日本人と漢詩(030)

◎高杉東作と山県有朋


 東作こと高杉晋作は「勤王の志士」以前は、繊細な官能的唯美者であったようだ。
・春暁
滿庭暁色畫中詩 満庭の暁色、画中の詩
殘月穿窗枕上移 残月、窓を穿《うが》ちて、枕上《ちんじょう》を移る
不識昨宵微雨過 識《し》らず、昨宵、微雨《びう》過ぎ
杏花花發兩三枝 杏花、花発《ひら》くこと両三枝《りょうさんし》なるを
・夏山欲雨
山嶽方將雨 山岳はじめまさに雨ならんとし
斷雲散若軀 断雲、散りて駆《か》くるがごとし
綠林烟靄裏 緑林は烟靄《えんあい》の裏《うち》
忽見忽還無 忽《たちま》ち見え、忽ち無に還《かえ》る
・二月朔遊墨陀觀櫻
武城爲客又逢春 武城《ぶじょう》客となり、又た春に逢《あ》う
墨水櫻花依舊新 墨水《ぼくすい》の桜花《おうか》旧に依《よ》りて新《あらた》なり
昨日悲歌慨概士 昨日《さくじつ》悲歌慨々《がいがい》の士
今朝詩酒愛花人 今朝は詩酒、花を愛《あい》する人
武州=江戸 墨水=隅田川
第3首目は、彼が、耽美派から移行しつつある時期だろうか?やがて長英戦争や幕府の長州征伐時には、詩調も「悲歌慨々」となり、写真の詩碑にあるような、ごく平凡なものへとなってゆく。
山県有朋
馬革裏屍元所期 馬革《ばかく》に屍《かばね》を裏《つつ》むは元より期する所なり
出師未半豈容帰 師を出《い》だして未《いま》だ半《なかば》ならず 豈に帰るを容るさんや
如何天子召還急 如何《いかん》せん天子の召還急なれば
臨別陣頭涙満衣 別れに臨みて陣頭に涙衣に満つ
岡義武氏「山形有朋」(岩波新書)
 山県が、日清戦争の際、無茶な作戦指示により、撤退命令を受けたときの詩。そこには、従軍兵士たちの無念な死や、侵略を受けた中国人民の犠牲などへの同情や思いやりは、一片たりとも含まれていない。もし、晋作が維新後も命を永らえることがあったとしても、彼・山県と同様な立場に堕した可能性は大であろう。
 ともあれ、山県に代表されるように民衆に背を向けた(だからこそ、月並みな表現しかできないのであるが…)姿勢の「器」として漢詩が体よく利用されてきたことを決して忘れてはなるまい。
参考)中村真一郎「詩人の庭」
一海知義編著「漢詩の散歩道」(入谷仙介氏執筆の項)

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