南総里見八犬伝(008)

南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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一子いつしのこして孝吉たかよし大義たいぎす」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」

景連奸計信時かげつらかんけいのぶとき
孝吉節義義實たかよしせつぎよしさね

 杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとが使者、蜑崎十郞輝武あまさきじうらうてるたけ東條とうでふよりはせ參りて、麻呂信時まろののぶとき首級しゆきうまゐらせたりければ、義實よしさね大床子おほせうじのほとりにいでて、くだんの使者をちかくめさせ、合戰かつせん爲體ていたらくを、みづからとはせ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏ひやうろうともしくまします事、氏元かねてこゝろにかゝれば、百姓們ひやくせうばら催促さいそくして、運送うんそうせばやと思ふ程に、安西景連あんさいかげつら、麻呂信時、はや定包さだかねにかたらはれて、海陸かいりくの通路をふさぎ、小荷駄を取らん、とわれをまつこと難義なんぎに及びしかば、氏元ます〳〵憂悶うれひもだへて、いたづらに日をすぐしたり。しかるに景連、一夕竊あるよひそかに、家隸某甲いへのこなにがしをもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊ぎやくぞく也。よしや蘇秦張儀そしんちゃうぎをもて、百遍千遍相譚もゝたびちたびかたらふとも、承引うけひくべうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、かれが爲にみちふたぎ、良將勇士をくるしめしは、われながら淺猿あさまし、と後悔臍こうくわいほぞかむものから、信時只管ひたすらやじりとぎて、とけども思ひかへさねば、これ亦靴またくつへだてて、かゆきくにことならず。つら〳〵事のぜうはかるに、信時は匹夫ひつふの勇士、利の爲に義を忘れて、むさぼれどもあくことなし。景連舊好きうこうを思ふゆゑに、一旦いつたん合體するといへども、もしあやまちあらためずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮しよせん合體のおもひをひるがへし、まづ信時を擊果うちはたして、兵粮ひやうろう運送の路を開き、里見殿さとみとのに力をあはして、賊首ぞくしゆ定包を討滅うちほろぼし、大義をのべんと思ふのみ。さきにはたま〳〵來臨らいりんせられし、里見ぬしをえうとゞめず、あるじぶり禮儀いやなかりしは、かの信時がこばめるゆゑなり。願ふは和殿わどの、城をいでて、短兵急たんへいきうせめかゝれ。信時は野猪武者ゐのしゝむしや也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣ごぢんより、さしはさみてこれをうたば、信時を手取てとりにせん事、たなそこを返すごとけん。狐疑こぎして大事だいじあやまち給ふな。をさ〳〵回いらへまつ』といへり。しかれども氏元は、敵のはかりことにもや、と思ひしかば、佻々かろかろしく從はず、使者の往返度わうへんたびかさなりて、いつはりならず聞えにければ、さは信時をうたんとて、安西にてふじ合せ、ふりふらずみ五月雨さみだれの、黑白あやめもわかぬ暗夜くらきよに、二百餘騎を引いんぞつし、ばいふくみ、くつわつぐめ、麻呂信時がたむろせる、濱荻はまをぎさく前後ぜんごより、犇々ひしひしおしよせて、ときどつとつくりかけ無二無三むにむざんついる。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷あはてさわぎて、つなげる馬にむちあてつるなき弓にをとりそえ紊立みだれたつたるくせなれば、只活路たゞにげみちもとむるのみ、防戰ふせぎたゝかはんとするものなし。そのとき信時聲をはげまし、『たのもしげなきものどもかな。敵はまさしく小勢こぜい也。推包おしつゝんうちとらずや。おとされて前原まへはらなる、安西にわらはれな。うてよ進め』、とはげしくげぢして、眞先まつさきに馬乘出のりいだし、やりりう〳〵とうちふりて、逼入こみい寄手よせて突倒つきたふす。その勢ひはまさこれむらがひつじうちる、猛虎まうこるゝにことならず。士卒はこれにはげまされ、將後陣はたごぢんなる安西が、援來たすけきなんと思ひけん、にげんとしたるきびすめぐらし、唬叫わめきさけびて戰へば、こゝろならずも躬方みかた先鋒せんぢん面外とのかたおひかへされ、みちのぬかりに足もたゝず、すべつまつひきかねたり。當下そのとき杉倉氏元は、まなこいからし、聲をふりたて、『一旦破りし一二のさくを、おひかへさるゝことやはある。名ををしみ、はぢをしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採さいはいとつて腰にさしあぶみを鳴らし、馬を進めて、烏夜やみきらめ長刀なぎなたを、水車みづくるまの如く揮廻ふりまはして、信時にうつかゝれば、かゞりの火ひかりきつと見て、『は氏元。よき敵也。其處そこ退のきそ』、と呼びかけて、やりひねつはたつけば、發石はつしうけてはねかへし、ひけばつけり、すゝめば開き、一上一下いちじやういちげと手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方みかたも敵も遊兵ゆうへいなく、相助あいたすくるにいとまなければ、氏元と信時は、人をまじへず戰ふ程に、信時焦燥いらつつきいだす、やり尖頭ほさきを氏元は、左手ゆんでちやう拂除はらひのけ、おつとおめいて、向上みあぐる所を、長刀なぎなた拿延とりのべて、內兜うちかぶと突入つきいれて、むかふざまに衝落つきおとせば、さしもの信時灸所きうしよ痛手いたでに、得堪えたヘやりを手にもちながら、馬よりだう滾落まろびおつる、音に臣等わくらは見かへりて、とぶがごとくにはせよせて、その頸取くびとつて候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうちきゝて、「氏元がその夜の軍功、賞するにたへたれども、計略足はかりことたらざりけり。景連にはか心裏反うらかへりて、信時をうたする事、そのゆゑなくはあるべからず。夫兩雄それりゃうゆう竝立ならびたゝず。信時景連相與あひともに、われをうつともとみかたずは、必變かならずへんを生ずべし。るを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時をうちとりしは、躬方みかたの爲に利はなくて、景連が爲になりなん。かの安西はなにとかしつる」、ととはせ給へば蜑崎あまさき十郞、「さ候景連は、そのさり躬方みかたために、征箭一條そやひとすぢ射出いいださず、いつの程にか前原まへはらなる、さく退しりぞきて候」、とこたへまうせば、義實は、あふぎをもつてひぎうち、「しかれば既に景連が、奸計かんけいあらはれたり。わが瀧田をせめしとき、勝敗測はかりかたしといへども、定包さだかね天神地祇あまつかみくにつかみ憎にくませ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全しじうまつたからじとは、景連は思ひけん。定包つひ滅亡めつぼうし、義實その地をたもつに及びて、信時は安西がたすけになるべきものならず。只大たゞおほばやりに勇めるのみ、ともに無むぼういくさをせば、もろまけなんことをおそれて、うへには義實と合體して、氏元に信時をうたせ、景連はその虛にじやうじて、平館ひらたて攻落せめおとし、朝夷郡あさひなこふりあはれうして、牛角ごがくの勢ひを張らんとす。うちあふぎはづるゝとも、わが推量はたがはじ」、とその脾肝はいかんすくごとく、いと精細つばらかのたまふ折、氏元が再度の注進ちうしん某乙なにがしをとこはせ參りつ、「信時既にうたれしかば、殘兵頻ざんへいしきりみださわぎて、にぐるをひた追捨おひすてて、氏元は軍兵ぐんびやうを、まとめてやがて東條へ、歸陣して候ひしに、あにおもはんや景連は、はや前原まへはら退しりぞきて、平館ひらたての城を乘取のつとり、麻呂まろ采地朝夷れうぶんあさひな一郡、みなおのが物とせり。狗骨いぬほねをりて、たかとらせし、氏元は勞して功なし。おんせいをさしむけ給はゞ、先せんぢんうけたまはりて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城ねしろほふりて、このいきどはりはらすべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗かなまりも堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智そうさつゑいち感伏かんふくし、「はやく景連をうち給へ」、と頻りにすゝめ奉れば、義實かうべをうちふりて、「いな安西はうつべからず。われ定包さだかねほろぼせしは、ひとり榮利ゑのりを思ふにあらず、民の塗炭とたんすくはん爲也。さは衆人もろひとのちからによりて、長狹平郡ながさへぐりぬしとなる、こよなきおのさいはひならずや。景連梟雄けうゆうたりといふ共、定包がたぐひにあらず。その底意そこゐはとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時をうつに及びて、かれいちはやく平館なる、城をぬきしをねたしとて、いくさを起し、地を爭ひ、蠻觸ばんしよくさかひに迷ひて、人を殺し民をそこなふ、そはわがせざる所也。景連奸計おこなはれて、平館を取るといへども、なほあきたらで攻來せめくるならば、一時いちじ雌雄しゆうを決すべし。さもなくはさかひまもりて、こゝより手出しすべからず。みなこのむねをこゝろ得よ」、と叮嚀ねんころさとし給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩きんじゆのともがら、蜑崎等もろ共に、感佩かんはいせざるものもなく、「いにしへの聖賢せいけんも、このうへややはある」、と只顧稱贊ひたすらせうさんしたりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、かれほめかれさとして、安西をうつことをとゞめ、「人の物を取らんとて、わが手許たなもとを忘るゝな。鄙語ことわざにいふ、あくことしらぬ、たかつめさくるかし。籠城ろうぜうほか他事あだしこと、あるべからず」、といましめて、蜑崎十郞等をかへし給ひつ。

 とかくする程に、夏寒かりし、卯花降晴うのはなくだちはれわたり、風まちわぶる六月みなつきの、土用どようなかばになりにけり。この時安西景連あんさいかげつらは、蕪戶訥平かぶととつへいといふ老黨ろうだうに、兩三種りやうさんしゆ土產とさんもたらし、瀧田たきたの城へつかはして、定包頓さだかねとみに滅亡して、義實こゝにもといひらける、ことぶきのべよしみを通じ、「さき鳳眉おもてあはせしより、景慕けいぼのおもひつひ得絕えたえず、只羞たゞはづらくは信時に、席を犯されて意外の不禮ぶれい、さこそはしん文公ぶんこうが、そうよぎりしうらみに似つらめ。しかれどもその事なくは、たれか君をはげまして、この大業たいぎやうおこすに至らん。まことおせはじめより、大かたならず君を思ふ、景連が寸志にて、かり强顏つれなくもてなしたり。かゝるゆゑ愚意ぐゐつげて、君が爲に信時を、のぞきにければ、陽報ようほうあり。不思議に附驥ふきの功なりて、平館ひらだての城を獲たり。一國四郡しぐんを二ッにわかちて、おかすことなく扶翼たすけ〳〵て、兒孫うまごのすゑまで傳へなば、樂しかるべき事ならずや。些少させう野品やひん、その義に足らねど、乘馬三疋じやうめさんひき白布百反しらぬのひやくたんすなはちこれをまゐらする。只いつまでもまじはりの、變らじ、と祈るのみ。おさめ給はゞさいはひならん」、と慇懃いんぎんにいはせしかば、掘內貞行とりつぎて、使者の口狀云云こうでうしか〳〵と、義實につげまうせば、義實疑ふ氣色けしきなく、やがて貞行孝吉して、蕪戶訥平かぶととつへい饗應けうわうさせ、「われその使者に對面せん。等なほざりならず款待もてなせよ」、と叮嚀ねんごろおふすれば、貞行孝吉よろこばず、「君が賢きこゝろもて、などて彼老狸かのふるたぬきに、あざむかれ給ひぬる。景連じつに善にくみし、德を慕ふものならば、當國にはなきこひを求めて、殺さんとははからざるべし。今さらに虛々そら〳〵しき、ことぶきのべよしみを通じ、ちとの物を贈りしは、その身にかきをするもの也。なほその奸計しるべからず。使者を款待もてなし給ふことかは。御對面は物體もつたいなし」、とひそかいさめまうせしかば、義實莞尒につことうちえみて、「景連は實情もて、こゝによしみを通ぜずとも、今きくところ、見るところは、憎むべきものにあらず。しかるにわれしうねくも、その舊惡をとがめつゝ、まじはりを結ばずは、これ只彼たゞかれそむくなり。かくの如くにして爭はゞ、人みなわれを不義とせん。不義にしてかつことありとも、義實はねがはしからず。努々ゆめ〳〵疑ふべからず」、とかへす〳〵も說諭ときさとして、みづから使者に對面し、訥平がかへるに及びて、共に金碗八郞を、安房郡あはこふりつかはして、圭璧けいへきの禮に答へ、かたの如くおくりものして、いよゝます〳〵まじはりを、破らじとちかはし給へば、景連大きによろこびて、孝吉をおもく款待もてなし、手づから誓書ちかひふみしたゝめて、義實におくりけり。

 これよりして安西は、安房朝夷あはあさひなの二郡をれうし、義實は神餘じんよの舊領、長狹平郡ながさへぐりの二郡を領して、犯すことなく、爭ふことなく、世は長閑のどやかになりしかば、杉倉木曾介氏元は、東條よりめしかへされて、はじめて安堵あんどの思ひをなし、君臣上下えみかたまけて、樂しからずといふものなし。

 かゝりし程に七月ふみつきの、星まつるになりにければ、その夕くれに義實よしさねは、はしちかういでまして、杉倉氏元すぎくらうぢもと堀內貞行ほりうちさだゆき金碗孝吉等かなまりたかよしら、功臣のみを召聚めしつどへて、點茶てんちや禮縡れいことをはり、(むかし里見の家例かれいには、點茶の禮といふことありここの事房總志料ぼうさうしれうにいへり)こしかたをかたらひつ、かたらせて聞給ひつゝ、この功臣等にのたまふやう、「豫がさいはひに二郡をてより、波風たゝずなるものから、とにかくに事繁ことしげくて、祈りし神にかへりまうさず。又功臣等に賞をおこなはで、こゝにも介山かいざんを造るに似たり。さても氏元貞行は、先考なきちゝぎみの遺命をうけて、わが艱難かんなんに從ひたる、その忠信は今さらに、いふべうもあらざめれど、白箸河しらはしかはほとりにて、金碗孝吉にあはざりせば、いかにして功業こうぎやうを、この地にたつるよしあらん。又鴿いへはとが書をつたへずは、定包いかでかかうべをおくらん。かれとこれとはわが爲に、第一の勳績いさをし也。さらずははじめ、安西等が、奸計かんけいにあてられて、軍法をもてきられん兵粮竭ひやうらうつきうへつかれ、敵の爲にとりことならんか、この二すぐべからず。時やうやく淸涼すゞやかにて、根なしこと葉露はつゆむすぶ、詩をし、歌をよまん爲に、今宵こよひ二星じせいのあふとかいへり。星に君臣上下のしなあり。人の吉凶きつけうこれにかゝる。われ既に天に誓へり。當城の八隅やすみには、八幡宮はちまんぐうを建こんりうして、秋每あきごとまつり奉り、又領內にふれしらして、はとを殺すことをとゞめん。又金碗八郞孝吉には、長狹ながさ半郡を裂さきあたへて、東條とうでふの城主とせん。氏元貞行には、所領おの〳〵五千貫を宛行あてわこなはん。このむねこゝろ得候へ」、と正首まめやか說示ときしめして、手づからしたゝめおかせ給ひし、一通の感狀かんでうを、まづ孝吉にたまはれば、孝吉たびいたゞきて、そのまゝ返し奉り、席をさけてまうすやう、「相傳補佐さうでんほさの老臣に、さきだゝし給はする、恩賞おんせう再度に及ばせ給ふを、推辭いなみ奉るよし候はねど、それがしはじめより、名利めうりのふたつにこゝろなし。故主こしゆうの爲に逆臣を、ちうせんと思へるのみ。まことに君が威福いふくによりて、宿志しゆくしを果し候事、このうへの恩惠めぐみなし」、といへば義實うちほゝえみ、「名聞榮利めうもんゑのりにかゝつらはず、功なりて身退しりぞく、げに義士のこゝろざし如此しかあるべき事ながら、唐山もろこし張良ちやうりやうは、故主こしゆうの爲に秦楚しんそほろぼし、後のちつひ封爵はうしや<を、かんよりうけ留侯りうこうに、ほうぜられたるためしあり。われは高祖こうその德なけれども、和殿わどのはをさ〳〵張良が孤こちうに似たり。されば又、功ある人を賞せずは、たれかその志を、忠孝節義にはげますべき。まげて豫が意に從ひてよ」、とさとし給へば氏元も、貞行もまたこれをすゝめて、かの感狀をうちもおかず、遞與わたせば金碗八郞は、やむことを得ず手にうけて、うち開きよみくだち、「これ賜らじ、と辭しまうせば、只管ひたすらに我がゐたてて、恩義をしらざるものに似たり。さりとてうけては今さらに、故主こしゆうへ對して不忠なり。うけうけざる孝吉が、この世あの世の君が爲に、せんすべあり」、といひあへず、刀をきらりと引拔ひきぬきて、かの感狀をまぎそえつゝ、はらへぐさと突立つきたつれば、「是は」、とばかり主從三人しゆう〴〵みたり、ほとり近くよりつゝ、義實はそのひぢを、やをらあげ瘡口きずぐちを、とさまかうさまうち熟ながめ、「尖刀きつさきふかく入りたれば、たすかるべきにあらず。さりながら、このまゝにして縡絕ことたえなばたれか狂死といはざるべき。苦痛を忍びて思ふよし、心くまなくいひのこしてよ」、とのたまふ聲をきゝとりてや、きつ向上みあげて息をき、「故主こしゆう枉死わうしきゝしとき、このはらははや切るべかりしに、只定包たゞさだかねうたんず、と思ふばかりに存命ながらへても、身ひとつにては事を得遂えとげず。かくは時あり緣ありて、君に値遇ちぐたてまつり犬馬けんばの勞をつくせしより、功にすぎたる恩賞おんせうを、今更いまさらうけ候ては、あとなくなりし故主こしゆう枉死わうしを、わがさいはひとするに似て、存命ながらへかたきひとつなり。加以落羽岡これのみならずおちばがおかにて、定さだかねならんと思ひてや、國主こくしゆそこなひ奉りし、杣木朴平無垢三等そまきのぼくへいむくざうらは、原某もとそれがし家僕かぼく也。彼等が武藝ぶげいそれがしが、劍法たちすぢを傳へしかば、しらぬ事とはいひながら、下司げす兵法大疵ひやうはうおほきずの、もといを開きし孝吉が、あやまりに似てこゝろよからず。存命ながらへかたき二ッ也。彼漢朝かのかんちやう張良ちやうりやうがこゝろはしらず候へ共、おなじくは田橫でんくわうが、してののちいさぎよき、こゝろざしこそしたはしけれ。君臣たま〳〵遊興の、むしろけがす非禮の罪は、ゆるさせ給へ」、と小膝こひざつきやいばをやがて右手めてのかたへ、引繞ひきめぐらさんとする程に、「彼禁あれとゞめよ」、と義實は、焦燥いらち給へば、貞行氏元、こぶしすがりて、「御諚ごでう也。とてもかくても冥土めいどたび宿、今さらいそぐ事かは」と、ことばつくせば、義實は、數回あまたゝび嘆息し、「われ孝吉が志を、しらざるにあらねども、かうなるべしとまでは思はず。なまじいに恩賞の、沙汰さたしてその死をうながせし、わが生涯せうがいあやまち也。やをれ八郞、黃泉よみぢへかへる首途かどいでに、義實餞別うまのはなむけせん。木曾介きそのすけ彼翁かのおきなを、とく〳〵めせ」、とおふすれば、氏元は「」といらへつゝ、緣頬えんかわ立出たちいでて、「上總かづさの一いっさく、はやまゐれ」、と聲高やかに呼よびたつれば、「うけたまはりつ」、といふ聲も、鼻につまりて、目は淚、六十むそぢあまりの莊客ひやくせうが、さきより其處そこにあらたへの、脚半甲掛裙きやはんこうかけすそはしをりて、右手めて菅笠すげがさ左手ゆんでには、五才いつゝばかりの男をのこゞの、手をひき、腰をかゞめつゝ、樹立間こたちひまなき後園おくにはの、折をりどかげ立出たちいづれば、「こゝへ〳〵」、と氏元が、招くまに〳〵緣えんかわに、手をかけてのびあがり「やよ八郞どの、孝吉ぬし。上總より參りたり。一作で候ぞ。女兒濃萩むすめこはぎうませ給ひし、その子はこれで候ぞ。やうやく尋來たづねきつる日に、肚切はらきり給ふは何事なにごとぞ。物いふことはならずや」、とうらむなくもはゞかりの、せきならなくに貴人あてびとの、せきとて影護うしろめたげなる。孝吉は「一作」、と名吿なのるをきゝて目をひらき、うち見たるのみ物いはず。

 當下杉倉氏元そのときすぎくらうぢもとは、孝吉にうちむかひ、「八郞あれを見給へりや。某館それがしやかたへ參る折、くだんの老人、路次ろぢ在立たゞずみ、『金碗氏かなまりうぢやしき何處いづこ』、とわが從者ともびととひしかば、有繋さすがにこれを聞捨きゝすてかたくて、その來歷をたづぬれば、|箇樣々々かやう〳〵、と稚兒をさなごの事さへつぐるにうちもおかれず、『孝吉はけふ宿所にあらず。あはんとならばわがしりに、つきてまゐれ』、とそがまゝに、君所みたちへこれを伴ひて、且縡まづことおもむきを、藏人くらんどつげしらせ、殿へも申上しかば、『そはきやうあることになん。八郞がかくし子ならば、末憑すゑたのもしきものとおぼし。われみづからひきあはさんず。その程までは金碗に、しられな』、とのたまひき。これによりて一作は、稚兒をさなこもろとも後園おくにはなる、諸折戶もろをりとかげしのばせ、殿のおふせまちたりしに、あにおもはんや、その事を、まだいはなくに和殿わどのは自殺、よそながら見る老人の、心のうちはいかならん。せめて今般いまはに親と子の、名吿なのりをさせん、と思召おぼしめす、これはた殿のたまもの也。なう八郞」、と呼活よびいくれば、孝吉はやゝかうべもたげ、「このに及びて、親子の名吿なのり、それもせんなき事になん。それがし主君をいさめかねて、瀧田を立去り候|をり上總國天羽郡かつさのくにあまはのこふり關村せきむらなる莊客ひやくせうに、一作といふものは、則件すなはちくだんの老人也。父が時には使つかはれたる、私卒わかたうで候へば、某且それがししばら彼翁かのおきなが、宿所に足をとゞめたる、旅宿たびねうちかれ女兒むすめ濃萩こはぎもとにわけれて、結ぶは夢か、霧のを、とせの秋と契りつゝ、まくらの數もかさなれば、たゞならぬ身となりけり、とをんなつぐるにこゝろ驚き、現色情げにしきぜうは意外の惡事、と世話せわにもいふはわがうへなり。往方ゆくへ定めぬ旅の空、こゝ久戀きうれんの家ならねば、むすびはていもの、浮名うきなたてまことある、人の女兒むすめ瑕痕きずつけては、今さら親が許すとも、たえあはするおもてはなし。淺ましき所行わざしてけり、と百遍悔もゝたびくひ千遍悔ちたびくへども、後悔其處そこたゝざれば、しのび〳〵に濃萩には、墮胎だたいせよとすゝむるのみ、べち思念しあんはなまよみの、甲斐かひなき怠狀たいでふ一通を一作にのこしつゝ、さて關村を走り去り、彼此をちこち流浪さそらひて、五年いつとせといふこの夏この日、故主こしゆう枉死おうしつたへきゝて、定包をうたんとて、ひそかかへ舊里ふるさとの、みち便着びんぎにあなれども、一作許音がりおとつれず、濃萩こはぎが事はいかにぞ、とふでにも問はですぐしたり。しかるにその子はつゝがなく、うませて年來としころ養育の、誠を見ればいとゞなほ、面目めんぼくなくこそ候へ」、といふ聲もはや片息かたいきなる。「現理げにことわり」と一作は、なぐさめかねて鼻うちかみ、「有繋さすがたけ武夫ものゝふも、戀にはもろ人情ひとこゝろまいておん身は妻もなく、子もなき旅宿たびね徒然つれつれを、なぐさめまうせし女兒むすめ濃萩は、淫奔いたづらに似て淫奔いたづらならず。いへばさら也氏素姓うぢすせう、おのが故主こしゆうたね宿やどせし、彼かやつ天晴果報あはれくわほうもの、佳壻よきむこがね、とこゝろでは、もろ共によろこびつ、しれどもしらぬおもゝちを、なにとかすいし給ひけん、和君わぎみいでてかへり給はず。往方ゆくへたづねわびつゝも、女兒むすめは程なく臨月りんげつに、うみおとせしは男兒をのこゞ也。あなめでたし、とことほひまなく、濃萩は積る物思ひに、肥立ひだゝつひに十萬億土おくどゆきてかへらぬ人となる、その初七日しよなぬか二七夜ふたしちやまこと目面めつらつかこめ、手の內いだしつ、もらひつ、生死せうしふたつに三界流轉さんかいるてん患苦くわんくだみたる言の葉に、演竭のべつくさるゝことならず。さはれ赤子あかこすくよか也。しゆう女兒むすめが形見ぞ、と見れば可愛かわゆく、いとをしく、晝は終日懷ひねもすふところに、通宵爺々婆々よもすがらぢゞばゞが、迭代かたみかはり添臥そひふして、やうやくたてば、はへよといそがし、笑へば、物をとくいへ、とこゝろばかりは引伸す、綿繰馬わだくりうま索手綱なわたつな、孫にひかれて二番草にばんくさ、とりおくれたるやせ案山子かかし、おなじことして日を送り、年をかさねてよつといふ、去歲こぞの秋より婆々が病著いたつき片手所爲かたてわざなる看病は、とゞかぬ棚の藥鍋くすりなべ嗄兒なくこほだへて熬著いりつくまでに、せんつめたるその年の、大晦日おほつごもりには婆々が往生わうぜう片腕かたうでもがれし木偶にんぎやうと、稚兒をさなことわれ只三人たゞみたりひつぎもりてあら玉の、年をむかふ門松かどまつは、冥土めいどの旅の一里塚いちりづか禪僧㒵ぜんそうがほさとつて見ても、さとりかたきは凡夫心ぼんぶしん。六十八の今茲ことしこそ、一生涯いつせうがい憂苦患難ゆうくかんなん、ひとつによせてもまだ足らぬ、再三ふたゝびみたびの大厄難だいやくなん。孫にもはぢ泣老なくおいが身は、春の外山とやまわらはれても、淚の垂水凍解たるひいてとけて、佛へ手折たを背門せどの梅つぼみ恰好ちやうど五ッ子が、無心で眞似まね念佛ねんぶつに、缺伸あくびまじ宵迷よひまどひ。短夜みじかよなれや春すぎて、卯月うつき下浣すゑより上總かつさのうらまで、鄰國りんこくの事、和君わきみが事、合戰かつせんのやう隱れなし。われ一たびは驚きしが、これより心にいさみあり、いゆきてとはん、と思ひしかど、步行不便ほこうふべんの老人が、稚兒をさなごおふ戰場たゝかひのにはにゆかんはいとあやうし。時をまたん、と思ひかへして、うちおさめたるよしを、きゝさだめてけふこゝへ、來る甲斐かひなけれ今般いまはの對面。過世すくせ業報想像ごうはうおもひやる、一作がかなしみは、物のかすにも候はず。この子が人と成るのち二親ふたおやながらかほしらぬ、遺憾のこりをしさはいかならん。喃加なうか多三たみ、あれこそおん身が爹々稚てゝごなれ。顏見おぼえよ」とゆびさせば、をさなこのびあがり、「とゝさまなう」、と聲立こゑたてて、よばるゝ親は見るばかり、物いひたげにうごかせし、くちびるの色變りつゝ、はや臨終りんじうと見えしかば、義實よしさね稚兒をさなこを、ほとりちかくめしよして、と見かう見つゝ、「面影おもかげは、父八郞によくたり。その名はなによばるゝぞ」、ととはせ給へば、一作は、膝推屈ひざおしかゞめてうち向上みあげ、「しかさだめし名は候はず。故主こしゆう女兒むすめが形見なれば、加多三々々々かたみ〳〵喚做よびなせり」、と申上れば、「さぞあらん。この子をわれさせかし。父孝吉は豫をたすけし、おほいなるいさをしあり。これをその子の名にあらはして、金碗大輔孝德かなまりだいすけたかのり、と名吿なのりて父が忠義を承嗣うけつげ。人となりなばかたのごとく、長狹ながさ半郡を裂與さきあたへて、東條とうでふの城主とせん。一作は外戚ぐわいせき也。もろ共にとゞまりて、大輔だいすけ後見うしろみせよ。當坐たうざ勸賞けんせう五百くわん、この稚兒をさなことらするかし。これを冥土めいど苞苴つとにして、佛果ぶつくわを得よや八郞」、とはげまされて孝吉は、鮮血ちしほまみるゝ左手ゆんてあげ、主君を拜み奉り、きりゝ〳〵と引遶ひきまはす、やいばあと大腸みのわたの、いづるをやがてつかみそえ、「人々介かいしやくたのむぞ」、といふを末期まつごの一句にて、うなぢのばせどたへかねし、「苦痛させじ」、と義實は、おん佩刀はかせ引拔ひきぬきて、みづからうしろに立給へば、哀果敢あはれはかなし八郞が、かうべは前におちてけり。覺期かくごはしてもたへかねし、一作は聲ををしまず、なきつゝおい諄言くりことを、うけつこたへつ、氏元貞行、いと正首まめやかなぐさむれば、穉兒をさなこたゞおろ〳〵と、酸鼻なみだくむのみ情わけしらず、縡斷こときれたりし親の顏を、さしのぞくもまた哀れ也。されば金碗八郞が死果しにはつるとき星おちて、七日の月は西に入り、陰いんいんとして心火閃しんくわひらめき、女子をなごかたち、影のごとく、大輔だいすけが身にそふて、かき消す如くなりにけり。これを見るもの義實のみ、その餘はすべてしらざりき。かくて義實は、氏元貞行を近くめしよせ、孝吉が送葬のべおくり、大輔を養育の、事叮嚀ねんごろに命じ給ひつ、やが後堂おくにぞ入り給ひぬ。時に漏刻ろうこく高く音して、ははや亥中ゐなかになりにけり。

作者いはく。この段七月ふづき初旬はじめなれども、出像さしゑは冬の衣裳に似たり。現羅衣げにうすきぬゑがくとも、いろなくてはさだかならぬもの也。これらは畫者ぐわしやこのみにまかして、あへて時節にかゝはらず。かゝる事まゝ多かり。閱者けみするひとふかくとがめ給ふな。
又いふ。こゝの出像さしゑには、氏元をのみいだして、貞行を省きつ。大かたならぬものどもなれども、こゝにはさせる事なければ、剞劂氏きけつしを助けし也。
又いふ。卷端くわんたん第一回、結城合戰ゆふきかつせんくだりより、こゝにいたりはつか四个月しかつき嘉吉かきつ元年四月うつきに起りて、おなじ年の七月ふつきに終る。かゞなふればそのあはひ、八十餘日よにちのことになん。第八回はちくわいいたりては、年月遙ねんげつはるか程經ほどふりて、十六七年の事に及べり。そのあはひには伏姬ふせひめの、成長ひとゝなるををさ〳〵いふのみ、させる物語なき處は、皆省略ことそぎて、くだ〳〵しくいはず。これらも例の事ながら、精麁せいそ互におもむきことにすなれば、ことぢにかはするに似たれど、次序ついであやまつこともやとて、よくも見ざらん人の爲に、かゝるよしさへみづからちうしつ。)

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