読書ざんまいよせい(013)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(003)

 ある四等官が美しい景色を眺めて曰く、「何たる絶妙な自然の排泄作用*じゃ!」
*「営み」というつもりで生半可な術語を使った。

 老犬の手記から。――「人間は料理女《コック》さんの棄てる雑水や骨を食べない。馬鹿な奴!」

 彼の持っているものといったら、天にも地にも学生生活の思い出しかなかった。

フランスの諺。―― Laid comme nu chenille.毛虫の如く醜し。(大罪業の如く悪し。)
*原文にunとある。

 男が独身を守ったり女が老嬢で通したりするのは、互いに相手に何の興味も起させないからだ。肉体的な興味をすら。

 大きくなった子供達が食卓で宗教論をやって、断食とか坊主とか云ったものをこき下ろす。年寄りの母親は、初めのうちかんかんになって怒る。そのうちに慣れたと見えて、ただにやにや笑っている。やがての果てには、なるほどお前達のいう通りだ、私もお前達のお宗旨になりますよと、だしぬけにそう言い出す。子供達は気持がわるくなった。この婆さんこの先なにをやり出すことやら、子供達には見当がつかなかった。

 国民的科学というものはない。九九の表に国民的も何もないように、国民的なものは既に科学ではない。

 脚の短い猟犬が街を歩いて、自分の足の曲がっているのを羞かしく思った。

 男と女のちがい。――女は年をとるにつれて、ますます女の仕事に身を入れる。男は年をとるにつれて、ますます女の仕事から遠ざかる。

 折悪しくもち上ったこの思いがけない恋愛沙汰は、次のような場合にそっくりだ。――子供達をどこか散歩に連れて行く。散歩はなかなか愉快で賑やかだ。そのとき突然、一人の児が油絵具を食べちまった。

 ある登場人物が人の顔さえ見れば言う、――「そりゃああなた、蛔虫《むし》ですよ。」そして自分の娘に蛔虫の療治をする。娘は黄色くなった。

 無能ななまくら学者が二十四年間も勤続して、結局なんの貢献もせず、御自分同様に見識の狭い無能な学者を何十人と世に送り出しただけだった。彼は毎夜ひそかに製本をする。これが彼の真の天職なのだ。この道にかけては名人で、深いよろこびを感じている。彼のところに、学問好きの製本屋が出入りしている。これは毎夜こっそりと学問をする。

 コーカサス公が白い長衣を着用して、無蓋の文芸欄《フーイトン》*に乗って行かれた。
*馬車(フェーイトン)との発音の類似から来た間違い。

 ひょっとしたらこの宇宙は、何かの怪物の歯の中*にあるのかも知れぬ。
*歯の間に(銜えられての意)の言い違いだ。

 ――右へ寄らんか*、この黄眼玉**め!
*ロシヤは右側通行が慣わしである。
**冬期ペテルブルグに出稼ぎした百姓馭者の蔑称。

 ――食《あが》りたいのですか?
 ――いや、その反対です*。
*これでは「吐きたい」という意味になってしまう。

 腕が短かくて頸の長い懐妊の奥さん、カンガルーそっくり。

 人を尊敬するのは何という楽しいことでしょう。私は本を見ても、作者がどんな恋をしたか、カルタが好きだったかどうか、などということは一切気になりません。私はただ彼の嘆称すべき仕事を見るだけです。

 恋をするなら必ず純潔な相手を選べというのは、つまりエゴイズムです。自分にはありもしないものを女性に求めるなんて、それは愛じゃなくて崇拝です。人間は自分と同等の者を愛すべきですからね。

 いわゆる子供のような純な生活の悦びとは、動物的な悦びに他ならず。  私は子供の泣声は我慢がならない性分です。しかし自分の子の泣くのは聞えませんよ。

 中学生が或る奥さんに、レストランで昼飯を御馳走する。懐中には一円二十銭。勘定は四円三十銭。金がないので彼は泣き出した。亭主は耳朶をつまんで引張った。奥さんと話していたのはエチオピヤの話だった。

 打ち見たところ、キャベツを添えた腸詰のほかは一切お嫌いらしい男。

 事業の大小は懸ってその目的にあり。目的の大なる事業を大事業という。

 ネフスキイ通り*を馬車で行くとき、左のかた乾草広場を眺めたまえ。煤煙色の雲、団々たる赤紫色の落陽。ダンテの地獄だ!
*ペテルブルグの中央にある広小路の名。

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