巖窟王(下 その3)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 一六一 濃い覆面の一婦人
夫段倉が伯爵を尋ねんとて家を出た後、果して妻張子は蛭峰を訪はん爲に家を出た。
雙方ともに此物語の大なる波瀾を捲き起す紀元とはなツた。
但し伯爵との面會は表面極めて平穩無事で有ツた。唯だ其平穩無事の中に、一つの黒點が籠つて居る、他日天一面に擴がる陰惡な雲とは爲ツたのだ、先づ夫の方より記して行かう。
段倉は伯爵家の接見室で十四五分待たされた[、]其中に外から、法師姿の老人が入ツて來て、段倉に默禮したまゝズツと奧へ通ツて了ツた、扨ては餘ほど伯爵と懇親な老僧と見える、此樣な客が有つて若し話が長ければ又出直して來やうと聊か考へ込む所へ「イヤ來客の爲に大にお待たせ申しました」と機嫌能く伯爵は出て來た[、] 段倉「ハイ御來客の有る事は唯だ今茲を通られた老僧でも分つて居ます」伯爵は最と輕く「アヽ那れですか、那れは何に、暮内法師とて伊國では有名な方ですけれど、多年別懇の仲ですから幾等待たせても構ひません」とは云ふけれど、自ら言葉の中に長居は迷惑との意味が見える、段倉は其れと察し「イヤ私は事務家ですから極手取早く申しますが、昨夜お目に掛つた皮春侯爵の巴里滯在の眞の目的は何れに在るのでせう」と前置も無く問出した、伯爵は故と賤しむ樣に「息子を交際社會へ出し、嫁を得させたいと云ふので、私へも頼むなどと云はれましたけれど、何しろ吝嗇とも云ふ可き程の儉約家ですから、私は先づ嫁を搜すよりは金を使ふ事を稽古せよと云ひました、金さへ使へば隨分嫁の候補者も出來ませうけれど、爾無くば -- 」段倉は短兵急に「イヤ貴方は爾お思ひでせうが、私の如き實業家は却つて其儉約な所を見込むのです、金を使はぬのが那の方の値打だと思ひます」伯爵「爾う仰有ると何だか貴方が嫁の候補でも持つて居る樣に思はれますが」段倉「其通りです、實は私は那の方の氣質に感じましたから」金力に感じましたとは云はぬ「娘夕蝉を小侯爵の妻としては何うかと思ひ、既に妻とも相談して其贊成をも得て居るのです」伯爵は打笑ツて「成る程貴方は手取早い、其れで無くば、第一流の實業家には成れぬ筈です」襃める樣に云ひ、頓て又眉を顰め「イヤ段倉さん、其れはお止めなさい、貴方の樣な華美は方と、那の陰氣な侯爵とは肌の合ふ筈が有りません、親類に成つて長く附き合へば必ず喧嘩する事になります」伯爵は斯う妨げる方が却て益々段倉の熱心を増す事を見拔いて居る、段倉「イヤ肌の合はぬは私の心の持ち樣に在る事ですから、其點は御安心の上、成る可く侯爵父子の心の動く樣に貴方の御加勢を願ひ度いのですよ」伯爵「其れは出來ません、今云ふ通り私は此縁組を贊成し無いのですから、ハイ贊成の出來ぬ理由が二個有ります」段倉「二個とは」伯爵「第一は今云ふ通り貴方と侯爵とは未だ懇意が淺い、從つて他日深く知合ば喧嘩する恐れが有る」段倉「其理由は理由に成ません」伯爵「第二には夕蝉孃と野西次郎の息子武之助との間に縁談が始まつて居ると聞ます、野西父子も私の友人ですから」段倉「成る程野西父子に對しても贊成が出來ぬ、此理由は分りました、併し伯爵、武之助と夕蝉とは當人同志が互に厭がツて居るのです」伯爵「其れにしても同じ事です」段倉「のみならず、私は野西次郎が先年希臘へ援軍に行き非常な大金を作つて歸國した事に就て聊か疑ひが有ります、貴方は始終希臘から伊國の邊にお住ひ成さツた容子ですから、多少其邊の事を聞込では有りますまいか、イイエ、是は私の外にも薄々怪しんで若しや彼野西は何か不義の金でも得たでは有るまいか抔と其頃噂した人も有りました、果して其樣な事ならば私は不義で出世した金持と縁者と成る事は好みません」不義を憎む樣な言葉が段倉の口から出るとは眞に口は調法である、勿論伯爵は野西次郎の大金を得た次第を能く知つて居る、實は之を知るが爲に曾て莫大の辛苦を費したのだ、けれど爾は云はぬ「イヤ私は能く知りませんが、ヤミナ州に在るヤミナ銀行へ問合せば分りませう、何でも那の頃ヤミナ銀行が軍用金を取扱ツて居ましたから」唯だ此ヤミナ銀行へ問合せと云ふ一語が、穩やな青天に一點現はれる雲の種とも云ふ可き者であツた、一點の雲の種が、他日何の樣に廣がツて、何の樣な風雷を引起すかは誰とても豫想が出來ぬ。
併し段倉は此言葉を聞いて喜んだ、皮春侯爵との縁組に付き伯爵の贊成を得ぬのは殘念だけれど、若しやヤミナ銀行へ問合せて野西との縁談を破る口實でも得れば其殘念は埋合はすには足るのだ、彼は猶ほ一言二言話した上、全く手取早くヤミナ銀行へ問合せの手紙を出す爲に伯爵に分れを告げて去つた。
* * * * * * *
是れと略同じ刻限である、濃い覆面に顏を隱した一婦人が司法省に出頭し、官房の戸を叩いた、取次の男は兼て長官の命でも含んで待つて居たかの樣に「貴方は蛭峰大檢事へ、裁判上の參考になる材料をお告げ申す爲めに來た方ですか」と問ひ、夫人が點首くが否や、直に戸を開いて内に入れた。
巖窟王 : 一六二 證據が有ります
若い時の惡事は、年取るに從ツて次第に身を責る事に成つて來る、蛭峰大檢事と段倉夫人も、今は若い時の惡事の爲め斯は苦しい思ひをしてまで密會せねば成らぬ事に成つたので、密會したとて詮方が有らうとは思はぬけれど、密會して相談せねば、心を落付かぬ、何と無く不安心だ。
罪深き男、罪深き女、人の罪を糺すと云ふ司法省の官房で、顏と顏とを合せて立ツた、頓て蛭峰檢事は用心らしく四邊を見廻した、勿論此室へ出入りする人の無い樣に、朝から口實を設けて手筈をして有る、取次が退けば誰も邪魔をする者は無い、而も蛭峰は入口の戸に錠を卸し、念の上にも念を推して爾して夫人の前に立返ツて座に就いた。
今は昔の互に夢中で有ツた頃とは違ふ美しい他人同志の仲と成つて、綺麗に附合つて居る丈に雙方聊か極りの惡い想ひもある、けれど夫人の方は其極りの惡いよりも昨夜の恐ろしさが先に立ち、震へるかと思はるゝ聲で口を開いた「廻り合せと云ふ者でせうか、餘り不思議では有りませんか」言葉と共に帽子と覆面とを取脱した、時は爾う暑くも無いのに前額に汗が浮いて居る、蛭峰も青い顏で「ハイ廻り合せとしては餘り不思議過ぎますよ、昔の事を悉く思ひ出さねば成らぬ樣な場合に立つたのですもの、眞に貴女のお辛かツたはお察し申します」夫人「顏色を變へては成らぬ素振に現はしては成らぬと、必至の想ひで身を支へて居ましたけれど、ツイ氣絶する事に成りました、誰か私の樣子を怪しいと見て取つたでせうか」蛭峰は考へて居る夫人「眞逆に誰も、譯あツての氣絶などと思ひますまい、思ふ筈が無いのです、けれど -- 」蛭峰「イヤ其れが怪しいのです、貴女が正氣に復つた時、巖窟島伯爵が貴女の顏を見た目の光りを御覽なさツたか」巖窟島には屬魂心服して居る夫人である「ナニ那の方なれば、田舍から出て來た許りで別に惡氣も無く、又交際場裡に永く居る人の樣に邪推なども成さるまいと思ひますが、若しや貴方の奧方に -- 」蛭峰「イヤ那の方ならばと、爾う安心なさるのが間違ひでは無からうかと私は思ひます、那の別莊を買取つたが巖窟島伯爵では有りませんか、賣別莊は澤山あるのに何故に伯爵が那の別莊を選んだのでせう、伯爵はエリシー街に本邸が有るのに何故那の邊鄙な所へ故々招いたのでせう」夫人「其れだから私は廻り合せだといふのです、廻り合せが恐ろしいのです」蛭峰は承知の出來ぬ面持で「イヤ廻り合せなら恐れるに足りませんが、私は廻り合せよりもモツと恐ろしい事では無からうかと氣遣ひました」夫人「エ、モツと恐ろしいとは」蛭峰「サア其處です、實に私は餘り合點が行かぬから昨夜も眠らずに明しました、第一 那の伯爵が私を那の別莊へ招いた時の素振から怪しいのですよ、私はオーチウルと聞いた時、出席を斷らうと思ひましたのに旨く言葉を廻して斷る事の出來ぬ樣に仕向けられました、私は自分の否と思ふ事を斷り得なんだのは殆ど是が初めてゞす、實に巖窟島伯爵といふ人は掛引の旨い方ですよ、大變者ですよ」夫人「其れでは那の伯爵が、貴方と私との昔の事を知つて居て」蛭峰「爾です、若しや知つて居て、私と貴女とを窘る樣な目的の爲に仕たのではないかと疑はねば成らぬ事に成つて來ます」夫人「其れは」蛭峰「那の室に限り昔の儘に殘して置いたろ、又彼の裏梯子を説明した言葉など、何うしても偶然では有りません」夫人「だから私は恐ろしい廻り合せだと思ひ、氣絶する事に成つたのです、是が廻り合せでないとすれば、貴方は何で伯爵が其樣な事をするといふ確なお心當りでも有りますか」
滿更心當りの無い筈は無いだらう、卅年來、人に憎まれる檢事の職に居て、爾して自分の我意の爲め野心の爲め、人情をも浮世の義理をも殆ど踏躙つて來たのだから[。] 併し彼は思ひ當らぬと見え「ハイ、爾う思つて色々考へ廻しましたが、何うしても私の方には心當りが無いのです、何だか或時は伯爵の顏を、昔見た事の無いでも無い樣な氣もしますけれど、確に其れは迷ひです、昔から私とは何等の關係も持つた人では無いのです、其れで私は終に思ひ定めました、多分貴女の爲だらうと」夫人「エ、私の爲」蛭峰「ハイ何か貴女に對して戀の恨みとか云ふ樣な -- 」夫人は又恐ろしげに身を震はせた、素より此夫人の越方には、人の戀の遺恨を受く可き樣な筋合は澤山有らう、二口や三口に止まり相も無い、併し夫人は斷言した「イヽエ、決して私の方には其樣な事は有りません」
斯う成つては更に分らぬ、雙方ともに少しの心當りも無い、イヤ有るか知らぬけれど思ひ出されぬ、夫人は暫くして、宛も嘆願する樣な語調で「ですが蛭峰さん、那の伯爵が遺旨とか遺恨とか持つた爲の仕業などと爾う恐ろしく考へずに、私の云ふ通り單に廻り合せと考へて、何とか私に安心させて下さる言葉は有りませんか、私は成る可く輕く考へて、何うか恐ろしく無い樣に仕たい、出來る事なら悉かり忘れても了ひ度いと此樣に思ひますのに」蛭峰は最と重々しく「其れは私も同感です、出來る事なら伯爵が故と此樣な事をするなどとは思はずに、唯だ偶然の廻り合せと思つて了ひたいのですが、茲に爾う思へぬ一つの大なる證據が有ります、ハイ悲しい哉、伯爵が確に故意を以て我々を窺ふて居ると云ふ爭ふ可からざる確證が有るのです」何の樣な確證だらう、夫人は益々顏の色を失ふのみである、イヤ夫人よりも實は蛭峰の方が猶ほ顏色を失ふて居る。
巖窟王 : 一六三 聞かせて下さい
密夫と密婦との間に私生兒の出來たと云ふ事は、世間に例の無い事で無いかも知れぬ、けれど其私生兒は密夫密婦の生涯の氣掛りとは爲るに違ひ無い、況して其私生兒を、生れるや否や人知れず裏庭に埋めるとは、是も例の無い事では無くとも、生涯不安心の種で有らう、更に密夫密婦が、年經て後に、其兒を埋めた場所に立ち、足に其土を踏まねば成らぬ事になるとは、之を偶然の廻り合せとしても、恐ろしき限りである、又更に、若し之れが偶然の廻り合せでは無くて誰かの仕業だと分ツたなら何うで有らう、其れこそ居ても立つても居られぬと云ふ程の心地がしやう。
今蛭峰大檢事は、即ち之を偶然の廻り合せでは無いといふのだ、巖窟島伯爵の故意の仕業だと云ふのだ。果して故意の仕業ならば、誰も知るまいと思ふ此祕密を伯爵に知られて居る事も無論である、爾うと聞いて段倉夫人の戰くも無理は無い、聞く夫人よりも話す蛭峰の方が更に顏色を失ふのも當り前と云ふ可きだ、夫人は人間の聲とも思はれぬ程の情無い聲で又問返した「エヽ、其證據とは」
蛭峰は壁に聞かれるをさへ恐れる程の容子で、ズツと夫人の顏に顏を寄せ「夫人、私は此恐ろしさを生涯自分の胸に疉み、自分獨りで苦しむと云ふ覺悟でしたが、今はお氣の毒ながら貴女に話さねば成らぬ事に成りました、話せば貴女の此後に一寸の間も安心と云ふ事の無い樣に成りますが其れでも貴女は聞きますか」眞に情無い場合とは成ツた、夫人は灰の如く顏を白くし「ハイ聞きます、聞きます、聞かせて下さい」蛭峰「では云ひませう、巖窟島伯爵が彼の木の蔭の芝生を掘つたら年經た赤兒の死體が出たと云つたでせう」夫人「ハイ」蛭峰「アノ言葉が嘘ですよ、僞りですよ」夫人「エ、エ、何と、其れでは彼の兒を彼處へ埋めたでは無いのですか」蛭峰「イヤ夫人、埋めた事は彼處へ埋めたのです、全く伯爵が茲と足で踏んだ其の下へ埋めたのです、けれど伯爵が數日前に掘出したと云ふのは跡方も無い事です、數日前は扨て置き。數年前、十數年前に、既に其の死骸は彼の所に無い事に成つて居ました」夫人「では貴方が改葬でもして下さつたのですか」
蛭峰は溜息を吐いた、爾して更に考へた末「サア改葬したのなら、今更 爾までにも驚きませんが、改葬では無いのです、何うか夫人、氣を確にしてお聞き下さい、極の初めから話ますが」とて又々溜息を洩らした末、「彼の赤兒の生れた時、幸ひ貴女のお産は爾う重くも有ませんでしたけれど、其兒が聲も出さねば呼吸もせなんだでせう、其れだから私も貴女も、死體で生れた者と思ひ」是れまでは澱みも無く言ひ來ツたが、忽ち彼は聲さへも咽喉に詰るが如く喘ぎ初めた。
其仔細は分ツて居る、決して赤兒が聲も呼吸も無かツた者では無い、當り前に活々して生れたのを、直に蛭峰が自身で取上げ、自分の手で絶息させたのだ、夫人が後産に苦しんで夢中の状で居る間に、手早く捻り殺して聲も呼吸も出來ぬ事にして、爾して漸く生氣に附いた夫人へは死體で生れたと思はせたのだ、爾無くば彼此所まで話て來て斯うまで言葉の苦しくなる筈は無い、漸く彼は聲を絞り出して「直に有合せた箱へ入れ、私が自分の脇に挾み、裏庭へ降りて行つて埋めたでせう、所が埋め終ツて立たうとするとき、背後に人影が現はれました、其れは兼て私へ復讐を加へる積りで、附狙ツて居たコルシカ人です、ハツと思ふが否や、私は脾腹を刺され人事不肖に爲つて仆れました、暫く經て後生氣に復り、今赤兒を埋めた所を見ると、土は埋め終ツた時の儘に成つて居て、コルシカ人は早立去つた後なんです、何しろ彼は鋭利を以て有名なコルシカ短劍で、爾して幼い時から稽古して居る特有の手練を以て刺した者ですから、其割に出血も少く、私は創口に手を當た儘、何うやら斯うやら身を引摺り、縁側の所まで行つて貴女の名を呼びました、常ならば仲々聞える程の聲では無かツたのですけれど、世間の寢靜まつた夜更と云ひ、殊に貴女が庭から私の戻りの遲いを氣遣ひ、耳を澄して容子を聞いて居て下さツた所ですから、其聲が貴女に聞えたと見え」夫人「ハイ微だけれど聞違へる事の出來ぬ樣に聞えました、何んでも貴方の身に大變な變事が有つたに違ひ無いと、私は重い身體を無理に起し、這ふ樣にして二階を降り、縁側まで行つて見ますと貴方が那の有状ゆゑ驚きましたが、何しろ一刻も捨置かれず、寢込んで居る老僕を起し、貴方の怪我は全く祕密で而も名譽ある決鬪の爲だと言做し、出來ぬながら及ぶだけの手當をして夜の明けぬ中に吊臺に載せ」蛭峰「爾して私の妻の許まで送り屆けて下さツたのですが、妻も勿論決鬪の爲めとしか思はず、若し事を公にして職務に障ツては成らぬと云ふ私の口實を誠と思ひ、其々に介抱の末、二ヶ月を經て私は凡そ元の身體に復り、暫く海濱へ行つて養生しました、其間も絶えず私の心に掛ツたのは何事でせう、埋た赤兒の事ばかりです」夫人「私とても其通りです」蛭峰「誰にも知られぬならば兎も角、確にコルシカ人に知られたに違ひないから、若しも其コルシカ人が私の生返ツた事を知れば、自分の復讐の仕損じを怒り、再び私に讐を初め、私の埋めた者を掘出して利用するに至るかも知れぬと、只其れのみが心配に堪へませんでした[。]其れ故、私は身體が堪へる樣になると直樣、海濱から歸りました、歸つて聞くと貴女は段倉男爵に縁附て居られました、其れは兎も角、何より先に彼の埋めた者を掘出し、更にコルシカ人は勿論何人も知らぬ所へ改葬せねばならぬと思ひ、吹上小路の那の家を指して行きました」
巖窟王 : 一六四 紋の片割
段倉夫人は蹙み附く樣に聞いた「爾して彼の死骸を改葬して下さツたのですか」
蛭峰は思ひ出すさへ心の穩かならぬ容子である、頓には答へもせず、先づ前額の汗を拭いて「サア其處です、私は誰にも心附かれぬ樣に、矢張り夜に入つてから吹上小路へ行きました、勿論 那の家は、貴女が立去ツて後には誰も住んだ人が無かツた故、何も彼も元の儘に存して居ました、私は稍安心して、夜の十時過では有りましたが、兼て用意の鍬を持つて、丁度小兒を埋た所と確に見覺えの有る場所を掘返しました、所が何うでせう、死骸が箱ぐるみ紛失して影も形も留めぬのです」夫人は絶叫した「エ、エ、私の兒の死骸が棺と共に紛失した、では改葬して下ささなんだのですか」蛭峰は遽てゝ夫人を制する樣にし「イヤ爾う驚きなすツては可ません、高い聲を立てぬ樣にして下さい、其れから私は搜しました、若しや自分の思ひ違ひで間違ツた場所を掘つたのでは無いかと、其近邊を廿坪も掘返し、猶ほ翌日に及んでは家の内をまで詮索しました、けれど赤兒の死骸は有りません、全く誰かゞ掘出して盜み去つたのに極つたのです」
夫人は再び驚いた「エ誰かゞ盜み去つたと仰有りますか、其れにしては昨夜伯爵が、箱から死骸が出たと云はれたのは」蛭峰「サア其れが何より怪しい點です、死骸が無いのに死骸が出たと云ふ所を見れば、伯爵は僞りです、僞りだけれど、兎にも角にも私と貴女が赤兒を彼處へ埋めた事を知つて居るのは明白です、其れを知つて居て故と彼の樣な事を云ひ特に二人を苦めたのです」夫人は全く腰を拔かした状である、暫しがほどは何の言葉も出ずに唯だ喘ぐのみで有つたが、良あつて自ら心を落着け「外國から初めて此國へ來た伯爵が其樣な事を知つて居るとは」蛭峰「サア爾すれば伯爵が外國から初めて此國へ來たと云ふさへ怪しいでは有ませんか」夫人「其れは爾です、けれど外國から初めて來たで無いにしても、誰一人知れぬ祕密の那の方が -- 、何うも知つて居る筈が有りません、若しや蛭峰さん貴方の紛失したと思つたのが間違ひで、貴方の堀殘した所に矢張り那の死骸が有つたのでは有りますまいか、其れを全く伯爵が數日前に掘當て其れで昨夜 那の樣な話をしたのでは有りますまいか」
蛭峰は太い息を吐いた「若しも爾う考へる事が出來るなら何も心配は無いのです、成らう事なら私も爾う考へ度い、けれど夫人、茲に一つ、何うしても爾うでない事實が有るのです、其の死骸をば、私が掘るより前に箱ぐるみ掘り出して持ち去つた者が確に有るのです」夫人「其れは」蛭峰「斯うです、私は其時必定彼のコルシカ人が盜み去つたのだと思ひ、爾うすれば近日再び私へ仇を爲す爲、其死骸を何處かへ持ち出すだらう、持ち出せば直に捕へて其證據の湮滅する樣にせねば成らぬと、私は人知れず八方に氣を配り、且は及ぶだけ手を延ばして用心して居ました、丁度此の頃です、私は内閣から招れて書記長官に取立てられる沙汰を得ました、是こそは兼て望む出世の道で、遠からず大臣にも成れる緒口とは思ひましたけれど、折角出世した所で此祕密を持ち出されては堪らぬから、矢張り口實を設けて元の通り檢事の職に据置いて貰ひました、全く私は之が爲大事の出世を取り逃がしたのです、けれど檢事の職にさへ居れば、假や曲者が其死骸を持出して來ても何うか出來ると、唯だ斯う思ふが爲に凡そ一年の間と云ふ者は、夜の目の寢ぬほどに注意しました、所が死骸を持出しては來ぬのです、抑も死骸と云ふ者は、掘り出してから一年置けば證據たる效力を失ひます、私は聊か安心し初めました、又氣が附きました、イヤ彼の赤兒は、私の埋めた時、或は死骸でなかツたのかも知れぬ、死んだと見え猶だ命が存して居たかも知れぬ」夫人「エ、其れでは貴方は私の兒を生埋にしたと仰有りますか」蛭峰「イヤ生埋では有りませんが、死んだと思ツて葬ツた者が、意外に活返るなどといふ事は全くない例しでも有りません、其れで私は思ひました、若やコルシカ人が、私を刺した後で、直にアノ箱を掘出して持つて行き、何處かで開いて見ると中から猶だ息の有る赤兒が出た、と斯うすれば彼は其赤兒を何う取り扱ふだらう、河へでも投込むか、聊か慈悲の心が有れば育兒院の前へでも捨るか、多分此樣な事に違ひないと其れから急に育兒院の方を詮議し初めましたが、漸くに分りました、オーチウルの育兒院の前へ、其同じ夜の一時半頃に赤兒を捨てた者が有ります」斯う聞いては流石兒を思ふ親の情である、段倉夫人は乘出して「オヽ私の兒が育兒院で育ちましたか」蛭峰は、之には答へずに話を續け「其兒は白い切で包んで有ツて、切の端には男爵の位に相當する紋章の附いて居るのを二つに引割き紋が半分だけ殘ツて居て、其下にはHの字が有つた相です」夫人「其のHの字は、私の名の、張子の頭字です、私の手許に有つた風呂敷其他の布切は總て男爵の紋とH・Nの字を附けて有ましたから」蛭峰「兎も角育兒院では其兒を保管して育てゝ居ましたが、六ヶ月の後に或年取つた女が、其布切の半分、即ち紋の片割とNの字の附いたのを持つて來て其れを證據に其兒を引取つた相です」段倉夫人は是まで聞いて殆んど狂氣の状である。
巖窟王 : 一六五 油斷の出來ぬ強敵
産落したまゝ死んだ事とのみ思ひ、廿年來寢覺の惡く感ぜられた我兒が、地の底から掘出されて生返り、育兒院へ入れられて爾して何者にか連去られたと分ツては驚かずには居られぬ、段倉夫人は全く狂氣の状である「エヽ私の兒が、活て居て育兒院から其樣な老婆に連去られたと云ひますか、其老婆は何者です、其兒を何處へ連て行つたでせう、其兒は今活て居ませうか、活て居るなら最う立派な年頃にも成つて居ませうのに」と、疊み掛けて問ふた。
蛭峰「夫人、貴女の胸に在る疑ひは總て私の胸に在る疑ひです、貴女は今初めて知つて初めてお疑ひ成さるけれど私は凡そ廿年一日として其等の疑問に攻められぬ日は無いのです」夫人「では今以て其疑問は解けませんか」蛭峰「ハイ其老婆が何者か、何の爲に其兒を引取つたか、イヤ多分は他日私へ仇を返す爲に違ひ無いと思ひますから、其後は其老婆の行方を探る爲めに殆ど全力を盡しました、けれど私の其事を聞知つたのが既に老婆の去つてから半年も餘の後で有ました爲め、何等の手掛をも得ませんでした、其れでも其老婆が其兒を抱いてシヤロンの方へ行き或宿屋に一泊した事までは分りましたが、其後は少しも分りません、私が檢事の職權を利用してさへ之ですから最早や全く尋ねる道の絶えた者と云ふ外は有りません」夫人は絶望の聲を發した「何にしても貴方は、生きながら私の兒を埋ました、埋る前に能く注意して下されば此樣な事にはならなんだでせうに」
尤も千萬な恨みである、蛭峰「イヤ私は其過ちの爲に出世の機會をさへ取逃がして居るのですから許して戴かねば成りません、其れよりも夫人、差當り巖窟島伯爵が何うして此祕密を知つて居るかを突留るのが大切です、彼の樣な人の手に此祕密を握ツて居るとすれば、何の樣な事になるかも知れません」斯う云はれて見れば、なるほど其兒に就ての疑問よりも巖窟島伯爵に就ての疑問が差迫ツて居る樣にも思はれる、「爾仰有ると、昨夜の晩餐にも、巖窟島伯爵は那れほどの珍味を人に勸めながら自分では、話に紛らせ何一品喰べぬ樣にしてお出でした、若しや客一同を毒害するのでは有るまいかと私は一しきり此樣に思ひました」蛭峰「けれど毒害の目的で無かつた事は我々が此通り少しも健康を損ぜぬので分ツて居ますが、扨て分らぬは、何うして伯爵が那の庭に赤兒の死骸の有つた事を知つて居たのかの一條です、私から洩れたで無いは無論ですが若や貴女の方からでも」夫人「何で私から洩れませう」蛭峰「貴女は誰にも那の事を、覺とられる樣な言葉を吐た事は有りませんか」夫人「決して、決して有りません」蛭峰は考へて「若や貴女は日記帳でも書いては居なされませんか」夫人「私は自分の身が恥かしい程ですから、有つた事でも早く忘れて了ひ度いと思ひます、何で日記などを附けますものか、其れこそ若い頃から手帳一册持つた事も無いのは私でせう」
蛭峰は又考へて「併し祕密と云ふ者は何の樣な事から洩れて出るか殆ど想像にも餘る程の者です、何うかすると寢言から洩れる事さへ有ます、貴女は若や寢言をいふ癖でもお有りでは有りませんか」夫人は躊躇もせず「寢言をいふ所か夢も見ません、私が宛で子供の樣に熟睡する事は、貴方が覺えてお出でせう」と云つたが、流石に恥かしい所が有ると見え、言葉と共に顏を紅めた、蛭峰は「爾でした」と答へたけれど之も心の咎める樣な小聲であツた。
暫くして彼は又いふた「貴女からでも無く私からでも無いとすれば、伯爵は彼の赤兒を掘出して行つたコルシカ人の方から此祕密を聞いた者と思ふ一方です、爾すれば伯爵が何者であるかといふ事が益々疑はしい、縱しや其祕密を聞いたにしても故々其家まで買取つて、吾々を其處へ招き、爾して暗に吾々を窘める樣に、其祕密を仄めかすのが、決して故無い事では有ますまい」夫人も合點のいつた樣に「なるほど、只の廻り合せと思つたのは私の間違ひでしたかねえ」蛭峰「ハイ只の廻り合せでは無いのですから、其れで私が今特に貴女へ此密會を願つたのです、夫人、何うか此後は伯爵を、疑はしい人だと思ツて氣をお附け下さい、斯う思つて氣を附ければ那の人のする事は疑ふ可き廉ばかりです、此後とも何か看破る事が出來るかも知れません」伯爵は又と無い人の樣に思つて居た夫人の夢は醒めた「ハイ心得ました」蛭峰「私も今から彼が何者かといふ事を詮索に取り掛ります、ナニ彼何の樣に素性身分を曖昧に仕て居たとて、私が調べれば分らぬといふ事は有りません」殆ど奮然として言ひ切つた、若し此時の蛭峰の顏を伯爵に見せたならば、伯爵とても全く油斷の出來ぬ強敵が現はれたと思ふだらう。
巖窟王 : 一六六 警視總監から
蛭峰が巖窟島伯爵の身分を疑ふことに成つたとは、伯爵に取つて容易ならぬ次第では有るまいか、定めし彼蛭峰は熱心に伯爵の本性を詮索するに違ひない。
けれど伯爵も、數年の辛苦を以て、工風に工風を重ね、準備に準備を盡して、只の一歩たりとも踏損じのない樣に大事に取つて掛ツて居る仕事だから、蛭峰の一囘や二囘の詮索に脆く敗北する筈もなからう。
既に蛭峰が段倉夫人と密會した其日の夕刻である、伯爵は家令 春田路を呼び「未だ彼は歸ツて來ぬか」と聞いた、彼とは誰の事か知らぬけれど春田路は合點して居る「ハイ唯今歸りました、今朝から司法省の門前を嚴重に見張つて居ました所、大檢事は朝の九時半に出勤しました」伯爵「すると間もなく濃い覆面に顏を隱した婦人が -- 」春田路は此推量の當つたに驚いた容子で「ハイ其通りです、十時頃に司法省の門を入り、大檢事の官房を尋ねて行きました」伯爵「爾して其面會は」春田路「凡そ一時間半ほど續いたと申します」伯爵「フム一時間半ほどか、仲々話が長かツたと見える、其れから」春田路「其れから婦人は司法省を出てメリン街まで歩み其處から辻馬車に乘り、蛭峰氏の私邸へ行き」伯爵「フム所天と密會して置いて、其妻に疑はれぬ爲め歸途に妻の許を訪問したのか、餘程其樣な事に慣れて居るな」春田路「茲でも一時間ほどを經て、今度は徒歩の儘で段倉家へ行つたといひます」伯爵「行つたのではない歸つたのだ、シテ大檢事の方は」春田路「午後の二時頃に退出して警視廳へ立ち寄り、一時間ほど經て私邸へ歸りました」伯爵は別に驚く容子もない、唯だ呟いた「分ツた分ツた警視廳を便りにするならば猶組し易い」
斯ういつて春田路を退けた後で又獨り考へて居たが、此所へ丁度野西武之助が尋ねて來た、彼は母と共に伯爵の彼の土曜日の晩餐會を避けて海濱へ保養に行つたのだ、今は晩餐が終ツたから歸つて來たのだ、彼が第一の言葉は「伯爵、四日の間海濱で母と二人が貴方の噂ばかりして居ました」と云ふので有つた、武之助の母の事は伯爵が心を動かさずには聞き得ぬ所である、殊に自分が其人の口に噂されたと聞いては何うやら顏の色まで變る樣に見えた、けれど勉めて何氣無く粧ひ「爾でしたか」と輕く云つて、更に二言三言海濱の景色などを聞いたが、武之助は取急ぐ容子で「伯爵、私は家へも寄らずに直に此方へ參ツたのです、實は母が一夕宴會を開いて貴方をお招き申したいと云ひ、其日限までも私と二人で取極めましたから、其れを貴方へお知らせ申す爲に」伯爵は聊か當惑の色が見えた、武之助「今度こそはお斷りには成りますまい、若しも差支へが有るとでも仰有れば、確に貴方は私の母をお避けなさるのです」伯爵「何で貴方の母御を避けます者か、世間一般から貴婦人の鑑とも云ふ程に敬はれて居る方ですもの、併し -- 」武之助「ソレ其 併しが餘計では有りませんか」伯爵「併し何の樣な方々をお招きです」武之助「巴里中の名高い人を五六十人招きます、段倉男や蛭峰氏を初めとして」蛭峰の名は伯爵の躊躇を掻消した、彼に逢ふ機會とさへ有らば決して取逃してはならぬ[、] 伯爵「參りませう、日は何時です」武之助「貴方の土曜日の晩餐會に因み、矢張り土曜日と極めました、來る第三の土曜日です」伯爵は手帳を出して直に其日を書とめた。
伯爵は蛭峰を狙ふ樣に蛭峰も無論油斷なく伯爵を狙つて居る、此翌日である、蛭峰の手許へ警視總監から左の報告が屆いた。
「巖窟島伯爵と稱する人の巴里に來りし以前の事を知れる人は絶えて無し、唯だ目下此國に來遊中と聞く英國の柳田卿は數年前より彼を知れりと察せらる、又何事かに於て彼と競爭し彼と互に敵意を抱けるに似たり、外に一人シヽリー島の有名なる老僧暮内法師は折折彼の邸へ出入せりと聞く、此人も目下多分巴里に滯在せるならん、此兩人の宿所は取調べ中なり」
是れに引續き、今度は兩人の宿所や日頃の動作などを詳しく記した第二の報告書が屆いた、すると間も無く蛭峰の邸から一人の特務巡査が出てサルピス街なる暮内法師の寓を指して行つた。
巖窟王 : 一六七 特務巡査
蛭峰の家から出た此の特務巡査の尋ねて行く暮内法師とは抑も何者であらう。
凡そ十年ほども前からサルピス街に極小さい一件の家を借り、之を清淨な僧庵の樣に造作して、一人の番人に守らせて置いて、一年に二度三度づつ、伊國から茲に來て、短きは一二週間、長い時は四五十日も逗留して去る法師が有る、是が暮内法師なのだ、在庵の時は餘念も無く讀經に身を委ね、外へ出る時は或は貧民を尋ねて惠みを施し或は臨終の病者を慰めて往生の安樂を得させるなど、慈悲善根をのみ積んで居るので、今は上流の歸向をさへ得て歴々の家へ招かれて行く事も多い。
特務巡査が此家を訪づれたは夜の八時頃であツた、一度は面會を拒絶せられたけれど逹て番人を説き附け、一通の手紙を取次がせた、是は警視總監から法師へ宛た者である、多分は手紙の力だらう、特務は間も無く法師の室に通される事になツた。
法師は餘り明るくない硝燈の下で、毎も通り經文を開いて居たが、特務の席に就くと見るが否や、急に明りを掻立てゝ、火屋に被せてある黒い傘を引上げ、特務の顏にパツと光の射す樣にした、特務は遽てゝ「イヤ法師、私は、此頃眼病の爲め強い光を嫌ひます、何うか硝燈は元の儘に」といひつゝ、青い眼鏡を取出して目を隱した、法師は其請ひに應じ、再び硝燈を暗くしつゝ「警視總監のお手紙では何かお取調べの爲と有りますが、探偵の方が眼病では嘸御不自由でせう」聊か冷かす樣な語氣を帶びて居るけれど爾とも氣附かぬ「イヤ私は、目を以てする樣な低い探偵ではなく、多く耳を以てする地位ですから別に不自由も有りません、今夕の用向も其通りで、實は巖窟島伯爵といふ方の素性を伺ひ度いのです、豫て貴方が御知り合の事と、種々の方面から分つて居ますので」法師「ハイ私は彼の父と懇意にしました爲め幼い頃から彼を知つて居ますが」幼い頃からとの一語は一方ならず此の特務を滿足させた。
是より特務の問ひ出す言葉に對し法師の一々答へた所を擧ぐれば、巖窟島伯爵は地中海なるマルタ崎の造船者左近といふ者の息子なる事、十八九の時より航海に身を委ね、印度に行きて鑛山を發見し、大いなる身代を作りたる事、其後は矢張り東方に在りて慈善と道樂とに身を委ね、多く東方諸國の國王に愛せられて數多の勳章を持てる事、爾して其後 伊國にて貴族の株を買ひ伯爵と爲り、又其領地として地中海中の巖ばかりなるモンテ、クリスト島を手に入れ自ら巖窟島伯爵と稱するに至ツた事などで有つた、特務は最後に問ふた「シタが此頃、彼の伯爵がオーチウルの吹上小路へ別莊を買つたのは何の爲でせう」法師は此問を待受て居たらしい「其れは直々伯爵にお問ひ成さる外は有りますまい、私では唯だ斯うではないかといふ自分の推量を申上げるに止まります」特務「イヤ推量でも宜しい伺ひませう」法師「實は數年前に、私が伯爵に向ひ、彿國には狂人が多いから完全な瘋癲院を建てたなら大なる功徳だらうといつた事が有ります、其時伯爵は、彿國の何處へと聞きましたゆゑ、巴里の市外なら何處でも宣い、取分けてオーチウル邊が適當だらうと答へました、或は此問答を覺えて居て彼の買つた所では有るまいかと思ひます」特務「では瘋癲院を建る爲だらうとお思ひですね」法師「ハイ私は爾う推量します」餘り當に成つた返事では無い、特務は肝腎の所で要領を得ぬのが如何にも殘念らしい容子である「貴方の外に誰か伯爵の事を能く知つた人は有りませんか」法師は充分考へて「何うも思ひ當りません」特務「英國の旅行家柳田卿とやらが伯爵と懇意な樣に聞ますが」法師「何うですか、先年伯爵が柳田卿と喧嘩の末決鬪した事は聞いて居ますが懇意に交ツて居るか否は知りません」特務は却て喜んだ、決鬪もする程の敵ならば必ず大に伯爵の暗所を探り知つて居るだらうと、爾して此法師には別れを告げた。
法師は特務を門口まで送つた後で、室に歸ツて微笑みつつ呟いた「太陽の光を恐れて夜中に來て、又も硝燈の光を恐れて眼鏡を掛ると云ふ樣では蛭峰先生、未だ姿を變へる初歩も知らぬ、此暮内などは暮内と見られるのに十餘年も苦勞したのだ」
巖窟王 : 一六八 僞りの動物
若し俳優が舞臺の上で早變りをする樣に、尋常の人が自由自在に姿を變へ忽ち老人と爲り又忽ち小兒と爲る樣な事が出來たら、嘸人を欺くに便利な事だらう、人を欺くのみでない、萬事の掛引に總て都合が好いだらう。
其らから孰れの國 孰れの時代にも、多少は此姿を變るといふ事が行はれる、假鬘も有れば附髭も有り、顏を彩る紅白粉も有れば眼を隱す目鏡も顏を隱す覆面も有る、いはゞ總ての動物の中で人間だけが最も姿を變るに都合の好い樣な境遇や習慣を持つて居るので、是れが若し牛馬や犬猫ならば常始終裸體で居て身體の全部を露出して通るのだから到底充分に姿を變る手段は無い、是に就けても人間は僞りの動物である、同類同胞を欺す事ばかり考へて居る、其中にも此の、姿を變ると云ふ技術が最も進歩して居るは彿國で、又其彿國でも最も其技術の盛に行はれたのは丁度巖窟島伯爵の住んで居た頃である、一千八百年代の上半期である、其頃の彿國は陰謀の時代と云はれ、顏を隱した宴會さへも行はれた、貴婦人でも淑女でも姿を變ると云ふ術を多少は稽古せぬ者は無く、況して男子に至ツては父子親戚の間にさへ姿を變へ欺き合つた話も多い、此樣な場合だから取分けて巖窟島伯爵の如き、大の祕密を持つて大の陰謀を抱いて居る人は大に其術を研究し學習したに違ひ無い、又實際姿を變る爲に用ふる材料の製作も餘ほど行屆いて居た、大檢事蛭峰さへも自分で特務巡査に化ける樣な事をした、凡そ是等の事に就ては數多の考證が存して居るけれど茲に詳しく記すには及ぶまい。
特務巡査として暮内法師に逢つたけれど蛭峰は充分滿足する程の結果を得なんだ、巖窟島伯爵が左近と云ふ造船者の息子としても、何故オーチウルの彼の別莊を買つたり、何うして其庭に曾て私生兒の埋められた事を知つて居るか、又何故に其れを蛭峰と段倉夫人へ思ひ出させる樣な狂言を演じたのか、少しも分らぬ、何でも何等の因縁で此身を恨む者には違ひ無いと思ふけれどマルタの造船者や其息子などに恨まれる覺えは毛ほども無い。
されば蛭峰の不安心は暮内法師に逢つて後も、逢はぬ以前に少しも變らぬ、イヤ逢はぬ以前より去つ[注:却ての誤りか?]て怪しさが深く成つたと云つても好い。最早斯うなれば自分が職を奉じて以來今までの履歴を、悉く取調べ、凡そ自分を恨み相な人の名前だけ書拔いて、其中で彼れか是れかと取調べる外は無い、爾だ、爾すれば或は思ひ當る事が出て來るかも知れぬ、斯う思ふて彼は此翌日より古い書類を取調べに掛ツた、勿論官に就て以來卅幾年の間、多い日は五件にも十件にも關係し幾人幾十人の密告者、被嫌疑者、罪人、未決人に接したのだから、其書類だけでも容易の嵩では無い、文庫からも出れば箪笥からも出る、長持にも葛籠にもといふ状だ、唯だ取揃へる丈にも時日が掛る、仲々何時調べ終ると云ふ豫定は出來ぬ。
併し此取調べが、巖窟島伯爵に取つて何よりも恐ろしい、暮内法師に逢ふとか、柳田卿を訪ふとか云ふ樣な事は蛭峰が勉めれば勉めるだけ益々伯爵の術中に陷るのだから、伯爵は却つて之を喜び、蛭峰の愚を嘲る種にして居るけれど、蛭峰自身が自分の越方を取調るに至つては、伯爵の力で何と之を妨げる事も出來ぬ、猶ほ是のみで無い、蛭峰は自分で越方を取調べる外に、嚴重に警視總監に頼んで、伯爵の越方を、伊國、希臘邊へまで問合させる事にした、眞に伯爵が、重なる恨みを蛭峰に復したいと爲らば、餘ほど急がねば成らぬ。グズ〳〵して居ては先を越される、併し伯爵の仕事は、成る可く人の疑ひを引かぬ樣に、自然の成行に任せて、其都度に其成行を利用しやうと云ふ工風も多いのだから、綱附けて引く樣には運び難い。
丁度蛭峰が右等の書類を大方取揃へ得た日の晩方である、是から其順序を附け、次に取調に着手しやうと、大體の方略を定めて居る所へ、柳田卿からの返辭が來た、是か兼て警視總監の名を以て、一名の特務巡査に面謁を與へて呉れと、卿の寓居へ申込んで有つたに對し、卿から總監へ返辭したのを總監から蛭峰へ廻して來たのだ、夜の十時と云へば太陽の光を恐れる蛭峰には最も好い時刻だ、彼は直に鏡に向つて自分の姿を變へるに着手し、二三時間も經て漸く思ふ通りの特務巡査には化果せた、爾して柳田卿の宿を指して家を出た。
巖窟王 : 一六九 其記念が鮮かです
果して蛭峰は伯爵の素性を見破る事に成るのだらうか、若し見破つて此人が實は昔の團友太郎で有ると知れば、其れこそ伯爵の身に取つて、伯爵の計畫に取つて、由々しき大事である、蛭峰が丁度伯爵に匹敵するほどの恐る可き男である事は今までの閲歴にも分つて居る、一旦斯うと思ひ詰ては、何の樣な事を仕てゞも通さずには置かぬ、何れほど陰險奸惡な手段でも決して施すに躊躇はせぬ、之を思ふと伯爵も誠に厄介な敵を持つた者だ、此男に讐を復さうなどと危險な大望を思ひ立つたものだ。
蛭峰自身は最う確信して居る、何うしても伯爵は此身に深い恨みを懷く人に違ひ無いと、爾うして又其素性も遠からず分るに違ひ無いと。
其分る手段の第一は警視廳に探偵せしめる事だ、第二は自分で探偵するに在る、第三は今までの自分の扱つた事件の書類を悉く取調べる事だ、此手段をば、孰れを重く孰れを輕しともせず彼は一樣平均に力を盡して居る、併し其實伯爵の身に取つて最も恐る可きは第三の手段に在るのだ、蛭峰は自分の履歴を繰返して古い書類を調れば、團友太郎と云ふ名は餘り遠くも無い中に出て來る筈だ。
實際彼は書類を大方取揃へて了つた、愈是から調べると云ふ一段に成つて、丁度柳田卿と云ふに面會する道が開けたから、書類は其まゝ疊んで置いて、自分が又も警視廳の特務巡査に化け、サン、ジョルヂュのホンテン街五番地と分つた卿の寓居へ、夜の十時頃に尋ねて行つた。
抑も此卿は何者だらう、今までに既に讀者の見た通り其名前は船乘新八や暮内法師などの名と共に屡伯爵の口から出て伯爵に利用されて居る、實際英國の貴族名鑑には幾等も有る名前だ、柳田一家は其の一族が幾個にも分れて居る、政治家も有れば商業家も有り地主もあり、中には印度に渡つたのも、豪州へ移住したのも、旅行家も竒癖家も澤山ある、其中の何れだかは知らぬけれど、此柳田卿は十年ほど前から毎も贅澤な遊山船に乘つて、彿國の港などへは度々來る、爾うして件のホンテン街五番地を假寓として買入れたのは七八年も前の事で、其後は巴里へ來る度に大抵は茲へ立寄る容子である、今蛭峰が警視廳の報告に由つて知つて居る所で見ると、此卿は非常に傲慢な我儘な人で、殊に英國の貴族に特別な大の國自慢である、英國の事と云へば理を否に曲げても辯護して彿國の事柄は憎むことが甚だしい、其一例を擧ぐれば、人に對して決して彿蘭西語の言葉を使はぬ、此言葉を使ふと唾が粘ツて口が臭くなると罵ツて居るけれど、其實此言葉を知らねば不自由だから來る毎に内々で教師を雇ひ稽古をして居るのみならず人が彿蘭西語で惡口でも云ふと直に其意味を合點して事に託して決鬪を吹掛ると云ふ事である、仲々危險な相手だから蛭峰はブル犬にでも近づく樣に充分用心して其家の戸を叩いた。
直に應接室へ通されたが、室一面に硝燈の光りが殆ど晝の樣に輝いて居る、彼は又も目が惡いと云ふ口實で、硝燈の心を小さくして貰つた、爾して例の青い目鏡を取出して居る所へ、通常の人よりは聊か背の高く見える主人の卿が、英國風に反返ツて入ツて來た、服が悉く金釦である所など愈々以て英國流だ、卿は先づ室中を見廻して眉を顰め「イヤ此室の暗い事は、エヽ彿國の給使は主人の油をまで儉約するから其れだから氣に喰はぬ」と勿論英語で傍若無人に呟いた、蛭峰も英語で「イヤ是は、私の目の性の惡い爲め特に暗くして戴いたのです」と云ひつゝ目鏡を掛けて了ツた、自分で姿を變るのが旨く無いと知つて居ると是だけの弱味が有る、卿は嘲る樣に「オヽ爾でしたか夫は失禮、ナニ英人の眼には其樣な眼病などは無い者ですから」と自慢八分に言譯して更に「何の御用か知りませんが、此室で彿國語を使ふのは始めからお斷り申して置きますよ」
其發音は英人の外は決して口に出ぬ口調である蛭峰「致し方が有りません、不束ながら英語で申しませう」卿は大に滿足の樣子で「イヤ貴方は關心に英語が巧だ、全く我々英人の口調です、是ならば私も何事をでも隔て無く申しませう」蛭峰「ハイ有難う存じます、實は今夕伺ひましたのは、兼てお知り合と聞く巖窟島伯爵の事を聞き度いと思ひまして」卿は又眉を顰めた「エヽ巖窟島伯爵の事 -- イヤ其では御免蒙ります、私は彼奴と、イヤ彼の伯爵と始終の敵ですから私の云ふ事は決して公平で有りません」蛭峰は却て感心した、大抵の人ならば、自分の敵の事だから、警視廳より聞かれては得たり畏しと惡し樣に言立てる所だのに、流石は卑怯な事を嫌ふ英國の貴族である「イヽエ貴方が御自分で公平で無いとお氣附ならば却て其れだけ公平に成る譯ですから、恭しく聞取ります」卿は仲々快活である「でも私と彼との間は、公平に感ずる事の出來ぬ仕宜に成つて居るのです、既往七年間の間に三度決鬪した程ですもの」三度の決鬪とは暮内法師も噂した、蛭峰「何う云ふ譯で爾う度々決鬪を」卿「ハイ彼が英國に居る時に私の親友の妻に無禮を加へたが起りです」親友の妻と云ふは實は自分の妻だらう爾も無くば爾う執念深く三度まで鬪ひはせぬと蛭峰は悧巧げに察して「シテ其結果は」卿「最初の一囘は彼が勝ちまして私の胸へ窓を開けました、次のは矢張り同じ事ですが私が負まして肩先を斬られたのです、三度目のは、一昨年の事で其記念が猶だ鮮かです、此れ此通りだ」と云ひ、袖口を捲くり上げて左の手の腕を示した、腕には薄暗い燈火にも歴々と赤い傷の跡が殘つてゐる蛭峰「オヽ是は大變なお怪我ですねえ」卿「ハイ三度とも負かされて默つて居られませうか、近々四度目の決鬪を言込む積です、今日も私はグリセル先生の道場で三時間稽古して來ました、今度こそ彼に十々滅を刺して呉れます」蛭峰は眞實に腹の中で此人が十々滅を刺す事を祈つた、「御尤もです」卿「所が彼、實に卑怯では有りませんか、私が頻りに撃劍の稽古して居るのを聞き、今度は叶はぬと臆したと見え、オーチウルの隅の方へ別莊を買ひ、此頃では其中へ潛んで居る容子です」成ほど此人は我儘と臆斷とに過ぎて事の皮相より知る事は出來ぬのかと、蛭峰は聊か失望の想ひをしたが併し此樣な氣質ならば、知つて居る丈は少しも包まずに云ふだらうと又自分で取直した。
巖窟王 : 一七〇 肝腎の記憶の筋
是より蛭峰の問出す言葉に柳田卿は最と無遠慮に答へ初めたが、其答へは總て皮相の事のみで有ツた、併し大體に於て暮内法師の言葉と大して違ひはなかつた。
巖窟島伯爵がマルタ港の造船者の子であるから、船に乘つて多く東方の諸國を歴巡り、後に鑛山を發見した事なども同じである、唯だ法師の方は其鑛山が何處かと云ふ事を知らなんだが柳田卿の方が明かに其れを指した、希臘のセサリーに在る金鑛で、伯爵が其國王に何か忠勤を盡した爲め襃美の意味で其採掘を許されたのだとの事である、成るほどセサリーに意外の金脈が見附かツたと云ふ事は幾年前に蛭峰も聞及んだ所である、最後に蛭峰は卿と伯爵と何うして知り合に成つたと聞いたら、其れは卿が印度で英國の兵の一部を指揮して居る頃、其軍隊へ伯爵が品物を賣込む許可を願出た爲であるとて、其頃の伯爵が唯だ單に一個の冐險者で有つた状などを誹謗しつゝ語り、更に轉じて其後英國で逢つた事、又其れより後屡卿の遊山船と伯爵の遊山船と地中海などで逢ふ事が有るのに、其度毎に伯爵のが無禮に卿のを追拔いて行く事などを語り、最と悔しげに、「ナアニ私は造船者の息子では有ませんから、何うせ船の水滑りの好い樣に造る事は船大工の息子には叶ひませんワ」と嘲ツた、此容子で見ると兎に角作り話しでは無い、と蛭峰は思ツた。
併し是だけの所で、別に參考になる樣な節は無い、と云つて此上に聞き出す事も無いから蛭峰が別れを告げやうとすると、卿は更に誇る樣に「此樣な譯ですから私は常に彼の身を隱し目附を附けて有ります、彼がオーチウルの別莊を買つた事なども誰よりも先に知り、其公證人の名まで知つて居ます、何しろ彼は山師ですから何時法律に觸れる樣な事をするかも知れません、其時には直に警視廳へ知らせて上げます」と非常な乘氣を示して云ふた、蛭峰は兎も角も計らぬ手助けを得たと云ふ樣な思ひで「ハイ何うか其節は警視總監宛で親展書を認めてお出し下さい」卿「其代り何うか貴方の方でも何か彼の事に付き、私へ知らせて差支の無い樣な事が有れば其都度茲へ來てお知らせ下さい」蛭峰は口先ばかりの積りで無く「ハイ自分で來るか或は親展書でお知らせ申しませう」是れで別れたのは早夜の十一時過であツた。
勿論此長い面會の間に柳田卿は一言も彿國語を用ひなんだが、若し用ひたならば或は其言葉の癖に巖窟島伯爵と能く似て居ると蛭峰に思はれる所が有ツたかも知れぬ。
夜更けて家に歸つたけれど、蛭峰は寐もせずに朝まで彼の澤山の書類を調べて居た、翌朝も出勤の時刻まで書齋を出なんだ、出勤して後は毎もの樣に公務を執り、終つて警視總監の邸へ立寄つた、爾して午後の五時頃に家に歸つた、歸ると又書齋に閉ぢ籠つた。
斯うまで彼が綿密に且熱心に過越方を調べて居るとは巖窟島伯爵の知らぬで有らう、此日は丁度子爵野西次郎の邸に彼の伯爵の土曜日の晩餐會に因んだ夜宴を催さるゝ當日である、無論蛭峰は妻と共に案内を受けて居る、けれど彼は其事を忘れた容子で、夜に入つても猶取調べて居る、其進み方も仲々早い、今は早順を附けて積重ねた書類の中から、人の名を書拔いて居る、其れも既に罫紙へ廿枚ほどは書いて了つたが、餘り根を詰めた爲、少しは氣が屈したのか、靜かに机から頭を上げて獨語した「アヽ最う少しで、己が檢事補で有つた時代だけが終る。次は檢事の時代へ移るのだ」と云つて、今寫した最後の名前を見た、其れは「團友太郎」と書いて有る、丁度此處へ彼の妻が靜かに入つて來た「オヤ貴方は未だお調べ物ですか、最う徐々お仕度を成されねば、遲れますが -- 」彼は合點の行かぬ樣に「遲れるとは何か」妻「アレ子爵野西家の宴會を貴方はお忘れですか」蛭峰「オヽ爾だツた、けれど私は調べ物の爲今夜は行かれぬ」妻「行くと返辭を送つて有りますのに、其に巖窟島伯爵も必ずお出でせうから、先夜の晩餐會のお禮も貴方から云つて戴かねば」彼は「オヽ巖窟島伯爵か」と云つて猶も紙の上の名前を眺めつゝ「急に頭痛がするから來られぬ事に成つたと、何うか和女が獨り行つて、然る可く斷ツて呉れ、最う少しで調物が一段落着く所だから手が離されぬ、今氣を拔くと肝腎の記憶の筋が途切れるから」到頭妻一人で野西家の宴會には行く事に成ツた。
巖窟王 : 一七一 死、生、疑
蛭峰の妻は終に夫の言葉に從つて此室を去つた、蛭峰は其去つたか去らぬかには氣に附かぬ容子である、彼は唯だ自分の寫し掛けた其罫紙を見詰めて居る、罫紙の表面には、多くの名が有ツて其一番終りには「團友太郎」と有る。
彼の眼は切に此「團友太郎」の名に注いで居る、けれども特別の意味が有つて之に注ぐ譯では無い、唯だ寫して來た最終の名である爲めに注ぐのだ、彼は暫らくして呟いた、「己が大檢事に成つて後に取扱ツた分は、比較的に新しいから、未だ其中の人が己に忘れられて居るだらうと安心して、己の傍へ近寄る筈は無い、縱や近寄ツても己の方で思ひ出す、然るに彼の巖窟島伯爵に至つては何うも何も思ひ出されぬ、何だか昔見た事の有る顏の樣にも思ツたけれど、心に浮ばぬ、是で見ると大分昔に違ひ無い、果して己が取扱ツた罪人の内だとすれば、何うも大檢事時代では無い、其前の檢事時代か、或は未だ前の檢事補時代、爾さ今朝から斯う書拔いた此中に在るかも知れぬ、或は更に近く此ページの内に無いとも限らぬテ」言葉と共に又も「團友太郎」の邊を眺めた。
危い哉 岌々乎たりとは此時の巖窟島伯爵の運命である、誰れも爾う危いとは氣が附かぬけれども茲で若し蛭峰の心機が唯だ一轉すれば、イヤ一轉せずとも纔に微動して、團友太郎の昔の顏をでも思ひ出したなら、其が巖窟島伯爵の最後であるかも知れぬ、併し、併し、能く考へて見ると爾う容易に考へ出す筈が無いかも知れぬ、其れとも有るかも知れぬ、何しろ何百と書列ねた名の中だから今は特に團友太郎の事をのみ思ひ出すと云ふ端緒が出て來ぬ、然り、今は出て來ぬけれど後には出て來るかも知れぬ、其れに又此蛭峰と團友太郎との間柄を考へて見るのに、友太郎の方から云へば實に終天の恨を釀しても猶足らぬ程の苦しみを受けて居るけれど、之を蛭峰の方から云ふと、彼が友太郎の顏を見たのは、廿年より先の以前で而も唯一日である、時間にすれば一時間に足るか足らずだ、自分の檢事補の室へ被告人として連れて入り簡單に取調べたのみである、假ひ其取調べ方が他の取調べ方と違ツて居たにせよ、又其取調べには空前絶後とも云ふ可き一種の事情が因縁て居たのもせよ、其被告の顏を今でも覺えて居ぬのは尤もである、唯だ其事件は生涯忘れられぬ事情が有つて今でも時々彼の心へ浮んで來るかも知れぬけれど、其れが爲に友太郎の顏をまで猶だ覺えて居ると云へば其れこそ却て怪しむ可きである。
彼は又呟いた「イヤ唯だ此樣に名を書く丈けでは可けぬ、名の上へ何か印を附けて區別せねば、爾だ明かに死んだ奴は再び現はれて來る筈が無いから用事は無い、死んだ奴には名の上へ「死」の字を附け、活て居る者には「生」の記しを加へて置かう、併し死んだと思つても其實活て居る奴も有る、此樣な奴が最も怪しいテ、フム此樣な奴には「疑」の字を附ければ好い、譬ば死んだと爲つて居るけれど何處で死んだのか分らぬとか、或所は分ツて居るが其死骸が分らぬとか、爾うだ何の樣な事で其樣な奴が逃れて居るかも知れぬ」
仲々彼の思想は綿密である、斯う綿密に部を分けて調べて行けば何だか意外に早く分り相にも思はれる、併も彼の思想は茲に至ツて又 一入綿密に成つた「待てよ巖窟島伯爵の年齡は幾歳だ、一寸と見れば卅四五にしか見えぬが、暮内法師や柳田卿の云つた履歴や其今の事どもから考へて見ると四十位だらう、五十には決して成らぬ、爾すると己より年下の奴を調べれば好い、假に四十とすれば、さうだ己が檢事補の頃調べたのなら十八九の少年で有ツたのだ、此割合で此名前の人逹の年齡を區別するが肝腎だ、宜しい、早く檢事補時代だけを寫し終ツて「生」「死」「疑」の三つの印と其年齡とを分けて見やう、ナアニ彼奴が何の樣に隱したとて分らぬ筈が有る者か、之が分らぬ程なら己は蛭峰とは云はれぬ、大檢事とは云はれぬ」
驚く可き程の自信である、實にや自信の強き者は必ず目的を遂げ果せると云ふが、其言葉が事實と爲るのは何時だらう、果して今夜の中だらうか、或は明朝だらうか、兎も角も彼は此決心に從ツて又殘る部分を寫し初めた、凡そ二時間の後には早檢事補時代の分を寫し終り、爾して彼の三つの印と年齡とをば初めの方から區別を附けに掛ツた、けれど今夜の中には其仕事が出來上らぬ運命に極つて居たと見え、夜の十一時に成つて何うしても此仕事から手を離さねば成らぬ樣な一椿事が湧いて起ツた、其椿事は後に廻す。
* * * * * * *
併し、此蛭峰より外に、蛭峰にも劣らぬほど切に伯爵の素性を氣にして居る者が一人ある、或は伯爵に取つては其の方が一入恐る可きかも知れぬ、其方が蛭峰よりも先に伯爵の素性を見破るかも知れぬ、或は既に見破ツて居るかも知れぬ、其れを誰かと云へば武之助の母なのだ、野西伯爵夫人露子なのだ、昔は西國村のお露と云はれた、見る影も無い漁師の娘であツた、爾して團友太郎の許嫁であツた、此露子夫人が初めて巖窟島伯爵の逢つた時の尋常ならぬ容子は既に記した通りである、其後も伯爵の事をのみ氣にして居る事も讀者の知る所であらう、今夜催した夜會とても、多くの貴紳を招いたけれど、其眞の目的は或は最一度巖窟島伯爵を招いて詳しく容子を見て取りたいと云ふに在るのでは無からうか、何うも前後の事情が其樣にも思はれる、けれど伯爵は爾とも思はぬ、約束の刻限に其 邸を指して行つた、或は最早伯爵が眞の素性を見破られる樣な時節が到來して居るのでは有るまいか、何しろ伯爵の樣に名高くなれば、其名高さの増すと共に、右からも左からも其素性を怪しむ人が増して來る樣な事が有りはしまいか、誠に疑へば限りも無いが其疑ひは讀むに從ひ、自然に何方にか分ツて行かう。
巖窟王 : 一七二 廿餘年前の彼は
露子夫人を會主とする子爵野西家の宴會に招かれた人逹が非常の名譽と心得て我先に推掛けた所である、巖窟島伯爵が之に臨んだのは、遲くも無かツたけれど早客の來揃ふた後であツた。
若し伯爵の知つて居る丈け此家の主人野西次郎の素性が一般に知られてをるなら、誰も此宴會に爾う急いでは行かぬであらう、廿餘年前の彼は漁師村の若者で有つた、肴賣であツた、戀の爲には人を密訴密告する樣な卑劣な男であツた、今は其れが子爵と云ふ榮譽の上に陸軍の中將である、殊に希臘の戰爭から歸つて以來大金持の一人にさへ數へられる、實に三拍子揃つた勢力家であるのだ、誠に變れば變る者と伯爵は多少の感慨を催しつゝ其家には入つたが、見れば自分が第一に逢ひ度いと目指して來た蛭峰大檢事の姿が見えぬ、彼とても我身の擧動には目を離さぬ程にする筈だのに、今夜來ぬのは、何か深い仔細が有る爲では無からうかと、流石寸刻の油斷も無い鋭敏な心に早や不審の念を起し、直に一方の窓下に居る蛭峰夫人の許に行き「今夜蛭峰氏は如何成されました」と問ふた、夫人は頭痛の爲と云ふ樣に命ぜられては來たけれど、夫の勉強を誇り度くも有る「貴方だから申しますが、廿餘年前初めて職に就た時からの書類を集めて綿密に取調べて居りますよ、何でも世間を驚かせる樣な大事件が初まり掛けて居るだらうと思ひます、愈其事件が法定へ現はれる事にも成れば第一に貴方へ、私から傍聽劵をお送り申します」伯爵は唯默禮して茲を去つた、蛭峰が何の爲に廿餘年前からの書類を調るか大抵は見當が附いた樣だ。
其れが爲だか否かは知らねど是より伯爵は何と無く氣掛りの體で總ての擧動が沈み勝に見えた、其れと見て第一に慰めに來たのが森江大尉で、次に來たのが當家の子息武之助である、大尉は頻りに伯爵の好む馬の話を語り出で近々に遠乘りを爲さらぬかなどと勸めて居たが、武之助の方は方面を變へ「伯爵、貴方と私との舊知己が愈此巴里へ歸つて來る事に成りました」伯爵「エ、舊知己とは」武之助「私が貴方を尊敬すると同じ程矢張り貴方を尊敬して居る毛脛安雄ですよ、彼の手紙が今朝着きましたが、彼は手紙より一日後れて羅馬を出發すると申します」又蛭峰夫人も茲へ來た「ハイ安雄あんは私共へも其通りの手紙をお寄越しでした、巴里へ着けば直に私共の華子を結婚の式を擧げますから其時は伯爵も是非御臨席を願ひます」此言葉を聞いて青くなツたは森江大尉である、彼は座にも堪へぬ状で伯爵を捨て去つた、眞に華子と安雄との婚禮が爾うまで差迫ツたとは彼に取つて世界絶滅の期が近づいた樣な者だらう、伯爵も大方は森江大尉の事情を察したらしかツた。
此樣な事で益々伯爵は陰氣に成つたが其中に幾番の舞踏なども有り又食事も初まツた、來客一同は興に入つて、殊更伯爵に目を留める人も無い樣に見えたが、唯だ今夜の會主露子夫人のんみは爾で無かツた、初て伯爵の入つて來た抑もの初めから此夫人の眼は、其れとは無しに伯爵の身に注いで居たが、食事の半頃になると、宛も堪へ兼た事の有る樣に我子武之助を一方に呼び聲を潛て「其方は氣が附いたか知らぬけれど、今夜伯爵は何の珍味にも箸をお取成さらぬ樣子だが」武之助「其はお腹が滿て居る爲でせう」露子「此樣な夜會へ來るのにお腹を滿して來る方も無いものだ、其方は何とも思ふまいけれど、女と云ふ者は詰まらぬ事でも氣に掛る者だから、何うか其方が伯爵へ、何か召上る樣に勸めて見てお呉れ」武之助「何を貴方は其樣にお氣に成さります」露子「ナニ伯爵は兼てから此家で物を喫べるのを避けて居らツしやる樣だもの、私の氣の迷ひかも知らぬけれど、敵の家で物を喫べれば神の怒りに觸れるなどと云ふ宗教も有るし、此家へ來るお客が物を喫べぬとは」武之助「ナニ其樣な事が有りますものか、伯爵は初めて巴里へお出の時、私と共に食卓へ着いたでは有りませんか」露子「イヽエ其方の家と父次郎の家とは、同じ家でも棟が違ひます、お宗旨で云ふのは敵と同じ棟の下で鹽を食るなと云ふのです」武之助は輕く笑ひ「其れでは伯爵が阿父さんを敵と思ふのですね、其樣な事が有りますものか」露子「其れでも先づ勸めて見てお呉れ」武之助「勸めたとてお腹が滿ちければ誰だツて喫べませんよ、併し勸めて見ませうよ」と云ひ捨て武之助は立去ツた。
猶も露子夫人は此方より、伯爵の方をのみ眺めて居ると、頓て武之助が、一皿の珍味を特に伯爵の前に置いて勸めた樣である、けれど伯爵が嚴重に拒んで居る状も見えた、露子夫人は絶望の嘆息と共に「アヽ此疑ひが間違ひで有れば好いのに」と最と悲しく呟いて、立つて[居]る足の震へる樣に蹌踉いた、其中に食事も終り客の數人は冴え渡る月を踏んで散歩する心と見え打群て庭に出た、茲ぞと露子夫人は心を固めた容子で靜かに伯爵の傍に寄り「サア伯爵、御一緒に庭へ出ませう、何うか私の手をお扶き下さい」とて伯爵の腕を求めた、伯爵は不意に恐る可き者にでも逢つた樣に、驚いて此方を向き、暫し夫人の顏を眺めた末、漸くに心を鎭め得たと見え「ハイ」とのみ短く答へて腕を與へた、斯樣に縋り、斯樣に縋らせたのは廿年前の夢である、縋る手の心持、縋らせる腕の感じは、昔に比べて何の樣だらう、二人ともに一種名状の出來ぬ恐れに震へる身を震へまいと唯其れのみが必死の思ひであツた。
巖窟王 : 一七三 盆栽架
「此疑ひが間違ひで有れば好いのに」と露子夫人が心配する其疑ひの何で有るかは知らぬけれど、兎も角も巖窟島伯爵が此家で何一つ喫べぬより起ツた疑ひに違ひ無い、夫人が強て伯爵の腕を求め其れに縋ツて震へ震へ伯爵を庭の面に誘ひ出したのも全く其疑ひを晴らし度い爲なんだらう。
縋ると云ふは名のみにて、實は巖窟島伯爵の腕に、唯だ露子夫人の指先が一寸障ツて居るに過ぎぬ、廿餘年の昔手を引き手を引かれたとは大層な違ひと云ふもの、併し是だけが兩人の精一ぱいで有るのだ、此上深く縋る事も縋らせる事も出來ぬ、頓て二人は盆栽架のの方へ行つた、茲には他の客も來て居るから勿論密會と云ふ樣な状では無い、唯だ何方から言葉を發するかと雙方ともに待つ容子で殆ど果しが無く見えたが、漸く夫人の方が口を開いた「秋は月も冴え果物なども熟しまして、春よりも好い季候ですねえ」異存を云ふ可き言葉で無いから伯爵は唯「ハイ」と答へた、確に嚴重な用心の状が見える、夫人「御覽なさい、此の熟した秋葡萄が、月影に宛で地に描いた繪の樣では有りませんか」伯爵が「如何にも」と答へて地を見る間に、夫人は早くも露の埀る樣な秋葡萄の一房を、埀れた蔓から摘み取つて「貴方のお愛し成さる東方の果物には及ばぬかも知れませんが、是は故々アルジールから取寄せた種ですから此國には餘り類が無いと云ひ、皆人樣がお襃めに成ます、一つ召上ツて品定めを願ひます」と伯爵に差出した、來客の身に取つて是ほど手厚い持做が又と有らうか、主人自ら珍重する盆栽の果物を摘み、手づから差出して、而も夫人自らは否と云はせぬ樣に早や其一粒を啄んで居る、誰とて此場合に之を斷る事は出來ぬ、伯爵は靜かに顏を上げた、照添ふ月に其色の青い事は葡萄の葉にも優るかと疑はれる、誠に伯爵の身に取ツては命の瀬戸とも云ふ程の試驗である、併し伯爵は遂に云ふた「イヽエ夫人、私は葡萄は喫べません」
若し日頃の伯爵ならば同じ斷るにも少しは愛嬌の有る言ひ廻しをするだらうが、今は心に、言葉を飾る丈の餘裕が無いのだ、夫人は此言葉に泣出さん許りに嘆息したが、直に又品を替へ「では此桃を召上ツて戴きませう」とて隣に熟した桃の實を摘まふとした、伯爵は遽てる樣に「イヽエ夫人、私は果物は喫べません」夫人が「オヤ是もですか」と云つた聲は全く泣聲を強て壓した樣な音であツた、爾して更に「本統に貴方は、私の折角のお願ひを」と、半恨の樣に、又半笑ひに紛らせる樣に、言繕はふとしたけれど後の句は唇より外へは出なかつた、夫人の辛さも全く伯爵の辛さに劣らぬのだ。
暫し無言とは爲つて又他の方へ歩を轉じたが夫人は猶彼の葡萄に房を一方の手に持つて居る、爾して程合を見て、今度は雜話の樣に「伯爵、貴方は大層旅も成され又艱難も成さツた樣に聞きますが」伯爵「ハイ隨分悲しい事を經て來ました」夫人「爾して、今では最う、喜ばしい事ばかりの御身分にお成りなされて――」伯爵「ハイ誰も私の嘆くのを聞かぬから喜ばしいと云ふのでせう」何と無く苦い意味が籠つて居る、夫人「シタが貴方はお一人ですか、奧方は」伯爵は驚いた樣に「エ、奧方、私に其樣な者は有りません」夫人「でも劇場へは毎も希臘風の美しい御婦人をお連だと聞きますが」伯爵「彼れは私が土耳古で買取つた女奴隸です。餘り可哀相な身の上だと思ひましたので」夫人は問へるだけ問ふて見る氣に成つたらしい「では、一人も親身の方がお有り成さらぬのですか伯爵「ハイ一人も」夫人「父上も母御も」伯爵「今は有りません」夫人「お子樣も、姉妹兄弟も」伯爵「ハイ何にも」夫人「其れで先ア、何を樂しみに此世をお過ごし成されます」何を樂しみに、嗚呼、何を樂しみに、樂しみの爲に活て居る身では無い、唯恨と云ふ一念の、晴らさねば成らぬ者[の]有るが爲に、人も分らぬ此暗い年月を送つて居るのだ、我が名に有らぬ名を稱へ、身分に有らぬ身分を作り、殆ど人とだも云はれぬ人と爲つて、人に怪しまれ疑はれつゝの艱難辛苦、抑も誰の爲に起ツた事ぞ、今問ふ人は、事の起りとは爲つた其人である、之を思ふと、兼ねて心を鐡石に鍛ひ固め如何なる情にも動かされぬと覺悟して居る伯爵も異樣に感慨の昂ぶツて殆ど自分で制する事が出來ぬ「ハイ夫人、此樣な一人者と爲つたのも自分で求めての事では有りません、曾て此女こそは[と]思ふ一少女も有りましたけれど――」と心の底を語る樣な語を發した、夫人は恐ろしい幽靈にでも逢つた樣に、一足 背後に退いた。
巖窟王 : 一七四 氣味惡く聞える節
幽靈にでも逢つた樣に、一足 背後へ退いたけれど、其後を聞かずにはゐられぬ、氣を取り直して又進み出で
「其から其女は何うしました」
伯爵は聲の震へるを隱さんとてか最と沈みたる小聲にて「ハイ、私と結婚する許りに成りましたが、折惡く其時は軍が起り、私は軍隊に運び去られました」夫人「爾して」伯爵「其れでも軍の終るまで其女が多分は私を待つて居る事と思ひ、軍が濟むと直にマルタへ歸つて來ましたが、其れは私の空頼みでした、其女は早他人の妻と爲つて居ました」言ひ掛けて餘り自分の言葉を熱心過ると思ふてか、更に伯爵は異樣に打笑ひ「ハヽヽヽ幾等も世間には類の有る話ですよ、併し其頃は私も猶だ年が若くて、餘り正直過ぎた者ですから、其れ切り妻帶と云ふ念を絶ち、到頭今まで獨身で來ましたのです、思へば愚な話ですよ」言終つて又笑つた、夫人は成る可くは何氣無く笑つて調子を合せ度い、けれど心に其樣な餘裕が無い、唯だ纔に「其後貴方は其女に逢ふ折が有りましたか」と問ふが辛とであつた、伯爵「其れ切り逢ひません」夫人「其女は今でもマルタに居るのですか」伯爵「ハイ人の妻と爲つて、或は母と爲つて、多分無事で居る事でせう」夫人「でも貴方は猶だ其女を恨みますか、其れとも心の中で、其――不實を――其罪を――許してお遣りに成りましたか」ハイ其後、世の中を經廻つて人情とは何の樣な者かと云ふ事を多少は知り、其女だけは許しました」夫人「其女だけですか、女を貴方から引離した人逹は猶だ許して遣らぬのですか」伯爵は曖昧に「今更恨んだとて追附きませんよ」
露子夫人は此返辭を何と悟つた事か、最早伯爵の心に何の恨みも殘ツて居るぬと思つたゞらうか、又も先ほどの葡萄を差出し「伯爵、何うか一つお上り下さい」伯爵は先ほど答へたと同じ樣に「イヽエ夫人、私は葡萄は喫べません」唯だ簡單な一句であるけれど決して恨みを忘れた人の言葉では無い、何處にか氣味惡く聞える節がある、夫人は絶望に堪へぬ樣に、口の中で「エヽ氣強いにも程がある」と呟いて、其葡萄を傍の叢に投棄てたが、丁度此處へ武之助が走ツて來た爲め此上の問答が出來なくなツた。
「阿母さん、阿母さん、大變な不幸が出來ましたよ」と云ふのが彼の遽しい言葉であツた、何の樣な場合でも「不幸」と言ふ語は決して爽かには耳へ響かぬ。露子夫人は驚いて「エ、不幸とは」武之助「今蛭峰大檢事が故々夫人と華子孃とを此家へ迎へに來ましたがネ――」露子夫人「何うして」武之助「何事だか知りませんけれど、急に變ツた事が出來たと見え、大檢事の顏色が眞青でした、爾して何か夫人の耳に細語くと傍に居た華子孃が驚いて氣絶しました、座敷は大騷ぎでした、尤も直に手當して孃は正氣に歸りました故蛭峰氏が夫人と共に馬車へ載せ最う連れて歸りましたけれど、外のお客が之れの爲に何だか興が醒めた樣ですから、其れで私が貴女を探しに來たのです」夫人は遽てゝ座敷に歸つた、爾して再び客の興を引立たせやうと勉めたけれど夫人自らの心が引立つて居ぬ爲か充分には成功せずに此夜會は終ツた、尤も伯爵は終らぬ先に歸り去ツた。
* * * * * * *
此話は是だけにして置いて、少し長いかも知れぬけれど「蛭峰家」と題を置き、是から數囘の間蛭峰の家の事を述べねば成らぬ。
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蛭峰家 一
扨も蛭峰は、何うしても伯爵の素性を見破る爲に、夜の更くるまで古い書類を調べ、書拔いた名前を「生」「死」「疑」の三點に記し分けて居たが、彼は又何か思ひ出した樣に獨語して「アヽ職務の上で敵を作つたのみで無い、己は其外にも敵を作つた事が數々ある、若し職務上關係した人間を取調べて分らぬならば、更に祕密の方面を調べねば成らぬ」と呟いた、祕密の方面とは、云ふ迄も無く「戀」と云ふ曲物である、彼は世間幾多の好色家と同じく、其半生を、怪しげなる、祕密なる「戀」と云ふ事に委ねた男である、其頃の彿國の紳士一般の風としては怪しむに足らぬ樣な者の、其れが爲に、思ひも寄らぬ敵を作つた事は定めし少い數では有るまい、其時にこそは、血氣の勇に任せ、敵を作るを恐ろしとも思はずに居たけれど、今の樣に自分を恨む人の名を取り調る場合に爲ツては、區域の廣い丈に益々面倒に成つて來るのだ、其れは扨置き彼が呟き終る所へ、何者か、けたゝましく戸を開き、泣聲と共に室の中へ入つて來た、兼て誰をも通さぬ樣に玄關の番を嚴重にして有るのにと蛭峰は怪しみつゝ振向けば、硝燈の光に照らされて蛭峰の背後に立てるは、年七十にも近からうと思はれる一婦人である、蛭峰は狼狽の状で書類を疊みつゝ「おや阿母さん」と打叫んだ。
巖窟王 : 一七五 蛭峰家 二
蛭峰に「阿母さん」と呼ばれる此婦人は何者だらう、他でも無い、蛭峰家の先妻禮子の母なる米良田伯爵夫人である。
此老夫人は夫伯爵と共に、久しい前に巴里の本邸を立ち、馬耳塞の別莊に行き、何時歸るとも極ツて居なんだのに、突然茲へ現はれたから、蛭峰の驚くも無理は無い、「エ阿母さん何うして茲へ、阿父さんも御一緒ですか」老夫人は俄破と蛭峰の前に泣伏し「聞いてお呉れ重輔、阿父さんは――私の夫は――アノ米良田伯は、巴里へ來る途中の宿屋で亡なりました」蛭峰は目を見張ツた「エヽ、米良田伯がお亡なり、其れは何うして」老夫人は涙と共に「ハイ、數日前から少し勝れぬ御容子で有つたけれど、其方から華子の婚禮が近よツたとの手紙が來た爲め、其婚禮の間に合ふ樣にと、私と共に馬耳塞を出たが、途中の宿屋で晝食した後、兼ねての持藥を召上つた所、間も無く眠けを催したと仰有り、少しの間とてお寢み成さツたが、其まゝ目の覺ぬ事と成りました」蛭峰「爾して醫者には」老夫人「ハイ直に土地の醫者を招いて見せました、多分は腦卒中だらうと診斷はしたけれど最う縡切れた後であツた、勿論葬式は此巴里でせねば成らぬ故、御遺骸は棺に收め、後から從者が持つて來ます、多分は明後日あたり着くだらう、私は葬式の用意も有り且は其方の娘華子が伯の相續人と極つて居るから直に華子にも逢はねば成らず晝夜無しに馬車を急がせ遺骸より先に此通り歸つて來ました、サア華子は何處に居る、華子を是へ呼んでお呉れ」
實に思ひ設けぬ事變である、外の事の爲なら到底書類の取調べを止めぬ蛭峰だけれど是では止めぬ譯に行かぬ、「少しお待下さい、阿母さん華子は母と共に、一寸外出した所ですから直に私が呼んで來ます」眞逆に此悲しみの中で、夜會に行つて居るとは云ひ得ぬ、老夫人が聊か聞咎める樣に「エ、母と一緒に、華子の母は亡なツた禮子です、繼母は決して母では有ません」此中でさへ斯樣に異存を唱へる所を見れば、何れほど此老夫人と蛭峰の今の妻と不和合かと云ふ事が推量られる。
蛭峰は言葉の端を言爭ふ場合で無いから無言で書類を悉く抽斗に入れ、錠を卸し、爾して馬車を命じて自分で野西家へ迎へに行つた、野西家で華子は何の樣に驚いたかは既に前囘の武之助の言葉に見えた通りである、間も無く華子と繼母と蛭峰と、三人一緒の馬車で歸つて來たが、老夫人は爾無きだに衰へた身體を以て生涯に又と無い不幸を受け、其上三晝夜を休息せずに急いで歸京したが爲め、此家へ着いて早や氣も弛んだと見え、蛭峰の居間で給使の持て來た飮物にさへ手を觸れず長椅子の上に居眠つて居る、爾して三人の物音を聞き、目を開いて飛び起きたけれど、最早疲れに勝つ氣力が無い、唯だ華子の手を取つて「早く婚禮して曾孫の顏を見せてお呉れ」と云ひ、暫らくして又、「和女の夫になる毛脛安雄と云ふは昔暗殺せられた毛脛將軍の息子だと云ふから、萬一 和女の死んだ後で直に後妻を迎へる樣な不實な紳士では無いだらう」と甚く蛭峰に當附けた語を吐くのみである、蛭峰の妻は餘ほど不興の體だけれど、陽に立腹する場合で無いとん見たか、穩かに「阿母さん、貴女は不意の御不幸に、餘り身體をお使ひ過ぎに成りました、大凡の容子は私も蛭峰から聞いて知りましたが嘸、御愁傷な事でせう、此上心配をお續け成さツてはお身體に障りますから今夜は直にお寢み成さい、又明朝色々伺ひませう」とて手を取つた、老夫人は又忌々しいと云ふ樣に目を開き「なに、私の世話は孫の華子がするから好いよ、華子 和女には色々話しが有る、サア私を外の室に連て行つてお呉れ」
華子は蛭峰から目配せゝられ、其まゝ老夫人の手を取つて、之を二階の寢室へ連て行つた、老夫人は身を支へる力も無い體で、直に寢床には就たけれど、餘り疲れ過ぎた神經には本統の眠りは來ぬ、稍久しく華子の手を握ツたまゝ「早く安雄と婚禮して此老婆に安心させてお呉れ」との事をのみ殆ど囈語の樣に繰返した、華子は「安雄と婚禮」と云はれる毎に、身を切られるよりも辛い、けれど此方さへ是ほどに望まれるからは最早逃れる路は無い事かと、詮方なく逆らひも得ずに聞いて居るうち、何うやら老夫人が本統に眠つたらしく見えたので茲を去ツた。
此翌朝である、再び華子が此 寢室に入つて見ると、老夫人は容易ならぬ容體である、昨夜は唯だ疲れの爲とのみ思はれたのに今朝は爾で無い、熱が有つて全くの病人と爲り仲々起き出る容子も無い、華子は其顏に顏を寄せて「祖母さん何か召上り度くは有りませんか」老夫人は病體に似ぬ決然たる聲で「外の人へは云はぬけれど和女だから云ふが、私は最う何にも喫ぬ、喫れば毒殺せられます」華子は根も無い囈語の樣に思ひ「其樣な事が有りますものか」老夫人「イイエ私は昨夜、夢だらうと思ツたが夢で無かツた、誰だかそツと此室へ忍び入り、枕許の盃を何うかして立ち去つたよ、暫らくして私は其 盃で水を飮んだが其時から咽喉が焦附く樣な氣持がします、何でも盃へ毒を埀らして立去つたに違ひ無い、けれど此樣な事は誰にも話さずに居てお呉れ」餘り恐ろしい言葉だから華子は顏の色も變つたけれど又病氣の爲の根無し言と思ひ做し、其まゝ室を出で醫師を迎へた。
巖窟王 : 一七六 蛭峰家 三
迎へに應じて來た醫師は、兼て此蛭峰家へ十年以上も出入する老 國手で有國博士とて、其道には仲々名譽の高い人である、此人 直に華子と共に米良田伯爵老夫人の寢室に行き診察したが病の徴候に合點の行かぬ所がある容子で頻りに老夫人へ食物の事などを聞いた、併し老夫人は先刻華子に話した毒藥の疑ひなどは少しも此國手には洩らさなかつた。
診察を終へて國手は猶も不審の眉を顰めて此室を出で、華子に向つて「暫し貴女の阿父さんにお目に掛り度く思ひます」と最と重々しい調子で云つた、何か容易ならぬ疑ひのある事は其語調でも察せらる、華子は直に其意に從ひ父蛭峰の室へ馳せて行つて爾して戸を開いて見ると父は年若い一紳士と慇懃に何事をか相談して居て直に華子を招き寄せ「此方が毛脛安雄君である、毛脛さん之が娘華子です」と引合せた、華子はハツと思ふと共に顏を眞紅に染做した、是れが父の定めた我が夫である、夫たる可き人である、此人が羅馬を立つて歸國の途に上つたことは既に昨夜も聞いたけれど、早歸着して而も此室に居やうとは思ひ設けぬ所である、日頃行儀作法には正しい華子だけれど、今は一語をも發し得ぬ、全く身の破滅する時が來た樣に感じた、爾して唯 纔に父の耳へ「阿父さん有國國手が貴方を待つて居ます」と細語いたまゝ、行儀にも作法にも構はず、逃る樣に馳出した、後に蛭峰は安雄に對し、娘の不作法が極り惡い樣に「アノ通り未だホンの子供だから致し方がありません、何うぞお氣永く充分面倒を見て遣つて戴きます」と云つた、併し安雄は華子が一方ならず羞らふた状を決して憎くは思はなんだ、實際誰とて華子を見て、而も其顏の眞紅に染做さるゝを見て、憎くなど思ふ事が出來るものか。
蛭峰は頓て安雄に暫しと斷つて座を立ち爾して有國國手の待つて居る室へ來た、國手は口數を利かぬ、唯だ簡單に「若しや此家に貌律矢を蓄へては有りませんか」と問ふた、貌律矢とはストリキニーネと並び稱せられる程の劇藥で、曾て巖窟島伯爵が此家の令夫人に其作用などを説明した事も有る、蛭峰は唯だ其名を聞く丈けにすら驚いて「何で其樣な毒藥をば素人の家に蓄へて有りませう」と斷言した、國手は猶ほも合點の行かぬ状で「若しや私から野々内彈正に與へてある藥が此家へ紛れ込む樣な事は有りませんか」蛭峰は怪しむ如くに「父彈正の服藥には貌律矢を用ひて有るのですか」國手は自分の職業上の事を、素人に問はれるのを好まぬ「或は用ひて有るかも知れません、或は用ひて無いかも知れません、其れよりも私の今の問にお返辭を願ひます」大檢事でも醫者の前では醫者の權威に從はねば成らぬ「ハイ父彈正の居る隱居場と此家とは御存じの通り廊下續きでは有りますけれど、父の服藥が此方へ紛れ込むと云ふ樣な恐れは少しもありません、ですが國手、何で其樣な事をお問に成ります」國手は「未だ此問に返辭す可き時でありません」と言ひ切り、其まゝ猶も訝かしく考へつつ立去つた。
其れは扨置き、華子は安雄の前から逃出すが否や、國手の居る室へも來ずに、直に祖母米良田伯爵夫人の寢室に驅け入り「何うしませう祖母さん」とて其枕邊に泣伏す樣に身を投げた、老夫人は先程に比べると餘ほど心も落着いて居て、華子の此状に打驚き「此子は先ア何を其樣に遽しう」華子「イヽエ祖母さん、私は少しも知りませんでしたが、毛脛安雄さんが、早や羅馬から歸つたと見え、今阿父さんの室へ來て居ます」老夫人は却つて安心の容子である「其では安心だ私も何うか安雄さんに逢ひ、出來る事なら今日の中にも婚禮の約束を取決め、其約定書へ、和女と安雄さんとに調印させる所を見たい」華子は助け船に水の洩れ入る樣な思ひである「婚姻とて、今其樣な事が出來ます者か、未だ祖父さんのお葬式さへ濟まぬでは有ませんか、何うか祖父さんのお葬式の濟む迄でも婚禮の事を云はぬ樣に、エ祖母さん貴方のお力で延ばす樣にして下さい」一週間でも一日でも延ばし度いのである、延ばしたとて素より逃れる道は無いけれど、延ばす中には何うかなるだらうと云ふ樣な氣のするのが世間知らずの若い者の常である、老夫人は飛んでも無いと云ふ面持で、「イヽエ祖父さんも此婚禮には大の贊成で、早く取決め度いのみ云つてお出だツたから、儀式は兎も角も調印だけは葬式の前に濟まさねば成ません、調印さへせば、夫婦も同然で、裁判を經ねば取消すと云ふ事が出來ぬから、何が何でも調印は今日の内、其れが出來ずば明日は必ず――」
華子は後の言葉を聞く力が無い、今日か明日より延びぬ事にまで極つたとは、何と云ふ情無い事だらう、唯絶望に前後も忘れ、又茲を馳せて出た、爾して行く先は何處だら、毎も獨りで、心の鬱を晴らしに行く裏庭の深い木蔭である、樹の葉より外に聞く人の無い所で、泣度いだけ泣きでもすれば幾等か心も鎭まるのだ、斯う思ふて直に裏庭へ迷ひ入つたが、茲には唯だ塀一重隔てた先に、是も同じ思ひの森江大尉が佇んで居る、塀の隙から華子の姿を見るより早く「モシ華子さん、華子さん」華子「オヽ森江さんですか、能う茲に居て下さツた」と馳せ寄る状の嬉しさ、此樣な二人を引分けるとは眞に罪である。
巖窟王 : 一七七 蛭峰家 四
華子は我名を呼ぶ森江大尉の聲に、嬉しげに塀の際には走寄つたが、垣一重隔てた此方と彼方で何の樣な話をする事やら。
抑も森江大尉は昨夜野西家の宴會で、華子の許婚の夫毛脛安雄が早や羅馬を立つて歸國の途に上つた樣に聞き、最早全く華子を失はねば成らぬ時が來たと思ひ、死刑の宣告をでも受た人の樣に落膽して歸宅したが、其れより夜一夜を考へ明したけれど、到底華子を失ふて此世に活て居る心は出ぬ、眞に命よりも深い愛が心の底に根ざして居る者と見える、併し又思へば、華子とても心は此の身と同じ事にて、此身が華子を失ふの辛さと同じく華子も此身に別れては生存らへる氣もせぬであらう、此樣な間で有るのに何も浮世の義理に隔てられ辛い思ひをするに及ばぬ、互に心を合せて他國へ驅落すれば好い事だと、身分をも名譽をも打忘れ、終に驅落を華子に勸めると云ふ氣になつて、今朝は早くから此處に佇み、華子の姿を見ゆるのを待つて居たのだ、若しも華子が愛よりも義理を重しとし、其樣な短慮は出來ぬと云へば其時には自殺する迄の事、自殺は仕ても其れでも猶華子を斷念める事は出來ぬから、自殺よりは何うしても華子を説き伏せねば成らぬと、一心凝り固まツた状で有ツた。
此樣な間であるから二人は垣一重隔てゝ泣きもした嘆きもした、けれど親を捨て義理を捨てゝ驅落すると云ふ事は、深窓の中に育つた華子に取つては餘り恐ろし過ぎる事柄である、爾ればとて之を否と云へば森江大尉は死ぬのだ、大尉を殺すか家を棄てるかと云ふ間に挾まれては眞逆に大尉を殺す方に決心する事は出來ぬ、況して其身とても大尉が死んでは活て居る事が出來ぬ、詰り二個の命が無くなると云ふ場合である、華子は終に大尉の意に從ふ方に決した、勿論斯る年頃で、義理と云ふ事を爾う深く噛分る事は出來ず却て愛と云ふ事に氣も心も眩んで了ツたのである、併し其れも有るだけの故障を言ひ盡し、出るだけの涙も流し盡した後であツた、爾して愈々二人の極めた約束は、華子の婚禮の調印が最早何うしても明日の晩よりは延びぬ故、愈々其場合と爲つて到底逃るゝ事が出來ぬとなれば、華子は言葉を設けて其場を外して此所へ逃げて來る事、其時には森江大尉が、旅行の馬車を此垣の外に置いて直に華子を載せて共々に他國へ去る事と云ふのであツた、誠に若氣の爲めとは云へ無分別の至りである。
斯くて愈々翌日になると午後の二時頃に華子から森江の許に走り書の手紙が來た、婚禮の調印は夜の七時に極つたと書いて有る、森江は最早驚きもせぬ、唯其手紙を華子の眞心の籠つた者と知るが爲に幾度も讀返した上で肌身に着け、直に其れより種々の用意には着手し、七時より餘ほど前に馬車を調へて約束の所へ來て待つて居た、所が約束の七時には成つたけれど華子より音も沙汰も無い、或は愈と云ふ場合に華子の決心が弛み、詮方無く調印したでは有るまいか、其れとも逃出して來る道で捕ツたか、或は心に恐れを抱き何處か途中で氣絶でもして倒れて居るのではあるまいかと其から其へと心配して、氣が氣で無い程の思ひをしつゝ終に九時過までも待つたが、最う到底待つ事は出來ぬ、思案も何も盡きて了ひ、兼ねて華子を抱へて塀を越す爲に調へてある繩梯子を馬車の中から取り出して苦も無く塀を乘越えた、爾して蛭峰の屋敷の中に入ツた。
中の案内は日頃華子に聞きなどして能く知つて居る、先野々内彈正の隱居所を廻ツて本家の裏口に近づかうとすると、其裏口から背の高い紳士が歩み出た、是は確に蛭峰である、見咎められては大變と遽てゝ庭木の背後へ身を隱したが、續いて又一人の紳士が出た、是は或は毛脛安雄ではあるまいか、早婚禮の調印を濟ませて、蛭峰と共に嬉さを語り合ふために庭の面を散歩に來たのではあるまいかと樣々の疑が湧き起ツて、腸も千切れる樣な思ひである、けれど飛び出して安雄かと疑はれる其紳士に飛び附く譯にも行かぬから、據所無く息を詰めて二人の言葉を聞いて居た。
巖窟王 : 一七八 蛭峰家 五
蛭峰の後に付いて庭に出た此紳士が果して毛脛安雄だらうか、木の蔭から息を凝して窺ふて居る大尉森江眞太郎は必定彼だと思ツたのだけれど、暫らくして此兩人が窓から差す燈火の前を通ツた時、兩人の顏が明かに森江の目に映ツた、違ふ、違ふ、毛脛安雄では無い。
安雄の顏は未だ見た事が無いけれど、此紳士の顏は幾度も見た事がある、即ち有名な醫師有國國手なのだ、何の爲に有國國手が此夜半に蛭峰と共に庭の面へ出たのだらう、秋も早寒い頃だから、決して涼みや散歩では無いと、森江は訝かる暇も無く有國醫師は小聲で蛭峰に向ツて云ふた、「今夜死ふとは、昨日までも思ひませんでした」扨は此家に、死んだ人があるのだ、若や華子孃ではありまいかと森江は胸を轟かした蛭峰「私も意外ですが、併し米良田夫人は取る年ですから」成るほど華子では無い、米良田夫人が死んだのだ、有國醫師は聞咎める樣に「イヽエ蛭峰さん、米良田夫人は決して取る年の爲に死んだのでは無いのですよ、其れだから私が特に貴方へ祕密のお話があると云ひ此庭へ出て戴いたのです」何だか重大な事件らしい口振である、蛭峰「取る年の爲で無いと云へば何だか變死の樣にも聞えますが」醫師「爾です變死の疑ひがあるのです」蛭峰「之は怪しからん、寢床の中で死んだ者を變死などとは」醫師「ハイ毒殺された疑ひがあるのです」蛭峰は飛び上ツた容子である。
「エ、エ、毒殺、毒殺」と彼は叫び、更に泣出し相な聲で、「國手、國手、何うか其樣な恐しい事を云ふて下さるな、其れで無くとも私は近來不幸な事が續き、非常に急いで取調ねばならぬ書類もありますのに其調さへ出來ません、其れに加へて今夜は義理ある母が死に、何うして先ア此樣に辛い事のみ續くかと、恨めしい程に思つて居ますのに、其母が變死とは、毒死とは」醫師「イヤお氣の毒ではありますけれど、私の疑ひだけはお耳に入れて置かねば成りません」蛭峰「單に貴方の疑ひと云ふだけの事ですか、確に毒死と云ふのでは無く」醫師「ハイ確に毒死と云ひ度いのですが、貴方が大檢事と云ふ嚴重な職務の方だけに、私は云ひ切る事が出來ません、貴方へ言ひ切るには、裁判所の證人に呼び出されたも同樣ですから宣誓する程の心でなくば成りません、眞逆に爾う譬ふ譯にも行きませんけれど、米良田夫人の死際の痙攣の有樣が何うも病氣の爲ではない、貌律矢と云ふ毒の爲だと思ひます」蛭峰「では病氣で死ぬ人はアノ樣に身體が引き痙りませんか」醫師「強直症と云ふ病氣で死んだのが、丁度 貌律矢の中毒と同じ痙攣です、其れだから私は必ず毒殺だとは云ひ得ません、或は強直症かも知れぬと言ふ疑ひがあるのです、けれど昨日私が診察したとき、強直症の兆候は少しも無く、却つて既に中毒の容體が見えましたから、其れで貴方に聞いたのです、若し野々内彈正の藥が此家に紛れ込みはせぬかと」蛭峰「ハイ其時私は決して紛れ込まぬとお答へ申しました、爾して彈正の藥に貌律矢が入つて居るかと貴方へ問ひました」醫師「ハイ、入つて居ます、之は何うか彈正氏に口や手足の自由を恢復させ度いと思ひ數ヶ月前から少しづつ量を増してありますから、殆ど六分ほどの貌律矢が入つて居ます、彈正氏は呑み慣れて居ますから、仲々六分では死にませんけれど、初めての人が六分も呑めば必ず死にます、全體 貌律矢と云ふ毒は竒妙な働きがあつて、少しづつ呑み増して行けば段々多量に呑んでも中毒せぬ樣に成るのです」
暫し考へた末蛭峰は「それでも父の藥が本家へ紛れ込む樣な事は何う考へてもあり得ません」醫師も亦考へた爾して更に重々しく「爾すると蛭峰さん、全く之は容易ならぬ事柄ですよ、今申す通り貌律矢を呑まされた死状は強直症の死状と同じ事で、餘ほど熟練した醫師とても見分を誤る程の次第ですから、此毒藥を用ふる者は、よほど毒藥の事に詳しい恐る可き相手です、眞逆に素人の家に此毒藥を用ふるほど藥劑の理を研究した人があらうとは思はれません、其だのに貴方の家に此巧妙な毒藥の用ひ方を知つて居た人が有るとすれば――」蛭峰「何で私の家に其樣な不屆きな者が」醫師「イヤ無くば米良田夫人の死が更に合點が行かぬ事になります、全體夫人に藥を呑ませた看護人は何方ですか」蛭峰「華子です」醫師「夫人を殺して利益を受ける人は何方です」宛も大檢事が問ふ樣な事を却つて大檢事に問ふて居る、其れも無理では無い此有國國手は、醫學の名譽が高い爲め今まで裁判所の證人又は鑑定人と爲つた事が幾度と云ふ數を知らぬ、自然に斯る詮索の心をも持つて居るのだ、蛭峰は充分には呑み込み得ぬ體で「エ、利益を受けるとは」醫師「米良田夫人の遺産を相續する人は」蛭峰「其れは華子――」と云ひ掛たが、自分で自分の聲に驚いた樣に「有國さん餘り恐ろしい言ひ分です、何で華子が」醫師「左樣、華子さんに其樣な事の無いのは私も確信します、矢張り其れでは彈正氏の藥でせうか、兎も角隱居所へ行つて調べて見ませう」
拒むにも拒まれぬ、殆ど蛭峰は引立てられる樣にして彈正の隱居所へ行つた、今までヤツと我慢して聞いて居た森江大尉は、兩人が立去ると共に直に樹の蔭から忍び出て此家の二階には兼ねて華子の室と聞く窓に未だ燈火が見えて居る、彼は自分の見現はさるゝを忘れた状で、今しも蛭峰と醫師とが出た裏口から忍び入り、二階なる華子の室を推して上ツて行つた。
巖窟王 : 一七九 蛭峰家 六
森江大尉は眞に夢中の状である、唯だ華子の身が氣遣はしさに、自分が見咎められるなどの懸念は少しも思はず、今しも蛭峰と有國國手との出た裏口から忍び入り、華子の室を指して二階に登ツた、華子の室は何處に在る、見廻す迄も無く廊下の一方に幽けく燈火の洩れて、中から女の泣聲が聞ゆるかと思はれる室が有る、大尉は戸を開いて中に入ツた。
果して華子の室である、大尉は其無事な顏を見て先づ安心した、勿論華子の驚きは一通りでは無かツたけれど其れは管々しく記すには及ばぬ、兩人は樣々に問ひつ問はれつして、大尉が茲に來た次第も華子に分り、華子が今夜約束の場所へ來なんだことも大尉に分ツた、其れは外でも無い米良田夫人の死んだ爲、毛脛安雄との婚禮の調印が延びたのだ、延びは延びても止まつた譯では無いのだから、又遠からず其調印の日が來るに極まツて居る、大尉は迫立てる樣な聲で云ふた「其れにしても華子さん、今夜茲を脱け出ませう、馬車の用意も出來て居ますから」華子も心を極めて居ると見え、此性急な言葉を聞いても別に驚く容子は無い、併し應ずる色とても無く「米良田夫人のお葬式を濟ませる迄は何うしても此家に居ねば成りません、私の爲に大恩ある祖母さんですもの、其遺骸を捨てゝ茲を去れば何の樣な罰が當るかも知れません」是れには大尉も異存を云ふ言葉が無い、唯だ悄然として「でも調印は、取り込の中でも出來ますから、若し葬式の前に父上が其手續を運べば何うします」華子「其れは私も氣遣ふて居るのですが、祖母さんも息を引取る前に父に向ひ、婚禮は兎も角も調印だけは直にさせる樣にと云ひ、又父も兼ねてから大層調印を急いで居ますから、明日にも私へ迫るかも知れません」大尉「其れでは愈絶望ではありませんか、矢張り今夜逃ませう、逃げませう」華子「ですけれど、唯だ一つ私には見込みがあるのです、ソレ兼ねて貴方へ話しました祖父野々内彈正が――」大尉「エ、彼の中風の祖父さんですか、手足も口も利けぬ人が此樣な際に何の頼みに成りませう」華子「先ア爾う云はずにお聞下さい、御存じの通り彈正は兼ねて私を毛脛安雄の妻にはさせぬと請合て居て呉れるでせう、其れだから今朝私は其枕許へ行き何も彼も打明けて了ひました、所が彈正は毎もの通り眼で以て私へ安心して居よとの意を傳へますから、其れでは私は無事に森江大尉の妻に成れませうかと問ひましたら勿論との返辭を傳へました、ですが私が聞いたゞけでは未だ森江さんが安心しませんから、祖父さんは貴方は若し森江さんが此枕許へ來れば、彼の方に向つても矢張り同じ樣に請合つて呉れますかと念を推しましたら、爾だとの意を答へました、若し何か祖父さんが、毛脛樣と私との間を絶つ不思議な力を持つて居るので無ければ、決して此樣に請合ふ筈は有りません」
森江は訝かしげに考へて「イヤ華子さん、外の人が請合つて呉れるのなら、決して私は當にしませんが、野々内彈正氏は昔一世に恐れられた英雄で、私の父なども首領と仰ぎ深く敬服して居た方ですから、縱しや年は取り身體は不隨に成つても、眞逆に確な見込みの無い受合は成さらぬでせう、何うぞ私を彈正氏の枕許へお連れ下さい、彼の方が受合つて下さると見込が付けば、私は其れだけを信じて、今夜の逃亡を貴女のお言葉通り葬式の濟むまで延ばします」言ふ中に隱居所の方から蛭峰と國手と共に歸つて來て、裏口の戸を鎖す音も聞えた、其戸が締ツては、否でも應でも彈正の室を潛ツて去る外は無い。
華子は甚く喜んだ、爾して自分で立つて階段の所に行き、父が國手と共に居間へ引つ込んだ事を見屆けて又歸り、今度は森江を案内して最靜かに、二階へ下り廊下を傳ふて無事に隱居所なる彈正の傍には着いた、實に彈正は見るも憐な状である、夙に一世を驚仆して歴史の幾ページを填した英雄が、身も足も舌も動かず、唯だ果た末路と云ふ可きである、彼は唯森江の顏を、異樣に見詰むるより外、何事をも爲し得ぬ、華子は此樣を見て「祖父さん此方が森江さんですよ」森江も恭しく「多年先生と主義を同じくしました森江良造の嫡子眞太郎です」彈正の眼は嬉しげに輝いた、華子「祖父さん貴方は私と毛脛安雄さんとの婚禮を妨げて下さいますか」彈正の眼「然り」森江は心底より謝する樣に「唯だ一人の孫娘華子孃を私へお任せ下さるとは生涯の大恩人です、偏に貴方の御助力を頼みと致します」彈正は實に嬉しげである、知らず、此全身不隨の老英雄、胸に何の樣な竒略を蓄へて居る事やら。
Youtube モンテ・クリスト伯(巌窟王)67 朗読

