読書ざんまいよせい(068)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(009)

 岩波文庫「南総里見八犬伝」(一)に高田衛氏の「『八犬伝』を読むために」という解説文がある。今更、勧善懲悪づくし、しかもやたらに長い「八犬伝」でもあるまいにと思ったが、読んでみると、意外と筋立てや表現が「論理的」で面白くも感じた。そこで、どこまでできるかはおぼつかないが、テキストのアップに取り組んでいる。まだ、冒頭部分だけなので、いつになったら完成するのやら…
 評判の悪い「勧善懲悪」でいうと「馬琴は、勧善懲悪を唱導した。しかしその悪とは、体制の悪であった。したがってその善とは、体制そのものをゆさぶる行為でさえあった」(松田修氏)の指摘は、しばし至言であり、秋水にも通じるだろう。
 ここでは、高田衛氏から冒頭部分を長く引用し、幸徳秋水の想いに馳せるうえでの一助としたい。

 先頃、幸徳秋水の獄中書簡を読んでいたら、こんな個所に目がとまった。

△六ヶ月目で此頃ー二回刺身を食た。秋刀魚を食っては季節だなと思び、新鮭や数の子を食てはモウ出たナと感じる。此夏以来鮎も食た。松茸も食た。野菜は胡瓜、東蒲塞、茄子の時代から此頃の離大根まで、果物も林檎、梨子、栗、柿、蜜柑と、新しい物が這入る毎に娑婆の節物の移り行くことを想ひやる。小供の時に読だ伏姫の山ごもりに花紅葉(ママ)村里の四季を想ふ美しい文があったが、吾等には每日の差入弁当が唯一の暦だ。
     (明治四十三年十二月六日付、師岡千代子宛)

 おそらく質素であったに違いない差入弁当の、そのおかずにさえ、くっきりと浮び上ってくる四季の姿がこの手紙にみられる。この豊饒な季節感は、もう私たちの日常からは永遠に失われてしまったことを、しみじみと感ぜずにはいられなかったのだが、その間に何気なく、『八犬伝』の一節「伏姫山ごもり」の文章の想い出が挿入されていたことが、とりわけ印象的であった。
 時代からいっても漢詩の嗜みのある点からみても、幸徳秋水のような人が『八犬伝』を碗んでいたことに別に不思議はない。ただ、秋水のような革命家の心にさえ、ひときわ豊かな季節感の感受があり、それとまったく矛盾のないかたちで、『ハ犬Tの一節が甦えってくることの、いわぱ「自然さ」に思いをはせないではいられなかったのである。
 秋水が回想した「伏姫の山ごもり」の「村里の四季を想ふ美しい文」というのは、次のような文章であった。

さて里見治部大輔義實さとみぢぶのたいふよしさねのおん息女伏姬むすめふせひめは、親のため、又國の爲に、ことまこと黎民たみくさに、失はせじと身をすてて、八房やつふさの犬にともなはれ、山道やまぢさし入日成いりひなす、隱れしのちは人とはず。岸の埴生はにふと山川の、狹山さやまほら眞菅敷ますげしき臥房ふしど定めつ冬籠ふゆごもり、春去來さりくれば朝鳥あさとりの、友呼ぶ頃は八重霞やへかすみ高峯たかねの花を見つゝおもふ、彌生やよひは里のひな遊び、垂髮少女うなひをとめ水鴨成みかもなす二人雙居ふたりならびゐ今朝けさむ、名もなつかしき母子草はゝこぐさ誰搗たがかちそめしかの日の、もちひにあらぬ菱形ひしかたの、尻掛石しりかけいしはだふれて、やゝ暖き苔衣こけごろもぬぎかえねども、夏の夜の、袂涼たもとすゞしき松風に、くしけづらして夕立ゆふだちの、雨に洗ふてかみの、おどろもと鳴蟲なくむしの、秋としなれば色々に、谷のもみぢ葉織映ばおりはえし、にしきとこ假染かりそめの、宿としらでや鹿しかぞ鳴く、水澤みさは時雨霽閒しぐれはれまなき、はて其處そこともしら雪に、岩がね枕角まくらかどとれて、眞木まき正木まさきも花ぞさく、四時しじ眺望ながめはありながら、わびしくれば鹿自物しゝじもの膝折布ひざをりしきたゝず、のちの爲とばかりに、經文讀誦書寫きやうもんどくじゆしよしやこう日數ひかず積ればうき事も、うきなれつゝしとせず、浮世うきよの事はきゝしらぬ、鳥の音獸ねけものの聲さへに、一念希求いちねんけくの友となる、心操こゝろばえこそ殊勝しゆせうなれ。
     (第二輯巻之一第十二回)

 伏姫は、父のため国のため、そして「黎民たみくさ」のため、自ら犬の八房とともに人跡まれな深山の同窟に身を閉じこめて、もう二年という歳月を過したのであった。その伏姫のわびしく孤独なたたずまいの中で、かって家族うちそろって何不足なく平安に過した故郷の四季を、いま深山にも巡ってくる美しい四季と錯綜させつつ回想している——–そういう文章であることがわかる。
 装飾の多い七五調の文章が、私たちにとって「美しい」かどうかはさておこう。一読しておどろくのは、国を思い民衆を案じて思い立った革命行動にやぶれ、国事犯の名のもとに、監獄のつめたい独房に閉じこめられ、きびしい月日を送りながらも、片々たる弁当のおかずに、豊かな季節感を感受する秋水と、この文章のパセティックな四季づくしとの偶合である。
 この文章のなかの八房の件をかりに保留し、人も訪れず外に出ることも許されぬ伏姫を、秋水自身に擬し、伏姫のこもった「狭山の洞」(山中の洞窟)を市が谷の東京監獄独房に置き替えるならば、韻律ゆたかに四季の美をうたいあげた、この『八犬伝』の一文は、そのまま獄中の秋水の心情の表白とかさなってくるであろう。
 このような偶合(?)に気づくとき、はじめて秋水がこの文章を「美しい」と呼んだ意味がわかってくる。また「美しい」からこそ、彼は自己の追いつめられた状況に即応して、自然に、そして適切に、この『八犬伝』の一節を思い出したのであろう。そう考えるならば『八犬伝』は、まぎれもなくこの感じやすい革命家の魂の一部であったのである。
 以上はたまたま秋水の獄中書簡の一節を読んで感じたことである。意外なほどに秋水にとっての『八犬伝』が身近かであったことを知るにつけ、思うことは秋水もまた同時代の多くの人々と同じように、連鎖する美的言語とその韻律をたのしみながら、声をあげて『八犬伝』を音読した読者のひとりであっただろうことである。
 実際、明治初期の書生たちの小説読書は、たいてい音読であったのであり、なかでも『八犬伝』はしばしば朗誦によって暗記され、折にふれてはそのサワリの部分が暗誦される小説であったことを、前田愛が豊富な資料をあげて指摘している(「音読から黙読へ—近代読者の成立」)。
 江戸時代後期になって成立した読ザという小説ジャンルこそは、まさにそのような音読・朗誦にたえる文章・文体を持つことを、条件のひとつとしていたのであった。もともと「読む」ということばの原義は、たんに文章の文字を目で拾う黙読ではなく、声を出し抑揚をつけて、その文章を朗誦することであったという。おそらく秋水もまたそうした読者のひとりにほかならなかった。
 しかし皮肉なことに、この幸徳秋水あたりを最後にして、そういう古典的な読者は姿を消していった。『八犬伝』は他の読本一般とひとしなみに扱える作品ではないが、その『八犬伝』は読者も、次第に黙読する近代読者にとって替わられていったのである。

第二節 こうとく・しゅうすい(幸徳秋水)

      一 秋水と兆民

 ここでは漫然と幸徳秋水の略伝をかくことは必要であるまい。獄中から「余はいぜん﹅﹅﹅として唯物論者だ」といいつづけた秋水が、彼の生涯のどんなところで、やがて唯物論的世界観をもつようになる生活要素にぶつかったか、そうした点をみることが、じつは必要であろう。私はこの節の(一)、(二)、(三)でその必要をほんの少しばかり充たしてみたいとおもう。
 秋水が死の刑をうけてこの世から消えたのは、一九一一年(二十三日は秋水らの死刑の前日にあたる)、なお、一月二十五日のところには、「昨日死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた―――その事が劇しく心を衝いた」と書かれている。
 (愚童はもと僧侶だった。死刑にたちあった沼波という教誨師の記録によると、沼波が「最後の際だけでも念珠を手にかけられたらどうですか」とすすめると、「暫く黙然として考えていたが、唯一語『よしましょう』と答えた」ということである。)
 世間でいわゆるこの「大逆事伴」ほど、日本の国民のぜんたい﹅﹅﹅﹅に大きな衝動をあたえたものは、なかったろう。(私は当時まだ中学生だったが、そのころの雑誌に「十一人の死刑囚の遺骸が落合火葬場に運ばれてゆく列が、ひとだまの火のような警戒の提灯ちょうちんでそれと知れて、点々と暗い夜道を長くつづくのがみえた」といったような記事が載っていたことの記憶が今もはっきりのこっている。)
 秋水は死刑の日、監房からひき出されて、死刑執行を告げられた。このとき、彼は典獄てんごくにむかって、「原稿の書きかけが監房内に散乱してあるから一度監房へ戻して貰ひたい。原稿を整理して来るから」と願い出たが、許されなかった。前記の沼波教誨師は「彼は絞首台に上つても、従容として挙止些も取乱した様子が見えなかつた。或は強く平気を装ふたのではなからうかと疑はれもした註(1)」と伝えている。
 このとき秋水はまだ四十一歳であった。彼の四十一年の生涯は、一八七一年の旧暦七月二十二日にはじまった。それは明治四年だから、まさに維新の変革の実質的な移行の最中である。この翌年に思いきった変革の主張者だった森有礼は、アメリカに滞在中、『日本に於ける宗教の自由』を書いた。すでにのべたように、そのなかで彼は revolution についての論説にふれている。秋水はこうした時代に生れたのである。
 秋水が、自由思想の先覚者を多く出した土佐に生れたことは、まず彼の生涯のあのような進み方を規定した事情のひとつといってよい。林有造や板垣退助に師事したり、または指導をうけたりしたことは、彼が土佐生れであったことに由来する。彼は十歳ばかりのころ、兎猿合戦の物語を書き、それに挿絵まで描いたということ、また(十一、二歳のころ)自分だけの「新聞紙をこしらえて楽しんだ」ということ、それには社説も政治記事も、社会記事もあったというほどに、新聞のていさい﹅﹅﹅﹅のあるものをつくっていたということが伝えられている。もう幼い彼のうちに、のちに発展したものが、萌芽として少しずつ伸びていたということができよう。
 板垣退助を頭首とした自由党が結成されたのは明治十四年(一八八一年)十月であるが、この年は秋水が中学に入った年である。秋水少年の新聞には政治についての文章がのっていたといわれている。十八年には林に会い、十九年には板垣に会っている。これについて彼の自叙伝にはつぎのような文がある。「板垣退助君銃猟の為我郷〔東京ゆき]という事件と、社会的には自由民権派の運動者たち五七〇名が東京退出命令をうけたという前後にない大きな事件とがおこっている。いうまでもなく、三府一八県の有志総代によって、地租軽減・条約改正・言論集会の自由の要求という建白運動の起ったに対して、政府(伊藤内閣)が保安条例を発布して、直接運動者の退去命令を出した事件である。この五七〇名のうちには、もちろん林有造がいたが、中江兆民もこれに入っていた。
 秋水が先輩として師として兆民を得たことは、秋水の生涯のこれからの方針にとってまことに大きな影響力をもった。「其の教養撫育の恩、深く心肝に銘ず」と、彼は後年こうねんの『兆民先生』というながい文章のなかで語っている。註(2)。おそらく秋水は、その文章を書店からたのまれてかいたのであろうが、とにかくそれは兆民の伝記である。しかし、彼は伝記とはいっていない。彼は自問自答して、「伝記か、伝記に非ず。評論か、評論に非ず。弔辞か、弔辞に非ず。ただ予が曾て見たる所の先生のみ、予が見つつある所の先生のみ」といっている。こう書いてきた秋水は、「先生のみ」とかいてもまだ本当のことが言い得ないと思ったか、さらに、こうつけくわえている。「予が無限の悲しみのみ。予が無窮の恨みのみ」と。彼は兆民先生の伝記を書いたのでなくて、自分の悲しみを書きつけたのだというのである。これほどに真実に兆民を語っている文章は、おそらく他にないであろう。少し長いが、その文の「緒言註(3)」だけでもつぎにあげてみたい。


 寂寞北邙呑涙回、斜陽落木有余哀、
 音容明日尋何処、半是成煙半是灰。
 想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて茶毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に堪へ、去らんとして去らず、悄然車に信せて還る。這一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。鳴呼逝く者は如斯き歟、匆々茲に五閲月、落木粛々の景は変じて緑陰杜鵑の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。
 但だ予や年初めて十八、贄を先生の門に執る。今に迨で十余年、其教養撫育の恩深く心肝に銘ず。而して未だ万一の報ずる有らず、早く死別の悲みに遭ふ、遺憾何ぞ限らん。平生事に触れ物に接して、毎に憶ふて先生の生前に至れば、其容其音、夢寐の間に髣髴として、今猶ほ昨日の如きを如何せんや。
 況んや夫の高才を持し利器を抱て、而も遇ふ所ある能はず、半世轗軻伶俜の裡に老い、圧代の経論を将て、其五尺躯と共に、一笑空しく灰塵に委して悔ゐざらしむる者、果して誰の咎ぞ哉。嗚呼這箇人間の欠陥、真に丈夫児千古の恨みを牽くに足る。孔夫子曰へるあり、「従于彼曠野、我道非耶」と唯だ此一長嘆、実に彼が万斛の血涙を蔵して、凝り得て出来する者に非ずや。予豈に特に師弟の誼あるが為めにのみ泣かん哉。
 而して先生今や即ち亡し。此夕独り先生病中の小照に対して坐する者多時、涙覚へず数行下る。既にして思ふ徒らに涕泣する、是れ児女の為のみ。先生我れに誨ゆるに文章を以てす、天の意気を導達する、其れ惟だ是れ乎、即ち禿筆を援て終宵寝ねず。

 明治時代にも、師弟の情の厚かった例はいくらもあったろうけれど、秋水の兆民に対するほどのものは稀であったろう。しかも、兆民と秋水とは唯物論者としてゆるし合っていたのである。私はさきに「秋水が唯物論的世界観をもつようになる生活要素」ということをいったのであるが、秋水が兆民と相知ったということは、その要素のなかのもっとも大きいものの一つであったろう。


註(1)糸屋寿雄『幸徳秋水伝』(一九五〇年)二九一頁「刑死の記録」の節参照。さらに田中惣五郎著『幸徳秋水。一革命家の思想と生涯』四八六頁の「酷刑」の節参照。
  (2) 『幸徳秋水選集』(一九四八年)第一巻。
  (3) 前掲書三頁。

      二 兆民の思想的影響

 秋水の唯物論思想を記してみるには、なんとしても、兆民が彼にあたえた学問的、世界観的な影響をとりあげねばならない。
 それについては、幸いなことに秋水は貴重な記録をのこしてくれている。明治二十六年の春、彼は兆民の家に寄寓していた。それは兆民のもとでの三度目の寄居だった。このとき秋水は「日記ともつかず、随筆ともつかず、兆民先生日常の言行を、ありのままに描写した」のであった。それは半紙原稿用紙取りまぜ一一枚に細字で書かれていたということである註(1)。秋水はそのなかで、人間の肉体と精神のことにふれている兆民との談話を記している。


 「一夕例の如く縁側に座して語る。
 人間霊魂の事に及ぶ。肉体と精神をともに別箇に解釈するは、予〔<字割り>予とは兆民先生をさす〕は不同意なり。ヒシヨロヂー〔生理学〕とサイコロヂー〔心理学〕は到底相離る可らざる者なり。思へ精神の健全なり活溌なると否とは、必ず肉体の健全活溌なると相干するにあらずや、一部の間の不消化は必ず脳髄の不快を来す。予は以前より信じて疑はず、霊魂なる者は火なり。肉体は薪なり。薪尽て火滅す、如此のみ。肉体を外にして霊魂の決してあるべき筈なし、余は頑固なるマテリアリストなり。動物胎内に在るの時も其初めは男女の別なく同一体なり、『されば如何にして男女の別を生じ来やる』予は思ふ、母の食物によるならん、例せぱ信州の養蚕に筑摩河辺の砂利多き地の桑を与ふれば多く男蝶を生じ、粘土の桑を与ふれば多く女蝶を生ず、『然らば如何なる食物を用ゆるべきや』それ迄は余は究め居らず。
「談ヒロソヒーに及び、易の人事を窮極せるを説く、されど卜筮のことは余は信ずる能はず。予曾て天地万有を思考し有無の説を講ず。以為おもへらく、天地は総てなり、なるものあらず、例へば寒は唯熱の稀少なるをいふ、未だ絶対の寒なるものあらざるが如し。真空なるものもあらず、所謂真空なる所にも、一種のエーテルの存するは予疑はず。は垂直に交叉す、天地は一幅の絵画なり、量の白紙に時を揮洒す。墨色の薄き処をもて直ちに無なりと断ずる勿れ、淡きところ、濃きところ、全然墨の届かざる処、併せもて一幅の画なり。而して其白紙、無量無辺の白紙をもつて無なりと断ずるなかれ、若し有の限りあり、無なるものありとせば、又其限りを立てざるべからず。故にいふ、天地は有なり、無は絶対にあらず、有の稀少なる処なりと。
「サイエンスに関する談話は、未曾聞の説を吐かるゝこと多多なり。予も又少しく研究したる上筆記すべし。」

 以上の二人の談話をよんでみると、唯物論者なら当然に問題にせねばならぬことがらが取りあげられている。話をしたのは主として兆民であったであろうけれど、書きとめたのは秋水である。古代ギリシアの唯物論者のレウキポスとデモクリトスとのアトム説は、残っている文献ではどこまでがレウキポスでどこまでがデモクリトスか分明でないところがあるが、右の談話の追憶の記録にしても、そのなかに秋水の体験、秋水の思想も入っていよう。さて、兆民は、動物がまだ胎内にあるとき、どうして男女の区別があるだろう、区別はない、同じものだということを言っている。つまり質というものを否定して、量だけをみとめようとしているのである。古代ギリシアの唯物論的な原子論者たちが、原子の質を否定して、その量的規定をさぐっているようなものである。もちろん、今日の生理学では胎内にあっても或る段階からは男女の識別はできることになっていようが、それにしても胎内成長の過程をさかのぼってみたら、けっきょく兆民の説もとうぜん妥当になってこよう。また彼が「母の食物」を論ずるあたりの論旨は、私たちに安藤昌益の唯物論思想をおもいおこさせる。つぎに談話が哲学のことにおよんでいるところであるが、兆民はエーテルについて語っている。彼はエーテルについては早くから関心をもっていた。彼は『理学鉤玄』(明治十九年)のなかですでにそれをとりあげている。そこで彼はエーテルについてつぎのような説明をしている。地球のような天体が大虚のなかに懸って存在しているのは空気のためだ、そして諸天体がそれぞれの道を失わないでいるのは、エーテルという精気の支撐によるのだというようにいっている。そして、それはルクレティウスの説だということもつけ加えている。もちろん、兆民はとくにそういうことの研究者であったのではないから、いずれ拠るべき参考書があってのことであるが、それにしても兆民がエーテルに心をよせたのは注意されてよい。周知のように、エーテルのことは早く古代ギリシア人が語りだしたのだが、唯物論者だったローマのルクレティウスが古代ギリシア人のエーテルの考え﹅﹅を、ずっと発展させてくれたのだった。ルクレティウスはこの語(「エーテル」)をつかって、一九世紀の物理学者たちを悩ましたあのエーテルの概念に通ずるほどの理解を、すでにつかんでいたのであるが、そのことは、今日私たちにとっても深い関心がもてるのである註(2)。ルクレティウスはこういっている。「火のようなエーテルはありとあらゆるものを流動的な物体として純化した。しかし、エーテルはどんなものよりも軽く流動的である。もっとも軽いエーテルは空気を上からいっぱいに流しひろげるが、それでも〔エーテル自身〕喧噪な空気のために純粋さを失うことはない。エーテルはもろもろの物を悩ましく激動的な渦のなかにおくものだ。万物をば変転する嵐のなかで駆りたてる。けれども、エーテル自身は確実な原動力でもって転動しつつ天のもろもろの火をみちびくものだ。なぜなら、エーテルは活動していても規則正しくて、その運動はつねに同形的だから。エーテルはつねに変らず同じ発展力でもって全行程を保持することができるのだ」。ルクレティウスが、エーテルについてうたっているところを私たちがここにくわしくつたえることは容易でないが、エーテルが諸物体を存在させていること、そしてエーテルはその流動または波のような動きにおいて規則正しいものだということを言っていることは、まちがいないことである。ニーテルのことは兆民の唯物論的思索のなかを離れなかったとみえて、彼は秋水を相手にエーテルについて語っているのである。
「絶対に空なるものあらざるが如し。真空なるものもあらず、所謂真空なる所にも、一種のエーテルの存するは予疑はず。時と量は垂直に交叉す。天地は一幅の絵画なり。量の白紙に時を揮洒す。」こうした兆民の思索の線を、明治時代の観念論的哲学者のうちの誰がたどったことがあったろうか。ここでも兆民は量の問題をつかんで離していない。彼が「真空なるものもあらず」というのは、もとより、観念論者たちが形而上学的な空虚なものを原理としてたてようとするのに向って批判し、たたかっているだけのことであって、物理学的な真空を論じているわけではない。とにかくに、兆民と秋水とは、哲学的談義に耽ける場合も、観念論の沼にふみこむということはけっしてしなかったことは、優に察しられるのである。
 兆民は事情がゆるしたら、きっと唯物論思想の上に立ったまとまった著述をかきあげたことであったろう。死ぬる年の八月に、秋水宛の手紙のなかで、「今百ページばかり哲学の一システムを書き度しと存じ居申候」といっている。秋水もまた『兆民先生』のなかで、「先生の所謂他日に期する者は、即ち其哲学の組織に在りき。而も貧乏は之を許さざりき」と記している。そういう秋水も、兆民から自然科学の知識について教えられることのあったときは、「予も又少しく研究したる上筆記する」ことをしたいともらしている。ざんねんなことに、秋水にもそういう学問の余裕はついに見出されることがなかった。
 兆民は同じ年の十月の下旬に、秋水宛にいくつか詩をかいておくっている。そのなかに、『無神無霊魂論』の彼の著述にちなんでうたっている詩がひとつある。
  悲秋寂寞、水雲区つ。渡口扁舟、何処にか呼ばん。
  驀地頸風、天すみに似たり。藍花歴乱、月無に還る。

 私たちはこの詩のなかに唯物論的な字句につながるもののないのをいぶかしく思う気はおこらない。日本には、兆民の先行者の中にほんとうに徹底して無神論を叫んだ人はじつに稀で、蓼々雨の夜の星だった。少なくともその思想を書きつけておいてくれた人は、わずかに指を屈するにも足らないくらいだった。いわんや東洋にはデモクリトスやルクレティウスがいたわけではなかった。インドや中国や日本にも、原子論を思わす「極微ごくみ」の説をなす人はいたが、それはけっきょく、人をいっそう観念論的思索へとひきずってゆくための、念入りの地ならし﹅﹅﹅﹅のようなものであった。そうした日本の哲学思想の歴史の中に立たされていた兆民に対して、私たちは、あれ以上の無神論、あれ以上の唯物論の思想表現を期待できようか。日本では、文学も宗教的文献もこぞって、観念論的な冥想へと誘うものばかりだった。秋水は兆民のそうした生活の面を、つきのように報じている。「多く交を方外〔<字割り>方法のたっている世界の外の世界、娑婆の外・ここでは禅<字割り終わり>〕に結び、且つ仏典語録を渉猟し、頗る悟入する有るが如く、碧巖集の如きは、其最も愛読する所なりき」。私たちが兆民に注意したいのは、そのような宗教文学的な国のなかに生きていて、しかもなお「余は頑固なるマテリアリストなり」と自分でいっていた兆民の世界観的抵抗である。私たちはさきの詩をもう一度よんでみよう。「寂寞」といい、「墨に似る」といい、「歴乱」といい、「無」といい、ことごとく彼は混沌たるものしかうたっていない。しかし、兆民は、人間が死とともにあるときは感じとるであろうものをそのままを言っているだけであって、これ以外に「神」や「霊魂」を別に想定することの非合理をうったえているのである。寂寞のなかで、どっちをどう呼ぼうもないといううったえそれ自身は、人間が何ものかにむかって呼びかけているひとつの抵抗でしかない。その「何ものか」を「神」としようとするか、それとも、唯物論者のディドロが「橄欖山のキリストの祈りは自分が自分に祈っているのだ」と理解したように、「自分」だとしようとするか。その区別はまことに大きい。その「何ものか」を兆民は「神」とはしなかった。彼が自分は「頑固の唯物論者」だといったことは、この「何ものか」に対する恐るべき挑戦でなくてはならない。兆民は死に面してもなお抵抗をうったえたのである。
 私は今ここで兆民だけを語るべきではない。しかし、私は秋水の書きのこした文献を通じて兆民を語っているのである、秋水の「兆民」を語っているにすぎない。秋水は、彼の理論においても実践においても、もっとも活溌に社会主義者としで活動していた頃であるが、彼ははっきりと自ら唯物論者であることを明言している註(3)。「今の僕の宇宙、人生観を問ふ者あれば、依然として唯物論者、科学的社会主義者也と報ぜよ」と。秋水が死刑になる日(一九一一年一月二十四日)より三日前したためた手紙註(4)では、兆民と同じように死に面して唯物論者としての自分を語っている。「死といふ者は高山の雲のやうなもので、遠方から眺めてると大した怪物の形にも見えるけれど、近づいて見れば何でもないものだ。唯物論者には、左右に振て居た柱時計の振子が停止したより以上の意義はない。」さらに、それより二日前の手紙註(5)では、「是から数日間か数週間か知らないが、読めるだけ読み、書けるだけ書き、そして元素に復帰することにしよう」と言っている。「元素に復帰しよう」という秋水は、ここにおいても兆民の弟子だといわねばならない。
 いや、もっと秋水が兆民の影響のもとにあるのを私たちに感じさせるものは、元素に帰るという死と同居のありさまを語るとともに、兆民と同じように、方外のなかに居ようとしていることである。秋水は死刑の前夜にしたためた手紙のなかで、「獄裡禅兼病裡禅」という句のある詩をしたためている註(6)。兆民は病死の一月半ぐらい前のことであるが、禅の第一祖達磨の嵩山の大雪のことをよみこみ、「寒燈一穂淡干無」という結句のある詩を、秋水におくっている註(7)
 唯物論思想においては、兆民と秋水とは区別しがたく結びついている。しかも、二人は明治時代の唯物論のあり方を語ってくれている。


註(1) 『兆民先生行状記』(前掲書、第一巻八三頁。)
  (2) ルクレティウス『物の本性について』(“Von der Natur der Dinge”, “De Rerum Natura” の第五巻五〇六―五〇八。
  (3) 明治三十八年五月三十日、巣鴨監獄から堺利彦宛に送った書翰の一節。塩田庄兵衛編『幸徳秋水の日記と書翰』一九二頁。
  (4) 前掲『幸徳秋水の日記と書翰』三八六頁。
  (5) 同上、三八五頁。
  (6) 高島米峰宛の手紙だが、詩は載酒江湖既隔年鉄窓又是好因縁個中妙味人知盃獄裡禅兼病裡禅となっている。前掲書三八九頁。
  (7) その詩は「嵩山大雪圧庭区、半夜何人断臂呼、面壁先生回首処、寒夜一穂淡干無」となっている。

      三 『社会主義神髄』

 幸徳秋水の唯物論思想を考えてみるには、三つの面に注意してかかることが必要のようにおもえる。第一は秋水自身の性格である。第二は中江兆民の影響である。第三はマルクスの科学的社会主義からくるものである。秋水が唯物論的世界観をもつにいたったその事情、さきにいった要素はまた三つの面から見られよう。
 秋水の性格とは、幼年時代からずっと生涯を通じて彼の行動にみえているひとつの特性のことである。どの伝記作者もつたえているように、田舎に生れた彼は野良で遊び廻る子供としてでなくて、家のなかに閉じこもり、考えがちの神童として生い立ったことを、まずとりあげてみたい。そして、何よりも見落されないことは、彼が絵草紙や錦絵を喜こんで見ていたことや、童話を好んだことである。わずか十ばかりのころに自分で童話を書いているほどにお伽噺の世界にいることが好きだった。土佐におこった自由党の思想が彼のなかに芽ばえてきたのは、そうした童話の世界に遊んでいた空想ずきの少年のなかからだった註(1)。少年秋水の内面からいうと、こちらは子供の世界あちらは大人おとなの世界、こちらは人倫の世界あちらは自然の世界、これは出世の世界あれは楽しいこと(真理)の世界、といったような区画はなかったのであろう。というよりも、秋水はそう分別臭い区画をきらったのであろう。だから、秋水はそうにおいてもおこないにおいても渋滞することがなく、ゆくとして可ならざるなしといった性格だったとおもえる。ある一定のことに自分を固定してしまわないいわば汎通的はんつうてきな性格が彼の本質だった。『幸徳秋水・一革命家の思想と生涯』の著者田中惣五郎が評価したように、秋水の後年こうねんの政治活動がすでにそうした性格と通うものを示していたといえる。したがって、世界観においても汎神論的なところがあり、自然主義的なところがある。さき前にあげたように、刑死の数日前にもらしたあのことば﹅﹅﹅「元素に復帰しよう」という感懐だってそうである。監獄のなかから友人に書いている手紙には、彼が自然のなかに遊ぶことが一再ならずでているのである。「粛然たる一室に独居しても、窓に映る星光、秋に通う蛙鳴、いづれか我友ならぬはない。夜々の夢もいと穏かである註(2)。」。このようにたんに文学的なのでなくて、もっと思索的に自然の世界のうちに想像力豊かに入っている感想のものもある。つぎの文も同じく獄中からの手紙のなかの一節である。「△僕の三畳の一室の前後左右を五寸角の柱十四本で囲んでる。孰れも枝を切落した節あとだらけだ。ボンヤリ半跏趹坐してると、此柱の枝さしかはし、葉生ひ茂つた前身がありありと目に浮んで身は深林の中に在る思ひをする△此植物も宮殿の棟梁とならずに、監房の堅めとなつて朽ちて行く。不知、何の因縁ぞ△こんなことを考へてると獄中も山中も殆ど何の異なるなし」
 こうした思索をもらしている秋水だから、かつて兆民がアトムやエーテルについて語った談話は、どんなにか強い吸収力をもって聞きとったことであろうと察せられる。秋水﹅﹅の唯物論思想を考えてみるには、こうした彼の性格への注視が大切なようにおもわれる。
 彼の最後の獄中から木下尚江におくっている手紙に、「君の賜の碧巖録は携帯して居る」とある。前述のように、一九一一年一月二十三日夜(刑の前夜)したためた詩にも「獄裡禅」のことは出ている。彼は兆民とひとしく「禅」、つまり「禅定ぜんじょう」、もっとひらたくいえぱ、東洋的にすべてのものを否定している「じょう」のうちに、すべてのものに通ずる静かさ﹅﹅﹅のうちに居ようとしていた、ということができる。しかし、これにしても必ずしも仏教ということにはならないので、強いていえば、文学の世界だと私はおもう。仏教の禅に属するリテラチェアが使用されているだけのことである。彼の思想生活に禅があったというのも、秋水自身の前記のような性格を、じっさいに形づくっているひとつの要素、ひとつの契機とみればよい。
 つぎに、第二であるが、それは兆民からの影響である。これについてはすでに(二)でのべたから、ここでは繰り返さないことにする。しかし、さらに、これだけのことは言えるのではなかろうか、もし彼の前に兆民が立っていなかったら、あのようにまで彼のなかに唯物論思想は結成しなかったのではあるまいか、と。
 第三は、秋水のなかで体験されたマルクスの社会主義からくるものである。秋水のマルクス主義についての理解は、まだ兆民が盛んに啓蒙活動をしていた頃、明治三十一年よりも少し前くらいから、もう始まったのではなかろうかとおもわれる。秋水のマルクス主義の把握はどういうものであったかは、彼の『社会主義神髄』(一九〇三年)によって知られる。しかも、彼のマルクス主義研究の過程もこの書のなかの彼の叙述によってうかがえる。さて、そうすると、『社会主義神髄』はどのような読書のうえで、どのような程度にまでマルクス主義を把握しているものなのであるか、このことをぜひ明らかにしておかねばならない。私はこれらの問題について、かつてつぎのように書いたことがある註(3)。それをここに引用することにしたい。―――著者〔秋水〕はどんな思想的学問的影響をうけて、この書をかいたか。この年、三十六年には日本の社会主義思想史の発展のうえでとくに注目されるべき労作が三つ出ている。その一つは安部磯雄の『社会主義論』、もう一つは片山潜の『我社会主義』、最後の一つは秋水のこの本である。『共産党宣言』が日本語となって公けにされたのは、『平民新聞』(明治三十七年)においてであるが、この新聞が創刊されたのも、この年の十一月である。かようにして、三十六年の日本の社会主義運動がその思想的表現を、たとい不完全ながらも形成した時期だということが明言できる。
 著者はどんな思想的学問的影響をうけて、この書をかいたのであろうか。この問い﹅﹅に答える私たちの手がかりを、秋水自らかいてくれている。それは「予は如何にして社会主義者となりしか」という短い文章である(『平民新聞』明治三十七年一月十七日)。つぎに引用してみる。

「境遇と読書の二なり、境遇は土佐に生れて幼より自由平等説に心酔せしこと、維新後一家親戚の家道衰ふるを見て同情に堪えざりしこと、自身の学資なきことの口惜しくて運命の不公を感ぜしこと。読書にては『孟子』、欧洲の革命史、兆民先生の『三酔人経綸問答』、ヘンリー・ジョージの『社会問題』及び『進歩と貧窮』、是れ予の熱心なる民主主義となり且つ社会問題に対し深き興味を有するに至れる因縁なり。左れど『予は社会主義なり』と明白に断言し得たるは、今より六、七年前初めてシェフレの『社会主義神髄』を読みたる時なり」

 叙述を簡略にするために、彼の読書の系統をみることにすると、『孟子』、欧州の革命史、中江兆民の『三酔人経綸問答』、ヘンリー・ジョージ(Henry George)の『社会問題』および『進歩と貧窮』、シェフレ(A. Schäffle)の『社会主義神髄』があげられることになる。これらはほとんどみな少くとも明治三十一年頃までには読んでいたものとおもわれる。ところで、この本の執筆に参照されたものを秋水は巻頭にあげている。ならんでいるものは、マルクスとエンゲルス、Kirkup、イリー、ブリッス、モリス、これらの人々の著作である。Kirkup については何んともいえないが、その他の五人の著書と、『予は如何にして社会主義者となりしか』にあがっている思想家たちとのなかで、マルクスとエンゲルスを除けば(孟子は別として)、ことごとくマルクス主義においていうところの科学的社会主義以前のひとびとで、シェフレ(ウィーン大学教授)とモリス(英国人)をのぞけば、あとはすべてアメリカの社会学者またはソシアリストであることになる。しかしこの本〔秋水の〕『社会主義神髄』の内容からみると、その思想内容の根幹はマルクス、エンゲルスの共産主義理論である。以上のように、マルクス主義理論と矛盾し、背馳する諸学説が、いわば雑居しているそれらの文献からの吸収を背景とし、根底として、この『社会主義神髄』はできあがっているということができる。しかし、この本の内容はマルクス主義を蕉雑につたえたものとは決していえない。けれども、当時まだその文献が一つとしてくわしい紹介や日本訳のない時に、これほどにまとめあげた秋水の思想的実力は高く評価される。
 さて最後に、この本の歴史的意義はどういうところにあるのであるか。この書は七章からできている。第一は「緒言」、第二は「貧困の原因」、第三は「産業制度の進化」(カルル・マルクス)、第四は「社会主義の主張」、第五は「社会主義の効果」、第六は「社会党の運動」、第七は「結論」である。第一章では、まず産業革命がのべられ、機械はむだな労働を少くしてくれたが、労働の必要は増してきた、財産は殖えたが人類の衣食としては増すところがない。学校はふえても教養の自由はない、医術は進んだが大衆は療養の自由をもたない、交通機関は盛んになっても、人民には旅行の自由はない、二十世紀の初頭はスフィンクスの謎をかかげたというものだ、宗教も教育も法律も軍備も、この謎をとかない。第二章では、人類が生きてゆくには、今では土地と資本の一切の生産機関とがなくてはならない、しかし、人類生存の要件たるこの三つは地主資本家の手中に占められている。これが今日の社会の病源である。「一切の生産機関を、地主資本家の手から奪うて、之を社会人民の公有となす」もの、すなわち、「地主資本家なる徒手游食の階級を廃滅する」、これが「科学的社会主義」の骨髄である。第三章では、マルクスおよびエンゲルスの社会変革の基礎理論が(ただし唯物弁証法には触れず)幾分叙述され、「世界産業史の進化発達する所以の大勢」は一大転変の運に向っていることが記されている。この章は長いほうであるが、論旨が徹底せぬままに新時代の到来のことが告げられている。第四章には、第三章とはこと変って、イリー教授の社会主義の主張が四項目要約されている。㈠「物質的生産機関、即ち土地資本の公有」㈡「生産の公共的経営」、㈢「社会的収入の分配」、㈣「社会の収入の大半を以て個人の私有に帰すること」の四要件である。もちろん、これらの論説はマルクス主義とは異質的に別のものである。イリー(Richard Ely)は、アメリカの労働運動史ではすぐれた開拓者のひとりであったが、実践としては彼自身社会主義者ではなかったと評価されていることは、周知のとおりである。第三章と第四章とは、理論内容の連絡がつきがたいほど、別箇になっている。しかし、最後のところには、エンゲルスからの引用があるが、強いてイリー的な社会主義思想に合調せられるていどのものでしかない。第五章と第六章では、社会主義者の実践そのものが記されることになっている。第六章では、いわゆる空想的社会主義の「ユトピア」がさすがに論評されているが、ここではラッサールとマルクスが同居しているかたちである。ここでの結論は、「マルクスのいわゆる新時代の生誕」を宣言することのできることが述べられている。
 河上肇は、彼の訳著『新史観』のなかで、明治三十八年に、(彼は当時二十八歳)、マルクスの唯物史観について若干の理解を述べたことを、『自叙伝』で語っている。それなのに河上はこの史観の「正当な理解に達しえたのは、もう五十歳をすぎていた頃だ」と述懐している。秋水の『社会主義神髄』の公刊は明治三十六年であることを想ってみることは、この書の読者にはひとつの参考になろう。第七章は「結論」であるが、そのところはこう書き出されている。「果然、〔現代社会の〕病源は発見せられたる也。謎語豈に解決せられざらんや。殖産的革命は社会的組織進化の一大段落を宣言せり。産業の方法は、個人の経営を許すべく余りに大規模となれる也。生産力は個人の領有を許すべく余りに発達膨大せる也。故に彼等〔社会主義者〕其性質の社会的なるを承認されんことを要求す。其領有の共同的ならんことを強請す、其分配の統一あらんことを命令す、而も聴かれざる也」。そして、「結論」のさいご﹅﹅﹅は、こう結ばれている。「起て、世界人類の平和を愛し、幸福を重んじ、進歩を希ふの志士、仁人は起て。起つて社会主義の弘通と実行とに力めよ。予不敏と雖も、乞ふ後へに従はん」
 以上が秋水の『社会主義神髄』の要約である。さて、彼のこの著述でみると、マルクス主義の理論ぜんたい﹅﹅﹅﹅がつかまれて表現されているとはいえない。少なくともマルクスの経済理論と史的唯物論の要旨だけでも明らかにされていることがのぞましい。けれども、それを果し、その上でさらに唯物論の理論をも展開することを秋水に期待することは、彼の歴史的役割以上を要求することにならざるを得ぬ。私たちはここでマルクス主義理論の研究および紹介は当時どのていどであったかを想ってみておきたい。周知のごとく、マルクス主義の研究と普及は、河上肇の名に結びつくのであるが、河上は、マルクスの唯物史観について若干の理解をもち、そのことについて公けに意見をのべたのは、二十八歳のときだったことを、彼の『自叙伝』のなかでのべている。公けに意見をのべたのは彼の訳著だった『新史観』のなかであって、年は明治三十八年だった。これだけでも、秋水はマルクス主義の紹介という点ですでに開拓者だったのである。『幸徳秋水伝』の著者糸屋寿雄は『社会主義神髄』は「我国で唯物史観を紹介したおそらく最初の研究であろう」といっている。あるひとつの国のなかで(ことに日本のように言語のうえで大きな困難をもっている国で)、マルクス主義理論を理解し把握しとることは、年月を要する歴史的事件でなければならない。河上が唯物史観の「正当な理解に達しえたのは、もう五十歳をすぎていた頃だ」と述懐していることを、ここにつけ加えておきたい。
 秋水は明治三十七年には堺枯川と共同で『共産党宜言』を初めて日本語とする仕事をなしとげたのであるから、三十六、七年の頃は、マルクス主義唯物論にもっとも彼が近づいていた頃なのであるが、三十八年は日露戦争が終結し、かえっていよいよ幸徳らの社会主義運動はもっとも困難な時期に入っていて、秋水のアメリカ行きという彼の社会主義運動が彼に転機をもたらした年である。しかし、彼が唯物論思想を深める機会はこれで終ったのではなく、彼は一九一〇年(明治四十三年)に『基督抹殺論』の労作をおもいたったのだった。かようにして、彼の唯物論思想は無神論でもって貫かれていたと、いえぬであろうか。


;註(1) 糸屋寿雄の『幸徳秋水伝』の年譜の一八七九年(明治十二年、九才)のところには、「木戸明先生の私塾修明舎に入り、孝経の素読を授けらる。この頃より夙くも政治問題に興味を持ち、子供仲間を集めて自由党の紙旗を立て、デモ遊びをやり、又小さな新聞紙をつくつて自分で社説を書く」と記されている。
 (2) 一九〇五年四月三十日、幸徳千代子宛の手紙。前掲『日記と書翰』の一九〇頁。
 (3) 『社会主義神髄』解題(『日本哲学思想全書』第三巻『イデオロギー篇』二八一頁)参照。


【編者注】幸徳秋水「社会主義神髄」は、項目別にアップ しているので、参考にされたい。

      四 秋水の唯物論

『キリスト基督抹殺論』の起稿は、前述のように、一九一〇年であって、この年の三月十一日といわれている。執筆は湯河原でした部分もあったが、獄中の部分も多かった。死刑の前年の大晦二十九日に脱稿した。本は遺著となって翌年の二月一日に出版された。
 この書は、秋水自身いっているように、彼の「オリヂナリチーは殆どない註(1)」と評価されるかも知れない。この書は書名のごとく歴史上の人物としての基督を抹殺することが主眼である。しかし、そのためには当時日本にいて、そして文献を渉猟することのもっとも不便な境遇にあって、最大の努力が研究資料のうちに払われているということができる。その点においては、秋水は自信をもっていたようにおもえる。序文につぎのような文章がある。


「我国従来の学者論客にして、基督及び基督教の研究に従ふ者多しと雖も、予の知る限りに於ては、未だ史的人物としての基督の存在を非認し、十字架が生殖器の表号の変形たるを論断せる者あるを聞かず、本書は此点に於て幸ひに祖鞭を着け得たる者の如し。而して叙説の簡疎、甚だ意に充たず、文辞の蕉雑窃かに心に恥づ所なりと雖も、而も本書の趣旨目的とする所に至つては、略ぼ其大綱を提し得たりと信ず。亦た以て世間基督研究に志ある人士の為めに、多少の刺激、多少の警醒を与ふるに足らざらんや。乃ち出して以て二三親友に托し、敢て剞劂に附するに決せり。然り、是れ予が最後の文章にして生前の遺稿也。是れ三畳の一室、一点の火気なき処、高く狭き鎖窓より差入る、弱き光線を便よりに、病骨を聳かし凍筆を呵して艸する所也。恕せよ読者、若し夫れ博引旁証を拆ち細を穿ちて、周到精緻なる大著を完成するが如きは、予が目下の境遇の許さざる所、後の学者に俟たん也」

 それほどに彼が最後の努力をうちこんだこの『基督抹殺論』が、ただ単に史上の基督を否定することだけに、それだけを目ざして書かれたのであろうか。この本の叙述内容からいうと、いかにもその通りにうけとれる。たとえばこんな文章さえもある。


「新約書の教訓が如何に霊に偏して肉を軽んじ望みを死後に懸けて現在の事に冷淡ならしめ、無抵抗を美徳とし、貧窮を幸福とし、神の奴隷たるを誇りて、人類の勇気と自尊心を沮喪せしめるかを〔吾人はここに〕説かざる可し。而して又実行を責むるや、常に威嚇的命令的なるを云はざる可し」

 このように遠慮したいい方をし、さらにつけ加えて「これ本書の目的にあらざるのみならず、亦た其時間と紙面とを有せざれば也」といっている。そうしてみると、秋水はこの本が公刊直ちに禁圧されて、とうてい啓蒙の役目を果たすことができないことを予め考えて、基督を歴史的人物として否定することだけに、不本意ながら限定したのであろう。しかし、右の引用文のなかに彼が僅かながら触れている反宗教思想は唯物論思想の主脈をなすものでなければならない。彼の獄中からの最後の手紙(刑執行の前夜したためた手紙)のうちに、「基督抹殺論は差支なからんと、警視総監殿も言て居られた」という小泉三申からのしらせ﹅﹅﹅のことが書かれている。これでみても、彼はその生涯の最後まで「神の奴隷たるを誇りて人類の勇気と自尊心を沮喪せしむる」ものに対して、抵抗し戦ったといわねばならない。それは外ならぬ、人がたずねたならば「唯物論者」だと報じはしてくれよといった彼の確信であろう。もとより秋水は唯物論的世界観の研究とその著述は完成させなかった。けれども、彼がかつて註(2)自分で実現したい欲望のひとつとして、「科学、哲学、宗教の書を携へ、山中に遁れて新唯物論の著述に従事せんこと」をあげたことがあるのであって、彼のなかには半生を通じて、唯物論的な人間的抵抗が根強くあったとせねばならない。


;註(1) 明治四十四年一月四日、石川三四郎宛書翰。前掲『日記と書翰』の三七六頁。
  (2) 明治三十八年六月二十五日堺利彦宛書翰。前掲書一九四頁。

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