◎巌窟王(巖窟王)(上 003)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 二一 其顏を此窓から
戸を叩く其人が確に我父野々内に違ひないと蛭峰は感じた。若し之が世間普通の息子で有つて世間普通の場合ならば必ず喜んで戸口まで立つて行き兩手を擴げて迎へ入れる所だらう、所が蛭峰は爾うでない、我父と感ずると共に全く顏の色を變へた。
尤も彼の氣質としては無理もあるまい、今父は恐ろしい嫌疑を受けて警察から獵立てられて居る人である、爾うして自分は此樣な父を持つたと世間に知られてさへ出世の妨げとなる場合である、況してや只た今、國王から非常な忠勤を贊められて、暗に遠からず恩賞に與る如き約束まで得て御前を退いた許りだもの、若しも我父の樣な國王の朝廷を轉覆しやうといふ黨派の巨魁が、我が宿を尋ねて來たと分つては、我が後に何れほどの損害となるかも分らぬ。
けれど戸を叩く人の方は少しも此樣な頓着はない 父「何時まで父を戸の外に待たせて置くのだ」と半笑談の樣にいひつゝ自分で戸を推して入つて來た、如何にも警視長官が先刻國王に上奏した通りの人相である、顏中髭と云ひ度いが、實は髭髯の中から目と鼻ばかり出して居るのだ、爾うして外套から杖に至るまで諜者が認めたといふ時の儘である、蛭峰は身震ひせぬ譯に行かぬ。
野々内は笑つた 父「オヽ今に初めぬ其方の孝行には感心した」蛭峰は返辭もせぬうち給使に向ひ 蛭「最う好いから、呼鈴を鳴らすまで彼方へ行つて居よ」と命じた、成程亂暴な父の言葉を他人に聞かれるのは辛いだらう、爾うして自分で立つて給使を送り出す樣に廊下の所まで行き、給使が全く階段を下り去る状を見屆け、其上で内から錠を卸して、初めて父の前に戻り蛭「阿父さん何か御用事ですか」と問ふた、仲々堅固な用心である。
父「ホゝ、爾うまで用心せずとも、ナニ父は聞く事さへ聞けば直に歸るのだよ」と云ひつゝ席に着いたが、其容子の何となく大膽で且つ鷹揚な所は流石に一黨の名士である、過激かは知らぬけれど、兎に角物に動ぜぬ大人物の風采が見える、之を目から鼻へ拔ける樣な蛭峰に比べて見ると先獅子と狐程の相違と云つて好い、何うして此樣な子が出來たゞらう。
蛭峰「聞く事は何ですか」父「ナニ馬港へ着いた商船の消息だよ、若し其方が彼地を出發する前に、巴丸といふ船が入港した樣には聞かなんだか」聞いたも聞いたも生涯忘れぬ程に聞いて居るのだ、蛭峰「分りました、阿父さんは其船の船長呉氏といふ人が、エルバ島から密書でも持て來はせぬかと心待に待つて居るのでせう」父「爾うよ、待兼たから聞きに來たのだ」蛭峰「可けません、阿父さんは最う其樣な陰謀はお廢しなさい、何うしても露見せずには濟みませんから」父「露見すれば何が惡い」蛭「貴方の身が危險です、實は阿父さん其の呉船長は船中で病死して、死際に自分の手下へ其密書を托しました、所が其手下が上陸するが否や拘引せられ、私の調べを受て、密書を私へ渡しました、其れを私が燒捨てたのです、貴方を助け度い爲に」自分を助け度い爲にとはいはぬ、父「フム其親切は有難い樣なものだが、其方のする事は何うも己には合點が行かぬ、けれど燒いたものなら今更仕方がない、成るほど、爾して其方は、其事を上官へ旨く上申する爲に上京すたのだな」蛭「ハイ、少しも貴方の名を出さずに、横領者の歸國だけを陛下の耳に入れねばならぬと思ひ、急いで上京したのです」
野々内は驚きも喜びもせぬ、只相變らず泰然自若と構へた儘で父「其方の仕さうな事だ、シタガ國王は其方から知らされて初めて皇帝の上陸を知つたのか」蛭峰「爾です」父「其樣な迂闊な事で國民に對し政治の責任が盡せると思ふかなア、警視廳へは年百五十萬圓の機密費を使はせてさ、早く我黨の世にならねば蒼生の不幸此上なしだ」蛭「其樣に仰有るけれど國王の警察は貴方の思ふよりも機敏ですよ、既に毛脛中將の暗殺された事件なども餘ほど詳しく探つて居ます」と、父の荒肝を奪ふ積りで口を切つた。
けれど爾ほどには驚かぬ 父「何だ毛脛中將の暗殺、ナニ彼れは暗殺ではなく自殺だらう、セイヌ河に死骸が浮いて居たといふぢやないか、己は聞いたけれど身を投げた事かと思つて居た」蛭「アノ氣の確な將軍が何で身投げなどをするものですか、殺された上で投込まれたと誰も鑑定して居るのです、其れのみか中將が其前夜に、サンヂャック街の或家で開いた拿翁黨の祕密會合へ招かれて出席した事も警察は知つて居ます、其れ切り宅へ歸らなかつた相ですから、後は誰にでも推量することが出來ます」
父「爾かなア、彼の祕密會の事まで分つて居ては、なるほど、幾等愚な警察でも推量が屆くだらう、けれど暗殺ではないのでよ、實は己も其の席に列したが、中將は吾々の魂膽から今度の計畫まで默つて聞いて了つた上で、愈々一同の血判と爲つた時、己は王黨で、拿翁黨ではない、決して血判には加えはらぬと斷言した、勿論會員の立腹は一方でなく、直ぐに其場で中將を刺殺すと云つたけれど、中將を其會へ誘ふて來た會長が — 」蛭峰は驚いて父の言葉の終るのを待つて居られぬ 蛭「エ阿父さん、中將を其會へ招いた人が其祕密黨の長ですか」野々内は少し笑つて、父「爾と見える、先ア聞け、其會長が會員一同を推宥め、中將をして、生涯今夜の事を他言せぬといふ堅い神聖な誓ひを立てさせ、爾して無事に歸して了つた、是までの事は己が能く知つて居る、其の歸り路で死んだのだから己は自分で河へ落ちたのだらうと思つて居た」蛭峰「其樣な事情なら愈々以て暗殺です、黨員が待伏して居て殺したのです」父「縱しや爾とした所で、暗殺などゝ其樣な聞苦しい言葉を加へて呉れるな、政治の上には決して暗殺といふ事はないよ、唯妨害物を取除くに止まるのだ、譬へば其の方が己の黨の者を捕へ之を死刑に處したとて己の方では蛭峰が我黨の者を暗殺したとは決していはぬ、若中將が我黨に殺されたなら其は必ず我黨の法律に從ひ我黨の裁判を受て死刑を行はれたのだらう、先ア道理は爾ではないか」
祕密の黨派が、黨の法律とか裁判とかいふのは蛭峰に取つては非常な耳障りである、けれど其處は父子といふ間柄だけに深く爭ひはせぬ蛭「シタが阿父さん、警察では既に其の中將を案内した人の人相まで詳しく知つて居ますよ」是には野々内も幾分か驚かぬ譯には行かぬ、父「何だ其の案内した人の人相を、ドレ何の樣な人相だと其の方は聞いた」蛭峰は父の顏をジツと見詰て蛭「ハイ私の聞きまんしたには、頬髯が黒くて澤山あつて」野々内は自分の頬髯を撫つつ、父「フム、頬髯が黒くて澤山あつて、其れから」蛭「其れから背が高くて」父「背が高くて」蛭「紺色の外套を襟まで〆めて」父は又自分の色紺[紺色の誤りか?]の外套を見廻しつゝ、父「感心に知つて居る、其れなら早く捕まへ相なものではないか」蛭「最う遠からず捕まへませう、昨日既に其の人をヘロン街の入口まで尾けて行つて見失ひ、今日も充分手配りが行渡つて居ると云ひますから」
父「では今も網を張つて居るかも知れん」と野々内は云ひ乍ら、突と窓の所へ行き、外の樣子を窺つて見やうとした、蛭峰は背後から飛び附く樣にして引戻した、其の顏を此 室の窓から出されて耐るものか、けれど野々内は早外の容子を見て取つた父「成程 其方の云ふ通りだ、向ふの角に三人ほど此家の入口を見張つて居る哩、其の中の一人は確に去年 己の兄弟分を捕縛に來た捕吏だよ」蛭峰は全く顏色を失ふた、蛭「エ、捕吏が此家の入口を見張つて居ますか」若し父野々内が 此室で捕縛されては、父の捕縛される事は構はぬけれど自分の身が大變である、蛭「阿父さん貴方は息子の身を亡ぼすのですか」と恨めしく打叫んだ、野々内は猶ほ顏中の髯の動きに微笑を浮べて 父「驚くな、驚くな、王黨の警吏に捕縛されるほど未だ此父は耄碌は仕て居ないから」
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