読書ざんまいよせい(096)

巖窟王(下 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 100「幻影」

巖窟王 : 二四六 華子・一

嚴しく辨太郎を取調べて巖窟島伯爵の身の祕密を看破せんとは流石に蛭峰大檢事である、茲へ目を付けたのは多年の職掌から得た烱眼と云ふ可きであらう。

併し段倉男爵夫人は何うあツても此取調べを延ばして貰ひ度い、我娘夕蝉が更に然る可き所天をつとを定めぬうちに辨太郎の噂が益々世に立つ樣で有つては、娘が生涯身を定め損ふのみか母たる自分の名譽に迄も少からず影響すると思ひつめてゐる、其れは勿論無理も無い所であらう。

夫人は此心を以て猶も及ぶだけ説いた、けれど蛭峰が承知せぬので、果は腹立てゝ聲も荒く「貴方は職務の爲め、何うしても罪人を取調べねば成らぬ事柄が有りませう、内の罪人は捨て置いても外の罪人は調べると仰有るのですか」と叫んだ、是れは確に蛭峰の家に怪しい死人のみ引續くに蛭峰が職掌ながら其原因を調べず打棄て置くのを指した者である、既に世間で密々ひそ〳〵噂して居る所なんだ、蛭峰はかつて赤らんだ事の有るまいと思はれる顏を火の樣にして面目無げに俯うつむいて了ツたが、やゝあツて辨解の樣に「イヤ夫人、世間で私の家の不幸に對し樣々の噂の有る事は知らぬでは有りません、今は貴方まで其噂にかぶれ、其樣な事を仰有るは誠に私の遺憾とする所では有りますが、既に證據の上ツて居る罪人と、未だ誰とも目指す事の出來ぬ事件とは、事譯が違ひます、私の家の不幸とても明かに誰の所爲と認める事が出來るなら、私は決して容赦は致しません、蛭峰の一身は一身で無く法律の道具ですから、丁度辨太郎を嚴重に取調べる如く我家の者をも嚴重に調べます、けれど夫人、此家の事は唯だ世人の疑ひに止まツて何等の取留める所も無いのです」殆ど自分で自分の穴を掘る樣な言葉では有るまいか、夫人「イヽエ私はたつて御自分の内をお調べ成さいと云ふのでは無いのです、御自分の内を延ばして置く樣に小侯爵イヤ辨太郎とやらの件をも延ばして下さいと云ふのです」蛭峰「サア其れが出來ぬのです」夫人は何と云ふも甲斐無きを悟り、殆ど席を蹴る程の劍幕で立去ツた、是で辨太郎の裁判も遠くは無いと云ふ事に極ツて了ツた。

* * * * *

其は扨置さておき、此樣にまで云はれる蛭峰の家は實際何うだらう、生死の境に推寄せてゐた華子は何うなツたゞらう。

今の猶華子は生死の間に徘徊さまよふてゐる、夜の無く晝と無く、唯だ昏々と病床に眠つてゐるが眞に眠つてゐるかと見れば醒てゐる、醒てゐるかと見れば眠つてゐる、是れが斯る病人の常なんだ、斯うなると絶えず當人の目の前には樣々の幻影が現はれる、或は父が來るかと見れば或時は戀しい森江大尉が我顏を差覗いてゐる樣に見え、時によると飛んでも無い巖窟島伯爵が何か藥を注で呉れる樣な事も見える、何れ丈が眞事まことで有つて何れ丈が幻であるか、其は當人にも分らぬ。

イヤ此日朝頃から聊か其區別がつき掛けて來た、其れだけ病が好い方に向いたのだ、午後に成ると又 一ひとしほ其區別が明かになり、夕方に及んで醒めて居るのだと合點し、「アヽんなに心まで弱くなつた」と呟いて笑を浮かべ爾して笑のまゝ眠つて了ツた、眠るのが何よりの藥である、夜の十二時頃に及び再び目の醒めるまでも猶ほ其笑が殘ツて居たのは眞に百藥にも優るほどの好い眠で有つたのだらう、目の醒め方も今までに無いほど穩かに、先づ唇を動かし次に手を動かし、最後に身體を動かして目を開いたが、其まゝ四邊あたりを見廻して「アヽ最う病は無く成ツた、夢か知らぬが、昨夜も目を覺したとき咽喉が渇いて、枕元に在つた赤い水藥を呑んで、急に身體の爽かに成る樣な心持がした、今夜も彼の通り渇いて居る、きつと彼のお藥で此樣にくなるのだわ」云ひつゝ枕元の臺に手を差延べると、怪しや襖の影から、黒い服を着けた人の姿が現はれ、臺の上のこつぷを取り、中の藥を水鉢に移し更に赤い色の水を注いで出した、華子は未だ深く思案する事は出來ぬ、其まゝ受取つて之を呑むと又總身が健々すが〳〵しく、目の覺めた上に又目の覺めた氣持に成つた、世に云ふ甘露の味とは此樣な者でも有らうか、爾して更に、今其藥を注いで呉れた人の顏を見ると怪まずには居られぬ「オヤ猶だ夢を見て居るのだらうか」其人は柔かな聲で「夢では有りません、華子さん、今夜で丁度四宵の間、私が此通り、寢ずに潛んで、貴女を見張つて居たのです、最う貴女は助かります」華子「誰に頼まれて」其人「ハイ森江大尉の爲めに」華子「大尉の爲に――私の爲に、何故」其人「私は森江をも貴女をも我子の樣に思ふのです、私を父とお思ひ成さい、少しも心配は有りませんから」言葉が更に怪しくも無く、一々華子の胸の中に解けて入る樣に感ずるは猶だ心に多少の幻が殘つて居る爲でも有らうか華子「父と思つて好いのですか」其人「父と思つて私の言葉に從へば病も治り、心配が無くなります」華子「本統ですか巖窟島伯爵」

巖窟王 : 二四七 華子・二

巖窟島伯爵が、華子の枕邊を見張つて居るは全く四日目である、しや親身の父と雖も是れほどの辛苦は出來ぬ、併し此事は華子と室を並べて居る野々内彈正の外は誰も知らぬ、時々は彈正の室に行きて彼を慰め又時々は華子の室に來などして、詰まる所一身で兩人ふたりを守護して居るのだ。

華子は猶ほも弱い聲で「貴方にまで御心配を掛けるなど、何して私は此樣な病氣に成つたのでせう」伯爵は低いけれど嚴かな聲で「驚いてはいけませんよ、毎夜此室へ忍び込んで貴女のお藥へ毒を埀らして去る者が有るのです」華子「エ、エ、其樣な人が」伯爵「ハイ其れだから私が潛んで居て、直に其後へ廻り、其毒を取捨てるのです、今夜も今し方、其人が立去りました」華子は誠とも思ひ得ぬ「でも私に毒を呑ますなどと餘り恐ろしい事では有りませんか」伯爵「恐ろしくとも事實です、米良田老伯爵も其夫人も忠助も皆同じ毒手で殺されたのです」華子「誰です、誰です、其毒手とは」伯爵「誰であるか、明夜は貴女に能く分る樣に其人の顏を見せて上ます」

華子は是だけの問答に打疲れて又眠つた、爾して翌朝目の覺めたとき歴々あり〳〵と覺えては居たけれど、巖窟島伯爵が我が爲に四宵も不寢番ねずばんをしたと云ふが怪しく、又我が飮む藥に毒を入れる人の有ると云ふのも猶更合點が行かぬゆえ、さていつもの夢か幻想まぼろしで有つたのかとばかり、今夜こそは氣を確にして能く見屆けやうと、夜の來るのを聊か待遠い樣にも覺えたが、其中に夜とは爲り又何時の間にか眠ツて了ツた、爾して何時間の後かは知らぬけれど、柔かに身體をゆする者の有る樣に覺えて目を醒まし、誰かと見れば矢張り巖窟島伯爵である、華子は氣強く感じ「オヽ夢では無い、矢張り貴方が見張つて下さるのですね」と云ふを、伯爵は唇に手を當て制し「夜前約束をした毒手が今來ますから、寢た振をしてとくとお見屆成さい」華子は恐ろしさにゾツとして幾等か殘つて居た眠氣の全く消え、之ならば夢でも幻想まぼろしでも無いと深く心の底に刻んだ。

此時伯爵は幽靈の消える樣に襖の後へ消えて了ツたが間も無く廊下の床板が忍び足の重さに鳴り初めた、聞く中に其音が此方こちらへ近づいて來る、華子は愈々恐ろしくいつそ見ずに居やうかと目を閉ぢたが、一命の繋がる所と思へば閉ぢても居られぬ、別に寢た振をする譯では無いけれど、身體はすくんで、寢るよりも猶靜かになり唯だ眼瞼まぶただけを細く開いて待つて居ると、室の入口の埀幕をソツと開いた者が有る、其手の細さ又白さ。

やがて埀幕の間から黒い服の女姿が現はれ滑かに華子の寢臺ねだいに寄つて、其細い白い手を華子の口のほとりかざした、是は寢息を伺ふのである、寢息は聊かみだれて居る、けれど目を覺まして居るとは見えぬ、安心と思つたか黒い姿は隱し持つた小さい瓶を取出し、其中の水藥を華子のこつぷへ幾滴か埀らし、再び華子を見顧ツて、元の通り滑かに立去ツた、華子は初めから終りまで此者の顏を見たが泣いても泣かれぬとは何事であらう、毒手は自分の母である、イヤ母と爲つてゐる繼母の蛭峰夫人である。

直に伯爵は現はれて來た「何うです合點が行きましたか」華子は泣き聲で「私は何うすれば好いのでせう」伯爵「嚴重に云へば繼母を訴へるのです、毒殺者として」華子「其樣な事がせられます者か、最う助かる道が有りません、いつそ死んで了ツた方が」云ひつゝ毒の有るこつぷへ早手を延べ掛けた、伯爵は其 こつぷを取り「中の毒藥は他日の證據に毎夜私が集めて有ります」華子「其お蔭で私は死ななかつたのですネ」伯爵「イヤ其お蔭よりもお祖父樣のお蔭です、野々内彈正は此樣な事を見拔いて貴女へ少しづつ貌律矢ぶるしんを飮ませて置きました、其れが爲に貴女の身が毒藥に抵抗する事が出來たのです、お祖父樣の此用心が無くば貴女は忠助同樣に最初の毒藥で死んで了ふ所でした」華子「アヽ私は死んだが好い、死んだが好い、何う考へても」伯爵「貴女が死ぬれば森江眞太郎は絶望の爲め此後の生涯の無い人と爲つて了ひます、貴女が死ぬれば全身不隨のお祖父樣を誰が介抱成されますか」華子「矢張り生てゐねば成らぬ、活てゐるには阿母さんの――」伯爵「ハイ阿母さんの罪を訴へずに活てゐられる道は唯一つ有るのです、全く私に縋つてさへお出に成されば」死ぬと云つても眞實に死に度い筈は無い、華子は少し引立ちて「何の樣な道でも、貴方にお縋り申します、阿母さんにも障りが無く爾して私も助かるなら」伯爵「全く非常の手段ですが問ひも何もせずに私の言ふ通りに從ひますか」華子「ハイ從ひます」伯爵「何の樣な事が有らうとも驚いてはいけませんよ、目も見え無く成り、呼吸いきも止まり、脈さへ無くなツて了ツても私を信じて安心してお出なさい」華子「分りました」

何の樣な非常手段かは知らぬけれど、全く相談が固まつた。

爾して其翌朝、猶だ誰も寢込でゐる四時と云ふ刻限に、再び毒手蛭峰夫人が此室へ忍んで來た、其状は以前に來た時と少しも變らぬ、ソツと寢臺ねだいに近寄つて華子の寢息を伺つたが、今度は息が絶えてゐる、次には其肌に觸れて見たが冷固まつてゐる、アヽ蛭峰夫人の目的は是で逹した、華子は早死骸と爲つてゐるのだ、此場合に於て夫人の落着き加減は又驚く可きである、靜かに振向いて先づ先程のこつぷを見た、こつぷを飮み乾した樣に、底に露氣が殘つてゐるのみである、此露氣を分析でもされては成らぬと思つたか手巾はんけちを出して綺麗に濕りを拭ふて取つた、爾して再び華子を顧み、顏に死相の現はれてゐると見てニツと笑み、又元の通り歸つて了つた、此度胸は人間だらうか、後に到つて識者が此夫人を一種の狂性まにやと鑑定したのも無理の無い所である。

巖窟王 : 二四八 華子・三

華子の死は實に多くの人を驚かせ且悲しませ、一昨日をとゝひから昨日へ掛けて餘程容體が好い方へ向き、醫者も是れならばとや見込みをつけ初めたのが、今朝は忽然死體と爲つて、早冷切てゐるので、意外と思はぬ者は無い、父蛭峰は悲鳴を揚げた、繼母蛭峰夫人は涙が止まらぬとて自分の室へ引込んだ儘である、祖父彈正はまなこ膨上はれあがらせてゐる、多分は誰の悲しみよりも此泣きも何もせぬ老英雄の悲しみが、一番深いので有らう、イヤ是よりも猶ほ深く悲しむ者が一人ある、誰ぞ、森江信太郎である、彼は華子が病氣になつて以來は毎朝一度つつ此隱居所に來て彈正に逢ひ次に華子の室に入り、親しく其容體を見屆けて歸る事になツてゐる、今朝も其通りに遣つて來た、イヤ今朝は定めし華子と一言か二言は談話はなしも出來るだらうと思ひ、いつもよりも樂しんで遣つて來た、そして先づ彈正の室へ入つたが彈正の容子が餘ほど異樣で有る、はれた目で華子の室を睨んだまゝ森江が來たのにも氣がつかぬ、森江は是を見てぎよつとした、我が運命が一時に消えたかの樣に感じた、直に次の間に踏込んだ、此時有國國手が華子の死骸を檢査して父蛭峰に向ひ、「全く昨夜の二時から三時の間に絶命した者です」と斷言してゐる所であつた、丁度此言葉が森江の耳に入つた「オオ華子が死にましたか」と叫ぶより早く彼は狂氣の樣で其寢臺に飛び掛り、醫師と蛭峰とを跳退はねのける程にして、死骸の顏に顏を差つけ「オヽ華子さん、華子さん、何で貴女は死にました」聲と共に泣いた、蛭峰は此の樣に合點し得ぬ、直に森江を推退おしのけて、法律家の句調を以て「貴方は何故他人の家宅へ侵入しまう、殊に此家は今取込の際ですのに」森江は腹立しげに起き立ツて叫んだ「何で、何で、エヽ私の茲に來るのを何でなどと咎めますか」と云ひつゝ刄物でも有らば蛭峰を斬殺さん所存かと疑はるゝ程の劍幕で室中を見廻したが、目に留まる刄物も無い、直に思ひついた樣に又彈正の室へ飛び歸り殆ど信ぜられぬ程の怪力を出して寢臺ねだいのまま彈正を引提げて來て華子の寢臺ねだいと並べて置き、「彈正、彈正、此人は、イヤ蛭峰氏は何で此家へ侵入するなどと私を咎めます、侵入せずに居られませうか、貴方の口から其仔細を言聞かせて下さい、サア貴方の口から其仔細を言聞かせて下さい、サア貴方の口から」と促した處で聲の出る口では無い、其聲が出る程なら何も目を泣膨なきはらしなどはせぬのだ森江はもどかしげに「サア私が華子の許嫁の夫森江信太郎で有る事を貴方の口から言ふて下さい、最う華子さんが死んだ上は此死骸は誰れの物でも無く、此森江の物である事を云ふて下さい」彈正のまなこも眞にもどかしげに騷いでゐる、蛭峰は又聞き咎めて「何ですと、貴方が華子の許嫁、其れは又誰れの許しを得て、エヽ貴方は全くの發狂者です」森江「發狂者か發狂者で無いか彈正にお聞なさい、彈正と當人との承認を得て、長い以前に許嫁となつてゐます」蛭峰は腹立しげに彈正のまなこを見「此人の云ふ通りですか」彈正「然り」蛭峰「貴方も華子も此人を許嫁と認めましたか」彈正「然り」彈正のまなこが如何に然りと云ふても、若し此森江の姿の人に勝れた威嚴が無くば蛭峰は容赦も無くつまみ出す所だらう、けれど森江には侵し難い威嚴の上に燃ゆる樣な熱情が顏にも身體にも現はれてゐる、蛭峰は詮方無く我を折つて「其樣な許嫁を、法律上有效とは認めません、けれど、貴方の狂態を許しますから、サア早く華子の死骸を見て是れまでの縁と斷念あきらめてお歸り成さい」蛭峰の口から是れだけの柔かな言葉が出た、森江は返辭もせず再び華子の顏に顏を當てたが泣いてゐるのか祈つてゐるのか、何か華子に話す樣に、長く〳〵細語して離れ相にも見えぬ、蛭峰は堪忍が盡きた容子で「何時までも其樣な事を爲さツては迷惑です」森江は卒然と顏を上げた、蛭峰「最早醫師の檢屍を經て、全く死人と極ツた者の室ですから僧侶の外に必要はないのです、此頃隣家へ移つて來た伊國いたりやの暮内法師が最う華子の靈の爲に祈祷に來て呉れる刻限ですからサアお歸り成さい」仲々森江は歸る可き状はない、却つて高く聲を張上げ「僧侶よりも此室には猶必要な者が有ります」と異樣に叫んだ蛭峰「僧侶よりも必要とは何者です」森江「華子の爲の復讎者です、此森江大尉です」蛭峰「復讐者とは」森江「華子の死は通例の病死では有りません、殺されたのです、毒殺です、其毒害者を此家から搜し出し法律に訴へ、相當の裁判を經させるのが許嫁の夫たる私の役目です」蛭峰は前額ひたひに青い筋を浮上らせて「しからぬ事を云ふ、毒殺などと、幾等發狂者の言葉にしても」森江「發狂者などと、貴方こそしからんのです、私は華子の毒殺された證人として第一に茲に居る有國國手の證言を求めます、第二の證人は野々内彈正です、國手よ、有國國手よ、貴方は華子の死を毒害の結果で無いと言切りますか」少しの容赦も無く國手の顏を見て問つめた。

巖窟王 : 二四九 華子・四

國手の顏を見て問ひ詰たけれど、國手は少し返辭が淀んだ、之は森江大尉の餘り熱心な言葉に暫し氣を呑まれたものだらう。

大尉は此状をもどかしと又續け叫んだ「有國國手は之れを知らんと云ふ事は出來ません、蛭峰大檢事も有國國手の知ツてゐる事を知らんと云ふ事は出來ません、お二人ともまだ忘れは成さるまい、米良田伯爵老夫人が此家で亡なられた其夜、貴方がたお二人は此家の暗闇で何と云ひました、有國國手が確に貌律矢ぶるしんの毒を以て害せられたのだと云ひ、大檢事の職として詮議せずに置く事は出來まいと迫りました、其時は誰れも聞いてゐぬ事と思つたでせうけれど生憎、イヤ幸ひに此森江信太郎が樹の蔭に居合せました、私は今も有國國手が其時蛭峰氏に迫ツたと同じ樣に蛭峰氏に迫ります、蛭峰氏よ、蛭峰氏よ、貴方は華子の父として、最も悲しむ事は充分に悲しみました、父の役目は濟んだのですから、サア之からは大檢事の役をお盡し成さい、華子が毒殺された事を私から訴へますから貴方は大檢事の職として、其罪人を詮索成さい、證人は國手と彈正です、國手よ、貴方は證人に成らぬと仰有いますか」國手は仲々其樣な卑怯な人で無い、今まで同じ旨意を以て蛭峰を責た事が幾度と云ふ數を知らぬ、終におもむろに口を開き「勿論私は森江大尉に同意です、蛭峰家の名譽の爲に聊か躊躇したのが私の卑怯でした、蛭峰氏よ、私からも大檢事と云ふ貴方の職務に對して訴へます」最早如何とも仕方が無い、蛭峰は萬一の逃げ路を父彈正の顏の求める事が出來やうかと、泣き出さん許りの色を以て彈正に振向いた、彈正の顏は大尉の顏にも劣らぬほど怒りの色を浮かべてゐる。

斯と見て直に大尉は、横より彈正に問ふた「貴方は毒害者を御存じですか」彈正「然り」大尉「華子の爲に復讐を慾しますか」彈正「然り」然りと瞬潑まばたきはしたけれど何だか其外に猶ほ言ひ度げな所が有る、言ふ事の出來ぬ爲めもどかしさに堪へぬ状が、騷ぐまなこに充分分つてゐる、大尉は其れと察し「貴方は吾々三人の中の誰か一人に祕密に言ひ度い事でも有りますか」此言葉は的に當つた彈正「然り、然り」大尉「其れは誰にです、私にですか」「否」「有國國手にですか」「否」「蛭峰氏にですか」彈正「然り」

彈正の意は尊敬せぬ譯に行かぬ、大尉は國手の手を引き、蛭峰だけを彈正の許に殘し次の間に退いた、蛭峰は彈正と共にやゝ半時間も語つてゐたが、漸く話が終つたと見え、國手と大尉を再び引入れ、恐ろしさに震ふ聲で「毒害者が分りました、彈正から聞きました」大尉「では直に處分するでせうネ」蛭峰「無論です、私は父彈正にも、處分する事を約束しました、併し彈正の名を以て切にお二人に願はねば成らぬ事があります、其れは私が處分に着手するまで、此毒害と云ふ事を誰にも祕密にして戴き度いのです」大尉「エ、祕密に」蛭峰「ハイ其代り私は日限まで約束します、今より一週間の中と云ふ事に、若し一週間を經て私が處分しなかつたなら其時には、曝露するとも訴へるとも御隨意に仕て下さい」

眞に蛭峰は毒害者を處分する事が出來るだらうか、毒害者は誰れ、アヽ誰と彈正が告げたのだらう、蛭峰の妻に非ずば巖窟島伯爵である、有國國手は傍より「立派に處分なさるのですか」蛭峰は異樣にまなこを光らせて「ハイ立派に處分します、私が處分すると云ふ日には、何の樣な大膽な奴でも戰慄するほどの手段を取ります」何だか自分の妻を目指しての言葉では無さ想だ、或は彈正の口から巖窟島伯爵の名をでも聞いたのではなからうか、森江大尉の方は一週間の猶豫が殘念に堪へぬ如く口さへ開かぬ、有國國手は承知した容子で先づ彈正に向ひ「一週間祕密を保つて呉れと云ふ事は全く貴方のお望みに違ひないのですか」彈正は熱心に「然り」との意を示した、國手は仕方なく蛭峰に向ひ「全く彈正の意と見えますから、私は一週間祕密を守りませう」蛭峰は大尉に向ひ「貴方も何うぞ」大尉は悔しげにこぶしを握つた、けれど眞實彈正の意と有つては否とは云へぬ、顧みて彈正のまなこに所望の意の現はれてゐるを見、其儘身を轉じて華子の枕許に坐し、其青い冷たい死骸の顏へ接吻したが、是れが彼の堪忍の果である、彼は最う亂麻の如く結ばれた自分の心を治める事が出來ぬ、狂人の如く立ち、狂人の如く走つて、此室から出で去つた、眞に彼の實情は察す可きである。

彼が馳走るとき、出口の所で突當る如く出會ふた人が有つた、其れは華子の靈の爲に祈りに來た隣家の暮内法師に外ならぬ、大尉の方は氣もつかずに馳去つたけれど、法師は振向いて彼の去る姿を氣遣はしげに打眺めた、併し餘り見惚れては顏の地金が現はれるかも知れぬと心づいたかやがて又神妙な顏をして、華子の死骸の室に來た、蛭峰は一禮して「何うか不幸な娘の爲にお祈り下さい」と云ひ、更に又「當家には最早雇人なども充分には有りませんから、貴方の出入の度に出迎へ見送りなども出來ません、其代り此隱居所の鍵をお預けして置きますから何うか御隨意に出入なさツて下さい」鍵を渡されるは法師が願ふても無い幸ひとする所だらう、法師は差出すを受取つて華子と彈正の枕邊に跪坐ひざまづいた、最早有國國手も用はないから分れを告げた、蛭峰も國手と共に廊下まで出て「私は最う、氣を紛らせる事でもなければ發狂します、爾うだアノ取調べ、取調べ」と再び自分の書齋を指して走つた、併し蛭峰を眞に發狂させる程のえらい打撃は、今は未だ落ちて來ぬ、追て落ちて來させる爲に誰やらが掌中てのひらに握ツてゐるのだ。

巖窟王 : 二五〇 段倉の笑顏・一

此日一日、及び夜に入つて明けるまで、暮内法師は華子の枕邊で祈り明した。

祈りの間には又時々野々内彈正の枕許に坐し、懇々と何事をか語り聞かせたが、彈正は全く其言葉に慰められたと見え終に華子の死んだと云ふ事さへ忘れた如く、顏に大安心の色を浮べて眠りに入つた。

翌朝法師の歸つた後で蛭峰は、此室に來て唯驚いた、昨日まであれほど華子を悲しんだ彈正が何うして斯うも安々と眠る事になつたかと。

斯て愈々、華子の葬儀とはなつた、最う昨夜の中に葬儀社の方で其れ〴〵用意を運んで有るので少しも暇取る所はない、出棺は朝の十一時である、日頃蛭峰を知る者は大抵來り集まツたが、只暮内法師と巖窟島伯爵とは見えぬ、法師の方は他の家に死人が有つて其れが爲に招かれ去つたとの事である、巖窟島伯爵の方は何故だか分らぬが、客の一人の言ふ所に由れば、十時半頃に段倉の家は入るのを見受けたとの事である。

何故に段倉の家へ、之は一應記して置かねばならぬ。

* * * * *

彼の皮春小侯爵の舊惡露見、娘夕蝉の逃亡と打續いた大椿事に、段倉の家は殆ど火の消えた状である、彼が大銀行家として信用も地に落ちた、其れも其筈、唯 伊國いたりやの金滿家と聞いたのみで深く本物か贋者かの詮議もせずに殺人の犯罪人を婿とする樣な失策が有つて誰が其人の懷を見拔かずにゐる者か未だ支拂停止の札をこそ掛けぬけれど、まなこある人は少しも段倉銀行に油斷はせぬ。

けれど段倉は只者でない、此苦しい際に當り猶も體裁を粧ふて塗炭場どたんばをも漕拔る積りである、集め得られるだけの金を集め、滿面に笑を浮かべて客に接する状は非常に嬉しい事でも有るかの樣に見える、之れが泣より辛い笑である、人間は此樣な笑を絞り出す毎に壽命が縮むのだ、假令たとへ生血は絞り出すとも決して笑を絞り出す可きではない、斯る所へ段倉にも負けぬ程の笑を浮かべて入つて來たのは巖窟島伯爵である、但し此方こなたの笑は多分壽命を延ばす方なんだらう、伯爵は快活に「段倉さん、今日は五百萬 ふらんの正金を受取に來たのです」流石の段倉の笑の此一語には命と共に消え相に見えた、一枚の金も剥がして二枚に使ひ度い程の此場合に五百萬 ふらん取去られてたまる者か、けれど伯爵は充分の勝算を立てゝ來たのだ、今日段倉銀行が五百萬 ふらんを慈善協會へ拂はねば成らぬ事も突留め其れを拂ふて信用を囘復する爲に、四苦八苦で其れだけの算段を仕て有る事も知つてある、其金を先へ廻つて引拔いて行けば後で慈善協會から受取りに來ると同時に、銀行は戸を閉ぢねば成らぬ、伯爵の心算は神の如しだ、段倉は血を吐く思ひで又笑ひに紛らし「貴方には私から拜借に出やうかと思つてゐました」伯爵は平氣な調子で「お出成さいな、貸す時には幾等でも貸しますよ、貴方に金を貸さぬと云ふは愚の至りですもの、其代り借る時には借らねば成りませぬ」云ひつゝ目早く四邊あたりを見廻すは何でも段倉だ慈善協會に拂ふ金を是見よがしに何處へか積上げ、誰の目にも分る樣に見せびらかせて有るの違ひ無いと思ふ爲である、何でも銀行家は苦しければ苦しいだけ益々金を見せて置くものである、果せる哉だイヤ實は段倉の運が盡たと云ふ者だらう、卓てーぶるの上に中央銀行に宛た引き出し手形が一枚百萬 ふらんづつ五枚段倉自身が署名して墨を乾かせる樣に廣げてある、伯爵は大笑して「笑談ぜうだんを仰有るにも程が有ります、此樣な大金を卓子てーぶるの上に轉がして置いて、イヤ段倉さん、貴方の金力には驚きますよ、之で宜しいから私は戴いて行きます」とて、直に其五枚を重ね取つて衣嚢かくしに入れた、段倉は命を取られた樣な者である、殆ど伯爵に攫み掛るかと疑はれたが又辛い笑ひに紛らせ「其れはいけません、今直に慈善協會から受取に來るのですから」伯爵「來れば其時又此通りの紙切を五枚作れば好いぢや有りませんか」段倉「イエ本統です、幾等中央銀行に信用せられてゐても爾う取出ては」伯爵「怪痴ばかな事を仰有るな、サア之は私の受取書です、私は直ぐに受取ると云ふ積りで此通りしたゝめて來ました、五百萬 ふらんと記して有ります、之を羅馬の富村銀行に送れば五百萬の上へ十萬だけ利子が付いて直ぐに屆きます」とて紙に記した受取を段倉の前に投げ、更に「之から私は蛭峰家の葬式に行くのですから、貴方に揶揄からかはれてゐる譯にも行きません、左樣なら」と、來た時と同じ活溌な調子で去ツた。

伯爵の此手際には歐洲第一流の外交官と雖も舌を卷くだらう、爾して廊下まで出ると外から入來る慈善協會々長と擦れ違ツた、會長は手代に案内されて段倉の室へ進む所である、手代は主人が今如何なる景状ありさまに呻いてゐるも知らず「ハイハイ、當銀行では今日こんにちお拂ひ渡し申す積りで、既に其れ丈の用意を致して有ります」と餘計な事まで言ひ言ひ小歩こあしに歩んでゐる、伯爵は腹の中で「一歩後れゝば大變だツた」

巖窟王 : 二五一 段倉の笑顏・二

呻いて居た段倉は、慈善協會長の入來るを見、又も急に壽命を絞り出す樣な笑を浮かべて之を迎へた、心の底は協會長を攫み殺し度い程にも思ふのだらう。

爾して協會長が一語をも發せぬ先に「貴方は今廊下で巖窟島伯爵にお逢ひ成さツたでせう」と問ふた、少しでも言葉を紛らせ、思案の猶豫を得たいのだ、協會長「アヽ今の方が有名な巖窟島伯爵ですか、えらい金滿家だと聞きますが」段倉「金滿の上に慈善家です、年々慈善の爲に五十萬は費すでせう、貴方が孤兒や貧民の爲に寄附を言込むぬは屈強です、私から紹介の手紙を書いて上げても構ひません」協會長は喜んで「アヽ其は是非書いて戴きませう、幸な事には吾々の事業も追々世の同情を得て來まして既に野西夫人の如きは」段倉は耳をたてた「エヽ野西夫人とは、の露子夫人ですか」

耳を立るも無理はない、彼は野西將軍の自殺から以來、何だか異樣に神經を動かしてゐる、そもそも野西と自分とは同じ樣な出身で、廿餘年前、馬港まるせーゆにゐた時からの懇意、其後は互に名譽や金錢の競爭の爲め心の打解けぬ所もあつたけれど、其人が前代未聞の汚辱を受けて自殺まで遂げたと爲つては何だか隣の家に火が付いた樣な思ひもする、其上に自分の家が僅の間に土臺から傾いて、思はぬ災難のみかさみ、爲す事が皆齟齬する此頃の不運を思ふと幾等惡人でも心細くない譯には行かぬ、是れのみでない、同じ樣に馬港まるせーゆに縁があつてほゞ似寄つた出世を遂げた蛭峰家とても少しの間に四人まで死人を出し確に運勢の傾いた事が見え透いてゐる、其れも通例の傾き方ではなく、氣味の惡い樣な傾き方である、本來ならば今日の華子孃の葬式にも自分は行かねば成らぬ筈だけれど、辨太郎の件以來、公衆の前へ顏を出せば、直に其顏で人の笑ひが掛る樣な氣もせられ、當然 此方こつちから遠慮す可き境遇とは爲つて居る、其れ是れを思ひ合すと愈々以て居心ゐごゝちが惡い、其れでも笑ひ顏は作ツてゐねば成らぬ「儘よ、今夜の中に逃亡するのだ」とは彼が心の底に据ゑた度胸である。

飛ぶ鳥を落すとまで謂はれた段倉銀行の主人が今夜にも逃亡するとは協會長の思ひも寄る所では無い、彼は珍聞を披露する人の樣に物體らしく身構へて「爾です露子夫人です、夫人と其息子武之助とは、野西將軍から遺された財産を一文殘らず慈善協會へ寄附しました、實に美談では有りませんか」段倉の耳には美談と云ふ事が合點が行かぬ、唯馬鹿げた所行の樣に聞える「シタが總額は何れほどです」協會長「正金は十四五萬ですが、邸宅財寶、其れに株劵を加へれば五百萬以上です、何しろ篤志の至りゆゑ協會では七百萬と評價して受取りました」其七百萬をおれに呉れればと段倉は咽から手の出る程に思ふた。

「オヽ七百萬と云へば、今日こんにち私は五百萬を受取つて行かねば成りません」協會長は自分の用事を思ひ出した、段倉は事も無げに「今日で無くとも明日あしたで好いのです」協會長「ハイ、明後日總會が有るのですから、明日中に取揃へて置けば好いのですが、其れが爲に、今日受取ります方が」段倉は我前に有る巖窟島伯爵の受取りを捻り廻しつゝ「ナニネ、貴方へ當て五百萬だけ中央銀行から今朝取り寄せて置きましたけれど、巖窟島伯爵が急に入用だと云ふので貸て遣りました、是れ此れの請取が正金ですから、直ぐに中央銀行へ行けば好いのですが」五百萬や千萬の金は塵芥ちりあくたと思ふ樣に見せ掛けてゐる、協會長「では待つてゐますから中央銀行から取寄せて戴きませう」段倉は驚いても驚かぬ「宜しい、取寄せませう」云ひつゝ呼鈴よびりんを鳴し掛けて又思ひ出し「其代り今日ならば貴方に五萬 ふらんの損が立ちますよ」協會長「エヽ其れは何故」段倉「イヤ、私と中央銀行の間には、一日に五百萬より以上取出せば百分一の手數を拂ふ事に極めて有ります、だから其手數の五萬 ふらんだけは貴方に負擔して戴かねば――ナニ其代り明日なら其樣な事は有りませんけれど」五萬 ふらんの負擔が何うして協會長に出來る者か、五ヶ年間の月給にも當るのだもの、しかも唯だ一日の差で其れを取られるとは恐ろしい程に思はれる、彼は身を震はして「其れは堪まりません明日で宜しい宜しい」とて早や立掛けた、若しも外へ出て人に聞き、五萬 ふらんの手數料などと其樣な理不盡な事が有る者かと言聞かされ引返してゞも來る樣な事が有つては大變だから、段倉は直に釘附にする樣な手段を取ツて「少しお待ちなさい、巖窟島伯爵に紹介状をしたゝめて上げませう、少くも廿萬 ふらん以上を寄附する樣に」斯う喜ばせて置けば大丈夫である、協會長はホクホク喜び段倉のしたゝめる照會状を持ち虎の兒の樣に納めて去ツた。

段倉はホツと息して前額ひたひの脂ら汗を拭き「自分ながら、手も有れば有る者だ」とて笑ツた、今度は壽命に關係の無い笑ひらしい、爾して直に又筆を取り長々と手紙をしたゝめたが、之は妻に宛てた書置である、次には机の抽斗から旅行劵を取出して「アヽ未だ期限が切れてゐぬ」とて檢めた、彼は巖窟島伯爵の受取證を以て直に他國へ出奔する積りである、出奔しても羅馬の富村銀行へ立寄り伯爵の受取證と引替に五百萬 ふらん受取れば他國で再び旗擧げして、此國へ又も銀行王と爲つて歸つて來る事も出來る樣に自信してゐる生憎く其羅馬が、眞に自分のかたきを取られる塗炭場どたんばであツたなら何うだらう。

巖窟王 : 二五二 大尉と伯爵・一

段倉の家を出た巖窟島伯爵は、直に其足で蛭峰家に行き、葬式の列に加はツた。

葬式は早家を離れ幾丁か進んだ所で有つたので、伯爵は其最後に立て隨行したが、絶えず馬車の窓から横手に首を出し前の方を眺むるは會葬者の中にる人の居るか居ぬかを認め度い容子である。

けれど何分多勢の會葬人と云ひ、殊に背後うしろからでは思ふ樣に見分けを附ける事が出來ぬ、果はもどかしく成つたと見え、馬車を降りて徒歩と爲り、列の前の方に進み行つゝ、殆ど一人々々檢める程にしたが、伯爵の目指す人は會葬人の中には居ぬらしい。

目指す人とは誰だらう、他に非ず森江大尉である、大尉が如何に立腹して蛭峰の家に荒れ行き、又如何に絶望して其家を立去つたかは、伯爵のほゞ知つてゐる所である、イヤ暮内法師が蛭峰の家に迎へられたとき、入口で擦れ違つて親しく認めた所である、大尉の日頃の氣質を考へれば、此樣な絶望に逢つて、爲す事も知らずに穩かに泣寢入る如き人でない、必ず何か非常の事を仕出來して取返しの附かぬ樣に成りはせぬかと、伯爵は只管ひたすらに其れを氣遣ひ、油斷なく大尉の身を見張つて居たいのである。

併し大尉は何の樣な非常の事を仕出來すのであらう、最早華子が死んだ事ゆゑ、是れも大概は分つてゐる、華子の後を追うて自殺するのだ、確に伯爵は大尉が心中に自殺の決心を起したと見拔いてゐる、自殺の場所は多分墓場に違ひない、何う有つても是だけは推し止めずばと、充分に注意して終に墓場まで着いたけれど、大尉の姿は見えぬ、けれど此葬式に大尉の來ぬと云ふ筈はないからやがて埋葬も濟んで一切の人が歸り盡した後までも伯爵は踏み留り、物蔭に身を隱してゐた所が果せる哉である、一方に在る小高い森の中から、靜かに大尉が現はれた。

彼は先づ四邊あたりを見て、邪魔する人のなきに安心したか、おもむろに今建た許りの墓標に近づき、其前に足を折つた、丁度伯爵のゐる所は大尉のうしろの方に當るので、大尉には見られずして、大尉の姿を見る事が出來る、見れば何うやら腰の邊りに短銃ピストルを隱してゐる。

誠に森江大尉の如き、若手武官中にも名譽高く、後々の見込も充分に富んでゐる人が、一婦人の死の爲に、後より命を捨ると云ふ事はなさ相にも思はれるけれど、爾う思ふのは未だ、華子に對する大尉の愛の深さを知らぬのだ、世には今日親しみて明日忘れ合ふ樣な淺い愛も有るけれど、命と云ふ事を何とも思はぬ深い〳〵愛も有る、其深い〳〵[愛]に至つて、若し一方が死する時は到底殘る片割れがながらへてゐる事が出來ぬ、名譽も幸福も義理も人情も、總て忘れて了ふ、此樣な愛と愛とが若し纒まる事が出來れば、人生は又と無い無限の喜びに入りもするだらうけれど、不幸にして末遂げずば雙方とも此世に無い人とは爲る、いづれの國の情史にも其例の多過るほど有る所ではあるまいか、今大尉の愛の如きは全く此種類である、巖窟島伯爵は、自ら夜々に華子を介抱し、又日々に大尉にも接し、確にさう見拔いてゐる、今は悲しや其見拔いた所が當ツたのだ。

墓の前に膝を折つて大尉は何か祈つてゐる樣で有ツたが、其中に一聲高く「オヽ華子よ」と叫ぶ聲だけが伯爵の耳に聞えた、是れが眞情のあつまツて溢れ出る聲なんだらう、最早猶豫はしてゐられぬ、伯爵は物影より立出でて、靜かに大尉の背後うしろに行き「オヽ森江さんですか」と云つて其肩に手を置いた、大尉は驚いたけれど騷ぎはせぬ、やゝ久しく伯爵の顏を見詰め、聊か恨みを帶た低い聲で「貴方の受合つて下さツたのが、此通りに成りました」伯爵はと靜かに「イエ猶だ受合つてゐるのです」

死だ後に及び、受合つてゐるとは、何を何う受合ふのだらう、不思議千萬な言葉では有る、けれど大尉は聞咎めやうともせぬ、全く最う死ぬる氣の爲、細かな事には頓着せぬのだ、此樣なのが本統に恐る可しだ、誰に何と云はれても思ひ直すと云ふ事が無い、伯爵は更に「少しも貴方は絶望するに及ません、充分の希望を抱いてお出なさい」大尉は相變らず無頓着である「サア伯爵、お參りに來たのならお參り成さい、後で私は祈祷するのですから」伯爵「イヽエ私は濟みました、貴方が祈祷を終るのを待ち馬車を共にして歸りませう」大尉「私は別に歸ります、獨りで」愛想も世辭も無い。

伯爵は猶ほ立つてゐた、大尉は最早邪魔者の來たからは茲で望みは果されぬと思ツたか、又暫らく跪拜した上立上り、伯爵には冷淡に「左樣なら」と一禮したまゝ立ち去ツた、伯爵は少し遣り過ごして其後にき、見え隱れにしたがつて行つたが何處へ何う落着くのだらう。

巖窟王 : 二五三 大尉と伯爵・二

伯爵が森江大尉を眞に我子の如く思ふてゐる事は、今までの一切の所行で能く分ツてゐる、大尉が若し自殺すれば伯爵は自分の一命の半分を失ツた氣がするだらう。

何うしても大尉を救はねば成らぬとの決心で見え隱れにけて行くと大尉は終に自分の家へ入ツた。

五分ほど後れて伯爵は其家に着いたが、見れば門の内に大尉の妹なる緑夫人が下僕しもべに指圖して草花を培はせてゐる、之に向ツて大尉の事を問ふと「今歸つて來て、自分の居間へ入つた樣です」との答へである「爾ですか」と何氣なく點首うなづいて直ぐに其室を指して上つて行ツた。

勿論伯爵は日頃から我家の樣に此家へ出入てゐるから、此方こちらに遠慮もなければ向ふに氣兼もない、大尉の室は離れ座敷の二階である、伯爵は足音を潛めて階段を上り、先づ硝子戸の外からのぞいたが、中には大尉が忙しげに書状をしたゝめてゐる、爾して其傍に短銃ピストルを置いて有る所を見れば、自殺の前に妹か其夫かへ一筆書殘す者で有らう、最う少しも猶豫は出來ぬ、書いて了へば直ぐに短銃ピストルを取上げるに違ひない、とは云へ戸には錠が掛ツてゐるのだから引き開ける事は出來ぬ、若し訪なへば大尉が振向き、伯爵の顏を見て、最う其意を察してゐるから、戸を開けずに直ぐに自殺して了ふだらう、其れは日頃の氣質で推し量られる。

困難の有る度に、咄嗟に智惠の働くが伯爵の持前である、直ぐにこぶしを擧げ鐵槌の如き勢いを以て硝子戸を叩きこはした、其凄じい物音に流石の大尉も驚いて此方こなたを向いた、伯爵は輕く笑み「餘り廊下の拭き掃除が能く屆いてゐる者だからツイ辷つて硝子を一枚 こはしました」と云ひつゝ其 毀目われめから手を入れて掛鎖かけがねはづし事も無げに中に入つた、大尉の不興は一方ならぬ、

先づ伯爵は四邊あたりを見廻し「貴方は自殺する積りですね」大尉「旅に立つ積りです」伯爵「旅に立つ者が短銃ピストルは何事です、書置は何の爲です」最う隱しても隱し切れぬ「私が何を仕やうと、其れは餘計な御心配です」伯爵「イヤ貴方の心中は察しますが、併し自殺は早過ぎます、貴方は一旦、何も彼も私へ任せたでは有りませんか、私の手に何の樣な力のあるも知らず、短氣な事を仕てはいけません、兎に角も氣を永くして――」大尉は辛抱が盡た状である、聊か怒りの調子と爲り、「貴方は何の樣な力があります、人間社會の事は皆御自分の手の中に在る樣に仰有つて、華子の毒害せられるのさへめる事が出來なんだでは有りませんか、貴方を頼みにさへ思はなんだら、假令たとひ華子は死ぬるにしても、私の介抱を受けて死ぬる所でした、唯だ貴方を信じた許りに、私の知らぬ間に死んだのです、私は華子の末期に、一言も慰めて遣る事さへ出來なんだのも全く貴方の爲と思ひます、最う貴方を信用しません、幾等邪魔しても無益ですから此室をお去り下さい、全く私は自殺するのです、お去り下さらずば貴方の目の前で自殺する許りです」散々に伯爵を罵ツた末、手早く短銃ピストルを取上げた。

若し伯爵に、人間以上の非常なる力でも非ずば最早如何とも仕樣が有るまいと思はれた、けれど伯爵は騷がぬ、あたかも人間以上の力でも持つて居る人の如くに落着いて居る、爾してと嚴かな聲で「爾はさせません、お待ち成さいお止め成さい」眞に當然命令する權利でも有る樣な語調である、大尉「貴方は何の權利を以て他人に干渉するのですか、餘計です、餘計です」伯爵は恐ろしいほど烈しい聲で「サア私は誰でせう、廣い世界に唯一人貴方に向ひ命令する力を持つた身分です、眞太郎、眞太郎、森江良造の子たる者が此樣な事で、父の與へた貴重の命を失ふことは決して成らぬ」父の命令とても是れほど嚴重には聞えぬ、大尉は異樣に心動き、「父の名を勝手に用ひ、爾して父の云ふ樣な事を云ふ、貴方は、何者です、何故に父の名を」伯爵「オヽ何故に、丁度貴方の父が今の貴方の通りに短銃ピストルを以て自殺する許りに成つて居たのを、止めたのが私です、父の自殺を推し留めた私は子の自殺をも推し留る權利が有るのです、貴方の妹緑孃に赤い皮の巾着を授けたのも私です、巴丸の亡びた後で同じ巴丸を造つて馬港まるせーゆに入港させたのも私です、貴方が未だ頑是も無い頃、膝に抱上げて守したのも私です、貴方の父上の信認を得て、父上のする丈けの事は何でもする樣に許されて居た團友太郎は私です、貴方は父上が死際に呟いた團友太郎と云ふ名を忘れましたか、私が團友太郎です、今日こんにちは昔父上に許された其力を以て貴方の事にも干渉するのです」大尉は短銃ピストルを投捨てた、爾して椅子から轉げ落ちた、更に立上りはしたけれど蹌よろめいて居る、蹌踉よろめくまゝに戸口に行き、本屋おもやかたに向ひ聲を限りに「緑、緑、江馬さん、江馬さん、早く茲へ、早く」と呼び立てた、廿餘年を經た主從の名乘合は是である。

巖窟王 : 二五四 大尉と伯爵・三

人間業では無い神の業だと一同が思ふ迄の不思議な手段を以て昔此一家を救ふた大恩人が此巖窟島伯爵で有つたのか、更に此巖窟島伯爵が其又昔の團友太郎で有ツたのか。

今まで何者とも知らぬ乍らも此一家は其大恩人を神と立て、明け暮に拜まぬ許りに敬ふて居た、今其人が目の前に現はれたと有つては、驚かずには居られぬ、森江大尉が蹌踉よろめいて戸口に行き、妹と其夫とを呼び立てるも無理は無い。

何事かと緑夫人と仁吉とは馳せて來た、たゞちに大尉は之に向ひ「サア平伏して、平伏して」と云ひ、譯も説かずに先づ兩人ふたりを伯爵の前に膝を折らせ「父上を救ふて下さツた大恩人が此巖窟島伯爵だと分ツた、矢張り、父上の云はれた通り團友太郎で有ツた、サア、日頃のお禮を云ひ度いと其れのみ心掛けて居た吾々一同、早くお禮を申さねば成らぬぢや無いか」餘り迫込んだ言樣に兩ふたりは急に合點も爲し得ぬ程で有つたが、漸く其れと分るに連れて江馬は右より緑夫人は左より伯爵の手に取縋つた、中にも緑夫人の方は伯爵の顏を熟々つく〴〵眺め「爾仰有れば、の時私へ船乘新八と云ふ名前で手紙を下さつた方の顏が、何うやら貴方のお顏に――オヽ其手紙の指圖に從ひ私は其以前に團友太郎の父が住んで居たとやら云ふ家に行き赤い皮の財布を授かりました」仁吉も薄々思ひ出したか「富村銀行の書記とか手代とか云つたのも矢張り貴方で」大尉「爾とも、爾とも、新しい巴丸を入港させて下さつたのも此伯爵」仁吉「何とお禮を申して好いか、此通りで御座います」と殆ど額を床に着けた。

眞に有難涙に暮れるとは此事だらう、暫しが程は室の中に唯だ一同の涙にむせぶ聲の聞ゆるのみで有つたが、緑夫人は漸くに再び伯爵の顏を見上げて「其れなら爾と、早く知らせて下されば今までに、お禮の申樣も有りましたらうに」伯爵も感慨に鼓動する如き聲を發し「イヤ私は何時までも云はずに居る積りでしたのに、大尉が私の口から此祕密を絞り出したのです」仁吉「是ほどの大恩をお掛け下さツて、其れでお禮を申す事さへ出來ぬ樣に、何時までも隱してお出成さらうとは餘りのことで邪慳に當ります」伯爵「イヤ全く私は禮なぞ云はれては濟まぬと思ひましたが、今斯う分ツて貴方がたから此樣な言葉を聞けば、過去つた廿餘年の艱難辛苦も其甲斐が有つたと思ひます、私の胸には人生に對する不平の塊が滿ちて居ますけれど今日は氷の解けて、初めて幸福の何かと云ふ事が分りました」全く其言葉の通りに嬉しげである。

其うちに一同の心もやゝ落着いた、緑夫人は願ふ樣に「何うか貴方は吾々の保護神として、何時までも永く此巴里にお留まり下さい、先逹てのお話しでは遠からず何處へかお立ちの樣に伺ひましたが」伯爵「ハイ私は善人に賞を下し、惡人には罰を下すと云ふ目的の爲め、此巴里へ來て居ます、程なく其目的も屆きませうから、其時は又他國へ立ち去らねば成りません」緑「其れでは餘りお分れが惜しいでは有りませんか」伯爵「其代りに私の行く時は此大尉を同道して行きますよ」

何時まで話したとて言葉は盡きぬ、けれど爾う手間取つても居られぬので、伯爵は然る可く言葉を設け大尉を連れて庭に出た、爾して四邊あたり――に人の無きを見定めて「最う心を取直しましたか」と問ふた、大尉は恨めしげに「ハイ貴方に免じて、短銃ピストルで自殺すると云ふ事だけは止めませう、けれど伯爵、私は到底長くは生て居られません、悲しみの爲に段々魂が消えて行く樣に思ひますから、自然の死を待つ事に致します」伯爵「イヤ其れが惡い、其れだから心を取直せと云ふのです、一旦死を決した人は誰でも此後にとても心の休まる境遇は無い樣に思ひます、たとへば貴方の父上が短銃ピストルを取上て時計の針を眺め詰て居た時に、誰が何と云つたとて此世に生存へる事が出來やうとは露程も思はなんだでせうけれど、實際に生存へる道が出來て其後を樂しく送ツたでは有りませんか」大尉「其れは貴方が有ツたからです、貴方の力で天祐が降つた爲です」伯爵「貴方も矢張り私をお信じ爲さい、天祐をお信じ成さい」大尉「でも私の場合は違ひます、既に華子が葬られた後で、何處から慰めて呉れる者が出て來ませう、最う天祐を信ずる期限が過ぎました」伯爵「イヤ爾で無い、私は長くとは云ひません、今から一ヶ月の間私を信じて下さい爾さ今日は九月の五日ですから十月の五日まで氣を取直してお待下さい、必ず貴方の前へ心の慰む樣な者を出し、アー生きて居て好かツたと思はせて上げますから」大尉「若し其時に其慰める者が出なんだら」伯爵「其時には私が、貴方の前へ短銃ピストルを出し、サア是れで自殺なさいと云つて上ます」大尉は初めて納得した「宜しい、何うせ死ぬると極つた命を一ヶ月待たれぬと云ふ事は有りませんから、大恩人たる貴方のお言葉に免じ一ヶ月待ちませう」伯爵「其言葉をお忘れ成さるな」」大尉「忘れません、十月の五日ですね」伯爵「ハイ十月の五日の午前十時までゞす」とて互に固く言葉をつがへた。

巖窟王 : 二五五 十月五日まで

「では十月五日まで私は自分の身體を貴方に捧げて置くのです」と大尉は悄然として繰返した、十月の五日と云へば今より一ヶ月の後である、其日に至り何の樣な事があるかは、神より外に、イヤ神と巖窟島伯爵とより外に知る者は無い。

伯爵は大尉が言葉の後に就いて「では今日から貴方は私の家へ來て同居成さい」大尉「エヽ貴方と同居を」伯爵「ハイ既に一身を私に捧げたからは何も云ひ分は無いでせう」大尉「其れは爾です」とて唯だ伯爵の云ふが儘に任さんとする容子なるは、全く何も彼も此世に望みを絶つた爲である、伯爵「幸ひ私の家には、今まだ鞆繪姫の居た室が空いて居ますから」大尉「オヤ鞆繪姫は何處かへ行きましたか」伯爵「ハイ野西將軍の事件以來、毎日の樣に新聞や雜誌に名を出されますので、其れが辛いと云ひ、私より先に此國を立去りました、爾して旅先で、私の行くのを待つて居るのです」大尉「では愈々貴方の此國を立去るのも遠くは有りませんね」伯爵「爾です遲くとも十月五日より前です、貴方をも連れて立去るのです」

話は是で極ツた、さうして大尉は愈々巖窟島伯爵の家に同居した。

* * * * *

    富と恥

巴里の中でも極靜かと云はれる町盡まちはづれのドブレー街に小さい一軒の下宿屋が有る、此のほど茲の一室を借りて身を落着けたは、野西武之助と其母露子夫人である、兩ふたりは斯かる所ならば、到底巴里の中心に住む知人などに認められる筈は無いと思ふて居る、けれど必ずしも爾で無い、巴里の中央にも矢張り人目をいとふ用向の爲に故々わざ〳〵淋しい場所を求めて來る人がある、其樣な人同志が、思はずも出會して「オヤ貴方は何うして此樣な所へ」「イヤ貴方こそ何うして」と互に極りの惡い思ひで、顏見合せて驚き合ふ例は折々ある。

其れと此れとは事異かはれど、此同じ家の別の一室を餘ほど以前から借切て、時々密會する男女がある、女は無論覆面で少しも顏を見せぬ樣にして居るが、男の顏も此家の人は見た事がない、寒い時は外套の襟を鼻の上までも締揚げ、暑い時は戸口へ來るが否や大きな手巾はんけちで鼻をかむ、其れで顏を見せずに通る、餘ほど其手際の慣れた者だ、今日も此人は手巾はんけちを顏の眞中に當てゝ入つて來たが、暫くすると覆面の婦人が來た兩個ふたり室の中に入つて初めて露むきだした顏は、段倉夫人と内閣官房長の出部嶺である、此 兩個ふたりの間柄は既に記した所で讀む人は知つて居やう、出部嶺は先づ無遠慮に「昨夜出奔した相ですね段倉氏が」夫人「私へ宛てゝ此樣な手紙を殘してありました」差出すを出部嶺は讀下した「天晴れ貞女なる妻よ、最早夫婦と云ふ空な名の爲に互を蒼蠅うるさく思ひ合ふには及ばぬ事と成れり、餘は明日慈善協會の五百萬を拂ひ得ぬ爲め御身をも家をも捨てゝ出奔す、幸御身には、外に頼みとする人ある爲め、餘は此場に臨んで御身の事は心配するに及ばず、是だけが日頃不和なりし賜なり、御身が其人と結び合ひ餘に掛構ひなく巧に商法して、後々困らぬ丈の資本を作り得たる事は、御身が此數ヶ月間の段倉銀行の負債數千萬に上りたることを知るが如く餘の明かに知る所なり、勿論餘は其金を御身に借うとは云はず、男らしく分るゝ者なり、御身餘が妻と爲りし時は、富と恥とを以て餘が家に來れり、今分るゝ時も富と恥とを殘せる故元々なり、此上は益自由に何人をなりと頼みとせられよ、今は他人の段倉喜平次」と署してある、出部嶺は此苦々しい文句に顏色を變へたけれど少しの間である、直に嘲笑ふ調子で「此亭主、知つて居やがツた」と云ひ更に「でも貴方を妻にする事は御免ですよ」何たるズウズウしい言葉だらう、併し女も負ては居ぬ「私の方で眞平です、サア勘定して分れませう、今までの儲けで、貴方が正直に勘定して呉れゝば生涯安樂に暮されます、儲けを山分けと云ふ約束で資本は私が出し、相場の掛引は貴方が仕たのですから、サア一年間の儲けの半分と資金と、資金の利子とをお寄越し成さい、ナニ計算は私の手帳で分ります、百三十八萬 ふらんに成つてゐるのです」精密な勘定に驚いたけれど間違ひが無いのだから仕方が無い、出部嶺は一萬 ふらんの銀行劵百餘枚を出し「爾です、是だけが貴女の分です」とて渡した、やゝあツて婦人の方が先に歸ツた。

* * * * *

    貧とほまれ

壁一重隔てた隣の室には、武之助が、母の前にわづかに四百 ふらんの金を並べて説明して居る「愈野西將軍の財産を慈善協會へ寄附して了ツて、最う此土地に用は無いから直に馬耳塞まるせーゆへ立ちませう、私は兵籍に身を登記して、愈阿弗利加へ行く事に成りましたから、此通り旅費を貰ツて來ましたよ、此家の勘定は先刻濟ませて來ましたから、サア立ちませう、私は馬耳塞まるせーゆで貴女の身の落着くを見屆けた上、便船に乘込みます、是だけあれば充分です」母は悲しい事ばかりで口をも開かぬ、開けば直に泣聲が止められぬのだ、唯だ息子の云ふが儘に手を引かれ、別に支度とてするに及ばぬ今の身輕さは直に此家を立出でた、此時 あたかも顏の眞中に手巾はんけちを當てた彼の紳士が室の出口に居て、容子を察した、何事にも驚かぬ氣質だけれど流石に感慨を催したか「アヽ富と恥とを持た婦人の後を、貧とほまれとを持つた婦人が行く、世は實に状々だ」と呟いた、併し此紳士よりも猶深く感じた人が、町の曲り角の邊に潛んで居た、此人は母子が辻馬車に乘るのを見て泣かぬ許りに獨語ひとりごとした「アヽ罪ある其父を罰した爲に、罪の無い妻子を此樣な悲境に陷らせた、何とかして此母子には、追つて相當の幸福と平安とを與へねば成らぬ、其れを與へる事が出來ねば惡を懲し善を勸めると云ふ天職に背く譯だ」此人が巖窟島伯爵である事は云ふ迄も無い。

巖窟王 : 二五六 獅子の穴・一

地に落る千萬點の雨の粒は、皆思ひ〳〵に草を打ち、木に留り、屋根を洗ひ、土を濡らすなど別々の目的を持つて居る樣に見ゆるけれど、何時の間にか地の凹い所へ流れ寄り、其處此處に集まツて溜り水とは爲るのだ、其溜り水が又其處から此處からと次第々々にどぶへ落ち、どぶから溝へ溝から河へ、河から海へと、果は浩々たる唯一つの大洋へ流れ入り、合して大なる水とは成つて了ふ。

若し之が草の葉の上に唯だ一點留まツて、落も得せず流れも得せずに居る時に當りては、誰が見て、其終に大海へ注ぐ運命を持つて居る者と思ひ得やう。

巖窟島伯爵を中心として居る、此長い物語りが丁度其れである、點々の雨の樣な細かな澤山の事柄が一粒々々皆大海へ落ちて行きつゝあるのだ、而も其大海は最う遠くも無い、小侯爵と云はれた辨太郎の裁判、大檢事蛭峰の身の上、逃亡した段倉の行末などが、其大海の波瀾である、其波瀾が何の樣に卷起つて來る事やら、粒々の雨を見た許りでは分らぬ、けれど粒々の雨から見て行かねば又分らぬ、とは云へ粒々の雨は最早大方見盡した、殘るは唯だ一二點である。

* * * * *

辨太郎が捕はれて何處の獄に居るかは、係官の外に多く知る人は無いが、其實彼は至急に裁判に附せらるゝ爲め、ラ・フォース監獄の一部サンベルナーと云ふ區劃くくわくに入れられて居る、此區劃は重い見込の囚人のみを置く處で、俗に獅子の穴とは異名する、其謂れは、囚人がやゝもすれば檻の中の獅子の樣に貫木くわんぬきを噛ぢツたり、番人に噛付いたりする爲である、是だけで此穴に入れられる者が如何に絶望し煩悶して居るかゞ分る。

けれど辨太郎はさほど絶望しては居ぬ、彼は確に、自分の身へ大なる保護者が附いて居るを信じ詰て居るのだ、保護者が無ければ今までの自分の身の波瀾が分らぬ、何の足場とても無い身を以て夢の樣に小侯爵と爲り、夢の樣に巴里第一流の銀行家の婿とまで經上ツた、唯だ最後の今一歩と云ふ所で階段から辷り落ちたには全く自分が惡かツた、毛太郎次の樣な者を殺した爲である、イヤ實は自分の運が未だ熟さなんだ毛太郎次を殺さねば成らぬ樣な破滅に到り及んだのが不運で有ツた、定めし彼の保護者は此身の失敗を殘念に思つて居るのだらう、此身が自ら思ふより一入ひとしほ切に思ふて居るかも知れぬ。

さすれば今此身が監獄の底に沈んで居るとても保護者は決して見捨ては仕まい、其大金力と大勢力とを以て必ず此身を救ふに違ひ無い、其れは何う救ふ、牢番に賄賂まかなひして此處から逃出す事の出來る樣にして呉れるか、或は裁判官を買收して輕い宣告を爲さしめて呉れるか、何でも其邊に違ひない。

斯う思ツて彼は、其 衣服みなりなども矢張り婚禮の當夜のを着け紳士然小侯爵然と構へ、或は手巾はんけちで靴を拭ふて光らせたり、小石で爪の先を磨いたりして居る、尤もコンベーインの宿屋で二度まで煙突をくゞツた爲め外被こーと筒袴ずぼんは仕立卸しとは見えぬけれど、其れでも塵一つ留めては居ぬ、獅子の穴と云はれる此獄に此樣な垢拔けのした人の居るのは之が殆ど初めてだらう、併し斯かる間にも絶えず彼の氣になるのは、其保護者が誰だらうと云ふ疑問である、其れは確に我父に違ひ無い、我身には祕密の、本統の、父があるのだ、其父は誰だらう、誰で有らうと探し出さずには置かぬ、何うしても探し出す、探し出して我身を私生兒にした恨をも報い、我身を幾度いくたびも牢に入れるほどの情無い境涯に捨て置いた其邪慳をも思ひ知らせて呉れねば成らぬ、是れを思ひ知らせた後にこそ親は親らしく子は子らしくなりもすれ、此身の運は其上で開きもすれだ。

既に入牢から數日を經て、斯樣な見込は持ちながらも、猶淋しさ心細さに堪へぬ状とは爲つた頃、面會を求める人が有るとて呼び出された、面會を求める人と云へば決して判事や檢事では無い、何でも保護者からの使であらう、保護者が此身に氣をくじかせぬ爲めに、慰謝なぐさめとして人を寄越したのに違ひ無いと、彼は早胸の中の躍る樣な心持して、押丁に導かれて面會室に入つた。

巖窟王 : 二五七 獅子の穴・二

面會室に入りながらも辨太郎は胸を躍らせた、面會者は誰だらう、此身の保護者に違ひ無い、然らずば其使ひである。

彼は面會室に入つて其人を見た、薄暗いけれども顏は分る、自分が幼い頃から育てられた養父春田路である、辨太郎は「ヤ、貴方ですか」と驚いた。

驚くも無理は無い、初めから巖窟島伯爵が、春田路の我家に雇はれて居る事を辨太郎には知らさなんだ、若し知らせては何の樣な疑ひを起して事の妨げを釀すかも知れぬと思ふたのだが、其れが爲に最初オーチウルの晩餐の時には春田路をして辨太郎を見せしめたけれど、辨太郎には春田路の姿を見せず、間も無く春田路をノルマンデーの別莊に送り、猶其外に多くの地方に出る用向を言ひ附けて互に掛け違はせる樣にして置いた、其れだから辨太郎は未だ春田路が伯爵の雇人とは知らず、何うして茲へ面會に來たのかと先づ怪しく思ふのだ。

春田路は落着いた調子で「何も驚く事は無い、子が牢に入れば、父が見舞に來るは當り前である」と答へた「でも私が茲へゐる事を何うして知りました:春田路「新聞紙に出たのだもの、誰だツて知つてゐるワ」斯う云はれては根も葉も無い、けれど辨太郎は、未だ疑ひが解けぬ、我身の如き囚人に面會を求めて許しを得るのは容易の事で無いのだから、何でも餘ほどの勢力のある人が、内々運動して此面會を仕組で呉れたのだと思ひ、念の爲に振向いて戸口を見ると、嚴重に見張つてゐる可き筈の番人も見張つてゐぬ、愈番人にまで鼻藥が屆いて居るのだ、是れだけに手の屆くのは、巖窟島伯爵で無くて誰だらう。

何でも伯爵の手先に使はれて居るに違ひ無いとの疑ひが早鋭い彼の心に起ツた「だけれど誰かに頼まれて來たのでせう」春田路は笑ツた「誰が貴樣などの爲に、頼む樣な事をする者か、父なればこそ――」辨太郎「イヤ違ひます、貴方の力では此樣な面會の道は開けません、知つて居ますよ、何でもエリシイ街の伯爵が」俗に云ふ鎌を掛けて探ツた、春田路は少し驚いたけれど、平氣の状で「おれは其樣な人は知らぬ」辨太郎「知らぬ筈は有りません、今の世に巖窟島伯爵を知らぬ者が何處に在ります」春田路「其伯爵が何うしたと云ふのだ」辨太郎「今まで私を保護して呉れたのです、今でも保護して居て呉れゝばこそ貴方が面會に來る事に成つたのです、ねえ爾でせう、私は巖窟島伯爵を阿父さんと呼んで好いのでせう」春田路は怒ツた「飛んでも無い事を云ふな罰が當るぞ」

言葉に嚴しさで愈伯爵の廻し者と見て取れる、辨太郎「では私の阿父さんは誰ですか」春田路「おれよ」辨太郎「貴方は育てゝ呉れた阿父さんです、私の實の父は」春田路は初めの見幕ほど怒りもせぬ、却つて四邊あたりを見廻して聲を潛め、「實はな、おれは最う、貴樣が死刑に處せられるに極つたと思ふから、せめて此世で、實の父の名だけも知らせて遣り度いと思ふて來たのだ、貴樣は本統に不幸な奴だ、おれが拾ひ上げる迄に種々さま〴〵の事が有ツた、其れさへ知らずに、ナア、自分の身が何者で、何の樣にして世に出たかも無我夢中で、殺されて了ふとは、餘り可哀相な譯だから、おれは何も彼も知らせて遣り度いと思ひ、アヽ貴樣とても、何も初めから罪人として生れたのでは無からうに、イヤ、イヤ、矢張り貴樣は罪に生れた罪の子と云ふ者か知らん」嘘か誠か知らぬけれど、春田路の眼には涙が光ツた、辨太郎は熱心に、殆ど獅噛しがみ附く樣に「何うか知らせて下さい、私は殺されても構はぬから知らせて下さい」

* * * * *

斯て春田路が何を辨太郎に知らせたかは分らぬけれど、ても、此辨太郎を裁判に附する爲め其罪状を取調べて居る蛭峰大檢事の容子は又見ものである。

彼は華子の葬式が濟んで以來、書齋へ閉ぢ籠つたまゝ、妻にさへ顏を見せぬ、時々裁判所や警視廳へ使を出して書類を取寄せはするけれど、其暇さへ待遠しげである「何でも是を調べれば巖窟島伯爵へ關係が出て來るのだかとは彼の最初に斷言した所である。

三日三夜、彼は調べ續けた、調べては書き書いては調べ、終に立派な論告書を作り上げた、けれど未だ滿足せぬ、其煩悶の状は、調べに着手した初めの時と少しも變らぬ、イヤ初めよりは一層甚だしい。

「アヽ此樣な事ではおれは終に發狂する、併し辨太郎の罪跡が明々白々だから、後は裁判所で彼に白状せしむれば好い、彼の白状の言葉をとらへ、又綿密に突込めば彼の事まで分るだらう、爾うだ、其れならば斯うまで心配するには及ばぬ、けれど待てよ、此裁判は此身に取つて、殆ど生涯の大戰爭だ、自分の身にも非難の無い樣に萬に一つも間違ひの無い樣に仕て置かねば成らぬ、アヽ實に、此樣な事を――此樣な妻を、イヤ妻とて容赦は出來ぬ、最う此通り世間の疑ひも妻に掛りのみならず爭はれぬ多くの證據が有る上は、大檢事の職として、何で捨置かれる者か」

辨太郎に對し、巖窟島伯爵に對し、た自分の妻に對し彼は三樣に煩悶して居たのである、けれど心は決したと見え、卒然立つて妻の室に入つた、此室には妻が息子重吉を遊ばせて居る、直に蛭峰は重吉に向ひ「少し外へ出て遊んで來い」と言渡した、其語調が其顏の曇り方と共に一通りで無い、腕白な子だけれど、一言の答へも無く、唯だ恐ろしげに父の顏を見返つたまゝ外に出た、後に蛭峰は無手むずと妻の手を捕へた、爾して夫の口調で無く、大檢事と云ふ嚴かな口調を以て「貴女はいつも使用する毒藥を何處へ隱して有りますか」尋たゞならぬ態度と、尋常たゞならぬ言葉に、妻は早や顏色土の如しである「エ、エ、何と」問返す聲も咽喉につかへる樣に聞える、蛭峰は更に烈しく「エ、いつも使用すると云へば分りませう、米良田伯爵を殺し、其夫人を殺し、忠助を殺し、華子を殺した其毒藥を貴女は何處にしまつて有りますか」」凛として侵し難い、眞に秋霜烈日の如き言葉とは之である。

巖窟王 : 二五九 裁判一

嗚呼辨太郎の裁判、恐らくは是ほど巴里の人心を引寄せた事件は此頃に無いだらう、今日が即ち其日である、蛭峰大檢事が急いで家を出たのも、此裁判に於て、有らん限りの雄辯をふるひ、被告の罪を數へ立てん爲である、爾うして猶ほ表面に現はれぬ深い深い祕密の事を迄もえぐり出さん爲である。

裁判所へは、午前七時から傍聽人が詰め寄せた、凡そ巴里の上流は悉く茲に集まツたと云ふても好い、其れは何の爲だらう、餘り事柄が意外な爲である、昨日まで幾千萬の財産を受嗣うけつぐ可き小侯爵と思はれ、其家筋は詩人のダンテの神曲に謠はれて居る皮春の血統なりと敬はれて居た者が、巴里第一流の銀行家の令孃と婚禮を披露するゆふべに忽ち恐る可き殺人者、た牢破りの罪人と分ツたのだから、是が世の人を驚かさずば世に驚く可き事は無い。

殊に彼が小侯爵で居た間は、公園の如き盛り場へも出て、第一流の貴族と同じく馬車をならべて練歩くことも仕た、有名な料理店などに入つて贅澤を競ひもした、夜會と云ふ夜會には大抵招かれ引く手 數多あまたと云はれる令孃逹と手を引合つて踊ることもした、全く誰からも尊敬す可き貴公子と思はれ、時めく程で有ツたのだ、其時限は短いけれど、短い丈けに華やかで有ツた、華やかな丈に澤山の知人も出來た、此樣な人が殺人の大罪人として法廷に立つたのだもの、誰が驚かずに居る者か。

大抵の人は、何か此裁判で、非常な祕密が現はれて來るだらうと信じて居る。辨太郎の美しい顏優しい姿とを見、又其流暢な言葉を聞いて只の普通の殺人者とは思ひ得ぬ、何か非常に込入つた事情が有つて、止むに止まれぬ所から其樣な事に成つたのだらうと云ふも有れば、裁判の何處からに間違ひが有つて、其れが辨太郎の口から現はれるだらうと云ふも有る、極めて常識に富んだ人とても牢破りの罪人が貴公子と立てられるに至ツた道中には必ず非常な智慧とか、非常な工風とかゞ有つたゞらうと云ふ事丈はいなみ得ぬ、あたかも此裁判をば餘ほど珍しい芝居の幕開きの樣に思ふて居る。

定刻前に滿場と爲ツた傍聽席には、其れ等の樣々の噂が沸騰わきたつる樣に立つて居る。

甲「併し彼を巴里へ連れて來たのは彼の父皮春大侯爵と云ふ武人だと云ひますよ」乙「サア本統の惡人は其武人だらう、彼は唯だ其人の手品の種に使はれたに過ぎますまい」丙「でも其侯爵はつとに露國へ行つたとか云つて其姿が見えぬでは有りませんか、何の爲に辨太郎を皮春小侯爵として社會に出したか其目的が更に分らぬ」丁「其分らぬ所が面白いから我々は來たのです、事に依ると父と云ふ人まで、捕まつて法廷に出されるかも知れませんぜ」戊「何しろ此事件で第一番に馬鹿を見たのは巖窟島伯爵でせう、伯爵は最初に小侯爵を信じて、何十萬圓とやら立替たと云ふ事です、彼が小侯爵として身を支へて居たのは全く其金でせう」巳「アノ樣な大金持は其樣な事で身代を減せるが好い」庚「併し今日は未だ伯爵が此傍聽席に見えぬ樣ですね、其樣な事が、極りが惡くて自ら遠慮して居るのでせうか」

漸くにして定めの時間とは爲り、芝居ならば幕が開いた、裁判長も入つて來た、陪席判事も座に着いた、次ぎに陪審員も席を構へた、此時までも檢事長の席だけは空て居たが、やがて一方の戸口を推開いて悠然歩み出たのが蛭峰其人である、彼は書類を入れた鞄かばんを携へ、裁判長に默禮して席に就いた、此人が今日こんにち被告の罪を數へ立てる職である、此人の雄辯は罪人が戰慄して恐れる所で、傍聽者の胸の波は多く此人の爲に打つので、今日は殊更に莊重に、又嚴めしく見えて居るのは腹の底に何の樣な材料を蓄へて居るのだらう、あたかも一人の千兩役者が、獨りで舞臺を壓して居るが如くに、唯だ此一人で殆ど全法廷の重きを爲して居る。

「被告を是れへ」との裁判長の命令も下ツた、鎭まツた傍聽人の首は一時に、被告の引出されて來る隅の方の戸に振向いた、其戸は開けた、被告は警官に連れられて歩んで來た。

巖窟王 : 二六〇 裁判・二

辨太郎は警官に連れられて此法廷に歩み入つた、有罪と極る日には無論死刑に處せらる可き筈だから、定めし落膽の状が其容子に現はれて居るだらうと誰も豫期した、所が彼は少しも打萎れた容子が無い。

眞に彼は平氣である、茲を法廷と知つて居るだらうかと怪しまれる。或は唯だ通例の懇意の家の客間へでも通される樣な氣で居るのでは有るまいか、顏のおもての靜かさは平生の人に少しもかはらぬ、恐れも悲しみもた嬉しさも、何事をか心待に待設ける樣な色も何にも無い、單に平氣である。

爾して身のこなしも別に顏色を違ふ所は無い、矢張り平氣の人である、法廷に入つて先づ居並ぶ裁判官を見た、中にも裁判長は最も長く見た、次には大檢事蛭峰の顏を、之は裁判長の顏を見たよりも長く見た、爾して定めの席に就く時に輕く傍聽席を見廻した、別に或る罪人の如く勉めて愛嬌を播くでは無いが、併し彼の顏には天然に多少の愛嬌がある、傍聽者の意見は二派に分れたらしい「餘ほど法廷に慣れて居るな」と云ふも有り「彼は堅く自分の無罪を信じて落着いて居るのだ、何でも非常に意外な事を言立てるに違ひ無い」と云ふのも有つた、併し二派とも益々法廷が面白いと思ひ、早や手に汗を握ツたのは同樣である。

彼の次に彼の辯護人が着席した、事情に通じた人の説に由ると、彼辨太郎は自ら辯護人を頼む事を嫌ひ「ナニ其樣な者には及ばぬ、自分の身は自分で辯護する」と云ふた相だ、此一語で胸に何事をか蓄へて居る事が益々分る、其れで此辯護士は、規則の通り裁判所が選んで附けたとの事であるが、餘ほど新米の人と見え年も若く、爾して被告の平氣な状に引替へ一方ならず心を騷がして居るらしい。

斯う席が定まるが否や、裁判長は大檢事に、論告に取掛らせた、サア是が實に聽き者である、何時とても蛭峰の辯論は流石に大檢事だと傍聽人に敬服せられるが、此日のは殊に雄辯の妙を極めたと云つても好い、簡單で、明白で、爾して力が強い、或る所は針で刺す樣に、又或所は鐵槌で叩く樣に、と痛快に被告の罪を數へ、其心根を責め、斯る者を生存せしむる社會の危險と之を鎭滅する裁判の職責とを説き、わづかに廿分ばかりの間に、傍聽人總體の心をば、悉く辨太郎の方へ振向けた、唯だ獨り此雄辯に感動せず、初めの通りに平氣の色を支へて居るのは辨太郎である、首をも埀れねば眼をも動かさぬ。

是れは聊か大檢事の見込にも目的にも違ひのだ、何でも彼をして恐懼、悔恨、た慚愧、措く所を知らざらしむる迄に責附けねば成らぬ、顏に顏色を變させ、身をおのゝかせる迄に感動を與へねば成らぬ、大檢事は更に、其廿餘年の職務上の實驗から得た人間の心理の微妙なる絲筋を手繰り、一層は一層よりも深く辨太郎の心も最も痛かる可き所を衝いた、是れが檢事の奧の手である、此手に罹ツて搖るがぬ者は今までに一人も無い、けれど辨太郎のみは搖るがぬ、此上も無い平氣な状が猶ほ其上に度を増す樣にも見える、檢事は全く手段が盡きた、此上に説くのは却て今までの自分の言ふた事の力を減らしこそすれ、増しはせぬ、一旦茲は論を結んで更に然る可き場合を待ち、新に雄辯を持出す外は無い、唯だ幸ひな事には、被告が平氣なれば平氣なる丈、傍聽人が其厚顏を憎み、二派に分れて居た同情が全く一團と爲つて被告を見捨て、檢事の方へ雪崩れ込んだ樣子だから、之をせめてもの慰藉として蛭峰は席に就いた、併し此向では、兼て被告に何うしても白状させねばと思つて居るだけを白状せしめ得るや否や覺束ない。

此次は被告が尋問せらる可き順である、裁判長は被告に向ひ、先づ姓名を問ふた、被告は春田路辨太郎と答ふ可きである、けれど意外にも彼は「私は自分で答ふ可き事柄の順序を定めて居ますので、其順序に違つたお返辭は致しません、何うか姓名は後へ廻して下さい」と請ふた、餘り不思議な請ひである、さてこそ愈々意外な陳述が出るだらうと傍聽人は又熱心の度を増した、被告は更に「若し何うしても姓名から問はねば成らぬと仰有るなら私は幾等お問ひに成さツても返辭はしません、無言で死刑に處せられます」と度胸の底を打播いた、裁判長はたつて爭はぬ「然らば年齡から問はう、何うだ年齡の次に職業と、此樣な順番に問へば返辭は出來るか」被告「ハイ、其れならば出來ます」何の爲であるか殆ど分らぬ裁判長「幾歳ぢや」被告は「滿廿一歳になる所です」と明かに答へ、更に檢事長の顏を見て「能く注意を願ひます、私の生れたのは千八百十七年の九月廿七日の夜中です」檢事長は次に立つ可き辯論の爲に何やら急がしげに手帳へ書留て居たが、此年月日を聞くと共に頭を上げた、ハテナと、特に氣を留める容子である、裁判長「何處で生れた」被告「巴里の廓外オーチウルで生れました」此地名に大檢事は再び頭を上げ、今度は被告の顏を見てジツと眺め、聊か自分の頬に血の色を動かした、被告も之と同時に目早く大檢事の顏を見たが、直に又知らぬ顏にかへり、絹の手巾はんかちを出して口許を拭ふた、其口許には異樣な笑が浮んである、何だか樂し相にも見える、裁判長「シタが汝の職業は」

巖窟王 : 二六一 裁判三

「シタが汝の職業は」アヽ職業は何であらう、辨太郎は此問を待設けて居たらしい。

彼は滿場に聞ゆる冴けた聲で「私に職業と云ふ者は有りません、けれど若し糊口の道を立てゝ行く仕事をば職業と謂ふならば、私は最初に詐欺師で有りました、詐欺の手段で糊口しました、次には窃盜に轉業しました、詐欺の職業は餘り手數が掛りますゆえ其れで簡單に人の物を盜む事に改めたのです、爾して近い頃では又其業を替へ人殺しと爲りました、人殺しと爲つた爲め此通り法廷へ引出されるに至ツたのです、後にも先にも此外には職業が有りません」何たる恐ろしい答へだらう、凡そ法廷が開けて以來、此樣な陳述は無い、裁判長さへも、一時は驚いて顏を傍向そむけた、陪審員は呆れて嘆息した、傍聽人は顏と顏とを見合した、此中に蛭峰大檢事は何うして居るだらう、誰も彼の顏を見る者は無い、併し彼は一同の中で最も驚いた一人である、忽ち顏を青くして、次には赤くし、爾して遂に手を揚げて前額ひたひを抑へた、多分は頭が割ける樣に感じたのだらう、是でも猶ほ落着き得ぬ、何か發言し度さうに立上ツて又坐り直した、全く落着く所が無いと見える。

獨り此状を見て取つた辨太郎は、最も恭々しい態度で「貴方は何か品物をお搜しですか」と問うた、眞に蛭峰の動作は物を搜し居る樣に見立て可きだ、けれど蛭峰は返辭をせぬ、やがて裁判長は叱る樣に辨太郎に向ひ「其方は罪の重いのを自慢にするのか、自分の罪をいやが上にも誇張して人を驚かせ、爾して於て自分の名を名乘る積なのだな、サア、名を申せ」辨太郎は何處までも恭々しく構へて「イヤ裁判長閣下、閣下のお察しには敬服致しました、如何にも私は身の汚らはしい事を述べて、其上で其汚れた家名を述べる積です、私の數々の汚らはしい行ひが誰の家の名を汚したか、又何の爲に出たかと云ふ點に深く御注意を願ひます」實に、妙な迂遠まはりどほい言ひ方である、併し何が爲に此樣な事を言ふのだらうと、訝かり怪しむ傍聽人の不審の念は殆ど頂上に逹した、裁判長「サア姓名は」

辨太郎は少し悲しげな調子を帶び「裁判長閣下、私は自分の姓名を知りません、イヤ姓名が無いと云ふのが適當でせう、私は父から其姓を與へられず、名をも附けられた事の無い身です、父の姓名ならばお答へします」滿場は針の落つるも聞ゆるかと思はれるほど靜かになツた、何の樣な父の名だらう、裁判長「然らば父の姓名を申せ」辨太郎「私の父は大檢事です」低い細い聲だけれど滿場に物凄く響き渡つた。

裁判長は又驚いた、爾して自分よりも蛭峰大檢事が何の樣に驚いて居るかには氣を附けるいとまが無い、實に蛭峰の顏の騷ぎ方は非常である、裁判長「ナニ大檢事とな、大檢事とな」繰返して問ふも尤もである、辨太郎「ハイ大檢事の職に居ります、茲で其姓名を云ひますからお聞き取りを願ひます、姓は蛭峰、名は重輔、確に職務は大檢事と存じます」今までは傍聽人も陪審員も、陪席判事も、唯だ裁判所の尊嚴を思ふ爲に自ら制して鎭まツて居たけれど、此一語を聞くに及んで全く何も彼も忘れた體である、一同の口から一時に樣々の聲が出た、驚いて叫ぶも有れば、被告の横着を叱るも有り「是は意外」と口走るも有る、けれど總體に於て、被告の餘り亂暴だと思ふ人が多かツた、併し被告は平氣である、今に此騷ぎが鎭まらば、自ら自分の言葉が通る事になるとかたく信じて居るらしい、けれど容易には鎭まらぬ、裁判長は聲を限りに叱咤した「其方は裁判所の威嚴を無視して、其秩序をみださん爲に其樣な事を申すのか、此樣に法廷を騷がすとは實に後々へ惡例を遺すと云ふ者、不屆きである」

けれど辨太郎の言葉は、效能が無くは無かつた、幾多の人々爭ふて蛭峰大檢事の状を見た、中には直に彼の許へ馳せ附ける人も有る、實に彼は氣の毒である、殆ど椅子のおもてに沈む込み、起きも得あがらぬかと怪しまれる、勿論人々は彼をば故無く侮辱せられた者と思ふて居る、從つて出來るだけ慰藉の言葉を加へもした、勵ましもした、爾して充分の同情を加へた。

此間に傍聽席では一人氣絶した婦人がある、顏は濃い覆面に隱れて居て誰だか分らぬ、けれど隣人が直に嗅藥を嗅がせた爲め我にかへり誰の厄介をも受けぬ事と爲ツた、併し辨太郎の油斷無き目はたゞちに此婦人に注いだ、長く見詰はせなんだけれど此婦人と蛭峰の顏とを等分に眺め分けた。

其中に總體がやゝ靜まツた、斯と見て辨太郎は裁判官の叱りに答へ、かた〴〵滿場へ言譯をする如くに其淀みの無い言葉を以て「私は別に法廷を騷がせる心とては有りません、唯だ正直に裁判長のお問に答へて居ります、知る事は知ると云ひ知らぬ事は知らぬと申し、少しでも事實で無い事は加へません、是で法廷が騷ぐのは私に於て致し方が有りません、或は私が父の名を持出したのが惡いのでせうか、是は自分に姓名が無いのですから、父の名を申立てる外有りません、私の父は大檢事蛭峰です、私は間違ひの無い爲に最一度言直します、言切ます、私の父は大檢事蛭峰重輔です、私は直に茲で其證據を提出する事が出來るのです」彼の言葉には力がある、確信がある、熱誠がある、滿場は此言葉に壓せられた如く又鎭まツた。

巖窟王 : 二六二 裁判・四

是ほど人を驚かせる申立が、他に在る事が出來やうか、蛭峰大檢事を我父と云ひ、證據を提出することが出來ると云ふのだ。

常は落着いた裁判長も我れ知らず迫込せきこんだ、殆ど顏が赤くなツた、爾して云ふた、「其れは豫審廷の申立と違ふぢや無いか、又豫審廷に於ては、名を辨太郎と云ひ、コルシカ島の者だと云ひ立て居る」辨太郎「ハイ豫審廷では出鱈目を申ました」裁判長は怒ツて「出鱈目を」辨太郎「ハイ公判の時で無くば云ふたとて仕方が無いと思ひ眞の事實を今日こんにちまで隱して蓄へて置く爲に其樣な事を云ふたのです、今日茲で云ふ所は、活た證人を出す事も出來れば、實物の證據をも一々お目に掛る事が出來ます、私は誠意を以て斷言します、此私が檢事長蛭峰重輔の私生兒である事を」之を事實とすれば、餘りの怪事である、若し事實で無いとすれば、餘りの暴言である、裁判長は殆ど、一時裁判を閉ぢやうかと迄思ふたらしい、暫し默然として考へた。

併しホンの暫しで有る、勿論被告が何を云はふとも裁判を中止する謂はれは無い、相當に問ふ可き丈の事は問ひ言ふ可き丈を言はねば成らぬ」「もつと詳しく述べて見よ」と云ふのが裁判長の直に發した言葉である、辨太郎は滿足げに、前より一入ひとしほ落着いて「私は既に申しました通り千八百十七年九月廿七日に生れましたが、其時刻は夜の九時過でした、其場所は、先刻オーチウルと云ひました、此れも詳しく云へば、吹上小路廿八番邸で、赤い戸帳とばりの掛つた二階の一室で生れました、今でも此室が餘り其頃と變らぬ景状ありさまで存して居る事は多分私の父蛭峰大檢事も見たでせう、私も遠からぬ以前に見ました、丁度 裏階子うらはしごへ降らうと云ふ所に在ります」一語一語聞くに連れて蛭峰の恐れは増す容子である、彼の恐れが増せば増す丈け辨太郎の言葉は愈々調子附いて愈々力が増す、辨太郎は語を繼いだ「私の生れ落つるや否や、父は私を壓し殺しました、イヤ壓し殺し得たと思つたでせう、母に向ひ、此兒は死んだと云ひ聞かせ、布に私を包みました、其布にはH・Nの二文字を縫附けて有りますので今でも分ります、此二文字は多分私の母の姓名の頭字だらうと思はれます、其れから父は私を箱に入れ、小脇に挾んで自ら今申す裏階子うらばしごを降り庭の樹の下へ埋めました、裁判長閣下、父は私を活埋めにしたのです、其時私は未だ死んで居なんだのです、死なねばこそ今日こんにち此通り、活て居て此法廷に父の人と爲りを告ぐる事が出來るのです、私は深く此事實につて公明なる裁判を願はねば成ません」

眞に滿場の人々は金縛りにせられた樣で有る、此恐ろしい陳述が何う終るかと、手に汗握る想ひはしても、總身がこはばツて、嘆息を洩らす事さへ得せぬ、裁判長「併し其樣な詳しい事柄が其方には何うして分る」辨太郎は此問を待つて居たらしい、直に又答へ初めた「ハイ私は是非とも其事を聞いて頂かねば成りません、私の父蛭峰重輔は、何か其前に、人に恨まれる樣な事でも仕たと見え、コルシカ島の何某なにがしと云ふ男が彼に復讐ベンデタを言ひ込みて隈間無く彼を附け狙ふて居たのです、此夜も彼をオーチウルの家までけて行き、其庭んい隱れて居て、父が樹の下に穴を掘る所から怪しい箱を埋める所を悉く見たのです、爾して埋終ツた時、くさむらから躍り出て直に彼を刺殺しました、イヤ彼の其儘倒れたを見て刺殺し得た物と思ひました、裁判長閣下、茲で一應御注意を願ツて置きます、今でも彼の身體を檢すれば確に其傷が跡を留めて居るでせう、私は彼の身體の何處と云ふ事を明かに指す事も出來るのです、其れ丈けで未だ足らぬとならば、彼を刺した其當人をも指名する事が出來るのです、幸に其當人は今も逹者に生きながらへて居ますから證人として呼出して戴く事も六かしくは有りません、其れから其人は父の倒れたを見て、安心はしましたが、今埋めた箱に不審を起しました、事に依ると祕密の寶物で有るかも知れぬと云ふ樣な慾心の爲めに、其箱を掘り出しました、運び去つて蓋を開きました、中から出たのが私で有ツて、猶ほ活て居ました爲め、驚いて之を其附近の育兒院へ投込みました、併し他日の證據にと思ひ、其 くるんだ布に在るH・Nの縫字を、半分だけ切取つて持去りました、直に私は、夜の明けぬうち育兒院へ收容せられました、私は第二十七號孤兒と云ふ札を附けられ、暫らく其處で養育せられました、斯くて三ヶ月の後に、此育兒院へ私を受取りに出た女が有ります、此れはコルシカ島から、今申す布の片切を持て故々わざ〳〵出張したのです、布の片切が何よりの證據ゆゑ私は直に其女に渡されました、是れで以て私が、巴里に生れた身ながら遠いコルシカ島で育て上げられた次第が能く分りませう」と云い來ツて辨太郎は、涙を隱さん爲の樣に目を屡叩しばたゝいた。

巖窟王 : 二六三 裁判・五

人跡絶えた空谷とても、此時の此法廷ほど靜かでは無いだらう、誰一人何の物音もさせぬ、裁判長は辨太郎の目し屡叩しばたゝくをも知らぬ振で、「其れから」と後を促した、辨太郎は眞に感慨に堪へぬ樣な語調で「裁判長閣下、其後の事は私は自分ながら情無い想ひがして詳しく述べる事が出來ませんひとへに閣下のお察しを願ひます、私は斯の如くにしてコルシカ島に育てられました、ハイ立派に育てられたと云ふても良いのです、捨てた誠の親の薄情とは違ひ、拾ふた義理ある親は實に善人でした、信切でした、親身も及ばぬ慈愛を以て私を育てました、若し私が人並の人間ならば必ず其慈愛に感じ、愛に染み、心も清い通常の人間に成る事が出來たでせうに、悲しい哉私は生れた時の事情が既に捻けて居た如く、心の底に何處か到底人並には延る事の出來ぬ曲つた所が有つたと見えます、何か善人に成らねばならぬ、何う育てゝ呉れる人の惠みを思はねば成らぬ、とあしたゆうべに心には思ひながらも段々に惡い方へ傾きました、實に私は情無いと思ひました、此樣な事では行末が何うなるだらうと人からも氣遣はれ、自分でも恐れましたゆゑ、或時養父母の前で、イヤ其時は未だ養父母とは知りませんでした、既に私は十三四歳で有りました、けれど誠の父母とのみ思ひ、其前で泣いて叫びました、如何ならば此身には天が心の底に惡い罪惡の種を植附けたのであらう、自分で除かうとしても其種を取捨る事が出來ず唯だ日々に其種が増長して自分の一切の善心を皆枯らして了ふ樣な氣がする、眞に神が恨めしい、何故此身にのみ、人と違ツて此樣な強い惡の種が天賦されたで有らうと云ひました、全く私は腹の底に惡魔の卵子たまごを懷いて居る樣に感じました、其 卵子たまごが自分の意の拘らず日々成長する樣に感じました、其卵子さへ無くば、或は善人で有ツたかも知れません、何うか善人に成り度いと云ふのが私の唯一つの願ひでした、其れだのに惡の方が次第々々に増長するから情無いでは有りませんか、養父母は私が此樣に悔しがり、天を恨み、神を罵るを聞き兼た者と見え、或日私の泣入つて居る時に云ひました、汝其樣に神を恨んでは罰が當る、又自分を恨むには及ばぬ、汝の心の底へ惡魔の種を蒔いたのは神でも無ければ己の所爲せゐでも無い、全く汝の父の過ちが子の報うたと云ふものである、生ながら汝を地獄へ埋めたゆゑ、汝は地獄の底で惡魔の息を吹込まれて蘇生いきかへツたのだ、若し恨むならば汝の父を恨めと、斯う云はれました、是から私は全く絶望し、到底眞人間には成れぬものと唯父をのみ恨みました、父を恨むのが無理でせうか、如何なれば父は、罪惡の中へ私と云ふ種を卸し、如何なれば其身の非を悟る事はせずに、生れるが否や私を殺したのでせう、如何なれば惡魔の息を吹込まれて此世へ出る樣に私を活埋にしたのでせう、其後と云ふ者は、私には少しも人間らしい心持の無い事になりました、自分一身が全く惡魔に成つて了ツたかと思ひました、其れでも又時々は樣々の事情にも逢ひ、消え掛ツて居る善心が動いて、アヽ今度こそは善心に立返る事が出來るか知らんと、此樣に希望を起した時も有りますが、惡魔の子には到底人並に神の惠みや人の愛を得る時は來ぬ者と見えいつも毎も其希望が無駄に成りました、其度に私は益々父を恨む心を起りました、其心が矢張り此魔の心から出るのでせう、此頃に至り皮春小侯爵などと人に云はれる樣に成つても、矢張り今度こそは是で善人に歸り度いと、祈らんでは有りませんでした、斯う云へば身分をかたる樣な惡人に、其樣な心が有る者かと疑ふ方も有りませうが、是とても私が自らかたる氣が有つて騙るのでは無く、種々いろ〳〵の事情や種々の人が、私の知らぬ間に私を皮春小侯爵と推立てゝ呉れたのです、其れだから或は天の助けが來たのかと喜びました、其後は天の力か惡魔の仕業か自分でも合點が行かぬほど運が開け、高い高い所へ引上される樣な氣が致しましたゆゑ、愈々惡魔の網が切れ、人間の中へ救ひ取られる時が來たと只管ひたすら喜んで居ました所が、何うでせう、矢張り惡魔は惡に終り、今度は死刑の宣告を待つ罪人として、人も有らうに自分の父から論告せられ、罪の上に罪を數へられる事に成りました、勿論私は罪が有るゆゑ罰せられるは當然です、けれど私は今此瞬間に於てほど父の憎さを浸々しみ〴〵と感じた事は有りません、論告される私が罪でせうか、論告する父が罪でせうか、裁判長閣下、是だけの事實に依つて、若し益々私を憎む可しとすればお罰し下さい、惡魔は惡魔の如く滅ぼされます、若し憐む可き者とすれば、再び眞人間に返る時間をお與へ下さい」殆ど陳述では無くて辯論である、裁判長は爾う長く言はせては置かれぬと見てか「シタが汝の母は」と直に問ふた。

母と聞かれて辨太郎は、得も云へぬ悲しみを帶び「何うか母の事はお問ひ下さるな、母に何の罪が有りませう、母は父の言葉に欺かれて私を死んだ者と思つたゞけです、實に憐れむ可きです、私は斯う云ふ中にも深く母上の惠みを感じます、父は私の罪を數へても母上は必ず憐れんで居られませう、助ける事の出來る者ならば、何うか助けて遣り度いと、今が今まで私の身から目を離さず、人知れず泣いて居て下さる事が私の神經には通じます、何で此大恩の有る母上の事を此法廷などで申されませう」夫れは全く涙聲で有る、此聲と共に忽ち傍聽席で氣絶した婦人が有る、此れは先刻も氣絶して隣人の世話に成つた彼の覆面夫人である、今度は嗅藥でも直らぬ、直に警吏が其許に馳せ附けた、爾うして抱き上げる拍子に顏の覆面がはづれた。

巖窟王 : 二六四 裁判・六

誰も彼も今氣絶した婦人の方に振向いた爲め此時蛭峰の顏色が何の樣で有つたかを知らぬ、若し知れば其相格の恐ろしさに化物かとも思ふだらう、彼は實に今までの蛭峰では無い、まなこなども開いた目から飛び出し相に見えて、前額ひたひの邊は種々樣々の青筋にからまれて居る、頬も引痙ひつゝつた樣に見える、或は彼は發狂するのでは有るまいか、斯うまで彼の相のみだれて其れで發狂せずに居られるなら人で無い、鬼である。

婦人は其氣絶したまゝに、憲兵の手で場の外へ運び去られた、其時に覆面のはづれて現はれた顏は、既に讀者の察して居る通り段倉夫人である、此夫人が何故に氣絶したか、誰も知る者は無い、又深く怪しむ者も無い、實は今の辨太郎の陳述で、大抵の婦人は氣絶しかねぬ程に神經を騷がせた、イヤ婦人で無くとも、男子でも、少し感じの鋭い人は心を攪擾かきみだす樣に成つて、氣絶する人の有るは當り前だと思つた。

婦人の顏の見えた時、蛭峰は何か目に見えぬ手で首筋を捕へて引立てられる樣に立上ツた、爾して前の方に身體を突出し、運び去られる夫人の身體を引留めんとする如く兩手を延ばして空を掴み、やがて呻きの聲と共に又椅子の上に、尻餠をいて沈んだ、眞に彼の心の中は旋風つむじかぜの吹卷く樣な状であらう、けれど裁判長は無慈悲である、嚴重である、少しも彼の苦しみを知らぬ、イヤ彼の方へ振向いて見さへもせぬ、相も變らぬ確な、冷やかな、而も鋭い語調で辨太郎に向ひ「其方の申立は常識を以て信ずる事の出來ぬ種類である、斯る異常の事柄を主張するには、證據の上にも證據が無くては成らぬ、サア證據が有るか、有るならば悉く提出せよ、サア證據を、證據を」

茲が辨太郎の待つて居た所だらう、彼は只た今泣き聲で段倉夫人を氣絶させたに引替へ、今度は全くの嘲る聲と爲り、「エヽ、證據を示せと仰有いますか、證據が無くば私の陳述が信じられぬのですか」裁判長「爾だ、證據が無くば一言たりとも事實とは認められぬ」辨太郎は再び嘲笑ツた、爾して蛭峰を尻目に掛けつゝ「證據が御必要と爲らば、先づ蛭峰大檢事の態度を御覽下さい、然る後に私から證據をお見せ申します」此一言に滿場の視線は悉く蛭峰のお一身に集まツた、眞に幾百千のまなこの光りに彼の身が燒殺されぬのは不思議である。

イヤ燒殺されはせぬけれど、彼蛭峰は靜かに此視線を受て居る力が無い、フラ〳〵と又も椅子から立上ツた、彼の毛髮かみのけは何時の間に掻むしツたか蓬々ぼう〳〵と亂れて立つて居る、彼の足には身を支へる力が無い、蹣跚よろ〳〵蹌踉よろめきつゝ卓子てーぶるの横手へ突出る樣に現はれて其卓子の隅をしかと杖に突き、辨太郎を見卸した、其容子の物凄いことは何とも譬樣が無い、辨太郎は彼の顏を見上げた、實に異樣な親子の對面である、猶も併し辨太郎は嘲る調子で「阿父さん、阿父さん、裁判長閣下が證據を示せと云ひますが何うしませう、證據を示さねば成りますまいか、證據を示して好いでせうか、エヽ阿父さん」蛭峰の塗炭場どたんばは是れである、彼口を動かしたけれど、とみには聲も出ぬ、咽喉が乾き切つて聲を爲さぬのだ、幾たび彼は唾を呑み込んだ事だらう、漸くにして涸たかする樣な聲を絞り出して「否々、其れに及ばぬ、證據は無用だ、無用だ」と打叫んだ、裁判長は驚いたのみならず怒りを帶びた「之はしからぬ、證據は無用などとは何の意です」と咎めた。

全く蛭峰は力が盡きた、如何に強情な天性でも是だけ明白に我罪を數へられては是に言勝つことが出來やうとは思ひ得ぬ、彼の聲は悲鳴である「最早や私は爭ふ言葉が有りません、重い明かな非難を以て此身を叩き碎かれました、是が天罰と云ふ者でせう、復讐の神が私を捕へたのでせう、更に證據は要しません、此青年の――此被告の――言ふ所は悉く事實です」少しも疑ひを容れる所の無い白状である、服罪である、滿場は靜か又靜か、殆ど薄氣味の惡い、けれど多くの人は蛭峰の言葉をにはかに信じ得ぬ、恐らく發狂したゞらうと思ふた、裁判長も爾思ふた一人である「何と仰有る蛭峰氏、貴方は此暴言に屈服しますか、正氣の沙汰では有りません、日頃の貴方の明白な頭腦は何うしました、被告の餘り恐ろしい言立が心を顛倒せしめたのですか、サア、サア、蛭峰氏、確乎しつかり成さい、其樣な事ではけません」幾等勵ましたとて最う甲斐が無い、蛭峰は骨までも拔かれた樣にグツたりとかうべを埀た、先に戞々かつ〳〵と鳴つた齒の根を又 一入ひとしほ震はせて、喘ぎ喘ぎつ「イヤ氣が顛倒は致しません、此通り最う外形は變りましたけれど」眞に彼の外形は變り果たのだ「心は未だ確です、私には罪が有ります、裁判さるれば有罪です、此青年の云ふ通りです、只今私は此身を後任の大檢事に委ね然る可く裁判を經て相當の罪を受くるを待ちます」是れが彼の最後の言葉である、彼は今まで杖として居た卓子てーぶるの隅を放し、前につんのめる樣に歩んで横手なる出入口の所に行つた、最う此場に堪へずしていづれへか立ち去るのである。

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