南総里見八犬伝(015)

南總里見八犬傳第二輯卷之二第十四回
東都 曲亭主人 編次
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使女つかひめ急訟はやうちよるみづわたす」「堀内貞行」

のりものとばして使女溪澗つかひめたにかはわたす
しやくならしてヽ大記總ちゆだいずゞたまたづぬ

 かたはらに侍りたる、貞行等さだゆきら伏姬ふせひめの自殺をとゞめあへなくも、插頭かざしの花をちらせしごとく、遺感いかんやるかたなかりけり。そがなか孝德たかのりは、男子をのこにもます姬君ひめきみ末期まつごの一句にはげまされて、身をおくところなかりけん、亡骸なきからのほとりにおちたる、血刀ちかたなを手はやく取て、ふたゝび腹を切らんとす。そのとき義實よしさね聲をふりたて、「やをれ大輔狼狽だいすけうろたへたる。その身に大罪だいざいありながら、君命くんめいまたずして、自害せんとは奇怪きくわいなり。伏姬一旦甦生そせいしたれば、つみ一等いつとうなだむるとも、この山に入るものは、かうベはねんとおきてしものを、法度はつとまげておのがまに〳〵、腹切ることをゆるさんや。觀念せよ」、と進みよりて、やいば引提ひきさげ立給へば、「願ふところ」、と孝德は、なほりて合掌がつせうし、うなぢのばす程もなく、上にきらめく刃の稻妻いなつまちやううつたる大刀風たちかぜに、思ひかけなく孝德が髻弗もとゞりふつ載捨きりすて給へば、「これは」、と見かへる罪人つみひとも、いさめかねたる貞行も、驚き思ふ仁君じんくんの、恩義にいとゞかしこまる。義實は氷なす、やいばをやをら𩋡さやおさめて、たゝえる淚をふり拂ひ、「見よや藏人くらんど、わが手つから、罪人つみひとを刑罰せり。法度はつとは君の制する所、君又これを破るといふ、古人こじん金言宜きんげんむべなるかな。われもし民ともろともに、けふこの山に登りなば、大輔だいすけとがなかるべし。かうべかえたるもとゞりは、かれ亡父ぼうふへ寸志なり。かれをさなき時よりして、名を大輔と喚做よびなせしは、大國輔佐たいこくほさの臣たれ、とその久後ゆくすゑしゆくせしに、わが官職つかさもやうやく進みて、治部大輔ぢぶのたいふ大輔だいすけと、その國訓よみこゑことなれ共、文字もんじはかはらぬ主從同名しゆう〴〵どうめい、かゝるゆゑにやしゆうのうへに、あるべきたゝりを身にうけけん、可惜あたらしき壯佼わかうどが、よに埋木うもれきとならん事、かへす〳〵も不便ふびん也。親八郞は大功あり。大輔も忠なきにあらず。その親といひ、その子といひ、勳功くんこうあれども賞をず、その死に臨み、その罪に、陷るに及びては、主尙しゆうすら救ふによしなき事、わが子にまして哀傷あいしやうの淚はこゝにとゞめかたし。やよ大輔よ、孝德よ。わがこのこゝろをよくも知らば、亡親なきおやの爲、ひめが爲に、いのちをたもち、身を愛し、ほとけにつかへ苦行くぎやうして、高僧知識の名をあげよ。こゝろ得たりや」、と叮嚀ねんころに、さとし給へば孝德たかのりは、かたじけなさにはふりおつる、淚にむせび地にふして、いらへかねつゝ聲をむ。ことわりなれば貞行は、はなうちかみて進みいで、「今にはじめぬ君の仁心じんしん、姬うへの御最期ごさいごには、かごとがましき事もなく、家臣のうへをかくまでに、聞えさせ給ふ事、大輔和殿わとのが身にとりては、一郡いちぐんの守護、萬貫まんぐわんの、祿ろくにもまして滿足ならん」、といはれてやうやくかうべもたげ、「某寔それがしまこと不肖ふせうなれども、如是畜生によぜちくせうだも菩ぼだいれり。今より日本廻國につほんくわいこくして、灵山灵社れいさんれいしやを巡禮し、伏姬君ふせひめきみ後世ごせとふらひ、わが君御父子ごふしの武運を祈らん。姬うへの落命も、又それがし祝髮しゆくはつも、みな八房の犬ゆゑなれば、犬といふ字を二ッにき、犬にも及ばぬ大輔が、大の一字をそがまゝに、ヽ大ちゆだい法名仕ほうめうつかまつらん」、と申上れば義實朝臣よしさねあそん、「あはれいしくも申シたり。くだんの犬は全身みのうちに、黑白八こくびやくやつ斑毛ぶちあれば、八房と名つけしが、今さら思へば八房の、二字は則一戶八方すなはちひとりのしかばねはつはうに至るの義なり。加旃しかのみならず伏姬が自殺の今果いまは痍口きずくちより、一道の白氣はくきたなびき仁義八行じんぎはつこう文字顯もんじあらはれたる、百八の珠閃たまひらめのぼり、文もじなき珠は地におちて、その餘のやつ光明ひかりをはなち、八方へ散亂さんらんして、つひに跡なくなりし事、其所以そのゆゑなくはあるベからず。後々のちのちに至りなば、思ひあはする事もやあらん。菩提ぼだい首途かどで餞別はなむけには、たゞこの珠數ずゞにますものあらじ。努祕藏ゆめひさうせよ入道にうどう」、とさとしてやがたびければ、孝德は手にうけて、再三ふたゝびみたびうちいたゞき、「こはありかたき君のたまもの、今より諸國を編歷へんれきして、飛去とびさりたるやつたまおちたる所をたづねもとめ、はじめのごとくつなぎとめんに、一百八いつひやくはちかず滿みたずは、又當國たうごくたちかへりて、見參げんざんり候はじ。年をるとも音耗おとづれなくは、たびよりたびに野ざらしの、からうへたる犬の腹を、こやしにけりと思召おぼしめされよ。これまこと今生こんぜうのおんわかれに候べし」、と思ひきつてぞ申ける。

 この時既に日はくれて、ははや初更しよこうのころなるに、晝よりも猶明なはあかかりける、月は半輪はんりんの雲もなく、山には萬樹ばんじゆの影あり。鼕々たう〳〵たる水の音、颯々さつ〳〵たる松の聲、はらわた斷媒たつなかだちなるに、鹿しか峯上をのへなきて、白露はくろしもとなるを悲しみ、さる幽谷みたにさけびて、孤客こかく夜衾やきんさむからしむ。まれに來てふもさみしき深山路みやまぢに、心つよくもたゞひとり、かくまで行ひすましけん、伏姬の事をのみ、主從しきりに感嘆せり。

 當下堀內貞行そのときほりうちさだゆきは、孝德等たかのりらと議していふやう、「姬うへの自殺によりて、時を移させ給ひしかば、日はくれ、山はけはしきに、御下向ごげこうは心もとなし。さればとてとゝもに、こゝにあかさせ給ひなば、おん亡骸なきからをいかにせん。毒蛇猛獸どくじゃまうじううれひなしといふべからず。進退しんたいきはめて難義なんぎ也。和殿わとのはなにとか思ひ給ふ」、ととはれて霎時沈吟しばしうちあんじ、「いはるゝ所ことわり也。こゝにてあかさせ給はんことは、遠慮とほきおもんはかりなきに似たり。所詮和殿しよせんわどのそれがしと、姬の亡骸なきからかき奉り、わが君は御手みてづから、蕉火たいまつとらせ給ひて、下山げさんをいそがせ給はんふもとにはおん倶の人々を、とゞめ給ひぬ、とうけ給はれば、おんむかひに參るべし。たとひそのもの共耳怖どもきゝおぢして、この溪澗たにこかはわたさず共、前面むかひの岸よりあなたにて、あひ奉らざることはあらじ。この議はいかゞ」、とうち相譚かたらふ。義實これをきゝあへず、「伏姬すらたゞひとり、去歲こぞよりこゝにりけるものを、弓箭ゆみやとる身の主從三人みたり、毒蛇猛獸をおそるゝ爲に、一夜亡骸ひとよなきからることかなはず、あはてて麓にくだらんや。これを思ひかれを思ふに、男兒をのこゞにして見まほしき、伏姬が心操こゝろばえ、親はづかしきものぞかし。五十子いさらご泣立なきたてられて、心よはくもはる〴〵と、みづから姬をとひし事、今さら慚愧ぎんざたへざる也。この故に今その死に及びて、われ一滴いつてきの淚を見せず。魂魄こんはくいまだこゝを去らずは、汝達なんたちが議論しとて、伏姬にわらはれなん。枝ををりて火をたきつけよ。われも割籠わりごをひらくべし。いそぐことかは」、とのたまへば、貞行孝德感激して、まづ伏姬の亡骸なきからを、ほらうちへ入れまゐらせ、主從石門いはと樹下このもと團坐まとゐして、しづかにあくるをまちけり。

 浩處かゝるところに、前面むかひの岸に、あまた蕉火閃たいまつひらめきて、人語幽ひとこゑかすかに聞えけり。貞行はるかにこれを見て、「さればこそ人々がおんむかひに參りたれ。いでやこの瀨をわたさせん」、といひもをはらずたちて、やが水際みぎわに走りいで、「其處そこに見ゆる蕉火たいまつは、おんむかひの人々なるべし。殿とのはこなたにましますぞ。吾們われわれ既にこの川をわたせり。風聞ふうぶんとはうらうへにて、流れはゆるく瀨は淺し。とく〳〵わたし候へ」、と聲を限りに呼びかけたり。折ふし追風おひかぜなりければ、その聲定さだかに聞えけん、蕉火たいまつをあちこちと、ひらめかしつゝ坂をくだり、岸にをりたつとおぼしくて、先にすゝむもの、あとに續くもの、馬を牽入ひきいれ、聲をあはして、人夥涉あまたわたし來つ、こなたの岸によるを見れば、思ひかけなき女轎をんなのりものを、釣臺つりだいとかいふ物に括着くゝりつけすこやかなる男七八人、赤裸あかはだかにてこれをかきたり。その餘はふもとのこされし從者ともびと、又瀧田たきたより參れるもありけり。貞行はやく見咎みとがめて、「あれはいかに」、と問ふ程に、轎子のりものかきおろし、衆皆水際みな〳〵みぎわについゐていふやう、「日のいりなんとせしころまで、屋方やかたの歸らせ給はねば、吾們われわれ既にまうし合せ、みちまでむかへ奉らんとて立出たちいでをり、奧ざまより火急くわきうのおん使つかひ來れり。よりてもろともに、あしをいそがし候へども、いく程もなく日をくらし、あなたの岸まで參りしに、よびかけられて吾們われわれのみ、わたすべうもあらざれば、雨具續松あまぐついまつなどを、のして來つる釣臺つりだいに、かのおん使つかひ轎子のりもの括着くくりつけからくもわたして候」、といふに貞行うち點頭うなづぎ、「そは微妙いみしくもはかりにけり。おん使とく〳〵これへ」、といそがせば、五六人たちかゝりて、手ばやく細引ほそびき麻索あさなは解去ときすてつゝ、轎子のりものの戶を引開ひきあけけり。と見ればおん使は專女おさめにて、年紀としのころ四十よそぢあまり、名は柏田かへたとぞいふなる。いぬるころ伏姬の安否あんひをしるべきために、密使しのびづかひをうけ給はりて、前面むかひの岸まで來つるもの也。この日火急くわきうのおん使なれば、道竟轎夫みちすがらかごのものを、とばさせてや參りけん、のりもののうちには、三尺あまりなる白布しらぬのを結びさげ、其身そのみは、うちぎの下、帶の上より、鳩尾みづおちのほとりまで、白きねりきぬを、いくへともなく卷締まきしめて、おなじねり鉢卷はちまきをしたり。早打ほやうちといふものめきて、いと精かひ〴〵しく見ゆるものから、長途ちやうどゆられつゝ來にければ、目眩めくるめきて左右さうなくはたゝざりけるを、衆皆扶みな〳〵たすけいだす程に、貞行は、まづ義實のほとりに參りて、如此々々しか〴〵と聞えあぐるに、柏田かへたも後につき見參げんさんす。義實は「この使、いと心もとなし」とて、そのよしとひ給へば、柏田はおくする氣色けしきなく、はつといらへかうベあげ、「わが君さまにはこの曉に御館みたちいでさせ給ふののちおくざまのおん病著いたつき、いよゝます〳〵おもらせ給ひつ、『殿はかへらせ給はずや』、と間なく時なくとはせ給ひ、ある假染かりそめのおん譫言うはことにも、姬うへ其處そこにゐますが如く、物いひかけてうち泣給ふ。おしはかり奉れば、いたましき事限り侍らず。媼等うばらはさら也、御曹司おんぞうし(義成をいふ)も、かくなぐさめかねさせ給ひて、『父うへは姉君あねぎみを、みづからとはせ給はんとて、まこと富山とやまおもむき給ひぬ。けふ一またせ給へ。あすはかならずいろねて、かへり來まさん』、とこしらへ給へば、うち驚き給ひつゝ、『富山は名だゝる魔所ましよきく。殿もし彼處かしこおもむき給はゞ、ことなくてやはかへり給ふ。とくよびかへし奉れ』、とむつかり給ふに、御曹司も、いよゝせんすべましまさず、『柏田かへた彼山かのやまの案內を、しつたるものとかきゝたるぞ。屋方出やかたいでさせ給ひてより、まだ一時ひとゝきすぐべからず。いそがばみちにて追著おひつきなん。參りてこのよしをよく申せ』、とのたまはするに物とりあへず、あはて御館みたちいでしより、人疲勞つかるれば里々さと〳〵にて、肩をつがせ、あしを急がせ、からくして參り侍り」、とまうす折から外面とのかたなる、從者ともひと騷ぎたち、「前面むかひの岸に隱々ちらちらと、火の光見えたるが、今はや水際みぎわにをりたつたり。あれはまさしく轎子のりものならん。それかあらぬか」、とばかりに、罵散動聲囂々のりどよめくこゑぎやう〳〵たり。

 貞行孝德聞たかのりきゝあへず、走りいでつゝうちながめ、「再度の急訟はやうち、心もとなし。こなたより扶掖たすけひきて、とくわたさせよ」、と下知げぢすれば、「うけ給はる」といらへつゝ、彼釣臺かのつりだいかきあげて、究竟くつきやうの奴しもべ十人あまり、流水ながれを切り、石を踏除ふみよけ、あなたの岸に赴きて、はじめのごとく釣臺に、轎子のりもの括着くゝりつけ、その從者等ともひとらもろ共に、やがてこなたへわたし來つ、且轎子まづのりものかきおろし、とかくして戶を開けば、うちよりいづ一個ひとり女房にようばう、その年はまだ廿はたちに足らず、その名を梭織さをりよばるゝもの也。嬋娟せんけんたる額髮ひたひかみに、ねりぎぬ鉢卷はちまきしたる、精悍かひ〳〵しき打扮いでたちは、柏田かへたにまして見ばへせり。かくて梭織さをり轎子のりものを、いづるとやがて氣絕いききれて、忽地たちまちに倒れしかば、貞行孝德驚きて、顏に石滂しみづそゝぎかけ、藥をのませ、さま〳〵に、いたはる程にわれにかへりて、貞行等に挨拶す。もとよりかゝるおん使つかひに、えらまれたるものなれば、長途ちやうど疲勞つかれを物ともせず、貞行孝德に誘引いざなはれて、おん前に參りしかば、義實はやく聲をかけて、「一度ならず再度の使は、いよ〳〵心もとなきこと也。五十子いさらこはいかにぞや」、ととはせ給へば、霏々はら〳〵と、をつる淚をぬぐひあへず、「おくざまは今朝巳けさみのころに」、と末はいはず伏沈ふししづめば、さきに參りし柏田かえたさへ、共によゝとぞなきにける。義實しきり嗟嘆さたんして、「縡絕こときれたるか」、と問ひ給へば、梭さをりははつかにかうべもたげ、「御臨ごりんしうの事などは、まうすもなか〳〵おろかに侍り。柏田がおん使にたちのち、いく程もあらずなくなり給ひぬ。御曹司おんぞうしおふせには、『騎馬をもてこのよしを、つげ奉るはやすけれども、微行しのび御登山ごとさんなればはゞかりあり。なんぢさきに柏田と共に、密使しのびつかひをうけ給はりて、富山へおもむきたりときけば、まゐりて屋方やかたつげ奉れ。今宵こよひをなすぐしそ』、といそがし給へば、そがまゝに、かゝれて參り侍りき」、と申上れば、孝德たかのりは、貞行とおもてをあはし、かうべたれ嘆息たんそくせり。義實巨細つばらに聞給ひて、「五十子が今般いまは情願ねきごと得果えはたさねばわれもまた遺憾のこりをしく思へども、末期まつごにあはぬは幸ひならん。よしやあすまで存命ながらへたりとも、歸りてなにといふべきぞ。汝等なんぢら且彼まづあれを見よ」、とほらかたを見かへりて、亡骸なきからを示し給へば、柏田梭織かへたさおりは胸うち騷ぎて、おんあとべ方にたちまはり、さし入るゝ月をあかしに、ほらうちをつく〳〵、と見つゝ齊一ひとしく聲をたて、「こはひめうへにましましけり。たけけものやぶられ給ふ、さらずはやいばはて給ひけん。こはなにとせん淺ましや、いたましさよ」、と亡骸なきがらのまくらべ後あとべ轉輾ふしまろび、むせかへりつゝなきにけり。

 義實これには目をり給はず、貞行等にのたまふやう、「義成よしなりがさぞまちわぶべきに、人あまた參りにければ、あかつきかけて山をくだらん。大輔だいすけは十餘人奴隸しもべもろ共留ともとゞまりて、あすは伏姬が亡骸なきがらを、此處このところ埋葬まいそうせよ。又八房をも瘞得うづめえさせよ。招かで姬が間人とぎを得たれば、柏田梭職かへたさをりもこのまゝに、今宵一夜こよひひとよのこおかなん。母の使をなきたまに、手向たむけこゝろに通夜つやさせよ。ほうむりの事は箇樣々々かやう〳〵」、と叮嚀ねんころさししめし、をんなばらをねぎらひて、そのこゝろを得させつゝ、從者等ともびとらをもほめさせて、ひきもてきたりし馬にうちのり、あなたの岸へ赴き給へば、のこれるものは孝德と、共に水際みきわ蹲踞そんこしつ、從ふ者は貞行もろ共、蕉火たいまつをふりてらし、瀨踏せふみをしつゝわたしけり。

 かくてそのつぐの日、午過ひるすぎて、富山とやまふもとなる村長むらおさは、法師莊客們ほうしひやくせうばらもろ共に、ひつぎかき喘々あへぎ〳〵、富山のほらさして來つ。これはこの曉に、義實瀧田へ歸館の折、みちより貞行うけたまはりて、麓の村長むらおさと法師ばらに、云云しか〳〵おふせつたへて、俄頃にはか棺葬具ひつぎそうぐを造らせ、「金碗大輔かなまりだいすけ遞與わたせ」とて、この山深くつかはしけり。又この日より樵夫炭燒きこりすみやき、すべて山掙やまかせぎするものに、富山を上下しやうげすることを許し給ふ。されば孝德入道にうどうは、くだんひつぎうけとりて、まづ伏姬の亡骸なきがらおさめ奉り、則洞すなはちほらきりひらきて、おん墓所はかところとす。しかれども碑碣しるしのいしなし。只松柏雙立たゞせうはくならびたちて、自然と墓標はかのしるしとなれり。人これを傳へきゝ、これをよびて義烈節ぎれつせつふの墓といふ。又八房をも土葬にせり。これをば只たゞがんおさめて、敢亦あへてまたひつぎを用ひず。こは伏姬の墓を去ること、三丈みつゑばかりいぬかたふりたる檜樹ひのきもとうづむ。人亦喚またよび犬塚いぬつかといひけり。ほふむりの事かくの如く、よろづ質素にせられしは、義實かね孝德たかのりに、おふせつけらるゝ所也。姬の志操こゝろさしくみてなるべし。事はて柏田梭織かへたさおりは、かの十餘人の奴隸しもべて、なきつゝ瀧田へたち歸れば、麓の法師村長等はうしむらおさらも、をのが里々さと〳〵へ歸りにけり。そが中に金碗大輔孝德かなまりだいすけは、圓頂黑衣ゑんてうこくえさまをかえて、ヽ大坊ちゆだいぼう法號ほうごうし、しばらく山にとゞまりて、伏姬ののこし給ふ、法華經ほけきやう讀話どくじゆすること、一日一夜もかんだんなく、四十餘日よにちに及びけり。

 さる程に瀧田たきたには、五十子いさらこかたの葬式をとりおこなはれ、なき人々のおん爲に、米夥施行あまたせぎやうして、まづしき民をにぎはし給ひ、又洲崎すさきなる行者ぎやうじや石屋いはやへ、堀內貞行ほりうちさだゆきつかはして、物おほく寄進きしんして、參詣のものゝ爲に、道橋みちはしを造らし給ふ。人みなこよなき功德くどくといひけり。
 とかくする程に、はや五十子伏姬の四十九日になん〳〵とす。よりて嫡男義成朝臣よしなりあそん施主せしゆとして、瀧田なる菩提院ぼだいいんに、大斂忌だいれんきの法事あるべし、と聞えしころ、義成は「この法筵ほうゑんに、ヽ大坊をも召加めしくはへよ」とて、使を富山へつかはされしに、ヽ大は山にをらずなりぬ。なほ彼此をちこちたづぬるに、樵夫等きこりらがいふやう、「くだんの法師はかねてより、准備こゝろがまへをしたりけん、おひ脊負せおひ、錫杖しやくぢやう衝鳴つきならし、今朝けさしも山をくだるとき、吾們われ〳〵を見かへりて、『瀧田殿より入道にうどうを、たづねさせ給ふ事あらば、このよし申せ』、といひかけて、何處いづことはなくいでてゆきぬ。かゝればまたせ給ふ共、歸らじ」といふに、すべなくて、使者は瀧田へたちかへり、ことおもむきを申せしかば、義實嘆賞大たんせうおほかたならず、「かれ既に誓ひつゝ、『六十餘國を編歷へんれきして、飛とびさりたるやつたまを、もと珠數ずゝつなとめずは、生涯安房あはへかへらじ』、とかねていひつることあれば、再會まことはかりがたし。遺憾のこりをしきことなり」、とひとりごち給ひつゝ、かさね往方ゆくへたづね給はず。さはれこゝろにたえずやありけん、ヽ大坊がつゝがなく、歸り參ることあらば、かれがよすがになるべしとて、明年あけのとし伏姬の一周忌のころまでに、富山に一いちう觀音堂くわんおんだう建立こんりうし、伏姬の德義、八房が事さへしるして、姬の遺書かきおきもろ共に、厨子づしのうちへぞ納め給ふ。今なほ富山に觀音堂あり。

 かくてあまたの年をれども、ヽ大坊が音信おとづれなし。畢竟彼ひつきやうかの法師が久後ゆくすゑいかん。そは後々のちのちの卷にてとかなん。

(作者いはく。この書、肇輯第一卷ぢやうしうだいいちくわんより、今このまきいたりては、則一部小說すなはちいちぶせうせつ開場かいしやう、八士出現の發端ほつたんなり。これより次の卷々は、年月相次あいついでずして、いとのちの事に及べり。そのあはひに物語なし。たとひ彼水滸傳かのすいこでんに、龍虎山りやうこさんにて洪信等こうしんら石碣せきけつをひらくの段より、林沖りんちうが出現まで、その間數あはひすねん、物語なきがごとし。又いふ。この卷の出像さしゑうち金碗かなまり大輔孝德たかのりが、川をわたす圖のごときは、文外のぐわ畫中ぐわちうの文也。この出像さしゑによらざれば、忽然こつぜんとして雲霧くもきりの晴るゝゆゑを知るよしなし。又使女つかひめ急訟はやうちに、柏田梭織かへたさをりを寫しいだすに、その在處あるところを先にして、その來る所をのちにせり。首尾錯亂しゆびさくらんに似たれ共、さにあらず。其人そのひとの小傳來歷、のちはつかにその人の口中こうちうより說出ときいだすをば、事を先にしてでんのちにす。亦是またこれに從ふものなり。しかはあれど、畫匠ぐわせうたゞその畫を畫として、その意を意とし得ざることあり、こゝをもて作意と岩齬がんごなきにあらず。この卷中くわんちうもしかることあり。看官みるひとよろしく察すべし。)

里見八犬傳第二輯卷之二終

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第十四回)

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