読書ざんまいよせい(091)

巖窟王(下 その4)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯


Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 72「サン=メラン夫人」

巖窟王 : 一八〇 未熟な男で無い

全身不具の老英雄野々内參上に果して何の樣な竒略があるか、其は「蛭峰家(七)」以下の記事と共に暫く後に讓り、話頭は段倉家に移る。

* * * * * * *

世に手堅い樣で其實極めて危いのは銀行の身代である、少し評判が宣くなれば、世の人先を爭ふて取引を開く爲め、世間の金が集まつて來る状にもなれど、其代り一朝宣からぬ評判でも立てられて、少し信用が傾く日には、直に預け金を取付けに來る人が門前に市を爲し、同業者の取引や融通も忽ち止まりて、昨日まで全國の財權を一手に握るかと見えし者が今日は早や戸を閉ぢて身代限りの間際まで推寄せるためしも、隨分今まであつた事だ、其れと此れとは事 かはれど、さても段倉銀行の頭取男爵段倉喜平次は、先頃電報の間違ひのため西班公債で一夜に四百圓の損をした上巨額の貸越と爲て居るマンフレダイ銀行の支拂停止に遭ひ是にも百萬以上の損失は逃れ難く見える場合とは爲り、今まで絶えて損と云ふ事に出會でつくはした覺えの無い身だけに、内心甚く落膽して我が妻にまで其損失の幾分を割附けんとさへあせつて居たが、幸に是だけの事では未だ信用が傾くと云ふ程には成らず、多少の取付けには逢つたけれど、上部うはべだけは平然と澄ます事が出來て居た所、日頃の運の神が彼を見捨てたのか、彼の野西家の夜會の翌日又フロレンス商會が破産したと云ふ知らせを受けた、此商會は段倉が伊國鐵道の企業の爲に、見込を立てゝ餘ほどの資本を注込んであつたのだから、其損失は殆ど前の二口の損失を合せたよりも多い程である、そもそも此商會を破産させたのは誰の仕業しわざか知らぬけれど伊いたりやの大株主が何か意見の違ひの爲に手を引いて其株劵が暴落した爲めとの事で如何とも仕方が無い、幾等段倉銀行が盛大でも斯う一ひとつきと經ぬ間に引續いて彼れ此れ一千萬からの損失を受けては信用に關せぬと云ふ保證は出來ぬ、既に巴里の同業者中には其れと無く段倉銀行に對して手をめた向も有り、又手をめねば成るまいとて密々相談する者も出來たとやら噂される程にも至ツた。

頭取たる身に取つては、何れほどか辛い事だらう、彼段倉は晝頃から自分の居間に閉籠り、帳面を開いては嘆息し、嘆息しては又帳面を繰返しなどして居たが、最早や氣も盡きたと見え、かうべを擧げて暫く前額ひたひに手を當てた、此時は午後の六時頃で、妻の居間には親しい來客が有ると見え、先ほどから談笑の聲も起り、時々は音樂のさへ聞えて居た、唯だ段倉の煩悶した耳へのみは入らなんだが、何うした拍子かフト彼は聞附けた、爾して其方に振向いて「何だなア、騷々しい、實に――所をつとの心配も知らずに、面白さうに」と呟いたが忽ち思ひ直し「イヤの音樂は、妻で無い、娘だ、アヽ娘夕蝉が小侯爵と合奏して居るのだ」とて直に顏のおもてを柔げた「旨い、旨い、此向きではの小侯爵が愈々近日の中縁談を言込んで來る、フム小侯爵皮春永太郎か、姓名も何と無く貴族的だ、父の歳入が一年五十萬圓と云ふのだから、其身代は二千萬圓からの身代だ、己などならナニ千萬圓以下の金を以ても五十萬圓の歳入を得る事は容易だけれど、金儲けを知らぬ伊國いたりやの貴族だから財産總體を皆働かせると云ふ事は出來ず、其れに古金を集て地の底へ埋て置いたり、珠玉を倉に仕舞つて置のを誇たり不生産的な事ばかりして喜んで居るのだから事に依ると五千萬からの身代かも知れぬ、之を縁組が出來れば、ナニ幾等でも見捨た譯では無いな、夕蝉と野西武之助との縁談を急がずに置いて好い事をした、彼等兩人は幼い頃からの許嫁とは云へ、何も其後改めて武之助の父次郎が愈々婚禮させると言ひ込んで來た譯では無し、今斷つて破談にするのは譯も無い事だ、爾々其破談の口實は先日巖窟島伯爵の言葉から思ひ付いて希臘のヤミナ銀行へ問合せて置いた、其返事が來さへすれば必ず次郎の舊惡がイヤ新惡が分るから其れを利用すれば好い、何事も旨く運ぶワ」漸く思ひ直して破顏一笑する所へ、書記が手紙を以て來た、見ればヤミナ銀行から出たものである。

「來た、來た」と段倉は書記の退く姿を見送りつゝ嬉しげに呟き、直に封を切つて讀下したが、仲々長い手紙である、けれど彼は呼吸いきをも繼がずに讀終ツた、餘ほど彼に取つて都合の好い事を書いてあると見え、彼は其笑を顏中に推廣げ「驚いたなア、次郎奴此樣な惡事をして居やがる、是では希臘で大身代を作ツて歸つた筈だ、ヤミナ城を敵の土耳古とるこ國王へ賣渡して、イヤ是くらゐの惡事は仕兼ぬ奴だよ、其上に城主の妻、城主の娘まで」と言ひ掛けて猶ほ終らぬ所へ「ヤア段倉さん今日は令夫人をお尋ねに來ましたが、ついでに貴方へお知らせ申す事が有ますよ」言ひつゝ入つて來たのは巖窟島伯爵である。

段倉はあわてゝ手紙を推隱し、懷かしげに迎へた伯爵「フロレンス商會が破産しました」段倉は我財政上の弱點を人に悟られる樣な未熟な男では無い、何の利害をも感ぜぬていで「爾ですか」と輕く答へた伯爵「でも貴方は大株主では有りませんか」段倉「ナニわづか數百萬圓ですよ」とは伯爵の口調を學び得た者と見える、伯爵「イヤ貴方が爾う輕く觀て居れば私も安心ですよ、若し御心配でも有れば多少は御用立やうかと思ひました、ドレ是から夫人の御機嫌を伺ツて來ませう」と何氣無く伯爵は奧の間を指して立ツた、段倉は又 あわてゝ引止め、小聲になツて「ですが伯爵、何うか奧に居る皮春侯爵へは此破産事件を話さぬ樣に願ひます」とは咄嗟の間にも仲々用意が綿密である、伯爵は含首うなづいたまゝ奧へ行ツた、直に其後へ野西次郎と其息子武之助が入ツて來た、來る時には來るものだ、斯と見て段倉は、さては縁談の爲では無いか無いかと、破談の口實を持ちながらも、先を越され相な心配にギクリとした。

巖窟王 : 一八一 言葉は明々白々

子爵野西次郎は何の爲其子武之助と共に段倉の許へ來たのだらう、段倉の恐れる通り縁談の爲めだらうか。

若し爾とすれば段倉と何等かの衝突無しには濟まぬ筈である、段倉の方では此數年來内約に成つて居る縁談を斷る爲に遙々はる〴〵ヤミナ州へまで手紙を遣つて口實の材料を集めて居る程なんだから直ぐに段倉は思ふた、先が言ひ出さぬうちに奧の間へ連れて行き、娘夕蝉が皮春侯爵とと親しげに合奏など仕て居る状を面前まのあたりに見せ附けて遣れば、父子とも氣色を損じて言ひ出さずに歸るかも知れぬ、或は其上に立腹して終に縁談を先から取り消す事に成るかも知れぬと、若し爾でもなれば面倒無しに目的は屆くのだからと何に付けても掛け引の上手なたちだけに、咄嗟の間に思案を極め「サア子爵、此室は取り込んで居るから何うぞ奧の間へ、奧の間には妻も娘もゐます、巖窟島伯爵も娘夕蝉の好きな皮春小侯爵も來てゐられる、誰も氣の置ける人はありませんから」と閾から内へは入れず、直ぐに自分が先に立つて案内した。

娘の好きな皮春小侯爵とは、許嫁の相手 父子おやこに對して餘りな言ひ分である、けれど武之助の方は之を聞いてひそかに喜んだ、彼は何うかして夕蝉孃を我妻には仕たく無いと心に祈つてゐるのだから、但し父の方は爾は行かぬ、眉の間に八字の皺が現はれ掛けた。

若段倉が猶豫を與へたなら父の方は何か言ひ出す所であツたかも知れぬが、段倉は早くも眉間みけんの八字を見て、自分の言葉に效能があつたを喜び、唯だ「サア、サア」と迫立せきたツて奧の間へ連れて入ツた、茲には全く段倉夫人もゐる、娘も伯爵も小侯爵もゐる、斯くと見て野西子爵は先段倉夫人に向ひ「今日は、私共の夜會へ御出席下さツた御禮を申しに參つたのです」さては縁談の爲では無かつたのかと、段倉は聊か自分の恐れ過たを感じた。子爵は語を繼ぎ「貴族院からの歸に其々御禮に廻る積りで、蛭峰氏の家から茲へ來ました、蛭峰氏は餘程お取り込中の御容子でした」夫人は蛭峰と聞いて、司法省の官房で密會した一條から猶遡ツて昔の罪深い事柄などをも思ひ出したか、異樣に巖窟島伯爵の顏をぬすみ見た、併し伯爵の顏は單に平和で何の色とても現はれてゐぬから安心のていに子爵に向ひ、「其れは御念の入りました」子爵「爾しましたら丁度 此こちらの門前で武之助に逢ひましたから、夕蝉孃の機嫌をも伺はせ度いと思ひ此通り連れて來ました」「イイヤ縁談の爲で無いでも無いと又段倉は思ひ直して「何うです子爵、娘と皮春小侯爵とあしてならんで居る所は能く似合ふでは有りませんか、誰でも爾う云ひますよ」此深い掛引の有る言葉は、殆ど石 一個ひとつで鳥二羽を打つた樣な效能が有ツた、小侯爵皮春永太郎と成濟まして居る春田路辨太郎は之を聞いて腹の中で、天にも上つた心地がして、明日にも縁談を言ひ込まねば成らぬと思ひ、又言ひ込みさへせば直に承諾を得られると見て取つて心に勇み、野西子爵の方は同じく此言葉に前よりも深く眉を顰めたかれど何もいふはずに、やがて知らぬ振で聞流した。

併し聞流さぬ人が一人あつた、其れは巖窟島伯爵である、伯爵は直に「段倉さん一寸」と云ひ、彼を室の隅まで連て行き、誰れにも聞えぬ小さい聲で「貴方の今の言葉は失言では有りませんか」と問ふた、段倉は假忘とぼけて「エ、今の言葉とは」伯爵「夕蝉孃と武之助とは久しい許嫁だと云ふでは有りませんか、其間へ皮春小侯爵などを入れて、若しもの事が有れば――イヤ無くとも野西子爵が感情を害する樣な事でも有れば第一私が子爵に濟みません、子爵は必ず巖窟島が餘計な小侯爵などを連て來るから此樣な事に成るのだと私を恨みますが」段倉は又小聲で「イエ、イヽエ、何の樣な事が有らうとも決して貴方には迷惑は掛けません、何うぞ私の娘の縁談は私の家の云はゞ内所事ですから、私にお任せ置き下さい」伯爵は不興氣に「成るほど貴方が爾仰有れば他人の私が口を出す可き事柄では有りません、けれど段倉さん、貴方の擧動が何だか小侯爵と夕蝉孃との間を結び附け度い樣に見ゆるのは、私の贊成せぬ所ですよ、私は之が爲に若しも野西子爵から恨まれる樣な事に爲るのはいやですよ」段倉「イヽエ、決して貴方が野西子爵に恨まれる樣な事は私が致しません、しや娘を武之助に遣らずに小侯爵へ遣る樣な事に成らうとも其れには又其れ丈けの手續が有り、野西子爵にはグーの音も出させません」伯爵「其樣な事を仰有つて、他日貴方が後悔する樣な事が有らうとも私は知りませんよ」段倉「勿論です、後悔するなら私が一人で後悔するのです、私は早く其後悔を仕たいと云ふ程に思つて居ます」とは是れ早く小侯爵を娘の婿夫むこに定め度いとの意味である。

嘘か誠か伯爵は苦々しい顏をして「爾まで仰有れば致し方が有りません」とて嘆息して更に皮春小侯爵の傍に行き細語さゝやいた「何か此家に取込が有り相ですから今日は此まゝお歸り成さい」人の戀路を邪魔すると、口には云はぬが、小侯爵は恨めしげに伯爵の顏を見た、併し伯爵の心は損じても元も子も無くなる身分だから眞に詮方なく「ハイ」と答へて立上つて、立上りつゝも彼の心にフト一つの疑ひが浮んだ「オヤ斯うまで我が擧動に心配し干渉する此伯爵が我が爲に何者だらう、若しや此身の本統の父では有るまいか」と、此疑ひの起ると共に彼は忽ち從順になり、殆ど懷かしいと云ふ樣な聲で「伯爵私は少し用事を思ひ出しましたからお先へ失禮致します」と云ひ更に他の人々へも然る可く挨拶して茲を去ツた、間も無く伯爵も「イヤ私も大變な用事を控へて居ます」と云ひ同じく然る可く挨拶して立去ツた。

若し伯爵の斯る仕ぐさが掛引に出た者ならば段倉の掛引よりも更に上を越す手際と云ふ可きである、是れも石 一個ひとつで鳥二羽を打つた樣な者だ、是を見て段倉は思ふた「アヽ伯爵は小侯爵を自分の連れて居る鞆繪姫とか云ふのに縁組させる内意が有る、其れだから心配するのだ、フム伯爵の大身代で猶縁組を望む程なら皮春侯爵家の身代は底が知れぬ、何うしてもおれの方で先を越して夕蝉に結び附けねば成らぬ」又野西次郎の方は、伯爵が夕蝉と我子武之助との縁談を妨げまいとの親切の爲にわざと小侯爵を連れ去つたのだと思ひ、其親切に對して早く此縁談を運ばねば成らぬと決心した。

決心しては少しも躊躇せぬが、野西次郎の本來の性質にある、罪の無い人を密告したり自分の與る城を賣つたりする事をさへ躊躇せぬ程の氣質だから直ぐに段倉に向ひ、「貴方へ眞面目な御相談が有りますよ、何うかお居間へ」段倉は當惑氣に「今日全く取込んで居ますので」野西「イヤ手間の取れる事では無く、一言で決するのです」無理に段倉の居間へ連れて行き「兼て約束に成つて居る私の息子と貴方の令孃との婚禮の日を取極めませう」一言の誤解をも許さぬ、言葉は明々白々である段倉「成るほど、昔は其樣な話しも有ツたかの樣にも覺えて居ますが」曖昧此上無い返事に、野西子爵の前額ひたひには青筋が隆起した、當年の次郎と段倉、何方どちらが何の樣に勝つか負けるか、此取組は見ものである。

巖窟王 : 一八二 賣國奴の一項

次郎は軍人肌、段倉は商人肌、一は嚴しく一はずるい、昔の素性は兎も角も、今は雙方 おの〳〵一癖を具へて居る、眞に見ものゝ談判である。

段倉が空とぼけて、妙に落附いた状に對し次郎は掴み掛らんほどの見幕と爲つて「エ、エ、段倉男爵、貴方は此約束を忘れて居たと仰有るか『成るほど昔は其樣な話も有つた樣だ』などと」段倉「忘れたと云ふでも有りませんが、其れほど眞面目な堅い約束とも思ひませんでした」次郎「しからん事を仰有る、息子 息女むすめを夫婦に仕やうと親と親との結んだ許嫁を、堅い約束で無いなどと、若しや貴方は外に私の息子武之助より優つた婿夫むこを見出したと云ふ樣な爲では有りませんか、爾うなら爾と明かに云つて下さい、私には私丈の考へが有りますから」何の樣な考へかは知らぬけれど、其言葉の鋭さで見れば、決鬪を言込むとの意味らしい、決鬪などは段倉に取つて最も禁物である、此上も無く恐ろしい事柄である。

けれど彼は容易に此縁談を破る丈の材料を持つて居る、先程ヤミナ州から受取つた手紙が其れなのだ、何も茲で劇しく言ひ爭はずとも、此材料を使用さへせば、忽ち我目的は逹するのだと心で多寡たかくゝつて居る「イヽエ野西子爵、何も私は貴方の息子を非難するのでは有りません、息子には罪は無いのです」息子には罪は無いとは角立たぬ樣で角立た言分である、聞咎めよと言はぬ許りである、次郎は果して其手に乘つた「ナニ息子に罪は無い、では父の方に罪が有るとでも云ふのですか」段倉「サア、無いと言ひ切る譯にも行きますまいて」とうそぶいた、何だか氣味の惡い話がある。

爾無きだに激怒して居た野西子爵は、脱いで卓子てーぶるの上に置いて有つた手袋を攫み潰すかと思はれる程に握り「失敬な」と云つて立つた、其まゝ戸口を指して立去らうとした、けれど段倉の方は猶落着いて居る、ナニ自分の身に暗い所の有る奴は眞實に怒り得る者では無いと自分自身の經驗に照して見拔いて居る、果せる哉だ、次郎は戸口から又引返した、爾して忽ち今度は昔の極親しかつた時代の打解けた口調に返り「コレ段倉君、君の態度が僕には少しも合點が行かぬよ、お互に何も罪だの罪で無いのと、他人がましく洗ひ立す可き仲では無いよ、君の娘も早年頃だし、間違ひの無い中に話を極めて婚禮を濟ませやうぢや無いか、僕と仲を違へて君は何の利益が有る」段倉は少しも打解けぬ、殆ど初めよりも一層恭しい口調で「イエ、野西子爵、利益の問題では無く名譽の問題です」次郎「では武之助と夕蝉とを夫婦にするのが名譽に障ると言はれるか、僕と親類續きに成るのを君の家の不名譽と云はれるか」

詰問の樣に問はれて、段倉は言葉を濁した「其れにしても子爵、此縁談は今日取極めるに及びません、私に二三日考へさせて下さい」次郎「十年も約束して、今更二三日考へるとは、僕には合點が行かぬ、君から此樣な仕向を受けては僕は勿論息子の武之助の顏にも掛る」段倉「イヤ何に縁談の破約と云ふ事は、男の顏よりは、餘計に女の顏に掛ります、私も辛いけれど、此頃世間の噂を聞込んだ事も有り、何だ何でも兩三日考へねば御返事が出來ません」次郎は怒氣滿面、再び立つた、今度は戸口から引つ返す容子は無い。

「では世間の此野西子爵の事を、惡樣に云ふ者が有ると云ふのだな、何の樣な噂だか知らぬけれど其れに多年の親友たる段倉男爵が耳を傾け縁談の故障をするとは餘り甚い、其樣な輕薄な友人ならば無い方が幸ひです」云ひ捨てゝ立去つた。此翌日の朝である、彼の猛田猛たけだたかしの主宰せる獨立新聞の紙上へ「賣國奴」と題して、野西子爵に關する容易ならぬ記事が出た、段倉はいつも五六種の新聞を讀終りて獨立新聞を最後に讀む男だのに、此朝に限つて、何か待設ける事でも有る樣に其新聞を一番先に選出して打開き、紙面全體を熱心に探した末、其「賣國奴」の一項に目を注ぎ「占た、占た」と叫び更に「之が出れば幾ら野西次郎がズウ〳〵しくとも自分の名譽が地に落た事を知り、名譽の高い段倉家へ最早縁談を言込もせぬだらう」と呟いた。

巖窟王 : 一八三 歌牌が出來ました

「賣國奴」世に之ほど恐ろしい言葉は無い、誰でも彼でも、一たび此言葉を加へられゝば直に死んで了ふのだ、肉體の命は存するけれど名譽の命は死んで了ふ。

何の樣な威名赫々ゐめいかく〳〵の政治家でも、賣國奴と云はれゝば其地位を保つ事が出來ぬ、大軍人でも貴族でも、直に社會からよはひせられぬ事になる、今此恐ろしい言葉が、何の爲め、又誰の仕業しわざだか知らぬけれど新聞紙の上で、子爵野西次郎に加へられたのだ、彼此汚名を雪ぐ事は出來れば好し若し出來ずば政治的、社會的、交際的に死んで了はねば成らぬ、又此世に顏を出す事は出來なくなるのだ。

男爵段倉が此新聞を見て嬉しげに呟いたに引替へ、同じ朝の同じ時刻に、此新聞を見て怒髮逆立ち目眦まなじり裂くるほどに立腹した人がある、其れは外で無い、斯く賣國奴と指目された野西次郎其人の息子武之助である、彼は此新聞の主筆記者 猛田猛たけだたかしと懇意な丈けに、毎朝何の新聞より先に此獨立新聞を讀んで居る、目に立つほどの大記事では無いけれど左の如く書いてある。

ヤミナ州の通信(彿國の賣國奴)希臘に在る通信員より驚く可き一報を傳へ來れり、聊か舊聞には屬すれども先にヤミナ州が土耳古の兵を受けて戰ひ敗れたるは、通例の敗北に非ずヤミナの城中に一の賣國奴あり、敵軍より重賄を得て、其城と其軍との機密を土耳古皇帝に賣り渡したるより起りし者なりと云ふ、是れだけならば敢て今更新しく報ずるに足らざれど茲に慨嘆す可きは、其賣國奴が悲しくも我が彿國人なるに在り、初めヤミナ州が大敵土耳古を引受けて義戰するや、我が彿國の軍人は多くヤミナの義擧に感じ、せ參じてヤミナ軍に加はりたり、此義侠を籍口しやくこうせる軍人中に賣國奴あらんとは誰が知る可き、而も賣國奴はヤミナ城の最も深く信任したる次郎と云へる者なりと云ふ。

之を讀終ツて武之助は「餘り失敬な事を書く」と打叫んだ、勿論單に「次郎」と有ツて野西子爵とは無いけれど、ヤミナ城主の最も深く信任したと云ふ丈けでも自分の父とは分る、して「次郎」と云ふ名まで添ふからは誰とて子爵野西次郎と一目に見て取らずには置かぬ「エヽ、昨日まで親友として交はツて居る猛田猛が、其新聞へ此樣な事を書かうとは思はなんだ、彼と決鬪して此汚名を雪がねば此身は世間へ顏を出す事も出來ぬ、父上も此家も、恥辱の底へ沈んで了ひ、又と浮む瀬が無くなるのだ」彼は血氣の滿滿た年頃だけに唯だ腹立しさの一念のみで他の考へは少しも浮ばぬ、此樣な汚名が果して決鬪で雪げるや否やなど云ふ事は毛ほども彼の思ふ所で無い、直ちに彼は其新聞を衣嚢かくしに入れ、馬車に飛乘つて家を出た。

爾うして只管ひたすら走らせる中に思ひ出した、決鬪には介添人が要る、先づ其人を定めた上、其人から言込まねば成らぬ、介添人は誰にしやう、第一に彼の心を浮んだのは巖窟島伯爵である、直にエリシー街なる伯爵の邸へ馬車を向けた、此時は朝の八時前である、未だ伯爵が起きて居ぬかも知れぬとは思ひつゝも其玄關に飛んで入ると伯爵は卅分ほど前に外出したとの事である、此早朝にと、怪しんで更に聞直すと、八時半には歸るから其時刻に朝餐の用意を仕て置けと言ひ殘して出た事が分つた、其れでは八時過に來れば逢はれるから、其刻限まで散歩しやうと、馬車から降りてエリシー園の外を歩むうち、行くとも無しに射的場の前まで行つた、いたづらに散歩するより、少しでも射的の稽古を仕て置けば決鬪の補足に爲るかも知れぬと、たゞちに其中へ入つて見ると、早先客が一人ある、的に向ツて短銃ピストルを手にして居る。

短銃ピストルの朝稽古とは熱心な人も有る者だと靜かに其 背姿うしろすがたを見れば巖窟島伯爵の樣である、直に聲を掛けやうかと思ふうち又も目に留まつたのは其的である、的の所に丁度 歌牌かるたほどの形に切つた紙の札を十枚並べて有つて伯爵は其中の何れかを狙つて居る樣にも見える、何の爲めに紙切を的にするのか餘り不審だから聲を潛めて猶ほも背後うしろから見て居ると、伯爵は第一發で左の端の紙切の眞中を射貫いた、其紙切が丁度トランプで云ふ歌牌かるたの一點の樣に見える事に成ツた、次に二發三發で其次の一枚へ二點の穴を開けた、是も全く歌牌の樣に見える、不思議にも其丸のあたツた所がまさしく歌牌の二點の記號しるしが付いて居べき所である、次に又三發打つて三番目の紙をば歌牌の三點の樣に射貫き是で六發のたまが盡きた、爾して伯爵は餘念も無く更に又 彈丸たまを籠めて居る。

若し偶然で無いとすれば、此伯爵こそは世界に唯一無二の短銃ピストル射的の名人である、武之助は伯爵に此樣な武藝が有らうとは知らなんだから、眞に開いた口が塞がらぬほど感心して猶も立つたまゝ見て居ると、伯爵は六發打盡して彈丸たまを込め又打ツては又込め直し、到頭十枚の紙札へ順々に歌牌の一點から十點までも射貫いて了ツた、妙、しんに入るとは此事だらう、何の點も何の點も悉く定木を當て書いた樣に正しい所へ當り一分一厘も狂ツて居ぬ樣に見える、武之助は思はず感嘆の聲を發して「絶妙」と叫んだ、伯爵は初めて此方こなたを向いたが、何か惡事をでも見留められたかの樣に其青い顏を聊か赤めた、併し之はわづかの間であツた、直に打笑ツて「オヤ詰らぬいたづらを見附かりました、久しく武噐を手にせぬから若し狙ひ方を忘れはせぬかと、今朝は食事前に試して見ましたが、子爵何うでせう、彼の歌牌を檢めて下さい[」]武之助は直に的の所へ行き、射貫かれた紙十枚を拾ひ上げ「全く歌牌が出來ました、伯爵、何の樣な決鬪者でも貴方の短銃ピストルの前に立つ勇氣は有りますまい」と嘆賞した、勿論、他日其身が伯爵の短銃ピストルの前に立つ場合が有らうとは思ひも寄らぬのだ。

巖窟王 : 一八四 一城の主の姫君

之より直に武之助は、巖窟島伯爵に向ツて、決鬪の介添人に成ツて貰ひ度い旨を頼んだ、其れを聞くと共に伯爵は眉を顰めた。

「イヤいけません、私は何の樣な決鬪に對しても決して關係致しません、固く嚴正中立を守ると云ふのが日頃の主意です」一も二も無く承諾して呉れやうと思つた人が此仕置なので武之助は案外の思ひに堪へぬ、けれど伯爵としては無理の無い所である、日頃の主意はいづれとするも伯爵に取つて武之助は其實 かたきの末である、勿論父を恨むが爲に其子までを敵の樣に思ふ事は伯爵のせぬ所で有るけれど、去ればとて伯爵には一種の堅い信念が有る、確に其身が神の助けを得、神に代つて人間に天の裁判を下すが爲に活て居る者と思ひ詰て居るのだから、少しでも自分の奉ずる宗旨に觸れる樣な事はせぬ、其父を恨ながら、其子の決鬪に加擔する如きは神の命で無いと思つて居る、若しも外の人から此樣な頼みを受ければ或は承知するかも知れぬ、武之助からでは決して出來ぬ、又同じ武之助からでも外の事を頼んだなら必ず承知するだらう、決鬪の介添人と爲る事は決して承知が出來ぬ。

伯爵は武之助の案外に思ふ顏を見て、説き明す樣に云ふた「本來私が決鬪と云ふ事に贊成せぬは、先に羅馬で死刑を見物した時に貴方と毛脛安雄君に話したでは有りませんか、人から辱めを受ければ、其受けた通りの辱めを其人にかへせば好い、自分が負るやら勝つやら分らぬ決鬪の樣な手弛てぬるい手段で決して滿足が出來るものでは有りません」暗に自分の目的を仄めかして居る。

「目をえぐらるれば目をえぐり返せです、私は法律の裁判さへ滿足で無いと思ひます」暗に御身の父へ法律にも無い程の罰を加へるとの意味では有るましか、爾とすれば此伯爵、或は既に今朝の新聞を見て武之助の父が賣國奴の汚名をせられた事を知つて居るのでは有るまいか、猶一層深く疑へば此汚名さへも幾等か伯爵の方寸から出た事では有るまいか、しや伯爵から出ぬにしても、伯爵が却つて之に贊成し、或は之を大復讐の好き發端と思ツて居るのでは有るまいか、併し伯爵の顏には武之助に對する無限の憐みが現はれて居る、少しも武之助は伯爵の心に隱れた念慮が有らうとは疑はぬ。

彼は熱心に又云ふた「併し伯爵、其れならば貴方は何故 短銃ピストルの稽古などを成さいます、仲々貴方の射撃の旨い事は、いたづらや慰みに稽古した物とは思はれません、何うしても誰某たれそれを射殺さねば成らぬと決心して深い目的の爲めに稽古した樣に見えます、貴方の紙切を的にして狙ツて居る姿までが恨ある人の心臟を狙ツて居る樣に見えました」伯爵は物凄く笑つた「イヽエ伯爵、貴方は久しく武噐を手にせぬからと仰有ツたけれど、短銃ピストルばかりは外の武噐とは違ひますよ、之を以て鳥や兎をりに行くと云ふ物でも無ければ、戰爭に行く武噐でも有りません、殆ど一 の爭ひに相手を射殺すと云ふより外に用は無いのです、云はゞ決鬪の爲と限つて居る程の品です、其品を以て貴方が熱心に稽古成すツた所を見れば決鬪をせぬ人とは思はれません、貴方の態度は確に世界隨一の決鬪者です」伯爵は妙に眞面目に「イヤ私は短銃ピストルばかりが巧者では有りません、貴方は何か私のする仕事で是が下手だと云ふ事を見た事が有りますか」成るほど何一つ人に優れて居ぬと云ふ所は無い、武之助「併し伯爵、其お言葉は未だ貴方が人と決鬪せぬと云ふ證據には成りません、根本から決鬪を嫌ふ人が何故に短銃ピストルを」伯爵「イヤ自分では決鬪をせぬけれど人から挑まれた時に應ぜぬ譯に行きません、ですが貴方は誰と決鬪するお積りです」武之助「猛田猛とです」伯爵「エ、猛田猛、アノ新聞記者の、ソレ御覽なさい、彼は貴方が親友だとて私へ紹介した方では有りませんか、此國に居れば何時なんどき親友からでも決鬪を申込まれるか分りません、今日こんにち親友の猛田猛に決鬪を申込む貴方が明日は私へ決鬪を申込まぬと限らぬでは有りませんか、私は其樣な時の用意に短銃ピストルを稽古するのです」武之助は笑つて「其時には歌牌かるた心臟印ハートを射貫く樣に私の心臟を射貫き成されるでせう」伯爵「ハイ心臟を」笑談ぜうだんの返辭だけれど何と無く物凄い、武之助は思はず知らず身震ひした「イヤ伯爵の丸面たまおもてには立たぬ樣に用心しませう、歌牌にせられるは未だ早過ぎますハヽヽ」伯爵「私は決して自分から決鬪を申込みません、決鬪するほどの恨みが有ればモツと好い方法に訴へます」

「併し兎も角も、私の家へお出なさい、爾して能く事情をお聞かせ下さい」とて伯爵は更らに武之助を自分のやしきへ連て歸ツた、爾して武之助から彼の新聞を示されて立腹の次第を聞いた、一應思案した上「併し次郎と云ふ名は最も有り觸れた名前です、ヤミナへ援軍に行つた數千の彿蘭西人に必ず五六人は有りませう、何も貴方が自分の父だなどと自分から辱めるには及びますまい」武之助「其樣に誰も云ふ言種いひぐさでは私の胸が癒えません」伯爵「其れならば決鬪を申込む前に、先づ事實をたゞし、猛田猛に紙上で明白に取消させるが好いでせう」武之助「事實をたゞして居る間に、世間の人はの記事を爭ツて讀んで居ます、其れから其れへと、私の一家を侮辱する樣な噂が世間え廣まります、其れに事實を證明する人とても有りませず」伯爵「有りますよ、有りますよ、誰よりも能く、其ヤミナ城の陷ツた次第を目撃した證人が此私の家に居ります」

さては伯爵自身がヤミナ城の陷落を目撃した人だらうかと武之助は目を見開き「其れは誰です」伯爵「私が希臘の皇女と云つていつも劇場などへ連て行く鞆繪姫です」武之助「エ、の美人が、何うして」伯爵「何うしてとて、姫君は、イヤ鞆繪姫は當時ヤミナ城に籠つて居た一人です」武之助「其れは併し」伯爵「ヤミナ城主 有井宗倫ありゐそうりんの娘です、世が世ならば、一國一城の主の姫君、其れが今では自分の家も、イヤ自分の身分さへも無い奴隸です」異樣に伯爵は自分の言葉に感動した容子である、まなこの底に涙が輝いて居る樣に見える、不憫の爲の涙だらうか、言葉には何やら悔しさの響きも有る武之助「オヤ其樣な身分の方ですか、道理で自然に品位が備はツて居ると思ひました」伯爵「鞆繪姫の室へ一緒に行きませう」武之助は暫し考へ「イヽエ、事實を問糺すと云ふ事は何だか私自ら父を疑ひ、若しや此樣な所業が有つたのかと怪ぶむ樣に當ります、事實の無根と云ふ事は無論ですから、問ほ糺す必要は有りません、是から私は出部嶺でぶれい砂田いさだ伯かを介添人に頼みます」伯爵も亦考へて「けれど武之助さん、介添人を立てたり、決鬪を言ひ込だりする前に、貴方一人で猛田に逢ひ立派に記事を取消せと掛合ふのが當然です、彼が穩かに取消せば其れで濟みます、其手續をせずに貴方の口から此『次郎』とはおれの父を指したのだと、假令たとへ出部嶺や砂田伯へたりとも吹聽する樣な所業は宣く有りません」此道理は武之助も聞き分けた「成ほど爾です、先づ猛田猛へ直接に談判して謝罪の意を表させませう」と云ひ彼は猶豫も無く新聞社を指して茲を去ツた、後に伯爵は、殆ど神に感謝する樣に天を仰ぎ「アヽ愈愈時機が熟して來た、何も彼も我が思ふ樣に進んで來る、全く神が導いて下さるのだ、此上にも猶ほ神の御心を以て首尾よく此大任を果さねば成らぬ」呟く聲は一種の祈祷の樣に聞えた。

巖窟王 : 一八五 決鬪の條件

伯爵の許を去た野西武之助は、直に其足で獨立新聞社を訪ひ、主筆記者猛田猛の室へ走り込んだ。

新聞社の主筆記者と云へば其天職は重いけれど、餘り立派な室に住んで居る者では無い、書損じの原稿から見古しの新聞紙が其處此處に散ばツて、云はゞ反古の捨場とも云ふ可き中から首ばかり出して居る有樣だ。

武之助の足音を聞くより猛田猛は何か忙しく書いて居た原稿紙から顏を上て「オヽ野西君、早朝から是は意外、應接の室に待つて居て下されば、モット綺麗ですのに」と挨拶した武之助「イヤ待つて居られる樣な緩々ゆる〳〵した話では有りません、貴方に汚された一家の名譽を囘復に來たのです」云ふ言葉が其 見脈けんみやくと共に如何にも荒々しいので、猛田は初めて尋常たゞで無いと見て取り「全體何の樣な用事です」

問ふ尾に付いて「今朝私の來る事は、問はずとも御存じの筈です、此樣な事を書かれて、私が默ツて居るとは思ひますまい」と武之助は自分で持つて來た新聞紙を猛田の前へ差し附けた、猛田は訝怪けげんな顏で彼のヤミナ通信の一項を讀んだけれど合點が出來ぬ。

「ヤヽ此樣な事項は通信部の主任記者が私共へ相談せずに載せるのですから――」武之助「其樣な事を云つて貴方が責任を逃れるなら、二人の介添人を茲へ送る外は有りません、私は初めから決鬪の積りです」自分の言度い事ばかり云ふて、相手に分るや分らぬやら考へる暇を與へぬ、今まで呆氣に取られて居た猛田猛は、急に眞面目になり、「私には何の事だか分りませんが貴方の言葉は殆ど暴言です、日頃の懇意の爲め私は恕して居ますのに、貴方が其樣な紳士らしく無い態度を續ければ、摘み出す外は有りません、此室は亂暴者の闖入を許す場所では無いのです」と嚴重に言渡し、武之助の益々怒らうとする状を見て「其れとも貴方は穩かに説明しますか、其れならば私も聞きますが」

此言葉に逢ふて武之助は聊かながら我にかへツた「私には貴方が分ツて居る事をわざ僞忘とぼけて居るのだと思ひますけれど、説明せよとならば説明しませう」と云ひ、是れより彼の記事が確に自分の父を指したに相違無い旨を述べ、更に事實無根として少しの疑ひものこらぬ樣に明白に取消しますか、若し其れが出來ずば決鬪せよと迫ツた。

猛は迷惑げに武之助の顏を眺めたけれど仲々治る容子が見えぬので又暫く思案した末、と重々しい語調で「全體ならば此記事は猛田猛の知らぬ事ですから、責任者たる通信部長へお掛合ひ成さいと刎ね付ける所ですが、其では貴方が又責任を避けるなどと立腹するでせうから」武之助「無論です、避け樣とて避けさせません」猛「イヤ避けは仕ません、相手が貴方だけに、日頃の交誼を重んじて、私が責任に當ります、ハイ充分の責任を以てお返辭します、能くお聞き成さい、新聞紙が一旦掲げた事を取消すと云ふのは一種の自殺ですから容易には出來ぬのです」武之助「出來ぬなら私と決鬪する一方です」猛「宜しい決鬪しませう、けれど此決鬪たるや貴方から申込む決鬪ですから、其條件は私が取極めます」武之助「何の樣にでもお取極め成さい」猛「貴方に異存は言はせませんぞ」武之助「何で卑怯に條件に對して異存など云ひます者か」猛「では日取を極めます、今日から起算して廿二日目の朝と云ふ事に」

「廿二日目、其樣に待たれます者か」と武之助は叫んだ、猛「異存は云はぬと云ふ口の下から、其異存は卑怯では有りませんか」武之助「でも」猛「イヽエ、でもでは有りません」武之助「でも三週間を無駄に過ごすとは譯が分りませんもの」猛「私に取つては三週間の準備が無くては決鬪は出來ません、外の事とは違ひ貴方の父上に關する次第ゆゑ、私も先づ充分に事實を取調べ、事實無根と分れば明白に取消して謝罪したい、無根で無いと分れば貴方の方が無禮ゆゑ私は貴方と決鬪するに少しも躊躇はせぬのです、充分に良心の贊成を得て命の取遣りをするのです、貴方は三週間の猶豫を承知するか、決鬪を取消しと兩方を思ひとまるか二つに一つをお選び成さい」何うして思ひ止まる事が出來やう、武之助は詮方無く「其では三週間待ちませう、三週間も掛つて貴方が充分詮索すれば、事實無根に極つて居ますから、私も紙上で明白に謝罪あやまらせるのを好みます」決鬪するに三週間の猶豫とは類の無い事だけれど全く武之助は記事の無根が分るに極つて居る樣に安心し蟲を殺して此條件に從ふたが、若し、其三週間の後に、事實無根で無いと分ツたら何うするだらう。

巖窟王 : 一八六 蛭峰家 七

話は追々枝葉が多くなツて來た、三週間後と極つた武之助と猛との決鬪は何うなるのだらう、段倉の娘夕蝉と小侯爵皮春永太郎との仲は何の樣に成り行くのだらう、又全身不隨の野々内彈正が請合つた華子と安雄との婚禮の調印は果して妨げる事が出來やうか、總て其れや是やの別々の事柄が、知らず知らずに巖窟島伯爵の大復讐へ流れ込んで行きつゝあるのだ、其状はあたかも東西南北樣々の方角に流れて、互に何の縁も無さ相に見える別々の川が、其實自然に一個ひとつの大海へ流れ込んで行く樣な者である、此れは天地の間に存する自然の道理、彼れは人情の上に現はれる大なる天意と云ふ可きである、茲には先づ野々内彈正の件に立戻ツて話の歩を進めやう。

* * * * * * *

口さへも利けぬ末路の英雄野々内彈正に何の樣な竒略がある、彈正の傍を離れぬ華子さへも且怪しみ且危ぶんで居たが此翌日は此蛭峰家から二個ふたつの葬式が一緒に出た、一つは馬耳塞まるせーゆから着いた米良田伯爵の死骸で今一つは此家で有國醫師に毒殺と疑はれた米良田老夫人の死骸である、何しろ悲しむ可き事柄では有るけれど老たる夫婦が凡そ時を同じくして死し同じ日に同じ家から棺を出て同じ處に葬られるとは世に云ふ偕老同穴かいらうどうけつの諺に叶ふた者として諦める外は無いと、悔みに來た中の或る人は云ふた、何にしても主人蛭峰に取ては一方ひとかたならぬ取込と云ふ者で、是れが爲に彼の大事の取調は日一日と延て居る、「エヽ此樣な事さへ無くば、最うくに巖窟島伯爵と云ふ彼の怪物の本性は分つて居るのに」と彼蛭峰は墓地に行つてまで呟いた、其心中の忙しさ察す可きである、併し彼は忙しさに驚く樣な弱い男では無い、忙しさに連れ益々心が激しくなる方で「ナニ此葬式が濟めば、直に華子の調印を濟ませ、又即座に彼怪物の取調べに着手するのだ」と心に誓ひ、葬式の場所で早や會葬人の中から毛脛安雄を見附け出して、今夜是非とも我邸に來て調印を濟まされよと乞ふた。

安雄も是には驚いた、何が何でも二個ふたつ葬式を出した其家で、其夜に婚禮の調印とは餘り心持の能く無い事だから、せめては明日にと逹ていなみ、其場は是れで分れたが、て翌日になると愈其積りで蛭峰の方では公證人も呼び、總て調印の用意を運び盡して待つて居る、其所へ安雄が來た、是れが安雄と華子との二度目の顏合せである、華子は敢て安雄を憎いと思ふ譯では無い、家柄と云ひ男振と云ひ且は心榮まで誰の所天をつととしても耻かしからぬ人ではあるけれど、外に此人に優る大尉森江眞太郎が有つて心が既に其人の物と爲つて居るのだ、何うして祖父彈正が此調印を妨げて呉れるだらう、手段があるなら今其手段を施さねばと、殆ど氣が氣で無く、調印の卓子てーぶるに向ツても幾度いくたびか隱居所の方を振向き、只胸のみ騷がして居るうち、愈公證人が婚姻約定書を讀聞かせやうとする間際に成ツて、隱居所の方から多年彈正に附いて居る老僕忠助が急いで來た、華子は有難いと思ふ心を推し隱して之に向ひ「忠助、祖父樣おぢいさまが急にお惡くでも有はせぬのか」と問ふた、忠助「ハイ先刻から何だか御容子が違つて居る樣に見えますから、色々伺ひましたら婿夫むこと爲る方を一度も隱居所へ連れて來ず調印するとは不服だとの御立腹の樣に私には思はれますので」華子は父蛭峰の顏を見た、是は顏に父の返辭が現はれるだらうと思つての事なんだ、蛭峰は眉を顰め「何だ餘計な」と呟き、更に聲を發して「何も隱して調印する譯では無し、只此樣な事は寸善尺魔すんぜんしやくまとさへ云ふのだから、急いで居るのだ、調印が濟めば直に毛脛安雄氏を隱居所へ御案内してお引合せ致しますと爾う申して呉れ」華子は大變と「でも阿父さん」と叫んだ、けれど後に續く言葉は出ぬ、若し此時に天から邪魔でも降つて來なくば彈正の何の樣な竒略も施すによし無くして、調印は無事に運ばれ相に見えた。

幸なる哉、邪魔は天から降つて來ぬが毛脛安雄の口から出た「イヤ是は全く私の失念でした、大事のお孫娘と縁組するのに、一度も祖父樣おぢいさまにお目に掛らぬとは、申し譯の無い不作法です、兎に角御隱居所へ行き、一應お目に掛ツて來て、其れから調印を致しませう、公證人、何うか手間は取らせませんから少しお待ち下さい」」と云つて立つた、是れは必ずしも毛脛安雄で無いとても云はねば成らぬ事である、人の孫娘を妻にするのに、其祖父に顏さへ見せずに調印するとは誰とて氣の濟まぬ事柄である、獨り蛭峰のみは、蟲が知らせると云ふ者か、何だか此安雄を彈正に逢はせるは宣く無い樣に感じ、既に顰めて居る眉と眉の間を一層狹くしたけれど、引留る口實は無い「では私が御案内致しませう」とて澁々立つた、自分で連て行きさへすれば、し萬一に何か面倒の起り相に見えても直に引分けて連れ來る事が出來るのだ、華子も後れずに立上つた、眞に祖父さんが妨げて呉れる事が出來るか知らんと、猶だ危ぶむ念は胸に滿々て居るけれど、兎に角一旦は虎口の難を逃れたのだ、イヤ難を幾時の間か後へ送る事が出來たのだ、之れに蛭峰の妻を合せ四人打連れて隱居所を指して行ツた、そもそも此隱居所に於て大なる活劇が演ぜられるとは誰も知る者も無い。

巖窟王 : 一八七 蛭峰家 八

安雄は野々内彈正の枕邊に寄り、先づ其顏を差窺さしのぞいて恭恭しく初對面の挨拶から不思議の縁で孫娘と婚禮する事になツた嬉しさを、場合相應の言葉で述べた、もとより彈正は唯だまなこを動かす外、何の返辭をも爲し得ぬ身では有るけれど、異樣に落着いて居る、何だか此婚禮を妨げるに就ての充分な謀略はかりごとが胸に有ツて、必勝を信じて居るらしい、大軍師が戰場に臨む前夜とても斯まで落着き拂ふ事は出來ぬ。

彼のまなこわづかに安雄の顏に注ぎ直に轉じて華子の顏に移ツた、華子は胸を轟かせつゝ進み出て「祖父さん、私は貴方の言葉を通譯せよと仰有るのですか」彈正のまなこ「爾うだ」華子は定めし辛い通譯だらうと思ふけれど我身の浮沈が繋がる所だから、充分其役を果さねば成らぬと覺悟して居る、直に先づABCいろは文字もんじを並べ記して表を取り一字一字指示して彈正の意をうかがふに、彈正の眼は遂に「ひみつばこ」も文字を綴り出した華子「箪笥の中から貴方の祕密箱を取り出して茲へ持つて來るのですか」彈正「然り」

華子は其通りにした、一同は如何なる箱かと目を注いだが、通例世間で大事の手紙などを入れるに用ふる小さな文庫である、此中に大なる活劇の種が有らうとは誰も思はぬ、先ほどから唯だ彈正のする事をのみ、心配して居る蛭峰さへも、或は祝ひの記標しるしに何か孫 婿夫むこへ與へる積りだらうかと位にしか思はなんだ、華子は「此箱は何うしますか」と問ひ、又も樣々の管々くだ〳〵しい手續きを得て漸く「中に在る書類を茲で安雄に朗讀させて呉れ」と云ふ意味を探り得た、誠に異樣な注文である、茲に至ツて初めて蛭峰は異樣に危む念を起し、「ナニ毛脛さん、今讀まずとも後でゆつくり御覽成さツて宣いでせう」と忠言した安雄「イヽエ、祖父樣のお指圖は神聖です」斯う恭々しげに返辭して直に華子が蓋を開いて出す其箱を受取り、中から古い一通の書を取出した、書にはおもてに「千八百十五年二月五日、祕密共和黨會合の顛末略記」と書いてある、是れだけの文字もんじに安雄の顏色は早變ツた、變るも道理や此年月日は幼い頃から深く安雄の胸中に刻まれて消すに消されぬ所である、千八百十五年二月五日、是れ安雄の父毛脛將軍が暗殺された其日である、而も其暗殺は茲に記した祕密共和黨の密會の席から歸る途中で有ツたのだ。

唯だ標題みだしの文字だけで安雄は、他の何事をも打忘れたていである、熱心に其書を取上げ、嚴かに讀み初めた、初めの方には先づ、將軍が拿翁なぽれおんの流されて居るエルバ島から歸つた事から筆を起し、將軍が充分世間から拿翁なぽれおんの腹心で有る如く疑はれた爲め祕密黨の首領が内々將軍に面會し其黨の密會場へ出席せられよと請ふた次第を記して有る、是等の事は既に本篇の初めに記した通り、其頃の警視廳が探り得て新聞紙にも乘つた事で、其れから將軍が自分から承知して自分の目を隱し祕密黨の首領の馬車に同乘して其會場へ行つた事まで世間の人は知つて居る。

讀んで其處に至ると、蛭峰は大に心配を初めた、彼は「毛脛さん、毛脛さん、其れは今讀む可き書類では有りません、先づ私にお渡し成さい、御存じの通り公證人も待つて居ますから、婚禮の調印を濟ませて其後で見る事と成さい、サア私が預かりませう」と遮つて實際に手をまで出した、けれど最う安雄は心と書面とが一體に爲ツた如くである、其言葉を耳にも掛けぬ、爾して次の如く讀み續けた。
吾々黨員は首領の連れ來りし毛脛將軍の目隱しを取脱したるに、將軍は目を開きて、列座せる七十人ほどの黨員を見廻し、痛く驚きたるていなりき、座に在る中の過半數は兼ねて將軍と懇意なる軍人にして皆朝廷の忠臣と信ぜらるゝ人々なりしかば、將軍は聲を揚げ、イヤ君方も此黨員なりしか、さては人を此處へ連れ來るに、用心に用心を加へ、道順や場所を知らしめぬ爲め目隱しを施すは當然なりと、賞讚する如き語を發したり、黨員の多くは、將軍の加入を得て、我々早大望を成就せし心地すと叫び、熱心に將軍と握手したり。

既にして議事に掛れり、勿論將軍は初めての列席ゆゑ自分より發言する程の意見も無かりしと見え始終無言にて黨議を打聽き、其半に至り、手帳を取出して心覺えに筆記せんとしたれば、首領は之を制止し、我黨の祕義は唯だ書記に筆記せしむるのみ、決して黨員銘々に書き留むるを許さずと云ひたるに、將軍は又感服し、成るほど爾無くては眞の祕密は保たれまじと云ひて其手帳を收めたり。

此時の評議は拿翁なぽれおんがエルバ島より脱し來るに就き、全國黨員が到る處に旗揚して朝廷をくつがへす手筈の打合せなりし爲め、黨に取りては此上も無き重大の機密なりき、斯て評議は終り黨員中の軍人はおの〳〵自個の連れ來たる可き兵士の數と、向ふ可き方面とを首領の耳に細語さいごして順々に血判し、軍人ならぬ者は自個の相逹す可き軍用金や又身に引受く可き勞働や奔走などを密約し是も其れ〴〵血判して、愈將軍の血判すべき順番と成りたるに將軍は躊躇せしのみか、拙者は朝廷より將軍の軍職を受け、朝廷の録をみ、朝廷より榮爵をまで授かれる者にして朝廷の忠臣なれば未だ此祕密黨には入籍せざる者なりと言放ちたり。

黨員の面々は此一語に怒髮の逆立つ如く怒り、將軍の肉を食らふとも足らずと云ひ「殺せ」「殺せ」の聲は叱咤の聲と共に凄じく沸き起りたり。

讀來る安雄の聲は、鍛へたる鐡を打合すかと思はれる程に冴えた、蛭峰さへも一語を發する事が出來ぬ、華子はかうべを埀れて顏を兩手に隱して居る、多分はひそかに泣いて居る者らしい。

巖窟王 : 一八八 蛭峰家 九

讀むに從つて毛脛安雄は、其身が全く父將軍の位置に立ち、將軍の當夜の境遇に入つた樣に感ずると見える、一心不亂の有樣で讀續けた。

將軍は活せて歸しては黨の破滅なれば即座に將軍を殺す可しとの意は黨員全體の心に滿ちたる者の如し、此時若し黨の首領が、諸君將軍を殺す可きかとの一問を發せしならば將軍は確に全會一致を以て死を宣告せられたる可し。

將軍は逃れぬ場合と察したるや、罠にかゝりたる猛獸の如く狂ひ立ち「七八十人の力を合せて此一人を壓殺するとは能くも卑怯者のみ揃ひしもの哉、一人と一人の決鬪なら私も甘んじて應じますが、爾無くば諸君の所業を虐殺の所業と云ふに躊躇しません、衆を恃んで一人に向ふ卑怯者よ、揃ひも揃ひし破廉恥漢よ」と罵りたり、此時首領は衆を制して立ち、と嚴かなる聲にて將軍に向ひ「將軍よ、未だ我黨は貴下を殺すに決した譯では有りません。暴言は謹み成され、將軍よ、貴方は、我々が無理に此場へ連れて來たと云ふで無く、唯だ私の勸誘に從ひ自分の隨意に茲へ來た事を忘れましたか、我々は貴方に目隱しを施しましたけれど是も貴方が自分の手で結んだのです、否と云ふのを無理に我々が施した譯とは違ひます、其時には貴方も充分に、此會が祕密黨の會で有る事を知り、他人が入込む可き場所で無い事を知り、之に入込むには黨員の式に從はねば成らぬ事を知つて居たのでせう、我々が貴方を我黨の贊成者と認めたのは無理の無い所です、しかのみならず、貴方は此場に來て我黨の幾人と握手しました、若し我黨の贊成者で無くば何故に目隱しまでして茲に來ました、何故に握手しました、何故に決議の前に斷りませんでした、併し將軍よ、之は敢て咎めません、唯だ我黨を侮辱する事をお止め成さい、我黨は決して能くも揃ツた卑怯者では有りません、何よりも廉恥を重んじます、其證據として、若し貴方が今夜の祕密を生涯他言せぬと云ふ誓ひを立つれば、無事に貴方を貴方のやしきまで送り屆けます、何うです其誓ひを立てますか」

將軍は嘲笑あざわらツて「他言せぬとは即ち此黨へ加擔すると同じ事です、現に國王の朝廷をくつがへすと云ふ企てを聞き知つて之を國王に知らさずに居れば、自ら國王を倒すと同じ事です、私は國王の忠臣です、其樣な誓ひは立てられません」此言葉にて觀れば將軍は國王の爲に我黨の祕密を探らんとて、此席へ我黨の贊成者らしく見せ掛けて入込みし者と認めらるゝ外なければ、黨員一同は再び激動し「死刑」「死刑」と連呼したり。

首領は再び將軍に向ひ「其誓ひを立てぬとならば、生きて此場を出る事は出來ません、誓ひを立てるか、生きて還るか、二者の一をお選び成さる前に、今一應 とくとお考へを願ひます」將軍は又も滿場を見廻したが、黨員一同が首領の言葉を當然として鎭まり返つて居る状を見、決して其死刑と云ふ語の、虚喝きよかつに有らぬを知りし如く「然らば誓ひを立てます、今夜の事は決して口外致しません」と云ひ更に首領の指圖に從ひ、名譽を賭したる正式の宣誓を行ひたり。

黨員中には多少不服に思ひ、しや宣誓の式に從ひたりとて、猶將軍を生かし還すは危險なりと呟く者あるしかど、首領が唯一言「私が責に任じます」と言切るを聞きて滿足したるに、將軍は初め來し時の如く、自ら又も目隱しを施し、又も首領及び御者三人と共に馬車に乘りたり。

馬車の中にて、將軍は猶も罵詈の言葉を止めず、頻りに黨員一同を卑怯なりと責むるにぞ、首領は聞き兼ね「將軍、最早會議の席では有りませんから、卑怯と云ふ事は有りません、少し言葉をお謹み成さらねば、聞捨には致しませんぞ」と制止おしとゞめたるに、將軍はあざわらひて「ヘン未だ貴方がたは四人と一人だから強い事を云ふのです、單に一人と一人に成つたなら、私と決鬪する者は一人も貴方がたの中には在りますまい、此の毛脛將軍の長劍さーべるは惡人に向つて容赦は無いのです」首領は堪忍の力も盡きたり「將軍、茲はセイヌ河の橋の上です、サア目隱しを取つて此馬車からお降り成さい、降りた上で、猶も一人と一人の決鬪が御所望なら、私がお相手致します、私の持つて居る此仕込杖も、貴方の長劍さーべると同じく惡人に向つて容赦は無いのです」將軍は勇み立つ如く「ナニ一人と一人、小癪な」と呟いて直に目隱しを取外し、自分より先に飛出る如く馬車を降りたり。
さては我父の死んだのは暗殺では無く一種の決鬪であつたかと安雄は初めて氣が附いた容子である。

巖窟王 : 一八九 蛭峰家 十

此長々しい始末書が何の樣な恐ろしい結果に終るかは誰も知る者が無い、安雄は猶も讀續けた。

將軍が飛び降りたるに續き、我黨の首領も馬車をくだれり、首領も直に將軍に問へり「將軍よ、立會人無しに鬪ひませうか」將軍は暫らく考て「イヤ、私が貴方を殺した後で、貴方の手下どもから、何時までも首領のかたきだなどと云つて蒼蠅うるさく附け狙はれる樣な事が有つては困りますから立會人を定め、此鬪ひが全く公明な決鬪で有つて暗殺で無いと云ふ事を後々までも證明せしめる用意に供しませう」將軍は少しも自分の身に萬が一つも負可しとは思はざりしに似たり、勿論劍道に掛けては當時彿國第一と云はれ、幾度決鬪してんも必ず相手を殺したる程なれば此決鬪も必ず其身が勝つ可きを思ひ、後の面倒を迄も豫防し置かんと計りたるは無理なき所ならんか、首領は合點し「立會人と云つた所で、他所よそから呼んで來る譯にも行きませず、私の馬車の居る御者の中、二人を其れと定めては如何でせう」將軍「宜しい、最も宜しい、貴方の黨員を立會人とすれば、黨員全體に後々まで私へ言ひ掛りなどする口實が無くなりますから私は殊に望む所です」始終將軍の言葉は自分の必勝を期して首領に對し侮辱の意を含みたり、而も首領は毫も其意を感ぜざるが如くなりき。

やがて定められたる二人の立會人は雙方の劍を受取りてあらためたるに、將軍の劍は長劍さーべるなれば立派なつばあれども、首領の劍は仕込杖の身なればつばあること無く、而も將軍の劍より五寸ほど短かりしかば「斯く武噐に優劣が有ツては公平な決鬪とは認められません」と云へり、將軍「此場に及んで其樣な事を云つても仕方が無いよ、劣ツた劍を持合せて居た方が不運だと諦めませう、若し不幸にして私の劍が劣つて居る場合でも私は決して苦情は云ひません」首領「勿論です、私は用ひ慣れて居ますから此鍔の無い短い劍をも通例の長劍さーべると同じ樣に使ふ事が出來るのです」是れにて決鬪の準備は終れり。

決鬪の場所は橋の下なる空地なり、立會人は先づ馬車のらんぷを取り來りて橋の桁に懸け、兩人の鬪者は外套を脱ぎて其處に下り來れり、立會人よりの合圖と共に決鬪は開始したり、將軍は唯一打と思ひし容子にて始めより攻勢を取りたるも打込むたびに巧にかはされ其目的を逹せざるより「エヽ小癪な」との語を連呼して益々燥だつのみなりしが、凡そ五六合に至り、將軍は凍りたる地盤に足を滑らせ横さまに打倒れたり、此時若し我黨の首領が將軍の不利に乘ずれば容易に勝を得べかりしも首領は先刻より幾度いくたびか將軍に卑怯などと罵られたる語の耳に存すれば益々以て自個の度量を示さんとする如く、たゞちに劍を投捨て自ら將軍を抱起して立たしめ「猶ほ決鬪を繼續しますか」と問へり、將軍も此度量には聊か感心をせし如く、幾等卑怯者の中でも、流石に首領は首領だけ武士の禮儀を知つて居られる、イヤ是には感心しました」と評し更に「無論決鬪を繼續します、一方が命の盡るまで」と云ひ再び鬪ひを開きたり。而れども其幾合が進むに從ひ、首領の手練が將軍の手練に優ること徐々に現れ來り、將軍は歩一歩に自個の地盤を失ふ如くに見えしが、終に首領の打降す劍先をかはし損じ左の肩先に傷を負ひたり、併し將軍は氣丈にて「イヤ初めて手答の有る敵に逢つた、之は愉快」と叫び、奮迅の勢を以て切込みしが、之には首領も、左の手先を傷つけられたり。

是よりは雙方の爭ひは益々激しく、或は攻め寄せ、或は攻め寄せられ、果しも無く思はるゝうち、首領は最後の手練を示し、鋭く劍を突出せり、將軍は二囘まで之を受け損じ、殊に二囘目は狙ひたがはず心臟を刺したれば、將軍は「殘念」と叫びて仰向けに打ち仆れ、た起上ることあたはず、かすかな聲にて「顏を、顏を」と細語さゝやきたり、首領は其意を察したゞちに橋桁のあかりを取り、其れに照して自分の顏を將軍の目の前に出したるに、將軍は「餘り劍をるのが巧妙だから專門の撃劍師かと思ツたが、成るほど爾で無い、專門の撃劍師なら此國中に私に知られぬ者は一人も有りませんから」首領「イヤ將軍の手練こそ專門家以上です、コレ此通り」とて自分の左の手に受けたる傷を示したるに、將軍は之を見たれど一語を發する力無く、其儘に息絶えたり、首領はつるぎの血を拭ひて鞘に收め、馬車に歸りて、殘れる一人の御者に馬車を遣らせ、後を見ずに立去れり、後に二人の立會人は將軍の死骸を水際に推落し、立會人の役を濟せて之も去れり。

以上は後日の疑ひを根絶せん爲め立會人二人、誠意を以て其夜の中にたゞちに認めたる始末書なり、少しも事實にたがはざることを、名譽に賭て誓ふ者なり。

    年 月 日         兩人 署名

安雄は青い顏で讀終ツた、けれど騷がぬ「父の死した顛末は、兼て私が知り度いと心に願ふて居た所です、深く謝さねば成りませんけれど、私は何うか父を殺した此首領が誰であるかを知り度いのです、祖父樣、彈正樣、貴方は此書類をお持ち故、定めし首領の姓名を御存じでせう」野々内「然り」安雄「其れなら何うかして私へお知らせ下さい、サア何うかABCいろはの表に依り、其姓名をお綴り下さい」とて早彼の表を示した、今まで詮方なく無言で控へて居た蛭峰は必死の思ひで「姓名を問ふたとて無益です、彈正は知らぬでせう」遮るにも拘はらず、彈正は綴り初めた、爾して愈々綴り終ツた文字を見れば「我れ也」とある、安雄は椅子から轉げ落ちぬが不思議である「エヽ其時の祕密黨首領は貴方ですか」彈正「然り」安雄「私の父男爵毛脛將軍を殺したのが、野々内彈正、貴方自身だと仰有るのですか」彈正「然り」

巖窟王 : 一九〇 蛭峰家 十一

「然り、然り」と彈正は目を閉ぢて、確に其身が毛脛安雄の父を殺したとの意味を明白に現はした、安雄は全く椅子の上に尻餠をいて、爾して暫しがほど彼は唯だ目を屡しばたゝくのみで有ツたが、漸くにして「分りました」と云ひ、又更に「此始末書は私が頂いて歸ります」と獨り語の樣に云ふて彼の書面を卷收めた。

彼が此時の心持は何の樣だらう、漸く縁談が調ふて、殆ど巴里第一とも云ふ程の美人が我妻と事定まる間際に及び、其美人は我父を殺した人の孫娘だと分ツたのだ、知らぬ中は兎も角も、知つて何うして此縁談が纒められやう、彼は土の如き面色かほいろの儘立上り、「貴方のお蔭で多年の疑問が解けました」と言捨て、蹌踉よろめく如くにして此室から立去ツた、彼に續いて蛭峰も妻も亦立つた、若し立たずに居たならば、或は蛭峰は此全身不隨と爲つて居る父彈正の咽首を攫み潰したかも知れぬ、父の爲に大事の政略的結婚が妨げられたのだから此時彼は眞實に我父を憎いと思つた。

爾して蛭峰は直に客間へ歸ツたけれども毛脛安雄の姿は見えぬ、さてはと思つて玄關をのぞいて見れば、早や安雄は待せて置た馬車に乘つて去る所である、今更追掛て呼び返す口實とても無いのだから詮方無く斷念し、公證人は少し事情が有つて調印が延びたからと云ひ、漸く其場を繕ふて歸したが、是より一時間と經たぬうちに、安雄から手紙が來た、其筆跡の震ふてゐる所を見ても彼の心が未だ鎭まツてゐぬ事が分る、其文言は「あらためて申上ぐる迄も無き事情の爲め、拙者と華子孃の間に到底縁談の纒まらぬは最早御承知の事を存じ候、拙者は全身不隨の老人を親のかたきなどと今更恨む程の執念深き者には無之これなく、せめて今の中に此事の分りたるを雙方の幸ひとして却つて老人に感謝いたし候、拙者と孃との利害も名譽も未だ傷つかざる中なれば、拙者は是れ限りにて一切斯る縁談さへも有りし事を忘るゝ爲め、再び外國の公使館へ赴任致し候、告別まで斯の如くに御座候頓首」とあツた、誠にサツぱりとした手切れの文句である、勿論斯う無くては成らぬ筈だ。

父の煩悶に引替て全く重荷を卸した想ひをしたのは華子孃である、孃は其後で深く祖父彈正に謝し「貴方が此縁談を妨げて下さるとは仰有ツたけれど、斯うまで手際能く妨ぐる事が出來やうとは思ひませんでした」と云ひ幾度いくたびか彈正の前額ひたひに接吻した末、裏庭へ忍び出で、いつもの所で心配しつゝ待つてゐる森江大尉に、いつもの通り垣一重隔てゝ逢ひ、兎も角祖父彈正が約束を果して呉れたから安心せよとの意を傳へた、斯と聞いた森江の喜びは讀者の推量に任せて可からう。

孃が斯く立去た後へ又入來つたのは繼母まゝはゝなる蛭峰夫人である、彈正は其姿を見るより、まなこに餘り喜ばぬ色を示したが、夫人はいつに無く打解けた容子で彈正に枕邊に身を卸し「祖父さん華子と毛脛氏との縁談は全く破れて了ひました故、今更私は何事も申しませんが、唯だ一つ私の口からで無くば申上ぐる事の出來ぬお願ひが有ますよ」と何だか氣味の惡い樣な前置を以て言出した、彈正も何の事かと合點が行かぬらしい、唯だ怪しげに夫人の顏を眺めてゐる、夫人は眺められるを恐れもせず「ハイ其事は第一華子の爲、第二には蛭峰家總體の爲でありますけれど、華子の口からも蛭峰の口からも云ふ事は出來ません、私は華子には繼母、蛭峰には妻ですから其義務を以て申ます、何うか先日貴方が公證人にお作り成さツた遺言状をお取消し下さい、の遺言状は華子と安雄との婚禮に御不同意の旨を示す爲め、貴方の財産一切を他へ寄附する樣にお作りでありましたけれど、最う愈華子と安雄の縁談が破れて見れば、其必要はありませんから、何うか元々通り華子を貴方の相續人として別に遺言状をお作り下さい」殆ど誠心をひらいて請ふた、日頃華子を目のかたきの樣にいぢめて居る此繼母が、華子の爲に斯る事を請ふとは、何か深い仔細の有る爲では無からうか、誠に油斷の出來ぬ事柄では有るけれど、兎も角彈正の思惑も此通りで有つたのだから彈正は直ぐに承知し此翌日又も公證人を呼び華子を自分の財産全體の相續人と云ふ事に新しい遺言状を作らせた、後に思ふと是が果して波瀾の本であツた、華子に取つて難有い樣で難有く無かツた。

巖窟王 : 一九一 蛭峰家 十二

年中あくせくと稼いで居る人は容易に金持と爲る事は出來ぬけれど、運や果報の向いて來た人は寢て居ても大金持になる事が出來る、華子の如きは即ち其れなんだ、死んだ母親が少からぬ財産を遺して呉れて有るが上に、母親の兩親たる米良田伯と其夫人とが一時に亡なられた爲、血筋の順序として當然に其 兩個ふたりの財産も轉がり込み、今は又祖父野々内彈正が蛭峰夫人の請ひを容れて遺言状を書直した爲め、是れも死ぬれば九十萬からの身代が華子の物と爲るに極つた、わづかに一週間ばかりの間に五百萬からの財産の持主とは爲つたのだ、華子自らは金の事などは何とも思はぬから、別に氣に留めもせぬ容子だけれど、若し深く考へて見れば、唯運や果報といふ許りでは無く何か仔細が有るのでは無からうか、米良田伯夫妻の死方なども何だか怪しかつたでは無いか、疑ふ人に疑はせれば、誰かゞ深い目的を以て華子の身へ財産を集めて居るのでは有るまいか、華子の身へ集めて置いて、爾して華子を何かして一擧に其財産を横領するといふ樣な計畫でも有るのでは無からうか、餘りな事で此樣な疑ひの餘地さへ出て來るのだ。

兎も角華子は幸福である、今まで父と繼母との手に壓附られ幸福の何たるかを知らなんだ身が急に此樣な大金持と爲ツて、數ヶ月來何うしやうかと心配して居た安雄との縁談も破れた、茲暫くは殆ど云ふ芽が出ると云ふ景状ありさまである、のみならず彈正が、安雄の縁談を破つたついでに、思ひ思はれて居る森江大尉との縁談を充分に固めて遣り度いとの心を起し、不自由な身體で少しづつ其意味を孃に告げ知らせ、二日ほど掛ツて漸く一種の相談を取纒めた、其大意は第一に、外へ隱居所に宛可き相當の家屋を探し其れを買求めて、彈正自ら華子と共に其家へ引越す事、第二に、引越しさへせば森江大尉も自由に其處へ出入する事が出來るゆゑ、其間には益々華子と相互の氣質も分り、又彈正もとくと大尉の心榮こゝろばえなどを見て取る事も出來るゆゑ、其上にて婚禮の條件や日取などを取り極る事、と云ふので有ツた、實に局面が一變した樣な者だ、手に手を取つて驅落する外、到底夫婦になる道が無からうとと決して居た兩人ふたりが、何うやら天下晴れて許嫁と爲る事が出來る場合に成つて來たのだ。

此相談が極るや否や、彈正は一方に建物會社へ人を遣り然る可き家屋の詮索を命じ又一方には兎に角大尉に逢つて是れだけの事情を告げ知らせ、短氣な事をせぬ樣にいましめて置きたいと云ひ、老僕忠助を大尉の許へ使ひに遣つた、勿論大尉は彈正からの使ひと聞き宙を飛ぶ程の勢で老僕忠助を追拔いて遣つて來たが、やがて彈正の枕許に坐し、華子の通辯や自分の氣轉で右の次第を聞いて居る中に、飛んでも無い一事件が此靜かな隱居所に起つた。

其れは外でも無い、老僕忠助が大尉の後から喘ぎ〳〵歸つて來て、華子に向ひ「孃樣、最う年取つてはいけません、わづかに十丁か十五丁許りの道が、若い方と一緒に走る事が出來ず、咽喉のど干涸ひからびて了ひました、孃樣、茲に在るレモンを少し戴きますよ」と云ひ、華子が彈正の爲に用意して置いたレモン水をこつぷに注ぎ一息に呑乾した、此時華子は「アレお前、年寄の癖に冷たい物を」と制する樣な言葉を發したけれど其れは間に合はなんだ、忠助は呑乾して暫し休んで居るていで有ツたが忽ち苦痛の聲を發し「アヽ死に相だ、恐ろしい眩暈めまひがする、耳も破れる樣に音がする」などと叫び、やがて又「頭が張裂けます、張裂けます」とて空を掴んでもがき初めた[、]勿論華子は驚いて「忠助何うした」とて其場に行き、森江大尉も「何事です[」]と同じく出て來たが、此時、本家おもやよりも、忠助の悲鳴を聞き、誰やら驅け附ける樣に思はれたから、華子は忙しく大尉に向ひ「若し父上に咎められては面倒ですから貴方は裏の方から、そつとお歸り下さい、爾して再び迎へを上げたとき又來て下さい」とて大尉を此場から避けさせた。

引違へて此場へ現はれたは蛭峰夫人である、夫人も氣が轉倒したかと思はれるほどあわてた状で「オヽ忠助が、お祖父さんの召上るレモンを呑んだのかえ」と云ひ、直に其 こつぷと瓶とを取つて「ア此樣な物は片附て置かねば」」とて自分で臺所なる流し場の所へ持て行つた、引續いて又蛭峰と有國醫師とが一緒に來た、醫師は唯一目、忠助の容子を見、蛭峰に向ひ「米良田伯夫人と同じ容體です、同じ原因です、同じ最期を免れません」と連呼し、直ぐに今しも蛭峰夫人の行つた臺所へ行き、彼のこつぷを持つて來た「孃さま、忠助は此 こつぷでレモンを呑んだと云ひますか」と華子に問ひ、華子が「爾です」と答へるのを待つて、又直ぐに蛭峰を引立てぬ許りに「蛭峰さん此方こつちへお出下さい、至急です至急です」と云ひ本家おもやの方へ去つた。

爾して猶ほも蛭峰を捕へたまゝ蛭峰の居室いまに入り「是れが毒殺で無いと云はれますか、貴方は御自分の家に、大なる犯罪が有るのに、何で其方へ目を注がず、古い書面などを持出して調べて居ます」殆ど叱り附ける口調である、蛭峰「エ、犯罪」有國「若し毒殺が此國の法律で無罪とせられて居れば兎も角、叫無さなくば此家に、確に犯罪が行はれてゐます、其證據を見せませう」と云ひ一片の白い試驗紙を取り出して、猶だ濡れて居ゐるこつぷの中に露を拭いた、露に從つて試驗紙は所々青く變色した「ソレ御覽なさい、貌律矢ぶるしんです、貌律矢です、味や匂では分りませんが、試驗紙に現はれます」蛭峰「貌律矢ぶるしんなどと、誰が其樣な毒藥を」有國「誰が用ふるか其れを探すのは、大檢事たる貴方の職務では有りませんか、犯罪に依つて利益する人を疑へとは貴方の職務の第一歩では有りませんか」蛭峰「誰も忠助などを殺して利益を得る樣な人は」有國「イヤ、忠助では無く野々内彈正氏に呑ませるのを忠助が誤つて呑んだのです、彈正氏を殺して利益する人は有りませんか、彈正氏の財産は誰が相續します、米良田伯爵夫人の財産は誰の手に轉がり込みました」此言葉は明かに華子を指す樣な者だ、蛭峰は只呆れて「有國國手、貴方の問ひは餘り邪慳です不道理です」と泣く樣な聲で叫んだ。

巖窟王 : 一九二 蛭峰家 十三

確に有國國手は華子を疑ふてゐる、成るほど其疑ひに一應の道理が無いでは無い、米良田伯爵夫妻の死んだのも華子の利益と爲つた、野々内彈正が若毒殺せらるゝとせば其れも同じく華子の利益には歸するのだ、爾すれば華子は、野々内彈正が新に遺言状を作つて自分を相續人と定めたに就て、今が彈正を殺す可き時だと思つたのだらうか、今殺さねば再び彈正が遺言状を書改めるかも知れぬ、再び、書改めては取返しが附かぬから、其事の無い中にと、深くも謀つて用意した毒藥が誤つて忠助を殺す事とは爲つたのだらうか、然し有國國手は確に爾う思つて居る、けれど父蛭峰の身として何で此樣な恐ろしい疑ひが信ぜられやう、しや此上に倍も二倍も強い證據が出たとしても眞逆まさかに我が娘に其樣な鬼心が有らうとは信ぜぬ、彼は叫んだ「有國さん、犯罪に依つて利益する人を疑へと云ふ古諺ことわざほど明白な語は有りませんが、又此語ほど多く無實の人を罪に陷れた言葉も無いのです、眞誠しんせいの裁判は決して此樣な簡單な言葉で決せられる者では有りません」有國國手が理が非でも自分の言葉を推通さうと云ふ人では無い。

「爾です、全く爾です、故に私は其言葉を根據として誰某なにがしが其犯罪人だと指すのでは有りません、唯だ此家に犯罪の有る事を貴方へ告げるのです、其犯罪人が誰であるか其れを見出すは貴方の職務、敢て私の嘴を容れる所では有ませんが、兎も角も此家で一週間と經ぬうちに同じ貌律矢ぶるしんで毒殺された人が二人まである事は認めねば成りませぬ、之を認めれば詮議せずに捨て置く事は猶更出來ぬでせう、其れだから私は、貴方に詮議成さいと云ふのです、貴方が若しも一家の名譽をいとふが爲に、之を詮議せずに捨置くならば、私は醫師たる自分の職務として更に相當の手續を踏み、相當の官衞へ訴へます、唯是だけを申すのです」

唯是だけと云ふ其「是だけ」が恐ろしい、如何に蛭峰が裁判所に大勢力の有る身分とても之を妨ぐる譯には行かぬ、彼は情無いと云ふ口調で「有國さん、全く蛭峰家の亡ぶる時が來たのです、する事爲す事悉く間違つた道へのみ流れ込んで」有國「イヤ其れはお察し申ますが貴方は大檢事として我家に起つた此毒殺事件を詮議するのですか、せぬのですか」蛭峰「詮議します、ハイ詮議はしますが――」國手「詮議するならば其れで宜しい、私は此上に云ふ所は有りません」と云つて立去つたは、實に我が職掌の上の義務は一歩も曲げぬと云ふ嚴重な方針を守つた者で流石に信用の厚い醫師だけの事は有る。

勿論忠助は其まゝで死んで了ツた、其後に蛭峰は熟々つく〴〵と其身の否運を感じた、一方に巖窟島伯爵の本性を見破る爲めに、必勝の手段を取つて古い書面を取調べて居れば、落着いて其取調べを續けられぬ樣な事ばかり起り、又一方には一身一家の計畫が悉く外れて、今は自分の大檢事と云ふ職務を以て我が家内から罪人を搜し出さねば成らぬと云ふ辛い詮議まで降つて湧いた。

猶ほ是れのんみでは無い、忠助の變死には下女下男一同に至るまで戰き恐れ、一人が此家に死神が祟ツて居ると言出せば、一同が成るほど其れに違ひ無いと云ひ、其夜臺所に寄集まツた上、評議を固め、直に一同で暇を取る事と爲ツた、是れは小事の樣で大事である、雇人一同に立去られて主人たる者が何うして家を治めて行く事が出來る者か、蛭峰と妻と共に力を合せ、給金を増すから何うか留まツて呉れとて一人一人に説いたけれど甲斐が無かツた、翌朝は水汲む者さへ無い程の始末と爲ツた、廣い蛭峰家が殆ど火の消えた後の樣だ。

併し蛭峰家の事は是だけで止めて置いて話は又も小侯爵皮春永太郎の事に移る。

* * * * * * *

さても永太郎は段倉の家で巖窟島伯爵の我身に對する仕種しぐさを見て、何うも伯爵が自分の本統の父では無からうかとの疑ひを起した爲め、靜かに立去つて其夜を朝までも考へ明したが、何うも爾うせねば伯爵の今までの振舞が合點が行かぬ、第一伯爵が日々我身に與へて使はせる金だけでも莫大な者で有る、父で無く子で無くば何で此樣な無益な事をする者か、多分は我身を、巖窟島伯爵の相續人として恥かしからぬ性質で有るか無いかと樣々の誘惑を加へて試驗して居るに違ひ無い、我が父と云ふ皮春大侯爵の使ふ費用とても其實伯爵から出て居るのは勿論の事で、察するに伯爵は、此身を自分の手近く住はせて置くのに然る可き口實が無いから、父で無い父を拵へて爾して世間體を作ツて置くのだらう、其うちには必ずをりを見て此身へ眞實の事を打明け、親で有ツたか子で有つたかと名乘り合ふ事となるに違ひ無い、と考へるに從ツて益々確らしく思はれるから、終に其日の暮頃に及び伯爵の許へ行き、其とは無しに問ふて見た「若も伯爵、此私が妻を娶つて一家を構へる場合には、差當り私の父は何れほどの身代を分て呉れるでせうか」と、遠廻しだけれど仲々適切な問方で有ツた、伯爵は驚かぬ「貴方には母方の財産、即ち小品こしな侯爵令孃折葉姫の遺産が二百萬圓も有つて是は或人が保管して居る筈ですから、父上の承諾如何に拘らず是だけは貴方が家を持つと同時に貴方の物に成りませう、更に父上が貴方へ幾等分與へるか、其は先日露國へ立つた父上が歸つて來た上でなければ分りません、けれど兎に角貴方が令夫人と共に侯爵と云ふ身分を支へて行くに足る丈けの元金即ち五百萬圓は直に分與へる樣に私が忠告しませう、果して父上が五十萬圓の收入の有る方なら其れぐらゐの事をいやとは云ひますまい」と答へた、永太郎は益々自分の信じて居る所を深くしたが、伯爵は永太郎の立ち去る間際と爲り、更についでの樣に「併し小侯爵、貴方が段倉男爵の娘夕蝉孃を娶らうと云ふなら私は其れに關係する事は出來ませんよ、私の位置は義理にも彼の令孃の野西武之助との縁談を贊成せねば成らぬ事に成つて居ますから」と言ひ足した、永太郎は心の底で含首うなづいた、是れは伯爵が暗に夕蝉孃を早く貰へとの謎である、其身は義理の爲め口を添へる事が出來ぬから獨りで事を運ぶ樣にせよ、爾すれば夫婦の一家の立つ樣には計らツて遣ると請合つて呉れたのも同じ事だ。

果して伯爵の心が此通りだか否やは分らぬけれど、永太郎は全く斯と信じ、大膽にも此翌日、たゞちに段倉の家へ縁談の言込に自分で出掛けた、段倉の方も殆ど其言込を待つて居る程の状であツた。
巖窟王 : 一九三 其實、本統の父

小侯爵皮春永太郎には好運が向いて居たと見える、彼が縁談の話の緒口いとぐちを切ると段倉の方では其緒口をらへて引出す樣に迎へた、スラスラと事も無く話が進んだ。

永太郎は云ふた「斯樣な大事な相談に巖窟島伯爵が贊成して下さらぬのが誠に殘念で、定めし貴方の方でも私の言葉丈では不安心にお思ひでせう、けれど伯爵は野西家に對する義理合で何うも私の方へ加擔する譯に行かぬと仰有います」段倉は其事情を充分察して居る容子で、而も嘲笑ふた、「ナニ伯爵は野西が賣國奴と云ふ事を未だ御存じ無いから彼へ義理立するのです、今に野西の舊惡がもつと能く分ツて來れば必ず伯爵は彼に義理立したのを後悔なされますよ」段倉の眼中には唯だ皮春家の身代が有る許りだ、此身代と自分の娘とを結び附けるには誰が贊成して呉れずとも構はぬのだ、永太郎は充分其邊の心意氣を見て取つて、開いた段倉の口へ牡丹餠ぼたもちを投込む樣に「でも伯爵は私が妻を持つと云ふ事には贊成です、私の母折葉姫の遺産を二百萬圓だけ誰だか伯爵の知人しりびとが預かツて監督して居ます相で、私が婚禮すると同時に是だけは私へ呉れると云ひます」段倉「其れは伯爵の知人が預ツて居るのでは無く多分伯爵自身が預かツて居るのでせう」永太郎も實は爾思ふて居る、けれどわざと兒供らしく「イヽエ伯爵は確に自分の知人だと云ひました、其上に又私の父へ勸告し、差當り五百萬圓の財産を分け與へる樣にするから其財産に年々十五萬の利子を産ませる樣にして其れで夫婦の經濟を支へよと云はれました、貴方は銀行家だから此邊の事情は御存じでせうが、二口併せて七百萬圓から十五萬圓の歳入を得る事は出來ませうねえ」段倉「其れは私の手腕で年に廿萬圓の利子は容易に産ませて上げます」三朱に足らぬ利子だもの、抛つて置いたとて産まれて來るのだ、手腕も何も要る者では無い、永太郎は安心の風を示し「其れでやつと重荷が卸りた樣な氣が仕ます、では直に、婚禮が濟むと同時に七百萬圓は貴方へ預ける事に致しませう」

立派な家筋と爵位の上に七百萬圓の身許金まで供へて、其れで銀行家から縁談を斷られるなら世は逆樣さかさまに成るのだ、幸にして此場合には世が逆樣さかさまに成らずに濟んだ、平たく云へば縁談が纒ツた、永太郎は段倉の承諾を得た上で夕蝉姫の承諾も得た、爾して點燈時ひともしの後に及んで笑崩れた顏で此家を辭し去ツた、玄關まで送つて出た段倉の顏も劣らぬほど笑崩れて居た、後の事は兎も角も是だけの所は先づ目出度いと云はねば成らぬ。

けれど永太郎が宿へ歸つて見ると、彼の顏から其笑をむしり取る樣な事が出來て居た、其れは卓子てーぶるの上に横はツて彼の歸りを待つて居る一通の手紙で有る、差出人が彼の毛太郎次である事は筆跡で分ツて居る、其文句は「親しき辨太郎よ、御身の前途が益々目出度く喜ばしき事は、御身自ら知れるだけ餘も知れり、餘は段倉男爵の他人に非ず、今若男爵の許へ餘が舊交を言ひ立てゝ顏を出さば、御身は餘り有難く思はぬならん、御身若し餘が段倉男爵の耳へ、御身の本名を細語さゝやくことを止め度く思ふならば直に餘が宿に來れ」とある、何たる邪慳な書き方だらう、けれど仕方が無い、之に從ふ一方である、永太郎は悔しげに拳を固め此手紙を二度三度叩き伏せた、爾して餘り人目に立たぬ着物に着替へて又宿を出た、指て行く先はモンタン街の靜かな下宿屋である。

此下宿屋に毛太郎次は、公債證書の利子で暮す有福な商人の隱居と云ふ積りで、月々永太郎から貰ふ事に成つて居る口留の手當錢で日を暮して居る、彼は先づ不機嫌な永太郎の顏を見て「今日はほゞ縁談が旨く行つた筈だのに何で陰氣な顏をするのだ、コレ辯や、夕蝉孃が何と云つた、其話でもして、手前の身の上をのみ心配して居る此親切なおやぢに安心させて呉れ」早や此樣な事をまで知つて居るとすれば、此惡人絶間も無く此身の擧動を見張つて居るに違ひ無いと永太郎は荒肝あらぎもを拔かれて了つた、爾して腹立しげに「何でお前は、私の身の上などを心配するのだ、心配せられて迷惑だよ」仲々是くらゐの叱りに驚く相手では無い「ア爾う怒るなよ、お前がつまづけばおれも倒れる樣な者だから、丁度親が子を思ふ樣に心配するのさ、爾よ、心配すればこそおれは先逹てお前に逢つて以來、色々とお前の身の上を考へ、お前の行く所へは大抵見え隱れに護衞して行く樣にして居るが――」永太郎「ナニが護衞だ、止めて呉れ、止めて呉れ、お前の樣な者が附纒ふて居ると分れば大事の仕事が皆潰れて了ふのだよ」毛太郎次「爾で無い、其れが爲にお前の氣の附かぬ事までおれが氣が附いてチヤンと考へて居る、お前アノ巖窟島伯爵を何と思ふ」永太郎「大きにお世話だ」毛太郎次「おれは樣々に考へたが、の人が其實お前の本統に父では有るまいかと思ふ」是には永太郎の氣が移つた、此頃自分の疑ひ初めた所と一つである「エ、エ、何でお前は其樣に思ふのか」と我れ知らず其 かうべを突出した。

巖窟王 : 一九四 最う一ヶ月ぐらゐ

何うも伯爵が我父らしい、愈々爾なら天にも上る心地がする、早く爾と云ふ確證が有れば好いと、此樣に心を焦して居る永太郎だから、思はず毛太郎次の言葉に釣込まれかうべを突出して問返したが、毛太郎次とても勿論確證の有る譯で無い「爾とでも思はねば伯爵が餘りお前を可愛がり過るからよ、おれはお前の暮し方を見て月々伯爵から貰ふ小遣も莫大だらうと思ツて居る、其れに就けても、おれへの分前も、ズツと引上げて貰はねば成らぬ」と云ふのが彼の返辭で有つた。

何事を云ふにも總て最後の一句は金を呉れろとか分前を引上ろとかの言葉へ落ちて行くので永太郎は蒼蠅うるさくて成らぬ、出來る事なら叩き殺してゞも振捨て度い程に思ふけれど、此樣な手に乘る相手で無い、振捨て樣とする氣振でも見せれば反對に何の樣な目に逢ふかも知れぬから、只詮方無しに話の相手に成つて居ると、毛太郎次は樣々の言ひぐさを持出して遠廻しに巖窟島伯爵の家の容子から伯爵の日頃の振舞を聞出さうとする樣に見える、永太郎はひそかに悟ツた、此奴め、伯爵の留守を伺ひ其 やしきへ忍び入つて此身の誕生に關する書類でも盜み出す積で居るのでは有るまいか、其樣な書類を探し出し此身を確に伯爵の子と突留れば、又も先へ廻ツて強請ゆすりの種を作るに違ひ無い、其れとも或は、爾まで深い企みは無く、金子きんすだけでも盜み出す了見か知らん、何れにしても伯爵家へ忍び入る底意だけは明白である。

斯くて見て取つたけれど、此方こなたも爾る者である、少しも見て取つたらしい素振を示さぬ、却つて謀事はかりごとの裏を行く樣な一計を咄嗟の間に案じ出し、向ふの問ふが儘に正直に伯爵家の案内を話し聞かせ、且は伯爵が明日より茲二三日オーチウルの別莊に行き巴里のやしきまるで空にする筈で有るとの事を告げた、是は嘘で無い、今朝伯爵に逢ひ、直々に聞いた所である。

遂に毛太郎次は必要だけの事を聞取つたと見える、爾して今度は何氣も無い樣な容子で永太郎の手に在る指環に目を留めた「オヽ大層光る指環だな、是ぐらゐの夜光珠だいやもんどは仲々安く無いだらう」此言葉の眞意は流石の永太郎も計り兼た、何の爲の用も無い指環などを襃めるのか多少 いぶかしく思はれるから「ナーニ夜光珠だいやもんどの値打は、所持した經驗の無い人には話たとても分らぬものさ」嘲りて探りを入れた、毛太郎次は癪に障つたていで「おれだツて夜光珠だいやもんどを持つて居た經驗は有るさ、其倍ぐらゐの立派な奴を」成る程彼は暮内法師から五萬圓の値打の有る立派な夜光珠だいやもんどを惠まれた事が有る、其經驗は生涯忘れ得ぬ所で有らう[」]、永太郎「では眞物ほんものにせとの見分けぐらゐは附くのかい」毛太郎次「ドレ貸して見な、夜光珠だいやもんどにせか眞ほんものかは斯うすれば一番好く分るのだ」と云ひつゝ其指環を脱き取つて窓の所へ持つて行き、硝子板に傷を附けて見て「アヽ此こいつ眞物ほんものだ、硝子が切れるワ、此指環をおれに呉れ」唯だ窓板を傷つけた瑣細な振舞を見て永太郎の胸にはあたかも電光の輝く樣に一種の合點が差込だ、併し其樣な色を見せず、唯だ腹の底で笑み「お前が呉れと言ひ出す以上は應ずる迄又樣々におどすだらう」毛太郎次「勿論さ」永太郎「仕方が無い、遣ると仕やう併し是で今月の金の無心は御免だよ」毛太郎次「ア兎も角も此指環を貰つて置かうよ」

* * * * * * *

此翌日である、巖窟島伯爵は朝から執事を差圖して家の内を取片附けて居る、多分は昨日永太郎に話した通りオーチウルの別莊へ立つ爲めだらうが、其れにしても特別に片附けるとは當分茲へ歸らぬ所存でも極たのでは有るまいか、やがて片附き終ツた所へ、家扶の春田路が現はれた。

彼は先日伯爵がトレボー邊の海岸に船着きの好き別莊を買求めさせる爲めノルマンデーへ向け出張させ、彼の土曜日の晩餐會以來久しく不在であツたのだが、今漸く歸つて來たと見える、猶だ衣服も旅被たびぎの儘で道途のほこりまみれて居る、伯爵は其れと見るより「オヽ御苦勞だツた、今歸ツた、爾して用事は」春田路「おほせの通りに運びました、丁度好い賣別莊が海岸に在りまして」伯爵「其れは好かツた、シテ舟は」春田路「ハイ舟は先日御注文のがゼノアから出來て來ました、其別莊の下へ繋いで有ります、スハと云へば五分間も經ぬうちに別莊から乘込んで出帆できるのです」伯爵「最もし、其れから馬は」春田路「ハイ馬も仰の通り、此町 はづれから五里毎の村々へ人を雇ふて有ります」伯爵「十時間に百二十哩走ツて行く事が出來るか」春田路「ハイいづれも試驗濟の馬ですから一時間に十二哩以上確です」伯爵は滿足した、併し何の爲めに此樣な用意を爲させるだらう、トレボーの海岸まで五里毎に馬を置き、一日百哩以上を疾驅して、五分の間に別莊から船に乘るとは、非常に急いで此國から逃げ去る樣な場合でも有るのだらうか、伯爵は更に「おれの此國の逗留も最う一ヶ月位で終るだらうから其間少しも馬の俊足を鈍らせぬ樣に注意せよ」春田路「心得ました」ては最早、後一ヶ月ぐらゐにして、企みに企みたる大復讐が首尾能く終ると云ふ見込か知らん、爾うすれば刮目して觀る可きである。

斯くて家扶春田路が退くや、引違へて執事の一人が今屆いたらしい一通の手紙を持つて來た、伯爵は直に受取つて封を切つたが無名である、爾して文句は「密告す、今夜閣下の不在を探知して貴邸に忍び込み閣下の書齋に在る祕密箪笥を探らんとする曲者くせものあり、容易ならぬ目的を抱けること確なれば不在と見せて誘き寄せ、捕へし上にて詮議を加ふるが得策なる可し、くせものは閣下の一身上の敵なるに似たり、此密告者は偶然の事にて曲者くせものの計畫を知り得たれば茲に閣下に警戒を與ふるなり、然れども閣下之を警察に訴ふる事を爲さば一方ひとかたならぬ煩累を他日に遺す恐れあり、閣下密告者の言を信ずるならば必ず警察の力を假ることなかれ」とある、伯爵は「ハテな」と云つて二度三度讀返した。

巖窟王 : 一九五 曲者 一

何者の密告か知らぬが、兎に角今夜此邸に忍び込む曲者くせものの有る事は確である、巖窟島伯爵は二度三度彼の密書を讀返したが「今夜閣下の不在を探知し」とあるも架空の言葉では無い、全く我身は今夜此邸に居ないのだ、「書齋に在る祕密箪笥を探らん」と云ひ「容易ならぬ目的を抱けること確なれば」と記せる如きも總て根據の有る言葉である、そもそ曲者くせもの自身は此家此身の事柄を知つて居るのか、其れとも此手紙を書いた密告者が知つて居るのか、いづれにしても多少は萬事の案内を取調べての上の企てに違ひ無い。

伯爵の最初の決心は直にオーチウル行を見合せて、今夜自ら此家を守ると云ふに在ツたけれど手紙の文句には「不在と見せて曲者くせものを誘き寄せよ」と云ふ樣な忠告が籠つて居る、成るほど其れも爾だ、誘き寄せて捕へた上、其曲者が何者かと云ふ事を見屆けるが得策だ、次に伯爵の心に浮んだのは、たゞちに此手紙を警察に持つて行き事情を訴へて今夜巡査の出張を請はんとするに在つたけれど、是れも密書に斷つてある、[「]閣下之を警察に訴ふる事を爲さば一方ならぬ煩累を他日に遺す恐れあり」云うんぬん「必ず警察の力を假ること勿れ」云々、密告者の意は明白である。

もとより伯爵は曲者の來る如きを恐ろしと思ふ人では無い、凡そ人間の危險と云ふ危險を冐し盡して身をも腕力をも鍛へ固めた人である、危險な事を思へば、あたかも勇士が戰場に臨むあしたの樣に、武者震に身を震ふ程である、殊に大業を企てる身分だけに自分の敵も澤山にあることを自覺して居る、名の分つて居る敵も有れば思ひも寄らぬ敵も有らう、今夜忍び入る曲者は「閣下の一身上の敵なるに似たり」と有り、我が思ひ設けてゐる敵の中には眞逆まさかに窃盜の如く夜半に我家へ忍び込む者の有らうとは思はれぬけれど、併し巖窟島伯爵とは其實何者ぞと既に疑ふてゐる人も無いでは無ければ、其等の人が手下を送ツて、此身の素性の分る樣な書類をでも探させやうと企まぬとも限らぬ、其れとも此身の思ひ設けぬ敵ならば猶更ら捕へて、自ら後々を警戒する參考とせねば成らぬ、取つ置いつ思案してやがて最後の決心が定まツた、伯爵は誰にも知らさず腹の中で點首うなづいて何氣なく右の密書を衣嚢かくしに收めた。

爾して定まツて居る通り、オーチウルへ向けて立つた、是で此邸は年老た番人を除く外、全くの空に成ツた、曲者が忍び入るには屈強である、其中に日も暮れた、老番人は唯だ此家が空家や貸家で無いと云ふ記しだけに、階下したの入口に一箇所、二階なる正面の室へ一箇所のらんぷを附け、餘り夜の寒くならぬ中にと自分の室へ籠り、温かに寢て了ツた、是れは年取ツた番人の常である、斯くて此番人が最早や眠ツたゞらうと思はれる頃、二人の曲者が庭の裏木戸を開いて忍び入ツた、イヤ是は曲者では無い、伯爵と黒奴 亞黎ありとである、曲者を捕へる爲に忍び歸ツたのだ。

是より伯爵が何の樣な用意をしたかは管々くだ〳〵しく記すには及ばぬ、兎に角曲者を捕へるに少しも手落の無い丈に運びを附けた、爾して矢張り亞黎ありと共に書齋の次の室に身を置いて曲者の入來を待ち受けた、斯うなると待遠い思ひもする、八時から十一時迄も待つた、曲者は仲々來ぬ、時に立つのが至極遲い、其中に十二時の鐘をも聞いたが、世間は最早 寂然ひつそりと靜かである、其靜けさに引込れて伯爵は椅子によつたまゝ我知らず微睡まどろんだが、幾分幾十分を經たか知らぬ、忽ち我背を推す者あるに心附き、驚き覺めて目を開けば亞黎ありが唇に指を當て「靜かに」との意を示して居る、アヽ曲者が來た爲に亞ありが此身を搖り起して呉れたのだ。

無言の儘に伯爵は耳を澄ませた、聞けば二階のいづれかの窓の當りかすかに物音が聞える、初めて聞く音では無い、何うやら夜光珠だいやもんどを持つて窓の硝子を切破ツて居るらしい、若しも伯爵にして、昨夜彼の小侯爵皮春永太郎は毛太郎次に夜光珠だいやもんどの指環を與へた事を知つて居るなら此曲者が誰かと云ふ事を大抵は推量するだらうけれど勿論其樣な事は知らぬ、まづ曲者が多勢おほぜいであるか小人數であるかを確めて置かねば成ぬ、直に伯爵は立上ツて、彼音のする窓を尋ね拔き足で近づいた、窓は横町へ面した方に二階である、曲者は繩梯子を掛て壁を攀ぢ、二階の窓まで上ツて來て居るのだ、其手際を見れば成るほど只者では無い、生憎月の無い夜とて能くは分らぬけれどエリシー街の角に在る常夜燈の光りが遠く射して、透かせば黒く曲者の姿が分る、多勢おほぜいでは無く一人である、其れとも下には相棒でも居るか知らんと更に他の室へ行き彼方此方を透かして見ると、外の往來に一人、之は塀に身を添て立つて居る、分ツた曲者は唯だ二人である、一人が家に忍び入り一人が外を見張つて居るのだ。

再び伯爵は前の室に歸ツた、曲者は猶だ硝子を切つて居る、伯爵の足音は室に敷詰めた苔の樣な絨氈じうたんに沒して曲者には聞えぬ、曲者は厚い板紙を窓の硝子に當て、之を定木にして、切ては又切り、四角に穴を開ける積りらしいが、世間並の硝子とは違ひ、餘ほどの厚板だから急には切盡せぬ、伯爵は其れと見て靜かに元の室に歸ツた、併し是から間も無いうちに曲者の仕事は終ツた、切た硝子が外より推す力の爲め、四角にはづれて、絨氈じうたんの苔の上へ餘り甚い音もせずにパタリと落ちた、其穴から曲者は手を差込み、窓の内なる彈き金を易々引起して置いて、爾して窓を開き、身輕く室の中へ入ツて立ツた。

巖窟王 : 一九六 曲者 二

場合に依ると、多勢の曲者より只一人の曲者が恐ろしい、只一人で此堅固な邸へ忍び入る其度胸の強さを考へて見ると流石の伯爵も聊か氣を呑まれる樣な思ひがした。

其うちに曲者は、暗い室中を探り探りて凡その案内が分ツたと見え、ふすまを開いて伯爵の書齋に入り、爾うして彼の密告状に在つた通り祕密の箪笥に近づいた、此状で見ると此曲者確に此家の案内を能く知つて居る者に違ひ無い、自分で此家へ度々來た事が有るか、其れとも度々に來た事の有る人より聞いたのか、爾無くば此樣な暗い所で目的の箪笥を易々と探り當る筈は無い、幸に伯爵のまなこは暗闇で物を見る事の出來る迄に兼て其視力が鋭くなツて居るから、曲者の大凡おほよその状を次の間の襖の間から見て取ツた。

やがて曲者は、忍び提燈を取出して其目的とする箪笥を照した[、]爾して錠前の所をとくあらためたが鍵は附いて居ぬ、是には聊か失望だらうと思ひの外、彼はあたかも錠前直しを商賣にする職人の樣に一束の合鍵を取出した、其數の多いことは驚く可しだ、餘ほど是まで諸々方々の箪笥や弗箱を推し開いた奴に違ひ無い、と斯う思ふと伯爵は我知らず失望した、餘ほど謂はれの有る曲者かと思ツて居たら何だ詰らぬ、唯通例の窃盜か」と呟くを制し得なんだ。

併し此時、曲者は箪笥へ俯向うつむき掛ツた爲め忍び提燈の明りがパツと其顏に差した、伯爵は之を見て驚いた、成るほど仕業しわざは通例の窃盜であるけれど、其顏は、其人は、通例の曲者で無い、直に伯爵は立上り、又拔足で衣裝室へ退き、路易るい十六世が着たと同樣の鐡板の襦袢を下に着込み槍でゞも短劍でゞも突く事の出來ぬ樣に身を固め、其上へ僧服を着け僧帽を戴いて少しの間に暮内法師の姿になツた。

爾して迂囘して曲者のゐる向ふ側の室に出で外の容子を見廻した、是れは伯爵の用意の綿密な所で、内を攻むるには先づ外を用心して置くのだ、所が不思議な所が有る、彼の外を見張つて居るだらうと思はれた先刻の一人が、矢張りたゝずんでゐるけれど、此奴、外を見張つてゐるのでは無い、外を何の樣な人が通るか其樣事そんなことには無頓着で、唯だ熱心に此家の内の容子をのみ伺つて居るらしい、ては尋常の相棒では無い、見張番と云ふより外に、猶ほ深い目的を持つて居るのだと、伯爵は早くも合點し、又も亞黎ありの傍に行つて「其方は單に外の曲者にのみ目を附けてゐよ」と命じ、爾うして其身は内の曲者が仕事をしてゐる書齋に入り靜かに、曲者のかたはらに立ツて「オヤ毛太郎次殿、お前は今時分茲に何をして居られるか」

全く曲者は毛太郎次である、問はれて彼の驚いたは非常である、彼は法師を幽靈かと疑ふばかりに後樣に手を突いて法師の顏を見「オヤ貴方は暮内法師!」叫んだまゝ後の語は出ぬ、伯爵「オヽ暮内だよ、シタがお前に逢つたのは最う十年も前の事、其れを覺えてゐられるとは頼もしい」毛太郎次は「法師、法師」と繰返した法師「シタが夜半よなかに巖窟島伯爵の留守へ忍び込み、盜みなど企つるとはしからぬ」毛「イヽエ、盜みなどの目的では」法師「無いとは眞逆まさかに云はれまい、窓の硝子を切拔いて、泥坊の用ふる忍び提燈を持ち、爾して澤山の合鍵まで」一々證據を指示ゆびさされては爭ふ可き餘地も無い毛「ですが法師さん、全くの貧窮の爲に!」法師「オヽ貧窮の爲にと云ふのか、成るほど貧窮の爲に、人の臺所へ行き食殘りのパンを請ふと云ふのなら聞える、又通り合して店先から何か一品持逃するとでも云ふなら是も聞える、唯だ貧窮の爲めに巖窟島伯爵の邸へ忍び込むとでは少し受取り難いよ、爾すれば先年私の與へた夜光珠だいやもんどを五萬 ふらんに賣つた時、其 珠玉たま商人あきんどを殺したのも矢張り貧の爲めと云ふのだらう」毛太郎次は唯だ縮み込むのみである「何うか法師今夜の所はお見逃し下さる樣に願ひます」全く手を合せて法師を拜んだ。

法師「正直に私の言葉に返辭すれば、許して遣らぬ者でも無い」毛「返辭します、正直に」法師「全體お前はマンドレー島の牢屋で終身服役して居る筈だのに、何うして牢を出されたのか」毛「英國の或人に救はれました」法師「或人とは」毛「柳田卿と云ふ方です」法師「オヽ爾か、アノ卿なら私も能く知つて居るから、其方が嘘を云つても直に分る、全體何故柳田卿が其方を救ふて呉れたか」毛「私と一個ひとつ鐡鎖くさりに繋ぎ合はされて、共に苦役して居た囚人が有つたのです、其者を助ける爲めにと私をまで共に助けて呉れました」法師「其者の名は」「辨太郎と云ひコルシカ島で育ツた捨子です」法師「助けられて其れから何うした」毛「其れから稼いで食つて居るのです」法師「嘘を申すな」毛「イエ嘘では有りません」法「嘘である、嘘である[、]矢張り辨太郎と助け合ひ、彼から送る金子きんすを以て身を支へて居るのだらう」毛太郎次は拒みかね「致し方が有りません、其通りです、けれど構ひませんよ[、]辨太郎は大層な大金持の息子と分りましたから」法師「何うして」毛「能く世間に在る奴です、大金持の落胤と分ツたのです、私生兒です」法師「大金持とは誰」毛「巖窟島伯爵です、彼は伯爵の私生の兒なんです」今度は伯爵の方が驚かされた。

巖窟王 : 一九七 曲者 三

辨太郎を巖窟島伯爵の私生兒とは餘り間違つた推量である、暮内法師の姿と爲つて澄してゐる伯爵も、打驚いて又打笑ツた、毛太郎次は論證せんとする樣に自分の兒で無くば何で伯爵が月々澤山の金錢を與へますか、何でにせの父親をまで充行あてがひますか、彼辨太郎は小侯爵皮春永太郎などと立派な名前で、立派な縁談まで整ひ掛けてゐる程です」法師は聊か怒りを示し「アヽ段倉家の令孃と縁組の出來掛けてゐるの小侯爵、れが辨太郎と云ふ脱牢の罪人か、其れはしからん、お前は其樣な惡人が名譽の高い段倉家を欺いて婿夫むこに成らうとしてゐるのを、知らぬ顏で見てゐるのか」鋭く睨んで叱り付けた、其状は如何にも段倉家の名譽を愛護いとふ人の樣である、毛太郎次は情無い聲で、何も私が段倉家の名譽の汚れるのを喜ぶ譯では有りませんけれど折角相棒が――イヤ折角辨太郎が出世し掛けてゐる者を私が妨げる譯には行きません」法師は決然と「し、可し、其れではおれが段倉家へ告げて遣る」告げられては辨太郎も失敗し自分も金のつるを失ふのだ「何うか法師、其ればかりはお許し下さい」法師「成らぬ、成らぬ、なんぢと共に牢を破り罪の上に罪を重ねてゐる辨太郎とやら云ふ者を、立派な段倉家と縁組させるとは、何うして知らぬ顏でゐられやう、夜の明け次第におれの口から何も彼も告げて了はう」毛「告げるとは、誰に告げます」法師「知れた事よ、段倉男爵」毛太郎次は最早止める道が無いと知つた、忽ち衣嚢かくしの中より、用意してゐる短刀を拔出して「爾はさせぬ」と叫ぶが否、躍り掛つて法師の胸に打込んだ、けれど法師は此樣な事の用意に鐡板の鎧の胴を着込んでゐる、短刀は其の儘辷ツて跳返され、爾して短刀持つた手は、力ある法師の手に、強く打てくびを握られた、毛太郎次は顏を顰め「痛い、痛い、法師さん貴方の手先は何と云ふ力でせう最う少し弛めて下さい」法師「神がおれには、汝の樣な惡人を懲す爲に此通りの力を與へて下さツた、おれは神に代ツて神の意を行ふのだ、茲で汝を攫み潰すは易いけれど、神の御心は猶だ汝に爲さしめる事が有る、茲に筆紙墨を與へるからおれが云ふ通りに書面を作れ」毛太郎次「私は字を書く事を知りません」法「僞ると斯うだぞ」と法師は又握れる手をめ上げた、毛太郎次は又 もがいて「痛い、痛い、何とでも書きますから弛めて下さい」法師は直に紙筆墨を與へ、文句を口授して左の如く認めさせた。

段倉男爵よ、小侯爵皮春永太郎と稱して貴家に出入し遠からず貴家の令孃と結婚せんとする少年は、其實罪人なり、先頃餘と共にツーロンの牢を破りて逃げ來りたる者なり、餘は五十八號の、彼は五十九號の札附たる囚人にて常に同じ鐡鎖くさりに繋ぎ合されて服役しゐたり、彼は辨太郎と云ふ名前にて姓も知らず父母も知らざる捨兒の成長したる者なり、舊惡の數々は監獄事務官に問合さば明白ならん。

之に署名させ封筒に入れた上、段倉の宛名町名番地をまで認めさせ終つて、爾して法師は之を自分の懷へ入れた、之れは其昔段倉が認めた密告状とほゞ同じ樣な密告状である、暮内法師其實巖窟島伯爵は此密告状を何の樣に用ふるや暫らくの間疑問である。

「サア是れで用事は濟んだ、立去れ」とは直に法師が毛太郎次に言渡した言葉である、毛太郎次は怪訝な顏で「最う許して下さるのですか、警察へも引渡さずに、エヽ直に立去て好いのですか」法師は無言で窓から外のやみのぞき猶も先刻の怪しき一人が、戸外おもて此方こなたを見張つてゐる状を見屆けて「ウム之で此場だけは許して遣る、併し茲を立去て何處まで汝が無事に行かれるかはおれには分らぬ」何だか意味有りげな言葉で有るが聞く當人は怪しみもせぬ「イヽエ、茲を立去れば何處へ迄も無事に去ります」法「爾うか若し汝の宿まで無事に歸り着く事が出來れば、其れは神が猶ほ汝を保護してゐる記標しるしだからおれも汝を保護して遣る、直に汝は何處へでも外國へ落延びよ、爾して再び惡事をせずに正直に身を支へて行く以上はおれから少しづつ年金を送ツて遣る」毛「本統ですか本統に年金を下さるなら、私は外國で正直に――」法師「サア行け」

促されて毛太郎次は、前に破ツた硝子窓から以前の繩梯子を下り初めた、法師は自ら手燭を取ツて其窓の所に差出した、其状はあたかも外に見張つてゐる一人に「サア今此者が立去るぞ」と合圖して、見て取らせる爲めの樣に見えた、やがて毛太郎次の身が地に着くとひとしく法師はあかりを消し、更に他の戸外おもてを眺めるに都合の好い窓に行き、暗がりの儘でまなこを張開いてゐた。

其うちに毛太郎次は庭を傳ふて塀に再び繩梯子を掛けて上り、更に其塀の頂邊てつぺんより又繩梯子を埀れてスラスラと下り初めたが、全く法師の云つた通り、宿へ着くまで神の保護が續かなんだと見える、彼の足が往來の大地へ着かぬうち、何處からか突々とつ〳〵と走つて來て彼に近寄つたのは先程から見張つてゐた彼の一人である、此者は直に短劍を持つて、猶だ宙にブラ下ツてゐる毛太郎次の脾腹ひばらを刺した、爾して毛太郎次が落ちてたふれるが否や、更に十々とゞめを刺す樣に、但し所も選ばずに、二刀ふたかたな刺して逃去つた。

「人殺し、助けて、助けて」との叫び聲は深傷ふかでに惱む毛太郎次の口からかすかに出た、此時には早法師と亞黎ありが此處へ馳附けてゐた、法師は直に亞黎ありに向ひ「早く行つて醫者を呼び、直に其足でオノレ街へ行き大檢事蛭峰氏の臨檢を請ふて來い」と命じた、亞黎ありは唯だ含うなづいて急ぎ去ツた、後に法師は毛太郎次の傷口に手巾はんけちを宛などしつゝ「曲者を逃がしたは殘念だつた」毛太郎次はかすかに聲が殘つてゐる「何の樣にでも手當して何うか私を少しの間活せて置いて下さい、曲者を告訴します」法師「告訴するとて曲者の名が分つてゐるのか」眞に毛太郎次は悔しげで有る「分つてゐます、確に其顏を見認ました、エヽ悔しい、旨く彼奴あいつに謀られた、彼奴め、おれを殺す爲に此家は案内を教へ、窓硝子を切る樣に夜光珠だいやもんどの指環までも與へたのだ、爾して外に待伏してゐて」法師「彼奴あいつとは誰れだ」毛太郎次「辨太郎です、皮春小侯爵と云ふ辨太郎です」悔しげに言ひ切つた。

巖窟王 : 一九八 曲者 四

毛太郎次に此家の案内を教へ其上に窓を破る夜光珠だいやもんどをまで與へて置いて、爾してひそかに待伏せして茲で毛太郎次を殺したとは、彼辨太郎の心の奸惡實に驚く可きである、毛太郎次が死にも得ずに悔しがるも無理は無い

けれど巖窟島伯爵の暮内法師は敢て驚かぬ、實はやみの中をも見るほどの視力ある其 まなこで先程既に小侯爵皮春永太郎と云ふ辨太郎の姿を認めたのだ、認めて大概の容子を察したので其れだから毛太郎次に向ひ「汝が無事に行かれるか否はおれには分らぬ」と云ふたのだ、併し伯爵は面前まのあたりに毛太郎次の死に惱む状を見て、又辨太郎の事を思ひ合せて、深い深い感慨を催し來り暫しは言葉をも發し得ず、こぶしを握ツて毛太郎次の顏を見詰めた、是れは何の爲めの感慨だらう、他では無い唯だ此一時に歴々あり〳〵と神の意が現はれて居ると思ふ爲めである、辛苦に辛苦を重ねた大復讐が唯だ此一事で緒口いとぐちを開くのだと感じた爲めである。

毛太郎次はもどかしげに「法師、法師、何うか私の口供こうきようを寫し取り、檢事へ出し、辨太郎を刑に處して下さい、彼を殺さねば私は此無念が癒えません、ソレ斯う云ふ中にも私は少しづつ死んで行きます、早くして下さらねば間に合ひません」法師は急いで家の内に入り紙筆と、別に一瓶の氣附藥を持つて來た、爾して「サア望み通り汝の口供こうきようを寫して遣る」と云ひ、「餘は今コルシカ島無宿父母不明の辨太郎と云ふ者に殺されて茲に死する者なり、辨太郎はツーロンの獄に在りたる五十九號の脱走囚にして今は此巴里に在り」手早く記し終ツて讀み聞かせ「汝の口供こうきようは此通りだらう、爾なら此末へ自筆で署名せよ」毛太郎次は紙筆を受取つたけれども署名する力が無い、伯爵は其れと見て氣附藥三滴を彼の口に注いだ、誠に藥の力は爭はれぬ、彼は筆を取上げて署名し得た「此藥で私は蘇生いきかへります、最う三滴、最う三滴!」と後を強求ねだつて口を開いた、法師「此上呑めば頓死するワ」毛太郎次「でも私は檢事の來る迄活て居て、モツと辨太郎の罪を訴へ度いけれど法師、私が死んだら何うぞ貴方の口から充分に檢事へ言つて下さい、何うしても辨太郎の逃れぬ樣に、是れが私の死際のお願ひです」今いまはの際にも自分の罪は悔いずして人の罪を罰する事をのみ氣に掛るとは何たる惡人と云ふ者だらう、法師は併し之を慰め「し、汝の知らぬ事を迄、おれが檢事へ言立てゝ遣る」毛「エ、私の知らぬ事とは」法師「例へば今夜汝の忍び入る事を、今朝既に辨太郎が密書を以て伯爵へ告げた事や――」毛太郎次は又驚き「エ、辨太郎が、密書を送つて伯爵へ、私の忍び込む事を知らせましたか、惡人め、エエ悔しい、悔しい」法師「爾よ、辨太郎から密書が來たけれど生憎伯爵は不在で有つた、爾して來合せたおれが其密書を受取つたから今夜 此家ここで汝の來るのを待受けて居たのだよ」毛太郎次「爾とは知らず、エ、辨太郎の罠に罹りました」法師「其上に最一つおれが檢事へ云ふて遣るのは、汝の後を辨太郎が尾けて來て、初めから此家の外に待伏せをして居た事よ」毛「其れを貴君は御存じでしたか」法師「爾さ窓の外をのぞきて其状を見認めたから、多分は汝が殺されるだらうと思つた[、]其れだからおれは云ふた、若しも汝が無事に宿まで歸り着く事が出來れば、神が汝を保護して居る記標しるしだからおれも暫く汝の罪を許して遣る」と聞き得て毛太郎次は死物狂のこぶしを握り詰め「其れでは貴方も辨太郎と同樣の惡人です、辨太郎の待伏を知つて居ながら私に知らせて呉れず、あかりを取つてまで私を送り出して辨太郎に殺させるとは、是が法師のする事ですか、惡魔、惡魔」法師「法師で有ればこそおれは汝に辨太郎の待伏を告げなんだのだ、待伏するのは辨太郎だけれど、實は神が辨太郎の手を假りて汝を殺さうとして居たのだ、惡を以て惡を打つ天意の巧妙な配劑が見えて居たから、天意を妨げては成らぬと思ひおれは謹んで知らぬ顏で居た、汝今死際の身と爲つて辨太郎を恨むよりも謹んで神を恐れよ、悔悟には何の樣な罪も亡びる、今死際でも神の宥しを願ふのは遲くは無い」

法師の言葉、眞に神の言葉で有る、毛太郎次の頭も揚がるまいと思はれる程に嚴かに響いたけれど、彼は神をば知りもせず感じもせぬ「何だ、天意の、配劑のと、何處に其神の證據がある」法師は更に又嚴かに、あたかも天の宣告をでも讀み聞かせる樣に「證據は汝の身に在るのだ、汝自身が何よりの證據である、能く聞け、汝は天の惠を得て、人に劣らぬ健康の身體を以て生れながら、自分で天の賜物を粗末にして酒や蕩樂に身を持崩し、人の踏む可き正直な道は踏まず親友を賣る樣な惡人の中に交はり、一言で妨げる事の出來る惡事を妨げもせず、其親友を再び此世へ返る事の出來ぬ所へ追ひ落とした事も有らう、其事は曾て汝が尾長屋の店でおれに告げた言葉の中にも有ツた、其れだけれど神は猶ほ、一時に汝を罰すると云ふ事をせず、今の中に悔改めよと云ふ警報いましめの爲めに汝へ先づ貧苦を下した、汝は其時も恨んで居た、世に若し神が有らば何故自分の樣な正直者が榮えぬだらうと、其れが汝の間違ひである、正直だのに榮えぬでは無い、汝の正直が足らぬから榮えぬのだ、其時神は猶も汝をいましめる爲めに、此 おれの手を以て、通例の人には見る事も出來ぬ程の寶物を汝に與へた、汝は其寶を以て正直な榮を求めたか、爾で無い、其時には神の惠を思ひ知つたと云ひながら直に其夜に珠たまあきうどを殺したでは無いか、殺して二重の寶を奪ひ得たけれど、其れは神の許さぬ所である、直に神が汝の手から其寶を奪ひ去り汝は終身の牢に入れられた、是を汝は人間業と云ふだらうが、人間の手を借り人間の法律を假りて神が怒を示し給ふのだ」毛太郎次は又叫んで「爾で無い、爾で無い、神が其樣に不正直を罰するなら、毛太郎次よりも不正直な次郎や段倉が何故榮える、不公平だ、不公平だ」法師「神の公平不公平を裁判する力は人間に與へられて居ぬ、次郎や段倉が何時まで榮えるか、重い罪には重い罰が有る、重い罰には用意の月日が掛るのだから遲いのだ、猶ほ聞け、其時には神は汝に三度目の慈悲を現はし英人柳田卿の手を假りて又も汝をツーロンの獄から救ひ出し、正直に餘命を送られる丈の手當を與へた、其をも汝は不足に思ひ、猶も人の家に忍び入るなど、神の怒りを犯す樣なことばかりする爲に、最早許しては置かれぬと、今夜此處に、此 おれの滿て居る前で神は辨太郎の手を假りて汝に致命の罰を加へた、是でも猶だ證據が分らぬと思ふのか」不思議にも毛太郎次は猶ほ口を利く力がある「でも正直な人に襃美を神が賜はツた實例ためしは無い」法師「有るよ、有るよ、其 ためしは己を見よ、汝は此己を誰と思ふ、己の顏を見忘れたか」法師は云ひつゝ法師の假鬘かつらを脱ぎ捨て、顏を毛太郎次の前にり寄せた、毛太郎次は驚いて「エヽ柳田卿」法師は再び顏の假作かさくを拭ひ去り「柳田卿より猶其前を能く考へて見よ」再びり寄つた顏のおもてには、眞の人間を離れた如き靜かな穩かな所が有つて唯だまなこのみと異樣に輝いて居る、毛太郎次は恐れを顏に現しつゝも右見左見とみかうみした「何だか見覺えは有る顏だ、昔――昔――アヽ思ひ出されぬ、最う頭が混亂して――誰です、誰です――神樣の樣な貴方の顏は」法師は毛太郎次の耳に口を寄せ細い聲で囁いた、自分の耳にさへも自分の名の入るを恐れるていである、其れも道理や、廿幾年來、人に向つて告げた事無く、自分でさへも思ひ出すのを恐ろしと思ふ姓名である、「己か、己の姓は……だよ、己の名は……だよ」姓は團名は友太郎、唯だ一語で毛太郎次の胸には今まで思ひも寄らなかつた一切の明りが、稻妻の如く煌々と差込んだ。

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