南総里見八犬伝(005)

南総里見八犬伝巻之二第四回

東都 曲亭主人 編次

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ

(例)小湊《こみなと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号

(例)又|浦嶋《うらしま》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〓:UNICODE 表にない漢字、[]内に漢字の部分を示したところもあり

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小湊《こみなと》に義實義《よしさねぎ》を聚《あつ》む
笆內《かきのうち》に孝吉讐《たかよしあた》を逐《お》ふ

 卻說義實主從《かくてよしさねしゆうじゆう》は、此《こゝ》の池、彼川《かしこのかは》と、淵《ふち》をたづね、瀨《せ》に立《たち》て、途《みち》より途《みち》に日を消《くら》せば、白濱《しらはま》の旅宿《りよしゆく》へかへらず、ゆき/\て長狹郡《ながさのこふり》、自箸河《しらはしかは》に涉獵《あさる》ほどに、はや三日にぞなりにける。日數《ひかず》もけふを限りと思へば、こゝろ頻《しきり》に焦燥《いらだつ》のみ、獲《えもの》は殊《こと》にありながら、小鯽《こふな》に等しき鯉《こひ》だにも、鈎《はり》にかゝるは絕《たえ》てなし。千劒振神《ちはやふるかみ》の代《よ》に、|彥火々出見尊《ひこほほでみのみこと》こそ、失《うせ》にし鈎《はり》を索《もとめ》つゝ、海龍宮《わたつみ》に遊び給ひけれ。又|浦嶋《うらしま》の子は堅魚釣《かつをつ》り、鯛釣《たひつり》かねて七日まで、家にも來《こ》ずてあさりけん、例《ためし》に今も引く絲の、紊《みだ》れ苦しき主從は、思はずも面《おもて》をあはして、齊一嗟嘆《ひとしくさたん》したりけり。

 浩處《かゝるところ》に河下《かはしも》より、聲《こゑ》高やかに唄《うた》ひつゝこなたを望《さし》て來るものあり。主從これを見かへれば、最蓬《いときたな》げなる乞兒《かたゐ》也。什麼《そも》いかなる打扮《いでたち》ぞ。ふり亂《みだ》したる髮《かみ》は、春の末黑《すぐろ》の芒《すゝき》の如く、掻垂《かきたれ》たる裳《ものすそ》は、秋の浦による海松《みる》に似たり。手ともいはず、顏ともいはず、あやしき瘡《かさ》のいできたる、人の皮膚《はだヘ》はなきものをや。熟《じゆく》せる茘枝《れいし》、裂《さけ》たる柘榴《ざくろ》、巨《ふり》たる蟇《ひき》の脊《そびら》といふとも、かくまではあらじかし。さても命は惜《をし》きものかな。世に疎《うとま》れ、人に嫌《きらは》れても、得死《えしな》ざりける。うち見ても|忌々《いま》しきに、渠《かれ》は何《なに》とも思はざるにや、底斜《そこなゝめ》なる面桶《めんつう》をうち鳴らし、訛《だみ》たる聲して唄《うた》ふを聞けば、
  〽里見えて、/\、白帆《しらほ》走らせ風もよし。安房《あは》の水門《みなと》による舩《ふね》は、浪《なみ》に碎《くだ》けず、
   潮《しほ》にも朽《くち》ず、人もこそ引け、われもひかなん。
くり返《かへ》しつゝ來る程に、やがて河邊《かはべ》に立《たち》とゞまり、|彼人々《かのひとひと》の釣するを、つく/\とうち見てをり。流るゝ膿血《うなぢ》の臭《くさ》ければ、主從《しゆうじゆう》は鼻を掩《おほ》ふて、「とく逝《いね》かし」、とおもふものから、乞兒《かたゐ》は立《たつ》こと久《ひさしう》して、近くよりつゝひとり/\に、笠《かさ》の內をさし覗《のぞ》き、「あな刀袮《との》ばらの釣《つり》ざまこそこゝろ得ね。或《あるひ》は鯽《ふな》、或《あるひ》は蝦《えび》、鈎《はり》を呑《のむ》をば皆|捨《すて》て、何《なに》をか獲《え》まく思ひ給ふ」、としば/\問《とは》れて氏元は、已《やむ》ことを得ず頭《かうべ》を回《めぐら》し、「否《いな》わが欲《ほり》するものは鯉《こひ》也。他魚《あだしうを》は好《このま》しからず。無益《むやく》の殺生《せつせう》せじと思へば、一ッもとゞめず放せし」、といふを乞兒《かたゐ》は聞《きゝ》あへず、腹を抱《かゝえ》てうち笑ひ、「こゝにて鯉を求《もとめ》給ふは、佐渡《さど》にして狐《きつね》を訊《たづね》、伊豆大嶋《いづのおほしま》に馬を問《とふ》より、なほ勞して功なき所爲《わざ》也。いまだ聞召《きこしめさ》れずや。安房一國《あはいつこく》には鯉を生《せう》ぜず、又|甲斐《かひ》にも鯉なしとぞ。是《これ》その風土《ふうど》によるもの欤《か》。又一說に、一國十郡《いつこくじうぐん》ならざれば、彼魚《かのうを》はなきもの也。波巨《はきよ》の冠《くわん》たるものなればといへり。そのなき物を求め給ふは、實に無益《むやく》の殺生ならん」、とあざみ傲《ほこ》りつ、掌《て》を拍《うち》て、又|呵々《かやかや》とうち笑へば、義實おぼえず竿《さを》を捨《すて》、「現巨魚《げにこぎよ》は地中《ちゝう》に生《せう》せず、大鵬《たいぼう》は燕雀《えんじゃく》の林に遊ばず。われいかなれば世を狹《せば》み、天高けれども跼《せくゞま》り、地は厚《あつ》けれども蹐《ぬきあし》して、安房一郡の主《ぬし》にすら容《い》られず。然《さ》るを喩《たとへ》を龍《たつ》に取り、今《いま》又鯉に久後《ゆくすゑ》を、思ひよせしは愚癡《ぐち》なりき。元來《もとより》鯉はこの地方《ところ》に、なしとしりつゝ釣《つり》せよ、といひつる人の心の底は、濁江《にごりえ》ながら影見えて、ふかき伎倆《たくみ》と今ぞしる。もしこの乞兒《かたゐ》に逢《あは》ざりせば、彼毒計《かのどくけい》にあてられなん。危《あやう》かりし」、と今更に、只管驚嘆《ひたすらきやうたん》し給へば、乞兒《かたゐ》はこれを慰《なぐさめ》て、「さのみ悔《くや》しく思ひ給ふな。陸奧《みちのく》にも鯉はなし。彼處《かしこ》は五十四|郡《ぐん》なり。しかれば鯉の生《せう》すると、生《せう》せざるとはその國郡《くにこふり》の、大小によるものかは。かゝれば一國《いつこく》十|郡《ぐん》に充《みた》ざれば、鯉なしといふものは、牽强附會《けんけうふくわい》の臆說《おくせつ》ならずや。十室《とかど》の邑《むら》にも忠信《ちうしん》あり。譬《たとへ》ば里見の御曹司《おんぞうし》、上毛《かみつけ》に人となりて、一个國《いつかこく》を知るによしなく、この處に漂泊《ひやうはく》して、膝《ひざ》を容《い》るゝの室《いへ》なき如し」、といふに主從《しゆうしゆう》目を注《くは》して、乞兒《かたゐ》の顏をうち熟視《まも》る。そが中に義實は、うち聞每《きくごと》に嘆息《たんそく》し、「人は形貌《かたち》によらぬものかな。汝《なんぢ》が辨論乞兒《べんろんかたゐ》に似ず。楚《そ》の狂接輿《きやうせつよ》の類《たぐひ》なる欤《か》、又|彼光明皇后《かのくわうめうくわうぐう》に、垢《あか》を掻《かゝ》せし權者《ごんじや》の類《たぐひ》欤《か》。固《もと》より吾《われ》をしるもの欤《か》。その名を聞《きか》まほしけれ」、と訝《いぶか》り給へば、莞然《につこ》と咲《えみ》、「こゝは人の往還繁《ゆきゝしげ》かり。誘《いぎ》給へ」とて先に立《たて》ば、主從はなほ訝《いぶかり》ながら、遽《いそがは》しく竿《さを》をおさめて、後《あと》に跟《つき》つゝゆく程に、小松原《こまつはら》の鄕《さと》近き、山蔭《やまかげ》に誘引《いざなひ》て、おのが脊《そびら》にうち被《き》たる、菰《こも》を脫《ぬぎ》て塵《ちり》うち拂ひ、樹下《このもと》にうち布《し》きて、義實を居《すえ》まゐらすれば、氏元と貞行は、夏草を折敷《をりしき》て、主《しゆう》の左右についゐたり。

 當下乞兒《そのときかたゐ》は逡巡《あとしさり》して、恭《うやうや》しく額《ぬか》を著《つき》、「いまだ見參《げんざん》に入《い》れるものに候はねば、不審《いぶかし》と思召《おぼしめし》けん。これは神餘長狹介光弘《じんよながさのすけみつひろ》が家隸《いへのこ》に、金碗八郞孝吉《かなまりはちらうたかよし》と呼《よば》れしものゝ、なれる果《はて》にて候かし。金碗は神餘の一族、|歷々《れきれき》たる武士なれ共、庶子《しよし》たるをもって家臣となりぬ。しかれども老臣の第一席に候ひしが、某《それがし》はやく父母《ふぼ》を喪《うしな》ひ、年なほ廿《はたち》に充《みた》ざれば、その職《しよく》に堪《たへ》ずとて、このときに微祿《びろく》せられて、僅《はつか》に近習《きんじゆ》に使《つかは》れたり。かくて主君の行狀《ぎやうでう》よからず、色を好み、酒に荒《すさ》み、側室玉梓《そばめたまづさ》に惑溺《わくでき》して、後堂《こうだう》の內を出《いで》ず、佞人定包《ねいじんさだかね》を重用《ちやうよう》して、賞罰《せうばつ》を任《まか》せしかば、これより家則《かそく》いたく紊《みだ》れて、神は怒り、人はうらめり。その危《あやう》きこと鷄卵《とりのこ》を、累《かさね》たるに異《こと》ならねども、老黨《ろうだう》は祿《ろく》の爲に、その非をしりつゝこれを諫《いさめ》ず、民はおそれて訴へず。君はみづから法を犯《おか》して、これを曉《さと》るによしなければ、某頻《それがししきり》に面《おもて》を犯《おか》して、爭ひ諫《いさむ》れどもそのかひなし。比干《ひかん》が肝《きも》を刀尖《きつさき》に串《つらぬ》き、伍子胥《ごししよ》が眼《まなこ》を東門《とうもん》に掛《かく》るまで、しばしば諫《いさ》めて用ひられずは、死《しな》ばや、と思ひ候ひしが、つく/\と思ひかへせば、臣として君《きみ》の非をいふ、その罪も又|輕《かろ》からず。大厦《たいか》の覆《くつがへら》んとするときに、一《いち》木《ぼく》いかでかこれを拄《さゝえ》ん。身|退《しりぞ》くより外《ほか》なし、と既に深念《しあん》を決《さだめ》しかば、那古七郞《なこのしちらう》、天津《あまつの》兵內《ひやうない》といふ、兩個《ふたり》の同僚《どうやく》にのみ、志《こゝろざし》を吿《つげ》しらせ、妻子《やから》なき身の心やすさは、夜《よ》に紛《まぎ》れて逐電《ちくでん》し、上總《かづさ》へ赴《おもむ》き、下總《しもふさ》へうち越《こえ》、上野下野《かみつけしもつけ》いへばさら也、陸奧《みちのく》の盡處《はて》までも、旅より旅に日を彌《わた》る、便著《たつき》には做得《ならひえ》たる、劍術拳法《けんじゆつやわら》の師範《しはん》と呼《よば》れて、是首《ここ》に半年《はんねん》、彼首《かしこ》に一季《いつき》、またぬ月日もたつとしなれば、はや五年《いつとせ》を經《ふ》るまゝに、故主《こしゆう》の安否《あんひ》心もとなく、今茲竊《ことしひそか》に上總《かつさ》まで、還《かへ》りしことは奈麻餘美《なまよみ》の、甲斐《かひ》こそなけれ主家《しゆうか》の滅亡《めつぼう》。皆|定包《さだかね》が逆意《ぎやくゐ》に起りて、杣木朴平無垢三等《そまきのぼくへいむくざうら》が、獵箭《さつや》に命を隕《おと》し給ふ、と聞《きゝ》つるときは腸斷離《はらわたちぎ》れ、骨も碎《くだく》る心持《こゝち》せり。件《くだん》の朴平無垢三は、父がときより生育《おひたゝ》せ、年來《としごろ》使ひし私卒《わかだう》なりき。彼等もをさ/\わが家《いへ》の、劒法《けんじゆつ》を傳受《でんじゆ》しつ、侠氣《をとこぎ》なるものなれば、農家の子には生れても、畊耘《たがやしくさき》る事を好まず、いつ/\までもと思ひけん、某《それがし》に棄《すて》られて、又|土民《どみん》にはなりたれども、苛法《からきはつと》の苦しさに、主《しゆう》の仇《あた》、身の讐《あた》なる、定包を射て殺さん、と思ふ矢坪《やつぼ》をはかられて、うたてき所行《わざ》をしてけり、と推量《おしはか》れば猶怨《なほうらみ》ても、怨倦《うらみあか》ぬは彼逆賊《かのぎやくぞく》。狙擊《ねらひうた》んと思へども、面《おもて》は豫《かね》て見しられたり、近づくべうもあらざれば、晉《しん》の豫讓《よじやう》に做《なら》ひつゝ、身に漆《うるし》して姿を窶《やつ》し、日每《ひごと》に瀧田を俳徊《はいくわい》して、閒《ま》なく時なく窺《うかゞ》へ共、露《つゆ》ばかりも便りを得ず、怪しむ人のなきにあらねば、且《しばら》く彼處《かしこ》を遠離《とほざか》りて、この處へ來る程に、よに隱れなき巷《ちまた》の風聞《ふうぶん》、里見冠者義實《さとみのくわんじやよしさね》ぬし、結城《ゆふき》の屯《たむろ》を脫《のが》れ來て、麻呂安西《まろあんさい》をたのみ給へど、彼《かの》人々は能《のう》を忌《い》み、才《さえ》を媢《ねた》みてこれを用ひず、剩言《あまつさへこと》を設《まうけ》て、殺さんと計《はか》れるよし、不思議に耳に入るといへ共、君に吿《つげ》なん因《よすが》はあらず。一トたび御名《みな》を聞《きゝ》しより、只嬰兒《たゞみどりこ》が垂乳母《たらちめ》を、慕《した》ふ心持《こゝち》はするものから、そは何處《いづこ》にとうちつけに、人に問《とふ》べきことならねば、胸のみ苦し。しかはあれど、いかでめぐりもあはんとて、彼此《をちこち》となく呻吟《さまよひ》つゝ、けふはこゝにとしら箸《はし》の、河邊《かはべ》に來《く》れば釣する刀祢《との》ばら、他鄕《たけう》の人とおぼしきに、人表骨相平人《にんひやうこつがらたゞひと》ならず。親しく見えても禮儀《れいぎ》に稱《かな》ふ、その爲體《ていたらく》は主從《しゆうしゆう》也。これぞ正《まさ》しく彼君《かのきみ》ならん、と推量《おしはか》れども白地《いさゝめ》に、いひよるよしも渚漕《なぎさこ》ぐ、蜑《あま》が舟歌《ふなうた》に擬《なぞら》へて、事情《ことのこゝろ》を述《のべ》たりし。何《なに》とか聞《きか》せ給ひけん。里見えて/\とは、里見の君を得て歡《よろこ》ぶ、民の心を表《ひやう》したり。白帆《しらほ》走らせ風もよしとは、白帆《しらほ》は源家《げんけ》の旗《はた》をいふ。こゝに義兵《ぎへい》を揚《あげ》給はゞ、威風《いふう》に靡《なびか》ぬ民草《たみくさ》なし、といへるこゝろを隱したり。安房の水門《みなと》へよる舩《ふね》は、浪《なみ》に碎けず、潮《しほ》にも朽《くち》ず、人もこそひけ、われもひくとは、荀子《しゆんじ》に所云《いはゆる》君は舩《ふね》也。君|今漂泊《いまひやうはく》し給ひて、麻呂安西|等《ら》に忌嫌《いみきらは》れ、難義《なんぎ》におよび給へども、國人《くにうと》なべて贔屓《ひき》たてまつれば、竟《つひ》におん身に恙《つゝが》なく、瀧田《たきた》、館山《たてやま》、平館《ひらたて》なる、剛敵《ごうてき》を、うち平《たひら》げ給はん、と祝《しゆく》してかくは諷《うたへ》る也。今|義《ぎ》に仗《より》て籏《はた》を揚《あげ》、猛《にはか》に瀧田へ推寄《おしよ》せて、定包《さだかね》が罪をかぞへ、短兵急《たんへいきう》に攻《せめ》給はゞ、一擧《いつきよ》して城を落《おと》さん。彼賊既《かのぞくすで》に誅伏《ちうふく》して、平郡長狹《へぐりながさ》を取《とり》給はゞ、麻呂安西等は討《うた》ずも倒《たふ》れん。先《さき》にするときは人を制し、|後《おく》るゝときは征《せい》せらる。とく/\思ひたち給へ。彼城《かのしろ》は|如此々々《しかしか》也、|箇樣々々《かやうかやう》」、と地理|要害《えうがい》を、手にとるごとく述《のべ》しかば、氏元も貞行も、よに憑《たのも》しき心持《こゝち》して、頻《しきり》に耳を側《そばだ》てたり。

 かゝりけれども義實は、その議に從ふ氣色《けしき》なく、「いはるゝ所われには過《すぎ》たり。謀《はかりごと》よしといふとも、寡《くわ》をもて衆《しゆう》に敵しがたし。況《いはんや》われは浮浪人《ふらうにん》なり。何を因《よすが》に躬方《みかた》を集《あつめ》ん。今|只《たゞ》主從三四|人《ン》、瀧田の城を改《せめ》んとせば、蟷蜋《いぼじりむし》が斧《たつき》を楊《あげ》て、車《くるま》にむかふに異ならず。及《および》がたし」、と辭《いろひ》給へば、金碗《かなまり》八郞|小膝《こひざ》をすゝめ、「いふがひなく見え給ふものかな。大約二郡《おほよそにぐん》の民百姓《たみひやくせう》、彼逆賊《かのぎやくぞく》に虐《しへた》げられ、怨骨髓《うらみこつずい》に徹《とほ》るといへども、權《けん》に壓《おさ》れ、威《ゐ》におそれて、且《しばら》く渠《かれ》に從ふのみ。人として義によること、草木《くさき》の日影《ひかげ》に向ふがごとし。君今こゝに孤獨《こどく》を辭《ぢ》せず、神餘《じんよ》が爲に逆を討《うち》、民の土炭《とたん》を救《すくは》んとて、一トたび籏《はた》を揚《あげ》給はゞ、蟻《あり》の蜜《あまき》に聚《つど》ふが如く、響《ひゞき》の物に應するごとく、皆|歡《よろこん》で走集《はせあつま》り、仁義《じんぎ》の軍《いくさ》に命を擲《なげうち》、生《いき》ながら定包が宍《しゝむら》を啖《くらは》ん、と願《ねがは》ざるもの候はんや。孝吉物《たかよしもの》の數《かず》ならねども、計略《はかりこと》をめぐらして、衆人《もろひと》を集合《つどへ》んこと、掌《たなそこ》をかへすより易《やす》かり。計略《はかりこと》は|箇樣々々《かやうかやう》」、と閒《ま》ちかく寄《より》て密語《さゝやけ》ば、義實は「有理《げにも》」と應《いらへ》て、はつかに點頭《うなつき》給ふにぞ、側《かたへ》に聞《きけ》る氏元等は、「奇なり。奇なり」、と感嘆《たんせう》して、又さらに孝吉を、とさまかうさまうち熟視《まも》り、「惜《をしい》かな金碗どの、忠義《ちうぎ》の爲とはいひながら、皮膚《はだへ》は瘡《かさ》に包《つゝま》れて、つや/\人の面影《おもかげ》なし。さでは躬方《みかた》を集《あつむ》るに、しる人ありとも、名吿《なの》るとも、それとは思ひかけざるべし。もしその瘡《かさ》の頓《とみ》に愈《いゆ》る、良藥《りやうやく》なくは不便《ふべん》の事也。藥劑《くすり》もがな」、と慰《なぐさむ》れば、孝吉|聞《きゝ》て袖《そで》を掻揚《かきあげ》、「故主《こしゆう》の爲には身もをしからず。遂《つひ》に廢人《かたは》となりぬとも、彼逆賊《かのぎやくぞく》を滅《ほろぼ》さば、望《のぞみ》は既に足《たり》なんものを。わが爲による軍兵《ぐんひやう》ならねば、面影《おもかげ》は變《かは》るとも、露ばかりも妨《さまたげ》なし。必懸念《かならずけねん》し給ふな」、といひつゝ腕《かひな》をかき附《なづ》れば、義實|且《しばら》く沈吟《うちあん》じ、「志はさもありなん。さりとて愈《いゆ》る瘡《かさ》ならば、愈《いや》すにますことあるべからず。漆《うるし》は蟹《かに》を忌《いむ》もの也。されば漆を掻《か》く家にて、もし蟹《かに》を烹《に》ることあれば、漆ながれてよらずとなん。よりて思ふに、今その瘡《かさ》は、漆の毒に觸《ふれ》たるのみ、內より發《いで》きしものならぬに、蟹《かに》をもてその毒を解《とか》ば、立地《たちどころ》に愈《いえ》もやせん。用ひて見よ」、と宣《のたま》へば、孝吉その智に感佩《かんはい》して、遂《つひ》に又|是《これ》を推辭《いなま》ず。「この浦曲《うらわ》には蟹《かに》多かり。いかで試《こゝろ》み候はん」、とことうけまうす折《をり》もよし、蜑《あま》の子どもが頭《かうべ》のうへに、魚藍《ふご》を載《のせ》つゝ來にければ、貞行氏元|遽《いそがは》しく、「こや/\」と呼《よび》とゞめ、「何《なに》ぞ」と問《とへ》ば蟹《かに》也けり。「あな愛《めで》たし」、と笑《えみ》ながら、遣《のこ》りなく買《かひ》とるに、その數《かず》三十あまりあり。義實はこれを見て、「箇樣《かやう》にせよ」、と敎《をしえ》給へば、孝吉はこゝろ得果《えはて》て、その半《なかば》は生《いき》ながら、甲《こう》を碎きて全身《みうち》にぬりつ。そが閒《ひま》に貞行|等《ら》は、腰なる燧《ひうち》をうち鳴らし、松の枯枝《かれえ》を折燒《をりたき》て、殘れる蟹《かに》を炙《あぶ》りつゝ、甲を放《はなち》、足を去《さり》て、孝吉に與《あたふ》るを、ひとつも殘さず腹《ふく》せしかば、さしも今まで臭《くさ》かりし、膿血《うなぢ》は乾《かは》き、瘡痂《かさふた》は、只掻《たゞか》く隨《まゝ》に脫落《こぼれおち》て、大かたならず愈《いえ》にけり。現揭焉《げにいちじるき》藥の效驗《こうげん》、神佛孤忠《しんぶつこちう》を憐《あはれみ》て、かゝる奇特《きどく》を示すに似たり。「奇《き》也/\」、と氏元は、貞行もろ共|縱《たて》に見つ、橫にながめて嘆賞《たんせう》し、「あれ見給へ」、と指《ゆびさ》せば、孝吉は馬蹄迹《うまざくり》の、溜水《たまりみづ》を鏡《かゞみ》にして、わが面影《おもかげ》をつく/\と、見つゝ感淚《かんるい》を禁《とゞめ》あへず、「皮膚《はだへ》はつゞける處もなく、掻亂《かきみだ》せし瘡《かさ》は、今|立地《たちところ》に愈《いえ》たる事、文武《ぶんぶ》の道に長《たけ》給ふ、良將《りやうせう》の賜《たまもの》なり。名醫《めいゐ》は國を醫《ゐ》するとかや。某《それがし》が身ひとつは、屑《ものゝかず》にも候はず。亂れし國をうち治《おさ》め、民の苦艱《かんく》を救ひ給はゞ、眞《まこと》にこよなき仁術《じんじゆつ》ならん。此《この》ところは麻呂安西が、采地《れうぶん》に候はねば、よしや限れる日を過《すぐ》す共、彼等もせんすべなからん歟《か》。さりとて猶豫《ゆうよ》すべきにあらず。嚮《さき》に密語《さゝやき》まうせしごとく、はやく彼處《かしこ》へ赴《おもむ》き給へ」、と叮嚀《ねんころ》に勸《すゝ》めつゝ、蓬《おどろ》の髮を掻《かき》あげて、髻短《もとゞりみじか》に引結ぶ、腰には繩《なは》の帶《おび》ながら、隱してもてる匕首《あひくち》を、さして往方《ゆくへ》は小湊《こみなと》の、浦曲《うらわ》迥《はるか》に誘引《いざなひ》ぬ。

 さる程に、金碗八郞孝吉《かなまりはちらうたかよし》は、里見主從に鄕導《みちしるベ》して、小湊《こみなと》へ赴《おもむ》けば、夏の日ながらはや暮《くれ》て、廿日《はつか》あまりの月はまだ、待《まつ》としなれば出《いで》やらず、只誕生寺《たゞたんぜうじ》の鐘《かね》の聲、僂《かゞなふ》れば亥《ゐ》の時なり。さてもこの小湊なる、高光山《こうくわうさん》誕生寺は、敢川村《あへかはむら》のうちにあり。日蓮上人出生《にちれんせうにんしゆつせう》の地なるをもて、日家上人開基《につかせうにんかいき》して、一宇《いちう》の精舍《せうしや》を建立《こんりう》し、誕生寺と名《なづ》けたり。かくてぞ良賎渴仰《りやうせんがつこう》し、僉《みな》この檀那《だんな》となりしかば、法門長久《はうもんとこしなへ》に繁昌《はんぜう》す。俗《よ》にいふ上總《かつさ》の七里法華《しちりほつけ》、安房七浦《あはなゝうら》の經宗《きゃうしう》とて、大かた題目宗《だいもくしう》なれども、就中長狹郡《なかについてながさのこふり》は、祖師《そし》誕生の地なればにや、筍且《かりそめ》にも他宗《たしう》をまじへず、偏固《へんこ》の信者多かりける。

 されば金碗孝吉は、豫《かね》て計《はか》りしことなれば、且里人等《まづさとひとら》を衆《つどへ》んとて、誕生寺のほとりなる、竹叢《たかむら》に火を放《かけ》たり。させる燃草《もえくさ》ならねども、野干玉《ぬばたま》のくらき夜《よ》なれば、火氣忽地《くわきたちまち》に天《そら》に衝《のぼり》て、梢《こすゑ》の宿鳥立騷《ねとりたちさわ》ぎ、法師ばらは撞木《しゆもく》を早めて、鐘を撞《つく》ことしきりなり。かゝりし程に彼此《をちこち》なる、里人等は驚き覺《さめ》て、門《かど》の戶推開瞻仰《とおしあけあふぎみ》て、「すはわが寺に事こそあれ。起《おき》よ、出《いで》よ、と罵《のゝし》りつゝ、里人は棒《ぼう》を引提《ひきさげ》、莊客《ひやくせう》は農具を携《たづさへ》、漁夫舟人《れうしふなおさ》、祢子《ねこ》も釋氏《しやくし》も、おの/\先を爭ふて、|喘々《あへぎあへぎ》走り來つ、と見れば寺は恙《つゝが》なく、其處《そこ》を去ること兩三《りやうさん》町、人もかよはぬ竹薮《たかやぶ》のみ、果敢《はか》なくも燒《やけ》たるなり。夜《よ》は靜《しづか》にして風吹かず、里|遠《とほう》して小舍《こいへ》もなければ、人|僉《みな》走り聚《つどひ》し比《ころ》、火は大かたに鎭《しづま》りて、鐘も音せずなりしかば、衆人《もろひと》更《さら》に呆《あき》れ惑《まど》ひて、鉢卷《はちまき》にせし手拭《てのごひ》を、解《とき》つゝ汗《あせ》をとるもあり、「これはいかなる白徒《しれもの》か、うたてき所行《わざ》をしたるぞや。野火《のび》のすさりてうつりし歟《か》。斯《かう》とはしらず可惜宵《あたらよ》を、人も我《われ》も起《おこ》されて、迩《ちか》きは十町、遐《とほき》は三四|里《り》、飛ぶがごとくに走り來て、減《へら》せしうへに立腹《たつばら》の、やるかたなきをいかにせん」、「さりとてさせる事なきは、歡《よろこ》ぶべき筋《すぢ》ならずや」、といはれて咄《どっ》と笑ふもあり、しうねく罵《のゝし》るものも皆、集合《つどひ》し優《まゝ》に憩《いこ》ひてをり。

 當下《そのとき》金碗孝吉は、燒殘《やけのこ》りたる薮蔭《やぶかげ》より、咳《しはぶ》きしつゝ立出《たちいづ》れば、衆皆齊一《みなみなひとしく》これを見て、「人か、鬼か」、とばかりに、且《かつ》驚き且《かつ》呆れて、「あれよ/\」、といふ程に、孝吉は手を抗《あげ》て、「衆人《もろひと》あやしむことなかれ。われは甲夜《よひ》より此《この》ところに、伱達《なんたち》をまつもの也」、と喩《さと》せば更にと見かう見て、「原來正《さてはまさ》なき所行《わざ》をして、俺們《われわれ》を迷《まよは》せし、白物《しれもの》は彼奴《かやつ》也。打《うて》よ。括《くゝ》れよ」、と鬩《ひしめ》くを、騷がず軈《やが》て進み寄《より》、「緣由《ことのよし》を吿《つげ》ざれば、しか思はるべきことながら、故《ゆゑ》なくこゝに火を揚《あげ》て、汝達《なんたち》を集合《つどへ》んや。名吿《なのり》をせん」、と推鎭《おししづ》め、「その國亂れて忠臣《ちうしん》あらはれ、その家|艱《なや》みて孝子出づ。志《こゝろざ》すことあればこそ、かくは浮世《うきよ》に隱笠《かくれがさ》、みのざま窶《やつ》れ果《はて》たれば、それとは思ひかけぬなるべし。われは舊《もと》の國主《こくしゆ》に任《つかへ》し、金碗《かなまり》八郞孝吉なり。曩《さき》には君を諫《いさめ》かねて、心ならずも身退《しりぞ》き、旅宿《たびね》に年を經たれども、舊恩《きうおん》いかでか忘《わす》るべき。逆臣|定包《さだかね》を擊《うた》ん爲、潛《しの》びて故鄕《こけう》に立《たち》かへり、名を變《かえ》、姿を窶《やつ》しつゝ、をさ/\隙《ひま》を〓[穴/鬼]《ねらへ》ども、人|衆《おほ》ければ天に捷《かつ》、讐《あた》は三里の城に居《ゐ》て、萬人《まんにん》の從類《じゆうるい》あり。豫讓《よじやう》が劒《つるぎ》を橋下《きやうか》に磨《とぎ》、又あるときは忠光《たゞみつ》が、眼《まなこ》を魚鱗《ぎよりん》に覆《おほへ》どもかひなし。さりとて平館《ひらたて》、|々山《たてやま》なる、麻呂安西は心|蓬《きたな》く、逆に與《くみ》して恥《はぢ》とせず。古主《こしゆう》に舊交《きうこう》ありといふとも、これらに機密《きみつ》を吿《つげ》がたし。形《あぢき》なき世を憤《いきどほ》り、墓《はか》なきこの身を恨《うらむ》るのみ。愸《なまじい》に現身《うつせみ》の、息《いき》の內こそ術《すべ》なけれ、死しての後《のち》に灵《れう》になりて、遂《つひ》に怨《うらみ》を復《かへ》さんには、〓[月+度]《はら》を切らん、と思ふ折、里見冠者義實《さとみのくわんしやよしさね》ぬし、結城《ゆふき》の寄手《よせて》を殺脫《きりぬけ》て、白濱《しらはま》に漂泊《ひやうはく》し、安西等を賴み給ふに、彼等は忌《いみ》てしばしも留《とゞ》めず、|箇樣々々《かやうかやう》に言《こと》を設《まうけ》て、殺さんとせしかども、縡《こと》いまだその期《ご》に至らず。われはからずも白箸《しらはし》の、河畔《かはべ》に行《ゆき》あひ奉り、忽卒《あからさま》に物いひかけて、竊《ひそか》に試み奉るに、彼君《かのきみ》年なほわかしといへども、言語應對仁《げんぎよおうたいじん》あり義《ぎ》あり、實に文武の良將也。大約結城《おほよそゆふき》に籠《こも》りし武士、或《あるひ》は擊《うた》れ生拘《いけど》られ、恙《つゝが》なきは稀《まれ》なるに、主從《しゆうしゆう》不思議に虎口《こゝう》を脫《のが》れて、こゝに漂泊し給ふこと、わが身ひとつの幸《さち》ならず、彼《かの》逆賊定包に、年來《としごろ》いたく虐《しへたげ》られ、しのび/\にうち欺《なげ》く、伱達《なんたち》が福《さいはひ》ならずや。はやく彼君《かのきみ》に從ひまゐらせ、定包を滅《ほろぼ》さずは、是則賊民《これすなはちぞくみん》也。一國なべて餘殃《よわう》を受《うけ》ん。國の爲に逆を討《うち》、義に仗《よ》るものは良民《りやうみん》也。ながく土炭《とたん》を脫《まぬか》れて、子孫|必餘慶《かならずよけい》を受《うけ》ん。今このことを吿《つげ》んとするに、言《こと》は必洩易《かならずもれやす》し。ひとり/\にいふよしなければ、已《やむ》ことを得ず火を揚《あげ》て、この篁《たかむら》へ集會《つどへ》たり。こは苟且《かりそめ》のことならず」、と叮嚀《ねんごろ》に說示《ときしめ》せば、僉歡《みなよろこび》てもろ手を拍《うち》、「こよなく窶《やつ》れ給ひしかば、面影を認《みし》れるものも、金碗どのとは思ひかけず、よしなきことをいひつるかな。不禮はゆるさせ給へかし。素《もと》より智もなく才《さえ》もなく、蟲に等《ひとし》き俺們《われわれ》なれども、誰《たれ》か國主《こくしゆ》の舊恩を忘るべき。誰《たれ》か定包《さだかね》をうらめしく思はざらん。憎しと思へどちから及ばず、勢ひ當《あたり》がたければ、月日《つきひ》はこゝを照《てら》さずや、とうち欺《なげ》きて候ひし。しかるに里見の君の事、誰《たれ》とはなしに風聲《ふうぶん》す。素姓《すせう》を問《とへ》ば源家《げんけ》の嫡流《ちやくりう》、世に又|罕《まれ》なる良將也、と聞《きゝ》つる日より慕《したは》しく、おの/\足を翹《つまたて》て、渴望《かつぼう》せざるものもなし。夏の日よりも苛酷《いらひど》き、ゑせ大領《たいれう》に病《やみ》萎《しぼ》む、民草《たみくさ》を憐《あはれみ》て、こゝに軍《いくさ》を起し給はゞ、誠《まこと》に國の大幸《たいこう》なり。孰《たれ》か命を惜《をし》むべき。冀《こひねがはく》は金碗どの、これらのよしを申給へ」、と辭《ことば》ひとしく應《いらへ》しかば、孝吉|後《あとべ》方を見かへりて、「其處《そこ》にて聞《きか》せ給ひけん。はや縡成《ことなり》て候」、と呼內《おとなひ》まうせば義實は、氏元貞行を將《い》て薮蔭《やぶかげ》より、|徐々《しづしづ》と進み出《いで》て、衆人《もろひと》にうち對《むか》ひ、「われこそ里見義實なれ。亂《みだれ》たる世は殊更《ことさら》に、弓箭《ゆみや》とる身のならひとて、修羅鬪場《しゆらとうぢやう》に奔走《ほんさう》し、矢傷《ししやう》の鳥となるものから、惡木《あくぼく》の蔭《かげ》には憩《いこ》はず。さりとて民《たみ》の父母《ふぼ》たるべき、その德|絕《たえ》てなしといへども、人|倘《もし》われを捨《すて》じとならば、われ亦《また》その議によらざらんや。譬《たとへ》ば千里《せんり》の駿馬《ときうま》も、その足なければ走りがたく、萬里《ばんり》に羽《は》を振《のす》、大鵬《たいぼう》も、翼《つばさ》なければ飛《とぶ》ことかなはず。われは孤獨の落武者《おちむしや》なれ共、今|衆人《もろひと》の佐《たすけ》を得たり。遂《つひ》になすことなからずやは。さはれ瀧田は剛敵《ごうてき》なり。馬|物具《ものゝぐ》整《とゝの》はず、兵粮《ひやうらう》の貯《たくはへ》なくは、|佻々《かろかろ》しく進みかたし。こはいかにして可《か》ならん」、と問《とは》れて衆皆面《みなみなおもて》をあはし、「現《げに》しかなり」、とばかりに、霎時回答《しばしいらへ》はせざりけり。

 そが中《なか》に、村長《むらおさ》とおぼしくて、老《おい》たるもの兩三人、班《むれ》をはなれてすゝみ出《いで》、「寔《まこと》に御諚《ごぢゃう》で候へば、聊愚按《いさゝかぐあん》を申スなり。凡長狹《およそながさ》一郡は、定包が股肱《こゝう》の老黨《ろうたう》、萎毛酷六《しへたげこくろく》があづかりにて、東條《とうでふ》に在城《ざいせう》せり。こゝを去ること遠からず。且縡《まづこと》の手あはせに、酷六を擊《うち》給はゞ、物具兵粮《ものゝぐひやうらう》いへばさら也、一郡|忽地《たちまち》おん手に入りなん。かくて瀧田を攻《せめ》給はゞ、進退《しんたい》自由に候はずや」、と言委細《ことつばらか》に吿《つげ》まうせば、義實|感嘆《かんたん》大かたならず、頻《しき》りに左右を見かへりて、「おの/\あれを聞《きゝ》たる歟《か》。野夫《やぶ》にも功者《こうのもの》ありとは、この叟等《おきなら》をいふべきなり。奇《き》を出《いだ》し、敵をはかるは、神速《すみやか》なるにますものなし。今宵直《こよひすぐ》さま推懸《おしかけ》て、彼處《かしこ》に備《そなへ》なきを擊《うた》ん。|箇樣々々《かやうかやう》にせよかし」、と謀《はかりこと》を示《しめし》給へば、孝吉等はこゝろを得て、氏元貞行もろ共に、聚合《つどひ》し村民《たみ》を數《かぞふ》れば、一百五十餘人《いつひやくごじうよにん》あり。迺《すなはち》これを三隊《みて》にわけて、謀《はかりこと》を傳《つたふ》れば、僉歡《みなよろこび》て令《げぢ》を承《うけ》、手に物なきは篁《たかむら》なる、巨竹《おほたけ》を伐《きり》とりて、竹槍《たけやり》として挾《わきはさ》む。その一隊《ひとて》は四十餘人、堀內貞行これを將《い》て、假に金碗孝吉《かなまりたかよし》を縛《いましめ》つゝ、先陣に進《すゝみ》けり。これ則《すなはち》義實の、計略《はかりこと》によればなり。後陣《ごぢん》は則《すなはち》五十人、杉倉氏元|大將《たいせう》たり。中軍《ちうぐん》は六十人、義實みづから將《せう》として、二隊《ふたて》は閒徑《こみち》より遶《めぐ》り出《いで》、城の正門《おほて》のほとりにて、一隊《ひとて》にならん、といそがしたり。

 さる程に、東條には、定包《さだかね》が目代《もくだい》なる、萎毛酷六郞元賴《しへたげこくろくらうもとより》、「小湊《こみなと》の火を鎭《しづ》めよ」とて、甲夜《よひ》には夥兵《くみこ》を出《いだ》せしが、火ははや減《きえ》つ、里遠き、野火《のび》なるよしを傳聞《つたへきゝ》て、夥兵《くみこ》は途《みち》よりかへりつゝ、再寐《またね》の夢を結ぶ程に、曉《あけ》がたちかくなりにけり。浩處《かゝるところ》に人夥《ひとあまた》、正門《おほて》の城戶《きど》を敲《たゝ》くにぞ、門卒《かどもるつわもの》は駭《おどろか》されて、「誰《たそ》」と問《とへ》ば、小湊なる、敢川《あへかは》の村長等《むらおさら》が、盜賊《ぬすびと》を捕へしとて、牽立《ひきたて》て來つる也。緣故《ことのもと》を尋《たづぬ》れば、「さン候|甲夜《よひ》の閒《ま》に、誕生寺《たんぜうじ》の竹薮《たかやぶ》なる、野火《のび》を滅《けさ》んとする程に、癖者《くせもの》を捕《とらへ》たり。力量早技面魂《りきりやうはやわざつらたましひ》、凡庸《よのつね》のものにあらず。軈《やが》て出處《しゆつしよ》を責問《せめとへ》ば、只罵《たゞのゝしり》て實《じつ》を得吐《えはか》ず。しる人ありてまうすやう、渠《かれ》は舊《もと》の國主《こくしゆ》に仕《つかへ》し、金碗八郞孝吉といふものなり。古主《こしゆう》の讐《あた》を復《かへ》さんとて、姿を窶《やつ》し、名を變《かえ》て、月ごろ瀧田を徘徊《はいくわい》せし、縡分明《ことふんみやう》に顯《あらは》れたり。こは輕《かろ》からざる罪人《つみひと》なるに、もし過失《あやまち》して走《はしら》せなば、後難遁《こうなんのが》るべうもあらず。よりて曉《あく》るをまたずして、大勢《たいぜい》して將《い》て參りぬ。これらのよしを申シ給へ」、と聲高やかに訴《うったへ》けり。そのとき門卒《かどもるつわもの》は、窓|推開《おしひら》き、つら/\見て、「よくこそしたれ。霎時等《しばしまて》、まうして入れん」、と應《いらへ》あへず、戶を引立《ひきたて》て走り去《さり》、此彼《これかれ》にや吿《つげ》たりけん、且《しばらく》して|瓦落々々《ぐわらぐわら》と、閂《くわんぬき》の音|戞《がら》めかして、角門《くゞりもん》を推《おし》ひらき、「皆とく入れ」、と呼入《よびい》るれば、縛《いましめ》られたる態《ふり》をして、先に進みし孝吉は、索《なは》をはらりと揮解《ふりほど》き、左方《ゆんで》に立《たつ》たる兵士《つわもの》が、刀の鞆《つか》に手を掛《かけ》て、引拔奪《ひきぬきうばふ》て磤《はた》と砍《き》る、刃《やいば》の光もろ共に、頭《かうべ》は飛《とん》で地に落《おち》たり。思ひかけなき事なれば、「こは狼藉《らうぜき》や」、とばかりに、慌忙《あはてふため》く兵士《つわもの》を追立《おつたて》進む貞行は、孝吉等に力を勠《あは》して、薙倒《なぎたふ》し、砍拂《きりはら》ひ、無人鄕《ひとなきさと》に入《い》るごとく、はや二《に》の城戶《きど》へ攻《せめ》つけたり。そが閒《ま》に莊客們《ひやくせうばら》は、大門《だいもん》を推《おし》ひらき、鬨《とき》を咄《どつ》と揚《あげ》しかば、氏元と一隊《ひとて》になりて、溝端《ほりばた》ちかく寄《よせ》たりける、義實これを聞《きゝ》あへず、「時分《じぶん》は今ぞ、圖《づ》をぬかすな。すゝめ進め」、と令《げぢ》し給へば、衆人何《もろひとなに》かは勇《いさま》ざらん。軈《やが》て合《あは》する鬨《とき》の聲、勢潮《いきほひうしほ》の涌《わく》ごとく、驀地《まつしくら》に走入《はせい》りて、一二の城戶《きど》をうち破り、「狗黨《くたう》の萎毛《しへたげ》、とく出《いで》よ。里見冠者《さとみのくわんしや》義實ぬし、この地に歷遊《れきゆう》し給ひしを、衆人推《もろひとおし》て主君と仰《あふ》ぎぬ。されば逆賊|定包《さだかね》をうち滅《ほろぼ》し、國の汚穢《けがれ》を掃《はらひ》給ふ、仁義の軍《いくさ》に誰《たれ》か敵せん。そのゆくところ、過《よぎ》るところ、老弱簟食壷醤《ろうにやくたんしこせう》して、これを迎奉《むかへたてまつ》り、只今|縡《こと》の手あはせに、まづこの城を獻《たてまつ》りぬ。先非《せんひ》を悔《くや》しく思はんものは、降參《こうさん》して頸《くび》を續《つ》げ。惑《まど》ひをとらば玉石《ぎよくせき》と、もろ共に碎けなん。出《いで》よ/\」、と喚《よび》かけて、縱橫無㝵《じゆうわうむげ》に捲立《まくりたつ》れば、城兵《ぜうひやう》ます/\辟易《へきゑき》して、防ぎ戰《たゝかは》んとするものなく、冑《かぶと》を脫弓箭《ぬぎゆみや》を棄《すて》、僉《みな》拜伏して命を乞《こひ》ぬ。

 かくて里見義實は、刃《やいば》に衅[「釁」の意]《ちぬら》ずして、東條の城を乘取《のつと》り、賊將萎毛酷六《ぞくせうしへたけこくろく》を索《たづね》給ふに、「渠《かれ》ははや落亡《おちうせ》て、その往方《ゆくへ》をしらず」といふ。義實|聞《きゝ》て眉根《まゆね》をよせ、「彼《かの》もの漸愧後悔《ざんぎこうくわい》し、志《こゝろざし》を改《あらため》て、けふよりわれに從はゞ、われ舊惡《きうあく》を咎《とがめ》んや。然《さ》るを無明《むめう》の醉醒《えひさめ》ず、いちはやく逃亡《にげう》せし事、固《もと》より惜《をしむ》に足らねども、直《たゞ》に瀧田へ遁《にげ》かへりて、定包に吿《つげ》んには、安西麻呂等に諜《てう》じ合せて、時日《じじつ》を移さず推《おし》よせ來つべし。われ今|新《あらた》に城を獲《え》て、二三百の士卒あれ共、半《なかば》は降參しつるものなり。主客《しゆかく》の勢《いきほひ》甲乙あり。謀合期《はかりことがつこ》せずして、三方《さんほう》に敵を受《うけ》なば、何をもてこれに當らん。誠《まこと》に諱《ゆ》々《ゆ》しき大事《だいじ》にあらずや。酷六既に走るとも、いまだ遠くはゆくべからず。氏元貞行|二隊《にて》にわかれて、疾追留《とくおひとめ》よ」、と令《げぢ》し給へば、「うけ給はりぬ」、と應《いらへ》あへず、はやうち出《いで》んとする折から、金碗八郞孝吉は、何處《いづこ》へか走去《はせさり》けん、軍兵《ぐんひやう》十|人《ン》あまりを將《い》て、忽然《こつぜん》とかへり來つ、大將義實にまうすやう、「けふの働き彼此《かれこれ》と、優劣《まさりおとり》は候はねど、某《それがし》はこの城の案內をよくしりぬ。されば衆軍《しゆぐん》に先たちて、三の城戶《きど》をうち毀《こぼち》、賊將萎毛酷六を、生拘《いけとら》んとてあさりにけれど、絕《たえ》てその所在《ありか》をしらず。顧《おもふ》に城の西北《いぬゐ》には、一條《ひとすぢ》の活路《ぬけみち》あり、前面《むかひ》は檜山《ひのきやま》にして、右のかたは樹立《こだち》ふかく、左は崖高《きりぎしたかう》して、下は千尋《ちひろ》の谷川也。城中一《ぜうちういち》の要害《えうがい》にて、人にしらさぬ祕所《ひしよ》なれば、笆《かき》の內《うち》と名づけたり。彼奴《かやつ》はこゝより遁《にげ》つらん、と推量《おしはか》りて候へば、こゝろ利《きゝ》たる軍兵《ぐんひやう》を駈催《かりもよほ》し、岨《そは》を傳ひ、蔓《かつら》にとり著《つき》、捷徑《ちかみち》よりうち出《いで》て、前面《むかひ》を佶《きつ》と見わたせば、女房《にようばう》子どもを箯《はんだ》に乘《のし》たる、主從《しゆうしゆう》すべて八九人、東南《たつみ》を投《さし》て走るものあり。熟視《つくつくみ》れば酷六なり。這奴《しやつ》もはじめは神餘《じんよ》の老黨《ろうだう》、われには遙立《はるかたち》まさりて、主君《しゆくん》のおぼえ大かたならず、その祿をもて身を肥《こや》し、眷屬妻孥《うからやから》を養ひながら、忠義の爲には得死《えしな》ずして、逆賊に媚諛《こびへつら》ひ、東條に在城して、飽《あく》まで民を虐《しへたげ》たる、天罰|竟《つひ》に逭《まぬか》れず、落城のけふに及びて、迯《にぐ》るとも脫《にが》さんや。『金碗八郞こゝにあり、かへせ戾せ』、と呼《よび》かけて、透閒《すきま》もなく追蒐《おつかく》れば、轎夫《かごかき》どもはこれに脅《おびえ》て、走跌《はしりつまつ》き轉輾《ふしまろび》、箯《はんだ》を撲地《はた》とうち墮《おと》せば、女房子どもは『吐嗟《あなや》』と叫びて、千尋《ちひろ》の谷へ滾落《まろびおち》、株《くひぜ》に打《うた》れ、石に碎かれ、骨も遺《のこさ》ず死《しん》でけり。萎毛は眼前《まのあたり》、妻子《やから》の橫死《わうし》を救ふにすべなく、鉾杖衝《ほこつゑつき》て岸邊に立在《たゞずみ》、こなたを佶《きつ》と見かへりて、脫《のが》れがたくやおもひけん、主從七|人《ン》魚鱗《ぎよりん》に備《そなへ》て、追來《おひく》る我《われ》をまつ程に、躬方《みかた》は鶴翼《くわくよく》に連《つらなつ》て、鷙鳥《しちやう》の燕雀《ことり》を擊《うつ》ごとく、旋風《つむぢ》の沙石《いさご》を卷《まく》ごとく、吐《どつ》と㗲《おめい》て突崩《つきくづ》す。地方《ところ》は名に負ふ節處《せつしよ》也。天《よ》は明《あけ》ながら雲ふかき、岨山蔭《そはやまかげ》の樹下闇《こしたやみ》、進むも退《のく》も一騎打《いつきうち》、互《たがひ》に識《しつ》たるどちなれば、鎧《よろひ》の抽を潛脫《くゞりぬけ》て、先を爭ふ躬方《みかた》の英氣《ゑいき》に、遁足憑《にげあしつき》たる雜兵等《ざふひやうら》は、霎時拄《しばしさゝえ》て散散《ちりちり》に、走るを追蒐追詰《おつかけおひつめ》て、殘りなく生拘《いけど》りつ、竟《つひ》に賊將|萎毛《しへたげ》を、擊《うち》とりて候」、と辭《ことば》せわしく演說《ゑんぜつ》して、件《くだん》の俘《いけどり》を引居《ひきすえ》させ、酷六が頸《くび》もろ共に、實檢《じつけん》に入れしかば、義實思はず嘆息し、「夫兵《それへい》は凶器《けうき》なり。德|衰《おとろへ》て、武を講《こう》し、澤《たく》足らざれば、威《ゐ》をもて制す。こは已《やむ》ことを得ざるのみ。城を攻《せめ》、地を爭ふも、民を救《すくは》ん爲なれば、われ樂《たのし》みて人を殺さず。さは定包《さだかね》に從ふもの、みな惡人にはあるべからず。或《ある》は一旦の害をおそれ、或《ある》は時と勢《いきほひ》に、志《こゝろざし》を移すもの、十にして八九なるべし。この故《ゆゑ》に非を悔《くひ》て、躬方《みかた》にまゐるものとしいへば、やがて命を助《たすく》るのみかは、用《もちひ》ざることなきものを、什麼《そも》いかなれば萎毛が、從卒《じゆうそつ》は生抅《いけど》られ、彼身《かのみ》は卻頭《かへつてかうべ》を喪《うしな》ひ、剩《あまつさへ》妻と子は、石堰水《いはせくみづ》ともろ共に、皮肉《ひにく》碎けて死《しに》たりけん。こは時と勢《いきほひ》に、志を移されて、逆に從ふのみならず、必《かならず》天の赦《ゆるさ》ざる、兇惡《けうあく》のものなるべし。よしや惡には從ふとも、みづから惡をなすべからず。努愼《ゆめつゝし》め」、と說諭《ときさと》し、金碗が牽《ひき》もて來《きた》せし、俘《いけとり》を釋放《ときゆる》させ、「凡新《およそあらた》にまゐれるものは、軍功《ぐんこう》の多少《たせう》によりて、後日《ごにち》に恩賞《おんせう》あるべし」、と正首《まめやか》に仰《おふせ》しかば、僉感淚《みなかんるい》を禁《とゞめ》あへず、「とても捨《すつ》ベき命なりせば、はじめよりこの君に從《したがは》ざることよ」とて、漸愧後悔《ざんぎこうくわい》今更に、身の置《おく》ところをしらざりける。

 かくて又義實は、孝吉等に宣《のたま》ふやう、「酷六《こくろく》瀧田へ逃《にげ》かへらば、定包《さだかね》火急《くわきう》によせ來つべし、と思へば心安からざりしに、孝吉がけふの働き、わが胸中《きやうちう》をしるに似たり。城兵《ぜうひやう》散落《さんらく》せずといふとも、翌《あす》よりして三日が程には、必彼此《かならずをちこち》へ聞えなん。しからば麻呂と安西は、冐《そねみ》て定包を佐《たすく》るなるべし。先にすれば人を制し、後《おく》るゝときは制《せいせ》らる。この曛昏《ゆふぐれ》にうち發《たち》て、通宵《よすがら》走りて平郡《へぐり》に入《い》らば、敵の膽《きも》を冷《ひや》さん歟《か》。初度《しよど》の合戰|躬方《みかた》に利あらば、麻呂安西等は聞怕《きゝをぢ》して、絕《たえ》て頭《かうべ》を出《いだ》すべからず。そはとまれかくもあれ、まづ勸賞《けんせう》を沙汰《さた》せん」とて、金碗八郞孝吉《かなまりはちろうたかよし》を、第一番と定《さだめ》させ、莊園夥賜《しようゑんあまたたび》けれども、「故《もと》より思ふよしあり」とて、固辭《かたくいろ》ひてこれを受《うけ》ず。第二番には小湊《こみなと》にて、「東條《とうでふ》を取給へ」、と申シすゝめし叟《おきな》ども、三|人《ン》を召出《めしいだ》して、その名を問《とは》せ給ひしかば、「三平四治郞仁摠《さんへいしじらうにさう》」と答ふ。義實|聞《きゝ》きてうち微笑《ほゝえみ》、「こはいと愛《めで》たき名也かし。三平《さんへい》とは、山下、麻呂、安西の三雄《さんゆう》を平《たいらく》る、前象《もとつさが》といふべき歟《か》。四治《しじ》は四郡《しぐん》を治《おさめ》ん祥《さが》也。二總《にさう》は則上總下總《すなはちかづさしもふさ》、後《のち》かならずわが掌《て》に入《い》らん歟《か》。かゝればその名をひとつに合《あは》して、おの/\三四《さんし》十二|个村《かむら》に、今又|二增倍《にさうばい》すれば、三十六|所《しよ》の長《おさ》たるべし」とて、御敎書《みぎやうしよ》を賜《たび》にければ、皆|萬歲《ばんせい》と唱《となへ》つゝ、歡《よろこび》いさみて退出《まかで》けり。第三番は氏元貞行、この餘|泛々《はんはん》の輩《ともがら》は、錄するに遑《いとま》あらず。或《あるひ》は秩祿《ちつろく》を宛行《あておこなは》れ、或《あるひ》は牽出物《ひきでもの》を賜《たまは》れば、おの/\齊一拜舞《ひとしくはいぶ》しつ、「賞重《せうおもう》して、罰輕《ばつかろ》し。死せるものも更に生《いく》。活《いけ》る物は榮《さかえ》たり。江《え》に還《かへ》る車轍《わだち》の魚《うを》、雪の中なる常盤木《ときはき》。君が齡《よはひ》はさゞれ石の、巖《いはほ》となるまで竭《つき》せじな」、と今樣《いまやう》を合奏《うたひつれ》て、壽《ことぶ》き興《けう》じ奉りぬ。

 さる程に義實は、法度《はつと》を寬《ゆるう》して、民を安撫《なで》、軍令を正《たゞしう》して、士卒を勵《はげま》し給ひしかば、招かざれどもまゐるもの、數《す》百|人《ン》に及びけり。これらは過半《くわはん》とゞめ置《おき》て、杉倉氏元《すぎくらうぢもと》とゝもに城を守らせ、僅《はつか》に二百餘騎を將《い》て、孝吉を先陣《せんぢん》とし、貞行を後陣《ごぢん》として、平郡《へぐり》へ進發《しんぱつ》し給へば、氏元はこれを諫《いさめ》て、「斯《かく》ては無下《むげ》におん勢寡《せいすくな》し。この城にこそ二三百の士卒あらば足《たり》なん」、と頻《しきり》に密語《さゝやき》申せしかば、義實|頭《かうべ》をうち掉《ふり》て、「否この城はわが巢也。もしこゝを破られなば、何處《いづこ》へか還《かへ》るべき。合戰は必《かならず》しも、勢《せい》の多少によるにもあらず。我《われ》に利あらば二百騎が、千騎二千騎にもなりぬべし。わがうへには懸念《けねん》せで、汝《なんぢ》はよく城を守れ。なほいふべき事こそあれ。麻呂安西等には和睦《わぼく》せよ。必《かならず》これと爭ふべからず。瀧田の敵兵よせ來《きた》らば、力を竭《つく》して防ぎ戰へ。かならず出《いで》て追ふべからず。これ安全の良策《りやうさく》也。|努々懈《ゆめゆめおこた》るべからず」、と叮嚀《ねんごろ》に說諭《ときさと》し、さて先陣《せんぢん》をいそがして、軈《やが》て出陣し給ひけり。

 果《はた》せるかな里見の一軍、その夜《よ》、前原浦《まへはらうら》と濱荻《はまおぎ》なる、堺橋《さかひばし》を渡す折《をり》、義實の德を慕ひ、風《ふう》を望《のそみ》て歸降《きごう》する、野武士鄕士《のぶしごうさむらひ》なンど、百騎二百騎うちつれ立《たち》て、こゝにて追著《おひつき》奉り、軍勢千騎になりしかば、|後々《のちのち》までもこの橋を、千騎橋《せんきはし》と唱《となへ》たり。加旃《しかのみならず》この處《ところ》は、むかし源賴朝卿《みなもとのよりともけう》、當國《たうこく》へ推渡《おしわた》り、上總《かづさ》へ赴き給ふとき、この川のほとりにて、後陣《ごぢん》を待《また》せ給ひしとて、待崎《まつさき》と字《あざな》せる、側《かたへ》に白旗《しらはた》の神祠《やしろ》あり。義實|則《すなはち》馬より下《を》りて、征箭《そや》二條《ふたすぢ》を奉納《ほうなう》し、且《しばら》く祈念し給へば、眞夜中なるに白鳩二隻《しらはとには》、社頭の松の梢《こすゑ》より、はた/\と軒翥《はたゝき》して、平郡《へぐり》のかたへ飛去《とびさり》ぬ。これを見る諸軍兵《しよぐんびやう》、「合戰勝利|疑《うたがひ》なし」とて、勇《いさま》ざるものなかりけり。

南総里見八犬伝巻之二終

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入力:松本修治
校正:松本修治 2005年3月25日、2005年6月7日
編者修正:2025年3月31日

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