◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(06) 第四幕
リヤ王:第四幕 第一場
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第四幕
第一場 荒野
やはりベドラムの狂人乞食に假裝したまゝでエドガーが出る。
エドガ
斯うして、輕蔑まれてるのを知ってゐるのはまだましだ、 始終口先きで欺されて、さげすまれてゐるよりは。運命に見棄てられて、一等惡い、沈みき切った境遇にゐるてィのは、 早晩浮き上る望みこそあれ、何も恐ろしいことはない。およそ情けないのは、 此上もない善い境遇からの變轉だ。悲哀極れば悦來る。 して見りゃァ、此そっけない、空な風めも、今の我が身にゃ良い友逹だ。汝に吹き飛されて、 こんな最惡の境遇に墮ちたものゝ、何一つ汝の世話にならんのだから、氣樂だ。……や、だれか來た!
グロースターが、一老人に手を引かれて、出る。
お父さんぢゃないか、見すぼらしい姿で、手を引かれて?……おゝ、人生よ、人生よ、人生よ! 思ひがけない轉變に遭ふて世を厭ふ心を起せばこそだが、でなきゃ、誰れも甘んじちゃァ老衰すまいわい。
老人
おゝ、お殿さま、手前は御先代さま以來、八年間、御配下に住んでをりましたのです。
グロー
去ってくれ、あッちへ去ってくれ、どうか歸ってくれ。助けてくれても、 わしの爲には何もならん。汝の難儀になるわ。
老人
でも、お行手がお分りになりますまい。
グロー
行手とてもない。それゆゑ目は要らん。目の見えた時分には折々蹉躓いた。 生中有れば油斷の種ぢゃ、無いはうが得ぢゃ。……おゝ、憫然なエドガー、 欺かれた父が怒りの餌食となったエドガーよ、息のうちにもう一度そなたの身に觸れることが出來たなら、 亡うした眼を取戻したともいはうに!
老人
(エドガーに)おい~!だれぢゃ、そこにゐるのは?
エドガ
(傍白)おゝ、神よ!「今が一等惡い境遇だ」なんぞとは容易に言へるもんぢゃァない。 前よりも境遇が惡くなった。
老人
ありゃ狂人乞食のトムめぢゃ。
エドガ
(傍白)もっと惡い目に遭ふかも知れない。「こりゃ一等惡い境遇だ」と口で言ひ得る間は、 まだ~一等わるいのぢゃァない。
老人
(エドガーに)やい、おのしは何處へ往く?
グロー
乞食か?
老人
乞食で狂人なのでござります。
グロー
幾らか正氣でなうては乞食は出來ん筈ぢゃ。此間の暴風雨の晩に、ちょうどそんな奴に逢ふた。 それを見て予は、人間をば蟲螻ぢゃと思ふた。其時倅の事が念頭に浮んだ。 なれども、其折には、心がまだ釋けてをらなんだれど、其後いろ~と聞き及んだ。 あゝ、あの虻や蜻蛉を惡戲少年が扱ふやうに、吾々人間をば神さまが扱はっしゃる。 神はお慰み半分に人間をお殺しなさる。
エドガ
(傍白)如何して如是事になったのだらう?あゝ、辛や~、悲しい最中に阿呆の眞似をせねばならんとは! 自分にも氣の毒、他人にも氣の毒だ。……旦那さん、ごきげんよう!
グロー
裸體の奴か?
老人
さやうでござります。。
グロー
なりゃ、おのしはもう歸ってくれ。若し尚ほわしの爲に一里か二里ドーワ゛ー街道を後追ふて來てくれる深切があるなら、 其裸蟲に、何か著る物をば持って來て遣ってくれ、わしは此奴を手引に頼まうと思ふから。
老人
あゝ、貴下さま、此奴は狂人でござります。
グロー
それが惡世の然らしむる所ぢゃ、狂人が盲者の手を引く。吩咐けた通りにせい。 それが否ならば勝手にするがよい。とにかく、歸ってくれ。
老人
手元にござりまする最ち良い著る物を持って來てやりませう。 手前の身は如何なりませうと關ひませぬ。
老人入る。
グロー
やい、裸體の男。
エドガ
トムは寒うござります。……(傍白)もう假裝し切れなくなった。
グロー
これ、こゝへ來い。
エドガ
(傍白)でも假裝さんければならん。……(グロースターに)貴下のお目から、あゝ、血が出ます。
グロー
おのしはドーワ゛ーへ往く路を知ってをるか?
エドガ
階段も、大木戸も、馬道も、人道も、みんな知っとります。 惡魔がおどかしゃァがったんで、トムの智慧は悉皆なくなッちまった。 用心さっしゃい、お歴々の息子さん、惡魔にとッつかれんやうに! あはれなトムには、惡魔が五頭まで一しょに取ッ附きをりました。 淫亂はオービヂカット、その次ぎは唖の魔王ホッビヂダンス、盜賊根性はマフー、 人殺しはモードー、變妙來な面附をする癖はフリッバーヂビット。 其奴が其後腰元衆や女中衆に取ッ附きました。 だから、旦那、御用心なさいまし!
グロー
こりゃ此財布を取れ、天の處罰を受けた爲に、あらゆる他の苦痛を怨む心もなうなった奴。 俺の不幸がおのしの幸福になるわい。あゝ、神々よ、常に斯樣にお扱ひ下されい! 世の富有な、暖衣飽食の徒輩……天の定法を侮り、 其身に感ぜぬゆゑに貧困の困苦を見ようともせざる徒輩をして、 速かに天の力を感ぜしめたまへ。さすれば、分配によって過剩のを滅して、 各人こと~゛く物足ることにならう。……(エドガーに)ドーワ゛ーを存じてをるか?
エドガ
知っとります。
グロー
彼處に絶壁がある、 岩で取限られた海の中央へ高く聳え覗き込むやうになってゐる絶壁がある。 つい、あの縁際まで案内してくれ、 すれば、予の身邊にある有價の物をおのしに與して、 今の不幸を救ふて遣る。あそこから先きは、案内は要らん。
エドガ
手を借さっしゃい。トムが案内するから。
二人とも入る。
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リヤ王:第四幕 第二場
第四幕
第二場 オルバニー公爵低の前。
ゴナリルと今は既にグロースター伯となってゐるエドマンドが出る。 同時に、一方からオズワルドが出て、二人に行き逢ふ。
ゴナリ
(エドマンドに)ようお出なされた。ま、どうしたんだらう、内の聖人さんが出迎へもしない。 ……(オズワルドに)殿は何處に?
オズワ
お奧にいらせられますが、あんなにお變りなされた方はありますまいと存じます。 敵軍が上陸した事を申しましたら、にやりとお笑ひになりました。 貴下樣御歸館の事を申しあげましたら、御返辭は「えゝ、無益な!」 それから、グロースターどのゝ二心の事、御子息の忠義なお働きの事をお傳へしましたら、 私を、「馬鹿ッ」とお叱りになりまして、「汝は悉く物を取違へてゐる」 とおほせられました。お嫌ひらしいことがお氣に入りまして、お氣に入りさうなことがお氣に障るやうでございます。
ゴナリ
(エドマンドに)では最早、いらっしゃらないがよろしい。こりゃ、畢竟、 事を大膽には能う爲ない夫の臆病根性からすることです。侮辱を受けたッても、 決鬪せにゃならんやうになると思ふと、わざと知らない介をしてゐる人です。 ……(聲をひそめて)途々申し合せた事は、何れ實現されるやうになりませう。 ……エドマンド殿、貴下はコーンヲールどのゝ許へお歸りなさい、 急いで兵士を招集させて、其指揮をなさい。わたしは、此處で、夫と武噐の交換をして、 あの人には紡絲竿を持たせませう。(オズワルドを見返って) 此腹心の家來を二人の間の通信者にします。程なく…… 若し貴下が大膽に御自分の利益をお圖りなさる勇氣さへありゃ…… 或夫人から今に或命令をお受けなさることでせう。……(窃かに指輪を渡して)これを附けていらっしゃい。 ね、何もいはないで。……頭をお傾げなさい。……(接吻して)此接吻が物を言やァ、 あんたの勇氣は百倍するでせう。よう考へてね。さやうなら。
エドマ
(膝まづいたまゝで)御爲には一命をも獻じまする。
ゴナリ
いとしい~グロースターどの!……
エドマンド入る。
おゝ、同じ男でも、ま、何て違ひだらう!女が奉侍きたいと思ふのは、お前よ。 今は、幇間に予の肉體を横取りされてしまってゐる。
オズワ
奧さま、殿さまがお見えになりました。
といひ~オズワルド急いで入る。
とオルバニーが出る。
ゴナリ
口笛くらゐは吹いて下すったっていゝわたしでせう。
オルバ
(嚴格に)おゝ、ゴナリル!あんたは、其顏へ風めが亂暴に吹きつける埃にすらも劣った人です。 わたしはあんたの氣立が懸念に堪へない。其本源をさへも蔑如にするやうな氣立は、 何處まで増長するか圖り知られない。子枝である身を強ひて親幹から引裂き、 大切な養ひの液を我れから絶つやうな女は、やがて枯れ萎れて、惡魔に利用されるに相違ない。
ゴナリ
お止しなさい、そんな馬鹿らしいお説法は。
オルバ
非道人には賢明なことや正しい事が非道に見える。汚れた輩は只汚れたものゝみを賞翫する。 ……お前さんは何といふ事をしました!子の振舞ひではなく、虎、狼の振舞ひです。お父さんを…… 首鎖で引廻される荒熊と雖も敬ひ懷いて其顏を舐めるでもあらうあの情深い老翁を ……野蠻にも、非道にも、狂人にしてしまふとは!それをさせとくとは、コーンヲールどのもどうしたものだ? 王に大恩を受け、王のお庇で、王族となってゐる身でありながら!若しも天の神が、かくても、 大不埒を罰するために、目に見える精靈をお下しにならんやうなら、人間は大海に於ける妖怪同樣、 只もう力づくで相搏噬することゝなるであらう。
ゴナリ
憶病者!人に撲たれるために頬をくッつけ、人に辱められるために頭をくッつけてゐる人。 お前さんは恥辱と名譽とを見分けるだけの目を有ってゐない人です。 お前さんは、惡人がまだ惡事を實行せないうちに罰せられるのを見て憫然がるのは、 馬鹿ばかりだてことを御ぞんじないんです。……軍太鼓は何處にあります? フランス王が油斷しきってゐる此國へ攻め入って、軍旗を飜し、羽を附けた兜を輝かして、 お前さんの位を奪はうとしてゐるのに、お前さんは、只ぢッと坐ってゝ、「あゝ、 なぜ彼れはさやうな不法を働くか!」とわめいてゐるのですか、説法好きの阿呆さん!
オルバ
おのが面を見い、女夜叉めが!本體のまゝの夜叉より女の相をしてゐる夜叉のはうが怖ろしい。
ゴナリ
おゝ、此大阿呆が!
オルバ
幸ひにも人間に化けて、今日までは本體を掩ひ來った汝だ、恥を思ふなら、 顏色に妖怪の本體を現はしをるな。若し此手をして予が怒りの命ずるまゝにしてよいものなら、 汝の肉や骨を八裂にもすべき筈だが、たとひ本體は夜叉にもせよ、鬼にもせよ、 女の相をしてゐるから助けておくのだ。
ゴナリ
おや~!大そう強いことね。……
此時、リーガンの使者が出る。
オルバ
何事だ?
使者
おゝ、御前さま、コーンヲールさまがお亡くなりなされました、 グロースターどのゝ目をゑぐり取らうとなされました際に、御家來の爲に。
オルバ
え、グロースターの目を?
使者
幼少より御養育になりました御家來の一人が、見るに見かねましたものと見えまして、抵抗いたし、 殿に劍を向けました。で殿はお怒りになって、その仁に飛びかゝり、其場で御成敗になりましたが、 御自身にも重傷を負ふて、其後、御落命なされました。
オルバ
あゝ、これで、天に裁判官のおはしますことが分った。下界の罪惡をたちまちにお罰しなされる。 ……それはさうと、氣の毒なはグロースター!では彼れは一眼を失ったか?
使者
いゝえ、兩眼ともにでござります。……(ゴナリルに)奧方樣、此御書面は早速の御返辭を要しまする。 お妹御さまからでございます。
ゴナリ
(傍白)一方からいふと、好い都合だ、けれども、妹が寡婦となって、 あのグロースターが始終一しょ……折角築きあげた空想の城郭を萬一破壞されてしまふやうなら、 もう樂しみの無い此生。が、見やうによっては、苦い報知ぢゃない。……(使者に) 讀んだ上で返辭しませう。
ゴナリル入る。
オルバ
彼等がグロースターの目をゑぐり取った時、エドマンドは何處にゐた?
使者
奧方のお侶をしてお館へ參られました。
オルバ
こゝにはをらん。
使者
はい、をられません。歸って行かれるのに逢ひました。
オルバ
彼れは其非道の所行を存じてをるのか?
使者
存じてをられます。父御を告發したのは彼人なのでございます。 遠慮なく父御を罰させようために、故ッと席を避けられたのです。
オルバ
(獨白のやうに)グロースターよ、予が生きてゐる以上は、 お前が王に對して盡してくれられた其忠勤の禮もいはうし、 目を失ふた其怨みをも必ず返して進ぜませうぞ。…… (使者に)こりゃ、こゝへ。尚ほ他に存じてをることがあるなら、話してくれ。
二人とも入る。
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リヤ王:第四幕 第三場
第四幕
第三場 ドーワ゛ーに近きフランスの陣營。
リヤ王とフランス王を陣營附近まで伴って來たケントが、嘗て一書を託した一紳士に逢って、 拂軍の模樣を聞くのである。
ケント
フランス王には、何故さう早急に歸國なされたか、君は其理由をごぞんじですか?
紳士
御本國に爲殘しておかせられた或重大な事件が、御出陣後に、更に一段重大に相成りましたので、 若し打棄てゝおかれますると、お國の御安危にも關ります。で、止むを得ず、 お立歸りになったのでございます。
ケント
誰れを總督として、お後に殘しおかれましたな?
紳士
フランス軍帥のラフォーどのをお殘しです。
ケント
彼の書面を御覽なされた時、妃には、御愁歎の御模樣でございましたか?
紳士
はい、いかにも。妃は書状をお手に取らせられ、私の前で讀ませられましたが、折々お涙が、 あのお美しい頬を傳って、はら~と落ちました。妃は、 女王が謀叛人をお取押へなされるかのやうに悲痛を制されましたが、 それをまた謀叛人の悲痛めが屡々覆さうといたしました。
ケント
おゝ、では御感動なされましたな。
紳士
でも、取亂しはなされませなんだ。忍耐と悲歎とが相鬪ひました、どッちが勝ったか、 お妃が最も立派にお見えなさらうかと思ってゐますかのやうに。 照降雨といふのを御存じでせうが、お妃の笑を含んで涙をお落しなさる美しさは、 それの一段鮮麗なのとも見えました。あの丹花のお唇に漂うた微笑は、 目に如何いふお客が參ってゐるかを存ぜぬ體、そして其客がお目からぽた~と落ちる美しさは、 眞珠がダイヤモンドから落ちるやう。早い話が、泣顏ほど可愛らしい美しいものは無いでありませう、 若し誰れが泣いても、あんな風に似あひますれば。
ケント
何かお口づから、お訊問はありませんでしたか?
紳士
さァ、實際、一兩度、「お父さま」と、譬へば、それがお胸に迫っておっしゃらずにはゐられないといふ風に、 喘ぐやうにおっしゃいました。それから、お泣きになって、「お姉えさんがた!女の恥辱です! お姉えさんがた!……」
ケント
なに、お父さま!お姉えさんがたと!
紳士
「えッ、大あらしの最中に!眞夜中に!慈悲は此世に無いものぢゃとは思はにゃならぬ!」 さうおっしゃって、あの天人のやうなお目から、貴重な露を落して、泣き聲をば鎭めておしまひなされ、 やがて、只一人でお歎きなされようとてか、奧へお入りなされました。
ケント
(獨白的に)あゝ、人間の根性を支配する者は、天上の星に相違ない。でなくば、同じ夫妻の腹から、 斯うまで性質の異った子が生れよう筈がない。……其後お話をなすったことはないのですか?
紳士
ございません。
ケント
お逢ひなすったのは、フランス王の歸國前の事ですか?
紳士
いゝや、後です。
ケント
時に、御亂心遊ばされたリヤ王殿下には、目下此市中にいらせられる。お心の調子の好い時分には、 吾々共の申すことを幾分か御諒解遊ばすらしいが、コーディーリャさまと御面會のことは、 どうお勸め申して見ても、御承諾がない。
紳士
何故でございませう。
ケント
非常に恥ぢ入っておいでなさるからです。下さるべき筈の恩惠を剥ぎ取っておしまひなされた上に、 コーディーリャさまを外國へ逐ひやり、 大切な御權利を悉くあの犬のやうな女兒御たちにお遣りなされた御自身の無慈悲や失策が、 蝮蛇の如くにお心を刺すので、恥ぢ入って、お逢ひなされぬのです。
紳士
やれ~、お氣の毒なお方さま!
ケント
オルバニーやコーンヲールの兵の事は、お聞きになりませんでしたか?
紳士
既に出陣したやうに傳聞りました。
ケント
では、これから、君を王の御許へ案内しませうから、どうかお傍にゐて下さい。 重要な理由があって、今暫くは本名を包んでおきますが、自分の素性が明白になった時に、 決して知交になったことを後悔なさるやうなことはありません。 どうか一しょに來て下さい。
二人とも入る。
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リヤ王:第四幕 第四場
第四幕
第四場 同處。天幕内。
妃コーディーリャが太鼓手、旗手、兵士らを隨へて出る。 侍醫も隨ふ。亂心した老爺を陣營の附近で見掛けたといふ者があると聞いて、 妃は、直感的に、それを父王であらうと推して、其實否を質し、本陣へ迎へようとするのである。
コーデ
あゝ、それは、きッと父上であらう。つい今がたも、暴風の海のやうに亂心して、 唄を歌っておいで遊ばすのに逢ふたとの事です。 お頭には野原や麥畠に生えてゐる穢くるしい雜草や毒草で製へた冠を冠って。 ……百人組を派遣して、生ひのびてゐる畠の隅々を搜索させ、早うこゝへお伴れ申せ。
士官入る。
(こゝの原文には、種々の雜草や毒草の名を列記してある。多分、實演の際、 さういふたぐひの草を花環風の物にして、– オフィリヤの場合にての如く — リヤ王役者がかぶって出たのであらう。本文にそれを一々譯出すると、却って趣味を害するから、 省いたが、原文を讀む人の爲に、爰に註しておく。 fumiterは延胡索の類、ミヤマケマン屬の草。 furrow-weedsは犁いた地面に生える雜草、名はない。 burdocksは牛蒡の類。hemlockはドクゼリとか、ドクニンジンとかいふもの。 nettlesはイラグサ。darnelはドクムギとでも譯すべき雜草。 cuckoo-flowersはハナタネツケバナとかいふもの。 sustaining cornとあるのは榮養となる穀物即ち麥の事。)
人間の智慧の力で、狂うたお心が如何位ゐまでは治るものであらうか? 父上をお救ひ申す者には、わたしの有ってゐるものは何品でも遣はしますすぞ。
侍醫
御療治の法はございまする。陛下には人體の保姆と稱しまする御安眠が、御不足であらせられます。 それを催させ申す種々の藥草がございます。其力を借りますれば、きッと御安眠遊ばします。
コーデ
(獨白的に)ありとあらゆる貴い祕法、地中に籠って未だ知られない藥種、靈草、 わしの涙に濡うて生ひ出てくれい!善良なる御方の御腦を癒しまゐらする助けとなれ!…… 早う王をお搜し申せ。早うせぬと、何のお辧別もない御狂氣から、 お亡くなりになるやうな事があるかも知れない。
使者出る。
使者
申し上げます。ブリテンの軍勢が攻め寄せてまゐりまする。
コーデ
承知してゐる。接戰の準備は整ふてゐる。……(獨白的に)おゝ、お父さま、 今度の出陣は全くあなたのお爲なのでございます、さうなればフランス王が、 泣いて頼むわたしの心を不便がって、聽き納れてくれました。 巧名を目的の慢心なんぞで軍をするのぢゃありません。 いゝえ、あなたを、お年をめしたあなたをば、元の通り、王位にお即け申したいと思ふばッかり。 早うお消息を聞いて、お目にかゝりたいなァ!
コーディーリャ其他一同入る。
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リヤ王:第四幕 第五場
第四幕
第五場 グロースターの居城。
リーガンとオズワルドが出る。オズワルドはゴナリルからエドマンドへ送る書状を持參したのである。
リガン
兄上の御軍勢は出陣しましたか?
オズワ
御出陣になりました。
リガン
御自身で?
オズワ
やッとお勸め申しまして。お姉上さまのはうが武人でいらせられます。
リガン
エドマンドさんとオルバニーさんとで、何か御會談はなさらなかったかい?
オズワ
なさいませんでございました。
リガン
エドマンドさんへの姉上の御書状といふのは、何の用だらうねえ?
オズワ
一向にぞんじません。
リガン
エドマンドさんは、大切な用事があって、急に出立なすったのよ。 グロースターを、目をくりぬきながら、生しておくのは大きな脱落であった、 行く先々で我々の敵をこさへるに相違ない。多分、エドマンドさんは、慘めな、 目の見えぬ父を憫れんで、寧そ一思ひに終らせようと思ふて、出掛けられたのであらう。 二つには、敵軍の強弱をも斥候しようとて。
オズワ
ではお後を追ふて、此書状をお渡し申さねばなりません。
リガン
わたしどもゝ明日は出陣します。それまでお待ちなさい、途中が危險ですから。
オズワ
さうしてはをられません。奧方の御嚴命でございますから。
リガン
何でエドマンドどのへ書状をお送りなさるのだらう?あんたが口上で傳へてもよさゝうなものぢゃないか? 多分、何か……わたしにゃ解らないけれど。(聲をひそめて)あんたを無二の人とも思ひますが…… わたしに其書状を開封させて下さいな。
オズワ
奧さま、どうも、それは、その……
リガン
あんたのとこの奧さんは、お所天を愛してはおいでなさらない。 先日、こゝへ見えた時分に、エドマンドさんに對して妙な目附をしたり、 口程に物を言ふ表情をなされたり。あんたは姉さんの腹心も同樣ですから……
オズワ
あの、私が?
リガン
よう知ってゐていふのです。腹心ですよ、お前さんは。だから、惡いことは言ひません、 此手紙を持ってって下さい。わたしの殿さんは亡くなりましたから、 エドマンドさんと話しあっておいたことがありますの。あの人は、 あんたのとこの奧さんとよりもわたしと結婚したはうが都合がいゝの。と言や、其他の事は解りませう。 で、エドマンドさんにお逢ひだったら、これを渡して下さい。 さうしてあんたのとこの奧さんに此事を話して、ようお分別なさいましとおいひ。 さやうなら。……若しか彼の盲の謀叛人の在所がわかって、其首を取ってくれば、 誰でも御恩賞が貰へますよ。
オズワ
どうか、見附けだしたいものでございます!さうなりゃ、 私がどちらがたかといふことを必定お見せ申します。
リガン
御きげんよう?
オズワルド入る。
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リヤ王:第四幕 第六場
第四幕
第六場 ドーワ゛ーに近き平野。
グロースターと農夫の服裝をしたエドガーが出る。グロースターは自殺の決心をしてゐるのである。
グロー
岡の頂上へはまだ著かんかの?
エドガ
今登りなさるところです。ほら、此通り、骨が折れまさ。
グロー
平地のやうぢゃが。
エドガ
おッそろしい險阻なんでさ。ほらね、浪の音が聞えますよ。
グロー
何も聞えやせんが。
エドガ
ぢゃァ貴下は、目のお苦痛で以て、 他の感覺までも如何かしてしまひなすったんでございませう。
グロー
さうかも知れん。どうやら、おのしの聲が變って、言ふことも、言葉づかひも、前よりようなったやうぢゃ。
エドガ
大間違ひでさ。著る物が變ったばかしでございまさ。
グロー
いや、どうも言葉づかひがようなった。
エドガ
さァ~。こゝです。肅としてござらっしゃいよ。…… あゝ、此下をはうを瞰すろ、怖ろしくッて目が眩みまさ! 中央ごろを飛んでゐる竝の烏や赤脚鳥が、 全然以て甲蟲位ゐにしか見えない。あゝ、崖の中途に、 濱芹を取ってゐる男が埀下ってゐる。危い商賣だなァ!當人の頭よりゃァ大きくは見えない。 濱邊を歩いてゐる漁夫は、鼷鼠位ゐに見える。 あそこの、あの大きな錨を下してゐる船は艀位ゐに小さくなって、艀は浮標ぐらゐ、 いや、目に見えない位ゐに小さい。荒浪がやくざな無數の小石にぶッかってゐるが、 其音が餘り高くも聞えない。あゝ、最早見まい、頭がぐら~して、目が眩んで、 眞逆樣におッこちるかも知れないから。
グロー
おのしの立ってゐるところへおれを立たせてくれ。
エドガ
手をお借しなさい。そら、すぐ一寸ばかり前が崖の端です。 世界中が貰へればからッて、こゝぢゃァ飛び上らりゃしない。
グロー
手をはなせ。……こりゃ、こゝに別の財布がある。此中にある寶石は、貧乏人が貰へば、立派な代物ぢゃ。 神のお惠みで、これを資に榮えをれ!……ずッと彼方へ往ってくれ。 わしに暇乞ひをして往く足音を聞かせてくれ。
エドガ
ぢゃァ、旦那、ごきげんよろしう。
グロー
きげんよう。
エドガ
(傍白)半狂亂になってゐなさるのを、かうして玩弄にするのも、それが治したいばッかりだ。
グロー
(膝まづきて)おゝ、天の神々!此生を只今棄てまする、尊神がたのお前で、怨まず、 悲しまず、此辛い重荷を振り落しまする。此上、此重荷を荷ひをりましても、尚ほ幸ひに、 逆ひがたい尊神方の御意に對し、お怨言がましいことを申さないにも致せ、 あさましい燃燼同樣の此體躯が長う燃えつゞいてゐようともぞんじません。 若しエドガーが生きてをりますれば、何卒彼れに幸ひをお與へ下され!…… やい、おのし、さやうなら。
エドガ
(遠く離れたらしくもてなして)もうまゐりました。さやうなら。
グロースター絶壁から飛んだ積りにて前へ倒れる。そのまま突ッ伏してゐる。 エドガーは不安の思入れ。
(傍白)だが、命を奪られたい~と思ってゐる時分にゃァ、 神經の作用で死んぢまふやうなことが無いともいへない。來なすった積りの處へ、實際、來てゐなすったなら、 今頃は全く氣絶してゐなすったでもあらう。生きてゐなさるのか、死んでおしまひになったのか? ……(そばへ寄って、作り聲をして)もし~、お前さん!こゝなお人!これさ、あんた! 物を言はっしゃい、物を!……(傍白)斯うして眞實に死んでしまひなさるかも知れない。 いや、お氣がついた。……あんたは如何いふお人だ?
グロー
あッちへ往け、わしを死なせてくれ。
エドガ
蜘蛛の絲か、鳥の羽か、空氣かなんぞなら知らんこと、あんな高いとこから、墮落ちりゃァ、 卵のやうに摧けッちまふ筈だのに、あんた、息をてゐなさる、身體も重たいし、 血もでないし、物もいはっしゃるし、何のこともない。十本の帆柱を繼ぎ合したとて、 あんたが眞直に落ちて來なすったゞけの高さは出來ない。あんたの助かったのは不思議だ。 もう一度物をいはっしゃい。
グロー
一體、わしは落ちたのか、落ちなんだのか?
エドガ
落ちさっしゃたとも、あの白壁のやうな斷崖の頂上から! 高ァく見上げて見さっしゃい。すゝどい聲して啼く雲雀が、遠くッて見えもせなけりゃ、 聞えもせない。つい、見て見さっしゃい。
グロー
あゝ、見る目はないのぢゃ。……あゝ、不幸なものは、 死んで其不幸を絶つだけの利益さへも得られんのか?虐君の目を拔いて、自殺をして、 其高慢の鼻をあかすことが出來れば、不幸の中にもまだしも慰藉があるのぢゃけれど。
エドガ
手をお貸しなさい。さ、起きたり。さう。どうだね?脚が立つかね?や、起てた。
グロー
よう起てる、よう起てる。
エドガ
こりゃァ不思議なこッた。あの斷崖の頂上で、 最前あんたに別れていったのァ、ありゃ何者だね?
グロー
憫然さうな不運の乞食ぢゃ。
エドガ
こゝで立って見てゐると、どうやら彼奴の目は二つの滿月のやうに見えた。 鼻が千もあって、角がねぢれて、荒れた海のやうに波を打ってゐた。 ありゃ惡魔に相違ない。お父さん、あんたは幸福な人だ、こりゃ、何だ、 人間の爲得ないことをしてのけさっしゃる何事も見透しの神さまが、あんたを助けさっしゃったんだよ。
グロー
やッと今正氣に復った。これからは、苦患其者がわしに向って、 「もうよい、死ね」と呼び立てるまでは、忍びませう。お前さんが話の其者を、 わしは人間ぢゃと思ふてゐた。さういへば、折々惡魔が惡魔がといひをった。 あいつがわしをこゝへ伴れて來たのぢゃ。
エドガ
氣を落着けて、心安く思ってござれ。……や、誰れだ?
リヤが種々の雜草の花を以て竒怪な風に身を飾って出る。
正氣なら、あんな風には着飾りはすまい。
リヤ
(幻影を相手にして)うんにゃ、貨幣を鑄造へたからというて、 俺を如何することも出來んわい。俺は國王ぢゃぞ?
エドガ
おゝ、此腹が裂けさうだ!
リヤ
(幻影を相手に)其點に於ては、自然は人工以上である。……そら其方の手附ぢゃ。 ……あいつの弓を使ひやうは鳥威しのやうぢゃ。……三尺のを引け。…… (急に聲をひそめて)あれ~、鼠ぢゃ。叱々!炙った乾酪の此一片なら大丈夫。 ……(俄かに大きな聲にて)そら、手袋を投げたぞ。巨人が來ようとも、 敵手にならうわい。……褐色の矛を持って來い。……おゝ、よう飛んだな、鳥めが! 的に、的に!……ひゅう!……(ふとエドガーに目をつけて)合言葉を言へ。
エドガ
甘いマーヂョラム。
(マーヂョラムは花薄荷と譯する草。)
リヤ
通れ。
グロー
あの聲には記憶がある。
リヤ
(グロースターに目をつけて)や!ゴナリルぢゃな。……白い髭を生しをって!…… 俺にみんなが、犬のやうに諛ひをって、貴下さまは、まだ黒いのが生えませんうちから、 お髭に白い毛が生えましたなぞと言ひをった。俺のいふことゝいへば、何でもかでも口眞似をして、 「はい、さやうでござります」の「いゝえ、さやうぢゃござりません」のいひをった。 その「はい」や「いゝえ」も、大まやかしの信仰三昧であったんぢゃ。雨でびしょ濡れになって、 風で齒ががた~とふるへた時、俺は雷に鎭りをれと言うた。けれども鎭らなんだ。 で俺ァ悟った。嗅ぎ附けてくれた。へッ、あいつらの言ふことは決してあてにゃならん。 あいつらは俺を萬能ぢゃとおひをった。譃ぢゃ、俺も瘧をふるはん譯にゃいかん。
グロー
あの聲はよう記えてをる。王ぢゃないか?
リヤ
さうぢゃ、悉く王ぢゃ。俺が睨むと、見い、臣下どもは皆ふるへをのゝくわい。…… そやつの一命は赦し遣はす。……汝の訴訟は何ぢゃ?姦通?…… 死刑には及ばんわい。姦通に死刑といふことはない。いや~、鷦鷯もする、 小さな金ぴかりの蠅も、予の面前で行ふてをるわい。……熾んに行らせたがよい。 現にグロースターの妾腹は、 正當な閨房のうちで生せた予が女兒どもよりも其父に對して孝行であったわい。 行れ、好色徒等、めちゃ~に行れ! 兵士が足らんからなう。見い、あの作り笑ひをしてをる夫人を。 襟飾の間から、妾ゃ雪よりも清淨ぢゃといはんばかりの貞女めかした顏を出して、 淫事なぞは聞くも穢はしいと氣取ってゐるが、……淫慾にかけては、 臭猫や飽滿食った馬もそこのけぢゃ。胴から下は半人半馬ぢゃ。 上のはうは女でも、只帶際までを神にいたゞいて、其以下は悉く惡魔に貰ふたのぢゃ。 そこらは地獄ぢゃ。眞昏闇の硫黄坑に火が炎々と燃えあがって、惡臭や腐爛や…… おゝ、穢な、おゝ、穢な!ペッ、ペッ!……麝香を一オンスばかり持って來てくらい。 おい、藥劑商、心持を治してくれ。さァ~、代を遣る。
グロー
あゝ、もし、お手に接吻いたしませう?
リヤ
まゝ、待ってくれ、ちょッと拭ふ。死人の臭がするから。
グロー
(膝まづいて、王の手に接吻して)おゝ、これぞ即ち崩れてゆく大自然の面影ぢゃ! 此大世界も、竟に斯うして無に歸してしまふのであらう。…… 私を御存じでござりますか?
リヤ
其目附を善う記えてをる。や、色目を使ひをったな?いや~、おのれ、 どのやうに惡戲をしをっても、キューピッドめ、俺は女なんぞには惚れんぞ。…… こりゃ此決鬪状を讀め。ま、其文章に注意せい。
グロー
一字々々が日輪であったとても、私には見えませぬわい。
エドガ
(傍白)これを人傳手に聞いたのなら、迚も信じ得ないであらうが、 現在事實なのだから、心臟が破れさうだ。
リヤ
讀め。
グロー
えッ、此脱殼の目で以て?
リヤ
おほう!果してさやうか?頭に目がなうて、財布には金がない?すれば、其方の眼病は頗る重いんぢゃが、 財布は輕いな。でも、世の成行きだけは見えるらしいなう?
グロー
そりゃ感じてをりまする。
リヤ
や、そちは氣が狂うてをるのか?世の成行き位ゐは、目がなうても、見える筈ぢゃに。耳で見い、耳で。 あそこにをる裁判官が、あの馬鹿な盜賊をばやかましう叱ってをる。聞け、耳で。 さ、とっかへべいだぞよ。てんがらどんがら。さ、どッちが裁判官ぢゃ、どッちが盜賊ぢゃ? ……やい、おのしは、農家の飼犬が乞食に吠えかゝったのを見つらうの?
グロー
はい、見ました。
リヤ
その乞食が怖がって逃げをッつらうな?それが官權の大きな影法師なんぢゃ。 犬でも、職權で吠えれば人が順ふ。……やい、おのれ、獄卒め、その殘忍な手を止めい! なんで其賣女を打擲するんぢゃ?うぬが背中にこそ笞をあてをれ。淫を賣ったからッて、此女を打擲しをるが、 内々には自身其女を買ひたいと思ふてをらうが、汝!……高利貸が詐欺師を刑に處する。 襤褸を著てをると、大きな惡徳が破れ目から見えるが、大禮服や毛皮の長上被を著てをると、 何もかも隱れる。罪惡に被らすに金甲を以てせい、法律の鋭い鑓尖を能う傷つけいで折っれてしまふ。 それを襤褸で包むと、小人島の藁しべでも貫く。誰れにも罪はない、誰れ一人罪人ではない。 予が保證するわい。安心せい、予は告發人の口を緘まする權力を有する者ぢゃ。…… (グロースターに)硝子の眼玉でも手に入れたがよい、さうして下等な策士のやうに、見えもせん癖に、 何もかも見透いてゐるやうにもてなしたがよい。……さ、さ、さ、さ。長靴を除ってくれ。 もっときつく、もっときつく。さう。
エドガ
(傍白)條理と不條理とが混淆になってゐる!狂氣の中にも理性が働く。 (狂人語の中にも道理がある。)
エドガーも。グロースターもこらへかねて泣く。
リヤ
おれを氣の毒に思ふて泣いてくれるんなら、此目を遣らう。……俺は汝をよう存じてをる。 汝はグロースターぢゃ。是非には及ばん、忍耐せい。 人間は皆號きながら世界へ出て來たんぢゃ。な、さうぢゃらう、はじめて空氣を嗅ぐ時分に、 吾々は皆な號く、おぎゃァおぎゃァと。さ、汝に説法をして聞かせる。聽いてゐい。
グロー
あゝ~、情けないことぢゃ!
リヤ
吾々は生れると號く、なんでこんな阿呆ばかりの大舞臺へ出て來たかと思ふて。…… や、こりゃ良い山形ぢゃ。氈で以て騎兵の馬の沓を包む、そいるは巧い謀計ぢゃわい。 實驗して見よう。……さうして窃と、婿共の寢込みへ押寄せたが最後、それ、やッつけろ、 やッつけろ~~!
一紳士がコーディーリャの侍士大勢と共に出る。王を呼び迎へるために來たのである。
紳士
おゝ、あそこにいらせられる。……(リヤに)あゝ、もし、姫君さまからの……(と王を取り圍む。)
リヤ
や、助けてくれ。助けてくれんか、誰れも?捕虜になってしまうたか? 俺は運命の玩弄に生れたのか!……大切に取扱ふてくれ、賞金は遣はさうから。 下科醫者を呼んでくれい。頭を眞二つに切られてしまうた。
紳士
何事でもお望み通りにいたしまする。
リヤ
だれも救ひに來ちゃくれんのか?俺一人ッきりか?(涙を流しつゝ)こりゃもう人を涙だらけにしてしまふわい、 人の目を水瓶の代りにして、秋の花畠の塵埃おさへに使ふやうにもならうわい。 さうぢゃ、塵埃おさへに。
紳士
あゝ、もし……
リヤ
俺は立派に死んでくれる、飾り立てた花婿のやうに。……何ぢゃ!愉快にしようわい。 こりゃ~、俺は王ぢゃぞよ。君がたは知っとるかそれを?
紳士
はい、王さまでいらせられます。何なりと御用を仰せ附けられませ。
リヤ
あゝ、それで助かった。……さァ、取れ、競走で取れ。さ、さ、さ、さ。
王が走って入るので、侍士ら負ふて入る。
紳士
(獨白)極下賤のものだってあの有樣ぢゃァ氣の毒千萬!それだのに、國王の御身分、 はてさて言語道斷!幸ひ貴下さまにゃ善い女兒おありなさるので、 其御孝心で、他の二人の不孝者が女性に與へた惡名も雪がれるといふもの。
此中エドガーが前へ進む。
エドガ
今日は。
紳士
や、今日は。何ぞ用かね?
エドガ
戰爭が始まりかゝってゐるやうな事をお聞きぢゃございませんか?
紳士
そりゃもう定り切った話だ。耳のある者は、とうに承知してゐる事だ。
エドガ
先方の兵は那邊まで來てをりますか、どうかお聞かせ下さいまし。
紳士
もう近邊まで來てゐる、しかも早足で。今に本軍がやって來るだらう。
エドガ
あるがたうございました。只それだけです。
紳士
お妃は仔細あって此處にお滯留だが、兵は進發する筈だ。
エドガ
ありがたうございました。
紳士入る。
愁に沈んでゐたグロースターが此時膝まづいて神に祈る。
グロー
お慈悲ぶかい天の神々、此息をお引取り下されませ、又ぞろ惡い魂めにそゝのかされて、 御意を待たいで死なうとするやうなことがあっては相なりませんによって!
エドガ
お父さん、ようおっしゃった。
グロー
時に、お前さん、お前さんは、一體、どういふ人ぢゃな?
エドガ
見るかげもない男でございますが、運命の打撃に馴らされ、艱難辛苦を經驗して、其味を知ってますので、 他人の不幸をも思ひやりますのです。手をお貸しなさい、 どこかの宿へ伴れてってあげませう。
グロー
かたじけなうござる。天の御恩澤、いやが上にも、いやが上にも!
オズワルドが出る。
オズワ
懸賞のお尋ね者!こいつァ幸運だ!もと~お前の其盲目頭は、 俺を立身させるために造られたのだらう。……
劍を拔いてグロースターに對って
やい不幸な、老ぼれの謀叛人め、手ッとり早く、簡單に觀念しろ。 汝の命を取る劍はもう鞘を離れた。
グロー
さ、さ、其深切な手に十分力を籠めてやって下さい。
オズワルドはすぐ進んで斬らうとする。とエドガーが躍り入ってグロースターを庇ふ。 オズワルドが怒って
オズワ
無禮な土農夫め、お尋ね者の謀叛人を、何で庇ひ立てしをるのだ? 退るをらんと、不幸のまきぞへを食はにゃァならんぞ。其手を離せ。
エドガ
離さねえ、それッきりのこんぢゃァ離さねえ。
オズワ
離せ、奴隸、離さんと、命が無いぞ!
エドガ
旦那、お前さま勝手に其方さ往って、下の者通らせたがよかっぺい。 大言で吹ッ飛ばされて人がおッ死ぬべいもんなら、おれ、はァ、二週間も前に方附いてをたゞんべい。 どっこい、寄らせねえ、此老翁の傍へは。どかっしゃい。どかっしゃらねえと、おれ、 お前さまの其林檎頭のはうが堅かんべいか、此棒が堅かんべいか、試して見るだ、 おれ、手ッ取り早いことが好きだからね。
オズワ
うぬ、塵埃野郎め!
エドガ
それだら、おれ、お前さまの前齒ぶちぬいてくれべい。さァ。 如何樣に突きこくったって關はねえだ。
エドガーは棒を、オズワルドは劍を以て挌闘る。とゞ、オズワルドは棒でなぐり倒される。
オズワ
畜生、やりゃァがったな。……(財布を取出して)やい、此財布を持ってけ。 若し榮えようと思ふなら、おれの死骸を葬ってくれい。 さうして俺の身邊にある書状をグロースター伯エドマンドさんへ渡してくれ。 イギリス方へ往って尋ねると分る。……おゝ、こゝで死なうとは思はなかった。こゝで死なうとは……
オズワルド息絶える。
エドガ
俺は汝をよく知ってゐる。惡人から言やァ、理想的に女主人の惡事を助けて、忠勤を勵んだ奴だ。
グロー
え、死んだか?
エドガ
お父さん、ま、さうして安心しておいでなさい。……懷中を査べて見よう。 其手紙とかゞ此方の役に立つかも知れない。死にゃがった。 他の下手人の手にかゝらせなかったのが殘念なばかりだ。かうッと。 (死人の懷から書状を取出して)封蝋どん、ゆるしてくんな。禮儀作法よ、非難するな。 敵の心を知る爲にゃァ心臟だって切裂くんだ。手紙くらゐは當り前だ。
(讀む。)互ひの誓約を忘れたまふまじく候。彼人を押方附けたまふべき機會は屡々あるべし。 御許の決心さへ確かならば、時も場所も裕かに供せられ候はん。 彼人勝利を得て歸り候ふやうなれば、何一つ成されたることもなく、妾は囚人にして、 彼人の寢床は獄なり。其嫌はしき温みより妾を救ひて、 入り代り、それを其勞の報酬としたまへ。
御許の……妻と名宣らんとする……
妾婢ゴナリルより。
おゝ、無分別な、限界の知られない女の慾心!あの君子人の夫を殺して、 人もあらうに、俺の弟と取換へやうといふ奸計だ! (オズワルドの死骸を見かへって)こゝに、此砂のなかに、埋めておいてやらう、 殘忍な姦婦姦夫の飛脚を務めた穢はしい奴。さうして時機を見計って、 此破廉恥な密書を見せて、殺されかけてゐる公爵を驚かさう。 汝の用向や死んだことを彼人に話すことが出來て、好都合だ。
グロー
王はお氣が狂うた。俺のあさましい感覺は、どうして斯う根強う持ちこたへてゐて、 大きな苦しみや悲しみを一々細かに感ずるぞい?寧そ氣が狂ひたい。すれば、 此心が悲しみから引分けられ、神經が狂うてしまへば、不幸も忘れられてしまふであらうに。
奧にて陣太鼓の音。
エドガ
手をお貸しなさい。遠くで陣太鼓の音がするやうです。さァ、お父さん、 どこか親切な知人の許へ、お前さんをあづけませう。
二人とも入る。
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リヤ王:第四幕 第七場
第四幕
第七場 フランス陣營中の天幕。
臥床の上にリヤが眠ってゐる。靜かな音樂。一紳士及び他の者共が侍してをる。 コーディーリャ、ケント、及び侍醫が出る。
コーデ
おゝ、ケントどの、いつまで生き、どのくらゐ力めたなら、 貴下の此度の忠節に報いられますことやら? わたしの壽命や力量では迚も足るまいと思ひまする。
ケント
お認めにあづかりますれば、それが十分のお報酬でございます。 お知らせ申しました事は、總て増しも縮めも致さぬ穩當な有りのまゝの事實でございます。
コーデ
ま、其服をお改めなさい。それは不幸の記念です、どうぞ早う脱ぎ棄てゝ下さい。
ケント
今暫くの間御免蒙りませう、只今本名を知られましては、豫ての計画の妨げとなりますから。 私が適當と考へまする時機の參るまでは、御存じなき體におもてなしのほどを、 御恩惠として願ひまする。
コーデ
では、其樣なされたがよい。……王の御樣子は如何なぢゃ?
侍醫
靜かにお眠っていらせられます。
コーデ
おゝ、大慈大悲の神々、 虐待の爲に怖ろしう殘害はれました身體や精神を何卒お治し下されませい! おゝ、幼兒に變った父の、調子外れの感覺を、どうぞ卷き戻して下されませ!
侍醫
いかゞ致しませう?お起し申しませうか?もう久しう御寢なりました。
コーデ
汝の智識で心任せにはからうたがよい。……お更衣は濟みましたか?
紳士
濟みましてございます。御熟睡中に新しい衣服をお被せ申しました。
侍醫
お起し申します際に、お立合を願ひますうる。 必ずお沈靜遊ばしていらっしゃいませう。
コーデ
よろしい。
侍醫
どうぞお近く。……(奧にむかひて)音樂をもっと高く!
コーデ
(リヤの臥床に近寄って、眠顏を眺めて)おゝ、お父さま、私の脣に貴下を本復させまする藥力が籠って、 暴虐な姉逹二人が御老體に蒙らせました大傷害を、何卒此接吻でお治らせ申しますやう!
ケント
あゝ、御孝心の深い姫君!
コーデ
たとひ貴下がお父さんでなかったにせい、此白い髮やお鬚を見たなら、 お氣の毒と思はねばならない筈ぢゃに。此お顏をば、荒れ狂ふ雨風にお曝しなされたか? あの怖ろしい石火矢を降らす雷に?あの迅速な、鋭い、すさまじい電光に? 夜の目もお合せなさらいで、命知らずの者のやうに?此薄手なお兜ばかりで? 敵の家の飼犬でも、わたしを咬みをった犬ぢゃとても、 あのやうな晩ならば爐火にあたらせてやったであらうに、それぢゃのに、お父さま、よう、 まァ、貴下は辛抱して、乞食や非人と一しょに、黴臭い藁にくるまって、 むさくるしい小屋でお休み遊ばしたなァ!あゝ、あゝ!お正氣と一しょにお命がなくならなんだのが不思議ぢゃ。 ……お目が覺めたやうぢゃ。申し上げて見い。
侍醫
御前さま、あなたがおっしゃりましたはうがよろしうございます。
コーデ
御前、お氣分は、いかゞでございます?
此時、リヤはじめて目を開く。
リヤ
墓からわしを伴れ出すには餘りぢゃわい。……貴女は天人ぢゃな。 わしは、火の車に縛られ、涙を落すといふと、それが悉皆溶けた鉛のやうになって、 身を焦さんけりゃならんおぢゃ。
コーデ
私をごぞんじでございますか?
リヤ
お前さんは精靈ぢゃ。いつ死なしゃった?
これにてコーディーリャは絶望の思入れをして
コーデ
まだ~、中々!
と歎息するのを侍醫が慰めて
侍醫
まだようお目が覺めんのでございます。暫くお心任せにしておゝき遊ばしませ。
此間、リヤは四方を見廻してゐたが
リヤ
俺は今まで何處にゐたか?此處は何處ぢゃ?や、日光が射す? 俺は怖ろしう玩弄にされてゐるのぢゃ。他人がこんな目に遭ふのを見たら、 氣の毒で~堪らんであらうに。何したのか分らん。これが自分の手であるとは俺ァ能ういはん。 かうッと。……此針で刺すと……痛い。……俺は今、どうしてをるんぢゃ、たしかなことが知りたい、 たしかなことが!
コーデ
おゝ、わたくしを御覽なされませ。さ、こゝへ手をかざして、祝福して下されませ。……
とコーディーリャが膝まづくと、王も共にひざまづかうとする。それをとめて
いゝえ、そんあことをなされては不可ません。
リヤ
どうぞ、弄って下さるな。わしは馬鹿ァな、たはけた老人でござる。八十以上の、一時間でも、 それよりは多くもなければ、少なくもない。そして、正直にいふと、わしァどうやら氣が狂れてをるやうぢゃ。 お前さんも、此人も、わしァ知ってをるやうに思ふけれど、どうも曖昧ぢゃ。なぜならば、第一、 こゝは何處ぢゃか、わしは全然知らん。又、有ったけの智慧で考へても、 此被服を記えてをらんし、昨夜何處で泊ったかも記えてをらん。 笑ふて下さるな、わしァ眞實に、此お方は、わしの兒のコーディーリャのやうに思ふ。
コーデ
そのコーディーリャでございます。そのコーディーリャでございます。
コーディーリャは臥床にすがって泣く。
リヤ
涙を流してぢゃな?おゝ、涙ぢゃ。どうぞ泣いて下さるな。お前さんが毒を飮めといへば、 わしァそれを飮みまする。お前さんはわしを愛してはをらん筈ぢゃ。何故なれば、姉のやつらは、たしか、 わしを酷い目に遭はせをったやうに思ふ。お前はわしを憎む理由があるが、あいつらには無いのぢゃ。
コーデ
何の憎む理由がありませう、何の憎む理由がありませう。
リヤ
俺はフランスへ來てをるのか?
ケント
御本國にいらせられるのでございます。
リヤ
えィ、だますな。
コーディーリャが絶望して又歎息するのを
侍醫
(慰めて)まァ~、お心強う思し召しませ。はげしい御亂心は、御覽の通り、お鎭りなされてゞございます。 急に、何もかも御諒解遊ばすやうに強ひ申しますのは危險でございます。 奧へ入らせらるゝやうお勸め遊ばされまして、も少しお鎭りになりますまでは、何も仰せられぬが宜しうございます。
コーデ
あちらへ入らせられませんか?
リヤ
堪忍してくれんければならんぞよ。どうぞ忘れてくれい、恕してくれい。 わしァ齡を取った馬鹿ァなもんぢゃによって。
ケントと紳士の外は皆入る。
紳士
コーンヲールの公爵が殺されたといふのは事實ですか?
ケント
たしかな事です。
紳士
ぢゃ、誰れが其部下の兵をひきゐてゐます。
ケント
噂では、グロースターの庶腹の倅が。
紳士
世間ぢゃ、勘當された本妻腹のエドガーは、ケントの伯と共に、ヂャーマニーにゐるとか言ひますが。
ケント
世評はあてになりませんて。……時に、油斷しちゃをられませんぞ、敵軍はずん~近寄って來ます。
紳士
殘酷な結果になりさうです。ごきげんやう。
紳士入る。
ケント
今日の一戰で、よかれ、あしかれ、とにかく段落が著くであらう。
ケントも入る。

