◎巌窟王(巖窟王)(上 005) アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香譯
画像は、Pierre-Gustave-Eugene-Staal-Edmond-Dantes より
巖窟王 : 四一 恩を返す道
實に法師の病は恐ろしいほど劇しい發作であつた、其の叫び聲は、友太郎が壓迫して牢の外へ聞えぬ樣にしたけれど、引續いて起つた總身の痙攣は友太郎の力では如何ともする事は出來なかつた。
噛〆めた齒の間から泡を吹き、眼は張裂くかと思はれる程廣がつて、兩の目の球も脱け出さうに見えたが、顏は一旦紫色になり又青くなり、手も足もイヤ身體中が悉く引絞らるゝ樣に顫へて居たが、長久しくして鎭まつた。鎭まると共に死人の樣に成つて了つた。
脈もない、呼吸もない、其上に身體も冷えて、何うやら硬化り掛けて居る容子である、友太郎は恐ろしさに堪へぬけれど、今が法師の差圖を實行する時と思ひ、先鑿を取つて、噛切て居る齒と齒との間を捻開け、瓶の藥を差圖の通りに十滴だけ埀らし込んだ。
是で生返るか知らん、返らぬか知らん、或は藥の呑ませ方が遲過はしなかつたか、早過ぎはしなかつたかと、樣々の懸念に胸を苦しめ只管法師の顏をのみ見詰めて居るうち、大方夜の明け放れる頃となつて、極少しだけれど、青い顏に血色の還つて來る樣に見えた、引續いて、呼吸も眞に蟲の息ほどだけれど通ひ初めた、有難い、藥の效能があつたのだ、此分ならば遠からず全く此世の人に成るのだらうと思ふうち、早 毎も牢番が見廻りに來る刻限となつた。
殘念だけれど暫し茲を外さねば成らぬ、早や土牢の大戸を開く樣な音も聞える、全く去るに忍びぬ心を以て、友太郎は地の下の穴へ潛り込み、中から手を出して蓋の石を引込んで、成丈出入口の分らぬ樣にして置いて我 室へ歸つた、眞に危い所であつた、歸ると間もなく、牢番が戸口から覗き込み、「ウム、別に異状はないな、では直に食事を持つて來て遣るワ」とて退いた。
食事中の友太郎の心配は譬へるに物もない、早く法師の室へ行つて容子を見たい。
彼れが再び法師の室へ忍んで行つたのは、二時間の後である、法師は早全く生氣に返つて居る、痛く疲れた樣子ではあるが、寢臺の上で首だけを上げ「オヽ友太郎か、お前の正直、忠實には唯感服の外はない、我が子、我が子」と打叫んだ、今まで友太郎は此法師を「父よ」「師よ」と呼んだ事は幾度だか知らぬけれど、法師は愚痴な人情には感動せぬ氣質で、絶えて「我子」といふ樣な親しい言葉は發しなかつた、今度ばかりは餘ほど感動したと見える。
友太郎「意外に早くお直り成さつて此んな嬉しい事はありません」法師「己は最う、お前が此牢を出た事とのみ思つて居た」友太郎「エ何で其樣な事を」法師「イヤ昨夜直にも逃出される樣に總ての準備が出來て居るのだから、定めし逃出したゞらうと思つたのさ」友太郎は恨めしげに怒り「貴方は其れほど私を薄情とお認めでしたか」法師「イヤ薄情ではない、己を捨て逃げ行くのが當り前だよ、多年の苦心で、漸く脱獄の道を開き、牢の中の支柱を一つ脱しさへせば、何も彼も思ふ通りに行く事と爲り、サア愈々といふ間際に己が病氣に倒れたのだもの、己に構ふてなど居られるものか、己は今朝生氣に返り、獨りでさう思つた、アヽ友太郎は夜前の中に逃果せたな、其れにしても己に藥だけは呑ませて呉れたと見える、其れだから己が此通り生返つたのだ、藥を呑ませる間だけでも踏留まつたとは、實に珍しい親切な男だと實は心で謝して居た」友太郎「師よ、師よ、貴方は情ない事を仰有る、私は今日牢番の來る時まで此 室に居たのです」法師「許して呉れ友太郎、お前は實に、此世に二人とない高尚な心を持つて居る、其れを世の中一般の不人情な人と同視したのは惡かつた、惡かつた」法師は目に涙を湛へた。
友「惡いも何もありません、先ア其樣な事を仰有らずに、氣を丈夫に持て早く快くお成りなさい、其上で一緒に牢を出ますから」法師は限りなく失望の調子で「其れが出來ぬ事に成つた。己は此前の發病の時は、生氣に復つて唯だ總身の疲いのを感じたに止まつたが今度は半身不隨になつた[、] 右の手右の足が少しも利かぬ」友太郎「では其は」法師「イヤ直る事ではない、醫師カバニス氏が豫言した、縱しや第二の發作の時に命だけは助かるにしても、身體は必ず利かなくなると」友太郎「身體が利かねば私が負つて逃て差上げます」と少しも、躊躇も狐疑もせぬ、法師「負ふとて、平地とは違ひ、外へ出れば海を泳いで逃げるのだ、半身不隨の人を背負ふて、何うして泳ぐ事が出來やう、イヽヤ其れは理論的にも分り切つて居る、何と云つても出來ぬ事だ、お前は水夫だ、人並外れて泳ぎに上逹して居たとしても、一町と泳がぬ中に溺れるに極つて居る、一番近い島へ迄も五哩はあるのだから、コレ友太郎、己は自分の爲にお前を引留めては成らぬ、今まで一緒に逃げやうと云つた約束は取消すから、お前は一人で逃て呉れ、イヤ少しも己を氣の毒とは思ふに及ばぬ、己が愈々といふ間際に此樣な事に成つたのも、畢竟は神の御心だ、神が未だ己を救ふて下さらぬのだ、己は神の御心に逆らふては何事もせぬのだから、コレ何うかお前だけ獨りで逃る事に極めて呉れ」
眞に他事もない頼みである、友太郎は斷乎として「イヤ私は其樣な男ではありません、死んでも約束に蹙み附きます、貴方の生きて居る間は、決して貴方を捨て一人逃る樣な卑劣な事は致しません」何たる健げな心だらう、法師は全く感極まつて泣いた「我子よ、我子よ、天がお前の樣な人生に又とない正直者を己に授けて呉れたのだ、お前の正直に乘じて、其れでは一緒に止まつて呉れといふには忍びぬけれど、己は此恩を返す道がある、ではお前の言葉に甘える、ナニ己は此次の第三囘の發病では死ぬるのだから、其時まで茲に居て呉れ」友太郎「居ますとも、イヤ第三囘の發病には牢の外で逢ふ樣に、貴方が少しでも能く成れば屹と救ひ出して差上げますよ」法師「兎も角も氣遣はしいにアノ陷穽を、アノ儘に置いては番人が廊下を歩み下に空洞の樣な響きがする爲め怪しんで檢める事に成るかも知れぬ、お前 愈々己と一緒に踏留まるとすれば、一時でも彼の穴を埋潰して置かねば成らぬ」
情ない事をいふ、艱難辛苦で漸く掘上げた穴を又潰さねば成らぬとは、併し如何にも尤もな用心である、友太郎「潰しませう、私は一人で行つて、爾です、アノ陷穽に成つて居る部分だけは十時間も掛かれば埋切る事が出來ますから」法師「では氣の毒だが爾して呉れ、あれが潰れねば安心して居られぬ、其の代り友太郎、アレを潰し終るまで己の所へ來るには及ばぬから」友太郎は心得て退いたが、是より全く此日一日と其の夜一夜を穴埋に掛かつて了つた、埋るのは掘るより容易だ、一日一夜に潰し終つて又翌日の朝、其の事を知らせに梁谷の室に行き「最う少しも、足音などで怪しまれる恐れはありません」と云つた、梁谷法師は徹頭徹尾、友太郎の正直な事を見拔得て「オヽ友太郎、定めし殘念でもあらう、失望でもあらう、けれど悔んで呉れるな、己は其の代り爾うだお前の恩返しに、何百萬と數の知れぬ寶を半分お前に分けて遣る、其の寶のある所を、直に今茲で教へて遣る」アヽ寶、寶、此法師が發狂して寶の事を云ふことは兼て聞及んで居たが發病の響きで又も元の發狂に復つたかと、友太郎は一方ならず驚いた。
巖窟王 : 四二 金貨にて凡そ二……
法師が寶の事を言出すとは、全く元の發狂に復つたものに違ひないと、友太郎は斯う思つて、且悲しみ且憐む色を、我知らず顏の面に現はした。
早くも法師は其れと見て「オヽ友太郎よ、誰とても其の樣な大金が己の所有であらうとは思はぬから、己が此事を言出せば直に發狂と思ふのは無理も無い、けれどお前に限つては己の狂人でない事を能く知つて居るのだから、眞逆に己の言葉を疑ひはせぬだらう」疑ひはせぬだらうとて、疑はずに居られぬ、病氣前なら兎も角も、病氣の爲に必ず腦の中樞に故障が出來たのだ、とは明ら樣に爾とは言ひ難いから、友太郎は曖昧に「ナニも今茲で寶の事などをいふに及ばぬではありませんか、貴方の病氣が全然り直つた上で緩々と伺ひませう」法師「イヤ今の中に急いで云ふて置かねば成らぬ、何時己が三度目の發病に逢ふかも知れぬ、若し此事を誰にも誠と思はせる事が出來ずに死ねば全く取返しが附かぬのだ、己より外に其の寶のある事を知つて居る者は外に一人もないのだから」
一人も知らぬ寶が世にらう筈がない、愈々我師は自分の腦の中に浮かべて居る幻影を誠の事と思ひ詰め、其れを此身に信じさせる所存であるのだ、言ふが儘に其の言葉を聞いてゐては益々幻影が勝を制し、大した發狂でない容體を眞の發狂にして了ふかも知れぬ。
何とか言葉を設けて此處を外し度い、外してゐれば其中には幻影が小さく凋んで了ふだらうと只管立去る口實を案ずるけれど法師は其の暇を與へぬ「コレ友太郎、お前にまで發狂と思はれては己は立つ瀬がない、イヤ發狂なら發狂で能い、さうだ狂人の囈語だと思つて終りまで己の言葉を聞いて呉れ、己は確な證據をまで示して説明するのだから、聞終れば眞逆に信ぜぬ譯には行くまい」
言ひ度い丈言はせては大變である、何とか此事を思ひ出しさへせぬ程に忘れさせて了ひ度い、けれど其の手段がない。
法師「お前まで己の言葉を信じて呉れぬならば、己は最う絶望の外はない、絶望して本統に發狂するかも知れぬ」聞くも發狂、聞かぬも發狂、眞に逃れる道はないのかも知れん。
只管友太郎が當惑する間に、法師は何處から取出したか、黒い釘の樣な物を取り出し「先ア兎も角も、之を見て呉れ、切に願ふから」と友太郎に渡した、友太郎は其の言葉に背きも成らぬ、詮方なく受取つてよく視ると釘ではない、古い燻つた紙切を、細かに卷いたものである。友太郎「之を何うするのです」法師「先づ伸して、中に何が書いてあるか讀んで見ろ」友太郎はヤツとの事で伸ばした、伸ばしても亦元の通りに卷き縮まらうとするのは多年卷いてあつた爲である、幾度も伸ばし直して中を見ると、火の中からでも拾ひ上げたのか、端は燒け裂れて、焦げた跡のみ殘つてゐる、爾して表面には黄色い樣な墨で何か文字が書いてある、明瞭とはせぬけれど其れを讀むと、
「此の寶は……
「羅馬の金貨にて凡そニ……
「の最も遠き……第二の穴……
「……相續人たる……
「彼れ一人の所有に屬することを宣言す
先づ斯の如きもので、切れ〴〵には讀めるけれど、何の事だか少しも意味を爲して居ぬ。
法師「何うだ友太郎」友太郎「私には何事だか少しも分りません」法師「フム分るまい、初めて讀んだばかりでは分る筈は無いのだが、己には能く分つてゐる、己は此の意味を研究する爲に殆ど畢生の心血を絞り盡した程だから、併し先づ、事の次第を順に初めから話して聞かさう」いふ折しも廊下の外で不意に牢番の足音が聞えた、毎もなら牢番の來る刻限ではないけれど今朝梁谷の尋常ならぬ容體を見た爲に故々見廻りに來たのだらう。
友太郎はホッと一呼吸した、漸く法師の傍を離れ得る時が來た、牢番の近づかぬ中にと、遽てゝ穴の中へ潛り込み、靜かに自分の室へは歸つたが、何でも是れ切りで暫く法師の室へ行かぬ樣にして居れば、自然と法師の腦中の幻影も收まるだらう、直に行つては燃る火を煽り立てる樣なものだからと此日一日は自分の室へ引込んだ儘で居た。
すると夕飯が濟んで少し許り經た頃に、法師が、利かぬ身體を引摺り、自分の方から友太郎の室へ、穴の道を潛つて出向いて來た、其の熱心には驚かずには居られぬ、單に腦中の幻影のみの爲ならば、果して斯まで熱心になる事が出來るだらうか。
巖窟王 : 四三 扨て其大金
利かぬ身を引摺て、故々穴の道を拔けて來た法師の熱心は實に驚く可きものである、是れが狂人の所爲だらうか。
若し狂人で無いとせば — アヽ狂人でないとせば、其の一心に信じて居る寶は、必ず確な證據がある事に疑ひないと、初めて友太郎は此樣に心が動いた。
狂人でなくば實に大變である、智慧分別總て萬人に優れて居る此法師が、斯う迄に思ひ詰めるとは萬に一つも間違ひのないものと認めねば成らぬ、狂人だらうか狂人であるまいか。
友太郎は走り寄つて「貴方は能く茲まで來る事が出來ました」といひ、殆ど初めて法師を此 室へ入れた時の樣に、穴の中から其 身體を引出して寢臺の上へ据らせ、自分は床几を取つて其前に腰を掛けた、法師「己が利かぬ身を引摺つて穴の道を拔けて來るのは大抵の事ではない、お前も是をも、矢張り狂人の熱心と思ふのか」恨む樣な爾して叱る樣な語氣を帶びて居る、友太郎は唯だ首を埀れ「濟みません」と謝びるのみだ。
法師「何も濟まぬ事はない、此通り土牢に入れられて居る法師が、世に聞いた事もない樣な大金の話しをするのだから發狂と思ふは當然といふものだ、己は敢て咎めはせぬ、兎に角も事の次第だけを聞いて呉れ」今は友太郎も拒む力がない「ハイ伺ひませう」と神妙に身を構へた。
嬉しげに法師は胸を撫でゝ諄々と説き出した「能く聞け、己が仕へて居た宰相スパダ家といふは其の昔羅馬第一等の金持で、他國の人さへ金持を形容するにはスパダの樣に富んで居るなどゝいつたものだ、今でも其の言葉が一種の諺に成つて殘つて居る、其方も定めし聞いたゞらう、スパダの樣に金持だといふ言葉を」友太郎「ハイ伊國で聞いた事が有ります」法師「今から三百餘年前即ち千四百九十八年である、當時の法師ヘンリ八世と有名な該撒、勃日が、當時の困難極まる財政を處理する爲めに此スパダ家の主人を宰相兼大藏大臣に取立てた、其れが爲にスパダ家は其後代々苗字の上へ宰相といふ語を加へるのだ、所が其頃は、斯樣な大金持へ官職を送り、爾して陪食を命じて置いて料理の中へ毒を盛り其者を殺し、其遺産を勃日と法師とが沒收した、歴史を讀んだ者は皆知つて居る、第一に宰相に取立られて毒殺されたのが貴族カプララ、其次がベンチボグリヨ、三番目がスパダである、お前は是を聞いた事が有らう」
友太郎「ハイ該撒、勃日が其の樣な毒殺をした事は小學校で讀んだ羅馬史にも有りました」
法師「所が、スパダを毒殺して直に其遺産を調べた所が、不思議なことには、其の數知れぬと言ひ傳へられて居る金銀財寶が少しも無い、イヤ少しは有つたが法王らの豫期した百分の一にも千分の一にも足らなかつた、無論是れはスパダが前の二人の例を知つて居るから或は毒殺されるかも知れぬと氣遣うて何處かへ隱したのだ、隱して自分の子孫へ傳へると云ふ計算を運んで置いたのだ、法師等も其れを疑ひ、直樣スパダ家の書類を綿密に檢査したけれど少しの手掛もない、果は屋敷を取崩して地の底まで掘返したけれど隱して有る所が分らず、百計盡きて其儘に止んで了つた、何としたとてない物を取り出す譯には行かぬから其儘に止む外はなかつたのだ」
暫らく法師は息を吐いて「此スパダには男の子が一人あつた、是が後を嗣ぎ、其後代々子孫が續いたけれど、終に先祖の隱した金は分らず、唯殘つて居る地面のお陰で、貧しいながらもスパダ家を支へて來たのだ、けれど孰れの代の當主も何うか先祖の隱した寶を搜し出し度いと云ふ希望で、苦しい中から書記を雇ふて、家に傳はる書類を繰返しては繰返し、此上に詮議の仕やうがないといふ所迄に詮議した、先其詮議が凡そ二百年にも渉つたゞらうか、其れでも分らぬから是れも同じく泣寢入とは成つたのだ、所が最後の當主、即ち己を書記にして居たスパダは珍しい人傑で、政治上にも樣々な働きを現はし、宰相といふ先祖の官名通り本統の宰相の職にも一時は就た程であるが、此人が政治運動を初める前に又も詮索を初める氣になり、國中に最も適任の書記を求て遂に己を採用した、己は兼て此人と共々に伊國の統一を企てる協議などもした事があるのだから[、] 若此寶を搜し出せば其の統一論も實行が出來易いと思ひ全く必死の決心で從事した、尤も己より前に此寶の詮索に殆ど生涯を委ねた代々の書記が十八人もあつたのだ、十八人の學者が遂に解釋し得ずに終つた問題を己に至つて解いたといへば、學者の自負心も滿足する譯だから、旁己は前の十八人の熱心を一身に集めたといふ程の勢で着手した、勿論誰が考へても、其先祖が大事を取り人に分らぬ樣な隱語で以て何處かへ何とか書記してあるに違ひないのだ、其隱語を搜し出すのが一つの仕事、搜し出せば其隱語を解釋するのは又一つの仕事、隨分難題であるけれど書類は一々順序を立て、文字は悉く綴り直して有と在らゆる隱語の原則で解剖し、數字は悉く順にも逆にも計算し、人間の力の及ぶ丈の仕事は仕盡したが、併し分らぬ、其れでも己は失望せぬ、何故かと云へば先祖が毒殺せられる前に、確に正金のみ(羅馬の金貨で)二百萬圓は有つた筈だといふ事が樣々の計算から分つて來たので、隱した事が少しも疑ふ餘地のない事に成つて、今の金に換算すれば、二百萬が凡そ一千五百萬圓ほどに當るのだ、何と、一國の革命を仕果せるに足るではないか、外に金塊、銀塊も澤山ある筈、其れに珠玉寳石の類に至つては其前の先祖から幾代の間買集めたのが殆ど信用の出來ぬ額である、其等も一纒めになつて、何處へか隱してなくては成らぬ。
「今云ふと嘘の樣に聞えるけれど、一々歴史が有るのだから信ぜぬ譯に行かぬ、其れに己の樣に取調べると、益々其の信念が強くなるのだ、愈々さうとすれば、扨其の大金、其の寶は、何處へ何うして隱して有るのだらう、是が分らぬ筈はない」
巖窟王 : 四四 一枚の白紙
梁谷法師「サア大金を隱してあるには極つてゐるから、其の所在を解釋せねば己の役は濟まぬ、己は義務の心から、政治上の野心から、又學者としての自負心から、眞に心血を絞る樣な忍耐を以て詮索に從事した、餘り己の熱心が甚かつたものだから雇主スパダも感心し、若し見附出した日には半分を汝に與へるとて確な契約書まで作られた、けれど到頭見出す事が出來なかつた[、]其中にスパダは病死した。
「病死する數日前に、自分で病の重い爲め到底助からぬと知つてから更に前の契約を廣くして己を財産一切の相續人に取極めた、勿論スパダには妻子骨肉もなし、親類とても遺産や相續に口を出す程の權利のある近い血筋は一人もないのだから、其身の最も忠實であつた此 己を相續人にする外はなかつたのだ。
「此の樣な譯だから若し先祖の隱した財産が出たならば純然 己の所有に歸するのだ、縱しや出ぬからとても己の權利に屬してゐるのだ、けれどもスパダの死ぬる頃は最う絶望してゐた、先祖の隱した財産といふのも痴人の夢であつたらうとて病床で苦笑ひをせられた。
「愈々スパダの葬式が濟んで後、計算して見ると家も田地も前々から抵當に成つてゐて、此儘持續けては利子を拂ふ道もない、之を若し債主に渡せばヤツとの事で書類庫だけが浮いて出る勘定だから己は詮方なく其通りに運び、書類庫を自分の假住居として、不要な書類だけを賣り初めた、賣らねば生活の費用がない、若し多少の利益があれば其れを旅費に全國を遊説し、政治上の同士を求める積りであつた。
「所が其の前から、己はスパダと共に過激な政論者とか危險な政治的運動者とか認められ、樣々の嫌疑を受けてゐたのだから、家や地面や書籍などを賣つた事が愈々異樣に解釋せられ、全く一旗擧げる準備の樣に認められたのだ。
「賣り殘した書類の中に、スパダ家の系圖書が一册あつた、或日 己はスパダの生前の知遇に酬ひる爲め、其の傳を編纂したいと思ひ其の系圖書を机の上に廣げて讀んで居たが、數日來餘り身心を勞した爲め、其の疲れが出たか、机に凭れたまゝ眠つて了つた、爾して何時間かの後に目を覺して見ると、早夜に入つて室中が眞暗である、何處に燐寸があるやら分らぬ爲め、煖爐に燃殘つて居る火を反古へ吹附け之で燭を點ける積りで、机の上を探つたが紙もない、今思ふと實に之が大金の所在の分る發端であつた。
「實に友太郎、何の事業でも偶然の助けを得ねば決して出來るものではない、人間の力は極めて微弱だ、助けがなければ何の樣に努めても失敗に終るのだ、扨其助けを「偶然」とも云ひ、多くの世人は運とも云ふが、其の運、其の偶然の、中に明かな神の御心が籠つて居る、畢竟するに油斷なく熱心が張り詰めて居ればこそ神が、偶然に樣に運の助けを送るのだ、油斷のある人間は其の助けを捕へる事が出來ぬ、空しく來た運を取り逃がすのだから失敗に終るのだ、己は机の上を探つても紙がないから、讀み掛けの系圖書を取り上げた、此の系圖書の初めに、古い白紙が一枚插まつて在る事を兼て見て知つてゐる、何うして插まつたか知らぬけれど勿論白紙の事だから少しも惜む所はない、直に之を拔き取つて、火の所へ持つて行き、透かして見て愈々白紙である事を見極めた上之に火を吹附けたが、火の移つて燃初めると同時に、白紙と思つた其紙に、何やら文字が現はれた。
此時、恰も電光の閃く樣に、己の腦髓へ一種の曉が差込んだ、アヽ此紙が祕密の書置である、先祖が用心の爲め、火に爐れば現はれる一種の魔墨を以て、此紙へ大金の事を書いて置いたのだ。
「己は直に其の紙を揉み消した、此の時の己の胸の騷ぎ方は、譬へ樣のなみ程である、動悸の音が耳へ響き、暫しは鎭めることが出來なかつた、己は暗闇の中で神に祈つた、此の身が幾年も寢食を忘れて搜した事を、神が唯だ一 夕に知らせて下さつた、深く其の恩を謝さねば成らぬ、何うか此の白紙がスパダ家の先祖の遺言であれかしと、全く半時間ほど頭をも上げ得ずに、自然と祈りが口から出た。
祈り終つて、今度は靜かに机の抽斗から他の紙を取り出して燭を點した、爾して今の燃殘りの紙を檢めた、悲しいかな、三分の一は早なくなつてゐる、けれど殘る部分で判斷の出來ぬ事はない」
巖窟王 : 四五 天の口、天の手
紙の燒け殘つた部分の文字で大體の推量は出來たけれど、猶も己は紙の廣さや文字の綴りの長短などを計り、非常な苦心で遂に一字殘らず知る事が出來た、先づ此の二片の紙切を綴合せて讀んで見ろ」といひ、法師は紙切二枚を友太郎に渡した、友太郎は左の如く讀み下した。
餘は一四八九年四月廿五日……法王殿下より陪食を命ぜ……られたるも餘はカブララ、ベン……チボグリヨと同じく毒殺せ……られ我が先祖以來の財産を沒……收せられんことを恐る、餘の一……子ギドウ、スパダよ、餘が亡き後……にて汝獨りモンテ、クリスト島に行き…… 曾て餘が汝を連れ……行きて示したる彼の巖窟の中……を搜索せよ、此家の寶一切を……餘……は密に彼の巖窟の底に埋め……置けり而して此の寶は先…… 祖以來積來りしものにして羅馬の金貨にて凡そ……二百萬クラウンあり彼の島の東……端なる岩角に上陸し海…… 岸に添ひ左に曲り最も遠き……所に見ゆる最も高き岩の頂きを一直線に眺……めて進まば第一の穴を經て第二の穴…… に逹するは汝の知れる如くなり、金貨の外に生金、生銀、珊瑚、寳石夜光……珠、先祖以來の一切の高貴なる粧飾……品、美術品等を合せ七個の大箱に……納め穴の中なる地底に埋……もれるなり、汝の外に餘の遺……産を爭ふ者なしと雖も念の爲餘は宣言す……餘の一子ギドウ、スパダが餘の相續者なり、餘の遺し……たる財産は總て彼れ一人の所有に屬することを……
讀むに從ひ友太郎は、梁谷法師が決して發狂でなく、其の云ふ寶が、確な根據に基いて居る事を知つた。實に驚かずには居られぬ、法師が初めて紙燭に文字の現はれた時に驚いたのと凡そ同じ程に驚いた。法師「何うだ友太郎、猶だ疑ひが殘つてゐるか」友太郎は詫入る樣に「今まで疑つたのが濟みません」法師「ナニ疑ひが解けたら其れで好いが — 」友太郎「シテ貴方は、此の書を此の通り解讀して其れから何となされました」法師「直にモンテ、クリスト島を指して出發したのだけれど餘り人目を引いては成らぬから己は極祕密に出發したが、其れが却て惡かつた、兼て目を附けてゐた探偵が、己の出發の仕方を怪しみて、追掛て來て己を捕へ、矢張ちお前の場合と同じ樣に大した詮議も加へずに牢へ入れた」友太郎「其から今まで引續いて — 」法師「爾さ、未だモンテ、クリスト島に逹せぬ中に捕はれて、此取りの有樣だから」友太郎「其れは定めし殘念な事で有つたでせう」法師「己の殘念は察して呉れ、尤も己はスパダへ仕へる以前から、著書や檄文の爲め、極めて過激な革命家だと信じられ、種々重大な嫌疑を受けて居るのだから、捕まつた時に最う、終身牢に置かれるのだと思つた、其れだから何うか此の身の自由を買たいと幾度となく此大金の事をいふけれど却つて其れが爲狂人と認められ、イヤ今思ふと却つて幸で有つたかも知れぬ、狂人と思はれたが爲、お前に此寶を傳へる事が出來るのだ」友太郎「エ、私に」法師「勿論さ、半分はお前の物だと約束したでは無いか、併し己は此通り、片腕の全部と片足の一部分が不隨に成つて、最早牢を脱け出す見込もなく、晩かれ早かれ茲で死ぬるに極つて居るから、其場合には寶の全部はお前の物だ」友太郎「私の物とて、私は其大金や寶に對し何の權利もありませんが」法師「ない事はない、此 己の子ではないか、時々 己を父と呼ぶではないか、己がお前を相續人に定めるからお前の權利が生ずるのだ」
土牢の中に居て相續人を定めるとは實に異樣に聞えるけれど、梁谷は何うしても彼の大金に對し相續人なしには死なれぬと云ふ程に思ひ詰めて居る、爾して猶も言葉を繼ぎ「縱しや相續人に定めぬとても、主のない寶は見出した人の物になる、己が死ねばお前の外に之を見出す者はないから、何が何でもお前の物だ、けれど茲で明かに己の相續人と定めて置けば、他日其寶を使ふにも、氣の咎める所がなく、安心して使はれる丈好いだらう」友太郎は眞に其の眞情を有難く感じた、けれど寶は、何時牢を出られるとも知れぬ身に、手の屆かぬものである、相續と云ふも名ばかりで謝する張合もない譯だ、法師は其の心を察したか「コレ友太郎、己の毎も云ふ神意とは茲の事だ、己が此牢へ入つたのは、神が己をお前に逢はせる爲、お前の此牢へ來た — のも矢張 己に逢はせ、お前の手を以て此寶を何かの道に使はせる爲である、天に口なし人をして言はしむ、天に手なし、人をして行はしむ、天が今 方に、己の口を借りお前に寶の所在を教へて居る、他日お前の手を以て此寶を使はせる神意であるのだ、己は斷言して置く、お前は神の助けに依り、此牢を出る樣な時が來る、其時には成るほど梁谷法師のいつた通りだと思ひ、寶を何かに使ふといふ神の意が自ら合點が行くだらう、決して手の屆かぬ寶だと、仇に思ふ場合でない、神の恩を感じねば成らぬ」深い信仰の心を以て熱心に言聞かされ、扨ては其の樣なものか知らと、友太郎は我れ知らず首が下つた。
巖窟王 : 四六 第三囘の發病
實に天が法師の口を借りて我が身に寶の在所を教へるのであらうか、他日我が身の手を借りて其の寶を使はえるのであるか。
斯う思ふと友太郎は何だか、其の身が此土牢へ入れられたのも恨めしくない樣な氣がした、眞に天の配劑で、我が身が此寶を使ふ人に選び出され、其れが爲に此牢へ入れられる樣な廻り合せに成つたのかも知らん。
愈々爾とすれば何時、何の樣にして此牢を出られるのだらう、怪しむさへも何だか夢の樣な氣がせらるゝ。
何にしても法師の半身不隨の直る時までは牢を出る事が出來ぬ、何うでも此身は一心に法師の介抱をせねば成らぬ、爾うして法師の囘復を天に祈る外には、此身の用事といふものはない。
此樣に思ひ詰めて彼れは是より只管に法師を介抱した、けれど無益であつた、法師の片手、法師の片足は枯果た木の樣である、力の芽を吹く時が絶えて來なかつた。
娑婆では定めし花の咲く春だらう、定めし月の照る秋だらうと、推量の出來る時候を、又も幾度となく牢の中で經た、けれども終に逃出す樣な場合は來ず、其の上に生憎、何十年に一度と云ふ監獄の修繕の時が來たと見え、先年法師と友太郎とで逃路を掘つて置いた彼の廊下の方面が、殆ど地の底から改築せられた、縱しや法師が囘復して再びアノ樣な逃路を作らうとしても今度は到底見込みがない。
斯うなると月日が長い、最早法師が病氣に成つて以來、二代も三代も經た樣な氣がする、其間も法師は絶えず友太郎を教育し友太郎の性格を天晴の人物に仕立て上げる事のみを樂しみ、爾うして合間々々には大金の使ひ道などを、彼れ是れと想像しては語つて聞かせる。
其の言葉に依ると、成るほど二百萬クラウン以上の金を充分に働かせるのは實に六かしいものである、二百萬の兵を使ふよりも熟練を要するかも知れぬ、其代り又、之を巧に働かせる時には實に恐ろしい程の大な仕事が出來る、凡そ人間の範圍に在る目的なら、何の樣な事でも逹せぬものはない樣だ。
友太郎は注意して其の言葉を聞いた、爾うして其の後では、必ず其の方法を自分の復讐といふ大目的に應用し、是だけの金を、何う使へば何れ程の復讐が出來るだらうと心の底で研究した。
研究したとて實際に其の研究を行ふ時が來るだらうとは思はぬ、唯だ彼れ是れ想像して工風する丈でも切てもの腹癒である。
復讐の工夫は長い月日の間だから幾樣にも出來た、殆どあり餘るほど胸に貯へてゐる事には成つた、唯其の工夫を唯の一つも十分の一も行ふ眞似事が出來ぬのが情ない、寧そ工夫などせぬ方が増か知らと自分でも疑ふ時も有つた。
或夜の事、矢張り此樣な事をのみ思ひ廻して寢臺の上で、眠りも得ずに夜を更かしてゐると忽ち法師の室の方から、鋭い叫び聲が聞えた、勿論五十尺以上隔てゝ居るから、聞えたとても能くは分らぬ、けれど何でも法師の聲に違ひない、前の發病の時に聞いた絶叫と似た樣にも思はれる、扨は法師の常に恐れる第三囘の發病が來たのか知らんと、友太郎は枕を蹴る程に起き上り、直に法師の室へ穴の道の許すだけ早く馳せて行つた。
果して其通りである、法師の顏は前の發病の時よりも猶優る苦痛の樣を浮べ、物いふさへも漸くにて「オヽ友太郎、能く來て呉れた、到頭第三囘の發病が遣つて來た」友太郎「エ、エ」法師「今度こそは助からぬから、是が暇だ、お前の手を握らせて呉れ」友太郎は氣も顛倒する許りに「牢番を呼んで、醫者でも來て貰ひませうか」法師「其樣な事が出來るか、お前が牢番を呼べば直に穴の道まで覺られて何の樣な目に遭ふか知れぬ」成るほど其れは爾である「でも何とかせねば」法師「イヤ何としても今度は助からぬ」友太郎「其の樣な事は有りません、先の病氣にも命を取留る事が出來たのだから、今度も必ず取り留ます、取り留ます」法師「イヤ前のと違ふ、己には最う、命の絶える事が能く氣持に分つてゐる、何としたとて無益だ、何うか今夜を生涯の分れだと思つて呉れ」友太郎「エ、生涯の分れ — 貴方に分れては私が只一人、何うして此の土牢の底にゐられませう、何とかして取留ねば、父よ、父よ、何とか工夫が有りませう、何うか差圖をして下さい、オヽ先に用ひた藥が有りませう、未だ十分殘つてゐる筈です」と云ひながら、法師の寢た儘の寢臺を、片方だけ輕々と持上げて其脚に在る隱し穴から赤い彼の藥を取出した、法師「何うしたとて無益だけれど其方の念晴しに差圖だけは殘して置く、先に仕た事と同じ樣に、己の死に切つた樣になる時を待ち、今度は十二滴だけ其藥を己の口に埀らし込んで呉れ、爾して半時間ほど待、何の效目も見えぬ時は、ある丈の藥を殘らず口へ注ぎ込んで呉れ、何うせ無益は無益だけれど」
「無益などゝ其の樣な心細い事をいはずに何でも生返ると言つて下さい、氣さへ確なら必ず — 」と言葉の猶終らぬうち、法師の身に大痙攣が初まつて、聲も立てた、悶きもした、先に見た状より何も彼も一入劇しく、全く兩眼も露出るかと思はれる樣とは成つたが、悶き悶きに、叫び叫びて到頭死人と成つて了つた。
其の叫んだ聲は、言葉には成つてゐぬけれえど、最後に友太郎の聞分け得たのは「大金」「モンテ、クリスト島」といふ語に能く似て居た。
是れ切若しも此の人が死んで了へば何うしやうとの念が友太郎の心に滿ちて又滿ちた、けれど如何とも仕方がない、差圖の通りに、前の時に行つた通りに、全く死人の状と爲つて了ふのを待つた、爾して彼の藥を十二滴、噛〆めた齒を鑿で開いて埀らし入れた、けれど今度は何の效能もない。
最う此の上は最後の手段に訴へる一方に最後の手段は藥を殘らず埀らし込むので之で若し效目がなくば何としやう、イヤ何とも仕樣がないのだから何でも之で生返らせねば成らぬのだ。
一心込めて神の助けを祈りつゝ、半時間經たと思ふ後に、瓶の藥殘らずを其の口に注込んだ、前の分量より倍以上もある、是れが法師の靈に通じたのか、全身に再び強い痙攣を引起し、又も齒をキリ〳〵と噛鳴らして兩の目を張裂けるほどに開いた。眼に浮かぶ苦痛の状は何とも譬へるに物がない、爾して其の眼は徒に空を射て光つたが、幾等靈藥の力でも天の定めた壽命に勝つ事は出來ぬ、目を開いた以上には何の驗もない、夜の明ける頃に及んで全く冥府の人に成り終つた事が分つた、友太郎は寢臺の下に轉がつて慟哭した。
巖窟王 : 四七 恐ろしい新思案
友太郎が慟哭するのは無理もない、父とも師とも頼む梁谷法師に死なれて、後は此土牢に唯だ自分一人と爲つて了ふのだ。
況して此法師の、深い慈愛と限りなき智慧とを考へ、又其 死状の傷ましさなどを考へ合すと泣くより外はないのである。心の底から浸々と悲しさが迫上げて來る。
けれど泣いてゐられる時ではない、早夜も明けて牢番の見廻る刻限も近いのだ、見咎められては大變だから、必死の思ひで心を取直し、先其邊を片附けて、誰にも此 室に法師より外に人のゐた事を覺られぬ樣に仕て置いて、靜かに自分の室に歸つた、此時は朝の七時である。
間もなく牢番が見廻つた、けれど何事もなく立去つた、立去つて更に法師の室を見廻るのだ。法師の室で牢番が何の樣に驚くだらう、法師の死骸を何の樣に取扱ふだらう、何だか見屆けずにはゐられぬ樣な心地がする、儘よ忍んで行つて其容子を伺つてや[ら]う。
燈火に引かれる夏蟲の樣な思ひである、友太郎は再び穴の道に入り、法師の室の直傍まで行つて耳を澄ますと、丁度牢番が法師の死を知つて驚き叫ぶ所である、間もなく外の牢番をも呼んで來た、次には典獄をも呼んで來る容子である。
其暇に再び自分の室へ歸り、何氣なく食事を濟せて又も穴の道を今の所まで行つて見た、間もなく典獄も來て、法師からの使ひで醫師も來た、兵卒も來た、爾して一同の間に樣々法師の生前の事を噂する聲も立つたが、其中に醫師は法師の身體を檢め終つたと見え「ハイ典獄全く事切れてゐます」典獄「勿論、事切れといふ事は一目見ても分かつてゐますが、規則だから何うか死骸の足の踵へ、赤く燒いた熱鐡を當て見て頂きませう、爾うして愈々命の殘つてゐぬ事を確めるのが最後の手續ですから」
醫師「爾するにも及ばぬ程、明白ですけれど規則には從ひませう」直に典獄からの差圖に應じて誰だか一人熱鐡を取りに去つたらしい、後から又典獄が醫師に向ひ、雜話の樣に「イヤ幾等囚人でも死んで見ると可哀相です、殊に此の第二十七號は、尤も無害な囚人で、私の赴任以來一度でも苦情をなど言ひ立てた事はないのです、全く土牢の中に滿足してゐたと見えます、此樣な囚人こそ縱しや五十年牢の底へ捨て置いたとて破牢などの恐れはないのです」友太郎は典獄の愚さを感ぜぬ譯に行かぬ、醫師「元は過激な革命論者であつた樣に聞きましたが……」典獄「發狂の爲めに全く氣質が一變したと見えます、此樣な無害なのが死ぬると可哀相ですから成る丈け、葬るにも新し相な袋へ入れて遣りませう」斯ういつて更に又一人をば、袋を取りに遣つた容子だ。
扨は棺に收める代りに袋へ入れて埋めるのだと見える、其中に前の一人が熱鐡を持つて、次の一人は袋を持つて、共に歸つて來たらしい、典獄「オヽ一番大きな鏝を燒いたのか」火花の散るかと思はれる程眞赤に燒けてゐるのだから、之を當て見れば少しの疑ひも殘りはせぬ、其の實行は誰が仕てゐるか知らぬけれど頓て肉に火を當てた樣な音がして、引き續いて友太郎のゐる穴の中へまで其の臭氣が傳はつた、是れで全く法師が此世にない人と極つたかと思へば殆ど斷腸の思ひである。
醫師「最う疑ひはありません、全くの死骸と爲つてゐるのです」典獄は牢番に向つてだらう「其れであ直に此死骸を今持つて來た袋へ入れ、爾して成規の通り今夜の十二時に毎もの墓地へ舁いで行つて葬つて遣れ」牢番等は一同で死骸を袋へ入れ終つた樣である、爾して其のうちの一人が問ふた、「ハイ、夜の十二時まで誰か一人、茲に殘り死骸の番をしてゐませうか」典獄は笑つた「ナニ番をするに及ぶものか、袋の儘で其の時刻まで擲つて置けば好い」斯う云つて一同は去つて了つた。
稍あつて友太郎は又も法師の室へ入つたが、見れば其の死骸は果して袋に包まれて寢臺の上に横たはつてゐる、最早此人と我が身とは、幽界と明界とを隔てゝゐるのだから、交はる可き道が絶えた、爾すれば此身は再び元の唯一人といふ淋しい境涯に歸らねば成らぬ、イヤ既に其の境涯に歸つたのだ、アヽ此後の、限りもなく長い月日を何うして獨り送る事が出來るものか、此身も直に法師の後を追ひ冥府の人と成つて了ふ外はない。
眞に友太郎は、死んで法師の後を追ふ心になつた、生存へて此上苦痛を長くする事は到底耐へ得ぬ所である、死せば苦痛は其の儘で終るのだ、爾して冥府で法師に逢ふ事が出來るかも知れぬ、爾うだ死ぬるには茲に隱れてゐて、牢番を一人叩き殺せば好い、爾すれば死刑に處して呉れるだらう。
殆ど思ひ定めんとはしたけれど、今までに苦心に苦心を重ね、唯だ牢を出る事をのみ考へてゐた身が何うして本統に死を求める事が出來よう、殊に死刑といふ死に樣は心持の好いものではない、イヤ、イヤ、死なれぬ、此の身には未だ復讐といふ負債がある、再び世に出て此の負債を返さねばならぬ、復讐のみか恩を受けて未だ返し得ぬ場合もあるだらう、怨と同じく恩をも返して了はねばならぬ、眞實返す事が出來るや否やは分らぬけれど、切に法師に教へられ戒められた事もある、自然に命の盡きる迄は一生懸命に自分の命へ獅噛み附いてゐねばならぬ。
爾うだ、爾うだ、猶だ死んでなるものか、死ぬるのは何時でも出來る事である、再び死ぬる氣の起らぬ樣に法師の死骸に對し堅い誓ひを立てゝ置かうと、活た法師に縋る樣に其の袋に對し「師よ、父よ、貴方は死んで此の牢を出で、私は活て此の牢に殘りますが」と言掛けたが、此の時 忽ち、電光の射る樣に、恐ろしい新思案が友太郎の腦髓に差込んだ、「アヽ何故法師の方は此の牢を出るのだらう、何故我が身は此の牢から出られぬのだらう、其れは生と死との別である、死人となれば我身でも出られるのだ、死人と爲つて此の袋の中へ這入つてゐれば牢番が擔いで此身を墓地とやらまで持つて行つて呉れるのだ、法師の死骸を拔出して其の後へ我が身が這入つてゐたら何うだらう」
餘まり恐ろしい考へであるが爲に、自ら思ふて自ら身を震はせた。
巖窟王 : 四八 袋の中
友太郎は身を震はせて立上つた、餘まり恐ろしい考へである、死んだ人に成代つて自分の身を棺の中、イヤ棺同樣の袋の中に入れ、牢番に擔がれて此の土牢を脱け出るとは、よしや出來る事であるにしても唯だ思ふだけで戰慄する。
彼れは自分の額へ手を當た、實に腦髓を攪亂される樣な心地がするのだ、目が眩んで頭蓋骨も張り裂けるかと思はれる程に頭痛がするのだ、果して此の思案の行はれる事か行はれぬ事かを考へる力さへない、空しく室の中を二度三度歩いて廻つた。
爾して何にもせずに何にも云はずに、自分の室へ歸つて來た、歸つても暫し唯だ胸騷ぎのするのみである、之を能く落附けねば何を考える事もで出來ぬ、頓て彼は寢臺の上に仰向き臥して胸を撫でた、爾して考へられる丈け考へた、イヤ考へ樣と勉めた。
幾時間かを經たが、唯だ増すものは淋しさである、土牢の中に何の聲も何の音もない、實に其の靜かさが自分を壓迫ける樣である、壓迫けて蒸殺される樣な氣がする、同うして此淋しさを耐へてゐる事が出來やう、此後の長い月、長い年、唯物淋しさが増すのみである、何の變化、何の視る物、聽く物も現はれて來ぬのである、アヽ何が何でも彼の思案を實行せねば成らぬ、實行する外はない。
卒然立つて彼れは法師の室へ行つた、今は傍目も振らぬ状である、心に浮かぶ一切の恐れや一切の妄想を、浮かばぬ中に揉消して、彼の袋から法師の死骸を引出した、爾して之を自分の室へ持つて來て、宛も自分が寢てゐると見える樣に、自分の寢臺の上に寢かした。
此時は早世の七時を過ぎてゐる、最早牢番の見廻りもないけれど、縱し見廻つた處で、此身が常の如く寢てゐるとしか思ひはせぬ。
更に其身は法師に室に雪、袋の中に這入つた、同うやら法師の死骸と見える樣に法師の死骸が在つた通りに、其跡へ横はつた。
漸く思案らしい思案の出來る事になつたのは此袋の中に身を落着けてからである。
典獄の差圖では、夜の十二時に例もの墓地へ擔いで行つて葬れとの事であつたが、若し擔いで行く其の途中で、袋の中が死人でなくて生た人だと分つたなら、何としやう、其の時には直樣中から袋の縫目を切破り、立現はれて牢番を叩き殺して逃げるのだ、其の用意に彼れは法師の作つた小刀を持つてゐる、實は袋の粗末な事をも見屆け、隨分切破れる事をも確めてある。
或は途中に無事に行き墓の中へ葬られたら何うであらう、勿論囚人を埋めるのだから爾う丁寧に深く埋めて厚く土を掛ける筈はない、埋められた後で、上を跳退け、地の面へ立現はれて立去るのだ。
若し其れも是も思ふ樣に行かず、途中で現はれて牢番等に叩き殺されるか、或は埋められた其の穴が深く、上から掛けられた其の土が重くて跳返すことが出來ぬ如き場合には何としやう。
其れこそは此方の望む所である、其のまゝ此世の苦痛を終るのだ。
何うしても助かりたいといふ人にこそ失策は有れ、生よりも死を望む身に失策のある筈はない、失策すれば死ぬるのだから、其まゝ本望が屆くのだ、何う間違つても死ぬるより上の事はないのだから、即ち自分の目的の逹するより外はあり得ぬのだ、助かれば好し助からねば猶好しとの兩天秤を掛けた仕事なのだ。
斯う何も彼も諦めを附けて了つた積りではあるが、心の底の孰れにか、未だ諦め切れぬ所があると見え、思案の定まると共に又も動悸が打ち初めた、自ら鎭まらうとしても鎭まり得ぬ、眞に身體中に波が打つたのだ、爾うして額には脂汗が湧いて出る。
或は此身は、袋の中で此まゝ死ぬか知らんとも怪しんだ、動悸の高さと苦しさは全く死際かと思はれる程である、爾うだ死ぬのだ、必ず法師が此身を導いて呉れるのだと此樣に思つて、更に死を待つといふ氣に成つた、アヽ、早く死が來れば好い、早く此世を去つて見たいと、斯う覺悟が定まると共に動悸は止んだ、爾うして其反動であるか、心も身體も死人の樣に靜かに成つた、全く寂寞と落着いて了つた。
落着き切つた頃である、三人の牢番が松明を照して遣つて來た、其明りが袋の粗い布の目から洩れて、分かり、爾うして人の影も散々と袋の上へ落ちる。
松明を持つたのが、毎も此の室へ食物を運んで來る奴である、此奴が先頭分だと見え他の二人を差圖してゐる「サア一人は足の方を、一人は頭の方を、爾だ、爾して舁つぐのだ」聲に應じて二人は袋の兩端へ手を掛けて持上げた、頭の方の一人「痩せた老人にしては仲々重いぞ」足の方の一人「成るほど重い」
巖窟王 : 四九 監獄の墓地
松明を持つてゐる牢番は嘲笑ふ樣にいふた「重いとて知れたものだよ、お前等が怖氣だつて、早自分の腰が半分拔掛つてゐるから其れで猶更重い樣に思ふのだ」
此の言葉で、擔ぐ二人は「何の」といふ氣を出したらしい、荒々しく袋の中の友太郎を持上げて寢臺から擔架の上へ移した、若し今の言葉がなくして、一同が此の死骸の重いのを怪しんで、袋の中を檢めでもしたなら何うだらう、其れこそ一椿事が引起る所だつた、けれど彼等は、勿論袋の中に、法師の死骸より外の物が入つてゐやうとは思ひも寄らぬ、其のまゝ擔架のの兩端を擔ぎ上げつゝ、甲「時に錘は何うしたんだ」之は松明を持つた奴が問ふた、擔ぐ奴「茲から錘を付けて行くには及ばぬ、墓場の邊に置いてあるよ」甲「成ほど其で好い。葬る時に付けるのか」
錘とは何の事だらうと友太郎は袋の中で怪しんだが、アヽ此奴等の間に定まつてゐる何かの符牒に違ひないと思ひ直した、間もなく擔架の兩端は上がつた、乙「オヽ松明が爾う早く行つては己等は暗闇で躓くよ、石段を上つて廊下の外へ出る迄は緩々と行つて貰はねば」甲「臆病者め、明りが遠くなれば恐ろしいのだな、其樣な事で牢番が勤まるか」
牢番が勤まらねば男でないと思つてゐる樣な口調である、頓て徐々と歩み出して、石段を上つた、爾して又少し行くと外の夜風の、冷やかに當る事が袋の中にも分かつた、暫らくすると早や監獄の構内を出たと見え、浪の音も近く聞える。
墓地は海岸に沿ふてゐるとみえる、一歩一歩が浪の音に近くなる、爾して擔ぐ奴等の足が段々と高い所へ上る樣子だ、アヽ何でも岬の頂邊に在るのだな。
樣々に思ふうち、三人の歩みが止まつた、甲「茲で好い、茲で好い」聲に應じて袋は擔架と共に大地へ置かれた、乙「オヤ確此邊に彼の錘を置いた積りだが、何れ松明を貸して呉れ探すから」甲「ソレ」といふたのは松明を渡したのだだらう、松明の其處彼處と振照される樣も分る、其れにしても錘とは何であらう、此樣に搜す所を見るに確に此身を葬る爲めに、なくて成らぬ品と見える、アヽ、地を掘る道具へ此奴等が附けてある異名だらう、鋤か鍬の樣なものに違ひない。
餘つぽど友太郎は、此間に袋を切破つて、逃やうかと思つて、手に小刀を持つて居るし、イザといへば咄嗟の間に袋を切破る用意をしてゐるけれど、聊か躊躇した、待つ中には最と好い場合が來るかも知れぬ。
松明は又も擔架の傍へ戻つて來た、乙「あつた、あつた、之を結び付ければ好いのだ」とて地上へ何か一物を置いたが全く眞の錘らしい、置く時にはヅシンと地響きがする樣に聞えた、其の錘を結び付けるとは何處へ結び付けるのだらう、疑ふ間もなく袋の上から堅く友太郎の足を縛つた、アヽ錘を足へ結び付けたのだ、繩目の爲に足が痛い程である。
甲「其れで好い、サア己が一二三の聲を掛けるから餘つぽど甚く、振つて惰力を附けねば了ぬよ、何時かも翌日向ふの岩へ打上げられて甚く典獄に叱られたことがあるから」
何の事だか益々分からぬ、乙丙共に「好し來た」といひ、擔架の上から頭だけを持上げた。
乙「是れほど此の岬が出つ張つてゐるから眞直に落た所で、水際より餘程先の方へ行くよ」
丙「其れに水際からして、深さの知れぬほど深いのだもの」
扨は、扨はと、友太郎の心に何だか合點の樣なものが浮び掛けた、浮んで未だ驚く間もないうちに、甲の奴から號令の聲が掛つた、「サア一ー、二ー」聲と共に友太郎の身は強く惰力を附ける樣に、中に振られた、爾して「三アーン」と掛ける聲諸共、其奴等の手を放れて空中に投げられた。
アヽ此 泥阜を要塞で墓地といふのは海原の事をいふのだ、海が即ち監獄の墓地なのだ、爾して葬るといふのは、海に冠さる千仞の崖の上から、死骸へ重い〳〵鉛の錘を附けて投落として、再び浮び上らぬ樣に水底へ沈めて了ふのだ、船員の船で死んだのを水葬するのと同じ事である。
友太郎は袋の中で、其の身が錘と共に、空中を下へ下へと落ちて行くのを感じた、勿論非常な速力で落ちるけれど餘つぽど崖が高いと見え、仲々落ちる間が長い、充分に合點して充分に驚く暇が有つた、彼れは長い叫び聲を落ちる途中で發した、錘を附けての水葬では到底助かる道が無いと知つた、良ありてと揚がる水烟と共に、叫び聲は溺れて消えた、跡は唯浪の怒る漫漫の海である、何處に沈んだか海の面に一痕をも留めぬのである。
巖窟王 : 五〇 一天墨の如く
千仞の崖の上から海の面まで落ち着く間の空中で友太郎は自分が水葬せられる事と合點も行つた、驚きもした、爾うして驚いて叫びもした。
足にも重い重い錘が附いてゐる、海に落れば直ちに沈む一方である、と云つて沈まぬ工夫は無い。
一旦は沈んでも、直に袋を切破り、錘をも切捨てゝ、自分の呼吸の盡きぬうちに水面へ浮び上らねば成らぬと、此樣にまで考へる暇が有つた、イヤ暇の有つた譯では無い、必死の危險に腦髓が非常に早く働いたのだ、爾して身體が水の面に附く迄に、早彼は袋の中から右の手だけ出し得てゐた。
後で思ふと錘に附いてゐたのが却つて幸で有つたかも知れぬ、錘も無しに落とされたなら、身體を横にして投られたのだから横に水の上に落る所で有つたゞらう、横に落ては水に打たれて身體が破裂して了ふ、破裂せぬ迄も非常な怪我をするに極つてゐる、只 幸に足に附いた錘の爲に引かれた足の方が下に爲り直立して水に入つた、其の勢は實に凄じい、一時に水面の幾尺下へ落込んで猶ほも底へ底へと、驚く可き速力で錘の爲に引込まれる、奈落の底まで逹せねば止まらぬのだ、友太郎は出てゐた右の手で、先ヤツと袋を掻退け、身體だけを出して、次には小刀を以て錘を切り初めた、一通りの事では切れぬけれど、有る丈けの力を盡した爲、終には切れた、切れると共に、兩の手と兩足で水を踏張る樣にして、水面へ浮かび上つた。
幾等魚ほど泳ぐと云はれた友太郎にしても此丈けの、間息を詰めてゐる事の出來たのは殆ど不思議だ、是れが今ホンの一瞬の間も遲かつたなら必ず呼吸が盡きて水を呑み、縱しんば水面に浮ぶとも死人と爲る所であつた。
水面に浮かんで二度ほど息をして又底へ潛り込み、一生懸命に水底を泳いだ、泳いでは浮かぶ浮んでは又泳ぎ凡そ六七囘目に水面に浮んだ時に、初めて氣が附いて見ると一天墨の如く掻曇つて、風も出てゐる、何だか暴風雨が來かけてゐる樣である、之が陸の上なら、逃げる身に取り暴風雨は何よりも有難いが、海の上では之が爲に舟さへも覆へされる、牢番の水葬には助かつて、暴風雨の爲に更に水葬せられるのか知らん。
振向いて泥阜の崖を見ると、暗い中に未だ松明が光つてゐる、何でもアノ牢番等が、友太郎の落る時の叫び聲を聞き異樣に思つて猶だ海の面を窺いてゐるのだ、窺いたとて此の闇に分かる事では無い。
けれど友太郎は又潛つた、爾して今度浮んで見ると最う松明は無くなつてゐる、何だか有難い樣な氣もする、とは云へ此の後は何うして助かる事が出來やう、何處へ泳ぎ着けば好いのだらう。
兼て梁谷法師と研究した事も有る、のみならず、此邊は幼い時から絶間無く航海した所だから能く知つてゐる、一番近いのがレトンノー島で、其れに並ぶのがボメーグ島だ、けれど此の二つの島には人家が有る、泳ぎ着けば直に怪しまれて捕へられる。
何でもチブレン島まで行かねばならぬ、此の島は、島と云ふよりも海の面に出た大きな巖だから、人家も無し見咎められる恐れも無い。
人家の無い島へ着いて、後は何うする、何を食ふて餓を凌ぐ、其の樣な事を考へる暇が無い、何でも泥阜の岬から三哩餘り離れてゐるから、二時間も泳げば逹せられる、幸ひに風も其方角へ吹いてゐる樣である。
とは云へ眞ツ暗な海の面で、其島が見えるでは無し、少しでも方角を取違へれば飛んでも無い事になるのだ、先延び上る樣にして四方を見ると、遙彼方に一點の星が見える、星では無いブラニエルの燈臺で有る、有難や、有難や、是れさへ有れば方角を見違へる事は無いと、漸くに大體の思案だけ定めて只管チブレン島を指して泳ぐうちに空は追々に暴初めた、叩くは雨、擲るは風、段々に浪を煽つて、人間の力では泳ぎ切れぬ程になつて來た。

