◎巌窟王(巖窟王)(上 003)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 二一 其顏を此窓から
戸を叩く其人が確に我父野々内に違ひないと蛭峰は感じた。若し之が世間普通の息子で有つて世間普通の場合ならば必ず喜んで戸口まで立つて行き兩手を擴げて迎へ入れる所だらう、所が蛭峰は爾うでない、我父と感ずると共に全く顏の色を變へた。
尤も彼の氣質としては無理もあるまい、今父は恐ろしい嫌疑を受けて警察から獵立てられて居る人である、爾うして自分は此樣な父を持つたと世間に知られてさへ出世の妨げとなる場合である、況してや只た今、國王から非常な忠勤を贊められて、暗に遠からず恩賞に與る如き約束まで得て御前を退いた許りだもの、若しも我父の樣な國王の朝廷を轉覆しやうといふ黨派の巨魁が、我が宿を尋ねて來たと分つては、我が後に何れほどの損害となるかも分らぬ。
けれど戸を叩く人の方は少しも此樣な頓着はない 父「何時まで父を戸の外に待たせて置くのだ」と半笑談の樣にいひつゝ自分で戸を推して入つて來た、如何にも警視長官が先刻國王に上奏した通りの人相である、顏中髭と云ひ度いが、實は髭髯の中から目と鼻ばかり出して居るのだ、爾うして外套から杖に至るまで諜者が認めたといふ時の儘である、蛭峰は身震ひせぬ譯に行かぬ。
野々内は笑つた 父「オヽ今に初めぬ其方の孝行には感心した」蛭峰は返辭もせぬうち給使に向ひ 蛭「最う好いから、呼鈴を鳴らすまで彼方へ行つて居よ」と命じた、成程亂暴な父の言葉を他人に聞かれるのは辛いだらう、爾うして自分で立つて給使を送り出す樣に廊下の所まで行き、給使が全く階段を下り去る状を見屆け、其上で内から錠を卸して、初めて父の前に戻り蛭「阿父さん何か御用事ですか」と問ふた、仲々堅固な用心である。
父「ホゝ、爾うまで用心せずとも、ナニ父は聞く事さへ聞けば直に歸るのだよ」と云ひつゝ席に着いたが、其容子の何となく大膽で且つ鷹揚な所は流石に一黨の名士である、過激かは知らぬけれど、兎に角物に動ぜぬ大人物の風采が見える、之を目から鼻へ拔ける樣な蛭峰に比べて見ると先獅子と狐程の相違と云つて好い、何うして此樣な子が出來たゞらう。
蛭峰「聞く事は何ですか」父「ナニ馬港へ着いた商船の消息だよ、若し其方が彼地を出發する前に、巴丸といふ船が入港した樣には聞かなんだか」聞いたも聞いたも生涯忘れぬ程に聞いて居るのだ、蛭峰「分りました、阿父さんは其船の船長呉氏といふ人が、エルバ島から密書でも持て來はせぬかと心待に待つて居るのでせう」父「爾うよ、待兼たから聞きに來たのだ」蛭峰「可けません、阿父さんは最う其樣な陰謀はお廢しなさい、何うしても露見せずには濟みませんから」父「露見すれば何が惡い」蛭「貴方の身が危險です、實は阿父さん其の呉船長は船中で病死して、死際に自分の手下へ其密書を托しました、所が其手下が上陸するが否や拘引せられ、私の調べを受て、密書を私へ渡しました、其れを私が燒捨てたのです、貴方を助け度い爲に」自分を助け度い爲にとはいはぬ、父「フム其親切は有難い樣なものだが、其方のする事は何うも己には合點が行かぬ、けれど燒いたものなら今更仕方がない、成るほど、爾して其方は、其事を上官へ旨く上申する爲に上京すたのだな」蛭「ハイ、少しも貴方の名を出さずに、横領者の歸國だけを陛下の耳に入れねばならぬと思ひ、急いで上京したのです」
野々内は驚きも喜びもせぬ、只相變らず泰然自若と構へた儘で父「其方の仕さうな事だ、シタガ國王は其方から知らされて初めて皇帝の上陸を知つたのか」蛭峰「爾です」父「其樣な迂闊な事で國民に對し政治の責任が盡せると思ふかなア、警視廳へは年百五十萬圓の機密費を使はせてさ、早く我黨の世にならねば蒼生の不幸此上なしだ」蛭「其樣に仰有るけれど國王の警察は貴方の思ふよりも機敏ですよ、既に毛脛中將の暗殺された事件なども餘ほど詳しく探つて居ます」と、父の荒肝を奪ふ積りで口を切つた。
けれど爾ほどには驚かぬ 父「何だ毛脛中將の暗殺、ナニ彼れは暗殺ではなく自殺だらう、セイヌ河に死骸が浮いて居たといふぢやないか、己は聞いたけれど身を投げた事かと思つて居た」蛭「アノ氣の確な將軍が何で身投げなどをするものですか、殺された上で投込まれたと誰も鑑定して居るのです、其れのみか中將が其前夜に、サンヂャック街の或家で開いた拿翁黨の祕密會合へ招かれて出席した事も警察は知つて居ます、其れ切り宅へ歸らなかつた相ですから、後は誰にでも推量することが出來ます」
父「爾かなア、彼の祕密會の事まで分つて居ては、なるほど、幾等愚な警察でも推量が屆くだらう、けれど暗殺ではないのでよ、實は己も其の席に列したが、中將は吾々の魂膽から今度の計畫まで默つて聞いて了つた上で、愈々一同の血判と爲つた時、己は王黨で、拿翁黨ではない、決して血判には加えはらぬと斷言した、勿論會員の立腹は一方でなく、直ぐに其場で中將を刺殺すと云つたけれど、中將を其會へ誘ふて來た會長が — 」蛭峰は驚いて父の言葉の終るのを待つて居られぬ 蛭「エ阿父さん、中將を其會へ招いた人が其祕密黨の長ですか」野々内は少し笑つて、父「爾と見える、先ア聞け、其會長が會員一同を推宥め、中將をして、生涯今夜の事を他言せぬといふ堅い神聖な誓ひを立てさせ、爾して無事に歸して了つた、是までの事は己が能く知つて居る、其の歸り路で死んだのだから己は自分で河へ落ちたのだらうと思つて居た」蛭峰「其樣な事情なら愈々以て暗殺です、黨員が待伏して居て殺したのです」父「縱しや爾とした所で、暗殺などゝ其樣な聞苦しい言葉を加へて呉れるな、政治の上には決して暗殺といふ事はないよ、唯妨害物を取除くに止まるのだ、譬へば其の方が己の黨の者を捕へ之を死刑に處したとて己の方では蛭峰が我黨の者を暗殺したとは決していはぬ、若中將が我黨に殺されたなら其は必ず我黨の法律に從ひ我黨の裁判を受て死刑を行はれたのだらう、先ア道理は爾ではないか」
祕密の黨派が、黨の法律とか裁判とかいふのは蛭峰に取つては非常な耳障りである、けれど其處は父子といふ間柄だけに深く爭ひはせぬ蛭「シタが阿父さん、警察では既に其の中將を案内した人の人相まで詳しく知つて居ますよ」是には野々内も幾分か驚かぬ譯には行かぬ、父「何だ其の案内した人の人相を、ドレ何の樣な人相だと其の方は聞いた」蛭峰は父の顏をジツと見詰て蛭「ハイ私の聞きまんしたには、頬髯が黒くて澤山あつて」野々内は自分の頬髯を撫つつ、父「フム、頬髯が黒くて澤山あつて、其れから」蛭「其れから背が高くて」父「背が高くて」蛭「紺色の外套を襟まで〆めて」父は又自分の色紺[紺色の誤りか?]の外套を見廻しつゝ、父「感心に知つて居る、其れなら早く捕まへ相なものではないか」蛭「最う遠からず捕まへませう、昨日既に其の人をヘロン街の入口まで尾けて行つて見失ひ、今日も充分手配りが行渡つて居ると云ひますから」
父「では今も網を張つて居るかも知れん」と野々内は云ひ乍ら、突と窓の所へ行き、外の樣子を窺つて見やうとした、蛭峰は背後から飛び附く樣にして引戻した、其の顏を此 室の窓から出されて耐るものか、けれど野々内は早外の容子を見て取つた父「成程 其方の云ふ通りだ、向ふの角に三人ほど此家の入口を見張つて居る哩、其の中の一人は確に去年 己の兄弟分を捕縛に來た捕吏だよ」蛭峰は全く顏色を失ふた、蛭「エ、捕吏が此家の入口を見張つて居ますか」若し父野々内が 此室で捕縛されては、父の捕縛される事は構はぬけれど自分の身が大變である、蛭「阿父さん貴方は息子の身を亡ぼすのですか」と恨めしく打叫んだ、野々内は猶ほ顏中の髯の動きに微笑を浮べて 父「驚くな、驚くな、王黨の警吏に捕縛されるほど未だ此父は耄碌は仕て居ないから」
巖窟王 : 二二 一種の優形紳士
捕吏が早や門の外まで臨んで居るのに内で談笑自若として居るとは、實に何たる膽力だらう、之あればこそ一黨の中に重きを爲す事が出來るのだ。
父「此樣な事で捕はる樣なら、此の野々内は夙の昔に王黨の首切臺へ上つて居るワ」嘲りつゝ室の隅に在る化粧臺の前に行つた、何をするかと蛭峰が怪しんで眺めて居る間に彼れは剃刀を取出して、顏中の髯を丁寧に剃り初めた、凡そ廿分程も掛つたが、愈々剃り終つて鏡に向つた顏は唯だ口の上に華奢な八字が殘つた丈けで、色も白く年も幾等か若返つて一種の優形紳士である。
爾うして彼らは、紺色の外套と、縁の廣い帽子とを脱ぎ捨て、蛭峰の帽子と外套とを、合ふか合はぬか詮議もせずに身に着けた、先づ何うやら斯うやら似合つて居る、其の上に杖までも捨てゝ、呆れて居る蛭峰の前に戻り、父「己は再び皇帝(拿翁)の世と爲る迄、顏に剃刀は宛てぬ積りで居たのだが、遺憾ながら決心に背いたよ、恐らく己に髯を剃らせたのが王黨政府最後の手柄だらう」と又嘲つた。
蛭峰は聞咎めて、蛭「エ、最後の手柄とは」父「爾さ最後に極つて居るさ、皇帝が遠からず此巴里へ乘込むのだもの」蛭「貴方は其の樣な夢を見て居るから間違ひます、幾等横領者に鬼神の樣な技が有つても、僅に三十人か五十人連れて何うして此巴里まで進んで來る事が出來ます、上陸はしても二里と進まぬ中に捕はれます」父「ソレ其の樣に氣樂な事を思つて居るのが王黨の王黨たる所だよ、最う今頃は皇帝が丁度グレノブル關所より五哩離れた所まで來てゐられる時分だ、今月の十日か遲くても十二日にはリヨン府へ入込まれるのだ」蛭「入込めば人民が蜂起しまう」父「爾うさ蜂起して我先にと皇帝を歡迎するのさ、王黨の警察より — 我が黨の警察の方が餘ほど詳しく人心を探つてあるから」蛭「人心は孰れにしても早國王から陸軍大臣に命を傳へましたから、横領者を討滅の爲に今日の中に兵隊が出發するのです」父「其れが我々の最も希望する所さ、皇帝は巴里へ練込むのに正式の訓練を經た儀仗兵のないのを甚く遺憾に思ふて居られる、丁度其の派遣の兵が儀仗兵に充てられるから見よ、當時國王の武官兵士で、内心皇帝の歸國を熱望して居ぬ者は一人もない、名は討滅の爲めの派遣でも、派遣せられる其の人〳〵は第一に皇帝に忠義振を見せる積りで行くのだから直ぐに銃を巴里の方へ向けるに極つて居る」日頃餘り根のない事を云はぬ人が是ほどに誇張するのだから幾等か突留た所でもあるのかと蛭峰は幾分氣味が惡い、蛭「何うして其の樣な見込が附きます」父「見込ではない事實だよ、我黨には我黨の祕密警察が有つて、細大洩らさず探つてあるのだもの」租税を取立てる力もない祕密黨が、何うして非常な費用の掛る警察の如き機關を支へるのか蛭峰には合點が行かぬ、父は其の不審を察したのか、父「王黨の警察吏は月給で衣食を作るのだらう、我黨の警察員は自分で自分の家や衣服を食ひ減らして行くのだから、一日でも油斷しては居られぬ、向ふは何を調べても時日が掛れば掛る丈け旅費手當が多く取れる、我黨のは時日が掛る丈け自分の身が詰るのだから死物狂ひだ、向ふが十人で十日掛る取調べなら我黨は一人で一日に運んで了ふ、是だけ熱心が違ふから、王黨の知らぬ事を我黨は知つて居るのだ、其の證據には其の方が上京した事でも王黨の警察は未だ知るまい、蛭峰の宿は何處だか探れと云へば其の方が立つた後でヤツと報告する位だ、我黨の警察では其の方が巴里の門を入つて卅分と經たぬ中に知つて居る、其れだから己が其の通り此宿へ尋ねて來たではないか」眼前の證據に蛭峰は唯顏色を失ふのみである。
父は親子の眞情を發して、父「能く聞け蛭峰、其の方の國王への忠勤は時が惡かつた、若し其の方が皇帝の歸國を第一に國王へ知らせた人だと云ふ事が我黨總體に分つては、遠からず皇帝の政府と爲つた時に其の方は誰よりも先に免職せられる、幸に先づ其時には己が樞要の位置に立つのだから、何とかして免職だけは逃れる樣に取計らふて遣るけれど、決して其の方は、此上人に此度の巴里上京を知られては可けぬ、誰の眼にも觸れぬ樣、密に馬港へ歸り、裏口から官邸へ這入り、巴里へなどは行かなかつた樣な顏をして神妙に職務を執つて居よ、決して惡い事は云はぬ、爾すれば此次に上京の時は己の官邸へ車を着けても好いのだから、エ、今餘り熱心な王黨と分つては己に逢ふ事さへ出來なくなる、親子が政治上の主義を別にするのは仕方もないが、何うか餘り人前の惡くない位にして置いて呉れ、爾すれば己が顯位に登る時は其の方を保護して遣るし其の方が時を得た場合には又 己が保護もして貰はねば成らぬ、未だ自分の力も測らずに餘り極端な事はせぬが好いぞ」
一々蛭峰の急所に當る樣な言葉である、蛭峰は我れ知らず首を埀れ、默然と考へ込んだが、其の中に父は飄然として去つて了つた。
爾うと氣の附くと同時に蛭峰は遽てゝ窓の所へ行き外を覗くと、今出來立の優形紳士が、待ち伏せてゐる捕吏の前を平氣で、イヤ寧ろ嘲る樣な顏附で通つて行く所である、實に父の手際には感服せぬ譯に行かぬ、是を思ふと寧そ拿翁黨に宗旨を替へた方が好いか知らんと云ふ樣な氣も起きた。
何にしても父の誡め通り、此度の上京が餘り人目に着かぬ樣に、早く歸任する外はないと思ひ、直に此宿の拂ひを濟ませ、父の遺した杖や外套は煖爐に入れて燃して了つて馬車を雇ふて茲で立出で、彼の米良田伯に書かせた株劵公債の拂ひの依頼書を匆々に仲買人の店へ投込んで置いて馬港に引返したのは、氣味の好い樣な次第である、爾うして丁度 里昂府を過る時に、拿翁が無事にグレノブルの關所を越えたとの噂を聞いた爲、益々心が沈んで了つた、勿論任地へ歸り着いて、裏口から官邸へ入つた事は記す迄もない所である。
巖窟王 : 二三 百日間
全く、是よりして世の状は野々内に云つた通りに成つた、横領者 拿翁は孰れの土地にても歡迎せられ、疾風の勢を以て巴里に歸つた、眞に捲土重來とは斯る光景を云ふのだらう。
國王 路易十八世は夜逃同樣に王宮から逃げた、其の遽て方が何れほど甚かつたと云ふ事は、彼れが國王等を引見したチウレリー宮の一室には、彼れの吸さしの卷煙草が其のまゝ殘してあつて、拿翁が手づから之を卓子の上から摘み捨たと歴史の面に書いてあるので分る、何しろ其頃の彿國の樣に、國家の主人が屡代つた國はあるまい、國王の在位僅に十ヶ月で天下は再び拿翁のものとは成つた。
馬鹿を見たのは彼の蛭峰である、國王への忠勤の爲め、内閣大臣にも任ぜられるかと樂しんだのに引替へ今は其の過去つた忠勤を人に知らせてさへ成らぬ事に成つた。彼れが路易王から戴いた武官の勳章は、直ぐに後から内大臣が文官のと引替て送つたけれど、彼れは之を佩る事が出來ぬ、佩れば直ぐに疑はれて何の樣な目に逢はうかも知れぬ、併し其の中に又 拿翁が躓き倒れて路易王の治世と爲らぬとも限らぬ、其時の用意にと密かに箪笥の底へ仕舞つて置いた。
斯樣な譯で米良田家の令孃との婚禮も期限定めずに實行が延びた、若しも我父の野々内が朝廷の有力者と爲らなんだなら、無論免職と爲る所だつたゞらうが、父の威光で免職だけは免れた、爾して元の儘の檢事補で小さく成つて勤めて居る。
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世の状は斯う改まつたが、其れに就けても彼の團友太郎は何うなつたゞらう、泥阜要塞の土牢へ入れられた儘世の人から忘れられて了つたか知らん、さうだ忘れられたも同樣ではあるけれど平生愛せられた人々からは未だ忘れられぬ、中にも彼れの雇主森江氏は拿翁の復位と共に、直ぐにも放免せられるだらうと心待に待つたけれど、音も沙汰も聞えぬので、或日蛭峰の所へ催促 旁問合せに出掛て行つた。
無論蛭峰は丁寧に森江氏を迎へたけれど團友太郎の事を聞かれると、全く忘れた状で蛭「お待ち成さいよ、其樣な人がありましたか知らん」と云つて手帳の樣な物を繰返した末蛭「アゝありました」と答へた、森江氏は此人の物忘れに聊か呆れつゝも最と鋭く、森江氏「彼の捕へられたのは全く拿翁の歸國に關係したと云ふ爲ですから拿翁の復位と共に放免のみか賞與の沙汰をまで受けねば成りません、外の國事犯者は其れ〴〵放免せられたと聞きますのに彼一人は何うなりました」何うなつたのでもない、業に既に此蛭峰の爲に再び世には出る事の出來ぬ者として了はれたのだ。彼れは益々 忘假けて 蛭「何しろ捕はれた當日直ぐに私の手を離れ他へ移されましたから遺憾ながら私は何事も知りません」森江氏「貴方の手を離れて何處へ移されました」蛭「何處でうか通例アノ樣な國事犯者は、裁判所より以上の權力を以て、處分せられ、時には隨分何人にも分らぬ樣に遠い島へ隱されたりする樣な事もありますから是れは願書を認めて内閣へ直訴するが一番の近路でせう、裁判所や監獄の官吏にお聞き成さつても無益です」森江氏は全く落膽して「願書では何時埒が開くか知れません、毎日内閣に集まる諸方からの願書が二百通の上もあつて内閣大臣が之を讀むのは三通を越えぬと云ひますもの」蛭「イヤ其れは普通の願書の事です、特別に私が奧書を附けて、官の書類として私から轉送すれば、外の願書より先に取扱ひます」森江氏「では貴方方が其れ丈けの手續を運んで下されませうか」蛭「ハイ外ならぬ貴方の事ゆゑ」
森江氏は此の親切を喜んだ「シテ願書は何の樣に認めます」蛭峰は尤もらしく考へ「私が奧書を附けるには餘ほど當人が横領者イヤ皇帝の爲に著しく働いた樣に書いて置かねば可けません、餘り輕々しい罪人の樣に書いては、何で此樣な者に檢事補が奧書したかと疑はれます、のみならず忠勤の厚い者だけ早く放免して呉れますから」森江氏「願書は何の樣にでも貴方のお差圖通りに認めます」蛭「では私が口授しますから、其の文句の通りにお書き成さい」とて紙筆を森江氏に渡した、勿論氏は進んで其の言葉に從ふた。
其の文句には團友太郎の事を「熱心に心を皇帝に寄せたる忠勤者」と書き、彼れが一命を抛つても皇帝の密書を屆け先まで屆けんと企てた樣に記した、出來上つて讀直して見ると、宛で友太郎が、皇帝の歸國に就き、實際危險な働きをした一人の樣に見える、實は蛭峰は之を我手へ握り潰して置いて、他日再び國王の時世とも爲つた日に我が手柄を申立る一ヶ條に加へる積なのだ。
けれど爾う疑はれては成らぬから、又も尤もらしく思案して蛭「併し森江さん此の當人は — 」彼れは自分の氣が咎めるから團友太郎の姓名を口にするのさへ恐れて、唯「當人」としか云はぬ、友太郎の名が腹の底を針で衝く樣に徹へるのだ蛭「此の當人は既に何處かで放免せらたのでは無いですか」
森江氏「放免せられたなら直ぐに私の許へ歸つて來る筈です、決して未だ放免せられては居ません」蛭「では直ぐに此の願書を内閣へ轉逹致します」
斯うウケあつて森江氏を歸したけれど、轉逹せぬ願書の效目のある筈がない、此後森江氏は矢つ張り蛭峰の手を經て三度まで追願を發した、爾うして其間にも蛭峰を尋ね「餘り貴方の御親切に甘える樣ですが」と前置を置いては催促した事が幾度と云ふ數が知れぬ、けれど其度に蛭峰の巧な口先に瞞められて了つた。
其の中に悲しや百日の日は經つた、拿翁の再度の治世が百日間で有つた事は、歴史家ならずとも一般讀者の知つて居る所である、百日の後、拿翁は、音に名高いウオタルーの最後の敗軍の爲め、今度は二度と歸る由も無き、セントヘレナの孤島へ送られた、英雄の末路、悲しむ可きではあるが、是は自業自得である、是よりも猶ほ悲しむ可きは、之が爲めに全く此世に救ひ出される見込みのなくなつた團友太郎である、前途限りのない、十九歳の少年で、地の底深き土牢の眞暗な室の中に身を動かす空地もなしに生涯を送るのだ。
巖窟王 : 二四 監獄巡視
拿翁の再度の島流しと共に、再び前の國王 路易十八世が位に復つた、蛭峰は時こそ來れと直ぐに箪笥の底から彼の勳章を取出て胸に輝かせることになつた。
爾して許婚の儘で婚禮の延びて居た米良田令孃禮子とも直ぐに婚禮を濟ませた、けれど其の割に彼れは出世しなかつた、多分彼れが國王の蒙塵の間辭職もせずに拿翁の政府へ踏留まつて居たので國王の信用が減じたのであらう、王黨の有力者の中に彼れの留任を多分は父のお陰だらうと見て取り非難した人もあつた、勿論彼れは國王に向つて、自分の彼の時の手柄を仄めかし、暗に出世の催促もした、幾分か強迫の意をも用ひた、爾して自分の握り潰してゐた森江氏の願書なども參考品と云ふ積で國王に呈し、團友太郎が何れほど危險な國事犯者であつたかを思はしめた、其れや此れやで、彼れはヤツと檢事補の「補」の字だけを取除く事が出來て、末席ながらも唯の檢事となり、任所もツーローンと云ふ所へ移された、是でも榮轉の中ではある。
森江氏は最早や團友太郎を救ひ出す望みが絶えた爲め、殆ど自分の子でも失つた樣に落膽し此後は少しも樂しい月日とて無く暮した、併し森江氏よりは猶ほ落膽の甚だしいのは、友太郎の父である、次は許婚のお露である。
此外の人々譬へば段倉や、次郎や毛太郎次は何うしただらう、段倉は拿翁が愈々歸國して帝位に復すした時に、直ぐにも友太郎が牢から出て必ず自分へ復讐するだらうと思ひ逃げる積で森江氏から添書を貰つて西班の或商人に雇はれた、折角友太郎を陷穽に入れて自分が其の後の船長に取立てられてゐたのに不義の富貴は長くは續かなかつた、併し彼の樣な、轉んでも只は起きぬ男だからその中に又出世して何處からへ顏を出す事になるだらう、次郎の方は只管にお露の機嫌を取り出來る限りの親切を盡してゐたが拿翁の最後の徴兵令を發した時、又も兵隊に驅り入られ、ウオタルーの戰爭にも望んだ、併し彼れのお露への親切は全く甲斐のない譯ではなかつた、お露は友太郎の行方が分らなくなつて以來唯だ心細く思ふ所へ、兄同樣の次郎から日夜に慰められるので、幾分其の親切を感じ、次郎が兵隊には入つて立つ時には「何うか兄さん、御無事に早く歸つて來て下さいよ」と云つた、勿論斯る場合に從妹として當然發す可き言葉ではあるけれど、其の調子が何とやら次郎の耳へは、當然よりも以上の温かさを含んでゐる樣に聞えたので、彼れは無事にさへ歸つて來れば何うにでもして此女を妻にする事が出來るだらうとの幾分の好望を抱いて出發した。
毛太郎次も一時は兵隊に取られた、けれど彼れは年も次郎より八歳も上で且は妻もある身ゆえ實戰の場所へ出される樣な事はなく、唯運搬などの事務に使はれ、其れも僅に二ヶ月ばかりで歸された。
兎に角も斯樣な樣で、少しも馬港を離れなかつたのは友太郎の父とお露と森江氏ぐらいのものであるが、父の方は路易王の復位より二ヶ月目に、失望の餘りに病となりお露の手に介抱せられて亡くなつた、其の葬儀一切は總て森江氏が引受けた、當時森江氏の地位として、國王から國事犯人と目指されてゐる者の父を斯く迄世話する事は非常に危險な譯であつた、けれど氏は、此の世話を自分の務めと思ひ、務めの爲めには何の樣な危險でも構はぬと云つて見る人々の感心する程に盡した、若し此 状を友太郎が知る事が出來たなら、定めし感涙に咽んだらう。
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けれど友太郎は勿論此 状を知る事は出來ぬ、地の底 幾間の穴の中に、埋まつた樣に入れられてゐて此 状ばかりでなく總て人間浮世の状を、風の便りにも聞く事は出來ぬのだ、路易王の復位して一年の後であるが政府から各國へ監獄巡視の官吏を派遣した、泥阜の要塞でも巡視官を迎へる爲に、典獄が先に立つて樣々の準備を初めた、多少の普請もする、客室も作る、先づ此荒果た要塞に取つては幾年來例のないことである。
友太郎は穴の底で微に此物音を聞いた、尤も物音の聞える樣な穴ではない、頑丈な建物の奧深い所に在るのだから、人間の物音は一切聞えぬのだけれど、其の中に居れば自然と視官聽官が鋭くなる、長く此の土牢にゐる人は、此建物の屋根の端から、下の海の面に落ちる雨流の音までも聞取ると云ふ事だ、可哀相に友太郎も最う爾う成り掛けてゐる。
巡視官は間もなく着いて、牢の室々を殘らず廻り、親しく囚人一々に就いて何か訴へる事はないかと聞いた、何の囚人も、何の囚人も返辭は全く一つである、無實の罪で捕はれたから早く放免して下さい、賄が惡いから健康を害します、是より外に何の訴へる事もない樣だ、巡視官は典獄に向ひ、巡視官「政府が全國の囚人を視察させるのは無益です、一人を見れば萬人を見たのも同じ事です、此外に幾等か容子の違つた囚人は有りませんか」と問ふた、典獄「アヽ、あります、あります、發狂して牢番などに危害を加ふる恐れのある爲め、土牢の底へ入れてあるのが」と思ひ出した樣に答へた。
貴重な人身を地の底に埋て置いて、殆ど忘れた樣でゐるとは、忘れられる者こそ災難である、巡視官「では土牢に降りて行つて見ませう、薄暗い所でせうネ」典獄「殆ど眞暗です、尤も暗い所に慣れて、囚人の方は爾ほどに暗くは思はぬ相ですが、吾々には、燈光なしには迚も行かれません」巡視官「では何うか燈光の用意を」
巖窟王 : 二五 二人の囚人
頓て燈光の用意は出來た、巡視官は直に土牢を指して立たうとした、典獄「少しお待ち成さい、囚人が何の樣な暴行を働くやも知れませんから、吾々は護衞の爲に兵卒を連て行かねば成りません」斯く云つて牢番に兵卒を迎へさせた。
兵卒に來る間に、巡視官は又尋ねた「土牢には幾人居ります」典獄「卅四號室に一人、ズツと離れた廿七號室に一人」巡視官「都合二人ですな」典獄「ハイ土牢へ入れて置く樣な重大な罪人は爾う澤山はありません、尤も昔は一時に四十人も入れられたといひますけれど、私が赴任して以來は、一番多い時が三人でした、時によると一人もない事もあります」巡視官「今ゐる囚人の名を何といひます」典獄は漏す可からざる祕密をでも漏す如く聲を潛めて「廿七號室にゐるのが伊國の梁谷法師といふのです」巡視官が聊か驚いた容子で「アヽ彼の伊國統一を企てた、有名な革命者が此牢に捕はれてゐるのですか、先年彼れが捕縛された事は聞きましたゆゑ、無論何處かに閉ぢ込められてゐる事とは思ひましたが此牢とは知りませんでした、シテ今一人は」典獄「ハイ今一人卅四號室にゐるのは、是も矢張 梁谷法師に劣らぬ程の國事犯者でせう、其の筋の命令が中々嚴重でした、姓は團、名は友太郎」
巡視官「此方は聞いた事のない名ですな」云ひつゝ手帳を出して二人の名を書記した。
是れ此の二人の囚人が此の長い物語りの根本である事は、更めていはずとも、讀む人の既に察してゐる所だらう。
其の中に、巡視官へ一人、典獄へ一人合せて二人、護衞の兵士が、劍の附いた銃を肩にして牢番に隨て來た、「サア」といつて巡視官は立上つた。
土牢の入口は穴倉の入口の樣なものである、石を甃んだ廊下から下へ入るのだ、勿論廊下の入口に重い戸があり、廊下から土牢へ行く入口に又戸がある、二重にも三重にも鎖されてゐる、第一の大戸から既に暗くなつて、第二の大戸を拔けると、早濕りを帶びた土牢の臭氣が分る、巡視官は進み兼ねて 巡視官「此樣な中に能く人間が活てゐられますネ」といひ、躊躇した上又進んだ。
穴の底に土塊の如く蹐がんでゐた團友太郎は、尋常ならぬ物音に、振り向いて見ると、毎も來る牢番が燈光を持て、二人の官吏を案内してゐる、傍に兵隊も附てゐる、此樣では其の一人は多分典獄、一人は典獄より上の役人に違ひないと察した、早一行が此穴の中へ、戸を開いて入り込んで來る。
アヽ友太郎が、唯だ一度典獄に逢ひ度いと思つたのは幾月幾囘ぞ、今は典獄より猶上の役人が來たとあつては又と得難い場合である、茲で自分の事情を述べねば何時の日にか又思ひを遂げる事が出來やう、彼れは全く我を忘れて、飛び附く樣に巡視官の前に進んだ、二人の兵士は直に友太郎の胸に劍の先を突附けた、巡視官は、此囚人が狂人と聞いてゐる丈に、驚き恐れて三歩ほど背後に退いた。
巡視官「成るほど危險だ、暴行の容子が見える」友太郎は此語が耳に入ると共に、「今狂人と思はれては萬事休する事と思ひ、友太郎「イヽエ、私は狂人ではありません、暴行などは決して致しません、此牢に入れられて以來、何うか典獄にお目に掛り度いと、聞分けのある人に自分の事情を、唯だ一言で好いから陳じ度いと、此の牢番に言出た事が幾度あつたか數を知りません、牢番の來る度に其れより外の言葉は殆ど吐いた事はありませんのに、今に至る迄、其の願ひが屆かず、唯だ此身の不運不幸を歎いてのみゐましたが、今は計らずも、高官と見受けるゝ貴方方の來臨を得ましたから、今こそ云はねば成らぬ時と、我知らず飛び立たのです、何うか私が發狂せねば成らぬ位地には立つてゐても、未だ發狂はしてゐぬ事をお認め下さい、其の上で私のいふ言葉をお聽き下さい」
是だけの順序ある言葉を吐く者が、何で狂人であらう、巡視官は典獄を顧みて巡「如何なる狂人でも、正氣に復つてゐる時間があると聞きますが、今が此囚人の、正氣に歸つてゐる時間でせうか」典獄は帽子を脱いで手に持つてゐる、爾して其の露出の頭を幾度か埀れて典獄「爾です、爾です、發狂する程の者は、其の發狂でない時間には普通の囚人より餘ほど順序を能く立てゝ物をいひます、先刻申た第廿七號の如きも、此囚人と同じ經過でした、丁度此樣な時があつたのです」友太郎は此言葉で愈々此人を典獄と知り、今一人を典獄の上を取締る中央政府の人と知つた、友「若し私を猶ほ發狂と思召すなら如何なる事をでも問ふてお試し下さい、決して私の心の未だ狂つてはゐぬ事が分りますから」言葉の中には、無限の恨みと切に懇願する樣な調子とが現はれてゐる。
巡視官「イヤ兎に角今は狂人とは思はぬ、其の方の言ふ事を、誠意の言葉として聞いて遣るが、其の方は賄を改良して慾いとでもいふのか」友太郎「イヽエ賄は結構です、此土牢の中で幾年經つたか知りませんが此通り活てゐるのは賄の惡くない爲であるとお思ひ下さい」實に意外な返辭である、外の囚人には全く類がない、巡視官は聊か注意の度を増した容子で「では罪がないのに捕はれたといふのか」友太郎「罪があるかないか、其れは取調べを受けねば自分にも分りませんが、兎に角一度取調べて下さいと願ふのです、私は何の取調べも裁判も受ず、自分で何の爲とも知らずに此土牢に入れられたのです、斯ういふ譯で牢へ入れると唯一言の宣告さへ受れば、幾年牢へ入れられても厭ひません、何うか宣告を願ひます、宣告を、爾して其の上で如何やうにも處分して頂きませう」益々異樣な言立である、異樣ではあるが無理ではない、巡視官「では其方は何の裁判も受けなかつたといふのか」
全く裁判を受けないのだ、裁判を受けずして年限も分らずに土牢の中へ幽せられる、是れ友太郎ならずとも耐へ得ぬ所である、若し裁判をさへ受くれば、必ず我身に罪はない、放免せられるに極つて居ると友太郎は思つて居るのだ。
縱しや無罪に成らずとも、裁判をさへ受ければ幾年間禁錮するといふ期間だけでも分る、期間が分れば、何れ丈けの辛抱で苦痛が終ると自分の心で當にする事が出來るのだ、切ては其れ丈の當でも得たい、何の當もなく何の期限も分らず全くの暗の状で此私の暗の土牢に閉ぢ込められて、是れが何うして耐へられやう、爾れば彼れは巡視官の問ひに答へ、「ハイ未だ裁判も宣告も受けぬのです、宣告を聞く外に、私は何の望みもありません」實に憐む可き望みであり、巡視官も聊か心を動かしたらしい。
典獄は其れが辛いのだ、巡視官が此囚人を狂人でない樣に思ひ、狂人でないのを狂人扱ひにするのかと思ふては、典獄自身の此後の出世にも障る、彼れは急いで友太郎に向ひ「其方は大層穩和に成つたなア此牢番を床几で叩き殺さうとした頃は此樣ではなかつたが」友太郎「ハイ彼の時は入り初めでまだ氣が立つて居たのです、永い入牢で私は其樣な勇氣もなくなりました、全く心が挫けて了つたのです」巡視官「永い入牢とて其方は何時捕はれた」友太郎「千八百十五年二月廿八日の午後二時の婚禮の席から」巡視官「今が十六年六月三十日だから、十七ヶ月に成つたのだな」友太郎は驚いた「私が入牢してから未だ只た十七ヶ月にしか成らぬのですか、私は數十年の長さを感じます」巡視官「獄中の月日は長いだらうよ」友太郎は感慨に堪へぬ調子で「長い筈です、私は船長になる約束を得、其上に最愛の女と結婚する事になつて、明日と云ふ日は何れほどか樂しからうと、生涯の最も嬉しい時に成つて居まして、其の時突然捕縛せられたのです、其後の事が何う成つたか、此後が何うなるか少しも分らず、其れに日頃が、限りのない廣い海の上を我家とし晴々と暮した水夫ですもの、其れを此樣な暗い所へ入れて置くとは、縱しや何の樣な罪が有つても餘りに罰が重過ます」心が其儘、口へ溢れて出る樣に聞える。
全く巡視官は同情を催した、默然とはして居るけれど其の容子は爭はれぬ、友太郎は力を得て「何うかお願ひです、貴方のお力で、裁判を受けられる樣にして下さい」
巡視官「此方の力で直々に汝を何うする事は出來ぬが、兎も角も何とか仕樣の有るものかないかも調べて見やう」友太郎は平伏して「有難う御座います」眞に巡視官の一語が何れほど彼に有難かつたか知れぬ。
巡視官「シタが其方は、捕はれて誰の手に掛つた」友「蛭峰檢事補の手に掛ました、アノ方にお聞き下されば」巡「蛭峰氏は夙にツーロンに轉任した、今は聞くにも此 馬港には居ぬ」友太郎は合點が行つた樣に叫んだ「其れで分りました、アノ方が居ぬから私は此樣に捨置かれるのです、アノ方さへ居て呉れゝば — 」アヽ彼れは未だ蛭峰を恩人か何ぞの樣に思つて居る、此言葉を若し蛭峰に聞かせたなら、彼れも慚死しても足らぬ程に氣が咎めたことだらう、巡「蛭峰當人は居ぬにしても、何か其の方の事に付き其人の書いたものがあらうと思ふ、蛭峰の書いたものなら全く信を置いて好いのか」友「ハイ彼の方が私の件に就て書いたものなら少しも間違ひはありません、全くお信じ下さつて好いのです」此言葉が何れほど自分の身に害になつたか、知らぬのが情ない。
巡視官は呑み込んだ樣で此室から立つた、典獄も兵隊も、牢番の持つて居た燈光も一時に去つて、室は元の通りの暗には成つたが、其の中で友太郎は、幾分か明い所が出て來た樣に感じた、今までは全くの絶望、全くの斷念で居たのだが、今は或は助かるか知らんとの望みが出來た、大に過ごし易い樣な氣がし始めた。
けれど、未だ知らぬのだ、生なか此望みの出來たのがん、何れほど辛さを増すかも知れぬ、遂げぬ望みを抱くのは、絶望と斷念の辛さより遙に甚い、可哀想に彼れ友太郎は又此の望みの出來たが爲に、境遇が一入切に苦しくなるのだ、遂げぬ望みと知らずに居る中が幸かも知れぬ。
典獄は茲を立て幾間か進んだ後、巡視官に向ひ「今の囚人に關する記録をお調べに成りますか」巡「無論調べます、けれど今一人の囚人を見た上で、茲で出ませう、一旦出ては迚も再び入て來る勇氣は起きませんから」實に其通りである、縱や巡視の爲にもせよ、誰が二度と此の暗黒な陰氣な濕り臭い所へ入つて來る氣になるものか、巡「次の囚人は餘ほど竒妙な發狂です」巡「先刻お話しの梁谷法師でせう」典「爾です、彼れは發狂して以來、獄中の苦痛を感ぜぬ事に成つたと見え、暴れもせねば訴へ事もせず、爾して身體などもズツと肥えて來ました」巡視「左樣、此樣な土牢に居る者は、發狂して何事も知らず感ぜずと云ふ状になる方が餘ほど幸でせう、シタが梁谷は何の樣な發狂です」典獄「實に可笑しいですよ、彼れは牢の外へ莫大な寶を置いて來た樣に自分に思ひ詰めて居るのです、其中を百萬圓だけ政府へ分て遣るから、何うか其れで自分へ自由を賣つて呉れと云ふのです」巡「成るほど、百萬圓の賞金を出すから放免して呉れと云ふのですね」典「爾して此額が年々に上るのです、初めの年は百萬圓と云ひ次は二百萬圓だけ差出すといひ三年目には三百間圓分るからといひました、今は三年目ですから、貴方が行けば必ず、祕密の面會を請ひ、五百萬圓だけ差出すからといひますよ、イヤ其の言ひ方が「如何にも熱心で、如何にも誠らしいから竒妙です」いふ中に早其室に着き、牢番に戸を開かせて一同其の中へ入込んだ、中の囚人は果して何の樣な人だらう。
巖窟王 : 二六 例の五百萬圓
梁谷法師、梁谷法師、此の名高い人の名は歴史を讀んだ人は知つて居る筈である。
伊太利と云ふ國を一つの國家に固めて了つたのは、誰もガリバルヂやカブールの手際だと思つて居る、けれど其前に猶だ人がある、伊國の統一を唱へた人と、其統一の實行を試みた人と、即ち梁谷法師が其の一人なのだ。
極古い所では有名なマキヤベリ、之は統一論者で、次は毒殺とか毒藥とか云ふ事の元祖の樣に思はれて居るシーザア、ボルジオ、是は統一の實行者である、是等の人々の頃から目論まれて居る事を、梁谷法師が遣り掛けて失敗し、ガリバルヂやカブールが受繼いで成功したのだ、成功すれば英雄豪傑、失敗すれば只の人、イヤ只の人よりも猶劣る、牢の中で死んで了ふのだ、之を思ふと憐れなものである。
けれど彼れ梁谷法師は、失敗しても只の人ではない、彼れが宰相スパナダの後裔たるスパナダ家の書記生から何の樣に身を起したか、彼の辛抱、彼れの奮發、彼れの知識、彼れの學問、到底他人の及ぶ所ではない、殊に其道徳も堅固であつた、爾うして法師の身ながら政治の事を憂慮する、恐らくは日本の日蓮にも比す可き人で有つたのだらう。多分其樣な生れ附で有つたに違ひないが、唯途中で躓いた所を直樣捕へられて、土牢に底に埋められ、再び世に出て元の儘の仕事を繼ぐと云ふ事が出來なかつたので、持つて生れた半分の腕前も人に認められずに終つたのだ。
巡視官が此梁谷の居る土牢の中へ入つた時、此法師は、壁の毀れた赤土で石の床へ丸い輪を書き其中へ幾何學の線を引いて、一生懸命に考へて居た、巡視官の足音にも氣の附かぬ容子であつた、全體牢の中の人が、線を引いたり角度を計算したりするのは、動もすると、其實壁の厚さを測量したり、建物の中の屈曲を考へたりして居る者で、牢破りの下地であると、通例の典獄ならば見て取るのだけれど、此の泥阜の土牢ばかりは、到底人間業で破る事が出來ぬのだから其の樣な心配はない、之を破るには地球を破る力が要るのだ、其れに此法師が既に狂人と思はれて居るので、猶更典獄も此人のする事に深い意味のある樣にも思はぬ。
併し彼れ梁谷は牢番の持つてゐる燈光が自分の書いて居る線の上に光を及ぼすと、同時に顏を上げ、見慣れぬ高官の來たのに驚いた、驚くと同時に彼れは自分が五年來着替た事のないボロ〳〵゛の着物を着て居るのを耻ぢたのか、直に寢臺の上敷を取つて身に卷いた、唯此一事でも彼が仲々何事にも能く氣の附く事が分る。
巡視官「何か其の方の願ひ度い事はないか」と問ふに答へて「何もありません」是れも意外な答へである、團友太郎の返辭と同じほど巡視官を驚かせた、巡視官「其の方は未だ此方が何者と云ふ事を知らぬのだな、此方は中央政府から故々各地の囚人を視察の爲に派遣せられたので — 」梁谷の眼は此言葉に初めて熱心の光を放ち「左樣ですか、其れでは大に申上げる事があります、典獄に幾度言ひましたとて人を識る眼がなく、徒に狂人の言と聞流して了ひますから — 」典獄は巡視官の背を突いて「ソレ初まります、例の五百萬圓が」と細語いた、梁谷は此樣な事には氣も留めずに言葉を續けて「實は典獄以上の方の來る時を、祕かに待つて居たのです、巡視官の見えましたのは實に千載一遇の思ひが致します」
是も狂人にしては餘り言葉が調ひ過て居る、典獄「言葉の旨いのに欺されては可けませんよ」と又も小聲で注意した、巡視官は輕く點首いて置いて「何うも典獄を無視にして言立ては、主人の相當でないのだから其儘に聞く譯にも行き難いが、此牢の食物は何うだ」法師は此問を賤しむ容子で「エヽ食物は何うも料理店の樣には行きませんが、先土牢並だと思ひます、其の樣な細事ではなく、私は一身にも國家にも更に重大な事件に就きお願ひがあるのです」典獄は傍より、自分の豫言が當つて來るのを自慢する状である。
「愈々五百萬圓ですよ」巡視官「國家は土牢の底に居る囚人から何も重大な忠告を受る必要を持たぬだらうよ」梁谷「必要、不必要の鑑定はお聞取りの上に願ひ、兎も角も、人を退けて貴方と差向ひの懇談を願ひ度いのです」獄「ソレ、ネ」巡「其樣な事は出來ぬ」梁谷は聊か失望の體である、暫しの間ど考へて「イヤ、其れならば止むを得ません、典獄の居る所で申ませう」と云ひ、更に言葉の調子を重くして「私の言葉は一言一言皆眞實ですから其積でお聞き下さい、私は在所に巨萬の財貨を隱してあります、私が牢氏すれば、誰も其の寶を知る者がなく、遂に地中の物と爲つて了ひます、何うか私は其中の五百萬圓を政府に納めて、其の賞として牢から出して頂き度いのです」
金高までも典獄の豫想した通りであるので、巡視官は心の底で笑んだ「其れは非常な大金だ、全體何處に隱してある」梁谷「茲から凡そ百里ほどの所です」典獄は傍から「百里も行く中には何度でも逃亡する事が出來る、今まで幾等もある手ですよ」巡視官「其金は其の方の物であるか」梁谷は少し澱んだが「勿論私の權利です、私より外に、其の金を知る者が無く、縱しや知つたとて己の物だと云ふ權利のある人は、今は此の世に一人もないのです」巡視官は典獄に向ひて「イヤ成るほど言葉が誠しやかだ、前以て貴官の話を聞いて居なかつたなら全く釣込まれる所ですよ」梁谷「私は深く宗教に歸心して居る法師です、私が虚言を吐くとお思ひですか」法師は全くの法師でも土牢の中に居て此樣な事を云ふは、餘り場外れの樣に聞える、土牢から出る爲には幾等法師だとて虚言を吐くを厭ふものかと、巡視官は此樣に思つた。
巖窟王 : 二七 此外の處分なし
誠の事を云ふのに嘘と思はれ、熱心に爭へば發狂の爲と云はれる、是ほど情ない事が有らうか、梁谷法師は典獄と巡視官とに向つて云つた「私が入牢以來、此大金の事を云ふは殆ど貴方に逢ふ毎ですが、嘘ならば此樣に、四年も五年も變らずに繰返す事が出來ませうか、發狂ならば此樣に一つの思想が少しも紊れずに永續する事が出來ませうか」
同じ狂人でも場所や境遇が替らぬ以上は容體も思想も幾年經つても變らぬのが幾等もある、此言葉は未だ巡視官を動かすに足らぬ。
尤も巡視官の動かぬのも無理はない、其樣な大金が誰も知らぬ所に隱されてあらうとは思はれぬ、有つた所で此法師が唯一人知つて居る筈もない、先づ普通の考へで云へば誰でも嘘とか狂人の言葉とか看做すのが當然である、況して此手で逃亡を企てるは幾等も囚人に例のある事なのだ。
法師は全く悔しさに堪へぬ状である「縱しや狂人の言葉にした所で、實地に試して見れば好いでせう、何うか私を、嚴重に縛つた上で其處まで連れて行つて下さい、爾して私のいふ所を掘つて其の大金が出なかつたら、元々ではありませんか、其の時は私を縛つた儘で此牢に連れて歸り、生涯狂人扱ひにして好いでせう、試して見ずに、初めから私の言葉を嘘とするのは餘り分らぬ仕方です」
巡視官「其樣な寶があるなら、其方が放免せられる時まで、默つて獨りで隱して居るが好からう」梁谷「若し私が牢死すれば何う致します、可惜其の大金は埋沒して終ります」巡視官「政府は其樣な金を豫算に入れて居ぬのだから埋沒したとて惜みはせぬ」法師は全く失望した「アヽ何とか貴方がたに信ぜられる樣な言葉はないのでせうか」
實に其の樣な言葉がないのだ、法師は思ひ附いた樣で、「アヽ斯う致しませう、私が必ずしも其の場へ行かずとも、何處其處と言葉で云へば其の場所は明かに分りますから、何うか私を此牢へ置いた儘で、貴方が行つてお掘り下さい、爾して果して其の金が有つたら、其の中から五百萬圓を引去つて爾して私を放免して下さい、茲で貴方が宜しい爾すると名譽に賭けて誓つて下されば、私は貴方の誓ひを信じ直ぐに其の場所をいひますから」如何にも尤もな考へである、是より以上に、誠と思はれ相な言葉はない。
是れが若し昔の國王が政府ならば、兎も角も言葉に從つて其の場所を調べて見る位の手續きはしただらう、昔の國王は全く自分を神聖の者と信じて居て、自分のする事に間違ひはないと思ひ、若し笑ふ者が有つたら直に捕へて刑に處したが、今の政府や王樣は爾うは行かぬ、世の物笑ひといふ事を、痛く恐れる、若も一囚人の言葉を信じ大金があるものと思つて實地檢査の役人を派出したと分つては、其れが爲に位置の土臺が覺束なく成りもする。
巡視官は最早聞かぬ振で、「此牢の食物は何うだ先刻の返事では能く分らぬが」梁谷法師「五百萬圓を六百萬圓にしても、實地をお調べ下さる事は出來ませんか」巡視官「食物は何うだと問ふのだよ」法師「其の額を倍にすれば何うでせう一千萬圓に」巡視官「此方は問には答へずに」法師「貴方もです、私の問には答へず、ナニ耳有つても節穴同然の人に最う何事もいふに及びません、政府は私の訴へを聽いて呉れずとも、神は必ず、遲かれ早かれ聽いて呉れます」
斯う云つて身に纒ふて居た寢臺の上敷を元に復し、再び床に俯向いて、先ほど書き掛けて有つた幾何學的の計算に又取掛つた、巡視官の言葉も耳には入らぬ。
巡視官は典獄に向ひ「何を計算して居るのだらう、數字など書いてあるが」典獄「例の寶を數へて居るのでせう、何時でも斯うですよ」巡視官「此法師は入牢の前に其の樣な大金を得相な場合でも有つたのだらうか」典獄「得た夢を見たのでせう、爾うして氣が違つて目が覺めたのですアハヽヽ」と自分の洒落に感心する樣に笑つた。
何だか巡視官は氣に掛る所が有る、牢を出つゝも「ハテナ、彼が莫大な軍用品を集めた譯でもなし其とも彼の仕へて居たスパナダ家に昔から其の樣な大金でも」と呟くは何も法師の状に發狂とのみも思はれぬ所が有る爲である、頓て思ひ切つた樣に、「いや、スパナダ家は彼れの通の貧乏だつた矢張嘘を云つて居るのだ」斯う云つて去つて了つた、是れで此梁谷法師の願ひの脈が全く絶えた。
此後で巡視官は、團友太郎への約束を守り、典獄の許へ在る囚人の記録を調べて見た、團友太郎と標題を附けてある一個條は手蹟が他と違つて居る、是れ丈は代理檢事蛭峰が書いたのだ、殊に罪状として記してあるのは左の通りである。
團友太郎
拿翁の歸國に最も力を盡したる一人、過激なる王朝轉覆論者、放免せば人心煽動の恐れあり、公に裁判するは非常の危險ある見込。
裁判に引出してさへ人心を激動させる恐れがある、成るほど是では裁判に附せぬのも無理はない、斯樣な危險の人物を單に人間社會から取退けて、人の知らぬ所へ隱して了ふのは、猶だ此頃では政府の祕密政略と爲つて居た、況してや囚人自らが恩人の樣に認めて居る蛭峰檢事補が是れを書いたのだから能々の事に違ひない、巡視官は自ら筆を取つて、右の記録の餘白へ「如何とも此外の處分なし」と、書添へた、是れで團友太郎の脈も絶えた。
巖窟王 : 二八 卅四號、廿七號
「如何とも此外に處分なし」と巡視官の書添た語で全く友太郎の脈は絶えたけれど、友太郎自身は爾とは知る筈がない。
今にも自分が裁判に引出されるかと思ふと、絶望した身に聊かの勇氣が附いて來た、裁判をさへ受ければ此身は放免せられるに極つて居ると、此樣に思ふて居るのだ、縱しや放免せられぬにしても宣告の文言に依り自分が何時まで牢の中に置かれるといふ期限が分るのだ、是だけでも今の身に比べれば非常な幸福である。
のみならず裁判所へ連行かれる道だけでも廣い天を仰ぐ事が出來る、外の新しい空氣を呼吸する事も出來る、アヽ青空、アヽ空氣、人間と生れた者に、天然に許されて居る天と空との二つさへ、土牢に居る身に取つては非常な賜の樣に感ぜられる。
只此感じの爲に、氣の持方、身に振方も輕く爲つた、今まで月日と云ふものを知らず又知らうとも思はなかつたものが、何うか月日だけは最う忘れぬ樣に仕たいと思ひ、巡視官から千八百十六年の六月卅日と聞いたのを元とにして壁に一日一日、一本づつの筋を附け之を算へて今日は幾日と見定める事にした、其の筋は矢張り壁の毀れ赤土を以て附けるのだ。
一週間經てば筋が七本となるのだ、其の七本を越えぬ中に何とか巡視官から沙汰があるに違ひないと、毎朝 寢臺から起きて降るのが樂しい樣に成つた、爾して走り寄つては壁の筋を數へた、是れが彼れの土牢へ入れられてからの初めての樂しみで有つたが、悲しや此樂しみは更に苦しみを深くする前置たるに過ぎなかつた。
七日は經た、音沙汰が無い、八日も九日も十日も經た、彼はソロ〳〵燥れ初めた。十五日二十日、三十日、アヽ何と待遠い事であらう。
オヽ、自分の考へが惡かつたと、獨り思ひ直したのは一月の餘經つた後である、如何に巡視官が請合ふたとて、旅先の事だもの何と處分が出來るものか、必ず巴里なる中央政府の許に歸り、中央の裁判所か司法省へ言立て其の上に何とか手續きをして呉れるのだらう、多分は全國の監獄を廻るのであらうから、二ヶ月經たねば、巴里へ歸るまい、爾だ二ヶ月、待遠くはありけれど二ヶ月待つた、イヤ三ヶ月か知らん、三ヶ月待つたけれど便りがない、終に半年、終に一年。
一年の後には元より猶甚い絶望の底に沈んで了つた、巡視官さへ此身を見捨てたのだ、其れとも巡視官が來たと思つたのが夢でゞもあつたのか知らん、實際來た事のない巡視官を、來た事のある樣に、自分の氣の狂ひで、思ひ違へたのか知らんと自分で自分を疑ふに至つた、心が是だけ微弱になつたのだ。
其の頃に、今までの典獄が他に轉任して新な官吏が其の後任と爲つて茲へ赴任した、舊典獄は大抵下役を引連れて去り、新典獄の方は一々囚人の名を覺えるといふ事が面倒でならぬ、其れが爲に今まで團友太郎として知られて居た此土牢の囚人は總ての囚人と同じく、名で呼ばれずに室の番號で呼ばれ「卅四號」といはれる事になつた、梁谷法師も同じ事である、之は「廿七號」と名づけられた、若し此の泥阜の要塞へ來て、團友太郎といふ囚人が居るか、梁谷法師といふ者が居るかと問ふ人が有つても、名簿を調べた上でなければ答へ得る人がない。
斯の如くにして、團友太郎は、世間から忘れられたのみならず、監獄の掛り員からも忘れられ掛けて居る、少くとも其の名前だけは早殆ど忘れられたのだ。
巖窟王 : 二九 怨に相當の復讐
巡視官にさへ見捨てられたと分つてからの團友太郎の景状は、言ふにも忍びぬ許りである。
最う何年を經たのか、順序を正して附けてある壁の筋も殆ど數へ切れぬ、此頃彼れの切に感じたのは、唯一人といふ淋しさでである、世に出たいと云つた所で其の望みは叶はぬが切て誰か相手が慾しい、活た人間の顏が見たい、自分の外に誰でも自分の傍に居れば好い。
アヽ人は到底自分一人で暮されるものでない、敵でも味方でも、何かなくては、迚も長い間の我慢は出來ぬ、それを我慢すれば、通例の人なら病氣になり、それより強い人ならば發狂する、病氣の末は死である、發狂の果は一忘である、死ぬのも忘れるのも、共に人の人たる所を失ふのだ、人間でなくなるのだ、團友太郎は何時人間でなくなるのだらう。
唯だ見る事の出來るのは牢番の顏ばかりである、けれど牢番は囚人に取つて決して人間の樣には見えぬ、單に活た壁、活た戸の樣に見えるのだ、爾なきだに厚く爾なきだに堅い牢の壁、牢の戸が、此もののあるが爲に一入脱け出る邪魔と爲るのだだ、場合に由れば抵抗もし我を取押へもし、聲も出し力も出す、又血も出るといふ極めて恐ろしい閂木なのだ、此樣なものの顏を見たとて何で自分の心が慰められやう、此儘で話相手も何もなしに居ては、若しや人間の言葉をさへ忘れはせぬか知らん、聲が萎縮けて出ぬ事になりはせぬか知らん、唖でも聾でも何でも好い、誰か居て呉れゝばそれに向つて話だけでも仕て見るのに。
と云つて叶はぬ望みである、寧そ自分だけで、聲を出して獨言でもいへば幾等かは紛れるか知らんと思ひ、宛も聞手が我が前に居るかの樣に、獨りで話も仕掛けて見た、空洞の樣な土牢の壁に響く我聲が恐ろしい、確に地獄の聲である、人間の聲とは思へぬ。
之を思ふと、世の人は怖じ畏るゝ重懲役の囚人が幾等 優しかも知れぬ、苦役は苦役でも同じ囚人と一緒に居て一緒に働くのだ、人間の顏も見、人間の話もする、確に人間らしい所が殘つて居る、何故此身を懲役人には仕て呉れぬのであらう、強盜、人殺、其の樣な罪名は構はぬ、何でも人間の中に居たい。
團友太郎が若し多少學問か經歴のある男なら、或は六かしい問題を考へるとか過た歴史を記憶から引出して眼前の事の樣に想像し、是とし非としなどして、幾等かは紛れる事もあらうけれど、憐む可し彼れは僅に十九歳迄しか人間の世に居なかつた、自分の身にさへ唯だお露を思初めた事の外に歴史はない、學問とては諸國の言葉をこそ知れ、自分から問題の出る樣な學問は少しもない。
曾て彼れは同じ此の土牢の中に、大金の事ばかり云つて居る狂法師がある樣に牢番から聞いた事を覺えて居る、狂法師といへば極めて危險な相手だらうけれど其の人でも好い同居したい、同居して介抱でもすれば何れほど歳月を消し易いかも知れぬ、斯う思つて終に牢番に説き、狂法師と同居の事を典獄へ願ひ出た、典獄は打笑つた「狂人と狂人とを一緒に置いて耐るものか」と、自分では果して此二人の囚人が何の樣な狂人であるかを見屆けた事さへないのに。
無論願ひは斥けられた、是れで殆ど百計は盡きた状とは爲つたが、盡きた外に只一つ殘つて居た、其れは幼い時に母から聞覺えた祈祷の文句である。
水夫と爲つて海に出て以來、暴風雨にでも逢つた時の外は神に祈つた事がない、祈祷の文言も大抵は忘れて居る、けれど之を思ひ出さうといふに身を委ね、幾日かは氣が紛れた、爾して實際少しづつ思ひ出して、之を口に唱へて見ると、以前に何の事だか夢中で有つた其の文句が一々我が心に徹して來る、唱へれば唱へるだけ、神と自分と接近する樣な氣がして、一時はアヽ遠からず神に救はれるのだ、神の在す間は何も絶望する事はないと此樣にさへ思ふ樣になつた。
此思ひの浮ぶだけ實際神に救はれて居るのだらう、彼れの身に、神が未だ附いてゐるのだらうけれど幾日、幾夜、祈りは只管に繰返しても土牢の壁は明かぬ、依然たる相手も何もない囚人に境遇である。
幾年月續いたかは知らぬが、果は又其の反動が來た、氣の安まつた後の反動は其の前の苦しみよりも猶ほ苦しい、彼れは何も彼も唯だ恨めしい最初の状に歸つたのだ。
最初の恨みは、相手もなしに、單に自分の身が大事の時に捕はれたといふ悔しさ情なさに過ぎなかつた、今度の恨みは相手がある、全體誰が此身を此樣な目に遭はせたゞらう、露ほども罪を犯す念のない者を、誰が嫌疑を受けさせて捕へさせたのだらう、誰だかは知らぬけれど確に其の樣な者が有つた、蛭峰檢事補が無名の密告状を出して示し、此筆跡に覺えがあるかといひ、尚も其の方は人に怨まれてゐるから注意せよといはれた。
誰だらう、誰だらう、一人だか二人だか知らぬけれど、アノ密告状を出した者こそ此身の敵である、怨みを返さずに置かれやうか、密告状の文句に依り其の差出人は分らぬか知らんと、是も考へ、考へて、大方は思ひ出し、心の中で讀み返して見ると、何うしても此身を罪に落とさうとの執念深き心が文字の外に籠つて居る樣に思はれる。
何者なれば、斯くも慘酷に此身の生涯を揉潰したゞらう、目を抉らるれば目を抉り返せ、齒を脱かるれば齒を脱き返せ、是れが復讐の本來である、何の樣にしたならば此怨みに相當の復讐が出來るだらうと、是より後は日となく夜となく唯其の思案に心を碎き、肝腎其の身が如何なる名案も行ひ得ぬ境遇に居る事には氣が附かぬ程であつた。
巖窟王 : 三〇 自殺、自殺
父が人に殺さるれば、子が其殺した人を殺す、是が復讐である。誠に能く分つて居る、殺されたから殺し復すのだ、命に向つて命を報ゆるのだ、目に向つて目、齒に向つて齒を、報いるのと少しも違つた所は[な]い。
唯團友太郎の樣な怨みは何の樣に復讐すれば好い、是れ友太郎が思案を凝す所である、敵を殺して了へば好いだらうか、否、否、爾うは行かぬ、我が身の活ながら土牢の底に埋められた苦しみは命を絶たるゝ如きではない、生涯を揉潰されたのだ、時々刻々殺された上に亦殺され、絶間もなく此身から命を引拔かれて居る樣なものである、我が相手をも之と同じ樣な苦しい目に逢はさねば復讐といふに足らぬ。
死ぬより上の事はない、殺すより上の復讐は出來ぬと世の人はいふだらう、けれど殺せば其の時限りで其の人の苦痛は終るのだ、幾日幾月幾年とも長さの知れぬ我が苦痛と我が恨みは此れでは晴れぬ、矢張り其の人に幾日幾月幾年とも限りの知れぬ苦しみを復さねば成らぬ、今の我が身の景状に於て、敵が若し苦痛の其れ切り終るのを、寧ろ有難いと思つて敵に謝さねば成らぬ、其れだから敵にも丁度是れだけの苦痛を與へ寧そ殺されるのが幾等有難いかも知れぬと思ふ迄に不幸と苦痛との極點まで陷擠て遣らねばならぬ。
彼れは幾日、幾夜、此の思案に暮し明したかも知らぬ、其の手段、此手段と工夫のある丈は仕盡した。
アヽ彼れは此樣に、人を恨むなどといふ事は知らぬ親切な快活な、恩をこそ記せ恨みは直に忘れて了ふ性質の男であつた、輕い美しい爾して捌けた氣の男であつた、此男を驅つて日夜復讐に餘念もない迄に至らせたのは、無慘といふも愚である。
彼れは考へ盡した頃、宛も初めての樣に氣が附いた、吁、此樣な事を考へて何に成るだらう、如何に好い工風が浮んだとて此土牢に閉ぢられて居る身が何うして其れを行ふ事が出來るだらう。
斯う思ふと共に彼れは、今度こそ最早や寸分の思ひ返す道のない極度の絶望には沈んだ、生きて此樣な事を思ふだけ、益々我身を苦しめるものである、何故死んで此苦痛を逃れる考へが早く出なんだらう、爾うだ、死ぬより外はない、自殺、我命をなくするが此身に取つての唯だ一つの逃路である。
何うして死ねば好いだらう、手巾を繋いで窓に掛け首を縊る是れ一。
壁に首を打附けて、頭を碎いて死する是二。
爾は云へ首を縊るといふ死状は、友太郎の樣な少年には何だか活智ない樣な氣がする、何も死ぬる身が手段など選ぶには及ばぬけれど其處が人間の通有の自負心である、死ぬるにも綺麗に死に度い、其れでは頭を碎く外はない。
殆ど之に決したが、若しも死んだ後で、父が我が死骸を引取る事にでも成つて形の頽れた我が顏を見たならば、何れ程か悲しむだらう、何うか形を頽さずに、自殺とは分らぬ樣に、爾だ天然に病死した者と思はれる樣に死に度い。
其れには絶食して餓死するのみである、是れは聊か時日が掛る、今初めて今直に死ぬるといふ譯には行かぬ、けれど友太郎は此れに定めた。
此決心が定まつて、友太郎が何れほど堅く之を守つたかは實に感心の外はない、或醫學者がいふてゐるのに、人間の自殺は自分が呼吸を詰るのが一番手輕であるが、併し物を以て縊るより外に、決して人間には自分の呼吸の盡きる迄 呼吸せずに居る力はないと。
けれど友太郎は其の力があつた、初めの中は牢番の持つて來る物を、總て喫べた振で、糞尿の溷へ捨てた、後には捨る力もなくなつた、是れも幾日だか幾夜だか、唯昏々と生と死の間に徘徊して居たが、遂には自分で、愈々死る間際に成つたのだと思ふ時が來た、最後の祈りを神に捧げ、人間以外の界へ導いて貰はうと此樣に思つて、身を引摺つて寢臺から降りたが、目が眩んで一歩も歩めぬ、其の身は直に傍の壁に仆れ掛つた。
壁に凭れて聊か息を繼がうとする折しも壁の中のズツと奧底に、何やら叩く樣な響きがあつた、若し壁に凭れずに居たならば此響きは聞えなかつただらう、イヤ今までに聞えて居たのだけれども壁に凭れぬ爲に聽き得なかつたのだ。
身體の疲れた丈に彼れは非常に神經が昂ぶつて居る、此の響きと共に、紊れて居る腦髓へ樣々の考へが取留もなく浮んだ、響きは何者が何の爲に起すんだらう。
能く聞けば壁の中だか地の底だか疑はしい、けれど確に物を以て物を叩き毀してゐる樣である、音ほど爾ほどでないけれど其の度に自分の凭れてゐる壁が微震するのだ、是れも身體の丈夫な人には恐らくは感ぜぬだらう、衰へてゐる丈けに、一切の抵抗力の盡て居るだけに纔やく分るのだ。
幾等死を決しても、囚人の心に消ゆる暇なく燃てゐるのは、自由を得度いとの希望である、若や此の音が、壁か床かを叩き破つて逃げやうと云ふ囚人の破牢の企てゞはあるまいか、若や我が室に接近して我れを救ふちいふ親切な人の仕業ではあるまいか、其の樣な人のあるあとは思はぬけれど兎に角も聞定めずにはゐられぬ。
疲れた身の支へ難さに、床の上に平伏したが、猶も聽いた、聽けば聽くだけ、何うも囚人の仕業らしく思はれる、時々は休む樣に歇んでゐる時はあるけれど又聞える、是れは、此音の元を聞定めるまでは兎に角も死なずに待つてゐて見ねばならぬ、分つた上で死るとも遲くはない、或は神が我が身に、猶だ逃れる道は必ずしも盡ては居ぬ事を知らせる爲に、我身を起して此の壁へ寄らせたのかも知れぬ。
幸に牢番が先刻置いて行つた肉汁が、皿に入れて室の入口に在る。
友太郎は徐々と躄ろ寄つて其の皿を取り肉汁に咽を濕して、先づ自分の身へ力を附けた。

