中井正一「土曜日」巻頭言(04)

◎星を越えて、人間の秩序は、その深さを加える 一九三六年八月一日

 星が数字を知っているかぎり、人の世が誤差のみを辿ることはできない。
 分秒を違えずに、日触の時間があらかじめわかることは、何でもないことのようだが、不思議なことではないか。別に人間の理論に天体が従ったわけではない。悠久の古えより、物質が辿る秩序を、人間がさぐりあてたのである。
 誰にも命令を受けない物質が、みずからの本源のカと力の組み合いの中に、ゆれながら、ふるえながら、みずからの位置を辿っているのである。そして、その地上に生きる者にまでわかるほどの秩序が、そこに沈んでいるのである。
 数千万年を土の中にうずもれている物質が、自ら自らの結晶の秩序を忘れないのはどうだ。顕微鏡の下に 一分の謬りのすきをも見せないこの細かな感覚はどうだ。人間がダイヤモンドに驚異を感じたのは、今人々 が見ている様な憎むぺき感情のもとに於いてではない。強靱なこの秩序に対する畏れよりしてである。恥し いのは人間である。
 互に組合うぺき秩序より、ひそかに脱落し辿るぺきさながらの位置より、みじめにも遁走し、更に敢えて 人々の友愛と知惹をかきみだし、人々の明日への希望を打砕いているのは誰であるか。外でもない、自分逹自らである。
 星を見れば恥じ、水を見れば恥じ、花を見れば恥じ、石を見れば恥じなければならない物が人間である。
 しかし、重大なことが残っている。
 星がいかに怜悧でも、結晶がどんなに巧緻でも、人間のこの激しい秩序への動揺は、知らないのではないかということである。
 人間にとって、人間の中に棲む自然と秩序は老いている。若い人間がそのふるえている手を取らなくてはならない。手を借さなくてはならない。
 人間の尊厳とは星のそれではなく、花のそれでもなく凡ての謬りを機みとして、新しい真実の中に、自らを押し上げ、試み、切展いて行く行動の中にある。 この重い動きと強靱な秩序への見透しの中に人間の厳かさがあるのである。
 星を越えて、秩序はその深さを加える。
 星が大きいとて、この闘いに比すれば愚直である。星が数字を知っているとて、この闘いに比すれば静謐である。人間の滅ぴることは、この闘い故に、悠久の徴しとなるのである。
 憩いと想いはこの尊厳と悠久の帰り棲む場所である。

『土曜日』第十三号

編者注】図は、『土曜日』から「藤井大丸」の広告。叔母は、少々「しぶちん」だったので、デパートに連れてもらった時は、よく京都駅前の藤井大丸にでかけた。河原町の高島屋などは、値が張るのが、一つ、西洞院五条から河原町までより、京都駅前までのほうが、歩いて近かった(もちろん、西洞院通りを走る、明治以来の路面電車には乗せてもらえなく、四停留所分くらい歩かされ、子どもの身にとっては辛かった。)が二つ。藤井大丸の食堂で、オムライスだったかな?食べさせてもらった時、叔母曰く「ようけ歩いたから、お腹へって、おいしんやで!」。それ以来、オムライスは私のソウルフードになった。付け加えると、広告にあるように、蒸し暑い夏の京都で、冷房完備をうたった店舗だったせいかもしれない。幼少時の想い出の一つである。

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