◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)
第二編 明治以後
第四章 マルクス主義の唯物論者
第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)
一 河上の思想遍歴
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河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょうのもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもととなったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつしただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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