南総里見八犬伝(016)

南總里見八犬傳第二輯卷之三第十五回
東都 曲亭主人 編次
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うらみむくひて番作ばんさく君父くんふ首級くびをかくす」「大塚番作」「にしごり頓二」「牡蛎崎小二郎」

金蓮寺きんれんじ番作讐ばんさくあた
拈華庵ねんげあん手束客たつかたびゝととゞ

前卷既に說訖ときをはる、伏姬富山ふせひめとやまりにしころは、十六さいのときにして、長祿元年ちやうろくぐわんねんの秋なるべし。又金碗入道かなまりにうどうヽ大坊ちゆだいぼうは、嘉吉元年かきつぐわんねんの秋、父孝吉ちゝたかよしが自殺せしとき、既に五歲になりければ、長祿二年富山にて、伏姬自殺のうれひかゝり、にはか出家入道しゆつけにうどうして、雲水うんすいまかしつゝ、斗藪行脚とそうあんぎや首途かどいでせし、このとき廿二歲になりぬ。伏姬は年はつかに、十七にて身まかりたまへば、ヽ大坊はかの姬より、その年才とし五ッの兄なりけり。かくて長祿は三年にして、寬正くわんせうにあらたまり、又六年にして、文正ぶんせうと改元せらる。さはれ元年のみにして、又應仁おふにんと改めらる。これもはづかに二年にして、文明ぶんめいと改元ありけり。應仁の內亂治りて、戎馬じうばひつめあとはらひ、名のみなりけるはなみやこは、もと春邊はるべたちかへり、稍長閑やゝのどやかになりぬるも、このころの事なれば、(文明五年春三月、宗全病そうぜんやみみまかり。五月に至りて勝元も亦病またやみみまかりにき。こゝにおいてそのの合戰、征せずしてやみにけり。これを應仁の兵亂ひやうらんといふ)この年號のみ長久とこしなへに、十八年まで續きけり。こゝに年序ねんじよかゞなふれば、伏姬の事ありて、ヽ大が行脚あんぎや啓行かしまたちせし、前卷長祿二年より、今文明の季年すゑいたりて、無慮すべて二十餘年に及べり。このあはひ犬塚信乃いめづかしのが、未生みせう已前いぜんの事をのぶ。この卷亦復またまた嘉吉におこりて、文明のころに至れり。

 後土御門天皇ごつちみかどてんわう御宇ぎよう常德院足利義尙公じやうとくいんあしかゞよしひさこう、將軍たりし、寬正文明くわんせうぶんめいころかとよ、武藏國むさしのくに豐嶋郡としまのこふり菅菰大塚すがもおほつか鄕界さとはつれに、大塚番作一戍おほつかばんさくかずもりといふ武士ぶし浪人らうにんありけり。そが父匠作三戍せうさくみつもりは、鐮倉かまくら管領くわんれい足利持氏あしかゞもちうぢ近習きんじゆたり。永享ゑいきやう十一年、持氏滅亡めつぼうのとき、匠作は精悍かひ〳〵しく、忠義の近臣と相謀あいはかりて、持氏のおん子、春王安王兩公達しゆんわうやすわうりやうきんだち護奉もりたてまつり、鐮倉を脫去のがれさりて、下野國しもつけのくにおもむ結城氏朝ゆふきのうぢとも請待せうだいせられて、主從しゆう〴〵そのしろ盾籠たてこもり、寄手よせて大軍たいぐんひきうけて、防戰年をかさぬといへども、士卒しそつの心一致して、たゆ氣色けしきはなかりしに、嘉吉元年四月十六日、嚴木五郞いはきのごらう反忠かへりちうより、思ひかけなく攻破せめやぶられて、大將氏朝父子うぢともふしはさらなり、躬方みかたの諸將、恩顧おんこの士卒、おもてもふらずついいで奮擊突戰ふんげきとつせん時をうつして、ひとりものこらず討死うちしにし、兩公達りやうきんたち生拘いけどらる。

 このとき大塚匠作は、今茲ことし十六歲なりける、一子いつし番作一戍を招きよせて、息つきあへずいひけるやう、「よるとし波のおいが身に、生死いきしにの海は思ひかけず、百年千歲もゝとせちとせのちまでもと、護册もりかしづきし兩公達、御運つたなくまし〳〵て、防戰つひ合期がつこせず、諸將うたれて城墎陷しろおちいり、君辱きみはづかしめられ給ふになん、しんたるものゝ死すべき時なり。さりとてなんぢ游悴へやずみなり。まだつかへざる身にしあれば、こゝにて狗死いぬしにすべきにあらず。さきに鐮倉をおちしとき、汝が母と姉龜篠かめざゝは、はつかなる由緣ゆかりもとめて、武藏國豐嶋としまなる、大塚おほつかしのばせおきつ。彼處かしこは汝もしれるごとく、わが先祖の生國せうこくにて、則苗字すなはちめうじ莊園せうゑんなれども、今にしては名のみにて、すべて他人のものとなれば、たれ渠等かれらを養ふべき。これも亦不便またふびんの事也。汝は命ながらへて、大塚のさとに赴き、父が最期さいごのやうをもつげて、母につかへて孝をつくせ。さりとてわれもいぬしにはせず。孺君わかきみとらはれ給ふといふとも、柳營りうゑいの御親族、有繋さすが金枝玉葉きんしぎよくえうなれば、左右さうなくおん命には及ぶべからず。われも一方いつはうを殺きりぬけて、ひそかにおんあとを慕ひまゐらせ、折よくはりやう公達きんたちを、ぬすみとりたてまつらん。さはれ大厦たいかの傾くとき、一木いちぼくをもてさゝえがたし。縡成ことならずは討死うちしにして、黃泉よみぢのおん倶すべき也。これはこれ、主君重代しゆくんじうたいのおん佩刀はかせ村雨むらさめと名つけらる。このおん佩刀はかせのうへにつきて、さま〳〵の奇特きどく多かるなかに、殺氣さつきふくみぬきはなせば、かたな中心なかご露霤つゆしたゝる。ましてや人をるときは、したゝりますます流すがごとく、鮮血ちしほを洗ふてやいばそめず。たとひばかの村雨の葉すゑを洗ふにことならずとて、村雨と名づけらる。實に源家げんけ重寶ちやうはうなれば、先君せんくん(持氏をいふ)いとはやくより、春王君しゆんわうぎみに讓らせ給ひて、護身刀まもりかななにせられたり。わかぎみとらはれ給へども、今おん佩刀はかせはわが手にあり。われもし本意ほゐ得遂えとげずして、主しゆう〴〵命をを其處そこおとさば、このおん佩刀はかせも敵にとられん。さではいよ〳〵遺恨いこんなるべし。よりて汝にあづくるかし。孺君わかぎみ必死をまぬかれ給ひて、ふたゝび世にも發迹なりいで給はゞ、一番にはせ參りて、寶刀みたちを返しまゐらせよ。もし又うたれ給ひなば、これ將君父はたくんふ像見かたみ也。これを主君と見たてまつりて、おん菩提ほだいとひ奉れ。努々疎略ゆめ〳〵そりやくすべからず。こゝろ得たりや」、と說示ときしめし、にしきふくろいれたるまゝ、腰におびたる村雨の寶刀みたちをわが子に遞與わたしけり。番作二八の少年なれども、その心ざまたくましく、人なみ〳〵にたちまされば、なほ思ふよしやありけん、一言半句いちごんはんくさからはず、うや〳〵しくひざまづきて、くだん寶刀みたち受收うけおさめ、「こゝろ安かれ御敎訓、ありがたきまでにかたじけなく、すべて服膺仕ふくようつかまつりぬ。小祿せうろくたりともわが父は、鐮倉殿かまくらどの(持氏をいふ)の家臣たり。某寔そわがしまこと不肖ふせうなれども、君父くんふの必死をよそに見て、のがるゝをよろこばんや。さはれ名ををしそしりかへりみ、父子ふしもろ共に死地につきなば、名聞めうもんに似て、君父にゑきなし。存命ながらへて母と姉を、やしなへとのたまはする、おんいつくしみはそれがしが身ひとつに候はず、親子三人みたりがうへに係るを、なんでふ推辭いなみ奉らん。とはいへ再會はかりがたき、おん別れに候へば、それがしおんさきつかまつらん。せめては親子もろ共に、虎口こゝうのがれ給へかし。おんよろひ威毛をどしけの、いと花やかにて目だつなる。雜兵ざふひやう革具足かはぐそく袖解捨そでときすててまゐらせん。これはや穿めしかえ給ひね」、と慰めてかひがひしく、落拄度おちしたくをいそがせば、父はまだぬ淚の目尻まなしりぬぐひもあへず莞尒につこみ、「番作微妙いみじくいひつるかな。汝只管血氣なんぢひたすらけつきにはやりて、もろともしなんとて、爭ひやせん、いろひやせん、と思ふには似ずなか〳〵に、親はづかしき孝心なり。もとより覺期かくごの事なれば、われも雜兵等ざうひやうらにたちまじりで、一圓虎口ひとまどこゝうのがれなん。しかはあれ共親と子が、もろ共にはしりなば、はかりことなきに似たり。汝は先にはやおちよ。われは又後門からめてより、途引みちひきちがへて走去はせさりなん。いそげや急げ」、と焦燥聲いらたつこゑも、矢叫やさけびの音に紛れつゝ、攻入せめいる敵軍、必死の城兵ぜうひやううたるゝもあり、うつもあり。名もなき仂武者はむしやは足にまかして、風に落葉おちばひらめく如く、へいこえほりわたして、みちなきみちを求めつゝ、四零八落ちりちりはらはら逃亡にげうせたり。ことまざれに大塚親子も、からくして城中をのがさり、親は子を見かへれども、つひにその影だも見えず、子は又親をたづぬれども、あふよしなえてなかりけり。

 そもそもこの一條ひとくだりの物語は、肇輯ぢやうしふ第一の卷端くわんたん說出ときいだしたる、結城ゆふき合戰落城かつせんらくぜうのとき、里見季基遺訓さとみすゑもといくんして、嫡男義實ちやくなんよしさねおとせしと、是同日これどうじつの事にして、彼は義にる、智勇の大將、これ誠忠譜第せいちうふだいの近臣、官職もとよりそのしなあり、言私ことわたくしに及ぶといへども、恩義の爲に身を殺し、その子のためにをしえをのこせし、こゝろは符節ふせつあはする如く、人の親たるいつくしみ、おのづからなるまことなり。

 卻說かくて大塚番作は、「父の必死をよそに見て、存命ながらふべくも思はねど、そをあらそはんも火急くわきうの折なり。こゝろざしたてんとて、父の今果いまはに物を思はせ、よしなき所行わざに時を移して、親も子もとりことならば、後悔其處そこたちがたし。一旦その意にまかするとも、又せんすべのなからずやは」、とそのときにはや思念しあんして、やがて城中をのがいで袖號そでじるし掻擲捨かなぐりすてて、かみふりみだして、つらを隱し、敵兵にたちまじりて、兩公達りやうきんたちのおん所在ありかを、しのび〳〵にうかゞひけり。いひあはさねど君を思ふ、心はおなじ父|匠せうさくは、これも敵陣にまぎりて、こと爲體ていたらくうかゞふに、春王しゆんわう安王やすわうのおん胞兄弟はらからは、管領淸方くわんれいきよかた從軍じゆうぐん長尾因幡介ながをいなばのすけが手に生拘いけとられ、軍散いくささんじてのちに、鐮倉へと聞えしかば、匠作は、なほ姿をかえかたちやつして、先途せんどを見んとする程に、五月十日あまりに及びて、淸方すなはち、長尾因幡介を警固使けいごしとし、信濃介政康しなのゝすけまさやす副使たすけとし、兩公達をあやしげなる、牢輿ろうごしのせたてまつりて、京都へぞのぼせける。されば大塚匠作は、このときに又政康が、從卒じゆうそつになりすまして、かげながら兩君りやうくんのおん供し奉り、ともかくもして道中にて、ぬすみとりまゐらせん、とかねはかりし事ながら、宗徒むねと兵士つはもの二百餘騎、四面八方をうちかこみ、通宵よもすがら本陣に、笧火かゞりひ燒明たきあかし、幾隊いくむれ火長ものかしら迭代かたみかはり夜行よまはりして、露ばかりも由斷ゆだんせざれば、匠作は思ふに似ず、肺肝こゝろくだくものから、たえてそのひまなかりけり。

 さるほどに兩公達りやうきんだちは、五宿六宿いつよさむよさ旅宿たびねをかさねて、おなじ月の十六日に、靑野あをのはらよぎり給ふ。浩處かゝるところに、京都將軍よりおん使つかひあり、「兩公達を今さらに、都へは入れたてまつるな。路次ろぢにてはやくちうしまゐらせ、おん首級しるしをのぼせよ」、と佶仰下きとおふせくだされたり。長尾これをうけたまはり、「さらば」とて美濃路みのぢなる、樽井たるゐ道場金蓮寺どうしやうきんれんじに、おん輿こし扛入かきいれさせ、その夜住持よぢうぢ戒師かいしとして、かたのごとくとり行ひ、矢來やらいの四面に笧火燒かゞりひたかして、春王君しゆんわうきみ安王君やすわうきみを、敷革しきがはの上におしのぼして、最期さいごのよしをつげ奉り、嘆息しつゝ退しりぞけば、住持ぢうぢ念珠揉ねんずもみらし、間近まちかく進みて叮嚀ねんごろに、十念じうねんさづけ奉る。春王君は大人おとなしく、安王君にうちむかひ、「とらはれとなりしその日より、かゝるべしとはかねてぞしりぬ。思へば前月結城せんげつゆふきにて、氏朝うぢともをはじめとして、われらが爲に討死うちじにせし、いくその武士の初月忌しよぐわつきに、めぐりあひつゝ同胞はらからが、その日に死ぬるはせめてもの、罪滅つみほろぼしに侍るかし。かならずななげき給ひそ」、となぐさめ給へばうち點頭うなつき、「西方さいほうとやら淨土じやうどとやらんに、父上母君まします、と人がをしえて候へば、死してふたゝび亡親なきおやに、遭奉あひたてまつるものならば、なにかはかなしみ侍るベき。さはれ冥土めいどみちしらず、これのみ心ぼそくはべり。おくれ給ふな」、「おくれじ」、とかたみいさはげまされて、さわぎたる氣色けしきなく、さゝやかなるをうちあはし、はや目をとぢまち給へば、長尾が老黨らうどう牡蛎崎小二郞かきさきこじらう錦織頓二にしごりとんじ切鞆掛きりつかかけたるやいば引提ひさげて、おん後あとべにぞたちよする。これを見、これをきゝあへず、長尾はさら也、政康等、「あな痛まし」、とばかりに、はなうちかめば、雜兵ざふひやうまで、よろひそでぬらしけり。ましてや人の後方あとべにをりて、この爲體ていたらくを見奉る、大塚匠作は聲をむ、淚は泉のわくごとく、胸つぶ腸斷はらわたちぎれ、「それがしこゝに候」、と名吿なのればこそあれ、名吿なのられぬ、主從三世しゆう〴〵さんせ辭別いとまごひなにといは木をうらむるのみ、又せんすべもなきまゝに、憤然として思ふやう、「三面六腎さんめんろつひあればとて、このに及びて公達きんだちを、救ひ奉るべうもあらず。殉腹おひはら切らんはやすけれども、せめて當座の讐敵あたかたき、長尾をうちてわれしなん。いな〳〵彼處かしこ間遠まとほ也。もししそんじてはそのせんなし。よし〳〵牡蛎崎錦織かきざきにしごりなり共、主君を害するうらみはおなじ。這奴等しやつらなりとも討果うちはたして、いでや黃泉よみぢのおん鄕導みちしるべ、仕らん」と、肚裏はらのうちに、尋思しあんほぞを固めつゝ、刀の鞝舐濕めくぎくひしめして、西へめぐり、東になほり、やゝ近つかんとする程に、二人の大刀たちとり矢聲やこゑをかけて、きらめかすやいばの光に、あはれむべし、兩公達りやうきんたちの、御頭顱みぐしはたと地におちたり。匠作「吐嗟あはや」、と圍繞ゐにうせし、警固けいごの武士を踶踰ふみこえて、矢來やらいの內に跳入おどりいり、「兩公達のおんかしつき、大塚匠作こゝにあり。うらみの刃うけよや」、といかり大音だいおん名吿なのりかけて、二尺九寸の大業物おほわざもの拔手尖ぬくてするど錦織頓二にしごりとんじ肩尖かたさきよりしたまで、ばらりずんと斬仆きりたふせば、牡蛎崎かきさき小二郞こじらう大きに驚き、「原來癖者脫さてはくせもののがさじ」、ともつたる血刀閃ちかたなひらめかし、いそがはしくふりかへる、匠作が右のたゞむき、水もたまらず落斬きりおとし、弱るところをたゝみかけて、細頸發石ほそくびはつしとうちおとせば、陣笠被ぢんかさきたる一個ひとり雜兵ざふひやう群立むらたちさわぐ兵士つはものを、おしわけかきわけ、飛ぶが如くに、矢來の內へ進入すゝみいりて、兩公達のおん首級しるしを、左手ゆんで髻爴もとゞりつかみよせ、匠作が首さへとりあげ、頭髻たぶさを口にしつかくはえて、片手なぐりに腰刀こしかたな、ぬく手も見せず牡蛎崎かきさきを、乾竹割からたけわり砍伏きりふせたり。

 現由斷大敵げにゆだんたいてきにて、事になれたる長尾なれ共、名劒めいけん奇特きどくにより、篝火かゝりひさへにけされしかば、癖者くせもの得搦えからめず、あまさへ春王安王しゆんわうやすわうのおん首級しるしを奪ひとられ、面目めんぼくを失ふものから、さてあるべきにあらざれば、京都へ使者をまゐらせて、且室町將軍まづむろまちせうぐんへ、ことおもむきうつたへ奉り、そのより、八方へてわけして、日每ひごとに番作が往方ゆくへ索求たづねもとむれども、それぞとしるべきよすがもなく、いたつらに日を送るほどに、京都へまゐらせたる使者かへり來て、「御敎書みぎやうしよ也」とてとりいだすを、因幡介恭いなばのすけうやうやしくうけとりて、みなもろ共に拜見す。其略そのりやくに、

春王安王が首級しるしを奪ひとられし事、大かたならぬ越度をちどなれども、既に誅果ちうしはてたれば、ぬすみしものにゑきあるまじく、國家の爲に害あらず。よりて長尾因幡介いなばのすけ今度こだみの軍功に換思食かえおぼしめし、その罪をなだめらる。鐮倉へ罷下まかりくだりて、淸方きよかたつげしらせ、殘黨穿鑿ざんたうせんさくすべき者也。仍執達如件よつてしつたつくだんのごとし
  嘉吉かきつ元年五月十八日。   斯波義淳等しばよしあつらうけたまはる。

よみあへず、長尾主從しゆう〴〵微笑みせうして、はじめて安堵あんどの思ひをなし、やが兩公達りやうきんたちのおんむくろをとりおさめ、うたれたる士卒の亡骸なぎからさへ、金蓮寺きんれんじ葬果ほうむりはてて、つぐの日樽井たるゐ發足ほつそくし、鐮倉をさしかへりけり。長尾等が事、この下に話なし。

 案下某生再說それはさておき大塚番作おほつかばんさくは、必死の覺期かくごも忠孝のまことまもらせ給ふなる、神明佛陀しんめいぶつだ冥助めうぢよによりけん、からく一條ひとすぢ血路みちを開きて、金蓮寺をのがさり、東をさし終夜よもすから、名をだもしらぬ山路やまぢにわけ入り、樵夫きこりのかよふ細道を、たどる〳〵あかしつ、つぐの日も猶憩なほいこはで、只管ひたすちに走る程に、十七日の黃昏たそがれには、吉蘇きそ御坂みさかのこなたなる、夜長嶽よながたけふもといでたり。この行程みちのりかぞふれば、樽井たるゐより廿餘里より、三十里にちかかるべし。「こゝまで追人おつてはかゝらじ」、と思へば忽地たちまちゆるみて、手足の疼痛酷いたみはなはだし。こゝにわが身を見かへれば、淺痍あさでなれども五六个所かしよ鮮血ちしはきぬを浸すが如し。加以昨夜これのみならずよんべより、のまくらはで走りにければ、心神倶しんしんともにいたく疲勞つかれて、一步いつほはこばしがたきものから、こゝろざしはげまして、道次みちのほとりたちいこはず、君父くんふかうべを隱さんとて、苦痛を忍びて彼此をちこちと、便宜びんぎ墓所むしよもとむるに、この處は里遠き、山ふところにして雲近く、みねみどりに水しろかり。向上みあぐれば靑壁せいへきかたなしてけづれるごとく、直下みおろせば碧潭へきたんのみもて穿うがてるに似たり。目に佳景かけいなきにあらねど、物思ふ身は心もとまらず、颯々さつ〳〵たる松風は、追來る敵の聲かと疑ひ、喃々なん〳〵たる鳥語とりのねは、うきを慰む友としならず。とかくする程に山路やまぢより、山道やまぢにけふもくらしつゝ、十七日の月の影、山ののぼころ樹垣いけがきふかく締遶ゆひめぐらしたる、白屋くさのやのほとりに來にけり。庭門にはぐち諸折戶もろをりとは、半扇朽失かたとびらくちうせて、あれたきまゝの孤館ひとつやなり。「今宵こよひはこゝに足を休めて、一碗いちわんかてをもこはめ」、と思へば庭に進み入りて、月をあかしに、と見かう見れば、こゝなん一宇いちう田舍道場ゐなかでらにて、持佛堂ぢぶつだうとおぼしきのきに、ひのき輪板まるいたがくにして、「拈華庵ねんげあん」の三字をかけたり。それすらもるあめ磨滅まめつして、かすかにぞよまれたる。其處そこよりこなたは墓所むしよにして、石卵塔せきらんたふあまたあり。番作つく〳〵思ふやう、「君父くんふ頭顱みぐしうづめんに、こは究竟くつきゃうの處なれども、明々地いさゝめよしつげなば、おそれてかならずうけひくべからず。奄主あんしゆにはしらせずして、ほふむはてのちにこそ、宿やどりこはめ」、と深念しあんして、足をつまだてしのびやかに、あちこちをさしのぞけば、持佛堂の簀子すのこの下に、一挺いつてうすきさへあり。「よき物つ」、と引出ひきいだし、肩にうちかけつゝ墓所むしよおもむき、さて處何いづこにかほうむらん、と左邊右邊ゆんでめてを見かへれば、新葬あらほとけとおぼしくて、石をすえざる一座いちざの塚あり。このほとりのつちやわらかにて、掘發ほりおこすに便りよければ、この新葬あらほとけ推竝おしならべて、思ふまゝに穴を掘り、三頭みつのかうべを深くうづめて、舊の如くにつちおほひ、ひざまづきて合掌がつせうし、ねんはてて身を起し、すきさへ簀子のしたへ返すに、裡面うちには人のありやなしや、「たそ」ととがむる聲もせず。かくて庖湢くりやかたたちより、ほと〳〵と戶をたゝきて、「なふこの菴主あんしゆに物申さん。これは山路に日をくらして、うへつかれたる行人たびゝとなり。もとより慈善をあるじとし給ふ、道場どうじやふとこそ見奉れ。今宵をあかさせ給ひね」、といひかけて戶を推開おしひらけば、菴主あんしゆとおぼしきものはをらで、思ひがけなき一個ひとり女子をなこ、その年は可二八にはちばかりひなにはあれど臈闌らうたけて、つゆふくめる野の花の、にほひこぼるゝ風情ふぜいにて、獨孤燈ひとりことうにさしむかひ、人まちわびたるおもゝちなるが、今番作が呼門おとなひあへず、戶を推開おしあけて進み入る、その爲體ていたらくことなるに、おどろきおそれて應答いらへはえせず。こなたもあきれてうち目まもれば、女子おなこはいとゞたへずやありけん、たち納戶なんどのかたへ、さけんとするを番作は、いそがはしくよびとゞめ、「女中ぢよちうさのみなおどろき給ひそ。われは山客夜盜やまだちよとうにあらず。きのふ如此々々しか〴〵のところにて、親の仇人かたき擊果うちはたし、更に仇人かたき援刀すけたちを、殺脫きりぬけて來つるもの也。さればきのふのまゝにして、餓勞うへつかれてゆくことかなはず。一碗いちわんいひを惠みて、宿やどりを許し給はらば、これ再生の洪恩こうおんなり。われつゆばかりも野心なし。疑ひをとき給へかし」、といひさとしつゝ腰刀こしかたなを、右手めてとり後方あとべ推遣おしやり、簀子すのこの上に進登すゝみのぼれば、くだん女子をなこはおそる〳〵、行燈あんどん燈口ひぐちさしむけて、番作が形容ありさまを、つく〳〵と見て歎息たんそくし、「尙年少まだとしわかかたざまの、あたうち給ふなる、みち難義なんぎを救ひあへず、只一碗たゞいちわんかてをしみて、强顏つれなく款待もてなすべうはあらねど、こゝはわらはが宿所に侍らず。見給ふごとく道場どうじやふなり。もとより田舍ゐなかの事なれば、菴主あんしゆほかる人なし。さきにわらはは亡親なきおやの墓參りしてはべりしを、菴主の法師によびとめられ、『よくこそ來つれ。かゝる事にて、貧道われ大井おほゐさとまでゆく也。黃昏たそがれにはかへりなん。しばしが程ぞ、留守してよ』、といはるゝに固辭いなみがたくて、あとあづかりてくやしくも、今か〳〵、とまつほどに、日ははやくれてしかすがに、すててかへるにかへられず、せんすべもなく侍るかし。かゝればいひはありながら、わらはがこゝろにまかせがたし」、といふを番作きゝあへず、「いはるゝところことわりなれども、菴主あんしゆかへるをまたんとて、轍鮒てつふきうを救はれずは、われはや枯魚こぎよいちうられん。人を救ふは出家しゆつけの本願、菴主に斷り給はずとも、なにかはさまでとがめらるべき。もしかへり來てうちはらたち、物吝ものをしみしておん身をしからば、それがしよろしくいひとくべし。まげ餓渴きかつを救ひ給へ」、と乞求こひもとむるに、推辭いなみかたく、山折敷やまをしき麻布帛あさふきんうちかけたる、菴主のわんをそがまゝに、番作がほとりにすえて、山檜やまひのき藤箍かつらたがせし、飯櫃いひひつひきよせて、堆高うづたかもりていだす、乾菜ほしなまじりの麁麥あらむぎも、時にとりては美味珍膳びみちんぜん、皿に鹽盈玉味噌しほみつたまみそは、わが口濡くちぬらすはしやすめ、ひつ粮食竭かてめしつくるまで、こゝろよしよくをはりて、よろこばしきよしをのべぜんおしれば、をうな子は、とり納めて、「やよ客人たびゝと餓渴きかつは救ひまゐらせたり。いほりの留守にわかきどちが、もろ共に今宵をあかさば、人の疑ひをいかにせん。とく〳〵いでてゆき給へ」、と强面つれなくいふを耳にもかけず、そでまきあげてひぢさしのべ、「これ見給へかくの如く、數个所すかしよ金瘡なまきずあるものが、ひとつ臥房ふしどに寢たればとて、何事なにことをかせらるべき。その疑ひは人にぞよらん。まげ一宿曉ひとよさあかさし給へ。うへたるはらつくろひては、今一しほに疲勞つかれおぼえて、一步ひとあしもゆきがたし。夏の夜なれば短くて、初夜しよやすぎたれば程もなく、奄主あんしゆかへり給ひなん。まげ一宿曉ひとよさあかさし給へ」、と他叓たじなくいはれてこれさへに、推辭いなみかねつゝ歎息たんそくし、「さても便びんなき所爲わざながら、わらはとてあるじならねば、このうへはともかくも、おん身がこゝろにまかせ給へ。しかはあれども山寺やまてらなれば、客殿といふものもなし。まくら見つけて本尊ほんぞんまへに今宵をあかし給へ。山里やまざとのとりには、蚤蚊のみかたえてをらぬかし」、といふに番作うちほゝみ、「わりなく宿やど乞得こひえたる、よろこばしさはなか〳〵に、短き言葉に盡しかたし。まこと女中ぢよちうたまもの也。ゆるし給へ」、といひかけて、やうやくにたちあがれば、女子をなこやがて指しそくして、「これもてゆきね」、とさしいだすを、「かたじけなし」、と右手めてにとり、左手ゆんで隔亮推からかみおしひらきて、持佛堂ぢふつだうへぞにゆきぬ。

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第十五回)

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