読書ざんまいよせい(086)

巖窟王(上 その10)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一〇一 土牢と云ふ言葉に

さきの日死刑臺から逃れ去つた其の日比野が、早斯かる使に來るとは、安雄も意外に感じたが伯爵も驚いた容子である「オヽ日比野、貴樣だつたか」問ふ聲は伯爵の口を衝いて出た、日比野は返辭もせずにたゞちに伯爵の前に平伏し、伯爵の兩手を取つて之に接吻するは、命を救はれた其恩を謝する積りで有るのだらう、あたかも犬が主人の手をなめる樣な状である。

伯爵は機嫌能く「オヽ未だおれを忘れぬと見えるな、あ起きよ、問ふ事が有るのだから」命に應じて起き直りつゝ「私が救はれて未だ一週間にも爲りません、其れだのに貴方の恩を忘れては何としませう、生涯決して忘れません」伯爵「生涯といへば永いことだぞ、爾う約束せぬが無難だらう」日比野は「イヽエ、生涯が幾等永くても忘れません」といひ掛けたが、傍に見知らぬ安雄の居るのを見、忽ち口をふさいだ、伯爵「ナニ日比野、此方はおれの友人だ、少しも恐れるには及ばぬ、先づ野西子爵がどうして鬼小僧に捕はれたか其の次第から聞かせてくれ」

日比野は安心した状で「いつも祭禮の時には同じ手段で、必ず若い紳士を捕へますよ、鬼小僧の妾テレサといふのが珍しい美人だものですから馬車で市中を練歩き、是はと思ふ紳士に向ひ、時々容子有りげに顏を見せるのです、野西子爵とやらも全く其手に掛かツたのです」伯爵も安雄も此打開けた返辭に、思はず笑を催した、安雄「鬼小僧が、自分の妾に、其樣な事を許すのか」日比野「許しますとも、自分が傍に居て、一々此紳士彼の紳士と差圖をして居るのです」安雄「では彼の馬車に鬼小僧も乘つて居たのか、何だ女ばかりの乘合と見えたのに」日比野「馬車の中に女はテレサ一人です、其外皆少年の男子です、身體が小さいから彼の樣な服を着けて假面めんを被れば女の姿に見えるのです」安雄「シテ鬼小僧は何處に居た」日比野「矢張り假面めんを被ツて御者を勤めて居たのです」

さては彼の馬車の御者が鬼小僧自身で有ツたのかと、安雄は身が震ふほどに驚いた、爾とも知らず其日人の眼の下で、其人の妾と樣々の合圖を爲し、非常な艷福を得た如く思ふとは、實におぞましさの骨頂と云ふものだ、安雄が斯く思ふて呆れる間に[、] 伯爵「シタが、其れから何うして野西武之助君を捕へた」日比野「其れから手紙の遣取と爲り、今夜 祭禮まつりの終る刻限にポンテシノの寺の庭で忍び逢ふ事と極つたのです、爾して其約束の通り野西子爵が來ましたからテレサの弟が同じ風をして子爵の手を取り、寺の庭へ引入れて、小聲で子爵に向ひ、山の麓に私の別莊が有るから其處まで行きませう、其積りで馬車を待たせて有ますが其別莊ならば番人の外に誰も居ませんから緩々ゆる〳〵とお話も出來ますからと斯う云ひました、子爵は喜んで、自分が引立る樣に手を取つてテレサの弟を、寺の背後うしろに居た馬車に乘せ、自分も後から乘つて急がせたのです」安雄「では何の苦も無く一直線に鬼小僧の居る山のほらへ進み込んだのだな」日比野「ハイさうさせる計略で有ましたが、子爵が馬車の中で、樣々に戲れて、テレサの弟も本性を隱して居る事が出來ぬ程に成りましたから、忽ち用意の短銃ぴすとるを取出し、子爵の顏に差附けて、ふざけるなと怒鳴り附けて自分の顏を現はしました、私は其馬車の御者を勤めて居ましたから、篤と其時の状を見ましたが、子爵は餘ほど驚いた容子でした、暫しが程は言葉も出ずに唯だ相手の顏を見詰て居ましたが「アヽ分ツた、笑談ぜうだんにしては餘り殘酷過る、全く誘拐かどはかしたぐひだ」斯う叫んで、直に短銃ぴすとるを奪ひ取りに掛りましたが、此時は早や馬車の左右の窓から鬼小僧の屈強の子分が四人まで飛び込んで子爵の兩手をしかと捕へた後で有ましたから無益でした、直に子爵は最早や抵抗はせぬのだから、貴樣等の望みを聞かせよと云ひました、手下等は斯樣な事には慣れて居ますから、返辭もせずに其儘繩を掛やうと致しましたが、其れには及ばぬ何の樣にでも貴樣等の意に從ふからと云ひ、是から四人に捕はれたまゝ終に山塞さんさいへつれて行かれたのです」伯爵「爾して今は」日比野「山塞さんさいの土牢へ入れられて居るのです」土牢と云ふ言葉に伯爵は殆ど顏色を變へた「其れでは直におれが行つて — 」安雄「伯爵、私も一緒に」伯爵「サア行きませう」眞に取る物も取敢ず立上つた、安雄「馬車の用意でもさせねばけますまい」伯爵「イイエ私は夜の夜半よなかでも、直に外出の出來る樣、必ず馬車の用意をさせて有ます、法律を逃れる人でも、私ほどは用意は屆いて居ぬでせう」眞に其通りである、一つの呼鈴よびりんを鳴らして下に降れば、早や馬車は入口へ廻つて居る、一分の猶豫も無く安雄と共に之に乘り、猶ほ日比野をも其 背後うしろに乘せサンサバシヤンの山洞さんどうを指し矢を射る如くに走らせた。

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