読書ざんまいよせい(085)

巖窟王(上 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 八六 心の誓ひ

昔話に聞く龍宮とても此室より以上の事はないだらう、安雄は見惚みとれて恍然うつとりとして居たが、主人の謝辭の樣に「イヤ來客の目を隱して案内すると云ふ事は、此上もない無禮ですが、全く止むを得ざるに出た事は幾重にもお察しを願ひ度いのです、茲は私の隱れ家で、入口の祕密が人に分れば今迄の樣に世間から隱遁してゐる事が出來難くなります、其れに私は一年の中、三百日ほど他へ出て居ますゆゑ、留守の間に自分の隱居所を荒される樣な事があるも辛く、其れや是れやで、此の巖窟いはやの入口は、誰も目を開いて來るのを許さぬと、斯う云ふ事に兼て定めてあるのです、特に貴方の爲に其定めを破る譯にも行きませず、失禮とは知りながら他の人同樣に取扱ひました」何故にさう迄も用心して特に安雄を呼入れたのだらう、其れほど入口の祕密を知られるのが怖ければ招き入れぬが好さ相なものであるのに、併し安雄の心に斯樣な疑ひなど起る暇はない、何しろ多く見た事のない、此龍宮を見る運に廻り合せたのが嬉しい「イヤ目を隱されるは愚、しや手足を縛られても、此樣な仙窟へ招かれるのは榮譽です」

主人は先づ安雄に座を與へて、自分も腰を卸した、安雄は何の上に自分の腰が乘つて居るか殆ど疑はしい程に思ふ、椅子の面が柔かで、何だか空中に浮んでゐる樣な感じがする、主人「斯うお目に掛つて互に話を仕ますのに、何か呼ぶ可き名がなくては、拍子がよくありません、何うか私を呼ぶには新八とお云ひ下さい、私は船乘新八と世間から呼ばれてゐます、貴方を何と呼びませう」敢て本名を聞かうと云ふではない、實の所本名を聞かずとも既に知つてゐるのだらう、安雄はさうとも思はぬから本名まで明かし度くない「イヤ貴方が昔話で有名な船乘新八ならば私も其昔話に在る荒田院あらだゐんと呼ばれませう」主人は全く打解けた調子と爲り「では荒田院あらだゐんさん、不意の事とは別に用意とてもありませんけれど、晩餐を差上げる爲にお招き申した譯ですから、先づ食堂へ御案内致しませう」とて室の左の方へ振向いた、安雄も同じく其方へ振向いて見ると壁の所に絹の埀幕が掛つてゐる、是れが食堂への入口であらう、「何うぞ」と安雄は唯だ簡單に答へ主人に續いて立上つた。

埀幕を開くと短い廊下がある、今の室も此廊下も、組細工もざいくの天上からヴエニスの製と思はれる綺麗な硝燈らんぷが下つてゐて、明るきこと晝の如しである、廊下を通り盡すと愈々食堂である、廣さは三十人も會食する事が出來るだらうか、其眞中に唯數人を圍ませる丈の卓子ていぶるを置いてある。

室中の立派な景状ありさまは、云ふ迄もない、イヤ言ひ樣がない、室の四隅に、名手の彫刻したと思はれる大理石の天使えんじえるの立像があつておの〳〵其手にかごを提げてゐる、爾して其 かごには地中海を中にして幾百方里の國々で特に名産と稱される果實の類が累々と金宇形すゞなりに盛上げて有る、何うして斯うも取集める事が出來るだらう。

前の室と此室と、何方どつちが贅澤の度が優るだらう、此室にゐる間は無論此室の方が優つた樣に思はれる、安をは全く目をこすつて夢ではないかと見廻した、間もなく一人の給仕が現はれた、是れは眞黒な黒奴である、給仕の仕方は驚く可きほど能く心得てゐて殊に主人の目配ばせを言葉よりも能く合點する状は、何うして斯うも仕込んだものかと怪しまれる、安雄は話の端緒がないから、先づ此給仕の事を賞め「何うしてお手に入れましたか珍しい給仕ですねえ、行儀が正しくて、爾して靜かで」主人は微笑して「靜かな筈です、舌を拔いて有るのですもの」安雄「エヽ舌を」安雄は驚かぬ譯に行かぬ。

主人「彼は御覽の通りのヌビア人ですがチウニス國王の後宮へ、庶人の許されてゐる區域よりも近く歩み入つた罰として非常な刑を受けたのです、最初の日、舌を拔き、次の日は手、又次は足と、段々切取つて最後に首を切ると、斯う云ふ慘酷な言ひ渡しで有りましたが、其時私が行合はせ、其事を聞きましたから、餘り慘酷な仕方と思ひ、國王へライフル銃一挺と外に東洋製の鋭利なかたな一個を差し出し彼の命を買取つたのです、其れが丁度、舌を拔かれた翌日で有つた爲め、彼は舌だけを失ツて助かりましたが、外の黒奴と違ひ、彼は國へ歸り度いなどの心は露ほども起しません、何うかして私の船が其國の邊へ近づきますと、彼は恐れに身を震はしてゐるのです、憐れむ可き者では有りますが、私を全く命の親と心得、犬よりも忠實に勤めてゐます、何しろ舌のないのは、使ふに不便な樣では有りますけれど、此方こちらの云ふ言葉は能く聞き分けますから、差し支へはありません、其れに主人が何の樣な祕密を見聞きしましても、他言すると云ふ事が出來ませんから、今では私も傍近く使ふ僕は、舌のない者に限ると云ふ程に思つてゐます」

チウニスの國に舌拔きの刑があるとは兼て聞いてゐる、舌を拔かれて人爲の唖と爲つて生てゐる者のある事も亦聞いてゐる、けれど、其樣な者に接するのは今初めてゞある、暫しがほど安雄は食氣もなくなる程に感じたが、併し天然の空腹に勝つ事は出來ぬ、其れに舌無男の運んで來る物が一として珍味ならざるはなしと云ふ程ゆゑ、間もなく、何事にも構はずに食ひ初めた。

食ふのみでなく、聞き度い事も多少はある。安雄「貴方は其樣にして常に各國を廻つて居ますか」主人「實は心に誓つた事があツて其爲に年中旅から旅へ渡ツて居ます」極めて機嫌能く答へたけれど「心の誓ひ」と云つた時にはまなこの底に凄い樣な光が見えた、安雄「貴方は餘ほどの艱難にお遭ひ成さツたと見えますね」主人はハツと驚いた状で、暫し安雄の顏を見詰めた末「何で其樣にお思ひです」安雄「イヤ、貴方の顏色、貴方の聲、まなこ、物言ひ、爾して貴方の暮し方まで總て一方ひとかたならぬ履歴を表してゐる樣に思はれます」主人は半ば打消す樣に「イヽエ世に私ほど幸福な者はありませんよ、全く氣儘勝手と云ふ言葉を其儘です、行きたい所へ行き、仕度い事をして人間の裁判が間違つてゐると思へば其の被告が山賊でも海賊でも救ひ出して刑罰を逃れさせて遣り、人の知らぬ樣な手段を以て最も確實に善を勸め惡を懲し、云はゞ天にも代ツた積りで正しい裁判を行ツて行くのです、しや貴方にしても、一度ひとたび私の境涯を味はへば再び還ツて人間の社會へ歸り度くないと思ひます、何か人間の社會へ還ツて是非仕遂げ度いと云ふ目的でもなければ — 」安雄「假令たとへば復讐とでも云ふ樣な」主人「エ、エ」復讐との言葉に主人は再び安雄の顏を見詰めた。

巖窟王 : 八七 不老不死の靈液

安雄が問ふ樣に「復讐」の一語を吐いたのは、世に云ふ偶中と云ふものである、深い意味があつて云ふたのではないけれど圖星に當ツた、主人は驚いて安雄の顏を見「何で、復讐などゝ、思ふのです」

安雄「何でとて、見受けた所で、貴方は社會から甚くいぢめられて、社會の或者を酷く恨んでゐる人の樣に見えます、其れだから若しや社會に對して大なる復讐を企てゝ居るのではないかと思ふのです」主人は異樣に打笑ツた「アハヽハ、其れは未だ當りません、私は世の中を憎むのではなく世の中を悟つたのです、大に悟つた哲學者です、併し悟つた丈けの所は多少實行して見たいと思ひますから遠からず彿國の都巴里府へも、出掛けて行きますよ」安雄も以前の問を深くは追窮する必要がない、更に主人の言葉に應じ「勿論巴里の事情は能く御存じでせう」主人「イヽエ初めて行くのですから能くは知りません」

此樣な贅澤な、而も旅行好と自ら云ふ人が、金錢にも時間にも何不足ないのに今まで巴里を知らぬと云ふ筈はなさ相に思はれる、けれど是れも爭ふ可き事柄でないのだから安雄は全く信じた振で「オヤ巴里を能く御存じがないなら、私が御案内しませう、今日こんにちの御馳走に對する恩返しに、爾です、何うか貴方がお出の時に、丁度私が居合せば好いのですが」主人「案内して下さるのは有難いが、或は私は忍びの旅行かも知れません」

話は其れから其れと限りもないが、安雄の腹には限りがある、後から〳〵と黒奴の運んで來る珍味又珍味で、安雄の胃は滿ちて了ツた、安雄「アノ黒奴は名を何と云ひますか」主人「亞黎ありと呼びます」成るほど黒奴には有觸れた名前である、此所へ又黒奴が來て、最早や食事が終ツたので、今度は室の四隅に在る彼の大理石の立像の手から果實のかごを外し、之を以て來て卓子てーぶるの上に置いた。

此食事中に唯だ一つ異樣であツたのは此主人が、唯だ話をする許りで何一品自分の口へ入れなんだ事である、安雄と共にたべてゐる樣に見せ掛てゐても、其實は唯だ箸を弄する許りで、べずに皿を下て了ふのだ、宗教の或派では、復讐を目論む者は決して自分のあだと同じ家の内で一緒に食事をせぬと成つてゐるのだが、或は其樣な爲ではあるまいかと、一時安雄は怪しんだけれど、何も自分の身が此主人の敵とかあだとか云ふ譯はないのだから、直に思ひ直し、其身が此人の既に食事の濟んだ後へ來たのだらう、此人は腹が滿ちいから唯だお客への持もてなしにべる樣な風をしてゐるのだと、斯う思つて自分で疑ひを掻消した。

果實くだものの次に亞黎ありは立派な銀の蓋物を持つて來て之を卓子てーぶるに置いた、其の持つて來る状が外の食ひ物を運んで來る状とはまるで違ふ、あたかも神前に供物を捧げるとでも云ふ樣な恭うや〳〵しさである、安雄は不審に堪へぬ、此蓋物の中に何が入つてゐるのだらう、暫らくして「是は何です」と云ひつゝ其蓋を取つて見た、中には何か、緑色の濃い汁がある、今までに見た事のない飮料である、問ふ樣に主人の顏を見上ると、主人は滿足のていで頬笑んでゐる「ハイ、是れは人間界にないと云つても可い不老不死の靈液です」安雄も笑つて「エ不老不死の」主人「ハイ昔ヂュビター神に供へたと云ふのが是れなのです、東方の或る山に産する草から製したものですが、外には決してないのです」安雄「之を呑むと命が延びますか」主人「イヤ眞逆まさかに命が延びもしないでせうが、併し呑んで見れば如何にも靈液と云ふ事が分ります、凡そ是ほど味の好いものは他に無いでせう、私は常に之を用ひてゐますが、兎に角珍しい強壯の力を以てゐる事は確かです」安雄「最上の強壯劑である爲に靈液と云ふのですか」主人「イヤ身體と精神とを強壯にする許りで無い、心を非常に爽快にするのです、之と云つてたとへる物が有りませんけれど、或人種は阿片を喫します、喫した後で非常な樂しみを覺えると云ひますが、此靈液は、阿片の有害に反對して有效です、阿片は徒に妄想を養ひますが、此靈液は心の確實な働き呼起します、之を呑めば全く陶然として又人間に不如意の事を忘れ、何の樣な大事業でも出來ると云ふ確信が生ずるのです」云ひつゝ主人自ら一匙をすくひ、仰向いておもむろに呑下した、兎に角も毒で無い事は是で分る、物は試しと、安雄も亦一匙をすくつて呑んだ。

成るほど珍味で有る、別に旨いと云ふ味では無いけれど、神妙な香氣があツて心身へ沁みて行く樣な心持と爲り、何ともたとへ樣の無い好き感じが全身へ滿ち渡つて來る「ハテな此の香氣は、成るほど類が有ません、之を製する草の名は何と云ひます」主人「亞拉比亞の言葉で『ハツチス』と云ふのです」安雄「アヽ是れがハツチスですか、如何にも神仙の喰べる靈草だと聞いてはゐました、ハツチスならば全く得難い珍味です」主人「併しう此上には差上げる珍味もありませんから、次の間へ行つて煙草でも呑みませう」

次の間は又此室の次に在るのだ、安雄は主人に從つて入ツた、茲は食堂より狹く一人の居間と云ふ樣に出來てゐる、主人「是を貴方の居間へ供へませう」安雄は室中を見廻したが、其の贅澤に出來て居る事は云ふ迄も無い、殊に目を驚かせるは床に敷詰めた毛皮である、西伯利亞しべりやの熊、喜望峯の赤豹、諾威のーるえいの狐を初め王侯さへも容易に得られぬ樣な皮ばかりを組細工もざいくに切合せて、人をして深い夏草の上を歩む樣な思ひ有らしむるのだ、煙草も各國の最上等が備はつて、琥珀其他の貴重なる煙管パイプまで添へてある、安雄「一たび仙窟に入れば歸るのが厭になります、此次は何處でお目に掛る事が出來ませう」主人「巴里で無ければ、何うせ遠國です、私の多く居るのはカイロ府か、イスパンか、バグダツドの樣な所ですから」安雄「ナニ世界の果でも容易ですよ、何だか私は羽が生へて何處へでも飛んで行かれる樣な氣が致します」主人「アヽ靈液が靜々と效て來るのです、其樣な氣がして、一身の上に、少しも困難な事のない樣に感ずるのが其の效目きゝめです」

全く靈液の效目きゝめか知らん、安雄は次第に、心持が爽かに且つ樂しくなり飄々として、風に乘つて天に昇る樣な思ひと爲り、何時と云ふさかいもなしに又何處と云ふ感じもなしに眠ツて了ひ、全く面白い夢の中の人と爲つた。

知らず明朝、目の醒めた時は、何の樣な境遇に自分の身を見出すだらう。

巖窟王 : 八八 望遠鏡

翌朝目の覺める迄に安雄は樣々の夢を見た、其夢たるやつねに見る夢とは違ひ、眠る前の事から引き續いて自分が此 巖窟いはやの中の宮殿に逗留し、非常な款待を受け、非常な幸福を得た上に、何一つ意の如くならぬはなき世界の大人物にまで出世した景状ありさまであつて、爾して其の感じの少しも夢らしく無く、全く事實の樣に感じた、東洋の話に在る廬生の夢とは多分此樣な夢だらう、粟の飯をかしぐ間に五十年の閲歴を歴々あり〳〵と見て、覺めての後に怪しんだと云ふのだから、全く相似た夢である。

覺めたのは朝の何時頃であるか自分には分らぬが、身邊あたりが薄暗い、別に日も差しては居ぬ、矢張り自分が宮殿の主人である樣な積りで呼鈴よびりんを鳴らさうと手を差し延べて見たが其樣な物はない、ハテナと思ツて探る中に段々と正氣に還り、何だか今までの事が何處からと云ふ境目は分らぬけれど夢であつたらしく感じた、先づ起き直つて自分の寢床を見た、多分は盡善盡美じんぜんじんびとも云ふ樣な柔かい寢臺である可きだのに、爾でない、乾た枯草を澤山に積んで、其上にフワリと寢てゐるのだ、枯草に天然のかんばしい匂があつて、其れが恰も室中に香水を吹いて有る樣な感じを與へて居た、全く狐にばかされた人が初めて我に歸つたと同じ事である。

其れでも猶此覺めたのが却つて眞の夢ではないかと、此樣に疑つて立上つた、爾して室中を歩み廻つて見ると室はいはの穴で有る、穴ではあるが、今云ふ枯草の外に敷物もなければ、壁もない、壁は天然のいはの儘で、昨夜塗込んであつた金銀珠玉は何處へ行つた、贅澤な裝飾、贅澤な噐具一切が影も形もない、餘り怪しいから安雄はあたかも拍子拔のした物の樣に打笑ツた。

其れから猶も穴の四方をあらためて見ると其一方が入口、即ち出口の樣に成ツてゐる、茲を歩み出て、外を見ると海岸で有る、海には自分の乘つて來た船が有ツて、其左右には白い女浪男浪が寄せては又還して居る、をかには自分の舟の船頭や水夫が、確に見覺えの有る其顏々を集めて朝飯をたべて居る。

全く狐にばかされたらしい、けれど其れにしても合點が行かぬ所が有る、「ハテな、何處迄が眞事まことで有ツて、何處からが夢だらう」と後へ後へと考へ直して見ると、ハツチスと云ふ靈草の液を呑んだ迄が誠で、其後が夢だらう、彼の靈液と云ふのが、兼て聞く阿拉比伯のハツチスでは無く、其實阿片の樣な魔草の類では無かツたゞらうか、何でも腦髓に異常の働きを生ずる力が有るには違ひ無い、或は身體までも其毒を受けて居るかも知れぬと思ひ、體操をする樣に先づ手足を動かして見ると、是れは不思議で、いつもより總ての機關が爽かで、確に健康を増した樣な氣がする、力も何だか加はツた心持ちだ、さては毒藥では無かツたのだと、安心して外へ出て見ると、あさひの光りも、空氣の鮮かさも格別に心持が好い、アヽ全く靈液で有ツた、アノ樣なものを、常に持藥の樣に呑んで居れば眞に何の樣な大事業でも出來る事に成るだらうと此樣にさへ感じた。

先づ船頭等の居る所へ歩んで行くと、彼等は安雄の顏を見て笑ツて居る、爾して云ふた「お客樣、今朝ほど巖窟いはやの旦那が、貴方がお目覺になツたら何うか宜しく申して呉れと私共へお言ことづてでした」安雄「エ、巖窟いはやの旦那とは」船頭「船乘新八と名乘る方です、昨夜貴方を饗應した」安雄「オヽ、船乘新八などと、實際に爾う名乘る人間に有つたに違ひ無いのか」船頭「ハイ、其れで其の旦那が仰おつしやりますには、止むを得ず西國すぺいんの方へ行くから、あしからず思召し下される樣に貴方へ申して呉れと、丁寧に — 」安雄「其れは殘念、う少し早く目が覺めれば好かつたのに」悔いたとて今は及ばぬ。

「シタが船頭、其人は何方どつちへ去つた」と安雄は追掛けて問ふた、船頭「何どつちへ、アレ、彼處あすこに未だ其船が見えて居ます、帆を張揚げて居るアノ遊船を御覽なさい」とて沖の方を指示した、成るほど唯の船とは趣の違つて見ゆる一艘が、微風に帆を張つて進んで居る「彼の船に巖窟の主人、船乘新八が乘つて居るのか、今ならば未だ望遠鏡で見れば能く分る、早くおれの望遠鏡を取つて呉れ」勿論銃獵に爲に來たのだから望遠鏡は肩に掛けて居た、其れを船の中に置てある、船頭がかしこみて船に行き、其望遠鏡を取つて來るのを待兼る程に思ひ、受取つて早速彼の船を眺めると、是れは不思議、確に昨夜ゆうべの我を持做もてなした巖窟の主人が、着物もた昨夜の儘で船のともの方に立ち、之れも此こつちを見る積りか、我と同じく望遠鏡を手に持つて此方こつちへ正面に向つて居るのだ、彼の靈藥を呑んだ迄の所は愈々夢では無かツたのだ。

巖窟王 : 八九 鬼小僧

安雄が未だ望遠鏡から目を離さぬ中に、向ふも亦望遠鏡を出して此船の方を見た、爾して分れを惜む印と見えて手巾はんかちを上げて打振つた、安雄は之に答禮しやふか仕まいかと聊か躊躇した。彼の船乘新八と云ふ昨夜の主人が此身に對しての持做もてなし方はまるで狐が人を化かす樣な仕業しわざで、饗應には違ひないけれど、之に向ツて禮など云ふは何だか自分の愚を表する樣な氣持も有る、其れに、萬事向ふの仕た事が、餘り意想外で而も餘り手際が好すぎるから癪に障る樣な氣もして若し出來る事なら反對に向ふを驚かせて復讐も仕て遣り度いと殆ど之ほどの念も動いた。

けれど禮儀作法を以て立つ巴里の紳士が、日頃自慢の禮儀作法に於て、此の素性さへ分らぬ巖窟の主人に後れを取つてはならぬ、斯う思つてやがて自分も手巾はんかちを取り、同じく打振つて答禮を濟ませた。所が今度は向ふの船から、パツと白い煙が上り、爾して引續いてかすかに號砲の音が聞えた、安雄は何の意味とも合點し得なんだのに、船頭が注意した「其れ巖窟の旦那が貴方へ禮砲を放ちました」是れには聊か當惑した、同じ禮砲を以て答へる事は出來ぬのだ。けれど幸ひ獵銃が有るから、直に又之を取り空中に向つて一發放つた、其響が向ふの船まで屆いたか否やは分らぬ又向ふの主人が感心したかた笑ひを催したかそれも分らぬ。

此時船頭等は獵銃で思ひ出した樣に「お客樣今日一日此島で獵暮かりくらしますか」安雄は獸を獲るよりも昨夜の巖窟いはやの中の宮殿をあらためて見たい、「何でも好いから松明の樣なものをこしらへて呉れ」船頭は其意を察して笑ひを催し「ハゝゝ私共も巖窟の話を聞き及んで、幾度松明を以て其の入口を搜したか知れませんが、到底とても分らぬものと斷念あきらめて了ひました」安雄「何でも好い松明をこしらへて呉れ」仲々強い決心である。

船の在る薪の中から燃るのを取り、やがて手頃の松明が出來た、直に安雄は之を以て先刻自分が目を覺した岩の穴に入り、凹んだ所は叩いても見、高い所はすつても見などして、有らん限りの手を盡したが、昨夜の宮殿の入口とも思しき所は一箇所も無い、唯だ腹立しく感ぜられるのは此岩穴の天上も四壁も異樣にくすぶつてゐる一事件で有る、是れは此身と同じく松明を以て茲を詮鑿せんさくした人が幾人も有る證據なのだ、爾して其等の人々が皆失敗した事も分つてゐる。如何とも仕方が無いから絶望して穴を出で、猶も銃を持つて島の其處此處を經廻へめぐツた、けれど何等の合點の行く所も無かツたが、子山羊を二匹射留め獲たから之を船頭に渡し料理せよと命じて置いて、再び前の岩の穴に入り、今度は前よりも亦綿密にあらためた、けれど其の結果、イヤ其の無結果は前と同じ事に歸した。

再び船に歸つて沖を見ると新八の乘つてゐる先刻さつきの船はう、遙に彼方に千鳥の影かと思ふほど小さく見えてゐる、實に驚く可き速力である、望遠鏡を出したとてう屆かぬ、「船頭、船頭、アノ新八とやらは西國すぺいんの方へ行くと云ふた相だけれど船は確に反對の方へ向つてゐるぜ」船頭「それはアノ船に昨夜ゆうべ見た鬼小僧の手下が二人乘つてゐますからそれを伊國いたりやの何處かの海岸へ無事に上陸させて遣る爲でせう」安雄は合點し得ぬ「鬼小僧とは」船頭「オヤ貴方は未だ鬼小僧の名を聞いた事はありませんか、羅馬の附近にゐる山賊のかしらですが」安雄「アゝ爾々、鬼小僧と云ツたなア」船頭「昔から山賊は澤山あツても鬼小僧の樣なのは無いと云ひます」安雄「山賊の手下など助けるのに故々わざ〳〵道寄りをするのか、確に五十里以上の損になるのに」船頭「アノ旦那は人を一人助けるに五十里や百里の道寄りは何とも思ひません、何處までゞも出張して罪人を逃亡させる状は、まるで各國の政府を馬鹿にした樣なものです、其れだから、此地中海の山賊、海賊、密輸入者でアノ旦那を親の樣に崇めぬ者は一人も無いでせう」聞けば聞くほど異樣な人物である、殆ど人傑じんけつと云つても好い、安雄「でも其樣な事をすれば何處かの政府で彼の人を捕縛するだらう」船頭は嘲笑あざわらふ樣に「ヘン捕縛、何處の政府に其樣な力が有りませう、第一等の速力を持つた巡洋艦で追掛けたとてアノ遊船には追附きません、一時間に三里は必ず後れます、其れに彼の旦那が、隱れる積りに成れば誰の家へでも匿まつて貰ふ事が出來るのです」と全く自分が新八の子分にでも成つて居る樣に強く襃める。

爾う迄も勢力の有る人を微々たる我が一人の力で、突留やふと思ふのは、全く無益な仕事であると、安雄は遂に斷念して、元のレグホーンへ歸ツた、爾して幾日の後に豫定の通り羅馬府へ乘込んだが、宿はパストリニ館と云つて兼て泊り附けの家で、茲に既に同行の子爵野西武之助が着いて待受て居る、所が其室が、二階の片隅に在ツて兩人ふたりの合宿するには狹過る感じがある、是を我慢しては巴里紳士の名折れにも爲るのだから、早速館主を呼び、野西子爵の金の威光をも仄めかして、今一室借受け度いと云ひこんだが、館主の返事が意外である。實は東方の或豪族へ二階總體を、貸切つてあるけれど永いおなじみの爲に特別に其の方に乞ひ此の片隅だけを取除けて置いたと云ふのだ、やゝもすれば反對の金の威光で此方こつちを追ひ出し想な見幕である。

巖窟王 : 九〇 猿の樣に身輕く傳ふて

此宿の廣い二階を一人で貸切るとは何處の贅澤家だらうと、安雄は痛く怪しんだ、けれど、知らぬ他人の事を推して問ふは何だか羨ましさの爲の樣で此方こつちの品格にも障るからわざと問ふのを控へて了ツた。

併しナニ、祭禮を見るのは二階の窓から首を出すには限らぬ、それより馬車を借り、市中を練廻ツて自分が祭禮中の人と爲り餘所よその二階から見卸されるのが却つて面白いのだから、馬車さへ借りれば居間の狹い廣いは何うでも好いと、此樣に武之助と相談を仕直して、更に宿の主人あるじを呼び、祭禮の間、馬車を借入れ置く樣に命じた、所が之も失望である、「何うして祭禮中、馬車を借りるには二週間前に言ひ込んで置かねばいけません、今はう差迫ツた事ゆゑ、羅馬中の馬車は悉く約束濟と爲り、唯の一輌でも借得る見込がありません」と云ふのが館主あるじの言葉であツた。

殘念に堪へぬけれど仕方が無い、其れにしても兎に角市中の馬車屋を悉く聞合せて呉れ、費用は幾等でもいとはぬからと、たつ館主あるじに言ひ附けて、と不愉快に其日は暮した、夜に入つて後、館主あるじは再び來て「祭日迄なら幾等でもありますが、當日は何うしても借りられません、破損して平日に用ひられぬ樣な古馬車まで、殘らず借主が附いて居ます」と斷ツた、安雄の方は兼ねて此市の樣子を知つて居るから、無理も無いと諦めたが、武之助は殊に我儘一方に育ツた身だけに、不平の遣り場が無い、と立上つて「安雄君、此樣な館主あるじを相手にしたとて仕方が無い、今夜幸に月も出て居るし、圓劇場ころしうむの古跡でも見て來やうでは無いか」と云ひ、早や室を出さうにした。

圓劇場ころしうむとは、世界中の歴史に存する最も有名な古跡の一で有らう、昔其の建物の中で、何の樣な大竒觀が興行せられたかは茲に説く必要は無い、兎も角も羅馬に遊ぶ人としては此 圓劇場ころしうむの古跡を見ぬ人は無く、見れば其の寫眞を土産として持歸らぬは無い、讀者の多くはしや親しく此古跡を見ぬにしても、寫眞では必ず見たで有らう、今は建物も大部分は雨風にくづれて見る影も無いけれど、其の規模の大なる状で昔何れほど莊麗で有つたかゞ察せらる。

其れはさて置き、武之助の立つに續き安雄も立ち「行かう、併し君、市中を通つて行くか、町の廓外を通つて行くか」武之助「市中は見飽きて居るから、外から行かう、外には色々の古跡も有ると云ふでは無いか」安雄「好からう」とて相談の一決せんとすると見て、館主あるじは驚いて引留め「此夜中に廓外へ出ては大變です、今では誰一人、夜に入つて町の外の道を通る人は有りません」武之助「何で」館主「何でとて貴方は鬼小僧の出沒する事を未だお聞きにな成りませんか」安雄の方は鬼小僧の名に、成ほど主人あるじの留るが合點が行つた、武之助は怪しんで「鬼小僧とは何だ」安雄「君、大膽な追剥だよ、山賊だよ」武之助「大膽とへ何の樣な事をする」館主「旅人を捕へて山のほらへ連れて行き、今より幾時間の中に幾等々々の身請金みうけきんを取寄せよと命ずるのです、其金が出來ねば時間を待つて直に射殺します、其手に罹つた人が幾人あるか知れません」武之助「警察で其れを許して置くのか、まるで無政府の状では無いか」安雄「君は此國の無政府同樣な状を今知つたか」館主あるじは聊か自分の國を辯護する樣に「イヤ警察でも放つて置くと云ふ譯では無いが、何分にも先が巧で手に合はぬのです、一昨年も嚴しく鬼小僧を詮索し、殆ど捕へる許りに追詰めましたが、本體も知れぬ船乘新八とか云ふ者が、救ふて船に載せ、警察の屆かぬ所へ連れて行き、一年も經つて此國へ歸した相です、其頃から此國で最も名高いのは船乘新八と鬼小僧です」船乘新八と云ふ名は安雄の耳に刻印の樣に殘つて居る、問はずに耐へる事が出來ぬ「船乘新八とは何者だ、海賊かへ」館主「何者ですか、私は見た事も有りませんが、人を助けるのが道樂だとか噂されてゐます、海賊などでも勿論無く、何でも東方の何國どこかの王樣が姿を變へて居るのだらうと云ふ人も有ります、けれど全く其素性を知る者は無いのです」

武之助は、話を事實とは聞かぬ、唯だ主人あるじが徒に人を嚇すのだらうと思ひ「毛脛君、館主あるじの親切は親切として、夜の更けぬ中に、サア行かうでは無いか」と云ひ、館主を有るか無しに見做して安雄を引立て茲を出た、爾して市中の馬車を捉へ、わざと廓外から圓劇場ころしうむへ行けと命ずるけれど、館主の恐れが無根で無いと見え、何の御者も皆 戰おのゝいて逃て了ふ、詮方せんかた無く市中を通る事にして馬車には乘つたが、武之助は見掛けに寄らぬ大膽な所の有る氣質と見え、山賊の出る處を通らなんだのを眞實殘念に思つた容子で有ツた。

いよ〳〵圓劇場ころしうむへ着くと馬車の馭者は案内者と變じ、先へ立ツて樣々の事を説き明しつゝ兩人ふたりを導いたが安雄の方は既に七八囘も茲に來た事が有つて、案内の文句は聞飽きてゐる、武之助を案内者に任せて置いて獨り一方のくづれた階段の下に行き、柱の根に腰を掛けてやすんで居た、其うちに近邊きんぺんの寺院から夜の十時を報ずる鐘の音が聞えたが、其れと殆ど同時に何處からか、高貴な卷煙草のくゆる匂ひが傳はつて來た、ては誰か此邊に他の見物が居ると見える、煙草の匂ひは最上等で先の夜モンテ、クリスト島の巖窟いはやの中で馳走に成ツたものにも匹敵する樣に思はれる、何の樣な人だらうと怪しむと共に、フト自分の身を認められずに其人のする事を見て居やうとの氣が起り、くづれた階段の下へ潛り込む樣に見を寄せると、間も無く煙草のぬし二間けん許り先の方へ立現はれた。丁度壁の影に成つて其顏は見えぬけれど姿は一廉ひとかどの紳士らしい。爾して容子は誰か人を待つていである、美人と忍び逢ふ約束でも有るのかと、詰らぬ想像の浮ぶ所へ、高い壁の窓を猿の樣に身輕く傳ふて此紳士の足許あしもとへ降り立つた者がある、美人では無い是も男だ、此男餘り高く無い聲で「伯爵、お待たせ申して濟みません」伯爵と云はれた人「オヽ鬼小僧か、ナニおれも今茲へ來た許りだ」安雄は動悸が高や打つた、窓から來たのが鬼小僧なのだ、けれど是よりも猶驚く可きは紳士の聲である、確にモンテ、クリスト島の彼の巖窟の主人の聲と聞取られる。

巖窟王 : 九一 正直者か

話のみ聞いてゐた鬼小僧が、今目の前に現はれて、而も彼の怪しむ可き巖窟の主人と會合するとは實に思ひ設けぬ所である、尤も巖窟の主人船乘新が鬼小僧を救ふた事も先刻聞いた、其外に此人が、道樂の如く樣々の罪人を助ける事も亦聞いてゐる、今まで其等の唯だ人の噂に止まる事とのみ思つてゐたが今面前に此の會合を見ては、噂のみでは無いと分る。

安雄は全く息を殺し、兩人ふたりの言葉に耳を傾けてゐた、鬼小僧は猶も詫の樣に「伯爵、もつと早く來るべきでしたが、別甫べつほに逢ふのが手間取りまして」何の爲に伯爵と云ふかは分らぬけれど、伯爵と云はれて別に自ら怪しみもせず、當然の尊稱を受る樣な語調で「別甫べつほとは誰だ」と問返した。此聲で愈此伯爵が巖窟の主人と同人らしく思はれる、鬼小僧「アノ私の手下日比野が捕はれてゐる牢屋へ政府から附けてある牢番です」伯爵「フム政府の牢番と懇意にするなどゝは、其方そちも仲々能く手を廻はしてゐると見えるな」鬼小僧「ハイ牢番と懇意にして置くは何よりも大事ですよ、何時私自身が捕はれぬとも限りません、獅子が網に罹ツたのを、鼠が其の結び目を食ひ破つて遣つたと云ふ話もあるぢやありませんか、私も他日必ず別甫べつほの樣な小鼠に網の結び目を噛んで貰ひ度い時が來ませう」暗に自分を獅子に比べてゐるのは流石に山賊の巨魁である、伯爵「別甫べつほに逢つて其れから何うした」鬼小僧「愈々日比野が助からぬ事を聞きました、明後日の午後二時、戒食節かあにばるの祭が初まる前に、血祭として死刑に處せられる者が二人あります、伯爵、其一人が日比野ですよ」伯爵は更に驚く容子も無く「爾して今一人は、矢張り其方の手下であるのか」鬼小僧「イヽエ、是は何處かの寺の小使だ相ですが、非常な惡人です、自分の捨子であつて寺の長老に拾ひ上げられ、まるで子の樣に育て上げられたのに、其恩を忘れて少しの事から其の長老を叩き殺したと云ふのです、其れだから此奴は死刑の中で最も重い寸斷の刑に處せられるのです」

寸斷の刑と聞いて安雄は思はず身を震はせた、寸斷と云へば嬲り殺しである、今以て伊國いたりやに此刑のある事は知つてゐるが、其實行せられるのを聞いた事はない、伯爵「成る程其れは甚い惡人だ、親同樣の恩人、而も僧侶を殺すとは寸斷が適當だらう、日比野も其樣な惡人では無いのか」鬼小僧は力を込め「何うして日比野は大膽な男では有りますが、人を殺した事は無いのです、其れだから單に首を切られる丈で寸斷の刑では無いのです、けれど伯爵、寸斷では無いにしても命を取られるのは同じ事です、日比野の樣な者の命を取るとは、餘り甚過ます、何うしても私は彼を助けます」

伯爵は暫し考へて「何うして助ける」鬼小僧「手下の亂暴な奴二十人ほどを集め、短劍を拔揃へて死刑の場所へ躍り込み、役人を殺して置いて日比野をさらツて逃げるのです、此樣な事をすれば幾等 活智いくぢの無い政府でも嚴しく私共を追詰るに極ツて居ますから、其時は又何うか貴方の船へ匿まつて戴き度いと、其れで今夜は其お願ひに御面會を願ツたのです」伯爵は一も二も無く「其れはかん、死刑を行ふ役人は、唯だ職を守ると云ふ丈だから、其れを殺すと云ふ亂暴な企てにはおれくみする事は出來ぬ、能く貴樣は心得て居て呉れ、此の船乘新八は、人を助ける企てには加膽するが、殺す可き人で無い者を殺す樣な企てには決して力を貸さぬのだから」

斷然と言ひ切ツた、安雄は是れを聞いて聊か感心した、此人は唯だ道樂に罪人を助けるのでは無く、助け可き者と助け可からざる者との間に多少は差別を立てゝ居る事も分る、其れに自分で此の船乘新八と言ふ所を見れば、此人が彼の巖窟の主人である事は最早や一點の疑ひも無いのだ、其れが彼の伯爵と言はれるのは、アヽ此の山賊等が恩に感ずる餘り勝手に附けた尊稱だらう、鬼小僧は暫し當惑のていで有ツたが「でも私は手下を見殺しにする事は決して出來ません」伯爵「ナニ見殺しにするには及ばぬ、愈助ける可き奴ならば、おれが助けて遣る」と、全く生殺與奪の權を自分の隨意にする事が出來るかの樣な語調である、爾して更に「ドレ日比野と言ふ奴は、平生何の樣な仕事をして居る、一應 おれに話して見ろ」鬼小僧「正直な男ですから平生私が山塞さんさいの門番をさせたり、大切な使ひなどに出すのです、腕力は強い手下は幾等も有りますが、腕力の上に心の正直を兼ねた手下は容易に得られません」正直との一語は伯爵の心を決せしめた「フム正直者か、ではおれが助けてやる」鬼小僧「貴方が受合つて下されば、う助かツたも同じ事です、今からお禮を申して置きます、ですが伯爵、既に死刑とまで極ツた者を、何うして貴方は助けますか」と感心に堪へぬ樣な聲を以て問返した。

巖窟王 : 九二 初めて怪物の顏を

「ではおれが助けて遣る」と、事も無げに受合ふ此「伯爵」の言葉には、隱れて聞く安雄も驚かぬ譯に行かぬ、眞に何うして其樣な罪人を助ける事が出來るだらう。

伯爵は鬼小僧の問ひに答へ、「ナニ、今ならば助ける見込が有るのだよ、丁度法王の政府から、おれに莫大な寄附を勸めてゐる時だから、おれが日比野の命と替事かへごとに仕やうと云へば多分は承諾するだらう、法王が承諾すれば是ほど確な事は無い」ては此「伯爵」既に法王の朝廷に對してまで少からぬ勢力を以てゐると見える、鬼小僧「分りました、其れでは、矢張り私共は短劍を隱して刑場へ行き、見物人に紛れて待つてゐます、爾して愈刑場へ法王から急使が來て此罪人を放免すると言へば私共は知らん顏で立去りますし、其樣な急使も見えず日比野が首切臺へ引上されたなら、直に一同で跳り出て日比野を救ひます」伯爵「イヤ其れには及ばぬ、當日の朝になればおれの運動が屆いたか、屆かぬか分るのだから」鬼「貴方には分りませうが、私共には」伯爵「イヤお前逹にも分る、おれは祭禮を見る爲に大通りなるロスボリ館の表二階の三窓を借切つて有るのだが愈運動が屆いたなら、直に其の合圖として眞中の窓の幕を赤い十字の附いたのと掛替へて置く、若し運動が屆かねば、三窓とも一樣に黄色い幕を張つて置くから、其れを見て事の成否を知るが好い」鬼「成程其れなら分ります、貴方のお宿の窓ですか」伯爵「ナニおれの宿では無いよ、宿とはズツと離れたロスボリ館だよ」鬼「分りました、ロスボリ館ならば大通の第一等の場所だから直に知れます」

安雄は益々此伯爵の贅澤には驚いた、祭禮の當日に第一等の場所を三窓まで占領するとは、餘ほどの金力と餘ほどの勢力とが無くば出來ぬ事である、伯爵「では是で分れやう、おれは用談の濟んだ後まで佇立たゝずんでゐる暇はないから」鬼小僧「御尤もです、シタが伯爵、此お禮は何とすれば好いでせう、何の樣な難題をでも私へお命じ下さい、假令たとひ百里や千里離れた所からでも、貴方のお差圖が來れば、直に從ひます、う、差圖を送れば差圖通りに運んだものとお思ひ下さつて良いのです」伯爵はと眞面目に「他日必ず其方の此言葉を試驗する時が有らう、其時に成つて驚かぬ樣にせよ」と殆ど命令の樣に言ひ渡した。

是で二人は左右へ分れ去ツた、爾して其の足音が全く消えて了つた頃、丁度武之助が案内者に連れられて此間近くへ下りて來たから、安雄は共々に殘る部分を見物して夜の十二時頃自分の宿へ歸ツたが、歸る道々も唯だ怪しさの忘れられぬのは彼の伯爵である、何れ程の金力と勢力とがあツて、何の樣な事をしてゐるか更に想像が附かぬ、何も詮索する必要も無いけれど何だか詮索して見たい、何だか油斷の出來ぬ事柄の樣に感じられる。

武之助の方は、歸る道も市中に祭禮の準備が出來てゐるのを見て、唯だ馬車の無いのを悔しがり「巴里の紳士が一輛の馬車をも借り得ぬとは、後々までに人に顏向けも出來ぬ不面目では無いか」と言ひ殆ど悲憤慷慨とも言ふ可き程の状である、之が爲に翌日は二人早朝より手を分けて、馬車の借入に奔走したけれど遂に其の目的が屆かぬ、全く車と名の附く物は、悉く約定濟に成つてゐて如何とも仕方が無い、午後の六時頃に及び二人は不愉快に宿へ歸つて來たが、安雄の方は聊か自ら慰める所がある樣に「野西君、此樣な時には考へたとてい智慧が出ないから、少しの間劇場へでも行き氣を變て歸つて來て、爾して又相談を仕やうでは無いか」と言つた、武之助は唯だ腹立たしげに「此樣な無禮な土地で、芝居を見たとて仕方が無い」安雄「イヽヤ僕は、馬車を借得な代かつたりに[注:借得なかつた代りに?]ジー婦人から芝居見物の案内を受て來た」ジー婦人とは曾て此國から巴里へ旅行し大に交際場に歡迎せられ武之助も知り合と爲つてゐる貴婦人である「其案内は僕も一緒にと言ふのかい」安雄「其れは無論さ」ジー夫人の名に對して武之助も漸く行く氣になり仕度も匆々さう〳〵に宿を出た。

何しろ各國の人が入り込んでゐる際だから劇場の繁昌は漕分られぬ程である、此中で第一流の棧敷を占め、ジー婦人と共に見物するは大いに面目を施すに足るのだから、兩人とも暫しは不平をも忘れてゐたが、此夜此場中に、ジー婦人よりも誰よりも、滿場の視線を一身に引き集めた一人があつた、其れは上等中の上等とも言ふ可き棧敷を、唯だ一人で占めて餘念も無く音樂に耳を傾けてゐる一少女である、年は十六か七、でもあらうか、衣服はと地味な色合であるけれど、金目には積れぬほどの寳石が手首や胸の邊に輝いて、爾して其の仕立は確に希臘の貴族又は皇族の着けるのと同じものである、皇族にもせよ、皇族で無いにせよ、斯る少女が唯一人劇場に來るとは餘り例の無い事であるのみならず、その容貌は美しい上に何だか不幸の人とも云ふ樣な悲しげな面影が見ゆるので、誰も此少女を何者かと怪しむのを禁じ得ぬ、勿論安雄も之を怪しむ一人である、彼は怪しさの餘りにジー夫人に聞いた所、夫人も何者か知らぬけれど、毎夜此劇場へ來て同じ所で同じ樣に見物し爾して其棧敷を見ると實は一人で無い樣だ、何だか其の背後うしろの暗い所に、保護者だか供人ともびとだか潛んで居る樣に見える、供人ともびとにしても顏ぐらいは現はし相なものだのに、其現はさぬのが亦怪しさの一つにもなる。

此樣に思ふて猶も見てゐると、一幕も終りと爲り、少女は歸る積りか立上つた、爾すると背後うしろに潛んでゐた怪物も續いて立つた、此時安雄は初めて怪物の顏を見る事が出來た、驚くべ可し此人は、確にモンテ、クリストの巖窟で自分を饗應した主人であり、船乘新八と自稱する人である、即ち昨夜鬼小僧に禮を言はれてゐた「伯爵」であるのだ。

巖窟王 : 九三 明朝の九時を以て

實に、此「伯爵」のする事は、何から何まで普通の人と容子が變ツて居る、巖窟の中に宮殿を造ツたり、圓劇場ころしうむの古跡で山賊に忍び逢ツたり、爾して今夜自分だけ人目に觸れぬ樣に、棧敷の隅に身を隱して音樂を聞いてゐるなど、何の意味だか想像も屆き兼ねる。

其れのみで無く棧敷の全面へ推立てゝ有つた彼の美人は何者だらう、衣服みなりの状では希臘の貴族の姫君としか見えぬけれど、姫君ともある者が、唯一人で男子に連れられてゐるのも怪しい、其れとも此「伯爵」が實は希臘の貴族で有ツて、美人は其娘か知らん、イヤ親子と言ふ程年が違ツてもゐぬ樣だ、何にしても合點の行かぬ事ばかりだから、安雄は益々「伯爵」の素性を突留め度い樣になツた、し突留ると迄には行かずとも幾等か深く探り知り度いと思ひ、ジー夫人と武之助へは少し頭痛がする故先へ歸るとの意を告げて此座を立つた。

今此劇場の出口へ行けば、多分は「伯爵」と姫君の樣な美人とが何方どつちへ歸つて行くのか其れを見る事が出來るだらうと思ふのだ、爾して人を押分けつゝ出口へ行つて見ると兩個ふたりの姿は見えぬ、自分が人を推し分てゐる中に早立去つたものらしい、直に又外へ出ると右にも左にも馬車の音は聞えるけれど、何れを「伯爵」の馬車と當りを附ける便りも無いのだから又其中には何處かで廻り合ふ事も有らうと、餘義無く思ひ直して町に出た。

何方どつちかと言へば安雄は、物事を考へ込む方の性分である、町へ出て月の照つてゐる状を見ると樣々の物思が浮ぶから劇場にゐるよりは月下の漫歩が餘程面白いと思ひブラブラと歩んで居た。其間に最も考へに浮かんだのは、無論伯爵の事と、明日あしたの馬車の算段である、雙方とも思はしい決着に逹せぬから凡そ一時間の餘も漫歩を續けた上、遂に我が宿パットリニ館へ歸つて見ると、武之助の方が先に歸つてゐて「どうだ君、馬車の工夫が附いたのか」と言ふのが第一の問である。「イヤ其の工夫が附けねばこそ、今まで考へながら散歩してゐたのだ」との返辭に對し、武之助は「僕は餘り殘念だから館主あるじを呼んで山々責めて遣ツた、館主あるじも困ツて、ではう一應、何とか奔走して見ませうとて立去つたが、何うせ無益では有らうけれど、う返辭の有る時分だ」と言ふ折しも館主は滿面に笑を浮かべて「第一等の馬車が手に入りましたよ」と言ひつゝ茲へ入つて來た、武之助は「本統か」と跳上り、安雄は「有難い」と胸を撫でた。

武之助「其れ見よ、本統に奔走すれば、出來るでは無いか、車賃を貪る爲に、最後の場合まで無いものと隱して置いたのだらう」と笑談ぜうだん半分に冷かせば、館主は眞氣むきになり「イヽエ、金で借る馬車は全く一臺も無いのです、無賃の馬車だから借る事が出來ました」無賃とは意外である[、]安「何うして無賃の馬車が、ハテ誰かの親切で」館主「ハイ、貴方がたのお困りの事を聞きまして、巖窟島いはやじま伯爵が、其れならおれのを貸て遣らうといはれました、伯爵の馬車なら、並ぶものも無いほど立派です」

巖窟島いはやじま伯爵といふ一語が竒異に安雄の耳に響いた「エ、巖窟島いはやじま伯爵とは誰の事だ」館主「オヤ貴方は未だ巖窟島いはやじま伯爵の名を聞いた事が無いのですか、此二階を借切つてゐる方で、此室だけを貴方がたの爲に空けて下さツたのも矢張り其伯爵ですが」安雄の胸には益々異樣な感じが起きる、勿論その親切は有難いけれど、見ず知らずの人に爾まで恩を受けるのは餘り心持の好く無い所が有る「野西君、君は何と思ふ、爾まで知らぬ人の親切を受ける事は」武之助は唯嬉しさに前後正體無しだ、「吾々巴里の貴族として到る處にそれ位の尊敬を受けるのは當然の事だ」館主あるじは言葉を添へて「イヽエ、伯爵は馬車を三臺お持ちですから、若しやと思ひ私が、餘所事の樣に貴方がたの事を申したのです、何でも人の迷惑と言へば無言だまつ看過みすごす事の出來ぬ、其れは其れは親切な方ですから、では失禮だけれど、何うかおれの馬車を持つて行き、出來る事ならおれの馬車とは言はずにおまへが外から借て來た樣に言ふて貸て上げろと斯う言はれましたが — 」武之助「ソレ見給へ其樣な親切を無にする事が出來るものか」安雄「無にはせぬ、無にはせぬが若し吾々を相當に尊敬するならば、其樣な事を言はずに明白に自分の馬車と名乘つて貸て呉れるが好いではないか、爾して我々へ返禮の道を與へて呉れるが相當では無いか」館主あるじは手を打つて笑ツた「イヤ貴方は皆まで聞かぬから爾う仰有おつしやるのです、伯爵は今申す通り云はれましたが、直ぐに又考へ直し、イヤ其れよりは、おれが同宿の客としてお目に掛り後々の交際をも願ツて其上でお貸申すが却ツて禮儀だらうと言はれました」武之助は笑ツて「紳士、紳士、其れを本統の紳士と言ふのだ、何でも巴里の交際社會などをも曾て蹂躙した事のある紳士に違ひ無いぜ、爾うと分れば吾々の方から名刺を通じて交際を求めぬのは不敬である」言ふ言葉の終るか終らぬに又給使が入つて來た。

爾して一枚の名刺を差し出した、其の表には「伯爵 巖窟島いはやじま友久」とあつて給使の用向は、隣室のよしみに交際を願ひ度いが何時伺へば好からうと問ひ合せの爲である、安雄の胸も全く解けた「成るほど斯うまで作法を守られるなら、吾々から訪問せねば成らぬ」武之助「直に今夜尋ねやうでは無いか、壁一重しか隔てゝ居ぬから」安雄「イヤ幾等隣の室でも早十二時だから明朝九時に此方こちらから伺ひ度いと返辭しやう」

明朝九時を以ていよ〳〵尋ねて見れば何の樣な人だらう、何の樣な面會が濟むだらう。

巖窟王 : 九四 巖窟島伯爵

伯爵 巖窟島いはやじま友久とは、勿論安雄の初めて聞く名であるが「巖窟いはや」と言ひ「島」と言ふ事は、今以て彼の心に掛ツて居る、モンテ、クリストの島と、何だか縁故のある樣にも思はれる、ハテ何の樣な人だらう、明朝の面會は何の樣な事になるだら[う]と、自分ながら怪しいほど待遠い。

夜、夢にも見た所も、總てモンテ、クリスト島に縁を引く此事ばかりである — 船乘新八 — 山賊鬼小僧 — 圓劇場ころしうむ — 日比野の死刑 — 希臘の皇女かとも思はるゝ美人 — など其れから其れと走馬燈籠の樣に現はれて來た、爾して翌朝は[?いつ]もより早く起きた。

起きても猶氣に掛るから、念の爲にと思ひ、館主あるじを呼んで「今朝、血祭に何の樣な死刑が有る」と聞いた、「アヽ死刑ならば既に囘状が廻りました、其寫しを持つて來ませう」と館主あるじは答へて直に一枚の書附を持つて來たが、是れはさきの夜 圓劇場ころしうむで船乘新八と鬼小僧は約束してゐた通りで有る、此死刑に遭ふ一人を果して船乘新八が約束通り救ふ事が出來るだらうかなどゝ、自然に怪しむ色を館主あるじは見て「アヽ此死刑を見たいのですね、之もお氣の毒ながら、今からでは間に合ひません、刑場を見る事の出來る近傍の家の窓は殘らず予約濟に成つてゐますから」安雄は全く見度く無い事は無い、鬼小僧の手下と言ふ日比野なる者が何の樣に助けられるか、船乘新八の勢力が果して既に死刑と極つた人を助け得るほど手廣いのか其邊をも見屆け度いのである「其れでは巖窟島いはやじま伯爵は其邊の窓を若し借て有はせぬのか」館主「オヽ彼の伯爵ですか、彼の方ならば、何事の見物にも必ず第一等の場所を取つて有ります、成るほど伯爵と御一緒に行けば好いのです」

其中に武之助も起き、伯爵を訪問する仕度も出來、又、時も約束の刻限とは爲つた、之より兩ふたり館主あるじに連れられて、伯爵の室には行つたが、館主あるじが戸を叩くと共に、あたかも待設けてゐた樣に直に中から、貴族の家の取次らしい男が戸を開き、二人を應接間に通した、應接間は入口から三つ目の室である、手前の二室は空てゐるが、如何に贅澤な人とはいへ一人の旅寓に斯う幾間も借て置くとは、而も今は何れの宿屋の一室も日頃に十倍するほどの貸料を徴するのに、全く此の巖窟島伯爵といふは、金錢を湯水の樣に振播て居る人に違ひ無い、其れのみならず、三個の室の造作や飾附の立派な事は、唯驚くの外は無く、兩人とも我知らず田舍者の樣に室中を見廻した、やがて案内者は兩人ふたりを應接間に殘して其又奧の室へ退いたが、此時奧の方から「ガズラ」といふ希臘の樂噐をしらべる樣なたへなるかすかに聞えた、安雄は昨夜見た希臘美人の事を、思ひ出し、忽ち耳を澄せたけれど、あひの戸の閉ぢられた爲め其のは聞えぬ事に成つた。

安雄は武之助に向ひ「此樣に贅澤を極めてゐる伯爵といふは何者だらう?」武之助「サア何處かの大金持が素性を隱して旅してゐるのだらう」言ふ中に一方の戸を開き、靜かに歩み入つたのは伯爵である、武之助の方は直に立ツて恭々うや〳〵しく挨拶をもしたが、安雄は餘りの驚きに暫しの間は口をも開き得なかつた、何うだらう此の巖窟島伯爵といふのがモンテ、クリスト島の巖窟いはやの主人なのだ、船乘新八なのだ、巖窟島伯爵とは自分で附けた好い加減の名だらうか、イヤ水夫等が話した通り彼のモンテ、クリスト島を買取ツて、爾して其島から此名を取つて附けたのだらうか、それにしても斯う華美はでやかに暮して、公然伯爵と稱するからは、稱する丈けの資格は有る人に違ひ無い、野西武之助の父次郎の樣に自分一代で爲つた貴族であるかそれとも先祖からの貴族であるか、いづれにしても伯爵は伯爵だらう。

伯爵は武之助の次に安雄の顏を見、驚いた樣に「オヤ」と言ひ掛けたが、安雄がとみに返辭せぬ爲め、ては先夜、モンテ、クリスト島で逢つた事を包んで呉れとの身振だらうと合點したらしい、勿論自分の方へ禮を言はれる可き事柄をば、たつて賓客に思ひ出させるは無作法である、伯爵は其邊の事に心附いたと見え、武之助へ挨拶したのと一樣に安雄へも挨拶して「實は貴方がたが馬車の爲にお困りの事をう少し早く聞けば、直に私から何とか申して出る所でしたのに、館主が昨夜まで少しも其樣な事を私の耳へ入れぬものですから」とて言ひ出の遲かツたを悔む樣に言ふは、何處迄も立派な貴族である。

追々話は三人の間に熟して來た、伯爵は馬車を貸す丈けの親切に止まらず、猶ほ案内する樣な口調で、大通りのロスボリ館の二階も祭禮見物の爲め三窓だけ借りて有りますから二窓だけは何うか貴方がたお二人でお使ひ下さい」と、言つた、大通りの窓を二個ふたつまで占領するのは充分 巴里兒ぱりつこの鼻を高くするに足るのだから、武之助は其點で痛く喜び、又安雄は其窓の眞中へ果して赤い十字の記しある埀幕を掛けて有るや否やを見たいとの心で、同じく喜んで禮を述べ、猶も話を今朝の死刑の事へ向けて行くと、伯爵は又思ひ出した樣に「オヽ其死刑の場所にも、確一窓借受けて置く樣に家扶へ言ひ附けて置きましたが、御一緒に參らうでは有ませんか」

初めて逢ふた間だけれど、早や餘ほど親しい知り合の樣には成ツた、も此の巖窟島伯爵が、昔 泥阜でいふの要塞で滿一四年の長い月日を土牢の中に埋められて居た團友太郎で有ることは、既に讀者の何人にも分つて居る所である、爾して安雄の友武之助は友太郎の一人の婦人を爭ふた彼の次郎の息子であるのだ、此會合は全く偶然に出來た事の樣に見えるけれど、斯う偶然に見える樣に會合する爲め、巖窟島伯爵は何れほど長い苦辛くしんした事だらう。

巖窟王 : 九五 意の如くする積です

此伯爵の、何から何まで行き屆くには唯だ感服の外は無い、安雄と武之助を死刑見物に誘ふたのみならず、猶ほ兩人ふたりに向ひ、姿を變へて祭禮に出るならば樣々の衣裳をも借調へて有るのだから氣に入つたのを選取えりとつて着けられよといひ、次には食堂に案内して朝餐を饗應し、又次には喫煙室にも伴ふた。

其の仕向しむきが一々斷るにも斷り切れぬ樣に、眞情から出て來るのだ、殊に朝餐の料理とても其後の煙草とても、何うして斯う贅澤な品ばかりを取揃へる事が出來たかと怪しまれる許りだから、巴里を出て以來料理の好く無いのに閉口してゐた武之助に取つては取分けて有難く思はれた。

食事の間に安雄は、寸斷の刑といふのが餘り殘酷では無いかと言ひ出した、伯爵は異樣に熱心を現はして「イヽエ殘酷か殘酷で無いかは、刑に在るので無く、人に在るのです、譬へばわづかに一年の懲役でも、之を罪の無い者に施せば非常な殘酷です、寸斷の刑とても非常な惡人に施せば未だ輕過ぎるかも知れません」安雄「でも人の命を取るのが刑罰の頂上です、命を取る上に猶寸斷と言ふ樣な嬲り殺し同樣の事をするとは」伯爵は妙に眼を光らせて、「けれど人生には命を取られるよりも上に猶だ何れほど辛い事が有るか知れません、私などは — 」と言ひ掛けたが忽ち言ひ直して「私などの意見に由れば、首切臺で一思ひに殺されるのは、此世にきた人に取つては殆ど慈悲だと思ひます、人間は何うせ一度は死ぬのですもの、苦痛も無く殺されるなら、何うとでも諦め樣が有るのです、之に反して世の中には何と諦めても諦めの附かぬ程の苦痛が有ります、此樣な苦痛を人に與へた者には、決して唯の死刑では足りません、死刑よりも幾倍も辛い責苦を加へて遣らねば」武之助は傍より「詰まり貴方の主義は、復讎主義ですネ」伯爵は又異樣に武之助の顏を見て「爾です、復讎主義です、目には目を報いよ、齒には齒を報いよです」

是より伯爵は自分の見た各國の刑罰などを話初めたが、話に實の入つた爲か皿の一品をも口には入れぬ、安雄は先の夜彼の巖窟の中の晩餐でも此人が何一品をも食はなんだ事を思ひ出し、何か譯の有る事では有るまいかと怪しんだ、併し伯爵は、恰も一緒にたべて居るかの樣に、ないふふおーくをとを以て、皿の肉を散々に切細裂きりこまさいて居る、肉に向つて、自ら寸斷の刑を施して居るのだ。

最一もひとつ此食事中に安雄が氣の附いたのは、此伯爵が呼鈴よびりんを鳴らすに一度一度、其數と鳴らし方の違ふ事である、爾して其數に應じ又音に應じて、さきの夜に見た彼の舌の無いと言ふ黒奴の給使が其れ〴〵違つた品物を持つて來る、確に鳴らし方が樣々の符牒に成つて居るのだ、安雄は感心して「伯爵、貴方の身には私共の羨ましい事ばかりですが、中にも尤も羨ましいのは、眞に召使ひの者が貴方の意の通りに勤めて行く一事ですよ、成らう事なら私共も此樣に給仕され度いと思ひます」伯爵は微笑して「自分の召使ひをさへ意の如く動かす事が出來ねばとても世間の事を意の如く動かして行く事は出來ぬと言ふのが私の確信です」武之助も感心した樣に「眞に貴方は世間の事を意の如く動かして行くのでせうね」伯爵は重々しい言葉で「ハイ意の如く動かす積りです」

食事の後で伯爵は又呼鈴を異樣に鳴らした、今度は家扶かふとも思はれる五十近い男が現れた、伯爵は之に向ひ「春田路はるたぢさん、衣裳も馬車も、ロスボリ館の窓も差圖通りにしてありますか」春田路はるたぢとは妙な姓であると武之助は感じた、安雄の方は、姓よりも、何だか此男が、先の夜自分の目を隱させて巖窟いはやの中まで手を取つて案内した人では無いかと感じた、春田路は唯だ伯爵の問ひに對し「ハイ」とのみ答へて默禮して退いた。

いよ〳〵三人、刑場を向けて茲を出た、其道で馬車がロスボリ館の前を通つたから、安雄は祕かに其窓を見上げると、三つの中の眞中に赤い十字架の着いた幕が埀れて居る、ては此伯爵が鬼小僧への約束通り、日比野を救ひ得たものと見える、斯う思つて伯爵に向ひ「今こんにちの死刑は確に兩人ふたりですね」と問ふて見た、伯爵は極めて平氣に「昨夜、法王の朝廷の者から聞きましたが其中の一人は赦される樣な話です」いよ〳〵伯爵の勢力は驚く可きものである。

巖窟王 : 九六 辛い修業

やがて一同は刑場のほとりに着いた、茲でも安雄と武之助の驚いたのは、伯爵の贅澤である、全く死刑を見物するのに第一等の場所を借切て有る、眞に此伯爵が何れ程の身代を以て一日何れ程づつ使ツて居るかは、想像も及ばぬ所だ。

此樣な人が若し巴里へでも行つたとしたら全く風の木葉このはを卷く如くに交際場を卷くだらうと、武之助は此樣に思ひ、借切て有る二階に上つて窓の所へ身が落着くや否や伯爵に問ふた、「貴方は巴里へはお出に成りませんか」伯爵は「ハイ今明年の中に必ず行く積りです」武之助は早自分が案内者と爲つて此人を交際場へ手引する名譽を思ひ、と嬉しげに「失禮ながら、私が紹介者に成りますから、何うぞ、何方どちらへも寄らず私の家へお着き成さる樣に願ひます」伯爵に取つては惡く無い請ひと見える、と機嫌好く「必ず爾う致しませう」と答へた、併し安雄の方は武之助とは全く反對で、此樣な贅澤な知り人の來る時に巴里に居ては何の樣な目に遭ふやも知れぬから其時は必ず他國へ避けて居る事に仕やうなどと早取越して思案するは中々用心深い所の有る氣質と見える。

斯る中に時刻は來た、兩人ふたりの囚人は群集の中に引かれて、首切臺の傍に連れ行かれた、先に立つのが日比野で後から引立られて行くが寸斷の刑と宣告されて居る赤鳥と云ふ惡人である、今やいよ〳〵日比野の方が、首切臺に載せられやうとする瞬間に、馬に乘つて法王からの急使が來た、ては是は伯爵の勢力の爲であると安雄は今更の樣に驚いた、群集の者が、何事かと且怪しみ、且は馬のひづめに掛られじと推し合ふて道を開く中を通り急使は刑吏に一通の書面を渡した、刑吏は讀終つて、群集にも聞える樣に『一人は赦される事に成りました』群集は喜びよりも失望の聲で『特赦、特赦』と口々に叫んだ。

日比野の方は自分が許されると知つて居るから、何事も知らぬ顏をして泰然と落着いて居る、赤鳥は飛び附く樣に刑吏に向ひ「一人とは誰です、誰が殺されます、私ですか、私でせう」刑吏は振捨てゝ日比野に向ひ「汝は法王の慈悲を以て許されたのだ」と言ひ渡した、此時の赤鳥の怒りは實に見ものであツた。

「日比野が赦される、其樣な事は有りません、彼は私と一緒に死ぬる筈です、彼を赦すと云ふ事は有りません、私は彼が殺されねば決して死にません」と云ひまなこを光らせ齒を剥出して日比野に飛び掛からうとした、刑吏は左右前後より此赤鳥を取つて押へた、けれど彼の抵抗は凄じい状である、るやら突飛ばすやら眞に獅子奮迅である、何が何でも日比野を捕へて自分と共に死なせねば成らぬと決心して居る。

伯爵は瞬潑またたきもせず見詰めて居たが、殆ど奮慨する樣な語調で、安雄と武之助に向ひ「何うでせう人間の心の險しい事は之で分るでは有りませんか、彼は自分の死を恐れるよりも日比野の助かるのを悔しがるのです、他人が助かると助かるまいと自分の身には何の關係も無いのでは有りませんか、若し之が獸類で有つて御覽なさい、共に屠殺場へ引出されて一方助かると知れば、必ず同類の一匹でも死なずに濟むのを喜びます、しや喜ばぬ迄も、自分と共に死なせ度いなどゝ其れは爲にもがく樣な事は決して有りません、アヽ人は神が自分の身にかたどり充分の愛をめて作つたのだと云ひますのに、同類の苦痛を喜ぶこと此通りです、同類が自分と一緒に死の苦痛を受くれば、其れが爲に自分の死の苦痛が堪へ易い樣に思ふのです、此樣な邪慳な、我の強い生物が又と他に有りませうか、是れが汝隣人を愛せよと言ひ渡された者のする事でせうか」

眞に伯爵は我を忘れた状である、之と同時に二萬以上も有る見物が口々に赤鳥を罵ツた、日比野の方は如才が無い、衆人の眼が、もがく赤鳥に注いで居る間に、密々ひそ〳〵と刑臺を降り早何處へか消えて了ツた、其中に刑吏は赤鳥を押へ附けた、爾して定めの刑に行ツて了ツた。

寸斷の刑は、昔ほど殘酷には行はぬ、第一に咽喉のどぶえを切り、其命を滅ぼした上で其胸を開くのだ、當人に取つては尋常たゞの死刑と、大なる相違は無い、併し見る人に取つては目も當られぬ状で有る、安雄も武之助も愈々いよ〳〵と云ふ場合には、恐ろしさから隱れる樣に首を埀れ、少しも實状の無慘な景状ありさまを見なかつたが、獨り伯爵のみは身動きもせずに、目を張開いて見終つた、併し其辛さは顏を隱した安雄や武之助にも劣らなんだと見えて、前額まへびたひには脂汗が湧き出て居た、何故斯うも伯爵は殘酷な事を見るのが好きで有らう、好きでは無い、自分が此後行はねば成らぬ大なる仕事の爲に、自分の膽力を練つて居るのだ、唯だ膽力を練るが爲に、今までとても何れほど辛い修業を經て來たか分らぬのだ。

此死刑が濟むと間も無く戒食節かあにばるの初まる可き合圖として寺院の鐘が響き渡つた、待に待つた此祭禮は、何の樣に幕が開いて何の樣に終る事やら……。

巖窟王 : 九七 立派な彿國語

羅馬の戒食節かあにばると云へば、既に記した通り全市 こぞつての假裝舞踏である、無禮講である、世界中に是れほどさかんな、是ほど面白い祭禮は又と無い。

赤鳥の刑が終ると共に、又合圖の鐘が鳴ると共に、何處から出ると無く町と云ふ町は悉く馬車と人とで滿ちた、人は悉く異形な打扮いでたちをして、假面を以て其顏を隱して居る、馬車は悉く花や果物や菓子を滿載して居る、さうして摺れ逢ふ毎に、互に菓子などを他の馬車へ投附けるのだ、菓子の雨、果物の雨が到る處に降つて居るので、仰山に云へば天地の竒觀、人間の樂園を目前まのあたりに造り出すのだ、安雄も武之助もいにしへの武士に姿を變へて此中へ交つて居る、伯爵の方はロスボリ館の二階から見物するとて去つた。

安雄も何どつちかと云へば二階から見物する人に成度いが、土曜日から火曜日まで四日續く祭禮の初日だから今日は先づ武之助への附合に馬車の人とは爲つて居る、武之助の方は伯爵から二階を充行あてがはれて居る事などは全く忘れた樣である、町から町へ、馬車を進めて手當り次第に花や果物の投げ合をして居るが、心の中では、斯うする間に必ず大なる艷聞の端緒が開けるだらうと期して居る。

勿論羅馬中の美人は殘らず此祭禮に出て居るのだ、假面を被つて居る爲にいづれがいづれと分らぬけれど、時々は何かの粗そさうに紛らせて互に假めんを落して見える事が有る、武之助は、若しも「之れは」と思ふ美人に逢へば自分の假めんを落す積りで有る、假めんを落して我が素顏を見せさへすれば、恐らく此國の婦女子で其の引力に抵抗する者は有るまいと云ふ程に自信して居る、其れも無理は無い、彼の母の美しい顏を承けて仲々の美男子で有るが上に、巴里では年頃の令孃逹に、五月蠅いほど追廻されて居る、是れは父母の威勢や財産が手傳ふて居るのだけれど爾は思はぬ、巴里に於てさへアノ通りだから此土地では何事も唯だ意の儘だと信じて居る、何でも小説に有る樣な波瀾を起して、巴里へ土産話として持つて歸らねば成らぬと、安雄にも其意を打明けて爾して堅く決心して居るのだ。

多くの馬車の中で、唯武之助と似寄つた道を取つて居るのが有る、是れは此國の古代の農家の子女に打扮いでたつた人が四五人乘つて居るが、必ず美人の一隊に違ひ無い、時々武之助の馬車と離れるけれど次の四辻へ行くと又廻つて來て一緒になる、初めは偶然で有つたけれど、後には武之助の方で、成る可く一緒に成る樣に勉める事と成つたのだから、繁々逢ふのは怪しむに足らぬ、逢ふて向ふの馬車へ花を投込み、又向ふから菓子を此方こなたへ投附けなどした事は幾度いくたびと數が分らぬ、其中に一度である、武之助の投た花束を美人の一人が拾はうとして俯向うつむく拍子に其の假めんが落ちた、粗匆そさうで無く、大方 此方こなたへ其顏を見せる爲で有らうと武之助は合點したが、全く故々わざ〳〵見せる丈の値打の有る顏で有ツた、武之助は其の美しいまなこ、愛らしい口許に全く魂を取られて了ツた。

何でも此美人を、他の女と見違へぬ樣にせねば成らぬと思ひ、能く見分けの附く目標めじるしが有る、其れは此美人が右の肩の邊に赤いリボンを縫附けて居るので有る、此次に又馬車の廻り逢つた時武之助は事に托して自分の假面めんを脱ぎ此美人に素顏を示した、美人は直に索菫すみれの花束を取つて此方こなたへ投付けた、武之助は之を拾ふより早く自分の唇に當て、接吻の意を示して爾して其花を自分お胸のぼたん穴に指して晩まで大事に保存した。

此後は美人と武之助との間に交通が繁くなる許りで有る、或時は幾丁の間離れずに並んで進み、絶え間なく花か果物を取交した事も有る、若し武之助にして、斯くも見知らぬ男子に親しげにする女は尋常者たゞもので無いと云ふ所に氣が附いたならば、却つて用心もする所で有らうが、其樣な事に少しも氣の附かぬのは是非も無い。

此夜、宿へ歸つて後、武之助は安雄に向ひ、斯うまで外國の美人に懇意を求められて其れを無視しては失禮だから、明日は花束の中へふみを忍ばせて贈らねば成らぬと語つた、安雄は一應、めたけれど仲々聞き相も無く、相當の禮を盡さねば其れが爲に國際問題でも起るかの樣に思ひ詰めて居る容子だから、めても無益とつひに其意に任せて置いた。

翌日も武之助の胸には昨日の索菫すみれが附いて居る、花は凋んでも戀は仲々凋まぬのだ、爾して昨日の通り幾度いくたびも美人と以心傳心の交渉が有ツた、其の交渉のいづれかの機會に、兼て用意し居た艷書を花束と共に贈ツたのは無論である。

又夜に入ッて宿に歸ッて後、何處からか武之助の許へ小使らしい男が持つて來たとて一通の手紙が屆いた、武之助は大滿足の面持で、自慢たら〴〵安雄に開き示した、其の文句は左の如しである。

何事も父母の許しを得ねば成らぬ私に忍び逢へよとは御無理に候、去れど無禮なる目的は露ほども無しとの御言葉に從ひ、明後火曜日の夜七時にポンテシノ寺の庭にて御目に斯かる可く候、成る可く人違ひなどを防ぐ爲め貴方は左の肩に赤いリボンを附け、蝋燭を以て寺の門の石段の上に御立ち成さるべく候、御存じの通り、火曜日の夜は祭禮の終る時にて、何人も蝋燭を持ち互に消し合する事に候へば其時農女の服を着けた私が貴方の蝋燭を消しに參り候ゆゑ、無言にて寺の庭の人無き所まで私の後に附き御出下さるべく候、尤も馬車の用意も致し置き候、お心の變らぬと、人に悟られぬを專一に願候。

手蹟も仲々見事で、言葉は立派な彿國語である、充分教育の有る女とは是で分かる。

巖窟王 : 九八 何處に隱れて了つたか

寺の庭で忍び逢ふとは、如何にも小説にも有り相な話である、武之助の滿足は譬へ樣がない、彼は安雄に向ひ幾度いくたびも繰返して「エ、君、餘ほど教育の有る女だぜ、僕は確に之を令孃だと斷言する、筆蹟と文章の美しい事を見て呉れ給へ」と云つた。

教育の有る令孃が、果して見ず知らずの紳士と、わづかに祭禮に花の投合をした位で、又 わづか其の紳士から艷書を受取つた位で、此樣な返辭を寄越し、此樣に寺の庭で密會しやうなどと云ふだらうか、用心深い安雄の方は何だか不安心に思ひ「僕が若し君ならば、此手紙を受取つた丈けで、既に土産話の種が出來たのだから、此上の深入りはせぬ所だ、何事も切揚が肝腎だから、茲で君が切上げて見給へ、何れほど話しが美しくて且奧ゆかしいか知れん、其女は何の樣な女だツたらう、もし寺の庭で愈々其の密會を遂げたなら何の樣な事に成る所だつたらうと、後々までも聞く人が殘念がるから何時迄經つても話の興が盡きぬと云ふものでは無いか」理を盡しした忠告だけれど、武之助は唯邪魔の樣に思ふのみだ、「僕は決して土産話の爲に此樣な事をするのでは無い、熱心だよ、事に依ると此土地に半年以上も留まる事になるかも知れぬ、爾して國へ歸る時には多分 う獨身の男子で無いだらうと思ふ」早や此女と婚禮までする積りと爲つて居るらしい、安雄「併し君、知らぬ他國で知らぬ婦人と密會する危險をも考へ給へ」武之助「彼の女が僕と密會するのを危險と感ぜぬのに僕の方で危險と思ふて濟むものか」殆ど手も附けられぬとは此事である。

「併し君、火曜日の夜は僕も一緒にブラシヤノ侯爵の夜會へ案内を受けて居るぜ、此方が先約だから」と安雄は猶も引留に掛つた、是が友人の親切と云ふものだらう、武之助「先約だつて夜會は翌朝の四時頃まで續くでは無いか、其れ迄には密會を濟せて出席する事が出來やう、若し出來ずとも仕方が無い、後で何うとも詫をする、ナニ決して君に迷惑を掛ける樣な事はせぬから、是ばかりは僕の隨意に任せて置いてくれ給へ」最う如何とも止め樣が無い。

翌日も翌々日も祭禮は一入ひとしほさかんに引續いたけれど武之助は最う馬車には乘らぬ、巖窟島伯爵から許されたロスボリ館の窓に寄り胸に猶も凋んだ索菫すみれの花を插して唯だ見物するのみで有ツた[、] 女の方も何うしたか姿を見せぬ。

愈火曜日の夕方とはなツた、間も無く祭禮が終るので花火を揚げれば競馬も有る、眞に四日の間、層々と重なツて來た波が茲でくづれると云ふ状である、人氣の立つて居る景状ありさまが唯だ凄じい、武之助は手紙で差圖せられた通りに肩へ赤いリボンを、目立つほど長く着けてポンテシノの邊に進んだ、爾して花火も濟み、競馬も終るや、モツコレトと稱する蝋燭を賣る聲が、町の隅々に響き渡ツた、武之助は直に之を買取ツて燭火行列の中に入つたが、行列は全く一種の戰爭で有ツた、互に自分の燭火を保存して他人の燭火を消さうとするのだ、是が愈祭禮の終結おはりだから、安雄も之に加はツたが、併し自分の爲よりは寧ろ武之助のする事を見張ツて居る爲である。

武之助は體操にも武術にも熟逹した男だから誰が來ても、巧に外して決して自分の燈火ともしびを消されぬ、又人の燈火ともしびを消すと云ふ事もせぬ、是より外に大事の目的を持つて居るのだ、群集の中を推分け、漸く寺の門まで行き、約束の通り石段の上に立つたのは、最う祭禮終結の時間と爲る間際である、安雄の方は此時、半町ほども振離されながら油斷なく武之助を見て居た。

石段の上に立つや否や武之助は「我れ茲に在り」と云ふ合圖の如く燈火ともしびを高く指上げた、するとあたかも此合圖を待つて居た樣に何處からか女が馳せ寄ツた、衣服は一昨日をとゝひ見た通りで有る、爾して女は直に武之助の手に縋り燈火ともしびを消し、其儘手を引くのか引かれるのか安雄の目の屆かぬ寺の庭の奧の方へ共々に一塊りの樣になツて立ち去ツた、丁度此時、芝居の幕が下る樣に、祭禮終結の鐘が鳴つた、此祭禮の一つの不思議は秩序正しくて一同が能く時を守るに在る、鐘のと共に町々に滿ちて居る幾千萬の燈火ともしびが一時に消えた、丁度 宵暗よひやみの時であるが爲に羅馬の全市は全くのやみと爲つた、誠に戒食節かあにばるの終る瞬間ほど物凄い變化は無いと、多くの旅人が其の旅行記に書いてあるが、全く其通りである、勿論通斯樣な譯であるから、彼の武之助の姿とても何處へ隱れて了ツたか尋ねるよしも無いのだ。

巖窟王 : 九九 山賊の陷穽

今が今まで晝をも欺く程で有ツた羅馬の全市が黒暗々の巷とは爲ツた、耳に聞ゆるは、八方に散じ去る馬車の音と人の足音である。

安雄は暫したゝずんで居たけれど、武之助の行方を突留ることも出來ぬから、間も無く氣拔けした状で宿に歸ツた、歸れば直にブラシヤノ侯爵の宴會に行かねば成らぬ、けれど武之助と一緒に案内を受けて居るのだから、彼の歸る迄は待ツて居やうと思ひ、先馬車の用意などさせて置いて、十一時まで待つた、けれど武之助は未だ歸らぬ、何と無く氣遣はしく思ふけれど此上に待つて居ることは出來ぬのだから、宿の主人に向ひ、若し武之助の便りが分れば直に使ひを以て知らせて呉れと頼んで置いて宿を出た。

やがてブラシヤノ侯爵の家へ着くと、勿論他の來客は既に揃つて居ていづれも安雄の遲刻を責め、且は武之助の共に來ぬを怪しんだ、安雄は詮方せんかた無しに先侯爵に向ひ、詫る樣に、今夜武之助の未だ歸館せぬ次第を語つた、侯爵は勿論の事、傍に聞いて居る客一同 いづれも心配氣に顏色を變て驚いたから、ては彼のポンテシノの寺の庭の密會にそれほど危險な意味が有るのだらうかと怪しみ「併し何で貴方がたは其れほど心配を感じますか」と問ひ返した、誰も直接には返辭せぬ、或人は「イヤ此節は此羅馬市街が非常に物騷で、夜は男子でさへ獨行するを見合す程ですから」と云ひ、又或人は「やみの夜にタイバア河のほとりへ行く事は何時の世とても餘り安全な事では有りません」と云つた、曖昧な言葉の中に多分は何か特別な危險の意をほのめかせて居るのだらうと思ふけれど能くは察する事が出來ぬ、或は追剥の事をでも云ふのかしらん、唯だ是位に解釋した。

いづれにしても人々の斯うまで云ふは決して尋常たゞでは無い、今からでも、何うか武之助を尋ねる工風は有るまいかと、安雄が獨りひそかに氣を揉む折しも、主人侯爵は下僕しもべの者から何事をか聞取つて安雄の傍に來り「只今貴方のお宿から使ひの者が來た相です」安雄は直ぐに「武之助の事に就てでせうね」と問ひ返した、侯爵「爾です、野西子爵から貴方へ宛た、至急の手紙を誰だか持つて貴方の宿を來て居るから直ぐにお歸り下さいと云ふのです」武之助から至急の手紙とは愈々以て尋常たゞごとで無い、安雄は胸を躍らせつゝ「いづれにしても異樣です[、]兎に角私は失禮ですけれど歸つて來ます」侯爵「私も遺憾ながら其れに贊成します」

安雄は直ぐに茲を立出で、宿から來た使の者をも自分の馬車の背後うしろへ乘らせ、急いで宿の前まえ歸つて見ると人通りの全く絶えた暗い往來に、一人の男が帽子を目深に被つて立つて居る、背後うしろに居る使の者は安雄に向ひ「彼が野西子爵からの使だといふのです、至急の手紙を持つて居ます」安雄は馬車を留めさせた、薄氣味が惡いけれど、降りて其男の傍に行き「お前は野西子爵の使者つかひか」男は無愛想極まる聲で「先づ私に問はせて下さい、貴方は誰です」安雄「おれは男爵毛脛安雄だ」男「アヽ貴方が毛脛男爵ですか、其れなら私は野西子爵からの使です、是を御覽下さい」とて差し出すは手紙である、安雄「お前は直ぐ返事を持つて行くのか」男「爾です」安雄「では二階へ上り、おれの室まで來い」男は窓の明りを恐れる樣に逡巡しりごみして「イヽエ、私は茲で待ちます」

安雄は自分の室へ馳昇つて、其の手紙を開いて見た、餘ほど急いで書いたものと見え鉛筆がみだれて居るけれど武之助が自身でしたゝめたものたるは明白である、其の文句は、

「安雄君、僕の紙入に二千四五百圓の金は未だ殘つて居る筈なり、何とぞ、其金に君の持合せを加へ、總額四千圓として此使に渡して呉れ給へ、僕の一命は全く其金に繋がれり、君よ僕は今、初めて羅馬に山賊の有る事を知れり」とある。

全く武之助は山賊の陷穽おとしあなに罹つたのだ、彼の密會が山賊の陷穽おとしあなで有ツたのだ、爾して此の四千圓と云ふは、山賊が武之助に言渡した身請の金で有るのだ、右の文句の次に、猶ほ左の如く追記して有る、是れは武之助が書いたのでは無く、山賊が書いたもので、一種の奧書ともいふべきものだ。

「明朝の六時迄に、前記四千圓の金を確に餘の手に納めずば、子爵野西武之助君は此世に無き人と爲るべし、鬼小僧 しるす

是れが鬼小僧の大膽な手段で有る、安雄は震ひ上る程に感じたけれど、手紙の差圖に從ふより外は無い、直に武之助の箪笥を開き其中から一切の金子きんすを取出して之を自分の有金と合せて計算して見るに三千五百餘圓にしか逹せぬ、明日になれば殘る五百圓の都合は何うにでも附くけれど、今は夜も既に十二時だから、如何とも仕方が無い、安雄は暫し考へて、忽ち思ひ出したのは又も巖窟島伯爵の事である。

巖窟王 : 一〇〇 捕はれて居るのは何處

全く巖窟島伯爵に頼るより外に無い場合である、安雄は直に宿の主人を呼び、伯爵の猶だ起きて居らるゝや否やを問ひ、若し起きて居らるゝなら直に面會の出來る樣 はからひ呉れとの旨を頼んだ、主人あるじは心得て退いたが間も無く歸ツて來て「伯爵がお待です」と傳へた、安雄はたゞちに武之助からの手紙を卷き、之を持つて主人あるじの後にいて行ツた。

いつも伯爵に逢ふ室とは違ひ、安雄に取つては初めての一室である、見れば茲が書齋だと見え、其の眞中に伯爵が坐し、硝燈らんぷの下に一心不亂の状で何か調べて居る、安雄は聊か驚いた、今まで此伯爵をば、贅澤の外に餘り藝の無い一種遊惰の金滿家たるに過ぎぬ樣にも思ツたが、此夜更まで獨り調べ物に從事して居るとは、遊惰の裏面に又非常な勤勉を包んで居ると見える、其れにしても何を調べて居たのだらうと、見ぬ振でのぞいて見ると、綿密な巴里の地圖である、自分で製圖したのか人に作らせたのか兎に角出版に爲つて居るものでは無い、猶ほ能く氣を附けると、四方の壁に隙間も無いほど同じ樣な綿密な地圖が掛つて居てしかも餘ほど能く調べたものと見え、所々に朱や其外の繪の具を以て種々の記號を書入れてある、大將や大軍師の敵國を攻める作戰計畫にも斯うまで綿密な注意は出來ぬで有らう、此樣に安雄が感心する状を伯爵は見て笑ひを帶び「商賣でも事業でも眞に遺漏無く手段を盡さうと思へば、何うしても地圖の調が肝腎です」と、あたかも其身が商賣の爲に地圖を調べて居るかの如くに言ひした、此辨解らしい言葉が果して事實で有るや否やは今安雄が想像し得る所で無い。

安雄は人の事よりも自分の用事に歸り「夜更けに斯く拜眉はいびを願ひましたのは、野西武之助が非常な災難に逢ひましたので — 尤も自分で招いた樣なものでは有りますけれど」伯爵は驚いて「エヽ野西子爵が災難、とは何の樣な」安雄「鬼小僧と云ふ山賊に捕はれて今甚い目に逢つて居る容子ですから」と云ひつゝ彼の手紙を出して示した、伯爵は無言で讀終り「成る程、鬼小僧は甚い事をする、四千圓の身請を寄越せと云[ふ]のですね、失禮ですが今其れ丈のお持合せがお有りですか[、] 若し無くば — 」と極めて安雄の言ひ出し易い樣に道を開くは、何處まで親切な人か分らぬ、安雄「有る事は有りますが、五百圓ほど足りませぬので」伯爵は皆まで言はさぬ、直ぐに傍らの抽斗を拔き取ツて「サア此内から御入用だけお持ち下さい」とて、差し出した、中には金貨と銀行劵が數の知れぬほど詰まツて居る、爾して猶も言葉を繼ぎ「此樣な場合に、貴方が第一に私へ御相談下さらずば、私は遺憾に堪へません」安雄「無論、誰の所へも行かず、第一に貴方の所へ參ツたのです、併し伯爵、私は金錢の助力を請ふ爲では無く、貴方が交渉して下されば、身請金みうけきんを出さずに事が濟みはせぬかと思ひましや故」伯爵は何の意味かと訝る樣に、無言で安雄の顏を眺めた。

直に安雄は「イヤ、鬼小僧は甚く貴方に恩を受けてゐる相ですから、貴方が口を利いて下されば」伯爵は謙遜の樣に「イヽエ私は、人に恩といふ程の恩を掛けた事は有りませんが」安雄「ハイ貴方の方では恩とはお思ひになさらずとも、先では深く恩に感じて居るでせう、譬へば過日彼の手下の彼の日比野といふ者を助けてお遣りなさつた件なども」伯爵は驚き怪しんで眉を顰めた「エ[、]私が日比野を助けて遣たなどと、何うして貴方は其樣な事まで御存じです」安雄「何うしてゞも宜しいでは有ませんか、兎に角も知つて居るのですから」伯爵は此祕密を知られたのを、驚きことすれ敢て迷惑に感ずる容子は無い「私は人を助けたからといつて其恩を言ひ立てに其人から報酬を受るに類する所行をするのは餘り好みませぬ、日比野を助けた事なども鬼小僧の頼みに由つた譯ですけれど、自分では成るたけ忘れ度いと思つて居ます、併し野西武之助君を救ふ爲には其樣な事を云つて居られませんから、直ぐに私が其の捕はれて居る所へ出張しませう」安雄「では私も同行します、何か短銃ぴすとるの樣なものを持つて行きませうか」伯爵「イヤ力ちからづくではとても彼に勝つ事は出來ませんから利噐も金錢もりません、併し武之助君が捕はれて居るのは何處ですか、此手紙には有りませんが、ハテな手紙を持つて來た使に聞けば分りますな、使は今、貴方の室にでも居るのですか」安雄「イヽエ、彼は外に居るのを安全と思ふ容子で、此家の前にたゝずんで居るのです」伯爵「では是へ呼上げて問ひませう」と云ひ直ぐに窓を開いてかうべを出し、異樣に口笛を吹鳴らした、兼て定まツてゐる合圖と見え此聲に應じ、暫くして階段を上ツて來た男の顏、能く見れば彼のさきの日死刑臺から降りて去ツた日比野である。

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