南總里見八犬傳第二輯卷之二第十四回
東都 曲亭主人 編次
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「使女の急訟夜水を渉す」「堀内貞行」
轎を飛して使女溪澗を涉
錫を鳴してヽ大記總を索
かたはらに侍りたる、貞行等は伏姬の自殺を禁めあへなくも、插頭の花を散せしごとく、遺感やるかたなかりけり。そが中に孝德は、男子にもます姬君の末期の一句に激されて、身を措ところなかりけん、亡骸のほとりにおちたる、血刀を手はやく取て、ふたゝび腹を切らんとす。そのとき義實聲をふり立、「やをれ大輔狼狽たる欤。その身に大罪ありながら、君命を俟ずして、自害せんとは奇怪なり。伏姬一旦甦生したれば、罪一等を宥るとも、この山に入るものは、頭を刎んと掟しものを、法度を枉ておのがまに〳〵、腹切ることを聽んや。觀念せよ」、と進みよりて、刃を引提立給へば、「願ふところ」、と孝德は、居なほりて合掌し、項を延す程もなく、上に晃く刃の稻妻、丁と打たる大刀風に、思ひかけなく孝德が髻弗と載捨給へば、「是は」、と見かへる罪人も、諫かねたる貞行も、驚き思ふ仁君の、恩義にいとゞ畏る。義實は氷なす、刃をやをら𩋡に納て、泛る淚をふり拂ひ、「見よや藏人、わが手つから、罪人を刑罰せり。法度は君の制する所、君又これを破るといふ、古人の金言宜なるかな。われもし民ともろ共に、けふこの山に登りなば、大輔に咎なかるべし。頭に代たる髻は、渠が亡父へ寸志なり。渠が穉き時よりして、名を大輔と喚做せしは、大國輔佐の臣たれ、とその久後を祝せしに、わが官職もやうやく進みて、治部大輔と大輔と、その國訓は異なれ共、文字はかはらぬ主從同名、かゝる故にや主のうへに、あるべき崇を身に受けん、可惜しき壯佼が、よに埋木とならん事、かへす〳〵も不便也。親八郞は大功あり。大輔も忠なきにあらず。その親といひ、その子といひ、勳功あれども賞を獲ず、その死に臨み、その罪に、陷るに及びては、主尙救ふによしなき事、わが子にまして哀傷の淚はこゝに禁めかたし。やよ大輔よ、孝德よ。わが此こゝろをよくも知らば、亡親の爲、姬が爲に、命をたもち、身を愛し、佛につかへ苦行して、高僧知識の名を揚よ。こゝろ得たりや」、と叮嚀に、諭し給へば孝德は、辱なさにはふり落る、淚に哽び地に伏て、應かねつゝ聲を咽む。理りなれば貞行は、鼻うちかみて進み出、「今にはじめぬ君の仁心、姬うへの御最期には、喞がましき事もなく、家臣のうへをかくまでに、聞えさせ給ふ事、大輔和殿が身にとりては、一郡の守護、萬貫の、祿にもまして滿足ならん」、といはれてやうやく頭を擡、「某寔に不肖なれども、如是畜生だも菩提に入れり。今より日本廻國して、灵山灵社を巡禮し、伏姬君の後世を弔ひ、わが君御父子の武運を祈らん。姬うへの落命も、又某が祝髮も、みな八房の犬ゆゑなれば、犬といふ字を二ッに釐き、犬にも及ばぬ大輔が、大の一字をそがまゝに、ヽ大と法名仕らん」、と申上れば義實朝臣、「遖いしくも申シたり。件の犬は全身に、黑白八の斑毛あれば、八房と名つけしが、今さら思へば八房の、二字は則一戶八方に至るの義なり。加旃伏姬が自殺の今果に痍口より、一道の白氣たな引、仁義八行の文字顯れたる、百八の珠閃き沖り、文字なき珠は地に墮て、その餘の八は光明をはなち、八方へ散亂して、遂に跡なくなりし事、其所以なくはあるベからず。後々に至りなば、思ひあはする事もやあらん。菩提の首途の餞別には、只この珠數にますものあらじ。努祕藏せよ入道」、と諭して軈て賜ければ、孝德は手に受て、再三たびうち戴き、「こは有かたき君の賜もの、今より諸國を編歷して、飛去たる八の珠の落たる所を索ねもとめ、はじめのごとく繋ぎとめんに、一百八の數に滿ずは、又當國へ立かへりて、見參に入り候はじ。年を歷るとも音耗なくは、旅より行に野ざらしの、骸は餓たる犬の腹を、肥しにけりと思召れよ。是ぞ寔に今生のおん別に候べし」、と思ひ切てぞ申ける。
この時既に日は暮て、夜ははや初更のころなるに、晝よりも猶明かりける、月は半輪の雲もなく、山には萬樹の影あり。鼕々たる水の音、颯々たる松の聲、腸を斷媒なるに、鹿は峯上に鳴て、白露の霜となるを悲しみ、猴は幽谷に叫て、孤客の夜衾を寒しむ。罕に來て訪ふも寂しき深山路に、心つよくも只ひとり、かくまで行ひすましけん、伏姬の事をのみ、主從頻りに感嘆せり。
當下堀內貞行は、孝德等と議していふやう、「姬うへの自殺によりて、時を移させ給ひしかば、日は暮、山は嶮しきに、御下向は心もとなし。さればとて夜とゝもに、こゝに明させ給ひなば、おん亡骸をいかにせん。毒蛇猛獸の患なしといふべからず。進退究めて難義也。和殿はなにとか思ひ給ふ」、と問れて霎時沈吟じ、「いはるゝ所理り也。こゝにて曉させ給はんことは、遠慮なきに似たり。所詮和殿と某と、姬の亡骸を舁奉り、わが君は御手づから、蕉火を把せ給ひて、下山をいそがせ給はん欤。麓にはおん倶の人々を、留め給ひぬ、とうけ給はれば、おん迎に參るべし。縱そのもの共耳怖して、この溪澗を涉さず共、前面の岸よりあなたにて、遭奉らざることはあらじ。この議はいかゞ」、とうち相譚ふ。義實これを聞あへず、「伏姬すら只ひとり、去歲よりこゝに在りけるものを、弓箭とる身の主從三人、毒蛇猛獸をおそるゝ爲に、一夜亡骸を戍ることかなはず、遽て麓にくだらんや。此を思ひ彼を思ふに、男兒にして見まほしき、伏姬が心操、親はづかしきものぞかし。五十子に泣立られて、心よはくもはる〴〵と、みづから姬を訪し事、今さら慚愧に堪ざる也。この故に今その死に及びて、われ一滴の淚を見せず。魂魄いまだこゝを去らずは、汝達が議論女々しとて、伏姬に笑れなん。枝ををりて火を燒つけよ。われも割籠をひらくべし。いそぐことかは」、と宣へば、貞行孝德感激して、且伏姬の亡骸を、洞の中へ入れまゐらせ、主從石門の樹下に團坐して、しづかに天の明るをまちけり。
浩處に、前面の岸に、夥の蕉火閃きて、人語幽に聞えけり。貞行遙にこれを見て、「さればこそ人々がおん迎に參りたれ。いでやこの瀨を涉せん」、といひも訖らず衝と立て、軈て水際に走り出、「其處に見ゆる蕉火は、おん迎の人々なるべし。殿はこなたに在すぞ。吾們既にこの川を涉せり。風聞とはうらうへにて、流れは緩く瀨は淺し。とく〳〵涉し候へ」、と聲を限りに呼びかけたり。折ふし追風なりければ、その聲定かに聞えけん、蕉火をあちこちと、閃しつゝ坂をくだり、岸にをり立とおぼしくて、先にすゝむもの、後に續くもの、馬を牽入れ、聲をあはして、人夥涉し來つ、こなたの岸によるを見れば、思ひかけなき女轎を、釣臺とかいふ物に括着、健なる男七八人、赤裸にてこれを舁たり。その餘は麓に遺されし從者、又瀧田より參れるもありけり。貞行はやく見咎めて、「あれはいかに」、と問ふ程に、轎子を舁おろし、衆皆水際についゐていふやう、「日の沒なんとせし比まで、屋方の歸らせ給はねば、吾們既にまうし合せ、途まで迎奉らんとて立出候折、奧ざまより火急のおん使來れり。よりてもろ共に、步をいそがし候へども、いく程もなく日を消し、あなたの岸まで參りしに、喚かけられて吾們のみ、涉すべうもあらざれば、雨具續松などを、乘て來つる釣臺に、彼おん使の轎子を括着、辛くも涉して候」、といふに貞行うち點頭、「そは微妙もはかりにけり。おん使とく〳〵これへ」、といそがせば、五六人立かゝりて、手ばやく細引の麻索を解去つゝ、轎子の戶を引開けり。と見ればおん使は專女にて、年紀は四十あまり、名は柏田とぞいふなる。いぬる比伏姬の安否をしるべきために、密使をうけ給はりて、前面の岸まで來つるもの也。この日火急のおん使なれば、道竟轎夫を、飛させてや參りけん、轎のうちには、三尺あまりなる白布を結びさげ、其身は、褂の下、帶の上より、鳩尾のほとりまで、白き練を、いくへともなく卷締て、おなじ練の鉢卷をしたり。俗に早打といふものめきて、いと精悍しく見ゆるものから、長途を搖れつゝ來にければ、目眩きて左右なくは立ざりけるを、衆皆扶いだす程に、貞行は、且義實のほとりに參りて、如此々々と聞えあぐるに、柏田も後に跟て見參す。義實は「この使、いと心もとなし」とて、その由を問給へば、柏田は憶する氣色なく、はつと應て頭を擧、「わが君さまにはこの曉に御館を出させ給ふの後、奧ざまのおん病著、いよゝます〳〵重らせ給ひつ、『殿はかへらせ給はずや』、と間なく時なく問せ給ひ、或は假染のおん譫言にも、姬うへ其處にゐますが如く、物いひかけてうち泣給ふ。おし量り奉れば、痛しき事限り侍らず。媼等はさら也、御曹司(義成をいふ)も、兎に角慰かねさせ給ひて、『父うへは姉君を、みづから訪せ給はんとて、實は富山に赴き給ひぬ。けふ一ト日待せ給へ。翌はかならず姉を將て、かへり來まさん』、とこしらへ給へば、うち驚き給ひつゝ、『富山は名だゝる魔所と聞。殿もし彼處へ赴き給はゞ、異なくてやは還り給ふ。とく喚かへし奉れ』、とむつかり給ふに、御曹司も、いよゝせんすべましまさず、『柏田は彼山の案內を、知たるものとか聞たるぞ。屋方出させ給ひてより、まだ一時は過べからず。いそがば途にて追著なん。參りて此よしをよく申せ』、と宣はするに物とりあへず、遽て御館を出しより、人疲勞るれば里々にて、肩を繼せ、步を急がせ、辛して參り侍り」、とまうす折から外面なる、從者等騷ぎたち、「前面の岸に隱々と、火の光見えたるが、今はや水際にをり立たり。あれは正しく轎子ならん。それかあらぬか」、とばかりに、罵散動聲囂々たり。
貞行孝德聞あへず、走り出つゝうち眺め、「再度の急訟、心もとなし。こなたより扶掖て、とく涉させよ」、と下知すれば、「うけ給はる」と應つゝ、彼釣臺を扛あげて、究竟の奴隸十人あまり、流水を切り、石を踏除、あなたの岸に赴きて、はじめのごとく釣臺に、轎子を括着、その從者等もろ共に、軈てこなたへ涉し來つ、且轎子を舁おろし、とかくして戶を開けば、裡より出る一個の女房、その年はまだ廿に足らず、その名を梭織と呼るゝもの也。嬋娟たる額髮に、練の鉢卷したる、精悍しき打扮は、柏田にまして見ばへせり。かくて梭織は轎子を、出るとやがて氣絕て、忽地に倒れしかば、貞行孝德驚きて、顏に石滂を沃ぎかけ、藥を飮せ、さま〳〵に、勦る程にわれにかへりて、貞行等に挨拶す。固よりかゝるおん使に、擇れたるものなれば、長途の疲勞を物ともせず、貞行孝德に誘引れて、おん前に參りしかば、義實はやく聲をかけて、「一度ならず再度の使は、いよ〳〵心もとなきこと也。五十子はいかにぞや」、と問せ給へば、霏々と、落る淚を拭ひあへず、「奧ざまは今朝巳のころに」、と末は得いはず伏沈めば、前に參りし柏田さへ、共によゝとぞ泣にける。義實頻に嗟嘆して、「縡絕たるか」、と問ひ給へば、梭織ははつかに頭を擡、「御臨終の事などは、まうすもなか〳〵疎に侍り。柏田がおん使に立し後、いく程もあらずなくなり給ひぬ。御曹司の仰には、『騎馬をもてこのよしを、吿奉るは易けれども、微行の御登山なれば憚あり。汝は曩に柏田と共に、密使をうけ給はりて、富山へ赴きたりと聞ば、まゐりて屋方に吿奉れ。今宵をな過しそ』、といそがし給へば、そがまゝに、舁れて參り侍りき」、と申上れば、孝德は、貞行と面をあはし、頭を低て嘆息せり。義實巨細に聞給ひて、「五十子が今般の情願、得果さねばわれも亦、遺憾思へども、末期にあはぬは幸ひならん。よしや翌まで存命たりとも、歸りて何といふべきぞ。汝等も且彼を見よ」、と洞の方を見かへりて、亡骸を示し給へば、柏田梭織は胸うち騷ぎて、おん後方に立まはり、さし入るゝ月を燭に、洞の中をつく〳〵、と見つゝ齊一聲を立、「こは姬うへにましましけり。猛き獸に傷られ給ふ欤、さらずは刃に果給ひけん。こは何とせん淺ましや、痛しさよ」、と亡骸のまくらべ後方に轉輾び、哽かへりつゝ泣にけり。
義實これには目を遣り給はず、貞行等に宣ふやう、「義成がさぞ待わぶべきに、人夥參りにければ、曉かけて山を下らん。大輔は十餘人ンの奴隸もろ共留りて、翌は伏姬が亡骸を、此處に埋葬せよ。又八房をも瘞得させよ。招かで姬が間人を得たれば、柏田梭職もこのまゝに、今宵一夜は遺し置なん。母の使をなき魂に、手向こゝろに通夜させよ。葬の事は箇樣々々」、と叮嚀に指しめし、をんなばらを勞ひて、そのこゝろを得させつゝ、從者等をも賞させて、牽もて來りし馬にうち乘、あなたの岸へ赴き給へば、遺れるものは孝德と、共に水際に蹲踞しつ、從ふ者は貞行もろ共、蕉火をふり照し、瀨踏をしつゝ涉しけり。
かくてその次の日、午過て、富山の麓なる村長は、法師莊客們もろ共に、棺を扛て喘々、富山の洞を指て來つ。是はこの曉に、義實瀧田へ歸館の折、途より貞行奉て、麓の村長と法師們に、云云の仰を傳て、俄頃に棺葬具を造らせ、「金碗大輔に遞與」とて、この山深く遣しけり。又この日より樵夫炭燒、すべて山掙するものに、富山を上下することを許し給ふ。されば孝德入道は、件の棺を受とりて、且伏姬の亡骸を斂め奉り、則洞を截ひらきて、おん墓所とす。しかれども碑碣なし。只松柏雙立て、自然と墓標となれり。人これを傳へ聞、これを喚て義烈節婦の墓といふ。又八房をも土葬にせり。これをば只龕に斂て、敢亦棺を用ひず。こは伏姬の墓を去ること、三丈ばかり戌の方、老たる檜樹の下に瘞む。人亦喚て犬塚といひけり。葬の事かくの如く、よろづ質素にせられしは、義實豫て孝德に、仰つけらるゝ所也。姬の志操を汲てなるべし。事果て柏田梭織は、彼十餘人の奴隸を將て、泣つゝ瀧田へたち歸れば、麓の法師村長等も、をのが里々へ歸りにけり。そが中に金碗大輔孝德は、圓頂黑衣に容をかえて、ヽ大坊と法號し、且く山に留りて、伏姬の遺し給ふ、法華經を讀話すること、一チ日一チ夜も間斷なく、四十餘日に及びけり。
さる程に瀧田には、五十子の方の葬式をとり行れ、なき人々のおん爲に、米夥施行して、まづしき民を賑し給ひ、又洲崎なる行者の石屋へ、堀內貞行を遣して、物おほく寄進して、參詣のものゝ爲に、道橋を造らし給ふ。人みなこよなき功德といひけり。
とかくする程に、はや五十子伏姬の四十九日に向とす。よりて嫡男義成朝臣を施主として、瀧田なる菩提院に、大斂忌の法事あるべし、と聞えし比、義成は「この法筵に、ヽ大坊をも召加へよ」とて、使を富山へ遣されしに、ヽ大は山にをらずなりぬ。なほ彼此を索るに、樵夫等がいふやう、「件の法師は豫てより、准備をしたりけん、笈を脊負ひ、錫杖を衝鳴らし、今朝しも山を下るとき、吾們を見かへりて、『瀧田殿より入道を、尋ねさせ給ふ事あらば、このよし申せ』、といひかけて、何處とはなく出てゆきぬ。かゝれば俟せ給ふ共、歸らじ」といふに、すべなくて、使者は瀧田へ立かへり、縡の趣を申せしかば、義實嘆賞大かたならず、「渠既に誓ひつゝ、『六十餘國を編歷して、飛去たる八の珠を、舊の珠數に繋ぎ留ずは、生涯安房へかへらじ』、と豫ていひつることあれば、再會寔に揣がたし。遺憾ことなり」、とひとりごち給ひつゝ、再て往方を索ね給はず。さはれこゝろに絕ずやありけん、ヽ大坊が恙なく、歸り參ることあらば、渠がよすがになるべしとて、明年伏姬の一周忌の比までに、富山に一宇の觀音堂を建立し、伏姬の德義、八房が事さへ記して、姬の遺書もろ共に、厨子のうちへぞ納め給ふ。今なほ富山に觀音堂あり。
かくて夥の年を歷れども、ヽ大坊が音信なし。畢竟彼法師が久後いかん。そは後々の卷にて解なん。
(作者云。この書、肇輯第一卷より、今この卷に至ては、則一部小說の開場、八士出現の發端なり。是より次の卷々は、年月相次ずして、いと後の事に及べり。その間に物語なし。譬ば彼水滸傳に、龍虎山にて洪信等が石碣をひらくの段より、林沖等が出現まで、その間數十年、物語なきがごとし。又いふ。この卷の出像の中、金碗大輔孝德が、川を涉す圖のごときは、文外の畫、畫中の文也。この出像によらざれば、忽然として雲霧の晴るゝゆゑを知るよしなし。又使女の急訟に、柏田梭織を寫し出すに、その在處を先にして、その來る所を後にせり。首尾錯亂に似たれ共、さにあらず。其人の小傳來歷、後に僅にその人の口中より說出すをば、事を先にして傳を後にす。畫も亦是に從ふものなり。しかはあれど、畫匠は只その畫を畫として、その意を意とし得ざることあり、こゝをもて作意と岩齬なきにあらず。この卷中もしかることあり。看官よろしく察すべし。)
里見八犬傳第二輯卷之二終

