南総里見八犬伝(009)

南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな


金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれんが息そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ、尋よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。

不題安房郡こゝにまたあはのこふりに、洲崎明神すさきめうしん唱奉となへたてまつる、いと上久かみさびたる神社やしろあり。この神社やしろ山足やまのねかたに、大きやかなる石窟いはむろありけり。いはやうち石像せきぞうあり。これ役行者えんのぎやうじやなり。この處より湧出わきいづいづみ鉵子水とつこすいといふ。旱天かんてんにもるゝことなし。むかし文武もんむのおん時に、役君小角えんのきみしようかくを、伊いづの島へぞ流し給ふ。この地は伊豆いづ大嶋おほしまへ、海上僅かいせうはつかに十八里、小角しば〳〵波濤なみふみて、洲崎に遊歷ゆうれきし給ひつ、靈驗れいげんあらはし給へば、のちの人その像を造りて、彼石窟かのいはむろ安措あんさくせり。靈應れいおふ今も著明いちじるく、一トたび祈願をかくるもの、成就ぜうじゆせずといふ事なし、とかたりつぎいひつぎて、大かたならず聞えしかば、おん母君五十子はゝきみいさらこは、伏姬の爲に願事ねぎごとして、月々つきつきかのいはやへ、代參のものをつかはし、既に三年みとせになるものから、させる利益りやくはなけれども、「姬うへ命つゝがなく、ともかくも生おひたち給ふは、そのしるしにぞあらんずらん。みづから彼かしこに參らしなば、いかで奇特きどくのなからずやは」、と殿へなげかせ給ひけり。義實もこの事を、いなみ給ふにあらね共、「洲崎は里見の采地れうぶんならず。今はしも安西あんさいに、野心あるべうもあらざめれど、かゝる事にてをさなきものを、はるばる彼處かしこつかはさば、世の聞え影護うしろめたし。思ひとゞまり給へ」とて、容易たやすく許し給はざりしが、こはるゝことたびかさなりて、默止もだしがたく思召おぼしめしけん、ともにはおいたる男女なんによえらみて、しのびやかに姬うへを、洲崎へつかはし給ひけり。

 さる程に伏姬は、轎子のりものにうちのりつゝ、㚷母めのとひざにかきいだかれて、よそめづらしく左右より、うちはやされ給へども、樂しげなる氣色けしきなく、みちすがらなき給へば、從者等ともびとら傍痛かたはらいたくて、殊更ことさらみちをいそがし、とかくして洲崎すさきに赴き、明神めうじんの別べつたうなる、養老寺ようろうじに旅宿りよしゆくして、かの行者ぎやうじや石窟いはむろへ、七日參らせ奉る。かくてはや、結願けちぐわんの日もはてしかば、從者等ともびとらは歸館をうながし、旅宿をいで轎子のりものは、平郡へぐりのかたへ一里ばかり、つらんと思ふ折、姬うへいたくむつかれば、女房乳母等にようぼうめのとらなぐさめかねて、轎子のりものよりいだしまゐらせ、衆皆賺みな〳〵すかしこしらへて、かきいだかせつゝなほみちを、いそぐとすれど果敢はかどらず。

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