巖窟王(下 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 100「幻影」
巖窟王 : 二四六 華子・一
嚴しく辨太郎を取調べて巖窟島伯爵の身の祕密を看破せんとは流石に蛭峰大檢事である、茲へ目を付けたのは多年の職掌から得た烱眼と云ふ可きであらう。
併し段倉男爵夫人は何うあツても此取調べを延ばして貰ひ度い、我娘夕蝉が更に然る可き所天を定めぬうちに辨太郎の噂が益々世に立つ樣で有つては、娘が生涯身を定め損ふのみか母たる自分の名譽に迄も少からず影響すると思ひつめてゐる、其れは勿論無理も無い所であらう。
夫人は此心を以て猶も及ぶだけ説いた、けれど蛭峰が承知せぬので、果は腹立てゝ聲も荒く「貴方は職務の爲め、何うしても罪人を取調べねば成らぬ事柄が有りませう、内の罪人は捨て置いても外の罪人は調べると仰有るのですか」と叫んだ、是れは確に蛭峰の家に怪しい死人のみ引續くに蛭峰が職掌ながら其原因を調べず打棄て置くのを指した者である、既に世間で密々噂して居る所なんだ、蛭峰は曾て赤らんだ事の有るまいと思はれる顏を火の樣にして面目無げに俯向て了ツたが、稍あツて辨解の樣に「イヤ夫人、世間で私の家の不幸に對し樣々の噂の有る事は知らぬでは有りません、今は貴方まで其噂にかぶれ、其樣な事を仰有るは誠に私の遺憾とする所では有りますが、既に證據の上ツて居る罪人と、未だ誰とも目指す事の出來ぬ事件とは、事譯が違ひます、私の家の不幸とても明かに誰の所爲と認める事が出來るなら、私は決して容赦は致しません、蛭峰の一身は一身で無く法律の道具ですから、丁度辨太郎を嚴重に取調べる如く我家の者をも嚴重に調べます、けれど夫人、此家の事は唯だ世人の疑ひに止まツて何等の取留める所も無いのです」殆ど自分で自分の穴を掘る樣な言葉では有るまいか、夫人「イヽエ私は逹て御自分の内をお調べ成さいと云ふのでは無いのです、御自分の内を延ばして置く樣に小侯爵イヤ辨太郎とやらの件をも延ばして下さいと云ふのです」蛭峰「サア其れが出來ぬのです」夫人は何と云ふも甲斐無きを悟り、殆ど席を蹴る程の劍幕で立去ツた、是で辨太郎の裁判も遠くは無いと云ふ事に極ツて了ツた。
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其は扨置き、此樣にまで云はれる蛭峰の家は實際何うだらう、生死の境に推寄せてゐた華子は何うなツたゞらう。
今の猶華子は生死の間に徘徊ふてゐる、夜の無く晝と無く、唯だ昏々と病床に眠つてゐるが眞に眠つてゐるかと見れば醒てゐる、醒てゐるかと見れば眠つてゐる、是れが斯る病人の常なんだ、斯うなると絶えず當人の目の前には樣々の幻影が現はれる、或は父が來るかと見れば或時は戀しい森江大尉が我顏を差覗いてゐる樣に見え、時によると飛んでも無い巖窟島伯爵が何か藥を注で呉れる樣な事も見える、何れ丈が眞事で有つて何れ丈が幻であるか、其は當人にも分らぬ。
イヤ此日朝頃から聊か其區別がつき掛けて來た、其れだけ病が好い方に向いたのだ、午後に成ると又 一入其區別が明かになり、夕方に及んで醒めて居るのだと合點し、「アヽ斯んなに心まで弱くなつた」と呟いて笑を浮かべ爾して笑のまゝ眠つて了ツた、眠るのが何よりの藥である、夜の十二時頃に及び再び目の醒めるまでも猶ほ其笑が殘ツて居たのは眞に百藥にも優るほどの好い眠で有つたのだらう、目の醒め方も今までに無いほど穩かに、先づ唇を動かし次に手を動かし、最後に身體を動かして目を開いたが、其まゝ四邊を見廻して「アヽ最う病は無く成ツた、夢か知らぬが、昨夜も目を覺したとき咽喉が渇いて、枕元に在つた赤い水藥を呑んで、急に身體の爽かに成る樣な心持がした、今夜も彼の通り渇いて居る、屹と彼のお藥で此樣に快くなるのだわ」云ひつゝ枕元の臺に手を差延べると、怪しや襖の影から、黒い服を着けた人の姿が現はれ、臺の上の盃を取り、中の藥を水鉢に移し更に赤い色の水を注いで出した、華子は未だ深く思案する事は出來ぬ、其まゝ受取つて之を呑むと又總身が健々しく、目の覺めた上に又目の覺めた氣持に成つた、世に云ふ甘露の味とは此樣な者でも有らうか、爾して更に、今其藥を注いで呉れた人の顏を見ると怪まずには居られぬ「オヤ猶だ夢を見て居るのだらうか」其人は柔かな聲で「夢では有りません、華子さん、今夜で丁度四宵の間、私が此通り、寢ずに潛んで、貴女を見張つて居たのです、最う貴女は助かります」華子「誰に頼まれて」其人「ハイ森江大尉の爲めに」華子「大尉の爲に――私の爲に、何故」其人「私は森江をも貴女をも我子の樣に思ふのです、私を父とお思ひ成さい、少しも心配は有りませんから」言葉が更に怪しくも無く、一々華子の胸の中に解けて入る樣に感ずるは猶だ心に多少の幻が殘つて居る爲でも有らうか華子「父と思つて好いのですか」其人「父と思つて私の言葉に從へば病も治り、心配が無くなります」華子「本統ですか巖窟島伯爵」
巖窟王 : 二四七 華子・二
巖窟島伯爵が、華子の枕邊を見張つて居るは全く四日目である、縱しや親身の父と雖も是れほどの辛苦は出來ぬ、併し此事は華子と室を並べて居る野々内彈正の外は誰も知らぬ、時々は彈正の室に行きて彼を慰め又時々は華子の室に來などして、詰まる所一身で兩人を守護して居るのだ。
華子は猶ほも弱い聲で「貴方にまで御心配を掛けるなど、何して私は此樣な病氣に成つたのでせう」伯爵は低いけれど嚴かな聲で「驚いては可ませんよ、毎夜此室へ忍び込んで貴女のお藥へ毒を埀らして去る者が有るのです」華子「エ、エ、其樣な人が」伯爵「ハイ其れだから私が潛んで居て、直に其後へ廻り、其毒を取捨てるのです、今夜も今し方、其人が立去りました」華子は誠とも思ひ得ぬ「でも私に毒を呑ますなどと餘り恐ろしい事では有りませんか」伯爵「恐ろしくとも事實です、米良田老伯爵も其夫人も忠助も皆同じ毒手で殺されたのです」華子「誰です、誰です、其毒手とは」伯爵「誰であるか、明夜は貴女に能く分る樣に其人の顏を見せて上ます」
華子は是だけの問答に打疲れて又眠つた、爾して翌朝目の覺めたとき歴々と覺えては居たけれど、巖窟島伯爵が我が爲に四宵も不寢番をしたと云ふが怪しく、又我が飮む藥に毒を入れる人の有ると云ふのも猶更合點が行かぬゆえ、扨は毎もの夢か幻想で有つたのかとばかり、今夜こそは氣を確にして能く見屆けやうと、夜の來るのを聊か待遠い樣にも覺えたが、其中に夜とは爲り又何時の間にか眠ツて了ツた、爾して何時間の後かは知らぬけれど、柔かに身體を搖る者の有る樣に覺えて目を醒まし、誰かと見れば矢張り巖窟島伯爵である、華子は氣強く感じ「オヽ夢では無い、矢張り貴方が見張つて下さるのですね」と云ふを、伯爵は唇に手を當て制し「夜前約束をした毒手が今來ますから、寢た振をして篤とお見屆成さい」華子は恐ろしさにゾツとして幾等か殘つて居た眠氣の全く消え、之ならば夢でも幻想でも無いと深く心の底に刻んだ。
此時伯爵は幽靈の消える樣に襖の後へ消えて了ツたが間も無く廊下の床板が忍び足の重さに鳴り初めた、聞く中に其音が此方へ近づいて來る、華子は愈々恐ろしく寧そ見ずに居やうかと目を閉ぢたが、一命の繋がる所と思へば閉ぢても居られぬ、別に寢た振をする譯では無いけれど、身體は蹙んで、寢るよりも猶靜かになり唯だ眼瞼だけを細く開いて待つて居ると、室の入口の埀幕をソツと開いた者が有る、其手の細さ又白さ。
頓て埀幕の間から黒い服の女姿が現はれ滑かに華子の寢臺に寄つて、其細い白い手を華子の口の邊に翳した、是は寢息を伺ふのである、寢息は聊か紊れて居る、けれど目を覺まして居るとは見えぬ、安心と思つたか黒い姿は隱し持つた小さい瓶を取出し、其中の水藥を華子の盃へ幾滴か埀らし、再び華子を見顧ツて、元の通り滑かに立去ツた、華子は初めから終りまで此者の顏を見たが泣いても泣かれぬとは何事であらう、毒手は自分の母である、イヤ母と爲つてゐる繼母の蛭峰夫人である。
直に伯爵は現はれて來た「何うです合點が行きましたか」華子は泣き聲で「私は何うすれば好いのでせう」伯爵「嚴重に云へば繼母を訴へるのです、毒殺者として」華子「其樣な事がせられます者か、最う助かる道が有りません、寧そ死んで了ツた方が」云ひつゝ毒の有る盃へ早手を延べ掛けた、伯爵は其 盃を取り「中の毒藥は他日の證據に毎夜私が集めて有ります」華子「其お蔭で私は死ななかつたのですネ」伯爵「イヤ其お蔭よりもお祖父樣のお蔭です、野々内彈正は此樣な事を見拔いて貴女へ少しづつ貌律矢を飮ませて置きました、其れが爲に貴女の身が毒藥に抵抗する事が出來たのです、お祖父樣の此用心が無くば貴女は忠助同樣に最初の毒藥で死んで了ふ所でした」華子「アヽ私は死んだが好い、死んだが好い、何う考へても」伯爵「貴女が死ぬれば森江眞太郎は絶望の爲め此後の生涯の無い人と爲つて了ひます、貴女が死ぬれば全身不隨のお祖父樣を誰が介抱成されますか」華子「矢張り生てゐねば成らぬ、活てゐるには阿母さんの――」伯爵「ハイ阿母さんの罪を訴へずに活てゐられる道は唯一つ有るのです、全く私に縋つてさへお出に成されば」死ぬと云つても眞實に死に度い筈は無い、華子は少し引立ちて「何の樣な道でも、貴方にお縋り申します、阿母さんにも障りが無く爾して私も助かるなら」伯爵「全く非常の手段ですが問ひも何もせずに私の言ふ通りに從ひますか」華子「ハイ從ひます」伯爵「何の樣な事が有らうとも驚いては可ませんよ、目も見え無く成り、呼吸も止まり、脈さへ無くなツて了ツても私を信じて安心してお出なさい」華子「分りました」
何の樣な非常手段かは知らぬけれど、全く相談が固まつた。
爾して其翌朝、猶だ誰も寢込でゐる四時と云ふ刻限に、再び毒手蛭峰夫人が此室へ忍んで來た、其状は以前に來た時と少しも變らぬ、ソツと寢臺に近寄つて華子の寢息を伺つたが、今度は息が絶えてゐる、次には其肌に觸れて見たが冷固まつてゐる、アヽ蛭峰夫人の目的は是で逹した、華子は早死骸と爲つてゐるのだ、此場合に於て夫人の落着き加減は又驚く可きである、靜かに振向いて先づ先程の盃を見た、盃を飮み乾した樣に、底に露氣が殘つてゐるのみである、此露氣を分析でもされては成らぬと思つたか手巾を出して綺麗に濕りを拭ふて取つた、爾して再び華子を顧み、顏に死相の現はれてゐると見てニツと笑み、又元の通り歸つて了つた、此度胸は人間だらうか、後に到つて識者が此夫人を一種の狂性と鑑定したのも無理の無い所である。
巖窟王 : 二四八 華子・三
華子の死は實に多くの人を驚かせ且悲しませ、一昨日から昨日へ掛けて餘程容體が好い方へ向き、醫者も是れならばと稍や見込みをつけ初めたのが、今朝は忽然死體と爲つて、早冷切てゐるので、意外と思はぬ者は無い、父蛭峰は悲鳴を揚げた、繼母蛭峰夫人は涙が止まらぬとて自分の室へ引込んだ儘である、祖父彈正は眼を膨上らせてゐる、多分は誰の悲しみよりも此泣きも何もせぬ老英雄の悲しみが、一番深いので有らう、イヤ是よりも猶ほ深く悲しむ者が一人ある、誰ぞ、森江信太郎である、彼は華子が病氣になつて以來は毎朝一度つつ此隱居所に來て彈正に逢ひ次に華子の室に入り、親しく其容體を見屆けて歸る事になツてゐる、今朝も其通りに遣つて來た、イヤ今朝は定めし華子と一言か二言は談話も出來るだらうと思ひ、毎もよりも樂しんで遣つて來た、そして先づ彈正の室へ入つたが彈正の容子が餘ほど異樣で有る、膨た目で華子の室を睨んだまゝ森江が來たのにも氣がつかぬ、森江は是を見て悸とした、我が運命が一時に消えたかの樣に感じた、直に次の間に踏込んだ、此時有國國手が華子の死骸を檢査して父蛭峰に向ひ、「全く昨夜の二時から三時の間に絶命した者です」と斷言してゐる所であつた、丁度此言葉が森江の耳に入つた「オオ華子が死にましたか」と叫ぶより早く彼は狂氣の樣で其寢臺に飛び掛り、醫師と蛭峰とを跳退ける程にして、死骸の顏に顏を差つけ「オヽ華子さん、華子さん、何で貴女は死にました」聲と共に泣いた、蛭峰は此の樣に合點し得ぬ、直に森江を推退けて、法律家の句調を以て「貴方は何故他人の家宅へ侵入しまう、殊に此家は今取込の際ですのに」森江は腹立しげに起き立ツて叫んだ「何で、何で、エヽ私の茲に來るのを何でなどと咎めますか」と云ひつゝ刄物でも有らば蛭峰を斬殺さん所存かと疑はるゝ程の劍幕で室中を見廻したが、目に留まる刄物も無い、直に思ひついた樣に又彈正の室へ飛び歸り殆ど信ぜられぬ程の怪力を出して寢臺のまま彈正を引提げて來て華子の寢臺と並べて置き、「彈正、彈正、此人は、イヤ蛭峰氏は何で此家へ侵入するなどと私を咎めます、侵入せずに居られませうか、貴方の口から其仔細を言聞かせて下さい、サア貴方の口から其仔細を言聞かせて下さい、サア貴方の口から」と促した處で聲の出る口では無い、其聲が出る程なら何も目を泣膨しなどはせぬのだ森江は悶かしげに「サア私が華子の許嫁の夫森江信太郎で有る事を貴方の口から言ふて下さい、最う華子さんが死んだ上は此死骸は誰れの物でも無く、此森江の物である事を云ふて下さい」彈正の眼も眞に悶かしげに騷いでゐる、蛭峰は又聞き咎めて「何ですと、貴方が華子の許嫁、其れは又誰れの許しを得て、エヽ貴方は全くの發狂者です」森江「發狂者か發狂者で無いか彈正にお聞なさい、彈正と當人との承認を得て、長い以前に許嫁となつてゐます」蛭峰は腹立しげに彈正の眼を見「此人の云ふ通りですか」彈正「然り」蛭峰「貴方も華子も此人を許嫁と認めましたか」彈正「然り」彈正の眼が如何に然りと云ふても、若し此森江の姿の人に勝れた威嚴が無くば蛭峰は容赦も無く摘み出す所だらう、けれど森江には侵し難い威嚴の上に燃ゆる樣な熱情が顏にも身體にも現はれてゐる、蛭峰は詮方無く我を折つて「其樣な許嫁を、法律上有效とは認めません、けれど、貴方の狂態を許しますから、サア早く華子の死骸を見て是れまでの縁と斷念めてお歸り成さい」蛭峰の口から是れだけの柔かな言葉が出た、森江は返辭もせず再び華子の顏に顏を當てたが泣いてゐるのか祈つてゐるのか、何か華子に話す樣に、長く〳〵細語して離れ相にも見えぬ、蛭峰は堪忍が盡きた容子で「何時までも其樣な事を爲さツては迷惑です」森江は卒然と顏を上げた、蛭峰「最早醫師の檢屍を經て、全く死人と極ツた者の室ですから僧侶の外に必要はないのです、此頃隣家へ移つて來た伊國の暮内法師が最う華子の靈の爲に祈祷に來て呉れる刻限ですからサアお歸り成さい」仲々森江は歸る可き状はない、却つて高く聲を張上げ「僧侶よりも此室には猶必要な者が有ります」と異樣に叫んだ蛭峰「僧侶よりも必要とは何者です」森江「華子の爲の復讎者です、此森江大尉です」蛭峰「復讐者とは」森江「華子の死は通例の病死では有りません、殺されたのです、毒殺です、其毒害者を此家から搜し出し法律に訴へ、相當の裁判を經させるのが許嫁の夫たる私の役目です」蛭峰は前額に青い筋を浮上らせて「怪しからぬ事を云ふ、毒殺などと、幾等發狂者の言葉にしても」森江「發狂者などと、貴方こそ怪しからんのです、私は華子の毒殺された證人として第一に茲に居る有國國手の證言を求めます、第二の證人は野々内彈正です、國手よ、有國國手よ、貴方は華子の死を毒害の結果で無いと言切りますか」少しの容赦も無く國手の顏を見て問つめた。
巖窟王 : 二四九 華子・四
國手の顏を見て問ひ詰たけれど、國手は少し返辭が淀んだ、之は森江大尉の餘り熱心な言葉に暫し氣を呑まれたものだらう。
大尉は此状を悶かしと又續け叫んだ「有國國手は之れを知らんと云ふ事は出來ません、蛭峰大檢事も有國國手の知ツてゐる事を知らんと云ふ事は出來ません、お二人ともまだ忘れは成さるまい、米良田伯爵老夫人が此家で亡なられた其夜、貴方がたお二人は此家の暗闇で何と云ひました、有國國手が確に貌律矢の毒を以て害せられたのだと云ひ、大檢事の職として詮議せずに置く事は出來まいと迫りました、其時は誰れも聞いてゐぬ事と思つたでせうけれど生憎、イヤ幸ひに此森江信太郎が樹の蔭に居合せました、私は今も有國國手が其時蛭峰氏に迫ツたと同じ樣に蛭峰氏に迫ります、蛭峰氏よ、蛭峰氏よ、貴方は華子の父として、最も悲しむ事は充分に悲しみました、父の役目は濟んだのですから、サア之からは大檢事の役をお盡し成さい、華子が毒殺された事を私から訴へますから貴方は大檢事の職として、其罪人を詮索成さい、證人は國手と彈正です、國手よ、貴方は證人に成らぬと仰有いますか」國手は仲々其樣な卑怯な人で無い、今まで同じ旨意を以て蛭峰を責た事が幾度と云ふ數を知らぬ、終に徐ろに口を開き「勿論私は森江大尉に同意です、蛭峰家の名譽の爲に聊か躊躇したのが私の卑怯でした、蛭峰氏よ、私からも大檢事と云ふ貴方の職務に對して訴へます」最早如何とも仕方が無い、蛭峰は萬一の逃げ路を父彈正の顏の求める事が出來やうかと、泣き出さん許りの色を以て彈正に振向いた、彈正の顏は大尉の顏にも劣らぬほど怒りの色を浮かべてゐる。
斯と見て直に大尉は、横より彈正に問ふた「貴方は毒害者を御存じですか」彈正「然り」大尉「華子の爲に復讐を慾しますか」彈正「然り」然りと瞬潑はしたけれど何だか其外に猶ほ言ひ度げな所が有る、言ふ事の出來ぬ爲め悶かしさに堪へぬ状が、騷ぐ眼に充分分つてゐる、大尉は其れと察し「貴方は吾々三人の中の誰か一人に祕密に言ひ度い事でも有りますか」此言葉は的に當つた彈正「然り、然り」大尉「其れは誰にです、私にですか」「否」「有國國手にですか」「否」「蛭峰氏にですか」彈正「然り」
彈正の意は尊敬せぬ譯に行かぬ、大尉は國手の手を引き、蛭峰だけを彈正の許に殘し次の間に退いた、蛭峰は彈正と共に稍半時間も語つてゐたが、漸く話が終つたと見え、國手と大尉を再び引入れ、恐ろしさに震ふ聲で「毒害者が分りました、彈正から聞きました」大尉「では直に處分するでせうネ」蛭峰「無論です、私は父彈正にも、處分する事を約束しました、併し彈正の名を以て切にお二人に願はねば成らぬ事があります、其れは私が處分に着手するまで、此毒害と云ふ事を誰にも祕密にして戴き度いのです」大尉「エ、祕密に」蛭峰「ハイ其代り私は日限まで約束します、今より一週間の中と云ふ事に、若し一週間を經て私が處分しなかつたなら其時には、曝露するとも訴へるとも御隨意に仕て下さい」
眞に蛭峰は毒害者を處分する事が出來るだらうか、毒害者は誰れ、アヽ誰と彈正が告げたのだらう、蛭峰の妻に非ずば巖窟島伯爵である、有國國手は傍より「立派に處分なさるのですか」蛭峰は異樣に眼を光らせて「ハイ立派に處分します、私が處分すると云ふ日には、何の樣な大膽な奴でも戰慄するほどの手段を取ります」何だか自分の妻を目指しての言葉では無さ想だ、或は彈正の口から巖窟島伯爵の名をでも聞いたのではなからうか、森江大尉の方は一週間の猶豫が殘念に堪へぬ如く口さへ開かぬ、有國國手は承知した容子で先づ彈正に向ひ「一週間祕密を保つて呉れと云ふ事は全く貴方のお望みに違ひないのですか」彈正は熱心に「然り」との意を示した、國手は仕方なく蛭峰に向ひ「全く彈正の意と見えますから、私は一週間祕密を守りませう」蛭峰は大尉に向ひ「貴方も何うぞ」大尉は悔しげに拳を握つた、けれど眞實彈正の意と有つては否とは云へぬ、顧みて彈正の眼に所望の意の現はれてゐるを見、其儘身を轉じて華子の枕許に坐し、其青い冷たい死骸の顏へ接吻したが、是れが彼の堪忍の果である、彼は最う亂麻の如く結ばれた自分の心を治める事が出來ぬ、狂人の如く立ち、狂人の如く走つて、此室から出で去つた、眞に彼の實情は察す可きである。
彼が馳走るとき、出口の所で突當る如く出會ふた人が有つた、其れは華子の靈の爲に祈りに來た隣家の暮内法師に外ならぬ、大尉の方は氣もつかずに馳去つたけれど、法師は振向いて彼の去る姿を氣遣はしげに打眺めた、併し餘り見惚れては顏の地金が現はれるかも知れぬと心づいたか頓て又神妙な顏をして、華子の死骸の室に來た、蛭峰は一禮して「何うか不幸な娘の爲にお祈り下さい」と云ひ、更に又「當家には最早雇人なども充分には有りませんから、貴方の出入の度に出迎へ見送りなども出來ません、其代り此隱居所の鍵をお預けして置きますから何うか御隨意に出入なさツて下さい」鍵を渡されるは法師が願ふても無い幸ひとする所だらう、法師は差出すを受取つて華子と彈正の枕邊に跪坐いた、最早有國國手も用はないから分れを告げた、蛭峰も國手と共に廊下まで出て「私は最う、氣を紛らせる事でもなければ發狂します、爾うだアノ取調べ、取調べ」と再び自分の書齋を指して走つた、併し蛭峰を眞に發狂させる程の豪い打撃は、今は未だ落ちて來ぬ、追て落ちて來させる爲に誰やらが掌中に握ツてゐるのだ。

