読書ざんまいよせい(072)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(012)
む す び


 以上、二篇、五章、十六節にわたって、唯物論思想の線につながる人たちの評伝を試みたのであるが、さいごにぜひ述べておきたいことは、それらの人たちの学問的な且つ思想的なつながりである。「補」のところで論評した人たちは別であるが、その他の思想家たちは或るひとつの共通の線において、とにかくむすびつくのである。どのひとりとして、啓蒙の第一線に立っていない人はない。ややもすれば隠されがちな人間存在の本質からの欲求を、社会に向って呈露させようとしなかった人はいないのである。さて、そうではあるが、学問的思想のうえでのそれらの人たちのつながりがのこらず確認できるとは決していえないのである。
 ヨーロッパだったら、デモクリトスやエピクロスの思想とつながりのない唯物論者はまず稀だし、ベーコンやホッブスに何かのかたちでつながらないということはなかったし、一八世紀いごだったら、フランスの唯物論者たちの考え方をふりかえってみない唯物論者はまずないといっていいし、また一九世紀の後半いごだったら、マルクス、エンゲルスが、ひき合いに出される場合がほとんどである。かようにして、学問的思想のうえでれん関のないということは考えられない。
 この書は日本唯物論史ではなく、個々の唯物論者を評伝することを意図しているのだから、思想の歴史的な結びつきを明瞭に書き表わすことに努力したわけではないが、その結びつきを探すことが終始私にとっては問題であった。戸坂潤は、河上肇と教養や学問で結ばれる点があるが、兆民や秋水とは或る隔りをもっている。兆民は仏教や老荘から彼の唯物論思想を成長させるものを汲みとったが、秋水においては同じことは求められない。諭吉の啓蒙思想には江戸時代の思想家からくる影響はあったろうが、彼が蟠桃の無神論や昌益のラディカルな反観念論思想に触れたとは(少なくとも今の私には)思えない。
 しかし、それならすべで無連絡かといえば、そうではなくて、梅園は益軒の影響を深くうけていると察せられるし、春臺や仲基などは、また淇園すらもが、徂徠の先行なくしてはおそらく考えられないであろうし、その他こうしたつながりならば指摘されるものがいくつかあるであろう。いっぱんに、人物と人物との思想体系と思想体系との歴史的つながりについては、実証的な研究をまたないでは、つながりが「無い」という断定は、ほとんどぜったいにといっていいほどに、さしひかえねばならぬのだから、私たちの場合でも、個々の唯物論者の相互の学問的・思想的つながりについては、否定的な断定は遠慮しなくてはならない。これからいごの研究において、日本の唯物論思想家相互の関係が明らかにされる労作が必ずや公けにされるであろう。孤独の反逆者だと私たちが考えている昌益でも、必ずしもそうでなかったことが或いは明瞭になる日があるかも知れない。
 日本の唯物論思想家たちの思想的つながりについての私の見解は以上のごとくであるが、それにしても、ヨーロッパの場合と比べてみるとき、どの思想家も(ことに江戸時代においては)まえに先行者がなく、後にすぐつづく後進者がなく、一様にむすびつくべき唯物論思想の太い主脈の線がなかったことが、強く感じられるのである。
 ここで、つぎのことを述べておきたい。明治以後においては、もっと多くの唯物論者をとりあげて評伝すべきであることを痛感したのであるが(たとえば、野呂栄太郎や三木清、唯物論研究会に属していた永田広志、鳥井博郎、伊藤至郎その他のひとびと)、紙数のうえでその余裕がなかった。
 なお、明治・大正時代における自然科学者で、生活の仕方が合理主義的で唯物論的であった人たち(たとえば狩野亨吉博士のような人物)についても、のべておきたかったが、これらは他日機会を得たとき試みたいと思うのである。 

追 記

 この書の成立について、英宝社の佐々木峻君の二ヵ年にわたる私に対する激れいと、池城安昌君の校正、年表・索引その他の協力とに対して、厚くお礼を述べておきたい。(一九五六年六月記

〚編者注 年表・索引のテキストは省略する。〛

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