◎平凡な人間の声、 人民の声の中に真実はある 一九三七年七月二十日
爽やかな感じというものは、温るま湯にじっとつかっているような感じではない。
身にさらさらと、何物かを払うがごとく、あたってくる衝激に、軽い心持ちで応えている感じである。何か常に新しいものがたえず身辺を流れ洗っている感じである。
それは失いたくない感じである。
物事をなすにあたって、グループをつくることがあるとき、人々は、お互いに感情を害せずお互に褒めあい、闘わない温い集りを目的とすることがある。
しかし、それでは、お互いに批判したり、自分自身を、いけなかったと反省したりする余地がなくなってしまう怖れがある。
のみならず、それでは、自尊心を失った、阿諛追従の傾向のもののみが集る傾きをつくりあげるのである。
こんなことは下は小さな集まりから、上は国家的重大問題にも共通におこなわれる危険な傾向である。
爽やかさとは、自分を、指摘されたる誤りの中で、裸かのまま検分することである。自分が、自分よりも、もっと真実を愛したことを示すことである。ほんとうの誇りの中に立つことである。つまらぬ誇りなんかは、さらりさらりと西の海に棄てることである。つまらぬ仲間ぼめの中に昂奮しないことである。
今、社会は、物価とか、信用とかの問題を越えて、物そのものが不足してきたことを示してきた。
人間のどんなグループの集まりも、政治のどの党派もこの物そのものの不足という、行きすぎのとがめ、現象自体の批判を、眼前に見ている。
この行きすぎのとがめが何から来るか、これを一日も早く考えるべきである。
人民が一日一日生きている姿は、それで立派に一つの批判である。この苦しさが、棄てようもない、立派な大きな批判である。
何人も爽やかにこの批判の前に立つべきである。
この現象自身の示す、行きすぎのとがめは、この批判は、「断」の一字ではなかなか解決しないし、そんな考え方がユートピアの考え方なのである。
平凡な人間の声、愚民と考えられている人民の声の中に、真実はみちている。
一片の机上の計画の実験を数億の血と汗と胃でいきなり実験する前に、その数億の人間の声に深く問いただす心こそ、爽やかな日本人らしい、すがすがしい清明の心持ちではあるまいか。