木下杢太郎「百花譜百選」より(017)

◎46 ひゝらぎもくせい 柊木犀

昭和十八年十月廿二日
天平の仏像に関して稿を起す。Dematiaceae (注 黒色真菌)に属する病原菌に関する論文を閲す。小川太一郎氏の成層圏飛行の講演を聴く。

Wikipedia ヒイラギモクセイ

付】「市街を散歩する人の心持」「荒庭の観察者より」

 東京の市街を、土曜日の午後あたり、明日は日曜だという安心で、と見こうみ、ぶらぶら歩るくほど楽しみなものはない。たとえば神田の五軒町あたりは、広い道の両側に柳の並木、日にきらめける鉄条の上をけたたましい電車の嵐、と思って一寸道傍の店先を覗くと青く汚れた温い硝子戸を越してお七、吉三(1)の古い錦絵、その隣を乳房をあらわに髪を梳る女、銘は何れも歌麿筆としてある。
 全体が青い調子の横に長い方形の景色絵がある。広重という落款で鳴海の景とある。代赭の色の、はた白に浅葱の縞模様、特産の鳴海絞は並び立つ太物屋の軒に吊り下っている。その前の街道をば荷を付けた馬が通る。旅人めく一群の人が通る。
 古い錦絵の包蔵した情調は音楽の如く散歩する人の心を襲う。一種の譬え難き哀愁が胸の底に涌く。その絶ち難い愛着を捨てて猶も歩を進めてゆくと、思いがけなくも一列の赤い郵便馬車の駆け来るのに出遇う。今得たまどかな気分は忽ち破壊せられたので、不安の眸を放って、市街をおちこちと見廻わしていると、斜日に照らされて、夢の如く浮び出ているニコライの銀灰の壁が目に入る……神田の古風な大時計がじん、じん……と四時をうつ。
 ──こう云う平坦な記述が他の人々にも興味があるかどうだかは知らない。併し自分には東京の景物ほど心を引くものはない。それも単に視覚と、聴覚と、或は空気の圧迫に感ずる触覚と、偶は又、日本橋、殊に本町、大伝馬町にきく酢酸、塩素瓦斯、ヨオドフォルム(2)乃至漢法方剤の怪しい臭い、九月の頃にはまた通一丁目、二丁目辺、長谷川町の辺にきく、問屋に出始めた冬物の裏地のにおい──是等のいろいろの匂いに感応する嗅覚というようなものの方面から見てである。
 かくして市街の散歩者は二時間、三時間の漫歩の間に官能の雑り織る音楽を味う事が出来る。──
 自分は今心が惑う。九月の朝の日比谷公園の印象を語ろうか。或はそこの八月の夜を描き出そうか。或は更に興味ある秋の夜の銀座裏町の生活を語ろうか。それとも春雨頃の、沈んだ三味線の音のように淡く寂しい深川の河岸の情緒を語ろうか。
 嘗つて自分が永井氏の「深川の唄(3)」を読んだ時、このさとの哀れ深い生活が氏の豊麗な才筆に取り入れらるるという事を如何に喜ばしくも亦妬ましくも感じたったろう。かの同盟罷工の一揆のように獰くむくつけき文明の侵略軍の、その尖兵にもたとえつ可き電車さえも、この里には、高橋より奥には寄せて来なんだ。だからあの不動様にも、昔のままに奇しい蠟燭の火が点っている。ここの娘たちは冬にも足袋をはかぬ。まだ広い黒繻子の襟をかけて居る。濃い紫の半襟をかけている。赤い手がらをかけている。昔の芝居によく出たような深川の質屋も、材木屋も、石材問屋も、醬油屋の低く長い蔵の壁も昔のままに沈黙している。そうして考えて居る。悲しんで居る。縁日にはまだ覗き機関が哀れな節を歌っている。阿呆陀羅経が人を笑わしている。──
 ある午後、自分は云い難き憂愁に襲われて、独り寂しく深川の小溝の縁に立った。不動様の裏手に当って居る所であった。
 春の日の午後三時は油の如く静かであった。細い雨もしばし途切れて、空の一部には雲の色が黄色になった。向う岸の家の軒には、一面の材木、中にも新しい檜はかの甘い匂いを春の重い空気のうちへ流すかの如く見えた。黙って水の面を眺め乍ら、自分は向う岸の新しい二階から漏れる長唄の三味線の音を聴き澄んだ。単調な絃のリズムが流れまた淀む。子供にでも教えて居るのかしらん、時々同じ節を繰り返す。蒸すように温い──また柔かな頸に圧されるように重い春の午後の空気のうちに、自分は夢みるように、一種の軽い疲労を感じながら、耳に来る節々に少さき時への聯想、まだ残っている昔の空想を一々結びつけていた。
 忽ち自分の後ろから女の人が来た。(ここはまた渡し場であった。)黒い襟に、赤っぽい唐桟の袢纏を着た若い女が渡し場の桟橋の端に立った。女は軽く両手を挙げる。そうして人を招くような手付きをして、かの三味線の方角に呼びかけた。
 「ちょいと、ちょいと、もし。」
 女は宛もない人を呼ぶ。
 「ちょいと、ちょいと、あのね、敷島(4)を一つ。」
 自分が──宛もない──と思ったのは間違であった。三味線の二階の下の店からは(そこは渡し舟の賃を取る所だった。)急に人も見えないのに返事が聞こえた。
 「二つですか?」
 「一つ!」
 「お釣りじゃあ無いんですか?」
 「二銭!」
 と高く答えた。まだ敷島が八銭の時であった。
 少時らくして年老いた男が客を一人載せて渡し舟を突いて居た。釣と煙草を女に渡して、それからまた、もうそこに集っていた二三の客をまた舟に載せて岸を離れた。その時自分も、昔の浄瑠理に出そうな舟にのって、眠むたい三味線の音律をきき乍ら老人に竿を突かして、薄きカアマイン色に曇った春の空気を岸のあなたに渡った……
 人は屹度こんな筋もない話を笑うであろう。然し鋭敏な官能で、且近代の芸術に慣れた人の空想力はよく自分の不十分な描写を補って呉れるのであろう。自分は安んじて更にまた話を続ける。
 ああ自分はどうかして、せめてはかの日比谷公園の九月下旬の曇った朝の枯草の匂いを形容して見たい。柵で囲まれたやや広い方形の園の中には、秋のやや黄ばんだ雑草が思い思いの空想に耽っているように匂って居た。昔の黒田清輝先生のスケッチに屢く見られたような、光線の為にコバルト色に輝いて居る一群の草刈女が、絵の中でのように草を刈っている。刈られた草は山に積まれる。日は司法省の屋根の上に出ているのだから、柵に立っている人には、枯草の、日を受けない陰の一面が見える。枯草の山の周囲の縁は黄金色に輝いて居る。陰になった部は、言葉では到底形容の出来ない色に曇っている。せめてあの色調──あの枯草の束だけでも、心ゆく許りに、日本の油絵の上に見たいと望まずには居られなかった。
 司法省、裁判所が日かげになって漠々と紫色に煙って居るのも美しい。その下の一列のポプラスの梢の蛍のような緑金色の輝きも心を引く。殊に目の前に、柵に沿うて横わっている木は、漆に似て更に細かい対生葉を有っていたが、黄いろい枯葉を雑えた枝ぶりは絵画的に非常に心地がいい。丁度中から出て来た園丁に其名を尋ねたら「しんじの木ってえです。」と答えた。
 草の中に子供が遊んでいる。白い蓋をした揺籃車の中に嬰児が眠っている。遠い小丘の下に盛装した一群が現われた。──凡ては秋の朝の公園の印象を語るに適当な材料であった。自分は油絵かきにならなかったのを悔んだ。
 唯出来る丈長く此印象を銘じて置く為めに、自分は友人を拉してその近くの料理屋の二階に登った。そうして重い緑色のペパミントと濃い珈琲とを併せ飲んだ。欄干の日差はやがて正午に近いという事を知らした。
 「では皆さんに申上げますが、之は私の長男です……」階段に下りかかる時、葦簾の襖を隔てた隣室からこう云う言葉を聞いた。そこには本郷座的に礼装した一群が卓を囲んでいた。高い島田を結った女の後姿も見えた。年とった男の人が今立ち上って若い人を紹介する所だったらしい。そんな声を聞きながら、自分等は再び外へ出た。
 人は沈黙している。足の爪先に病でもあるように、じっと物うれわしげに地の面を眺めている。そこには海底のように緑い孤灯の波をうけて、白と紅との芙蓉の花が神経的に顫えて居た。
 星のない八月の夜は暗かった。どことなしに、然し、なつかしい夏の夜の光がおぼめいて居た。
 噴水の夜の音楽。
 暗く、陰鬱に、しかも懐しく悲しい水の曲節は、たとえば、西洋楽を聴くに熟せざる吾等若き東洋人がチャイコウスキイの夜の曲のロマンチックな仏蘭西的魯西亜的旋律をきく時に、どこかの国が、はたその国、その国民の烈しき情緒生活が音楽の後ろにかくれて居るとは感じながら、遂に其本体を摸索する事の出来ないような覚束ない心持を、池を囲む人に、女に、また青きポプラスの並木に、柔らかき夜の空気に起させて居るのであった。
 調和を失せる痛ましい日本が、一方に勤倹尚武を鼓吹しながら、同時また恁んな近代的情調を日比谷公園裏に蔵して居るという矛盾を笑わずには居られなかった。
 共同ベンチに腰を掛けた一群の人はどういう感じを持っているか、自分は切に知りたかった。ここは義太夫のさわりに、新内に、宇治は茶に習い得た美的需要を満すに適する所ではなかった。
 高く昇る水は夢の如く白く、滾り飛ぶ水滴は叙情詩の砕けたる霊魂のように紫の街灯の影を宿して、さやさやと悲しく池の面を滑っていた。
 その前に、美的趣味に於て亡国の民は黙々として、足の指先の病を憂えるように、俛首れて不可思議の音楽を聞いていた。
 自分は八月の或夜日比谷公園を歩るいて、恁う云う光景に出遇った事を覚えている。
 数寄屋橋を渡って銀座の通りに出ると、そこはもう夏の夜の、涌くが如き歓楽の叫びにふるえて居た。
 自分は銀座の通りの雑踏を思うごとに、その横町で或秋の夜偶然出遇った一事を想い出さずには居られない。──
 其夜も、自分は古い妄想に沈みながら街上を漫歩していた。その妄想というのは、どうしたら今の日本に於て、自分等の一生のうちに、心から満足するような趣味の調和に会する事が出来るだろうかという疑である。自分はもう雪舟や、芭蕉や、寒林枯木や、寒山拾得で満足する事は出来ない。それかといって西洋風の芸術はどうしても他人がましい。中村不折氏、橋本邦助氏等が新芸術、綱島梁川氏海老名弾正氏(5)等が新宗教でもまだまだ満足は出来ぬ。して見ると今の世は渾然たる調和を望む事は到底不可能の時世である。フィジアス、パラジオ、ゲエテエ等が時では無い。サン・ペトロ、サン・ジョオルジョオ、ファウスト(6)等の生る可き世では無い。──結局自然主義の世だ。印象主義の世だ。成程自分等に、黒衣の男子と、白裸体の女子とを配する「草上の朝餉」(7)(Manet,LeDéjeunersurl’herbe)の趣味が興味のあるのも無理は無いのだ。
 調和せざる事象に、時代錯誤に、溝渠の上なる帆を張りたる軍艦に、洋館の側に起る納曽利(8)の古曲に、煉瓦の壁の隣りなる格子戸の御神灯に、孔子の尊像の前に額ずくフロックコオトの博士等に──是等の不可思議なる光景に吾等の脳髄が感ずる驚駭を以て自分等の趣味を満足して置かねばならぬ。
 こう云う粗い対照なら東京の市街にいくらでも転っている。現に此、銀座街頭の散策の間にも自分は出遇ったのであった。そこは丁度地蔵さんの縁日だった。道の両側には、折柄の菊の花売がカンテラ(9)の陰で白い花に水を灌いでいた。盲目の三味線弾は自分の足場を一所懸命で捜して居た。ふと気付くと月の良い晩だ。而かも沛然たる一雨のあとで、煙草製造工場の屋根が銀碧の色に輝いて居た。工場の屋背にはまた半球形の円頂があった。それが月の陰になって暗い紫灰銀色の空気に沈んでいる。この珍らしい光景を見ると、自分は、一体どこの国へ来たんだい!と怒号ってやりたくなった。
 街道の舗石の上に一団の黒い人群が居る。街頭の謳者を行人が取り囲んだのであった。〽高等女学校のスチュデント、腰にはバンドの輝きて、右手に持つはテキストブック、左手にシルクアンブレラア、髪にはバッタアフライ、ホワイトリボン……」
 自分は亦此処にも日本らしからぬメロディを聞いておやおやと思ったのである。若し自分が威尼西亜のカナアルの縁をでも歩いているのなら、そこに恁んな節を聞こうとも、乃至はアリオストオ、タッソオ(10)等が古き朗詠を聞こうとも、此時のような不可思議な感じは抱かなかったろう。併し自分は今東京を歩るいて居るのだ。河岸縁には鍋焼饂飩がぱたぱたやってるではないか。煉瓦の壁の側の瓦斯灯には松葉の輪に「歌沢」とちゃんと書いてあるではないか。こんな「髪結新三」的情調へあんなべらぼうなバッタアフライ、ホワイトリボンが這入って来てたまるものか。然し、事実は、噓のようだが、事実だから仕方が無い。恁ういう風にいうと、全く誇張した修辞法と思うかも知れないが、知の外の、感情の上には確かに不思議だ。
 それから……自分はぶらぶらと京橋まで歩いて来た。「金沢」という寄席の隣の、何とかいう小さいしる粉屋でしる粉をのんで、その家を立ち出でると、三味線の音は手に取るように聞こえて居た。
 外は、夜が寒い。月は見えなくなって暗かった。唯金沢の二階は、ばっと明るく、灯の光が一面の障子を照らして居た。そこから三味線の音が聞かれるのであった。軒行灯に「金之助」という名が見えたから、多分今のも、あのもう年増の女の三味線弾の長唄であったろう。一挺ではあったが、曲は何か賑かなものだったと見えて、彼の長唄に特有な、単調な、強くリズミカルな節を幾度か繰り返しては、また次の撥音ばかりの荒い節に移って行っていた。三四人の人が立ってたから自分も立ち止まって聴いた。一寸と思う内につい釣り込まれて立って居ると、そこに立った人々は急に高声に罵り乍ら立ち去る処だった。下の木戸番が、そこに立つ位なら内に入った方が寒くないぜというような皮肉を云ったのだと見える。
 「べらぼうめ、天下の往還だ。立ちてえから立ったんだい。」といいながら印半纏の男が丁度歩きかけた。もう立つ人もなくなった。ただ、まだおかしな女がまごまごしている位なものだった。前に縁日の通りでも、無理に、謳者の廻に立つ人の中へ割り込むようには入ったりした、若い、吾妻コオトを着た妙な女だった。そいつも然し行ってしまった。で、自分もまた歩き出そうと思って一足踏む時、まだ何だか後ろの方で人が呟くようだと気が付いた。実際、矢張人が居たのだった。頭の禿げた、ずぶよぼよぼな爺さんが、向いの家の瓦の壁の前に積み上げられた石の下に跼んでいた。そうして何かぶつぶつ口小言を云って居るのであった。
 「ああ、爺さん、お前か?」
 と驚いて自分は叫んだ。同時にこの老爺の事について、かつて聞いた事を思い出して急に可笑しくなった。
 もと自分が日本橋の裏通りの居酒屋へは入った事があったが、その時、親子づれの浪花節語が門口で国定忠次を語って行ったあとで、居酒屋の内でもてんでんに調子づいて、いろいろの歌を歌い出したのに遭遇した。その時此老爺もその席に居た。そうして歯の抜けた口で以て、自分も仲間に加わって、ぼけたような「我ものと思えば軽し」を歌い出した時には、みんな笑わずに居られなかった。
 その時聞いた話があるが、この老爺はもと東京の士族で、さらぬだに零落しやすかった維新後の士族の中に、更に酒と女とで到頭この年まで河岸の軽子にまで落ちぶれたのだそうだ。それでも殆ど毎晩欠かさずに此酒屋にくる。だが、歌を自分が歌って笑われたのは其晩初めてだと云う。自分こそ歌はないが、歌は本当の好きで、この酒屋を出れば屹度どこかの寄席の近くへ往くんだそうだ。金沢はすぐ高座の下が往来だから、よくそこでその地びたの上に寝ているのだそうだ。
 「じいさん、また来たな」と、そういう話を知って居たから、自分は話しかけた。今迄独言をいって居た老爺は急に相手が出来たものだから、
 「本当さ。なあ、天下の往還でえ、べらんめえ、何ってやがるだ」とやや声高に自分に云った。
 ……それから、自分はじき歩き出した。京橋の通りに出ても、実際だったのか、それとも耳鳴りだったのか、まだかすかに長唄の三味線が聞こえて居た。

(一九一〇年二五歳)

注】
1[お七、吉三]井原西鶴の『好色五人女』や歌舞伎、浄瑠璃の題材となった、八百屋の娘お七と、その恋人の吉三。2[ヨオドフォルム]外傷の防腐剤として使用される黄色の結晶。3[永井氏の「深川の唄」]一九〇八年に永井荷風が書いた短篇小説。4[敷島]煙草の銘柄の一。5[中村不折…]中村不折(一八六六─一九四三)、橋本邦助(一八八四─一九五三)は画家。綱島梁川(一八七三─一九〇七)はキリスト教思想家、評論家。海老名弾正(一八五六─一九三七)は牧師、教育家。6[ファウスト]一九世紀前半に出版されたゲーテの戯曲『ファウスト』の主人公。7[草上の朝餉]エドゥアール・マネの代表作「草上の昼食」(オルセー美術館蔵)のこと。8[納曽利]雅楽の曲名。9[カンテラ]油用灯火具。10[アリオストオ、タッソオ]いずれもイタリアの詩人で、前者はルドヴィーコ・アリオスト(一四七四─一五三三)、後者はトルクァート・タッソ(一五四四─九五)。

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