太郎はいさゝか眉根をひそめつつ「ハイ何うして此樣なことを知つた人がありますか、全く、餘ほど事實に近いのです」何たる有體ありていな返事だらう。蛭「では事實を有の儘に言つて御覽なさい」友太郎は森江氏に語つた通り、船長呉氏の死際に拿翁なぽれおんの居るエルバの島へ立寄つて、是をベルトラン將軍に渡せと小包を托せられた事を語り、「船長の言葉は總て命令と聞かねばなりませんから、私は其通りに致しました、さうしてエルバの島へ上陸し將軍に面會を求めますと容易に許される容子はなかツたのですが、若し面會が六かしい時は是を示せとて、一個ひとつの指環を渡されて居ましたから、其れを出して示しますと直に一室ひとまへ通されました」とて、面會の一部始終を述べ、最後に至り森江氏にさへ明かに言はなかつた祕密まで話し「船長の言葉には此小包さへ渡せば多分將軍から巴里へ送る手紙を托されるで有らうから、直に其手紙を持つて巴里へ行き、直々に宛名の人へ手渡しせよ、決して何人にも見せ、又は聞かせてならぬと言はれました、果して其言葉通り、面會の終る時に將軍から手紙を托されました故私は今日こんにち婚禮が濟めば明日直に其手紙を以て巴里へ立つ積でした、イヤ今も其積りです」

蛭峰は呟いた「アヽ貴方は無意識に國事犯の道具に使はれ掛けたのです、勿論貴方には罪はないのです、直に放免の手續きを運んで上げます」もとより直に放免せられるものとは期して居たけれど友太郎は眞實に感謝した「貴方の御親切はきもに銘じます」蛭「將軍の渡した其手紙といふは巴里の黨員と何事をか打合すものだらう、其手紙を私へお渡しなさい」友「う捕吏に取上げられました、其の貴方の卓子てーぶるの上に在るのが其の手紙です」蛭「オヤさうですか、巴里の誰れあに當たものか知らん」と蛭峰は呟いて卓子てーぶるから其手紙を取上て上封の宛名を見た。

若し雷が頭上に落ちても蛭峰は斯う迄は驚かぬであらう、彼は宛名を見て全く震へ上つた、何うだらう「ヘロン街十三番地にて野々内殿」とある、野々内とは自分の父なのだ。
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日本人と漢詩(135)

◎ 私と司馬光、蘇東坡、雷震、王安石、楊万里、蔡確

「千家詩」より 来自”千家詩”(Lái zì ”Qiān jiā shī”)(3)

Kèzhōng chūxià Běi Sòng Sīmǎ Guāng
客 中 初 夏 北 宋・司 马 光

Sìyuè qīnghé yǔ zhà qíng nánshān dānghù zhuǎn fēn míng
四 月 清 和 雨 乍 晴 南 山 当 戸 転 分 明
Gèngwú liǔxù yīn fēng qǐ wéiyǒu kuíhuā xiàng rì qīng
更 无 柳 絮 因 风 起 惟 有 葵 花 向 日 倾

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日本人と漢詩(134)

◎私と李煜など


Làngtáo shā  Wǔdài shíguó Nán táng Lǐ Yù
浪淘沙  五代十国・南唐・李煜

Lián wài yǔ chánchán chūnyì lánshān
帘外雨潺潺 春意阑珊
Luó qīn bù nài wǔ gēng hán mèng lǐ bùzhī shēn shì kè 
罗衾不耐五更寒 梦里不知身是客 
Yī xiǎng tān huān dúzì mò píng lán wúxiàn jiāngshān 
一饷贪歓 独自莫凭栏 无限江山 
Bié shí róngyì jiàn shí nán liúshuǐ luòhuā chūn qù yě
别时容易见时难 流水落花春去也
Tiānshàng rénjiān
天上人间

・Youtube 「漢詩を読んでみませんか?はまなかひとしさん」

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日本人と漢詩(133)

◎私と陶淵明(その1)
 帰去来辞は、陶淵明の生涯を二つに分かつ「マニフェスト」だったのだろう。ちなみに、「帰去来」を「かえりなんいざ」との訓読は、菅原道真が始めたらしい。道真公も、陶淵明と同じような心情を抱いていたのかも知れない。

Guīqùlái Dōng jìn Táo Yuānmíng
帰 去 来 东 晋・陶渊明

Guīqùlái xī tiányuán jiāng wú hú bùguī
帰 去 来 兮  田 园 将 芜 胡 不 帰
Jì zì yǐ xīn wéi xíng yì xī chóuchàng ér dú bēi
既 自 以 心 为 形 役  奚 惆 怅 而 独 悲
Wù yǐwǎng zhī bùjiàn zhī láizhě zhī kě zhuī
悟 已 往 之 不 谏  知 来 者 之 可 追
Shí mí tú wèiyuǎn jué jīn shì ér zuó fēi
寔 迷 途 未 远  覚 今 是 而 昨 非
Zhōu yáoyáo yǐ qīng yáng fēng piāopiāo ér chuī yī
舟 遥 遥 以 軽 扬  风 飘 飘 而 吹 衣
Wèn zhēngfū yǐ qiánlù hèn chénguāng zhī xīwēi
问 征 夫 以 前 路  恨 晨 光 之 熹 微
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日本人と漢詩(132)

◎私と劉希夷


「唐詩選」にも収められた初唐の代表作。「年年歳歳…歳歳年年」の二句は広く人口に膾炙する。

Dài bēi báitóuwēng Táng Liú Xīyí
代 悲 白 头 翁  唐・刘 希 夷

Luòyáng chéngdōng táo lǐ huā Fēilái fēiqù luò shuí jiā
洛 阳 城 东 桃 李 花 飞 来 飞 去 落 谁 家
Luòyáng nǚér xī yán sè  Zuòjiàn luòhuā cháng tàn xī
洛 阳 女 儿 惜 颜 色 坐 见 落 花 长 叹 息
Jīnnián huāluò yán sè gǎi Míngnián huākāi fù shuí zài
今 年 花 落 颜 色 改 明 年 花 开 复 谁 在
Yǐjiàn sōngbǎi cuī wéi xīn Gèngwén sāngtián biàn ché hǎi
已 见 松 柏 摧 为薪 更 闻 桑 田 变 成 海
Gǔrén wúfù luò chéng dōng Jīnrén huán duì luò huā fēng
古 人 无 复 洛 城 东 今 人 还 对 落 花 风
Niánnián suìsuì huā xiāng sì Suìsuì niánnián rén bù tóng
年 年 岁 岁 花 相 似 岁 岁 年 年 人 不 同
Jìyán quánshèng hóng yán zǐ  Yīnglián bànsǐ bái tóu wēng
寄 言 全 盛 红 颜 子 应 怜 半 死 白 头 翁
Cǐwēng báitóu zhēn kě lián Yīxī hóngyán měi shào nián
此 翁 白 头 真 可 怜 伊 昔 红 颜 美 少 年
Gōngzǐ wángsūn fāng shù xià Qīnggē miàowǔ luò huā qián
公 子 王 孙 芳 树 下 清 歌 妙 舞 落 花 前
Guānglù chítái wén jǐn xiù Jiāngjūn lóugé huà shén xiān
光 禄 池 台 文 锦 绣 将 军 楼 阁 画 神 仙
Yīzhāo wòbìng wú xiāng shí Sānchūn xínglè zài shuí biān
一 朝 卧 病 无 相 识 三 春 行 乐 在 谁 边
Wǎnzhuǎn éméi néng jǐ shí  Xūyú hèfà luàn rú sī
宛 转 蛾 眉 能 几 时 须 臾 鹤 发 乱 如 丝
Dànkàn gǔlái gē wǔ dì Wéiyǒu huánghūn niǎo què bēi
但 看 古 来 歌 舞 地 唯 有 黄 昏 鸟 雀 悲

 別の詩人から「年年歳歳…歳歳年年」の二句を譲るように強要されたという。それを断った劉希夷は、殺されたという悲しいエピソードも有名である。詩には同漢字の反復が多用されているが、それでいて(それどころか)詩情を掻き立てるものがある。
 この間、知人や親類との永遠とわの別れが相次いだ。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」の詩句が、今まで以上に身にしみるようになった。

 読み下し文と語釈は、左大臣ドットコムを参照のこと。
 画像は、Wikipedia 該当ページより引用

日本人と漢詩(131)

◎ 私と白居易(その2)长恨歌続き


 思うところあり、今回から漢詩白文は、简体字(Jiǎn tǐ zì)で表現し、ピンイン(Pīn yīn)では、言葉の区切りに沿い二音(ないし三音)にまとめたところがある。また、奇数句の先頭は大文字、偶数句では、小文字とした。後者は実際の読みやすさ、聞こえやすさを考慮した故である。
7 )
Tiānxuán rìzhuǎn huí lóng yù   dàocǐ chóuchú bù néng qù
天 旋 日 转 𢌞 龙 驭   到 此 踌 躇 不 能 去
Mǎwéi pōxià ní tǔ zhōng   bújiàn yùyán kōng sǐ chù
马 嵬 坡 下 泥 土 中   不 见 玉 颜 空 死 处
Jūnchén xiānggù jìn zhān yī   dōngwàng dūmén xìn mǎ guī
君 臣 相 顾 尽 沾 衣   东 望 都 门 信 马 归
8 )
Guīlái chíyuàn jiē yī jiù   tàiyè fúróng wèi yāng liǔ
归 来 池 苑 皆 依 旧   太 液 芙 蓉 未 央 柳
Fúróng rúmiàn liǔ rú méi   Duìcǐ rúhé bú lèi chuí
芙 蓉 如 面 柳 如 眉   对 此 如 何 不 泪 垂
Chūnfēng táolǐ huā kāi yè   qiūyǔ wútóng yè luò shí
春 风 桃 李 花 开 夜   秋 雨 梧 桐 叶 落 时
Xīgōng nányuàn duō qiū cǎo   luòyè mǎnjiē hóng bú sǎo
西 宫 南 苑 多 秋 草   落 叶 满 阶 红 不 扫
Líyuán dìzǐ bái fà xīn   jiāofáng àjiān qīng é lǎo
梨 园 弟 子 白 发 新   椒 房 阿 监 靑 娥 老
Xīdiàn yín fēi sī qiǎo rán   gūdēng tiǎojìn wèi chéng mián
夕 殿 萤 飞 思 悄 然   孤 灯 挑 尽 未 成 眠
Chíchí zhōnggǔ chū cháng yè   gěnggěng xīnghé yù shǔ tiān
迟 迟 钟 鼓 初 长 夜   耿 耿 星 河 欲 曙 天
Yuānyāng wàlěng shuāng huá zhòng fěicuì qīnhán shuí yǔ gòng
鸳 鸯 瓦 冷 霜 华 重   翡 翠 衾 寒 谁 与 共
Yōuyōu shēngsǐ bié jīng nián   húnpò bùcéng lái rù mèng
悠 悠 生 死 别 经 年   魂 魄 不 曾 来 入 梦
9 )
Línqióng dàoshì hóng dū kè   néngyǐ jīngchéng zhì hún pò
临 邛 道 士 鸿 都 客   能 以 精 诚 致 魂 魄
Wěigǎn jūnwáng zhǎn zhuǎn sī   suìjiào fāngshì yīn qín mì
为 感 君 王 辗 转 思   遂 敎 方 士 殷 懃 觅
Páikōng yùxì bēn rú diàn   shēngtiān rùdì qiú zhī pián
排 空 驭 气 奔 如 电   升 天 入 地 求 之 徧
Shàngqióng bìluò xià huáng quán   liǎngchù mángmáng jiē bú jiàn
上 穷 碧 落 下 黄 泉   两 处 茫 茫 皆 不 见
Hūwén hǎishàng yǒu xiān shān   shānzài xūwú piāo miǎo jiān
忽 闻 海 上 有 仙 山   山 在 虚 无 缥 缈 闲
10 )
Jīnquè xīxiāng kòu yù jiōng   zhuǎnjiào xiǎoyù bào shuāng chéng
金 阙 西 厢 叩 玉 扃   转 敎 小 玉 报 双 成
Wéndào hànjiā tiān zǐ shǐ   jiǔhuá zhànglǐ mèng hún jīng
闻 道 汉 家 天 子 使   九 华 帐 里 梦 魂 惊
Lǎnyī tuīzhěn qǐ pái huái  zhūbó yínpíng lǐ yǐ kāi
揽 衣 推 枕 起 徘 徊   珠 箔 银 屛 逦 迤 开
Yúnbìn bànpiān xīn shuì jué   huāguān búzhěng xià táng lái
云 鬓 半 偏 新 睡 觉   花 冠 不 整 下 堂 来
Fēngchuī xiānmèi piāo yào ju   yóusì nícháng yǔ yī wǔ
风 吹 仙 袂 飘 颻 举   犹 似 霓 裳 羽 衣 舞
Yùróng jìmò lèi lán gān   Líhuā yīzhī chūn dài yǔ
玉 容 寂 寞 泪 阑 干   梨 花 一 枝 春 带 雨
Hánqíng níngdì xiè jūn wáng   yìbié yīnróng liǎng miǎo máng
含 情 凝 睇 谢 君 王   一 别 音 容 两 渺 茫
Zhāoyáng diànlǐ ēn ài jué   pénglái gōngzhōng rì yuè cháng
昭 阳 殿 里 恩 爱 绝   蓬 莱 宫 中 日 月 长
Huítóu xiàwàng rén huán chù   bújiàn chángān jiàn chén wù
回 头 下 望 人 寰 处   不 见 长 安 见 尘 雾
Wéijiāng jiùwù biǎo shēn qíng   tiànhé jīnchāi jì jiāng qù
唯 将 旧 物 表 深 情   钿 合 金 钗 寄 将 去
Chāiliú yīgǔ hé yí shàn   chāibò huángjīn hé fēn diàn
钗 留 一 股 合 一 扇   钗 擘 黄 金 合 分 钿
Dànlìng xīnsì jīn diàn jiān   tiānshàng rénjiān huì xiāng jiàn
但 令 心 似 金 钿 坚   天 上 人 闲 会 相 见
11)
Línbié yīnqín chóng jì cí   cízhōng yǒushì liǎng xīn zhī
临 别 殷 懃 重 寄 词   词 中 有 誓 两 心 知
Qīyuè qīrì cháng shēng diàn   yèbàn wúrén sī yǔ shí
七 月 七 日 长 生 殿   夜 半 无 人 私 语 时
Zàitiān yuànzuò bǐ yì niǎo   zàidì yuànwéi lián lǐ zhī
在 天 愿 作 比 翼 鸟   在 地 愿 爲 连 理 枝
Tiāncháng dìjiǔ yǒu shí jìn   cǐhèn miánmián wú jué qī
天 长 地 久 有 时 尽   此 恨 绵 绵 无 绝 期

 同じく、訓読、語釈、訳文は、Wikipedia を参照のこと。また、白文(繁字体)は、Blog鬼火 に掲載されている。
 原詩のピンイン読みは、Youtubeで、閲覧あれ。

南総里見八犬伝(021)

南總里見八犬傳第二輯卷之五第二十回
東都 曲亭主人 編次
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一雙いつそう玉兒義ぎよくじぎむす
三尺さんしやく童子どうじこゝろさしのぶ

七歳しちさい小児せうに客路たびぢはゝうしなふ」「犬川衞二が妻」「荘之助」

 信乃しのは庭に人ありて、呼禁よびとゞむるその聲を、聞くといへどもちつと擬議ぎきせず、はやつきたてん、とやいばあぐるに、筋縮すぢつま腕癱麻かひなしびれて、死をすみやかにすることかなはず。「こはくちをし」、といくたびか、しなん〳〵、とするほどに、眞先まつさきに進むものは、是則これすなはち別人ならず、さきにも來つる糠助ぬかすけなり。「吐あなや」とばかり、騷ぐものから、白刃しらはにやおそれけん、うしろのかたへ立遶たちめぐりて、矢庭やにはに信乃を抱禁いだきとむれば、前なるは蟇六龜篠ひきろくかめさゝ、左右よりかひなとりて、いさゝかうごかせず、「まづこのやいばはなてよ」、といへども信乃は手をゆるめず、「おんおもてみしれども、名吿なのりもあはざる伯母君御夫婦、なにとして來ませしぞや」、といはれて龜篠酸鼻なみだぐみ、「心つよき親に似て、そなたもさはいふにやあらん。黃童わらはべなれどもさかしげ也。みづからよくわきまへ給へ。わらははもとより女子をなこの身として、おとゝが所帶をうばへるにあらず。父もおとゝ討死うちしにせし、と風の便りに聞えしころ、せめては親のあとたてん、と思ふばかりに蟇六どのを、むことりつゝさいはひに、庄園せうゑんを給はりて、村長むらおささへになり登りし、夫にとがはなきぞとよ。しかるにおとゝ存命ながらへて、故鄕こけうにかへれど、足蹙あしなへたり。つとめたへざる身を見かへらで、吾儕わなみ夫婦をいといたう、憎みてぜつせし事は、おのが心のひがみにこそ。强顏つれなおとゝと思へども、腐欄くさりてもおよびはきられず。此度こだみ御敎書破卻みきやうしよはきやく越度おちど、いかで親子をすくはん、と心を盡す甲斐かひもなく、番作ははや自殺して、そなたも共にと、衝箚つきつめしは、をさなこゝろに似げなき短慮。しぬるに及ばず。この末を、且聞まづきゝてよ」、といさむれば、蟇六瞼ひきろくまぶたをしばたゝき、「番作が生いきのうちに、わが本來の赤心まこゝろを、しらせざりしは殘念也。せめてその子を養ひとりて、女兒濱路むすめはまぢめあはせなば、先祖の血絡ちすぢ斷絕せず、世にも人にも憎にくまれし、わが身はうしろやすかりなん。やをれ信乃よく聞けかし。御敎書の事、大かたならぬ、越度をちど也とはいひながら、原畜生もとちくせう所爲わざにして、犬はさら也そのぬしたる、番作が命をおとせば、一切つや〳〵後難あるべからず。たとひその子どもらに、おんとがめありといふとも、われまたよろしく申ときなん。さきに糠助が走り來て、|如此々しか〳〵つげしかば、もとより義絕の親族たりとも、自殺のへんきゝながら、なほ讐敵あたかたきの思ひをせんや、と來て見たればこそはからずも、汝が必死をとゞめたれ。はやくやいばをおさめよ」、と言葉をつくせば、糠ぬかすけ共侶もろともいさめけり。
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日本人と漢詩(130)

◎ 私と白居易


Cháng hèn gē qí yī Táng Bái jū yì
長 恨 歌(其一)       唐 ・ 白 居 易
 何回かに分けて、「長恨歌」のピンイン読みを掲載する。
 長恨歌の訓読、語釈、訳文は、Wikipedia が最適だと思われるので、リンク先を参照のこと。
1 )
Hàn huáng zhòng sè sī qīng guó Yù yǔ duō nián qiú bù dé
漢 皇 重 色 思 傾 國   御 宇 多 年 求 不 得
Yáng jiā yǒu nǚ chū zhǎng chéng Yǎng zài shēn guī rén wèi shí
楊 家 有 女 初 長 成   養 在 深 閨 人 未 識
Tiān shēng lì zhì zì qì Yī zhāo xuǎn zài jūn wáng cè
天 生 麗 質 難 自 棄   一 朝 選 在 君 王 側
Huí tóu yī xiào bǎi mèi shēng Liù gōng fěn dài wú yán sè
回 頭 一 笑 百 媚 生   六 宮 粉 黛 無 顏 色
2 )
Chūn hán cì yù huá qìng chí Wēn quán shuǐ huá xǐ níng zhī
春 寒 賜 浴 華 淸 池   溫 泉 水 滑 洗 凝 脂
Shì ér fú qǐ jiāo wú lì Shǐ shì xīn chéng ēn zé shí
侍 兒 扶 起 嬌 無 力   始 是 新 承 恩 澤 時
Yún bìn huā yán jīn bù yáo Fú róng zhàng nuǎn dù chūn xiāo
雲 鬢 花 顏 金 步 搖   芙 蓉 帳 暖 度 春 宵
Chūn xiāo kǔ duǎn rì gāo qǐ Cóng cǐ jūn wáng bù zǎo cháo
春 宵 苦 短 日 高 起   從 此 君 王 不 早 朝
3 )
Chéng huan shì yàn wú jiān xiá Chūn cóng chūn yóu yè zhuān yè
承 歡 侍 宴 無 閒 暇   春 從 春 遊 夜 專 夜
Hòu gōng jiā lì sān qiān rén Sān qiān chǒng ài zài yī shēn
後 宮 佳 麗 三 千 人   三 千 寵 愛 在 一 身
Jīn wū zhuāng chéng jiāo shì yè Yù lóu yàn bà zuì hé chūn
金 屋 粧 成 嬌 侍 夜   玉 樓 宴 罷 醉 和 春
Zǐ mèi dì xiōng jiē liè shì Kě lián guāng cǎi shēng mén hù
姊 妹 弟 兄 皆 列 士   可 憐 光 彩 生 門 戶
Suì lìng tiān xià fù mǔ xīn Bú zhòng shēng nán zhòng shēng nǚ
遂 令 天 下 父 母 心   不 重 生 男 重 生 女

 後日紹介するが、楊貴妃一族や、安禄山の直後を詠った杜甫の、「麗人行」「哀江頭」や「哀王孫」の、ルポルタージュ、ないしジャーナリスティックな作風と違い、こちらは、兵乱から百年近く時を隔てているので、一篇の「物語」=「ロマン」となっている。だが、考えてみれば、白居易が、楊貴妃と同時代であっても、杜甫の詠んだ一連の作品は作れないだろう。二人の、大きな気質の違いなのだろう。興味深いところである。
 付け加えると、杜甫の「兵車行」の「信知生男惡 反是生女好」( Xìn zhī shēng nán è  Fǎn shì shēng nǚ hǎo)をそのまま典拠にしているところなど、杜甫からも大きな影響をうけたのだろう。

(続く)…

「長恨歌」のピンイン読みは、Youtube 参照のこと。

南総里見八犬伝(020)

南總里見八犬傳第二輯卷之五第十九回
東都 曲亭主人 編次
——————————————————-
龜篠奸計糠助かめさゝかんけいぬかすけすか
番作遠謀孤兒ばんさくゑんぼうみなしごたく


番作ばんさく遺訓いくんしてよるその村雨むらさめ太刀たちゆづる」「しの」「犬塚番作」「帶雨南离楚知春北入燕」「つるき大刀さやかに出る月のまへに/雲きれて行むら雨の空 玄同」

 卻說莊客糠助かくてひやくせうぬかすけは、なまじい信乃しのたすけて、犬を蟇六ひきろく背門せどに追入れ、計りし事は齟齬くひちがひて、犬を失ふのみならず、咎餘とばしりわが身に係らん、と思へばはやくにげかへりて、妻孥やから緣由ことのよしつげ、「もし庄官せうくわんより人來てとはば、らずと答へよ」、といひあへず、奧まりたる處に隱れて、衣引被きぬひきかつぎふして見つ、おきても心安からで、「いかに〳〵」と思ふ程に、果して蟇六ひきろくが小こもの來て、「糠助ぬかすけぬし宿所にありや。我內政わがうちがたよばせ給ふに、とく〳〵」といそがすを、しばしは「在らず」とあざむく物から、使つかひくしの齒をく如く、ふたゝたびに及びしかば、今はのがるゝ路もなし。「さはれ內うちがたよりとかいへば、そのことならじ」、と思へども、思ひかねつゝいでかぬるを、女房にいさめられ、小厮使こものづかひ引立ひきたてられて、やむことを得ず使とゝもに、蟇六が宿所へゆきけり。

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南総里見八犬伝(019)

南總里見八犬傳第二輯卷之四第十八回
東都 曲亭主人 編次
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ふて紀二郎きじらう糠助ぬかすけ屋棟やねいどむ」「犬塚番作」「しの」「ぬか助」

簸川原ひのかはら紀二郞きじらういのちおと
村長宅むらおさやしき與四郞疵よしらうきずかうふ

 應仁おふにんは二年にして、文明ぶんめいと改元せらる。文明二年、信乃しの十一歲、母なくなりて三年みとせ以來このかた、父につかへてます〳〵孝なり。さらぬだに番作ばんさくは、行步ぎやうぶ不自由なるものゝ、はやく鰥夫やもをとなりしより、年々とし〳〵に氣力おとろへ、齡五十よはひいそぢ滿みたずして、齒はぬけかうべ白くなりつ、病煩やみわづらふ日の多かるに、なほ手習子等てらこら集合つどへては、いとかしがましとて手本をとらせず。「さはれ年來としころ衆人もろひとの、扶助たすけによりて親子三人みたりうへこゝへずありけるに、その子孫こうまごをしえずして、たゞわが餘命をむさぼらば、人はたこれをよしといはんや。かゝればさとに利をのこして、彼等が恩義にむくはんには」、とかねてより思ひしかば、やまひひまあるをりをりに、水旱すいかん准備てあて荒年くわうねん夫食ぶしき、すべて農家日用の事をのみのべしるして、是を一卷ひとまきとし、里老等さとのおきならに贈りしかば、みなこれを見て嘆賞し、「犬塚生いぬつかうぢ手迹美事しゆせきみごとに、武藝ぶけいをよくすと思ひしに、農業蠶養こがひのうへまでも、人のしらざる所を得たり。この書は不益ふゑきたまものなり。寫し傳へて祕藏ひざうせよ。まこと可惜士あたらさむらひを、埋木もれきにすることよ」、といはざるものはなかりけり。
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