南総里見八犬伝巻之二第四回
東都 曲亭主人 編次
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「白箸河に釣して義実義士にあふ」「里見よしさね」「堀内貞行」「杉倉氏元」\「金碗孝吉夜里人をあつむ」「金まり八郎」
小湊に義實義を聚む
笆內に孝吉讐を逐ふ。
卻說義實主從は、此の池、彼川と、淵をたづね、瀨に立て、途より途に日を消せば、白濱の旅宿へかへらず、ゆき〳〵て長狹郡、自箸河に涉獵ほどに、はや三日にぞなりにける。日數もけふを限りと思へば、こゝろ頻に焦燥のみ、獲は殊にありながら、小鯽に等しき鯉だにも、鈎にかゝるは絕てなし。千劒振神の代に、彥火々出見尊こそ、失にし鈎を索つゝ、海龍宮に遊び給ひけれ。又浦嶋の子は堅魚釣り、鯛釣かねて七日まで、家にも來ずてあさりけん、例に今も引く絲の、紊れ苦しき主從は、思はずも面をあはして、齊一嗟嘆したりけり。
浩處に河下より、聲高やかに唄ひつゝこなたを望て來るものあり。主從これを見かへれば、最蓬げなる乞兒也。什麼いかなる打扮ぞ。ふり亂したる髮は、春の末黑の芒の如く、掻垂たる裳は、秋の浦による海松に似たり。手ともいはず、顏ともいはず、あやしき瘡のいできたる、人の皮膚はなきものをや。熟せる茘枝、裂たる柘榴、巨たる蟇の脊といふとも、かくまではあらじかし。さても命は惜きものかな。世に疎れ、人に嫌れても、得死ざりける。うち見ても忌々しきに、渠は何とも思はざるにや、底斜なる面桶をうち鳴らし、訛たる聲して唄ふを聞けば、
〽里見えて、〳〵、白帆走らせ風もよし。安房の水門による舩は、浪に碎けず、潮にも朽ず、人もこそ引け、われもひかなん。
くり返しつゝ來る程に、やがて河邊に立とゞまり、彼人々の釣するを、つく〴〵とうち見てをり。流るゝ膿血の臭ければ、主從は鼻を掩ふて、「とく逝かし」、とおもふものから、乞兒は立こと久して、近くよりつゝひとり〳〵に、笠の內をさし覗き、「あな刀袮ばらの釣ざまこそこゝろ得ね。或は鯽、或は蝦、鈎を呑をば皆捨て、何をか獲まく思ひ給ふ」、としば〳〵問れて氏元は、已ことを得ず頭を回し、「否わが欲するものは鯉也。他魚は好しからず。無益の殺生せじと思へば、一ッもとゞめず放せし」、といふを乞兒は聞あへず、腹を抱てうち笑ひ、「こゝにて鯉を求給ふは、佐渡にして狐を訊、伊豆大嶋に馬を問より、なほ勞して功なき所爲也。いまだ聞召れずや。安房一國には鯉を生ぜず、又甲斐にも鯉なしとぞ。是その風土によるもの欤。又一說に、一國十郡ならざれば、彼魚はなきもの也。波巨の冠たるものなればといへり。そのなき物を求め給ふは、實に無益の殺生ならん」、とあざみ傲りつ、掌を拍て、又呵々とうち笑へば、義實おぼえず竿を捨、「現巨魚は地中に生せず、大鵬は燕雀の林に遊ばず。われいかなれば世を狹み、天高けれども跼り、地は厚けれども蹐して、安房一郡の主にすら容られず。然るを喩を龍に取り、今又鯉に久後を、思ひよせしは愚癡なりき。元來鯉はこの地方に、なしとしりつゝ釣せよ、といひつる人の心の底は、濁江ながら影見えて、ふかき伎倆と今ぞしる。もしこの乞兒に逢ざりせば、彼毒計にあてられなん。危かりし」、と今更に、只管驚嘆し給へば、乞兒はこれを慰て、「さのみ悔しく思ひ給ふな。陸奧にも鯉はなし。彼處は五十四郡なり。しかれば鯉の生すると、生せざるとはその國郡の、大小によるもの欤は。かゝれば一國十郡に充ざれば、鯉なしといふものは、牽强附會の臆說ならずや。十室の邑にも忠信あり。譬ば里見の御曹司、上毛に人となりて、一个國を知るによしなく、この處に漂泊して、膝を容るゝの室なき如し」、といふに主從目を注して、乞兒の顏をうち熟視る。
そが中に義實は、うち聞每に嘆息し、「人は形貌によらぬものかな。汝が辨論乞兒に似ず。楚の狂接輿の類なる欤、又彼光明皇后に、垢を掻せし權者の類欤。固より吾をしるもの欤。その名を聞まほしけれ」、と訝り給へば、莞然と咲、「こゝは人の往還繁かり。誘給へ」とて先に立ば、主從はなほ訝ながら、遽しく竿をおさめて、後に跟つゝゆく程に、小松原の鄕近き、山蔭に誘引て、おのが脊にうち被たる、菰を脫て塵うち拂ひ、樹下にうち布きて、義實を居まゐらすれば、氏元と貞行は、夏草を折敷て、主の左右についゐたり。
當下乞兒は逡巡して、恭しく額を著、「いまだ見參に入れるものに候はねば、不審と思召けん。これは神餘長狹介光弘が家隸に、金碗八郞孝吉と呼れしものゝ、なれる果にて候かし。金碗は神餘の一族、歷々たる武士なれ共、庶子たるをもって家臣となりぬ。しかれども老臣の第一席に候ひしが、某はやく父母を喪ひ、年なほ廿に充ざれば、その職に堪ずとて、このときに微祿せられて、僅に近習に使れたり。かくて主君の行狀よからず、色を好み、酒に荒み、側室玉梓に惑溺して、後堂の內を出ず、佞人定包を重用して、賞罰を任せしかば、これより家則いたく紊れて、神は怒り、人はうらめり。その危きこと鷄卵を、累たるに異ならねども、老黨は祿の爲に、その非をしりつゝこれを諫ず、民はおそれて訴へず。君はみづから法を犯して、これを曉るによしなければ、某頻に面を犯して、爭ひ諫れどもそのかひなし。比干が肝を刀尖に串き、伍子胥が眼を東門に掛るまで、しばしば諫めて用ひられずは、死ばや、と思ひ候ひしが、つく〴〵と思ひかへせば、臣として君の非をいふ、その罪も又輕からず。大厦の覆んとするときに、一木いかでかこれを拄ん。身退くより外なし、と既に深念を決しかば、那古七郞、天津兵內といふ、兩個の同僚にのみ、志を吿しらせ、妻子なき身の心やすさは、夜に紛れて逐電し、上總へ赴き、下總へうち越、上野下野いへばさら也、陸奧の盡處までも、旅より旅に日を彌る、便著には做得たる、劍術拳法の師範と呼れて、是首に半年、彼首に一季、またぬ月日もたつとしなれば、はや五年を經るまゝに、故主の安否心もとなく、今茲竊に上總まで、還りしことは奈麻餘美の、甲斐こそなけれ主家の滅亡。皆定包が逆意に起りて、杣木朴平無垢三等が、獵箭に命を隕し給ふ、と聞つるときは腸斷離れ、骨も碎る心持せり。件の朴平無垢三は、父がときより生育せ、年來使ひし私卒なりき。彼等もをさ〳〵わが家の、劒法を傳受しつ、侠氣なるものなれば、農家の子には生れても、畊耘る事を好まず、いつ〳〵までもと思ひけん、某に棄られて、又土民にはなりたれども、苛法の苦しさに、主の仇、身の讐なる、定包を射て殺さん、と思ふ矢坪をはかられて、うたてき所行をしてけり、と推量れば猶怨ても、怨倦ぬは彼逆賊。狙擊んと思へども、面は豫て見しられたり、近づくべうもあらざれば、晉の豫讓に做ひつゝ、身に漆して姿を窶し、日每に瀧田を俳徊して、閒なく時なく窺へ共、露ばかりも便りを得ず、怪しむ人のなきにあらねば、且く彼處を遠離りて、この處へ來る程に、よに隱れなき巷の風聞、里見冠者義實ぬし、結城の屯を脫れ來て、麻呂安西をたのみ給へど、彼人々は能を忌み、才を媢みてこれを用ひず、剩言を設て、殺さんと計れるよし、不思議に耳に入るといへ共、君に吿なん因はあらず。一トたび御名を聞しより、只嬰兒が垂乳母を、慕ふ心持はするものから、そは何處にとうちつけに、人に問べきことならねば、胸のみ苦し。しかはあれど、いかでめぐりもあはんとて、彼此となく呻吟つゝ、けふはこゝにとしら箸の、河邊に來れば釣する刀祢ばら、他鄕の人とおぼしきに、人表骨相平人ならず。親しく見えても禮儀に稱ふ、その爲體は主從也。これぞ正しく彼君ならん、と推量れども白地に、いひよるよしも渚漕ぐ、蜑が舟歌に擬へて、事情を述たりし。何とか聞せ給ひけん。里見えて〳〵とは、里見の君を得て歡ぶ、民の心を表したり。白帆走らせ風もよしとは、白帆は源家の旗をいふ。こゝに義兵を揚給はゞ、威風に靡ぬ民草なし、といへるこゝろを隱したり。安房の水門へよる舩は、浪に碎けず、潮にも朽ず、人もこそひけ、われもひくとは、荀子に所云君は舩也。君今漂泊し給ひて、麻呂安西等に忌嫌れ、難義におよび給へども、國人なべて贔屓たてまつれば、竟におん身に恙なく、瀧田、館山、平館なる、剛敵を、うち平げ給はん、と祝してかくは諷る也。今義に仗て籏を揚、猛に瀧田へ推寄せて、定包が罪をかぞへ、短兵急に攻給はゞ、一擧して城を落さん。彼賊既に誅伏して、平郡長狹を取給はゞ、麻呂安西等は討ずも倒れん。先にするときは人を制し、後るゝときは征せらる。とく〳〵思ひたち給へ。彼城は如此々々也、箇樣々々」、と地理要害を、手にとるごとく述しかば、氏元も貞行も、よに憑しき心持して、頻に耳を側てたり。
かゝりけれども義實は、その議に從ふ氣色なく、「いはるゝ所われには過たり。謀よしといふとも、寡をもて衆に敵しがたし。況われは浮浪人なり。何を因に躬方を集ん。今只主從三四人ン、瀧田の城を改んとせば、蟷蜋が斧を楊て、車にむかふに異ならず。及がたし」、と辭給へば、金碗八郞小膝をすゝめ、「いふがひなく見え給ふものかな。大約二郡の民百姓、彼逆賊に虐げられ、怨骨髓に徹るといへども、權に壓れ、威におそれて、且く渠に從ふのみ。人として義によること、草木の日影に向ふがごとし。君今こゝに孤獨を辭せず、神餘が爲に逆を討、民の土炭を救んとて、一トたび籏を揚給はゞ、蟻の蜜に聚ふが如く、響の物に應するごとく、皆歡で走集り、仁義の軍に命を擲、生ながら定包が宍を啖ん、と願ざるもの候はんや。孝吉物の數ならねども、計略をめぐらして、衆人を集合んこと、掌をかへすより易かり。計略は箇樣々々」、と閒ちかく寄て密語ば、義實は「有理」と應て、はつかに點頭給ふにぞ、側に聞る氏元等は、「奇なり。奇なり」、と感嘆して、又さらに孝吉を、とさまかうさまうち熟視り、「惜かな金碗どの、忠義の爲とはいひながら、皮膚は瘡に包れて、つや〳〵人の面影なし。さでは躬方を集るに、しる人ありとも、名吿るとも、それとは思ひかけざるべし。もしその瘡の頓に愈る、良藥なくは不便の事也。藥劑もがな」、と慰れば、孝吉聞て袖を掻揚、「故主の爲には身もをしからず。遂に廢人となりぬとも、彼逆賊を滅さば、望は既に足なんものを。わが爲による軍兵ならねば、面影は變るとも、露ばかりも妨なし。必懸念し給ふな」、といひつゝ腕をかき附れば、義實且く沈吟じ、「志はさもありなん。さりとて愈る瘡ならば、愈すにますことあるべからず。漆は蟹を忌もの也。されば漆を掻く家にて、もし蟹を烹ることあれば、漆ながれてよらずとなん。よりて思ふに、今その瘡は、漆の毒に觸たるのみ、內より發きしものならぬに、蟹をもてその毒を解ば、立地に愈もやせん。用ひて見よ」、と宣へば、孝吉その智に感佩して、遂に又是を推辭ず。「この浦曲には蟹多かり。いかで試み候はん」、とことうけまうす折もよし、蜑の子どもが頭のうへに、魚藍を載つゝ來にければ、貞行氏元遽しく、「こや〳〵」と呼とゞめ、「何ぞ」と問ば蟹也けり。「あな愛たし」、と笑ながら、遣りなく買とるに、その數三十あまりあり。義實はこれを見て、「箇樣にせよ」、と敎給へば、孝吉はこゝろ得果て、その半は生ながら、甲を碎きて全身にぬりつ。そが閒に貞行等は、腰なる燧をうち鳴らし、松の枯枝を折燒て、殘れる蟹を炙りつゝ、甲を放、足を去て、孝吉に與るを、ひとつも殘さず腹せしかば、さしも今まで臭かりし、膿血は乾き、瘡痂は、只掻く隨に脫落て、大かたならず愈にけり。現揭焉藥の效驗、神佛孤忠を憐て、かゝる奇特を示すに似たり。「奇也〳〵」、と氏元は、貞行もろ共縱に見つ、橫にながめて嘆賞し、「あれ見給へ」、と指せば、孝吉は馬蹄迹の、溜水を鏡にして、わが面影をつく〴〵と、見つゝ感淚を禁あへず、「皮膚はつゞける處もなく、掻亂せし瘡は、今立地に愈たる事、文武の道に長給ふ、良將の賜なり。名醫は國を醫するとかや。某が身ひとつは、屑にも候はず。亂れし國をうち治め、民の苦艱を救ひ給はゞ、眞にこよなき仁術ならん。此ところは麻呂安西が、采地に候はねば、よしや限れる日を過す共、彼等もせんすべなからん欤。さりとて猶豫すべきにあらず。嚮に密語まうせしごとく、はやく彼處へ赴き給へ」、と叮嚀に勸めつゝ、蓬の髮を掻あげて、髻短に引結ぶ、腰には繩の帶ながら、隱してもてる匕首を、さして往方は小湊の、浦曲迥に誘引ぬ。
さる程に、金碗八郞孝吉は、里見主從に鄕導して、小湊へ赴けば、夏の日ながらはや暮て、廿日あまりの月はまだ、待としなれば出やらず、只誕生寺の鐘の聲、僂れば亥の時なり。さてもこの小湊なる、高光山誕生寺は、敢川村のうちにあり。日蓮上人出生の地なるをもて、日家上人開基して、一宇の精舍を建立し、誕生寺と名けたり。かくてぞ良賎渴仰し、僉この檀那となりしかば、法門長久に繁昌す。俗にいふ上總の七里法華、安房七浦の經宗とて、大かた題目宗なれども、就中長狹郡は、祖師誕生の地なればにや、筍且にも他宗をまじへず、偏固の信者多かりける。
されば金碗孝吉は、豫て計りしことなれば、且里人等を衆んとて、誕生寺のほとりなる、竹叢に火を放たり。させる燃草ならねども、野干玉のくらき夜なれば、火氣忽地に天に衝て、梢の宿鳥立騷ぎ、法師ばらは撞木を早めて、鐘を撞ことしきりなり。かゝりし程に彼此なる、里人等は驚き覺て、門の戶推開瞻仰て、「すはわが寺に事こそあれ。起よ、出よ、と罵りつゝ、里人は棒を引提、莊客は農具を携、漁夫舟人、祢子も釋氏も、おの〳〵先を爭ふて、喘々走り來つ、と見れば寺は恙なく、其處を去ること兩三町、人もかよはぬ竹薮のみ、果敢なくも燒たるなり。夜は靜にして風吹かず、里遠して小舍もなければ、人僉走り聚し比、火は大かたに鎭りて、鐘も音せずなりしかば、衆人更に呆れ惑ひて、鉢卷にせし手拭を、解つゝ汗をとるもあり、「これはいかなる白徒か、うたてき所行をしたるぞや。野火のすさりてうつりし欤。斯とはしらず可惜宵を、人も我も起されて、迩きは十町、遐は三四里、飛ぶがごとくに走り來て、減せしうへに立腹の、やるかたなきをいかにせん」、「さりとてさせる事なきは、歡ぶべき筋ならずや」、といはれて咄と笑ふもあり、しうねく罵るものも皆、集合し優に憩ひてをり。
當下金碗孝吉は、燒殘りたる薮蔭より、咳きしつゝ立出れば、衆皆齊一これを見て、「人か、鬼か」、とばかりに、且驚き且呆れて、「あれよ〳〵」、といふ程に、孝吉は手を抗て、「衆人あやしむことなかれ。われは甲夜より此ところに、伱達をまつもの也」、と喩せば更にと見かう見て、「原來正なき所行をして、俺們を迷せし、白物は彼奴也。打よ。括れよ」、と鬩くを、騷がず軈て進み寄、「緣由を吿ざれば、しか思はるべきことながら、故なくこゝに火を揚て、伱達を集合んや。名吿をせん」、と推鎭め、「その國亂れて忠臣あらはれ、その家艱みて孝子出づ。志すことあればこそ、かくは浮世に隱笠、みのざま窶れ果たれば、それとは思ひかけぬなるべし。われは舊の國主に任し、金碗八郞孝吉なり。曩には君を諫かねて、心ならずも身退き、旅宿に年を經たれども、舊恩いかでか忘るべき。逆臣定包を擊ん爲、潛びて故鄕に立かへり、名を變、姿を窶しつゝ、をさ〳〵隙を𫁖ども、人衆ければ天に捷、讐は三里の城に居て、萬人の從類あり。豫讓が劒を橋下に磨、又あるときは忠光が、眼を魚鱗に覆どもかひなし。さりとて平館、館山なる、麻呂安西は心蓬く、逆に與して恥とせず。古主に舊交ありといふとも、これらに機密を吿がたし。形なき世を憤り、墓なきこの身を恨るのみ。愸に現身の、息の內こそ術なけれ、死しての後に灵になりて、遂に怨を復さんには、腹を切らん、と思ふ折、里見冠者義實ぬし、結城の寄手を殺脫て、白濱に漂泊し、安西等を賴み給ふに、彼等は忌てしばしも留めず、箇樣々々に言を設て、殺さんとせしかども、縡いまだその期に至らず。われはからずも白箸の、河畔に行あひ奉り、忽卒に物いひかけて、竊に試み奉るに、彼君年なほわかしといへども、言語應對仁あり義あり、實に文武の良將也。大約結城に籠りし武士、或は擊れ生拘られ、恙なきは稀なるに、主從不思議に虎口を脫れて、こゝに漂泊し給ふこと、わが身ひとつの幸ならず、彼逆賊定包に、年來いたく虐られ、しのび〳〵にうち欺く、伱達が福ならずや。はやく彼君に從ひまゐらせ、定包を滅さずは、是則賊民也。一國なべて餘殃を受ん。國の爲に逆を討、義に仗るものは良民也。ながく土炭を脫れて、子孫必餘慶を受ん。今このことを吿んとするに、言は必洩易し。ひとり〳〵にいふよしなければ、已ことを得ず火を揚て、この篁へ集會たり。こは苟且のことならず」、と叮嚀に說示せば、僉歡てもろ手を拍、「こよなく窶れ給ひしかば、面影を認れるものも、金碗どのとは思ひかけず、よしなきことをいひつるかな。不禮はゆるさせ給へかし。素より智もなく才もなく、蟲に等き俺們なれども、誰か國主の舊恩を忘るべき。誰か定包をうらめしく思はざらん。憎しと思へどちから及ばず、勢ひ當がたければ、月日はこゝを照さずや、とうち欺きて候ひし。しかるに里見の君の事、誰とはなしに風聲す。素姓を問ば源家の嫡流、世に又罕なる良將也、と聞つる日より慕しく、おの〳〵足を翹て、渴望せざるものもなし。夏の日よりも苛酷き、ゑせ大領に病萎む、民草を憐て、こゝに軍を起し給はゞ、誠に國の大幸なり。孰か命を惜むべき。冀は金碗どの、これらのよしを申給へ」、と辭ひとしく應しかば、孝吉後方を見かへりて、「其處にて聞せ給ひけん。はや縡成て候」、と呼內まうせば義實は、氏元貞行を將て薮蔭より、徐々と進み出て、衆人にうち對ひ、「われこそ里見義實なれ。亂たる世は殊更に、弓箭とる身のならひとて、修羅鬪場に奔走し、矢傷の鳥となるものから、惡木の蔭には憩はず。さりとて民の父母たるべき、その德絕てなしといへども、人倘われを捨じとならば、われ亦その議によらざらんや。譬ば千里の駿馬も、その足なければ走りがたく、萬里に羽を振、大鵬も、翼なければ飛ことかなはず。われは孤獨の落武者なれ共、今衆人の佐を得たり。遂になすことなからずやは。さはれ瀧田は剛敵なり。馬物具整はず、兵粮の貯なくは、佻々しく進みかたし。こはいかにして可ならん」、と問れて衆皆面をあはし、「現しかなり」、とばかりに、霎時回答はせざりけり。そが中に、村長とおぼしくて、老たるもの兩三人、班をはなれてすゝみ出、「寔に御諚で候へば、聊愚按を申スなり。凡長狹一郡は、定包が股肱の老黨、萎毛酷六があづかりにて、東條に在城せり。こゝを去ること遠からず。且縡の手あはせに、酷六を擊給はゞ、物具兵粮いへばさら也、一郡忽地おん手に入りなん。かくて瀧田を攻給はゞ、進退自由に候はずや」、と言委細に吿まうせば、義實感嘆大かたならず、頻りに左右を見かへりて、「おの〳〵あれを聞たるか。野夫にも功者ありとは、この叟等をいふべきなり。奇を出し、敵をはかるは、神速なるにますものなし。今宵直さま推懸て、彼處に備なきを擊ん。箇樣々々にせよかし」、と謀を示給へば、孝吉等はこゝろを得て、氏元貞行もろ共に、聚合し村民を數れば、一百五十餘人あり。迺これを三隊にわけて、謀を傳れば、僉歡て令を承、手に物なきは篁なる、巨竹を伐とりて、竹槍として挾む。その一隊は四十餘人、堀內貞行これを將て、假に金碗孝吉を縛つゝ、先陣に進けり。これ則義實の、計略によればなり。後陣は則五十人、杉倉氏元大將たり。中軍は六十人、義實みづから將として、二隊は間徑より遶り出、城の正門のほとりにて、一隊にならん、といそがしたり。
さる程に、東條には、定包が目代なる、萎毛酷六郞元賴、「小湊の火を鎭めよ」とて、甲夜には夥兵を出せしが、火ははや減つ、里遠き、野火なるよしを傳聞て、夥兵は途よりかへりつゝ、再寐の夢を結ぶ程に、曉がたちかくなりにけり。浩處に人夥、正門の城戶を敲くにぞ、門卒は駭されて、「誰」と問ば、小湊なる、敢川の村長等が、盜賊を捕へしとて、牽立て來つる也。緣故を尋れば、「さン候甲夜の閒に、誕生寺の竹薮なる、野火を滅んとする程に、癖者を捕たり。力量早技面魂、凡庸のものにあらず。軈て出處を責問ば、只罵て實を得吐ず。しる人ありてまうすやう、渠は舊の國主に仕し、金碗八郞孝吉といふものなり。古主の讐を復さんとて、姿を窶し、名を變て、月ごろ瀧田を徘徊せし、縡分明に顯れたり。こは輕からざる罪人なるに、もし過失して走せなば、後難遁るべうもあらず。よりて曉るをまたずして、大勢して將て參りぬ。これらのよしを申シ給へ」、と聲高やかに訴けり。そのとき門卒は、窓推開き、つら〳〵見て、「よくこそしたれ。霎時等、まうして入れん」、と應あへず、戶を引立て走り去、此彼にや吿たりけん、且して瓦落々々と、閂の音戞めかして、角門を推ひらき、「皆とく入れ」、と呼入るれば、縛られたる態をして、先に進みし孝吉は、索をはらりと揮解き、左方に立たる兵士が、刀の鞆に手を掛て、引拔奪て磤と砍る、刃の光もろ共に、頭は飛で地に落たり。思ひかけなき事なれば、「こは狼藉や」、とばかりに、慌忙く兵士を追立進む貞行は、孝吉等に力を勠して、薙倒し、砍拂ひ、無人鄕に入るごとく、はや二の城戶へ攻つけたり。そが閒に莊客們は、大門を推ひらき、鬨を咄と揚しかば、氏元と一隊になりて、溝端ちかく寄たりける、義實これを聞あへず、「時分は今ぞ、圖をぬかすな。すゝめ進め」、と令し給へば、衆人何かは勇ざらん。軈て合する鬨の聲、勢潮の涌ごとく、驀地に走入りて、一二の城戶をうち破り、「狗黨の萎毛、とく出よ。里見冠者義實ぬし、この地に歷遊し給ひしを、衆人推て主君と仰ぎぬ。されば逆賊定包をうち滅し、國の汚穢を掃給ふ、仁義の軍に誰か敵せん。そのゆくところ、過るところ、老弱簟食壷醤して、これを迎奉り、只今縡の手あはせに、まづこの城を獻りぬ。先非を悔しく思はんものは、降參して頸を續げ。惑ひをとらば玉石と、もろ共に碎けなん。出よ〳〵」、と喚かけて、縱橫無㝵に捲立れば、城兵ます〳〵辟易して、防ぎ戰んとするものなく、冑を脫弓箭を棄、僉拜伏して命を乞ぬ。
「笆内に孝吉酷六を撃」「金まり大輔」「しへた毛こく六」
かくて里見義實は、刃に衅ずして、東條の城を乘取り、賊將萎毛酷六を索給ふに、「渠ははや落亡て、その往方をしらず」といふ。義實聞て眉根をよせ、「彼もの漸愧後悔し、志を改て、けふよりわれに從はゞ、われ舊惡を咎んや。然るを無明の醉醒ず、いちはやく逃亡せし事、固より惜に足らねども、直に瀧田へ遁かへりて、定包に吿んには、安西麻呂等に諜じ合せて、時日を移さず推よせ來つべし。われ今新に城を獲て、二三百の士卒あれ共、半は降參しつるものなり。主客の勢甲乙あり。謀合期せずして、三方に敵を受なば、何をもてこれに當らん。誠に諱々しき大事にあらずや。酷六既に走るとも、いまだ遠くはゆくべからず。氏元貞行二隊にわかれて、疾追留よ」、と令し給へば、「うけ給はりぬ」、と應あへず、はやうち出んとする折から、金碗八郞孝吉は、何處へか走去けん、軍兵十人ンあまりを將て、忽然とかへり來つ、大將義實にまうすやう、「けふの働き彼此と、優劣は候はねど、某はこの城の案內をよくしりぬ。されば衆軍に先たちて、三の城戶をうち毀、賊將萎毛酷六を、生拘んとてあさりにけれど、絕てその所在をしらず。顧に城の西北には、一條の活路あり、前面は檜山にして、右のかたは樹立ふかく、左は崖高して、下は千尋の谷川也。城中一の要害にて、人にしらさぬ祕所なれば、笆の內と名づけたり。彼奴はこゝより遁つらん、と推量りて候へば、こゝろ利たる軍兵を駈催し、岨を傳ひ、蔓にとり著、捷徑よりうち出て、前面を佶と見わたせば、女房子どもを箯に乘たる、主從すべて八九人、東南を投て走るものあり。熟視れば酷六なり。這奴もはじめは神餘の老黨、われには遙立まさりて、主君のおぼえ大かたならず、その祿をもて身を肥し、眷屬妻孥を養ひながら、忠義の爲には得死ずして、逆賊に媚諛ひ、東條に在城して、飽まで民を虐たる、天罰竟に逭れず、落城のけふに及びて、迯るとも脫さんや。『金碗八郞こゝにあり、かへせ戾せ』、と呼かけて、透閒もなく追蒐れば、轎夫どもはこれに脅て、走跌き轉輾、箯を撲地とうち墮せば、女房子どもは『吐嗟』と叫びて、千尋の谷へ滾落、株に打れ、石に碎かれ、骨も遺ず死でけり。萎毛は眼前、妻子の橫死を救ふにすべなく、鉾杖衝て岸邊に立在、こなたを佶と見かへりて、脫れがたくやおもひけん、主從七人ン魚鱗に備て、追來る我をまつ程に、躬方は鶴翼に連て、鷙鳥の燕雀を擊ごとく、旋風の沙石を卷ごとく、吐と㗲て突崩す。地方は名に負ふ節處也。天は明ながら雲ふかき、岨山蔭の樹下闇、進むも退も一騎打、互に識たるどちなれば、鎧の抽を潛脫て、先を爭ふ躬方の英氣に、遁足憑たる雜兵等は、霎時拄て散散に、走るを追蒐追詰て、殘りなく生拘りつ、竟に賊將萎毛を、擊とりて候」、と辭せわしく演說して、件の俘を引居させ、酷六が頸もろ共に、實檢に入れしかば、義實思はず嘆息し、「夫兵は凶器なり。德衰て、武を講し、澤足らざれば、威をもて制す。こは已ことを得ざるのみ。城を攻、地を爭ふも、民を救ん爲なれば、われ樂みて人を殺さず。さは定包に從ふもの、みな惡人にはあるべからず。或は一旦の害をおそれ、或は時と勢に、志を移すもの、十にして八九なるべし。この故に非を悔て、躬方にまゐるものとしいへば、やがて命を助るのみかは、用ざることなきものを、什麼いかなれば萎毛が、從卒は生抅られ、彼身は卻頭を喪ひ、剩妻と子は、石堰水ともろ共に、皮肉碎けて死たりけん。こは時と勢に、志を移されて、逆に從ふのみならず、必天の赦ざる、兇惡のものなるべし。よしや惡には從ふとも、みづから惡をなすべからず。努愼め」、と說諭し、金碗が牽もて來せし、俘を釋放させ、「凡新にまゐれるものは、軍功の多少によりて、後日に恩賞あるべし」、と正首に仰しかば、僉感淚を禁あへず、「とても捨ベき命なりせば、はじめよりこの君に從ざることよ」とて、漸愧後悔今更に、身の置ところをしらざりける。
かくて里見義實は、刃に衅ずして、東條の城を乘取り、賊將萎毛酷六を索給ふに、「渠ははや落亡て、その往方をしらず」といふ。義實聞て眉根をよせ、「彼もの漸愧後悔し、志を改て、けふよりわれに從はゞ、われ舊惡を咎んや。然るを無明の醉醒ず、いちはやく逃亡せし事、固より惜に足らねども、直に瀧田へ遁かへりて、定包に吿んには、安西麻呂等に諜じ合せて、時日を移さず推よせ來つべし。われ今新に城を獲て、二三百の士卒あれ共、半は降參しつるものなり。主客の勢甲乙あり。謀合期せずして、三方に敵を受なば、何をもてこれに當らん。誠に諱々しき大事にあらずや。酷六既に走るとも、いまだ遠くはゆくべからず。氏元貞行二隊にわかれて、疾追留よ」、と令し給へば、「うけ給はりぬ」、と應あへず、はやうち出んとする折から、金碗八郞孝吉は、何處へか走去けん、軍兵十人ンあまりを將て、忽然とかへり來つ、大將義實にまうすやう、「けふの働き彼此と、優劣は候はねど、某はこの城の案內をよくしりぬ。されば衆軍に先たちて、三の城戶をうち毀、賊將萎毛酷六を、生拘んとてあさりにけれど、絕てその所在をしらず。顧に城の西北には、一條の活路あり、前面は檜山にして、右のかたは樹立ふかく、左は崖高して、下は千尋の谷川也。城中一の要害にて、人にしらさぬ祕所なれば、笆の內と名づけたり。彼奴はこゝより遁つらん、と推量りて候へば、こゝろ利たる軍兵を駈催し、岨を傳ひ、蔓にとり著、捷徑よりうち出て、前面を佶と見わたせば、女房子どもを箯に乘たる、主從すべて八九人、東南を投て走るものあり。熟視れば酷六なり。這奴もはじめは神餘の老黨、われには遙立まさりて、主君のおぼえ大かたならず、その祿をもて身を肥し、眷屬妻孥を養ひながら、忠義の爲には得死ずして、逆賊に媚諛ひ、東條に在城して、飽まで民を虐たる、天罰竟に逭れず、落城のけふに及びて、迯るとも脫さんや。『金碗八郞こゝにあり、かへせ戾せ』、と呼かけて、透閒もなく追蒐れば、轎夫どもはこれに脅て、走跌き轉輾、箯を撲地とうち墮せば、女房子どもは『吐嗟』と叫びて、千尋の谷へ滾落、株に打れ、石に碎かれ、骨も遺ず死でけり。萎毛は眼前、妻子の橫死を救ふにすべなく、鉾杖衝て岸邊に立在、こなたを佶と見かへりて、脫れがたくやおもひけん、主從七人ン魚鱗に備て、追來る我をまつ程に、躬方は鶴翼に連て、鷙鳥の燕雀を擊ごとく、旋風の沙石を卷ごとく、吐と㗲て突崩す。地方は名に負ふ節處也。天は明ながら雲ふかき、岨山蔭の樹下闇、進むも退も一騎打、互に識たるどちなれば、鎧の抽を潛脫て、先を爭ふ躬方の英氣に、遁足憑たる雜兵等は、霎時拄て散散に、走るを追蒐追詰て、殘りなく生拘りつ、竟に賊將萎毛を、擊とりて候」、と辭せわしく演說して、件の俘を引居させ、酷六が頸もろ共に、實檢に入れしかば、義實思はず嘆息し、「夫兵は凶器なり。德衰て、武を講し、澤足らざれば、威をもて制す。こは已ことを得ざるのみ。城を攻、地を爭ふも、民を救ん爲なれば、われ樂みて人を殺さず。さは定包に從ふもの、みな惡人にはあるべからず。或は一旦の害をおそれ、或は時と勢に、志を移すもの、十にして八九なるべし。この故に非を悔て、躬方にまゐるものとしいへば、やがて命を助るのみかは、用ざることなきものを、什麼いかなれば萎毛が、從卒は生抅られ、彼身は卻頭を喪ひ、剩妻と子は、石堰水ともろ共に、皮肉碎けて死たりけん。こは時と勢に、志を移されて、逆に從ふのみならず、必天の赦ざる、兇惡のものなるべし。よしや惡には從ふとも、みづから惡をなすべからず。努愼め」、と說諭し、金碗が牽もて來せし、俘を釋放させ、「凡新にまゐれるものは、軍功の多少によりて、後日に恩賞あるべし」、と正首に仰しかば、僉感淚を禁あへず、「とても捨ベき命なりせば、はじめよりこの君に從ざることよ」とて、漸愧後悔今更に、身の置ところをしらざりける。
かくて又義實は、孝吉等に宣ふやう、「酷六瀧田へ逃かへらば、定包火急によせ來つべし、と思へば心安からざりしに、孝吉がけふの働き、わが胸中をしるに似たり。城兵散落せずといふとも、翌よりして三日が程には、必彼此へ聞えなん。しからば麻呂と安西は、冐て定包を佐るなるべし。先にすれば人を制し、後るゝときは制らる。この曛昏にうち發て、通宵走りて平郡に入らば、敵の膽を冷さん欤。初度の合戰躬方に利あらば、麻呂安西等は聞怕して、絕て頭を出すべからず。そはとまれかくもあれ、まづ勸賞を沙汰せん」とて、金碗八郞孝吉を、第一番と定させ、莊園夥賜けれども、「故より思ふよしあり」とて、固辭ひてこれを受ず。第二番には小湊にて、「東條を取給へ」、と申シすゝめし叟ども、三人ンを召出して、その名を問せ給ひしかば、「三平四治郞仁摠」と答ふ。義實聞きてうち微笑、「こはいと愛たき名也かし。三平とは、山下、麻呂、安西の三雄を平る、前象といふべき欤。四治は四郡を治ん祥也。二總は則上總下總、後かならずわが掌に入らん欤。かゝればその名をひとつに合して、おの〳〵三四十二个村に、今又二增倍すれば、三十六所の長たるべし」とて、御敎書を賜にければ、皆萬歲と唱つゝ、歡いさみて退出けり。第三番は氏元貞行、この餘泛々の輩は、錄するに遑あらず。或は秩祿を宛行れ、或は牽出物を賜れば、おの〳〵齊一拜舞しつ、賞重して、罸輕し。死せるものも更に生。活る物は榮たり。江に還る車轍の魚、雪の中なる常盤木。君が齡はさゞれ石の、巖となるまで竭せじな」、と今樣を合奏て、壽き興じ奉りぬ。
さる程に義實は、法度を寬して、民を安撫、軍令を正して、士卒を勵し給ひしかば、招かざれどもまゐるもの、數百人ンに及びけり。これらは過半とゞめ置て、杉倉氏元とゝもに城を守らせ、僅に二百餘騎を將て、孝吉を先陣とし、貞行を後陣として、平郡へ進發し給へば、氏元はこれを諫て、「斯ては無下におん勢寡し。この城にこそ二三百の士卒あらば足なん」、と頻に密語申せしかば、義實頭をうち掉て、「否この城はわが巢也。もしこゝを破られなば、何處へか還るべき。合戰は必しも、勢の多少によるにもあらず。我に利あらば二百騎が、千騎二千騎にもなりぬべし。わがうへには懸念せで、伱はよく城を守れ。なほいふべき事こそあれ。麻呂安西等には和睦せよ。必これと爭ふべからず。瀧田の敵兵よせ來らば、力を竭して防ぎ戰へ。かならず出て追ふべからず。これ安全の良策也。努々懈るべからず」、と叮嚀に說諭し、さて先陣をいそがして、軈て出陣し給ひけり。
果せるかな里見の一軍、その夜、前原浦と濱荻なる、堺橋を渡す折、義實の德を慕ひ、風を望て歸降する、野武士鄕士なンど、百騎二百騎うちつれ立て、こゝにて追著奉り、軍勢千騎になりしかば、後々までもこの橋を、千騎橋と唱たり。加旃この處は、むかし源賴朝卿、當國へ推渡り、上總へ赴き給ふとき、この川のほとりにて、後陣を待せ給ひしとて、待崎と字せる、側に白旗の神祠あり。義實則馬より下りて、征箭二條を奉納し、且く祈念し給へば、眞夜中なるに白鳩二隻、社頭の松の梢より、はた〳〵と軒翥して、平郡のかたへ飛去ぬ。これを見る諸軍兵、「合戰勝利疑なし」とて、勇ざるものなかりけり。
南総里見八犬伝巻之二終


