巖窟王(下 その1)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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2004年 10月 28日初配布
2004年 11月 07日第02刷
2026年 6月 22日第03刷(全面的に UTF 化とルビ文字化)
【リソースサイト】
http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/ (現在は、リンク切れ)
【著作権表示】
私訳(元編集者 osawa さん)のテキスト
私訳のテキストの配付・再利用は自由です。扱いは プロジェクト杉田玄白 方式に準じます。(中略)
著作権が切れたテキスト
(中略)著作権が切れたテキストは、自由に配布していただいてかまいません。ただし誤植チェックに関してはまだ不十分です
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【テキスト中に現れる記号について】
ルビ
(例)巖窟島
〳〵, 〴〵: 踊り字
複数文字の繰り返しを意味する。
(例)思ひ〳〵=思ひ思ひ。其れ〴〵=其れ(それ)其れ(ぞれ)。
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巖窟王 : 目次
「巖窟王」下卷について
「巖窟王」上卷 梗概
下卷 主要人物
一三三 華子さん、華子さん
一三四 垣の此方と彼方
一三五 一條の約束
一三六 彼です彼です
一三七 其片割のH・N夫人
一三八 侯爵と小侯爵
一三九 半老人
一四〇 尚々書
一四一 一攫の砂
一四二 上には上が
一四三 ソツと次の室
一四四 親子の對面
一四五 被害者の資格
一四六 心得ました
一四七 空前の竒觀
一四八 公證人
一四九 婚姻政略
一五〇 運の神、福の神
一五一 愈よ土曜日
一五二 掌中から何か紙切
一五三 荊の路、針の蓆
一五四 食堂
一五五 罪の深い或品物
一五六 此伯爵は大變者
一五七 乞食
一五八 年金とは幾等
一五九 妻の室に飛で行つた
一六〇 二ケ條の宣告
一六一 濃い覆面の一婦人
一六二 證據が有ります
一六三 聞かせて下さい
一六四 紋の片割
一六五 油斷の出來ぬ強敵
一六六 警視總監から
一六七 特務巡査
一六八 僞りの動物
一六九 其記念が鮮かです
一七〇 肝腎の記憶の筋
一七一 死、生、疑
一七二 廿餘年前の彼は
一七三 盆栽架
一七四 氣味惡く聞える節
一七五 蛭峰家 二
一七六 蛭峰家 三
一七七 蛭峰家 四
一七八 蛭峰家 五
一七九 蛭峰家 六
一八〇 未熟な男で無い
一八一 言葉は明々白々
一八二 賣國奴の一項
一八三 歌牌が出來ました
一八四 一城の主の姫君
一八五 決鬪の條件
一八六 蛭峰家 七
一八七 蛭峰家 八
一八八 蛭峰家 九
一八九 蛭峰家 十
一九〇 蛭峰家 十一
一九一 蛭峰家 十二
一九二 蛭峰家 十三
一九三 其實、本統の父
一九四 最う一ヶ月ぐらゐ
一九五 曲者 一
一九六 曲者 二
一九七 曲者 三
一九八 曲者 四
一九九 一册の始末書
二〇〇 大活劇の幕開
二〇一 議場空前の光景
二〇二 總身の剛ばツた樣に
二〇三 委員會 一
二〇四 委員會 二
二〇五 委員會 三
二〇六 委員會 四
二〇七 翌日の午後
二〇八 彼の仕業
二〇九 伯爵だ伯爵だ
二一〇 母への孝行
二一一 眞に潛々と
二一二 母の情
二一三 お相手に成りませう
二一四 命と命の取換
二一五 友太郎とお露 一
二一六 友太郎とお露 二
二一七 友太郎とお露 三
二一八 友太郎とお露 四
二一九 友太郎とお露 五
二二〇 死の前夜 一
二二一 死の前夜 二
二二二 死の前夜 三
二二三 決鬪場 一
二二四 決鬪場 二
二二五 決鬪場 三
二二六 一家離散の時
二二七 父將軍は何處へ行つた
二二八 我家からの落人
二二九 將軍と伯爵 一
二三〇 將軍と伯爵 二
二三一 將軍と伯爵 三
二三二 又も蛭峰家 一
二三三 又も蛭峰家 二
二三四 又も蛭峰家 三
二三五 段倉家 一
二三六 段倉家 二
二三七 段倉家 三
二三八 段倉家 四
二三九 段倉家 五
二四〇 段倉家 六
二四一 落人 一
二四二 落人 二
二四三 落人 三
二四四 落人 四
二四五 誰の身の祕密が
二四六 華子 一
二四七 華子 二
二四八 華子 三
二四九 華子 四
二五〇 段倉の笑顏 一
二五一 段倉の笑顏 二
二五二 大尉と伯爵 一
二五三 大尉と伯爵 二
二五四 大尉と伯爵 三
二五五 十月五日まで
二五六 獅子の穴 一
二五七 獅子の穴 二
二五八 死刑臺か毒藥か
二五九 裁判 一
二六〇 裁判 二
二六一 裁判 三
二六二 裁判 四
二六三 裁判 五
二六四 裁判 六
二六五 斷末魔 一
二六六 斷末魔 二
二六七 斷末魔 三
二六八 斷末魔 四
二六九 結末 一
二七〇 結末 二
二七一 結末 三
二七二 結末 四
二七三 結末 五
二七四 結末 六
二七五 結末 七
二七六 結末 八
二七七 結末 九
二七八 結末 十
二七九 結末 十一
二八〇 大團圓
巖窟王 : 「巖窟王」下卷について
主人公 巖窟島伯爵の復讐は、これよりいよ〳〵大アレキサンデル・デュマの眞に驚嘆すべき構想のもとに着々と實現されて行きます。
蛭峰の祕密を握る春路田辨太郎の其後。又蛭峰夫人の毒物學への異樣な興味は今後如何なる運命を捲起すことでせう。
眞太郎との戀のため、毛脛安雄との婚約に惱む華子に、野々内彈正が示した彼の父毛脛將軍怪死の眞相。又着々と進行する野西將軍への復讐に、遂に武之助と決鬪を餘儀なくされた伯爵に對し、初めて一日として忘れ得なかつた昔懷しい『友さん』の呼び名を叫んで命乞する露子夫人の切々胸を打つ言葉は、讀者諸君をどんなにか深い感動にみちびくことでせう!
そして眞に此の作者の天馬空を行く想像力と、千變萬化を極むる構想力。それに譯者涙香の流るゝ如き麗筆の魅力には思はず驚嘆の叫びを擧げられることでせう。是非共下卷を御期待下さい。
巖窟王 : 「巖窟王」上卷 梗概
まだナポレオンがエルバ島に幽閉されてゐた一八一五年二月二十四日、土地の有力者森江氏の持船巴丸が永い航海を終へてマルセーユに入港した。この船の船長代理をつとめてゐた團友太郎は、懷しい父親、そして美しい婚約者お露の待つ故國の土を胸躍る思ひで踏んだのである。
友太郎の歸りを待ちわびるお露にかねて戀してゐた彼女の從兄の次郎は、友太郎に船長の地位をうばはれた古參の船員段倉と共に彼の幸福が妬ましくてならなかつた。その夜、段倉は水夫逹の集まる酒場に次郎を誘ひ、二人共謀して友太郎がエルバ島からナポレオンの密書を携えて來てゐるとの密告の手紙を書いて投凾した。
マルセーユの若い檢事補蛭峰は皇帝からの密書が彼の父野々内彈正宛になつてゐたのでひどく驚き、父を助ける爲と自からの出世の爲、その手紙を燒き捨てさせ、婚約祝ひの席から逮捕した友太郎を永久に陽の目の見られぬデイフ要塞に幽閉してしまつた。
岩の牢獄に絶望の幾年かゞ過去つた或る日のことである。彼は獄の奧から聞えるかすかな物音に氣がついた。これは同じく無實の罪で幽閉された梁谷法師の破獄の音であつた。かくて彼は伊國獨立運動の先驅者であり博學多才な法師と相知ることゝなり、二人は共力して新たに破獄の計畫を進めることゝなつた。
二人の親交は日に日に深まつて行つた。法師は彼の持てる智識のすべてを愛する友太郎に授けることに全力を盡すことゝなつた。しかしこの破獄の計畫も遂に法師の持病の再發によつて中止の止むなきに至つたが、この悲しむべき出來事の中に見出した友太郎の眞情に、法師は初めてモンテ・クリスト島にかくされた財寶の祕密を打明け、再度の發病に死んで行つた。悲しみに打ちのめされた友太郎は、フト思ひ着いたまゝ法師の死體の身代りとなつて袋に入り、獄卒の手で海中深く投込まれた。しかし幸ひにも附近を航行する密輸入船に救はれ、かくて待望のモンテ・クリスト島に上陸する日が廻り來たつた。
法師の云ひ殘した祕密は眞實であつた。彼は遂に島の洞窟の中に巨億の財寶を見出したのである。思ひもよらなぬ幸運の惠まれ、今は何者をも恐れるもののなくなつた彼は、この永い年月自分を苦しめた人々への復讐を固く心に誓つたのである。
かくて自由の身となつた彼は先づ、僧侶に身を變えて、毛太郎次の營む旅宿に現はれ、彼の口から父の死の眞相、そして次郎がお露と結婚し今は時めく伯爵野西將軍となつてゐること、又段倉が巴里の金融界を一手に握る大銀行家となつてゐることなどを聞き出した。そして昔し深い恩を受けた森江氏が零落し破産に瀕してゐるのを知り、これを助け、大なる計畫の準備のため東方の旅へと姿を消した。
又して數年の月日流れ去つた。この時、突如としてローマの社交界に巖窟島伯と名乘る一紳士が現はれた。彼れこそ友太郎の復讐の準備成つた再生の姿であつた。彼は巧妙な計畫に依り野西將軍の一人息子武之助の命の恩人となる機會を掴んだ。そして武之助の感謝の招きに應じ遂に待望の舞臺巴里にその姿を現はすことゝなつた。息子の紹介に初めて相見る伯爵とお露。お露は流石に伯爵の中にかつての婚約者であり一日として忘れ得なかつた友太郎の面影を見出して蒼白となつた。
巴里到着第一日にして野西家の深い信任を得た伯爵は、その持てる無限の財力を自在に用ひて第二日目には舊敵段倉一家とも親交を結ぶことが出來た。そしてその三日目にはかつてのマルセーユの若き檢事補、今は時めく巴里の檢事總長蛭峰家との交際が初められた。果して彼はこれ等の交際の中に何を計畫してゐることであらう。
復讐の機は刻々と近づきつゝある!
巖窟王 : 下卷 主要人物
巖窟島伯爵(モンテ・クリスト伯)
本名 團友太郎(エドモン・ダンテス)數竒の運命とたゝかいぬく本篇の主人公。
野西將軍(モルセール將軍)舊名 次郎(フエルナン)
スペイン村の漁師出。後西班牙戰爭の功あつて野西子爵となる。
野西夫人お露(メルセデス)
かつての友太郎の許婚者、友太郎の入獄後次郎と結婚す。
野西 武之助(アルベール・ド・モルセール)
次郎とお露の間に生れた一人息子。若き子爵。
段倉 喜平次(ダングラール)
かつては森江氏持船巴丸の會計主任。後次郎と共に西班牙戰爭で巨利を博し大銀行家[と?]なる。
蛭峰重輔(ヴイルフオール)
かつてはマルセーユに於ける檢事補。後累進して現在檢事總長。
野々内彈正(ノワルテイエ)
蛭峰の實父、かつてはナポレオン黨の有力な鬪士[。]現在は全身不隨となり華子の看護を受けてゐる。
華子(・アランテイーヌ)
蛭峰夫妻の娘。森江眞太郎。と相思の間にあり、毛脛安雄との縁談に惱んでゐる。
森江眞太郎(マクシミリヤン・モレル)
友太郎の舊主森江氏の長男にて陸軍大尉。
毛脛安雄(フランツ・デビネー)
かつてナポレオン黨に暗殺せられた毛脛將軍(ケネル將軍)の一子。若き男爵。
鞆繪姫(エデ)
ギリシヤ、ヤミナ城主 有井宗隣の娘。奴隸に賣られてゐたのを巖窟島伯爵により買戻さる。
皮春永太郎(アンドレ・カ・ルカンテイ)本名 辨太郎(ベネデツト)
蛭峰若き日の不義の子。巖窟島伯爵の復讐の手段に使はれ、この名稱をつけらる。
春田路良助(ベルツツチオ)
コルシカ生れにて密輸入等を業としてゐた。辨太郎の育ての親、後巖窟島伯爵に救はれ家扶となる。
粕場毛太郎次(カドルツス)
かつては友太郎の友人、後旅宿尾長屋の主人となつてゐたが、殺人其他の罪を犯し幾度か入獄す。
巖窟王 : 一三三 華子さん、華子さん
大なる仕事の爲め幾年幾月、身を練り膽を鍛へ、石心鐡腸の人と爲つた巖窟島伯爵の如きが、纔に森江良造の死際に團友太郎の事を云つたと聞いて、落る涙を止め得ぬとは、其人其境遇に似合しからぬ愚痴と云ふものではあるまいか。
然し愚痴と云へば愚痴でもあらう、併し人情は總て愚痴である、愚痴を離れては人情は無い、假令へ伯爵は石心鐡腸であるにしても、實は人情の凝り固まツた人である、善く悲しみ善く怒り善く愁ひ善く喜べばこそ、大なる復讐をも企てるのだ、人情に離れたでは無く、人情と同化したのだ。一意唯だ人情に驅られて、止むに止まれぬ事になツたと云ふ可きだ、殊に伯爵の今の身は此世に一人も友が無く身寄も無く、單に森江良造をのみ後にも先にも無い只一人の恩人と思ひ、無情極まる此世界に其一家をのみ唯情の有る温かい家と思ひ、絶えて人を慕ひ又は人を懷かしむと云ふ事の無い心の底に、只一點の懷かしさを此一族に寄せて居るのだもの、此一族の其主人其恩人が、死ぬる今果に誰も覺えぬ我が本名を呼んで呉れたと聞いて人一倍情に迫り、堪へ難く感じたのが無理か、決して無理では無い當然である。
けれど茲で泣いてはならぬ、若しも此人が何か團友太郎に縁故でも有る身かと疑はれては大變である、落る涙を漸くに紛らせて「イヤ父を失ふた悲しみは私も能く知つて居ます、ツイ貴方のお話しで其事を思ひ出しました」と言ふた、成程其爲に泣いたのかと、一同は合點したが、誠に涙ほど人と人との間を打解けさせる者は無い、仁吉も夫人も眞太郎も此伯爵が一方ならず情に脆い人だと見て、更に同情を深くして、是からは一入打明けた話と爲り、猶も樣樣の方面から彼の富村銀行の事をも聞いた、けれど伯爵の返事は一つである、唯だ銀行として取引するのみゆゑ其他の事は何も知らぬと云ふに在ツた。爾して伯爵の最後の言葉は「イヤ此世の事は何も彼も時ですから。氣永く正直に待つ中には、又合點の行く時も來ませう」と云ふのであツた。
何うやら謎らしくも聞えるけれど誰も其の謎を解き得なんだ、斯て伯爵の立去ツた後に、三人は自分々々の感じを語り出て比べたが、仁吉は「イヤ那の伯爵は眞の善人で、餘ほど苦勞した方と見える」と云ひ、夫人は「何だか彼の方の聲は昔聞いた事でも有る樣に、時々私の腹の底へまで浸透りました」と云ひ、眞太郎は「何うも此家の阿父さんを知つて居た人の樣にも思はれる」と云ツた。
* * * * * * *
此家を出て伯爵は、此家と背中合せの見當に當ツて居るオノレ街に馬車を抂げた、茲には最と立派な蛭峰の邸がある、併し是には入らず、唯だ其の門を眺め「アヽ茲だ、明日の午後、彼の外出すた時間に尋ねて來やう」と云ひ其の儘立去ツた、何故に主人の留守を計ツて尋ねるのだ、多分は其の夫人にのみ逢ふ可き用事でも有るのだらう。
其翌日の午後である、此家の裏庭と生垣一重を隔てた荒地に、鍬を持つた一人の男が立つて居る、是れは森江眞太郎なのだ、抑も此荒地は昨日伯爵が見た通り江馬仁吉の屋敷の横手から續いて居るので、實は市區改正の豫定線路に當る爲め廢ツた樣な状態を存するのだ、茲へ何故眞太郎が來て居るのか、彼は昨日も此の荒地から出て伯爵を迎へたが草花をでも作る爲かと見れば爾でも無い、鍬を杖についた儘頻りに蛭峰の裏庭を窺き、時々に溜息を洩らして居る、若し戀の爲でゞも無ければ陸軍大尉たる人には不似合の所業である、頓て彼は堪へ兼た状で更に生垣に寄添ひ、葉や枝の聊か疎な所に顏を當て又餘念も無く窺き初めた、暫くすると、蛭峰家の裏庭の一方に在る隱居所らしい離れ家から年頃十八九と見える一女子が現はれた、眞太郎は此姿を見て、嬉しさに何事をも忘れた樣に、持てる鍬をまで投捨てたが、女子は物思はしげに徐々と歩みつゝ、眞太郎の目の前に在る茂つた槐樹の木蔭に立留つた「華子さん、華子さん」と眞太郎は低い聲で而かも熱心に呼んだ、華子とは、我先妻の娘であると昨日蛭峰が伯爵に語つたのが即ち此の女子なんだ、呼ばれた聲に華子は痛く驚いて顏を上げ「又貴方は茲へ」と云ひ、更らに「毎日茲で話などして居ては蛭峰夫人に叱られますよ」蛭峰夫人と云つて阿母さんと云はぬのは、餘り親しむ情の無い繼母繼子の間が分る[、]眞太郎「でも彼の事が氣になつて、早く樣子を聞かなければ」華子は逃て去らうともせぬ。却つて一歩生垣に寄り同じ聲を潛めて「益々六かしい事になりましたの」
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