南総里見八犬伝(015)

南總里見八犬傳第二輯卷之二第十四回
東都 曲亭主人 編次
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「使女つかひめの急訟はやうち夜よる水みづを渉わたす」「堀内貞行」

轎のりものを飛とばして使女溪澗つかひめたにかはを涉わたす
錫しやくを鳴ならしてヽ大記總ちゆだいずゞたまを索たづぬ

 かたはらに侍りたる、貞行等さだゆきらは伏姬ふせひめの自殺を禁とゞめあへなくも、插頭かざしの花を散ちらせしごとく、遺感いかんやるかたなかりけり。そが中なかに孝德たかのりは、男子をのこにもます姬君ひめきみの末期まつごの一句に激はげまされて、身を措おくところなかりけん、亡骸なきからのほとりにおちたる、血刀ちかたなを手はやく取て、ふたゝび腹を切らんとす。そのとき義實よしさね聲をふり立たて、「やをれ大輔狼狽だいすけうろたへたる欤か。その身に大罪だいざいありながら、君命くんめいを俟またずして、自害せんとは奇怪きくわいなり。伏姬一旦甦生そせいしたれば、罪つみ一等いつとうを宥なだむるとも、この山に入るものは、頭かうベを刎はねんと掟おきてしものを、法度はつとを枉まげておのがまに〳〵、腹切ることを聽ゆるさんや。觀念せよ」、と進みよりて、刃やいばを引提ひきさげ立給へば、「願ふところ」、と孝德は、居ゐなほりて合掌がつせうし、項うなぢを延のばす程もなく、上に晃きらめく刃の稻妻いなつま、丁ちやうと打うつたる大刀風たちかぜに、思ひかけなく孝德が髻弗もとゞりふつと載捨きりすて給へば、「是これは」、と見かへる罪人つみひとも、諫いさめかねたる貞行も、驚き思ふ仁君じんくんの、恩義にいとゞ畏かしこまる。義實は氷なす、刃やいばをやをら𩋡さやに納おさめて、泛たゝえる淚をふり拂ひ、「見よや藏人くらんど、わが手つから、罪人つみひとを刑罰せり。法度はつとは君の制する所、君又これを破るといふ、古人こじんの金言宜きんげんむべなるかな。われもし民ともろ共ともに、けふこの山に登りなば、大輔だいすけに咎とがなかるべし。頭かうべに代かえたる髻もとゞりは、渠かれが亡父ぼうふへ寸志なり。渠かれが穉をさなき時よりして、名を大輔と喚做よびなせしは、大國輔佐たいこくほさの臣たれ、とその久後ゆくすゑを祝しゆくせしに、わが官職つかさもやうやく進みて、治部大輔ぢぶのたいふと大輔だいすけと、その國訓よみこゑは異ことなれ共、文字もんじはかはらぬ主從同名しゆう〴〵どうめい、かゝる故ゆゑにや主しゆうのうへに、あるべき崇たゝりを身に受うけけん、可惜あたらしき壯佼わかうどが、よに埋木うもれきとならん事、かへす〳〵も不便ふびん也。親八郞は大功あり。大輔も忠なきにあらず。その親といひ、その子といひ、勳功くんこうあれども賞を獲えず、その死に臨み、その罪に、陷るに及びては、主尙しゆうすら救ふによしなき事、わが子にまして哀傷あいしやうの淚はこゝに禁とゞめかたし。やよ大輔よ、孝德よ。わが此このこゝろをよくも知らば、亡親なきおやの爲、姬ひめが爲に、命いのちをたもち、身を愛し、佛ほとけにつかへ苦行くぎやうして、高僧知識の名を揚あげよ。こゝろ得たりや」、と叮嚀ねんころに、諭さとし給へば孝德たかのりは、辱かたじけなさにはふり落おつる、淚に哽むせび地に伏ふして、應いらへかねつゝ聲を咽のむ。理ことわりなれば貞行は、鼻はなうちかみて進み出いで、「今にはじめぬ君の仁心じんしん、姬うへの御最期ごさいごには、喞かごとがましき事もなく、家臣のうへをかくまでに、聞えさせ給ふ事、大輔和殿わとのが身にとりては、一郡いちぐんの守護、萬貫まんぐわんの、祿ろくにもまして滿足ならん」、といはれてやうやく頭かうべを擡もたげ、「某寔それがしまことに不肖ふせうなれども、如是畜生によぜちくせうだも菩提ぼだいに入いれり。今より日本廻國につほんくわいこくして、灵山灵社れいさんれいしやを巡禮し、伏姬君ふせひめきみの後世ごせを弔とふらひ、わが君御父子ごふしの武運を祈らん。姬うへの落命も、又某それがしが祝髮しゆくはつも、みな八房の犬ゆゑなれば、犬といふ字を二ッに釐さき、犬にも及ばぬ大輔が、大の一字をそがまゝに、ヽ大ちゆだいと法名仕ほうめうつかまつらん」、と申上れば義實朝臣よしさねあそん、「遖あはれいしくも申シたり。件くだんの犬は全身みのうちに、黑白八こくびやくやつの斑毛ぶちあれば、八房と名つけしが、今さら思へば八房の、二字は則一戶八方すなはちひとりのしかばねはつはうに至るの義なり。加旃しかのみならず伏姬が自殺の今果いまはに痍口きずくちより、一道の白氣はくきたな引びき、仁義八行じんぎはつこうの文字顯もんじあらはれたる、百八の珠閃たまひらめき沖のぼり、文字もじなき珠は地に墮おちて、その餘の八やつは光明ひかりをはなち、八方へ散亂さんらんして、遂つひに跡なくなりし事、其所以そのゆゑなくはあるベからず。後々のちのちに至りなば、思ひあはする事もやあらん。菩提ぼだいの首途かどでの餞別はなむけには、只たゞこの珠數ずゞにますものあらじ。努祕藏ゆめひさうせよ入道にうどう」、と諭さとして軈やがて賜たびければ、孝德は手に受うけて、再三ふたゝびみたびうち戴いたゞき、「こは有ありかたき君の賜たまもの、今より諸國を編歷へんれきして、飛去とびさりたる八やつの珠たまの落おちたる所を索たづねもとめ、はじめのごとく繋つなぎとめんに、一百八いつひやくはちの數かずに滿みたずは、又當國たうごくへ立たちかへりて、見參げんざんに入いり候はじ。年を歷ふるとも音耗おとづれなくは、旅たびより行たびに野ざらしの、骸からは餓うへたる犬の腹を、肥こやしにけりと思召おぼしめされよ。是これぞ寔まことに今生こんぜうのおん別わかれに候べし」、と思ひ切きつてぞ申ける。

 この時既に日は暮くれて、夜よははや初更しよこうのころなるに、晝よりも猶明なはあかかりける、月は半輪はんりんの雲もなく、山には萬樹ばんじゆの影あり。鼕々たう〳〵たる水の音、颯々さつ〳〵たる松の聲、腸はらわたを斷媒たつなかだちなるに、鹿しかは峯上をのへに鳴なきて、白露はくろの霜しもとなるを悲しみ、猴さるは幽谷みたにに叫さけびて、孤客こかくの夜衾やきんを寒さむからしむ。罕まれに來て訪とふも寂さみしき深山路みやまぢに、心つよくも只たゞひとり、かくまで行ひすましけん、伏姬の事をのみ、主從頻しきりに感嘆せり。

 當下堀內貞行そのときほりうちさだゆきは、孝德等たかのりらと議していふやう、「姬うへの自殺によりて、時を移させ給ひしかば、日は暮くれ、山は嶮けはしきに、御下向ごげこうは心もとなし。さればとて夜よとゝもに、こゝに明あかさせ給ひなば、おん亡骸なきからをいかにせん。毒蛇猛獸どくじゃまうじうの患うれひなしといふべからず。進退究しんたいきはめて難義なんぎ也。和殿わとのはなにとか思ひ給ふ」、と問とはれて霎時沈吟しばしうちあんじ、「いはるゝ所理ことわり也。こゝにて曉あかさせ給はんことは、遠慮とほきおもんはかりなきに似たり。所詮和殿しよせんわどのと某それがしと、姬の亡骸なきからを舁かき奉り、わが君は御手みてづから、蕉火たいまつを把とらせ給ひて、下山げさんをいそがせ給はん欤か。麓ふもとにはおん倶の人々を、留とゞめ給ひぬ、とうけ給はれば、おん迎むかひに參るべし。縱たとひそのもの共耳怖どもきゝおぢして、この溪澗たにこかはを涉わたさず共、前面むかひの岸よりあなたにて、遭あひ奉らざることはあらじ。この議はいかゞ」、とうち相譚かたらふ。義實これを聞きゝあへず、「伏姬すら只たゞひとり、去歲こぞよりこゝに在ありけるものを、弓箭ゆみやとる身の主從三人みたり、毒蛇猛獸をおそるゝ爲に、一夜亡骸ひとよなきからを戍もることかなはず、遽あはてて麓にくだらんや。此これを思ひ彼かれを思ふに、男兒をのこゞにして見まほしき、伏姬が心操こゝろばえ、親はづかしきものぞかし。五十子いさらごに泣立なきたてられて、心よはくもはる〴〵と、みづから姬を訪とひし事、今さら慚愧ぎんざに堪たへざる也。この故に今その死に及びて、われ一滴いつてきの淚を見せず。魂魄こんはくいまだこゝを去らずは、汝達なんたちが議論女め々ゝしとて、伏姬に笑わらはれなん。枝ををりて火を燒たきつけよ。われも割籠わりごをひらくべし。いそぐことかは」、と宣のたまへば、貞行孝德感激して、且まづ伏姬の亡骸なきからを、洞ほらの中うちへ入れまゐらせ、主從石門いはとの樹下このもとに團坐まとゐして、しづかに天よの明あくるをまちけり。

 浩處かゝるところに、前面むかひの岸に、夥あまたの蕉火閃たいまつひらめきて、人語幽ひとこゑかすかに聞えけり。貞行遙はるかにこれを見て、「さればこそ人々がおん迎むかひに參りたれ。いでやこの瀨を涉わたさせん」、といひも訖をはらず衝つと立たちて、軈やがて水際みぎわに走り出いで、「其處そこに見ゆる蕉火たいまつは、おん迎むかひの人々なるべし。殿とのはこなたに在ましますぞ。吾們われわれ既にこの川を涉わたせり。風聞ふうぶんとはうらうへにて、流れは緩ゆるく瀨は淺し。とく〳〵涉わたし候へ」、と聲を限りに呼びかけたり。折ふし追風おひかぜなりければ、その聲定さだかに聞えけん、蕉火たいまつをあちこちと、閃ひらめかしつゝ坂をくだり、岸にをり立たつとおぼしくて、先にすゝむもの、後あとに續くもの、馬を牽入ひきいれ、聲をあはして、人夥涉あまたわたし來つ、こなたの岸によるを見れば、思ひかけなき女轎をんなのりものを、釣臺つりだいとかいふ物に括着くゝりつけ、健すこやかなる男七八人、赤裸あかはだかにてこれを舁かきたり。その餘は麓ふもとに遺のこされし從者ともびと、又瀧田たきたより參れるもありけり。貞行はやく見咎みとがめて、「あれはいかに」、と問ふ程に、轎子のりものを舁かきおろし、衆皆水際みな〳〵みぎわについゐていふやう、「日の沒いりなんとせし比ころまで、屋方やかたの歸らせ給はねば、吾們われわれ既にまうし合せ、途みちまで迎むかへ奉らんとて立出たちいで候折をり、奧ざまより火急くわきうのおん使つかひ來れり。よりてもろ共ともに、步あしをいそがし候へども、いく程もなく日を消くらし、あなたの岸まで參りしに、喚よびかけられて吾們われわれのみ、涉わたすべうもあらざれば、雨具續松あまぐついまつなどを、乘のして來つる釣臺つりだいに、彼かのおん使つかひの轎子のりものを括着くくりつけ、辛からくも涉わたして候」、といふに貞行うち點頭うなづぎ、「そは微妙いみしくもはかりにけり。おん使とく〳〵これへ」、といそがせば、五六人立たちかゝりて、手ばやく細引ほそびきの麻索あさなはを解去ときすてつゝ、轎子のりものの戶を引開ひきあけけり。と見ればおん使は專女おさめにて、年紀としのころは四十よそぢあまり、名は柏田かへたとぞいふなる。いぬる比ころ伏姬の安否あんひをしるべきために、密使しのびづかひをうけ給はりて、前面むかひの岸まで來つるもの也。この日火急くわきうのおん使なれば、道竟轎夫みちすがらかごのものを、飛とばさせてや參りけん、轎のりもののうちには、三尺あまりなる白布しらぬのを結びさげ、其身そのみは、褂うちぎの下、帶の上より、鳩尾みづおちのほとりまで、白き練ねりきぬを、いくへともなく卷締まきしめて、おなじ練ねりの鉢卷はちまきをしたり。俗よに早打ほやうちといふものめきて、いと精悍かひ〴〵しく見ゆるものから、長途ちやうどを搖ゆられつゝ來にければ、目眩めくるめきて左右さうなくは立たゝざりけるを、衆皆扶みな〳〵たすけいだす程に、貞行は、且まづ義實のほとりに參りて、如此々々しか〴〵と聞えあぐるに、柏田かへたも後に跟つきて見參げんさんす。義實は「この使、いと心もとなし」とて、その由よしを問とひ給へば、柏田は憶おくする氣色けしきなく、はつと應いらへて頭かうベを擧あげ、「わが君さまにはこの曉に御館みたちを出いでさせ給ふの後のち、奧おくざまのおん病著いたつき、いよゝます〳〵重おもらせ給ひつ、『殿はかへらせ給はずや』、と間なく時なく問とはせ給ひ、或あるは假染かりそめのおん譫言うはことにも、姬うへ其處そこにゐますが如く、物いひかけてうち泣給ふ。おし量はかり奉れば、痛いたましき事限り侍らず。媼等うばらはさら也、御曹司おんぞうし(義成をいふ)も、兎とに角かく慰なぐさめかねさせ給ひて、『父うへは姉君あねぎみを、みづから訪とはせ給はんとて、實まことは富山とやまに赴おもむき給ひぬ。けふ一ト日待またせ給へ。翌あすはかならず姉いろねを將いて、かへり來まさん』、とこしらへ給へば、うち驚き給ひつゝ、『富山は名だゝる魔所ましよと聞きく。殿もし彼處かしこへ赴おもむき給はゞ、異ことなくてやは還かへり給ふ。とく喚よびかへし奉れ』、とむつかり給ふに、御曹司も、いよゝせんすべましまさず、『柏田かへたは彼山かのやまの案內を、知しつたるものとか聞きゝたるぞ。屋方出やかたいでさせ給ひてより、まだ一時ひとゝきは過すぐべからず。いそがば途みちにて追著おひつきなん。參りて此このよしをよく申せ』、と宣のたまはするに物とりあへず、遽あはてて御館みたちを出いでしより、人疲勞つかるれば里々さと〳〵にて、肩を繼つがせ、步あしを急がせ、辛からくして參り侍り」、とまうす折から外面とのかたなる、從者ともひと等ら騷ぎたち、「前面むかひの岸に隱々ちらちらと、火の光見えたるが、今はや水際みぎわにをり立たつたり。あれは正まさしく轎子のりものならん。それかあらぬか」、とばかりに、罵散動聲囂々のりどよめくこゑぎやう〳〵たり。

 貞行孝德聞たかのりきゝあへず、走り出いでつゝうち眺ながめ、「再度の急訟はやうち、心もとなし。こなたより扶掖たすけひきて、とく涉わたさせよ」、と下知げぢすれば、「うけ給はる」と應いらへつゝ、彼釣臺かのつりだいを扛かきあげて、究竟くつきやうの奴隸しもべ十人あまり、流水ながれを切り、石を踏除ふみよけ、あなたの岸に赴きて、はじめのごとく釣臺に、轎子のりものを括着くゝりつけ、その從者等ともひとらもろ共に、軈やがてこなたへ涉わたし來つ、且轎子まづのりものを舁かきおろし、とかくして戶を開けば、裡うちより出いづる一個ひとりの女房にようばう、その年はまだ廿はたちに足らず、その名を梭織さをりと呼よばるゝもの也。嬋娟せんけんたる額髮ひたひかみに、練ねりぎぬの鉢卷はちまきしたる、精悍かひ〳〵しき打扮いでたちは、柏田かへたにまして見ばへせり。かくて梭織さをりは轎子のりものを、出いづるとやがて氣絕いききれて、忽地たちまちに倒れしかば、貞行孝德驚きて、顏に石滂しみづを沃そゝぎかけ、藥を飮のませ、さま〳〵に、勦いたはる程にわれにかへりて、貞行等に挨拶す。固もとよりかゝるおん使つかひに、擇えらまれたるものなれば、長途ちやうどの疲勞つかれを物ともせず、貞行孝德に誘引いざなはれて、おん前に參りしかば、義實はやく聲をかけて、「一度ならず再度の使は、いよ〳〵心もとなきこと也。五十子いさらこはいかにぞや」、と問とはせ給へば、霏々はら〳〵と、落をつる淚を拭ぬぐひあへず、「奧おくざまは今朝巳けさみのころに」、と末は得えいはず伏沈ふししづめば、前さきに參りし柏田かえたさへ、共によゝとぞ泣なきにける。義實頻しきりに嗟嘆さたんして、「縡絕こときれたるか」、と問ひ給へば、梭織さをりははつかに頭かうべを擡もたげ、「御臨終ごりんしうの事などは、まうすもなか〳〵疎おろかに侍り。柏田がおん使に立たちし後のち、いく程もあらずなくなり給ひぬ。御曹司おんぞうしの仰おふせには、『騎馬をもてこのよしを、吿つげ奉るは易やすけれども、微行しのびの御登山ごとさんなれば憚はゞかりあり。汝なんぢは曩さきに柏田と共に、密使しのびつかひをうけ給はりて、富山へ赴おもむきたりと聞きけば、まゐりて屋方やかたに吿つげ奉れ。今宵こよひをな過すぐしそ』、といそがし給へば、そがまゝに、舁かゝれて參り侍りき」、と申上れば、孝德たかのりは、貞行と面おもてをあはし、頭かうべを低たれて嘆息たんそくせり。義實巨細つばらに聞給ひて、「五十子が今般いまはの情願ねきごと、得果えはたさねばわれも亦また、遺憾のこりをしく思へども、末期まつごにあはぬは幸ひならん。よしや翌あすまで存命ながらへたりとも、歸りて何なにといふべきぞ。汝等なんぢらも且彼まづあれを見よ」、と洞ほらの方かたを見かへりて、亡骸なきからを示し給へば、柏田梭織かへたさおりは胸うち騷ぎて、おん後あとべ方に立たちまはり、さし入るゝ月を燭あかしに、洞ほらの中うちをつく〳〵、と見つゝ齊一ひとしく聲を立たて、「こは姬ひめうへにましましけり。猛たけき獸けものに傷やぶられ給ふ欤か、さらずは刃やいばに果はて給ひけん。こは何なにとせん淺ましや、痛いたましさよ」、と亡骸なきがらのまくらべ後方あとべに轉輾ふしまろび、哽むせかへりつゝ泣なきにけり。

 義實これには目を遣やり給はず、貞行等に宣のたまふやう、「義成よしなりがさぞ待まちわぶべきに、人夥あまた參りにければ、曉あかつきかけて山を下くだらん。大輔だいすけは十餘人ンの奴隸しもべもろ共留ともとゞまりて、翌あすは伏姬が亡骸なきがらを、此處このところに埋葬まいそうせよ。又八房をも瘞得うづめえさせよ。招かで姬が間人とぎを得たれば、柏田梭職かへたさをりもこのまゝに、今宵一夜こよひひとよは遺のこし置おかなん。母の使をなき魂たまに、手向たむけこゝろに通夜つやさせよ。葬ほうむりの事は箇樣々々かやう〳〵」、と叮嚀ねんころに指さししめし、をんなばらを勞ねぎらひて、そのこゝろを得させつゝ、從者等ともびとらをも賞ほめさせて、牽ひきもて來きたりし馬にうち乘のり、あなたの岸へ赴き給へば、遺のこれるものは孝德と、共に水際みきわに蹲踞そんこしつ、從ふ者は貞行もろ共、蕉火たいまつをふり照てらし、瀨踏せふみをしつゝ涉わたしけり。

 かくてその次つぐの日、午過ひるすぎて、富山とやまの麓ふもとなる村長むらおさは、法師莊客們ほうしひやくせうばらもろ共に、棺ひつぎを扛かきて喘々あへぎ〳〵、富山の洞ほらを指さして來つ。是これはこの曉に、義實瀧田へ歸館の折、途みちより貞行奉うけたまはりて、麓の村長むらおさと法師們ばらに、云云しか〳〵の仰おふせを傳つたへて、俄頃にはかに棺葬具ひつぎそうぐを造らせ、「金碗大輔かなまりだいすけに遞與わたせ」とて、この山深く遣つかはしけり。又この日より樵夫炭燒きこりすみやき、すべて山掙やまかせぎするものに、富山を上下しやうげすることを許し給ふ。されば孝德入道にうどうは、件くだんの棺ひつぎを受うけとりて、且まづ伏姬の亡骸なきがらを斂おさめ奉り、則洞すなはちほらを截きりひらきて、おん墓所はかところとす。しかれども碑碣しるしのいしなし。只松柏雙立たゞせうはくならびたちて、自然と墓標はかのしるしとなれり。人これを傳へ聞きゝ、これを喚よびて義烈節婦ぎれつせつふの墓といふ。又八房をも土葬にせり。これをば只龕たゞがんに斂おさめて、敢亦棺あへてまたひつぎを用ひず。こは伏姬の墓を去ること、三丈みつゑばかり戌いぬの方かた、老ふりたる檜樹ひのきの下もとに瘞うづむ。人亦喚またよびて犬塚いぬつかといひけり。葬ほふむりの事かくの如く、よろづ質素にせられしは、義實豫かねて孝德たかのりに、仰おふせつけらるゝ所也。姬の志操こゝろさしを汲くみてなるべし。事果はてて柏田梭織かへたさおりは、彼かの十餘人の奴隸しもべを將いて、泣なきつゝ瀧田へたち歸れば、麓の法師村長等はうしむらおさらも、をのが里々さと〳〵へ歸りにけり。そが中に金碗大輔孝德かなまりだいすけは、圓頂黑衣ゑんてうこくえに容さまをかえて、ヽ大坊ちゆだいぼうと法號ほうごうし、且しばらく山に留とゞまりて、伏姬の遺のこし給ふ、法華經ほけきやうを讀話どくじゆすること、一チ日一チ夜も間かん斷だんなく、四十餘日よにちに及びけり。

 さる程に瀧田たきたには、五十子いさらこの方かたの葬式をとり行おこなはれ、なき人々のおん爲に、米夥施行あまたせぎやうして、まづしき民を賑にぎはし給ひ、又洲崎すさきなる行者ぎやうじやの石屋いはやへ、堀內貞行ほりうちさだゆきを遣つかはして、物おほく寄進きしんして、參詣のものゝ爲に、道橋みちはしを造らし給ふ。人みなこよなき功德くどくといひけり。
 とかくする程に、はや五十子伏姬の四十九日に向なん〳〵とす。よりて嫡男義成朝臣よしなりあそんを施主せしゆとして、瀧田なる菩提院ぼだいいんに、大斂忌だいれんきの法事あるべし、と聞えし比ころ、義成は「この法筵ほうゑんに、ヽ大坊をも召加めしくはへよ」とて、使を富山へ遣つかはされしに、ヽ大は山にをらずなりぬ。なほ彼此をちこちを索たづぬるに、樵夫等きこりらがいふやう、「件くだんの法師は豫かねてより、准備こゝろがまへをしたりけん、笈おひを脊負せおひ、錫杖しやくぢやうを衝鳴つきならし、今朝けさしも山を下くだるとき、吾們われ〳〵を見かへりて、『瀧田殿より入道にうどうを、尋たづねさせ給ふ事あらば、このよし申せ』、といひかけて、何處いづことはなく出いでてゆきぬ。かゝれば俟またせ給ふ共、歸らじ」といふに、すべなくて、使者は瀧田へ立たちかへり、縡ことの趣おもむきを申せしかば、義實嘆賞大たんせうおほかたならず、「渠かれ既に誓ひつゝ、『六十餘國を編歷へんれきして、飛去とびさりたる八やつの珠たまを、舊もとの珠數ずゝに繋つなぎ留とめずは、生涯安房あはへかへらじ』、と豫かねていひつることあれば、再會寔まことに揣はかりがたし。遺憾のこりをしきことなり」、とひとりごち給ひつゝ、再かさねて往方ゆくへを索たづね給はず。さはれこゝろに絕たえずやありけん、ヽ大坊が恙つゝがなく、歸り參ることあらば、渠かれがよすがになるべしとて、明年あけのとし伏姬の一周忌の比ころまでに、富山に一宇いちうの觀音堂くわんおんだうを建立こんりうし、伏姬の德義、八房が事さへ記しるして、姬の遺書かきおきもろ共に、厨子づしのうちへぞ納め給ふ。今なほ富山に觀音堂あり。

 かくて夥あまたの年を歷ふれども、ヽ大坊が音信おとづれなし。畢竟彼ひつきやうかの法師が久後ゆくすゑいかん。そは後々のちのちの卷にて解とかなん。

(作者云いはく。この書、肇輯第一卷ぢやうしうだいいちくわんより、今この卷まきに至いたりては、則一部小說すなはちいちぶせうせつの開場かいしやう、八士出現の發端ほつたんなり。是これより次の卷々は、年月相次あいついでずして、いと後のちの事に及べり。その間あはひに物語なし。譬たとひば彼水滸傳かのすいこでんに、龍虎山りやうこさんにて洪信等こうしんらが石碣せきけつをひらくの段より、林沖りんちう等らが出現まで、その間數あはひす十年ねん、物語なきがごとし。又いふ。この卷の出像さしゑの中うち、金碗かなまり大輔孝德たかのりが、川を涉わたす圖のごときは、文外の畫ぐわ、畫中ぐわちうの文也。この出像さしゑによらざれば、忽然こつぜんとして雲霧くもきりの晴るゝゆゑを知るよしなし。又使女つかひめの急訟はやうちに、柏田梭織かへたさをりを寫し出いだすに、その在處あるところを先にして、その來る所を後のちにせり。首尾錯亂しゆびさくらんに似たれ共、さにあらず。其人そのひとの小傳來歷、後のちに僅はつかにその人の口中こうちうより說出ときいだすをば、事を先にして傳でんを後のちにす。畫ゑも亦是またこれに從ふものなり。しかはあれど、畫匠ぐわせうは只たゞその畫を畫として、その意を意とし得ざることあり、こゝをもて作意と岩齬がんごなきにあらず。この卷中くわんちうもしかることあり。看官みるひとよろしく察すべし。)

里見八犬傳第二輯卷之二終

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第十四回)

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