テキストの快楽(007)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(05)


     

 何といふ氾濫だらう!コルイヴァニでは驛馬車が出ないと斷られた。オビ河畔の牧地が水浸しでとても行けないといふ。郵便までが差止めてあつて、特別の指圖を仰いでゐる所だといふ。
 驛の書記は、 私に次のやうな道を取れと勸めて吳れた。自前の馭者を傭って先づヴィユンとか云ふ所へ行く。それからクラースヌイ・ヤールへ行く。クラースヌイ・ヤールで小舟に乘って十二露里行くと、ドナブローヴィノに出る。そこなら驛馬車が出る筈だといふ。で、敎へられた通りにする。先づヴィユンへ行き、それからクラースヌイ・ヤールへ出る。……そこでアンドレイといふ百姓の家に連れて行かれる。彼は舟を持ってゐるのだ。
 「はあ舟かね、舟はあるでさ」とアンドレイが言ふ。彼は亜麻色の鬚を生やした、五十歲ほどの瘦せた百姓である。――「舟はあるでさ。今朝がた早く、議員さんとこの祕書の人をドゥブローヴィノへ乘せて行きましたが、追っつけ戾りましよ。ま、待つ間に茶なりと召上れ。」
 お茶を飲んで、 それから羽根蒲圍と枕の山に攀ぢ登る。……目が覺めるたびに舟のことを訊く。――まだ歸って來ない。寒くないやうにと、女房たちが座敷の煖爐を焚いて、序でに皆でパンを焼く。座敷の中が暑いほどになり、パンはすっかり燒け上ったが、舟はまだ歸らない。
 「とんだ野郎に漕がせてやりましただ」と,主が頭を振り振り歎息する、「まるで女みたいに愚圖な奴で、 風が怖くて船が出せんと見えます。まあ御覽なされ、吹くこともえらう吹きますわい。もう一杯茶なりと上りなされ。さぞ退屈でがせう。……」
 ぼろぼろの羅紗外套を着た跣足の馬鹿が一人、雨にぐしょ濡れになって、 薪や水桶を入口の檐下に引摺り込んでゐる。彼はひっきりなしに座敷の私の方を盜み見する。櫛を入れたこともなささうなもぢやもぢやの頭を覗かせて、何か早口に言ふかと思ふと、犢のやうにもうと唸ってまた隱れる。そのびしょ濡れの顔や瞬かぬ眼を眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペ眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペトロー ヴィチは、私が何用で何處へ行くのか、 戰爭は本當にあるのか、私のピストルは幾らするのかなどとしきりに訊いてゐたが、流石の彼ももう喋り疲れたらしい。
 默って食卓に頰杖をついて、何やら考へ込んでしまつた。蠟燭が燃えくづれてしんになつた。扉が音もなく開いて、馬鹿がはいって來て横に腰かけた。腕は肩まで裸かになってゐる。瘠せ細って、まるでステッキみたいな腕だ。腰をおろして蠟燭にじっと見入つた。
 「出てけ、出て行けつたら」と亭主が言ふ。
 「メ、マア」と彼は唸ると、腰を跼めて-表へ出て行った、「ベ、バア。」
 雨が窓硝子を打ってゐる。……亭主と容は鴨のス—ブを食べはじめた。二人とも食べたくはないのだが、 退屈凌ぎに食べてゐる。……それが濟むと若い女房か羽根蒲團や枕をゆかに敷く。亭主と客が着物をぬいで、並んで橫になる。
 何といふ退屈さだらう。氣を粉らさうと、 生れ故鄕のことを考へて見る。そこはもう春だ、冷たい雨が窓を打ちはらない。だがそのとき、灰色の沈滯した無為の生活が、意地惡く思ひ出されて來る。あすこでも矢張り蠟燭は崩れてしんになり、 人々が矢張,「メ、マア。ベ、バア……」と叫んでゐるやうに思はれる。引返す氣はしない。
 毛皮の半外套を自分で床に敷き、 橫になって枕許に蠟燭を立てる。ヒョ—トル・ペトローヴィチが首をもたげ.て、私の方を見てゐる。
 「旦那、私はかう思ふんですがね……」と彼は亭主に聞えぬやうに小聲でいふ、「シベリヤの人間は無學で不運な奴ら・たとね。半外套だの捺染更紗だの瀬戸’物だの釘だのと、ロシヤからはどんどん送って來るんですがね、奴等と來たらまるで能なしなんです。地面を耕すことと、自前馭者でもするほかには、 何一つしやしません。……魚ひとつ漁れないんですからね。退屈な人間どもですよ。まったく堪らないほど退屈な奴等でさ。奴等と一緖に暮らしてゐると、 際限なく、 肥って來ます。魂や智慧の足しになるものと來たら、 これつぱかりもありませんや 憐れ憫然たる次第ですよ。それでゐて一人一人を見るとみんな相當な人間で、氣立は柔しいし、盜みをするではなし、喧嘩を吹掛けるぢやなし、大して酒飮みでもありません。人間ぢやなくて、まあきんみたいな連中です。ところが見てゐると、世の中のためには何ひとっせず、 一文の値打もないくたばりやうをするんです。まるで蠅か、 さもなけりや蚊みたいなもので。一體何のために生きゐるのかつて、 ためしに訊いて御覽なさい。」
 「働いて食べて着てさへゐれば」と私が言ふ、「その上に何が要るかね。」
 「やっぱり人間てものは、どういふ必耍があって生きてるか知ってゐなけりなりますまい。ロシヤの人間はきっと知ってゐるでせう。」
 「いいや、知らずにゐる。」
 「そんな筈はない」と、ピョートル・ペトローヴィチは少し考へてから言った、「人間は馬ぢやありません。ざっと申せば、このシベリヤの土地には、『道』といふものがないのです。よしんば何かそんなものがあつたにしても、とうの昔に凍つてしまったのです。人間といふのは、 二の『道』を求めなければならないのです。私は金も勢力もある百姓です。評議員にも押しが利きます。ここにゐる亭を明日にも酷い目に逢はせることだつて出來ます。この男を私のところで牢死させ、 子供たちに乞食をさせることだつて出來ます。さうしたところで私には何の咎めもなくこの男こは可の保護も與へられますまい。つまり、『道』も知らずに生きてゐるからです。……私らが人間だといふことは 、お寺の出生簿に書いてあるだけです。ピョ—トルだ、 アンドレイだといって、その實は狼なんです。それとも神樣の眼から見たら。これは笑ひ事ではありません。 怖ろしい事です。ところがこの亭主は横になつて、額に三度十字を切ると、それでもういい氣でゐます。 甘い汁を吸って、小金を蓄め込んで、ひよつとしたらもう八百ぐらゐは蓄まってゐるでせうが、 まだ齷齪と新しい馬を買ひ足して、ー體それが何になるのか自分の心に訊いて見たことが一度だつてあるでせうか。あの世へ持つて行けはしませんからね。いや、よしんばそんな疑問を起して見たにしても、とても分るものですか。頭が空っぽなんで。」
 ピョートル・ペトローヴィチは長いこと喋つてゐた。……だがそれもやつと濟んだ もう白々と明けかけて、鷄の鳴く聲がする。
 「メ、マア」と馬鹿が唸る、「ベ、バア。」
 だが舟はまだ歸らない。

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