日本人と漢詩(110)

◎祇園南海と木村蒹葭堂と中村真一郎(補足)

 しばらくは、中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」に載る漢詩を、書籍の最初から順を追って紹介したい。まずは、木村蒹葭堂の本格的なオープンであるが、前回紹介分のの祇園南海の補足から。
 木村蒹葭堂の絵の師匠、池大雅は、一度だけ祇園南海に面会したことがある。その一度の邂逅で、真髄を伝授されたという。池大雅は木村蒹葭堂の絵の師匠。文化史的につながっていると中村真一郎はいう。図は、池大雅と祇園南海の画から。
 祇園南海は、漢詩作での名をあげたと、江村北海「日本詩史」で評価されるが、若い頃は、その才を托んで、周囲の反発をかったようだ。「放蕩無頼」の罪状で、一度は流謫の身となったが、将軍吉宗の斡旋もあり、その後、紀州藩の儒官の身分を得る。その間も、彼は、外面《そとずら》と隔絶した、内面性を持っていた、と野口武彦氏は指摘する。最晩年の73才の時の、彼の詩。

『己巳歳初作』(寛延二年、一七四九)
我素人間無用客 我素卜人間《じんかん》無用ノ客
設令有用亦何益 タトヒ用有ルモ亦タ何ノ益アラン
惟應嬾眠冤復眠 惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ
撃攘起息亦役役 撃攘 起息 亦タ役々

&emsp:結句は、直訳すれば「地面をを踏み硬めて息をハーハーさせるなど日常生活動作をもっぱらにする」くらいの意味か?

 当方、この詩作の年齢以上になり「惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ」は当っているにしても、こんな心境に達しているかどうか、疑問であるし、あるし、別途の問題ではある。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」
・野口武彦「江戸文学の詩と真実」

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