◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(05)
第五章 社會主義の効果
〇說て此に至らば、一團の疑惑は雲の如く、油然として直ちに衆人の心頭を衝て起る者あらん、何ぞや。
〇日く、古來人間の氣力奮揚し、智能練磨し、人格向上することを得る所以は、實に生存の競爭あるが爲めに非ずや。若し萬人衣食の慮る可きなく、富貴の進取すべきなく、賢愚强弱皆な平等の生活に安んぜざる可らずと爲さば、何物か又吾人の競爭を鼓舞せんや。競爭なきの社會には卽ち勤勉なけん、勤勉なきの社會には、卽ち活動進步なけん、活動進步なきの社會は、卽ち停滯、堕落、腐敗あるのみ。社會主義實行の効果は、唯だ如此きに止まらざる乎と。
〇獨り庸衆の、這個の杞憂を抱けるのみならず、碩學スペンサーの如きすら亦日く、『社會主義の制度は總て奴隸制度也』と。ベンジヤミン・キツドも亦大著『ソシアル・エヴオルーシヨン』中に論じて謂らく『個人の生存競爭は、啻に社會あって以來のみならず、實に生物あって以來、常に進步の源たる者也、而も社會主義の目的は全く之を禁絕するに在り』と。而して今の地主資本家に阿媚して自ら利する者あらんとするの徒、亦此種の言說を誇張し、以て社會主義の大勢に抗する唯一の武器と為すもの ゝ如し。
〇夫れ社會主義の為す所にして、果して個人の自由を奪ひ社會の進步を休せしむる彼等の言の如くならん乎、其唾棄すべきや論なし。然れども是れ誤謬也、謬誤にあらずんぱ卽ち讒誣《ざんぶ》也。
〇思へ所謂生存競爭が社會進化の大動機たるは、豈に彼等の言を待て後ち知らんや。而も古來社會の組織が漸次其狀態を異にするに至るや、之を刺擊し活動せしむる所以の競爭其物も從つて其性質方法を異にせざることを得ず。腕力の競爭が智術の競爭となれるを見よ、個人の競爭が團體・の競爭となれるを見よ、武器の競爭が辯說の競爭となれるを見よ、掠奪の競爭が貿易の競爭となれるを見よ、侵略の競爭が外交の競爭となれるを見よ、生存競爭の性質方法が、常に社會の進化に伴ふて進化せるの迹を見る可らずや。
〇而して見よ、現時の經濟自由競爭が殖產的革命の前後に於て、世界商工の發達に與って大に力ありしことは、予も亦之を疑はず、然れども此等競爭を必耍とせし時代は旣に過ぎ去れり。今や自由競爭は果して何事を意味すとする乎、唯だ少數階級の暴橫に非ずや、多數人類の痛苦に非ずや、貧富の懸隔に非ずや、不斷の恐慌に非ずや、財界の無政府に非ずや。是れ實に社會の進化に益なきのみならず、却って其堕落を長ずる者に非ずや、如此にして吾人は猶ほ共保存を希ふの理由ある乎。
〇太初蠻野の時に於てや、暴力の鬪爭は社會進化の爲めに共唯一の動機たりき、而も今日に於ては直ちに一個の罪悪に非ずや、若し競爭は進步に必耍なるが故に、暴力も之を禁ずるを得ずと言はヾ、誰か其無法を笑はざらんや。今の自由競爭を以て必要となすの愚は實に之に類せずや。
〇且つや眞個の競爭を試む、必ずや先づ競爭者をして平等の地位に立たしめざる可らず、其出發點を同じくせしめざる可らず。而も今の競爭や如何、一は生れながらにして富貴也、衣食足り敎育足り、加ふるに父祖の讓與せる地位と信用と資產とを以てす、他は貧賤の子也、凍餒《とうだい》窮苦の中に長じ、敎育なく資產なく、地位なく信用なし、有る所は唯だ赤條々の五尺軀のみ。而して此兩者を直ちに競爭場裡に投じて長短を較せしむ。而して其勝敗の決を見て喝采して日く、是優勝劣敗也と、是れ豈に殘酷なる虐待に非ずや、何ぞ競爭たるに在らんや。
〇然り今の自由競爭や、決して眞個公平の競爭に非ざる也、今の禍福や決して勤惰の應報に非ざる也、今の成敗や決して智愚の結果に非ざる也。運命のみ、偶然のみ、富籤を引くと一般のみ。
〇否な所謂自由競爭の不公なるのみならず、此等不公の競爭すらも、今や殆ど之を試むるの餘地なきに至らんとす。見よ、世界產業の大部は旣に偶然を僥倖せる資本家の獨占となれるに非ずや、世界土地の大部は、旣に運命の恩籠ある大地主の兼併に歸せるに非ずや、而して資本を有せざる者及び土地を有せざる者は、唯だ彼等の奴隸たるの外なきに至れるに非ずや。然り自由競爭の名は美也、而も事實に於て經濟的競爭は竟に其迹を絶たずんば已まず。豈に特に社會主義の之を廢絕することを待たんや。
〇於是乎生存競爭の性質方法は、更に一段の進化を經ざることを得ず。社會主義は實に這個進化の理法を信じて、社會全體をして此理法に從はしめんと欲す。然り現時卑陋の競爭を變じて高尙の競爭たらしめんと欲す、不公の競爭を變じて正義の競爭たらしめんと欲す。換言すれば卽ち衣食の競爭を去て、智德の競爭を現ぜんと欲する也。
〇試みに思へ、人生の進步向上にして、單に激烈なる衣食の競爭の結果なりとせん乎、古來高材逸足の士は必ず社會最下府の窮民中に出づべきの理也。而も事實は之に反す、人物が多く富貴の家に生ぜざると同時に、極貧者の中に出づること亦甚だ稀なるに非ずや。他なし富貴の階級や、常に侫娼阿諛《ねいびあゆ》の爲めに圍繞せられて、志驕り氣餒ゑ、徒らに快樂の奴となり、窮乏の民や終生衣食の爲めに遑々として、唯だ飢凍に免る、に急なれば也。
〇然り高尙なる品性と偉大の事業とは、決して社會貧富の兩極端に在らずして、常に中間の一階級より生ずる者也。彼れ夫れ資財ありと雖も未だ彼等を厲敗せしむるに足らず、勤勞を要すと雖も、未だ彼等を困倦《こんけん》せしむるに至らず、猶ほ其智能を磨くの餘裕有り、心氣を奮ふの機會多ければ也。見よ封建の時に於て武士の一階級が其品性の尤も高尙に、氣カの尤も旺盛に、道義の能く維持せられたる所以の者は、實に彼等が衣食の爲めに其心を勞するなくして、一に名譽、 道德、眞理、技能の爲めに勤勉競爭するの餘裕機會を有せしが爲めに非ずや。若し彼等にして初めより衣食のために競爭せざる可らざらん乎、直ちに當時の『素町人根性』に隨落し去らんのみ、豈に所謂『日本武士道』の光榮を擔ふことを得んや。
〇基督は富人を嚴責するに、其天國に入り難きを以てし、貧しき者は幸福なりと日へり。然れども知らざる可らザ、當時の猶太の貧民は、漁農を務め、エ獎を勵み、以て獨立の生を營めるの中等民族にして、決して今日多數の賃銀的奴隸と同視すべきに非ざることを。而して社會を擧げて是等中等民族と為さんとするは、是れ社會主義の目的とする所に非ずや。
〇爰に人あり、雇主の叱陀を恐るゝが爲めに非ず、財貨の報酬を望むに非ず、唯だ工作を愛するが爲めに建築に從事すとせよ、唯だ神來に乘じて其大筆を揮洒《こんしや》すとせよ。彼等の藝術は如何に其眞を得、善を得、美なるを得べきぞや。其他幽奧なる哲理の探討や、精緻なる科學の硏究や、如此にして始めて大に其光修を放つべきに非ずや。
〇更に一面より見る、現時社會の陵落と罪惡の大半は實に衣食の匮乏に因す、金錢の競爭に因す。家庭の平和も之が爲めに害せられ、婦人の節操も之が爲めに汚され、士人の名讐も之が爲めに損せられ、而して一國一社會の風敎、道德之が爲めに壞敗せらる。見よ現時我國監獄の囚徒七萬人、而して其罪狀の七割は實に財貨に關する者也といふに非ずや。古人言ひ得て佳し、『金が敵の世の中』なりと。若し世に金銭の競爭なかりせば、社會人心は如何に純潔なる可りしぞ、少くも今の罪惡は其大半を掃蕩す可きに非ずや。而して能く吾人の爲めに、金銭てふ怨敵を滅絶し、衣食競爭の蠻域を脫せしむる者は社會主義に非ずや。ウィリアム・モリスは日く『人が財貨の爲めに心を勞するなきに至るも、技費 萬有、戀愛等は、人生に與ふるに趣味と活動とを以てす可し』と。是等の趣味と活動は、吾人の爲めに更に正義高尙なる自由競爭を開始して、以て社會の進化を促進するを得ん也。
〇言ふこと勿れ、衣食の慮る可きなくんば、人は勤勉することなけんと。人の勤勉を促す者、豈に唯だ財貨のみならんや、人間の性情は未だ如此く汚下ならざる也。見よ彼の深山大海の探險や、學術上の發明や、文學美術の大作や、共他各々好む所に從ひ適する所に向って其技能を試むるに當つてや、心中獨り自ら愉悅に堪へざるもの無くんばあらず。况んや之に加ふるに多大の名譽光榮の酬ゆるありとせば誰か欣然として共勤勞に服せざる者らんや。少年の學生が孜々として學ぶ者は、決して衣食の爲めにするに非ざる也、兵士の奮躍して死に趨くは、決して衣食の爲めにするに非ざる也。
〇現時勞働者の大抵勤勞を厭ふて、動もすれば安逸を貪るの狀あるは、予も亦之を認む、然れども是れ豈に彼等の罪ならんや。夫れ演劇を觀、角觝《かくてい》を樂む者と雖も、其長きに及べば卽ち倦怠を感ず。况んや悪衣惡食にして、一日十數時間の勤勞に服す、以て少壯より老衰に至る、何の希望なく、何の變化なく、何の娛樂なし。而して其事業や必しも共好む所に非ざる也、唯だ衣食の爲めに驅らるゝのみ。而して彼等が勤勞の功果や、共大部は卽ち他人の爲めに掠奪せられて彼等は僅に其生命を支ふるに過ぎざるに非ずや。之を如何ぞ疲勞厭倦せざることを得んや。然り今の勞働者が衣食の爲めに驅らるゝや、牛馬の如し、彼等の心身は旣に共鞭笞に堪へざるに至れり。彼等が懶惰を以て其樂園と爲すに至れる者、一に現時社會組織の弊害之を致せるのみ。
〇夫れ人は其勤勞の長きに堪へざるが如く、亦逸豫の長きに堪へず。試みに今日の勞働者に向つて、汝の衣食は給せらるべし、汝是より勤勞を要せずと言はヾ、彼等は初め喜んで其情眠を貪らん。而も如此き者數日ならしめよ、十數日ならしめよ、數月ならしめよ、彼等は漸く其徒然無為に飽きて、必ずや多少の事業を求むるに至るや明らか也。
〇故に社會主義制度の下に處して、衣食あり、休息あり、娛樂あり、而して後ち其好む所、適する所に從って、一日三四時乃至四五時、其强健の心身を勞して社會に奉ずるが如きは、却って是
れ一種の滿足あらんぱあらず。苟くも人心ある者誰か敢て避躱《ひたい》せんや。『勞働の神聖』てふ語は、於是て初めて意義あることを得ん也。
〇若し夫れ社會主義を以て個人の自由を沒却すといふに至っては、妄之より甚しきは莫し。予は先づ此言を為すの人に向って反問せん。現時果して所謂個人の自由なる者ありやと。
〇宗敎の自由は之れ有らん、政治の自由は之れ有らん、而も宗敎の自由や、政治の自由や、凍餒《とうだい》の人に在ては、一個の空名に過ぎざるに非ずや。所詮經濟の自由は總ての自由の要件也、衣食の自由は總ての自由の樞軸也、而して今果して之れ有る乎。
〇米國勞働者同盟第十三囘大會に於けるヘンリー・ロイドの演說の一節は、答へ得て痛切也、日く『米國獨立の宣言や、昨日は自治(セルフ・ガバーンメント)を意味せりき、今日は卽ち自業(セルフ・エンブロイメント)を意味す。眞個の自治は卽ち自業ならざる可らず。……而も今や勞働者が其爲す可き所を爲し得ず、其耍する所を與へられざるは、滔々皆な然らざるなし。勞働者は勞働の八時間ならんことを欲す、而も彼等は十時間、十四時間、十八時間の勞働に服せざる可らず。彼等は其子女を學校に選らんと欲す、而も却て之を工場に送らざる可らず。彼等は其妻の家庭を治めんことを欲す。而も却て之を機器車輪の下に投ぜざるを得ず。彼等は病で靜養を欲するの時、猶ほ勞働せざることを得ず、勞働を欲するの時却て解雇の爲めに失業せざることを得ず。彼等は職業を乞ふて得ざる也、彼等は公平の分配を得ざる也。彼等は他人の私慾若くば野望の爲めに、彼等自身の、彼等の妻の、彼等の子女の、四肢體軀、健康、生命すらも犧牲に供せざることを得ず』と。豈に獨り工場の勞働者のみならんや、今の世に處して生產機關を有せざる者は、其生活の不安にして苦痛なる、皆な然らざるなし、而も彼等は呼で日く自由競爭也、自由契約也と。是れ强制の競爭のみ、是れ壓抑の契約のみ、何の自由か之れ有らん。
〇社會主義の主張する所は、實に這個の强制を位せしめんとするに在り、這個の庶抑を免れしめんとするに在り。一八九一年エルフルト大會に於ける獨逸社會民主黨の宣言書の一節は日く『這個社會的革命は、特に勞働者の解放《エマンシペーシヨン》のみならず、實に現時社會制度の下に苦惱せる人類全體の解放を意味す』と。思へ社會主義一たび實行せられて、天下の雇主の爲めに驅使せらるゝの被雇者なく、權威に席抑せらるゝの學者なく、金錢に束縛さる、の天才なく、財貨の爲めに結婚するの婦人なく、貧窮の爲めに就學せざるの兒童なきに至らば、個人的品性の向上せられ、其技能の修練せられ、其自由の伸張せらる、は果して如何ぞや。
〇ミルは日く『共產主義に於ける檢束は、多數人類に取て、現時の狀態に比して、明かに自由なる者あらん』と。彼の所謂共産主義は卽ち今の社會主義を意味する者也。
〇然り宗敎革命は吾人の爲めに信仰の桎梏《しつこく》を撤したりき、佛國革命は吾人の爲めに政治の束縛を免れしめき。而して更に吾人の爲めに衣食の桎梏、 經濟の束縛を脫せしむる者は、果して何の革命ぞや。エンゲルは卽ち社會主義を稱して日く、『是れ人間が必要《ネセンシチー》の王國《キングドム》より一躍、自由の王國に上進する者也』と。
〇夫れ唯だ『自由の王國』也。是を以て社會主義は國家の保護干渉に賴る者に非ざる也。少數階級の慈善恩惠に待つ者に非ざる也。其國家や人類全體の國家也、其政治や人類全體の政治也。社會主義は一面に於て實に民主主義《デモクラシー》たる也、自治の制たる也。
〇今の國家や唯だ資本を代表す、唯だ土地を代表す、唯だ武器を代表す。今の國家は唯だ之を所有せる地主、資本家、貴族、軍人の利益の爲めに存するのみ。人類全僚の平和、進步、幸福の爲めに存するに非ざる也。若し國家の職分をして如此きに止まらしめば、社會主義は實に現時の所謂『國家』の權力を減殺するを以て、其第一着の事業と為さざる可らず。然り封建の時に於ては人類、人類を支配したりき、今の經濟側度の下に於ては、財貨、人類を支配せり、社會主義の社會に在ては、實に人類をして財貨を支配せしめんと要す、人類全體をして萬物の主たらしめんと要す。豈に奴隸の制ならんや、豈に個人を沒却する者ならんや。否人生は此如にして初めて其眞價を發揚す可きに非ずや。
〇社會主義は、現時國家の權力を承認せざるのみならず、更に極力軍備と戰爭とを排斥す。夫れ軍備と戰爭とは、今の所謂『國家』が資本家制度を支持する所以の堅城鐡壁とする所にして、多數人類は之が爲めに多大の犧牲を誅求《ちうきう》せらる。今や世界の諸强國は軍備の爲めに、實に二百七十億弗の國債を起し、而して單に之が利息のみにして、常に三百萬人以上の勞働を要すといふに非ずや。加之幾十萬の壮丁は常に兵役に服し、殺人の抜を習ふて無用の勞苦を曾めざる可らず。獨逸の如き、壯丁の多數は皆な兵士として徴集せられ、田野に礬する者は、半白の老人若くば婦女のみなりといふ。嗚呼是れ何等の悲慘ぞや。況んや一朝戰爭の破裂に會ふや、幾億の財帑を糜《ついや》し、幾千の人命を損して、國家社會の瘡痍永く癒ることを得ず、贏《あま》す所は唯だ少數軍人の功名と、投機師の利益のみ。人類の災厄罪過豈に之に過ぐる者あらんや。
〇若し世界萬邦、地主資本家の階級存するなく、貿易市場の競爭なく、財富の生産饒多にして、其分配公平なるを得、人々各其生を樂しむに至らば、誰が爲めにか軍備を擴張し、誰が爲めにか戰爭を為すの要あらんや。是等悲慘なる災厄罪過は爲めに一掃せられて、四海兄弟の理想は於是乎始めて實現せらる、を得可き也。社會主義は一面に於て民主主義たると同時に、他面に於て偉大なる世界平和の主義を意味す。
〇故に予は玆に再言す。社會主義を以て競爭を廢止する者となすこと勿れ、社會主義は衣食の競爭を廢止す、而も是れ更に高尙なる智德の競爭を開始せしわんが爲めのみ。勤勉活動を沮礙《そがい》すと云ふこと勿れ、社會主義の除去せんとするは、勤勉活動にあらずして人生の苦惱悲慘のみ。個人を沒却すといふこと勿れ、社會主義は却って萬人の爲めに經濟の桂梏を脫却して、十分に其個性を發展せしめんと欲するに非ずや。奴隷制度なりと云ふこと勿れ、社會主義の國家は階級的國家に非ずして、平等の社會也、 專制的國家に非ずして博愛の社會也、人民全體の協同の組織を為して、以て地方より國家に及び、以て國家より世界に及び、四海平和の惠福を享受せんとする者に非ずや。
〇果して能く如此しとせぱ、誰か又社會主義的制度の下に在て、人間品性の向上、道德の作興、學藝の發達、社會の進步が今日に比して更に幾曆倍なるを疑ふ者ぞ。
議事者。 身在事外。 宜悉利害之情。
任事者。 身居事中。 當忘利害之慮。
[編者注:典拠は、菜根譚 前集百七十四項 読み下し、事(こと)を議(ぎ)する者(もの)は、身(み)を事の外(そと)に在(あ)りて、宜(よろ)しく利害(りがい)の情(じょう)を悉(つく)すべし。事に任(にん)ずる者は、身を事の中に居(あ)りて、当(まさ)に利害の慮(おもんぱかり)りを忘(わす)るべし。(物事は始まるまでは多面的に考え付くし、いざ実行する段になれば、あれこれ考えずにひたすら行動しなさい。)]