◎風流滑稽譚(一)バルザック著小西茂也訳
悪魔の後嗣
むかしサン゠ピエール・オ・ブー近くの寺通りに、豪勢な屋敷を構えていた巴里ノートル・ダム寺院の司教会員たる一老僧があった。もとこの長老は、鞘のない短刀のように裸一つで、はるばる巴里に出て来た一介の司祭であったが、円顱の美僧でいちえん欠くるところなく、旺盛潤沢な体躯にも恵まれ、いざという時には、何ら憔悴するところなく男数人前の役割を果すことが出来たので、専ら女人衆の懺悔聴聞に精を出して、鬱々としている女子にはやさしい赦罪符を与え、病める善女にはおのが鎮痛剤の一片を親しくとらせるという風に、あらゆる女人に、あらたかな密祷を施して参られたので、彼の情篤い善根や、口の堅いという陰徳や、その他、沙門としてのかずかずの功力がものを云って、遂には宮廷社会へ御修法に招かれるほどの高僧になった。が、宗門当局や良人などに嫉まれぬよう、またこうした儲けもあれば楽しくもある御加持に、神護の箔をつけられるよう、デケルド元帥夫人からヴィクトル聖人の御遺骨を拝戴に及び、その冥護でいろいろの奇蹟を示顕するのじゃという触れ込みを利かせたため、談たまたま彼のことに及ぶと、人はみなこう穿鑿屋に言ったものである。
『あの御坊はなんでも、もろもろの煩いを、立ちどころに根絶するあらたかな御聖骨をお持ちなのじゃそうな。』こと御聖骨に関するとなると、とやかく口も出せないので相手もそのまま黙ってしまう。しかし槍一筋の業前にかけては、この和尚は無双の剛の者でがなあろうという蔭口が、その緇衣の蔭ではもっぱらであった。
こうして長老はありがたい自前の灌水器で、金をどんどん灌ぎ出し聖水を名酒に変性させて、さながら王者のような豪奢な暮しをしておったし、それにどこの公証役場に行っても、遺言状や、お裾分け帳の――誤ってこれをCodicileと書く人があるが、もともとは遺産の尻尾という意味のCaudaから出た言葉なのである――其他云々《エトセトラ》というなかに、ちゃっかり長老の名も並んで記されてあったほどで、だから後には『円顱《おつむ》がすこし寒い気がするが、頭巾がわりに僧正帽でも冠ろうかな。』と長老が冗談まじりに云いさえしたら、たちまち大僧正にでもなれたに違いなかった。かく万事が万事、思いの儘の御身分でありながら、なおも一介の司教会員で甘んじていた訳は、女人懺悔聴聞役としての結構な役得の方が、いっちお望みだったからである。
しかしある日のこと、この頑健な長老も、己が腰骨の衰えを、かこたねばならなくなり申した。年も六十八歳になっておったし、まったく女人済度で身の精根をすりへらして来たからで、今更のように過ぎ来し方の善根功徳を振返って、身体の汗で十万エキュ近くも溜め込んだことを思い、使徒としての勤行もここらあたりで御免蒙ろうと、以後は如才なく上流の御婦人方の懺悔ばかり聴聞することにいたした。若い名僧智識は躍起となって、彼に張り合おうとめされたが、しかし宮廷のあいだでは、身分ある上臈衆の魂の浄めにかけては、このサン゠ピエール・オ・ブーの司教会員にしくはないとの折紙づきだったもので、如何とも能わなかった次第である。
時の歩みで長老もいつしか九十あまりの美しい老僧となり、頭は雪を戴いたように白く、手こそ慄えたが、体躯は塔のように四角く岩乗で、もとは咳払いもせずに痰を吐いていたのが、今では痰も吐けずに咳ばかり出るといった塩梅で、さしも仁愛のために、身軽く持ち上げていたお臀も、遂には床榻からさえたたなくなってしまわれた。言葉数は寡くなったかわりに、よく啖い、よく飲み、さながらノートル・ダムの生仏といった概があった。
こうして長老が梃子でも動かなくなったのを見て、また多情仏心の昔の行状に鑑みて、――これは漸く近頃になって、例の蒙昧な素町人どもの間で、専らの取沙汰となっていた。――乃至押黙ったその蟄居ぶりを見て、彼の回春の溌剌さを看取して、まった瑞々しいその老齢を眺めて、その他いいつくせぬほどの数々の事由からして、わが聖く尊き宗門を傷つけ、鬼面人を喝せんとするの徒輩は、――実は本物の長老はもうとっくに死んで、ここ五十年以上というもの、悪魔の奴があの和尚の身体に巣くっておるのだなどと、蔭口を叩くものすらあった。またこの行い澄した懺悔僧から、望みの儘の御加持を受けた御婦人方のなかにも、――悪魔の高い熱気でも借りぬことには、あのような魔性の蒸溜液のお布施など、そうふんだんに出来るものではないゆえ、きっとあの長老には、魔性が憑いていたに違いないなどと、むかしを思い出し顔に囁くものもあった。
しかし悪魔がこうして女人衆のために、すっかり牛耳られ骨抜きにされて、今はもうよしんば二十歳の王妃のお召しに預っても、応じられなくなったさまを見るにつけ、お目出度い衆をはじめ、物の道理の分った連中、何事にも一理窟こねだす町人共、禿頭に虱をみつける穿鑿屋などは、ひどく訝しんで、悪魔が緇衣をまとって高僧智識の面々と、ノートル・ダム教会に勤行して、図図しく抹香の匂いを嗅いだり、聖水をおし戴いたりなんどの所行に、ただただ驚嘆の眼を睜るのであった。
こうした異端の邪説に対して、――いや、悪魔が一念発起して、改悛したがっているのだと唱えるものもあれば、裕福な長老の風態《なり》を悪魔がしているのは、きっと猊下の後嗣たる三人の甥たちをからかって、後の烏がさきになるまで生き残って、彼等を便々と待たせて面白がっているのだなどと、言い出すものさえあった。この後嗣たちというのは、金持の伯父さんの跡式を空頼みして、毎日のように伯父さんが目を開けているかどうかを見に参ったが、何時も長老は怪龍《パジリツク》の眼玉のように炯々たる眼を鋭くぎょろつかせていたので、――伯父さんを深く慕えばこそ、安堵の胸を撫で下しておった。(もちろんこれは口先だけの話だが。)
長老が悪魔に違いないという説を、頻りに言い張る一老女の話によると、ある晩のこと聴懺悔僧のところで、御馳走になった長老が、提灯も松明も持たずに、二人の甥〈代訴人と軍人〉に送られて出たところ、クリストフ上人の彫像を建てるために積み重ねてあった石材に、長老はひょんなはずみに躓かされ、目から火を出して転んでしまわれた。叫び声をあげた甥たちが、老女の許から借りて来た松明の光で照らしてみると、長老はまるで九柱戯のようにしゃんと突立ち、熊鷹のようにぴんぴんして、――なあに、頂いた般若湯の霊験で、何の障りもなかったわい、儂の骨組は根が岩乗じゃから、なんのこれしきとばかり、平然とうそぶいておったという。お陀仏したと思いきや、かかる石仕掛にもめげるところがなかったので、甥たちはこの分では伯父の寿命も、なかなかに先きがあると驚いて、日頃から岩乗と感心していたのも、尤も千万と思ったそうである。――しかし長老は度重なるこうした道すがらの石攻めを用心しだして、ひどく石を怖れ出し、はるか最悪の場合を予想して、家にばかり閉じ籠っているのだと、まことしやかに言い触らす手合もあった。
こうした蔭口や噂話を綜合するに、悪魔かどうかは判らないが、この老司教会員は屋敷に籠りきりになって、ちっとやそっとでは極楽往生もせずに、三人の甥と、坐骨神経痛と、腰の病と、その他、人生のくさぐさの煩いを持ち合せておったことが、いっぱしお解りになったであろう。
さて三人の甥っ子のうち、一人は女人腹から生れたとは思えぬほどの性悪な武弁で、殻を破って生れ出た時から、もう歯を生やし剛毛を逆立てていたというから、さぞかし母の胎内を痛めたことに違いあるまい。物を啖うことといったら、現在と未来の二つの動詞の「時」の両股かけて詰め込むし、素性の悪い女を囲って、あたまの物まで面倒をみていたし、屡々御用をつとめる例のものといえば、その持久力といい精力といい作法の心得といい、こればかりはまこと伯父の名を恥かしめぬものがごあった。戦場に出でては、敵に一太刀も蒙らぬさきに、彼は相手を浴びせ倒して、決して容赦はしなかった。――尤もこれは戦いに於て決着すべき唯一の問題であることは、未来永劫渝らぬ真理であろう。――だが、こうした蛮勇を除けば、何一つの取得もなかったので、どうやら槍騎兵の隊長となり、ブルゴオニュ公の御愛顧も浅くなかった。公は戦場以外の方面で、部下が何をしでかそうと、極めて暢気なお方であられたからである。この悪魔の甥は牝豚鶴太《コシユグリグ》隊長といったが、力が強い上にいたって根性が悪かったので、彼に散々と懐ろをいためられた借金取りや、高利貸や、素町人などは、悪猿《モンサージユ》と呼んでいた。生れつき背中には傴僂の隆肉《こぶ》が盛り上っていたが、うっかりその上にでも乗って、あたりを睥睨したいような思い入れでもして見せたが最後、立ち所にぶん擲られるものと、覚悟しなくてはなるまい。
もう一人の甥は法律をかじっていたが、伯父さんのお蔭でどうやら一人前の代訴人になり、長老がもと懺悔を承って、お加持を施して廻った御婦人方の御用を、もっぱら引受けて、裁判所でこそこそ暗躍をしておったが、兄貴の隊長と同じく牝豚鶴次《コシユグリグ》という名であったが、それをもじって人呼んで盗鶴《ピルグリユ》と云っていた。
盗鶴は脆弱な体躯で、蒼白い顔色に貂のような面つきをし、氷のように冷たい小便をするに違いない冷血漢に見えたが、しかし隊長よりは一厘ほどましな人間で、伯父に対しても一勺ほど余計に愛情を持っていたが、ここ二年ばかりというもの、その心底にも少々罅が入って、一滴一滴と感謝の念も薄らいで行き、たまたま懐ろ寒い雨催いの折なぞは、伯父さんの股引の中に足を突込んで、沢山な遺産の果汁を搾る日の来るのを、あらかじめ思い描くことなどもあった。
二人の甥は遺産の分け前が軽すぎると、頻りにこぼしていた。というのは法律通り、額面通り、権利通り、正確に、必然に、現実に、全額の三分の一を、長老のもう一人の妹の伜で、ナンテール近くの田舎にくすぶって羊飼をやっている、あまり伯父からも可愛がられていない従兄にも、分けてやらねばならなかったからである。
この羊飼は平々凡々の田吾作で、今度ふたりの従兄によばれて都に上り、伯父の家に居候していたが、莫迦で頓馬で抜作の薄野呂ときているので、多分伯父も愛想をつかして、遺言状からも名を削るだろうとの魂胆から、わざわざ従兄たちは呼び寄せたのであった。
そんなわけでこのシコン(萵苣《ちさ》)という羊飼は、かれこれ一月あまり、年老いた伯父さんと一緒に暮していたが、羊を見張っているより、和尚さんに附添っていた方が、得もゆくし、気晴しにもなるというので、長老のまめまめしい犬となり、下僕となり、老いの杖ともなって、長老が屁をすると、「桑原くわばら」と唱え、嚔をすると、「南無阿弥陀なんまいだ」と云い、曖気《げっぷ》をすると、「寿限無じゅげむ」と呟くのであったが、長老はシコンに空模様を見せにやったり、猫を探しに行かせたりしていた。シコンは老僧の咳唾を顔一面に浴びながら、おとなしくその長談義に耳をすましたり、阿房律儀に応答したり、黙ってお相手をしたりして伯父をこの世で一番傑れた生仏と、心底から信じきっているもののように敬いあがめて、まるで子犬を舐める親犬のように、嘗めんばかりに老人にはんべっていたので、長老はパンのどっち側にバターがついているか、親しく手にとって見る必要もないくらい、シコンにまめまめしくかしずかれていた。しかし不思議なくらいシコンを邪慳にして、骰子のようにきりきり舞いをさせ、事毎にシコンの名をがなり立て、二人の甥に向っては、うっそり者のシコンの莫迦さ加減に腹が立って、死期を早めそうだなどと、常始終こぼしておった。
こうした愚痴をしょっちゅう耳にしていたシコンは、なんとかして長老のお気に入るように尽そうと、頻りに無い脳味噌を絞っていた。このシコンのお臀といったら、南瓜を二つ並べ立てたようだったし、肩幅も広く、手足も太く、敏捷というにはあまりに縁遠いところから、軽やかな西風《ゼフィールス》の神というよりは、鈍重な森林の神といった趣があった。が、可哀想に、この単純な羊飼には、どう身の変えようも、智恵づきようもなかった。伯父の遺産でも入ったら、すこしは痩せるだろうと、先ずそれまではでかい図体をして、むくむく肥っていたのであった。
ある晩のこと、長老がシコンに悪魔のことや、神様が堕獄者に対して課したもう無間地獄の責苦や苦患のこと、あの世での阿鼻叫喚のさまなどを話してきかせると、竈の口のような大きな目玉を睜って、シコンはこれを聞いていたが、伯父のいうことを少しも真に受けようとしないので、『なんだ、シコン、お前は神様を信じないのか?』と長老には訊ねた。『とんでもねえ、おらは大の門徒であんすよ。』『だろう、――そんならこの世で功徳を積んだ人のために、天国というものがあるように、悪人ばらのために、地獄があるのも当然じゃろう。』『はあ、そりゃそうでがすが、いったい悪魔なんどというもんは、余計者じゃねえでがしょうか。仮にこのお屋形に悪党がいて、ごたごたにぶっちらかすとしたら、あんたさまは其奴を追い出すでがしょうが?』『きまっているさ、シコン。』『ほれ御覧なせえ、伯父御。えら骨折っておつくりにならっしゃったこの世界を、片っぱしから打ち壊して歩く悪魔なんて野郎を、黙って放っておくほど、神様はぼけちゃいめえと思いやすがねえ。だから神様が本当にござらっしゃるなら、悪魔なんて金輪際おりっこはねえと信じていやすだ。お前さまも大船に乗っかった気でいなさるがいいだ。まったく悪魔のつらが見てえ。奴の爪牙《つめ》なんぞ、わしは屁とも思いましねえだよ。』『なるほど、お前のようにそう信じていられたら、わしは毎日十度も懺悔を聞いて廻った若い日の過ちを、苦にするにも当らぬのう。』『いいや、そうでねえでがす。せっせと今も懺悔なさるがいいだ。天国へ昇らっしゃってから、きっといい報いがありますだに。』『そうかのう!』『ほんとでがすとも、長老さま。』『じゃシコン、お前は悪魔を否定して怖くないのじゃな?』『悪魔だなんて麦束ほどにも気にかけましねえだ。』『そんなことを抜かしおると、いつか非道い目に遭わされるぞ。』『大丈夫でさあ。神様があっしを悪魔からお護り下せえますだ。――お偉い学者衆が考えて御座らっしゃるより、神様はもっと賢くて物の判ったお方にちげえねえと、わしは思っとりますだに。』
ちょうどその時、二人の甥たちが入って来たが、長老の優しげな声音を耳にして、――伯父はシコンをそう憎んでもいず、口癖のように彼のことをこぼしていたのは、シコンに対して抱いている愛情を隠すための芸当だったと悟って、喫驚して互に顔を見合せた。
二人は伯父が上機嫌なのを見て、『遺言をお書きになる時、この家は誰にお譲りになるお心算です?』『シコンにな。』『ではサン・ドニ街の地所は?』『やはりシコンにじゃ。』『ヴィルパリジスの領地は?』『それもシコンにくれてやろう。』『へえ、じゃみんなシコンのものになるのですかい?』と持前の野太い声で隊長は云った。
伯父は薄笑いを泛べて言った。『いや、初めからそういう心算でもなかったが、ただお前方三人のうちで、一番賢いものに遺産をみんな譲るように、正式に遺言状を拵えておいたからじゃ。さきゆきの短いこの儂には、なんだかお前方三人のさきゆきが、ありあり判るような気がするのじゃよ。』
そう云って、ねぐらに嫖客《かも》を連れ込む夜鷹のようなこすからい薄目を使って、じっと老獪な長老にはシコンの方を凝視めされた。爛々たるその眼光の炎が、羊飼を灼いたかと思うと、その瞬間からシコンは頭も耳も何もかも忽ち晴れ晴れといたして、さながら婚礼の翌る日の花嫁御のように、世事を解して来たのである。
代訴人と隊長には、伯父の言葉がまるで福音書の謎の予言のようにしか思えなかったが、挨拶もそこそこにしてその場を切上げて行った。途轍もない伯父の意嚮を計りかねて、すっかり二人は困惑の態であった。『シコンの奴をどう思うね?』と盗鶴は悪猿に云った。『畜生、しゃつ、俺はイェリュザレム街に待ち伏せして、素っ首を地面に叩き落してくれる!
さぞ後生大事に手前の首を拾い上げることだろうぜ。』と語気も荒く隊長は言い放った。『はっはっは、兄貴のばらしかたじゃ、すぐと尻が割れて、コシュグリユの仕業に違いないと感附かれるにきまってる。――俺だったら彼奴を御馳走に招いて、鱈腹くらわせてから、御殿で流行っている遊戯だといって、袋に入って、誰が一ばん早く走れるか競走しようと、奴さんをうまく袋のなかに縫いくるめて、泳げや泳げとばかり、セーヌ河に叩き込んでやる。……』『なかなか趣向がかってるな。』『なあに、細工は流々さ。彼奴を悪魔の手に引渡して、遺産は二人で山分けという寸法はどうだい。』と代訴人は云った。『いいとも。俺達二人は一心同体だ。お前は絹のように、やんわりと運ぶが、俺は鋼のように強引にやるんだ。剣だって決して罠には後れはとらんぞ。なあ弟。』と剣客は腕を撫して言った。『もちろんだ、仲好く共同しなくっちゃ……したが彼奴を片附けるに、さしあたりどうするかだ。剣で行くか罠でやるかだが……』『なにを大袈裟な。――まるで王様をやっつけるみたいに云う……たかが薄野呂の羊飼風情を眠らせるに、えらく業々しい。――よし、こうしよう。どちらでも先に彼奴をやっつけた方が、遺産から二万フラン多く頂戴することにしよう。俺は誓って彼奴に言いきかしてやる。「首を拾えよ」とな。』『じゃ俺はシコンに「泳げや泳げ」と罵ってみせるよ。』そう代訴人は言って、胴着の綻びのように高笑いをした。そして二人は袂を分って、隊長は愛妾のところへ、代訴人は情婦である餝《かざり》職の女房の許へと、それぞれ晩餐をしたために行った。
聞いて喫驚したのは、誰あろうシコンである。――天主堂でお祈りの最中ささやきあう時のような低い声音で、二人の従兄は寺町をぶらぶら行きながら密談したのであったが、なんと当のシコンの耳に、その怖ろしい己が殺人計画が、筒抜けに聞えて来たのである。声が上って来たのか、それとも耳が下って行ったのかと、シコンはひどく訝んだ。『長老様、お聞きになりやしたか?』『う、うん。炉で粗朶がはぜている音じゃな。』『ほ、ほう。地獄耳だの悪魔だのって、わしにはさっぱり縁がねえが、おらの守り神のサン・ミカエル様の御冥加でもあろうかい。免に角その仰せどおりに従いますべえ。』『そうじゃ、シコン、しっかりいたせよ。水にはまったり、首を切られたりせぬように、くれぐれも用心いたしたがよいぞ。どうやら荒れ模様じゃな。街の破落戸《ごろつき》に輪をかけた性悪ものが、どこぞその辺に沢山とおるからのう。』と長老には呟かれた。
意外な伯父の言葉に、シコンは驚いて思わず顔を見たが、例の通りの快活な顔つきと、生々した眼と、弓のような足をした伯父の所体には、常日頃と変った様子はすこしも見えなかった。しかし差迫ったいのちの危険を、何とかシコンは善処せねばならず、長老の傍でぽかんとしたり、爪を切ってやったりは、何時でも出来ると考えて、悦楽のクライマックスに向って小走りに急ぐ女人のように、彼は急ぎ足で町へ出て行った。
往々にして羊飼たちに閃くことのある天来の卜見に就いて、何の臆断もなし得なかった二人の従兄は、常々シコンを阿呆《うつけ》扱いにしていたので、憚るところなく彼の前で、幾度かおのれらが私行上の秘密を洩らしたことがあった。それで或晩のこと、長老の御機嫌を取結ぼうとして盗鶴は伯父に向って、餝屋の金銀細工師の女房をものにして、王者の豊額を飾るにふさわしいほど、金銀を鏤め、鏤刻を彫んだ、由緒深い一対の角細工を、燦然と莫迦亭主の額際に、寝取られ男の看板として取りつけてやった経緯《いきさつ》を、面白可笑しく話したことがあった。相手の女房というのは、裾貧乏の蓮葉女で、いたって密会度胸がよく、亭主の跫音が階段でしても、なおも平気で抱きついているし、莓を啖うように好きなものが好きで、いつも浮気沙汰しかあたまにはなく、溌剌とした跳ねっ返りやで、香水のように粋筋で、心咎めのせぬ貞女さながらに快活そのものであった。ずっと良人を凄腕で操って来たので、人の好い亭主は、まるで己が喉仏よろしく、女房殿を大事にしておった。それにもうここ五年も、天晴れ世帯のやりくりや、邪恋の道行を巧みに捌いて来ていたので、世間からは堅い御新造と云われ、良人からも信用を博して、家の鍵も財布もなにもかも、預かるほどの声望を持ったじゃじゃ馬になっていた。『それで何時その優しい笛をしらべるのだね?』と長老は代訴人に訊ねた。『毎晩ですよ。夜通し泊りこみのことさえあります。』『へえ、どうやってだい?』と驚いて長老には訊ねられた。『納戸に大きな衣裳長持がありまして、そこへ入り込むのです。お人好しの亭主は、毎晩仲間の羅紗屋の主婦さんのところへ張りに出掛けて、飯を御馳走になって来るのですが、帰ってくると早々に女房のやつは、頭痛がするとかなんとか云って、亭主を一人で寝かせて、長持のおいてある納戸へ、頭痛なおしにいそいそとやって来るという寸法です。翌朝、餝屋が仕事場に入った隙に、こっちはこっそり納戸からずらかるのですが、家の入口が橋の方と通りの方からと二つあるので、亭主のいない方から、訴訟事件の用で来たとつくろって、何時でも勝手に入り込めるのです。なに、その訴訟といったって、うまく仲に入って操っていますから、金輪際おわりっこありません。まるで間男としてのお手当金を頂いているみたいです。なにしろ裁判ときた日には、馬を厩舎に飼っておくのも同じで、いろいろと細かい無駄銭がかかって来るのを、そいつをのこらず亭主莫迦が、払っていてくれるのですよ。総じて寝取られ亭主と言えば、ヴィーナスの天然庭園を、共に手を貸し耕やかし、鋤き、灌ぎ、植え附けしてくれる間男を、みな有難がっているものですが、御多分に洩れずあの二本棒も、私に非常に感謝して、私がいなくては何一つ出来ない有様です。……』
代訴人のこうした遣り口が、ありありとシコンの記憶に浮んだ。身に迫る危難の闇から、きらめいた一道の光芒に接して、シコンはにわかに明敏となり、わが身を護る本能から、たちどころに慧智が湧いて出たのである。どんな動物にも、きめられた生命の苧玉《おだま》を完うするだけの才覚は、ひとしく備わっているものである。
シコンは急ぎ足でカランドル街に行き、羅紗屋の主婦《かみ》さんと差向いちゅうの餝職に逢おうとした。戸を叩いて、小さな鉄格子の間から、お上の御用でこっそり来た者だとシコンは佯わって入り、ちょうど食卓に就いていた陽気な餝職を、羅紗屋の一隅に招いて、これにいきなり告げた。『お宅で知り合いの男が間男をして、あなたを嬲っているとしたら、両手両足を縛されて引渡されたそいつを、川の中へ投げこんでやる気はありませんか?』『勿論のことだ。――したがそんな法螺を吹いて、この俺を担ぐ気なら、うんと痛い目をみるが承知か?』『結構ですとも。あたしはあなたの味方だから申すのですよ。あなたがここで羅紗屋のお主婦さんと楽しい差向いの隙に、お宅ではあの三百代言の鶴公と、いつもお上さんが、乳繰り合っているんですぜ。早く帰って細工場の鞴《ふいご》を御覧なさい、火事ぼうぼうでさあ。あなたのお帰りと同時に、あのここな丹田の煤払いの不埒者は、早速に衣裳長持に、どろんをきめこむ寸法になっているのです。どうです、ひとつ私がその長持を買い取ることにしようじゃありませんか。――車を持って橋の上で、万事あなたのお指図を、お待ちしていますぜ。』
餝職はマントや帽子を手に取るや、羅紗屋に挨拶もせず、目の色かえてそこを飛び出して、毒を呑んだ鼠が巣に走り帰るように、まっしぐらに家に帰って、割れるように戸を叩き、つかつかと入って、いきなり二階に馳け上ると、二人前の御馳走が座に並べられ、隣りで長持の締まる音が聞え、何くわぬさまで不義の部屋から女房が戻って来た。『おい、どうして二人前ならべたんだ!』と彼は妻に叫んだ。『なに仰有ってるの。あたしとあなたの分じゃありませんか。』『嘘も好い加減にしろ。俺達は三人の筈だ。』『あら。羅紗屋さんも御一緒なの?』とわるびれもせず女房は言ってのけて、階段の方を振り返った。『いや、俺は長持の中においでの御仁のことを云っているんだ!』『まあ、長持ってどの長持?
あなた気は確かなの?
どこにそんな長持があるの?
長持の中にひとを入れるだなんて!
あたしがそんなことをする女と、思っていらっしゃるの?
いつから人間の長持なんて出来たの?
長持と人をごっちゃにするなんて、あんたったら、どうかしていらっしゃるんじゃない?
相伴のお相手といったって、羅紗屋のコルネイユさんしか、あたし存じませんし、長持といったって、うちのおんぼろ着物を入れとく長持しか、他にないじゃありませんか?』『うん、だがなあ、お前がうちの代訴人の奴に跨られている、お前の長持に彼奴が隠れている、そう云ってわざわざこの俺に、告口に来た性悪《しょうわる》がいたんでなあ――』『まあ、このあたしがですって?
あんな横車押しの三百代言となんか、胸糞わるくって堪らないじゃないの。――』『いや、解った、解った。お前が貞節そのもののことは、俺だって、ちゃんと承知している。あんなぼろ長持のことで、可愛いお前と口喧嘩しても、今更始まらないじゃないか。――見たばかりで気色の悪いあの長持を、ここへおいとくのもいまいましいから、早速にそのおせっかいな家具屋の野郎に、綺麗さっぱり売り払うことにしよう。そのかわりには、子供さえ忍び込めぬような小綺麗な長持を、二つ買うことにした。そうすればこれからは、お前の貞淑なのをやっかんで、告口したり、けちをつけたりした野郎も、ぐうの音も出まいさ。』『まあ嬉しい!
あたしだって、あんな長持に、なんの未練なんかあるものですか。それにちょうど幸い、着物もみんな洗濯に出してあって、いまのところ何も入っていませんわ。明日の朝早くあの悪戯長持を、運び出させることにしましょう。ねえ、それよりか御飯を召上りません?』『沢山だ!』と亭主は答えた。『あの長持を片附けぬうちは、ろくろく飯も咽喉に通らん位だよ。』『まあ、長持を外に運び出すより、あなたの頭から追い出す方が、余計に手間がかかりそうね。』『なんだって?
よし、――おうい!』と餝職は大声で鍛冶屋や徒弟たちを呼び集めた。『みんなやって来い!』
忽ちに徒弟たちが集まって来た。長持を運び出せと親方は手短かに命じたので、恋の家具は俄かに納戸から運び出されたが、なかに忍んだ代訴人は、いきなり足が宙に浮いたために、普段あまり覚えもないことゆえ、ちょっと身体がよろめいて、バタリ音を立てた。『さあさあ、早くして。――あれ、何の音でもありゃあしないよ。台木がちょっと揺らいだだけさ。』と女房は口早に徒弟たちに言った。『いや、お前、あれは棹《シュヴィル》がぶつかったのだよ。』
そう言って餝職は四の五の言わせず長持を階段からすべり下させながら、『おい、車の支度はどうだ!』と叫んだ。
シコンは口笛を吹きながら騾馬を引っ張って来ていた。徒弟たちは力を協せて、荷車の上に代言箱を担ぎ上げた。『ひい、ひい、ひい。』と代訴人は悲鳴をあげた。『親方、長持が口を利いてますぜ。』と徒弟の一人が言った。『篦棒め、どこの言葉でだ?』と餝職は言いながら、徒弟の二つの泣きどころのあいだあたりを、したたか足で蹴飛ばしたが、そこが硝子細工でなかったことは、まこと不幸中の幸いであった。長持がどこの言葉を喋ったのか、石段の上に倒れたので、徒弟には究めつづける余裕もなかった。
シコンは餝職と一緒に、川端に大荷物を運び出したが、物言う長持がいくら泣こうと喚こうと頓着なく、いくつか大石を長持に結びつけ、セーヌ河めがけてどんぶりこ、餝職は投げ込んだ。家鴨が水くぐりをするように、長持が沈み出した時、「泳げや泳げ……」とシコンはあらわな嘲りの口調で叫んだ。
それからシコンは河岸通りを伝って、ノートル・ダム寺院の傍らのポール・サン・ランドリ街に行き、とある立派な家の門を手荒く叩いて、『おい、開けてくれ!
国王の御用だ!』と喚いた。それを聞いて門口に馳せつけて来た老人は、当時名代の高利貸、ヴェルソリに他ならなかった。『何の御用で?』と彼は訊ねた。『今晩お宅へ押入りが這入る気配があるので、よく用心するよう、奉行所から注意に参ったのです。勿論、お上としても、ぬかりなく警吏たちの手配はしておきますが、曲者というのが、いつぞや貴老に偸盗を働いたあの兇暴な傴僂《あくざる》で、ひとの生命《いのち》なんか屁とも思わぬ奴ですから、くれぐれも邸の内外は厳しくお堅めになっていて下さい。』
そう云ってシコンは、踵を廻らしてマルムウゼ街の方へ走り去った。コシュグリュ隊長がラ・パクレットを相手に、晩酌をきこしめしている場に、赴こうと思ってである。
ラ・パクレットというのは、数ある娼婦のなかでも飛切りの上玉で、同じ朋輩の蔭口では、当代きっての凄腕の白首だそうで、生々したその眼は、匕首のように人を刺し、艶笑たっぷりの彼女の物腰に接しては、天国じゅうが春情《さかり》を萌そうし、取得といったら、横紙破りのところしかない厚顔無恥なしたたか女だった。
マルムウゼ街に行く途中、シコンは相手の女の家を知らぬことと、うまくその家を探し当てても、恋の鳩どもが翼交して寝てしまったあとかも知れないという懸念から、ひどく気掛りだったが、上天の御使の有難いお導きか、万事シコンの思う壺にはまった。というのはマルムウゼ街に入ってみると、窓々に沢山明りが見えていて、寝帽子を冠ったあたまが、それぞれ戸外に突き出ていた。娼婦や女中や女房や亭主や娘子など、いずれも起きぬけのところらしく、松明の明りで刑場に牽かれてゆく盗人を眺めてでもいるように、顔を向きあわしていた。まさかり槍を片手に持って、慌てて戸口に顔を出した男に、シコンは聞いた。『もし旦那、なんの騒ぎで?』『なあに、なんでもありませんや。アルマニヤック党の手兵が町に押寄せて来たのかと思ったら、あれは悪猿がパクレットを引叩いているのでさあ。』とお人好しは答えた。『どこで騒いでいるんです?』『あすこに見えるあの家ですよ。標柱の上部に蚊母鳥が美しく彫ってある家でさあ。あれ、あの叫びは下男や下女どもですよ。』
なるほど「人殺し!」「助けて!」「誰か来てくれ!」「大変だ!」というような叫びが聞えたかと思うと、家のなかで烈しい打擲の音がし、悪猿の太い声音《こわね》で、「この地獄め、くたばってしまえ!」「まだ泣きやがるのか、こいつ!」「なに、金が欲しいと、へん、これでもくらえだ!」などという悪態とともに、「あーん、あんあん、人殺し、いたい、助けて!
死ぬよう!」というラ・パクレットの呻き声が、しばし聞えていたが、やがて剣の音がちゃりんとして、ついで妖婦の華車な身体が倒れる鈍い物音がして、それから深い深い沈黙が続いた。――あちこちの燈火も次々に消え、下女や下男や客人たちも、どやどや各自の部屋に戻り始めた。シコンは折よくそれらの人たちにまぎれて、屋敷に入り込んで二階に上ってみると、酒壜は壊れ、壁掛は裂かれ、床にはナプキンや皿小鉢が散乱していて、弥次馬どももみな立竦んで、一歩も近寄ろうとはしない。一念凝った男のように勇敢なシコンは、パクレットの立派な寝室の扉を押し破って入ると、女は髪はざんばらになり、胸許もあらわに、血に塗れた絨毯の上に、ぐったり倒れていた。その傍らに悪猿が茫然として、最前からの讃歌の続きを、どう唱えつづけたものやらと、術なさそうに見えたが、低い声音で、『おい、可愛いの。死んだ真似なんぞ止せよ。こっちへ来い。仲直りしたいんだろう。この悪性女め、おい、死んでるのか、生きてるのか、血みどろの眺めなんて、偶にはちょっとおつだぜ。よし抱いて寝て可愛がってつかわそう。』
そう言いながらコシュグリュは、女を抱き上げて、寝床に抛り出したが、まるで首吊りの屍骸の如く、硬ばってどさりと落ちたので、ギョッとして、いちはやく高飛びの肚をきめたが、なおも図々しく立去る前に、『おお、可哀想なパクレットさまよだ。お前のようなやさしい色女を、どうしてこの俺の手にかけられようか。――とはいうもののお陀仏か。可愛らしい乳房が、だらりとそんなに下るとこなんて、ついぞ生前はお目にかかれなかったな。まるで頭陀袋のなかの金貨みたいだぜ。』
その言葉に、パクレットは薄く片目を開けて、首をそっと伸ばして、白いむっちりした己が胸許を眺めた。と、いきなり起き上って、隊長の頬にピシャリと平手打ちをくらわせて、ピンピン生き返ったところを見せた。『死んだ仏の悪口を叩くなんて、覚えてらっしゃい!』と微笑しながら云った。『あんたったら、まあなぜ、殺されはぐるような目に遭ったんだね?』とシコンは訊ねた。『なぜ<傍点>もこう<傍点>もありゃしない。明日は執達吏が来て、ここの家のものをのこらず差押えようという矢先に、この人ったら持ってるものは気位ばかりの一文なしときてるの。それであたしがいい鴨を掴えて、うまく金を絞り、このお手詰りを切り抜けようと言ったら、このひと滅茶苦茶に怒り出したのよ。』『おい、パクレット、好い加減にしろ!』『へえ、それんばかりのことで、おっぱじまったんですかい。』とシコンは云った。この時初めて隊長は、シコンの存在に気づいた。『コシュグリュさん。あたしは豪勢な金蔓を握って来たんですがね。……』とシコンは言った。『へえ、で、それはどこにあるんだ?』隊長は喫驚して訊ねた。『ちょっくら耳をおかしなすって、内緒話で。……いいですかい、三万エキュばかりの金が、梨の木の下で、夜分ひとの来るのを待っているとしたら、誰だって勿体ながって拾うでしょうが?』『おい、シコン、俺をからかいに来たんだったら、犬のように叩っ殺すがいいか。――したが、この俺様の為に三万エキュの金を拝ましてくれるというなら、川ぶちで三人ほど素町人を手にかけるような荒仕事であろうと、喜んで俺はお礼に貴様の好きなところを舐め廻ってやるぜ。』『なんの女っ子ひとり殺すがものはありませんや。まあ聞いて下せえ。伯父さんの家のすぐ近くの|中の島《シテ》に住んでいる高利貸のところの女中と、わしはかねて好い仲なんでして、へ、へ、へ、で、ちょうど昨晩のこと、歯が痛んで堪らないもんで彼女は、天窗《てんまど》に顔を出して風に吹かれていたところが、その高利貸の先生が天使さましか御存じあるめえと、屋敷の梨の木の根元に、千両箱を埋めているところを、見るともなしに見てしまったもので、恋の口説の合の手に、あっしにべらべら喋ったんでがす。なんでも慥かな筋の話だと、今朝方高利貸は田舎の方へ、旅立って行ったそうな。で、物は相談です、私にもたんまり分け前をくれるんなら、そこの塀に攀じ登れるよう、この肩を踏台にお貸し申そうじゃありませんか。梨の木は塀のすぐ傍ですから、造作なく飛び移れるっていう寸法でさあ。どうです、これでもわしを馬鹿で間抜けだと仰有れますかい?』『なるほど、でかしたぞシコン、お前なかなかの利口者だ。いや、天晴れな男前だ。今後もしお前に、眠らせたい奴でもあったら、何時でも俺にそう言って来てくれ。よしんば俺の友だちであろうと、きっとそいつをばらして進ぜるから。なあ、シコン、お前は俺にとって従兄どころじゃない。兄弟だ、兄弟分以上だ!
さあ、パクレット、――(悪猿はラ・パクレットに向って)早く御馳走の支度をやり直せ。血なぞさっさと拭いてしまえ。お前の血は俺のもの。いましがたの百倍もの血(腎水)を、いざといえばこの俺の身体から償って返してやらあ。一番いい精血を引き出すさ。俺らの怖《おじ》け鳥を猛《たけ》らせようぜ。ほら、スカートがまくれてるぞ。おい、笑えよ、笑ってみせるんだ!
いいか、腕によりをかけておいしいシチウをつくるんだぞ!
さっきしかけた食前の晩祷に、またかかるんだから。なあ、明日になったら、お前を女王様よか豪勢にしてやるぜ。何はさて措いても、ここな従兄どんに大散財せにゃならんのだ。その代り明日という日には、しこたまぽんぽへお金が転がり込んでくるからな。さあ、いざや攻めなん、ハム公をだ!』
「|主が爾曹と共にあらんことを《ドミニス・ヴォビスコム》」と司祭が唱える暇もないくらいのうちに、この愛鳩の巣は、いましがた笑いから泪に移ったように、たちまち今度は、泪から笑いへと早変りしてしまった。淫佚の嵐が猛り狂っているこうした淫猥な屋形うちでは、色恋にはえてして抜身がつきものであるが、何分にも高襟の上臈方とは別天地のこととて、とんと御納得にも参りますまい。
コシュグリュ隊長は授業を終った生徒百人ほどの陽気さで、さかんにシコンに酒を振舞ったので、田舎者流に遠慮なくきこしめした羊飼は、したたか酔った風を装い、くだくだと迷弁を弄し始めた。――いえば、明日になったら巴里を買い取ろうだの、十万エキュばかり王様に貸してやるだの、黄金のなかで黄金《うんち》を垂れようだのと、あじゃらな法螺を吹き立てたので、悪猿はとんだ内緒事でも、素破抜かれてはと危ぶみ、且つはシコンの頭がはぐれだしたものと考え屋外に誘い出した。――いよいよ山分けという時には、シコンの土手ッ腹に風穴を開けて、こんなに鱈腹とシュレーヌの豪酒を腹中におさめ得たのは、どこぞに海綿でも入っているせいではないか、調べてやろうとの殊勝な魂胆もあった。二人は冥茫その極に達した神学上の論議に、口角泡を飛ばせながら、高利貸が金を埋めた庭の塀際まで、忍び足で辿りついた。
コシュグリュはシコンの幅広の肩を足場にして、城砦攻略はお手の物の武弁よろしく、ひらり梨の木に飛び移ったが、かねて待ち伏せていたヴェルソリが、隊長の頸筋に三太刀ほど続けざまにしたたか浴びせかけたので、悪猿の首は宙にと飛んだが、「|首を拾えよ<傍点>」と叫んだシコンの晴れやかな声音を、空中で耳にしたのに違いはあるまい。
こうして寛厚なシコンは、日頃の善根の功徳を受けたのであったが、長老の屋敷に急ぎ戻るのが賢明と思って、サン゠ピエール・オ・ブー街に勇み足で帰り、従兄弟という言葉はどんな意味か、もう知る必要もなく、生れたての赤ん坊のように、すぐすやすやと寝入ってしまった。――神のお恵みで遺産もここに、秩序立って単一化したからである。
翌朝、羊飼の常として、シコンは日と共に起き出し、伯父の部屋に行って、白い痰を吐いたか、咳が出たか、熟睡出来たかと、お伺いを立てようとすると、――長老はノートル・ダムの最高守護神であるサン・モーリスの朝祷の鐘の音を聞かれ、今日はその祭日なので、例の信心深いところから、寺院に勤行に行き、司教会員たちと一緒に、巴里大司教の許へ朝の御斎《おとき》をよばれに廻ったと、老女中のビュイレットがシコンに言うので、『こんな寒い朝っぱらからお出掛けになったりして、風邪を引くか、僂麻質斯に罹るかほかはねえのに、なんだって酔興に出て行かっしゃったか。早くおっ死にたいのかしらん。戻って来て温まれるよう、お部屋にどんどん火を起しておこう。』
そう呟いてシコンは、長老のいつもの居間に入ってみると、驚いたことに、伯父がもうちゃんとそこに端坐していた。『おや、あのビュイレットの気違い婆め、とんだ嘘を吐かしやがる。――こんな時刻に内陣の僧座で厳修をなさるほど、無鉄砲な伯父さんじゃないと思っていましただよ。』
しかし長老は一言も返事をしなかった。およそ世の碩老が霊感によって、超自然界の精霊と、時おり神変不可思議の交媒を心内で行う通力を有していることは、内に慧敏を秘めたシコンも、冥想家の慣いとして、さすがに弁えていたので、伯父の霊怪な沈想を尊重いたして、その傍らをそっと離れて、交感の終るのをしばし恭しく待っているうち、ふと長老の足許に眼をやると、スリッパーを突き通すほどの勢いで足の爪が長く伸びているので、よくよく見てみると、足の肉が真赤で、ズボン下も赤く染まるくらい、布地を越して燄々としているので、「おや、死んでいるのかな?」とシコンは思った。
と、ちょうどその時、部屋の戸が開いて、鼻を凍らかした当の伯父が、またひとり勤行から戻って来たので、シコンは思わず叫んだ。『おや、伯父さん……こりゃ妙だ!
いまのいままで火の傍に坐っていたと思ったら、……もう戸口から戻って来るなんて、どうもはあ、訳がわかんねえなあ。伯父さんがこの世に二人あるわけはなしと……』『なんだ、シコン、同時に二たところにおられたら、随分ひとも重宝だろうと、儂はずっと前には望んだこともあるが、人間業じゃかなわんことさ。あんまり話がうますぎる。――お前なにか見間違えしたのだろう。わしはここに一人しかおらんよ。』
そう言われて、シコンは椅子の方を振り向くと、もうそこには伯父の影もかたちもないので、全くの話、驚いて傍へ近寄ってみると、床の上に僅かばかりの灰がちんまり残っていて、そこから硫黄の匂いが強く彼の鼻を衝いた。『ああ、悪魔がわしを助けてくれたのだ!
御恩になった悪魔のために、神様にお祈りを唱えて上げよう。』とシコンは息勢《いきせい
》張って言った。
そしてシコンは長老に、悪魔が、或いはもしかするとやさしい神様が、性悪の従兄たちをまんまと片附ける手助けをしてくれた顛末を、ありのままに物語った。伯父は物のよく分った方だったし、それに悪魔の好いところも、時おりは認めていただけに、シコンの話に感服して、ともどもに喜んでくれた。かつまたこの高僧は、善のなかにも悪があるように、悪のなかにも善があることを、かねて気づいていたので、未来や来世のことなぞ、そう気にせぬがよろしいとまで、放言めされたこともあったくらいである。ただしこの由々しい邪説に対しては、幾多の宗教会議が催され、糾弾を受けたとのことではあるが。――
さてシコン家が巨万の富を擅にするようになった経緯は以上の通りで、最近、シコン家が先祖代々の財貨の一部を投じて、サン・ミカエル橋の構築に寄進いたしたが、その橋に悪魔が天使の足下に麗々しい顔をして彫られてある因縁は、正史にも記されたこの奇譚を、実に記念してなのである。
悪魔の後嗣
L’HÉRITIERDUDIABLE
アルマニヤック党云々とあるから、この物語は時代を十四世紀末、乃至は十五世紀初頭と考うべきであろう。場所は巴里である。悪魔が実在視されているのは「コント・ドロラティク」のなかでは本篇一つで、あとは「妖魔伝」でも「婬魔伝」でも、悪魔は非実在として描かれている。篇中出て来るヴェルソリは実在人物である。なお姦夫を箪笥長持に入れて川に投げ込むという趣向は、各国各時代の物語にあり、ファブリオや東洋のコントにもある。姦夫として坊主が川に投げ込まれる話がとりわけ多い。