巖窟王(下 その5)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 76「若きカヴァルカンティの出世」
巖窟王 : 一九三 其實、本統の父
小侯爵皮春永太郎には好運が向いて居たと見える、彼が縁談の話の緒口を切ると段倉の方では其緒口を把らへて引出す樣に迎へた、スラスラと事も無く話が進んだ。
永太郎は云ふた「斯樣な大事な相談に巖窟島伯爵が贊成して下さらぬのが誠に殘念で、定めし貴方の方でも私の言葉丈では不安心にお思ひでせう、けれど伯爵は野西家に對する義理合で何うも私の方へ加擔する譯に行かぬと仰有います」段倉は其事情を充分察して居る容子で、而も嘲笑ふた、「ナニ伯爵は野西が賣國奴と云ふ事を未だ御存じ無いから彼へ義理立するのです、今に野西の舊惡が最と能く分ツて來れば必ず伯爵は彼に義理立したのを後悔なされますよ」段倉の眼中には唯だ皮春家の身代が有る許りだ、此身代と自分の娘とを結び附けるには誰が贊成して呉れずとも構はぬのだ、永太郎は充分其邊の心意氣を見て取つて、開いた段倉の口へ牡丹餠を投込む樣に「でも伯爵は私が妻を持つと云ふ事には贊成です、私の母折葉姫の遺産を二百萬圓だけ誰だか伯爵の知人が預かツて監督して居ます相で、私が婚禮すると同時に是だけは私へ呉れると云ひます」段倉「其れは伯爵の知人が預ツて居るのでは無く多分伯爵自身が預かツて居るのでせう」永太郎も實は爾思ふて居る、けれど故と兒供らしく「イヽエ伯爵は確に自分の知人だと云ひました、其上に又私の父へ勸告し、差當り五百萬圓の財産を分け與へる樣にするから其財産に年々十五萬の利子を産ませる樣にして其れで夫婦の經濟を支へよと云はれました、貴方は銀行家だから此邊の事情は御存じでせうが、二口併せて七百萬圓から十五萬圓の歳入を得る事は出來ませうねえ」段倉「其れは私の手腕で年に廿萬圓の利子は容易に産ませて上げます」三朱に足らぬ利子だもの、抛つて置いたとて産まれて來るのだ、手腕も何も要る者では無い、永太郎は安心の風を示し「其れでやつと重荷が卸りた樣な氣が仕ます、では直に、婚禮が濟むと同時に七百萬圓は貴方へ預ける事に致しませう」
立派な家筋と爵位の上に七百萬圓の身許金まで供へて、其れで銀行家から縁談を斷られるなら世は逆樣に成るのだ、幸にして此場合には世が逆樣に成らずに濟んだ、平たく云へば縁談が纒ツた、永太郎は段倉の承諾を得た上で夕蝉姫の承諾も得た、爾して點燈時の後に及んで笑崩れた顏で此家を辭し去ツた、玄關まで送つて出た段倉の顏も劣らぬほど笑崩れて居た、後の事は兎も角も是だけの所は先づ目出度いと云はねば成らぬ。
けれど永太郎が宿へ歸つて見ると、彼の顏から其笑を剥り取る樣な事が出來て居た、其れは卓子の上に横はツて彼の歸りを待つて居る一通の手紙で有る、差出人が彼の毛太郎次である事は筆跡で分ツて居る、其文句は「親しき辨太郎よ、御身の前途が益々目出度く喜ばしき事は、御身自ら知れるだけ餘も知れり、餘は段倉男爵の他人に非ず、今若男爵の許へ餘が舊交を言ひ立てゝ顏を出さば、御身は餘り有難く思はぬならん、御身若し餘が段倉男爵の耳へ、御身の本名を細語くことを止め度く思ふならば直に餘が宿に來れ」とある、何たる邪慳な書き方だらう、けれど仕方が無い、之に從ふ一方である、永太郎は悔しげに拳を固め此手紙を二度三度叩き伏せた、爾して餘り人目に立たぬ着物に着替へて又宿を出た、指て行く先はモンタン街の靜かな下宿屋である。
此下宿屋に毛太郎次は、公債證書の利子で暮す有福な商人の隱居と云ふ積りで、月々永太郎から貰ふ事に成つて居る口留の手當錢で日を暮して居る、彼は先づ不機嫌な永太郎の顏を見て「今日は略縁談が旨く行つた筈だのに何で陰氣な顏をするのだ、コレ辯や、夕蝉孃が何と云つた、其話でもして、手前の身の上をのみ心配して居る此親切な爺に安心させて呉れ」早や此樣な事をまで知つて居るとすれば、此惡人絶間も無く此身の擧動を見張つて居るに違ひ無いと永太郎は荒肝を拔かれて了つた、爾して腹立しげに「何でお前は、私の身の上などを心配するのだ、心配せられて迷惑だよ」仲々是くらゐの叱りに驚く相手では無い「先ア爾う怒るなよ、お前が躓けば己も倒れる樣な者だから、丁度親が子を思ふ樣に心配するのさ、爾よ、心配すればこそ己は先逹てお前に逢つて以來、色々とお前の身の上を考へ、お前の行く所へは大抵見え隱れに護衞して行く樣にして居るが――」永太郎「ナニが護衞だ、止めて呉れ、止めて呉れ、お前の樣な者が附纒ふて居ると分れば大事の仕事が皆潰れて了ふのだよ」毛太郎次「爾で無い、其れが爲にお前の氣の附かぬ事まで己が氣が附いてチヤンと考へて居る、お前アノ巖窟島伯爵を何と思ふ」永太郎「大きにお世話だ」毛太郎次「己は樣々に考へたが、那の人が其實お前の本統に父では有るまいかと思ふ」是には永太郎の氣が移つた、此頃自分の疑ひ初めた所と一つである「エ、エ、何でお前は其樣に思ふのか」と我れ知らず其 首を突出した。
巖窟王 : 一九四 最う一ヶ月ぐらゐ
何うも伯爵が我父らしい、愈々爾なら天にも上る心地がする、早く爾と云ふ確證が有れば好いと、此樣に心を焦して居る永太郎だから、思はず毛太郎次の言葉に釣込まれ首を突出して問返したが、毛太郎次とても勿論確證の有る譯で無い「爾とでも思はねば伯爵が餘りお前を可愛がり過るからよ、己はお前の暮し方を見て月々伯爵から貰ふ小遣も莫大だらうと思ツて居る、其れに就けても、己への分前も、ズツと引上げて貰はねば成らぬ」と云ふのが彼の返辭で有つた。
何事を云ふにも總て最後の一句は金を呉れろとか分前を引上ろとかの言葉へ落ちて行くので永太郎は蒼蠅くて成らぬ、出來る事なら叩き殺してゞも振捨て度い程に思ふけれど、此樣な手に乘る相手で無い、振捨て樣とする氣振でも見せれば反對に何の樣な目に逢ふかも知れぬから、只詮方無しに話の相手に成つて居ると、毛太郎次は樣々の言ひ種を持出して遠廻しに巖窟島伯爵の家の容子から伯爵の日頃の振舞を聞出さうとする樣に見える、永太郎は窃に悟ツた、此奴め、伯爵の留守を伺ひ其 邸へ忍び入つて此身の誕生に關する書類でも盜み出す積で居るのでは有るまいか、其樣な書類を探し出し此身を確に伯爵の子と突留れば、又も先へ廻ツて強請の種を作るに違ひ無い、其れとも或は、爾まで深い企みは無く、金子だけでも盜み出す了見か知らん、何れにしても伯爵家へ忍び入る底意だけは明白である。
斯くて見て取つたけれど、此方も爾る者である、少しも見て取つたらしい素振を示さぬ、却つて謀事の裏を行く樣な一計を咄嗟の間に案じ出し、向ふの問ふが儘に正直に伯爵家の案内を話し聞かせ、且は伯爵が明日より茲二三日オーチウルの別莊に行き巴里の邸を全で空にする筈で有るとの事を告げた、是は嘘で無い、今朝伯爵に逢ひ、直々に聞いた所である。
遂に毛太郎次は必要だけの事を聞取つたと見える、爾して今度は何氣も無い樣な容子で永太郎の手に在る指環に目を留めた「オヽ大層光る指環だな、是ぐらゐの夜光珠は仲々安く無いだらう」此言葉の眞意は流石の永太郎も計り兼た、何の爲の用も無い指環などを襃めるのか多少 訝かしく思はれるから「ナーニ夜光珠の値打は、所持した經驗の無い人には話たとても分らぬものさ」嘲りて探りを入れた、毛太郎次は癪に障つた體で「己だツて夜光珠を持つて居た經驗は有るさ、其倍ぐらゐの立派な奴を」成る程彼は暮内法師から五萬圓の値打の有る立派な夜光珠を惠まれた事が有る、其經驗は生涯忘れ得ぬ所で有らう[」]、永太郎「では眞物と贋との見分けぐらゐは附くのかい」毛太郎次「ドレ貸して見な、夜光珠の贋か眞物かは斯うすれば一番好く分るのだ」と云ひつゝ其指環を脱き取つて窓の所へ持つて行き、硝子板に傷を附けて見て「アヽ此箇は眞物だ、硝子が切れるワ、此指環を己に呉れ」唯だ窓板を傷つけた瑣細な振舞を見て永太郎の胸には宛も電光の輝く樣に一種の合點が差込だ、併し其樣な色を見せず、唯だ腹の底で笑み「お前が呉れと言ひ出す以上は應ずる迄又樣々に威すだらう」毛太郎次「勿論さ」永太郎「仕方が無い、遣ると仕やう併し是で今月の金の無心は御免だよ」毛太郎次「先ア兎も角も此指環を貰つて置かうよ」
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此翌日である、巖窟島伯爵は朝から執事を差圖して家の内を取片附けて居る、多分は昨日永太郎に話した通りオーチウルの別莊へ立つ爲めだらうが、其れにしても特別に片附けるとは當分茲へ歸らぬ所存でも極たのでは有るまいか、頓て片附き終ツた所へ、家扶の春田路が現はれた。
彼は先日伯爵がトレボー邊の海岸に船着きの好き別莊を買求めさせる爲めノルマンデーへ向け出張させ、彼の土曜日の晩餐會以來久しく不在であツたのだが、今漸く歸つて來たと見える、猶だ衣服も旅被の儘で道途の塵に塗れて居る、伯爵は其れと見るより「オヽ御苦勞だツた、今歸ツた、爾して用事は」春田路「仰の通りに運びました、丁度好い賣別莊が海岸に在りまして」伯爵「其れは好かツた、シテ舟は」春田路「ハイ舟は先日御注文のがゼノアから出來て來ました、其別莊の下へ繋いで有ります、スハと云へば五分間も經ぬうちに別莊から乘込んで出帆できるのです」伯爵「最も可し、其れから馬は」春田路「ハイ馬も仰の通り、此町 盡れから五里毎の村々へ人を雇ふて有ります」伯爵「十時間に百二十哩走ツて行く事が出來るか」春田路「ハイ孰れも試驗濟の馬ですから一時間に十二哩以上確です」伯爵は滿足した、併し何の爲めに此樣な用意を爲させるだらう、トレボーの海岸まで五里毎に馬を置き、一日百哩以上を疾驅して、五分の間に別莊から船に乘るとは、非常に急いで此國から逃げ去る樣な場合でも有るのだらうか、伯爵は更に「己の此國の逗留も最う一ヶ月位で終るだらうから其間少しも馬の俊足を鈍らせぬ樣に注意せよ」春田路「心得ました」扨ては最早、後一ヶ月ぐらゐにして、企みに企みたる大復讐が首尾能く終ると云ふ見込か知らん、爾うすれば刮目して觀る可きである。
斯くて家扶春田路が退くや、引違へて執事の一人が今屆いたらしい一通の手紙を持つて來た、伯爵は直に受取つて封を切つたが無名である、爾して文句は「密告す、今夜閣下の不在を探知して貴邸に忍び込み閣下の書齋に在る祕密箪笥を探らんとする曲者あり、容易ならぬ目的を抱けること確なれば不在と見せて誘き寄せ、捕へし上にて詮議を加ふるが得策なる可し、者は閣下の一身上の敵なるに似たり、此密告者は偶然の事にて曲者の計畫を知り得たれば茲に閣下に警戒を與ふるなり、然れども閣下之を警察に訴ふる事を爲さば一方ならぬ煩累を他日に遺す恐れあり、閣下密告者の言を信ずるならば必ず警察の力を假ること勿れ」とある、伯爵は「ハテな」と云つて二度三度讀返した。

