南総里見八犬伝(016)

南總里見八犬傳第二輯卷之三第十五回
東都 曲亭主人 編次
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「怨うらみを報むくひて番作ばんさく君父くんふの首級くびをかくす」「大塚番作」「にしごり頓二」「牡蛎崎小二郎」

金蓮寺きんれんじに番作讐ばんさくあたを擊うつ
拈華庵ねんげあんに手束客たつかたびゝとを留とゞむ

前卷既に說訖ときをはる、伏姬富山ふせひめとやまへ入いりにし比ころは、十六歲さいのときにして、長祿元年ちやうろくぐわんねんの秋なるべし。又金碗入道かなまりにうどうヽ大坊ちゆだいぼうは、嘉吉元年かきつぐわんねんの秋、父孝吉ちゝたかよしが自殺せしとき、既に五歲になりければ、長祿二年富山にて、伏姬自殺の憂うれひに係かゝり、猛にはかに出家入道しゆつけにうどうして、躬みを雲水うんすいに任まかしつゝ、斗藪行脚とそうあんぎやの首途かどいでせし、このとき廿二歲になりぬ。伏姬は年はつかに、十七にて身まかりたまへば、ヽ大坊はかの姬より、その年才とし五ッの兄なりけり。かくて長祿は三年にして、寬正くわんせうにあらたまり、又六年にして、文正ぶんせうと改元せらる。さはれ元年のみにして、又應仁おふにんと改めらる。これも僅はづかに二年にして、文明ぶんめいと改元ありけり。應仁の內亂治りて、戎馬じうばの蹄ひつめ、址あとを掃はらひ、名のみなりける華はなの洛みやこは、舊もとの春邊はるべに立たちかへり、稍長閑やゝのどやかになりぬるも、この比ころの事なれば、(文明五年春三月、宗全病そうぜんやみて卒みまかり。五月に至りて勝元も亦病またやみて卒みまかりにき。こゝにおいてその徒との合戰、征せずして寢やみにけり。是これを應仁の兵亂ひやうらんといふ)この年號のみ長久とこしなへに、十八年まで續きけり。こゝに年序ねんじよを僂かゞなふれば、伏姬の事ありて、ヽ大が行脚あんぎやの啓行かしまたちせし、前卷長祿二年より、今文明の季年すゑに至いたりて、無慮すべて二十餘年に及べり。この間あはひに犬塚信乃いめづかしのが、未生みせう已前いぜんの事を述のぶ。この卷亦復またまた嘉吉に起おこりて、文明の比ころに至れり。

 後土御門天皇ごつちみかどてんわうの御宇ぎよう、常德院足利義尙公じやうとくいんあしかゞよしひさこう、將軍たりし、寬正文明くわんせうぶんめいの間ころかとよ、武藏國むさしのくに豐嶋郡としまのこふり、菅菰大塚すがもおほつかの鄕界さとはつれに、大塚番作一戍おほつかばんさくかずもりといふ武士ぶしの浪人らうにんありけり。そが父匠作三戍せうさくみつもりは、鐮倉かまくらの管領くわんれい、足利持氏あしかゞもちうぢの近習きんじゆたり。永享ゑいきやう十一年、持氏滅亡めつぼうのとき、匠作は精悍かひ〳〵しく、忠義の近臣と相謀あいはかりて、持氏のおん子、春王安王兩公達しゆんわうやすわうりやうきんだちを護奉もりたてまつり、鐮倉を脫去のがれさりて、下野國しもつけのくにに赴おもむき結城氏朝ゆふきのうぢともに請待せうだいせられて、主從しゆう〴〵その城しろに盾籠たてこもり、寄手よせての大軍たいぐんを引ひきうけて、防戰年を重かさぬといへども、士卒しそつの心一致して、撓たゆむ氣色けしきはなかりしに、嘉吉元年四月十六日、嚴木五郞いはきのごらうが反忠かへりちうより、思ひかけなく攻破せめやぶられて、大將氏朝父子うぢともふしはさらなり、躬方みかたの諸將、恩顧おんこの士卒、面おもてもふらず衝ついて出いで、奮擊突戰ふんげきとつせん時をうつして、ひとりも遣のこらず討死うちしにし、兩公達りやうきんたちは生拘いけどらる。

 このとき大塚匠作は、今茲ことし十六歲なりける、一子いつし番作一戍を招きよせて、息つきあへずいひけるやう、「よるとし波の老おいが身に、生死いきしにの海は思ひかけず、百年千歲もゝとせちとせの後のちまでもと、護册もりかしづきし兩公達、御運微つたなくまし〳〵て、防戰遂つひに合期がつこせず、諸將擊うたれて城墎陷しろおちいり、君辱きみはづかしめられ給ふになん、臣しんたるものゝ死すべき時なり。さりとて汝なんぢは游悴へやずみなり。まだ仕つかへざる身にしあれば、こゝにて狗死いぬしにすべきにあらず。曩さきに鐮倉を落おちしとき、汝が母と姉龜篠かめざゝは、はつかなる由緣ゆかりを求もとめて、武藏國豐嶋としまなる、大塚おほつかに潛しのばせおきつ。彼處かしこは汝もしれるごとく、わが先祖の生國せうこくにて、則苗字すなはちめうじの莊園せうゑんなれども、今にしては名のみにて、すべて他人の有ものとなれば、誰たれか渠等かれらを養ふべき。これも亦不便またふびんの事也。汝は命ながらへて、大塚の鄕さとに赴き、父が最期さいごのやうをも吿つげて、母に仕つかへて孝を盡つくせ。然さりとてわれも死いぬしにはせず。孺君わかきみとらはれ給ふといふとも、柳營りうゑいの御親族、有繋さすがに金枝玉葉きんしぎよくえうなれば、左右さうなくおん命には及ぶべからず。われも一方いつはうを殺脫きりぬけて、竊ひそかにおん跟あとを慕ひまゐらせ、折よくは兩りやう公達きんたちを、偸ぬすみとり奉たてまつらん。さはれ大厦たいかの傾くとき、一木いちぼくをもて拄さゝえがたし。縡成ことならずは討死うちしにして、黃泉よみぢのおん倶すべき也。是これはこれ、主君重代しゆくんじうたいのおん佩刀はかせ、村雨むらさめと名つけらる。このおん佩刀はかせのうへに就つきて、さま〳〵の奇特きどく多かる中なかに、殺氣さつきを含ふくみて拔ぬきはなせば、刀かたなの中心なかごに露霤つゆしたゝる。況ましてや人を砍きるときは、霤したゝりますます流すがごとく、鮮血ちしほを洗ふて刃やいばを染そめず。譬たとひばかの村雨の葉すゑを洗ふに異ことならずとて、村雨と名づけらる。實に源家げんけの重寶ちやうはうなれば、先君せんくん(持氏をいふ)いとはやくより、春王君しゆんわうぎみに讓らせ給ひて、護身刀まもりかななにせられたり。孺わか君ぎみとらはれ給へども、今おん佩刀はかせはわが手にあり。われもし本意ほゐを得遂えとげずして、主從しゆう〴〵命をを其處そこに隕おとさば、このおん佩刀はかせも敵にとられん。さではいよ〳〵遺恨いこんなるべし。よりて汝に預あづくるかし。孺君わかぎみ必死を脫まぬかれ給ひて、ふたゝび世にも發迹なりいで給はゞ、一番にはせ參りて、寶刀みたちを返しまゐらせよ。もし又擊うたれ給ひなば、これ將君父はたくんふの像見かたみ也。これを主君と見たてまつりて、おん菩提ほだいを弔とひ奉れ。努々疎略ゆめ〳〵そりやくすべからず。こゝろ得たりや」、と說示ときしめし、錦にしきの嚢ふくろに納いれたる侭まゝ、腰に帶おびたる村雨の寶刀みたちをわが子に遞與わたしけり。番作二八の少年なれども、その心ざま逞たくましく、人なみ〳〵にたちまされば、猶なほ思ふよしやありけん、一言半句いちごんはんくも悖さからはず、恭うや〳〵しく跪ひざまづきて、件くだんの寶刀みたちを受收うけおさめ、「御みこゝろ安かれ御敎訓、有ありがたきまでに忝かたじけなく、すべて服膺仕ふくようつかまつりぬ。小祿せうろくたりともわが父は、鐮倉殿かまくらどの(持氏をいふ)の家臣たり。某寔そわがしまことに不肖ふせうなれども、君父くんふの必死を外よそに見て、脫のがるゝを歡よろこばんや。さはれ名を惜をしみ譏そしりを顧かへりみ、父子ふしもろ共に死地に就つきなば、名聞めうもんに似て、君父に益ゑきなし。存命ながらへて母と姉を、養やしなへと宣のたまはする、おん慈いつくしみは某それがしが身ひとつに候はず、親子三人みたりがうへに係るを、なんでふ推辭いなみ奉らん。とはいへ再會揣はかりがたき、おん別れに候へば、某それがしおん先さきつかまつらん。せめては親子もろ共に、虎口こゝうを脫のがれ給へかし。おん鎧よろひの威毛をどしけの、いと花やかにて目だつなる。雜兵ざふひやうの革具足かはぐそく、袖解捨そでときすててまゐらせん。是これはや穿めしかえ給ひね」、と慰めてかひがひしく、落拄度おちしたくをいそがせば、父はまだ乾ひぬ淚の目尻まなしり、拭ぬぐひもあへず莞尒につこと笑えみ、「番作微妙いみじくいひつるかな。汝只管血氣なんぢひたすらけつきにはやりて、もろ共ともに死しなんとて、爭ひやせん、辭いろひやせん、と思ふには似ずなか〳〵に、親恥はづかしき孝心なり。固もとより覺期かくごの事なれば、われも雜兵等ざうひやうらにたち雜まじりで、一圓虎口ひとまどこゝうを脫のがれなん。しかはあれ共親と子が、もろ共に奔はしりなば、謀はかりことなきに似たり。汝は先にはや落おちよ。われは又後門からめてより、途引みちひきちがへて走去はせさりなん。いそげや急げ」、と焦燥聲いらたつこゑも、矢叫やさけびの音に紛れつゝ、攻入せめいる敵軍、必死の城兵ぜうひやう、擊うたるゝもあり、擊うつもあり。名もなき仂武者はむしやは足に信まかして、風に落葉おちばの閃ひらめく如く、塀へいを踰こえ、溝ほりを涉わたして、路みちなき途みちを求めつゝ、四零八落ちりちりはらはらに逃亡にげうせたり。縡ことの紛まざれに大塚親子も、辛からくして城中を脫のがれ去さり、親は子を見かへれども、竟つひにその影だも見えず、子は又親を索たづぬれども、あふよし絕なえてなかりけり。

 抑そもそもこの一條ひとくだりの物語は、肇輯ぢやうしふ第一の卷端くわんたんに說出ときいだしたる、結城ゆふき合戰落城かつせんらくぜうのとき、里見季基遺訓さとみすゑもといくんして、嫡男義實ちやくなんよしさねを延おとせしと、是同日これどうじつの事にして、彼は義に仗よる、智勇の大將、此これは誠忠譜第せいちうふだいの近臣、官職素もとよりその差しなあり、言私ことわたくしに及ぶといへども、恩義の爲に身を殺し、その子のために訓をしえをのこせし、こゝろは符節ふせつを合あはする如く、人の親たる慈いつくしみ、おのづからなる誠まことなり。

 卻說かくて大塚番作は、「父の必死を外よそに見て、存命ながらふべくも思はねど、そを爭あらそはんも火急くわきうの折なり。志こゝろざしを立たてんとて、父の今果いまはに物を思はせ、よしなき所行わざに時を移して、親も子も虜とりことならば、後悔其處そこに立たちがたし。一旦その意に任まかするとも、又せんすべのなからずやは」、とそのときにはや思念しあんして、軈やがて城中を脫のがれ出いで、袖號そでじるしを掻擲捨かなぐりすてて、髮かみふり紊みだして、面つらを隱し、敵兵にたち雜まじりて、兩公達りやうきんたちのおん所在ありかを、しのび〳〵に窺うかゞひけり。いひあはさねど君を思ふ、心はおなじ父|匠作せうさくは、これも敵陣に紛まぎれ入いりて、縡ことの爲體ていたらくを窺うかゞふに、春王しゆんわう安王やすわうのおん胞兄弟はらからは、管領淸方くわんれいきよかたが從軍じゆうぐん、長尾因幡介ながをいなばのすけが手に生拘いけとられ、軍散いくささんじて後のちに、鐮倉へと聞えしかば、匠作は、猶なほ姿を變かえ、容かたちを窶やつして、先途せんどを見んとする程に、五月十日あまりに及びて、淸方則すなはち、長尾因幡介を警固使けいごしとし、信濃介政康しなのゝすけまさやすを副使たすけとし、兩公達をあやしげなる、牢輿ろうごしに乘のせたてまつりて、京都へぞ上のぼせける。されば大塚匠作は、このときに又政康が、從卒じゆうそつになり濟すまして、陰かげながら兩君りやうくんのおん供し奉り、ともかくもして道中にて、竊ぬすみとりまゐらせん、と豫かねて謀はかりし事ながら、宗徒むねとの兵士つはもの二百餘騎、四面八方をうちかこみ、夜よは通宵よもすがら本陣に、笧火かゞりひを燒明たきあかし、幾隊いくむれの火長ものかしら、迭代かたみかはりに夜行よまはりして、露ばかりも由斷ゆだんせざれば、匠作は思ふに似ず、千ち々ゝに肺肝こゝろを摧くだくものから、絕たえてその隙ひまなかりけり。

 さるほどに兩公達りやうきんだちは、五宿六宿いつよさむよさと旅宿たびねをかさねて、おなじ月の十六日に、靑野あをのが原はらを過よぎり給ふ。浩處かゝるところに、京都將軍よりおん使つかひあり、「兩公達を今さらに、都へは入れたてまつるな。路次ろぢにてはやく誅ちうしまゐらせ、おん首級しるしをのぼせよ」、と佶仰下きとおふせくだされたり。長尾等らこれを承うけたまはり、「さらば」とて美濃路みのぢなる、樽井たるゐの道場金蓮寺どうしやうきんれんじに、おん輿こしを扛入かきいれさせ、その夜住持よぢうぢを戒師かいしとして、形かたのごとくとり行ひ、矢來やらいの四面に笧火燒かゞりひたかして、春王君しゆんわうきみ安王君やすわうきみを、敷革しきがはの上に推おしのぼして、最期さいごのよしを吿つげ奉り、嘆息しつゝ退しりぞけば、住持ぢうぢは念珠揉ねんずもみ鳴ならし、間近まちかく進みて叮嚀ねんごろに、十念じうねんを授さづけ奉る。春王君は大人おとなしく、安王君にうち對むかひ、「囚とらはれとなりしその日より、かゝるべしとはかねてぞしりぬ。思へば前月結城せんげつゆふきにて、氏朝うぢともをはじめとして、われらが爲に討死うちじにせし、いくその武士の初月忌しよぐわつきに、周めぐりあひつゝ同胞はらからが、その日に死ぬるはせめてもの、罪滅つみほろぼしに侍るかし。かならずな欺なげき給ひそ」、となぐさめ給へばうち點頭うなつき、「西方さいほうとやら淨土じやうどとやらんに、父上母君まします、と人が誨をしえて候へば、死してふたゝび亡親なきおやに、遭奉あひたてまつるものならば、何なにかは悲かなしみ侍るベき。さはれ冥土めいどの路みちしらず、是これのみ心ぼそく侍はべり。後おくれ給ふな」、「後おくれじ」、と迭かたみに諫いさめ激はげまされて、騷さわぎたる氣色けしきなく、さゝやかなる掌てをうち合あはし、はや目を閉とぢて俟まち給へば、長尾が老黨らうどう牡蛎崎小二郞かきさきこじらう、錦織頓二にしごりとんじ、切鞆掛きりつかかけたる刃やいばを引提ひさげて、おん後方あとべにぞたちよする。これを見、これを聞きゝあへず、長尾はさら也、政康等、「あな痛まし」、とばかりに、鼻はなうちかめば、雜兵ざふひやうまで、鎧よろひの袖そでを濡ぬらしけり。況ましてや人の後方あとべにをりて、この爲體ていたらくを見奉る、大塚匠作は聲を呑のむ、淚は泉の涌わくごとく、胸潰つぶれ腸斷はらわたちぎれ、「某それがしこゝに候」、と名吿なのればこそあれ、名吿なのられぬ、主從三世しゆう〴〵さんせの辭別いとまごひ、何なにといは木を恨うらむるのみ、又せんすべもなきまゝに、憤然として思ふやう、「三面六腎さんめんろつひあればとて、この期ごに及びて公達きんだちを、救ひ奉るべうもあらず。殉腹おひはら切らんは易やすけれども、せめて當座の讐敵あたかたき、長尾を擊うちてわれ死しなん。いな〳〵彼處かしこは間遠まとほ也。もししそんじてはその詮せんなし。よし〳〵牡蛎崎錦織かきざきにしごりなり共、主君を害する怨うらみはおなじ。這奴等しやつらなりとも討果うちはたして、いでや黃泉よみぢのおん鄕導みちしるべ、仕らん」と、肚裏はらのうちに、尋思しあんの臍ほぞを固めつゝ、刀の鞝舐濕めくぎくひしめして、西へ遶めぐり、東に居ゐなほり、やゝ近つかんとする程に、二人の大刀たちとり矢聲やこゑをかけて、晃きらめかす刃やいばの光に、憐あはれむべし、兩公達りやうきんたちの、御頭顱みぐしは磤はたと地に落おちたり。匠作「吐嗟あはや」、と圍繞ゐにうせし、警固けいごの武士を踶踰ふみこえて、矢來やらいの內に跳入おどりいり、「兩公達のおん傅かしつき、大塚匠作こゝにあり。怨うらみの刃受うけよや」、と怒いかりの大音だいおん、名吿なのりかけて、二尺九寸の大業物おほわざもの、拔手尖ぬくてするどく錦織頓二にしごりとんじが肩尖かたさきより乳ちの下したまで、ばらりずんと斬仆きりたふせば、牡蛎崎かきさき小二郞こじらう大きに驚き、「原來癖者脫さてはくせもののがさじ」、と拿もつたる血刀閃ちかたなひらめかし、遽いそがはしくふりかへる、匠作が右の腕たゞむき、水も溜たまらず落斬きりおとし、弱るところを疊たゝみかけて、細頸發石ほそくびはつしとうち落おとせば、陣笠被ぢんかさきたる一個ひとりの雜兵ざふひやう、群立むらたちさわぐ兵士つはものを、推おしわけ掻かきわけ、飛ぶが如くに、矢來の內へ進入すゝみいりて、兩公達のおん首級しるしを、左手ゆんでに髻爴もとゞりつかみよせ、匠作が首さへとりあげ、頭髻たぶさを口に楚しつかと銜くはえて、片手なぐりに腰刀こしかたな、ぬく手も見せず牡蛎崎かきさきを、乾竹割からたけわりに砍伏きりふせたり。

 現由斷大敵げにゆだんたいてきにて、事に熟なれたる長尾なれ共、名劒めいけんの奇特きどくにより、篝火かゝりひさへに滅けされしかば、癖者くせものを得搦えからめず、剩あまさへ春王安王しゆんわうやすわうのおん首級しるしを奪ひとられ、面目めんぼくを失ふものから、さてあるべきにあらざれば、京都へ使者をまゐらせて、且室町將軍まづむろまちせうぐんへ、縡ことの趣おもむきを訴うつたへ奉り、その夜よより、八方へ部てわけして、日每ひごとに番作が往方ゆくへを索求たづねもとむれども、それぞとしるべきよすがもなく、徒いたつらに日を送るほどに、京都へまゐらせたる使者かへり來て、「御敎書みぎやうしよ也」とてとり出いだすを、因幡介恭いなばのすけうやうやしく受うけとりて、みなもろ共に拜見す。其略そのりやくに、

春王安王が首級しるしを奪ひとられし事、大かたならぬ越度をちどなれども、既に誅果ちうしはてたれば、盜ぬすみしものに益ゑきあるまじく、國家の爲に害あらず。よりて長尾因幡介いなばのすけが今度こだみの軍功に換思食かえおぼしめし、その罪を宥なだめらる。鐮倉へ罷下まかりくだりて、淸方きよかたに吿つげしらせ、殘黨穿鑿ざんたうせんさくすべき者也。仍執達如件よつてしつたつくだんのごとし。
  嘉吉かきつ元年五月十八日。   斯波義淳等しばよしあつら奉うけたまはる。

と讀よみあへず、長尾主從しゆう〴〵微笑みせうして、はじめて安堵あんどの思ひをなし、軈やがて兩公達りやうきんたちのおん躯むくろをとり斂おさめ、擊うたれたる士卒の亡骸なぎからさへ、金蓮寺きんれんじに葬果ほうむりはてて、次つぐの日樽井たるゐを發足ほつそくし、鐮倉を投さして還かへりけり。長尾等が事、この下に話なし。

 案下某生再說それはさておき、大塚番作おほつかばんさくは、必死の覺期かくごも忠孝の誠まことを護まもらせ給ふなる、神明佛陀しんめいぶつだの冥助めうぢよによりけん、からく一條ひとすぢの血路みちを開きて、金蓮寺を脫のがれ去さり、東を望さして終夜よもすから、名をだもしらぬ山路やまぢにわけ入り、樵夫きこりのかよふ細道を、たどる〳〵天よを明あかしつ、次つぐの日も猶憩なほいこはで、只管ひたすちに走る程に、十七日の黃昏たそがれには、吉蘇きその御坂みさかのこなたなる、夜長嶽よながたけの麓ふもとに出いでたり。この行程みちのりを數かぞふれば、樽井たるゐより廿餘里より、三十里に庶ちかかるべし。「こゝまで追人おつてはかゝらじ」、と思へば忽地たちまち心放ゆるみて、手足の疼痛酷いたみはなはだし。こゝにわが身を見かへれば、淺痍あさでなれども五六个所かしよ、鮮血ちしはは衣きぬを浸すが如し。加以昨夜これのみならずよんべより、飮のまず食くらはで走りにければ、心神倶しんしんともにいたく疲勞つかれて、一步いつほも運はこばしがたきものから、志こゝろざしを激はげまして、道次みちのほとりに立たちも息いこはず、君父くんふの元かうべを隱さんとて、苦痛を忍びて彼此をちこちと、便宜びんぎの墓所むしよを求もとむるに、この處は里遠き、山ふところにして雲近く、峯みねは翠みどりに水皓しろかり。向上みあぐれば靑壁せいへき、刀かたなして削けづれるごとく、直下みおろせば碧潭へきたん、鑿のみもて穿うがてるに似たり。目に視みる佳景かけいなきにあらねど、物思ふ身は心もとまらず、颯々さつ〳〵たる松風は、追來る敵の聲かと疑ひ、喃々なん〳〵たる鳥語とりのねは、憂うきを慰む友としならず。とかくする程に山路やまぢより、山道やまぢにけふもくらしつゝ、十七日の月の影、山の端はに升のぼる比ころ、樹垣いけがきふかく締遶ゆひめぐらしたる、白屋くさのやのほとりに來にけり。庭門にはぐちの諸折戶もろをりとは、半扇朽失かたとびらくちうせて、荒あれたきまゝの孤館ひとつやなり。「今宵こよひはこゝに足を休めて、一碗いちわんの粮かてをも乞こはめ」、と思へば庭に進み入りて、月を燭あかしに、と見かう見れば、こゝなん一宇いちうの田舍道場ゐなかでらにて、持佛堂ぢぶつだうとおぼしき檐のきに、檜ひのきの輪板まるいたを額がくにして、「拈華庵ねんげあん」の三字を掛かけたり。それすら漏もる雨あめに磨滅まめつして、幽かすかにぞ讀よまれたる。其處そこよりこなたは墓所むしよにして、石卵塔せきらんたふあまたあり。番作つく〳〵思ふやう、「君父くんふの頭顱みぐしを瘞うづめんに、こは究竟くつきゃうの處なれども、明々地いさゝめに由よしを吿つげなば、おそれてかならずうけ引ひくべからず。奄主あんしゆにはしらせずして、葬ほふむり果はてて後のちにこそ、宿やどりを乞こはめ」、と深念しあんして、足を翹つまだて、潛しのびやかに、あちこちをさし覗のぞけば、持佛堂の簀子すのこの下に、一挺いつてうの鍤すきさへあり。「よき物獲えつ」、と引出ひきいだし、肩にうち掛かけつゝ墓所むしよに赴おもむき、さて處何いづこにか葬ほうむらん、と左邊右邊ゆんでめてを見かへれば、新葬あらほとけとおぼしくて、石を居すえざる一座いちざの塚あり。このほとりの壤つちやわらかにて、掘發ほりおこすに便りよければ、この新葬あらほとけと推竝おしならべて、思ふまゝに穴を掘り、三頭みつのかうべを深く埋うづめて、舊の如くに壤つちを掞おほひ、跪ひざまづきて合掌がつせうし、念ねんじ果はてて身を起し、鍤すきさへ簀子のしたへ返すに、裡面うちには人のありやなしや、「誰たそ」と咎とがむる聲もせず。かくて庖湢くりやの方かたに立たちより、ほと〳〵と戶を敲たゝきて、「喃なふこの菴主あんしゆに物申さん。これは山路に日をくらして、餓うへつかれたる行人たびゝとなり。素もとより慈善をあるじとし給ふ、道場どうじやふとこそ見奉れ。今宵をあかさせ給ひね」、といひかけて戶を推開おしひらけば、菴主あんしゆとおぼしきものはをらで、思ひがけなき一個ひとりの女子をなこ、その年は可二八にはちばかり、鄙ひなにはあれど臈闌らうたけて、露つゆを含ふくめる野の花の、匂にほひこぼるゝ風情ふぜいにて、獨孤燈ひとりことうにさし對むかひ、人まちわびたるおもゝちなるが、今番作が呼門おとなひあへず、戶を推開おしあけて進み入る、その爲體ていたらくの異ことなるに、駭おどろきおそれて應答いらへはえせず。こなたも呆あきれてうち目戍まもれば、女子おなこはいとゞ堪たへずやありけん、衝つと立たちて納戶なんどのかたへ、避さけんとするを番作は、遽いそがはしく喚よびとゞめ、「女中ぢよちうさのみな駭おどろき給ひそ。われは山客夜盜やまだちよとうにあらず。きのふ如此々々しか〴〵のところにて、親の仇人かたきを擊果うちはたし、更に仇人かたきの援刀すけたちを、殺脫きりぬけて來つるもの也。さればきのふの侭まゝにして、餓勞うへつかれてゆくことかなはず。一碗いちわんの飯いひを惠みて、宿やどりを許し給はらば、是これ再生の洪恩こうおんなり。吾われつゆばかりも野心なし。疑ひを釋とき給へかし」、といひ諭さとしつゝ腰刀こしかたなを、右手めてに取とりて後方あとべに推遣おしやり、簀子すのこの上に進登すゝみのぼれば、件くだんの女子をなこはおそる〳〵、行燈あんどんの燈口ひぐちさし向むけて、番作が形容ありさまを、つく〳〵と見て歎息たんそくし、「尙年少まだとしわかき方かたざまの、讐あたを擊うち給ふなる、途みちの難義なんぎを救ひあへず、只一碗たゞいちわんの糧かてを惜をしみて、强顏つれなく款待もてなすべうはあらねど、こゝはわらはが宿所に侍らず。見給ふごとく道場どうじやふなり。固もとより田舍ゐなかの事なれば、菴主あんしゆの外ほかに戍もる人なし。嚮さきにわらはは亡親なきおやの墓參りして侍はべりしを、菴主の法師に喚よびとめられ、『よくこそ來つれ。かゝる事にて、貧道われは大井おほゐの鄕さとまでゆく也。黃昏たそがれにはかへり來きなん。しばしが程ぞ、留守してよ』、といはるゝに固辭いなみがたくて、趾あとあづかりて悔くやしくも、今か〳〵、と俟まつほどに、日ははや暮くれてしかすがに、捨すててかへるに還かへられず、せんすべもなく侍るかし。かゝれば飯いひはありながら、わらはがこゝろに任まかせがたし」、といふを番作聞きゝあへず、「いはるゝところ理ことわりなれども、菴主あんしゆの還かへるをまたんとて、轍鮒てつふの窮きうを救はれずは、われはや枯魚こぎよの市いちに售うられん。人を救ふは出家しゆつけの本願、菴主に斷り給はずとも、何なにかはさまで咎とがめらるべき。もしかへり來てうち腹はらたち、物吝ものをしみしておん身を叱しからば、某それがしよろしくいひ釋とくべし。枉まげて餓渴きかつを救ひ給へ」、と乞求こひもとむるに、推辭いなみかたく、山折敷やまをしきに麻布帛あさふきんうち掛かけたる、菴主の碗わんをそがまゝに、番作がほとりにすえて、山檜やまひのきに藤箍かつらたがせし、飯櫃いひひつを引ひきよせて、堆高うづたかく盛もりていだす、乾菜ほしなまじりの麁麥あらむぎも、時にとりては美味珍膳びみちんぜん、皿に鹽盈玉味噌しほみつたまみそは、わが口濡くちぬらすはしやすめ、櫃ひつの粮食竭かてめしつくるまで、愉こゝろよく食しよくし畢をはりて、歡よろこばしきよしを述のべ、膳ぜんおし遣やれば、をうな子は、とり納めて、「やよ客人たびゝと、餓渴きかつは救ひまゐらせたり。菴いほりの留守にわかきどちが、もろ共に今宵を曉あかさば、人の疑ひをいかにせん。とく〳〵出いでてゆき給へ」、と强面つれなくいふを耳にもかけず、袖そでまきあげて臂ひぢさし伸のべ、「これ見給へかくの如く、數个所すかしよの金瘡なまきずあるものが、ひとつ臥房ふしどに寢たればとて、何事なにことをかせらるべき。その疑ひは人にぞよらん。枉まげて一宿曉ひとよさあかさし給へ。餓うへたる腹はらを繕つくろひては、今一トしほに疲勞つかれを覺おぼえて、一步ひとあしもゆきがたし。夏の夜なれば短くて、初夜しよやすぎたれば程もなく、奄主あんしゆは還かへり給ひなん。枉まげて一宿曉ひとよさあかさし給へ」、と他叓たじなくいはれて是これさへに、推辭いなみかねつゝ歎息たんそくし、「さても便びんなき所爲わざながら、わらはとてあるじならねば、此このうへはともかくも、おん身がこゝろに任まかせ給へ。しかはあれども山寺やまてらなれば、客殿といふものもなし。枕まくら見つけて本尊ほんぞんの御みまへに今宵を曉あかし給へ。山里やまざとのとり得えには、蚤蚊のみかは絕たえてをらぬかし」、といふに番作うちほゝ笑えみ、「理わりなく宿やどを乞得こひえたる、歡よろこばしさはなか〳〵に、短き言葉に盡しかたし。誠まことに女中ぢよちうの賜たまもの也。ゆるし給へ」、といひかけて、やうやくに立たちあがれば、女子をなこは軈やがて指燭しそくして、「これもてゆきね」、とさし出いだすを、「忝かたじけなし」、と右手めてにとり、左手ゆんでに隔亮推からかみおしひらきて、持佛堂ぢふつだうへぞ寢ねにゆきぬ。

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第十五回)

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