南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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「一子を遺して孝吉大義に死す」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」
景連奸計信時を賣る
孝吉節義義實に辭す
杉倉木曾介氏元が使者、蜑崎十郞輝武、東條よりはせ參りて、麻呂信時が首級を進らせたりければ、義實は大床子のほとりに出て、件の使者をちかく召せ、合戰の爲體を、みづから問せ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏しくまします事、氏元豫てこゝろにかゝれば、百姓們を催促して、運送せばやと思ふ程に、安西景連、麻呂信時、はや定包にかたらはれて、海陸の通路を塞ぎ、小荷駄を取らん、とわれを俟。縡の難義に及びしかば、氏元ます〳〵憂悶て、いたづらに日を過したり。しかるに景連、一夕竊に、家隸某甲をもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊也。よしや蘇秦張儀をもて、百遍千遍相譚とも、承引べうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、渠が爲に途を塞ぎ、良將勇士を苦めしは、われながら淺猿、と後悔臍を噬ものから、信時只管鏃を磨て、說ども思ひかへさねば、是も亦靴を隔て、癬を掻くに異ならず。猜事の情を量るに、信時は匹夫の勇士、利の爲に義を忘れて、貪れども飽ことなし。景連舊好を思ふ故に、一旦合體するといへども、もし悞を改ずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮合體の念ひを飜し、まづ信時を擊果して、兵粮運送の路を開き、里見殿に力を勠して、賊首定包を討滅し、大義を舒んと思ふのみ。曩にはたま〳〵來臨せられし、里見ぬしを要とゞめず、あるじ態の禮儀なかりしは、彼信時が拒るゆゑなり。願ふは和殿、城を出て、短兵急に攻かゝれ。信時は野猪武者也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣より、さし挾てこれを擊ば、信時を手取にせん事、掌を返す如けん。狐疑して大事を悞給ふな。をさ〳〵回答を俟』といへり。しかれども氏元は、敵の謀にもや、と思ひしかば、佻々しく從はず、使者の往返度かさなりて、僞ならず聞えにければ、さは信時を擊んとて、安西に諜じ合せ、降み降ずみ五月雨の、黑白もわかぬ暗夜に、二百餘騎を引率し、枚を銜み、鑣を鉗め、麻呂信時が屯せる、濱荻の柵の前後より、犇々と推よせて、鬨を咄とつくり掛、無二無三に突て入る。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷ぎて、繋る馬に鞭を當、弦なき弓に箭をとり添、紊立たる癖なれば、只活路を求るのみ、防戰んとするものなし。そのとき信時聲を激し、『憑しげなきもの共かな。敵は正しく小勢也。推包で擊とらずや。落されて前原なる、安西に笑れな。擊よ進め』、と烈しく令して、眞先に馬乘出し、鎗りう〳〵とうち揮て、逼入る寄手を突倒す。その勢ひは正に是、群る羊の中に入る、猛虎の暴るゝに異ならず。士卒はこれに勵され、將後陣なる安西が、援來なんと思ひけん、逃んとしたる踵を旋らし、唬叫て戰へば、こゝろならずも躬方の先鋒、面外へ追かへされ、路のぬかりに足も得たゝず、辷り跌き引かねたり。當下杉倉氏元は、眼を瞪し、聲をふり立、『一旦破りし一二の柵を、追かへさるゝことやはある。名を惜み、恥をしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採て腰に插、鐙を鳴らし、馬を進めて、烏夜に晃く長刀を、水車の如く揮廻して、信時に擊て懸れば、笧の火光に佶と見て、『汝は氏元欤。よき敵也。其處な退そ』、と呼びかけて、鎗を捻て磤と突ば、發石と受てはねかへし、引ばつけ入り、すゝめば開き、一上一下と手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方も敵も遊兵なく、相助るに暇なければ、氏元と信時は、人を雜ず戰ふ程に、信時焦燥て突出す、鎗の尖頭を氏元は、左手へ丁と拂除、おつと唬て、向上る所を、長刀の柄を拿延て、內兜へ突入れて、むかふざまに衝落せば、さしもの信時灸所の痛手に、得堪ず鎗を手にもちながら、馬より摚と滾落る、音に臣等は見かへりて、飛がごとくに走よせて、その頸取て候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうち聞て、「氏元がその夜の軍功、賞するに堪たれども、計略足ざりけり。景連猛に心裏反りて、信時を擊する事、その故なくはあるべからず。夫兩雄は竝立ず。信時景連相與に、われを擊とも早に捷ずは、必變を生ずべし。然るを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時を擊とりしは、躬方の爲に利はなくて、景連が爲になりなん。彼安西は何とかしつる」、と問せ給へば蜑崎十郞、「さン候景連は、その夜さり躬方の爲に、征箭一條も射出さず、いつの程にか前原なる、柵を退きて候」、と答まうせば、義實は、扇をもつて膝を鼓、「しかれば既に景連が、奸計は著れたり。わが瀧田を攻しとき、勝敗測かたしといへども、定包は天神地祇も憎せ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全からじとは、景連は思ひけん。定包竟に滅亡し、義實その地を有に及びて、信時は安西が翼になるべきものならず。只大ばやりに勇めるのみ、與に無謀の軍をせば、脆く負なんことをおそれて、陽には義實と合體して、氏元に信時を擊せ、景連はその虛に乘じて、平館を攻落し、朝夷郡を合せ領して、牛角の勢ひを張らんとす。鼓し扇は外るゝとも、わが推量は違はじ」、とその脾肝を指すくごとく、いと精細に宣ふ折、氏元が再度の注進、某乙をとこはせ參りつ、「信時既に擊れしかば、殘兵頻に紊れ騷ぎて、逃るを直と追捨て、氏元は軍兵を、纏めて軈て東條へ、歸陣して候ひしに、豈おもはんや景連は、はや前原を退きて、平館の城を乘取り、麻呂が采地朝夷一郡、みなおのが物とせり。狗骨をりて、鷹に捉せし、氏元は勞して功なし。おん勢をさし向給はゞ、先鋒を奉りて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城を屠りて、この憤を散すべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗も堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智に感伏し、「はやく景連を討給へ」、と頻りに勸め奉れば、義實頭をうち掉て、「否安西は討べからず。われ定包を滅せしは、ひとり榮利を思ふにあらず、民の塗炭を救ん爲也。さは衆人のちからによりて、長狹平郡の主となる、こよなき己が幸ならずや。景連梟雄たりといふ共、定包が類にあらず。その底意はとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時を擊に及びて、渠いちはやく平館なる、城を拔しを媢しとて、軍を起し、地を爭ひ、蠻觸の境に迷ひて、人を殺し民を損ふ、そはわがせざる所也。景連奸計行れて、平館を取るといへども、なほ嗛らで攻來るならば、一時に雌雄を決すべし。さもなくは境を戍りて、こゝより手出しすべからず。僉この旨をこゝろ得よ」、と叮嚀に喩し給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩、蜑崎等もろ共に、感佩せざるものもなく、「いにしへの聖賢も、此うへややはある」、と只顧稱贊したりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、渠を賞、渠を喩して、安西を討ことを禁め、「人の物を取らんとて、わが手許を忘るゝな。鄙語にいふ、飽ことしらぬ、鷹は爪の裂るかし。籠城の外、他事、あるべからず」、と警て、蜑崎十郞等を還し給ひつ。
とかくする程に、夏寒かりし、卯花降晴わたり、風まちわぶる六月の、土用なかばになりにけり。この時安西景連は、蕪戶訥平といふ老黨に、兩三種の土產を齎し、瀧田の城へ遺して、定包頓に滅亡して、義實こゝに基を開る、祝を述、好を通じ、「曩に鳳眉を接せしより、景慕のおもひ遂に得絕ず、只羞らくは信時に、席を犯されて意外の不禮、さこそは晉の文公が、曹を過りし憾に似つらめ。しかれどもその事なくは、誰か君を激して、この大業を興すに至らん。實を推ば初より、大かたならず君を思ふ、景連が寸志にて、假に强顏もてなしたり。かゝる故に愚意を吿て、君が爲に信時を、除にければ、陽報あり。不思議に附驥の功なりて、平館の城を獲たり。一國四郡を二ッにわかちて、犯すことなく扶翼て、兒孫のすゑまで傳へなば、樂しかるべき事ならずや。些少の野品、その義に足らねど、乘馬三疋、白布百反、迺これを進らする。只いつまでも交の、變らじ、と祈るのみ。收給はゞ幸ならん」、と慇懃にいはせしかば、掘內貞行とり次て、使者の口狀云云と、義實に吿まうせば、義實疑ふ氣色なく、軈て貞行孝吉して、蕪戶訥平を饗應させ、「われその使者に對面せん。等閑ならず款待せよ」、と叮嚀に仰れば、貞行孝吉歡ばず、「君が賢き御こゝろもて、などて彼老狸に、欺れ給ひぬる。景連實に善に與し、德を慕ふものならば、當國にはなき鯉を求めて、殺さんとは計ざるべし。今さらに虛々しき、壽を述、好を通じ、些の物を贈りしは、その身に牆をするもの也。なほその奸計しるべからず。使者を款待給ふことかは。御對面は物體なし」、と竊に諫まうせしかば、義實莞尒とうち笑て、「景連は實情もて、こゝに好を通ぜずとも、今聞ところ、見るところは、憎むべきものにあらず。しかるにわれしうねくも、その舊惡を咎つゝ、交を結ばずは、これ只彼に背くなり。かくの如くにして爭はゞ、人みなわれを不義とせん。不義にして捷ことありとも、義實は願しからず。努々疑ふべからず」、とかへす〳〵も說諭して、みづから使者に對面し、訥平が還るに及びて、共に金碗八郞を、安房郡へ遺して、圭璧の禮に答へ、形の如く贈ものして、いよゝます〳〵交を、破らじと誓し給へば、景連大きに歡びて、孝吉をおもく款待し、手づから誓書を寫めて、義實におくりけり。
是よりして安西は、安房朝夷の二郡を領し、義實は神餘の舊領、長狹平郡の二郡を領して、犯すことなく、爭ふことなく、世は長閑やかになりしかば、杉倉木曾介氏元は、東條より召かへされて、はじめて安堵の思ひをなし、君臣上下笑かた向て、樂しからずといふものなし。
かゝりし程に七月の、星まつる夜になりにければ、その夕くれに義實は、端ちかう出まして、杉倉氏元、堀內貞行、金碗孝吉等、功臣のみを召聚て、點茶の禮縡をはり、(むかし里見の家例には、點茶の禮といふことありここの事房總志料にいへり)來かたを譚ひつ、かたらせて聞給ひつゝ、この功臣等に宣ふやう、「豫が幸に二郡を獲てより、波風たゝずなるものから、とにかくに事繁くて、祈りし神に賽さず。又功臣等に賞を行はで、こゝにも介山を造るに似たり。さても氏元貞行は、先考の遺命を受て、わが艱難に從ひたる、その忠信は今さらに、いふべうもあらざめれど、白箸河の上にて、金碗孝吉に遭ざりせば、いかにして功業を、この地に建るよしあらん。又鴿が書を傳へずは、定包いかでか首をおくらん。彼とこれとはわが爲に、第一の勳績也。さらずははじめ、安西等が、奸計にあてられて、軍法をもて斬れん欤、兵粮竭て餓つかれ、敵の爲に擒とならんか、この二ツに過べからず。時やうやく淸涼にて、根なし言の葉露むすぶ、詩を賦し、歌を詠ん爲に、今宵は二星のあふとかいへり。星に君臣上下の差あり。人の吉凶これに係る。われ既に天に誓へり。當城の八隅には、八幡宮を建立して、秋每に祀奉り、又領內に徇しらして、鳩を殺すことを禁めん。又金碗八郞孝吉には、長狹半郡を裂與て、東條の城主とせん。氏元貞行には、所領おの〳〵五千貫を宛行ん。この旨こゝろ得候へ」、と正首に說示して、手づから寫おかせ給ひし、一通の感狀を、まづ孝吉に賜れば、孝吉三たび戴きて、その侭返し奉り、席を避てまうすやう、「相傳補佐の老臣に、先だゝし給はする、恩賞再度に及ばせ給ふを、推辭奉るよし候はねど、某は初より、名利のふたつにこゝろなし。故主の爲に逆臣を、誅せんと思へるのみ。寔に君が威福によりて、宿志を果し候事、このうへの恩惠なし」、といへば義實うちほゝ笑、「名聞榮利にかゝつらはず、功成て身退く、現義士の志、如此あるべき事ながら、唐山の張良は、故主の爲に秦楚を滅し、後竟に封爵を、漢より受て留侯に、封ぜられたる例あり。われは高祖の德なけれども、和殿はをさ〳〵張良が孤忠に似たり。されば又、功ある人を賞せずは、誰かその志を、忠孝節義に激すべき。枉て豫が意に從ひてよ」、と諭し給へば氏元も、貞行も亦これを勸めて、彼感狀をうちも措ず、遞與せば金碗八郞は、已ことを得ず手に受て、うち開き讀くだち、「これ賜らじ、と辭しまうせば、只管に我意を立て、恩義をしらざるものに似たり。さりとて受ては今さらに、故主へ對して不忠なり。受て受ざる孝吉が、この世あの世の君が爲に、せんすべあり」、といひあへず、刀を晃りと引拔て、彼感狀を卷そえつゝ、肚へぐさと突立れば、「是は」、とばかり主從三人、ほとり近く居よりつゝ、義實はその臂を、やをら揚て瘡口を、とさまかうさまうち熟視、「尖刀ふかく入りたれば、助るべき痍にあらず。さりながら、この侭にして縡絕なば誰か狂死といはざるべき。苦痛を忍びて思ふよし、心くまなくいひ遺してよ」、と宣ふ聲を聞とりてや、佶と向上て息を吻き、「故主の枉死を聞しとき、この肚ははや切るべかりしに、只定包を擊んず、と思ふばかりに存命ても、身ひとつにては事を得遂ず。かくは時あり緣ありて、君に値遇し奉、犬馬の勞を竭せしより、功に過たる恩賞を、今更に受候ては、後なくなりし故主の枉死を、わが幸とするに似て、存命かたきひとつなり。加以落羽岡にて、定包ならんと思ひてや、國主を傷ひ奉りし、杣木朴平無垢三等は、原某が家僕也。彼等が武藝は某が、劍法を傳へしかば、しらぬ事とはいひながら、下司の兵法大疵の、基を開きし孝吉が、悞に似て愉からず。存命かたき二ッ也。彼漢朝の張良がこゝろはしらず候へ共、おなじくは田橫が、死しての後も潔き、志こそ慕しけれ。君臣たま〳〵遊興の、席を汚す非禮の罪は、ゆるさせ給へ」、と小膝を突、刃をやがて右手のかたへ、引繞さんとする程に、「彼禁めよ」、と義實は、焦燥給へば、貞行氏元、拳に携て、「御諚也。とてもかくても冥土の旅宿、今さらいそぐ事かは」と、辭を竭せば、義實は、數回嘆息し、「われ孝吉が志を、しらざるにあらねども、斯なるべしとまでは思はず。憖に恩賞の、沙汰してその死を促せし、わが生涯の悞也。やをれ八郞、黃泉へかへる汝が首途に、義實餞別せん。木曾介、彼翁を、とく〳〵召」、と仰れば、氏元は「阿」と應つゝ、緣頬に立出て、「上總の一作、はやまゐれ」、と聲高やかに呼立れば、「承りつ」、といふ聲も、鼻につまりて、目は淚、六十あまりの莊客が、前より其處にあら栲の、脚半甲掛裙はし折て、右手に菅笠、左手には、五才ばかりの男兒の、手を掖、腰を屈めつゝ、樹立間なき後園の、折戶の蔭を立出れば、「こゝへ〳〵」、と氏元が、招くまに〳〵緣頬に、手をかけて伸あがり「やよ八郞どの、孝吉ぬし。上總より參りたり。一作で候ぞ。女兒濃萩に產せ給ひし、その子はこれで候ぞ。やうやく尋來つる日に、肚切給ふは何事ぞ。物いふことはならずや」、と恨も泣もはゞかりの、關ならなくに貴人の、席とて影護なる。孝吉は「一作」、と名吿るを聞て目をひらき、うち見たるのみ物いはず。
當下杉倉氏元は、孝吉にうち對ひ、「八郞彼を見給へりや。某館へ參る折、件の老人、路次に在立、『金碗氏の第は何處』、とわが從者に問しかば、有繋にこれを聞捨かたくて、その來歷を尋れば、|箇樣々々、と稚兒の事さへ吿るにうちも措れず、『孝吉はけふ宿所にあらず。あはんとならばわが後に、跟てまゐれ』、とそが侭に、君所へこれを伴ひて、且縡の趣を、藏人に吿しらせ、殿へも申上しかば、『そは興あることになん。八郞がかくし子ならば、末憑しきものとおぼし。われみづから引あはさんず。その程までは金碗に、しられな』、と宣ひき。これによりて一作は、稚兒もろとも後園なる、諸折戶の蔭に潛せ、殿の仰を待たりしに、豈おもはんや、その事を、まだいはなくに和殿は自殺、外ながら見る老人の、心のうちはいかならん。せめて今般に親と子の、名吿をさせん、と思召、これ將殿の賜也。喃八郞」、と呼活れば、孝吉はやゝ頭を擡、「この期に及びて、親子の名吿、それも詮なき事になん。某主君を諫かねて、瀧田を立去り候|折、上總國天羽郡、關村なる莊客に、一作といふものは、則件の老人也。父が時には使れたる、私卒で候へば、某且く彼翁が、宿所に足を駐めたる、旅宿の中に渠が女兒、濃萩が許にわけ濡れて、結ぶは夢か、霧の間を、千とせの秋と契りつゝ、枕の數もかさなれば、平ならぬ身となりけり、と婦が吿るにこゝろ驚き、現色情は意外の惡事、と世話にもいふはわがうへなり。往方定めぬ旅の空、こゝ久戀の家ならねば、締も果ぬ妹と伕の、浮名を立て誠ある、人の女兒に瑕痕ては、今さら親が許すとも、絕て合する面はなし。淺ましき所行してけり、と百遍悔、千遍悔ども、後悔其處に立ざれば、しのび〳〵に濃萩には、墮胎せよと勸るのみ、別に思念はなまよみの、甲斐なき怠狀一通を一作に遺しつゝ、さて關村を走り去り、彼此に流浪て、五年といふこの夏この日、故主の枉死を傳聞て、定包を擊んとて、竊に還る舊里の、途の便着にあなれども、一作許音つれず、濃萩が事はいかにぞ、と毫にも問はで過したり。しかるにその子は恙なく、產せて年來養育の、誠を見ればいとゞなほ、面目なくこそ候へ」、といふ聲もはや片息なる。「現理り」と一作は、慰かねて鼻うちかみ、「有繋に悍き武夫も、戀には脆き人情、況ておん身は妻もなく、子もなき旅宿の徒然を、慰まうせし女兒濃萩は、淫奔に似て淫奔ならず。いへばさら也氏素姓、おのが故主の胤を宿せし、彼奴は天晴果報もの、佳壻がね、とこゝろでは、婆々もろ共に歡びつ、しれどもしらぬおもゝちを、何とか猜し給ひけん、和君は出てかへり給はず。往方を索わびつゝも、女兒は程なく臨月に、產おとせしは男兒也。あな愛たし、と祝ぐ間なく、濃萩は積る物思ひに、肥立で竟に十萬億土、逝てかへらぬ人となる、その初七日を二七夜、寔に目面を爴み米、手の內出しつ、乳を貰ひつ、生死ふたつに三界流轉、患苦は訛たる言の葉に、演竭さるゝことならず。さはれ赤子は健也。主と女兒が形見ぞ、と見れば可愛く、いと惜く、晝は終日懷に、夜は通宵爺々婆々が、迭代に添臥て、やうやく立ば、跂よといそがし、笑へば、物をとくいへ、とこゝろばかりは引伸す、綿繰馬に索手綱、孫に牽れて二番草、とり後れたる瘦田の案山子、おなじことして日を送り、年をかさねて四といふ、去歲の秋より婆々が病著、片手所爲なる看病は、屈ぬ棚の藥鍋、嗄兒に絆へて熬著までに、煎じ詰たるその年の、大晦日には婆々が往生。片腕もがれし木偶と、稚兒とわれ只三人、棺を守てあら玉の、年を迎る門松は、冥土の旅の一里塚、禪僧㒵に悟て見ても、曉かたきは凡夫心。六十八の今茲こそ、一生涯の憂苦患難、ひとつに聚てもまだ足らぬ、再三たびの大厄難。孫にも愧ず泣老が身は、春の外山に笑れても、淚の垂水凍解て、佛へ手折る背門の梅莟も恰好五ッ子が、無心で眞似る念佛に、缺伸の雜る宵迷ひ。短夜なれや春過て、卯月の下浣より上總のうらまで、鄰國の事、和君が事、合戰のやう隱れなし。われ一トたびは驚きしが、是より心に勇あり、いゆきて訪ん、と思ひしかど、步行不便の老人が、稚兒負て戰場にゆかんはいと危し。時を俟ん、と思ひかへして、討おさめたるよしを、聞ぞ定てけふこゝへ、來る甲斐なけれ今般の對面。過世の業報想像る、一作が悲みは、物の屑にも候はず。この子が人と成る後に二親ながら㒵しらぬ、遺憾はいかならん。喃加多三、あれこそおん身が爹々なれ。顏見おぼえよ」と指せば、兒は伸あがり、「爹さま喃」、と聲立て、呼るゝ親は見るばかり、物いひたげに動せし、脣の色變りつゝ、はや臨終と見えしかば、義實は稚兒を、ほとりちかく召よして、と見かう見つゝ、「面影は、父八郞によく肖たり。その名は何と呼るゝぞ」、と問せ給へば、一作は、膝推屈てうち向上、「楚と定し名は候はず。故主と女兒が形見なれば、加多三々々々と喚做せり」、と申上れば、「さぞあらん。この子を我に得させかし。父孝吉は豫を輔し、大なる功あり。これをその子の名に著して、金碗大輔孝德、と名吿て父が忠義を承嗣げ。人と成なば形のごとく、長狹半郡を裂與て、東條の城主とせん。一作は外戚也。もろ共に留りて、大輔が後見せよ。當坐の勸賞五百貫、この稚兒に取するかし。これを冥土の苞苴にして、佛果を得よや八郞」、と呼び激されて孝吉は、鮮血に塗るゝ左手を抗、主君を拜み奉り、きりゝ〳〵と引遶す、刃の蹟に大腸の、出るをやがて爴そえ、「人々介錯たのむぞ」、といふを末期の一句にて、項を伸せど勝かねし、「苦痛させじ」、と義實は、おん佩刀を引拔て、みづから背に立給へば、哀果敢なし八郞が、首は前におちてけり。覺期はしても堪かねし、一作は聲を惜ず、泣つゝ老の諄言を、うけつ答つ、氏元貞行、いと正首に慰れば、穉兒は只おろ〳〵と、酸鼻のみ情由しらず、縡斷たりし親の顏を、さし覗くも亦哀れ也。されば金碗八郞が死果るとき星墮て、七日の月は西に入り、陰々として心火閃き、女子の像、影のごとく、大輔が身にそふて、かき消す如くなりにけり。これを見るもの義實のみ、その餘はすべてしらざりき。かくて義實は、氏元貞行を近く召よせ、孝吉が送葬、大輔を養育の、事叮嚀に命じ給ひつ、軈て後堂にぞ入り給ひぬ。時に漏刻高く音して、夜ははや亥中になりにけり。
作者云。この段七月の初旬なれども、出像は冬の衣裳に似たり。現羅衣は畫くとも、彩なくては定かならぬもの也。これらは畫者の好にまかして、敢時節に抅らず。かゝる事間多かり。閱者ふかく咎給ふな。
又いふ。こゝの出像には、氏元をのみ出して、貞行を省きつ。大かたならぬものどもなれども、こゝにはさせる事なければ、剞劂氏を助けし也。
又いふ。卷端第一回、結城合戰の條より、こゝに至て僅に四个月、嘉吉元年四月に起りて、おなじ年の七月に終る。僂ればその間、八十餘日のことになん。第八回に至ては、年月遙に程經りて、十六七年の事に及べり。その間には伏姬の、成長ををさ〳〵いふのみ、させる物語なき處は、皆省略て、くだ〳〵しくいはず。これらも例の事ながら、精麁互に趣を異にすなれば、柱に膠するに似たれど、次序を悞こともやとて、よくも見ざらん人の爲に、かゝるよしさへみづから注しつ。)

