中井正一「土曜日」巻頭言(16)

◎我々の市民権の根底には明るいものがある 昭和十二年一月二十日

 時代によって、道徳がかわる、――その一ばん、よくわかる例と言えぱ、われわれ日本人には、何んと言っても、仇討だろう。
 講談や芝居や浪花節は、その八分通りは仇討をほめちぎることに力こぶを入れている。それは、まったく旧幕時代の道徳の考え方が、それに映っているのだ。旧幕時代でも、よく治まった時世には、人をあやめる物騒なことは、御法度だったが、それでも、世間の感情は、仇討の味方だった。仇討をしなければならない境遇に生れていながら、それの出来ない人間なんて、屑でしかなかった。
 けれども、明治以後は、復讐の行為は、はっきり人のいやしめる犯罪になった。仇討のためだと言っても、血なまぐさいことは、人が眉をひそめるようになった。
 復讐にあたるだけのことは、国家の法律が、制度として、われわれには直接は見えなくても、或るところまでやりとげて呉れる。われわれの道徳は、それに信頼して、物騒なこと、險わしげなこととは、全く縁を切って、平和に暮して行くことにあるようになった。
 けれども、これはただ仇討だけの道徳的見方が変ったのではない。
 赤穂四十七士が艱難辛苦の結果、見事に主君の仇を討ったという、その辛苦の仕方などにも、例えば大石内藏之助が祇園で、放蕩無頼の限をつくし、我身を持ちくずし、貞淑な妻に対しては、肚で泣きながら、だけれど、芝居で見ているのがいやになるような、ひどい仕打をするというようなことも、今では、もっと別の考え方がなければなるまい。
「大事の前の小事」「目的は手段を神聖にする」といったようなたて前で、子供をすり替えたり、信書の盗読みをしたり、他人の話を立聞きしたり、間諜のために娘の操を売らせたり、そういうことを別だん気にかけない道徳も変ったし、変りつつある。
 数年前赤色ギャング事件というのがあった。又先日、選挙の軍資金を手に入れるために、細君を女郎に売った無産党の区会議員があったが、浪花節、講談もどきの、旧幕時代の道徳の名残が、こんな連中にもまつわりついているのだ。
 それに達する手段も、平和で、分りよくて、誰れでもが、是認し、参加することが出来て、はじめて目的も立派だと言える。われわれは明治以来、安心して、正しい目的を、正しい手段で実現出来る世の中に住みはじめているのではないだろうか。びくびくしたり、きょろきよろしたりするとすれば、する方が悪いのではなかろうか。
 政治や外交などについては、議会や新関の上で、はっきりと、飽くまでも、議論をたたかわして行ってもらいたい。

[編者注]中央公論社・久野収編・中井正一「美と集団の論理」では、美術出版社・中井正一全集第四巻所収の『土曜日』巻頭言より多くを収録する。前者での久野の言によれば、「中井正一が前もって毎号の巻頭言を別紙にうつさせておき、それが遺稿の中に発見されたからである。」とあるが、馬場俊明氏は「中井正一伝説」によれば、共同発行者であった能勢克男の執筆だと推定している。この文章は、やや中井正一の文調と異なる気がしないではないが、当方には、いずれとも決めがたいので、前者を底本として掲載しておく。

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