テキストの快楽(008)その1

◎第一線の総合病院の新しい小児科をめざして‐社会医学を包括する小児科学の実践‐今村雄一先生の業績

   ・今村雄一先生の略歴
ー九一七年(大正6・5・9) 島根県農村の開業医の長男に生れる(簸川郡多岐町大字口田儀)
ー九三九年 旧制松江高等学校卒
ー九四二年 京都帝国大学医学部医学科卒
  〃   附属医院副手
ー九四三年 松江赤十字病院小児科医員
一九四八年    〃    副医長
ー九四九年 田儀村営診療所長(父の開業を継ぎ移管)
ー九五一年 医療生鳥取診療所長(初代)
ー九五五年 耳原病院小児科医長
ー九六九年 耳原総合病院副院長
ー九八二年 退 職

   大衆団体歴

ー九四八年 新日本医師協会幹事
ー九五〇年〜五一年 (松江大衆診療所)松江勤労者健康管理協会副理事長
ー九ハー年〜八二年 大阪民医連理事(六八年〜七四年 大阪民医連会長)
一九六九年〜七四年 全日本民医連理事
一九七四年〜七八年 全日本民医連評議員会議長
ー九七二年 日本ベトナ厶友好協会(大阪)理事
一九七三年 大阪自治体問題研究所理事
ー九七一年 大阪保育運動連絡会理事
ー九七四年 ひまわり保育園理事長
ー九八〇年 保育研究所理事(東京)

   活動歴
ー九四一年 京大医学部結核研究会調査活動
 (四二年 治安維持法違反事件逮捕)
ー九四八年 ジフテリヤ注射禍被災者同盟
      松江赤十字病院労組組織
ー九五四年 山陰民医連創設に参加
ー九六〇年 ガランタミン注射 ポリオ闘争
ー九六七年四月 堺市長選挙に立候補
ー九七一年四月  〃
ー九七二年一一月 〃
一九七六年一一月 〃
ー九八〇年一ー月 〃

   ・せみの鳴く声 —わが幼き日—
         今村雄一
 暑い夏が来て、せみの鳴く声を聞くと、ふつと淋しいような気分になることがありました。戦地でも、旅行の途中でも経験しました。
 私は長男でした。次の弟は栄養失調と腸炎で二歳位でなくなり、次の妹は生後一ヵ月余りでなくなりました。そして私が五歳余りになった、夏のせみの鳴くある昼すぎ、四番目の子で三男の弟が、生まれました。一時間後に産後出血で母は二十八歳の若さでなくなりました。
 祖父も、父も医師でした。お手伝いさんが外で遊んでいた私を泣きながら横だきにして、母の所へ連れて行きました。郵便局長の伯父や、村長の所に嫁していた伯昌が枕もとで見守っていました。父が往診から帰ったのはず一っと後でした。
 母は母乳が出ないので私をはじめ二人の子どもは「ラクトーゲン」というオ—ストラリアの粉乳で育てられました。母を失った弟は隣村の農家にあずけられ、乳母の乳で育ちました。
 私は幼い時は、「手にゃわず」(手におえない子)と云うあだなで呼ばれました。気に入らないと、道路でもひっくり返って、要求を通そうとしました。母には通用せず、放って帰りました。悪いことをして、叱られ、はだしで裏の畑に逃げますと、母もはだしで追いかけてつかまえられました。倉に入れられて、戸を閉められました。中はまっ暗でした。小便が出ると云ってうそをついて出してもらつた事もありました。本当に倉の中で鼻血が出た事がありました。「狼少年」と一緒で仲々出してもらえませんでした。出してくれた祖母に、母は叱られました。
 たたかれても、倉に入れられても、私の「手にゃわず」は治りませんでした。又外から帰ると「おかさん」と母の膝にだきついたものです。母は裁縫しながら、遠くをぼんやり見ていた事をおぼえています。
 第二の母を迎えました。学校の先生をしていた人で、かわいがってくれて、私はなついていました。色々教えてくれ、悪いことをすると叱られ、弟も洋服だんすに入れられました。
 出雲の封建的な家庭では、継子いじめとして、数ヵ月後、里の祭りに行ったきり、父も好いていたようなのに、自分で「三下り半」を書いて、再び帰って来ませんでした。
 次の母は私が十歳の折来ました。学校も出ていない不幸な人でした。私は周りから云われた事もあり、本当になつきませんでした。
 戦争から帰った折、眼に涙を浮かべて喜んでくれました。私もー児の父となっていて、母の苦労も分かり、心も通うようになりました。父は八十歳でなくなり、母は二年後七十八歳でなくなりました。
 私は今、孫が三人居ります。もう三ヵ月すると五人に増えます。夏のせみの声を聞いても淋しくありません。そして二歳になる孫は私の幼い日のように、天王寺駅でひっくりかえって娘を困らせています。
       (ちいさいなかま No.76、一九七七年九月号)

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