南総里見八犬伝(008)

南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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「一子いつしを遺のこして孝吉たかよし大義たいぎに死しす」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」

景連奸計信時かげつらかんけいのぶときを賣うる
孝吉節義義實たかよしせつぎよしさねに辭ぢす

 杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとが使者、蜑崎十郞輝武あまさきじうらうてるたけ、東條とうでふよりはせ參りて、麻呂信時まろののぶときが首級しゆきうを進まゐらせたりければ、義實よしさねは大床子おほせうじのほとりに出いでて、件くだんの使者をちかく召めさせ、合戰かつせんの爲體ていたらくを、みづから問とはせ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏ひやうろうともしくまします事、氏元豫かねてこゝろにかゝれば、百姓們ひやくせうばらを催促さいそくして、運送うんそうせばやと思ふ程に、安西景連あんさいかげつら、麻呂信時、はや定包さだかねにかたらはれて、海陸かいりくの通路を塞ふさぎ、小荷駄を取らん、とわれを俟まつ。縡ことの難義なんぎに及びしかば、氏元ます〳〵憂悶うれひもだへて、いたづらに日を過すぐしたり。しかるに景連、一夕竊あるよひそかに、家隸某甲いへのこなにがしをもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊ぎやくぞく也。よしや蘇秦張儀そしんちゃうぎをもて、百遍千遍相譚もゝたびちたびかたらふとも、承引うけひくべうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、渠かれが爲に途みちを塞ふたぎ、良將勇士を苦くるしめしは、われながら淺猿あさまし、と後悔臍こうくわいほぞを噬かむものから、信時只管ひたすら鏃やじりを磨とぎて、說とけども思ひかへさねば、是これも亦靴またくつを隔へだてて、癬かゆきを掻かくに異ことならず。猜つら〳〵事の情ぜうを量はかるに、信時は匹夫ひつふの勇士、利の爲に義を忘れて、貪むさぼれども飽あくことなし。景連舊好きうこうを思ふ故ゆゑに、一旦いつたん合體するといへども、もし悞あやまちを改あらためずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮しよせん合體の念おもひを飜ひるがへし、まづ信時を擊果うちはたして、兵粮ひやうろう運送の路を開き、里見殿さとみとのに力を勠あはして、賊首ぞくしゆ定包を討滅うちほろぼし、大義を舒のべんと思ふのみ。曩さきにはたま〳〵來臨らいりんせられし、里見ぬしを要えうとゞめず、あるじ態ぶりの禮儀いやなかりしは、彼かの信時が拒こばめるゆゑなり。願ふは和殿わどの、城を出いでて、短兵急たんへいきうに攻せめかゝれ。信時は野猪武者ゐのしゝむしや也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣ごぢんより、さし挾はさみてこれを擊うたば、信時を手取てとりにせん事、掌たなそこを返す如ごとけん。狐疑こぎして大事だいじを悞あやまち給ふな。をさ〳〵回答いらへを俟まつ』といへり。しかれども氏元は、敵の謀はかりことにもや、と思ひしかば、佻々かろかろしく從はず、使者の往返度わうへんたびかさなりて、僞いつはりならず聞えにければ、さは信時を擊うたんとて、安西に諜てふじ合せ、降ふりみ降ふらずみ五月雨さみだれの、黑白あやめもわかぬ暗夜くらきよに、二百餘騎を引率いんぞつし、枚ばいを銜ふくみ、鑣くつわを鉗つぐめ、麻呂信時が屯たむろせる、濱荻はまをぎの柵さくの前後ぜんごより、犇々ひしひしと推おしよせて、鬨ときを咄どつとつくり掛かけ、無二無三むにむざんに突ついて入いる。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷あはてさわぎて、繋つなげる馬に鞭むちを當あて、弦つるなき弓に箭やをとり添そえ、紊立みだれたつたる癖くせなれば、只活路たゞにげみちを求もとむるのみ、防戰ふせぎたゝかはんとするものなし。そのとき信時聲を激はげまし、『憑たのもしげなきもの共どもかな。敵は正まさしく小勢こぜい也。推包おしつゝんで擊うちとらずや。落おとされて前原まへはらなる、安西に笑わらはれな。擊うてよ進め』、と烈はげしく令げぢして、眞先まつさきに馬乘出のりいだし、鎗やりりう〳〵とうち揮ふりて、逼入こみいる寄手よせてを突倒つきたふす。その勢ひは正まさに是これ、群むらがる羊ひつじの中うちに入いる、猛虎まうこの暴あるゝに異ことならず。士卒はこれに勵はげまされ、將後陣はたごぢんなる安西が、援來たすけきなんと思ひけん、逃にげんとしたる踵きびすを旋めぐらし、唬叫わめきさけびて戰へば、こゝろならずも躬方みかたの先鋒せんぢん、面外とのかたへ追おひかへされ、路みちのぬかりに足も得えたゝず、辷すべり跌つまつき引ひきかねたり。當下そのとき杉倉氏元は、眼まなこを瞪いからし、聲をふり立たて、『一旦破りし一二の柵さくを、追おひかへさるゝことやはある。名を惜をしみ、恥はぢをしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採さいはいとつて腰に插さし、鐙あぶみを鳴らし、馬を進めて、烏夜やみに晃きらめく長刀なぎなたを、水車みづくるまの如く揮廻ふりまはして、信時に擊うつて懸かゝれば、笧かゞりの火光ひかりに佶きつと見て、『汝なは氏元欤か。よき敵也。其處そこな退のきそ』、と呼びかけて、鎗やりを捻ひねつて磤はたと突つけば、發石はつしと受うけてはねかへし、引ひけばつけ入いり、すゝめば開き、一上一下いちじやういちげと手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方みかたも敵も遊兵ゆうへいなく、相助あいたすくるに暇いとまなければ、氏元と信時は、人を雜まじへず戰ふ程に、信時焦燥いらつて突つき出いだす、鎗やりの尖頭ほさきを氏元は、左手ゆんでへ丁ちやうと拂除はらひのけ、おつと唬おめいて、向上みあぐる所を、長刀なぎなたの柄ゑを拿延とりのべて、內兜うちかぶとへ突入つきいれて、むかふざまに衝落つきおとせば、さしもの信時灸所きうしよの痛手いたでに、得堪えたヘず鎗やりを手にもちながら、馬より摚だうと滾落まろびおつる、音に臣等わくらは見かへりて、飛とぶがごとくに走はせよせて、その頸取くびとつて候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうち聞きゝて、「氏元がその夜の軍功、賞するに堪たへたれども、計略足はかりことたらざりけり。景連猛にはかに心裏反うらかへりて、信時を擊うたする事、その故ゆゑなくはあるべからず。夫兩雄それりゃうゆうは竝立ならびたゝず。信時景連相與あひともに、われを擊うつとも早とみに捷かたずは、必變かならずへんを生ずべし。然さるを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時を擊うちとりしは、躬方みかたの爲に利はなくて、景連が爲になりなん。彼かの安西は何なにとかしつる」、と問とはせ給へば蜑崎あまさき十郞、「さン候景連は、その夜よさり躬方みかたの爲ために、征箭一條そやひとすぢも射出いいださず、いつの程にか前原まへはらなる、柵さくを退しりぞきて候」、と答こたへまうせば、義實は、扇あふぎをもつて膝ひぎを鼓うち、「しかれば既に景連が、奸計かんけいは著あらはれたり。わが瀧田を攻せめしとき、勝敗測はかりかたしといへども、定包さだかねは天神地祇あまつかみくにつかみも憎にくませ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全しじうまつたからじとは、景連は思ひけん。定包竟つひに滅亡めつぼうし、義實その地を有たもつに及びて、信時は安西が翼たすけになるべきものならず。只大たゞおほばやりに勇めるのみ、與ともに無謀むぼうの軍いくさをせば、脆もろく負まけなんことをおそれて、陽うへには義實と合體して、氏元に信時を擊うたせ、景連はその虛に乘じやうじて、平館ひらたてを攻落せめおとし、朝夷郡あさひなこふりを合あはせ領れうして、牛角ごがくの勢ひを張らんとす。鼓うちし扇あふぎは外はづるゝとも、わが推量は違たがはじ」、とその脾肝はいかんを指さすくごとく、いと精細つばらかに宣のたまふ折、氏元が再度の注進ちうしん、某乙なにがしをとこはせ參りつ、「信時既に擊うたれしかば、殘兵頻ざんへいしきりに紊みだれ騷さわぎて、逃にぐるを直ひたと追捨おひすてて、氏元は軍兵ぐんびやうを、纏まとめて軈やがて東條へ、歸陣して候ひしに、豈あにおもはんや景連は、はや前原まへはらを退しりぞきて、平館ひらたての城を乘取のつとり、麻呂まろが采地朝夷れうぶんあさひな一郡、みなおのが物とせり。狗骨いぬほねをりて、鷹たかに捉とらせし、氏元は勞して功なし。おん勢せいをさし向むけ給はゞ、先鋒せんぢんを奉うけたまはりて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城ねしろを屠ほふりて、この憤いきどはりを散はらすべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗かなまりも堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智そうさつゑいちに感伏かんふくし、「はやく景連を討うち給へ」、と頻りに勸すゝめ奉れば、義實頭かうべをうち掉ふりて、「否いな安西は討うつべからず。われ定包さだかねを滅ほろぼせしは、ひとり榮利ゑのりを思ふにあらず、民の塗炭とたんを救すくはん爲也。さは衆人もろひとのちからによりて、長狹平郡ながさへぐりの主ぬしとなる、こよなき己おのが幸さいはひならずや。景連梟雄けうゆうたりといふ共、定包が類たぐひにあらず。その底意そこゐはとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時を擊うつに及びて、渠かれいちはやく平館なる、城を拔ぬきしを媢ねたしとて、軍いくさを起し、地を爭ひ、蠻觸ばんしよくの境さかひに迷ひて、人を殺し民を損そこなふ、そはわがせざる所也。景連奸計行おこなはれて、平館を取るといへども、なほ嗛あきたらで攻來せめくるならば、一時いちじに雌雄しゆうを決すべし。さもなくは境さかひを戍まもりて、こゝより手出しすべからず。僉みなこの旨むねをこゝろ得よ」、と叮嚀ねんころに喩さとし給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩きんじゆのともがら、蜑崎等もろ共に、感佩かんはいせざるものもなく、「いにしへの聖賢せいけんも、此このうへややはある」、と只顧稱贊ひたすらせうさんしたりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、渠かれを賞ほめ、渠かれを喩さとして、安西を討うつことを禁とゞめ、「人の物を取らんとて、わが手許たなもとを忘るゝな。鄙語ことわざにいふ、飽あくことしらぬ、鷹たかは爪つめの裂さくるかし。籠城ろうぜうの外ほか、他事あだしこと、あるべからず」、と警いましめて、蜑崎十郞等を還かへし給ひつ。

 とかくする程に、夏寒かりし、卯花降晴うのはなくだちはれわたり、風まちわぶる六月みなつきの、土用どようなかばになりにけり。この時安西景連あんさいかげつらは、蕪戶訥平かぶととつへいといふ老黨ろうだうに、兩三種りやうさんしゆの土產とさんを齎もたらし、瀧田たきたの城へ遺つかはして、定包頓さだかねとみに滅亡して、義實こゝに基もといを開ひらける、祝ことぶきを述のべ、好よしみを通じ、「曩さきに鳳眉おもてを接あはせしより、景慕けいぼのおもひ遂つひに得絕えたえず、只羞たゞはづらくは信時に、席を犯されて意外の不禮ぶれい、さこそは晉しんの文公ぶんこうが、曹そうを過よぎりし憾うらみに似つらめ。しかれどもその事なくは、誰たれか君を激はげまして、この大業たいぎやうを興おこすに至らん。實まことを推おせば初はじめより、大かたならず君を思ふ、景連が寸志にて、假かりに强顏つれなくもてなしたり。かゝる故ゆゑに愚意ぐゐを吿つげて、君が爲に信時を、除のぞきにければ、陽報ようほうあり。不思議に附驥ふきの功なりて、平館ひらだての城を獲たり。一國四郡しぐんを二ッにわかちて、犯おかすことなく扶翼たすけ〳〵て、兒孫うまごのすゑまで傳へなば、樂しかるべき事ならずや。些少させうの野品やひん、その義に足らねど、乘馬三疋じやうめさんひき、白布百反しらぬのひやくたん、迺すなはちこれを進まゐらする。只いつまでも交まじはりの、變らじ、と祈るのみ。收おさめ給はゞ幸さいはひならん」、と慇懃いんぎんにいはせしかば、掘內貞行とり次つぎて、使者の口狀云云こうでうしか〳〵と、義實に吿つげまうせば、義實疑ふ氣色けしきなく、軈やがて貞行孝吉して、蕪戶訥平かぶととつへいを饗應けうわうさせ、「われその使者に對面せん。等閑なほざりならず款待もてなせよ」、と叮嚀ねんごろに仰おふすれば、貞行孝吉歡よろこばず、「君が賢き御みこゝろもて、などて彼老狸かのふるたぬきに、欺あざむかれ給ひぬる。景連實じつに善に與くみし、德を慕ふものならば、當國にはなき鯉こひを求めて、殺さんとは計はからざるべし。今さらに虛々そら〳〵しき、壽ことぶきを述のべ、好よしみを通じ、些ちとの物を贈りしは、その身に牆かきをするもの也。なほその奸計しるべからず。使者を款待もてなし給ふことかは。御對面は物體もつたいなし」、と竊ひそかに諫いさめまうせしかば、義實莞尒につことうち笑えみて、「景連は實情もて、こゝに好よしみを通ぜずとも、今聞きくところ、見るところは、憎むべきものにあらず。しかるにわれしうねくも、その舊惡を咎とがめつゝ、交まじはりを結ばずは、これ只彼たゞかれに背そむくなり。かくの如くにして爭はゞ、人みなわれを不義とせん。不義にして捷かつことありとも、義實は願ねがはしからず。努々ゆめ〳〵疑ふべからず」、とかへす〳〵も說諭ときさとして、みづから使者に對面し、訥平が還かへるに及びて、共に金碗八郞を、安房郡あはこふりへ遺つかはして、圭璧けいへきの禮に答へ、形かたの如く贈おくりものして、いよゝます〳〵交まじはりを、破らじと誓ちかはし給へば、景連大きに歡よろこびて、孝吉をおもく款待もてなし、手づから誓書ちかひふみを寫したゝめて、義實におくりけり。

 是これよりして安西は、安房朝夷あはあさひなの二郡を領れうし、義實は神餘じんよの舊領、長狹平郡ながさへぐりの二郡を領して、犯すことなく、爭ふことなく、世は長閑のどやかになりしかば、杉倉木曾介氏元は、東條より召めしかへされて、はじめて安堵あんどの思ひをなし、君臣上下笑えみかた向まけて、樂しからずといふものなし。

 かゝりし程に七月ふみつきの、星まつる夜よになりにければ、その夕くれに義實よしさねは、端はしちかう出いでまして、杉倉氏元すぎくらうぢもと、堀內貞行ほりうちさだゆき、金碗孝吉等かなまりたかよしら、功臣のみを召聚めしつどへて、點茶てんちやの禮縡れいことをはり、(むかし里見の家例かれいには、點茶の禮といふことありここの事房總志料ぼうさうしれうにいへり)來こしかたを譚かたらひつ、かたらせて聞給ひつゝ、この功臣等に宣のたまふやう、「豫が幸さいはひに二郡を獲えてより、波風たゝずなるものから、とにかくに事繁ことしげくて、祈りし神に賽かへりまうさず。又功臣等に賞を行おこなはで、こゝにも介山かいざんを造るに似たり。さても氏元貞行は、先考なきちゝぎみの遺命を受うけて、わが艱難かんなんに從ひたる、その忠信は今さらに、いふべうもあらざめれど、白箸河しらはしかはの上ほとりにて、金碗孝吉に遭あはざりせば、いかにして功業こうぎやうを、この地に建たつるよしあらん。又鴿いへはとが書を傳つたへずは、定包いかでか首かうべをおくらん。彼かれとこれとはわが爲に、第一の勳績いさをし也。さらずははじめ、安西等が、奸計かんけいにあてられて、軍法をもて斬きられん欤か、兵粮竭ひやうらうつきて餓うへつかれ、敵の爲に擒とりことならんか、この二ツに過すぐべからず。時やうやく淸涼すゞやかにて、根なし言ことの葉露はつゆむすぶ、詩を賦ふし、歌を詠よまん爲に、今宵こよひは二星じせいのあふとかいへり。星に君臣上下の差しなあり。人の吉凶きつけうこれに係かゝる。われ既に天に誓へり。當城の八隅やすみには、八幡宮はちまんぐうを建立こんりうして、秋每あきごとに祀まつり奉り、又領內に徇ふれしらして、鳩はとを殺すことを禁とゞめん。又金碗八郞孝吉には、長狹ながさ半郡を裂與さきあたへて、東條とうでふの城主とせん。氏元貞行には、所領おの〳〵五千貫を宛行あてわこなはん。この旨むねこゝろ得候へ」、と正首まめやかに說示ときしめして、手づから寫したゝめおかせ給ひし、一通の感狀かんでうを、まづ孝吉に賜たまはれば、孝吉三みたび戴いたゞきて、その侭まゝ返し奉り、席を避さけてまうすやう、「相傳補佐さうでんほさの老臣に、先さきだゝし給はする、恩賞おんせう再度に及ばせ給ふを、推辭いなみ奉るよし候はねど、某それがしは初はじめより、名利めうりのふたつにこゝろなし。故主こしゆうの爲に逆臣を、誅ちうせんと思へるのみ。寔まことに君が威福いふくによりて、宿志しゆくしを果し候事、このうへの恩惠めぐみなし」、といへば義實うちほゝ笑えみ、「名聞榮利めうもんゑのりにかゝつらはず、功成なりて身退しりぞく、現げに義士の志こゝろざし、如此しかあるべき事ながら、唐山もろこしの張良ちやうりやうは、故主こしゆうの爲に秦楚しんそを滅ほろぼし、後竟のちつひに封爵はうしや<を、漢かんより受うけて留侯りうこうに、封ほうぜられたる例ためしあり。われは高祖こうその德なけれども、和殿わどのはをさ〳〵張良が孤忠こちうに似たり。されば又、功ある人を賞せずは、誰たれかその志を、忠孝節義に激はげますべき。枉まげて豫が意に從ひてよ」、と諭さとし給へば氏元も、貞行も亦またこれを勸すゝめて、彼かの感狀をうちも措おかず、遞與わたせば金碗八郞は、已やむことを得ず手に受うけて、うち開き讀よみくだち、「これ賜らじ、と辭しまうせば、只管ひたすらに我意がゐを立たてて、恩義をしらざるものに似たり。さりとて受うけては今さらに、故主こしゆうへ對して不忠なり。受うけて受うけざる孝吉が、この世あの世の君が爲に、せんすべあり」、といひあへず、刀を晃きらりと引拔ひきぬきて、彼かの感狀を卷まぎそえつゝ、肚はらへぐさと突立つきたつれば、「是は」、とばかり主從三人しゆう〴〵みたり、ほとり近く居ゐよりつゝ、義實はその臂ひぢを、やをら揚あげて瘡口きずぐちを、とさまかうさまうち熟視ながめ、「尖刀きつさきふかく入りたれば、助たすかるべき痍てにあらず。さりながら、この侭まゝにして縡絕ことたえなば誰たれか狂死といはざるべき。苦痛を忍びて思ふよし、心くまなくいひ遺のこしてよ」、と宣のたまふ聲を聞きゝとりてや、佶きつと向上みあげて息を吻つき、「故主こしゆうの枉死わうしを聞きゝしとき、この肚はらははや切るべかりしに、只定包たゞさだかねを擊うたんず、と思ふばかりに存命ながらへても、身ひとつにては事を得遂えとげず。かくは時あり緣ありて、君に値遇ちぐし奉たてまつり、犬馬けんばの勞を竭つくせしより、功に過すぎたる恩賞おんせうを、今更いまさらに受うけ候ては、後あとなくなりし故主こしゆうの枉死わうしを、わが幸さいはひとするに似て、存命ながらへかたきひとつなり。加以落羽岡これのみならずおちばがおかにて、定包さだかねならんと思ひてや、國主こくしゆを傷そこなひ奉りし、杣木朴平無垢三等そまきのぼくへいむくざうらは、原某もとそれがしが家僕かぼく也。彼等が武藝ぶげいは某それがしが、劍法たちすぢを傳へしかば、しらぬ事とはいひながら、下司げすの兵法大疵ひやうはうおほきずの、基もといを開きし孝吉が、悞あやまりに似て愉こゝろよからず。存命ながらへかたき二ッ也。彼漢朝かのかんちやうの張良ちやうりやうがこゝろはしらず候へ共、おなじくは田橫でんくわうが、死ししての後のちも潔いさぎよき、志こゝろざしこそ慕したはしけれ。君臣たま〳〵遊興の、席むしろを汚けがす非禮の罪は、ゆるさせ給へ」、と小膝こひざを突つき、刃やいばをやがて右手めてのかたへ、引繞ひきめぐらさんとする程に、「彼禁あれとゞめよ」、と義實は、焦燥いらち給へば、貞行氏元、拳こぶしに携すがりて、「御諚ごでう也。とてもかくても冥土めいどの旅たび宿、今さらいそぐ事かは」と、辭ことばを竭つくせば、義實は、數回あまたゝび嘆息し、「われ孝吉が志を、しらざるにあらねども、斯かうなるべしとまでは思はず。憖なまじいに恩賞の、沙汰さたしてその死を促うながせし、わが生涯せうがいの悞あやまち也。やをれ八郞、黃泉よみぢへかへる汝なが首途かどいでに、義實餞別うまのはなむけせん。木曾介きそのすけ、彼翁かのおきなを、とく〳〵召めせ」、と仰おふすれば、氏元は「阿あ」と應いらへつゝ、緣頬えんかわに立出たちいでて、「上總かづさの一作いっさく、はやまゐれ」、と聲高やかに呼立よびたつれば、「承うけたまはりつ」、といふ聲も、鼻につまりて、目は淚、六十むそぢあまりの莊客ひやくせうが、前さきより其處そこにあら栲たへの、脚半甲掛裙きやはんこうかけすそはし折をりて、右手めてに菅笠すげがさ、左手ゆんでには、五才いつゝばかりの男兒をのこゞの、手を掖ひき、腰を屈かゞめつゝ、樹立間こたちひまなき後園おくにはの、折戶をりどの蔭かげを立出たちいづれば、「こゝへ〳〵」、と氏元が、招くまに〳〵緣頬えんかわに、手をかけて伸のびあがり「やよ八郞どの、孝吉ぬし。上總より參りたり。一作で候ぞ。女兒濃萩むすめこはぎに產うませ給ひし、その子はこれで候ぞ。やうやく尋來たづねきつる日に、肚切はらきり給ふは何事なにごとぞ。物いふことはならずや」、と恨うらむも泣なくもはゞかりの、關せきならなくに貴人あてびとの、席せきとて影護うしろめたげなる。孝吉は「一作」、と名吿なのるを聞きゝて目をひらき、うち見たるのみ物いはず。

 當下杉倉氏元そのときすぎくらうぢもとは、孝吉にうち對むかひ、「八郞彼あれを見給へりや。某館それがしやかたへ參る折、件くだんの老人、路次ろぢに在立たゞずみ、『金碗氏かなまりうぢの第やしきは何處いづこ』、とわが從者ともびとに問とひしかば、有繋さすがにこれを聞捨きゝすてかたくて、その來歷を尋たづぬれば、|箇樣々々かやう〳〵、と稚兒をさなごの事さへ吿つぐるにうちも措おかれず、『孝吉はけふ宿所にあらず。あはんとならばわが後しりに、跟つきてまゐれ』、とそが侭まゝに、君所みたちへこれを伴ひて、且縡まづことの趣おもむきを、藏人くらんどに吿つげしらせ、殿へも申上しかば、『そは興きやうあることになん。八郞がかくし子ならば、末憑すゑたのもしきものとおぼし。われみづから引ひきあはさんず。その程までは金碗に、しられな』、と宣のたまひき。これによりて一作は、稚兒をさなこもろとも後園おくにはなる、諸折戶もろをりとの蔭かげに潛しのばせ、殿の仰おふせを待まちたりしに、豈あにおもはんや、その事を、まだいはなくに和殿わどのは自殺、外よそながら見る老人の、心のうちはいかならん。せめて今般いまはに親と子の、名吿なのりをさせん、と思召おぼしめす、これ將はた殿の賜たまもの也。喃なう八郞」、と呼活よびいくれば、孝吉はやゝ頭かうべを擡もたげ、「この期ごに及びて、親子の名吿なのり、それも詮せんなき事になん。某それがし主君を諫いさめかねて、瀧田を立去り候|折をり、上總國天羽郡かつさのくにあまはのこふり、關村せきむらなる莊客ひやくせうに、一作といふものは、則件すなはちくだんの老人也。父が時には使つかはれたる、私卒わかたうで候へば、某且それがししばらく彼翁かのおきなが、宿所に足を駐とゞめたる、旅宿たびねの中うちに渠かれが女兒むすめ、濃萩こはぎが許もとにわけ濡ぬれて、結ぶは夢か、霧の間まを、千ちとせの秋と契りつゝ、枕まくらの數もかさなれば、平たゞならぬ身となりけり、と婦をんなが吿つぐるにこゝろ驚き、現色情げにしきぜうは意外の惡事、と世話せわにもいふはわがうへなり。往方ゆくへ定めぬ旅の空、こゝ久戀きうれんの家ならねば、締むすびも果はてぬ妹いもと伕せの、浮名うきなを立たてて誠まことある、人の女兒むすめに瑕痕きずつけては、今さら親が許すとも、絕たえて合あはする面おもてはなし。淺ましき所行わざしてけり、と百遍悔もゝたびくひ、千遍悔ちたびくへども、後悔其處そこに立たゝざれば、しのび〳〵に濃萩には、墮胎だたいせよと勸すゝむるのみ、別べちに思念しあんはなまよみの、甲斐かひなき怠狀たいでふ一通を一作に遺のこしつゝ、さて關村を走り去り、彼此をちこちに流浪さそらひて、五年いつとせといふこの夏この日、故主こしゆうの枉死おうしを傳つたへ聞きゝて、定包を擊うたんとて、竊ひそかに還かへる舊里ふるさとの、途みちの便着びんぎにあなれども、一作許音がりおとつれず、濃萩こはぎが事はいかにぞ、と毫ふでにも問はで過すぐしたり。しかるにその子は恙つゝがなく、產うませて年來としころ養育の、誠を見ればいとゞなほ、面目めんぼくなくこそ候へ」、といふ聲もはや片息かたいきなる。「現理げにことわり」と一作は、慰なぐさめかねて鼻うちかみ、「有繋さすがに悍たけき武夫ものゝふも、戀には脆もろき人情ひとこゝろ、況まいておん身は妻もなく、子もなき旅宿たびねの徒然つれつれを、慰なぐさめまうせし女兒むすめ濃萩は、淫奔いたづらに似て淫奔いたづらならず。いへばさら也氏素姓うぢすせう、おのが故主こしゆうの胤たねを宿やどせし、彼奴かやつは天晴果報あはれくわほうもの、佳壻よきむこがね、とこゝろでは、婆ば々ゝもろ共に歡よろこびつ、しれどもしらぬおもゝちを、何なにとか猜すいし給ひけん、和君わぎみは出いでてかへり給はず。往方ゆくへを索たづねわびつゝも、女兒むすめは程なく臨月りんげつに、產うみおとせしは男兒をのこゞ也。あな愛めでたし、と祝ことほぐ間ひまなく、濃萩は積る物思ひに、肥立ひだゝで竟つひに十萬億土おくど、逝ゆきてかへらぬ人となる、その初七日しよなぬかを二七夜ふたしちや、寔まことに目面めつらを爴つかみ米こめ、手の內出いだしつ、乳ちを貰もらひつ、生死せうしふたつに三界流轉さんかいるてん、患苦くわんくは訛だみたる言の葉に、演竭のべつくさるゝことならず。さはれ赤子あかこは健すくよか也。主しゆうと女兒むすめが形見ぞ、と見れば可愛かわゆく、いと惜をしく、晝は終日懷ひねもすふところに、夜よは通宵爺々婆々よもすがらぢゞばゞが、迭代かたみかはりに添臥そひふして、やうやく立たてば、跂はへよといそがし、笑へば、物をとくいへ、とこゝろばかりは引伸す、綿繰馬わだくりうまに索手綱なわたつな、孫に牽ひかれて二番草にばんくさ、とり後おくれたる瘦やせ田たの案山子かかし、おなじことして日を送り、年をかさねて四よつといふ、去歲こぞの秋より婆々が病著いたつき、片手所爲かたてわざなる看病は、屈とゞかぬ棚の藥鍋くすりなべ、嗄兒なくこに絆ほだへて熬著いりつくまでに、煎せんじ詰つめたるその年の、大晦日おほつごもりには婆々が往生わうぜう。片腕かたうでもがれし木偶にんぎやうと、稚兒をさなことわれ只三人たゞみたり、棺ひつぎを守もりてあら玉の、年を迎むかふる門松かどまつは、冥土めいどの旅の一里塚いちりづか、禪僧㒵ぜんそうがほに悟さとつて見ても、曉さとりかたきは凡夫心ぼんぶしん。六十八の今茲ことしこそ、一生涯いつせうがいの憂苦患難ゆうくかんなん、ひとつに聚よせてもまだ足らぬ、再三ふたゝびみたびの大厄難だいやくなん。孫にも愧はぢず泣老なくおいが身は、春の外山とやまに笑わらはれても、淚の垂水凍解たるひいてとけて、佛へ手折たをる背門せどの梅莟つぼみも恰好ちやうど五ッ子が、無心で眞似まねる念佛ねんぶつに、缺伸あくびの雜まじる宵迷よひまどひ。短夜みじかよなれや春過すぎて、卯月うつきの下浣すゑより上總かつさのうらまで、鄰國りんこくの事、和君わきみが事、合戰かつせんのやう隱れなし。われ一トたびは驚きしが、是これより心に勇いさみあり、いゆきて訪とはん、と思ひしかど、步行不便ほこうふべんの老人が、稚兒をさなご負おふて戰場たゝかひのにはにゆかんはいと危あやうし。時を俟またん、と思ひかへして、討うちおさめたるよしを、聞きゝぞ定さだめてけふこゝへ、來る甲斐かひなけれ今般いまはの對面。過世すくせの業報想像ごうはうおもひやる、一作が悲かなしみは、物の屑かすにも候はず。この子が人と成る後のちに二親ふたおやながら㒵かほしらぬ、遺憾のこりをしさはいかならん。喃加なうか多三たみ、あれこそおん身が爹々稚てゝごなれ。顏見おぼえよ」と指ゆびさせば、兒をさなこは伸のびあがり、「爹とゝさま喃なう」、と聲立こゑたてて、呼よばるゝ親は見るばかり、物いひたげに動うごかせし、脣くちびるの色變りつゝ、はや臨終りんじうと見えしかば、義實よしさねは稚兒をさなこを、ほとりちかく召めしよして、と見かう見つゝ、「面影おもかげは、父八郞によく肖にたり。その名は何なにと呼よばるゝぞ」、と問とはせ給へば、一作は、膝推屈ひざおしかゞめてうち向上みあげ、「楚しかと定さだめし名は候はず。故主こしゆうと女兒むすめが形見なれば、加多三々々々かたみ〳〵と喚做よびなせり」、と申上れば、「さぞあらん。この子を我われに得えさせかし。父孝吉は豫を輔たすけし、大おほいなる功いさをしあり。これをその子の名に著あらはして、金碗大輔孝德かなまりだいすけたかのり、と名吿なのりて父が忠義を承嗣うけつげ。人と成なりなば形かたのごとく、長狹ながさ半郡を裂與さきあたへて、東條とうでふの城主とせん。一作は外戚ぐわいせき也。もろ共に留とゞまりて、大輔だいすけが後見うしろみせよ。當坐たうざの勸賞けんせう五百貫くわん、この稚兒をさなこに取とらするかし。これを冥土めいどの苞苴つとにして、佛果ぶつくわを得よや八郞」、と呼よび激はげまされて孝吉は、鮮血ちしほに塗まみるゝ左手ゆんてを抗あげ、主君を拜み奉り、きりゝ〳〵と引遶ひきまはす、刃やいばの蹟あとに大腸みのわたの、出いづるをやがて爴つかみそえ、「人々介錯かいしやくたのむぞ」、といふを末期まつごの一句にて、項うなぢを伸のばせど勝たへかねし、「苦痛させじ」、と義實は、おん佩刀はかせを引拔ひきぬきて、みづから背うしろに立給へば、哀果敢あはれはかなし八郞が、首かうべは前におちてけり。覺期かくごはしても堪たへかねし、一作は聲を惜をしまず、泣なきつゝ老おいの諄言くりことを、うけつ答こたへつ、氏元貞行、いと正首まめやかに慰なぐさむれば、穉兒をさなこは只たゞおろ〳〵と、酸鼻なみだくむのみ情由わけしらず、縡斷こときれたりし親の顏を、さし覗のぞくも亦また哀れ也。されば金碗八郞が死果しにはつるとき星墮おちて、七日の月は西に入り、陰々いんいんとして心火閃しんくわひらめき、女子をなごの像かたち、影のごとく、大輔だいすけが身にそふて、かき消す如くなりにけり。これを見るもの義實のみ、その餘はすべてしらざりき。かくて義實は、氏元貞行を近く召めしよせ、孝吉が送葬のべおくり、大輔を養育の、事叮嚀ねんごろに命じ給ひつ、軈やがて後堂おくにぞ入り給ひぬ。時に漏刻ろうこく高く音して、夜よははや亥中ゐなかになりにけり。

作者云いはく。この段七月ふづきの初旬はじめなれども、出像さしゑは冬の衣裳に似たり。現羅衣げにうすきぬは畫ゑがくとも、彩いろなくては定さだかならぬもの也。これらは畫者ぐわしやの好このみにまかして、敢あへて時節に抅かゝはらず。かゝる事間まゝ多かり。閱者けみするひとふかく咎とがめ給ふな。
又いふ。こゝの出像さしゑには、氏元をのみ出いだして、貞行を省きつ。大かたならぬものどもなれども、こゝにはさせる事なければ、剞劂氏きけつしを助けし也。
又いふ。卷端くわんたん第一回、結城合戰ゆふきかつせんの條くだりより、こゝに至いたりて僅はつかに四个月しかつき、嘉吉かきつ元年四月うつきに起りて、おなじ年の七月ふつきに終る。僂かゞなふればその間あはひ、八十餘日よにちのことになん。第八回はちくわいに至いたりては、年月遙ねんげつはるかに程經ほどふりて、十六七年の事に及べり。その間あはひには伏姬ふせひめの、成長ひとゝなるををさ〳〵いふのみ、させる物語なき處は、皆省略ことそぎて、くだ〳〵しくいはず。これらも例の事ながら、精麁せいそ互に趣おもむきを異ことにすなれば、柱ことぢに膠にかはするに似たれど、次序ついでを悞あやまつこともやとて、よくも見ざらん人の爲に、かゝるよしさへみづから注ちうしつ。)

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