南総里見八犬伝(024)

南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十三回
東都 曲亭主人 編次

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【挿絵説明】「糠助ぬかすけ懺悔さんげ物語ものかたり窮客きうするたびゝと稚兒をさなこいだきてなげんとす」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)から

犬塚いぬつか義遺託ぎゐたくうけひ
網乾あぼし謾歌曲そゞろにかきよく

 犬塚信乃戍孝いぬつかしのもりたかは、伯母夫大塚蟇六をばむこおほつかひきろくいへ移居うつりすまひしより、嫌忌けんきうちに日をわたり、年を送れば、里人さとひとなどには、親しくも物いはず。たゞ彼百姓糠助かのひやくせうぬかすけのみ、舊馴染ふるきなじみと、伯母も許して、信乃がゆゑに疑はず。その性愚直さがぐちよくなればなり。げにこの老人おきなは、信乃が爲に、言葉敵ことばかたきになるものならねど、おろかなる隨僞まゝいつはらず、よろづに實意まごゝろあるものなれば、信乃はその木ぼくとつの、じんにちかきを愛しつゝ、その門邊かどべよぎる日は、たちながら安否あんひを問ひ、はじめにかはらず交參まじらひけり。かゝりし程に、糠助が女房にようばうは、去歲こぞの秋身まかりつ。長き病著いたつきなりけるに、きはめ寒家まづしきくらしにあなれば、はて藥價くすりのしろ續かず。このとき信乃は糠助に、圓金一兩こばんいちりやう贈與おくりあたへて、藥料やくりやうたすけにしたり。しかれども、蟇六龜篠等ひきろくかめさゝらはこれをしらず。されば信乃が今にして、これらの貯祿たくはへあるよしは、父番作ばんさくのこせる也。番作貧まづしかりしかど、身まかりしのちに見れば、鎧櫃よろひびつの底に、圓金こばん十兩あり。「このかね三ッが一ッもて、わがほうむりの事にみてよ。そのひそかに腰につけて、身の爲また友の爲に、肝要かんえうの事あらば、用ひよ」、と書遺かきのこしたり。亦是後またこれのちのちまでを、おもひはかりし親の恩、いたゞかねも湯とわかん、淚と共に袖にかくして、龜篠等にはこれをつげず、「貯祿たくはへありや」、ととはれしとき、そのかね三兩をいだして、棺槨墓碑くわんくわくぼひの料としつ。又父の三十五日をひけるに、また一兩を伯母に遞與わたして、法筵酒食はうえんしゆしよくの料とせり。蟇六も龜篠も、これらの金にはをりて、「なほ有りや」、ととひしとき、「これのみ也」とこたへしかば、「さならん」、と思ひつゝ、そののちとはざりけり。「かくてこの七八年、伯母夫婦と同居すなれば、彼番作田かのばんさくたは名のみにて、わが爲にはえならず。われには舊衣ふるきをのみせて、不自由ならずといふ事なけれど、美味美服をねがはざれば、親の遣財いざいを減らすことなし。しかれどもかの糠助は、わが犬、與四郞よしらうが事につきて、うれひともにせし日もありけり。その艱難かんなんを救はずは、我只彼われたゞかれそむく也」、とこゝろひとつに思ひとりて、ひそかに金をおくりしかば、糠助夫婦は、感淚かんるいとゞめあへず、只管ひたすら信乃を伏拜ふしおがみて、その信義を賞嘆し、藥劑くすりもとめて用ひしかども、定業じやうごうなればにや、その妻はなくなりにき。
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読書ざんまいよせい(089)

巖窟王(下 その2)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

写真は、モンテ・クリスト島(Wikipedia から)

巖窟王 : 一五一 愈よ土曜日

愈々土曜日の夕、晩餐會の時は來た、場所は樣々の因縁の有る吹上小路廿八番邸、嗚呼此會を眞に巖窟島伯爵の大仕事の序開じよびらきとすれば、何の樣に始まツて何の樣に終るのだらう。

昔ドアンチン公爵は國王 路易るい十四世の目障りになると云ふが爲に一夜の中に大木の林を切平げ芝生の庭に造り替へて了ツたとの話がある、古來土木の工事で是れほど早く行つた仕事は無い、併し伯爵が此廿八番邸に手入を加へた早さも殆ど其れに匹敵する、門口かどぐちから玄關から庭木から室室の造作まで唯だ三日許りの間に悉く取替て誰が見ても今までの廿八番邸とは認め得ぬ程にした、書齋も出來た、盆栽室も出來た、球突場たまつきばも出來た、凡そ贅澤な紳士の別莊として一點の非難を加へる事が無い、併し唯だ二ヶ所だけ少しも手を着けぬ所がある。其れは昔H・N男爵夫人と云ふ素性の知れぬ未亡人が寢ねまとして居た一室から裏庭へ降りる階段までの總體と、蛭峰の手で私生兒を埋めたと云ふ裏庭の其の部分とである、イヤ實は此二ヶ所へも手を着けた、着けたけれども少し變更を加へぬのだ、昔 戸帳とばりの掛ツて居た所へ、其通りの戸帳とばりを掛け、昔芝草の茂ツて居た所へ其通りの芝草を植るなど、若し昔此 寢間ねまと此庭とを知つて居た人が今此の所へ來たならば、其頃の事を思ひ出さずには居られぬ樣に拵へたのだ。

ついでに記して置くが、此等の仕事一切を任せられて監督したのは家扶かふの春田路良助である、彼れは伯爵から渡された明細の差圖書を以て三日前に茲へ來た、其れだから此前々日に侯爵皮春博人と小侯爵皮春永太郎とがエリシー街の伯爵の本邸で父子の對面を遂げた時も彼れは伯爵の許に居なんだ、今以て彼の父子の事は知らぬ、のみならず顏さへも見た事が無いのだ、其れから此別邸へ來て以來、伯爵の差圖書と首ツ引をする樣にして綿密に監督し、到々豫定の時間通りに豫定の仕事を仕上げて其の他晩餐に就ての一切の準備をも調へ了ツて爾して伯爵のお出を待つて居た。

午後の五時半に伯爵は茲へ來た、爾して彼を從へて一切の設備を見廻ツた、實に彼れが伯爵に對するは犬が飼主に對するよりは猶ほ忠順である、伯爵の見廻る間、若しや茲が惡いとか彼所かしこ不可いけぬとか小言を云はれはせぬかと眞に戰々兢々の状であツた、やがて總體を見終ツて伯爵が「アヽ能く出來た」と下した一語に彼れは初めて重荷を取卸された樣に、ホツト安心の息をいた。

六時近くなると玄關に荒々しい馬の足音が聞えた、伯爵は直に出迎へて見ると來客の一人森江大尉である、大尉は打解けた言葉で「伯爵、先日貴方に戴いた此馬は天下の逸物ですよ、今來る道で、一時間に六哩を走ると云ふ段倉男爵夫婦の馬車を追拔き、續いて官房長出部嶺の馬をも拔きました、出部嶺は總理大臣が急使に用ふると云ふ名馬を借てゐますけれど此馬の樣な輕足は出ないのです」と滿面に嬉しさを湛へて居る、そもそも此馬に就ても一場の竒談がある、餘事ながら是もついでゆゑに茲に記して置くが、此時より一週間ほど前に催された競馬倶樂部の秋期競爭に誰の持馬とも知れぬ馬が出た、番組には「鬼小僧」と云ふ名が附いて居たけれど、何處の牧場で産し、何の樣な快速力を持つて居るか巴里中の博勞にさへ一人も知る者が無い、見物は勿論審判者までも怪しんで居るうち、愈々出場と爲ると、十六七の男裝した女では無いかと疑はれる華奢な騎手が之に乘り、名高い駿馬のみの一列を追拔いて、金牌を初めとして、當日第一等の名譽ある大賞品を占斷した、滿場の驚きは云ふ迄も無かツたが、見物の中に一人、最も尊敬せられる某貴婦人が居て、深く贔屓の心をおこされ特に「鬼小僧」の騎手に逢ひ度いと所望された、けれど騎手は馬と共に掻消す如く姿を隱し、更に尋ねるよしも無かツた、所が其夜、其貴婦人がやしきへ歸られて見ると、彼の馬の得た金牌が、呈上品として其許に屆いて居た、實に合點の行かぬ爾して面白い事柄なので、其後此話が上流社會の一の佳話かわとして口から口に傳はツた、けれど翌日になると大抵の人が此事を目下名高い巖窟島伯爵の好謔いたづらだらうと言囃す事になつた、伯爵で無くて誰が此樣な名馬を持ち得た賞牌を惜氣も無く人に與へなどするものか、殊に一人、確に伯爵の仕業しわざと見破り得た者がある、其れは外でも無い彼の野西武之助なのだ、彼れは初めて鬼小僧の名を聞いた時、忽ち羅馬の山賊を思ひおこし伯爵の馬と氣附き、爾して更に華奢な騎手のりての顏を見て其身が戒食節かあにばるの終後の夜に美人と思ふて馬車に同乘し、胸のあたりへ短銃ぴすとるを差し附けられた其の少年である事を知つたのだ、此の一條の事件の爲にも伯爵の名が高く爲つたは勿論であるが更に本統の事を云へば此の武之助の推量さへも未だ事實を盡しては居ぬ、實は巖窟島伯爵が自分の大仕事の運動の爲に駿足の馬を幾頭も要するので兼て鬼小僧へ馬の周旋を命じて有る、即ち此馬も彼が伯爵へ遣ひ物として寄越したのだが、丁度競馬の前日に此の巴里へ着いた爲め、彼れは幸ひに其の駿足な事を事實の上に證明して伯爵のお目に留まらせて樣と思ひ、假りに「鬼小僧」と名を附けて競馬に出したのだ、伯爵自身は其時までも知らなんだのだ、併し此樣にして得たものを喜んで我物としては鬼小僧の出過ぎた振舞を奬勵する樣にも當るから、金牌は此馬の勝利を喜ばれた貴婦人に贈り、馬は兼て駿足の得難いことを嘆じて居る森江大尉に遣つて了ツた。

其れは扨置さておき、森江の嬉しげに云ふ言葉を聞き伯爵は、「フム其れでは出部嶺や、段倉夫妻も程無く來ますね、シタガ蛭峰氏には遭ひませんでしたか」と問返した。
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読書ざんまいよせい(088)

巖窟王(下 その1)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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2004年 10月 28日初配布
2004年 11月 07日第02刷
2026年 6月 22日第03刷(全面的に UTF 化とルビ文字化)

【リソースサイト】
http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/ (現在は、リンク切れ)

【著作権表示】
私訳(元編集者 osawa さん)のテキスト
 私訳のテキストの配付・再利用は自由です。扱いは プロジェクト杉田玄白 方式に準じます。(中略)
著作権が切れたテキスト
(中略)著作権が切れたテキストは、自由に配布していただいてかまいません。ただし誤植チェックに関してはまだ不十分です
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【テキスト中に現れる記号について】

ルビ
(例)巖窟島いわやじま

〳〵, 〴〵: 踊り字
複数文字の繰り返しを意味する。
(例)思ひ〳〵=思ひ思ひ。其れ〴〵=其れ(それ)其れ(ぞれ)。

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巖窟王 : 目次

「巖窟王」下卷について
「巖窟王」上卷 梗概
下卷 主要人物
一三三 華子さん、華子さん
一三四 垣の此方と彼方
一三五 一條の約束
一三六 彼です彼です
一三七 其片割のH・N夫人
一三八 侯爵と小侯爵
一三九 半老人
一四〇 尚々書
一四一 一攫の砂
一四二 上には上が
一四三 ソツと次の室
一四四 親子の對面
一四五 被害者の資格
一四六 心得ました
一四七 空前の竒觀
一四八 公證人
一四九 婚姻政略
一五〇 運の神、福の神
一五一 愈よ土曜日
一五二 掌中から何か紙切
一五三 荊の路、針の蓆
一五四 食堂
一五五 罪の深い或品物
一五六 此伯爵は大變者
一五七 乞食
一五八 年金とは幾等
一五九 妻の室に飛で行つた
一六〇 二ケ條の宣告
一六一 濃い覆面の一婦人
一六二 證據が有ります
一六三 聞かせて下さい
一六四 紋の片割
一六五 油斷の出來ぬ強敵
一六六 警視總監から
一六七 特務巡査
一六八 僞りの動物
一六九 其記念が鮮かです
一七〇 肝腎の記憶の筋
一七一 死、生、疑
一七二 廿餘年前の彼は
一七三 盆栽架
一七四 氣味惡く聞える節
一七五 蛭峰家 二
一七六 蛭峰家 三
一七七 蛭峰家 四
一七八 蛭峰家 五
一七九 蛭峰家 六
一八〇 未熟な男で無い
一八一 言葉は明々白々
一八二 賣國奴の一項
一八三 歌牌が出來ました
一八四 一城の主の姫君
一八五 決鬪の條件
一八六 蛭峰家 七
一八七 蛭峰家 八
一八八 蛭峰家 九
一八九 蛭峰家 十
一九〇 蛭峰家 十一
一九一 蛭峰家 十二
一九二 蛭峰家 十三
一九三 其實、本統の父
一九四 最う一ヶ月ぐらゐ
一九五 曲者 一
一九六 曲者 二
一九七 曲者 三
一九八 曲者 四
一九九 一册の始末書
二〇〇 大活劇の幕開
二〇一 議場空前の光景
二〇二 總身の剛ばツた樣に
二〇三 委員會 一
二〇四 委員會 二
二〇五 委員會 三
二〇六 委員會 四
二〇七 翌日の午後
二〇八 彼の仕業
二〇九 伯爵だ伯爵だ
二一〇 母への孝行
二一一 眞に潛々と
二一二 母の情
二一三 お相手に成りませう
二一四 命と命の取換
二一五 友太郎とお露 一
二一六 友太郎とお露 二
二一七 友太郎とお露 三
二一八 友太郎とお露 四
二一九 友太郎とお露 五
二二〇 死の前夜 一
二二一 死の前夜 二
二二二 死の前夜 三
二二三 決鬪場 一
二二四 決鬪場 二
二二五 決鬪場 三
二二六 一家離散の時
二二七 父將軍は何處へ行つた
二二八 我家からの落人
二二九 將軍と伯爵 一
二三〇 將軍と伯爵 二
二三一 將軍と伯爵 三
二三二 又も蛭峰家 一
二三三 又も蛭峰家 二
二三四 又も蛭峰家 三
二三五 段倉家 一
二三六 段倉家 二
二三七 段倉家 三
二三八 段倉家 四
二三九 段倉家 五
二四〇 段倉家 六
二四一 落人 一
二四二 落人 二
二四三 落人 三
二四四 落人 四
二四五 誰の身の祕密が
二四六 華子 一
二四七 華子 二
二四八 華子 三
二四九 華子 四
二五〇 段倉の笑顏 一
二五一 段倉の笑顏 二
二五二 大尉と伯爵 一
二五三 大尉と伯爵 二
二五四 大尉と伯爵 三
二五五 十月五日まで
二五六 獅子の穴 一
二五七 獅子の穴 二
二五八 死刑臺か毒藥か
二五九 裁判 一
二六〇 裁判 二
二六一 裁判 三
二六二 裁判 四
二六三 裁判 五
二六四 裁判 六
二六五 斷末魔 一
二六六 斷末魔 二
二六七 斷末魔 三
二六八 斷末魔 四
二六九 結末 一
二七〇 結末 二
二七一 結末 三
二七二 結末 四
二七三 結末 五
二七四 結末 六
二七五 結末 七
二七六 結末 八
二七七 結末 九
二七八 結末 十
二七九 結末 十一
二八〇 大團圓

巖窟王 : 「巖窟王」下卷について

主人公 巖窟島いわやじま伯爵の復讐は、これよりいよ〳〵大アレキサンデル・デュマの眞に驚嘆すべき構想のもとに着々と實現されて行きます。

蛭峰の祕密を握る春路田辨太郎の其後。又蛭峰夫人の毒物學への異樣な興味は今後如何なる運命を捲起すことでせう。

眞太郎との戀のため、毛脛けすね安雄との婚約に惱む華子に、野々内彈正が示した彼の父毛脛將軍怪死の眞相。又着々と進行する野西將軍への復讐に、遂に武之助と決鬪を餘儀なくされた伯爵に對し、初めて一日として忘れ得なかつた昔懷しい『友さん』の呼び名を叫んで命乞する露子夫人の切々胸を打つ言葉は、讀者諸君をどんなにか深い感動にみちびくことでせう!

そして眞に此の作者の天馬空を行く想像力と、千變萬化を極むる構想力。それに譯者涙香の流るゝ如き麗筆の魅力には思はず驚嘆の叫びを擧げられることでせう。是非共下卷を御期待下さい。

巖窟王 : 「巖窟王」上卷 梗概

まだナポレオンがエルバ島に幽閉されてゐた一八一五年二月二十四日、土地の有力者森江氏の持船巴丸が永い航海を終へてマルセーユに入港した。この船の船長代理をつとめてゐた團友太郎は、懷しい父親、そして美しい婚約者お露の待つ故國の土を胸躍る思ひで踏んだのである。

友太郎の歸りを待ちわびるお露にかねて戀してゐた彼女の從兄の次郎は、友太郎に船長の地位をうばはれた古參の船員段倉と共に彼の幸福が妬ましくてならなかつた。その夜、段倉は水夫逹の集まる酒場に次郎を誘ひ、二人共謀して友太郎がエルバ島からナポレオンの密書を携えて來てゐるとの密告の手紙を書いて投凾した。

マルセーユの若い檢事補蛭峰は皇帝からの密書が彼の父野々内彈正宛になつてゐたのでひどく驚き、父を助ける爲と自からの出世の爲、その手紙を燒き捨てさせ、婚約祝ひの席から逮捕した友太郎を永久に陽の目の見られぬデイフ要塞に幽閉してしまつた。

岩の牢獄に絶望の幾年かゞ過去つた或る日のことである。彼は獄の奧から聞えるかすかな物音に氣がついた。これは同じく無實の罪で幽閉された梁谷法師の破獄の音であつた。かくて彼は伊國獨立運動の先驅者であり博學多才な法師と相知ることゝなり、二人は共力して新たに破獄の計畫を進めることゝなつた。

二人の親交は日に日に深まつて行つた。法師は彼の持てる智識のすべてを愛する友太郎に授けることに全力を盡すことゝなつた。しかしこの破獄の計畫も遂に法師の持病の再發によつて中止の止むなきに至つたが、この悲しむべき出來事の中に見出した友太郎の眞情に、法師は初めてモンテ・クリスト島にかくされた財寶の祕密を打明け、再度の發病に死んで行つた。悲しみに打ちのめされた友太郎は、フト思ひ着いたまゝ法師の死體の身代りとなつて袋に入り、獄卒の手で海中深く投込まれた。しかし幸ひにも附近を航行する密輸入船に救はれ、かくて待望のモンテ・クリスト島に上陸する日が廻り來たつた。

法師の云ひ殘した祕密は眞實であつた。彼は遂に島の洞窟の中に巨億の財寶を見出したのである。思ひもよらなぬ幸運の惠まれ、今は何者をも恐れるもののなくなつた彼は、この永い年月自分を苦しめた人々への復讐を固く心に誓つたのである。

かくて自由の身となつた彼は先づ、僧侶に身を變えて、毛太郎次の營む旅宿に現はれ、彼の口から父の死の眞相、そして次郎がお露と結婚し今は時めく伯爵野西將軍となつてゐること、又段倉が巴里の金融界を一手に握る大銀行家となつてゐることなどを聞き出した。そして昔し深い恩を受けた森江氏が零落し破産に瀕してゐるのを知り、これを助け、大なる計畫の準備のため東方の旅へと姿を消した。

又して數年の月日流れ去つた。この時、突如としてローマの社交界に巖窟島伯と名乘る一紳士が現はれた。彼れこそ友太郎の復讐の準備成つた再生の姿であつた。彼は巧妙な計畫に依り野西將軍の一人息子武之助の命の恩人となる機會を掴んだ。そして武之助の感謝の招きに應じ遂に待望の舞臺巴里にその姿を現はすことゝなつた。息子の紹介に初めて相見る伯爵とお露。お露は流石に伯爵の中にかつての婚約者であり一日として忘れ得なかつた友太郎の面影を見出して蒼白となつた。

巴里到着第一日にして野西家の深い信任を得た伯爵は、その持てる無限の財力を自在に用ひて第二日目には舊敵段倉一家とも親交を結ぶことが出來た。そしてその三日目にはかつてのマルセーユの若き檢事補、今は時めく巴里の檢事總長蛭峰家との交際が初められた。果して彼はこれ等の交際の中に何を計畫してゐることであらう。

復讐の機は刻々と近づきつゝある!

巖窟王 : 下卷 主要人物

巖窟島いはやじま伯爵(モンテ・クリスト伯)
  本名 團友太郎(エドモン・ダンテス)數竒の運命とたゝかいぬく本篇の主人公。
野西のにし將軍(モルセール將軍)舊名 次郎(フエルナン)
  スペイン村の漁師出。後西班牙戰爭の功あつて野西子爵となる。
野西夫人お露(メルセデス)
  かつての友太郎の許婚者、友太郎の入獄後次郎と結婚す。
野西 武之助たけのすけ(アルベール・ド・モルセール)
  次郎とお露の間に生れた一人息子。若き子爵。
段倉だんぐら 喜平次きへいじ(ダングラール)
  かつては森江氏持船巴丸の會計主任。後次郎と共に西班牙戰爭で巨利を博し大銀行家[と?]なる。
蛭峰ひるみね重輔しげすけ(ヴイルフオール)
  かつてはマルセーユに於ける檢事補。後累進して現在檢事總長。
野々内ののうち彈正だんじやう(ノワルテイエ)
  蛭峰の實父、かつてはナポレオン黨の有力な鬪士[。]現在は全身不隨となり華子の看護を受けてゐる。
華子(・アランテイーヌ)
  蛭峰夫妻の娘。森江眞太郎。と相思の間にあり、毛脛安雄との縁談に惱んでゐる。
森江もりえ眞太郎(マクシミリヤン・モレル)
  友太郎の舊主森江氏の長男にて陸軍大尉。
毛脛けすね安雄(フランツ・デビネー)
  かつてナポレオン黨に暗殺せられた毛脛將軍(ケネル將軍)の一子。若き男爵。
鞆繪姫ともゑひめ(エデ)
  ギリシヤ、ヤミナ城主 有井宗隣アリ・テブランの娘。奴隸に賣られてゐたのを巖窟島伯爵により買戻さる。
皮春かわはる永太郎(アンドレ・カ・ルカンテイ)本名 辨太郎(ベネデツト)
  蛭峰若き日の不義の子。巖窟島伯爵の復讐の手段に使はれ、この名稱をつけらる。
春田路はるたじ良助(ベルツツチオ)
  コルシカ生れにて密輸入等を業としてゐた。辨太郎の育ての親、後巖窟島伯爵に救はれ家扶となる。
粕場かすば毛太郎次けたろうじ(カドルツス)
  かつては友太郎の友人、後旅宿尾長屋の主人となつてゐたが、殺人其他の罪を犯し幾度か入獄す。

巖窟王 : 一三三 華子さん、華子さん

大なる仕事の爲め幾年幾月、身を練り膽を鍛へ、石心鐡腸の人と爲つた巖窟島伯爵の如きが、わづかに森江良造の死際に團友太郎の事を云つたと聞いて、落る涙を止め得ぬとは、其人其境遇に似合しからぬ愚痴と云ふものではあるまいか。

然し愚痴と云へば愚痴でもあらう、併し人情は總て愚痴である、愚痴を離れては人情は無い、假令たとへ伯爵は石心鐡腸であるにしても、實は人情の凝り固まツた人である、善く悲しみ善く怒り善く愁ひ善く喜べばこそ、大なる復讐をも企てるのだ、人情に離れたでは無く、人情と同化したのだ。一意唯だ人情に驅られて、止むに止まれぬ事になツたと云ふ可きだ、殊に伯爵の今の身は此世に一人も友が無く身寄も無く、單に森江良造をのみ後にも先にも無い只一人の恩人と思ひ、無情極まる此世界に其一家をのみ唯情の有る温かい家と思ひ、絶えて人を慕ひ又は人を懷かしむと云ふ事の無い心の底に、只一點の懷かしさを此一族に寄せて居るのだもの、此一族の其主人其恩人が、死ぬる今果いまはに誰も覺えぬ我が本名を呼んで呉れたと聞いて人一倍情に迫り、堪へ難く感じたのが無理か、決して無理では無い當然である。

けれど茲で泣いてはならぬ、若しも此人が何か團友太郎に縁故でも有る身かと疑はれては大變である、落る涙を漸くに紛らせて「イヤ父を失ふた悲しみは私も能く知つて居ます、ツイ貴方のお話しで其事を思ひ出しました」と言ふた、成程其爲に泣いたのかと、一同は合點したが、誠に涙ほど人と人との間を打解けさせる者は無い、仁吉も夫人も眞太郎も此伯爵が一方ひとかたならず情にもろい人だと見て、更に同情を深くして、是からは一入ひとしほ打明けた話と爲り、猶も樣樣の方面から彼の富村銀行の事をも聞いた、けれど伯爵の返事は一つである、唯だ銀行として取引するのみゆゑ其他の事は何も知らぬと云ふに在ツた。爾して伯爵の最後の言葉は「イヤ此世の事は何も彼も時ですから。氣永く正直に待つ中には、又合點の行く時も來ませう」と云ふのであツた。

何うやら謎らしくも聞えるけれど誰も其の謎を解き得なんだ、斯て伯爵の立去ツた後に、三人は自分々々の感じを語り出て比べたが、仁吉は「イヤの伯爵は眞の善人で、餘ほど苦勞した方と見える」と云ひ、夫人は「何だか彼の方の聲は昔聞いた事でも有る樣に、時々私の腹の底へまで浸透りました」と云ひ、眞太郎は「何うも此家の阿父おとうさんを知つて居た人の樣にも思はれる」と云ツた。

* * * * * * *

此家を出て伯爵は、此家と背中合せの見當に當ツて居るオノレ街に馬車をげた、茲にはと立派な蛭峰の邸がある、併し是には入らず、唯だ其の門を眺め「アヽ茲だ、明日の午後、彼の外出すた時間に尋ねて來やう」と云ひ其の儘立去ツた、何故に主人の留守を計ツて尋ねるのだ、多分は其の夫人にのみ逢ふ可き用事でも有るのだらう。

其翌日の午後である、此家の裏庭と生垣一重を隔てた荒地に、鍬を持つた一人の男が立つて居る、是れは森江眞太郎なのだ、そもそも此荒地は昨日伯爵が見た通り江馬仁吉の屋敷の横手から續いて居るので、實は市區改正の豫定線路に當る爲め廢ツた樣な状態ありさまを存するのだ、茲へ何故眞太郎が來て居るのか、彼は昨日も此の荒地から出て伯爵を迎へたが草花をでも作る爲かと見れば爾でも無い、鍬を杖についた儘頻りに蛭峰の裏庭をのぞき、時々に溜息を洩らして居る、若し戀の爲でゞも無ければ陸軍大尉たる人には不似合の所業しわざである、やがて彼は堪へ兼た状で更に生垣に寄添ひ、葉や枝の聊かまばらな所に顏を當て又餘念も無くのぞき初めた、暫くすると、蛭峰家の裏庭の一方に在る隱居所らしい離れ家から年頃十八九と見える一女子が現はれた、眞太郎は此姿を見て、嬉しさに何事をも忘れた樣に、持てる鍬をまで投捨てたが、女子は物思はしげに徐々しづ〳〵と歩みつゝ、眞太郎の目の前に在る茂つた槐樹ゑんじゆの木蔭に立留つた「華子さん、華子さん」と眞太郎は低い聲で而かも熱心に呼んだ、華子とは、我先妻の娘であると昨日蛭峰が伯爵に語つたのが即ち此の女子なんだ、呼ばれた聲に華子は痛く驚いて顏を上げ「又貴方は茲へ」と云ひ、更らに「毎日茲で話などして居ては蛭峰夫人に叱られますよ」蛭峰夫人と云つて阿母おかあさんと云はぬのは、餘り親しむ情の無い繼まゝはゝ繼子まゝこの間が分る[、]眞太郎「でも彼の事が氣になつて、早く樣子を聞かなければ」華子は逃て去らうともせぬ。却つて一歩ひとあし生垣に寄り同じ聲を潛めて「益々六かしい事になりましたの」
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南総里見八犬伝(023)

南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十二回
東都 曲亭主人 編次
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濱路竊はまぢひそか親族しんぞくいた
糠助病ぬかすけやみ其子そのこおも

【挿絵説明】「豐嶋としま一族いちぞく管領家くわんれいけ三將さんせう池袋いけふくろたゝかふ」「煉馬平左衞門倍盛」「植杉刑部」「千葉ノ介より胤」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)より

 再說大塚蟇六さてもおほつかひきろくは、信乃しのむかへとりてより、女房にようばう龜篠共侶かめさゝもろともに、いと愛々あい〳〵しく管待もてなすものから、只外聞たゞぐわいぶんを飾るのみ、こゝろにやいばぐ事多かり。そをいかにぞとたづぬれば、蟇六既に里人等さとひとらあざむきて、番作田ばんさくた橫領わうれうし、これはしも信乃が爲に、一毫いちがうも用ひざれども、いまだ村雨むらさめ大刀たちとらず。「これを手に入れてのち彼少年かのせうねん結果おしかたつけん。さるときは寶刀みたちによりて、わが身いよ〳〵發跡なりいづべく、又濱路には佳壻招よきむことりて、わが身ます〳〵老樂おいらくなるべし。しかはあれども、おもふに信乃が面魂つらたましひ凡庸よのつねわらべならぬに、はやりて事を爲損しそんぜば、毛をふききずを求め、はて原價もとねにしかたからん。只眞たゞまめやか款待もてなして、由斷ゆだんさするにますことなし」、と腹裡はらのうち深念しあんしつ、龜篠にのみ機密をつげて、斯謀かうはかるにぞありける。かゝれば信乃があやうきこと、石の下に生成うみな雞卵たまごたきゝ巢籠すこも雛禽ひなとりことならねども、親の先見遺訓せんけんいくんあり、くはうるに才器勇悍さいきゆうかん牛若うしわかをもあざむくべく、正行まさつらにもおとらざる、稀有けうの少年なりければ、そのぜうをよく知りて、片晌かたときも心をゆるさず、舊宅もとのいへにありし日より、伯母をばの宿所に移りし日より、くだん寶刀みたちは腰に離さず、るときはかたへにとりき、すときはまくらによせて、まもる事等閑なほざりならねば、偸ぬすひとひまあることなし。主客しゆかくいきほひかくの如くにして、一とせあまり送りつゝ、奸智かんちたけたる蟇六なれども、「なまじいに手をかけて、見咎みとがめられなば年來としごろ日ごろ、心盡こゝろつくしもあはきえて、わがうへならん」、とあやぶ*む程に、ぬすむこゝろの稍懈やゝおこたりて、今茲ことし又思ふやう、「村雨むらさめ大刀たち、手にいるとも、信乃が安穩あんおんでこゝにをらば、それを管領家くわんれいけまゐらするによしなし。よしや彼寶刀かのみたち、今わがものにならずとも、ぬしも物もこゝにあり。わが物にあらずとも、わがいへにあるなれば、つひにはわがものとなるべし。只管ひたすらこゝろはやればこそ、その謀施はかりことほどこしかたく、よろづ不便ふべんにして、なか〳〵にあやうし。女兒むすめ濱路は尙稚なほをさなきに、今よりして十年待とゝせまつとも、そのことの遲きにあらず。遠くはかれば長く利あり。短慮たんりよは功をなしかたし」、とやうやくに思ひかへしつ、龜篠かめさゝにも、そのこゝろを得させて、しばらぬすむの手をおさめ、たゞをり〳〵額藏がくざうに、信乃が意中ゐちうさぐらすれども、これはた便りを得たるにもあらず。さればまた、額藏は、くだんの事を、主夫婦あるじふうふとはるゝごとに、うヘには信乃をそしれども、害になるべき事をばいはず、そのとはれし事、こたへしよしを、ひそかつげざることのなければ、信乃はます〳〵由斷ゆだんせず、これもうへには伯母をばを慕ひて、小厮こものにひとしく使つかはれけり。
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読書ざんまいよせい(087)

巖窟王(上 その11)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一二一 神の言葉

「オヽ兄嫂あによめ阿淺おあさも、蛭峰の私生兒辨太郎も、何か意外の災難にでも逢つたのか」と伯爵は靜かに問ふた。

春田路は殆ど泣き聲に爲り「お聞下さい、私は暮内法師に救はれると、直にコルしか[コルシカの誤り]へ立寄りましたが、家は燒けて了ツて焦げた地面のみ殘り、其處へ村人が集まツて、一個の死骸を棺に收めて居るのです、此れが阿淺おあさの死骸です、村人どもは私の顏を見て『お前が一週間早く歸つたならば此樣な事も無かツたらうに』と口々に悔みました、能く聞きますと、辨太郎が他の惡友逹と共に阿淺おあさを縛り、臍繰金を出せと云ひ、樣々に責て責殺し、爾してわづかばかりの品物や有金などを引攫ひきさらつて、跡へ火を附けて逃亡したと云ふのです、其惡友逹は直に捕はれ、白状して刑に服しましたが、辨太郎だけは其切り何處へ行つたか今以て分らぬのです、私は泣く〳〵阿淺おあさを葬ツて爾して貴方の許へ上ツたのですが、此んな恐ろしい事が又と世に在りませうか、私は思ひました『是れも全く蛭峰を殺した報である、蛭峰の私生兒が父のかたきを私の兄嫂あによめに返したのだ』と、ハイ斯う思ひ出してから私は自分の過越し方が恐ろしく、何うしても人間は善で無くては成らぬと感じ、時々心で蛭峰の靈に向ひ謝罪の祈りを捧げて居ました、其れだのに今夜丁度、其の蛭峰を殺した場所へ立歸る事になツたとは能々の事ですよ、或は斯うして私の立つて居る足の下にも、蛭峰の死骸が埋まつて居るかも知れません、オヽ伯爵、早く私を此家から連出して下さい、茲に落着いて居る心は致しません、逃る事の出來るものなら逃て了ひ度いと思ひます」

眞に逃も去らん程の状である、伯爵は少しも騷がぬ「コレ春田路、其れは其方の迷信と云ふものである、能く聞け、此世の事は善も惡も、罪も報も、總て神の配劑に出づるのだ、果して蛭峰は其まゝ死んだか、或は生返て猶だ此世にながらへて居るか、其れは分らぬけれど、彼は短劍で刺される丈の罪が有つたので神が其方の手を以て刺させたのだらう、能くは知らぬが蛭峰と云ふ人は仲々の惡人と云ふ事だから、其方に刺された丈で果して罪が亡びたか、イヤ恐らくは未だ亡びまい、亡びぬとすれば、他日又誰かの手を以て更に相當の罰を與へるかも知れぬ、何も其方が彼を恐れ此家を恐れるには及ばぬ事、神は惡は惡を以て打ち、毒を以て毒を攻める、更に彼の辨太郎の如きも、實に珍しい惡人では有るが、必ず神の手で、他の珍しい惡人を懲すが爲に用ひられる時が有らう、今は行方が分らずとも、愈々神が彼を必要とする場合には、彼は何處からか現はれて來るかも知れぬ、此邊の理を能く考へれば別に恐れおのゝく事も有るまい、おれなども不肖ながら惡を懲して善を勸める神の道具に使はれゝば、其れほど有難い事は無いと信じて居る」

何とやら伯爵の言葉は、神の言葉の樣である、辨太郎の未だ生て居て、今何處かに居る事から、他日何の樣な場合に現はれるかまで知つてゐる樣に聞える、春田路は深く感じて「成ほど私の樣な者でも、蛭峰の惡を罰する道具に使はれたのなら、今更恐ろしくは有ません」と答へた、けれど猶ほ充分には恐れが消えぬ樣である。

伯爵は之より更に此家の總體を見廻して造作や修繕の事に付き春田路に詳しく差し圖を與へた末、エリシー街の本邸へ引上げた、此時は夜の十時過であつた。

* * * *

此日は伯爵が巴里へ着いた第一日で有るのに、朝の十時半から夜の十時後まで、間斷無しに働いて殆ど他人が一週間も掛かる程の仕事をしている、實に驚く可き根氣である、翌日からは何れほどの仕事をするだらう、併し未だ伯爵の此日の用事は之に盡きぬ、本邸へ着くと共に、又も其の造作を見廻つた上、多少の差し圖を發し、更に黒奴 亞黎ありーを呼び「今から一時間の後、此家へ鞆繪姫の着くのは既に知らせて置いたが、姫の居間、寢間ともにおれの差圖した通りに出來てゐるのか」と問ひ亞黎ありーが點うなづくを待ち更に「其れから今まで姫に付いてゐる女中の外に、巴里の女を三人、侍女こしもととして雇ふて置く樣に命じたが、其れも好いのか」亞黎ありーは又 點頭うなづいた、伯爵「巴里の女が若しも色々の事を聞きたがり、姫の寢る時間を妨げては成らぬから其樣な事の無い樣に、爾して又希臘から來てゐる女中と巴里の女中と、決して雜談などせぬ樣に總て其方が取締れ」亞黎ありーは一々呑み込んで退いた。
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読書ざんまいよせい(086)

巖窟王(上 その10)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一〇一 土牢と云ふ言葉に

さきの日死刑臺から逃れ去つた其の日比野が、早斯かる使に來るとは、安雄も意外に感じたが伯爵も驚いた容子である「オヽ日比野、貴樣だつたか」問ふ聲は伯爵の口を衝いて出た、日比野は返辭もせずにたゞちに伯爵の前に平伏し、伯爵の兩手を取つて之に接吻するは、命を救はれた其恩を謝する積りで有るのだらう、あたかも犬が主人の手をなめる樣な状である。

伯爵は機嫌能く「オヽ未だおれを忘れぬと見えるな、あ起きよ、問ふ事が有るのだから」命に應じて起き直りつゝ「私が救はれて未だ一週間にも爲りません、其れだのに貴方の恩を忘れては何としませう、生涯決して忘れません」伯爵「生涯といへば永いことだぞ、爾う約束せぬが無難だらう」日比野は「イヽエ、生涯が幾等永くても忘れません」といひ掛けたが、傍に見知らぬ安雄の居るのを見、忽ち口をふさいだ、伯爵「ナニ日比野、此方はおれの友人だ、少しも恐れるには及ばぬ、先づ野西子爵がどうして鬼小僧に捕はれたか其の次第から聞かせてくれ」

日比野は安心した状で「いつも祭禮の時には同じ手段で、必ず若い紳士を捕へますよ、鬼小僧の妾テレサといふのが珍しい美人だものですから馬車で市中を練歩き、是はと思ふ紳士に向ひ、時々容子有りげに顏を見せるのです、野西子爵とやらも全く其手に掛かツたのです」伯爵も安雄も此打開けた返辭に、思はず笑を催した、安雄「鬼小僧が、自分の妾に、其樣な事を許すのか」日比野「許しますとも、自分が傍に居て、一々此紳士彼の紳士と差圖をして居るのです」安雄「では彼の馬車に鬼小僧も乘つて居たのか、何だ女ばかりの乘合と見えたのに」日比野「馬車の中に女はテレサ一人です、其外皆少年の男子です、身體が小さいから彼の樣な服を着けて假面めんを被れば女の姿に見えるのです」安雄「シテ鬼小僧は何處に居た」日比野「矢張り假面めんを被ツて御者を勤めて居たのです」

さては彼の馬車の御者が鬼小僧自身で有ツたのかと、安雄は身が震ふほどに驚いた、爾とも知らず其日人の眼の下で、其人の妾と樣々の合圖を爲し、非常な艷福を得た如く思ふとは、實におぞましさの骨頂と云ふものだ、安雄が斯く思ふて呆れる間に[、] 伯爵「シタが、其れから何うして野西武之助君を捕へた」日比野「其れから手紙の遣取と爲り、今夜 祭禮まつりの終る刻限にポンテシノの寺の庭で忍び逢ふ事と極つたのです、爾して其約束の通り野西子爵が來ましたからテレサの弟が同じ風をして子爵の手を取り、寺の庭へ引入れて、小聲で子爵に向ひ、山の麓に私の別莊が有るから其處まで行きませう、其積りで馬車を待たせて有ますが其別莊ならば番人の外に誰も居ませんから緩々ゆる〳〵とお話も出來ますからと斯う云ひました、子爵は喜んで、自分が引立る樣に手を取つてテレサの弟を、寺の背後うしろに居た馬車に乘せ、自分も後から乘つて急がせたのです」安雄「では何の苦も無く一直線に鬼小僧の居る山のほらへ進み込んだのだな」日比野「ハイさうさせる計略で有ましたが、子爵が馬車の中で、樣々に戲れて、テレサの弟も本性を隱して居る事が出來ぬ程に成りましたから、忽ち用意の短銃ぴすとるを取出し、子爵の顏に差附けて、ふざけるなと怒鳴り附けて自分の顏を現はしました、私は其馬車の御者を勤めて居ましたから、篤と其時の状を見ましたが、子爵は餘ほど驚いた容子でした、暫しが程は言葉も出ずに唯だ相手の顏を見詰て居ましたが「アヽ分ツた、笑談ぜうだんにしては餘り殘酷過る、全く誘拐かどはかしたぐひだ」斯う叫んで、直に短銃ぴすとるを奪ひ取りに掛りましたが、此時は早や馬車の左右の窓から鬼小僧の屈強の子分が四人まで飛び込んで子爵の兩手をしかと捕へた後で有ましたから無益でした、直に子爵は最早や抵抗はせぬのだから、貴樣等の望みを聞かせよと云ひました、手下等は斯樣な事には慣れて居ますから、返辭もせずに其儘繩を掛やうと致しましたが、其れには及ばぬ何の樣にでも貴樣等の意に從ふからと云ひ、是から四人に捕はれたまゝ終に山塞さんさいへつれて行かれたのです」伯爵「爾して今は」日比野「山塞さんさいの土牢へ入れられて居るのです」土牢と云ふ言葉に伯爵は殆ど顏色を變へた「其れでは直におれが行つて — 」安雄「伯爵、私も一緒に」伯爵「サア行きませう」眞に取る物も取敢ず立上つた、安雄「馬車の用意でもさせねばけますまい」伯爵「イイエ私は夜の夜半よなかでも、直に外出の出來る樣、必ず馬車の用意をさせて有ます、法律を逃れる人でも、私ほどは用意は屆いて居ぬでせう」眞に其通りである、一つの呼鈴よびりんを鳴らして下に降れば、早や馬車は入口へ廻つて居る、一分の猶豫も無く安雄と共に之に乘り、猶ほ日比野をも其 背後うしろに乘せサンサバシヤンの山洞さんどうを指し矢を射る如くに走らせた。
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読書ざんまいよせい(085)

巖窟王(上 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 八六 心の誓ひ

昔話に聞く龍宮とても此室より以上の事はないだらう、安雄は見惚みとれて恍然うつとりとして居たが、主人の謝辭の樣に「イヤ來客の目を隱して案内すると云ふ事は、此上もない無禮ですが、全く止むを得ざるに出た事は幾重にもお察しを願ひ度いのです、茲は私の隱れ家で、入口の祕密が人に分れば今迄の樣に世間から隱遁してゐる事が出來難くなります、其れに私は一年の中、三百日ほど他へ出て居ますゆゑ、留守の間に自分の隱居所を荒される樣な事があるも辛く、其れや是れやで、此の巖窟いはやの入口は、誰も目を開いて來るのを許さぬと、斯う云ふ事に兼て定めてあるのです、特に貴方の爲に其定めを破る譯にも行きませず、失禮とは知りながら他の人同樣に取扱ひました」何故にさう迄も用心して特に安雄を呼入れたのだらう、其れほど入口の祕密を知られるのが怖ければ招き入れぬが好さ相なものであるのに、併し安雄の心に斯樣な疑ひなど起る暇はない、何しろ多く見た事のない、此龍宮を見る運に廻り合せたのが嬉しい「イヤ目を隱されるは愚、しや手足を縛られても、此樣な仙窟へ招かれるのは榮譽です」

主人は先づ安雄に座を與へて、自分も腰を卸した、安雄は何の上に自分の腰が乘つて居るか殆ど疑はしい程に思ふ、椅子の面が柔かで、何だか空中に浮んでゐる樣な感じがする、主人「斯うお目に掛つて互に話を仕ますのに、何か呼ぶ可き名がなくては、拍子がよくありません、何うか私を呼ぶには新八とお云ひ下さい、私は船乘新八と世間から呼ばれてゐます、貴方を何と呼びませう」敢て本名を聞かうと云ふではない、實の所本名を聞かずとも既に知つてゐるのだらう、安雄はさうとも思はぬから本名まで明かし度くない「イヤ貴方が昔話で有名な船乘新八ならば私も其昔話に在る荒田院あらだゐんと呼ばれませう」主人は全く打解けた調子と爲り「では荒田院あらだゐんさん、不意の事とは別に用意とてもありませんけれど、晩餐を差上げる爲にお招き申した譯ですから、先づ食堂へ御案内致しませう」とて室の左の方へ振向いた、安雄も同じく其方へ振向いて見ると壁の所に絹の埀幕が掛つてゐる、是れが食堂への入口であらう、「何うぞ」と安雄は唯だ簡單に答へ主人に續いて立上つた。

埀幕を開くと短い廊下がある、今の室も此廊下も、組細工もざいくの天上からヴエニスの製と思はれる綺麗な硝燈らんぷが下つてゐて、明るきこと晝の如しである、廊下を通り盡すと愈々食堂である、廣さは三十人も會食する事が出來るだらうか、其眞中に唯數人を圍ませる丈の卓子ていぶるを置いてある。

室中の立派な景状ありさまは、云ふ迄もない、イヤ言ひ樣がない、室の四隅に、名手の彫刻したと思はれる大理石の天使えんじえるの立像があつておの〳〵其手にかごを提げてゐる、爾して其 かごには地中海を中にして幾百方里の國々で特に名産と稱される果實の類が累々と金宇形すゞなりに盛上げて有る、何うして斯うも取集める事が出來るだらう。

前の室と此室と、何方どつちが贅澤の度が優るだらう、此室にゐる間は無論此室の方が優つた樣に思はれる、安をは全く目をこすつて夢ではないかと見廻した、間もなく一人の給仕が現はれた、是れは眞黒な黒奴である、給仕の仕方は驚く可きほど能く心得てゐて殊に主人の目配ばせを言葉よりも能く合點する状は、何うして斯うも仕込んだものかと怪しまれる、安雄は話の端緒がないから、先づ此給仕の事を賞め「何うしてお手に入れましたか珍しい給仕ですねえ、行儀が正しくて、爾して靜かで」主人は微笑して「靜かな筈です、舌を拔いて有るのですもの」安雄「エヽ舌を」安雄は驚かぬ譯に行かぬ。

主人「彼は御覽の通りのヌビア人ですがチウニス國王の後宮へ、庶人の許されてゐる區域よりも近く歩み入つた罰として非常な刑を受けたのです、最初の日、舌を拔き、次の日は手、又次は足と、段々切取つて最後に首を切ると、斯う云ふ慘酷な言ひ渡しで有りましたが、其時私が行合はせ、其事を聞きましたから、餘り慘酷な仕方と思ひ、國王へライフル銃一挺と外に東洋製の鋭利なかたな一個を差し出し彼の命を買取つたのです、其れが丁度、舌を拔かれた翌日で有つた爲め、彼は舌だけを失ツて助かりましたが、外の黒奴と違ひ、彼は國へ歸り度いなどの心は露ほども起しません、何うかして私の船が其國の邊へ近づきますと、彼は恐れに身を震はしてゐるのです、憐れむ可き者では有りますが、私を全く命の親と心得、犬よりも忠實に勤めてゐます、何しろ舌のないのは、使ふに不便な樣では有りますけれど、此方こちらの云ふ言葉は能く聞き分けますから、差し支へはありません、其れに主人が何の樣な祕密を見聞きしましても、他言すると云ふ事が出來ませんから、今では私も傍近く使ふ僕は、舌のない者に限ると云ふ程に思つてゐます」

チウニスの國に舌拔きの刑があるとは兼て聞いてゐる、舌を拔かれて人爲の唖と爲つて生てゐる者のある事も亦聞いてゐる、けれど、其樣な者に接するのは今初めてゞある、暫しがほど安雄は食氣もなくなる程に感じたが、併し天然の空腹に勝つ事は出來ぬ、其れに舌無男の運んで來る物が一として珍味ならざるはなしと云ふ程ゆゑ、間もなく、何事にも構はずに食ひ初めた。

食ふのみでなく、聞き度い事も多少はある。安雄「貴方は其樣にして常に各國を廻つて居ますか」主人「實は心に誓つた事があツて其爲に年中旅から旅へ渡ツて居ます」極めて機嫌能く答へたけれど「心の誓ひ」と云つた時にはまなこの底に凄い樣な光が見えた、安雄「貴方は餘ほどの艱難にお遭ひ成さツたと見えますね」主人はハツと驚いた状で、暫し安雄の顏を見詰めた末「何で其樣にお思ひです」安雄「イヤ、貴方の顏色、貴方の聲、まなこ、物言ひ、爾して貴方の暮し方まで總て一方ひとかたならぬ履歴を表してゐる樣に思はれます」主人は半ば打消す樣に「イヽエ世に私ほど幸福な者はありませんよ、全く氣儘勝手と云ふ言葉を其儘です、行きたい所へ行き、仕度い事をして人間の裁判が間違つてゐると思へば其の被告が山賊でも海賊でも救ひ出して刑罰を逃れさせて遣り、人の知らぬ樣な手段を以て最も確實に善を勸め惡を懲し、云はゞ天にも代ツた積りで正しい裁判を行ツて行くのです、しや貴方にしても、一度ひとたび私の境涯を味はへば再び還ツて人間の社會へ歸り度くないと思ひます、何か人間の社會へ還ツて是非仕遂げ度いと云ふ目的でもなければ — 」安雄「假令たとへば復讐とでも云ふ樣な」主人「エ、エ」復讐との言葉に主人は再び安雄の顏を見詰めた。
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読書ざんまいよせい(084)

巖窟王(上 その8)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 七三 一艘の帆前船

全く六十年間、信用を疑はれた事の無い森江商會である、しや今は何れほどの末路に際したりとも、その頭取たる者が同業銀行の祕密祕書と名乘り男に、弱味を見せて成るものか、森江氏が立派に言切つたのは當然である、辛くは有らうが當然である。

イヤ言切つたが、實は餘り立派では無かつた、物心覺えて數十年來、嘘一ついた事の無い森江氏である。嘘一つかねば成らぬ場合に迫られたのは此頃が初めてゞある、現在自分の心で、今月來月の中に到底五十萬近い支拂ひの出來ぬを知つて、それを出來る樣に言ひ切るのだもの何うして立派な聲、立派な言葉、立派な語調が出やうものぞ、言切たその言葉が、何と無う憐れげに聞えた。

けれど書記の顏には別に憐みの色が現はれたとも思はれぬ、彼は唯打解けた樣な、爾して詰問する樣な、異樣な調子で「イヤ森江さん、爾う仰有おつしやるのは當然です、誰とて貴方の地位に立てばその通りに言切りませう、けれど私へ對しては見得外聞を顧みる場合では有りますまい、茲で伺ふ事は此席限りで、外へは決して洩れませんから、何うか貴方の名譽に誓つた眞實の言葉を聞かせて下さい、全く貴方は紳士の言葉を以て、此支拂ひが無事に出來ると云ひますか」斯うまでに推し問はれては、おれでもと云ふ勇氣は無い。

森江氏は惆然てうぜんと打萎れた、爾して暫らく考へた末、到底此樣な大債權者に對しては隱しおほせる事は出來ぬと悟つた容子で「イヤう云はれゝば私も腹藏の無い所を申さねば成りません、實に面目無い次第ですが目下私の運命は唯持船巴丸の安否一つに繋がつて居るのです、此船が無事に入港しますれば、當商店の信用も多少は囘復し、何とか支拂ひだけの融通は附きませうが、イヤ附かずとも附けねば成らぬと決心してるのです」書記「若しその船が入港せずば」森江氏「此良造の運の盡です、支拂停止しる外はありません」

書記も嘆息の樣な物を洩らした、けれど、柔かな顏を示す可き場合で無い、猶も極めて眞面目に「爾すると巴丸が貴方の最後の頼みですね」森江氏「最後の頼みです」書記「何とか力を借る友人はありませんか」森江氏「商人には取引先はありますけれど、友人はありません、信用の盡きた後で誰が助けて呉れませう」書記「さうすると此最後の頼みの絶ゆる時は」森江氏「全く此商會の破産です、森江一家の滅亡です」

書記は思ひ出した樣に「オヽ私が茲へ來る時、丁度、港へ一艘の帆前船が着きましたが、若しや貴方の云ふ巴丸ではありませんか」森江氏「ハイそれが巴丸が出て、次の又次に印度を出たジロンと云ふ船です、實は店の若い者が一人、時々屋根の物見臺に上り、入港の船を見てから私へ知らせて來るのでその船の入港も直に分りました」書記「巴丸の次の次に出た船が着いたのです、それだのに」森江氏「ハイ斯うなれば最う何も彼も打明けます、それだのに未だ巴丸が着きません」書記「事に依ると今のジロン號とやらで巴丸の消息が分りませう」森江氏は堪へ兼ねた状で、忽ち顏に兩手を當た「イヤいつそ便りの分らぬ方が好いのです、巴丸が印度を出たのは本年二月の二日です、最う一ヶ月前に入港してゐる筈ですのに、今以て入港しません、此れは決して無事な船に在る事では無いのです、何うか私はその便りを聞度く無いと思ひます、聞かぬうちは、今に歸るか、歸るかとの見込が何時までも續いてゐますが、聞けばそれ切絶望です」何たる心細い實状だらう、聞かぬ中は猶だ見込が續いてゐるとは、併し氏の今の位置としては眞に此樣なものだらう。

氏は兩手の陰で泣いて居るらしい、書記も再び嘆息しやうとしたが、其時階段の方から異樣な足音が聞えて來た、森江氏は是れが自分の恐れてゐた便りとでも感じたのかと立上つて「アノ物音は何だらう、何だらう」とて戸の所まで進んだが、勇氣が盡きたと見え、又 蹌踉よろめいて元の椅子に倒れた、その中に足音は近づいた、確に六七人もくるらしい響きである、けれど割合にその進みは遲い、何だか躊躇しつゝ來るのかとも思はれる。

やがて外から此 へやの戸の錠を、鍵で開かうとする音も聞えた。森江氏「ハテな此戸の鍵は孃と小暮の外に持つては居ぬが」と云ふ聲のもとに、又一方の戸を同じ樣に開いた者がある、そもそも此 へやには店の方と、奧の方とへ雙方さうはうに戸があるのだ、先に開いたのが奧の方で、次に店の方からの戸が開いた、爾して奧の方から入つて來たのは先刻の緑孃である、孃の目には涙が一ぱいに湛へて「阿父樣おとうさま阿父樣おとうさま」森江氏は此叫び聲で、何も彼も悟つた、愈々先刻入港したジロン號と云ふのが、森江氏の運の盡と云ふ悲しい便りを持つて來たのだ、森江氏「オヽ、愈々巴丸が沈沒したのか」店の方から續いて入つた小暮も尋常たゞならぬ聲で「何うか旦那樣氣を確にお持ち下さい」

是れぞ森江一家が沒落と事極まる時である、へやの中に唯何と無う悲しい空氣が滿々た樣な氣がする。
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読書ざんまいよせい(083)

巖窟王(上 その7)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 六二 暮内法師

小箱の中を一目見て毛太郎次は「アツ」と叫んだ、彼は仕立職人で有ツたゞけに、服裝や飾物の事は幾等か知つて居る、夜光珠だいやもんど良否よしあしや値打なども多少は分る、眞に稀世の品質である、晝もまばゆい許りに燦爛さんらんとして光ツて居る「エ、法師さん之を友太郎の友逹へ分けるのですか、其友逹とは誰々です、幾人です、友太郎には私の外に爾多くの友逹が有ツたとは思はれませんが」

此熱心な状を見て法師は早目的に逹する事と見て取つたらしい、先づ大事相に箱の蓋を閉ぢて懷中に納め「友太郎の名指したのは五人だが — 」五人とすれば平等に分けても一人前、一萬 ふらんには成るとの計算が早や毛太郎次の胸には浮んだ、毛「エ、五人、爾して平等に分るのですか」法師「平等では有るが、最早死んだ人もあらうし、又同じ友逹の樣に見えても其實、友太郎から遺身かたみを受ける程の實意の無かつた人も有らうし、兎も角も五人の中で實意の有つた者だけへ分て呉れと云ふのである」毛「ア其五人の名を聞かせて下さい」法「一人は一緒に船に乘つて居た男で段倉と云ふのだ」

「エ、エ、段倉を、友太郎は親切な友人だと思つて居たのですか」法師は聞かぬ振で「一人は — 私は其名を忘れたよ、後で手帳で見れば分るが、何とか云ふ若い女性で、友太郎と婚禮する許りと爲つて居た相だが」毛「其れは西國村すぺいんむらのお露です」法「爾々、お露、お露、其れから今一人はお露の從兄の次郎と云つた、其れにお前と、是より外に友太郎には友逹と云ふ者は無かつた相だ」

毛太郎次は前額に脂汗を浮め「アヽ、友太郎は段倉や次郎の樣な者を友逹と思ツて居たのですか」法「思ツて居たから私に頼んだ譯である」毛「では矢張段倉や次郎にも分るのですね」法「其れは無論の事」毛「でも若し、友太郎が友逹と思つても其實友逹では無くて友太郎へあだをした樣な事でも有れば何うします、譬へば眞に友逹の心を持つて居た者は其中に唯一人しか無いと分れば」

法「其時には、其一人へ此 夜光珠だいやもんどを與へる外は無い」毛「全くですか」法「何で私は法師の身で嘘などを云ふものか」

益々毛太郎次が前額の汗は多くなつた、彼は煩悶に堪へぬ樣である、やがて指を折りつゝ「お露と、次郎と、段倉と、此の毛太郎次と、オヤ其れでは四人ですが、法師さん、最一人は誰ですか」法「今一人は亡なられた、私は昨日 馬港まるせーゆで其事を聞定めたが友太郎の父の友藏と云ふ者だ、最う一四年前に死んだ相だ」毛「其死んだ時の樣とても次郎や段倉は知りません」法「お前は知つて居るかエ」毛「知つて居るのは私一人でせう、病氣で死んだのでは有りませんよ」今度は法師が驚いた「エ、エ、病氣でなくて」

毛「餓死んだのです」

「何餓死んだ、犬猫でさへ食ふ物は有るのに、人間の中に居て人間が餓死ぬるとは」と、法師は叫ぶ樣に云ひ、涙を浮かべた、毛「爾です、私も氣の毒に思ひ、時々は見舞に行きましたけれど、へやの戸を閉ぢて誰をも入れませんでした、けれど私は戸の穴から中をのぞいて能く知つて居ます」法「では誰も介抱する人無しに」毛「ハイ、友太郎の父を介抱すれば其筋から何の樣な疑ひを受けるかも知れなかつたのです、けれど死際には介抱した人が二人あります、其れは友太郎の雇主で有つた森江氏とお露とです、森江氏は死んだ跡の葬式まで營んで遣られました」

法師は聞終つて暫しがほどかうべを埀れた、全く不憫の思ひに何事も心に移らぬ樣である、けれど毛太郎次の方は死んだ人より夜光珠だいやもんどの方が氣に掛つて居る「法師さん、斯う申しては失禮ですが、此父が死んだからには此世に友太郎の友逹と云ふ者は私より外にありませんよ」法師は漸くおもてたいらげてかうべを上げた「では段倉や次郎は最う死んだのか」

毛「死にはしませんけれども」法「死にはせぬとけれど何うした」毛「死にはせぬけれど、友太郎の友逹では無いのです」法「何で」

「何で」と問はれて彼は身をもがくより外は得せぬ、「其れを云はねば其 夜光珠だいやもんどを賣つた金を彼等にも分けるのですネ、云ひませう、云ひませう」漸く決心したらしく見える折しも、二階の方から「お前、素性も分らぬ人樣に、考への無い事をお云ひで無いよ」と制する聲が聞えた、引續いて階段はしごだんを降りて來るは、永く血の道にでも惱んで居るらしく見える顏色も青褪めた卅四五の女である、多分は毛太郎次の妻だらう、元は可也の美人で有つたと猶だ見受けられる所も有る、毛「ナニ考への無い事を云ふのでは無い、アお前も來て法師さんに夜光珠だいやもんどを見せて貰へ、何うか法師さん、今のを妻にも拜ませて遣つて下さい」法師は點頭うなづいて再び彼の夜光珠だいやもんどを取出し、身を引摺つて降りて來た妻の目先に光らせたが、之は女だけに夫よりも亦 一ひとしほ、玉の事には詳しい「オヤ本物だよ」とて、殆ど眼玉の出て來るかと思はれるほど慾し相に眺め、法師が再び元へ納めるが否や亭主に向ひ「お前、云ふならば云ふも好いけれど、先づ法師さんのお名を聞いてからにお仕よ」流石に女の、用心深く、餘ほど法師を疑つて居たのが、珠の光の爲め柔いだのである、法師は輕く笑んで「オヽ私は伊國いたりやの暮内法師だよ」暮内法師と云ふ名を聞いた事が有るか無いかは知らぬけれど、毛太郎次は妻に向ひ「其れ見なよ、名高い和尚さんぢや無いか」妻「でも相手はお前、二人ともお前の樣な活智者いくぢなしとは違ひ、今飛ぶ鳥を落とす勢に成つて居るから、お前の口から古い惡事でも洩れたと知れば、何の樣なあだをするかも知れぬ」此 ことばで見れば、次郎、段倉、二人とも今は餘ほどの勢力ある身と爲つて居ると見える、毛「だつて、おれが無だまつて居たとて、襃美に此樣な夜光珠だいやもんどを呉れると云ふでは無し、構ふものか、おれは云ふよ」妻「云ふならお前の勝手にお言ひ、後で睨まれる樣な事が有つても私は知らぬから」とうまく責任を夫に歸し、爾して逹て止めもせず、萬一のわざはひには自分は逃れ、夜光珠だいやもんどには自分も有附く樣 たくみに繩張をして元の二階へ上つて行つた。
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読書ざんまいよせい(082)

◎噫無情(002)

ヸクトル、ユーゴー 著
黒岩涙香 譯

噫無情 : 十一 ひどいなア、ひどいなア

何だッて戎、瓦戎ぢやん、ばるぢやんは、子供の落した銀貨を足の下へ敷たゞらう、餘り愚な仕草では無いか
彌里耳みりえる僧正が何と云ッた、魂を入替て、善人に成るのだよと、血の埀る樣な言葉で教へたでは無いか、ぢやんの耳には其言葉が猶だ響て居る、彼れの心には僧正の限り無き慈悲の心が充ち滿ちて居る筈である、其れだのに、早や此樣な罪を犯すとは何う云ふ譯だ
多分は彼れ、正氣では無いのだらう、心が狂て居るのだらう、彼れ十九年の間、獄に居て、唯だ世の中の憎いことをばかり心に刻み、復讐しやう、復讐しやう、とのみ思ひ詰めて出て來たのだから、心が狂て居る際でも知らず〳〵に此樣な事をするのだ、子供は忽ち立留ッて、銀貨を踏で居るぢやんの足を見、次にぢやんの顏を見上げた、顏は極めて恐しい、けれど子供は恐ろしとも思はぬ、唯だ戯れと思たのだらう、思案もせずにぢやんに近き『伯父さん其樣な事を仕てはいけないよ』ぢやんは無言だ、子供『其足を擧げてお呉れ、ヨウ伯父さん』ぢやんは光るまなこで、子供の顏を見た、見た樣の凄さには子供も初て恐れを催ほしたらしい、殆ど泣出す樣な聲で『大事な銀貨だからよう』
ぢやんは動きもせぬ、子供『では足を擧て斯して取るよ』と云つゝ子供は俯向うつむいてぢやんの足に兩手を掛けた、無理も無い、全く大事の銀貨だらう、子供としては一身代奪はれる樣な者である、ぢやんの足は少しも動かぬ、子供は力盡きて今度はぢやんの胸を推し『ヨウ伯父さん、還してお呉れ、銀貨を無くしては大變だから、ヨウ、ヨウ』とゆすぶッた、ぢやんは澁る樣な聲を出し『銀貨など知る者か』と叱つた、子供『だつて此足に踏で居るじや無いか、お呉れと云ふのに』ぢやんは怒りを示して立上つた、けれど踏だ足は動かさぬ、子供は劍幕に恐れて一足 退いた、其のまなこには最う涙が浮んで居る『ひどいなア、ひどいなア、子供の錢なんかを盗んで』と泣き聲で恨んだ、之を平氣で聞くぢやんは全く鬼である、彼れは平氣で聞くのみで無い、大喝して『夏蠅うるさい奴だ』と再び叱つた、子供は泣て『金を返せ、金を返せ』ぢやんは出拔に杖を取り『是れだぞ』と振かざした、全く叩き殺す勢ひである、すぐに子供は、泣ながら一散に逃げた
けれど暫く行て逃兼ねたと見え、やゝ久しく其泣聲が、淋しい原に、蟲のの樣に聞えて居た
ぢやんは立た儘である、銀貨を踏だ儘である幾時か其の儘で、恐い顏してだ空中を睨んで居た、何時いつまで彼れは此儘で居るのだらう、自分で自分の立て居る事を知て居るのか知らん、其中に日は全く沈んで了ッた、ぢやんは身に受ける夜露の寒さにゾッと身震したが、是れが彼れの身に氣附藥の樣に利た、熱を持て居る彼れの腦は冷めた、彼れは『オヤ』と云て四邊あたりを見廻した
やがて立去らうとする如く、彼れは背後うしろに在た袋を取ッて背負ひ直したが、此時チラリと彼れの目に見えたは砂の中に光る銀貨である、彼れは怪む樣に俯向うつむいて之を取上げたが、取上ると共に、電光の如く彼れの腦髄に光が射した、彼れは何も彼も思ひだした、今の子供の泣聲さへ猶だ耳に響て居る、エヽ、何だとて我が身は子供の銀貨を盗んだのだらう、僧正の清い姿も眼に浮だ、唯だ一時にして生涯の悔恨に身を責らるゝは斯樣な時である、彼れは直ちに、暗い大地の上に身を投た、地を掻むしッて悔んだ、けれど悔しんでは居られぬ、すぐに立上ッた『子供よう、子供よう』と叫んだ、延上ッて四邊あたりを見廻した、子供は居ぬ、最う去てから時が立ッた
彼れは子供の去た方へ走ッた、半丁も走ッたけれど姿が無い、又聲を立てゝ呼だ、呼では走り、走ッては呼び、廣い野原を、月の出るまで走り廻ッた、月に透すと何だか彼方かなたに人影がある、すぐに其傍へ行て見ると、旅の法師であらう、瘠馬に乘て兀こつ〳〵夜路よみちをして來るのだ『法師さんお願ひです』とぢやんは馬の前にかうべを垂れ『若し貴方あなたの通た道で、十一二の一人の子供は居ませんでしたか』法師『愚僧は誰にも逢ひません』ぢやんは銀貨を差出して『何うか之を貧民にお施し成さッて下さい』受取るのが法師の役である、怪みながら受取ッた、ぢやん『若しや何處かで子供の泣聲を聞ませんでしたか』法師『聞きません』ぢやんは又『何うか貧民に、之を』とて今度は銀貨二個を出して渡し『アヽ、私しは盗賊です、盗賊です、何うか警察へ連て行て、懲役に遣て下さい、此世には居られぬ惡人です』法師は驚いて瘠馬の腹をけつ[誤:蹴]て之も逃げた
如何とも仕方が無い、再びぢやんは聲を立て子供を呼びつゝ、何所どこまでとも走ッたが、遂に路の三方にわかれて居る所へ來た、何方どつちを見ても村らしい者は無い、彼れは大地にだうと座して、はらわたの底から深い涙がぐり上げた『エヽおれは、エヽおれは』と聲を放ッて泣き、頽折くづをれて鰭伏ひれふした、彼れが泣くのは廿年來絶えて無い事だらう、涙が彼れのしびれた腦髄を解きほごせば好い
何時間泣いたか知らぬが、全く存分に泣た、之れが彼れの魂の入れ替る時で有らう、幼い頃から彼れの心は、善心を捻伏て其上へ自分で惡の壁を塗り、世間が憎い人が憎いと、曲た心ばかり練固めた、無理に頑冥かたくなにしたのだから、最う善と云ふ心は芽を吹く力も無い樣に枯れて了ッたのが、其の所へ彌里耳みりえる僧正の靈精が差込だ、彼れの心は昨夜から革命の樣に揉めて居た、今が革命軍の最も盛に揉み立てる時なんだらう、彼れにして若し少しでも物事を比て見る丈の力が有れば、僧正の心と自分の心とを比べても見るだらう、自分が自分の目へ全く人鬼の樣にも見えるだらう、彼れは天國の光に照して自分の惡相を、愛想の盡きる程に見入た
つひに彼れは何うしたゞらう、其れは誰も知らぬ、此夜の夜半よなかを過ぎ、世間の寢鎭つた三時頃にダインの町を通ッた郵便の飛脚が有る、其者が丁度彼の彌里耳みりえる僧正の前を通過した時に、其戸口に一人の男が地に伏して合掌し、神にでも祈る樣な身振で一心に家の中を拜んで居た

*   *   *   *   *

此男が戎、瓦戎ぢやん、ばるぢやんである事は、云ふ迄も無い、彼れが再び話の表に現はれる時に何の樣に成て居るだらう、そもそも又 何所どこへ現れて出るたらう[誤:だらう]
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