読書ざんまいよせい(086)

巖窟王(上 その10)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一〇一 土牢と云ふ言葉に

さきの日死刑臺から逃れ去つた其の日比野が、早斯かる使に來るとは、安雄も意外に感じたが伯爵も驚いた容子である「オヽ日比野、貴樣だつたか」問ふ聲は伯爵の口を衝いて出た、日比野は返辭もせずにたゞちに伯爵の前に平伏し、伯爵の兩手を取つて之に接吻するは、命を救はれた其恩を謝する積りで有るのだらう、あたかも犬が主人の手をなめる樣な状である。

伯爵は機嫌能く「オヽ未だおれを忘れぬと見えるな、あ起きよ、問ふ事が有るのだから」命に應じて起き直りつゝ「私が救はれて未だ一週間にも爲りません、其れだのに貴方の恩を忘れては何としませう、生涯決して忘れません」伯爵「生涯といへば永いことだぞ、爾う約束せぬが無難だらう」日比野は「イヽエ、生涯が幾等永くても忘れません」といひ掛けたが、傍に見知らぬ安雄の居るのを見、忽ち口をふさいだ、伯爵「ナニ日比野、此方はおれの友人だ、少しも恐れるには及ばぬ、先づ野西子爵がどうして鬼小僧に捕はれたか其の次第から聞かせてくれ」

日比野は安心した状で「いつも祭禮の時には同じ手段で、必ず若い紳士を捕へますよ、鬼小僧の妾テレサといふのが珍しい美人だものですから馬車で市中を練歩き、是はと思ふ紳士に向ひ、時々容子有りげに顏を見せるのです、野西子爵とやらも全く其手に掛かツたのです」伯爵も安雄も此打開けた返辭に、思はず笑を催した、安雄「鬼小僧が、自分の妾に、其樣な事を許すのか」日比野「許しますとも、自分が傍に居て、一々此紳士彼の紳士と差圖をして居るのです」安雄「では彼の馬車に鬼小僧も乘つて居たのか、何だ女ばかりの乘合と見えたのに」日比野「馬車の中に女はテレサ一人です、其外皆少年の男子です、身體が小さいから彼の樣な服を着けて假面めんを被れば女の姿に見えるのです」安雄「シテ鬼小僧は何處に居た」日比野「矢張り假面めんを被ツて御者を勤めて居たのです」

さては彼の馬車の御者が鬼小僧自身で有ツたのかと、安雄は身が震ふほどに驚いた、爾とも知らず其日人の眼の下で、其人の妾と樣々の合圖を爲し、非常な艷福を得た如く思ふとは、實におぞましさの骨頂と云ふものだ、安雄が斯く思ふて呆れる間に[、] 伯爵「シタが、其れから何うして野西武之助君を捕へた」日比野「其れから手紙の遣取と爲り、今夜 祭禮まつりの終る刻限にポンテシノの寺の庭で忍び逢ふ事と極つたのです、爾して其約束の通り野西子爵が來ましたからテレサの弟が同じ風をして子爵の手を取り、寺の庭へ引入れて、小聲で子爵に向ひ、山の麓に私の別莊が有るから其處まで行きませう、其積りで馬車を待たせて有ますが其別莊ならば番人の外に誰も居ませんから緩々ゆる〳〵とお話も出來ますからと斯う云ひました、子爵は喜んで、自分が引立る樣に手を取つてテレサの弟を、寺の背後うしろに居た馬車に乘せ、自分も後から乘つて急がせたのです」安雄「では何の苦も無く一直線に鬼小僧の居る山のほらへ進み込んだのだな」日比野「ハイさうさせる計略で有ましたが、子爵が馬車の中で、樣々に戲れて、テレサの弟も本性を隱して居る事が出來ぬ程に成りましたから、忽ち用意の短銃ぴすとるを取出し、子爵の顏に差附けて、ふざけるなと怒鳴り附けて自分の顏を現はしました、私は其馬車の御者を勤めて居ましたから、篤と其時の状を見ましたが、子爵は餘ほど驚いた容子でした、暫しが程は言葉も出ずに唯だ相手の顏を見詰て居ましたが「アヽ分ツた、笑談ぜうだんにしては餘り殘酷過る、全く誘拐かどはかしたぐひだ」斯う叫んで、直に短銃ぴすとるを奪ひ取りに掛りましたが、此時は早や馬車の左右の窓から鬼小僧の屈強の子分が四人まで飛び込んで子爵の兩手をしかと捕へた後で有ましたから無益でした、直に子爵は最早や抵抗はせぬのだから、貴樣等の望みを聞かせよと云ひました、手下等は斯樣な事には慣れて居ますから、返辭もせずに其儘繩を掛やうと致しましたが、其れには及ばぬ何の樣にでも貴樣等の意に從ふからと云ひ、是から四人に捕はれたまゝ終に山塞さんさいへつれて行かれたのです」伯爵「爾して今は」日比野「山塞さんさいの土牢へ入れられて居るのです」土牢と云ふ言葉に伯爵は殆ど顏色を變へた「其れでは直におれが行つて — 」安雄「伯爵、私も一緒に」伯爵「サア行きませう」眞に取る物も取敢ず立上つた、安雄「馬車の用意でもさせねばけますまい」伯爵「イイエ私は夜の夜半よなかでも、直に外出の出來る樣、必ず馬車の用意をさせて有ます、法律を逃れる人でも、私ほどは用意は屆いて居ぬでせう」眞に其通りである、一つの呼鈴よびりんを鳴らして下に降れば、早や馬車は入口へ廻つて居る、一分の猶豫も無く安雄と共に之に乘り、猶ほ日比野をも其 背後うしろに乘せサンサバシヤンの山洞さんどうを指し矢を射る如くに走らせた。
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読書ざんまいよせい(085)

巖窟王(上 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 八六 心の誓ひ

昔話に聞く龍宮とても此室より以上の事はないだらう、安雄は見惚みとれて恍然うつとりとして居たが、主人の謝辭の樣に「イヤ來客の目を隱して案内すると云ふ事は、此上もない無禮ですが、全く止むを得ざるに出た事は幾重にもお察しを願ひ度いのです、茲は私の隱れ家で、入口の祕密が人に分れば今迄の樣に世間から隱遁してゐる事が出來難くなります、其れに私は一年の中、三百日ほど他へ出て居ますゆゑ、留守の間に自分の隱居所を荒される樣な事があるも辛く、其れや是れやで、此の巖窟いはやの入口は、誰も目を開いて來るのを許さぬと、斯う云ふ事に兼て定めてあるのです、特に貴方の爲に其定めを破る譯にも行きませず、失禮とは知りながら他の人同樣に取扱ひました」何故にさう迄も用心して特に安雄を呼入れたのだらう、其れほど入口の祕密を知られるのが怖ければ招き入れぬが好さ相なものであるのに、併し安雄の心に斯樣な疑ひなど起る暇はない、何しろ多く見た事のない、此龍宮を見る運に廻り合せたのが嬉しい「イヤ目を隱されるは愚、しや手足を縛られても、此樣な仙窟へ招かれるのは榮譽です」

主人は先づ安雄に座を與へて、自分も腰を卸した、安雄は何の上に自分の腰が乘つて居るか殆ど疑はしい程に思ふ、椅子の面が柔かで、何だか空中に浮んでゐる樣な感じがする、主人「斯うお目に掛つて互に話を仕ますのに、何か呼ぶ可き名がなくては、拍子がよくありません、何うか私を呼ぶには新八とお云ひ下さい、私は船乘新八と世間から呼ばれてゐます、貴方を何と呼びませう」敢て本名を聞かうと云ふではない、實の所本名を聞かずとも既に知つてゐるのだらう、安雄はさうとも思はぬから本名まで明かし度くない「イヤ貴方が昔話で有名な船乘新八ならば私も其昔話に在る荒田院あらだゐんと呼ばれませう」主人は全く打解けた調子と爲り「では荒田院あらだゐんさん、不意の事とは別に用意とてもありませんけれど、晩餐を差上げる爲にお招き申した譯ですから、先づ食堂へ御案内致しませう」とて室の左の方へ振向いた、安雄も同じく其方へ振向いて見ると壁の所に絹の埀幕が掛つてゐる、是れが食堂への入口であらう、「何うぞ」と安雄は唯だ簡單に答へ主人に續いて立上つた。

埀幕を開くと短い廊下がある、今の室も此廊下も、組細工もざいくの天上からヴエニスの製と思はれる綺麗な硝燈らんぷが下つてゐて、明るきこと晝の如しである、廊下を通り盡すと愈々食堂である、廣さは三十人も會食する事が出來るだらうか、其眞中に唯數人を圍ませる丈の卓子ていぶるを置いてある。

室中の立派な景状ありさまは、云ふ迄もない、イヤ言ひ樣がない、室の四隅に、名手の彫刻したと思はれる大理石の天使えんじえるの立像があつておの〳〵其手にかごを提げてゐる、爾して其 かごには地中海を中にして幾百方里の國々で特に名産と稱される果實の類が累々と金宇形すゞなりに盛上げて有る、何うして斯うも取集める事が出來るだらう。

前の室と此室と、何方どつちが贅澤の度が優るだらう、此室にゐる間は無論此室の方が優つた樣に思はれる、安をは全く目をこすつて夢ではないかと見廻した、間もなく一人の給仕が現はれた、是れは眞黒な黒奴である、給仕の仕方は驚く可きほど能く心得てゐて殊に主人の目配ばせを言葉よりも能く合點する状は、何うして斯うも仕込んだものかと怪しまれる、安雄は話の端緒がないから、先づ此給仕の事を賞め「何うしてお手に入れましたか珍しい給仕ですねえ、行儀が正しくて、爾して靜かで」主人は微笑して「靜かな筈です、舌を拔いて有るのですもの」安雄「エヽ舌を」安雄は驚かぬ譯に行かぬ。

主人「彼は御覽の通りのヌビア人ですがチウニス國王の後宮へ、庶人の許されてゐる區域よりも近く歩み入つた罰として非常な刑を受けたのです、最初の日、舌を拔き、次の日は手、又次は足と、段々切取つて最後に首を切ると、斯う云ふ慘酷な言ひ渡しで有りましたが、其時私が行合はせ、其事を聞きましたから、餘り慘酷な仕方と思ひ、國王へライフル銃一挺と外に東洋製の鋭利なかたな一個を差し出し彼の命を買取つたのです、其れが丁度、舌を拔かれた翌日で有つた爲め、彼は舌だけを失ツて助かりましたが、外の黒奴と違ひ、彼は國へ歸り度いなどの心は露ほども起しません、何うかして私の船が其國の邊へ近づきますと、彼は恐れに身を震はしてゐるのです、憐れむ可き者では有りますが、私を全く命の親と心得、犬よりも忠實に勤めてゐます、何しろ舌のないのは、使ふに不便な樣では有りますけれど、此方こちらの云ふ言葉は能く聞き分けますから、差し支へはありません、其れに主人が何の樣な祕密を見聞きしましても、他言すると云ふ事が出來ませんから、今では私も傍近く使ふ僕は、舌のない者に限ると云ふ程に思つてゐます」

チウニスの國に舌拔きの刑があるとは兼て聞いてゐる、舌を拔かれて人爲の唖と爲つて生てゐる者のある事も亦聞いてゐる、けれど、其樣な者に接するのは今初めてゞある、暫しがほど安雄は食氣もなくなる程に感じたが、併し天然の空腹に勝つ事は出來ぬ、其れに舌無男の運んで來る物が一として珍味ならざるはなしと云ふ程ゆゑ、間もなく、何事にも構はずに食ひ初めた。

食ふのみでなく、聞き度い事も多少はある。安雄「貴方は其樣にして常に各國を廻つて居ますか」主人「實は心に誓つた事があツて其爲に年中旅から旅へ渡ツて居ます」極めて機嫌能く答へたけれど「心の誓ひ」と云つた時にはまなこの底に凄い樣な光が見えた、安雄「貴方は餘ほどの艱難にお遭ひ成さツたと見えますね」主人はハツと驚いた状で、暫し安雄の顏を見詰めた末「何で其樣にお思ひです」安雄「イヤ、貴方の顏色、貴方の聲、まなこ、物言ひ、爾して貴方の暮し方まで總て一方ひとかたならぬ履歴を表してゐる樣に思はれます」主人は半ば打消す樣に「イヽエ世に私ほど幸福な者はありませんよ、全く氣儘勝手と云ふ言葉を其儘です、行きたい所へ行き、仕度い事をして人間の裁判が間違つてゐると思へば其の被告が山賊でも海賊でも救ひ出して刑罰を逃れさせて遣り、人の知らぬ樣な手段を以て最も確實に善を勸め惡を懲し、云はゞ天にも代ツた積りで正しい裁判を行ツて行くのです、しや貴方にしても、一度ひとたび私の境涯を味はへば再び還ツて人間の社會へ歸り度くないと思ひます、何か人間の社會へ還ツて是非仕遂げ度いと云ふ目的でもなければ — 」安雄「假令たとへば復讐とでも云ふ樣な」主人「エ、エ」復讐との言葉に主人は再び安雄の顏を見詰めた。
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読書ざんまいよせい(084)

巖窟王(上 その8)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 七三 一艘の帆前船

全く六十年間、信用を疑はれた事の無い森江商會である、しや今は何れほどの末路に際したりとも、その頭取たる者が同業銀行の祕密祕書と名乘り男に、弱味を見せて成るものか、森江氏が立派に言切つたのは當然である、辛くは有らうが當然である。

イヤ言切つたが、實は餘り立派では無かつた、物心覺えて數十年來、嘘一ついた事の無い森江氏である。嘘一つかねば成らぬ場合に迫られたのは此頃が初めてゞある、現在自分の心で、今月來月の中に到底五十萬近い支拂ひの出來ぬを知つて、それを出來る樣に言ひ切るのだもの何うして立派な聲、立派な言葉、立派な語調が出やうものぞ、言切たその言葉が、何と無う憐れげに聞えた。

けれど書記の顏には別に憐みの色が現はれたとも思はれぬ、彼は唯打解けた樣な、爾して詰問する樣な、異樣な調子で「イヤ森江さん、爾う仰有おつしやるのは當然です、誰とて貴方の地位に立てばその通りに言切りませう、けれど私へ對しては見得外聞を顧みる場合では有りますまい、茲で伺ふ事は此席限りで、外へは決して洩れませんから、何うか貴方の名譽に誓つた眞實の言葉を聞かせて下さい、全く貴方は紳士の言葉を以て、此支拂ひが無事に出來ると云ひますか」斯うまでに推し問はれては、おれでもと云ふ勇氣は無い。

森江氏は惆然てうぜんと打萎れた、爾して暫らく考へた末、到底此樣な大債權者に對しては隱しおほせる事は出來ぬと悟つた容子で「イヤう云はれゝば私も腹藏の無い所を申さねば成りません、實に面目無い次第ですが目下私の運命は唯持船巴丸の安否一つに繋がつて居るのです、此船が無事に入港しますれば、當商店の信用も多少は囘復し、何とか支拂ひだけの融通は附きませうが、イヤ附かずとも附けねば成らぬと決心してるのです」書記「若しその船が入港せずば」森江氏「此良造の運の盡です、支拂停止しる外はありません」

書記も嘆息の樣な物を洩らした、けれど、柔かな顏を示す可き場合で無い、猶も極めて眞面目に「爾すると巴丸が貴方の最後の頼みですね」森江氏「最後の頼みです」書記「何とか力を借る友人はありませんか」森江氏「商人には取引先はありますけれど、友人はありません、信用の盡きた後で誰が助けて呉れませう」書記「さうすると此最後の頼みの絶ゆる時は」森江氏「全く此商會の破産です、森江一家の滅亡です」

書記は思ひ出した樣に「オヽ私が茲へ來る時、丁度、港へ一艘の帆前船が着きましたが、若しや貴方の云ふ巴丸ではありませんか」森江氏「ハイそれが巴丸が出て、次の又次に印度を出たジロンと云ふ船です、實は店の若い者が一人、時々屋根の物見臺に上り、入港の船を見てから私へ知らせて來るのでその船の入港も直に分りました」書記「巴丸の次の次に出た船が着いたのです、それだのに」森江氏「ハイ斯うなれば最う何も彼も打明けます、それだのに未だ巴丸が着きません」書記「事に依ると今のジロン號とやらで巴丸の消息が分りませう」森江氏は堪へ兼ねた状で、忽ち顏に兩手を當た「イヤいつそ便りの分らぬ方が好いのです、巴丸が印度を出たのは本年二月の二日です、最う一ヶ月前に入港してゐる筈ですのに、今以て入港しません、此れは決して無事な船に在る事では無いのです、何うか私はその便りを聞度く無いと思ひます、聞かぬうちは、今に歸るか、歸るかとの見込が何時までも續いてゐますが、聞けばそれ切絶望です」何たる心細い實状だらう、聞かぬ中は猶だ見込が續いてゐるとは、併し氏の今の位置としては眞に此樣なものだらう。

氏は兩手の陰で泣いて居るらしい、書記も再び嘆息しやうとしたが、其時階段の方から異樣な足音が聞えて來た、森江氏は是れが自分の恐れてゐた便りとでも感じたのかと立上つて「アノ物音は何だらう、何だらう」とて戸の所まで進んだが、勇氣が盡きたと見え、又 蹌踉よろめいて元の椅子に倒れた、その中に足音は近づいた、確に六七人もくるらしい響きである、けれど割合にその進みは遲い、何だか躊躇しつゝ來るのかとも思はれる。

やがて外から此 へやの戸の錠を、鍵で開かうとする音も聞えた。森江氏「ハテな此戸の鍵は孃と小暮の外に持つては居ぬが」と云ふ聲のもとに、又一方の戸を同じ樣に開いた者がある、そもそも此 へやには店の方と、奧の方とへ雙方さうはうに戸があるのだ、先に開いたのが奧の方で、次に店の方からの戸が開いた、爾して奧の方から入つて來たのは先刻の緑孃である、孃の目には涙が一ぱいに湛へて「阿父樣おとうさま阿父樣おとうさま」森江氏は此叫び聲で、何も彼も悟つた、愈々先刻入港したジロン號と云ふのが、森江氏の運の盡と云ふ悲しい便りを持つて來たのだ、森江氏「オヽ、愈々巴丸が沈沒したのか」店の方から續いて入つた小暮も尋常たゞならぬ聲で「何うか旦那樣氣を確にお持ち下さい」

是れぞ森江一家が沒落と事極まる時である、へやの中に唯何と無う悲しい空氣が滿々た樣な氣がする。
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読書ざんまいよせい(083)

巖窟王(上 その7)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 六二 暮内法師

小箱の中を一目見て毛太郎次は「アツ」と叫んだ、彼は仕立職人で有ツたゞけに、服裝や飾物の事は幾等か知つて居る、夜光珠だいやもんど良否よしあしや値打なども多少は分る、眞に稀世の品質である、晝もまばゆい許りに燦爛さんらんとして光ツて居る「エ、法師さん之を友太郎の友逹へ分けるのですか、其友逹とは誰々です、幾人です、友太郎には私の外に爾多くの友逹が有ツたとは思はれませんが」

此熱心な状を見て法師は早目的に逹する事と見て取つたらしい、先づ大事相に箱の蓋を閉ぢて懷中に納め「友太郎の名指したのは五人だが — 」五人とすれば平等に分けても一人前、一萬 ふらんには成るとの計算が早や毛太郎次の胸には浮んだ、毛「エ、五人、爾して平等に分るのですか」法師「平等では有るが、最早死んだ人もあらうし、又同じ友逹の樣に見えても其實、友太郎から遺身かたみを受ける程の實意の無かつた人も有らうし、兎も角も五人の中で實意の有つた者だけへ分て呉れと云ふのである」毛「ア其五人の名を聞かせて下さい」法「一人は一緒に船に乘つて居た男で段倉と云ふのだ」

「エ、エ、段倉を、友太郎は親切な友人だと思つて居たのですか」法師は聞かぬ振で「一人は — 私は其名を忘れたよ、後で手帳で見れば分るが、何とか云ふ若い女性で、友太郎と婚禮する許りと爲つて居た相だが」毛「其れは西國村すぺいんむらのお露です」法「爾々、お露、お露、其れから今一人はお露の從兄の次郎と云つた、其れにお前と、是より外に友太郎には友逹と云ふ者は無かつた相だ」

毛太郎次は前額に脂汗を浮め「アヽ、友太郎は段倉や次郎の樣な者を友逹と思ツて居たのですか」法「思ツて居たから私に頼んだ譯である」毛「では矢張段倉や次郎にも分るのですね」法「其れは無論の事」毛「でも若し、友太郎が友逹と思つても其實友逹では無くて友太郎へあだをした樣な事でも有れば何うします、譬へば眞に友逹の心を持つて居た者は其中に唯一人しか無いと分れば」

法「其時には、其一人へ此 夜光珠だいやもんどを與へる外は無い」毛「全くですか」法「何で私は法師の身で嘘などを云ふものか」

益々毛太郎次が前額の汗は多くなつた、彼は煩悶に堪へぬ樣である、やがて指を折りつゝ「お露と、次郎と、段倉と、此の毛太郎次と、オヤ其れでは四人ですが、法師さん、最一人は誰ですか」法「今一人は亡なられた、私は昨日 馬港まるせーゆで其事を聞定めたが友太郎の父の友藏と云ふ者だ、最う一四年前に死んだ相だ」毛「其死んだ時の樣とても次郎や段倉は知りません」法「お前は知つて居るかエ」毛「知つて居るのは私一人でせう、病氣で死んだのでは有りませんよ」今度は法師が驚いた「エ、エ、病氣でなくて」

毛「餓死んだのです」

「何餓死んだ、犬猫でさへ食ふ物は有るのに、人間の中に居て人間が餓死ぬるとは」と、法師は叫ぶ樣に云ひ、涙を浮かべた、毛「爾です、私も氣の毒に思ひ、時々は見舞に行きましたけれど、へやの戸を閉ぢて誰をも入れませんでした、けれど私は戸の穴から中をのぞいて能く知つて居ます」法「では誰も介抱する人無しに」毛「ハイ、友太郎の父を介抱すれば其筋から何の樣な疑ひを受けるかも知れなかつたのです、けれど死際には介抱した人が二人あります、其れは友太郎の雇主で有つた森江氏とお露とです、森江氏は死んだ跡の葬式まで營んで遣られました」

法師は聞終つて暫しがほどかうべを埀れた、全く不憫の思ひに何事も心に移らぬ樣である、けれど毛太郎次の方は死んだ人より夜光珠だいやもんどの方が氣に掛つて居る「法師さん、斯う申しては失禮ですが、此父が死んだからには此世に友太郎の友逹と云ふ者は私より外にありませんよ」法師は漸くおもてたいらげてかうべを上げた「では段倉や次郎は最う死んだのか」

毛「死にはしませんけれども」法「死にはせぬとけれど何うした」毛「死にはせぬけれど、友太郎の友逹では無いのです」法「何で」

「何で」と問はれて彼は身をもがくより外は得せぬ、「其れを云はねば其 夜光珠だいやもんどを賣つた金を彼等にも分けるのですネ、云ひませう、云ひませう」漸く決心したらしく見える折しも、二階の方から「お前、素性も分らぬ人樣に、考への無い事をお云ひで無いよ」と制する聲が聞えた、引續いて階段はしごだんを降りて來るは、永く血の道にでも惱んで居るらしく見える顏色も青褪めた卅四五の女である、多分は毛太郎次の妻だらう、元は可也の美人で有つたと猶だ見受けられる所も有る、毛「ナニ考への無い事を云ふのでは無い、アお前も來て法師さんに夜光珠だいやもんどを見せて貰へ、何うか法師さん、今のを妻にも拜ませて遣つて下さい」法師は點頭うなづいて再び彼の夜光珠だいやもんどを取出し、身を引摺つて降りて來た妻の目先に光らせたが、之は女だけに夫よりも亦 一ひとしほ、玉の事には詳しい「オヤ本物だよ」とて、殆ど眼玉の出て來るかと思はれるほど慾し相に眺め、法師が再び元へ納めるが否や亭主に向ひ「お前、云ふならば云ふも好いけれど、先づ法師さんのお名を聞いてからにお仕よ」流石に女の、用心深く、餘ほど法師を疑つて居たのが、珠の光の爲め柔いだのである、法師は輕く笑んで「オヽ私は伊國いたりやの暮内法師だよ」暮内法師と云ふ名を聞いた事が有るか無いかは知らぬけれど、毛太郎次は妻に向ひ「其れ見なよ、名高い和尚さんぢや無いか」妻「でも相手はお前、二人ともお前の樣な活智者いくぢなしとは違ひ、今飛ぶ鳥を落とす勢に成つて居るから、お前の口から古い惡事でも洩れたと知れば、何の樣なあだをするかも知れぬ」此 ことばで見れば、次郎、段倉、二人とも今は餘ほどの勢力ある身と爲つて居ると見える、毛「だつて、おれが無だまつて居たとて、襃美に此樣な夜光珠だいやもんどを呉れると云ふでは無し、構ふものか、おれは云ふよ」妻「云ふならお前の勝手にお言ひ、後で睨まれる樣な事が有つても私は知らぬから」とうまく責任を夫に歸し、爾して逹て止めもせず、萬一のわざはひには自分は逃れ、夜光珠だいやもんどには自分も有附く樣 たくみに繩張をして元の二階へ上つて行つた。
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読書ざんまいよせい(082)

◎噫無情(002)

ヸクトル、ユーゴー 著
黒岩涙香 譯

噫無情 : 十一 ひどいなア、ひどいなア

何だッて戎、瓦戎ぢやん、ばるぢやんは、子供の落した銀貨を足の下へ敷たゞらう、餘り愚な仕草では無いか
彌里耳みりえる僧正が何と云ッた、魂を入替て、善人に成るのだよと、血の埀る樣な言葉で教へたでは無いか、ぢやんの耳には其言葉が猶だ響て居る、彼れの心には僧正の限り無き慈悲の心が充ち滿ちて居る筈である、其れだのに、早や此樣な罪を犯すとは何う云ふ譯だ
多分は彼れ、正氣では無いのだらう、心が狂て居るのだらう、彼れ十九年の間、獄に居て、唯だ世の中の憎いことをばかり心に刻み、復讐しやう、復讐しやう、とのみ思ひ詰めて出て來たのだから、心が狂て居る際でも知らず〳〵に此樣な事をするのだ、子供は忽ち立留ッて、銀貨を踏で居るぢやんの足を見、次にぢやんの顏を見上げた、顏は極めて恐しい、けれど子供は恐ろしとも思はぬ、唯だ戯れと思たのだらう、思案もせずにぢやんに近き『伯父さん其樣な事を仕てはいけないよ』ぢやんは無言だ、子供『其足を擧げてお呉れ、ヨウ伯父さん』ぢやんは光るまなこで、子供の顏を見た、見た樣の凄さには子供も初て恐れを催ほしたらしい、殆ど泣出す樣な聲で『大事な銀貨だからよう』
ぢやんは動きもせぬ、子供『では足を擧て斯して取るよ』と云つゝ子供は俯向うつむいてぢやんの足に兩手を掛けた、無理も無い、全く大事の銀貨だらう、子供としては一身代奪はれる樣な者である、ぢやんの足は少しも動かぬ、子供は力盡きて今度はぢやんの胸を推し『ヨウ伯父さん、還してお呉れ、銀貨を無くしては大變だから、ヨウ、ヨウ』とゆすぶッた、ぢやんは澁る樣な聲を出し『銀貨など知る者か』と叱つた、子供『だつて此足に踏で居るじや無いか、お呉れと云ふのに』ぢやんは怒りを示して立上つた、けれど踏だ足は動かさぬ、子供は劍幕に恐れて一足 退いた、其のまなこには最う涙が浮んで居る『ひどいなア、ひどいなア、子供の錢なんかを盗んで』と泣き聲で恨んだ、之を平氣で聞くぢやんは全く鬼である、彼れは平氣で聞くのみで無い、大喝して『夏蠅うるさい奴だ』と再び叱つた、子供は泣て『金を返せ、金を返せ』ぢやんは出拔に杖を取り『是れだぞ』と振かざした、全く叩き殺す勢ひである、すぐに子供は、泣ながら一散に逃げた
けれど暫く行て逃兼ねたと見え、やゝ久しく其泣聲が、淋しい原に、蟲のの樣に聞えて居た
ぢやんは立た儘である、銀貨を踏だ儘である幾時か其の儘で、恐い顏してだ空中を睨んで居た、何時いつまで彼れは此儘で居るのだらう、自分で自分の立て居る事を知て居るのか知らん、其中に日は全く沈んで了ッた、ぢやんは身に受ける夜露の寒さにゾッと身震したが、是れが彼れの身に氣附藥の樣に利た、熱を持て居る彼れの腦は冷めた、彼れは『オヤ』と云て四邊あたりを見廻した
やがて立去らうとする如く、彼れは背後うしろに在た袋を取ッて背負ひ直したが、此時チラリと彼れの目に見えたは砂の中に光る銀貨である、彼れは怪む樣に俯向うつむいて之を取上げたが、取上ると共に、電光の如く彼れの腦髄に光が射した、彼れは何も彼も思ひだした、今の子供の泣聲さへ猶だ耳に響て居る、エヽ、何だとて我が身は子供の銀貨を盗んだのだらう、僧正の清い姿も眼に浮だ、唯だ一時にして生涯の悔恨に身を責らるゝは斯樣な時である、彼れは直ちに、暗い大地の上に身を投た、地を掻むしッて悔んだ、けれど悔しんでは居られぬ、すぐに立上ッた『子供よう、子供よう』と叫んだ、延上ッて四邊あたりを見廻した、子供は居ぬ、最う去てから時が立ッた
彼れは子供の去た方へ走ッた、半丁も走ッたけれど姿が無い、又聲を立てゝ呼だ、呼では走り、走ッては呼び、廣い野原を、月の出るまで走り廻ッた、月に透すと何だか彼方かなたに人影がある、すぐに其傍へ行て見ると、旅の法師であらう、瘠馬に乘て兀こつ〳〵夜路よみちをして來るのだ『法師さんお願ひです』とぢやんは馬の前にかうべを垂れ『若し貴方あなたの通た道で、十一二の一人の子供は居ませんでしたか』法師『愚僧は誰にも逢ひません』ぢやんは銀貨を差出して『何うか之を貧民にお施し成さッて下さい』受取るのが法師の役である、怪みながら受取ッた、ぢやん『若しや何處かで子供の泣聲を聞ませんでしたか』法師『聞きません』ぢやんは又『何うか貧民に、之を』とて今度は銀貨二個を出して渡し『アヽ、私しは盗賊です、盗賊です、何うか警察へ連て行て、懲役に遣て下さい、此世には居られぬ惡人です』法師は驚いて瘠馬の腹をけつ[誤:蹴]て之も逃げた
如何とも仕方が無い、再びぢやんは聲を立て子供を呼びつゝ、何所どこまでとも走ッたが、遂に路の三方にわかれて居る所へ來た、何方どつちを見ても村らしい者は無い、彼れは大地にだうと座して、はらわたの底から深い涙がぐり上げた『エヽおれは、エヽおれは』と聲を放ッて泣き、頽折くづをれて鰭伏ひれふした、彼れが泣くのは廿年來絶えて無い事だらう、涙が彼れのしびれた腦髄を解きほごせば好い
何時間泣いたか知らぬが、全く存分に泣た、之れが彼れの魂の入れ替る時で有らう、幼い頃から彼れの心は、善心を捻伏て其上へ自分で惡の壁を塗り、世間が憎い人が憎いと、曲た心ばかり練固めた、無理に頑冥かたくなにしたのだから、最う善と云ふ心は芽を吹く力も無い樣に枯れて了ッたのが、其の所へ彌里耳みりえる僧正の靈精が差込だ、彼れの心は昨夜から革命の樣に揉めて居た、今が革命軍の最も盛に揉み立てる時なんだらう、彼れにして若し少しでも物事を比て見る丈の力が有れば、僧正の心と自分の心とを比べても見るだらう、自分が自分の目へ全く人鬼の樣にも見えるだらう、彼れは天國の光に照して自分の惡相を、愛想の盡きる程に見入た
つひに彼れは何うしたゞらう、其れは誰も知らぬ、此夜の夜半よなかを過ぎ、世間の寢鎭つた三時頃にダインの町を通ッた郵便の飛脚が有る、其者が丁度彼の彌里耳みりえる僧正の前を通過した時に、其戸口に一人の男が地に伏して合掌し、神にでも祈る樣な身振で一心に家の中を拜んで居た

*   *   *   *   *

此男が戎、瓦戎ぢやん、ばるぢやんである事は、云ふ迄も無い、彼れが再び話の表に現はれる時に何の樣に成て居るだらう、そもそも又 何所どこへ現れて出るたらう[誤:だらう]
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読書ざんまいよせい(081)

◎巌窟王(巖窟王)(上 006) アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香譯

巖窟王 : 五一 チブレン島

死人に代つて獄を出ると云ふ如き大膽な思案を友太郎に起させたのは、是れが法師の能く云ふた天意では有るまいか。或は法師の靈が此の思案を授けたのでは有るまいか。

山の樣な怒濤に揉まれながらも友太郎の心は、弛まずに神の助けを信じてゐる、我身を水底に沈まぬだけに支へてゐれば必ず何處かへ流れ着いて助かる事になるだらう、唯此の樣に思ふて風雨とも浪とも鬪つてゐた。

其の見込は間違はなかつた、彼の力が殆ど盡きて、最早如何とも仕難い頃、彼はある岩の上に打上げられた、此の岩が、即ち彼の目指してゐたチブレン島である。

身體の疲れは一方ひとかたで無いけれど、氣が立つてゐるから中々挫けはせぬ、たゞちに岩の高い所まで攀ぢ上り、やみの中に四方を眺めて方角を案ずるとブラニエルの燈臺の光りに依り茲がチブレン島だと分かる、目指す島へと着いたけれど、て此上は何しやう、四方の暗黒よりも、我身の上の寸前が猶更暗黒である。

雨はほどでも無いけれど風と波とは益々激しい、殊に雷鳴さへも加はつた、兎に角夜の明ける迄と、岩の被さつて蔭と爲つてゐる樣な所を探し茲に身を潛めたが、間も無く海のおもてより、人の悲鳴する聲が聞える樣に感じた。

もとより怒濤の間からくは聞き分られぬけれど、若しやと思つて再び岩の高い所へ上り、此方彼方と透かして見てゐる間に、パツと閃く電光いなづまが海のおもてを隈なく照した、此光りに分かつたのは茲より五六丁の沖合に一艘の漁船が波に捲かれてくつがへり、今やあたかも二人三人の乘組員が海底へさらへ込まれる所である、先に聞えた悲鳴の聲は此人々の叫びで有つたのだ。

船をさへ碎く程の浪だから其中へ落ちた人の助かると云ふ事はとても出來ぬ、再び閃くいなづまの光に見れば、海は唯だ山の樣な浪の重り合つて狂ふばかりで舟も無ければ人も無い、全く沈溺して了つたのである、殊に友太郎が此岩へ打上げられた時から見ると波の荒れ方が幾倍も強くなつてゐる、沈んだ人逹は最う此世の人では無いに違ひ無い。

舟に乘つてゐた人々は沈溺して、却て袋に入れておもりまで附けられて、爾して海底に沈められた人は助かる、實に不思議なものである、助かるのも人間の力では無く、死ぬるも人間の力で無い之が神技かみわざで無くて何であらうか。

再び岩の蔭に歸つて友太郎は神に謝した、爾して暫らく身を落ち着けてゐる間に、雨も風も次第に鎭まつて、夜もやうやくに明け放れた。

天は昨夜の荒れに似ず青々と晴渡つてゐる、あれ丈の雲、あれ丈の風がわづか數時間の中に何處へ收まつたゞらうかと怪しまれるけれど、友太郎に取つては却つて不安心である、日が出て後に若し泥阜でいふの要塞から望遠鏡を以て此島を見れば此身の茲にゐる事まで分るに極つてゐる、何うか其樣な事の無い中に、通り合す舟でも有れば好い。

けれど浪だけは、昨夜の餘波でだ荒れてゐた、三たび岩の上へ登つて四方を見渡しても舟らしき物は見えぬ、如何とも仕方が無い、早や東の水平線が、日の出る樣に紅くなつた、最う泥阜でいふの要塞で一切の役人が起きるのに間も有るまい、起きて若牢番が此身のゐた土牢へ朝飯を運んで行けば直ぐに此の身の逃げた事が分る、昨夜此の身が崖の上から落とされた時、途中、我知らず驚き叫んだから、牢番等は其聲を聞て怪しみ今朝は殊更早く法師の部屋から此身のへやを見廻るかも知れぬ。

囚人の逃げた場合には、据附けの大砲を放つて塞のうち總體へ警報を傳へると聞いてゐるが、今に其の警報が聞えはせぬか、今に幾艘の小舟が追人おつての乘せて此島へ漕寄せはせぬかと、樣々に氣遣ふ中彼方に見ゆつ馬耳まるせーゆの港口から一艘の帆船が出た、未だ波の荒いのに出て來る所を見れば、禁制品を取り扱ふ密輸入者の舟でも有らうか、何にしても有難い、何うか早く聲の屆く邊まで來て呉れゝばと、只ひたすら其の方を注意するに、幼い頃から水夫で育つた友太郎の目には直に分る、確にレグホーン港の方へ行く航路を取つてゐるらしい、爾すれば此島からは聲の屆かぬほど遠い所を通るのだ、何とか此舟を呼び寄せる工風は有るまいかと、空しく四あたりを見廻したが是れも天の惠みだらうか此島の一方の水際に何だか赤い物が有る、是れを取つて目印に、高く差上げて打振ればと思ひ、直樣水際へ行きて拾ひ上ぐるに水夫の冠る帽子である、多分は昨夜沈沒した漁船の漕手が被つてゐたものであらう。

之れを取つて岩の上に立ち、船の成るたけ近附いた時、打振り、打振り、救を求むる合圖をすると船はやうやくにして見認たらしい、針路を此こなたに振向けて、次第々々に近づいた、けれど浪は高し足場も惡し、船が直接に此島へ着く事の出來ぬのは分つてゐる。

間近くなつた頃を計り、友太郎は今拾つた赤い帽子を冠つたまゝ、其船の所まで泳いで行つた、高い浪を掻分けて進む手際が一ひとかどの水夫とは分つてゐる、爾して船の傍まで行くと船の方から「えらい、えらい」と聲を掛けて勵まして呉れ、綱を投げて之れにすがらせ、苦も無く救ひ上げて呉れた。

船長らしき一人は、友太郎の姿を見て「ヤ何と云ふ水夫だ、髮ならば十年に手入れした事の無い樣に伸びて髯の長さが六寸も有るとは」友太郎は尤もらしく「昨夜のあれで、丁度此處へ沈んだ漁船の船手です、使ふて下されば充分役には立ちますから、レグホーンまで載せて下さい」船長「丁度水夫を雇ひたい所だから、腕次第では期限を定めて雇ふても好いが、何だか氣味の惡い容貌だなア、第一此の髮の毛は何うしたのだ」友太郎「是れは何です、アノ、少し心願が有つて頭へ櫛や剪はさみを觸れぬ事にしてゐましたが、其れがやうやく屆いたから最う何なんどきでも刈込ます」云ふ折しも泥でいふ要塞の方に當り、大砲の音が聞こえた、見れば監獄の屋根の邊に白い煙が一團となつて立上つてゐる、確に友太郎の逃亡が分かつたのだ、船長は鋭いまなこで友太郎をジツと視詰め「エゝ泥でいふ要塞で大切な囚人が逃げたと云ふ警報だぜ、彼あそこから逃げる奴は大抵海へ來るに極ツてゐるぜ」疑ふ語調である。
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読書ざんまいよせい(080)

◎巌窟王(巖窟王)(上 005) アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香譯


画像は、Pierre-Gustave-Eugene-Staal-Edmond-Dantes より

巖窟王 : 四一 恩を返す道

實に法師の病は恐ろしいほど劇しい發作であつた、其の叫び聲は、友太郎が壓迫して牢の外へ聞えぬ樣にしたけれど、引續いて起つた總身の痙攣は友太郎の力では如何ともする事は出來なかつた。

噛〆めた齒の間から泡を吹き、眼は張裂くかと思はれる程廣がつて、兩の目の球も脱け出さうに見えたが、顏は一旦紫色になり又青くなり、手も足もイヤ身體からだ中がこと〴〵く引絞らるゝ樣に顫へて居たが、長久しくして鎭まつた。鎭まると共に死人の樣に成つて了つた。

脈もない、呼吸もない、其上に身體からだも冷えて、何うやら硬化かたまり掛けて居る容子である、友太郎は恐ろしさに堪へぬけれど、今が法師の差圖を實行する時と思ひ、まづのみを取つて、噛切て居る齒と齒との間を捻開け、瓶の藥を差圖の通りに十滴だけ埀らし込んだ。

是で生返るか知らん、返らぬか知らん、或は藥の呑ませ方が遲過はしなかつたか、早過ぎはしなかつたかと、樣々の懸念に胸を苦しめ只管ひたすら法師の顏をのみ見詰めて居るうち、大方夜の明け放れる頃となつて、極少しだけれど、青い顏に血色の還つて來る樣に見えた、引續いて、呼吸いきも眞に蟲の息ほどだけれど通ひ初めた、有難い、藥の效能があつたのだ、此分ならば遠からず全く此世の人に成るのだらうと思ふうち、早 いつも牢番が見廻りに來る刻限となつた。

殘念だけれど暫し茲を外さねば成らぬ、早や土牢の大戸を開く樣な音も聞える、全く去るに忍びぬ心を以て、友太郎は地の下の穴へ潛り込み、中から手を出して蓋の石を引込んで、成丈出入口の分らぬ樣にして置いて我 へやへ歸つた、眞に危い所であつた、歸ると間もなく、牢番が戸口から覗き込み、「ウム、別に異状はないな、では直に食事を持つて來て遣るワ」とて退いた。

食事中の友太郎の心配はたとへるに物もない、早く法師のへやへ行つて容子を見たい。

彼れが再び法師のへやへ忍んで行つたのは、二時間の後である、法師は早全く生氣に返つて居る、痛く疲れた樣子ではあるが、寢臺の上で首だけを上げ「オヽ友太郎か、お前の正直、忠實には唯感服の外はない、我が子、我が子」と打叫んだ、今まで友太郎は此法師を「父よ」「師よ」と呼んだ事は幾度いくたびだか知らぬけれど、法師は愚痴な人情には感動せぬ氣質で、絶えて「我子」といふ樣な親しい言葉は發しなかつた、今度ばかりは餘ほど感動したと見える。

友太郎「意外に早くお直り成さつて此んな嬉しい事はありません」法師「おれう、お前が此牢を出た事とのみ思つて居た」友太郎「エ何で其樣な事を」法師「イヤ昨夜直にも逃出される樣に總ての準備が出來て居るのだから、定めし逃出したゞらうと思つたのさ」友太郎は恨めしげに怒り「貴方は其れほど私を薄情とお認めでしたか」法師「イヤ薄情ではない、おれを捨て逃げ行くのが當り前だよ、多年の苦心で、やうやく脱獄の道を開き、牢の中の支柱を一つはづしさへせば、何も彼も思ふ通りに行く事と爲り、サア愈々いよ〳〵といふ間際におれが病氣に倒れたのだもの、おれに構ふてなど居られるものか、おれは今朝生氣に返り、獨りでさう思つた、アヽ友太郎は夜前の中に逃果にげおほせたな、其れにしてもおれに藥だけは呑ませて呉れたと見える、其れだからおれが此通り生返つたのだ、藥を呑ませる間だけでも踏留まつたとは、實に珍しい親切な男だと實は心で謝して居た」友太郎「師よ、師よ、貴方は情ない事を仰有おつしやる、私は今日牢番の來る時まで此 へやに居たのです」法師「許して呉れ友太郎、お前は實に、此世に二人とない高尚な心を持つて居る、其れを世の中一般の不人情な人と同視したのは惡かつた、惡かつた」法師は目に涙を湛へた。

友「惡いも何もありません、ア其樣な事を仰有おつしやらずに、氣を丈夫に持て早くくお成りなさい、其上で一緒に牢を出ますから」法師は限りなく失望の調子で「其れが出來ぬ事に成つた。おれは此前の發病の時は、生氣にかへつて唯だ總身のだるいのを感じたに止まつたが今度は半身不隨になつた[、] 右の手右の足が少しも利かぬ」友太郎「では其は」法師「イヤ直る事ではない、醫師カバニス氏が豫言した、しや第二の發作の時に命だけは助かるにしても、身體からだは必ず利かなくなると」友太郎「身體からだが利かねば私がおぶつて逃て差上げます」と少しも、躊躇も狐疑もせぬ、法師「おぶふとて、平地とは違ひ、外へ出れば海を泳いで逃げるのだ、半身不隨の人を背負ふて、何うして泳ぐ事が出來やう、イヽヤ其れは理論的にも分り切つて居る、何と云つても出來ぬ事だ、お前は水夫だ、人並外れて泳ぎに上逹して居たとしても、一町と泳がぬ中に溺れるに極つて居る、一番近い島へ迄も五哩はあるのだから、コレ友太郎、おれは自分の爲にお前を引留めては成らぬ、今まで一緒に逃げやうと云つた約束は取消すから、お前は一人で逃て呉れ、イヤ少しもおれを氣の毒とは思ふに及ばぬ、おれ愈々いよ〳〵といふ間際に此樣な事に成つたのも、畢竟は神の御心だ、神が未だおれを救ふて下さらぬのだ、おれは神の御心に逆らふては何事もせぬのだから、コレ何うかお前だけ獨りで逃る事に極めて呉れ」

眞に他事もない頼みである、友太郎は斷乎として「イヤ私は其樣な男ではありません、死んでも約束にしがみ附きます、貴方の生きて居る間は、決して貴方を捨て一人逃る樣な卑劣な事は致しません」何たるけなげな心だらう、法師は全く感極まつて泣いた「我子よ、我子よ、天がお前の樣な人生に又とない正直者をおれに授けて呉れたのだ、お前の正直に乘じて、其れでは一緒に止まつて呉れといふには忍びぬけれど、おれは此恩を返す道がある、ではお前の言葉に甘える、ナニおれは此次の第三囘の發病では死ぬるのだから、其時まで茲に居て呉れ」友太郎「居ますとも、イヤ第三囘の發病には牢の外で逢ふ樣に、貴方が少しでも能く成ればきつと救ひ出して差上げますよ」法師「兎も角も氣遣はしいにアノ陷穽おとしあなを、アノ儘に置いては番人が廊下を歩み下に空洞の樣な響きがする爲め怪しんであらためる事に成るかも知れぬ、お前 愈々いよ〳〵おれと一緒に踏留まるとすれば、一時でも彼の穴を埋潰して置かねば成らぬ」

情ない事をいふ、艱難辛苦でやうやく掘上げた穴を又潰さねば成らぬとは、しかし如何にも尤もな用心である、友太郎「潰しませう、私は一人で行つて、爾です、アノ陷穽おとしあなに成つて居る部分だけは十時間も掛かれば埋切る事が出來ますから」法師「では氣の毒だが爾して呉れ、あれが潰れねば安心して居られぬ、其の代り友太郎、アレを潰し終るまでおれの所へ來るには及ばぬから」友太郎は心得て退いたが、是より全く此日一日と其の夜一夜を穴埋に掛かつて了つた、埋るのは掘るより容易だ、一日一夜に潰し終つて又翌日の朝、其の事を知らせに梁谷のへやに行き「う少しも、足音などで怪しまれる恐れはありません」と云つた、梁谷法師は徹頭徹尾、友太郎の正直な事を見拔得て「オヽ友太郎、定めし殘念でもあらう、失望でもあらう、けれど悔んで呉れるな、おれは其の代り爾うだお前の恩返しに、何百萬と數の知れぬ寶を半分お前に分けて遣る、其の寶のある所を、直に今茲で教へて遣る」アヽ寶、寶、此法師が發狂して寶の事を云ふことは兼て聞及んで居たが發病の響きで又も元の發狂にかへつたかと、友太郎は一方ひとかたならず驚いた。
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読書ざんまいよせい(079)

南總里見八犬伝 第四 荒芽山の巻
滝澤(曲亭)馬琴・内田魯庵抄訳(004)
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図は、里見八犬伝の内 義僕額蔵(「文化遺産オンライン」サイトから)

一 庚申塚の亂闘

 犬塚犬飼犬田の三犬士が市川から六里の舟路を宮戸川へ遡つて神宮かには河原へ着き、この川中で寶刀を摺換へられた徃時を語り合ひながら行くと、

『大塚の荘官許しやうくわんとこの若檀那!』

 と呼留められた。見ると河原で綱舟貸しを渡世とする矠平やすへいといふ老人で、

荘官許しやうくわんとこでも飛んだ事でござつた。この騷動の最中。ドコへござらしやつた?』

『市川へ五六日遊びに行つて今戻つたところだが、變つた大事でも有つたかい?』

『そんなら何にも知んなさらねエか。變つた事にも何も大變な大騷動が持ち上りやした。まアわしの小屋へござらつしやい!』

 と、それから三人を自分の家へ連れて行き、信乃が旅立ちした翌る晩、蟇六夫婦が陣代簸上宮六ひがみきゆうろく属役軍木ぬるで五倍二に斬殺された事、濱路が左母二郎に誘拐されて圓塚山で殺され、追跡者の破落戸ならずものの三太郎も左母二郎も亦何者かに殺された事、大塚では宮六五倍二が蟇六夫婦を殺して立退たちのかうとしたところへ丁度額藏が歸つて来て、即時に宮六を一刀に斬棄てゝ仇を報じて自訴して出たのを、逃出した卑怯者の五倍二や宮六の弟の社平は鷺を烏と言瞞いいくるめた抗告をして額藏を主殺しとしゐひ、己れらは殺害の最中偶然行合はした側杖の災難だと偽證してマンマと額藏に殺人を塗りつけ、新陣代と腹を合はして忠義の額藏を近々處刑するといふ顛末を逐一物語つた。

 且陣代屋敷は圓塚山の殺傷をも額藏に背負はして餘類が有らうといふ見込で、こゝらあたりまでも捕吏を廻らしてあるから各〻方、別して犬塚氏は用心して大塚近くには立寄り給ふと、矠平やすへいは更に言足いひたして、幸ひ上州に由縁ゆかりの老婆があれば、と遠方ではあるが手紙を附けるから暫らく山家に忍ばれては如何にとねんご慫慂すゝめた。

 信乃を初め三人は他事無き矠平の親切を身にみて深く喜び、追ては好意に縋ることもあらうが、兎も角も大塚の容子を探り旁〻、先祖の墓参もしたいからと、矠平が頻りに危ぶんで留めるを數度あまたたび謝しつゝ暇乞ひして別れた。暫らくは三人とも思ひも掛けない意外の凶變に人事の測るべからざるを痛感し、有餘る愛を胸に湛へて無言であつた、取別けて信乃は平生快からざる間とは云へ肉親の伯母ではあり、濱路は兎角に伯母夫婦に距てられたとは云へ互に心で許し合つた言號いひなづけである、十數年来同じ屋根の下に起臥おきふししたものゝ非業の横死を耳にしてつぶつて聞かざるまねしてはゐられなかつた。伯母夫婦は多年積悪の報つた自業自得で是非もなく、濱路の薄命は不便ふびんの極みであるが前世の宿業として斷念あきらめられない事も無い。たゞ額藏の不慮の災殃わざはひ總角あげまきからの友達ではあり、前世の宿縁ある義兄弟ではあるし、強慾無慈悲の伯父伯母をも一飯の恩を徳として即時に仇を報じてくれた義理もある。義に勇んで暴言汚吏をらしたのが賊名をせられて刑架に上せられようとするを何でふ袖手傍觀しつしゆばうくわんしてゐられよう。

『犬飼氏、犬田氏』と信乃は声を潛めて二人に向ひ、

『それがしは踏ふみとゞまつて額藏をすくはうと思ふ。貴公きこうらは一先づ行徳へ歸り給へ。』

『犬塚氏、足下そこは妙な分け距てをし給ふナ。』とニ人は満然むつとして声を揃へ、

『マダ對面こそしないが、額藏は足下そこの為めにも義兄弟なら我々にも亦義兄弟。足下そこにんの手で拯はずとも我々兩人もちからさう。』と云つた。

 こゝで三人心を合はせて額藏を拯ひ出さうと相談したが、萬事の支度をする為めドコかに足溜あしだまりめねばならなかつた。犬塚は市川を立つ時から歸るツモリは無かつたので、陣代屋敷のお尋ね者となつてるを聞いては猶更大塚へは踏込めなかつた。かねてから目星を附けて置いたは、信乃が生れてからの守本尊まもりほんぞんと仰いだ瀧の川の辨才天のほこらで、先づ寺へ行って住持に會ひ、首尾よく祈願を名として岩窟いはやのほこらの参籠の許諾ゆるしを得たので、こゝを根城ねじろとして三人代る〳〵に――信乃はおもて看識みしられてるから夜陰に――大塚の里に行つては其處此處そここゝで風聞を探つた。正しく矠平やすへいの話の通りで、里人さとびと平生ひごろこゝろよからざる蟇六夫婦の非命を小氣味よく思つてゐるが、五倍ニ社平らの卑劣をも憎んで額藏の不連を氣の毒がつてゐた。が、新陣代の丁田よぼろた町之進まちのしんも宮六に劣らぬ佞奸邪智の小人で、同氣相求める五倍二社平らと心をはしてるから迂闊うつかり額藏を辯護かばひ立てする蔭言かげごとでも耳に入つたら、んだ連累まきぞへ喰はないものでも無いと里人は皆恐れてゐた。傷ましいのは、毎日身の毛の戰立よだつ拷問に掛けられてるさうで、服罪してもしなくても遠からぬうち處刑しおきになるといふ風説であつた。

 愈〻七月二日には磔刑はりつけになると聞込んだのはそれから間もなくで、三士は刑場へ亂入して額藏を救ひ出す用意に掛つた。其の前夜、三人打連れて住持を庫裡に尋ね、愈〻今晩は満願成就であるから明日あすは早朝出發すると暇乞ひして参籠中の食料と布施物を寄進した。其晩はユツクリ熟睡して、朝になると草鞋脚半わらぢきやはんの身軽な扮装いでたちで、豫て準備よういした王子權現へ奉納の弓矢と竹槍を各自めい〳〵脇狭んで白々しら〳〵けに庚申塚の刑場を指して出發した。
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読書ざんまいよせい(078)

◎巌窟王(巖窟王)(上 004)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 三一 例の物音

一椀の肉汁すうぷも幾分か友太郎の身に生氣を附けた、イヤ死んでは成らぬ、死んでは成らぬ、兎に角も壁に響くかすかな物音が誰の仕業しわざであるか其れを見定める迄は此命を保存して置かねばならぬ。

若しや此の物音が、我身の此牢から出られる發端では有るまいかと、此樣に疑ふと何と無く氣が騷いで、疲れた身體からだも動悸が打つ、ア身を大事にして分る時まで氣永く待つてゐねば成らぬ。

此時が夜の九時頃である、再び彼れは寢臺に歸つた、爾して夜の明けるまで、夢だかうつゝだか同じ物音の絶えず聞える樣な氣がした。

夜が明けて見ると物音はんでゐる、昨夜少しばかり胃に食物を入れた爲めか今までに覺えぬ程の餓を感じ、かすかに胃の底に痛みを覺えるけれど、氣持は、昨日より幾分か力が附いた樣でも有る、今若しも此望みが、今までの總ての望みと同じく又消えて了つたなら何うであらう。

其の中に牢番が朝飯を持つて來た、何しろ幾日も絶食した身が急に平生ほど喰べては病氣に成らうも知れぬからと、早自分で用心する氣の出たのは、死を祈つてゐた身の餘り得手勝手であると我身ながら極りも惡い、けれど兎も角も身は大事だ、又も肉汁すうぷだけを飮み、外に三日に一度與へて呉れる魚の肉の、骨の無い所を少しむしつて喰べた、勿論 身體からだに病氣が有ると云ふのでは無く、健康なものを無理に自分で攻め付けてゐたのだから、少し攻め方を弛めさへすれば直に力が囘復するのだ、僅ばかりの食物で、甚く不足は感ずるけれど早氣分だけ殆ど常にかへつた。

爾して又も壁に耳を當て聞いてゐると、朝の十時とも思はれる頃又彼の音が聞え初め中食ちうじきの頃に成つてんだ、けれど午後に又初まつた、何だか最初よりは其の音が荒々しい、其れとも幾分か近く成つた爲に、能く聞えるに至つたのかも知れん。

此翌日に及んで、或は典獄が職人を入れて隣の室をでも修繕してゐるのでは無からうかとの疑ひが起きた、若し爾ならば此身の助かる發端では無くて此土牢の益々堅固になる知らせと同じ事だ、仲々喜んでなどはゐられぬ。

若し是れが囚人の仕業しわざで、牢破りの企てならば、此方こつちから物音を送れば、必ず驚き恐れて止めるで有らう、大工か職人ならば其の樣な事に頓着せぬ、好し、之を先づ試して見やうと思ひ、唯だ一脚充てがはれてある腰掛臺を持つて來て、音が此の邊から聞こゑると思ふ壁の局部を、其の脚で強く叩いた、只一叩きであるけれど、向ふの音はピタと止んだ。

さては確に囚人である、此牢を破つて居るのだ、斯う思ふと無益に驚かせて止めさせたのが遺憾に堪へぬ、今に再び初まるか知らんと、耳を澄して待つてゐると、日が暮れても初まらぬ。

全く誰かに勘附かれたと悟り其の企てを中止したのだ、誠に濟まぬ事をした、何れ程か向ふは失望したであらう、イヤ向ふが中止すれば今度は此方こつちで企てゝ遣らう、向ふが何んでも此方こつちへ向つて掘つて來る所で有つたに違ひ無いから、此方こつちから向ふへ掘つて行けば好いのだらう。

斯うなると少年だけに氣み輕い、直にも着手したい樣に思つて牢の中を見廻したが牢を破る樣な道具の此中に在る筈は無い、爾して而も牢の壁はセメントで固めたもので巖の樣に成つてゐる、思ふは易いが行ふは實に難い。

けれど難い事は今初めて知る譯で無いのだからあらためて驚きはせぬ、見廻す目先に留まつたのは自分が食噐に用ふる皿で有る、之れでも道具に使へるだらうと直に取上げて床の上に落して碎き其のかけらの中で、最も鋭く見えるのを二片ふたひら取つて隱した。

若し陶噐せとものかけら泥阜でいふの要塞が破れたなら其れこそ天下の竒觀であるけれど、彼れ自身は爾は思はぬ、先づ着手は夜に入つてからと待つて居る中に、牢番が夕飯を送つて來たが、噐のこはされて居るのを見て多少機嫌を損じたけれど「噐物をこはすと減食の罰に遭ふぞ」と叱つた儘、皿のかけらは拾ひもせずに立去つて又暫くして外の皿を持つて來た。

かけらを其まゝ殘して呉れる有難さは譬へ樣が無い、食事の後で友太郎は、之を拾ひ集め、へやの隅へ隱して置いて、其上で自分の寢臺を 取退け、晝間は其影に隱れて了ふ所へ先づ傷を附け初めた。

丁度此邊が、向ふから物音の聞えた見當に當るらしい、壁のセメントを、皿のかけらで引掻いて又引掻き、かけらの角が丸くなれば又碎いて角を付けては引掻き夜の二時に及ぶまで魂氣こんき能く續けたが、熱心と云ふはえらいものだ、疲れて寢る頃には粉になつて落ちたセメントが手のひらに滿ちる程で有つた。

翌朝、食事の後に又も寢臺を動かして着手したが、昨夜着けた傷の大きさで計算して見るに、毎日十時間づつ二年の間續けたなら、人間の脱けられる大きさの穴を、凡そ三間位掘り込む事が出來さうだ、今まで幾年經つたのか、壁に附けた筋のこよみも三年ほどで止めたけれどう六年は經つて居やう、入獄の初めから若し遣つて居たなら既に牢の外まで突拔けて居るかも知れぬのにと今更殘念な感じもする。

段々と掘るに從ひ、又割合に潰れ易い所も有り、此日の中に壁に塗込んである石にまで屆いた。石の周圍まはりを掘り減らして、一度に石一個を拔き取る事が出來れば其の跡は一日掘つたよりも大きな穴と爲り、石から石へと意外に進歩が早いかも知れぬ。

掘る事三日に及んで、石一つを外し得たが、無論牢番の來る頃には其の石を元へ差込み寢臺も元の通りにして置くのだ、けれど若し是よりもでかい石に出會でつくはせば、てこで無くとも幾分か長い力の有る鐡噐で無くては可けぬ譯だが、せめては火箸でも好いから手に入らぬか知らんと、只管ひたすら肝膽たんかんを碎きつゝ今度は又 やゝ大きな石を拔き得た。

丁度此時である。數日來 んで居た例の物音が又も壁の向ふから聞えて來た、今度は石を拔いた跡の穴へ首だけ突つ込んで聞くのだから能く聞える、確に壁を引掻いて崩して居るのだ、是れで見ると一度は物音に驚いて止めたけれど、其の後別に危險らしい事が無いので又安心して取掛ッたものと見える。

何の道具で遣つて居るのか兎に角餘程進歩して居ると見え時々槌で叩く樣な音もする、此方こつちの仕事はまる兒戲まゝごとの樣なものだから向ふへ聞える筈が無いが、其れにしても早晩は穴と穴との出會でつくはす時が有らう、之を思ふと自分でも怪しい程氣が勇んで、殆ど疲れると云ふ事を知らぬ。

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南総里見八犬伝(022)

南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十一回・序など
東都 曲亭主人 編次
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【見返】
里見八犬傳第三輯
曲亭馬琴あらはす/柳川重信畫
全五册
書肆/山靑堂

【目録】
南總里見八犬傳なんさうさとみはつけんでん第三輯だいさんしふ總目録さうもくろく
巻之壹 第二十一回
額藏がくざう間諜かんてふ信乃しのまつたうす。 犬塚いぬつか懐舊くわいきう青梅あをうめる。
同巻 第二十二回
濱路はまぢひそか親族しんぞくいたむ。 糠助ぬかすけやみ其子そのこおもふ。
巻之貮 第二十三回
犬塚いぬつか遺託ゐたくうけひく。 網乾あぼしそゞろ歌曲かきよくる。
同巻 第二十四回
軍木ぬるでなかたちして荘官せうくわんく。 蟇六ひきろくいつはりて神宮かにはすなとりす。
巻之参 第二十五回
ぜうふくみて濱路はまぢ憂苦ゆうくうつたふ。 かんつげ額藏がくざう主家しゆうかかへる。
同巻 第二十六回
けんもてあそびて墨官ぼくくわん婚夕こんせきうながす。 さつしめして頑父ぐわんふ再醮さいぜうすゝむ。
巻之四 第二十七回
左母二郎さもじらうよる新人はなよめ豪奪ごうだつす。 寂寞じやくまく道人どうじんげん圓塚まるつか火定くわじやうす。
同巻 第二十八回
あたのゝしり濱路はまぢせつす。 うからみとめめて忠與たゞともふることかたる。
巻之五 第二十九回
雙玉さうぎよく相換あひかえ額藏がくざうるいる。 両敵りやうてき相遇あひあふ義奴ぎぬうらみむくふ。
同巻 第三十回
芳流閣はうりうかくせう信乃しの血戰けつせんす。 坂東ばんとう河原かはら見八けんはちゆうあらはす。

統計とうけい三十くわいその第一回だいいつくわいだい二十くわいいたりてはすで前板ぜんはん両輯りやうしふしるせり

【序文】書下し
八犬傳第三集敍 [著作堂]
門前に狂狗有れば、其酒沽れず。而れども主人はさとらず。猶且つ酒の沽れざるを恨めり。癡情是の若き者。之を衆人と謂ふ。衆人に淸濁有り。猶酒に醥與(と)醠と有るがごときなり。而してめる者は其の味淡薄。醉と雖醒易し。濁る者は其の味甘美にして。酩酊す。奚ぞ今を思ふ者之おほくして。後を懼るゝ者之寡きや。是の故に。瞿曇氏法を說て以地獄果天堂樂有りと爲(す)。是に於後を思はざる者懼る。又何ぞ耳を貴ぶ者之衆して。目を賤めざる者之寡きや。是の故に南華子物論を齋(ひと)しうして以爭訟をとゞめんと。是に於耳を貴ひ目を賤む者愧つ。然れども彼の寂滅之敎の若き。媚る者衆して。悟る者彌々寡し。むべなり。其媚る者は。口に經を誦すれども。其義を釋くこと能はず。其迷ふ者は。心に利益を祷れども。之を欲する所以を知らず。凡そ之の如き之禪兜。度すると雖其功有ること無し。昔者震旦に烏髮の善智識有り。因を推し果を辨し。衆生を誘ふに俗談を以し。之を醒すに勸懲を以す。其意精巧。其文竒絕。乃ち方便を經と爲。寓言を緯と。是を以其の美錦繍の如し。其甘きこと飴蜜の如し。蒙昧蟻附して去ること能はず。既にして有る所之煩惱。化して屎溺とり。遂に糞門を觧脫するときは。則覺ず奬善之域に到り暫時無垢之人と爲ると云ふ。亦竒ならずや。餘わかかりし自り愆て戲墨を事とす。然れども狗才馬尾を追て。於閭巷に老たり。唯其の勸懲に於。每編古人に讓らず。敢て婦幼をして奬善之域に到ら使んと欲す。嘗て著す所の八犬傳。亦其の一書なり。今其編を嗣こと三たびにして。刻まさに成らんとす。因て數行を簡端に題す。嗚呼狗兒の佛性。無を以字眼と爲。人は則媚て其尾を掉るを愛す。我は則誤て帝堯を吠んことを懼る。冀くは瞽者の爲めに。煩惱狗を獵て以一條の迷路を開かん。閱する者幸に其無根を咎ること勿れ。
文政元年九月盡日
簑笠漁隱 [馬琴][乾坤一草亭]

【序文】原文
八犬傳第三集敍 [著作堂]
門前有狂狗、其酒不沽。而主人不曉。猶且恨酒之不沽。癡情若是者。謂之衆人。衆人有淸濁。猶酒有醥與醠也。而淸者其味淡薄。雖醉易醒。濁者其味甘美。而酩酊矣。奚思今者之衆。懼後者之寡也。是故。瞿曇氏說法以爲有地獄果天堂樂。於是不思後者懼矣。又何貴耳者之衆。不賤目者之寡也。是故南華子齋物論以爲禁爭訟。於是貴耳賤目者愧矣。然若彼寂滅之敎。媚者衆。悟者彌寡矣。宜。其媚者。口誦經。而不能釋其義。其迷者。心祷利益。而不知所以欲之。凡如之之禪兜。雖度無有其功。昔者震旦有烏髮善智識。推因辨果。誘衆生以俗談。醒之以勸懲。其意精巧。其文竒絕。乃方便爲經。寓言爲緯。是以其美如錦繍。其甘如飴蜜。蒙昧蟻附不能去焉。既而所有之煩惱。化爲屎溺。遂觧脫糞門。則不覺奬善之域暫時爲無垢之人云。不亦竒乎哉。餘自少愆事戲墨。然狗才追馬尾。老於閭巷。唯於其勸懲。每編不讓古人。敢欲使婦幼到奬善之域。嘗所著八犬傳。亦其一書也。今嗣其編三而。刻且成。因題數行於簡端。嗚呼狗兒佛性。以無爲字眼。人則愛媚掉其尾。我則懼誤吠帝堯。冀爲瞽者。獵煩惱狗以開一條迷路。閱者幸勿咎其無根。
文政元年九月盡日
簑笠漁隱[馬琴][乾坤一草亭]

【口絵説明】
【口絵1】
犬山いぬやま道節どうせつ忠與たゞとも
田單燕ヲ破ル之日/火平原ヲ燎ク/阿難寂ヲ示ス之年/煙兩扞ヲ和ク
劍術の極秘は風の柳かな
犬飼いぬかひ見八けんはち信道のぶみち
【口絵2】
酢もあらばいざぬたにせん/網さかなえびとかにはの/舩で味噌すれ
荘客ひやくせう糠助ぬかすけ
大塚おほつか蟇六ひきろく
軒のつまに/あはひの貝の/片おもひ/もゝ夜つられし/雪のしたくさ
奴隷しもべ背介せすけ
簸上ひかみ宮六きうろく
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