◎巌窟王(巖窟王)(上 004)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 三一 例の物音
一椀の肉汁も幾分か友太郎の身に生氣を附けた、イヤ死んでは成らぬ、死んでは成らぬ、兎に角も壁に響く微な物音が誰の仕業であるか其れを見定める迄は此命を保存して置かねばならぬ。
若しや此の物音が、我身の此牢から出られる發端では有るまいかと、此樣に疑ふと何と無く氣が騷いで、疲れた身體も動悸が打つ、先ア身を大事にして分る時まで氣永く待つてゐねば成らぬ。
此時が夜の九時頃である、再び彼れは寢臺に歸つた、爾して夜の明けるまで、夢だか現だか同じ物音の絶えず聞える樣な氣がした。
夜が明けて見ると物音は歇んでゐる、昨夜少しばかり胃に食物を入れた爲めか今までに覺えぬ程の餓を感じ、微に胃の底に痛みを覺えるけれど、氣持は、昨日より幾分か力が附いた樣でも有る、今若しも此望みが、今までの總ての望みと同じく又消えて了つたなら何うであらう。
其の中に牢番が朝飯を持つて來た、何しろ幾日も絶食した身が急に平生ほど喰べては病氣に成らうも知れぬからと、早自分で用心する氣の出たのは、死を祈つてゐた身の餘り得手勝手であると我身ながら極りも惡い、けれど兎も角も身は大事だ、又も肉汁だけを飮み、外に三日に一度與へて呉れる魚の肉の、骨の無い所を少し剥つて喰べた、勿論 身體に病氣が有ると云ふのでは無く、健康なものを無理に自分で攻め付けてゐたのだから、少し攻め方を弛めさへすれば直に力が囘復するのだ、僅ばかりの食物で、甚く不足は感ずるけれど早氣分だけ殆ど常に復つた。
爾して又も壁に耳を當て聞いてゐると、朝の十時とも思はれる頃又彼の音が聞え初め中食の頃に成つて歇んだ、けれど午後に又初まつた、何だか最初よりは其の音が荒々しい、其れとも幾分か近く成つた爲に、能く聞えるに至つたのかも知れん。
此翌日に及んで、或は典獄が職人を入れて隣の室をでも修繕してゐるのでは無からうかとの疑ひが起きた、若し爾ならば此身の助かる發端では無くて此土牢の益々堅固になる知らせと同じ事だ、仲々喜んでなどはゐられぬ。
若し是れが囚人の仕業で、牢破りの企てならば、此方から物音を送れば、必ず驚き恐れて止めるで有らう、大工か職人ならば其の樣な事に頓着せぬ、好し、之を先づ試して見やうと思ひ、唯だ一脚充てがはれてある腰掛臺を持つて來て、音が此の邊から聞こゑると思ふ壁の局部を、其の脚で強く叩いた、只一叩きであるけれど、向ふの音はピタと止んだ。
扨は確に囚人である、此牢を破つて居るのだ、斯う思ふと無益に驚かせて止めさせたのが遺憾に堪へぬ、今に再び初まるか知らんと、耳を澄して待つてゐると、日が暮れても初まらぬ。
全く誰かに勘附かれたと悟り其の企てを中止したのだ、誠に濟まぬ事をした、何れ程か向ふは失望したであらう、イヤ向ふが中止すれば今度は此方で企てゝ遣らう、向ふが何んでも此方へ向つて掘つて來る所で有つたに違ひ無いから、此方から向ふへ掘つて行けば好いのだらう。
斯うなると少年だけに氣み輕い、直にも着手したい樣に思つて牢の中を見廻したが牢を破る樣な道具の此中に在る筈は無い、爾して而も牢の壁はセメントで固めたもので巖の樣に成つてゐる、思ふは易いが行ふは實に難い。
けれど難い事は今初めて知る譯で無いのだから更ためて驚きはせぬ、見廻す目先に留まつたのは自分が食噐に用ふる皿で有る、之れでも道具に使へるだらうと直に取上げて床の上に落して碎き其の屑の中で、最も鋭く見えるのを二片取つて隱した。
若し陶噐の屑で泥阜の要塞が破れたなら其れこそ天下の竒觀であるけれど、彼れ自身は爾は思はぬ、先づ着手は夜に入つてからと待つて居る中に、牢番が夕飯を送つて來たが、噐の毀されて居るのを見て多少機嫌を損じたけれど「噐物を毀すと減食の罰に遭ふぞ」と叱つた儘、皿の屑は拾ひもせずに立去つて又暫くして外の皿を持つて來た。
屑を其まゝ殘して呉れる有難さは譬へ樣が無い、食事の後で友太郎は、之を拾ひ集め、室の隅へ隱して置いて、其上で自分の寢臺を 取退け、晝間は其影に隱れて了ふ所へ先づ傷を附け初めた。
丁度此邊が、向ふから物音の聞えた見當に當るらしい、壁のセメントを、皿の屑で引掻いて又引掻き、屑の角が丸くなれば又碎いて角を付けては引掻き夜の二時に及ぶまで魂氣能く續けたが、熱心と云ふは剛いものだ、疲れて寢る頃には粉になつて落ちたセメントが手の掌に滿ちる程で有つた。
翌朝、食事の後に又も寢臺を動かして着手したが、昨夜着けた傷の大きさで計算して見るに、毎日十時間づつ二年の間續けたなら、人間の脱けられる大きさの穴を、凡そ三間位掘り込む事が出來さうだ、今まで幾年經つたのか、壁に附けた筋の暦も三年ほどで止めたけれど最う六年は經つて居やう、入獄の初めから若し遣つて居たなら既に牢の外まで突拔けて居るかも知れぬのにと今更殘念な感じもする。
段々と掘るに從ひ、又割合に潰れ易い所も有り、此日の中に壁に塗込んである石にまで屆いた。石の周圍を掘り減らして、一度に石一個を拔き取る事が出來れば其の跡は一日掘つたよりも大きな穴と爲り、石から石へと意外に進歩が早いかも知れぬ。
掘る事三日に及んで、石一つを外し得たが、無論牢番の來る頃には其の石を元へ差込み寢臺も元の通りにして置くのだ、けれど若し是よりも巨い石に出會せば、桿で無くとも幾分か長い力の有る鐡噐で無くては可けぬ譯だが、切ては火箸でも好いから手に入らぬか知らんと、只管肝膽を碎きつゝ今度は又 稍大きな石を拔き得た。
丁度此時である。數日來 歇んで居た例の物音が又も壁の向ふから聞えて來た、今度は石を拔いた跡の穴へ首だけ突つ込んで聞くのだから能く聞える、確に壁を引掻いて崩して居るのだ、是れで見ると一度は物音に驚いて止めたけれど、其の後別に危險らしい事が無いので又安心して取掛ッたものと見える。
何の道具で遣つて居るのか兎に角餘程進歩して居ると見え時々槌で叩く樣な音もする、此方の仕事は宛で兒戲の樣なものだから向ふへ聞える筈が無いが、其れにしても早晩は穴と穴との出會す時が有らう、之を思ふと自分でも怪しい程氣が勇んで、殆ど疲れると云ふ事を知らぬ。

