読書ざんまいよせい(085)

巖窟王(上 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 八六 心の誓ひ

昔話に聞く龍宮とても此室より以上の事はないだらう、安雄は見惚みとれて恍然うつとりとして居たが、主人の謝辭の樣に「イヤ來客の目を隱して案内すると云ふ事は、此上もない無禮ですが、全く止むを得ざるに出た事は幾重にもお察しを願ひ度いのです、茲は私の隱れ家で、入口の祕密が人に分れば今迄の樣に世間から隱遁してゐる事が出來難くなります、其れに私は一年の中、三百日ほど他へ出て居ますゆゑ、留守の間に自分の隱居所を荒される樣な事があるも辛く、其れや是れやで、此の巖窟いはやの入口は、誰も目を開いて來るのを許さぬと、斯う云ふ事に兼て定めてあるのです、特に貴方の爲に其定めを破る譯にも行きませず、失禮とは知りながら他の人同樣に取扱ひました」何故にさう迄も用心して特に安雄を呼入れたのだらう、其れほど入口の祕密を知られるのが怖ければ招き入れぬが好さ相なものであるのに、併し安雄の心に斯樣な疑ひなど起る暇はない、何しろ多く見た事のない、此龍宮を見る運に廻り合せたのが嬉しい「イヤ目を隱されるは愚、しや手足を縛られても、此樣な仙窟へ招かれるのは榮譽です」

主人は先づ安雄に座を與へて、自分も腰を卸した、安雄は何の上に自分の腰が乘つて居るか殆ど疑はしい程に思ふ、椅子の面が柔かで、何だか空中に浮んでゐる樣な感じがする、主人「斯うお目に掛つて互に話を仕ますのに、何か呼ぶ可き名がなくては、拍子がよくありません、何うか私を呼ぶには新八とお云ひ下さい、私は船乘新八と世間から呼ばれてゐます、貴方を何と呼びませう」敢て本名を聞かうと云ふではない、實の所本名を聞かずとも既に知つてゐるのだらう、安雄はさうとも思はぬから本名まで明かし度くない「イヤ貴方が昔話で有名な船乘新八ならば私も其昔話に在る荒田院あらだゐんと呼ばれませう」主人は全く打解けた調子と爲り「では荒田院あらだゐんさん、不意の事とは別に用意とてもありませんけれど、晩餐を差上げる爲にお招き申した譯ですから、先づ食堂へ御案内致しませう」とて室の左の方へ振向いた、安雄も同じく其方へ振向いて見ると壁の所に絹の埀幕が掛つてゐる、是れが食堂への入口であらう、「何うぞ」と安雄は唯だ簡單に答へ主人に續いて立上つた。

埀幕を開くと短い廊下がある、今の室も此廊下も、組細工もざいくの天上からヴエニスの製と思はれる綺麗な硝燈らんぷが下つてゐて、明るきこと晝の如しである、廊下を通り盡すと愈々食堂である、廣さは三十人も會食する事が出來るだらうか、其眞中に唯數人を圍ませる丈の卓子ていぶるを置いてある。

室中の立派な景状ありさまは、云ふ迄もない、イヤ言ひ樣がない、室の四隅に、名手の彫刻したと思はれる大理石の天使えんじえるの立像があつておの〳〵其手にかごを提げてゐる、爾して其 かごには地中海を中にして幾百方里の國々で特に名産と稱される果實の類が累々と金宇形すゞなりに盛上げて有る、何うして斯うも取集める事が出來るだらう。

前の室と此室と、何方どつちが贅澤の度が優るだらう、此室にゐる間は無論此室の方が優つた樣に思はれる、安をは全く目をこすつて夢ではないかと見廻した、間もなく一人の給仕が現はれた、是れは眞黒な黒奴である、給仕の仕方は驚く可きほど能く心得てゐて殊に主人の目配ばせを言葉よりも能く合點する状は、何うして斯うも仕込んだものかと怪しまれる、安雄は話の端緒がないから、先づ此給仕の事を賞め「何うしてお手に入れましたか珍しい給仕ですねえ、行儀が正しくて、爾して靜かで」主人は微笑して「靜かな筈です、舌を拔いて有るのですもの」安雄「エヽ舌を」安雄は驚かぬ譯に行かぬ。

主人「彼は御覽の通りのヌビア人ですがチウニス國王の後宮へ、庶人の許されてゐる區域よりも近く歩み入つた罰として非常な刑を受けたのです、最初の日、舌を拔き、次の日は手、又次は足と、段々切取つて最後に首を切ると、斯う云ふ慘酷な言ひ渡しで有りましたが、其時私が行合はせ、其事を聞きましたから、餘り慘酷な仕方と思ひ、國王へライフル銃一挺と外に東洋製の鋭利なかたな一個を差し出し彼の命を買取つたのです、其れが丁度、舌を拔かれた翌日で有つた爲め、彼は舌だけを失ツて助かりましたが、外の黒奴と違ひ、彼は國へ歸り度いなどの心は露ほども起しません、何うかして私の船が其國の邊へ近づきますと、彼は恐れに身を震はしてゐるのです、憐れむ可き者では有りますが、私を全く命の親と心得、犬よりも忠實に勤めてゐます、何しろ舌のないのは、使ふに不便な樣では有りますけれど、此方こちらの云ふ言葉は能く聞き分けますから、差し支へはありません、其れに主人が何の樣な祕密を見聞きしましても、他言すると云ふ事が出來ませんから、今では私も傍近く使ふ僕は、舌のない者に限ると云ふ程に思つてゐます」

チウニスの國に舌拔きの刑があるとは兼て聞いてゐる、舌を拔かれて人爲の唖と爲つて生てゐる者のある事も亦聞いてゐる、けれど、其樣な者に接するのは今初めてゞある、暫しがほど安雄は食氣もなくなる程に感じたが、併し天然の空腹に勝つ事は出來ぬ、其れに舌無男の運んで來る物が一として珍味ならざるはなしと云ふ程ゆゑ、間もなく、何事にも構はずに食ひ初めた。

食ふのみでなく、聞き度い事も多少はある。安雄「貴方は其樣にして常に各國を廻つて居ますか」主人「實は心に誓つた事があツて其爲に年中旅から旅へ渡ツて居ます」極めて機嫌能く答へたけれど「心の誓ひ」と云つた時にはまなこの底に凄い樣な光が見えた、安雄「貴方は餘ほどの艱難にお遭ひ成さツたと見えますね」主人はハツと驚いた状で、暫し安雄の顏を見詰めた末「何で其樣にお思ひです」安雄「イヤ、貴方の顏色、貴方の聲、まなこ、物言ひ、爾して貴方の暮し方まで總て一方ひとかたならぬ履歴を表してゐる樣に思はれます」主人は半ば打消す樣に「イヽエ世に私ほど幸福な者はありませんよ、全く氣儘勝手と云ふ言葉を其儘です、行きたい所へ行き、仕度い事をして人間の裁判が間違つてゐると思へば其の被告が山賊でも海賊でも救ひ出して刑罰を逃れさせて遣り、人の知らぬ樣な手段を以て最も確實に善を勸め惡を懲し、云はゞ天にも代ツた積りで正しい裁判を行ツて行くのです、しや貴方にしても、一度ひとたび私の境涯を味はへば再び還ツて人間の社會へ歸り度くないと思ひます、何か人間の社會へ還ツて是非仕遂げ度いと云ふ目的でもなければ — 」安雄「假令たとへば復讐とでも云ふ樣な」主人「エ、エ」復讐との言葉に主人は再び安雄の顏を見詰めた。

巖窟王 : 八七 不老不死の靈液

安雄が問ふ樣に「復讐」の一語を吐いたのは、世に云ふ偶中と云ふものである、深い意味があつて云ふたのではないけれど圖星に當ツた、主人は驚いて安雄の顏を見「何で、復讐などゝ、思ふのです」

安雄「何でとて、見受けた所で、貴方は社會から甚くいぢめられて、社會の或者を酷く恨んでゐる人の樣に見えます、其れだから若しや社會に對して大なる復讐を企てゝ居るのではないかと思ふのです」主人は異樣に打笑ツた「アハヽハ、其れは未だ當りません、私は世の中を憎むのではなく世の中を悟つたのです、大に悟つた哲學者です、併し悟つた丈けの所は多少實行して見たいと思ひますから遠からず彿國の都巴里府へも、出掛けて行きますよ」安雄も以前の問を深くは追窮する必要がない、更に主人の言葉に應じ「勿論巴里の事情は能く御存じでせう」主人「イヽエ初めて行くのですから能くは知りません」

此樣な贅澤な、而も旅行好と自ら云ふ人が、金錢にも時間にも何不足ないのに今まで巴里を知らぬと云ふ筈はなさ相に思はれる、けれど是れも爭ふ可き事柄でないのだから安雄は全く信じた振で「オヤ巴里を能く御存じがないなら、私が御案内しませう、今日こんにちの御馳走に對する恩返しに、爾です、何うか貴方がお出の時に、丁度私が居合せば好いのですが」主人「案内して下さるのは有難いが、或は私は忍びの旅行かも知れません」

話は其れから其れと限りもないが、安雄の腹には限りがある、後から〳〵と黒奴の運んで來る珍味又珍味で、安雄の胃は滿ちて了ツた、安雄「アノ黒奴は名を何と云ひますか」主人「亞黎ありと呼びます」成るほど黒奴には有觸れた名前である、此所へ又黒奴が來て、最早や食事が終ツたので、今度は室の四隅に在る彼の大理石の立像の手から果實のかごを外し、之を以て來て卓子てーぶるの上に置いた。

此食事中に唯だ一つ異樣であツたのは此主人が、唯だ話をする許りで何一品自分の口へ入れなんだ事である、安雄と共にたべてゐる樣に見せ掛てゐても、其實は唯だ箸を弄する許りで、べずに皿を下て了ふのだ、宗教の或派では、復讐を目論む者は決して自分のあだと同じ家の内で一緒に食事をせぬと成つてゐるのだが、或は其樣な爲ではあるまいかと、一時安雄は怪しんだけれど、何も自分の身が此主人の敵とかあだとか云ふ譯はないのだから、直に思ひ直し、其身が此人の既に食事の濟んだ後へ來たのだらう、此人は腹が滿ちいから唯だお客への持もてなしにべる樣な風をしてゐるのだと、斯う思つて自分で疑ひを掻消した。

果實くだものの次に亞黎ありは立派な銀の蓋物を持つて來て之を卓子てーぶるに置いた、其の持つて來る状が外の食ひ物を運んで來る状とはまるで違ふ、あたかも神前に供物を捧げるとでも云ふ樣な恭うや〳〵しさである、安雄は不審に堪へぬ、此蓋物の中に何が入つてゐるのだらう、暫らくして「是は何です」と云ひつゝ其蓋を取つて見た、中には何か、緑色の濃い汁がある、今までに見た事のない飮料である、問ふ樣に主人の顏を見上ると、主人は滿足のていで頬笑んでゐる「ハイ、是れは人間界にないと云つても可い不老不死の靈液です」安雄も笑つて「エ不老不死の」主人「ハイ昔ヂュビター神に供へたと云ふのが是れなのです、東方の或る山に産する草から製したものですが、外には決してないのです」安雄「之を呑むと命が延びますか」主人「イヤ眞逆まさかに命が延びもしないでせうが、併し呑んで見れば如何にも靈液と云ふ事が分ります、凡そ是ほど味の好いものは他に無いでせう、私は常に之を用ひてゐますが、兎に角珍しい強壯の力を以てゐる事は確かです」安雄「最上の強壯劑である爲に靈液と云ふのですか」主人「イヤ身體と精神とを強壯にする許りで無い、心を非常に爽快にするのです、之と云つてたとへる物が有りませんけれど、或人種は阿片を喫します、喫した後で非常な樂しみを覺えると云ひますが、此靈液は、阿片の有害に反對して有效です、阿片は徒に妄想を養ひますが、此靈液は心の確實な働き呼起します、之を呑めば全く陶然として又人間に不如意の事を忘れ、何の樣な大事業でも出來ると云ふ確信が生ずるのです」云ひつゝ主人自ら一匙をすくひ、仰向いておもむろに呑下した、兎に角も毒で無い事は是で分る、物は試しと、安雄も亦一匙をすくつて呑んだ。

成るほど珍味で有る、別に旨いと云ふ味では無いけれど、神妙な香氣があツて心身へ沁みて行く樣な心持と爲り、何ともたとへ樣の無い好き感じが全身へ滿ち渡つて來る「ハテな此の香氣は、成るほど類が有ません、之を製する草の名は何と云ひます」主人「亞拉比亞の言葉で『ハツチス』と云ふのです」安雄「アヽ是れがハツチスですか、如何にも神仙の喰べる靈草だと聞いてはゐました、ハツチスならば全く得難い珍味です」主人「併しう此上には差上げる珍味もありませんから、次の間へ行つて煙草でも呑みませう」

次の間は又此室の次に在るのだ、安雄は主人に從つて入ツた、茲は食堂より狹く一人の居間と云ふ樣に出來てゐる、主人「是を貴方の居間へ供へませう」安雄は室中を見廻したが、其の贅澤に出來て居る事は云ふ迄も無い、殊に目を驚かせるは床に敷詰めた毛皮である、西伯利亞しべりやの熊、喜望峯の赤豹、諾威のーるえいの狐を初め王侯さへも容易に得られぬ樣な皮ばかりを組細工もざいくに切合せて、人をして深い夏草の上を歩む樣な思ひ有らしむるのだ、煙草も各國の最上等が備はつて、琥珀其他の貴重なる煙管パイプまで添へてある、安雄「一たび仙窟に入れば歸るのが厭になります、此次は何處でお目に掛る事が出來ませう」主人「巴里で無ければ、何うせ遠國です、私の多く居るのはカイロ府か、イスパンか、バグダツドの樣な所ですから」安雄「ナニ世界の果でも容易ですよ、何だか私は羽が生へて何處へでも飛んで行かれる樣な氣が致します」主人「アヽ靈液が靜々と效て來るのです、其樣な氣がして、一身の上に、少しも困難な事のない樣に感ずるのが其の效目きゝめです」

全く靈液の效目きゝめか知らん、安雄は次第に、心持が爽かに且つ樂しくなり飄々として、風に乘つて天に昇る樣な思ひと爲り、何時と云ふさかいもなしに又何處と云ふ感じもなしに眠ツて了ひ、全く面白い夢の中の人と爲つた。

知らず明朝、目の醒めた時は、何の樣な境遇に自分の身を見出すだらう。

巖窟王 : 八八 望遠鏡

翌朝目の覺める迄に安雄は樣々の夢を見た、其夢たるやつねに見る夢とは違ひ、眠る前の事から引き續いて自分が此 巖窟いはやの中の宮殿に逗留し、非常な款待を受け、非常な幸福を得た上に、何一つ意の如くならぬはなき世界の大人物にまで出世した景状ありさまであつて、爾して其の感じの少しも夢らしく無く、全く事實の樣に感じた、東洋の話に在る廬生の夢とは多分此樣な夢だらう、粟の飯をかしぐ間に五十年の閲歴を歴々あり〳〵と見て、覺めての後に怪しんだと云ふのだから、全く相似た夢である。

覺めたのは朝の何時頃であるか自分には分らぬが、身邊あたりが薄暗い、別に日も差しては居ぬ、矢張り自分が宮殿の主人である樣な積りで呼鈴よびりんを鳴らさうと手を差し延べて見たが其樣な物はない、ハテナと思ツて探る中に段々と正氣に還り、何だか今までの事が何處からと云ふ境目は分らぬけれど夢であつたらしく感じた、先づ起き直つて自分の寢床を見た、多分は盡善盡美じんぜんじんびとも云ふ樣な柔かい寢臺である可きだのに、爾でない、乾た枯草を澤山に積んで、其上にフワリと寢てゐるのだ、枯草に天然のかんばしい匂があつて、其れが恰も室中に香水を吹いて有る樣な感じを與へて居た、全く狐にばかされた人が初めて我に歸つたと同じ事である。

其れでも猶此覺めたのが却つて眞の夢ではないかと、此樣に疑つて立上つた、爾して室中を歩み廻つて見ると室はいはの穴で有る、穴ではあるが、今云ふ枯草の外に敷物もなければ、壁もない、壁は天然のいはの儘で、昨夜塗込んであつた金銀珠玉は何處へ行つた、贅澤な裝飾、贅澤な噐具一切が影も形もない、餘り怪しいから安雄はあたかも拍子拔のした物の樣に打笑ツた。

其れから猶も穴の四方をあらためて見ると其一方が入口、即ち出口の樣に成ツてゐる、茲を歩み出て、外を見ると海岸で有る、海には自分の乘つて來た船が有ツて、其左右には白い女浪男浪が寄せては又還して居る、をかには自分の舟の船頭や水夫が、確に見覺えの有る其顏々を集めて朝飯をたべて居る。

全く狐にばかされたらしい、けれど其れにしても合點が行かぬ所が有る、「ハテな、何處迄が眞事まことで有ツて、何處からが夢だらう」と後へ後へと考へ直して見ると、ハツチスと云ふ靈草の液を呑んだ迄が誠で、其後が夢だらう、彼の靈液と云ふのが、兼て聞く阿拉比伯のハツチスでは無く、其實阿片の樣な魔草の類では無かツたゞらうか、何でも腦髓に異常の働きを生ずる力が有るには違ひ無い、或は身體までも其毒を受けて居るかも知れぬと思ひ、體操をする樣に先づ手足を動かして見ると、是れは不思議で、いつもより總ての機關が爽かで、確に健康を増した樣な氣がする、力も何だか加はツた心持ちだ、さては毒藥では無かツたのだと、安心して外へ出て見ると、あさひの光りも、空氣の鮮かさも格別に心持が好い、アヽ全く靈液で有ツた、アノ樣なものを、常に持藥の樣に呑んで居れば眞に何の樣な大事業でも出來る事に成るだらうと此樣にさへ感じた。

先づ船頭等の居る所へ歩んで行くと、彼等は安雄の顏を見て笑ツて居る、爾して云ふた「お客樣、今朝ほど巖窟いはやの旦那が、貴方がお目覺になツたら何うか宜しく申して呉れと私共へお言ことづてでした」安雄「エ、巖窟いはやの旦那とは」船頭「船乘新八と名乘る方です、昨夜貴方を饗應した」安雄「オヽ、船乘新八などと、實際に爾う名乘る人間に有つたに違ひ無いのか」船頭「ハイ、其れで其の旦那が仰おつしやりますには、止むを得ず西國すぺいんの方へ行くから、あしからず思召し下される樣に貴方へ申して呉れと、丁寧に — 」安雄「其れは殘念、う少し早く目が覺めれば好かつたのに」悔いたとて今は及ばぬ。

「シタが船頭、其人は何方どつちへ去つた」と安雄は追掛けて問ふた、船頭「何どつちへ、アレ、彼處あすこに未だ其船が見えて居ます、帆を張揚げて居るアノ遊船を御覽なさい」とて沖の方を指示した、成るほど唯の船とは趣の違つて見ゆる一艘が、微風に帆を張つて進んで居る「彼の船に巖窟の主人、船乘新八が乘つて居るのか、今ならば未だ望遠鏡で見れば能く分る、早くおれの望遠鏡を取つて呉れ」勿論銃獵に爲に來たのだから望遠鏡は肩に掛けて居た、其れを船の中に置てある、船頭がかしこみて船に行き、其望遠鏡を取つて來るのを待兼る程に思ひ、受取つて早速彼の船を眺めると、是れは不思議、確に昨夜ゆうべの我を持做もてなした巖窟の主人が、着物もた昨夜の儘で船のともの方に立ち、之れも此こつちを見る積りか、我と同じく望遠鏡を手に持つて此方こつちへ正面に向つて居るのだ、彼の靈藥を呑んだ迄の所は愈々夢では無かツたのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA