サーバー再構築覚書(001)ーその前提(01)

2021年8月、10年来使用していた、職場のサーバー(Vinelinux  6.0 がベース)がとうとう動かなくなりました。以前から、OS を入れ替えなければと思っていた矢先でした。設定ファイルの幾分かは、バックアップしていましたが、職場のホームページなどは、ほとんど吹っ飛んでしまいました。これを機会に、より堅牢なハードとソフトに切り替えてサーバー再構築をめざし、2ヶ月半かけて、ようやく以前の水準に近い(サーバーの種類によっては、それを超えるところまで)回復できましたので、その覚書を書いておきます。
サーバーの構成は2回目以降に後述するにして、何度かのテストを重ねる上で、Windows ないし MacOS の PCでの実験を試すため、Virtual Box が非常に役立ちました。(ちょっとしたコツが必要で、最初は、Virtual Box のディスプレイの設定で、VMSVGA ではなく、解像度の高いVBoxVGAにしないと、インストール画面が切れてしまいます。あとで、OS を立ち上げるときに、もとに戻し、CDROM ドライブに、VboxGuestAddition の疑似CDを挿入し、画面を調節します。ここらあたりは、Guest Additionsのインストール あたりを参照のこと)図は、ディスプレイを設定しているところです。また、続きも図は、Ubuntu 20.04 LTS 版を、Virtual Box にインストールしている途中のスクリーンショットです。



ただし、VirtualBox でうまくいくことが、実際のサーバーで通用するとは限らない、また逆も真であることを痛感しました。
ところで VirtualBox では、いろいろなディストリビューションの Linux が楽しめます。Ubuntu ベースでのお気に入りは、フランス発の、Voyager 、Mac 風のアイコン配列と粋な壁紙が選べるのが素敵です。下図は、そのスクリーンショットです。

次回は、実際のサーバー構成の概要について書く予定です。

日本人と漢詩(062)

◎清岡卓行と李賀、岳飛

 先日、Facebook で紹介した清岡卓行に「李杜の国」という小説がある。タイトルの如く、李白や杜甫などの詩を引いて、日本の詩人団体の中国旅行記の体裁であるが、別の筋立てとして、主人公の評論家と女流詩人との恋愛の始まりから、一旦終焉になり、また復活の経緯がある。もっとも、後者は当方も経験外であるので、感想はひとまず置いておこう。李杜の詩の他に、紹介されるのは、白居易、など。李賀の詩も、冒頭のとても印象的であり、どこか中原中也あたりを彷彿させる二句「長安に男児有り、二十 心已でに朽ちたり」が載っている。その詩、あまり、全編を掲載しているサイトが少ないので、アップしておく。

 贈陳商       陳商に贈る  李賀
長安有男児   長安に男児《だんじ》有り
二十心已朽   二十《にじゅう》 心已《す》でに朽ちたり
楞伽推案前   楞伽《りょうが》 案前《あんぜん》に推《うずたか》く
楚辞繋肘後   楚辞《そじ》 肘後《ちゅうご》に繋かく
人生有窮拙   人生《じんせい》 窮拙《きゅうせつ》有り
日暮聊飲酒   日暮《にちぼ》 聊《いささ》か酒を飲む
祗今道已塞   祗《ただ》今 道 已に塞《ふさが》り
何必須白首   何ぞ必ずしも白首《はくしゅ》を須《ま》たん
淒淒陳述聖   淒淒《せいせい》たり 陳述聖《ちんじゅつせい》
披褐鉏爼豆   褐《かつ》を披《き》て 爼豆《そとう》に鉏《そ》す
学為堯舜文   堯舜《ぎょうしゅん》の文を為《つ》くることを学び
時人責垂偶   時人《じじん》 垂偶《すいぐう》を責《せ》む
柴門車轍凍   柴門《さいもん》 車轍《しゃてつ》凍《こお》り
日下楡影痩   日《ひ》下りて 楡影《ゆえい》痩せたり
黄昏訪我来   黄昏《こうこん》 我を訪《と》い来たる
苦節青陽皺   苦節《くせつ》 青陽《せいよう》に皺《しわ》む
太華五千仭   太華《たいか》 五千仭《ごせんじん》
劈地抽森秀   地を劈《つんざ》いて森秀《しんしゅう》を抽《ぬき》んず
旁苦無寸尋   旁《かたわら》に寸尋《すんじん》無きを苦しむ
一上戛牛斗   一《ひとた》び上れば牛斗《ぎゅうと》に戛《かつ》たり
公卿縦不憐   公卿《こうけい》 縦《たと》え憐《あわれ》まずとも
寧能鎖吾口   寧《なん》ぞ能《よ》く吾《わ》が口を鎖《とざさ》んや
李生師太華   李生《りせい》は太華《たいか》を師しとし
大坐看白昼   大坐《たいざ》して白昼《はくちゅう》を看《み》る
逢霜作樸樕   霜に逢えば 樸樕《ぼくそく》を作り
得気為春柳   気を得ては 春の柳と為《な》る
礼節乃相去   礼節《れいせつ》 乃《すなわ》ち相去り
顦顇如芻狗   顦顇《しょうすい》 芻狗《すうく》の如し
風雪直斎壇   風雪《ふうせつ》 斎壇《さいだん》に直《ちょく》し
墨組貫銅綬   墨組《ぼくそ》 銅綬《どうじゅ》を貫《つらぬ》く
臣妾気態間   臣妾《しんしょう》 気態《きたい》の間《かん》
唯欲承箕帚   唯《た》だ箕帚《きそう》を承《う》けんと欲す
天眼何時開   天眼《てんがん》 何の時にか開く
古剣庸一吼   古剣《こけん》 庸《も》って一吼《いっこうせん》

語釈、訳文などは、 http://itaka84.upper.jp/bookn/kansi/1104i.html を参照のこと。

 同じく清岡卓行の「詩礼伝家」の由来となったのは、額にあるような、南宋の武人・岳飛の「文章報國 詩禮傳家」という言葉である。(左の図)。「李杜の国」の中でも、簡単な紹介がある。岳飛の詞と詩を二つほど載せておく。
 右の図は、亡母が中国旅行の土産に買ってきた、岳飛書のレプリカ。母の仏間に今も掲げている。「我に河山を還せ」とは、失われた宋の領土への尽きせぬ思いだったんだろう。

岳飛の詞「滿江紅」http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p8yuefei.htm

詩「池州翠微亭  池州の翠微亭 」 https://taweb.aichi-u.ac.jp/toyohiro/yue%20fei%20chizhoucuiweiting.html

 

日本人と漢詩(060)

◎石川啄木、簡野道明と白居易(白楽天)
 白楽天は言っている。
「世に謂うところの『文士は数奇なること多く、詩人は尤も命薄し』とは斯こにおいて見わる。」まるで、啄木を指すような言葉である。その啄木に、明治41年9月26日の日記で次のような一節がある。
「白楽天詩集をよむ。白氏は蓋《けだ》し外邦の文丈にして最も早く且《か》つ深く邦人に親炙《しんしゃ》したるの人。長恨歌、琵琶行、を初め、意に会するものを抜いて私帖に写す。詩風の雄高李杜《りと》に及ばざる遠しと雖《いえ》ども、亦《また》才人なるかな。」
 少し、評価は低いが、多面的な白居易の詩に触れ合う機会には恵まれなかったゆえであろう。そんな「閑適」の詩、老境を詠ったちょっと身につまされるメランコリックとも言える一首を、簡野道明講述の「和漢名詩類選評釋」から、白文、読み下し文、訓詁、評釈の全文。
春晚詠懷贈皇甫朗之 春晩《しゆんばん》懐《くわい》を詠《えい》じて皇甫朗之《くわほらうし》に贈《おく》る
艷陽時節又蹉跎 艶陽《えんやう》の時節《じせつ》又《また》蹉跎《さた》たり
遲暮光陰復若何 遅暮《ちぼ》の光陰《くわういん》復《また》若何《いかん》
一歲平分春日少 一歳《さい》平分《へいぶん》すれば春日《しゆんじつ》少《すくな》く
百年通計老時多 百年《ねん》通計《つうけい》すれば老時《らうじ》多《おほ》し
多中更被愁牽引 多中《たちゆう》更《さら》に愁《うれひ》に牽引《けんいん》せられ
少處兼遭病折磨 少処《しょうしよ》兼《かね》て病《やまひ》に折磨《せつま》せらる
頼有銷憂治悶藥 頼《さいはひ》に憂《うれひ》を銷《け》し悶《もん》を治《ぢ》するの薬《くすり》あり
君家濃酎我狂歌 君《きみ》が家《いへ》の濃酎《のうちう》我《わ》が狂歌《きやうか》
訓詁
艷陽時節:百花爛漫たるうるはしき盛りの春
蹉跎:つまづく(失足)貌 時を失ふにいふ
遅暮:晩年、老年の意
平分:平均に分つ
遭:「ラル」と訓む、被なり
折磨:損する
濃酎:濃くしてうまき酒
評釋
平聲歌韻、彌生の春も思ふにまかせず、空しく過ぎ去り、己も老境になりては如何ともし難し、一年の中を分くれば春の樂しき日は最も少く、百年の生涯を通算すれば、老を歎ずる時、多きなり、其の多き中 にて更に種種の愁に牽きまつわれ、少なき春の日をば、病の爲めに減損せらる、只幸に憂悶を銷し治むる藥ありて、聊か心を慰むべきものあり、それは他にあらず、君の家の美酒と、我が歌ふ詩との二つなりと、詩酒を友として興を遣らんとの意を敍せり。
「一歲平分春日少 百年通計老時多」は、実感するところである。
図は、「長恨歌」挿絵( http://chugokugo-script.net/kanshi/chougonka.html )豊満な美人の楊貴妃とは、違ったプロポーションのところが面白い。

こんなご時世だから(59)

ピーター・ブルック先生曰く
「私は唯一の真実というものを信じたことがない。ある時ある場合にだけ有用である、と信じている。時は移り、私たちは変わり、世界は変化する。それにつれて、目標が変わり、視点も変わる。もちろん、ある視点を生かすためには、それを全面的に信じ、貫徹しなければならない。とはいえ、生真面目になりすぎてもいけない。「死守せよ、だが、軽やかに手放せ」」
写真はピーター・ブルック氏

11月25日のオフ

*昨日の『住吉市民病院の存続と地域医療を考える交流集会』で、発言を求められたが、急なことで、メッセージとしてはあまりにも拙劣の極み。次のように言えばよかったとまたもや後悔している。
「小児を長年診てきた身にとって、今回の住吉市民病院の統合は、とても憂慮しています。それは、地域の医療機関の願いと著しくかけ離れていると言わざるを得ません。私たちは、別に難しいことを要望しているわけでは決してありません。日常診療の中で、それをサポートする第二次医療機関が地域に不可欠と思っているだけです。メッセージを寄せられた開業医の先生は、内科での『診断能力』には定評がありますが、それと同様に、こと小児科に関しては、一定の質以上の診療を心がけていると自負しております。だからこそ、例えば、肺炎で安静が必要な時、また、下痢で脱水になっている時に、診療所での治療には全力をあげていますが、それでも自己完結できない場合には、どうしても『後方病院』が必要なのです。さらに言えば、腸重積や川崎病など小児特有の疾患などは、第二次医療機関の存在が、直接子どもの生命に関わるほど大事になってきます。治療が困難な特殊な疾患に対応する第三次的な高度医療機関の重要性は否定はしませんが、以上述べた診療の内容はしっかりした第二次医療機関があってこそ『効率的』な医療ができるのでしょう。大阪市南部には、この十年来で、不採算になりがちな小児科病棟が、あちこちで閉鎖されました。住吉市民病院の存続で、それにストップをかけ、安心して子育てできる街になるよう、みなさんとともに頑張りたいと思いますので、よろしくお願いします。」
*連休から、チータさん滞在。三十数年前、長男と体を使って遊んだことを思い出し、調子に乗り、同じようにしたら、腰がすっかり痛くなった(笑)。写真は、チータさんが昔のピンクレディーの写真を見て、ポーズ。
*今日のメディア逍遥

そこで、ピンクレディー「サウスポー」など如何。

日本人と漢詩(061)

◎一海知義と河上肇、姚合
 2012年9月28日付けの赤旗文化欄、一海知義先生の漢詩閑談(写真)は、以前の河上肇からの連想で「貧乏神」物語。学生時代の初舞台が「貧乏神」(作者失念!)という芝居の「馬鹿殿様」役だった。貧乏神は、実は庶民の味方で、「水呑み百姓」に「殿様」に反抗をしかける、その殿様の「馬鹿さ加減」をたたいたところで現実は何も変わらない、といったテーマと筋だったと思うが、現代でも示唆的である。ともあれ、紹介の漢詩からもあるように、貧乏神というと、どこか、憎んでも憎みきれないユーモアがあるようだ。

 

日本人と漢詩(018)

◎木村蒹葭堂と葛子琴
贈世粛木詞伯 葛子琴 五言排律
酤酒市中隠 酒を酤《う》る 市中の隠《いん》
傳芳天下聞 芳《ほまれ》を伝へて 天下に聞《きこ》ゆ
泰平須賣剣 泰平《たいへい》 須《すべから》く剣を売るべく
志氣欲凌雲 志気《しき》 雲を凌《そそ》がんと欲す
名豈楊生達 名は豈《あ》に 楊生《ようせい》の達《すす》むるならんや
財非卓氏分 財は卓氏の分《わ》くるに非《あら》ず
世粉稱病客 世粉《せふん》 病客《びょうきゃく》と称《しょう》し
家事託文君 家事《かじ》 文君《ぶんくん》に託《たく》す
四壁自圖画 四壁《しへき》 自《おのづ》から図画《とが》
五車富典墳 五車《ごしゃ》 典墳《てんふん》に富《と》む
染毫銕橋柱 毫《ふで》を染《そ》む 銕橋《いきょう》の柱
滌器白州濆 器《うつわ》を滌《あら》ふ 白州の濆《ほとり》
堂掲蒹葭字 堂に掲《かか》ぐ 蒹葭《けんか》の字《じ》
侶追鷗鷺群 侶《とも》は追《お》ふ 鷗鷺《おうろ》の群《むれ》
洞庭春不盡 洞庭《どうてい》 春は盡《つ》きず
數使我曹醺 数《しばしば》 我が曹《そう》をして醺《よわ》しめたり
江戸時代18世紀後半、蒹葭堂をして、サロンたらしめたのは、三つの条件があったと思う。一つには、主人の収集を価値とする生い立ち、二つには、大坂商人の「エートス」ともいうべきまめな性格で、毎日の来訪者を丹念に書き留めており、現在は、その「蒹葭堂日記」として残っている。日記を調べると、堂を訪れた文人は、広く日本全国に及んでいると言う。三つ目は、実際、蒹葭堂を会場にして、詩の集いなどのミーティングが、毎月定例化されたことだ。その詩会は、当初蒹葭堂が会場になったが、毎月、お店が会場になるというのも商売に差支えもあったのだろう、やがてその場所を移し、明和二年(1765)、「混沌詩社」の結成へと発展していった。その中での中心メンバーが、作者の葛子琴(Wikipedia)である。
葛子琴は、元文4年(1739年)生まれとあるから、木村蒹葭堂より、三つ年少だが、ほぼ同時代に生を受けたとみて良い。大坂玉江橋北詰に屋敷があった生粋の浪速人、しかも代々医を家業としていた(同業者!)。このことは、大坂生まれの漢詩人というのは、寡聞にして他にいないので、そのたぐいまれな詩才は、もっと知られてもよいと思う。45年という比較的短い生涯であったが、詩会を通じての知り合いだったが晩年は、蒹葭堂に出入りしたと「日記」にはあるという。詩は、その蒹葭堂讃である。詩の背景として、前漢の時代、その文名をはせた司馬相如(Wikipedia http://is.gd/IjZ7Io)に蒹葭堂を模している。司馬相如は、不遇の時代、酒屋を営んで、糊口をしのいでいた。しかも、駆け落ち同然で結ばれた卓文君という妻が、なかなかのやり手で、司馬相如が漢の武帝に見出されるまでは、内助の功を発揮した。司馬相如は若い頃は剣の達人だったというエピソードは、木村蒹葭堂の祖先が、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛というから、それに重ねあわせたのかもしれない。しかし、「ボロは着てても心は錦」、志気の極めて軒高なことを司馬相如に例える。次は、蒹葭堂のユニークなところ、楊生のような推薦者がいたわけではなく、細君の実家からの援助があったわけでもない。ただ、元来「蒲柳の質」で、家事は妻(と妾―江戸時代は、妻妾同居が当たり前だったんだろう)に任していた。その結果、汗牛充棟、三典五墳の一大コレクションが出来上がった。銕橋(くろがねばし)は、今はもう埋め立てられてしまった、堀江川にかかる橋、蒹葭堂のあった北堀江と南堀江の境だろう。6月始めに、この近くにある保育所健診に行くので、このあたりの地理的関係を確かめておこう。(後注:http://www.yuki-room.com/horie.html によると北堀江と南堀江の境の道路から一つ南の筋にかかっていたらしい。)清人から送られた蒹葭堂の書斎に掲げられた扁額に触れ、その縁語で、堂に集う文人たちを鷗鷺に例え、そこにいると名勝地洞庭湖にも比すべき別天地、その春の情は尽きることなく、美酒に酔う心持ちであると述べ、讃詩の結びとしている。
*参考文献:水田紀久「水の中央にあり―木村蒹葭堂研究」(岩波書店)
写真は、明治末年に発刊された「漢籍国字解全書」詩疏図解・淵景山述(安永年間の人とあるので、ほぼわが主人と同時代である。)で、「蒹葭」の図が載っている。こんな本で四書五経を学んだという意味でスキャンした。

日本人と漢詩(002)

◎森鷗外(続き)
當年(とうねん)の向背(こうはい) 群臣を駭(おどろ)かし
末路(まつろ)の凄愴(せいそう) 鬼神を泣かしむ
功業 千秋 且(しばら)く問ふを休(や)めよ
多情 偏(ひと)へに是(こ)れ 詩を愛するの人なればなり
          路易(ルートヴィヒ)二世
前回の詩に続いての詠唱。同じく、ルートビッヒ2世を扱ったものだが、より王に肩入れしたものになっている。起句は、在位当時の「国際」情勢を反映。1866年の普墺戦争(http://is.gd/9WADHU)では、最初、バイエルンは、オーストリア側についたが、ルートビッヒルートビッヒは、途中から、プロシアに味方する。このことで家臣と重大な対立があったことを指す。老獪ビスマルクにあっては、「詩を愛する人」で芸術家肌だったルートビッヒなどは「赤子の手をひねる」よりも御しやすい相手だったんだろう。
前回、触れたヴィスコンティの映画は、世紀末的、耽美的なタッチだと記憶しているが、映画に出てくる、これまたルートビッヒが愛好ンしたワーグナーの音楽が私には生理的にあわないらしく、途中で筋も分からなくなってしまった。
それはともかく、鷗外には、ルートビッヒの侍医で一緒に溺死したフォン・グッデンを讃える詩や後期の漢詩も捨てがたいものがあるが、機会があればと云うことに…
写真は、シュタルンベルク湖のパノラマ、wikimedia(http://is.gd/CJalJI) にあったので拝借。FBでは、大きいサイズはアップロードできず、はっきりしないが、水面の向こうにアルプスが見える。
【参考】鴎外歴史文学集〈第12巻〉漢詩(上) (ISBN:978-4000923323)より

日本人と漢詩(001)

◎森鷗外

望断(ぼうだん)す 鵠山(こくさん)城外の雲
詞人 何事ぞ 涙 紛粉(ふんぷん)たるは
艙窓(さうさう) 多少の綺羅(きら)の客(かく)
憶(おも)はず 波間(はかん)に故君を葬るを
別に精通しているわけではありませんが、あちこちの所蔵本から、漢詩(日本人が作った漢詩に限定しようと思いましたが、どうやら広く本場のそれにも触れそうなので「の」→「と」しました)を抜書きしてゆきます。語釈や訳文は苦手なので、気が向いたら付けることにします。基本的には、読み下し文だけです。できれば、江戸時代を中心としたいのですが、あちこちの時代に彷徨するかもしれません。早速、「脱線」ですが、同業(文学者という意味ではありません 笑)の大先輩に敬意を表して、森鷗外から…
彼の漢詩は漱石のそれに比して「評価」されていません。漢詩に込めた内容など漱石のほうがずっと上でしょう。しかし、なかなか捨てがたいものもあります。彼のドイツ留学時代(1884〜1888)に詠んだ一連の詩群などそうです。ここは、その留学中に衝撃を受け、後に「うたかたの記」(http://www.aozora.jp/misc/cards/000129/card694.html)のバックグラウンドになった、バイエルン王ルートビッヒ2世(http://is.gd/iU4xoW ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルートビッヒ/神々の黄昏」でも有名ですね)の溺死したシュタルンベルク湖に、事件の数ヶ月後に船を泛べた時の詩。
湖の名、Starnberg は、ムクドリ(鵠)の山という意。着飾った船の乗客と、ついこのあいだの国王の死との対比の中で詞人・鷗外は感じることがあったのでしょう。写真は Wikipedia から(シュタルンベルク湖のルートヴィヒ2世に因む十字架)
【参考】鴎外歴史文学集〈第12巻〉漢詩(上) (ISBN:978-4000923323)より