南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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行者の岩窟に翁伏姬を相す
瀧田の近邨に狸雛狗を養ふ
金碗八郞孝吉が、猛に自殺したりける、志をしらざるものは、「渠死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜命を亡ひし、こは全く玉梓に、罵られしを愧たるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、賢き人の言の葉に、男子寡欲なれば、百害を退け、婦人に妬なければ、百拙を掩ふといへり。況て道德仁義をや。されば義實の德、孤ならずして、鄰國の武士景慕しつ、好を通じ婚緣を、募るも又多かりける。そが中に、上總國椎津の城主、萬里谷入道靜蓮が息女、五十子と呼做せるは、賢にして妍きよし、義實仄に傳へ聞て、すなはちこれを娶りつゝ、一女一男を產し給ふ。その第一女は嘉吉二年、夏の季に生れ給ふ。時、三伏の時節を表して、伏姬とぞ名けらる。二郞はその次の、年のをはりに擧給ひつ、二郞太郞とぞ稱せらる。後に父の箕裘を嗣て安房守義成といふ。稻村に在城して、武威ます〳〵隆なりき。しかるに伏姬は、襁褓の中より儔なく、彼竹節の中より生れし、少女もかくやと思ふばかりに、肌膚は玉のごとく徹りて、產毛はながく項にかゝれり。三十二相ひとつとしてく缺たる處なかりしかば、おん父母の慈愛、尋常にいやまして、册きの女房を、此彼夥俸給ふ。さりけれども伏姬は、夜となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物を得いはず、笑もせず、うち嗄給ふのみなれば、父母心くるしくおぼして、三年以來醫療を盡し、高僧驗者の加持祈禱、これ彼とものし給へども、絕て驗はなかりけり。
不題安房郡に、洲崎明神と唱奉る、いと上久たる神社あり。この神社の山足に、大きやかなる石窟ありけり。窟の中に石像あり。是は役行者なり。この處より湧出る泉を鉵子水といふ。旱天にも涸るゝことなし。むかし文武のおん時に、役君小角を、伊豆の島へぞ流し給ふ。この地は伊豆の大嶋へ、海上僅に十八里、小角しば〳〵波濤を踏て、洲崎に遊歷し給ひつ、靈驗を顯し給へば、後の人その像を造りて、彼石窟に安措せり。靈應今も著明、一トたび祈願をかくるもの、成就せずといふ事なし、とかたり繼いひつぎて、大かたならず聞えしかば、おん母君五十子は、伏姬の爲に願事して、月々に彼窟へ、代參のものを遺し、既に三年になるものから、させる利益はなけれども、「姬うへ命恙なく、ともかくも生育給ふは、その驗にぞあらんずらん。みづから彼處に參らしなば、いかで奇特のなからずやは」、と殿へ歎せ給ひけり。義實もこの事を、いなみ給ふにあらね共、「洲崎は里見の采地ならず。今はしも安西に、野心あるべうもあらざめれど、かゝる事にて穉きものを、はるばる彼處へ遺さば、世の聞え影護し。思ひとゞまり給へ」とて、容易許し給はざりしが、請るゝこと度かさなりて、默止がたく思召けん、倶には老たる男女を擇て、潛やかに姬うへを、洲崎へ遺し給ひけり。
さる程に伏姬は、轎子にうち乘つゝ、㚷母が膝にかき拘れて、外めづらしく左右より、うち囃され給へども、樂しげなる氣色なく、途すがら啼給へば、從者等は傍痛くて、殊更に途をいそがし、とかくして洲崎に赴き、明神の別當なる、養老寺に旅宿して、彼行者の石窟へ、七日參らせ奉る。かくてはや、結願の日も果しかば、從者等は歸館を促し、旅宿を出て轎子は、平郡のかたへ一里ばかり、來つらんと思ふ折、姬うへいたくむつかれば、女房乳母等慰かねて、轎子より出しまゐらせ、衆皆賺しこしらへて、かき抱せつゝなほ途を、いそぐとすれど果敢どらず。


