読書ざんまいよせい(091)

巖窟王(下 その4)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯


Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 72「サン=メラン夫人」

巖窟王 : 一八〇 未熟な男で無い

全身不具の老英雄野々内參上に果して何の樣な竒略があるか、其は「蛭峰家(七)」以下の記事と共に暫く後に讓り、話頭は段倉家に移る。

* * * * * * *

世に手堅い樣で其實極めて危いのは銀行の身代である、少し評判が宣くなれば、世の人先を爭ふて取引を開く爲め、世間の金が集まつて來る状にもなれど、其代り一朝宣からぬ評判でも立てられて、少し信用が傾く日には、直に預け金を取付けに來る人が門前に市を爲し、同業者の取引や融通も忽ち止まりて、昨日まで全國の財權を一手に握るかと見えし者が今日は早や戸を閉ぢて身代限りの間際まで推寄せるためしも、隨分今まであつた事だ、其れと此れとは事 かはれど、さても段倉銀行の頭取男爵段倉喜平次は、先頃電報の間違ひのため西班公債で一夜に四百圓の損をした上巨額の貸越と爲て居るマンフレダイ銀行の支拂停止に遭ひ是にも百萬以上の損失は逃れ難く見える場合とは爲り、今まで絶えて損と云ふ事に出會でつくはした覺えの無い身だけに、内心甚く落膽して我が妻にまで其損失の幾分を割附けんとさへあせつて居たが、幸に是だけの事では未だ信用が傾くと云ふ程には成らず、多少の取付けには逢つたけれど、上部うはべだけは平然と澄ます事が出來て居た所、日頃の運の神が彼を見捨てたのか、彼の野西家の夜會の翌日又フロレンス商會が破産したと云ふ知らせを受けた、此商會は段倉が伊國鐵道の企業の爲に、見込を立てゝ餘ほどの資本を注込んであつたのだから、其損失は殆ど前の二口の損失を合せたよりも多い程である、そもそも此商會を破産させたのは誰の仕業しわざか知らぬけれど伊いたりやの大株主が何か意見の違ひの爲に手を引いて其株劵が暴落した爲めとの事で如何とも仕方が無い、幾等段倉銀行が盛大でも斯う一ひとつきと經ぬ間に引續いて彼れ此れ一千萬からの損失を受けては信用に關せぬと云ふ保證は出來ぬ、既に巴里の同業者中には其れと無く段倉銀行に對して手をめた向も有り、又手をめねば成るまいとて密々相談する者も出來たとやら噂される程にも至ツた。

頭取たる身に取つては、何れほどか辛い事だらう、彼段倉は晝頃から自分の居間に閉籠り、帳面を開いては嘆息し、嘆息しては又帳面を繰返しなどして居たが、最早や氣も盡きたと見え、かうべを擧げて暫く前額ひたひに手を當てた、此時は午後の六時頃で、妻の居間には親しい來客が有ると見え、先ほどから談笑の聲も起り、時々は音樂のさへ聞えて居た、唯だ段倉の煩悶した耳へのみは入らなんだが、何うした拍子かフト彼は聞附けた、爾して其方に振向いて「何だなア、騷々しい、實に――所をつとの心配も知らずに、面白さうに」と呟いたが忽ち思ひ直し「イヤの音樂は、妻で無い、娘だ、アヽ娘夕蝉が小侯爵と合奏して居るのだ」とて直に顏のおもてを柔げた「旨い、旨い、此向きではの小侯爵が愈々近日の中縁談を言込んで來る、フム小侯爵皮春永太郎か、姓名も何と無く貴族的だ、父の歳入が一年五十萬圓と云ふのだから、其身代は二千萬圓からの身代だ、己などならナニ千萬圓以下の金を以ても五十萬圓の歳入を得る事は容易だけれど、金儲けを知らぬ伊國いたりやの貴族だから財産總體を皆働かせると云ふ事は出來ず、其れに古金を集て地の底へ埋て置いたり、珠玉を倉に仕舞つて置のを誇たり不生産的な事ばかりして喜んで居るのだから事に依ると五千萬からの身代かも知れぬ、之を縁組が出來れば、ナニ幾等でも見捨た譯では無いな、夕蝉と野西武之助との縁談を急がずに置いて好い事をした、彼等兩人は幼い頃からの許嫁とは云へ、何も其後改めて武之助の父次郎が愈々婚禮させると言ひ込んで來た譯では無し、今斷つて破談にするのは譯も無い事だ、爾々其破談の口實は先日巖窟島伯爵の言葉から思ひ付いて希臘のヤミナ銀行へ問合せて置いた、其返事が來さへすれば必ず次郎の舊惡がイヤ新惡が分るから其れを利用すれば好い、何事も旨く運ぶワ」漸く思ひ直して破顏一笑する所へ、書記が手紙を以て來た、見ればヤミナ銀行から出たものである。

「來た、來た」と段倉は書記の退く姿を見送りつゝ嬉しげに呟き、直に封を切つて讀下したが、仲々長い手紙である、けれど彼は呼吸いきをも繼がずに讀終ツた、餘ほど彼に取つて都合の好い事を書いてあると見え、彼は其笑を顏中に推廣げ「驚いたなア、次郎奴此樣な惡事をして居やがる、是では希臘で大身代を作ツて歸つた筈だ、ヤミナ城を敵の土耳古とるこ國王へ賣渡して、イヤ是くらゐの惡事は仕兼ぬ奴だよ、其上に城主の妻、城主の娘まで」と言ひ掛けて猶ほ終らぬ所へ「ヤア段倉さん今日は令夫人をお尋ねに來ましたが、ついでに貴方へお知らせ申す事が有ますよ」言ひつゝ入つて來たのは巖窟島伯爵である。

段倉はあわてゝ手紙を推隱し、懷かしげに迎へた伯爵「フロレンス商會が破産しました」段倉は我財政上の弱點を人に悟られる樣な未熟な男では無い、何の利害をも感ぜぬていで「爾ですか」と輕く答へた伯爵「でも貴方は大株主では有りませんか」段倉「ナニわづか數百萬圓ですよ」とは伯爵の口調を學び得た者と見える、伯爵「イヤ貴方が爾う輕く觀て居れば私も安心ですよ、若し御心配でも有れば多少は御用立やうかと思ひました、ドレ是から夫人の御機嫌を伺ツて來ませう」と何氣無く伯爵は奧の間を指して立ツた、段倉は又 あわてゝ引止め、小聲になツて「ですが伯爵、何うか奧に居る皮春侯爵へは此破産事件を話さぬ樣に願ひます」とは咄嗟の間にも仲々用意が綿密である、伯爵は含首うなづいたまゝ奧へ行ツた、直に其後へ野西次郎と其息子武之助が入ツて來た、來る時には來るものだ、斯と見て段倉は、さては縁談の爲では無いか無いかと、破談の口實を持ちながらも、先を越され相な心配にギクリとした。

巖窟王 : 一八一 言葉は明々白々

子爵野西次郎は何の爲其子武之助と共に段倉の許へ來たのだらう、段倉の恐れる通り縁談の爲めだらうか。

若し爾とすれば段倉と何等かの衝突無しには濟まぬ筈である、段倉の方では此數年來内約に成つて居る縁談を斷る爲に遙々はる〴〵ヤミナ州へまで手紙を遣つて口實の材料を集めて居る程なんだから直ぐに段倉は思ふた、先が言ひ出さぬうちに奧の間へ連れて行き、娘夕蝉が皮春侯爵とと親しげに合奏など仕て居る状を面前まのあたりに見せ附けて遣れば、父子とも氣色を損じて言ひ出さずに歸るかも知れぬ、或は其上に立腹して終に縁談を先から取り消す事に成るかも知れぬと、若し爾でもなれば面倒無しに目的は屆くのだからと何に付けても掛け引の上手なたちだけに、咄嗟の間に思案を極め「サア子爵、此室は取り込んで居るから何うぞ奧の間へ、奧の間には妻も娘もゐます、巖窟島伯爵も娘夕蝉の好きな皮春小侯爵も來てゐられる、誰も氣の置ける人はありませんから」と閾から内へは入れず、直ぐに自分が先に立つて案内した。

娘の好きな皮春小侯爵とは、許嫁の相手 父子おやこに對して餘りな言ひ分である、けれど武之助の方は之を聞いてひそかに喜んだ、彼は何うかして夕蝉孃を我妻には仕たく無いと心に祈つてゐるのだから、但し父の方は爾は行かぬ、眉の間に八字の皺が現はれ掛けた。

若段倉が猶豫を與へたなら父の方は何か言ひ出す所であツたかも知れぬが、段倉は早くも眉間みけんの八字を見て、自分の言葉に效能があつたを喜び、唯だ「サア、サア」と迫立せきたツて奧の間へ連れて入ツた、茲には全く段倉夫人もゐる、娘も伯爵も小侯爵もゐる、斯くと見て野西子爵は先段倉夫人に向ひ「今日は、私共の夜會へ御出席下さツた御禮を申しに參つたのです」さては縁談の爲では無かつたのかと、段倉は聊か自分の恐れ過たを感じた。子爵は語を繼ぎ「貴族院からの歸に其々御禮に廻る積りで、蛭峰氏の家から茲へ來ました、蛭峰氏は餘程お取り込中の御容子でした」夫人は蛭峰と聞いて、司法省の官房で密會した一條から猶遡ツて昔の罪深い事柄などをも思ひ出したか、異樣に巖窟島伯爵の顏をぬすみ見た、併し伯爵の顏は單に平和で何の色とても現はれてゐぬから安心のていに子爵に向ひ、「其れは御念の入りました」子爵「爾しましたら丁度 此こちらの門前で武之助に逢ひましたから、夕蝉孃の機嫌をも伺はせ度いと思ひ此通り連れて來ました」「イイヤ縁談の爲で無いでも無いと又段倉は思ひ直して「何うです子爵、娘と皮春小侯爵とあしてならんで居る所は能く似合ふでは有りませんか、誰でも爾う云ひますよ」此深い掛引の有る言葉は、殆ど石 一個ひとつで鳥二羽を打つた樣な效能が有ツた、小侯爵皮春永太郎と成濟まして居る春田路辨太郎は之を聞いて腹の中で、天にも上つた心地がして、明日にも縁談を言ひ込まねば成らぬと思ひ、又言ひ込みさへせば直に承諾を得られると見て取つて心に勇み、野西子爵の方は同じく此言葉に前よりも深く眉を顰めたかれど何もいふはずに、やがて知らぬ振で聞流した。

併し聞流さぬ人が一人あつた、其れは巖窟島伯爵である、伯爵は直に「段倉さん一寸」と云ひ、彼を室の隅まで連て行き、誰れにも聞えぬ小さい聲で「貴方の今の言葉は失言では有りませんか」と問ふた、段倉は假忘とぼけて「エ、今の言葉とは」伯爵「夕蝉孃と武之助とは久しい許嫁だと云ふでは有りませんか、其間へ皮春小侯爵などを入れて、若しもの事が有れば――イヤ無くとも野西子爵が感情を害する樣な事でも有れば第一私が子爵に濟みません、子爵は必ず巖窟島が餘計な小侯爵などを連て來るから此樣な事に成るのだと私を恨みますが」段倉は又小聲で「イエ、イヽエ、何の樣な事が有らうとも決して貴方には迷惑は掛けません、何うぞ私の娘の縁談は私の家の云はゞ内所事ですから、私にお任せ置き下さい」伯爵は不興氣に「成るほど貴方が爾仰有れば他人の私が口を出す可き事柄では有りません、けれど段倉さん、貴方の擧動が何だか小侯爵と夕蝉孃との間を結び附け度い樣に見ゆるのは、私の贊成せぬ所ですよ、私は之が爲に若しも野西子爵から恨まれる樣な事に爲るのはいやですよ」段倉「イヽエ、決して貴方が野西子爵に恨まれる樣な事は私が致しません、しや娘を武之助に遣らずに小侯爵へ遣る樣な事に成らうとも其れには又其れ丈けの手續が有り、野西子爵にはグーの音も出させません」伯爵「其樣な事を仰有つて、他日貴方が後悔する樣な事が有らうとも私は知りませんよ」段倉「勿論です、後悔するなら私が一人で後悔するのです、私は早く其後悔を仕たいと云ふ程に思つて居ます」とは是れ早く小侯爵を娘の婿夫むこに定め度いとの意味である。

嘘か誠か伯爵は苦々しい顏をして「爾まで仰有れば致し方が有りません」とて嘆息して更に皮春小侯爵の傍に行き細語さゝやいた「何か此家に取込が有り相ですから今日は此まゝお歸り成さい」人の戀路を邪魔すると、口には云はぬが、小侯爵は恨めしげに伯爵の顏を見た、併し伯爵の心は損じても元も子も無くなる身分だから眞に詮方なく「ハイ」と答へて立上つて、立上りつゝも彼の心にフト一つの疑ひが浮んだ「オヤ斯うまで我が擧動に心配し干渉する此伯爵が我が爲に何者だらう、若しや此身の本統の父では有るまいか」と、此疑ひの起ると共に彼は忽ち從順になり、殆ど懷かしいと云ふ樣な聲で「伯爵私は少し用事を思ひ出しましたからお先へ失禮致します」と云ひ更に他の人々へも然る可く挨拶して茲を去ツた、間も無く伯爵も「イヤ私も大變な用事を控へて居ます」と云ひ同じく然る可く挨拶して立去ツた。

若し伯爵の斯る仕ぐさが掛引に出た者ならば段倉の掛引よりも更に上を越す手際と云ふ可きである、是れも石 一個ひとつで鳥二羽を打つた樣な者だ、是を見て段倉は思ふた「アヽ伯爵は小侯爵を自分の連れて居る鞆繪姫とか云ふのに縁組させる内意が有る、其れだから心配するのだ、フム伯爵の大身代で猶縁組を望む程なら皮春侯爵家の身代は底が知れぬ、何うしてもおれの方で先を越して夕蝉に結び附けねば成らぬ」又野西次郎の方は、伯爵が夕蝉と我子武之助との縁談を妨げまいとの親切の爲にわざと小侯爵を連れ去つたのだと思ひ、其親切に對して早く此縁談を運ばねば成らぬと決心した。

決心しては少しも躊躇せぬが、野西次郎の本來の性質にある、罪の無い人を密告したり自分の與る城を賣つたりする事をさへ躊躇せぬ程の氣質だから直ぐに段倉に向ひ、「貴方へ眞面目な御相談が有りますよ、何うかお居間へ」段倉は當惑氣に「今日全く取込んで居ますので」野西「イヤ手間の取れる事では無く、一言で決するのです」無理に段倉の居間へ連れて行き「兼て約束に成つて居る私の息子と貴方の令孃との婚禮の日を取極めませう」一言の誤解をも許さぬ、言葉は明々白々である段倉「成るほど、昔は其樣な話しも有ツたかの樣にも覺えて居ますが」曖昧此上無い返事に、野西子爵の前額ひたひには青筋が隆起した、當年の次郎と段倉、何方どちらが何の樣に勝つか負けるか、此取組は見ものである。

巖窟王 : 一八二 賣國奴の一項

次郎は軍人肌、段倉は商人肌、一は嚴しく一はずるい、昔の素性は兎も角も、今は雙方 おの〳〵一癖を具へて居る、眞に見ものゝ談判である。

段倉が空とぼけて、妙に落附いた状に對し次郎は掴み掛らんほどの見幕と爲つて「エ、エ、段倉男爵、貴方は此約束を忘れて居たと仰有るか『成るほど昔は其樣な話も有つた樣だ』などと」段倉「忘れたと云ふでも有りませんが、其れほど眞面目な堅い約束とも思ひませんでした」次郎「しからん事を仰有る、息子 息女むすめを夫婦に仕やうと親と親との結んだ許嫁を、堅い約束で無いなどと、若しや貴方は外に私の息子武之助より優つた婿夫むこを見出したと云ふ樣な爲では有りませんか、爾うなら爾と明かに云つて下さい、私には私丈の考へが有りますから」何の樣な考へかは知らぬけれど、其言葉の鋭さで見れば、決鬪を言込むとの意味らしい、決鬪などは段倉に取つて最も禁物である、此上も無く恐ろしい事柄である。

けれど彼は容易に此縁談を破る丈の材料を持つて居る、先程ヤミナ州から受取つた手紙が其れなのだ、何も茲で劇しく言ひ爭はずとも、此材料を使用さへせば、忽ち我目的は逹するのだと心で多寡たかくゝつて居る「イヽエ野西子爵、何も私は貴方の息子を非難するのでは有りません、息子には罪は無いのです」息子には罪は無いとは角立たぬ樣で角立た言分である、聞咎めよと言はぬ許りである、次郎は果して其手に乘つた「ナニ息子に罪は無い、では父の方に罪が有るとでも云ふのですか」段倉「サア、無いと言ひ切る譯にも行きますまいて」とうそぶいた、何だか氣味の惡い話がある。

爾無きだに激怒して居た野西子爵は、脱いで卓子てーぶるの上に置いて有つた手袋を攫み潰すかと思はれる程に握り「失敬な」と云つて立つた、其まゝ戸口を指して立去らうとした、けれど段倉の方は猶落着いて居る、ナニ自分の身に暗い所の有る奴は眞實に怒り得る者では無いと自分自身の經驗に照して見拔いて居る、果せる哉だ、次郎は戸口から又引返した、爾して忽ち今度は昔の極親しかつた時代の打解けた口調に返り「コレ段倉君、君の態度が僕には少しも合點が行かぬよ、お互に何も罪だの罪で無いのと、他人がましく洗ひ立す可き仲では無いよ、君の娘も早年頃だし、間違ひの無い中に話を極めて婚禮を濟ませやうぢや無いか、僕と仲を違へて君は何の利益が有る」段倉は少しも打解けぬ、殆ど初めよりも一層恭しい口調で「イエ、野西子爵、利益の問題では無く名譽の問題です」次郎「では武之助と夕蝉とを夫婦にするのが名譽に障ると言はれるか、僕と親類續きに成るのを君の家の不名譽と云はれるか」

詰問の樣に問はれて、段倉は言葉を濁した「其れにしても子爵、此縁談は今日取極めるに及びません、私に二三日考へさせて下さい」次郎「十年も約束して、今更二三日考へるとは、僕には合點が行かぬ、君から此樣な仕向を受けては僕は勿論息子の武之助の顏にも掛る」段倉「イヤ何に縁談の破約と云ふ事は、男の顏よりは、餘計に女の顏に掛ります、私も辛いけれど、此頃世間の噂を聞込んだ事も有り、何だ何でも兩三日考へねば御返事が出來ません」次郎は怒氣滿面、再び立つた、今度は戸口から引つ返す容子は無い。

「では世間の此野西子爵の事を、惡樣に云ふ者が有ると云ふのだな、何の樣な噂だか知らぬけれど其れに多年の親友たる段倉男爵が耳を傾け縁談の故障をするとは餘り甚い、其樣な輕薄な友人ならば無い方が幸ひです」云ひ捨てゝ立去つた。此翌日の朝である、彼の猛田猛たけだたかしの主宰せる獨立新聞の紙上へ「賣國奴」と題して、野西子爵に關する容易ならぬ記事が出た、段倉はいつも五六種の新聞を讀終りて獨立新聞を最後に讀む男だのに、此朝に限つて、何か待設ける事でも有る樣に其新聞を一番先に選出して打開き、紙面全體を熱心に探した末、其「賣國奴」の一項に目を注ぎ「占た、占た」と叫び更に「之が出れば幾ら野西次郎がズウ〳〵しくとも自分の名譽が地に落た事を知り、名譽の高い段倉家へ最早縁談を言込もせぬだらう」と呟いた。

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