後退りの記(016)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」
◎堀田善衛「城舘の人」
◎渡辺一夫「世間噺 後宮異聞」

前回は、モンテーニュの「サン・バルテルミの虐殺」について述べた。堀田善衛は「城館の人」でこう書くが、その一言で尽きるであろう。
「けれども、何も書かないということもまた、一つの表現であり、かつ一つの主張でもありうることを忘れてはならないであろう。」
それでも、間接的に事件に対して感慨を催すことは避けられない。モンテーニュの引用の繰り返しにはなるが、「エセー」から少しパラドキシカルな表現で…

〈平穏普通の時代には、人はただ平凡な事件に対して心積りをする。けれども、三十年もつづいて来た混乱の時代には、あらゆるフランス人が、個人としても全体としても、二六時中、いまにも己れの運命が全的にひっくり返りそうな状態に生きている。それだけに、心にいっそう強く、逞しい覚悟をしておかなければならない。運命がわれわれを、柔弱でもなければ無為でもない時代に生きさせてくれたことを感謝しよう。他の手立てでは有名になれそうもない人間でも、自分の不幸のせいで有名になれるかもしれないのである。〉
〈私は歴史のなかで、他の国々におけるこの種の混乱を読むたびに、自分がその現場にいていっそう詳しく考察することが出来なかったことを、いつも残念に思うのである。それほどにも好奇心が強いので、わが国家の死という、この目ざましい光景を、その徴候と状態とを、目のあたりに見ることを、私はいささか喜んでいる。また自分でこの死を遅らせることが出来ない以上、この場に臨んでそこから教えられる運命をになったことを満足に思っている。〉

またしても長い引用になってしまったが、話をアンリ寄りに、というより彼周辺の女性たちに戻そう。
彼をめぐる女性は、当時から話題に事欠かなかったようだが、とりあえず当方は5人を挙げることにする。まず、祖母にあたる、マルグリット・ド・ナヴァル、その娘で母に当たり、ナバラ女王となり、熱心なプロテスタントだったジャンヌ・ダルブレ、この二人は、DNA としてアンリに受け継がれたようだ。あとは、「配偶者」としての、マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ王妃)、後に再婚し、ブルボン王朝歴代の王を残した、マリー・ド・メディシス、唯一、心を通わせたとされるガブリエル・デストレの三人であろう。マルゴ王妃は、以前触れたのと、マリー・ド・メディシスは、アンリ四世没後の話題になるので、省略するが、マルゴ王妃とは、アンリが一番苦しい時代(虐殺前後から三人のアンリが絡んでの内乱状態)に、案外とアンリのサポートになったのではないか?短い期間だったが、心の支えであったろうと推測される。
さて、取り上げるのは、ジャンヌ・ダルブレをめぐる様々な人間関係であるが、少し、年代的に「虐殺」後から「ナントの勅令」あたりまでのアンリ四世をめぐる年表を整理してみる。
1572年 マルグリット・ド・ヴァロワと結婚、直後にサンバートロミューの虐殺
1573年 本意ならず、新教から離脱、ルーブル宮殿に幽閉
1574年 シャルル九世死ぬ、アンリ三世即位
1576年 パリ脱出、新教に戻る
1580年 モンテーニュ「エセー」出版(~1588年)
1584年 マルゴ幽閉
1585年 三アンリの戦い(~1588年)
1588年 スペインの無敵艦隊、イギリスに敗戦。旧教同盟のリーダー、ギュイーズ公暗殺
1589年 アンリ三世暗殺。カテリーナ・ド・メディチ死ぬ
1590年 パリ包囲
1591年 ガリブエル・デストレと知り合う
1594年 新教を捨て、シャルトルで即位式、パリ入城
1598年 ナントの勅令
1599年 ガリブエル・デストレ死ぬ。マリー・ド・メディシスと婚約
ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」より抜き書き
本邦では、織豊時代から、秀吉の「朝鮮侵略」をへて、家康の台頭、関ヶ原直前までの出来事である。

寵姫ガリブエルは、父の系統は、歴代バロア朝のフランス王に使えた武人、母の実家は、
「呪わなければなるまい、この手をば、
人類《ひとびと》に快楽を与えんとして
惜しげもなく、かくも見事な verces (からすえんどうを指すが、「淪落女」の意もあるという)をば
撒き散らすこの手をば。」
と当時の戯れ歌に唱われたほどだから、一家揃って、浮名を流したのだろう。母は、複数の男性と関係をもち、挙げ句の果て、1592年に惨殺されてしまった。ガリブエルは、こんな母と距離を保っていたようで、叔母イザベールが母の変わりに宮廷における「後見人」を勤めていたそうである。姪に似て、イザベールも相当な美形だったらしく、当時の宮廷詩人ロンサールもその艶色を称える詩篇を献呈した。ガリブエルは、一応、1571年が生年とされるので、「虐殺」後の世代だろう。のちの歴史家ミシュレによれば、
「その肌色は驚くほど白く繊細であり、かすかに薔薇色を帯びている。その眼差しには、何とも言えないところ、人の心を恍惚とさせずには措かないが、安堵もさせない veghezza (魅力)がある。」
と書くぐらいだから、相当魅惑的、かつちょっぴりリスキーな女性だったんだろう。アンリ三世の宮廷に出仕した頃には、のちのちまで腐れ縁となるベルガント公と深い仲になってしまうが、1589年にアンリ三世の暗殺後、法的にフランスの王位継承者となった、アンリ四世は、それを名実共にすることに奮闘と生来の艶色家で、色香に溺れていた過程で、ガリブエルと、そのベルガント公の紹介で出会う。彼女は、文才などなかったが、宗旨のこだわりも少なく、連戦つづきのアンリにとっての心の慰みとなったのだろう。その後、別人と結婚する目にはあったが、アンリの何回目の「改宗」の後、パリ攻略に成功、1594年3月22日に、無血入城となった。9月の入市式典の際には、正式な王妃に準ずる体裁だったとある。

あと、アンリ四世の知世は、曲がりなりにも「宗教的寛容」を唱った「ナントの勅令」まで一直線であるが、ガリブエルの存在が支えになったのかもしれない。後日、ガリブエルの動向と合わせて記する機会もあろう。

今の世界において、世界史の教科書でなかば無理矢理覚えさせられた「ナントの勅令」は、本当に有効なのだろうか?有効だとすれば誰が発令するのか、誰がそれを守らせるのか?すくなくとも「勅令」の効力はルイ十四世の時代まで、曲がりなりにも続いたとされる。数日間の危な気な停戦とは言わない。世代を越えた、恒久的な平和を切に望みたい。

添付した曲は、アンリ四世が、マリー・ド・メディシスと婚姻を遂げた時の、晩年にアンリの宮廷音楽家であったウスタシュ・デュ・コレア(Eustache du Caurroy)の祝典曲、2018年の「古楽の楽しみ」から、最初の1分ほどを採った。

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