◎巌窟王(巖窟王)(上 004) アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香譯
画像は、Pierre-Gustave-Eugene-Staal-Edmond-Dantes より
巖窟王 : 四一 恩を返す道
實に法師の病は恐ろしいほど劇しい發作であつた、其の叫び聲は、友太郎が壓迫して牢の外へ聞えぬ樣にしたけれど、引續いて起つた總身の痙攣は友太郎の力では如何ともする事は出來なかつた。
噛〆めた齒の間から泡を吹き、眼は張裂くかと思はれる程廣がつて、兩の目の球も脱け出さうに見えたが、顏は一旦紫色になり又青くなり、手も足もイヤ身體中が悉く引絞らるゝ樣に顫へて居たが、長久しくして鎭まつた。鎭まると共に死人の樣に成つて了つた。
脈もない、呼吸もない、其上に身體も冷えて、何うやら硬化り掛けて居る容子である、友太郎は恐ろしさに堪へぬけれど、今が法師の差圖を實行する時と思ひ、先鑿を取つて、噛切て居る齒と齒との間を捻開け、瓶の藥を差圖の通りに十滴だけ埀らし込んだ。
是で生返るか知らん、返らぬか知らん、或は藥の呑ませ方が遲過はしなかつたか、早過ぎはしなかつたかと、樣々の懸念に胸を苦しめ只管法師の顏をのみ見詰めて居るうち、大方夜の明け放れる頃となつて、極少しだけれど、青い顏に血色の還つて來る樣に見えた、引續いて、呼吸も眞に蟲の息ほどだけれど通ひ初めた、有難い、藥の效能があつたのだ、此分ならば遠からず全く此世の人に成るのだらうと思ふうち、早 毎も牢番が見廻りに來る刻限となつた。
殘念だけれど暫し茲を外さねば成らぬ、早や土牢の大戸を開く樣な音も聞える、全く去るに忍びぬ心を以て、友太郎は地の下の穴へ潛り込み、中から手を出して蓋の石を引込んで、成丈出入口の分らぬ樣にして置いて我 室へ歸つた、眞に危い所であつた、歸ると間もなく、牢番が戸口から覗き込み、「ウム、別に異状はないな、では直に食事を持つて來て遣るワ」とて退いた。
食事中の友太郎の心配は譬へるに物もない、早く法師の室へ行つて容子を見たい。
彼れが再び法師の室へ忍んで行つたのは、二時間の後である、法師は早全く生氣に返つて居る、痛く疲れた樣子ではあるが、寢臺の上で首だけを上げ「オヽ友太郎か、お前の正直、忠實には唯感服の外はない、我が子、我が子」と打叫んだ、今まで友太郎は此法師を「父よ」「師よ」と呼んだ事は幾度だか知らぬけれど、法師は愚痴な人情には感動せぬ氣質で、絶えて「我子」といふ樣な親しい言葉は發しなかつた、今度ばかりは餘ほど感動したと見える。
友太郎「意外に早くお直り成さつて此んな嬉しい事はありません」法師「己は最う、お前が此牢を出た事とのみ思つて居た」友太郎「エ何で其樣な事を」法師「イヤ昨夜直にも逃出される樣に總ての準備が出來て居るのだから、定めし逃出したゞらうと思つたのさ」友太郎は恨めしげに怒り「貴方は其れほど私を薄情とお認めでしたか」法師「イヤ薄情ではない、己を捨て逃げ行くのが當り前だよ、多年の苦心で、漸く脱獄の道を開き、牢の中の支柱を一つ脱しさへせば、何も彼も思ふ通りに行く事と爲り、サア愈々といふ間際に己が病氣に倒れたのだもの、己に構ふてなど居られるものか、己は今朝生氣に返り、獨りでさう思つた、アヽ友太郎は夜前の中に逃果せたな、其れにしても己に藥だけは呑ませて呉れたと見える、其れだから己が此通り生返つたのだ、藥を呑ませる間だけでも踏留まつたとは、實に珍しい親切な男だと實は心で謝して居た」友太郎「師よ、師よ、貴方は情ない事を仰有る、私は今日牢番の來る時まで此 室に居たのです」法師「許して呉れ友太郎、お前は實に、此世に二人とない高尚な心を持つて居る、其れを世の中一般の不人情な人と同視したのは惡かつた、惡かつた」法師は目に涙を湛へた。
友「惡いも何もありません、先ア其樣な事を仰有らずに、氣を丈夫に持て早く快くお成りなさい、其上で一緒に牢を出ますから」法師は限りなく失望の調子で「其れが出來ぬ事に成つた。己は此前の發病の時は、生氣に復つて唯だ總身の疲いのを感じたに止まつたが今度は半身不隨になつた[、] 右の手右の足が少しも利かぬ」友太郎「では其は」法師「イヤ直る事ではない、醫師カバニス氏が豫言した、縱しや第二の發作の時に命だけは助かるにしても、身體は必ず利かなくなると」友太郎「身體が利かねば私が負つて逃て差上げます」と少しも、躊躇も狐疑もせぬ、法師「負ふとて、平地とは違ひ、外へ出れば海を泳いで逃げるのだ、半身不隨の人を背負ふて、何うして泳ぐ事が出來やう、イヽヤ其れは理論的にも分り切つて居る、何と云つても出來ぬ事だ、お前は水夫だ、人並外れて泳ぎに上逹して居たとしても、一町と泳がぬ中に溺れるに極つて居る、一番近い島へ迄も五哩はあるのだから、コレ友太郎、己は自分の爲にお前を引留めては成らぬ、今まで一緒に逃げやうと云つた約束は取消すから、お前は一人で逃て呉れ、イヤ少しも己を氣の毒とは思ふに及ばぬ、己が愈々といふ間際に此樣な事に成つたのも、畢竟は神の御心だ、神が未だ己を救ふて下さらぬのだ、己は神の御心に逆らふては何事もせぬのだから、コレ何うかお前だけ獨りで逃る事に極めて呉れ」
眞に他事もない頼みである、友太郎は斷乎として「イヤ私は其樣な男ではありません、死んでも約束に蹙み附きます、貴方の生きて居る間は、決して貴方を捨て一人逃る樣な卑劣な事は致しません」何たる健げな心だらう、法師は全く感極まつて泣いた「我子よ、我子よ、天がお前の樣な人生に又とない正直者を己に授けて呉れたのだ、お前の正直に乘じて、其れでは一緒に止まつて呉れといふには忍びぬけれど、己は此恩を返す道がある、ではお前の言葉に甘える、ナニ己は此次の第三囘の發病では死ぬるのだから、其時まで茲に居て呉れ」友太郎「居ますとも、イヤ第三囘の發病には牢の外で逢ふ樣に、貴方が少しでも能く成れば屹と救ひ出して差上げますよ」法師「兎も角も氣遣はしいにアノ陷穽を、アノ儘に置いては番人が廊下を歩み下に空洞の樣な響きがする爲め怪しんで檢める事に成るかも知れぬ、お前 愈々己と一緒に踏留まるとすれば、一時でも彼の穴を埋潰して置かねば成らぬ」
情ない事をいふ、艱難辛苦で漸く掘上げた穴を又潰さねば成らぬとは、併し如何にも尤もな用心である、友太郎「潰しませう、私は一人で行つて、爾です、アノ陷穽に成つて居る部分だけは十時間も掛かれば埋切る事が出來ますから」法師「では氣の毒だが爾して呉れ、あれが潰れねば安心して居られぬ、其の代り友太郎、アレを潰し終るまで己の所へ來るには及ばぬから」友太郎は心得て退いたが、是より全く此日一日と其の夜一夜を穴埋に掛かつて了つた、埋るのは掘るより容易だ、一日一夜に潰し終つて又翌日の朝、其の事を知らせに梁谷の室に行き「最う少しも、足音などで怪しまれる恐れはありません」と云つた、梁谷法師は徹頭徹尾、友太郎の正直な事を見拔得て「オヽ友太郎、定めし殘念でもあらう、失望でもあらう、けれど悔んで呉れるな、己は其の代り爾うだお前の恩返しに、何百萬と數の知れぬ寶を半分お前に分けて遣る、其の寶のある所を、直に今茲で教へて遣る」アヽ寶、寶、此法師が發狂して寶の事を云ふことは兼て聞及んで居たが發病の響きで又も元の發狂に復つたかと、友太郎は一方ならず驚いた。

