巖窟王(上 その3)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 七三 一艘の帆前船
全く六十年間、信用を疑はれた事の無い森江商會である、縱しや今は何れほどの末路に際したりとも、その頭取たる者が同業銀行の祕密祕書と名乘り男に、弱味を見せて成るものか、森江氏が立派に言切つたのは當然である、辛くは有らうが當然である。
イヤ言切つたが、實は餘り立派では無かつた、物心覺えて數十年來、嘘一つ吐いた事の無い森江氏である。嘘一つ吐かねば成らぬ場合に迫られたのは此頃が初めてゞある、現在自分の心で、今月來月の中に到底五十萬近い支拂ひの出來ぬを知つて、それを出來る樣に言ひ切るのだもの何うして立派な聲、立派な言葉、立派な語調が出やうものぞ、言切たその言葉が、何と無う憐れげに聞えた。
けれど書記の顏には別に憐みの色が現はれたとも思はれぬ、彼は唯打解けた樣な、爾して詰問する樣な、異樣な調子で「イヤ森江さん、爾う仰有るのは當然です、誰とて貴方の地位に立てばその通りに言切りませう、けれど私へ對しては見得外聞を顧みる場合では有りますまい、茲で伺ふ事は此席限りで、外へは決して洩れませんから、何うか貴方の名譽に誓つた眞實の言葉を聞かせて下さい、全く貴方は紳士の言葉を以て、此支拂ひが無事に出來ると云ひますか」斯うまでに推し問はれては、おれでもと云ふ勇氣は無い。
森江氏は惆然と打萎れた、爾して暫らく考へた末、到底此樣な大債權者に對しては隱し果せる事は出來ぬと悟つた容子で「イヤ爾う云はれゝば私も腹藏の無い所を申さねば成りません、實に面目無い次第ですが目下私の運命は唯持船巴丸の安否一つに繋がつて居るのです、此船が無事に入港しますれば、當商店の信用も多少は囘復し、何とか支拂ひだけの融通は附きませうが、イヤ附かずとも附けねば成らぬと決心してるのです」書記「若しその船が入港せずば」森江氏「此良造の運の盡です、支拂停止しる外はありません」
書記も嘆息の樣な物を洩らした、けれど、柔かな顏を示す可き場合で無い、猶も極めて眞面目に「爾すると巴丸が貴方の最後の頼みですね」森江氏「最後の頼みです」書記「何とか力を借る友人はありませんか」森江氏「商人には取引先はありますけれど、友人はありません、信用の盡きた後で誰が助けて呉れませう」書記「さうすると此最後の頼みの絶ゆる時は」森江氏「全く此商會の破産です、森江一家の滅亡です」
書記は思ひ出した樣に「オヽ私が茲へ來る時、丁度、港へ一艘の帆前船が着きましたが、若しや貴方の云ふ巴丸ではありませんか」森江氏「ハイそれが巴丸が出て、次の又次に印度を出たジロンと云ふ船です、實は店の若い者が一人、時々屋根の物見臺に上り、入港の船を見てから私へ知らせて來るのでその船の入港も直に分りました」書記「巴丸の次の次に出た船が着いたのです、それだのに」森江氏「ハイ斯うなれば最う何も彼も打明けます、それだのに未だ巴丸が着きません」書記「事に依ると今のジロン號とやらで巴丸の消息が分りませう」森江氏は堪へ兼ねた状で、忽ち顏に兩手を當た「イヤ寧そ便りの分らぬ方が好いのです、巴丸が印度を出たのは本年二月の二日です、最う一ヶ月前に入港してゐる筈ですのに、今以て入港しません、此れは決して無事な船に在る事では無いのです、何うか私はその便りを聞度く無いと思ひます、聞かぬうちは、今に歸るか、歸るかとの見込が何時までも續いてゐますが、聞けばそれ切絶望です」何たる心細い實状だらう、聞かぬ中は猶だ見込が續いてゐるとは、併し氏の今の位置としては眞に此樣なものだらう。
氏は兩手の陰で泣いて居るらしい、書記も再び嘆息しやうとしたが、其時階段の方から異樣な足音が聞えて來た、森江氏は是れが自分の恐れてゐた便りとでも感じたのか突と立上つて「アノ物音は何だらう、何だらう」とて戸の所まで進んだが、勇氣が盡きたと見え、又 蹌踉いて元の椅子に倒れた、その中に足音は近づいた、確に六七人もくるらしい響きである、けれど割合にその進みは遲い、何だか躊躇しつゝ來るのかとも思はれる。
頓て外から此 室の戸の錠を、鍵で開かうとする音も聞えた。森江氏「ハテな此戸の鍵は孃と小暮の外に持つては居ぬが」と云ふ聲の下に、又一方の戸を同じ樣に開いた者がある、抑も此 室には店の方と、奧の方とへ雙方に戸があるのだ、先に開いたのが奧の方で、次に店の方からの戸が開いた、爾して奧の方から入つて來たのは先刻の緑孃である、孃の目には涙が一ぱいに湛へて「阿父樣、阿父樣」森江氏は此叫び聲で、何も彼も悟つた、愈々先刻入港したジロン號と云ふのが、森江氏の運の盡と云ふ悲しい便りを持つて來たのだ、森江氏「オヽ、愈々巴丸が沈沒したのか」店の方から續いて入つた小暮も尋常ならぬ聲で「何うか旦那樣氣を確にお持ち下さい」
是れぞ森江一家が沒落と事極まる時である、室の中に唯何と無う悲しい空氣が滿々た樣な氣がする。
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