巖窟王(下 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【原作朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 114「ペッピーノ」
巖窟王 : 二六五 斷末魔・一
蛭峰が突のめる樣に歩み寄つた其戸口の番人さへも呆氣に取られて居る、彼は戸を開けて好いか開けぬが好いかをさへ知らぬ、けれど蛭峰を遮る勇氣は無い、遽てゝ戸を開いた、蛭峰は出で去ツた。
後で裁判所の混雜は一方ならぬ、今まで魔睡した樣に成つて居た傍聽一同、初めに徐々に、次は急に、最後は海嘯の推寄せる程の勢で、目が覺めた、眞に意外な、恐ろしい裁判で有ツた、イヤ裁判には成らずに止んだ、けれど此樣な事を見た事が無い、口々に驚きや訝かりや樣々の事を語り合ひ初めた、鼎の湧く景状である、流石の判事一同及び裁判長までも蛭峰の去つて暫しの間は、唯だ顏を見合せて、唖の状であツた、けれど遂に氣が附いて裁判長は宣言した「今日の裁判は之で延期と致し、次囘の開廷期へ讓ります、其間に必ず豫審の調べ直しと爲り、爾して裁判官の人を替へ更に裁判するに至るでせう」吾々は最早斯樣な裁判は取扱ひ得ぬとの意を含んで居るのだ、裁判長が是れほど迄に云ふは前後に殆ど類が無い、陪席判事も陪審員も、無言で有るけれど、再び斯樣な恐ろしい裁判に關與り得ぬとの事は同感らしい。
傍聽人の言つて居る事柄などは千状萬態で茲に一々記す事は出來ぬけれど「被告辨太郎は何うなるのだらう」と云ひ「蛭峰の舊惡には驚いた」と云ひ「親が子を論告して、反對に子より舊惡を訐かれるとは全く天のする業だ」など云ふのは多かツた、併し大抵の人が辨太郎は眞逆に死刑には成らぬだらう、情状を酌量して終身刑に處せられるだらうと云つた可なり法律に通じた人も無論爾さと云つて居た。
其れは扨て置き、戸を開いて出た蛭峰の状は見ものである、彼は帽子を冠る事さへ知らぬは勿論の事、其身が足で歩して居るか頭で歩して居るかをも辯ぜぬ容子である、夢遊病の患者が歩む樣にフラ〳〵と歩み石廊に出て走つた、茲には入後れた傍聽人や、他の裁判の室へ出入りする人などが蟻集して居る、此人々は、一人中から出て來る者の有る度に取圍んで中の容子を爭ひ聞くので、直に蛭峰の周圍へ馳寄つた、けれど一目蛭峰の顏を見て飛び退いた。
實に蛭峰の顏は誰とて飛び退かぬ事の出來ぬほど物凄い、筋と云ふ筋には悉く血が漲つて隆起して居る、血走つた眼の光り、引痙つた頬の蹙み、怒れる虎よりも恐ろしい、誰が此前に立つことが出來やう、全く蛭峰は無人の境地を行く如く群衆の中を通り裁判所の出口まで出た、幸茲に居合せたのが彼の馬車である、彼は誰の馬車とも見分けずに之に乘つた、馭者は問ふた「お歸りですか」蛭峰は返辭をせぬ、返辭の無いのは歸るのだらうと馭者は氣を利かせて家の方へ馬車を向けた、全く蛭峰の身には、今裁判所の中で力の盡きた反動が出て來た、死人の樣に見えて居た彼の顏は火の樣になツた、震へて居た齒の根は切齒りする樣に堅く結ばれた、手は手の掌へ爪の立つ程に握り詰めた、爾して腦髓も電光の如く忙しく動き初めた、けれど腦髓が動けば動くほど益々逃れる道の無い其身の末運が合點が行くのだ、此後を何うして好いか思案が浮ばぬ、彼は考へて又考へた、何うしても思案の無い苦しさに又叫んだ「考へるだけ無益だ、無益だ、本統に、神の手で罰せられたもの、何としたとて逃れる事が出來る者か」
叫びつゝ狼が檻の中を見廻す如く馬車の中を見廻したが膝の脇なる蓐の上に一本の扇子の有るのが目に留まツた、是は今朝彼の妻が自分で乘つて用逹に出る積りで外の品と共に入れたのをツイ取殘して置いたのだ、此小さい一物が大なる動機である。
初め彼、心も無く之を取上げたが、手に置いて見直すと共に、忽ち妻の事を思ひ出した、彼は不意に痛みを受けた樣に叫喚した、吁彼は家を出る時其妻に何と云ツた、家の恥辱を雪ぐ爲め毒藥を以て自殺せよと命じた、退引の成らぬ樣に鐡案を宣告した、今は何うである、妻に此樣な宣告をする資格が有るだらうか、妻が家名を汚さぬうちに自分が家名を汚したのだ、妻の汚し方よりも幾倍重い、其れも事實を云へば今の妻を迎へぬ先に汚して居たのだ、今は唯だ其事を露見したと云ふに過ぎぬ、此樣な身を以て妻に家名を汚すなとは何うして云つた、妻を死なせるならば自分が先に死なねば成らぬ妻には毒害せねば死刑臺に上されるぞとの意を繰返し〳〵言つて威して、アヽ死刑臺は自分の方が當然に上る可きである、此樣な者の妻となつたればこそ所天の心中に潛んで居る極惡が妻の身に感染したのだ、此樣な者の妻となつて、誰だとて惡人と成らずに居られる者か、鬼の妻に鬼神と云ふは是である「アヽ何うしても妻を死なせては成らぬ、斯うなれば最う破れかぶれだ、妻を引連れ世界の果へまで出奔しやう」惡人の後悔は善人の後悔とは違ふ、善人は後悔して善に還り、惡人は惡を遺して逃れるのだ、惡を遂げるとは此事である、彼は全く其氣に成つた、何でも妻と逃れる外は無いとは云へ妻は猶だ活て居るだらうか、先刻鐡案を宣告して家を出てより未だ二時間とは經ぬ、毒を呑んで死ぬるにしても後に殘る兒供の手當や、其外にも用意が有らう、急いで歸れば未だ死なぬ所へ行く見込は有る。
斯う思ふと共に、彼は突然 首を馬車の窓の外に出し、馭者に令した「早く家へ、早く、早く」
頓て家には着いた、飛ぶ樣に内へ入り妻の室に馳せ附けた生憎戸に錠が卸りて居る、アヽ遲かツたかと彼は胸を突かれる樣に感じた、けれど叩いて見ると、中で何だか物音がする、有難や猶だ活て居るのかと思ひ「開けろ、開けろ」眞に聲を限りである、けれど開けぬ、彼は全身の重さを以て幾度も戸に突當り、漸くに戸を破り得た、爾して轉がる如くに中に入れば妻は室の隅に立て居る、けれど最う遲過ぎた、今までは未練な心で死にも得せずに居たけれど所天の戸を叩く荒々しい音を聞き愈々逃れぬ時が來たと知り、戸の破れると同時に最後の毒藥を仰ぎ呑んだ、立て居たのは是から倒れんとする所で有ツたのだ、「オヽ」と叫んで蛭峰が近づくと同時に呑み乾て空になツた硝子瓶が力の無い手から落ちた。
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