◎巌窟王(巖窟王)(上 004)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 三一 例の物音
一椀の肉汁も幾分か友太郎の身に生氣を附けた、イヤ死んでは成らぬ、死んでは成らぬ、兎に角も壁に響く微な物音が誰の仕業であるか其れを見定める迄は此命を保存して置かねばならぬ。
若しや此の物音が、我身の此牢から出られる發端では有るまいかと、此樣に疑ふと何と無く氣が騷いで、疲れた身體も動悸が打つ、先ア身を大事にして分る時まで氣永く待つてゐねば成らぬ。
此時が夜の九時頃である、再び彼れは寢臺に歸つた、爾して夜の明けるまで、夢だか現だか同じ物音の絶えず聞える樣な氣がした。
夜が明けて見ると物音は歇んでゐる、昨夜少しばかり胃に食物を入れた爲めか今までに覺えぬ程の餓を感じ、微に胃の底に痛みを覺えるけれど、氣持は、昨日より幾分か力が附いた樣でも有る、今若しも此望みが、今までの總ての望みと同じく又消えて了つたなら何うであらう。
其の中に牢番が朝飯を持つて來た、何しろ幾日も絶食した身が急に平生ほど喰べては病氣に成らうも知れぬからと、早自分で用心する氣の出たのは、死を祈つてゐた身の餘り得手勝手であると我身ながら極りも惡い、けれど兎も角も身は大事だ、又も肉汁だけを飮み、外に三日に一度與へて呉れる魚の肉の、骨の無い所を少し剥つて喰べた、勿論 身體に病氣が有ると云ふのでは無く、健康なものを無理に自分で攻め付けてゐたのだから、少し攻め方を弛めさへすれば直に力が囘復するのだ、僅ばかりの食物で、甚く不足は感ずるけれど早氣分だけ殆ど常に復つた。
爾して又も壁に耳を當て聞いてゐると、朝の十時とも思はれる頃又彼の音が聞え初め中食の頃に成つて歇んだ、けれど午後に又初まつた、何だか最初よりは其の音が荒々しい、其れとも幾分か近く成つた爲に、能く聞えるに至つたのかも知れん。
此翌日に及んで、或は典獄が職人を入れて隣の室をでも修繕してゐるのでは無からうかとの疑ひが起きた、若し爾ならば此身の助かる發端では無くて此土牢の益々堅固になる知らせと同じ事だ、仲々喜んでなどはゐられぬ。
若し是れが囚人の仕業で、牢破りの企てならば、此方から物音を送れば、必ず驚き恐れて止めるで有らう、大工か職人ならば其の樣な事に頓着せぬ、好し、之を先づ試して見やうと思ひ、唯だ一脚充てがはれてある腰掛臺を持つて來て、音が此の邊から聞こゑると思ふ壁の局部を、其の脚で強く叩いた、只一叩きであるけれど、向ふの音はピタと止んだ。
扨は確に囚人である、此牢を破つて居るのだ、斯う思ふと無益に驚かせて止めさせたのが遺憾に堪へぬ、今に再び初まるか知らんと、耳を澄して待つてゐると、日が暮れても初まらぬ。
全く誰かに勘附かれたと悟り其の企てを中止したのだ、誠に濟まぬ事をした、何れ程か向ふは失望したであらう、イヤ向ふが中止すれば今度は此方で企てゝ遣らう、向ふが何んでも此方へ向つて掘つて來る所で有つたに違ひ無いから、此方から向ふへ掘つて行けば好いのだらう。
斯うなると少年だけに氣み輕い、直にも着手したい樣に思つて牢の中を見廻したが牢を破る樣な道具の此中に在る筈は無い、爾して而も牢の壁はセメントで固めたもので巖の樣に成つてゐる、思ふは易いが行ふは實に難い。
けれど難い事は今初めて知る譯で無いのだから更ためて驚きはせぬ、見廻す目先に留まつたのは自分が食噐に用ふる皿で有る、之れでも道具に使へるだらうと直に取上げて床の上に落して碎き其の屑の中で、最も鋭く見えるのを二片取つて隱した。
若し陶噐の屑で泥阜の要塞が破れたなら其れこそ天下の竒觀であるけれど、彼れ自身は爾は思はぬ、先づ着手は夜に入つてからと待つて居る中に、牢番が夕飯を送つて來たが、噐の毀されて居るのを見て多少機嫌を損じたけれど「噐物を毀すと減食の罰に遭ふぞ」と叱つた儘、皿の屑は拾ひもせずに立去つて又暫くして外の皿を持つて來た。
屑を其まゝ殘して呉れる有難さは譬へ樣が無い、食事の後で友太郎は、之を拾ひ集め、室の隅へ隱して置いて、其上で自分の寢臺を 取退け、晝間は其影に隱れて了ふ所へ先づ傷を附け初めた。
丁度此邊が、向ふから物音の聞えた見當に當るらしい、壁のセメントを、皿の屑で引掻いて又引掻き、屑の角が丸くなれば又碎いて角を付けては引掻き夜の二時に及ぶまで魂氣能く續けたが、熱心と云ふは剛いものだ、疲れて寢る頃には粉になつて落ちたセメントが手の掌に滿ちる程で有つた。
翌朝、食事の後に又も寢臺を動かして着手したが、昨夜着けた傷の大きさで計算して見るに、毎日十時間づつ二年の間續けたなら、人間の脱けられる大きさの穴を、凡そ三間位掘り込む事が出來さうだ、今まで幾年經つたのか、壁に附けた筋の暦も三年ほどで止めたけれど最う六年は經つて居やう、入獄の初めから若し遣つて居たなら既に牢の外まで突拔けて居るかも知れぬのにと今更殘念な感じもする。
段々と掘るに從ひ、又割合に潰れ易い所も有り、此日の中に壁に塗込んである石にまで屆いた。石の周圍を掘り減らして、一度に石一個を拔き取る事が出來れば其の跡は一日掘つたよりも大きな穴と爲り、石から石へと意外に進歩が早いかも知れぬ。
掘る事三日に及んで、石一つを外し得たが、無論牢番の來る頃には其の石を元へ差込み寢臺も元の通りにして置くのだ、けれど若し是よりも巨い石に出會せば、桿で無くとも幾分か長い力の有る鐡噐で無くては可けぬ譯だが、切ては火箸でも好いから手に入らぬか知らんと、只管肝膽を碎きつゝ今度は又 稍大きな石を拔き得た。
丁度此時である。數日來 歇んで居た例の物音が又も壁の向ふから聞えて來た、今度は石を拔いた跡の穴へ首だけ突つ込んで聞くのだから能く聞える、確に壁を引掻いて崩して居るのだ、是れで見ると一度は物音に驚いて止めたけれど、其の後別に危險らしい事が無いので又安心して取掛ッたものと見える。
何の道具で遣つて居るのか兎に角餘程進歩して居ると見え時々槌で叩く樣な音もする、此方の仕事は宛で兒戲の樣なものだから向ふへ聞える筈が無いが、其れにしても早晩は穴と穴との出會す時が有らう、之を思ふと自分でも怪しい程氣が勇んで、殆ど疲れると云ふ事を知らぬ。
巖窟王 : 三二 誰だ、誰だ
皿の屑で壁のセメントを崩し、セメントの中の石を二個まで拔取つたと云ふ事は幾等其石が小さいにせよ聊か異樣に聞えるが、其れは囚人と云ふ者が何れほど牢を破るのに熱心であるかを、知らぬ人の怪しむ所である。
一本の針さへ與へて呉れゝば歐羅巴全體の何れほど堅い石牢でも破つて見せると云つた牢破りの名人も有る、又懷中時計の發條を小さい卷いた儘で靴足袋の中へ入れて居て、五たびまで牢を破つた囚人もある、皿の屑で壁に石二個くらゐは少しも怪しむに足らぬ。
けれど皿の屑では最早間に合はぬ事に成つた。二つ目の石を外して三つ目になると、今までのよりも大きくもあり深くもあり、何か鐡の道具がなければ到底動かす事が出來ぬ、鐡の道具、鐡の道具と、只管に搜したが、目に留る所では寢臺の左右の縁に小さい欄干の樣に鐡の條鋼が附いてゐる、併し之は旋で緊着けてあるのだから、旋を廻す機械がなくては取外せる譯でない、今一つは窓の格子である、之も鐡だ、而も寢臺の欄干よりは十倍も大きいのだ、所が之も駄目だ、今まで別に牢を破る氣の有つた譯ではないけれど悔しさの餘りに此の格子に蹙み附いて搖すぶつて見た事は幾度もある、此の格子を外すのは壁の石を外すより幾等難いか知れぬ、イヤ實際此の格子を外す事が出來る樣なら何も壁を崩す必要はないのだ。
爾うすると差當り手に合ひ相なのは、毎日牢番の持つて來る鍋より外はない、鍋は無論鐡だ、其の中へ肉汁を入れて持つて來て、皿へ移して立去るのだ、何うか彼の鍋を其のまゝ茲へ置いて行かせる樣にせねばならぬ、鍋に差込んである柄は長さ一尺近くも有つて是も鐡製だから此の柄を暫し借用する事が出來れば桿の代りにする事も出來る、大抵の石なら、之を間へ入れて捻ぢ動かせば、拔けぬといふ事はあるまい、只の一夜でも或は一時間でも好いから此の鍋を置かせ度い、置かせるには又皿を毀すが近道ではあるが爾う屡々 毀しては疑はれる恐れもあるから、今度は日の暮に牢番の來た時に、躓かねば成らね樣な所へ其の皿を出して置いた。
計略が圖に當つて、其の晩、鍋を提げて格子の中へ這入つて來た牢番は果して自分で躓いて皿を蹴飛ばし再び用ひられぬ樣に碎いて了つた、彼れは痛く怒つたけれど自分の粗忽らから仕方がない、再び新しい皿を取りに歸らうとするのを友太郎は呼留て「ナニ故々皿を取つて來て下さらずとも私は鍋から直に戴きますよ」牢番は土牢の入口を降りたり昇つたりする面倒の助かるのを喜んで「爾うだ鍋の儘置いて行かう」と云ひ、少しの禍心も浮べずに立去つた。
此夜友太郎が此鍋の柄を拔いて、仕事の捗を行かせた事は今までの二日間にも優つた、可なり大きな石を、夜の明ける迄に又一つ拔取つた。
夜の明けると共に、石を元の通りに差込み、柄も元の通り鍋へ附けて、爾して寢臺で壁の穴の口を隱し其上へ寢て居ると、間もなく牢番は新しい鍋に肉汁を盛て來て「お前の樣な亂暴な男に皿を充行つては置かれぬ、一週間の中に二枚も碎くのだから、若し外の囚人に此眞似をせられては政府が身代限りをする事にもなる」眞逆に政府の財政を囚人の毀損する皿の爲に影響を受けはせぬけれど、牢番の懷には確に影響するのだ、皿小鉢の樣なものは總て牢番 負擔なのだ、「此の古い方の鍋を皿の代りに茲へ置切りにするから、サア肉汁も此鍋へ注いで置くよ」
全く友太郎は神が自分の仕事を扶けて呉れる樣に思つた、鍋を此處へ置切りに置いて呉れるとは何といふ仕合せであらう、是れで若し此穴を、壁に盡る所まで掘貫く事が出來ぬなら、其れは誰の所爲でもない、自分の熱心が足らぬのだ。
此樣に思つて、牢番の來る少し前には其柄を鍋に差して置き牢番が立去れば直に取外して仕事に掛る、殆ど夜晝の別はない、數日の中に大方自分の身體だけ這入つて了ふ程の穴になり、掘出したセメントは窓から風に飛ばしたち溷の中に捨たりして、益々都合よく進んだが、斯うなると此方の仕事も向ふへ聞える樣に成つたのか、向ふは又止めて了つた。
何でも此方を疑つて又も控へた事であらう、向ふが控へれば猶更 此方が早く進んで行かねば成らぬ、何の樣な人だか知らぬが早く穴と穴とが出合して其人の顏を見たい、縱しや牢破りの目的は逹し得ずとも二人言葉を交へる事が出來る樣に成れば、唯ゞ其れ丈けでも何れ程の仕合か知れぬ、又二人の間に何の樣な智慧の出やうも知れぬ。
掘つては又掘り、間斷なく進んだ揚句に、今度こそは鍋の柄の力に、イヤ人間の力に到底及ばぬ邪魔が出來た、其れは壁の中に鐡板のは入つて居る事を見出したのだ。
鍋の柄が外面を辷る許りで少しも傷を附ける事が出來ぬ、初めは又石だと思つたが能く見ると石ではない、平たく板の樣に續いた鐡である、知らなんだ知らなんだ、是程迄の用心を仕てあらうとは、是で何も彼も水の泡だ、何の樣な道具があつても此ればかりは通す事が出來ぬ、恨めしさの餘りに推しても見た、叩いても見た、爾して最後には聲を放つて泣いた「アヽ神よ、神、今まで、空しい望みを起させ、終には成功するものとのみ思はせて置いて、此の障害に遭はすとは餘りに非道です、殘酷といふものです」彼れは再び絶食して此世を去る外は無いと、早や前の悲しい決心に歸り掛けた。
けれど其實此鐡板は、其れほど廣いものではない、所々へ横に入つて居るのだから其上か其下を掘れば好いのだ、爾と氣の附かぬのが不覺である。
殆ど泣入つた友太郎の耳へ、何處からか忽ち人の聲の響きが聞えた、アヽ鐡板を隔てた向ふからの聲である「誰だ、誰だ、其處で神の御名を呼んで、爾して絶望して泣いて居るのは」
確に此身への問ひである。
一時は恐ろしさに震へ上つた、實に穴の中で鐡の分子に響きを傳へて聞える聲は人間の聲とは思へぬ、物凄い音である、けれど恐れは少しの間で、忽ち燃ゆる程の熱心と爲り、耳を鐡板に當る樣にして聞いたけれど再び聞えぬ。
何しろ向ふから穴を掘つて居た相手に違ひない、友太郎は神に次いで此人を頼りにして居る、此人が有ればこそ自分も自殺を思ひ留まり、茲まで穴を掘つて來たのだ「爾いふ貴方は何方です、最う一度何うか聲を聞かせて下さい」請ひに應じて聲は再び聞えた「お前は誰だ」友「不幸な囚人です」彼の聲「何處の國の」友「彿國の」聲「シテ姓名は」友「團友太郎」聲は獨り言の樣に「フム土牢にでも居るから名高い國事犯者でゞもあるかと思へば一向聞いた事がない、相手にならぬ俗人か知らん」友「俗人ではない水夫です、水夫です」殆ど四邊を構はずに打叫んだ。
巖窟王 : 三三 穴の向ふと此方とで
穴の向ふと此方とで鐡板を隔てゝの話は、勿論顏も見えぬ、其人に障つて見る事も出來ぬ、暗の中での話よりも猶 儚ないのだ。
向ふも囚人には極つて居るが何の樣な人だらう、自分と同じ樣に鐡板に突當つて絶望して居るのか知らん、イヤ其聲と物言ひ振の沈着て居る所を見ると少しも絶望はして居らぬらしいと、樣々の想像が雨霰の樣に念頭を打つて來る。
けれど何しろ有難い、幾年かの間だか、牢番といふ活た壁に向つての外、言葉を交へた事のない身が、兎に角も似寄つた境遇の人を語らふのだ。眞に友太郎は渇した人が甘泉に出會した想ひである。
相手も多分同じ思ひであらうか「お前は何れほど永く此牢に入つて居る」友「千八百十五年の二月廿八日から」相手「何の罪で」友太郎「何の罪も犯さぬのに」相手「イヤ何の罪と疑はれて」友太郎「拿翁の島から歸るのを助けたといふ嫌疑を受けて」相手は痛く驚いたらしい「何だ拿翁の島から歸る、では最早、彼れは帝位から落ちでもしたのか」友太郎「千八百十四年にホンテンブローで捕はれてエルバの島へ流されたのです、ですが其れをさへ知らぬとは貴方は何時から此牢に居るのです」
相手は問ふ事は好むけれど答へる事は好まぬらしい、是で見ると友太郎の樣な何の隔ても祕密もない打明けた人間とは違ひ、思慮綿密で、喜びや悲しみの爲に心の度を外す樣な事の無い一種の英雄では有るまいか、其の聲にも言葉にも何と無く自然に、尊敬の意を生ずる樣な重味が有る、「コノ己か、己は千八百十一年から茲に居るのだ」扨は自分より四年も前から捕はれて居るのだ、何うして其の長い年月を辛抱が出來たゞらうと、怪しむと共に友太郎は戰慄した、世には吾よりも猶ほ上の苦しみを受けて居る人もある、牢を破らうとするのは當り前だ。
相手は何事か考へると見へ暫し無言で有つた末「最う穴を掘るのは見合すが好い」扨は此人は我れを見捨る積りか知らん、其れとも我を疑ふのか、友太郎「エ、エ」相手「只聞き度いのはお前が掘て來た穴は地から何れほど高い」友太郎「少しも高くはありません土牢の床と同じ事です」相手「何うして穴の口を隱してある」友太郎「寢臺を其の入口に當て」相手「折々寢臺を檢査される恐れはないか」此問で見れば確に此人は友太郎の不注意から事が露見せぬかと氣遣ふて居るのである、友太郎「私の入牢以來一度も其の樣な事はありません」相手「お前の室の前は何の樣な所か」友太郎「石甃の廊下です」相手「其廊下は何處へ出られる」友太郎「役所の庭へ出るのです」相手は絶望と聞ゆる聲で唯一言「馬鹿め」と叫んだ。
是は友太郎を叱つたのでは勿論ない、自分で自分を叱つたのだらう、友太郎「何事です」
相手「測量が間違つた、出發點で極些細な違ひが、茲へ來て取返しの附かぬ食違ひと爲つた、折角此の穴を掘つて、同じ土牢の中へ出るとは、エエ、運の盡きだ、七年來の苦心經營が全く水の泡に成つた」
如何にも悔し相である、扨ては此人、七年も此穴を掘つて居たのか知らん、其れでは定めし遠い部屋から遙々と茲まで掘つて來たのに違ひない、其の揚句に其穴が自分の室と同じ樣な土牢へ出ると知れては、成る程殘念な事であらう、牢を出やうとの企てが却つて牢へ入る企てと爲つたのである、其人が齒を噛切めて殘念がる樣が何だか目に見える樣な氣がする。
友太郎「貴方は何處へ此穴を掘拔く積りでした」相手「無論牢の外へだ、初めに二個の案を立てたが、此方の方が確だらうと見込んだのが間違ひだつた、最う一つの案に從ひ、掘直す外はない、アヽ更に又七年掛るか、何うか其間、此身の健康が續けば好いが」
何たる剛い決心だらう、七年掛つて掘つた穴を捨て、更に是から七年掛つて別に掘直す積りで居るのだ、友太郎は是ほど驚いた事はない、更に七年、更に七年、此樣な氣の長い人が人間世界にあるだらうか、と云つて到底出來る見込のない所だから七年が八年掛つても成るほど掘直す外はないかも知れん、斯う思ふと最う勇氣も決心も挫けて了つた、友太郎「牢の外の何の樣な所へ掘拔くのですか」相手「要塞の壁、即ち海の岸にある石崖へ掘拔くのさ」益々驚く可き決心である、友太郎「海の岸へ掘拔けば、海へ落ちる許りですが」相手「海より外に逃路があると思ふか」成るほど海に出るより外には逃げ出る道はない、他の所へ掘拔けば再び捕へられる許りである、友太郎「でも海へ出て何うします」相手「近邊の島へ泳ぎ附くのさ」
泳ぎに掛けては魚にも負ぬ程の水夫も此勇ましい決心には感服せぬ譯には行かぬ「貴方は其れほど泳げますか」相手「間違へば溺れる迄さ、土牢より海の中が寢心が宣いだらう」如何にも一死を賭しての仕事である「贊成です、贊成です」友太郎は打叫んだ。
けれど先方は贊成を請ふ意はないと見える、成る程人の贊成を當にする樣では、此樣な牢破りは企てられない、相手「お前は是きりで穴を掘るのは止めて了はねば可ないよ、覺られぬ樣に穴を埋、追つて己から何とか沙汰のあるまで靜かに控て居るが好い」言葉は殆ど命令である。愈々此身を此まゝ捨てゝ了ふ積らしい、友太郎「其れにしても貴方は誰ですか、其れ丈を私へ聞かせて下さい」相手「己か、己は爾さ」とて少し澱み「廿七號の客仁だよ」廿七號、是れぞこれ、典獄からも牢番からも狂人と思はれて居る、梁谷法師である、友太郎は爾とまでは、知らぬけれど、兎に角廿七號いへば卅四號の我 室とは餘ほど離れて居ねば成らぬ、其距離を茲まで地の底を掘つて來たとすれば一人の力で如何にも七年は掛つたゞらうと、唯感心を深くする許りである、其れに付けても情ないのは何故此人が此身を信じて呉れぬのだらう、名を明かす事さへ避け、此身を見捨てる心に見えるのは何とかして思ひ直させる工風はあるまいかと殆ど情ない樣な氣がした。
巖窟王 : 三四 其穴から頭を
暫し友逹に別れるさへ情無く思ふのが人の常だ、況して友太郎は、土牢の底に幾年か居て初めて言葉を交へた人に、早や是れ切り捨てられるかと思へば恨みに堪へぬ。
此人が七年も掛つて、二十七號の室から此三十四號の室の底まで穴を掘て來た苦辛と、其穴の測量違ひといふ事を知つて、猶此上に七年掛つても掘直すといふ勇氣とは、確に我身の師とも父とも仰ぐに足る人である、我身の自殺の心を飜へさせたのも實は此人、我身に壁の底を二尺でも三尺でも掘穿つ勇氣を起させたのも矢張此人、今此人に見捨てられるのは我身の生涯を掻消すにも等しいのだ「貴方は私を疑ふのですか」と彼れは叫んだ、相手は當惑げに苦く笑ふて居た容子だ、何だか笑ひ聲が聞える樣に思はれる、友太郎は一入聲を切にして「私は正直な男です、決して、貴方の企てを牢番に悟らせる樣な事はしません、何うか手下に加へて下さい、若し此まゝ見捨てられるなら死んで了ふ一方です、何うか私を死なさぬ樣に! — 」相手「己の顏さへ見ずに、己を力にするとは可笑いぢやないか、アヽお前は未だ年の行かぬ、爾だ人を疑ふ心さへない若者だと見えるな、聲も何だか若さうだ、全體 幾歳になるのだ」友太郎「最う幾歳になりましたか久しく月日の記録を止めましたから知りませんが、千八百十五年に捕はれた時十九歳でした」相手「フヽ、其れでは今廿六歳に成つて居るのだ」
十九歳より二十六歳、實に人生活氣の盛りと云つても好い、其の間を土牢の底に活埋にせられて居たとせば、唯是だけで、誰とて其の慘たらしさを感ぜずにはない、「アヽ其れでは氣の毒だ」との聲が相手の口から洩れた、爾して引續いて「十九の歳に捕はれて廿六歳まで世間を見ずか、其れでは未だ浮世の惡い風の爾浸みては居ぬ筈だから正直だらう」友太郎「決して貴方の爲にならぬ樣な事はしませんから」相手「アヽお前は見も知らぬ己に泣附いて、好い事をしたよ、己は初めから、加擔者を得る積りはないのだから無論お前を捨て置く所であつた、けれど年を聞いて見ると氣の毒だ、出來るものなら何とか仕やう、先ア氣永く待つて居るがよい」友太郎「氣ながくとて、何時まで待ちます」相手「己が篤と熟考した上で、合圖をするよ」
篤と熟考した上で、若しも見捨てるといふ方へ心が飜へられては大變である、友太郎「何うか貴方が私の室へ來るか爾無くば、私が貴方の室へ參りませう、一緒に逃げ出る事が出來れば此上もありませんが、縱し出來ずとても互に愛する人の話をしませう、私は話をせずに居る事は最う我慢出來ません、貴方も定めし人に話し度い樣な懷かしい人があるでせう」相手は又笑つた、「お前は子供の樣な事を云つて居る、己には其樣な者は何もない、全く此世の獨り者だ」友太郎「其れならば猶更ら私を愛して下さい、貴方が若ければ私は兄と思ひ年取つて居れば父と思つて敬ひます、私には父がありますけれど、今まで活て居られますやら、其れに又、妻と極つた女もありましたけれど、今まで私の事を思つて居て呉れます事か、其れも分らず、今の所貴方の外に愛する人は無いのも同じ事です」相手「お前の樣に人懷こい男は初めてらよ、仲々面白い、兎に角 己の合圖を待つてお出で」友太郎「合圖は何時です、先刻も問ひましたが」相手「明日にも」此一語を殘して相手は去つた樣だ、友太郎は暫く耳を澄した後で穴を出て、其入口を例もの通り寢臺で隱し「明日にも」との一語を口の中で繰返して、明日に成つて、愈々逢はれるならば何の樣な人だらう、言葉の容子では確に英雄豪傑といふ者に似て居るらしい。
戀人が約束を待つも是れほど心が騷ぎはせぬ、眞に一日の經つのを待ち兼たが、翌朝食事が濟むと間もなくである、穴の奧から、地を掘る樣な音が聞えた、是が確に合圖であると、直に其入口に蓋をすてある石を取除け、中へ身體を突込んで見ると、掘つて居るのは多分鐡板の向ふだらうと思つてゐたのに、爾ではない自分の足の下である、アヽ鐡板を避けて下から掘つて來るのだ。
考へて見ると此土牢は昔武噐を入れた穴倉でゞもあらうか、地の底へ掘込んで作つたもので前は番人の行通ふ廊下に成つて居るけれど左右と後の三方は天然の大地である、大地に鐡の板のあるのは異樣だけれど土の崩れたるするのを防ぐ爲に此樣にして塗固めたものらしい、其れだから隣室までの壁の厚さが幾尺あるかも分らず、今我が足の下で掘つて居る相手は背後の方から斜に茲へ掘つて來て、今まで何處の室へも出なかつたのだらう、牢番の足音で考へても廊下が樣々に曲つて居る容子だから廿七號の室は此 室から背後の方角に當り遠く背中合せに成つて居ると見える。
此樣に思ふうち其の身の蹐んで居る足の下が搖るぐ樣に感じた、友太郎は身を退て其搖るいだ所を眺めて居ると忽ち土が陷込んで人の出られる程の井戸の樣な穴が出來た、其穴から頭に續いて肩と手とを出したのは懷かしい彼の相手である、友太郎は其の肩に手を掛けて牛蒡拔きに其人を拔き上げて半抱き半引摺つて自分の室へ連れ入れた、眞に彼は只嬉しさに夢中であるのだ。
巖窟王 : 三五 己は伊國の法師梁谷だ
半引摺る樣にして友太郎が、此人を我室に連れ入つた時の心は、唯だ懷かしさ、唯嬉しさに、他に何事をも考へる事は出來ぬ、全く夢中の状で彼れは此人を、窓の所まで引いて行つた「先ア能く貴方の顏を見せて下さい」
今は夜ではないのだから、幾等穴倉の底でも多少は明るい、七年間此中に慣れた目には何も彼も能く見分ける事が出來るのだ、けれど彼れは其上にも能く見んとて窓の所へ引いて行つた、引かれる人も、此の眞情の溢れる樣な振舞には抵抗し得ぬと見える。
見れば此人、髮も髭も蓬々と延びて、實に友太郎が曾て浮世に居た時に見た事のある人間とは全く違つて居る樣に思はれる、是で見ると自分とても無論浮世の人とは全く違つたに違ひない。
年は、確に六十、イヤ幾等か其れよりも上に見える、けれど其實は年取つたのではなく艱難の爲に老いたのかも知れぬ、髮は眞白である、髭髯だけは爾でなく猶若々しい所もあるが殆ど膝に埀れる程の長さである、身體は何方かといへば先づ小柄の方ではあるが、骨と筋との逞しい所を見ると、力が強くて如何にも牢破りといふ樣な恐ろしい仕事に滅げぬ人とは見て取れる。
友太郎は殆ど此人を放し得ぬ、牢を出られるか出られぬか其樣な事には頓着はない、唯だ相手の出來たのが嬉しいのだ、而も自分より優る相手、年も知識も剛勇も、全く自分の師、自分の父と仰いでも好い。「阿父さん、阿父さん」と彼は叫んだ「何うか私に阿父さんといはせて下さい」
此人は何の樣に感じたのか、其の濃い長い眉毛の底に深く落込んで光つて居る眼は友太郎の顏より少しも離れぬ、けれど其光りに嬉しさが籠つて居るか腹立しさゞ籠つて居るかは少しも分らぬ、唯冷然と靜かなるは物に動ぜぬ鐡心石腸の人と見える、所謂る喜怒色に現はれぬ者であらう、喜怒は現はれぬ、けれど決して獰猛の相ではない、慈悲の相だ、惡相ではない、善人だ、見れば見るほど威もあり恩もあつて自然に尊敬の念が生ずる。
此人は暫くして「分らぬ、少しも土牢の地理が分らぬ、此 室は己の室より、少くも一丈五尺は低いのだ」と云つて徐に友太郎を推退けて立上つた、今以て自分の測量の間違ひが心に滿ちて居ると見える、爾して牢中を見廻したが、此室には二個の窓がある、一個は入口で、毎も牢番が開いて這入つて來る戸の脇に在るのだが、今一個は横手の壁のズツと高い所に在る、之は窓といふよりも穴である、漸く人の頭が出る程の大きさしかない上に、餘り床から離れて居るので幾等延び上つたとて之から外を窺く事は出來ぬ。
此人は友太郎の寢臺を取つて其の窓の下へ持つて行き、猶ほ其の上へ腰掛臺を載せ、自分が上つて伸あがり其の窓を窺かうとした、けれど未だ屆かぬから、意味ありげに友太郎を顧みた、今まで此人のする事を到底合點し得ぬ樣に、空しく眺めて居た友太郎は其の意を察して自分が寢臺の上に立ち背を梯子の樣にすると此人は點首て其の背に攀ぢ上つたが、身の輕い事は輕業師の樣である、爾して凡そ五分間ほど外を眺めた末、又輕く降りて、「アヽ駄目だ、何處へ何う穴を掘ても此土牢を逃出す事は到底出來ぬ、未だ神が許して下さらぬのだ」
惆然として云つたけれど早や斷念めて了つたのか、深く愚痴を溢す樣な容子もない、友太郎「何故です」相手「此窓が海の方へ向ふて居る事は、浪の音でも分つて居るが、此の先は總體に巖石に成て居る、詰り巖石の一部を切割て此牢を作つた樣なものだから海の方へは一寸も掘て行く事が出來ぬ」此一言は生涯此牢を破る事の出來ぬといふ宣告に等しいのだ、友太郎は落膽の首を埀れた。
此人は靜かに寢臺を元の所へ持つて行き今しも自分が此室の這入つて來た壁の穴を檢めて「イヤ此樣に不細工に取崩しては牢番に悟られる恐れがある、石一個差込める穴があるかないか分らぬ樣にして置かねば、と云つてもお前は道具がないから是より上の事は出來なんだであらう」友太郎「ですが貴方は何か道具をお持ちですか」其人「己は道具を拵へる丈に四年掛つた、今思ふと丁度道具の出來上つた頃が、お前が此牢へ這入つた時分だつたらう、其れから今まで七年の間に、五十尺以上穴を掘つた、己の室から此 室まで眞直に測れば凡そ四十尺の距離だらうが屈曲の爲めに十尺以上延びて居る、斯う掘る事の出來たのも道具のお蔭だ」如何に道具があるにもせよ七年掛つて五十尺の拔路を掘り得たとは唯だ其根氣に驚服する外はない、友太郎「其れ程の事を成さつて今は最う脱け出る事が出來ぬものと斷念めて了ふのですか」其人「神の意だから仕方がない、神が脱け出す事を許さぬ記しに海の方面を巖石で塞いである、神の意に背いて何事が出來るものか」深く敬神の人である事も是で分る、友太郎「道具があつても」其人「土なら縱しや石の樣に堅く成つてゐても少しづゝ掘ることが出來るけれど天然の岩石は掘る道がない、實際茲へ來る迄に五十尺の中三十五六尺までは殆ど石ほど堅く土が固まつてゐたけれど堅くとも土は土だ、己は神の意を疑はなんだが最早如何とも仕方がない」といひつゝ今の穴の中から何やら道具の樣な物を取り出し「牢の中で、是より以上の鋭利な道具が出來ようか」と示した、見れば欅の柄の付いた大きな鑿である、世間の鑿に比べては、鑿と名を付けるさへ恥かしい程だけれど、土牢の産物としては全く驚く可くである、友太郎「是れだけで五十尺の穴を」其人「イヤ、外に未だ色々の道具が出來て居る、けれど巖石には叶はぬ」
兎に角にも友太郎の感服は深くなるばかりである、「牢の中で此樣な事を成さる貴方は全體誰ですか、何うか私を子と思つてお名前を知らせて下さい」其人は初めて友太郎の眞情を諒したのか、枯木の樣な其顏を、聊か柔げて「己は伊國の法師梁谷だ」
巖窟王 : 三六 何の樣な時節
梁谷法師、梁谷法師、扨ては牢番から狂人の樣に聞いたは此の人で有つたのか、友太郎は思はずも「では貴方が彼の、牢番から — 」眞逆に狂人とは云ひ兼て「病氣の樣に言觸らされて居る法師ですか」梁谷法師は聊か笑みて「爾だ、少し氣骨のある人間が牢に入れば大抵狂人と見做される、お前も多分は狂人と思はれて此土牢へ降されたので有らうが、成ほど他の凡々の囚人とは違つて居る、其れ丈が頼もしい」頼もしいとの一語、是れが初めて友太郎の對する同情らしい言葉である、友太郎は眞に嬉しい、此樣な大人物に、露ほどでも頼もしく感ぜられるかと思へば自分の地位が幾段も上つた樣な氣がして又も熱心に法師の手を握つた。
法師「お前の樣な若い者を土牢の中へ置くのは如何にも可哀想であるけれども、神の意だから服從する外はない」友太郎は勇氣が滿ちた樣である「イヽエ神の意は、我々を救ふて下さるに在るのです、貴方と私とを斯う引合せたのが其の證據です、之から力を併せて、二人で此牢を出る事に働きませう、貴方一人でさへ茲まで穴を掘たとすれば、若い私に同じ事出來ぬ筈はありません[、]二人力を合せば、縱しや海岸の方は岩で塞がつてゐるにしても、岩の盡きる處まで掘る事も出來ませう」
梁谷法師は無限の憐みを面に浮べ「アヽ年の若さといふものは羨ましいものだ、出來ぬ事まで出來る樣に思つて勇んでゐる」友太郎「何故是が出來ません」梁谷「地を掘て、其の掘り出した土を何處へ隱す。第一に其の隱す場所さへないではないか」友太郎は初めて氣が附いた状である、成ほど土を捨るのに、限りもなく廣い場所がなければ、限りもなく長い穴は、力が有ても掘る事は出來ぬ、友太郎「ですが貴方は五十尺も穴を掘て其の土を何處へ捨てました」自分の掘たのは未だ五尺にも足らぬのだから溷へ投入れても事が濟んだ、眞に梁谷法師の方は何樣に其土を處分した、梁谷「己の居る室には入口に昔の段梯子の樣なものが殘つてゐて其下に隱れて古い井戸と見える大きな穴がある、己は土牢へ入つて間もなく其穴を見附たから、初めて脱牢の心を起した、此古井戸の埋まるまで、外の所に穴を掘れば必ず海岸か何處かへ出られるだらうと、其れまで其の古井戸のあるのを、己の逃亡を告げ給ふ神の御心だと思ひ、其の深さをも測定した上で初めたのだが、今は其の古井戸も己の入れた土で塞がつて了つた、最う一尺の土を入れゝば必ず牢番に見露はされる」成るほど其考へでは如何ともする事が出來ぬ。
友太郎は當惑氣に考へる間に梁谷法師は言葉を繼ぎ「此の泥阜の要塞は海へ突出た高い岬で、三方が悉く海だから、何方へでも氣永く掘つて行けば海へ出られる、其中で此方へ來るのが最も海へ近いのだから、己は最う遠からず、出られると思つて居たが此 室の間近へ出て岩に當り進むことが出來ぬから其岩を廻る積りで穴を曲げたけれど、今此の窓から見た容子では其岩が、是から先の全海岸を包んで居るのだから、何うにも進む事が出來ぬのだ」友太郎「では貴方は、更に反對の方角へ掘直す樣に仰有りましたが」「法師其れは此の窓に上らぬ前の事だ、上つて見た所では三方ともに皆岩だよ」友太郎「イヽエ、其れでも反對の方へ穴を掘るのに其の土を何處へ隱すお見込でした」法「今まで掘つた此方の穴へ入れて了ふ積りであつた」成るほど、簡單な考へである。
「貴方の智慧ならば外にも工夫が有りませう、海岸の方へでなく、役所の庭に方へ掘拔いたら何うでせすか」梁谷「番兵に捕はる許りさ」友太郎「イヽエ、夜中ならば番兵が一人か二人しか居ない時もありませうから、貴方と私との力で番兵を叩き殺して逃げる事が出來ますよ」梁谷は嫣々と友太郎の顏を見て「己は法師の身だから、何の樣な場合でも自分の爲に人を殺すといふ事は出來ぬ、人を殺す程ならば自分を殺す」短い言葉に凛乎とした強い力が籠つてゐる、友太郎は又 嘆服して梁谷の顏を見上げた、梁谷「己が若し人を殺すのを厭はぬならば、己は夙の昔 伊國の改革を仕果せて居る、縱しや事敗れて捕縛される時に逢つても捕吏を殺して逃げて了ふ、其も出來ずに此牢へ入つたとしても、地の下へ穴を掘る必要はない、不意に番兵を襲ひ、直に殺して其の着物を剥取り、自分が牢番の姿に成つて、番兵の目を眩ませて茲を立去ることも出來るのだ」
「成るほど爾です、何で今まで私に其智慧が出なかつたのでせう」と友太郎は殆ど殘念な樣に叫んだ、梁谷「ソレ其智慧の出ないだけ、お前は善人に生れてゐるのだ、神の目から見る日には、人を殺して成功する者よりも自分を殺して失敗する人間が何れほど勝つて居るか知れぬ」友太郎は初めて此樣な高尚な説教に接した、眞に此人の心は何れほど廣く、何れほど憐みが深いのだらうと合點の行き兼ねある程である、「全く其樣なものでせうか」梁谷「お前は感心して聞く丈 愈々見込のある男だ[、] 先づ餘り絶望せずに何事も神に縋つて、己と一緒に、時の來るを待つが好い」友太郎「土牢の囚人へも時といふものが來ませうか」梁谷「來るか來ぬかは神の意だから人には分らぬ、一生涯待つ積りでゐる外はない、お前は昔からの名高い牢破りを知つてゐるか、ビウホード侯爵がビンシーン要塞から逃たのも、ヂブカイ僧正がレビクの牢を逃れたのも、或はラチウドがバスチル獄を脱け得たのも決して自分丈の力ではない、熱心に神に縋つて爾して油斷もなく事をする者には殆ど人間の信ずる事の出來ぬ樣な好機會を授けて下さる、お前は己が一旦は失敗しても長い生涯には何の樣な時節、何の樣な機會が來ぬとも分らぬ」長い生涯との一語は友太郎が身震ひするほど恐ろしく思ふ所ではあるけれど、又一方には心の底に、今までにない氣丈夫な所が出來て來た樣に感じた「何うか私を今から貴方の弟子にして色々の事を教へて下さい」全く此の法師に魅せられて了つた。
巖窟王 : 三七 教師と弟子
此人を師とも父とも仰がば、縱し脱牢の望みは屆くも屆かぬとも、何れほど、幸福といふもののない牢の中では幸福であるか知れぬ、眞に、友太郎は梁谷法師が測量を誤つて此の室まで穴の道を掘つて來たのを天に謝した、天が猶ほ我が身を見捨て給はぬ知らせである。
是より彼れは梁谷法師の室に行き、梁谷法師を伴ひて我が室に歸りもした、全く月日の過ごし易くなつたことは何れ程だか分らぬ。
單に穴の道を見た丈でも梁谷法師が世に又とない程の人傑と云ふ事が分る、穴の道には廣い所もあり狹い所もある、けれど手製の不充分な道具を以て、而も牢番の目を忍び掘拔いたものとすれば、縱し七年の月日は掛つたにしても唯驚く外はない。
けれど是れよりも更に驚く可きは法師が其 室に作つてある樣々の細工物である。
法師の室の中の細工物は今も記憶に存してゐるのみか、博物館に傳はつてゐるのもある、大抵の讀者が傳へ聞いてゐる所だらうから詳しくは書くに及ばぬが、其の一二を擧ぐれば、窓から洩る少しの明りを利用して、壁に筋を引き地球の廻轉と循環とを計つて、毎日晝の中だけは時間が分る樣に成つてゐる、云はゞ一種の日時計とも言ふ可きで、而も毀れたり停つたりする世間の人の時計よりは確である、牢の中で何の道具もなしに時計を作るといふ囚人が外にあらうか。
一週に何囘か充行はれる肉の中で、少しづつ脂の處を取溜て之で燈油を作り、夜になると私かに燈りを點し、其の光りで「伊國統一策論」といふ書を著した、法師の名が、文學の上に將た政治の上に今以て一段の地位を占めて人に記憶せられてゐるのは此著述の爲である。
尤も牢の中で書を著はした人は外にもあらう、併し紙も筆も墨もなく土牢の中で、紙も筆も墨も自分で作り爾して書を著はした人は多くはあるまい、其れも一方に大なる脱牢の企てを行ひつゝである。
無から有を生ずる事は人間に力では出來ぬ事と極つてゐるけれど、法師の仕た事は殆ど無から有を生じた樣なものだ、墨は室の一方に、昔の火を燃いた跡のあるのを掘返して木炭の混つてゐる黒い土を取り、日曜の度に一杯づつ與へられる葡萄酒に解かしたのだ、所々に赤インキを以て註を入れてあるのは自分の手を魚の骨で突いて出した血であるのだ。紙は、是れも牢番から與へられる手巾と肉䜌とを割き其の金巾を、麭の屑で作つた糊に伸し紙の樣に滑かにしたのである、筆は之も矢張り、魚の軟骨を削つてペンと同じ形にしたものだ、鵝鳥の羽のペンと大して違ひはない。
斯る細工に用ふる刄物は、古い金の手燭を石で叩いて作つた小刀である、地を掘るに用ひた鑿と同じ原料から出來たのだ、爾して之等の品物を、壁にある石を拔き取り其の中を掘り凹めて其の穴へ始末してある、穴は石を元通りに差込めば牢番の目にも見破る事が出來ぬ。
此樣にして室の壁には戸棚とも云ふ可き穴が兩三ヶ所ある、其一ヶ所から法師が最後に取出し友太郎に示したのは繩の梯子である、愈々牢を脱け出る時の用意に作つた事は分つてゐるが、何の原料を以て作つたゞらう、實は寢臺に張詰てある粗巾を剥がし其下に詰てある絲切を取つて編むのだといふ事で、是れは此法師が此 泥阜の要塞へ來る前にアエンステルの牢にゐる時に着手し都合三個の寢臺から少しづゝ取集めて出來たといふ事である。
牢の中にゐてさへ是ほどの仕事が出來るのだから、若し外に居たなら成るほど一國の政府から恐れられたのも無理はない、けれど法師は友太郎の問ひに答へて云つた、「若し牢へ入らなんだなら、樣々の事に氣が散るから、却つて凡人に成つて了ふよ、お前は鐡を打つて見よ、強く打てば火を發するだらう、人間も是だ、牢の壁で腦力の發散を防ぎ其智慧へ甚く壓力を加へると、常には出ぬ程の熱を出すのだ」友太郎は此の言葉に感心し「私も智識さへあれば牢の中で幾等か仕事の出來る所であつたかも知れません、何うか是から貴方の智識を少しづゝ分けて下さい」法師は好い弟子を得て喜ぶ樣な調子で「分けては遣らうが、ナニ己の智識とて爾う澤山はないのだよ、己はスパナダ家の祕書を勉めてゐる間に同家の藏書五千卷を、大抵は目を通したが、其中で實際精讀して爲になると思つたのは十分の一にも足らぬ、其れ丈は幾度も讀返し、殆ど悉く記憶してゐるが己智識と云へば唯其れ丈から得たものである、猶も其中で本統の益になる粹を拔けば二年か二年半でお前に教へて了ふ事が出來る程しか無いのだ」二年か二年半、今までならば身震する友太郎だけれど、今は感心の餘りに其の長さに氣が付かぬ状で「僅二年ぐらゐで」法師「爾さ二年の間、己が一心に成つて教へ、お前が一心に成つて習へばお前の智識は己と同じ程になる」友太郎「では何うか教へて下さい、一生懸命に學びますから」法師「世の中に居るとは違ひ、牢の中ゆゑ進歩が早い、けれど其の智識の應用と云ふ事は是れは其の人々の才に在る事ゆゑ、年數に限らない、お前は仲々良い腦力を以て居るのだから充分に應用も出來るだらう」
友太郎の氣質と天性とを能く見拔いて、是より法師は學問智識を、最も巧に順序を立てゝ教へ初めた、教へらるゝに從つて益々面白みの加はるが學問の常、教へる方も弟子の進むだけに愈々張合が出て來るので、兩個は幾月か殆ど牢破りなどと云ふ餘念のない景状であつた。
巖窟王 : 三八 誰を怨めば好いでせう
法師は教ふる中に友太郎が非常の天才である事を見出した、何うして水夫の樣な勞働者に天が是ほどの良智良能を與へて置いたか、合點の行かぬ程である、全く一を聞いて十をも百をも知る力があるのだ。
初めに法師が二年掛れば教へて了ふと云つたのは、實は其より以上の事は到底呑み込み得ぬだらうと思つた爲である、所が實際教へて見ると、法師が二年に教ふる積りであつた丈の事は半年も掛らずに覺えて了ひ、猶ほ益々學んで益々深く解する状である爲め、果は歴史から神學哲學の樣な高尚な學問をさへ教ふる事になつた、之が爲めに友太郎の人柄は一年の後には殆ど別人の樣になり、水夫とは誰も信ぜぬだらうと思はるゝ迄に至つた。
併し幾等教へても滾々として盡きぬ此法師の學力のも深く感ぜねば成らぬ、學力 許りでなく智慧の動き方の鋭い事は、友太郎が何を問ふても殆ど星を指す樣に答へる、決して過つて外れると云ふ事がない。
此人にならば、我胸の中に、兼て大なる不審として蟠まつてゐる我が入牢の仔細も、必ず解釋が出來るだらうと、友太郎は此樣に思ひ、或時、話の序に「私は是非とも貴方のお考へを願はねば成らぬ事があります、私の入牢は誰を恨めば好いのでせう」と問出した。
實に六かしい問である、自分にさへ誰の仕業か分らぬものを、此法師の知る筈がない、けれど法師は驚かぬ「己の問ふ丈けの事に悉くお前は返事すれば、出來る丈け考へて見やう」といひ、是れより友太郎に商船巴丸に乘込中の事から、婚禮の席で捕はれる迄の事を、細かく問ひ初めたが六かしいとはいへ人心の反覆を知悉す人に取つては推量の及ばぬ事柄はない、早くも法師の疑ひは段倉と次郎との二人に落ちた。
段倉は出世の敵と友太郎を狙ふ可き地位、次郎は戀の敵と友太郎を恨む身である、爾して密告状の爲めに友太郎の捕まつた事も分つてゐる上は、此二人の中でなくて誰が密告状などを出すものか、密告状の文句も、蛭峰檢事補に示されて、幾度も讀み返し、其後も心の中で、絶間なく繰返した爲め、猶だ友太郎の記憶に鮮かに存してゐる、イヤ實際友太郎は、死ぬ時まで此文句を忘れぬだらう、殆ど實物を讀み聞ける如くに、此文句を法師の前に述べたから、法師は、之に依りて段倉の外に、友太郎の斯る祕密を知る者のない事などを考へ、猶も段倉と次郎と、力を合せたと認む可き形跡はないのかと問ひ詰めた。
此の問に會つて初めて友太郎は、彼の酒店で段倉と次郎と毛太郎次と三人、酒を呑んでゐた樣なぞを思ひ合せ殆ど目が醒めた樣な氣がした、爾して其の時の三人の有樣より、又三人の日頃の振舞など自分の知つてゐる丈の事を繰返すと、法師は猶豫もなく斷言し「では必ず、文筆の逹者な段倉が起草して次郎といふ奴に授けたのだ、毛太郎次一人が非常に醉つてゐたとはいへば必ず其の事を悟られぬ樣に故と酒を侑めたのだ」
成る程爾である、其れにしても此身が裁判の宣告さへも受ずに入牢したのは何の爲であらう、是は流石の法師も餘ほど頭を惱ます體で有つたが、徐々に蛭峰檢事補が友太郎に對して取調べた時の容子を聞き「フム肝腎の密書を、お前の爲だと云つて燒いて了つた、ハテナ檢事補に在るまじき事をする、何でも此の檢事補が怪しいなア」是のみには友太郎は服する事が出來ぬ、「エヽ此の檢事補が、イヽエ初めから終りまで私に同情を寄せて呉れたのは此の檢事補一人です」法師「サア其の同情を寄せるのが怪しい、檢事補といふ職は、被告に同情など寄せ可きものでない、同情の底に、深い企計を隱して居たとしか見られぬが、ハテな」とて又暫し考へて「成るほどお前に手紙を燒いて見せてか、第一に此の所爲が疑はしい、被告の眼前で其の樣なことをするとは、深くお前の胸に有り難いとの感じを起させる手段だな、爾して密書の宛名を決して他言せぬ樣に誓はせた。其れでは其の宛名の人を保護する計略か知らん、シタが宛名は何とあつた」友太郎「野々内」法師「ウム野々内、ヘロン街の革命黨ではあるまいな、昔隨分名高かつた — 」
友太郎「其の人です、其の人です確にヘロン街です」法師「オヽ野々内、己とは幾囘も文通した男だ、政治上の意見が同じな爲め、互に國外の同志者と崇めてゐた、彼れを保護する檢事補といへば、若しや — イヤ其の檢事補の名は何といふ」友太郎「蛭峰檢事補といふのです」
蛭峰と聞くより法師は顏に怒りの色を浮かべ「其の蛭峰が、友太郎、お前を此の土牢へ入れたのだ」友太郎「其の樣な事はありません、若し私を此の後救ひ出して呉れる人があるなら、必ず其の人だらうと私は思つてゐます」法師「愚か、愚か、野々内の名が分れば其奴は自分が免職されるか爾なくとも出世の道が絶えるので、其の手紙をも燒きお前の生涯をも揉み潰したのだ、友太郎、蛭峰は確に野々内の息子だぞ」友太郎は頭の上に百雷の落掛つた樣な氣がした「エ、蛭峰が」法師「爾うだ、蛭峰といふのは野々内の母方の姓で、昔は可也の名家で有つたが數十年前に其家が絶えて了つた、公けに蛭峰といふ姓を繼ぐ事の出來るのは野々内の息子より外にない、多分野々内といふ名高い革命家の姓では、出世の道が覺束ないから、自分の血筋に名家の姓を傳はつてゐるのを幸ひ、公に其れを名乘る事にしたのだらう、其樣な人なら、檢事補として大切な證據書類を燒く樣な事もしやう、書類は燒いても團友太郎といふ活た證據が殘つてゐるから其れを此通り土牢の底へ埋めて了つたのだ」初めて合點の行つた友太郎は餘りの事で座に堪へぬ、全く顏の色を替へて自分の室へ退いたが、夜に入つても翌朝になつても法師の許へ顏を出さぬ、法師は聊か氣遣つて晝過ぎに友太郎の室へ行つて見ると彼は悔しげに頭の毛を掻挘り、寢臺の眞中に端坐して窓に注いだ眼をのみ光らせて居た。
巖窟王 : 三九 脱獄の再擧
誰を怨んで好いのだらう、今までは自分の敵が分らなかつた。誰の仕業で此身は、有もせぬ罪の密告を受け、誰の仕業で裁判も宣告も受けずに土牢の底に埋められたか、幾等考へても推量が屆かなかつた。
今は梁谷法師の推量で何も彼も掌を指す樣に分つて了つた、實に密告者は段倉と次郎である、爾して我を土牢に埋めたのは蛭峰檢事補である、考へれば考へる丈け其次第が能く分る、愈々疑ふ餘地のない程に成つて來る。
全く一夜を友太郎は考へ明した、何で今まで此の明白な事柄が分らなかつたのであらう、實に自分の愚かさが合點が行かぬ、若しも牢に入れられた頃此事が分つたならば、夜となく日となく天に祈り、今までの中に彼等を咒ひ殺して呉れたものを、天に口なし天に手無しとはいへ、我が身の斯までの苦痛、彼等の斯までの殘虐が、如何でか天に通ぜざらんや、祈りては又祈り我が一命を天に捧げて哀願せば、天は或は火を降らして彼等惡人を燒殺したかも知れぬ、我が身が受けた丈けの苦痛を彼等に受けさせねば百年千年、我が魂は安まる時がない。
彼れは再び復讐の念を燃やす事には成つた、何うしても此牢を拔出して、一たび彼等の前に立ち、團友太郎が地の底へ埋められたまゝ終る男でないことを知らさねば成らぬ、といッて何うすれば此の牢を出られるのか、其れを思ふと又絶望の一方である。
夜も晝も、是よりして彼れは天に祈つた、我が身を此牢より救ひ出し、此の仇を復さしめ給へ、其れが出來ずば、弛い火を天から降らし少しづつ徐々と彼れ等を燒殺し給へとの祈祷が絶えず彼れの唇頭に懸つてゐた。
併し彼れは、斯る間にも學問は怠らぬ、若しも此願ひが天に屆き、牢を出られる時が來ても學問が不足では充分に復讎の手段を案じ得ぬかも知れぬ、案じ得ても行ひ得ぬかも知れぬ、我が身體の力、心の力、智慧の力を總て養つて置かねば成らぬ、肝腎養つた其力を、用ふる時もなく此牢の中に老死ぬれば何うするだらうとの懸念は彼れの心に浮かび出る餘地がない。
一年、二年、又空しく經て了つたが、其の間に、何時の頃よりか知らぬけれど彼れの師と頼む梁谷法師の容子が少しづゝ變つて來た、元は少しも物事に動ぜぬ氣質で喜びも悲しみも人には悟らせなかつたけれど、次第に心が沈む状が何事に付けても現はれる樣になつた、時々は深い溜息を洩らす事さへある。
吁此英雄も終に獄中の苦しみに打負けて、切に身の上の果敢無さを感ずるのか知らん、折があれば脱牢の再擧を説き勸めて見やうかと友太郎が此樣に思ふうち、或時法師は殆ど獨り言の樣に、イヤ心の底で呟く言葉が我知らず外に洩れた樣に「エヽ、牢番さへなければ」との一語を發した、友太郎は飛び附く樣に「我が師よ、我が父よ、牢番や番兵などは、有つてもないと同じ事です、眞逆の時には友太郎が掴み殺して了ひます」法師は惆然として「其れが可けぬのだ、何時かもいふた通り、自分の爲に人を殺す事は神が許さぬ、己の奉ずる宗教は其の樣な趣意ではない」
話は是だけで止めて了つたが、此後三月ほどを經て法師は突然に「お前は力は強いのか」と問ふた、友太郎は無言で彼の鑿を取り、之を二つに折曲げて、又元の通りに引延ばし「此通りです、私の腕力は、水夫の中にも疑ふ者がありませんでした」法師は滿足の體で「お前は何の樣な場合でも決して牢の番人を殺したり又は傷つけて血を流す樣な事を『せぬ』と約束するか」
友太郎は其の意を察して「師よ、吾々は罪なくして此樣に捕はれてゐるのです、牢を拔出すのは當然です、權利です、其の權利を行ふのに、若し邪魔をする奴があれば、過日も貴方に教へられた正當防衞です、護衞の者を二人や三人殺すのは、場合に由り止むを得ぬではありませんか」法師は又歎じて「お前が其の樣な意見では最う斷念する一方だ」と如何にも落膽の體でいつた、友太郎は眞實の父にでも縋る樣に法師の身に縋り附き「許して下さい、師よ、私は唯だ貴方の命の儘に從ひます、貴方から差圖のない中は決して血を流す樣な事はしません」法師「では最後の場合に至るとも人に傷を付けぬと誓ひを立てるか」友太郎「誓ひます、誓ひます」
法師「其れでは最一つ企てがある」といひつゝ、彼の襯衣の金巾で作つた紙へ、手製の墨汁で書いた圖面の樣なものを出して示した、能く見れば、法師の室と友太郎の室とを本にして推量を以て作つた牢の案内圖である、廊下の屈曲から牢番のゐる所まで悉く記してある、友太郎「是を何うするのです」
法師「己は此 室に居る間は能く分らなかつたが、お前の室の位地を知つてから今まで幾年の間、日夜唯だ此牢の組織をのみ考へたが今は自分で、目で見た通りに分つて來た、其れで此圖を作つたのだが、お前の室へ通ふ穴の或點から二尺横へ掘つて行けば丁度夜の番兵の立つ足の下へ逹するのだ、其處へ大きな穴を開け、落し穴を作つて、爾して暗の夜を待ち、番兵が立つた所で、下から其の立つて居る甃石を外し、番兵を穴の底へ落し込んで、直に猿轡を喰ませ、海岸の方へ逃げて、繩梯子で塀を越えて、海の水際へ下られる」友太郎は喜んで「直に實行に着手しませう」法師「實行の手段も其れ〴〵考へ定めてあるが、其の番兵の陷穴へ落ちた時、お前は血を流さぬ樣に、猿轡を喰ませる事が出來ると思ふか」友太郎「出來ますとも血も流さねば聲を立てさせません、請合ます」法師「では着手しやう」相談は直に極つて、此日の暮ると共に愈々第二の破牢の企てが初められた、何の樣に成功するだらう。
巖窟王 : 四〇 藥を、藥を
番兵の足の下へ陷穽を掘ることは、是れが實に最後の工夫であらう、此外には脱牢の手段はもう決してない。
兩人は直に其の夜から着手した、出來揚がるまで凡そ一年餘り掛かる見込である、二人で一年餘り掛かれば、梁谷法師が一人で五年掛かつた穴の三分の二以上も掘れるだらう。
穴は元の穴の中程から、横の方へ枝の樣に掘つて行くのだ、掘つた土は今までの穴の廣い所へ積上げもし、又兩人の室の壁から少しづゝ投捨てもし、猶其の上に乾かせる事の出來る部分は、乾かせて粉にして夜風に吹き飛ばさせるのだ、其の辛苦と氣の長さは仲々話しに成つたものではない。
けれど遂には成功した、實に人の辛抱と云ふものは豪いものだ、尤も是より外に世に出られる見込みがなければ、全く必死の決心を以て掛かるのだから無理もない、早い譬へが蟻でさへ、可成に大きな穴を一日か二日の間に掘るではないか、兩人は十八ヶ月ほど掛かつたのだ、但し幸な事には、穴の廊下の下へ近づくに連れ、土が幾分 弛くなつて、お負に中から古い材木だの釘だの鐡板の屑などが出た、此の邊は昔何かの爲めに一旦掘返した事の有る所なのだ、勿論材木は朽ちてゐるし、鐡の類は腐食してゐて、性も分らぬ程だけれども、其の中に聊か役に立つ所はある、其等が氣の永い梁谷法師の手に掛かつて、大鑿も二挺出來た、繩梯の端へ、付ける鉤なども頑丈なのが出來た、兎も角も餘程の便宜と爲つて、末に行くほど仕事が早く運んだ。
愈々計略が圖に當つて、穴の底へ這入つて見ると頭の上に番兵の足音が聞えるのだ、穴の天井の樣に成つてゐる甃石一枚を下から外せば番兵は落込むのだ、何時でも落込せる事が出來る樣に下から木や石を積み上げて支へてある、支へを外せば直に目的が逹するのだ。
斯うなると實に嬉しい、二人は唯風か雨かの暗の夜を待つ許りだ、イヤ是も待つたに及ばぬ、出來揚がつた時が丁度其の樣な暗の夜で有つた、是れも天の助けであらうと兩人は勇氣が滿々て工事の疲れをも覺えぬ、別に荷物を用意する必要も無いのだから直に今夜實行とすると云ふ事になり、先づ友太郎が先に陷穴の底へ行き、轟く胸を推し鎭めて支への積柱に手を掛け、番兵の足が此の陷穴の天井に乘るのを待つてゐた。
梁谷法師の方は、友太郎の室に置いてある彼の繩梯を持つて來る爲に茲を去つたが、其の中に友太郎の頭の上には番兵の足音が遠くから徐々と聞えて來る、最う三分とも經ぬうちに番兵は穴の上に立つ事に爲るのだ、實に危機一髮とは此時で有らう、此危機一髮の時に方り友太郎の室の方から悲痛な苦痛に叫ぶ法師の聲が聞えた、實に一種の絶叫である。
何の爲にかは知らぬけれど尋常ではない、法師の身に何か異變が有つたのか知らんと、友太郎は驚いて直に自分の室へ引返した、見れば法師が繩梯子を持つた儘で穴の入口に倒れてゐる。
眞暗の中では有るが、法師の發明した獸脂の燈火が聊か燃殘つてゐる。
其れに友太郎は、早幾年か暗い土牢に慣れた上、殊更に暗い穴の中で、夜晝なしに仕事をした爲め、縱しや眞暗闇の中に於ても物を見る事が出來る程に成つてゐる、全く梟の目や猫の目の樣、少しの光線で物を見る作用が非常に發逹したのだ、是れらは長く暗い所にのみ働いてゐる人に聞けば分る事である、坑山の穴の中に鎖された人でも二週間經れば薄々 物色を見分けると云ふ事である。
「何うしました貴方は」と云ひつゝ友太郎は法師を抱上げた、法師は顏に少しの血色も無い、全く冥府の人かとも思はれる、爾して最と術無い聲で「イヤ大變な事に成つた、友太郎、己は最う駄目だよ、持病の發作に逢つたのだ」友太郎「エ、持病とは」法師「オヽ一種の止動病の樣な病だ、是れが己の血筋に在るのだ、父も祖父も是れで死に、己も牢に入る一年前に此發作に襲はれたが、其の時は名醫の力で囘復した、其の醫者の言葉に、體格が確だから事に由ると二度目迄は助かるかも知れぬが三度目は決して助からぬと云はれたが、今が其の二度目だが最初よりは餘ほど劇しい、何うも助かり相もない」
此の場合に此の病氣、抑も何たる不幸だらう、唯つた今まで冥助を助へて呉れる樣に思はれた天が、今は見放し給ふたのか知らん、友太郎「其の樣な心細い事を仰有つては可ません、何が何でも私が助けて上げます」法師「オヽ能ういふて呉れた、兎も角も己の室まで抱いて行つて呉れ、室には藥が有るのだから」
藥まで持つてゐるとは流石に用心深い人である、けれど友太郎は感心などはして居られぬ、直に穴の中を引摺る樣にして法師を室へ連れて行き、其寢臺へ上らさうとすると、法師は益々苦しい聲で「待て、藥は寢臺の足の、掘凹めた穴の中に入つてゐる瓶の儘だから、其瓶を取り出して呉れ、寢臺を引繰返してだよ」友太郎は手早く其言葉に從つて、寢臺の脚の裏を檢めると、成るほど木の栓が有つて之を拔くと、箱の樣に穿つた中に、赤い水藥の入つた小瓶が有る「是ですか」法師「オヽ其れだ〳〵、己の最初の發病を直して呉れた名醫カバニス氏が次の用意だとて呉れたのだ[、] 人に呑ませて貰ふ外には、呑み方の無い藥だ、待て、待て、コレ友太郎、今に己の身體に甚い痙攣が起り、其の時は己は自分でも防ぎ切れぬ程の非常な叫び聲を發するに極つてゐるから何うか其時には毛布で己の口を塞ぎ、猶も其の上からお前の身體で壓付けて、其の聲が洩れぬ樣にして呉れ、若し洩れたなら牢番のゐる所へ迄も聞え、何の樣な事に成らうも知れぬ」友太郎「分りました、先づ藥を、藥を」法師「イヤ未だ呑まれぬ、痙攣と共に其の齒を噛切り、其の後は全く死人と同樣に身體も剛ばり無論呼吸もなくなつて了ふのだから其時まで待つて呉れ、爾して全く死人の通りに成つたのを見屆けて、其の上で彼の鑿を以て齒と齒を捻開け、此の藥を八滴か十滴、己の口へ埀らして呉れ、爾すれば或は生返るかも知れぬ、決して周章てゝ、己の身體に脈のあるうちに此の藥を飮ませては可ないよ、脈の絶えた後でなければ却つて害をなすのだから」といふうちに早全身に強い強い痙攣が初まつた、爾して全く苦痛の爲めに絞り出さるゝ樣に耳をも劈く程の叫び聲を發した、友太郎は今受けた差圖の通り早くも毛布を其口に當て猶も自分の身體で其上から聲の洩れぬ樣に壓迫した。

