巖窟王(下 その3)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 一六一 濃い覆面の一婦人
夫段倉が伯爵を尋ねんとて家を出た後、果して妻張子は蛭峰を訪はん爲に家を出た。
雙方ともに此物語の大なる波瀾を捲き起す紀元とはなツた。
但し伯爵との面會は表面極めて平穩無事で有ツた。唯だ其平穩無事の中に、一つの黒點が籠つて居る、他日天一面に擴がる陰惡な雲とは爲ツたのだ、先づ夫の方より記して行かう。
段倉は伯爵家の接見室で十四五分待たされた[、]其中に外から、法師姿の老人が入ツて來て、段倉に默禮したまゝズツと奧へ通ツて了ツた、扨ては餘ほど伯爵と懇親な老僧と見える、此樣な客が有つて若し話が長ければ又出直して來やうと聊か考へ込む所へ「イヤ來客の爲に大にお待たせ申しました」と機嫌能く伯爵は出て來た[、] 段倉「ハイ御來客の有る事は唯だ今茲を通られた老僧でも分つて居ます」伯爵は最と輕く「アヽ那れですか、那れは何に、暮内法師とて伊國では有名な方ですけれど、多年別懇の仲ですから幾等待たせても構ひません」とは云ふけれど、自ら言葉の中に長居は迷惑との意味が見える、段倉は其れと察し「イヤ私は事務家ですから極手取早く申しますが、昨夜お目に掛つた皮春侯爵の巴里滯在の眞の目的は何れに在るのでせう」と前置も無く問出した、伯爵は故と賤しむ樣に「息子を交際社會へ出し、嫁を得させたいと云ふので、私へも頼むなどと云はれましたけれど、何しろ吝嗇とも云ふ可き程の儉約家ですから、私は先づ嫁を搜すよりは金を使ふ事を稽古せよと云ひました、金さへ使へば隨分嫁の候補者も出來ませうけれど、爾無くば -- 」段倉は短兵急に「イヤ貴方は爾お思ひでせうが、私の如き實業家は却つて其儉約な所を見込むのです、金を使はぬのが那の方の値打だと思ひます」伯爵「爾う仰有ると何だか貴方が嫁の候補でも持つて居る樣に思はれますが」段倉「其通りです、實は私は那の方の氣質に感じましたから」金力に感じましたとは云はぬ「娘夕蝉を小侯爵の妻としては何うかと思ひ、既に妻とも相談して其贊成をも得て居るのです」伯爵は打笑ツて「成る程貴方は手取早い、其れで無くば、第一流の實業家には成れぬ筈です」襃める樣に云ひ、頓て又眉を顰め「イヤ段倉さん、其れはお止めなさい、貴方の樣な華美は方と、那の陰氣な侯爵とは肌の合ふ筈が有りません、親類に成つて長く附き合へば必ず喧嘩する事になります」伯爵は斯う妨げる方が却て益々段倉の熱心を増す事を見拔いて居る、段倉「イヤ肌の合はぬは私の心の持ち樣に在る事ですから、其點は御安心の上、成る可く侯爵父子の心の動く樣に貴方の御加勢を願ひ度いのですよ」伯爵「其れは出來ません、今云ふ通り私は此縁組を贊成し無いのですから、ハイ贊成の出來ぬ理由が二個有ります」段倉「二個とは」伯爵「第一は今云ふ通り貴方と侯爵とは未だ懇意が淺い、從つて他日深く知合ば喧嘩する恐れが有る」段倉「其理由は理由に成ません」伯爵「第二には夕蝉孃と野西次郎の息子武之助との間に縁談が始まつて居ると聞ます、野西父子も私の友人ですから」段倉「成る程野西父子に對しても贊成が出來ぬ、此理由は分りました、併し伯爵、武之助と夕蝉とは當人同志が互に厭がツて居るのです」伯爵「其れにしても同じ事です」段倉「のみならず、私は野西次郎が先年希臘へ援軍に行き非常な大金を作つて歸國した事に就て聊か疑ひが有ります、貴方は始終希臘から伊國の邊にお住ひ成さツた容子ですから、多少其邊の事を聞込では有りますまいか、イイエ、是は私の外にも薄々怪しんで若しや彼野西は何か不義の金でも得たでは有るまいか抔と其頃噂した人も有りました、果して其樣な事ならば私は不義で出世した金持と縁者と成る事は好みません」不義を憎む樣な言葉が段倉の口から出るとは眞に口は調法である、勿論伯爵は野西次郎の大金を得た次第を能く知つて居る、實は之を知るが爲に曾て莫大の辛苦を費したのだ、けれど爾は云はぬ「イヤ私は能く知りませんが、ヤミナ州に在るヤミナ銀行へ問合せば分りませう、何でも那の頃ヤミナ銀行が軍用金を取扱ツて居ましたから」唯だ此ヤミナ銀行へ問合せと云ふ一語が、穩やな青天に一點現はれる雲の種とも云ふ可き者であツた、一點の雲の種が、他日何の樣に廣がツて、何の樣な風雷を引起すかは誰とても豫想が出來ぬ。
併し段倉は此言葉を聞いて喜んだ、皮春侯爵との縁組に付き伯爵の贊成を得ぬのは殘念だけれど、若しやヤミナ銀行へ問合せて野西との縁談を破る口實でも得れば其殘念は埋合はすには足るのだ、彼は猶ほ一言二言話した上、全く手取早くヤミナ銀行へ問合せの手紙を出す爲に伯爵に分れを告げて去つた。
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是れと略同じ刻限である、濃い覆面に顏を隱した一婦人が司法省に出頭し、官房の戸を叩いた、取次の男は兼て長官の命でも含んで待つて居たかの樣に「貴方は蛭峰大檢事へ、裁判上の參考になる材料をお告げ申す爲めに來た方ですか」と問ひ、夫人が點首くが否や、直に戸を開いて内に入れた。
Youtube モンテ・クリスト伯(巌窟王)67 朗読

