読書ざんまいよせい(014)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」


トロツキーの「田園交響曲」はまだまだ続く
第一章 ヤノウカ(続き)

 私達は大佐が建てた小さな土の家に住んでゐた。藁葺きの屋根は軒の下に無數の雀の巢の張り場所となつてゐた。外側の壁は、蛇の孵化所である深いひヾで疵痕だらけになつてゐた。時としてこの蛇は毒蛇と間違へられて、ひゞの中へサモワルの熱湯を流し込まれることがあつたが、何んの役にも立たなかつた。天井は、大雨の時には雨漏りがした、殊に廣間では、水を受けるために壺や盥が汚い床の上に置かれた。部屋は狭く、窓は薄暗かつた。二つの寢室と、子供部屋の床は粘土で出來てゐて、蚤がうよ/\してゐた。食堂は、每週一回づゝ黄色い砂で磨き上げる木の床を誇つてゐた。嚴かにも接待室と命名せられた座敷の床は、僅かに八步位の長さでしかなかつたが、それでもペンキが塗つてあつた。大佐未亡人はこの部屋に滯在してゐた。
 家の周りには黄色いアカシアや赤や白のバラ、それから夏埸には蔓葡萄が成長してゐた。庭には何等の垣もしなてかつた。父が建てた瓦屋根の大きな土造の家には、鍛冶場、料理部屋、召使部屋などがあつた。その次には『小さな』木造の納屋があり、その向ふには『大きな』納屋が建つてゐた。その向ふに、も一つ『新しい』納屋が建てられた。皆んな盧で葺いてあつた。これらの納屋は石で持上けられてゐたので、その下を流れる水で穀物が黴るやうなことはなかつた。暑い時や寒い時には、犬や、豚や、鶏がこの納屋の中に避難してゐた。そこでは牝鷄が卵を生むに恰好の場所を發見した。私はそれが欲しさによく石の間に這込んで卵を取つたものだ。この隙間は大人が這込むには餘り小さすぎたのだ。每年『大ぎな』納屋の屋根には、鶴が巢を造つてゐた。この鶴は、蛇や蛙を喰べたらしくその赤い嘴を高く空中に上げてゐることがよくあつた。ーーそれは恐しい光景だ!鶴の體は、嘴のところから下に向つてのたうつて行つた、そしてそれは恰も蛇が内側から鶴を喰つてゐるやうに見えた。
 この納屋は、新鮮な嗅ひのする小麥、荒い刺のある大麥、滑つこくて殆ど液體のやうな亞麻仁、冬葡萄の靑綠色の房、それから輕くて細かい燕麥などを納めた貯藏室に分かれてゐた。子供達が隱れん坊をして遊んだ頃には、時に特別のお客さんが來た時などは、この納屋の中に隠れることを許されたものだ。私は仕切りの一つを這渡つて、一つ〇貯藏都屋に這入り、小麥の山を迅登つて、他の側へ沿り落ちたものだ。私の腕は肘まで、私の脚は膝まで滑り落ちた小麥の束で埋められ、あちこち引き裂かれたシャツや靴には麥粒がいつぱいになつた。納屋の戶は閉められて、體裁のために誰かヾ外から南京錠を、ゲームの規定に從つて、閉めないで引つかけて置くのであつた。私は殺物の中に埋つて埃を吸ひながら凉しい納屋の中に横り、Y ちやんとか、J ちやんとか、S ちやんとか、或ひは妹のリザとかその他の人が、他の者を見つけても私を見つけず、庭の中をあちこち走つてゐるのを聞きながら冬小麥の中に溺れてゐたものだつた。
 厩、牛小舍、豚小舍、それから鷄小舍などは皆、私達の住居の反對側の方に建つてゐた。これらは凡て、泥と藁と木の枝とで出來てゐて、粘土をもつてどうにかくつゝけ合せてあつた。高い|はねつるベ<傍点>が、中天高くこの家から百ヤード位も伸上つてゐたので、泥と肥料と藁で作り直さなければならなかつた。この井戶の向ふには、この農家の菜園に水を注ぐ池が横つてゐる。春の洪水は、每年堰を持つて行つた。池の上の小山の上には水車小屋が立つてゐた。ーーこの木造小舍は十馬力の蒸氣エンヂンと二個の臼石とを持つてゐた。母は、私の幼年時代の最初の幾年かの間、彼女の勞働時間の大部分をこゝで過したのである。この製粉所は私達の所有地のため許りでなく、同じく近所全體のためにも動いてゐたのである。百姓達は十哩乃至十五哩四方から彼等の穀物をもつて來て、製粉のためにその十分の一を拂つて行つた。暑い時や打穀間際には、製粉所は晝夜兼行で動いた、そして私が讀み書きを覺えてからは、私が百姓達の穀物を計り、製粉の値段を計算することになつてゐた。收穫が終ると製粉所は閉塞され、動力は打穀のために持ち出された。その後新しい石と瓦で造つた建物の中に、据ゑつけの動力が備へられた。私達の古い土造の家も、ブリキの屋根を非いた大きな練瓦造りに換へられた。然しかうしたことのあつたのは、私がもう十六歲にもなつてからのことである。前年の夏休みの間,私は新しい家のために窓と窓との距離を計算したり、扉の大きさを計つたりしたが、結局說計を完成することは出來なかつた。私がその次に田舍を訪れた時、私は石の土底の築かれてゐるのを見た。私はその家には住なかつた。その家は今日ソヴイエツトの學校に使はれてゐる。
 百姓達は、彼の穀物が挽上るまでに、製粉所で往々二三週間も待たされることがあつた。近くに住んでゐる連中は、袋を順番に列べておいて家へ歸つて行つた。遠くから來た者は、自分の馬車の中で寢起きし、雨の降る時には製粉所の中で寢た。この百姓の中の一人が、一度馬勒を失くしたことがあつた。誰かゞ或馬の側を一人の子供がうろ/\してゐるのを見た。百姓達はその子供の親爺の所へ押寄せて行つて、藁の下を檢べた。ところがそこに馬勒があつたのだ!陰氣な髭を伸した百姓の、その少年の父は、この罪を被せられた小さな惡人、不埒な惡漢は、その馬勒を自分でも知らないで取つたのであつて、彼がそれを隱くしてやらうとしたのであつたことを神に誓つて、東に向つて十字を切つた。然し誰もこの父親を信じた者はなかつた。そこでその百姓は彼の息子を捕へて、その盜まれた馬勒で打ち始めた。私はこの光景を大人達の背後から眺めてゐた。その少年は悲鳴を舉げて、二度と再びやらないからと誓つた。百姓達はその少年の悲嗚には何等の關心を持たないで、陰氣くさゝうに覗き込んでゐた。彼等は煙草を吸ひながら、親爺は尤もらしく體裁だけに息子を打つてゐるが、彼自身が鞭打たるべきなのだと、髭だらけの顏,でぶす/\云つてゐた。
 納屋や家畜小舍の向ふ側には、數百フイートの、二個のべらぼうに長い小舍が伸てゐた。一つは蘆で出來てをり、他は藁で出來てゐて、切妻屋根の形をした壁なしで、直接土地に横つてゐた。新鮮な穀物はこの小舍の中に積上げられ、雨降りや、風のある日は、人々はこの中で唐箕と篩とをもつて働いた。この小舍の向ふには脫穀場があつた。谷を渡ると搾乳場があつて、その壁は全部乾いた肥料で出來てゐた。
 私の幼年時代の生活の凡ては、大佐の土造の家と、そこの食堂にあつた古い安樂椅子とに結びつけられる。この安樂椅子はアメリカ杉に見えるやうに被せ木がしてあつて、私はお茶の時にも、晝食にも、夕食にもその上に坐つた。こゝで私は妹と人形をもてあそび、また後には讀書をしてゐた。覆ひはふた處裂けてゐた。小さな穴はイ.ワン・ワシリエヴヰツチの坐つた椅子に近い部分にあり、大きな方は父の次の私の坐つた處にあつた。『この安樂椅子も新しいカバーが欲しいな』といつもイ・ワン・ワシリエヴヰツチが云つてゐた。
『ずつと以前にさうしなきあならなかつたのさ。』と母はよく答へたものだ。『私達はツアーが殺された年からカバーをかけ換へないのだよ。』
 すると父は自分でそれを辯明したものだ。『然しお前たちは、或人がそのいまわしい町に着くと、彼は彼方此方と奔走する辻馬車は高い、そこで彼は最初から終りまで、どうかして早く農場へ取つて返さうかと考へてばかりゐる、そして彼が何にを買ひに來たのかすつかり忘れてしまふ。と云ふ話を知つてるだらう。』
 一本の粗木の、ペンキも塗つてない垂木《たるき》が、食堂の低い天井を走つてゐた、そしてこの上に凡ゆる品物が自分のゐどころを發見してゐた。卽ち猫が這入らないための設備の板金、釘、絲、書物、紙で栓をしたインク壺、古い錆びたペンのくつゝいたペン。ヤノウカには一本の餘計な.ペンもなかつたのだ。こゝでは、私が古い繪入り雜誌『野原』を見て馬を書くために、私は食事用のナイフを使つて自分で木切れでもつてペンを造つたことがあつた。煙突の出てゐた天井の下に、猫が住んでゐた。煙突が餘り暑くなつて來ると、その猫は自分の子供達を口に啣へて、勇敢に飛下りた。背の高いお客はテーブルから立上る時には、彼の頭を垂木で打つたものだ。それだものだから、私達は天井を指差しながら『頭に氣をつけなさい』と云ふ習慣をもつてゐた。
 客間の中で最も驚くべき品物は、尠くとも部屋の四分のーを占領してゐる古いスピネツト(ピアノの前身)であつた。私はそれが來た時のことを覺えてゐる。凡そ十五哩許り離れたところに住んでゐた、或破產した地主の細君が、町へ移つて彼女の家具を賣拂つたことがあつた。私達は彼女からソフアーと、三個の曲木《まげき》細工の椅子と、何年間も納屋の中に納つてあつた、破れた、絃のついてゐる、古い潰れさうなスピネツトとを買つたのである。父はその品物に十六ルウブルを支拂ひ、それを馬車に積んでヤノウカへ運んで來た。それを鍛冶場で檢査した時に、中から二匹の死んだ二十日鼠が出て來た。鍛冶場は冬の幾週間かの間、スピネツトで占領せられてゐた。イヴン・ワシリエヴヰツチはそれを掃除し、膠でくつ付け、磨いて新しい絃を見つけて’その中へ入れて調子を合せた。鍵盤はみんな改へられ、かくてスピネツトの聲が客間に響くに至つたのである。それは弱々しい音ではあつたが、我慢のならないものだつた。イヴン・ワシリエヴヰツチは彼の魔法のやうな指を、彼の手風琴の階調からスピネツトの鍵盤に移して、カマリンスカヤとかポルカとか、『我が愛するオーガスチン』などを演奏した。私の長姉も音樂の稽古を始めた。私の長兄はエリザヴェートグラードで數ケ月ヴアイオリンの稽古をしてゐたので、時々下手な彈奏をやつてゐた。そして最後には、私も兄のヴアイオリンの音譜を見て、一本の指でやつてゐた。私は音樂を聞く耳がなかつたので、私の音樂に對する愛はつひに生長されずに終つてしまつた。
 春になると庭は泥の海に變つた。イヴン・ワシリエヴヰツチは、木靴と云ふよりは、むしろ木製の半長靴を自分で造つた、そして私は彼が譜段の背丈《せたけ》よりー呎方高くなつて步くのを、嬉しがつて眺めてゐた、時には年寄りの馬具師が出て來ることもあつた。誰も彼の名は知らなかつたやうた。彼は八十を越した老人で、ニコラスー世の軍隊に二十五年間勤めてゐたのである。白い髭と髮とをもち大きな廣い肩を見せて、彼は彼の巡歷工場が備へつけてある納屋を橫切つてのろ/\と步きなながら、やつとのことで彼の重い足を動かした。『私の足は段々弱くなる』と彼は十年前から繰返してゐた。反對に革の臭ひのする彼の手は、釘拔きよりも强かつた。彼の爪はスピネツトの象牙の鍵盤に似てゐて、その先はとても銳かつた。
『モスコウが見せて欲しいかね?』とこの馬具師が訊ねた。勿論見たい! するとその老人は彼の拇指を私の耳の下へ當てゝ持上げた。彼の恐るべき爪が、私の身體へ喰込んで、私は痛められ傷けられた。私は、自分の足を蹴つて降りようとした。『モスコウが見たくなけりや、そんなにしなくもいゝだ。』痛められた癖に私は逃げはしなかつた。老人は納屋の梯子を登りながら、『よおオ!』と云つた。『この屋根部屋の中に何にがあるかを見てゐな。』私はトリックがあるかも知れないと思つて這入つて行くことを踌躇した。それは次の結果になつた、一等年少の粉屋のコンスタンチンと料理人のケテイとが屋根部屋にゐるのだ。兩人とも美しくて、陽氣で働き手である。『何時お前とケテイとは結婚しょうと云ふのだい』と主婦が訊ねると『どうしてヾございます、私達は御覽の通り大變うまく行つてをりますのでございます。結婚するとなると十ルウブルもかゝります、でございますからむしろ私はケテイに靴を一足買つてやりますよ』とコンスタンチンが答へたのである。
 草土帶の暑い、きびしい夏が終つて、刈入れと收梗の骨の折れるクライマツクスが過去ると、一年間の苦役を始末する早秋が來る。今度は脫穀機が全速力で震動する。活動の中心は、家から四分のー里もある小舍の向ふの脫穀場へ移された。埃の雲が脫殼場の上をいつぱいにしてゐる。脫毅機の音は泣き聲を立てた。眼鏡をかけた粉屋のフィリップがその側に立つてゐる。彼の黑い髭は灰色の埃で蔽はれてゐる。人々は小麥束を馬車から運んで來る。彼は運んで來る人々には見向きもしないで、それを受取り、束を解き、別々に振離して脫穀機の中へ投込む。一抱え每に脫穀機は骨を啣へた犬のやうに唸り立てる。藁を選分ける機械は、麥藁が進んで行くにつれて、それを選出しては吐き出す。籾殼は橫側のパイプから吐出され、齒止めの上の藁の積重なりの所まで運ばれて行き、私は機械の木製の臺尻の上に立つて、手綱でそれを押へてゐる。『落ちないやうに要心してゐろよ』と父が怒鳴る。それでも私は十遍もひつくり返つた。私は或時は藁の中へ落ち、また或時は粗殼の中へ落込む。灰色の埃の雲は脫穀場を厚く蔽ひ、エンヂンは呻き、殼は人々のシヤツや、鼻の中に這入つて嚏をさせる。『お、いフイリツプ、早すぎるぞ。』脫穀機が餘り兇暴に唸り出すと、父は向ふの方から注意する。きは齒止めを揚げる。とそれは私の手から滑り出して、その全部の重さが私の指の上に落ちかゝる。その痛さと來たら、頭がくら/\する程の烈しさであつた。私は、泣顏を人々に見られないやうに横側から滑り降りて、家へ駈けて歸つた。母は私の手に冷い水をかけて、私の指を繃帶するが、然し痛さは止まない。そして傷は濃んで數日の間私を苦しめる。
 今度は小麥の袋が納屋や小舍にいつぱいになつて、庭の中に防水布で蔽うて高く積上げられる。時時は主人自ら篩の側に立つて、籾殻を吹飛すためには、どうして箍を廻すか,どうしたら一度力强く押すと、出來上つた穀粒が一粒も殘さすに、堆植の中へ落るかを、人々にやつて見せる。風除けのある小舍や納屋の中では、簸別機と風劉丹離機とが動いてゐる。そこでは穀粒が仕上げられて、市場へ出す準備がせられるのである。
 さてその次には商人がお錢の袋と、奇麗に塗つた箱入れの秤とをもつてやつて來る。彼等は我粒を檢査し、値を立てゝ手付け金を父に押しつける。私達は彼等をいと丁寧に待遇して、お茶や菓子を振舞ふ。然し私達は彼等に穀物を賣りはしないのだ。彼等は雜魚に過ぎないのだ。主人はかうした商賣の道には長けてゐる。彼は自分の仲賀商人をニコラエフに持つてゐるのだ。『まあ暫くこのまゝにして置きませう、穀物は飯を喰はせろとは云ひませんからね。』と彼が云ふ。
 一週間も經つとニコラエフから手紙か,時によつては電報が來て、ーフードにつき五コペツク以上も値を揚げて來る。『そこで吾々は千ルウブル儲けたと云ふものだ。』と主人が云ふ。『これは何處の䉤からでも出來るんぢやないんだ。』然し時にはあべこべの事が起る。時として値が落ちるのである。世界市場の目に見えない力がヤノウカにさへ響くのである。すると父はニコラエフから歸つて憂鬱さうに『どうも今年はーー何んと云つたけーーアルゼンチンから小麥を積出し過ぎたらしい。』と云ふのだ。

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