読書ざんまいよせい(069)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)

第二編 明治以後

第四章 マルクス主義の唯物論者

第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)

一 河上の思想遍歴

1

 河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
 河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょうのもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもととなったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつしただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
 河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
 私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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南総里見八犬伝(008)

南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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一子いつしのこして孝吉たかよし大義たいぎす」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」

景連奸計信時かげつらかんけいのぶとき
孝吉節義義實たかよしせつぎよしさね

 杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとが使者、蜑崎十郞輝武あまさきじうらうてるたけ東條とうでふよりはせ參りて、麻呂信時まろののぶとき首級しゆきうまゐらせたりければ、義實よしさね大床子おほせうじのほとりにいでて、くだんの使者をちかくめさせ、合戰かつせん爲體ていたらくを、みづからとはせ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏ひやうろうともしくまします事、氏元かねてこゝろにかゝれば、百姓們ひやくせうばら催促さいそくして、運送うんそうせばやと思ふ程に、安西景連あんさいかげつら、麻呂信時、はや定包さだかねにかたらはれて、海陸かいりくの通路をふさぎ、小荷駄を取らん、とわれをまつこと難義なんぎに及びしかば、氏元ます〳〵憂悶うれひもだへて、いたづらに日をすぐしたり。しかるに景連、一夕竊あるよひそかに、家隸某甲いへのこなにがしをもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊ぎやくぞく也。よしや蘇秦張儀そしんちゃうぎをもて、百遍千遍相譚もゝたびちたびかたらふとも、承引うけひくべうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、かれが爲にみちふたぎ、良將勇士をくるしめしは、われながら淺猿あさまし、と後悔臍こうくわいほぞかむものから、信時只管ひたすらやじりとぎて、とけども思ひかへさねば、これ亦靴またくつへだてて、かゆきくにことならず。つら〳〵事のぜうはかるに、信時は匹夫ひつふの勇士、利の爲に義を忘れて、むさぼれどもあくことなし。景連舊好きうこうを思ふゆゑに、一旦いつたん合體するといへども、もしあやまちあらためずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮しよせん合體のおもひをひるがへし、まづ信時を擊果うちはたして、兵粮ひやうろう運送の路を開き、里見殿さとみとのに力をあはして、賊首ぞくしゆ定包を討滅うちほろぼし、大義をのべんと思ふのみ。さきにはたま〳〵來臨らいりんせられし、里見ぬしをえうとゞめず、あるじぶり禮儀いやなかりしは、かの信時がこばめるゆゑなり。願ふは和殿わどの、城をいでて、短兵急たんへいきうせめかゝれ。信時は野猪武者ゐのしゝむしや也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣ごぢんより、さしはさみてこれをうたば、信時を手取てとりにせん事、たなそこを返すごとけん。狐疑こぎして大事だいじあやまち給ふな。をさ〳〵回いらへまつ』といへり。しかれども氏元は、敵のはかりことにもや、と思ひしかば、佻々かろかろしく從はず、使者の往返度わうへんたびかさなりて、いつはりならず聞えにければ、さは信時をうたんとて、安西にてふじ合せ、ふりふらずみ五月雨さみだれの、黑白あやめもわかぬ暗夜くらきよに、二百餘騎を引いんぞつし、ばいふくみ、くつわつぐめ、麻呂信時がたむろせる、濱荻はまをぎさく前後ぜんごより、犇々ひしひしおしよせて、ときどつとつくりかけ無二無三むにむざんついる。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷あはてさわぎて、つなげる馬にむちあてつるなき弓にをとりそえ紊立みだれたつたるくせなれば、只活路たゞにげみちもとむるのみ、防戰ふせぎたゝかはんとするものなし。そのとき信時聲をはげまし、『たのもしげなきものどもかな。敵はまさしく小勢こぜい也。推包おしつゝんうちとらずや。おとされて前原まへはらなる、安西にわらはれな。うてよ進め』、とはげしくげぢして、眞先まつさきに馬乘出のりいだし、やりりう〳〵とうちふりて、逼入こみい寄手よせて突倒つきたふす。その勢ひはまさこれむらがひつじうちる、猛虎まうこるゝにことならず。士卒はこれにはげまされ、將後陣はたごぢんなる安西が、援來たすけきなんと思ひけん、にげんとしたるきびすめぐらし、唬叫わめきさけびて戰へば、こゝろならずも躬方みかた先鋒せんぢん面外とのかたおひかへされ、みちのぬかりに足もたゝず、すべつまつひきかねたり。當下そのとき杉倉氏元は、まなこいからし、聲をふりたて、『一旦破りし一二のさくを、おひかへさるゝことやはある。名ををしみ、はぢをしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採さいはいとつて腰にさしあぶみを鳴らし、馬を進めて、烏夜やみきらめ長刀なぎなたを、水車みづくるまの如く揮廻ふりまはして、信時にうつかゝれば、かゞりの火ひかりきつと見て、『は氏元。よき敵也。其處そこ退のきそ』、と呼びかけて、やりひねつはたつけば、發石はつしうけてはねかへし、ひけばつけり、すゝめば開き、一上一下いちじやういちげと手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方みかたも敵も遊兵ゆうへいなく、相助あいたすくるにいとまなければ、氏元と信時は、人をまじへず戰ふ程に、信時焦燥いらつつきいだす、やり尖頭ほさきを氏元は、左手ゆんでちやう拂除はらひのけ、おつとおめいて、向上みあぐる所を、長刀なぎなた拿延とりのべて、內兜うちかぶと突入つきいれて、むかふざまに衝落つきおとせば、さしもの信時灸所きうしよ痛手いたでに、得堪えたヘやりを手にもちながら、馬よりだう滾落まろびおつる、音に臣等わくらは見かへりて、とぶがごとくにはせよせて、その頸取くびとつて候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうちきゝて、「氏元がその夜の軍功、賞するにたへたれども、計略足はかりことたらざりけり。景連にはか心裏反うらかへりて、信時をうたする事、そのゆゑなくはあるべからず。夫兩雄それりゃうゆう竝立ならびたゝず。信時景連相與あひともに、われをうつともとみかたずは、必變かならずへんを生ずべし。るを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時をうちとりしは、躬方みかたの爲に利はなくて、景連が爲になりなん。かの安西はなにとかしつる」、ととはせ給へば蜑崎あまさき十郞、「さ候景連は、そのさり躬方みかたために、征箭一條そやひとすぢ射出いいださず、いつの程にか前原まへはらなる、さく退しりぞきて候」、とこたへまうせば、義實は、あふぎをもつてひぎうち、「しかれば既に景連が、奸計かんけいあらはれたり。わが瀧田をせめしとき、勝敗測はかりかたしといへども、定包さだかね天神地祇あまつかみくにつかみ憎にくませ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全しじうまつたからじとは、景連は思ひけん。定包つひ滅亡めつぼうし、義實その地をたもつに及びて、信時は安西がたすけになるべきものならず。只大たゞおほばやりに勇めるのみ、ともに無むぼういくさをせば、もろまけなんことをおそれて、うへには義實と合體して、氏元に信時をうたせ、景連はその虛にじやうじて、平館ひらたて攻落せめおとし、朝夷郡あさひなこふりあはれうして、牛角ごがくの勢ひを張らんとす。うちあふぎはづるゝとも、わが推量はたがはじ」、とその脾肝はいかんすくごとく、いと精細つばらかのたまふ折、氏元が再度の注進ちうしん某乙なにがしをとこはせ參りつ、「信時既にうたれしかば、殘兵頻ざんへいしきりみださわぎて、にぐるをひた追捨おひすてて、氏元は軍兵ぐんびやうを、まとめてやがて東條へ、歸陣して候ひしに、あにおもはんや景連は、はや前原まへはら退しりぞきて、平館ひらたての城を乘取のつとり、麻呂まろ采地朝夷れうぶんあさひな一郡、みなおのが物とせり。狗骨いぬほねをりて、たかとらせし、氏元は勞して功なし。おんせいをさしむけ給はゞ、先せんぢんうけたまはりて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城ねしろほふりて、このいきどはりはらすべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗かなまりも堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智そうさつゑいち感伏かんふくし、「はやく景連をうち給へ」、と頻りにすゝめ奉れば、義實かうべをうちふりて、「いな安西はうつべからず。われ定包さだかねほろぼせしは、ひとり榮利ゑのりを思ふにあらず、民の塗炭とたんすくはん爲也。さは衆人もろひとのちからによりて、長狹平郡ながさへぐりぬしとなる、こよなきおのさいはひならずや。景連梟雄けうゆうたりといふ共、定包がたぐひにあらず。その底意そこゐはとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時をうつに及びて、かれいちはやく平館なる、城をぬきしをねたしとて、いくさを起し、地を爭ひ、蠻觸ばんしよくさかひに迷ひて、人を殺し民をそこなふ、そはわがせざる所也。景連奸計おこなはれて、平館を取るといへども、なほあきたらで攻來せめくるならば、一時いちじ雌雄しゆうを決すべし。さもなくはさかひまもりて、こゝより手出しすべからず。みなこのむねをこゝろ得よ」、と叮嚀ねんころさとし給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩きんじゆのともがら、蜑崎等もろ共に、感佩かんはいせざるものもなく、「いにしへの聖賢せいけんも、このうへややはある」、と只顧稱贊ひたすらせうさんしたりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、かれほめかれさとして、安西をうつことをとゞめ、「人の物を取らんとて、わが手許たなもとを忘るゝな。鄙語ことわざにいふ、あくことしらぬ、たかつめさくるかし。籠城ろうぜうほか他事あだしこと、あるべからず」、といましめて、蜑崎十郞等をかへし給ひつ。
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南総里見八犬伝(007)

南總里見八犬傳卷之三第六回
東都 曲亭主人 編次
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賞罰せうばつあきらかにして義実よしさね玉梓たまつさ誅戮ちうりくす」「玉つさ」「定かねが首級」「戸五郎が首級」「どん平が首級」

倉廩さうりんひらきて義實よしさね二郡にぐんにぎは
君命くんめいうけたまはりて孝吉三賊たかよしさんぞくちう

 卻說瀧田かくてたきた軍民等ぐんみんらは、まづ鈍平等どんへいらうたんとて、城戶陜きどせまし、と詰寄つめよせて、ときどつあげしかば、思ひがけなく塀の內より、やり穗頭ほさきつらぬきたる、生頸なまくびを高くあげ、「衆人もろひとわれをなにとかする。われはや非をくひぎやくさりこゝろざし寄手よせてにかよはし、逆賊定包さだかね誅伐ちうばつせり。いざもろ共に城を開きて、里見殿さとみどの迎入むかへいれずや。同士擊どしうちすな」、とよばゝらして、城戶きどさつおしひらかせ、岩熊鈍平いはくまどんへい妻立戶五郞つまだてとごらう鎧戰袍華よろひひたたれはなやかに、軍兵夥ぐんびやうあまた前後にたゝして、兩人床几せうきしりかけ軍團把ぐんばいとつてさし招けば、軍民等はあき惑心まどひて、くだんくび向上みあぐるに、こはまがふべうもあらぬ、定包が首級しゆきうなり。「原來さては鈍平戶五郞等、のがるべきみちなきを知りて、はや定包をうちたるならん。憎し」、と思へど今更に、同士擊どしうちするによしなければ、やむことを得ずそのげぢに隨ひ、城樓やぐら降參こうさんはたたてて、正門おほてのもんおしひらき、鈍平戶五郞等を先にたゝして、やが寄手よせてむかふれば、里見の先鋒金碗せんぢんかなまり八郞、こと仔細しさいをうちきゝて、定包が首級をうけとり、軍法なれば鈍平等が、腰刀こしかたなさへとりおかして、大將に報知奉つげたてまつれば、義實よしさねは諸軍を進めて、はやその處へ近つき給へば、鈍平等は阿容々々おめおめと、沙石いさごかうべ掘埋ほりうづめて、これを迎奉むかへたてまつり、城兵等ぜうひゃうら二行にぎやうについゐて、僉萬歲みなばんぜいとなへけり。しばらくして後陣ごぢんなる、貞行も來にければ、前駈後從ぜんくごしよう隊伍たいごを整へ、大將しづかに城にいりて、くまなく巡歷じゆんれきし給へば、神餘じんよがゐまぞかりし時より、只管驕奢ひたすらけうしやふけりしかば、奇麗壯觀きれいさうくわん玉をしきこかねのべずといふことなし。加以これのみならず定包又さだかねまた民をしぼりて、あくまで貪貯むさぼりたくはへたる、米穀べいこく財寶倉廩くらみちて、沛公はいこうコウソ]が阿あばうりしとき、幕下ばくか[頼朝ヨリトモ]が泰衡やすひらうちし日も、かくやとおもふばかり也。さりけれども義實は、一毫いちごうおかすことなく、倉廩くらをひらきて兩郡なる、百姓等に頒與わかちあたへ給へば、貞行等これをいさめて、「定包誅ちうふくしたれども、なほ平館ひらたて館山たてやまには、麻呂安西まろあんさい强敵ごうてきあり。さいはひにこの城をて、軍用乏ともしからずなりしを、一毫いちごうたくはへ給はず、百姓ばらにたまはする、賢慮けんりよつや〳〵こゝろ得かたし」、とまゆうちひそめてまうすにぞ、義實きゝてうち點頭うなつき、「しか思ふは眼前の、ことわりに似たれども、民はこれ國のもとなり。長狹平郡ながさへぐりの百姓等、年來としころ惡政にくるしみて、今ぎやくさりじゆんせしは、飢寒きかんのがれん爲ならずや。るをわれ又むさぼりて、彼窮民かのきうみんにぎはさずは、そは定包等に異ならず。倉廩くら餘粟あまんのあわありとも、民みなそむきはなれなば、たれとゝもに城を守り、たれとゝもに敵をふせがん。民はこれ國のもと也。民のとめるはわが富む也。德政むなしからざりせば、事あるときに軍用は、もとめずもあつまるべし。惜むことかは」、とのたまへば、貞行等は更にもいはず、感淚そゞろとゞめかねて、おんまへを退出まかでけり。
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南総里見八犬伝(006)

南總里見八犬傳卷之三 第五回
東都 曲亭主人 編次
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瀧田たきたしろせめ貞行さだゆき妻立つまたて戸五郎とごらうふ」「金まり八郎」「里見よしさね」「堀内貞行」「妻立戸五郎」

良將策りやうせうはかりごと退しりぞけ衆兵仁しゆへいじん
靈鴿書いへはとしよつたへ逆賊頭ぎやくぞくかうべおく

山下柵左衞門尉定包やましたさくざゑもんのぜうさだかねは、麻呂安西まろあんさいつかはしたる、その使者瀧田たきたたちかへりて、「彼輩かのともがら忽卒あからさまに、歸降きごうのよしをいはざれども、いたく怕害おそれて候ひし。遠からずしてもろともに、みづから詣來まうきて罪を勸解わび麾下きかしよくせんこと疑ひなし。その爲體ていたらく箇樣々々かやう〳〵如此々々しか〴〵に候ひき」、となきことまである如く、ことばを飾り、首尾精細しゆびつばらかに、あくまでこびつげしかば、定包ます〳〵こゝろおごり、をもて日に續遊興つぐゆうきやうに、士卒しそつうらみをかへりみず、ある玉梓たまつさてくるまを共にして、後園おくにはの花にたはむれ、あるあまたの美女をあつめて、高樓たかどのに月をもてあそび、きのふは酒池しゆち牛飮ぎういんし、けふは肉林にくりん飽餐ほうさんす。一人いちにんかくの如くなれば、老黨ろうどうも又淫酒いんしゆふけりて、むさぼれどもあくことなく、ついやせどもつくるをしらず。王莽わうまう宇內くにのうちを制する日、祿山ろくさん唐祚たうのまつりかたむくるとき、天日私てんじつわたくしに照らすに似たれど、逆臣はながくめいをうけず。定包がほろびんこと、かならず久しからじとて、こゝろあるは目をそはだて爪彈つまはぢきをするもの多かりけり。
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日本人と漢詩(125)

◎ 私と杜甫


 五言律詩をいくつか習った。漢詩の最高の完成形は、七言律詩と思っていたが、五言律詩もピンインで詠むとなかなか異趣もあり、奥が深い。句切れが二言/三言となり、リズムも独特のものになる。五言は、マーチのリズムで二拍子、七言は、ワルツのリズムで三拍子に例えられようか。この律詩、後半の頸聯、尾聯あたりで、心情を簡にして潔ぎよく、ビシッと決め文句を持ってくるのは、杜甫ならではの力量だろう。

Lǚ yè shū huái   Táng   Dù fǔ
旅 夜 書 懐   唐 ・ 杜 甫
Xì cǎo wēi fēng àn
細 草 微 風 岸
Wēi qiáng dú yè zhōu
危 艢 獨 夜 舟
Xīng chuí píng yě kuò
星 垂 平 野 闊
Yuè yǒng dà jiāng liú
月 湧 大 江 流
Míng qǐ wén zhāng zhù
名 豈 文 章 著
Guān yīng lǎo bìng xiū
官 應 老 病 休
Piāo piāo hé suǒ sì
飄 飄 何 所 似
Tiān dì yī shā ōu
天 地 一 沙 鴎

 決め文句は「天地一沙鷗」!、その前の「飄飄」とうまく呼応していると思われる。

 訓読と語釈は、n+te 厂碧山を参照のこと。

Dēng yuè yáng lóu   Táng   Dù fǔ
登 嶽 陽 樓   唐 ・ 杜 甫
Xī wén dòng tíng shuǐ
昔 聞 洞 庭 水
Jīn shàng yuè yáng lóu
今 上 嶽 陽 樓
Wú chǔ dōng nán chè
吳 楚 東 南 坼
Qián kūn rì yè fú
乾 坤 日 夜 浮
Qīn péng wú yī zì
親 朋 無 一 字
Lǎo bìng yǒu gū zhōu
老 病 有 孤 舟
Róng mǎ guān shān běi
戎 馬 關 山 北
Píng xuān tì sì liú
憑 軒 涕 泗 流

 決め文句は、杜甫の正直な、そしてやるせない懐いとしての「老病有孤舟」、ピンインではその寂しさが余計に伝わってくる。

 訓読と語釈は、漢詩の部屋を参照のこと。

南総里見八犬伝(009)

南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな


金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれんが息そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ、尋よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。
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読書ざんまいよせい(068)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(009)

 岩波文庫「南総里見八犬伝」(一)に高田衛氏の「『八犬伝』を読むために」という解説文がある。今更、勧善懲悪づくし、しかもやたらに長い「八犬伝」でもあるまいにと思ったが、読んでみると、意外と筋立てや表現が「論理的」で面白くも感じた。そこで、どこまでできるかはおぼつかないが、テキストのアップに取り組んでいる。まだ、冒頭部分だけなので、いつになったら完成するのやら…
 評判の悪い「勧善懲悪」でいうと「馬琴は、勧善懲悪を唱導した。しかしその悪とは、体制の悪であった。したがってその善とは、体制そのものをゆさぶる行為でさえあった」(松田修氏)の指摘は、しばし至言であり、秋水にも通じるだろう。
 ここでは、高田衛氏から冒頭部分を長く引用し、幸徳秋水の想いに馳せるうえでの一助としたい。

 先頃、幸徳秋水の獄中書簡を読んでいたら、こんな個所に目がとまった。

△六ヶ月目で此頃ー二回刺身を食た。秋刀魚を食っては季節だなと思び、新鮭や数の子を食てはモウ出たナと感じる。此夏以来鮎も食た。松茸も食た。野菜は胡瓜、東蒲塞、茄子の時代から此頃の離大根まで、果物も林檎、梨子、栗、柿、蜜柑と、新しい物が這入る毎に娑婆の節物の移り行くことを想ひやる。小供の時に読だ伏姫の山ごもりに花紅葉(ママ)村里の四季を想ふ美しい文があったが、吾等には每日の差入弁当が唯一の暦だ。
   (明治四十三年十二月六日付、師岡千代子宛)

 おそらく質素であったに違いない差入弁当の、そのおかずにさえ、くっきりと浮び上ってくる四季の姿がこの手紙にみられる。この豊饒な季節感は、もう私たちの日常からは永遠に失われてしまったことを、しみじみと感ぜずにはいられなかったのだが、その間に何気なく、『八犬伝』の一節「伏姫山ごもり」の文章の想い出が挿入されていたことが、とりわけ印象的であった。
 時代からいっても漢詩の嗜みのある点からみても、幸徳秋水のような人が『八犬伝』を碗んでいたことに別に不思議はない。ただ、秋水のような革命家の心にさえ、ひときわ豊かな季節感の感受があり、それとまったく矛盾のないかたちで、『ハ犬伝」の一節が甦えってくることの、いわぱ「自然さ」に思いをはせないではいられなかったのである。
 秋水が回想した「伏姫の山ごもり」の「村里の四季を想ふ美しい文」というのは、次のような文章であった。
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日本人と漢詩(124)

◎ 私と孟浩然

Chūn xiǎo   Táng   Mèng hào rán
春 曉   唐 ・ 孟 浩 然
Chūn mián bù jué xiǎo
春 眠 不 覺 曉
Chù chù wén tí niǎo
處 處 聞 啼 鳥
Yè lái fēng yǔ shēng
夜 來 風 雨 聲
Huā luò zhī duō shào
花 落 知 多 少

 訓読分と語釈は、Wikipedia 参照のこと。

Guò gù rén zhuāng   Táng   Mèng hào rán
過 故 人 莊   唐 ・ 孟 浩 然
Gù rén jù jī shǔ
故 人 具 鶏 黍
Yāo wǒ zhì tián jiā
邀 我 至 田 家
Lǜ shù cūn biān hé
緑 樹 村 邊 合
Qīng shān guō wài xié
青 山 郭 外 斜
Kāi xuān miàn cháng/chǎng pǔ
開 軒 面 場 圃
Bǎ jiǔ huà sāng má
把 酒 話 桑 麻
Dāi/dài dào chóng/zhòng yáng rì
待 到 重 陽 日
Huán lái jiù jú huā
還 来 就 菊 花

 訓読文と語釈は、泉聲悠韻を参照のこと。

 孟浩然は、第一首の「春眠暁を覚えず…」の名句で知られるが、一般的には、俗世間から離れた境地を持ち味とするとされる。しかし、科挙の試験に何回か落ちた彼の思いはそれだけでないように思う。第二首目は、陶淵明に詩情は借りているが、それを超えて、なにかやるせなさも感じる。「隠棲」でホッとした気持ちと、二重化し詩人の心持ちにはあったようだ。詩友・王維も、それぞれの持ち味、経歴は違うが、十分それを承知の上での交流だったのだろう。

Liú bié wáng shì yù wéi Táng   Mèng hào rán
留 別 王 侍 御 維  唐・孟 浩 然
Jì jì jìng hé dài  
寂 寂 竟 何 待
Zhāo zhāo kōng zì guī  
朝 朝 空 自 歸
Yù xún fāng cǎo qù
欲 尋 芳 草 去
xī yú gù rén wéi
惜 與 故 人 違
Dāng lù shuí xiāng jiǎ
當 路 誰 相 假
zhī yīn shì suǒ xī
知 音 世 所 稀
Zhī yīng shǒu suǒ mò
祗 應 守 索 寞
Huán yǎn gù yuán fēi
還 掩 故 園 扉

 訓読文と語釈は、詩詞世界を参照のこと。

南総里見八犬伝(012)

南總里見八犬傳第二輯卷之一第十一回・序など
東都 曲亭主人 編次
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【外題】
里見八犬傳 第二輯 巻一
【見返】
文化丁丑孟春刊行
曲亭馬琴著 柳川重信畫
有圖八犬傳第弐輯
山青堂藏刻

【序】書き下し

八犬士傳第二輯自序[玄同]

稗官新奇之談。嘗作者ノ胸臆ニ含畜ス。初種々ノ因果ヲ攷索シテ。一モ獲ルコト無スハ。則茫乎トシテ心之適スル所ヲ知ラズ。譬ハ扁舟ヲ泛テ以蒼海ヲ濟ル如シ。既ニシテ意ヲ得ルトキ。則栩々然トシテ獨自ラ樂ム。人之未視ザル所ヲ見。人之未知ラザル所ヲ識ル。而シテ治亂得失。敢載セザルコト莫ク。世態情致。敢冩サザルコト莫シ。排纂稍久シテ。卒ニ册ヲ成ス。猶彼ノ舶人。漂泊數千里。一海嶋ニ至テ。不死之人ニ邂逅シ。仙ヲ學ヒ貨ヲ得テ。歸リ來テ之ヲ人間ニ告ルカゴトキ也。然トモ乗槎桃源ノ故事ノ如キ。衆人之ヲ信セズ。當時以浪説ト為。唯好事ノ者之ヲ喜フ。敢其虚實ヲ問ハズ。傳テ數百年ニ迨スハ。則文人詩客之ヲ風詠ス。後人亦復吟哦シテ而シテ疑ズ。嗚乎書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信與不信ト之有リ。國史ノ筆ヲ絶シ自リ。小説野乗出ツ。啻五車而己ナラズ。屋下ニ屋ヲ加フ。今ニ當テ最モ盛也ト爲。而シテ其言詼諧。甘キコト飴蜜ノ如シ。是ヲ以讀者終日ニシテ而足ラズ。燭ヲ秉テ猶飽コト無シ。然トモ於其好ム者ニ益アルコト幾ント稀ナリ矣。又夫ノ煙草能人ヲ醉シムレトモ。竟ニ飲食藥餌ニ充ルコト無キ者與以異ナルコト無シ也。嗚呼書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信ト不信與之有リ。信言美ナラズ。以後學ヲ警ム可シ。美言信ナラズ。以婦幼ヲ娯シム可シ。儻シ正史ニ由テ以稗史ヲ評スレハ。乃圓器方底而己。俗子ト雖固ニ其合難ヲ知ル。苟モ史與合ザル者。誰カ能ク之ヲ信セン。既ニ已ニ信セズ。猶且之ヲ讀ム。好ト雖亦何ソ咎ン。予カ毎歳著ス所ノ小説。皆此意ヲ以ス。頃コロ八犬士傳嗣次ス。刻成ルニ及テ。書賈復タ序辭ヲ於其編ニ乞フ。因テ此事ヲ述テ以責ヲ塞クト云フ。

文化十三年丙子仲秋閏月望。毫ヲ於著作堂ノ南牕木樨花蔭

簑笠陳人觧識

[震坎解][乾坤一草亭]

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読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

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一 番作と蟇六

 伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢ家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡をくらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中にめとつた妻をれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、さぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくはては母が病氣でひとの足りないのをかこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼をつぶつたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くとひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。
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