◎巌窟王(巖窟王)(上 001)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
——————–
【はじめに】
このファイルは、ソースが存在しているサイトの、html や、テキストそのままを、ルビなど「青空文庫形式」にできるだけ近づけて改編し、また、Unicode 化したものです。
【リソースサイト】
http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/ (現在は。アクセスできない)
【著作権表示】
私訳のテキスト
テキストの配付・再利用は自由です。扱いは プロジェクト杉田玄白 方式に準じます。(中略)
著作権が切れたテキスト
(中略)著作権が切れたテキストは、自由に配布していただいてかまいません。ただし誤植チェックに関してはまだ不十分です
巖窟王(上 その1)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
——————–
2003年 12月 28日 初配布
2004年 10月 11日 34~61章追加
2025年 5月11日 文字コードを Unicode に変更など
ゼファー生
【はじめに】
このファイルは、ソースが存在しているサイトの、html や、テキストそのままを、ルビなど「青空文庫形式」にできるだけ近づけて改編し、また、Unicode 化したものです。
【リソースサイト】
http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/ (現在は。アクセスできない)
【著作権表示】
私訳のテキスト
テキストの配付・再利用は自由です。扱いは プロジェクト杉田玄白 方式に準じます。(中略)
著作権が切れたテキスト
(中略)著作権が切れたテキストは、自由に配布していただいてかまいません。ただし誤植チェックに関してはまだ不十分です
——————–
【テキスト中に現れる記号について】
ルビ
(例)衣嚢
〳〵, 〴〵: 踊り字
複数文字の繰り返しを意味する。
(例)おの〳〵=おのおの。こと〴〵く=ことごとく。
[]:原文にない注記
——————–
巖窟王 : 目次
アレクサンドル・デュマ (Alexandre Dumas, 18021870) 著、黒岩涙香 (18621920) 譯、史外史傳 巖窟王 ーー モンテ・クリスト伯 ーー (Le Comte de MonteCristo, 184445)。
出版社:愛翆書房。上卷:昭和二十三年十一月十日印刷,十一月十五日發行,定價百八十圓。下卷:昭和二十四年三月十日印刷,三月十五日發行,定價二百圓。
史外史傳 巖窟王
アレクサンドル・デュマ 著
黒岩涙香 譯
目次
◎目次
・前置
・上卷 主要人物
一 團友太郎と段倉
二 お露は情婦ではありません許婚です
三 父と子、類は友
四 お露と次郎
五 次郎は青くなつた
六 幾等でも奧の手を
七 筆と紙、筆と紙
八 婚禮の饗宴
九 何時までの分れ
一〇 蛭峰檢事補と米良田禮子
一一 宛名は誰れ
一二 危い處、危い處
一三 人間の日 照らぬ所
一四 梁谷法師
一五 國王陛下へ宛て
一六 出世と云ふ一語
一七 國王の御前
一八 青天の霹靂
一九 天運か天道か
二〇 顏中に黒い頬髭
二一 其顏を此窓から
二二 一種の優形紳士
二三 百日間
二四 監獄巡視
二五 二人の囚人
二六 例の五百萬圓
二七 此外の處分なし
二八 卅四號、廿七號
二九 怨に相當の復讐
三〇 自殺、自殺
三一 例の物音
三二 誰だ、誰だ
三三 穴の向ふと此方とで
三四 其穴から頭を
三五 己は伊國の法師梁谷だ
三六 何の樣な時節
三七 教師と弟子
三八 誰を怨めば好いでせう
三九 脱獄の再擧
四〇 藥を、藥を
四一 恩を返す道
四二 金貨にて凡そ二……
四三 扨て其大金
四四 一枚の白紙
四五 天の口、天の手
四六 第三囘の發病
四七 恐ろしい新思案
四八 袋の中
四九 監獄の墓地
五〇 一天墨の如く
五一 チブレン島
五二 我姿を鏡に寫した
五三 時が來た
五四 モンテ、クリスト島
五五 巖窟
五六 巖窟の祕密
五七 一廉の紳士と爲つて
五八 戀しい消息
五九 印度邊の豪族
六〇 竒癖の人
六一 贈り物
六二 暮内法師
六三 赤い皮の財布
六四 不正直のお蔭
六五 野西子爵
六六 嬉しいだらう
六七 尋常の法師では
六八 イヽエ即金で
六九 其代りにお願が
七〇 其れ程能く見破る事が
七一 森江商會
七二 無論金件です
七三 一艘の帆前船
七四 漏水が初まりました
七五 海の雇人
七六 船乘新八
七七 神さへ見捨てた
七八 一通の手紙を差出した
七九 此の短銃を何う成さる
八〇 一挺は私が用ひます
八一 不思議
八二 天の意
八三 嗚呼無人島
八四 此島に大變な豪い人が
八五 昔話の境遇
八六 心の誓ひ
八七 不老不死の靈液
八八 望遠鏡
八九 鬼小僧
九〇 猿の樣に身輕く傳ふて
九一 正直者か
九二 初めて怪物の顏を
九三 明朝の九時を以て
九四 巖窟島伯爵
九五 意の如くする積です
九六 辛い修業
九七 立派な彿國語
九八 何處に隱れて了つたか
九九 山賊の陷穽
一〇〇 捕はれて居るのは何處
一〇一 土牢と云ふ言葉に
一〇二 サンサバシヤンの山洞
一〇三 伯爵の巴里乘込
一〇四 五月廿一日
一〇五 森江大尉は此人です
一〇六 三個の碧精
一〇七 人を驚かす人
一〇八 金の捨て所
一〇九 嗚呼何の樣な對面
一一〇 戀か恨か
一一一 子爵夫人露子
一一二 窓から誰か
一一三 田舍の別莊
一一四 古い祕密が
一一五 此梯子は人殺しの
一一六 コルシカ人の仇討
一一七 其箱を深く埋め
一一八 美しい男の子
一一九 衣嚢に小犬
一二〇 血の雨
一二一 神の言葉
一二二 鼻でも切つて
一二三 其樣な僅な金高
一二四 美しい栃色
一二五 大手腕
一二六 其んな恐しい毒藥が
一二七 世界の人
一二八 神の法律
一二九 一種の宣告
一三〇 鞆繪
一三一 此財布が忘れられやうか
一三二 柳田卿とは誰
巖窟王 : 前置
世に英雄は多いけれど拿翁の樣な其の出世の花々しい英雄は又と無い。爾して其亡び方の異樣に物凄い英雄も亦と無い。
彼は實に、第十九世紀の首途に花を飾つた人である、第十九世紀と云ふ大舞臺に大活劇の幕を開いたのが彼だ。
彼は千七百六十九年に、殆ど人の振返つて見さへせぬ、地中海の小島に生れて、三十の歳には早や全 彿國を足下に踏まえる大將で有つた、十九世紀の幕の開いた千八百〇一年には、既に議政官の長と爲つて、國王の無い國に國王と同じ身分に爲つて居た。
猛りに猛つた民權論の眞盛りに、革命の眞只中に出て直ぐに其の民權論を蹂躙し、殆ど全國民の生殺與奪の權を一手に握るとは何たる怪物だらう、彼が其國の歴史に例の無い「皇帝」と云ふ尊號を得たのが、彼の卅六歳の年、即ち千八百〇四年で、民權も革命も總て彼の前にお辭宜した、此時に當つてや彼は佛國の皇帝たるのみね無く、全歐洲の王である、殆ど人間の閻魔大王とも爲つて居た。日耳曼も、西班も、阿蘭陀も、墺太利も、皆彼の配下に立ち、北方の強と云ふ可き露西亞までも彼の鼻息の下に慴伏して居た。海を隔てた英國より外には彼の意の儘に成らぬは無かつた、歴史家が此時の彼を指して「空前の大野心の空前の大成功」と云つたのは無理は無い、實に空前のみならず絶後の大成功である。
自分の兄弟三人を、サツサと諸國の王に取立て、尚ほ不足する所は手下の軍人で補つた、亂暴は亂暴であるが「國王製造者」と云ふ無類の異名を得たのは千古の竒觀と云ふ可しだ、全く隨意に國王を製造して居たのだ、大抵の國で野心家の野心と云へば、小さいのは獵官ぐらゐ、大きいとても總理大臣と云ふには過ぎぬ、此人逹に比ぶれば、何たる懸隔、雲泥などゝ云ふ言葉では追着かぬ、兵隊を議場に入れ喇叭の聲で議員の怒聲を埋めて置いて、一蹶して國家の長と爲り、再蹶して皇帝と爲り、三蹶して皇帝の上の皇帝と爲つた。
爾して其の四蹶目が面白い、自分の生れたコルシカ島から遠くも無いエルバ島へ、皇帝と云ふ尊號を持つたまゝ流されて蜑戸の焚く火の侘寢に夢を照される人とは爲つた。
けれど四蹶には終らぬ、五蹶してエルバ島を脱するや備への嚴重なグレノブルの關所を單身で越えんとして番兵の前に立ち「防禦の武噐の無き皇帝を、汝射殺すて功名するは今ぞ」と告げた、膽力天地を呑むとは此事だらう、番兵が彼の膝に、彼の足に、縋り附いたも宜である、佛國全土の民は箪食、壺漿せぬばかりに歡迎したのも宜である、新王 路易十八世が一夜の中に夜逃げしたのも亦 宜である。
是れと云ふのも畢竟は、天が此の逞しい俳優をして大詰の一幕ウヲーターローの敗軍から、英國の軍艦で、セントヘレナの孤島に流さるゝ英雄の末路を演じさせ「私慾より上に脱せざる人には永久の成功無し」と云ふ大なる教訓を遺さんが爲で有つたのであらう、彼は多くの英雄豪傑と同じく、偶然の人間では無い、天意の道具に使はれた特製の圖面である。
茲に説き出す巖窟王の實談は、此の拿翁の話では無い、全く別の人、別の事柄であるけれど、拿翁と少からぬ關係がある、此話の始まるのが、丁度 拿翁がエルバ島を脱した千八百十五年二月廿九日の事で、此實談の主人公が、其島へ立寄つて拿翁に聲を掛けられて來た時からの話である。
而も此人や彼と同じく、亦偶然の人間では無く、天の意を圖解する天の道具かと怪しまれるのだ、拿翁が歴史の表面に活動する間に、此人は暗黒なる裏面に人間界の鬼の樣に働いて居た、爾して其一身の波瀾、其の閲歴と事功との光怪、殆ど拿翁と對す可き程の者で而も人物の天性、醇の醇なることに至つては、彼れ翁輩と比す可きで無い、唯翁は野心的に進み、此人は人情的に進んだ丈けに、翁は知られ、此人は隱れ、翁は輝き、此人は曇り、從つて舞臺も演劇も全く違つて居る、彼の人は雷の如く陽氣にして此人は地震の如く沈痛である。
唯だ發端の話頭、聊か翁がエルバ島を脱する時の事件と關聯する所が有つて、彼を知らねば之を解するの不便なるが爲めに、愈々話に入らうとする前に斯くは記して置くのである。
史外史傳「巖窟王」其の巖窟とてもエルバや、コルシカと同じ地中海の一島で又遠くは離れて居ぬ、舞臺とは、西洋から指して東洋と云ふ土耳古邊より伊國を經て佛國の中心歸して居る、或人は之れを「神侠傳」と云ひ或人は「復讐竒談」と云ひ、譯者は之を「巖窟王」と云ふ、孰れの名も此人の一端を寫したに過ぎぬ、全體を讀終れば適當な概念が自ら讀者の胸に浮ぶであらう。
譯 者 識
巖窟王 : 上卷 主要人物
團友太郎(エドモン・ダンテス)
數竒の運命とたゝかひぬく本篇の主人公。後の巖窟島伯爵(モンテ・クリスト伯)。
お露(メルセデス)
友太郎の許嫁、友太郎の入獄中次郎の妻となる。
次郎(フエルナン)
スペイン村の漁師、後西班牙戰爭の功あつて野西子爵(モルセール子爵)となる。
野西武之助(アルベール・ド・モルセール)
次郎とお露の間に生れた息子、若き子爵。
段倉 喜平次(ダングラール)
森江氏持船巴丸(フアラオン丸)の會計主任。後次郎と共に西班牙戰爭で巨利を博し大銀行家となり男爵を贖ふ。
蛭峰重輔(ヴイルフオール)
野々内彈正の息子で若き檢事補。父とは反對に熱心な王黨の支持者、後の檢事總長。
梁谷法師(フアリヤ法師)
友太郎が獄中にて會える博學多才なイタリヤの司祭。友太郎生涯の恩師であり又恩人。
森江良造(モレル)
マルセーユの船主、友太郎の主人にして又恩人。
森江眞太郎(マクシミリヤン・モレル)
森江氏の長男で陸軍々人。
野々内彈正(ノワルテイエ)
蛭峰の實父にてナポレオン黨の有力な鬪士。
粕場毛太郎次(カドルツス)
友太郎の友人にてマルセーユの仕立屋、後に旅籠屋の主人。
巖窟王 : 一 團友太郎と段倉
拿翁がエルバの島に流されて早十ヶ月ほどを經た千八百十五年二月廿四日である、地中海の東岸から丁度そのエルバ島の附近を經て彿國の港、馬耳塞へ巴丸と云ふ帆前船が入つて來た。
是は此の土地で餘ほどの信用ある森江商店の主人森江氏の持船であるので、波止場に居合す人々が、立つてその近寄る状を見てゐると、既に港の口を入つてゐるのに何故か岸の傍へ來るのが遲い、何か船中に間違があつたに違ひないとの心配が言はず語らず人々の胸に滿ちた。
けれど船其ものに故障が出來たとは見受けられぬ、船は無事に前、中、後、三本の柱に帆を上げ、舳には水先案内の傍に年十九か廿歳ばかりの勇ましい一少年が立つて、殆ど船長かと見ゆる程の熟練を以て介々しく水夫等を差圖してゐる、それだのに何と無く尋常ならぬ所がある。
陸にゐた人々の中、一人は、最早氣遣はしさうに、空しく待つてはゐられぬと云ふ風で手早く岸の小船に飛び乘り、自分で漕いでその傍まで漕付けた、是れは此の巴丸の持主森江氏である、漕付けて上に居る彼の少年に聲を掛け、「マア團君か、何うしたんだ、船中總體が、何だか陰氣に鬱ぎ込んでゐる樣に見えるがーー」團と呼ばれた彼の少年は主人への敬禮に帽子を脱ぎ「オゝ森江さんですか誠に不幸な事が出來ました、船長 呉氏が伊國沖で死なれました」船主森江は「シテ積荷は、積み荷は」團少年「それだけは御安心です、荷物は仔細ありませんけれど傷ましい呉船長は ーー 」森江「誤つて海にでも落ちたのか」團「イイエ急な腦膜炎で死なれました」いひつゝも少年は水夫を顧みて帆の事から錨の事にまで差圖を與ふるは、船長の死んだ爲め自分自身が差圖の役だけは勤めて居ねばならぬ爲であらう、差圖が濟むと又持主の方に向ひ「伊國の港を出るとき船長は港係の長官と長い間熱心に何かお話でしたが、其からといふものは甚く心配の御容子で、間もなく今申す腦膜炎と爲り、三日三夜苦しみ通して終に最期を遂げられました。其 亡骸はギグリヨ島の影へ式の通り水葬しまして、勳章と劍だけを奧さんへ屆ける爲め吾々が持つて來ました、ホンに十年間も英國との戰爭に從事した人だと云ふに惜い事を致しました」森江氏は慰めて「嘆くな友太郎、誰だつて一度は死なねばならぬエゝ年取つた者が死なねば若い者が出世出來ぬ」言葉の中には暗に船長に取立てて遣るとの意が見えて居る。に尤も無理は無い所であるあ。
斯る中ににも此少年團友太郎が水夫を指揮する樣を見るに、規律が能く立つて宛も自分の指を使ふ樣に自在である、森江氏「先荷物に障りが無ければ」團友太郎「ハイ荷物の事は何うか荷物取締の段倉君からお聞下さい、今度の一航海は餘ほど儲かつたと云ふ事ですから」云ひつゝ船舷に繩を卸せば森江氏は水夫も及ばぬほど巧に之を攀ぢ、直に甲板に上つて來た、そして團少年が猶も急がしく指圖してゐる間に茲へ出て來た荷物係の段倉といふ男に對つた。
段倉は團友太郎より年が五六歳も上であらうか眼に油斷の爲らぬ光のあるは何だかゴロ猫の樣に見え、何から何まで團とは大違ひである。團が水夫等に敬はれ愛せられてゐるのと同じ割合に段倉は憎まれ嫌はれてゐる、けれど主人の信用を得てゐることは團と似寄つたものと見える、森江氏「聞けば段倉君、呉船長が死んだ相だが」段倉は目下へ向つて非常に嚴しいと共に上に向つては非常に鄭重だ、先聲から柔げて掛かり「ハイ何うも早お氣の毒に堪へません、森江商店の樣な大信用ある商社の船を管るにはアノ樣な老練な方でなければ」と早團少年が船長に取立てられはせぬかと、主人の顏色を讀取つて嫉ましさに豫防してゐる、豫防と見せずに豫防するのが段倉の段倉たる所である、森江氏「ナニ船を管ることは、友太郎は、慣れたものではないか」といひゝ團少年の方を見返れば、段倉は目に又も羨ましさの光を現はし「ハイ自分では一廉出來る積でゐる樣です、少年と云ふ者は兎角自信に強い者で、船長が亡くなられると直に、誰にも相談せずに、自分が指圖役になつた所などは感心な者ですよ」何だか言葉の中に毒がある、其毒を甘い蜜の樣に聞かせるのだ、森江「勿論友太郎は船長の手助けに乘つてゐるのだから、船長の跡を取敢ず引受けるのがその義務といふもの、誰にも相談する必要はないのぢや」段倉「ハイそれは爾でせうとも、けれど其のお蔭で、エルバ島の所で船を一日後らせて了ひました」
エルバ島とは耳に着く言葉である、不斷なら何でもないが、時が時だけ耳に着くのだ、今に此島から天地も覆へる程の風雲が起りはせぬかと誰も氣にしてゐる所である、果して森江氏が耳を聳てた、「エ、彼のエルバ島で船を一日、何處か船體に損所でも出來て」段倉は得たりと「ナニ損所が出來ますものか、唯自分で上陸して見たいといふ詰らぬ望みの外には何の原因もないのです」是は船主としては聞捨難い所である、船の指圖を引受けた者が自分の慰みに一日の航路を後らせる法は無い、森江氏は友太郎の方に向ひ「團君、團君」と呼び立てた。
團少年は指圖の最中である、振向いて「少しお待ち下さい」といつた儘水先案内に力を合はせ水夫に錨を卸させてゐる、段倉は最う主人の顏色を見て「我事成れり」と思つた樣子で荷倉の方へ引込んだ、其後へ、暫くして團少年は來た「何か御用事ですか」森江氏「用事とて、實はエルバ島へ一日船を着けてゐた仔細を聞き度いのだ」團少年は澱みもせずに「ハイ呉船長の遺言を果す爲でした、船長が死に際に、何だか小包物を私へ渡し、之をエルバ島にゐるベルトラン將軍に渡して呉れといはれました」呉船長は拿翁の下に戰つた人であるから、無論其黨派である、ベルトラン將軍とも何か氣脈を通じてゐたに違ひ無い、斯かる人を船長に雇ふて置く森江氏とても實は心を拿翁の方へ寄せてゐる人だから、此の返事を聞いて忽ち顏が晴渡つた樣である「シテ將軍に逢つたのか」友太郎「逢つて手渡し致しました」森江氏は邊りを見廻はしズツと聲を潛めて「皇帝には拜謁せなんだのか」皇帝とは無論 拿翁の事である、友太郎「ハイ私が將軍と逢つてゐる 其室へ突々と皇帝がお出に成まして」森江氏「其ぢやお前は、皇帝と直々にお話もしたのだな」
巖窟王 : 二 お露は情婦ではありません許婚です
皇帝の事を問ふ其容子、其言葉附で見ると、此の森江氏も確に拿翁黨の一人である、團友太郎は答へた「私からは何もいひませんでしたが、皇帝の方から巴丸の事を熱心にお聞でした、何時 馬港を出たか積荷は何で持主は誰、何處を經て來たなどゝ、ハイ其御容子で見ると若し此船が私の物で爾して荷物を積んで居なかつたらお買上げになる所だつたのかも知れません、森江さん皇帝は貴方の家筋を能く御存じでしたよ、オオ、船主は森江家か、アレは先祖から代々の船主ぢや、其中の一人は朕と一緒の兵營で同じ隊に居た事もあると斯う仰有いました」森江氏は聊か感激して「オオ其れは乃公の伯父の事だよ、團君、序があつたら伯父に皇帝が斯ういつたと話して遣つて呉れ、伯父は何れほど喜ぶか知れぬ」感激はしても用事は忘れぬ、流石事に慣れた事務家である、斯う云つて更に用事に歸り「兎に角船長の遺言を、其儘に果したのは出來した出來した」襃めて又更に氣遣はしげに、一寸と四邊を見廻して聲をも低めて「けれど團君、時節柄だから人に此の樣な事を話しては可ないよ、エルバ島へ立寄つたの、將軍に小包を渡して皇帝にも逢つたのと、若し其筋の耳に入つては何の樣な目に逢ふかも知れぬ」友太郎は物に屈託せぬ少年の常として、平氣である「エルバ島へは誰だつて上陸するでは有ませんか、私は小包の中に何があるか其さへ知らず、唯誰でもする丈の事を仕たに止まりますもの」如何にも其通りである、船長の死際の頼みを果したといふに過ぎぬのだから黨派に關係したのでも無ければ政治上の意味も無い、誰にも咎められぶ可き筈が無いのだけれど、森江氏の此の誡めは、間も無く擋と思ひ當る時があつた。
其れは扨置いて、此の時丁度檢疫官と税關吏が船へ來たので友太郎は急いで其方へ行つたが、後へ直に例の段倉が遣つて來た、彼は何處かで森江氏と友太郎との問答の樣を盜み視、盜み聞いて居たのだらう、例の通りの猫撫聲で「團君は滿足に辨解が出來たと見えますネ」森江氏「オゝ最も滿足に」段倉「其れは結構でした、實に同僚の者が間違つた事をするのは傍で見て居ても心配に堪へませんから」森江氏「何も團は間違つた事をした譯で無い、船長の死際の頼みを果したに止まるのぢや」段倉「でも貴方へも船長からの手紙を團君はお手渡し仕たのでせうネ」森江氏は聊か驚いて「エ船長から乃公への手紙、其樣のものを友太郎が預つて居るのか」段倉「ハイ、彼の小包の外に船長は、貴方への手紙を團君へ」森江氏「待てよ、待てよ、小包とは」段倉「團君がエルバの島へ持つて上つた小包です」森江氏「何うして君が其樣な事を知つて居る」此の問には、人の事を盜み視たり盜み聽いたりする自分の癖を白状せねば成らぬので段倉は少し顏を赤らめたが頓て「實は船長の室の前を通り合すと其戸が少し開いて居まして小包と手紙とを團君へ托する所が偶然に私の目に留まりました」森江氏は少し考へ「孰れにしても未だ團は乃公に其樣な手紙は渡さぬ、是れから直々團少年を問ふてみやう」段倉は遽てゝ「でも何うか團君へ私が告げ口した樣に仰有らぬ樣に願ひます」仲々用心が綿密である、斯いひ置いて段倉は又退いた。
「團君、團君」と森江氏は呼立てた、友太郎は「ヤツと是で一切の事務が終りました、税關吏、檢疫吏への手續も夫々運んで了ひましたから」と云ひつゝ安心の樣で雇主の前へ立た、森江氏「猶だ何か忘れてゐる事が有はせぬか」團「イヽエ、何にも」森江氏「では是れから上陸して乃公の家へ行き家内一同と食事をしよう」友太郎は當惑げに「上陸すれば直に父の許へ行度いと思ひますが」短い言葉の中のも孝心が現はれてゐる、森江氏は感心して、機嫌能く「其れが好い、其れが好い、乃公とても息子がある若しも其息子が長い旅から歸つて來て第一に父を尋ねて呉れぬ樣なら快い氣持は仕まいよ、乃公も實はお前の父が何う暮してゐるか氣に掛らぬでは無いけれど、少しも父は顏を見せぬが、先自分の家に引籠つてゐるのは別に不自由の無い證據だらう」團「イヽエ父は彼の通りの昔氣質ですから、縱しや飢死ぬほどの不自由があつても、外へ出て人に 其状を悟られる事は致しません」森江氏「成るほど其の通りの氣質だから、猶更お前は氣に掛るだらう、早く土産物でも持つて行つて安心させて上げるが好い、金は幾等でも貸して遣るから」團「イヽエ、お金は父の爲と思ひ三月分の給金を手着けずに溜て有ります」森江氏「イヤ本統に、若いのに感心だよ、父に逢つたら其次には乃公の家へ、なア」團は又も當惑げに「折角のお言葉ではありますが其次には」森江氏は餘ほど此少年を愛してゐると見え「オゝ分つた、皆まで云ふな、西班村の別嬪に顏を見せねば成らぬのだらう、前にもお留守の店へ三度ほど何か便りは無いかとて自分で聞きに來た、彼れも仲々感心な娘だよ、お前の留守に心も變らず、綺倆といへばアノ通り十人にも廿人も優れてゐてホンに好い情婦を持つたなア、お前は仕合せ者だよ」笑談に揶揄ふてゐる、友太郎は顏を赤くし「お露は情婦ではありません、許婚です」森江氏は打笑つて「何方でも大抵は同じ事さ」團「イヽエ私とお露との間は違ひます」森江氏「躍起と辨解するが花だ、兎も角も早く上陸して、行くが好い」少年は嬉しさに氣も迫いて「では是でお暇を」森江氏は段倉の言葉を思ひ出した「だが何も乃公に言置く事は無いか」團「何にもありません」森江氏「若しや船長から乃公への手紙でも預かりはせぬか」團「イヽエ何の手紙も」と言切たが更に「オヽ、其言葉で思ひ出しました、私は數日のお暇を頂かねば成りません」何やら手紙を預かつてゐるらしい、但し森江氏へ宛たのでは無いのだらう、森江氏「アヽ數日の暇を取つて婚禮でもするのか」團「ハイ婚禮も致しますが、其他に巴里へまで上京せねば成りません」扨は其手紙を巴里まで持つて行つて屆けるのか知らん、森江氏「其れも好し、巴丸の次の出帆までにはまだ餘ほど間はあるが、しかし三ヶ月の中には歸つて呉れねば、エ船長を陸へ置いて船ばかり出す譯には行かぬからネ」
此一語は汝を船長に取立てたといふも同樣である、團は又も顏を赤くして喜び「私が船長ですか、何うか生涯に一度は船長に成つて見たいと ーー 」森江氏「組合人へ相談の上で取立てゝ遣るワ、けれど今から聞いて置き度いのは、お前が船長に成れば矢張り段倉を使つて置くか何うだ、今度の航海中に段倉は何と思つた」友太郎は有體に「ハイ私と餘り仲が好くは有ません、先日も少しの爭ひから私が、では巖窟島へ上つて決鬪しやうと挑みました、是は私が惡かつたのです、段倉君が應じて呉れなかつたのを今は有難いと思つてゐます、けれど船の荷物係としては少しも落度の無い人です」森江氏「落度が無いから引續き雇ふて置くといふのか」團「勿論です、役目の上には毛嫌ひといふ事は有ません、何でも貴方のイヤ雇主の信認する人を私は敬つて行くのです」公明正大ともいふべき返辭である、森江氏は全く滿足して「では早く父やお露を喜ばせて遣れ」
廿歳に足るか足らぬうちに船長といふ約束を得るとは、餘ほど能く出來た人で無くては成らぬ實際類の無い程の出世である、友太郎は 喜色面に滿ちて森江氏に分れ去つた、森江氏も感心の面持で友太郎が小船で漕ぎ去る後姿を見送つたが、森江氏の後邊から同じく彼を見送る段倉の顏には上部にこそ爾までとは見えぬ、全く嫉みの念が皮一枚の底に燃えてゐた。
巖窟王 : 三 父と子、類は友
少年團友太郎が果して故の船長から手紙を托かつてゐるだらうか、ゐるとすれば何の樣な手紙だらう、彼の上京といふのも其手紙を屆ける爲では有るまいか、屆け先は何處なんだらう、話は仲々多岐に渡るが追々分つて來る。
友太郎を見送つた段倉の顏の凄さ、確に笑の中に劍を藏して居るといふものである、仲々 此奴が一癖も二癖もある人間といふことは早其所作で分つて居るが、之れまでに斯うかで嫉まれては、奴何の樣な禍を浴びせられるか知れぬ、語に友太郎の方が雇主の受が好くて近々船長に取立られる氣色の見えるのが、此の恨みを沸騰る程に強くしたらしく見える。
友太郎の方は其樣な事に頓着は無い、早く歸つて父に逢ひ度い、其後では早くお露の待兼て居る顏をも見度いとの一心である、陸へ上つて其方此方と父への買物を整へ等して、扨て歸つて行つた我家といふは此の馬港の町外れで、貸家に建た巨な家の、ズツと四階の上に在る小さな一室である、三月目に歸つたのだから父が何の樣に喜ぶかと思へば、長い〳〵階段を走上る中む胸が躍る、愈々上り終つて懷かしい室の戸を開けて見ると、父は少しの日向を頼りに、窓際の椅子に丸く蹙んで此方へは脊ばかりの樣に見えて居るが確に草花の鉢を弄つて居るらしい、最う六十を越した此の年で一人息子の旅に出た永い留守を斯う淋しげに暮して居たかと思へば殆んど傷はしさに堪へぬ、若し餘り驚かせて、椅子から轉び落ちやうも知れぬから、友太郎は先づ確と抱附いて其上で「阿父さん、今歸つて來ましたよ」「オヽ友か、友か、能く歸つて呉れたなア」といひつゝ振向くと父の顏を見れば三月前より又 一入痩衰へて、色も青褪めて居る、斯うも我が留守には心配せられるか、斯樣な時には喜ばせて引立たせる外は無いと、天性の孝心で「阿父さん喜んで下さい、程無く船長に出世して百圓の月給を取る時が來ましたよ」父「本統か本統か、森江氏はアノ通り慈悲深い方だから」友太郎「ハイ本統ですとも、人の不幸を自分の幸の種にしては濟みませんけれど今迄の呉船長が亡なられましたので」とて、船主森江氏との話の大體を掻摘んで急がしく話し聞かすに、父は喜ぶ事は喜ぶ樣だけれど、何だか充分の受答へが無い、口さへも碌には動かぬ、甚く衰弱 状のである[注:原文のまま]。友太郎「何うか成さつたか、阿父さん」父「イヤ何うもせぬ、其方が歸つて來たので、何にも苦になる事は無い」勤めて息子に心配させじとの態が分つて居る、是れは何か火酒の樣な興奮劑でも呑ませるが第一の急務と思ひ、友太郎は急いで戸棚を開けて見た、何うだらう食物飮物と名に附く物は、唯だの一品も備はつては居ぬ、分つた父は飢に瀕してゐるのだ、斯う氣が附くと共に「エ、エ、阿父さん、貴方に此樣な想ひをさせて、誠に濟みませんでした」と謝罪る樣に平伏した、父「何、何も辛い思ひなどはせぬ」友太郎「私が出る時に上げて置いた六十兩のお金は何うしました」父「オゝ、彼の金か、彼れは其方が立つと間も無く、室にゐた仕立職人 毛太郎次が其方に古い貸があるからとて、外の五兩は利子に當るといひ四十五兩持つて行つた」友太郎「エヽ、夫では殘る十五兩で三月の間、能く阿父さん、私の借金を返しては下さつたが、十五兩では三月の家賃がヤツとです、森江樣にでも借て下されば好かつたのに」といつてゐる間も定めし父が脾じい事だらうと友太郎は其まゝ外へ走り出た。
爾して父の口に合ひ相な食物飮物を三四品も取揃へて買つて來て宛行つた、父は自分の饑えるゐた樣子を息子に知らせるのが辛いから「ナニ食事は晩方で好いよ」といひ急には手を着けやうともしなかつたけれど強るやうに勸められ箸を取つた、如何にも愛と我慢との強い人である、友太郎は父が食事の終るを待つて「最う其樣な貧しい思ひはお掛け致しません、此通りお金も溜て歸りましたから」といひ自分の財布を卓子の上へ倒にして振開けた、金貨や銀貨大小取混ぜて百兩の上もあらんかと思ふ額が父の目の前へ盛上つた、父「ナニ己は金よりも其方の顏を見る方が好い、オヽ、お露も大層 其方の顏を待焦れてゐる樣だ」言葉の未だ終らぬ所へ「オヽ友さんか今度はシコタマ溜込んで歸つたなア」と云ひつゝ入つて來たのは、父の今いふた毛太郎次である。
「ナニ友さん遽て隱さうとするには及ばぬよ、借やうとはいはないから」友「イヽエ、貴方には色々お世話に成りまして」毛「ナニお世話などゝ禮をいはれる所は無いのサ、貸はお前さんの留守に阿父さんから利子まで附けて、ナニ急に要らぬといつたけれど無理に還して下すつて、ねえ阿父さん今では唯だ隣同士の五分々々だから」友「お金は還したとしても仲々五分々々ではりあません、恩といふ者は生涯殘つてゐますから、何うか毛太郎次さん、御入用があれば遠慮無く持つて行つてお使ひ下さい」何處までも下から出るは、留守勝な身の弱點である、成る丈け人の氣を損せぬ樣にして置いて留守に少しでも父を大事にして貰ひ度いのだ。
毛「私は今買物に行つて、懇意な段倉に逢つたから、巴丸の着いたのを知り、それではお前さんも歸つてゐるだらうと思ひ久し振だから逢ひに來たのさ」友「オヽ段倉君も早う上陸しましたか」自分の容子を窺ふ爲に彼段倉が直に後から上陸して茲まで尾けて來たのだとは氣が附かぬ。毛「段倉に聞けば、お前さんは大層森江氏の氣受が好いつてねえ、家へ來て食事をせよとまでいはれた相ぢや無いか、船長になる約束も得た相で」此奴も何だか羨ましげである、知る人の出世といふ事が兎に角氣色に障るのが斯る人々の常である、父は聞耳立てゝ「エ、友太郎、森江氏から御馳走をすると迄いはれたのを其の方は斷つて歸つたのか」友「ハイ早く家へ歸り度いと思ひまして」父「其れは能くない、船長にも仕て下さるといふ方だもの、成る丈氣に入られる樣にせねば」友「イエ、私は雇主の機嫌など取らずに船長に成り度いのです」短い一語でも健氣な氣質は充分に分つてゐる、此の樣な氣質で有ればこそ世の人と全く違つた波風を凌がねば爲らぬ事とも成行くのだ、毛「お前さん船長に成るといへば阿父さんは定めし嬉しいだらうが、最一人、西國村の海岸にも聞いて喜ぶ者が有るのだ、ねえ阿父さん」父「オヽ彼のお露の事か、コレ友太郎 最う己の方は好いから早くお露の方へ行つて遣れ」父は毛太郎次との面會を序に早く切り上げ度い樣である、父の心は悉く子の胸に反映する、友「ハイ私も御免を蒙つて是から行かうと思つてゐるます」毛「本統に早く行くが好い、餘り長く顏を見せぬと先はアノ樣な美人だから、又何の外に樣な好い人が ーー 」友太郎は心配げである「イヽエお露に限つて其樣な」毛「事はあるまいと思つても傍の者が唯置かぬから」と何だか樣子の有相な言葉である、父「早く行け、早く行け」友「ハイ、其れでは」といひ友太郎は立つて出た、爾して傍目も振らずに西國村の方を指して行く心の中には、眞に千里も一里の想ひだらう。
毛太郎次も續いて出た、彼も誰かを尋ねると見え、急いで同じ方角へ少し行たが、軈て但有る路次口を窺き込んだ、窺くと中[か]ら合圖でも得た樣に出て來たのが彼の段倉である、段「何うだつた、どうだつた」毛「早船長に成つた氣で親爺と共に笑崩れてゐやがつた」段「爾だらう、ナニ此段倉がゐる中は、爾は行かぬ、上へ登らうとすれば下へ落して遣るから」毛「爾して今、西國村の方へ急いで行つたが」段「アノ女の方へ」毛「爾よ、此方も覺束無い」段「何で」毛「ズッと前からお露には從兄が一人附いてゐて、町へ出ても濱へ行つても、お露の傍を離れぬ程にしてゐるからさ、お負に其野郎が背も高く、身體が頑丈で人を恨めば只は濟まさぬといふ樣な一癖ある面魂だもの」何とも友太郎の身邊には四方に曇が見えてゐる樣だ、段倉は滿足げに「其れは益々面白い、兎も角、其邊で一杯飮まうではないか」と連立つて、西國村へ行く道の傍に在る酒店へ這入つた。
巖窟王 : 四 お露と次郎
毛太郎次が段倉に連れられて入つた酒店は西國村の直傍である、其村へ行つた友太郎の容子を窺ふには屈強の所なのだ。
抑も西國村といふはモルジョン岬の下に在る漁師村で、友太郎の父の住居と、ツイ四五町しか離れて居ぬ上に、ズツと家續きに成つてゐる、今より六七百年も前に西班の漁師が漁の爲に引移つて來た相で、今でも其子孫が 一廓を爲して成る丈け先祖の風を失はぬ樣に守つてゐる。
今しも此村の但ある家、イヤ家では無い寧ろ小屋だ、屋根も傾いて月も漏るかと思はれる程の中に、四邊に不似合なほど美しい娘が、所在無げに毛絲を編んでゐる、昔から此の村には、西國風の非常な美人が、何うかすると生れるといふことだから、是れも其一例だらう、年は十七か八、圓みの有る豐かな顏に、心の波動が一々映つて現はれる鏡の樣な清い眼、其れに所謂る丹花の唇は、眞に畫にも無い程の愛らしさである、是が友太郎の許婚といふお露なのだ、其傍に鳩の傍の鷹とでもいふ可き見榮で、嚴つて控へてゐる一人の男、年は廿二ぐらゐだらう、漁師村の子といふ事は顏の黒さで分つてゐるが腰に短い劍を佩てゐるのは、徴兵に出た記號と見える、骨組も逞しくて、眼は妙に陰氣である、顏總體に少しも晴やかな所が無い。
此男、先ほどから唯だ、默つてお露の姿ばかり眺めてゐる、全體いへなお露の樣な弱々しい女は此の逞しい男に、殆ど手球に取られる樣に、何から何まで此男の意の儘に扱はれ相に見えるけれど、所が全く反對で、逞しい方が弱々しい方の奴隸の樣に成つてゐる、頑丈な骨組總體が宛で鎔けてお露の目の中へ這入つて了つた樣に、お露が目を揚げれば此男も目を揚げる、お露が立てば立ちお露が行けば行く、柔能く剛を制すとは是なんだらう、いはゞお露の一喜一憂に死活してゐるのだ。
默つてゐて早や先ほどから二度か三度深い溜息を漏らしたが、頓て堪へ得ぬ程に成つたと見え「コレ、お露」と呼んだ、聲までも顏に似て、但し異樣に甲走つてはゐるが、陰氣である、此樣な聲の男が、得て思ひ詰めて飛んでも無い事を仕出來すのだ、お露は「何だえ、次郎さん」と初めて顏を上げた、次郎「追々氣候も好くなつて、大分世間では婚禮もある樣だが、お前は己と何時式を擧げて呉れる」お露は「又か」と云樣に蒼蠅に直ぐ俯向いて又編物に取掛つた、次郎「コレ、去年から、イヤ其の猶前、己が兵隊に行かぬ前からお前に斯ういふて催促するのは最う百遍にも屆くのだよ」お露は見も向かぬ「私が否ですといふ返事も丁度其數と同じヨ」次郎「サア 其否ですが分らぬぢやないか、己とお前とは從兄妹だゼ」露「[だ]から從兄妹の樣に仲能く附合つてゐるではないの」次郎「從兄妹と丈では可けん、其の上で無ければ」露「其より上の事は出來ませんワ」次郎「お前と己の縁組はお前の阿母だつて承知すてゐた、阿母が死ぬ前に ーー 」露「嘘です、嘘です、阿母さんの亡なる時、終ひまで介抱して呉れたのは友さんです、阿母さんは爾ういひました、此兒が最つと年が行つてゐれば友さんと婚禮させて死ぬけれど、ア、爾すれば何れほど安心が出來るか知れぬと、私の聞いてゐる所でいひました」半分は涙聲である、云終つて編物の手を停めて袖口を顏に當てた、爾うして又「お前の其時は兵隊に出て、茲にはゐなんだでは無いの」次郎「己の方は其の猶前よ、子供で遊んでゐる頃から阿母は其積だつた」露「何が何でも、最う友さんとの約束が極つてゐるから仕方がありません」
友さんといふ名に、次郎の顏は、黒いのが火の燃える樣に成つた、恐ろしい嫉妬の念が腹の底から湧いて出たのだ、「では、友太郎といふ赤の他人に、お前は從兄を見替へるのだな」露「見替へるとて從兄は從兄、夫は夫ではありませんか」次郎「ナニ夫、婚禮もせぬに何が夫だ」露「今度歸つて呉れば直に婚禮する約束です」次郎「若歸らねば」露「歸る時まで待つてゐます」
次郎は頓死した樣に靜まつた、爾して兩腕を叉いて、殆ど顏を其間に埋めた、全くお露の心の動かし難いのに絶望したのだ、其絶望の状が、何だか毎もと違つて物凄い程に見えるので、お露は氣味の惡い樣な氣もして「次郎さん、次郎さん、從兄妹に生れて何時までも從兄妹だから好いではありませんか、婚禮したとて、私が唯一人の從兄を忘れる者では無し、今でもお前に受けた恩は何時迄も覺えてゐますもの」斯樣な優しい言葉をお露の口から聞いたのは初めてゞある、一時だけれど嬉しさが次郎に胸の底まで融け入つた。
次郎は醉つた人の樣である、フラ〳〵と立上つて兩手を廣げ、蹌踉めく樣にお露の前に寄り「お露、お露、最う一度思ひ直して呉れる事は出來ないか、友さんも友さんだらうが、次郎を可哀想だと思はぬか、只た一人の從兄だのに」お露は遽て「アレ又彼の樣な事を云ふ、生涯從兄と思ふてゐるから好いでは有りませんか、男の癖に、濕つ濃いのは、私は嫌いですよ」折角芽を吹き掛けた望みを又一言で挫折られた、次郎は前よいも亦凄く面色を變て了つて「ではお露、友太郎が死なねば、お前は己の妻には成らぬのだな」
實に最後の一言である、其意味は明らかだ、お露も立上つた「友さんが死ねば私も直に死にます、友さんと決鬪でもするなら、私を此世に無い者とする積で決鬪お仕」實にお露も一通の見幕では無い、確に友太郎は後へは生延びぬ決心が見えて居る、次郎は一足、脊に逡巡ふた、爾して物凄く笑ふて「ホゝ、何に己が友太郎を殺すものか、先日から大分海が荒いから、若しや歸らぬ人に成つたのでは有るまいかと思ふた丈さ」お露「延喜でも無い、嘘にも其樣な事を云つてお呉れでない」
聲の下から友太郎の未だ死なぬ證據が出た、窓の外から「お露、お露」宛も懷かし相に呼んで入つて來る樣に聞こえるのが、團友太郎の聲である。
巖窟王 : 五 次郎は青くなつた
懷しい友太郎の呼聲に、お露は顏も頽れんばかりに笑み喜んで次郎に振向き「其れ御覽よ、友さんが來たぢや無いの」と云ひ、更に「友さん、友さん」と窓に向つて呼び返した。
次郎は青くなつた。出し拔けに道で蝮蛇に逢つた人でも是ほどは色を變へぬ、身をも振々と震はせて、腸の底から出て來る深い溜息と共に、尻餠を搗く樣に隅の方の椅子に落込んだ、眞に無慘な敗北の状で有る、這入つて來た友太郎は斯とは知らぬ、唯だ嬉しさの一方でお露と抱き合ひ、「オヽお露か」「友さんか」「己は逢ひ度くて逢ひ度くて」「私だとて何れほど待焦れてゐたか知れぬ、能く先ア無事に歸つて下さつた」と互に斯樣な言葉で暫しが程は夢中であつた、此の夢中の間が人間の生涯に一度か二度しか無い嬉しさの極點といふものだらう。
漸く眼が室の中の薄暗さに慣れると共に友太郎は隅の方に、最と陰氣な男子の控えてゐるのに氣が附いた、而も其男、顏に得も言へぬ怒りと苦痛との色を浮べ殆ど我を忘れた状で、帶劍の柄を、碎ける程に握り締めてゐる、友太郎「ヤ、ヤ、 此室に、外の人がゐるとは知らなかつた、お露、何方だ」お露も全く、暫し次郎の事を忘れてゐた、友太郎の問ひに逢つて、ハツと思ひ直に此方へ振向く眼に、歴々と、今にも次郎が友太郎を襲はんとする腹の中までも見た、「コレ次郎さん」訴へる樣な聲が、思はず口を衝いて出たが、仲々落着いた所のある娘で、直に又聲を柔げて「友さん此れは私の大事な人です、兄さんも同樣な從兄です、それは貴方の留守にも私を大事にして下さつて、貴方に禮を云つて貰はねば成りません」言葉で以て次郎の怒りに、拍子拔けをさせるのである、友太郎「アヽ次郎さんか成るほど」斯くいふて友太郎は片手を次郎の方に出した、勿論手を握らうとの禮である、けれど片手には猶ほ保護する樣に、お露の手を取つた儘である。
次郎はお露の優しい言葉に、一時 刀の柄を放したが、友太郎が手を差延べるのを見て再び柄に手を掛けた、彼は全く嫉妬の餘りに自分が何をしてゐるか知らぬのであらう、爾して身體が猶ほも震へてゐる。
友太郎は此状に眉を顰め「オヤ、此家に敵がゐやうとは知らなかつた」次郎の状は確に敵の振舞である、お露は怒りを帶びて斜に屹と次郎の顏を見て、「何で此家に、貴方を敵の樣に思ふ人がゐますものか、若ゐれば、私は貴方と共に今直に茲を去り再び歸つては來ませんよ、ねえ次郎さん、私を此の家から追出す樣な人が何で此の家にゐるものですか」次郎は聲も出し得ず、身動きもせぬ、唯噛〆めた齒の間から又も溜息を洩らしたが、眼は猶ほ殺氣を帶びて、友太郎の顏を射て光つた、お露は叫ぶ樣に「若敵がゐて貴方に怪我でもさせれば生涯私は其人を恨みます、誰も此家に、私に恨まれ度い人はゐませんわ、貴方が若此世に居無くでも成れば、直に私はモルジン岬の一番高い所へ上り、身を投て了ひます、先刻次郎さんにも爾う云ひました、ねえ次郎さん」確に最後の決心を示して、次郎は 且誡且め 宥めにので有る、火の樣で有つた次郎の顏は青い土の樣になつた。
お露「私に身を投させ度いと思ふ人が何で此家にゐますものか、ゐるのは親切な次郎さん許りですわ、私の爲には兄さんも同じ事ですもの、ソレ御覽なさい、次郎さんは貴方の手を握りに來るぢやありませんか」斯ういつて更に眼に力を込めて次郎の顏を見詰めた。次郎は金縛りに逢つた樣なものである。
厭々立つて、厭々友太郎の方に來り、ソツと右の手を差延ばした。其間も絶えずお露の眼が彼の身を縛つてゐる、彼の手の先、イヤ指の先で、纔に友太郎の手に障つたが、是れが彼の我慢の最後である、宛も熱鐡にでも觸つた樣に、急いで其手を引き、長く長く呻いて家の外へ走り出た。
殆ど狂人の樣である、悔しげに自分の兩手で自分の頭の毛を掻き挘り「エヽ、悔しい、悔しい、死んだが好い、活てゐたとて仕樣ががない」と猶も呻いて、唯大地を見詰た儘、何處へ何う行くとも自分では知らぬ状で、一二町も歩むと「コレ次郎さん私が挨拶するに、知らぬ顏で行き過ぎやうとは餘り友逹甲斐がないぢやないか」と肩を叩かれ、初めて顏を上げて見れば、茲は毎も自分の立寄る酒店の前で相手は、故々自分を呼留めに店の中から出て來たらしい毛太郎次である。中から、段倉も聲を添て、「お負に久し振で海から歸つた親友が、一杯 驕る積の親切で、此通り徳利の口まで拔いて待つてゐるのにサ、次郎さん私の親切を無にする氣か」とて、到底物をも云はぬ次郎を酒店の中に引入れた、此惡人ども、何の樣に次郎を焚付ける積りか。
巖窟王 : 六 幾等でも奧の手を
勿論此 酒店に毛太郎次を連れて入つたのは、茲で友太郎の容子を窺ふ爲であつた。
彼段倉の心では、定めし友太郎の方が絶望して歸るだらうと思つてゐた。彼は先刻毛太郎次から此頃お露の傍に次郎が附切つてゐる事を聞いたのだから、多分は既にお露の心が次郎の方へ移つてゐて友太郎を振捨るだらうと思つてゐたのだ、所が反對に次郎の方が、一目見ても絶望と分る程の状態で走つて來たので、聊か案外な想ひである。
彼は心の中で呟いた「是で見ると、アノ友太郎には、確に運が向いて來てゐるのだ、此己が若し妨げぬ事には、旨々と船長にも成つて了ふワ」と、斯ふ思ふと彼實に忌ま〳〵しさに堪へぬ、「好幾等運だつて、己が邪魔をすれば爾は行かぬ」何の樣に邪魔する積だか知らぬけれど、後で思ふと實に段倉の力が運の力にも劣らなかつたのだ。
彼段倉の、計略に富んだ胸には早思案が浮んだ、次郎の絶望して來たのは自分に取つての幸である、此奴を旨く道具に使へば友太郎を何の樣な目にも合あせる事が出來るのだ、彼が毛太郎次に力を合はせて無理に次郎を此の店へ呼び込んだのは確に之が爲である。
次郎は引入れられたけれども口も利かぬ、唯心中に燃る嫉妬と絶望に、首を埀れて考へ込むのみである。
けれど段倉が仲々默らせては置かぬ「何うしたんだエ、次郎さん、お前は全で戀女に振捨てられたとでも云ふ樣な風ぢや無いか、私の見た所では死ぬる氣でゞもゐる樣に思はれるが」次郎は此上も無く不機嫌に只一語「死んで了ふのだ」 ※※[注:數語印刷不良]一語洩らせば後は幾語でも引出される、恰も端緒を把へられた卷絲の樣なものである「エ、死んで了ふ、お前の年で、自分で死ぬる氣を起すとは大抵の事では無い喃毛太郎次、次郎さんは何うしたと云ふのだらう」毛太郎次「お露が友太郎の方へ寢返りを極めたのさ」段倉「では矢張り戀故の失望か、其れにしては次郎さん、餘まり活智が無さ過ぎるぢや無いか、自分の女を人に取られ、其れで默つて其場を去るのか、私は西國村の人間は其樣な活智の無いのは一人も無いと思つた」毒矢は確に急所に當つた、次郎は恨めしげに顏を上げた、爾して「ナニ相手と決鬪して殺して了ふ位の事は知つてゐますが」段倉「爾だらうとも、爾無くては男でない」次郎「相手を殺せばお露が直に死んで了ふといふますからさ」段倉は呆れた樣に打笑ひ「聞きなよ、毛太郎次、今時、女の死ぬるといふ言葉を眞に受ける男もある、何と正直な事では無いか」毛太郎次「死ぬるといふ女に死んだ例は無い」段倉「爾さ三月や四月やクヨ〳〵思つても直に、生殘つて親切にして呉れる人に心が移るに極つてゐるは」
云ふ中にも段倉は絶えず眼の隅から西國村の方を見張つてゐたが、突と立ちて「オヤ彼所へも戀中らしい若い男と女が來る、何うだらうアノ睦じ相な事は、毛太郎次 先ア皆見なよ」毛太郎次も立つて「オヽ彼れが友さんとお露だよ」といつて迎へつ樣に外に出た、段倉は半次郎に向ひ、半獨り語の樣に「アヽ連立つて、早や婚禮の仕度でも買調へに町へ行くのだ、爾して茲を通つて次郎さんに見せびらかすとは餘り甚い」
次郎が心の中は何の樣だらう、其中に早やお露と友太郎は此店の前まで來て毛太郎次に呼び留められた、毛「オヽ友さん、お目出度いね、婚禮は何時ですか」友太郎は眞に嬉しさの中から首ばかり出して居る樣である、「先ア喜んで下さい、今夜父の許で委細の相談を極め、直に明日婚禮する積です」段倉は友太郎よりも次郎の耳へ聞えよと「團君、何しろ大變なお手柄だ、敬服、敬服」次郎は全く聞かねた、今若しホンの毛ほどでも彼れの心を衝き動かすものが有れば、彼らは何事も打忘れて團友太郎に飛び掛る許りと爲つて、唯だ一縷、堪忍の緒が切れずにゐる、段倉は其の危機を悟つた、爾して其のホンの毛ほどの刺戟を巧に與へた、彼れは殆ど外の人へは聞えぬ程に「イヤ次郎さんの我慢強いにも敬服だ」と呟いた、纔に一語、千斤の力とは是なんだ、次郎は劍を握つて猛然として起つた。
起つ其の目前に、御光の樣に輝くのはお露の美しい顏である、お露は茲に次郎のゐるのを見て、早くも此危機を見て取り、アハヤといふ瞬きの間に、次郎の顏に、露の埀れる樣な笑を注いだ、次郎は朝日に逢つた霜の樣に、力も拔けて、又元の椅子に萎れ込んだ、眞にお露の笑顏の外には、何物とても次郎を制止し得なかつたらう。
お露「ねえ次郎さん、明日の婚禮には茲にゐる皆樣を、御案内して來て下さいね」何たる打解けた言葉だらう、全く我が兄に向ふ樣な調子である。
此言葉を殘してお露は友太郎と共に去つた、後に段倉は我が策の外れたのを見たけれど、少しも悔みをみせはせぬ、却て次郎の甚だ與し易い事を知り「ヘン、此の何うでもなる屈強の道具が手に入つてゐるのだもの、幾等でも奧の手を出す事が出來る、明日の婚禮が首尾能く行けばお笑ひ草だ」口に出してはいはぬけれど、心の中で呟いて、靜かに次郎の顏を見た。
巖窟王 : 七 筆と紙、筆と紙
段倉は靜かに次郎の顏を見たが、次郎の絶望の状は、前に増すとも減じてはゐぬ。
其れは其筈である、今目の前にお露が友太郎に連れられて、婚禮の用意といつて嬉し相に茲を通つたのだもの、是が悔しく無くば、世に悔しい事は無いと云つても好い。
「明日婚禮」と友太郎もいひお露もいふた、唯此一語が次郎の耳には死刑の宣告の樣に響いてゐる、アヽ明日、明日、今夜一夜で何事も、取返しの附かぬ事になつて了ふのだ、否、今既に爾成つてゐるのだ。
次郎は 只拳を握りしめて、絶望に呻く外は何にも爲得ぬ、此樣を見て段倉は喜んだ、次郎が悔しがれば悔しがる丈け益々我が道具に使ひ易いのだ、最う愈々奧の手を出す可き時である。
けれど此樣な事を他人に知られては成らぬ、奧の手は出すにしても、懇意な毛太郎次にさへ悟らせぬ樣にせねば成らぬ、先段倉は毛太郎次に酒を勸めた、誠に用心の綿密な事である、尤も是れほど用心の深い人で無ければ、眞の惡事は出來ぬのだ。
少しの間に毛太郎次は酒に夢中に成つた、段倉が次郎に向つて何を話すか何をするか、其樣な事は氣にも留めぬ、己れは唯呑む一方である、最早時分は好しと段倉は見て取つて次郎に向ひ「本統に友さんも甚いねえ、お前に彼の樣な状を見せびらかせ樣として通つてさ、成るほどお前が友太郎を殺せばお露が死ぬからといひ、明日直に婚禮といふ事をまで聞かされて、默つてゐねば成らぬとは餘り悔しい譯ぢや無いか、私は人の事とは思はぬよ、エヽ殘念だなア、私がお前なら直に彼奴を牢の中へ叩き込んで了ふけれど」
次郎は聞耳を立てた「エ、牢の中へ」段倉「爾さ、其筋へ訴へさへすれば直に友太郎が牢へ入れられる事があるけれど、誰か訴へる人は無いのかなア」次郎「私が訴へる、私が」段倉「爾さ、牢屋へ入れさへすれば、何もお露が直に死ぬといひは仕まいし、明日の婚禮も延びるのだから、其中には又何とか旨い工風もあらうぢや無いか」次郎は全く魅せられて了つた「何の樣な事を訴へる」段倉「お前が本統に訴へる氣なら、私が其種を明して遣るけれど、イヤ待つたり、待つたり、牢へ入つた者は出て來る時があるのだから明かにお前が訴へたと分つてゐては、出た時に彼奴がお前の所へ喧嘩に來るは」次郎「喧嘩なら幾等でも仕て遣る」段倉「其れが爾で無いよ、喧嘩をして彼れに傷でも附ければまたお露が生涯お前を恨むぢや無いか」次郎は擋と窮り「成るほど其れは可けませんなア」
段倉「イヤよい手段が有る、筆と紙が慾しいなア」次郎「エ、筆と紙」段倉「さうさ、私は船にゐても筆を持つて帳面を附ける役だから、筆が無ければ何の仕事も出來ぬ、其代り筆ならは、劍より確に人を傷つける事も出來れば殺す事も出來る」次郎は狂人の状で「筆と紙を、筆と紙を」と給仕に向つていつた。
軈て筆と紙とが卓子の上に置かれた、段倉の眼は此の二品を見て異樣に輝いた、是だへ有れば友太郎の一人や二人、亡い者にするのは譯も無い、泥醉した毛太郎次は唯一語だけを聞き取つて、舌も廻らぬ醉倒の本性とて忽ち大聲に「誰が友太郎を殺すのだ、箆棒め、友太郎は己の友逹だエ」と叫んだ、段倉「ナニ誰も友太郎を殺さうといひは仕ない、笑談だよ、笑談だよ」毛「笑談なら、靜かにしろ、蒼蠅くて酒も呑めぬ」斯ういつて又夢中の人に還つた。
段倉は再び次郎に向ひ、「友太郎は、大變政治上の運動に加はつて國事犯を遣つてゐるのだからね、其の次第を、コレ、斯う書いてよ、此土地の檢事に送れば直に逮捕されて了ふワ、此樣な手紙は書いた主が分つては可けんから、左の手で書くに限る、左の手なら誰の字でも同じ筆だ」全く笑談の樣にいひつゝ、左の手に筆を持つて書下した、其文句は左の通りである。
國王に心寄する忠實の某、謹んで檢事に密告す、今日地中海の東岸より伊國の海を經て當地に入港したる帆前船巴丸の船長團友太郎は、兼て國王の朝廷を覆へさんとする陰謀に與し、伊國に在る謀反者より密書を得て、エルバ島に立寄り、密に拿翁に謁し、更に拿翁の配下なる將軍ベルトランより巴里の黨員に當たる密書を托され、今將に之を巴里に持行かんとす、早々捕縛して檢査せば、彼の身體、又は父の家、或は巴丸の船長室に其の密書猶ほ存せん、國家の大事、一刻も油斷ある可からず、至急、至急。
と書終つた、眞に殺すも傷つけるも自由自在の筆では有る、「此の手紙を斯う状袋に入れてよ、檢事へ宛て斯う上書を書いて、是で印紙を貼つて郵便に投込さへすれば後は自然で旨く行くのだ、ホンに世の中は妙なものぢや無いか」とて早宛名まで矢張左の手で書終り、全く笑談の樣に莞々と打笑つた。
泥醉しながらも夢か現の樣に此聲を耳に入れて毛太郎次は又盃から顏を上げて「何の手紙だ、檢事正へ何を密告するのだ」とて此方を睨んだ、段倉は驚きもせぬ、又打笑て「醉倒と云ふ者は本統に可笑しいよ、人の笑談を眞に受けてよ、誰が密告などするものか、唯だ斯うすれば斯うなると話してゐる丈ぢや無いか」と獨言の樣にいひ、又更に「イヤ笑談でも若何うかいふ間違ひで笑談で無く思はれては成らぬ、唯だ手の中で揉む樣にして、全く反古でも投げ捨る樣に室の隅へ捨てた、爾して「オヽ喋つてゐて咽喉が乾いた、毛太郎次には更に幾杯かを續けて呑ませ、全く前後不覺の樣と爲つたのを見て「サア最う歸らうよ〳〵」と自分の肩に毛太郎次を掛ける樣にして引立て、次郎へ向つては「先ア若いのに餘り短氣はせぬが好いぜ」
短い言葉を殘したまゝ茲を立つた、外は早や夜に入つて闇である、闇の中からソツと振返つて見ると、店には次郎が血走つた眼で四邊を見廻し、今捨てた手紙を拾ひ上てゐる、段倉は物凄く微笑んだ。唯だ毛太郎次のみ段倉の肩に縋つて何事をも知らぬ。
巖窟王 : 八 婚禮の饗宴
段倉が左の手で妙な密告の手紙を書き笑談の樣に投捨てた其翌日果して、團友太郎とお露との婚禮の披露があつた。
婚禮では無い、婚禮の披露である、是から愈々婚禮するとて、知る人々を招き前祝に饗應するのだ、其場所は丁度昨夜段倉と毛太郎次がお露の從兄次郎を呼び入れた其 酒店の二階の廣間、時刻は晝の一時である。
只だ一夜の中に能くも斯くまで用意の整ふた事よ、けれど深く友太郎の人柄を知る者は別に不思議とは思はぬ、彼れは若いに似ず事務の能く捗取る男で、何をさせても人が三日でする事なら一日で運んで了ふ、少しも時間を無駄に捨つるといふ事をせぬ、殊に自分の生涯に二度と無い喜びの事柄だから一生懸命に早く取運んだのだ。良將が兵を使ふても是ほど機敏には行かぬ。
招かれた客は友太郎の方とお露の方との知人を殘らずである、殘らずと云た所で巴丸の水夫や乘組員が大部分を占めてゐることは無論のことだ。
此婚禮に最も力を入れて呉れるのは巴丸の持主森江氏である、仕は友太郎を是より船長に取立てるのだから、餘り見すぼらしい事はさせられぬとの意見で萬事先に立つて運んで遣つたらしい、何しろ此人が力を入れると云ふのだから其の噂だけでも、招かれた人は皆競ふて出席した。
豫定の一時、間近くなつて、森江氏が馬車で來たけれど、肝心の花婿花嫁の一行が未だ見えぬので段倉と毛太郎次が氣を揉んで迎へに出た、出ると途中で、直ぐに其一行が來るのに出逢つた、無論眞先が友太郎で次がお露、お露の傍には四五人の娘友逹が孰れも赤い花の樣な着物を着て附添ふて居る、其後から友太郎の父老人が來る、一行中で一番嬉しげに見えるのが此人である、昨日まで餓に凋びて居た顏に、殆ど笑が溢れて居る、其又後がお露の從兄次郎なので、是だけが雙方の一家である、次郎の顏の物凄さ、婚禮の附人には不似合である、殊に嬉しげな老人の顏に續くだけ猶更目立つ樣に思はれる。
軈て出迎へ二人は一同其れ〴〵歡びを述べたが、毛太郎次の方は、次郎の物凄い顏を見て、夢の樣に、夜前の酒店の事を思ひ出した、若しや段倉が冗談の樣に書いたアノ手紙が其筋の手にでも入る樣な事が有たら何うだらう。
此樣に思ふ爲め段倉の顏を見ると、之も常より幾等か青いかと見えるけれど、先づ平氣なのだ、アノ事が若し冗談で無かつたら眞逆に平氣では居られぬが、扨ては全くの冗談に過ぎなんだのか、其れとも自分の夢で有つたか、イヤ次郎の顏、次郎の顏、彼の尋常ならぬ所を見ては夢とは思はれぬ、或は冗談が誠と爲る樣な事は無かつたゞらうかと、妙に氣遣はしく又疑はしい樣な氣がした。
けれど疑ひに屈托する場合で無い、其まゝ段倉共々一行を導いて場に歸ると、待兼ねて居た客一同が我先に祝意を述べ、或者は父老人を扶け、或者は友太郎の手を取り又或者は花嫁を案内するなど、少しも間に席も其れ〴〵定まつたが、凡そ世に是れほど夫婦揃つて美しい一對は類が少い。
お露の美しさは勿論であるが友太郎の珍しい程の美男子である、鹽風にのみ揉まれて居る職業では有るけれど、左ほど色の黒まぬ質だ、血氣盛の活々した血の色が顏の面に輝いて居る、爾して威もあり愛嬌もある天然に英雄の風采を備へてゐるかとも思はれる。
軈て饗應は初まり、何事も異状無く進んだが、誰も彼も、昨日上陸して今日直に婚禮する運びの早さを、驚いた樣に襃める、友太郎は朗かな聲で答へた「是と云ふも偏に森江氏のお蔭です、森江氏が昨夜の中に市長に逢ひ、今日の二時半に婚禮の出來る樣に計らつて下さいました」二時半と云へば最う一時間とは無い、婚禮の式場を指して行くは、半時間ばかりの中なのだ。此言葉を聞いた時の次郎の顏は、其の凄さが、何とも云ひ樣の無い度に逹した、外の客は次郎などには目を注がぬけれど、絶え間なく見て居るのが毛太郎次で、折々に眼の隅から窺ふのが段倉である。失望の爲だか、恐れの爲だか、將た恨みの爲だか、其れまでは分らぬけれど、次郎は初めから土色に成つて居る顏を、灰の樣に白くして身體を震はせた、確に彼の神經には穩かならぬ所が有る、客は又口々に「其れでは一時間と經たぬ中に式が濟むので、最う夫婦に成つたも同樣だ、目出度い、目出度い」此樣な意味の事をのみ云つて居る。
其言葉の一々に、花嫁花婿の顏に無量の喜びが現はるゝと共に、次郎の顏には無限の苦痛が現はれる、彼は花嫁の親戚として何か云ふ可きであるけれど聲さへ出し得ぬ、爾して戸表を通る車の音にも悸々して時々振り返つては此室の入口の戸の方を見る、誰か來るのを、燥つて待つ樣な状も見える。
其中に饗宴は終つた、愈々式場へ行く時刻とは成つたので、森江氏は立つて一同に向ひ「皆樣、是より花婿花嫁は、私の馬車に乘り市長の許へ參ります、式は其の所で擧げますゆゑ皆樣最早や此 兩人を目出度い夫婦とお思ひ下さい」此挨拶に應じて四方より喝采の聲が起つた、聲の中を潛る樣にして森江氏が進めば、友太郎お露は其後に從ひ、他の者は又其の後に引續いて、愈々出發の列の樣なものが出來た。
丁度此の瞬間である、戸の外の階段で、異樣な足音の聞えたのは。
足音の外に帶劍の音も聞える、兵隊でも登つて來たのか知らん、兎にも角にも時ならぬ物音である、一同は異樣に白けたが、引續いて、外から三度、此室の戸を叩いた、戸は叩かずとても入れるのだ、其の音と共に自ら左右へ開くと、間から現はれたのが、誰の目にも罪人と云ふ事の直に浮ぶ豫審判事、後には大勢の捕吏が隨つてゐる。
實に何たる事だらう、森江氏は聊か咎める樣な口調で判事に向ひ「何の御用で此席へ」と問ふた、判事「嫌疑者が有りますゆゑ」
森江氏「エツヽ」
判事は慣れた目で室中を見渡す其の早やさは何と無く氣味が惡い、爾して問ふた「此の室に團友太郎と云ふ人は居りませんか」友太郎はお露の傍から離れて「團友太郎は私ですが、御用向は」判事の言葉は石の樣に堅い「法律の名を以て、貴方を捕縛します」捕縛、捕縛。音は極めて低いけれど、耳に是ほど恐ろしく響く言葉が又と有らうか。
巖窟王 : 九 何時までの分れ
時も有らうに、愈々婚禮と云ふ其間際に捕縛せられるとは何たる情無い事だらう。
友太郎は、餘りの事に合點し得ぬ「エ、私を、此の — 團友太郎 — を捕縛するのですか、何の爲に」判事「何の爲、其れは、調べを受ければ直に分る事です」
泣いたとて笑ツたとて追附く譯では無い。
友太郎「多分何かの間違ひだらうと思ひます」間違ひにもせよ捕縛せられねば成らぬ、傍に居た森江氏も、實に此場合に可哀相だと思つたけれど如何ともする事が出來ぬ、法律を執行する人に向つて彼れ是れ云ふは石に向つて云ふ樣なもので有る。
勿論人々の驚きは一方で無いけれど孰れも森江氏同樣である、靜かに控へて居る事の出來ぬのは父老人である、何も彼も打忘れて役人の前に身を投げ、聞くにも忍びぬ悲鳴の聲を揚げて慈悲を請ふた「此子に限ツて捕縛される樣な事は致しません、永年思ひ思はれた女と此通り婚禮する間際と云ひ、雇主から船長に取立てられる事に成つて居ますもの、何で罪を犯す樣な後先見ずの事を致しませう、其れでも強て捕縛せねば成らぬのなら、慈悲ですから婚禮の濟んだ後に、其れ迄の所、此父を代りにお引立下さる樣に」
親なら何うして此樣な言葉が出やう、石も動かされる事は有る、流石に法律の執行者も幾分か氣の毒に感じたか「イヤ其樣な人ならば、第一囘の調で直に放免せられませう、正直な人は少しも捕縛を恐れるに及びません」
恐れるに及ばぬとて、恐れずに居られやうか、けれど友太郎は、全く身に何の暗い所も無いのだから惡怯れた状は無い、聲も確に一同に向ひ「ナニ直ぐに歸つて來ますよ」と云ひ特に懇意な人々へは一々に握禮した、此の間にも人々と違つて一種別樣の驚きを感じたのは彼の毛太郎次である、彼れの胸には昨夜段倉が左の手で書いた密告状の始末が今は歴々と浮かんで出て、多分は彼の手紙を次郎が差出したに違ひ無い、斯う思つて次郎の方を見ると、次郎は早や身を隱したと見え此場には居ぬ、心が咎めて居耐まらぬ事に成つたのだらう。
毛太郎次は段倉に向ひ「ソレ、お前が彼の樣な事をするから此樣な事に成つたぢや無いか」段倉は空とぼけて「彼の樣な事とは」
毛「左の手で書いた手紙よ」段倉「彼の手紙が何で此事に關係が有るものか、笑談に書いたのだから直に破つて捨てたもの」毛「ナニ破りはせぬ、捨たけれど其まゝ無瑕で捨たのだ、己は彼の手紙が、餘り皺にさへ成らずに室の隅へ落て居る事をまで思ひ出した」
と云つた所で後の祭である、其れに人々皆自分々々の想像を持出して彼れか是れかと噂して居て毛太郎次の此言葉に耳を傾けやうともせぬ。
其中に友太郎は捕吏に連られ二階を降りて、外に待つて居る馬車に乘せられた。
此時まではお露も、友太郎の落着いた樣を見て自ら氣丈夫に思ひ、別に嘆きはしなかつたが、愈々友太郎が引立てられるとなると、得も云へぬ悲しさが胸を劈く樣に込上げた、急いで二階の窓に行き、下を見て「友さん、友さん、何うぞ直に歸つて來て下さいよ、待つて居ますから」千萬無量の辛い思ひが言葉の調子に現はれて居る、友太郎も馬車の中から顏を出しお露を見上げた、見上げる顏、見下す顏、是れが何時までの別れだらう、知らぬのが却つて幸かも知れぬ。
軈て友太郎の馬車が町の角を曲つて隱れると共にお露は聲を放つて泣いた、けれど人々に扶けられ、靜かな方の椅子の上に載せられたが、其から唯だ首を埀れ、默然として何事をか考へてゐるのみである。
森江氏は一同に向ひ「皆樣、悲しむのみでは致し方が有りません、兎に角も何の嫌疑だか、私が町まで行つて聞いて來ます」孰れも嫌疑の次第を知り度いのだから熱心に森江氏の勞を謝した、氏は直に馬車で出掛けた、其の後では誰一人立去らうとはせぬ、皆森江氏が歸つて來て報告するまで待つて居る。
此時まで友太郎の父とお露とは、離れて別々に、唯考へてのみ居たが、考へるに從つて、益々悲しさが募つて來ると見え、果は云ひ合はせた樣に椅子を離れ、互に走り寄つて抱合つた父「オヽお露お露」「阿父さん」父「殘念な事に成つたのう」お露「悲しい事になりました」お露は心の激動に堪へ得ずして其まゝ氣絶して了つた。
丁度此の所へ、何處から歸つて來たか彼の次郎が現はれた、彼れは誰よりも先にお露を介抱す可きであるのに、手が震へて介抱が出來ぬ、傷はる言葉を發すべき聲さへも咽喉を出ぬ。
暫くすると森江氏が歸つて來た、其顏は出て行く時より又 一入曇つて居て、爾して重々しい聲で、「皆樣、思つたより重大な嫌疑です、拿翁黨の陰謀に與そたと云ふので、即ち國事犯です」國事犯と云ひ拿翁黨の陰謀と云ふ言葉が、此頃如何に恐ろしく人々の耳に響いたかは史を讀む者の知れる所である、若し餘り友太郎に同情を表して捲き添に成つては成らぬとの恐れが、云はず語らず一同の心に滿ちた。
毛太郎次は顏色を變へて段倉に向ひ、「ソレ、お前が手紙に書いた通りぢや無いか」段倉は最早や爭ふ事が出來ぬ「アア分つた、後で次郎めが彼の手紙を拾ひ上げて屹と郵便で出したのだ、本統に甚い奴だなア」全く何方が甚いか分らぬ、毛「アノ樣な無根の事から友さんが此樣に成つたのなら其事を父さんに知らせて遣らう」早や老人の方へ行き掛けた。
彼れ毛太郎次は、未だ度胸の有る惡人では無い、聊か友太郎の出世を羨みはしたけれど、其れは小人の常と云ふもので、深く友太郎を害する樣な念は無いのだ、段倉は鋭く彼れの顏を睨み付けて「馬鹿め、今友太郎に同情を寄せる樣な素振が少しでも見えては其筋から何の樣な目に遭ふも知れぬ、彼の事を口外するなら、明朝は自分が捕縛せられる積で居よ、實際友太郎は拿翁の居るエルバ島へも立寄つたのだもの、何れ程の罪は有るかも知れぬ」
此一語に毛太郎次を縮み上つた、勿論自分の身に危きを犯してまで友太郎の父を慰める程の熱心は無いのだから、其まゝ堅く口を閉ぢ、再び誰に向つても口外しなかつた。
間も無く、父老人は森江氏に扶けられ、お露の方は、震へて居る親族總代彼の次郎に連れられて其れ〴〵家へ歸つた、家を出る時と、歸つた時の心持は何れほどの違ひだらう、思ひ遣るさへ氣の毒である。獨り此事に一方ならず滿足したのは段倉である、「是れで先づ船長は己に成つた」獨り心に呟いた。
巖窟王 : 一〇 蛭峰檢事補と米良田禮子
團少年友太郎が婚禮の席から拘引せられた其の同じ日の凡そ同じ刻限に、或所に又同じ婚禮前祝の饗宴が開かれて居た。
偶然ながらも竒と云ふ可きは花婿たる可き人が、是から友太郎を取調べる檢事である、イヤ檢事には未だ成らぬ代理慶事である、姓は蛭峰と云ひ、年は廿七歳で、所謂る功名富貴の心が滿々て居る出世盛りの人物である。
併し檢事補ぐらゐの低い役柄に居て功名を望み富貴を望み、同僚を飛び越えて出世を望むのは隨分難い仕事で餘ほど官界游泳の術を心得て居ねば成らぬ、此人は其の術の爲と見え、熱心な政府黨である、言ひ替れば非常に拿翁の黨を憎んで、今の國王 路易十九世の忠臣だと自稱して居る。
勿論國王の政府に使はれる者が國王の忠臣で無くて成らぬのは當然では有るが、併し此人は腹の底からの國王黨では無い、此人の父は姓を野々内と云つて元が過激な革命黨で、其後引續き拿翁の政府に重く用ひられた人である、今も逹者に生て居て、野々内と云へば人が謀反でも企てはせぬかと疑ふ程である。
斯樣な人の子で有つて、國王の政府で出世しようと云ふのだから一通の苦心では無い、父野々内の姓を其儘名乘つては迚も用ひて呉れぬから、公然と自分だけ姓を蛭峰と改めて、無論父とは往來も斷つて居る。
是ほどの熱心だから、職務の上に落度のないのは勿論の事、朝廷向からも可也の信用を得て、又隨分朝廷に勢力の有る人々と拔目無く交際して居る、今度自分の妻として披露する女も、國王の藩屏たる貴族 米良田家の令孃で、其父母に自分の勤王論が氣に入られたから出來た縁談である。けれど此婚禮は強政略的のみの仕事では無い、自分も全く米良田禮子を愛し、禮子からも二人とは此世にない人と愛せられて居る。
唯禮子の樣な氣質の優しい女が、何うして檢事補と云ふ罪人ばかり取扱ふ恐ろしい職業の人を思ひ初めたかと疑ふ人も有るけれど、上下の別がないとさへ云ふ戀だもの何で職業などに拘るものか、殊に此蛭峰氏が仲々美しい容貌の人で、隨分外でも艷聞を博した事が有ると云ふのだから世間知らずの姫君が之に魅せられるは無理もない、疑ふ人が却つて無理と云ふものだらう、併し令孃は此人の職業を聊か氣には掛けて居る、今日の祝の席でさへも此人に向つて「是からはねえ、何うか大抵の罪人は輕くして、許せる者なら許して遣つて下さいよ」などと云つて居る。全く之も眞心から出る言葉だから、聞流しても妙に此人の心に徹へる。
此樣な場合に旨く調子を合せる事は蛭峰先生仲々得手てゐる、一方には朝廷に羽振の好い人々もゐるのだから、旨く自分の職業と勤王論と爾して禮子の心の三方を調和して「イヽエ、檢事と云ふ職は小の蟲を殺して大の蟲を活せ、惡人を除いて善人を安樂にするのですから、最も慈善の主義にも合ふのです」檢事を慈悲深い職業とは餘り聞かぬ「其れに私共が忠實と熱心を以て事務を取れば、國事犯なども大抵は未發に防いで了ひますから、畏れ多い事ながら自然朝廷も安泰を得る譯です」成るほど道理の附け樣も有るものだ、斯う云へば檢事ほど勤王的な職業は無い樣にも聞える。
斯る折しも、丁度彼の友太郎を饗宴 半に捕吏が驚かした樣に、此の蛭峰檢事補を驚かせた者が有る、イヤ眞逆其れ程でもないけれど、入ツて來た給使が何やら彼の耳に細語いたが、彼れは直ぐに立上つて此場を外した、爾して少し經て、歸つて來て「イヤ、皆樣何うも、失禮では有りますが職業上捨置かれぬ事件が生じましたので、暫らく私は御免蒙らねば成りません」檢事の捨置かれぬ事件とは斯る場合に猶更耳に障る。誰も何事かと、問ひ度く思ふ氣を察して「實は拿翁の陰謀に與すると云ふ一人が捕まりましたので」拿翁の陰謀とは、集まれる勤王主義の人々に取つては、冷水でも浴びせられる樣な氣がする、誰とて早く行く事を勸めぬはない、蛭峰は匆々に禮子にも分れを告げるに、禮子は祈る樣な聲で「貴方、本統に私の今云つた事を、お忘れ成さらぬ樣にして下さい、何うぞねえ、取調を受ける人には親切に」蛭峰は何しろ我が位置を一段高くする樣な事件が我が手に落ちて來たと思ひ、唯 點首いて茲を去つた。
爾して直に取調廳を指して急いだが、途で端無く出遭つたは、彼の友太郎の雇主森江氏である、蛭峰は知らぬ顏して行過やうとするを、森江氏は遽てゝ引留「アヽ好い所でお目に掛りました、唯今檢事をお尋ね申しましたけれど當分御不在との事ゆゑ貴方にお目に掛り度いとお宅へ出向く所でした」只の人ならば愛想も無く刎ね附けられる所だらうが、兎も角も金力勢力ともに土地の名高い相手だから、蛭峰は勢力ある人の機嫌に觸れる勿れといふ日頃の主義から、場合不相應に立留まり「何の樣な御用事です」
森江氏「實は私の持船巴丸の乘組員團友太郎と云ふ者が拿翁黨に與したと云ふ嫌疑で、先刻捕縛せられましたが、彼れに限つて其樣な事はなく、全く何かの間違ひですから、何うか其をお含みの上、成る可く早く放免になる樣なお計らひを願ひたいのです」とて猶も友太郎の日頃の振舞や、近々船長に成ることから婚禮の間際で有つた事まで、掻摘んで耳に入れた、蛭峰「イヤ私は未だ其當人をさへ見ませぬが、外ならぬ貴方の御依頼ゆゑ、果して實跡のない者なら決して餘計に引留る樣なことはしません」と呑込んだ樣に云つて、其まゝ分れて取調廳に入つて行つた。
茲には既に友太郎が拘引せられて來て居るのだ、爾して暇もあせらず、友太郎を呼出した。
【参考】Youtube ・【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王)1マルセイユ到着(英語版から日本語訳)

