読書ざんまいよせい(079)

南總里見八犬伝 第四 荒芽山の巻
滝澤(曲亭)馬琴・内田魯庵抄訳(004)
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図は、里見八犬伝の内 義僕額蔵(「文化遺産オンライン」サイトから)

一 庚申塚の亂闘

 犬塚犬飼犬田の三犬士が市川から六里の舟路を宮戸川へ遡つて神宮かには河原へ着き、この川中で寶刀を摺換へられた徃時を語り合ひながら行くと、

『大塚の荘官許しやうくわんとこの若檀那!』

 と呼留められた。見ると河原で綱舟貸しを渡世とする矠平やすへいといふ老人で、

荘官許しやうくわんとこでも飛んだ事でござつた。この騷動の最中。ドコへござらしやつた?』

『市川へ五六日遊びに行つて今戻つたところだが、變つた大事でも有つたかい?』

『そんなら何にも知んなさらねエか。變つた事にも何も大變な大騷動が持ち上りやした。まアわしの小屋へござらつしやい!』

 と、それから三人を自分の家へ連れて行き、信乃が旅立ちした翌る晩、蟇六夫婦が陣代簸上宮六ひがみきゆうろく属役軍木ぬるで五倍二に斬殺された事、濱路が左母二郎に誘拐されて圓塚山で殺され、追跡者の破落戸ならずものの三太郎も左母二郎も亦何者かに殺された事、大塚では宮六五倍二が蟇六夫婦を殺して立退たちのかうとしたところへ丁度額藏が歸つて来て、即時に宮六を一刀に斬棄てゝ仇を報じて自訴して出たのを、逃出した卑怯者の五倍二や宮六の弟の社平は鷺を烏と言瞞いいくるめた抗告をして額藏を主殺しとしゐひ、己れらは殺害の最中偶然行合はした側杖の災難だと偽證してマンマと額藏に殺人を塗りつけ、新陣代と腹を合はして忠義の額藏を近々處刑するといふ顛末を逐一物語つた。

 且陣代屋敷は圓塚山の殺傷をも額藏に背負はして餘類が有らうといふ見込で、こゝらあたりまでも捕吏を廻らしてあるから各〻方、別して犬塚氏は用心して大塚近くには立寄り給ふと、矠平やすへいは更に言足いひたして、幸ひ上州に由縁ゆかりの老婆があれば、と遠方ではあるが手紙を附けるから暫らく山家に忍ばれては如何にとねんご慫慂すゝめた。

 信乃を初め三人は他事無き矠平の親切を身にみて深く喜び、追ては好意に縋ることもあらうが、兎も角も大塚の容子を探り旁〻、先祖の墓参もしたいからと、矠平が頻りに危ぶんで留めるを數度あまたたび謝しつゝ暇乞ひして別れた。暫らくは三人とも思ひも掛けない意外の凶變に人事の測るべからざるを痛感し、有餘る愛を胸に湛へて無言であつた、取別けて信乃は平生快からざる間とは云へ肉親の伯母ではあり、濱路は兎角に伯母夫婦に距てられたとは云へ互に心で許し合つた言號いひなづけである、十數年来同じ屋根の下に起臥おきふししたものゝ非業の横死を耳にしてつぶつて聞かざるまねしてはゐられなかつた。伯母夫婦は多年積悪の報つた自業自得で是非もなく、濱路の薄命は不便ふびんの極みであるが前世の宿業として斷念あきらめられない事も無い。たゞ額藏の不慮の災殃わざはひ總角あげまきからの友達ではあり、前世の宿縁ある義兄弟ではあるし、強慾無慈悲の伯父伯母をも一飯の恩を徳として即時に仇を報じてくれた義理もある。義に勇んで暴言汚吏をらしたのが賊名をせられて刑架に上せられようとするを何でふ袖手傍觀しつしゆばうくわんしてゐられよう。

『犬飼氏、犬田氏』と信乃は声を潛めて二人に向ひ、

『それがしは踏ふみとゞまつて額藏をすくはうと思ふ。貴公きこうらは一先づ行徳へ歸り給へ。』

『犬塚氏、足下そこは妙な分け距てをし給ふナ。』とニ人は満然むつとして声を揃へ、

『マダ對面こそしないが、額藏は足下そこの為めにも義兄弟なら我々にも亦義兄弟。足下そこにんの手で拯はずとも我々兩人もちからさう。』と云つた。

 こゝで三人心を合はせて額藏を拯ひ出さうと相談したが、萬事の支度をする為めドコかに足溜あしだまりめねばならなかつた。犬塚は市川を立つ時から歸るツモリは無かつたので、陣代屋敷のお尋ね者となつてるを聞いては猶更大塚へは踏込めなかつた。かねてから目星を附けて置いたは、信乃が生れてからの守本尊まもりほんぞんと仰いだ瀧の川の辨才天のほこらで、先づ寺へ行って住持に會ひ、首尾よく祈願を名として岩窟いはやのほこらの参籠の許諾ゆるしを得たので、こゝを根城ねじろとして三人代る〳〵に――信乃はおもて看識みしられてるから夜陰に――大塚の里に行つては其處此處そここゝで風聞を探つた。正しく矠平やすへいの話の通りで、里人さとびと平生ひごろこゝろよからざる蟇六夫婦の非命を小氣味よく思つてゐるが、五倍ニ社平らの卑劣をも憎んで額藏の不連を氣の毒がつてゐた。が、新陣代の丁田よぼろた町之進まちのしんも宮六に劣らぬ佞奸邪智の小人で、同氣相求める五倍二社平らと心をはしてるから迂闊うつかり額藏を辯護かばひ立てする蔭言かげごとでも耳に入つたら、んだ連累まきぞへ喰はないものでも無いと里人は皆恐れてゐた。傷ましいのは、毎日身の毛の戰立よだつ拷問に掛けられてるさうで、服罪してもしなくても遠からぬうち處刑しおきになるといふ風説であつた。

 愈〻七月二日には磔刑はりつけになると聞込んだのはそれから間もなくで、三士は刑場へ亂入して額藏を救ひ出す用意に掛つた。其の前夜、三人打連れて住持を庫裡に尋ね、愈〻今晩は満願成就であるから明日あすは早朝出發すると暇乞ひして参籠中の食料と布施物を寄進した。其晩はユツクリ熟睡して、朝になると草鞋脚半わらぢきやはんの身軽な扮装いでたちで、豫て準備よういした王子權現へ奉納の弓矢と竹槍を各自めい〳〵脇狭んで白々しら〳〵けに庚申塚の刑場を指して出發した。

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