南総里見八犬伝(005)

南総里見八犬伝巻之二第四回
東都 曲亭主人 編次
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白箸河しらはしがはつりして義実よしざね義士ぎしにあふ」「里見よしさね」「堀内貞行」「杉倉氏元」\「金碗かなまり孝吉たかよしよる里人さとひとをあつむ」「金まり八郎」

小湊こみなと義實義よしさねぎあつ
笆內かきのうち孝吉讐たかよしあたふ。

卻說義實主從かくてよしさねしゆうじゆうは、こゝの池、彼川かしこのかはと、ふちをたづね、たちて、みちよりみちに日をくらせば、白濱しらはま旅宿りよしゆくへかへらず、ゆき〳〵て長狹郡ながさのこふり自箸河しらはしかは涉獵あさるほどに、はや三日にぞなりにける。日數ひかずもけふを限りと思へば、こゝろしきり焦燥いらだつのみ、えものことにありながら、小鯽こふなに等しきこひだにも、はりにかゝるはたえてなし。千劒振神ちはやふるかみに、彥火々出見尊ひこほほでみのみことこそ、うせにしはりもとめつゝ、海龍宮わたつみに遊び給ひけれ。又浦嶋うらしまの子は堅魚釣かつをつり、鯛釣たひつりかねて七日まで、家にもずてあさりけん、ためしに今も引く絲の、みだれ苦しき主從は、思はずもおもてをあはして、齊一嗟嘆ひとしくさたんしたりけり。

浩處かゝるところ河下かはしもより、こゑ高やかにうたひつゝこなたをさして來るものあり。主從これを見かへれば、最蓬いときたなげなる乞兒かたゐ也。什麼そもいかなる打扮いでたちぞ。ふりみだしたるかみは、春の末黑すぐろすゝきの如く、掻垂かきたれたるものすそは、秋の浦による海松みるに似たり。手ともいはず、顏ともいはず、あやしきかさのいできたる、人の皮膚はだヘはなきものをや。じゆくせる茘枝れいしさけたる柘榴ざくろふりたるひきそびらといふとも、かくまではあらじかし。さても命はをしきものかな。世にうとまれ、人にきらはれても、得えしなざりける。うち見てもいま々しきに、かれなにとも思はざるにや、底そこなゝめなる面めんつうをうち鳴らし、だみたる聲してうたふを聞けば、

〽里見えて、〳〵、白帆しらほ走らせ風もよし。安房あは水門みなとによるふねは、なみくだけず、しほにもくちず、人もこそ引け、われもひかなん。

くりかへしつゝ來る程に、やがて河邊かはべたちとゞまり、彼人々かのひとひとの釣するを、つく〴〵とうち見てをり。流るゝ膿血うなぢくさければ、主從しゆうじゆうは鼻をおほふて、「とくいねかし」、とおもふものから、乞兒かたゐたつことひさしうして、近くよりつゝひとり〳〵に、かさの內をさしのぞき、「あな刀袮とのばらのつりざまこそこゝろ得ね。あるひふなあるひえびはりのむをば皆すてて、なにをかまく思ひ給ふ」、としば〳〵とはれて氏元は、やむことを得ずかうべめぐらし、「いなわがほりするものはこひ也。他魚あだしうをこのましからず。無益むやく殺生せつせうせじと思へば、一ッもとゞめず放せし」、といふを乞兒かたゐきゝあへず、腹をかゝえてうち笑ひ、「こゝにて鯉をもとめ給ふは、佐さどにしてきつねたづね伊豆大嶋いづのおほしまに馬をとふより、なほ勞して功なき所爲わざ也。いまだ聞召きこしめされずや。安房一國あはいつこくには鯉をせうぜず、又甲斐かひにも鯉なしとぞ。これその風土ふうどによるもの。又一說に、一國十郡いつこくじうぐんならざれば、彼魚かのうをはなきもの也。波巨はきよくわんたるものなればといへり。そのなき物を求め給ふは、實に無益むやくの殺生ならん」、とあざみほこりつ、うちて、又呵々かやかやとうち笑へば、義實おぼえず竿さをすて、「現巨魚げにこぎよ地中ちゝうせうせず、大鵬たいぼう燕雀えんじゃくの林に遊ばず。われいかなれば世をせばみ、天高けれどもせくゞまり、地はあつけれどもぬきあしして、安房一郡のぬしにすらられず。るをたとへたつに取り、いま又鯉に久後ゆくすゑを、思ひよせしは愚癡ぐちなりき。元來もとより鯉はこの地ところに、なしとしりつゝつりせよ、といひつる人の心の底は、濁江にごりえながら影見えて、ふかき伎倆たくみと今ぞしる。もしこの乞兒かたゐあはざりせば、彼毒計かのどくけいにあてられなん。あやうかりし」、と今更に、只管驚嘆ひたすらきやうたんし給へば、乞兒かたゐはこれをなぐさめて、「さのみくやしく思ひ給ふな。陸奧みちのくにも鯉はなし。彼處かしこは五十四ぐんなり。しかれば鯉のせうすると、せうせざるとはその國郡くにこふりの、大小によるものは。かゝれば一國いつこくぐんみたざれば、鯉なしといふものは、牽强附會けんけうふくわい臆說おくせつならずや。十室とかどむらにも忠信ちうしんあり。たとへば里見の御曹司おんぞうし上毛かみつけに人となりて、一个國いつかこくを知るによしなく、この處に漂泊ひやうはくして、ひざるゝのいへなき如し」、といふに主從しゆうしゆう目をくはして、乞兒かたゐの顏をうち熟視まもる。

 そが中に義實は、うち聞每きくごと嘆息たんそくし、「人は形貌かたちによらぬものかな。なんぢ辨論乞兒べんろんかたゐに似ず。狂接輿きやうせつよたぐひなる、又彼光明皇后かのくわうめうくわうぐうに、あかかゝせし權者ごんじやたぐひもとよりわれをしるもの。その名をきかまほしけれ」、といぶかり給へば、莞然につこえみ、「こゝは人の往還繁ゆきゝしげかり。いぎ給へ」とて先にたてば、主從はなほいぶかりながら、いそがはしく竿さををおさめて、あとつきつゝゆく程に、小松原こまつはらさと近き、山蔭やまかげ誘引いざなひて、おのがそびらにうちたる、こもぬぎちりうち拂ひ、樹下このもとにうちきて、義實をすえまゐらすれば、氏元と貞行は、夏草を折敷をりしきて、しゆうの左右についゐたり。

當下乞兒そのときかたゐ逡巡あとしさりして、うやうやしくぬかつき、「いまだ見參げんざんれるものに候はねば、不審いぶかし思召おぼしめしけん。これは神餘長狹介光弘じんよながさのすけみつひろ家隸いへのこに、金碗八郞孝吉かなまりはちらうたかよしよばれしものゝ、なれるはてにて候かし。金碗は神餘の一族、歷々れきれきたる武士なれ共、庶しよしたるをもって家臣となりぬ。しかれども老臣の第一席に候ひしが、それがしはやく父母ふぼうしなひ、年なほ廿はたちみたざれば、そのしよくたへずとて、このときに微祿びろくせられて、はつか近習きんじゆ使つかはれたり。かくて主君の行狀ぎやうでうよからず、色を好み、酒にすさみ、側室玉梓そばめたまづさ惑溺わくできして、後堂こうだうの內をいでず、佞人定包ねいじんさだかね重用ちやうようして、賞罰せうばつまかせしかば、これより家則かそくいたくみだれて、神は怒り、人はうらめり。そのあやうきこと鷄卵とりのこを、かさねたるにことならねども、老黨ろうだう祿ろくの爲に、その非をしりつゝこれをいさめず、民はおそれて訴へず。君はみづから法をおかして、これをさとるによしなければ、某頻それがししきりおもておかして、爭ひいさむれどもそのかひなし。比干ひかんきも刀尖きつさきつらぬき、伍子胥ごししよまなこ東門とうもんかくるまで、しばしばいさめて用ひられずは、しなばや、と思ひ候ひしが、つく〴〵と思ひかへせば、臣としてきみの非をいふ、その罪も又かろからず。大厦たいかくつがへらんとするときに、いちぼくいかでかこれをさゝえん。身退しりぞくよりほかなし、と既に深念しあんさだめしかば、那古七郞なこのしちらう天津あまつの兵內ひやうないといふ、兩個ふたり同僚どうやくにのみ、こゝろざしつげしらせ、妻子やからなき身の心やすさは、まぎれて逐電ちくでんし、上總かづさおもむき、下總しもふさへうちこえ上野下野かみつけしもつけいへばさら也、陸奧みちのく盡處はてまでも、旅より旅に日をわたる、便著たつきには做得ならひえたる、劍術拳法けんじゆつやわら師範しはんよばれて、是首ここ半年はんねん、彼かしこ一季いつき、またぬ月日もたつとしなれば、はや五年いつとせるまゝに、故主こしゆう安否あんひ心もとなく、今茲竊ことしひそか上總かつさまで、かへりしことは奈麻餘美なまよみの、甲斐かひこそなけれ主家しゆうか滅亡めつぼう。皆定包さだかね逆意ぎやくゐに起りて、杣木朴平無垢三等そまきのぼくへいむくざうらが、獵箭さつやに命をおとし給ふ、ときゝつるときは腸斷離はらわたちぎれ、骨もくだく心持こゝちせり。くだんの朴平無垢三は、父がときより生育おひたゝせ、年來としごろ使ひし私卒わかだうなりき。彼等もをさ〳〵わがいへの、劒法けんじゆつ傳受でんじゆしつ、侠氣をとこぎなるものなれば、農家の子には生れても、畊耘たがやしくさきる事を好まず、いつ〳〵までもと思ひけん、それがしすてられて、又土民どみんにはなりたれども、苛法からきはつとの苦しさに、しゆうあた、身のあたなる、定包を射て殺さん、と思ふ矢坪やつぼをはかられて、うたてき所行わざをしてけり、と推量おしはかれば猶怨なほうらみても、怨倦うらみあかぬは彼逆賊かのぎやくぞく狙擊ねらひうたんと思へども、おもてかねて見しられたり、近づくべうもあらざれば、しん豫讓よじやうならひつゝ、身にうるしして姿をやつし、日每ひごとに瀧田を俳徊はいくわいして、なく時なくうかゞへ共、つゆばかりも便りを得ず、怪しむ人のなきにあらねば、しばら彼處かしこ遠離とほざかりて、この處へ來る程に、よに隱れなきちまた風聞ふうぶん里見冠者義實さとみのくわんじやよしさねぬし、結城ゆふきたむろのがれ來て、麻呂安西まろあんさいをたのみ給へど、かの人々はのうみ、さえねたみてこれを用ひず、剩言あまつさへことまうけて、殺さんとはかれるよし、不思議に耳に入るといへ共、君につげなんよすがはあらず。一たび御名みなきゝしより、只嬰兒たゞみどりこ垂乳母たらちめを、した心持こゝちはするものから、そは何處いづこにとうちつけに、人にとふべきことならねば、胸のみ苦し。しかはあれど、いかでめぐりもあはんとて、彼此をちこちとなく呻吟さまよひつゝ、けふはこゝにとしらはしの、河邊かはべれば釣する刀祢とのばら、他鄕たけうの人とおぼしきに、人表骨相平人にんひやうこつがらたゞひとならず。親しく見えても禮儀れいぎかなふ、その爲體ていたらく主從しゆうしゆう也。これぞまさしく彼君かのきみならん、と推量おしはかれども白地いさゝめに、いひよるよしも渚漕なぎさこぐ、あま舟歌ふなうたなぞらへて、事情ことのこゝろのべたりし。なにとかきかせ給ひけん。里見えて〳〵とは、里見の君を得てよろこぶ、民の心をひやうしたり。白帆しらほ走らせ風もよしとは、白帆しらほ源家げんけはたをいふ。こゝに義兵ぎへいあげ給はゞ、威風いふうなびか民草たみくさなし、といへるこゝろを隱したり。安房の水門みなとへよるふねは、なみに碎けず、しほにもくちず、人もこそひけ、われもひくとは、荀子しゆんじ所云いはゆる君はふね也。君今漂泊いまひやうはくし給ひて、麻呂安西等忌嫌いみきらはれ、難義なんぎにおよび給へども、國人くにうとなべて贔屓ひきたてまつれば、つひにおん身につゝがなく、瀧田たきた館山たてやま平館ひらたてなる、剛敵ごうてきを、うちたひらげ給はん、としゆくしてかくはうたへる也。今よりはたあげにはかに瀧田へ推寄おしよせて、定包さだかねが罪をかぞへ、短兵急たんへいきうせめ給はゞ、一擧いつきよして城をおとさん。彼賊既かのぞくすで誅伏ちうふくして、平郡長狹へぐりながさとり給はゞ、麻呂安西等はうたずもたふれん。さきにするときは人を制し、おくるゝときはせいせらる。とく〳〵思ひたち給へ。彼城かのしろ如此々々しかしか也、箇樣々々かやうかやう」、と地理要害えうがいを、手にとるごとくのべしかば、氏元も貞行も、よにたのもしき心持こゝちして、しきりに耳をそばだてたり。

 かゝりけれども義實は、その議に從ふ氣色けしきなく、「いはるゝ所われにはすぎたり。はかりごとよしといふとも、くわをもてしゆうに敵しがたし。いはんやわれは浮浪人ふらうにんなり。何をよすが躬方みかたあつめん。今たゞ主從三四人、瀧田の城をせめんとせば、蟷蜋いぼじりむしたつきあげて、くるまにむかふに異ならず。およびがたし」、といろひ給へば、金碗かなまり八郞小膝こひざをすゝめ、「いふがひなく見え給ふものかな。大約二郡おほよそにぐん民百姓たみひやくせう、彼逆かのぎやくぞくしへたげられ、怨骨うらみこつずいとほるといへども、けんおされ、におそれて、しばらかれに從ふのみ。人として義によること、草木くさき日影ひかげに向ふがごとし。君今こゝに孤獨こどくせず、神餘じんよが爲に逆をうち、民の土炭とたんすくはんとて、一たびはたあげ給はゞ、ありあまきつどふが如く、ひゞきの物に應するごとく、皆よろこん走集はせあつまり、仁義じんぎいくさに命をなげうちいきながら定包がしゝむらくらはん、とねがはざるもの候はんや。孝吉物たかよしものかずならねども、計略はかりことをめぐらして、衆人もろひと集合つどへんこと、たなそこをかへすよりやすかり。計略はかりこと箇樣々々かやうかやう」、とちかくより密語さゝやけば、義實は「有理げにも」といらへて、はつかに點頭うなつき給ふにぞ、かたへきける氏元等は、「奇なり。奇なり」、と感嘆たんせうして、又さらに孝吉を、とさまかうさまうち熟視まもり、「をしいかな金碗どの、忠義ちうぎの爲とはいひながら、皮膚はだへかさつゝまれて、つや〳〵人の面影おもかげなし。さでは躬方みかたあつむるに、しる人ありとも、名吿なのるとも、それとは思ひかけざるべし。もしそのかさとみいゆる、良藥りやうやくなくは不便ふべんの事也。藥劑くすりもがな」、となぐさむれば、孝吉きゝそで掻揚かきあげ、「故主こしゆうの爲には身もをしからず。つひに廢かたはとなりぬとも、彼逆賊かのぎやくぞくほろぼさば、のぞみは既にたりなんものを。わが爲による軍兵ぐんひやうならねば、面影おもかげかはるとも、露ばかりもさまたげなし。必懸念かならずけねんし給ふな」、といひつゝかひなをかきなづれば、義實しばら沈吟うちあんじ、「志はさもありなん。さりとていゆかさならば、いやすにますことあるべからず。うるしかにいむもの也。されば漆をく家にて、もしかにることあれば、漆ながれてよらずとなん。よりて思ふに、今そのかさは、漆の毒にふれたるのみ、內よりいできしものならぬに、かにをもてその毒をとかば、立地たちどころいえもやせん。用ひて見よ」、とのたまへば、孝吉その智に感佩かんはいして、つひに又これ推辭いなまず。「この浦曲うらわにはかに多かり。いかでこゝろみ候はん」、とことうけまうすをりもよし、あまの子どもがかうべのうへに、魚藍ふごのせつゝ來にければ、貞行氏元いそがはしく、「こや〳〵」とよびとゞめ、「なにぞ」ととへかに也けり。「あなめでたし」、とえみながら、のこりなくかひとるに、そのかず三十あまりあり。義實はこれを見て、「箇樣かやうにせよ」、とをしえ給へば、孝吉はこゝろ得果えはてて、そのなかばいきながら、こうを碎きて全身みうちにぬりつ。そがひまに貞行は、腰なるひうちをうち鳴らし、松の枯かれえを折をりたきて、殘れるかにあぶりつゝ、甲をはなち、足をさりて、孝吉にあたふるを、ひとつも殘さずふくせしかば、さしも今までくさかりし、膿血うなぢかはき、瘡痂かさふたは、只たゞかまゝ脫落こぼれおちて、大かたならずいえにけり。現揭焉げにいちじるき藥の效驗こうげん神佛孤忠しんぶつこちうあはれみて、かゝる奇特きどくを示すに似たり。「也〳〵」、と氏元は、貞行もろ共たてに見つ、橫にながめて嘆賞たんせうし、「あれ見給へ」、とゆびさせば、孝吉は馬蹄迹うまざくりの、溜水たまりみづかゞみにして、わが面影おもかげをつく〴〵と、見つゝ感淚かんるいとゞめあへず、「皮膚はだへはつゞける處もなく、掻亂かきみだせしかさは、今立地たちところいえたる事、文武ぶんぶの道にたけ給ふ、良將りやうせうたまものなり。名醫めいゐは國をするとかや。それがしが身ひとつは、ものゝかずにも候はず。亂れし國をうちおさめ、民の苦艱かんくを救ひ給はゞ、まことにこよなき仁術じんじゆつならん。このところは麻呂安西が、采地れうぶんに候はねば、よしや限れる日をすぐす共、彼等もせんすべなからん。さりとて猶豫ゆうよすべきにあらず。さき密語さゝやきまうせしごとく、はやく彼處かしこおもむき給へ」、と叮嚀ねんころすゝめつゝ、おどろの髮をかきあげて、髻短もとゞりみじかに引結ぶ、腰にはなはおびながら、隱してもてる匕首あひくちを、さして往方ゆくへ小湊こみなとの、浦曲うらわはるか誘引いざなひぬ。
さる程に、金碗八郞孝吉かなまりはちらうたかよしは、里見主從に鄕導みちしるベして、小湊こみなとおもむけば、夏の日ながらはやくれて、廿日はつかあまりの月はまだ、まつとしなればいでやらず、只誕生寺たゞたんぜうじかねの聲、かゞなふればの時なり。さてもこの小湊なる、高光山こうくわうさん誕生寺は、敢川村あへかはむらのうちにあり。日蓮上人出生にちれんせうにんしゆつせうの地なるをもて、日家上人開基につかせうにんかいきして、一宇いちう精舍せうしや建立こんりうし、誕生寺となづけたり。かくてぞ良賎渴仰りやうせんがつこうし、みなこの檀那だんなとなりしかば、法門長久はうもんとこしなへ繁昌はんぜうす。にいふ上總かつさ七里法華しちりほつけ安房七浦あはなゝうら經宗きゃうしうとて、大かた題目宗だいもくしうなれども、就中長狹郡なかについてながさのこふりは、祖師そし誕生の地なればにや、筍且かりそめにも他宗たしうをまじへず、偏固へんこの信者多かりける。

 されば金碗孝吉は、かねはかりしことなれば、且里人等まづさとひとらつどへんとて、誕生寺のほとりなる、竹叢たかむらに火をかけたり。させる燃もえくさならねども、野干玉ぬばたまのくらきなれば、火氣忽地くわきたちまちそらのぼりて、こすゑ宿鳥立騷ねとりたちさわぎ、法師ばらは撞木しゆもくを早めて、鐘をつくことしきりなり。かゝりし程に彼此をちこちなる、里人等は驚きさめて、かど戶推開瞻仰とおしあけあふぎみて、「すはわが寺に事こそあれ。おきよ、いでよ、とのゝしりつゝ、里人はぼう引提ひきさげ莊客ひやくせうは農具をたづさへ漁夫舟人れうしふなおさ祢子ねこ釋氏しやくしも、おの〳〵先を爭ふて、喘々あへぎあへぎ走り來つ、と見れば寺はつゝがなく、其處そこを去ること兩りやうさん町、人もかよはぬ竹薮たかやぶのみ、果敢はかなくもやけたるなり。しづかにして風吹かず、里とほうして小舍こいへもなければ、人みな走りつどひころ、火は大かたにしづまりて、鐘も音せずなりしかば、衆人もろひとさらあきまどひて、鉢卷はちまきにせし手拭てのごひを、ときつゝあせをとるもあり、「これはいかなる白徒しれものか、うたてき所行わざをしたるぞや。野火のびのすさりてうつりしかうとはしらず可惜宵あたらよを、人もわれおこされて、ちかきは十町、とほきは三四、飛ぶがごとくに走り來て、へらせしうへに立腹たつばらの、やるかたなきをいかにせん」、「さりとてさせる事なきは、よろこぶべきすぢならずや」、といはれてどっと笑ふもあり、しうねくのゝしるものも皆、集合つどひまゝいこひてをり。

當下そのとき金碗孝吉は、燒殘やけのこりたる薮蔭やぶかげより、しはぶきしつゝ立出たちいづれば、衆皆齊一みなみなひとしくこれを見て、「人か、鬼か」、とばかりに、かつ驚きかつ呆れて、「あれよ〳〵」、といふ程に、孝吉は手をあげて、「衆人もろひとあやしむことなかれ。われは甲夜よひよりこのところに、伱達なんたちをまつもの也」、とさとせば更にと見かう見て、「原來正さてはまさなき所わざをして、俺們われわれまよはせし、白物しれもの彼奴かやつ也。うてよ。くゝれよ」、とひしめくを、騷がずやがて進みより、「緣由ことのよしつげざれば、しか思はるべきことながら、ゆゑなくこゝに火をあげて、伱達なんたち集合つどへんや。名吿なのりをせん」、と推鎭おししづめ、「その國亂れて忠ちうしんあらはれ、その家なやみて孝子出づ。こゝろざすことあればこそ、かくは浮世うきよ隱笠かくれがさ、みのざまやつはてたれば、それとは思ひかけぬなるべし。われはもと國主こくしゆつかへし、金碗かなまり八郞孝吉なり。さきには君をいさめかねて、心ならずも身退しりぞき、旅宿たびねに年を經たれども、舊恩きうおんいかでかわするべき。逆臣定包さだかねうたん爲、しのびて故鄕こけうたちかへり、名をかえ、姿をやつしつゝ、をさ〳〵ひま𫁖ねらへども、人おほければ天にかつあたは三里の城にて、萬人まんにん從類じゆうるいあり。豫讓よじやうつるぎ橋下きやうかとぎ、又あるときは忠光たゞみつが、まなこ魚鱗ぎよりんおほへどもかひなし。さりとて平館ひらたて館山たてやまなる、麻呂安西は心きたなく、逆にくみしてはぢとせず。古主こしゆう舊交きうこうありといふとも、これらに機密きみつつげがたし。あぢきなき世をいきどほり、はかなきこの身をうらむるのみ。なまじい現身うつせみの、いきの內こそすべなけれ、死してののちれうになりて、つひうらみかへさんには、はらを切らん、と思ふ折、里見冠者義實さとみのくわんしやよしさねぬし、結ゆふきの寄よせてを殺きりぬけて、白しらはまに漂ひやうはくし、安西等を賴み給ふに、彼等はいみてしばしもとゞめず、箇樣々々かやうかやうことまうけて、殺さんとせしかども、こといまだそのに至らず。われはからずも白箸しらはしの、河かはべゆきあひ奉り、忽卒あからさまに物いひかけて、ひそかに試み奉るに、彼君かのきみ年なほわかしといへども、言語應對仁げんぎよおうたいじんありあり、實に文武の良將也。大約結城おほよそゆふきこもりし武士、あるひうた生拘いけどられ、つゝがなきはまれなるに、主從しゆうしゆう不思議に虎口こゝうのがれて、こゝに漂泊し給ふこと、わが身ひとつのさちならず、かの逆賊定包に、年來としごろいたくしへたげられ、しのび〳〵にうちなげく、伱達なんたちさいはひならずや。はやく彼君かのきみに從ひまゐらせ、定包をほろぼさずは、是則賊民これすなはちぞくみん也。一國なべて餘殃よわううけん。國の爲に逆をうち、義にるものは良民りやうみん也。ながく土炭とたんまぬかれて、子孫必餘慶かならずよけいうけん。今このことをつげんとするに、こと必洩易かならずもれやすし。ひとり〳〵にいふよしなければ、やむことを得ず火をあげて、このたかむら集會つどへたり。こは苟且かりそめのことならず」、と叮嚀ねんごろ說示ときしめせば、僉歡みなよろこびてもろ手をうち、「こよなくやつれ給ひしかば、面影をみしれるものも、金碗どのとは思ひかけず、よしなきことをいひつるかな。不禮はゆるさせ給へかし。もとより智もなくさえもなく、蟲にひとし俺們われわれなれども、たれ國主こくしゆの舊恩を忘るべき。たれ定包さだかねをうらめしく思はざらん。憎しと思へどちから及ばず、勢ひあたりがたければ、月日つきひはこゝをてらさずや、とうちなげきて候ひし。しかるに里見の君の事、たれとはなしに風聲ふうぶんす。素姓すせうとへ源家げんけ嫡流ちやくりう、世に又まれなる良將也、ときゝつる日よりしたはしく、おの〳〵足をつまたてて、渴望かつぼうせざるものもなし。夏の日よりも苛酷いらひどき、ゑせ大領たいれうやみしぼむ、民草たみくさあはれみて、こゝにいくさを起し給はゞ、まことに國の大幸たいこうなり。たれか命ををしむべき。こひねがはくは金碗どの、これらのよしを申給へ」、とことばひとしくいらへしかば、孝吉あとべ方を見かへりて、「其處そこにてきかせ給ひけん。はや縡成ことなりて候」、と呼內おとなひまうせば義實は、氏元貞行を薮蔭やぶかげより、徐々しづしづと進みいでて、衆人もろひとにうちむかひ、「われこそ里見義實なれ。みだれたる世は殊更ことさらに、弓箭ゆみやとる身のならひとて、修羅鬪場しゆらとうぢやう奔走ほんさうし、矢傷ししやうの鳥となるものから、惡木あくぼくかげにはいこはず。さりとてたみ父母ふぼたるべき、その德たえてなしといへども、人もしわれをすてじとならば、われまたその議によらざらんや。たとへば千せんり駿馬ときうまも、その足なければ走りがたく、萬里ばんりのす大鵬たいぼうも、つばさなければとぶことかなはず。われは孤獨の落武者おちむしやなれ共、今衆人もろひとたすけを得たり。つひになすことなからずやは。さはれ瀧田は剛敵ごうてきなり。馬物具ものゝぐとゝのはず、兵粮ひやうらうたくはへなくは、佻々かろかろしく進みかたし。こはいかにしてならん」、ととはれて衆皆面みなみなおもてをあはし、「げにしかなり」、とばかりに、霎時回答しばしいらへはせざりけり。そがなかに、村長むらおさとおぼしくて、おいたるもの兩三人、むれをはなれてすゝみいで、「まこと御諚ごぢゃうで候へば、聊愚按いさゝかぐあんを申なり。凡長狹およそながさ一郡は、定包が股肱こゝう老黨ろうたう萎毛酷六しへたげこくろくがあづかりにて、東條とうでふ在城ざいせうせり。こゝを去ること遠からず。且縡まづことの手あはせに、酷六をうち給はゞ、物具兵粮ものゝぐひやうらういへばさら也、一郡忽地たちまちおん手に入りなん。かくて瀧田をせめ給はゞ、進退しんたい自由に候はずや」、と言委細ことつばらかつげまうせば、義實感嘆かんたん大かたならず、しきりに左右を見かへりて、「おの〳〵あれをきゝたるか。野夫やぶにも功者こうのものありとは、この叟等おきならをいふべきなり。いだし、敵をはかるは、神速すみやかなるにますものなし。今宵直こよひすぐさま推懸おしかけて、彼處かしこそなへなきをうたん。箇樣々々かやうかやうにせよかし」、とはかりことしめし給へば、孝吉等はこゝろを得て、氏元貞行もろ共に、聚合つどひ村民たみかぞふれば、一百五十餘人いつひやくごじうよにんあり。すなはちこれを三隊みてにわけて、はかりことつたふれば、僉歡みなよろこびげぢうけ、手に物なきはたかむらなる、巨竹おほたけきりとりて、竹槍たけやりとしてわきはさむ。その一隊ひとては四十餘人、堀內貞行これをて、假に金碗孝吉かなまりたかよしいましめつゝ、先陣にすゝみけり。これすなはち義實の、計略はかりことによればなり。後陣ごぢんすなはち五十人、杉倉氏元大將たいせうたり。中軍ちうぐんは六十人、義實みづからせうとして、二隊ふたて間徑こみちよりめぐいで、城の正門おほてのほとりにて、一隊ひとてにならん、といそがしたり。
さる程に、東條には、定包さだかね目代もくだいなる、萎毛酷六郞元賴しへたげこくろくらうもとより、「小湊こみなとの火をしづめよ」とて、甲夜よひには夥兵くみこいだせしが、火ははやきえつ、里遠き、野火のびなるよしを傳聞つたへきゝて、夥兵くみこみちよりかへりつゝ、再寐またねの夢を結ぶ程に、あけがたちかくなりにけり。浩處かゝるところ人夥ひとあまた正門おほての城きどたゝくにぞ、門卒かどもるつわものおどろかされて、「たそ」ととへば、小湊なる、敢川あへかは村長等むらおさらが、盜賊ぬすびとを捕へしとて、牽立ひきたてて來つる也。緣故ことのもとたづぬれば、「さ甲夜よひに、誕生寺たんぜうじ竹薮たかやぶなる、野火のびけさんとする程に、癖者くせものとらへたり。力量早技面魂りきりやうはやわざつらたましひ凡庸よのつねのものにあらず。やがて出しゆつしよ責問せめとへば、只罵たゞのゝしりじつ得吐えはかず。しる人ありてまうすやう、かれもと國主こくしゆつかへし、金碗八郞孝吉といふものなり。古こしゆうあたかへさんとて、姿をやつし、名をかえて、月ごろ瀧田を徘徊はいくわいせし、縡分明ことふんみやうあらはれたり。こはかろからざる罪人つみひとなるに、もし過失あやまちしてはしらせなば、後難遁こうなんのがるべうもあらず。よりてあくるをまたずして、大勢たいぜいしてて參りぬ。これらのよしを申シ給へ」、と聲高やかにうったへけり。そのとき門卒かどもるつわものは、窓推開おしひらき、つら〳〵見て、「よくこそしたれ。霎時等しばしまて、まうして入れん」、といらへあへず、戶を引ひきたてて走りさり此彼これかれにやつげたりけん、しばらくして瓦落々々ぐわらぐわらと、くわんぬきの音がらめかして、角門くゞりもんおしひらき、「皆とく入れ」、と呼入よびいるれば、いましめられたるふりをして、先に進みし孝吉は、なはをはらりと揮解ふりほどき、左方ゆんでたつたる兵士つわものが、刀のつかに手をかけて、引拔奪ひきぬきうばふはたる、やいばの光もろ共に、かうべとんで地におちたり。思ひかけなき事なれば、「こは狼藉らうぜきや」、とばかりに、慌忙あはてふため兵士つわもの追立おつたて進む貞行は、孝吉等に力をあはして、薙倒なぎたふし、砍拂きりはらひ、無人鄕ひとなきさとるごとく、はや城戶きどせめつけたり。そが莊客們ひやくせうばらは、大門だいもんおしひらき、ときどつあげしかば、氏元と一隊ひとてになりて、溝端ほりばたちかくよせたりける、義實これをきゝあへず、「時分じぶんは今ぞ、をぬかすな。すゝめ進め」、とげぢし給へば、衆人何もろひとなにかはいさまざらん。やがあはするときの聲、勢潮いきほひうしほわくごとく、驀地まつしくら走入はせいりて、一二の城戶きどをうち破り、「狗黨くたう萎毛しへたげ、とくいでよ。里見冠者さとみのくわんしや義實ぬし、この地に歷遊れきゆうし給ひしを、衆人推もろひとおして主君とあふぎぬ。されば逆賊定包さだかねをうちほろぼし、國の汚穢けがれはらひ給ふ、仁義のいくさたれか敵せん。そのゆくところ、よぎるところ、老弱簟食壷醤ろうにやくたんしこせうして、これを迎奉むかへたてまつり、只今ことの手あはせに、まづこの城をたてまつりぬ。先非せんひくやしく思はんものは、降參こうさんしてくびげ。まどひをとらば玉石ぎよくせきと、もろ共に碎けなん。いでよ〳〵」、とよびかけて、縱橫無㝵じゆうわうむげ捲立まくりたつれば、城ぜうひやうます〳〵辟易へきゑきして、防ぎたゝかはんとするものなく、かぶと脫弓箭ぬぎゆみやすてみな拜伏して命をこひぬ。


笆内かきのうち孝吉たかよし酷六こくろくうつ」「金まり大輔」「しへた毛こく六」

 かくて里見義實は、やいばちぬらずして、東條の城を乘取のつとり、賊將萎毛酷六ぞくせうしへたけこくろくたづね給ふに、「かれははや落亡おちうせて、その往方ゆくへをしらず」といふ。義實きゝ眉根まゆねをよせ、「かのもの漸愧後悔ざんぎこうくわいし、こゝろざしあらためて、けふよりわれに從はゞ、われ舊惡きうあくとがめんや。るを無明むめう醉醒えひさめず、いちはやく逃亡にげうせし事、もとよりをしむに足らねども、たゞに瀧田へにげかへりて、定包につげんには、安西麻呂等にてうじ合せて、時日じじつを移さずおしよせ來つべし。われ今あらたに城をて、二三百の士卒あれ共、なかばは降參しつるものなり。主客しゆかくいきほひ甲乙あり。謀合期はかりことがつこせずして、三方さんほうに敵をうけなば、何をもてこれに當らん。まことしき大事だいじにあらずや。酷六既に走るとも、いまだ遠くはゆくべからず。氏元貞行二隊にてにわかれて、疾追留とくおひとめよ」、とげぢし給へば、「うけ給はりぬ」、といらへあへず、はやうちいでんとする折から、金碗八郞孝吉は、何處いづこへか走去はせさりけん、軍兵ぐんひやう十人あまりをて、忽然こつぜんとかへり來つ、大將義實にまうすやう、「けふの働き彼此かれこれと、優劣まさりおとりは候はねど、それがしはこの城の案內をよくしりぬ。されば衆軍しゆぐんに先たちて、三の城戶きどをうちこぼち、賊將萎毛酷六を、生拘いけとらんとてあさりにけれど、たえてその所在ありかをしらず。おもふに城の西北いぬゐには、一條ひとすぢ活路ぬけみちあり、前面むかひ檜山ひのきやまにして、右のかたは樹立こだちふかく、左は崖高きりぎしたかうして、下は千尋ちひろの谷川也。城中一ぜうちういち要害えうがいにて、人にしらさぬ祕所ひしよなれば、かきうちと名づけたり。彼奴かやつはこゝよりにげつらん、と推量おしはかりて候へば、こゝろきゝたる軍兵ぐんひやう駈催かりもよほし、そはを傳ひ、かつらにとりつき捷徑ちかみちよりうちいでて、前面むかひきつと見わたせば、女房にようばう子どもをはんだのしたる、主從しゆうしゆうすべて八九人、東南たつみさして走るものあり。熟視つくつくみれば酷六なり。這奴しやつもはじめは神餘じんよ老黨ろうだう、われには遙立はるかたちまさりて、主君しゆくんのおぼえ大かたならず、その祿をもて身をこやし、眷屬妻孥うからやからを養ひながら、忠義の爲には得死えしなずして、逆賊に媚諛こびへつらひ、東條に在城して、あくまで民をしへたげたる、天罰つひまぬかれず、落城のけふに及びて、にぐるともにがさんや。『金碗八郞こゝにあり、かへせ戾せ』、とよびかけて、透閒すきまもなく追蒐おつかくれば、轎夫かごかきどもはこれにおびえて、走跌はしりつまつ轉輾ふしまろびはんだ撲地はたとうちおとせば、女房子どもは『吐嗟あなや』と叫びて、千尋ちひろの谷へ滾落まろびおちくひぜうたれ、石に碎かれ、骨ものこさしんでけり。萎毛は眼前まのあたり妻子やから橫死わうしを救ふにすべなく、鉾杖衝ほこつゑつきて岸邊に立たゞずみ、こなたをきつと見かへりて、のがれがたくやおもひけん、主從七人魚鱗ぎよりんそなへて、追來おひくわれをまつ程に、躬方みかた鶴翼くわくよくつらなつて、鷙鳥しちやう燕雀ことりうつごとく、旋風つむぢ沙石いさごまくごとく、どつおめい突崩つきくづす。地方ところは名に負ふ節處せつしよ也。あけながら雲ふかき、岨山蔭そはやまかげ樹下闇こしたやみ、進むも退のく一騎打いつきうちたがひしつたるどちなれば、よろひの抽を潛脫くゞりぬけて、先を爭ふ躬方みかた英氣ゑいきに、遁足憑にげあしつきたる雜兵等ざふひやうらは、霎時拄しばしさゝえ散散ちりちりに、走るを追蒐追詰おつかけおひつめて、殘りなく生拘いけどりつ、つひに賊將萎毛しへたげを、うちとりて候」、とことばせわしく演說ゑんぜつして、くだんいけどり引居ひきすえさせ、酷六がくびもろ共に、實檢じつけんに入れしかば、義實思はず嘆息し、「夫それへい凶器けうきなり。德おとろへて、武をこうし、たく足らざれば、をもて制す。こはやむことを得ざるのみ。城をせめ、地を爭ふも、民をすくはん爲なれば、われたのしみて人を殺さず。さは定包さだかねに從ふもの、みな惡人にはあるべからず。あるは一旦の害をおそれ、あるは時といきほひに、こゝろざしを移すもの、十にして八九なるべし。このゆゑに非をくひて、躬方みかたにまゐるものとしいへば、やがて命をたすくるのみかは、もちひざることなきものを、什麼そもいかなれば萎毛が、從卒じゆうそつ生抅いけどられ、彼身かのみ卻頭かへつてかうべうしなひ、あまつさへ妻と子は、石堰水いはせくみづともろ共に、皮肉ひにく碎けてしにたりけん。こは時といきほひに、志を移されて、逆に從ふのみならず、かならず天のゆるさざる、兇惡けうあくのものなるべし。よしや惡には從ふとも、みづから惡をなすべからず。努愼ゆめつゝしめ」、と說諭ときさとし、金碗がひきもてきたせし、いけとり釋放ときゆるさせ、「凡新およそあらたにまゐれるものは、軍功ぐんこう多少たせうによりて、後日ごにち恩賞おんせうあるべし」、と正首まめやかおふせしかば、僉感淚みなかんるいとゞめあへず、「とてもすつベき命なりせば、はじめよりこの君にしたがはざることよ」とて、漸愧後悔ざんぎこうくわい今更に、身のおくところをしらざりける。

 かくて里見義實は、やいばちぬらずして、東條の城を乘取のつとり、賊將萎毛酷六ぞくせうしへたけこくろくたづね給ふに、「かれははや落亡おちうせて、その往方ゆくへをしらず」といふ。義實きゝ眉根まゆねをよせ、「かのもの漸愧後悔ざんぎこうくわいし、こゝろざしあらためて、けふよりわれに從はゞ、われ舊惡きうあくとがめんや。るを無明むめう醉醒えひさめず、いちはやく逃亡にげうせし事、もとよりをしむに足らねども、たゞに瀧田へにげかへりて、定包につげんには、安西麻呂等にてうじ合せて、時日じじつを移さずおしよせ來つべし。われ今あらたに城をて、二三百の士卒あれ共、なかばは降參しつるものなり。主客しゆかくいきほひ甲乙あり。謀合期はかりことがつこせずして、三方さんほうに敵をうけなば、何をもてこれに當らん。まことしき大事だいじにあらずや。酷六既に走るとも、いまだ遠くはゆくべからず。氏元貞行二隊にてにわかれて、疾追留とくおひとめよ」、とげぢし給へば、「うけ給はりぬ」、といらへあへず、はやうちいでんとする折から、金碗八郞孝吉は、何處いづこへか走去はせさりけん、軍兵ぐんひやう十人あまりをて、忽然こつぜんとかへり來つ、大將義實にまうすやう、「けふの働き彼此かれこれと、優劣まさりおとりは候はねど、それがしはこの城の案內をよくしりぬ。されば衆軍しゆぐんに先たちて、三の城戶きどをうちこぼち、賊將萎毛酷六を、生拘いけとらんとてあさりにけれど、たえてその所在ありかをしらず。おもふに城の西北いぬゐには、一條ひとすぢ活路ぬけみちあり、前面むかひ檜山ひのきやまにして、右のかたは樹立こだちふかく、左は崖高きりぎしたかうして、下は千尋ちひろの谷川也。城中一ぜうちういち要害えうがいにて、人にしらさぬ祕所ひしよなれば、かきうちと名づけたり。彼奴かやつはこゝよりにげつらん、と推量おしはかりて候へば、こゝろきゝたる軍兵ぐんひやう駈催かりもよほし、そはを傳ひ、かつらにとりつき捷徑ちかみちよりうちいでて、前面むかひきつと見わたせば、女房にようばう子どもをはんだのしたる、主從しゆうしゆうすべて八九人、東南たつみさして走るものあり。熟視つくつくみれば酷六なり。這奴しやつもはじめは神餘じんよ老黨ろうだう、われには遙立はるかたちまさりて、主君しゆくんのおぼえ大かたならず、その祿をもて身をこやし、眷屬妻孥うからやからを養ひながら、忠義の爲には得死えしなずして、逆賊に媚諛こびへつらひ、東條に在城して、あくまで民をしへたげたる、天罰つひまぬかれず、落城のけふに及びて、にぐるともにがさんや。『金碗八郞こゝにあり、かへせ戾せ』、とよびかけて、透閒すきまもなく追蒐おつかくれば、轎夫かごかきどもはこれにおびえて、走跌はしりつまつ轉輾ふしまろびはんだ撲地はたとうちおとせば、女房子どもは『吐嗟あなや』と叫びて、千尋ちひろの谷へ滾落まろびおちくひぜうたれ、石に碎かれ、骨ものこさしんでけり。萎毛は眼前まのあたり妻子やから橫死わうしを救ふにすべなく、鉾杖衝ほこつゑつきて岸邊に立たゞずみ、こなたをきつと見かへりて、のがれがたくやおもひけん、主從七人魚鱗ぎよりんそなへて、追來おひくわれをまつ程に、躬方みかた鶴翼くわくよくつらなつて、鷙鳥しちやう燕雀ことりうつごとく、旋風つむぢ沙石いさごまくごとく、どつおめい突崩つきくづす。地方ところは名に負ふ節處せつしよ也。あけながら雲ふかき、岨山蔭そはやまかげ樹下闇こしたやみ、進むも退のく一騎打いつきうちたがひしつたるどちなれば、よろひの抽を潛脫くゞりぬけて、先を爭ふ躬方みかた英氣ゑいきに、遁足憑にげあしつきたる雜兵等ざふひやうらは、霎時拄しばしさゝえ散散ちりちりに、走るを追蒐追詰おつかけおひつめて、殘りなく生拘いけどりつ、つひに賊將萎毛しへたげを、うちとりて候」、とことばせわしく演說ゑんぜつして、くだんいけどり引居ひきすえさせ、酷六がくびもろ共に、實檢じつけんに入れしかば、義實思はず嘆息し、「夫それへい凶器けうきなり。德おとろへて、武をこうし、たく足らざれば、をもて制す。こはやむことを得ざるのみ。城をせめ、地を爭ふも、民をすくはん爲なれば、われたのしみて人を殺さず。さは定包さだかねに從ふもの、みな惡人にはあるべからず。あるは一旦の害をおそれ、あるは時といきほひに、こゝろざしを移すもの、十にして八九なるべし。このゆゑに非をくひて、躬方みかたにまゐるものとしいへば、やがて命をたすくるのみかは、もちひざることなきものを、什麼そもいかなれば萎毛が、從卒じゆうそつ生抅いけどられ、彼身かのみ卻頭かへつてかうべうしなひ、あまつさへ妻と子は、石堰水いはせくみづともろ共に、皮肉ひにく碎けてしにたりけん。こは時といきほひに、志を移されて、逆に從ふのみならず、かならず天のゆるさざる、兇惡けうあくのものなるべし。よしや惡には從ふとも、みづから惡をなすべからず。努愼ゆめつゝしめ」、と說諭ときさとし、金碗がひきもてきたせし、いけとり釋放ときゆるさせ、「凡新およそあらたにまゐれるものは、軍功ぐんこう多少たせうによりて、後日ごにち恩賞おんせうあるべし」、と正首まめやかおふせしかば、僉感淚みなかんるいとゞめあへず、「とてもすつベき命なりせば、はじめよりこの君にしたがはざることよ」とて、漸愧後悔ざんぎこうくわい今更に、身のおくところをしらざりける。

 かくて又義實は、孝吉等にのたまふやう、「酷六こくろく瀧田へにげかへらば、定包さだかね火急くわきうによせ來つべし、と思へば心安からざりしに、孝吉がけふの働き、わが胸中きやうちうをしるに似たり。城兵ぜうひやう散落さんらくせずといふとも、あすよりして三日が程には、必彼此かならずをちこちへ聞えなん。しからば麻呂と安西は、そねみて定包をたすくるなるべし。先にすれば人を制し、おくるゝときはせいせらる。この曛昏ゆふぐれにうちたちて、通宵よすがら走りて平郡へぐりらば、敵のきもひやさん初度しよどの合戰躬方みかたに利あらば、麻呂安西等は聞怕きゝをぢして、たえかうべいだすべからず。そはとまれかくもあれ、まづ勸賞けんせう沙汰さたせん」とて、金碗八郞孝吉かなまりはちろうたかよしを、第一番とさだめさせ、莊園夥賜しようゑんあまたたびけれども、「もとより思ふよしあり」とて、固辭かたくいろひてこれをうけず。第二番には小湊こみなとにて、「東條とうでふを取給へ」、と申すゝめしおきなども、三人を召めしいだして、その名をとはせ給ひしかば、「三平四治郞仁摠さんへいしじらうにさう」と答ふ。義實きゝきてうち微笑ほゝえみ、「こはいとめでたき名也かし。三平さんへいとは、山下、麻呂、安西の三雄さんゆうたいらくる、前象もとつさがといふべき四治しじ四郡しぐんおさめさが也。二總にさう則上總下總すなはちかづさしもふさのちかならずわがらん。かゝればその名をひとつにあはして、おの〳〵三四さんし十二个村かむらに、今又二增倍にさうばいすれば、三十六しよおさたるべし」とて、御敎書みぎやうしよたびにければ、皆萬歲ばんせいとなへつゝ、よろこびいさみて退出まかでけり。第三番は氏元貞行、この餘泛々はんはんともがらは、錄するにいとまあらず。あるひ秩祿ちつろく宛行あておこなはれ、あるひ牽出物ひきでものたまはれば、おの〳〵齊一拜舞ひとしくはいぶしつ、賞重せうおもうして、罸輕ばつかろし。死せるものも更にいくいける物はさかえたり。かへ車轍わだちうを、雪の中なる常盤木ときはき。君がよはひはさゞれ石の、いはほとなるまでつきせじな」、と今樣いまやう合奏うたひつれて、ことぶけうじ奉りぬ。
さる程に義實は、法度はつとゆるうして、民を安撫なで、軍令をたゞしうして、士卒をはげまし給ひしかば、招かざれどもまゐるもの、百人に及びけり。これらは過半くわはんとゞめおきて、杉倉氏元すぎくらうぢもととゝもに城を守らせ、はつかに二百餘騎をて、孝吉を先陣せんぢんとし、貞行を後陣ごぢんとして、平郡へぐり進發しんぱつし給へば、氏元はこれをいさめて、「かくては無下むげにおん勢寡せいすくなし。この城にこそ二三百の士卒あらばたりなん」、としきり密語さゝやき申せしかば、義實かうべをうちふりて、「否この城はわが巢也。もしこゝを破られなば、何處いづこへかかへるべき。合戰はかならずしも、せいの多少によるにもあらず。われに利あらば二百騎が、千騎二千騎にもなりぬべし。わがうへには懸念けねんせで、なんぢはよく城を守れ。なほいふべき事こそあれ。麻呂安西等には和睦わぼくせよ。かならずこれと爭ふべからず。瀧田の敵兵よせきたらば、力をつくして防ぎ戰へ。かならずいでて追ふべからず。これ安全の良策りやうさく也。努々懈ゆめゆめおこたるべからず」、と叮嚀ねんごろ說諭ときさとし、さて先陣せんぢんをいそがして、やがて出陣し給ひけり。

はたせるかな里見の一軍、その前原浦まへはらうら濱荻はまおぎなる、堺橋さかひばしを渡すをり、義實の德を慕ひ、ふうのそみ歸降きごうする、野武士鄕士のぶしごうさむらひど、百騎二百騎うちつれたちて、こゝにて追著おひつき奉り、軍勢千騎になりしかば、後々のちのちまでもこの橋を、千騎橋せんきはしとなへたり。加旃しかのみならずこのところは、むかし源賴朝卿みなもとのよりともけう當國たうこく推渡おしわたり、上總かづさへ赴き給ふとき、この川のほとりにて、後陣ごぢんまたせ給ひしとて、待崎まつさきあざなせる、かたへ白旗しらはた神祠やしろあり。義實すなはち馬よりりて、征箭そや二條ふたすぢ奉納ほうなうし、しばらく祈念し給へば、眞夜中なるに白鳩二隻しらはとには、社頭の松のこすゑより、はた〳〵と軒翥はたゝきして、平郡へぐりのかたへ飛去とびさりぬ。これを見る諸軍兵しよぐんびやう、「合戰勝利うたがひなし」とて、いさまざるものなかりけり。

南総里見八犬伝巻之二終

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