巖窟王(上 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 八六 心の誓ひ
昔話に聞く龍宮とても此室より以上の事はないだらう、安雄は見惚れて恍然として居たが、主人の謝辭の樣に「イヤ來客の目を隱して案内すると云ふ事は、此上もない無禮ですが、全く止むを得ざるに出た事は幾重にもお察しを願ひ度いのです、茲は私の隱れ家で、入口の祕密が人に分れば今迄の樣に世間から隱遁してゐる事が出來難くなります、其れに私は一年の中、三百日ほど他へ出て居ますゆゑ、留守の間に自分の隱居所を荒される樣な事があるも辛く、其れや是れやで、此の巖窟の入口は、誰も目を開いて來るのを許さぬと、斯う云ふ事に兼て定めてあるのです、特に貴方の爲に其定めを破る譯にも行きませず、失禮とは知りながら他の人同樣に取扱ひました」何故にさう迄も用心して特に安雄を呼入れたのだらう、其れほど入口の祕密を知られるのが怖ければ招き入れぬが好さ相なものであるのに、併し安雄の心に斯樣な疑ひなど起る暇はない、何しろ多く見た事のない、此龍宮を見る運に廻り合せたのが嬉しい「イヤ目を隱されるは愚、縱しや手足を縛られても、此樣な仙窟へ招かれるのは榮譽です」
主人は先づ安雄に座を與へて、自分も腰を卸した、安雄は何の上に自分の腰が乘つて居るか殆ど疑はしい程に思ふ、椅子の面が柔かで、何だか空中に浮んでゐる樣な感じがする、主人「斯うお目に掛つて互に話を仕ますのに、何か呼ぶ可き名がなくては、拍子がよくありません、何うか私を呼ぶには新八とお云ひ下さい、私は船乘新八と世間から呼ばれてゐます、貴方を何と呼びませう」敢て本名を聞かうと云ふではない、實の所本名を聞かずとも既に知つてゐるのだらう、安雄はさうとも思はぬから本名まで明かし度くない「イヤ貴方が昔話で有名な船乘新八ならば私も其昔話に在る荒田院と呼ばれませう」主人は全く打解けた調子と爲り「では荒田院さん、不意の事とは別に用意とてもありませんけれど、晩餐を差上げる爲にお招き申した譯ですから、先づ食堂へ御案内致しませう」とて室の左の方へ振向いた、安雄も同じく其方へ振向いて見ると壁の所に絹の埀幕が掛つてゐる、是れが食堂への入口であらう、「何うぞ」と安雄は唯だ簡單に答へ主人に續いて立上つた。
埀幕を開くと短い廊下がある、今の室も此廊下も、組細工の天上からヴエニスの製と思はれる綺麗な硝燈が下つてゐて、明るきこと晝の如しである、廊下を通り盡すと愈々食堂である、廣さは三十人も會食する事が出來るだらうか、其眞中に唯數人を圍ませる丈の卓子を置いてある。
室中の立派な景状は、云ふ迄もない、イヤ言ひ樣がない、室の四隅に、名手の彫刻したと思はれる大理石の天使の立像があつて各其手に籃を提げてゐる、爾して其 籃には地中海を中にして幾百方里の國々で特に名産と稱される果實の類が累々と金宇形に盛上げて有る、何うして斯うも取集める事が出來るだらう。
前の室と此室と、何方が贅澤の度が優るだらう、此室にゐる間は無論此室の方が優つた樣に思はれる、安をは全く目を刮つて夢ではないかと見廻した、間もなく一人の給仕が現はれた、是れは眞黒な黒奴である、給仕の仕方は驚く可きほど能く心得てゐて殊に主人の目配ばせを言葉よりも能く合點する状は、何うして斯うも仕込んだものかと怪しまれる、安雄は話の端緒がないから、先づ此給仕の事を賞め「何うしてお手に入れましたか珍しい給仕ですねえ、行儀が正しくて、爾して靜かで」主人は微笑して「靜かな筈です、舌を拔いて有るのですもの」安雄「エヽ舌を」安雄は驚かぬ譯に行かぬ。
主人「彼は御覽の通りのヌビア人ですがチウニス國王の後宮へ、庶人の許されてゐる區域よりも近く歩み入つた罰として非常な刑を受けたのです、最初の日、舌を拔き、次の日は手、又次は足と、段々切取つて最後に首を切ると、斯う云ふ慘酷な言ひ渡しで有りましたが、其時私が行合はせ、其事を聞きましたから、餘り慘酷な仕方と思ひ、國王へライフル銃一挺と外に東洋製の鋭利な刀一個を差し出し彼の命を買取つたのです、其れが丁度、舌を拔かれた翌日で有つた爲め、彼は舌だけを失ツて助かりましたが、外の黒奴と違ひ、彼は國へ歸り度いなどの心は露ほども起しません、何うかして私の船が其國の邊へ近づきますと、彼は恐れに身を震はしてゐるのです、憐れむ可き者では有りますが、私を全く命の親と心得、犬よりも忠實に勤めてゐます、何しろ舌のないのは、使ふに不便な樣では有りますけれど、此方の云ふ言葉は能く聞き分けますから、差し支へはありません、其れに主人が何の樣な祕密を見聞きしましても、他言すると云ふ事が出來ませんから、今では私も傍近く使ふ僕は、舌のない者に限ると云ふ程に思つてゐます」
チウニスの國に舌拔きの刑があるとは兼て聞いてゐる、舌を拔かれて人爲の唖と爲つて生てゐる者のある事も亦聞いてゐる、けれど、其樣な者に接するのは今初めてゞある、暫しがほど安雄は食氣もなくなる程に感じたが、併し天然の空腹に勝つ事は出來ぬ、其れに舌無男の運んで來る物が一として珍味ならざるはなしと云ふ程ゆゑ、間もなく、何事にも構はずに食ひ初めた。
食ふのみでなく、聞き度い事も多少はある。安雄「貴方は其樣にして常に各國を廻つて居ますか」主人「實は心に誓つた事があツて其爲に年中旅から旅へ渡ツて居ます」極めて機嫌能く答へたけれど「心の誓ひ」と云つた時には眼の底に凄い樣な光が見えた、安雄「貴方は餘ほどの艱難にお遭ひ成さツたと見えますね」主人はハツと驚いた状で、暫し安雄の顏を見詰めた末「何で其樣にお思ひです」安雄「イヤ、貴方の顏色、貴方の聲、眼、物言ひ、爾して貴方の暮し方まで總て一方ならぬ履歴を表してゐる樣に思はれます」主人は半ば打消す樣に「イヽエ世に私ほど幸福な者はありませんよ、全く氣儘勝手と云ふ言葉を其儘です、行きたい所へ行き、仕度い事をして人間の裁判が間違つてゐると思へば其の被告が山賊でも海賊でも救ひ出して刑罰を逃れさせて遣り、人の知らぬ樣な手段を以て最も確實に善を勸め惡を懲し、云はゞ天にも代ツた積りで正しい裁判を行ツて行くのです、縱しや貴方にしても、一度私の境涯を味はへば再び還ツて人間の社會へ歸り度くないと思ひます、何か人間の社會へ還ツて是非仕遂げ度いと云ふ目的でもなければ — 」安雄「假令へば復讐とでも云ふ樣な」主人「エ、エ」復讐との言葉に主人は再び安雄の顏を見詰めた。
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