南総里見八犬伝(011)

南總里見八犬傳卷之五第十回
東都 曲亭主人 編次
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「一言いちごん信まことを守まもつて伏姫ふせひめ深山しんさんに畜生ちくせうに伴ともなはる」「金まり大すけ」「伏姫」「やつふさ」

禁きんを犯おかして孝德一婦人たかのりいつふじんを失うしなふ
腹はらを裂さきて伏姬八犬子ふせひめはつけんしを走はしらす

 義實よしさねの夫人五十子おくかたいさらこは、八房やつふさが爲體ていたらくを、人の吿つぐるに驚きて、裳もすそを褰かゝげて遽いそがはしく、伏姬のをはします、子舍こざしきへはや來給ひしが、と見れば處陜ところせきまでに、侍女們をんなばらは戶口とぐちにをり、治部殿ぢぶどの[義實をいう]もをはしませば、姬ひめには恙つゝがなきものから、親子が中に犬を置おきて、問答もんどうの最中もなか也。言ことの葉はの果はつるまでとて、竊聞たちぎゝしつゝ潸然さめさめと、うち泣なきてゐましけり。とはしらずして侍女們をんなばらは、出いでてゆく犬におそれて、おもはず左右へひらきしかば、交加ゆきかひの路みちやゝあきて、躱かくれ果はつべうもあらざれば、走り入いりつゝ姬うへの、ほとりへ撲地はたと伏沈ふししづみ、聲を惜をしまず泣給へば、義實は愧はぢらひて、うち見たるのみ物宣のたまはず。伏姬ふせひめは母の背そびらを、拊なでおろし、又撫なでおろし、「緣由ことのよしを聞召きこしめせし欤か。おん心持こゝちはいかにぞや」、と慰なぐさめられて、母うへは、頭かうべを擡もたげて淚を拭ぬぐひ、「聞きかずはいかで歎なげきをせん。喃なう伏姬、よにも怜悧さかしくましませば、殿とのの御諚ごでふに表裏うらうへなく、賞罰せうばつの道直なほかれとて、名を汚けがし、身を捨すて給ふ。そは父うへに孝行なり共、情ぜうに悖もとり、俗よに背そげなば、誰たれかはこれを譽侍ほめはべる。凡生およそいきとし括いけるもの、二親ふたおやならぬもあらざるに、母が歎きをおもはずや。さりとては心つよし。幼稚をさなきときの多病なる、母の苦勞をやうやくに、昔かたりになすまでに、生育おひたち給へば又更さらに、見增みます標緻きりやうは、月も花も、及ばぬものをいかなれば、われからその身を贄にゑにして、悔くやしとだにもおぼさぬは、あやにまつはる物ものの怪けの、しうねき所爲わざに侍るべし。やよ覺さめ給へ、覺さめ給へ。年來としころ念ずる神の加護かご、佛の利益りやくもなき世欤か」と、諭さとしつ泣なきつ、いとせめて、くり返し給ふ母の慈悲ぢひに、伏姬は堪たへかねし、淚を袖そでに推包おしつゝみ、「しか宣のたまへば不孝の罪、おもきが上になほ重し。親の歎なげきもかへりみず、なき後のちまでも名を汚けがす、それ哀かなしまぬに侍らねど、命運めいうんの致す所、寔まことに脫のがれぬ業因ごういんと、思ひ決さだめて侍るなる。これ臠みそなはせ」、と左手ゆんでに掛かけたる、珠數ずゞさや〳〵と右手めてに取り、「わらはが幼稚をさなかりしとき、役行者えんのぎやうしやの化現けげんとやらん、あやしき翁おきながとらせしとて、賜たまはりしより身を放さぬ、この水晶すいせうの念珠ねんじゆには、數かずとりの玉に文字もじありて、仁義禮智忠信孝悌じんぎれいちちうしんこうていと讀よまれたる。この文字もんじは彫ゑれるにあらず、又漆うるしして書かけるに侍はべらず、自然しぜんと生せうじ見あらはれけん、年來日來としころひごろ手に觸ふれたれども、磨滅すれうすることなかりしに、景連かげつらが滅びしとき、ゆくりなく見侍れば、仁義の八字は蹟あとなくなりて、異ことなる文字もんじになり侍り。この比ころよりぞ八房が、わらはに懸想けさうし侍るになん。これ將はた一ッの不思議なる。過世すくせに定さだまる業報欤ごうほうか、と欺くはきのふけふのみならず、その期ごを俟またで死しなばや、と思ひしはいくそ遍たび、手には刃やいばをとりながら、否いなこの世にして惡業あくごうを、滅ほろぼし得えずは、後のちの世に、浮うかむよすがはいつ迄までも、あらしの山にちる花の、みのなる果はてを、神と親とに、任まかせんものを、と形あぢきなき、浮世の秋にあひ侍り。これらのよしをかしこくも、曉さとり給はゞおん恨うらみも、忽地散たちまちはれてなか〳〵に、思ひ絕たえさせ給はなん。さても十とあまり七年なゝとせの、おん慈愛いつくしみを他あだにせる、子は子にあらず前世さきのよの、怨敵おんてきならめ、と思食おぼしめして、今目前まのあたりに恩義を絕たち、御勘當ごかんだうなし給はらば、身ひとつに受うくる恥辱はぢは又、生うまれ來こん世の爲也、と墓はかなく賴む彌陀西方みださいほう、佛の御手みての絲薄いとすゝき、尾花をばなが下もとに身をば置おくとも、竟つひに惡業消滅あくごうせうめつせば、後うしろやすく果侍はてはべらん。只願たゞねがはしきはこの事のみ。是これ見て許させ給ひね」、とさしよせ給ふ珠數ずゞの上に、玉なす淚數かずそひて、いづれ百八|煩惱ぼんなうの、迷ひは解とけぬ母君はゝぎみは、疑うたがはしげに顏うち熟視まもり、「さまでよしある事ならば、初はじめより如此々々しか〳〵、と親にはなどて吿つげ給はぬ。什麼そもその珠數ずゞに顯あらはれしは、いかなる文字ぞ」、と問給へば、義實「此これへ」、と取とりよして、うち返し〳〵、つく〴〵と見て嘆息たんそくし、「五十子いさらこ思ひ絕たえ給へ。仁義禮智の文字もんじは消きえて、顯あらはれたるは如是畜生によぜちくせう、發菩提心ほつぼだいしんの八字なり。是これによりて又思ふに、八行五常はつこうごじやうは人にあり、菩提心は一切衆生いつさいしゆせう、人畜にんちくともにあらざるなし。かゝれば姬が業因ごういんも、今畜生ちくせうに導みちびかれて、菩提の道へわけ入らば、後のちの世さこそやすからめ。寔まことに貧賤榮辱ひんせんゑいちよくは、人おの〳〵その果くわあり。姬が三五の春の比ころより、鄰國りんこくの武士はさら也、彼此をちこちの大小名だいせうめう、或あるひは身の爲、子の爲に、婚緣こんえんを募來もとめこしたる、幾人いくたりといふ事をしらねど、われは一切承引つやつやうけひかず。今茲ことしは金碗大輔かなまりだいすげを、東條とうでふの城主にして、伏姬を妻めあはせて、功ありながら賞を辭し、自殺したる、孝吉たかよしに、酬むくはばや、と思ひつゝ、言過失ことあやまちて畜生に、愛女あいぢよを許すも、業ごうなり因いんなり。五十子いさらこは義實を、うらめしとのみ思ひ給はん。只たゞこの珠數ずゞの文字を見て、みづから覺さとり給ひね」、と叮嚀ねんごろに慰めて、說ときあかし給へども、晴はれぬは袖の雨催あまもよひ、聲曇くもらして泣給ふ。

 かくてあるべきことならねば、伏姬ふせひめは今宵出こよひいでんと、その准備ようゐをぞいそがし給ふ。しかれども「生いきてよに、かへり來こんこと思ひもかけず。只たゞこの侭まゝに」と宣のたまひて、玉掻頭たまのかんさしとり捨すてて、白小袖しろこそでのみ襲被かさねきて、件くだんの珠數ずゞを衣領えりに掛かけ、料紙れうし一具いちぐと法華經ほけきやう一部、外ほかには物を持もたせ給はず、おん送りの從者ずさトモヒトなども、かたく辭いろひて倶ぐし給はず。「まだ何處いづことはしらねども、八房がゆく隨意まに〳〵、いゆきて留とゞまる所こそ、わが死しにどころなるべけれ。彼かれもしこゝを立たちも去らずは、今宵を過すぐさぬ、命ぞ」、と思ひ決さだめて出いで給ふ、時はや黃昏たそがれ近かるべし。さればおん母五十子いさらこは、いとゞ別わかれの惜をしければ、立たゝまくし給ふ袂たもとを掖ひきとめ、哽むせかへりつゝ泣給へば、年來使としころつかはれ奉る、侍女們をんなばらも是首彼首ここかしこに、泣倒なきたふれ伏沈ふししづみ、物の要えうには立たつものなし。

 さる程に伏姬ふせひめは、共に消きえなん露霜つゆしもに、袖ぬらさじ、と村肝むらきもの、こゝろつよげに母君はゝぎみを、慰めて別わかれを吿つげ、侍女們をんなばらに送られて、外面とのかたへ出いで給へば、日ははや暮くれて後園おくにはの、樹間漏このまもる月さやかなり。既にして八房やつふさは、緣頬えんかわの下もとにをり、姬うへの出いでさせ給ふを、已前さきよりこゝに待まつなるべし。當下そのとき姬は彼かの犬の、ほとり近くうち對むかひ、「やよ八房欤か、うけたまはれ。人に貴賤きせんの差別けぢめあり。婚緣こんえんはその分ぶんに隨ひ、みな類るいをもて友とせり。かゝれば下しもの下しもざまなる、穢多乞兒えとりかたゐといふといへども、畜生ちくせうを良人をつととし、妻とせらるゝ例ためしを聞きかず。況まいてや吾儕わなみは國主こくしゆの女兒むすめ、平人たゞうとの婦めとなるべからず。さるを今畜生に、身を棄すて、命いのちをとらする事、前世さきつよの業報ごうほう欤か。倂嚴君しかしながらちゝぎみの、御諚ごでふ重きによつて也。これらのよしを辨わきまへず、情欲を遂とげんとならば、わが懷劍くわいけんこゝにあり。汝なんぢを殺して自害せん。又一旦の義を以もつて、偏ひとへに吾儕わなみを伴ふとも、人畜異類にんちくゐるいの境界さかひを辨わきまへ、戀慕の欲を斷たつならば、汝は則すなはちわが爲に、菩提ぼだいの鄕導人みちびきびとなるべし。然さるときは汝が隨意まに〳〵、何地いづちまでも伴ともなはれん。いかにやいかに」、と懷劍を、逆手さかてに取とりて問詰とひつめ給へば、犬はこゝろを得たりけん、いとうれはしきおもゝちなりしが、忽地たちまちに頭かうべを擧もたげ、姬うへを見て長吠ながぼえして、蒼天あをそらをうち仰あふぎ、誓ふが如き形勢ありさまに、伏姬は刃やいばをおさめ、「しからば出いでよ」、と宣へば、八房は先に立たちて、折戶をりど、中門ちうもん、西の門、うち踰こえうち越こえゆく程に、姬はそが後しりに跟つきて、徐しづかに步行ひろはせ給ふにぞ、跡には母君女房達はゝきみにようばうたちが、よゝとなく聲聞えつゝ、義實も遠外とほよそに、霎時目送しばしみおくり給ひける。彼昭君かのせうくんが胡國えびすに嫁よめりし、恨うらみにもいやまして、いともあやしき別離の情、あはれといふも疎おろかなるべし。

 扠さても伏姬は、豫かねて送りの從者ともびとを、かたく辭いろはせ給ひしかども、義實よしさねも五十子いさらこも、「路次ろぢの程ほど心もとなし。見えかくれに見て來こよ」とて、蜑崎あまさき十郞輝武てるたけに、壯士夥屬ますらをあまたつけさせ給ひて、竊ひそかに遣つかはし給ひけり。件くだんの蜑崎輝武は、原東條もととうでふの鄕士ごうし也。曩さきに杉倉氏元が手に屬つきて、麻呂信時まろののぶときが頸取くびとつてまゐらせたる、軍功を賞せられ、瀧田へ召めされて、義實の、ほとり近く使つかはれて、はや年來としころになりしかば、義實これを擇出えらみいだして、倶ともには立たゝせ給ひし也。さる程に輝武は、馬にうち跨のり、夥兵くみこを將いて、一町許後いつちやうばかりおくれつゝ、おん跡あとを跟つけてゆくに、八房は瀧田の城を、出いではなるゝとそが侭まゝに、姬を背中に乘せまゐらせ、府中ふちうのかたへ走る事、飛とぶ鳥とりよりもなほはやかり。輝武は後おくれじ、と頻しきりに馬に鞭むちを當あて、夥兵等くみこらは喘々あへぎ〳〵、汗あせもしとゝに追ふ程に、はや幾いくばくの道を來て、犬懸いぬかけの里に至れば、夥兵等くみこらは遙はるかに後おくれて、輝武に從ふもの、一兩人には過すぎざれども、馬は逸物乘人いちもつのりては達者たつしや、いかで往方ゆくへを失はじとて、終夜よもすがら走りつゝ、來ともしらずその曉あけがたに、富山とやまの奧へわけ入りつ。 抑富山そもそもとやまは安房國あはのくに、第一の高峯たかねにて、伊與嶽いよがたけと伯仲はくちうす。その巓いたゞきに攀登よぢのぼれば、那古洲崎なこすさき七浦なゝうらに、浪なみのよるさへ見ゆるといふ。山中さんちうすべて人家ひとざとなく、巨樹こじゆ枝を垂れていと暗く、荊棘樵夫けいきよくきこりの道を埋うづめて、苔滑こけなめらかに、霧深し。かくて十郞輝武は、山路やまぢに馬を乘倒のりたふして、われと夥兵くみこと僅はつかに二人ン、息吻いきつぎあへず攀登よぢのぼる、山又また山に雲おさまりて、迥はるかに彼方かなたを向上みあぐれば、伏姬は經けうを背負せおひ、料紙硯れうしすゞりを膝ひざに乘のして、八房が脊せに尻しりを掛かけ、はや谷川たにかはをうちわたして、なほ山ふかく入り給ふ。輝武等は辛からうじて、川のほとりに來にけれども、水ふかく、流れはやくて、わたすべうもあらざンめり。「はる〳〵來つる甲斐かひもなく、川一條ひとすぢに禁とゞめられて、おん往方ゆくへを見究みきわめず、こゝよりかへることやある。瀨踏せぶみをせん」、と輝武は、遽いそがはしくをり立たちて、杖つゑをちからに涉わたしもあへず、橫ざまに推倒おしたふされて、一聲ひとこゑ「苦あな」と叫びつゝ、石に頭かうべをうち碎くだかれ、漲みなぎりおとす水のまに〳〵、骸からもとゞめずなりにけり。

 扠さても蜑崎輝武あまさきてるたけは、海邊かいへんに人となりて、水煉すいれんの達者たつしやなりしに、斯墓かうはかなくも流されたる、これさへに怪あやしとて、夥兵くみこは坐そゞろに舌したを掉ふるひて、軈やがて麓ふもとへ立たちかへり、後おくれたるもの諸もろともに、次つぐの日の夜よをこめて、瀧田の城へかへり參り、縡ことの趣おもむきをまうしてければ、義實委細つばらに聞召きこしめして、再かさねて人を遣つかはし給はず、只國中たゞこくちうへ徇ふれしらして、「樵夫炭燒きこりすみやきの翁おきなといふとも、富山へ登ることを許さず。もし彼山かのやまへ入いるものあらば、必かならず死刑に行おこなはん」とて、嚴重げんぢうに掟おきてさせ、又蜑崎輝武が、枉死わうしをふかく悼いたみおぼして、その子どもを召出めしいだし、形かたのごとくぞ使つかはせ給ふ。かゝりけれども五十子は、伏姬の事とにかくに、日にまして忘れかたければ、「行者ぎやうじやの石窟いはやへ代參」といひこしらへ、月每つきごとに老女等ろうぢよらを、竊ひそかに富山へ遣つかはして、彼かのおん所在ありかをたづねさせ、安否あんひをしらまく思ひ給へど、蜑崎輝武が推おしながされたる、彼山川かのやまかはよりあなたへは、おそれて涉わたすものもなし。固もとより川の向むかひには、常に雲霧立くもきりたちこめて、見渡みわたすよしもなかりしかば、老女等はいたつらに、ゆきてはかへるとし波なみや、早期月はやむかはりになりにけり。

 不題金碗大輔孝德こゝにまたかなまりだいすけたかのりは、曩さきに安西景連あんさいかげつらに出拔だしぬかれて、敵はや瀧田たきたを圍むをしらず、僅はつかに曉さとりて走還はしりかへる、途みちに訥平等とつへいらに追おひとめられて、多勢たせいを敵手あひてに血戰けつせんし、從者等ともひとらは皆擊うたせたれども、わが身ひとつは虎口こゝうを脫のがれて、やうやく瀧田へ立たちかへるに、安西が大軍充滿みちみちて、はや攻圍せめかこむ最中もなかなれば、城に入ること竟つひにかなはず。せめて堀內貞行ほりうちさだゆきに、一臂いつひの力を勠あはせんとて、東條へ走りゆくに、彼處かしこも蕪戶訥平等かぶととつへいらが、大軍に圍かこまれて、籠中こちうの鳥に異ことならねば、輒たやすく城へ入るべうもあらず。「かくぞとしらば瀧田にて、一騎なりとも敵を擊うちとり、城の橋を枕まくらにして、討死うちじにをすべかりしに、今は悔くへどもその甲斐かひなし。大事のおん使つかひを爲損しそんじで、剩あまさへ主君の先途せんどに得立えたゝず。よしや兩城の圍釋かこみとけて、君恙つゝがなくましますとも、そのとき何なにの面目めんもくありて、見參げんざんに入いらるべき。蕪戶かぶとが陣へかけ入いりて、戰死きりしにせん」、と只管ひたすらに、早はやるをみづから推鎭おししづめて、やゝ思ひかへすやう、「わが身ひとつをもて、數百騎すひやくきなる、敵軍へかけ向むかはゞ、鷄卵とりのこをもて石を壓おす、それよりもなほ墓はかなき所行わざ也。命を捨すてても敵に損なく、躬方みかたに益ゑきなき事なれば、是彼以これかれもつて不忠なるべし。兩城素もとより兵粮乏ひやうろうともし。鐮倉へ推參すいさんして、成氏朝臣なりうぢあそんへ急を吿つげ、援兵ゑんへいを乞催こひもよほして、敵を拂ひ、厄やくを釋とかば、わが悞あやまちを申ス寬なだむる、因よすがもこれにますものあらじ。速すみやかに鐮倉へ、赴おもむかばや」、と尋思しあんしつ、白濱しらはまより便舩びんせんして、日ならず管領くわんれいの御所ごしよへ參着さんちやくし、義實の使者と稱して、來由らいゆを說とき、急を吿つげ、をさ〳〵救ひを乞こひまうせども、義實の書翰しよかんなければ、狐疑こぎせられて事整とゝのはず、又いたづらに日を過すぐす。甲斐かひなく安房あはへ立たちかへれば、景連ははや滅びて、一國既すでに平均せり。「あな歡よろこばし」、と思ふにも、いよ〳〵歸參の便たよりはなし。さりとて今さら腹も切られず、「時節を俟まちてこの條くだりの、懈怠おこたりを勸解わび奉らん。それまでの隱宅かくれがに」とて、舊里ふるさとなれば上總かつさなる、天羽あまはの關村せきむらへ赴おもむきて、外祖一作おほぢいつさくが親族なる、百姓某甲なにがしが家に身を寓よせ、一年ひとゝせあまりをる程に、伏姬の事仄ほのかに聞えて、「八房の犬に伴ともなはれ、富山の奧へ入り給ひしより、安危存亡定さだかならず。この故ゆゑに母君は、おん物思ひ日にそひて、長き病着いたつきに臥ふし給ふ」、と吿つくるものありしかば、大輔聞きゝてうち驚き、「君失言あやまたせ給ふとも、正まさしく貴人きにんの息女そくぢよとして、畜生に伴ともなはれ、こゝらの人の口の外はに、かゝり給ふはいと朽くちをし。件くだんの犬に靈憑れうつきて、神道じんつうを得たり共、擊うつにかたきことやある。われ彼山かのやまにわけ登り、八房の犬を殺して、姬君を倶ぐし奉り、瀧田へかへし入れ奉らば、賠話わびずともわが先非せんひを、ゆるされん事疑ひなし」、とこゝろひとつに尋思しあんしつ、扠さて宿のあるじには、「心願しんぐわんありて社參しやさんす」、と實まことしやかにいひこしらへ、竊ひそかに安房へ立たちかへりて、准備ようゐの鳥銃引提てつほうひききげつゝ、富山の奧にわけ入りて、伏姬のおん所在ありかを、其處そこか是處ここかと索たづぬれば、山路やまぢに暮し、山路に明あかして、五六日を經る程に、靄もやふかき谷川たにがはの、向ひに人はをるかとおぼし。「すはや」と騷ぐ胸を鎭しづめて、水際みきわについゐてつく〳〵と、聞きけば女子をなごの經きゃう讀む聲、いとも幽かすかに聞えけり。

作者云いはく。この段八大士はつけんしの起おこるべき、所以ゆえんををさ〳〵演記のべしるして、肇集五卷ぢやうしゆうごくわんの尾をはりと定め、既に首卷しゆくわんに十回の題目を載のするといへども、思ふにまして物語は、なが〳〵しくなりしかば、卷まきの張數ちやうすうはや盈みちて、今この段を卒おふるによしなし。さは卷數に定めあり又張數またちやうすうにも限りあり。每編これを過すぐすときは、賣買ばい〳〵に便宜びんぎならずといふ、書肆ふみやが好み推辭もだしがたし。よりて餘稿は卷まきを更かえて、明年めいねんかならず嗣出つぎいださん。大約おほよそこゝに演のぶる所は、この小說の發端ほつたんのみ。これより下しもは八犬士の、やゝ世に出いづべき事に及べり。この後のち又年としを歷へて、八子八方はつほうに出生しゆつせうし、聚散しゆさん時あり、約束ありて、竟つひの里見の家臣となる、八人の列傳は、前後あり長短あるべし。まだ其處そこまでは攷果かむがへはたさず。年をかさね、卷まきをかさねて、全本ぜんほんとなさん事、曩さきに豫が著あらはしたる、弓張月ゆみはりつきの如くなるべし。閱者幸けみするひとさいはひに察さつせよ。時に文化甲戌ぶんくわきのえいぬの秋九月十七日、鳥とりの屋やに毫ふでを閣さしおく。

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